ついて
著者 中右 恵理子
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 52
ページ 45‑54
発行年 1999‑09‑30
URL http://doi.org/10.15002/00011366
歴史資料としての文化財を考えた場合、そこには様々な情報の引き出し方が存在する。文字を読むことはその直接的な方法の一つであるが、現代では様々な機器を駆使して物の持つ内部の情報を得ることも可能である。本稿では絵画資料を対象に、油画の保存・修復の立場から、修復時に得られる様々な情報と、それがどのように美術史の研究分野に生かされるかについて述べたいと思う。
絵画の研究方法には、歴史学、美術史、比較文化史などの諸観点から文献資料を主体に研究する方法と、美学、芸術学の観点から画面に描かれている図像や様式を研究する方法、そして絵画材料及び絵画技術の観点から調査研究す
絵画研究における科学的手怯(中力)
絵画研究における科学的手法
絵画の研究方法 l油画の重層構造についてIる方法の一一一つの方法が圦血。そして、これら一一一つの研究分
野は相互に密接な関連性を保っている。絵画の技法的な研究において歴史的背景を知ることは必要不可欠であり、逆に技法上の解明から文献学的な研究に裏づけを与えられることもある。相互の研究理解を深めることでより研究の幅が広がるといえる。油画の修復時には修復対象となる作品についての綿密な調査が行われる。そこでは画面の表層のみならず、科学的手法を用いて作品の内部から様々な情報を引き出し、貴重な資料を得ることができる。まず最初に油画の構造について説明したい。絵画というのは彫刻などの立体物に対して面的な構成を持っているの 一一油画の構造
中右恵理子
四五
(④ ⑥ ワニス層
絵具層 下素描 地塗り層 絶縁層 支持体
図 図2 由画の断面
が特徴である。しかし、図1を通常人々が観賞する面としての油画とすると、それを④l⑧のように画面に対して垂直な方向から切ると、その断面は図2に見られるような重層構造となっている。この層は下層から上層に向かって油画を制作する手順ともなっている。下から順番に見てみると、支持体は作品の土台となる部分で、昔から亜麻布や板が多く使われている。絶縁層は地塗り塗料が支持体に浸透するのを防ぐためのもので膠水などが塗布される。地塗り層は絵を描く面を準備する下塗りの層である。画家が望む描き味により水性(吸収性)地、油性(非吸収性)地、エマルジョン(半吸収性)地が 作品を修復する際には最良の修復材料、方法を検討する上で、作品に使用されている材料や技法、作品の保存状態について詳しく知る必要がある。肉眼による観察はもとよ ある。印象派以降は白色地が主流であるが、十六~十八世紀のヨーロッパでは有色地(褐色系)が主流であった。下素描は木炭などを用いて行う下描きであるが、綿密な下描きを行う場合もあれば全く行わない場合もある。絵具層は主に乾性油を媒剤として顔料と練り合わせた油絵具からなる層である。この層自体が絵具の塗り重ねによる層を形成しており、ヨーロッパの古典的絵画には何層もの複雑な層構造が見られることが多い。ワニス層は天然樹脂(最近では合成樹脂も用いられる)を溶いたものを画面に薄く塗布した透明な層である。画面の光沢を整えたり、紫外線や挨、空気中の有害なガスなどから画面を保護する役割をする。このような油画の重層構造は、通常絵画を観賞する際にはほとんど認識されることはない。しかし、その制作手順とも重なる個々の層に使用される材料や、その扱い方によって、目に見える面としての油画の質感や色調が形成されている。
三油画の修復に際して行われる科学的調査について
四六
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りであるが、最近では作品の調査には様々な科学的手法が用いられている。紫外線や赤外線、X線などの不可視光線を利用した方法は光学的方法と呼ばれ、他に試料を採取して成分分析を行う機器分析的方法がある。欧米においては一九二○年以降、美術品の研究に光学的方法が本格的に実施されるようになるが、日本において美術品の調査に光学的方法が用いられた早い例としては、昭和二年法隆寺壁画の原寸大写真撮影に赤外線写真が使用されたことが知ら
れ斑・以下、光学的方法と機器分析的方法に分けて述べて
みたい。光学的方法光学的方法とは可視光線、紫外線、赤外線、X線といった、それぞれ波長の異なる光線を利用して、作品の表面あるいは内部の状態を光学機器(可視光線であれば肉眼でも可)により観察する方法である。油画の調査においては、これらの波長の異なる光線を用いて得られる情報は先に述べた油画の重層構造と密接な関係を持っている(下図参昭UoH、側光線調査画面のほぼ真横から一方向のみ光を当てることにより、
絵画研究における科学的手依(中右)
電磁波の種類 図3
短波長 波長
nm=10~9m)
図4油画の各層における電磁波の種類別調査方法 紫外線可視光線赤外線エミシオグラフイ
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クセ
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ワニス層 絵具層 下素描 地塗り層 絶縁層 支持体
四七
X線
表面の微かな凸凹が強調され、絵具層の亀裂や淳上り、支持体の変形といった状態が観察できるほか、画家の残した筆触や盛り上げなどの技法上の情報が得られる。さらに画面上とは無関係な筆跡が観察されることにより、下層に別な絵が発見されたり、部分的な描き直しが明らかになることがある。ロ、紫外線蛍光調査可視光線よりも短い波長を持つ紫外線はエネルギーが比較的大きく、物にわずかでも当たると反射するため、油画
においてはごく表面の状態だけが観察でき鼬・紫外線が物
に当たると、そこから一一次放射である蛍光色(可視光線)が発し、特に油脂や樹脂の類はそれぞれ特有の蛍光を発する。このような性質を利用して表層のワニスの状態を観察したり、蛍光の強いオリジナルの絵具に比べ暗く見える後世の加筆部分を見分けたりすることができる。日、赤外線調査可視光線よりも長い波長を持つ赤外線は、エネルギーが小さく透過はしにくいが、可視光線よりもやや深くまで入り込むので、表層の下にあるものの映像を捕えることができ血・赤外線を使った映像の捕え方には写真による方法と
ビジコンカメラで撮影しテレビで画面に映し出す方法の一一 法政史学第五’二号通りがある。黒色や黒色の混ざった色は赤外線の吸収が大きいため白色その他の色に比べて黒く画像に表れる。このため木炭などを使って描かれた下層の下素描を観察することができ、画家の制作行程を知る上で重要な情報が得られる場合がある。四、X線調査X線は紫外線よりもさらに短い波長帯に属しているた
め、エネルギーが大きく物に対して強い透過力を凝如・X
線を利用した調査方法にはX線の透過力を利用したX線透過撮影と、X線を照射したときに顔料から放出される二次電子を利用して絵具層の画像を撮影するエミシオグラフィとが私矼・X線透過撮影ではX線が不透過な部分は白く、
反対にX線の透過量が多ければ黒く撮影される。このX線の透過力は物質中の原子量の大きさに左右される。原子量の大きな重金属はX線を吸収し透過させにくい。同じ原子量の物質であれば厚いほど透過しにくい。油画に古くから用いられている白色顔料である鉛白は、極めて原子量が大きくX線透過撮影では顕著に白く現れる。ヨーロッパの古典的油画技法においては明部の比率と鉛白の使用量が比例しており、画家の手法を知る上でも重要な情報が得られる。X線透過撮影では下層から上層にかけての層を透過す 四八るため、支持体の構造や地塗り層の状態をも観察することが可能であるが、地塗り層が鉛白を用いて厚く施されているような場合には絵具層の状態を知ることは不可能となる。画面側からX線を照射するエミシオグラフィはX線透過撮影ではわからなかった比較的軽元素の絵具の塗り重ね
も観察することがで錘、使用された顔料の推定にも役立 (Ⅲ。
機器分析的方法機器分析的方法は調査対象からごく微量の試料を採取し、化学的、物理的方法を用いて、主にその材質を特定する調査方法である。H、クロスセクションクロスセクションは調査対象から○・五~一ミリメートル四方の試料を採取し、厚さ方向の断面を研磨してその重層構造を明らかにした資料である。油画の重層構造を考えるとき、光学調査では各層における面的な調査が主となるが、クロスセクションはその全体の層を断面として観察することができる。支持体、地塗り層、絵具層、ワニス層といった描き方の手順が明らかとなり、画家の技法を知る上で貴重な資料となり得る、
絵伽研究における科学的乎法(巾右) 口、X線マイクロアナライザ1(EPMA)電子線を物体に照射すると物体を構成している各元素に特有な波長の二次X線が発生する。この一一次X線(特性X線)を分析してその物質を構成している元素を検出するものがEPMAである。地塗り層や絵具層に含まれる顔料の分析に役立てられるほか、この方法でクロスセクションを観察することにより層構造中の元素ごとの分布状況を知ることができる。日、微小部X線回折法X線が結晶性の物質に照射されると結晶格子面で反射し散乱される。この際、散乱したX線が干渉しあって特有の回折線が観測され、それは物質の結晶構造によって定まる。この方法では試料を化合物として特定することができ、EPMAによる分析と合わせて顔料などの分析に役立てられる。
最後にこれらの調査方法による具体的な例を最近の研究成果から見てみたい。H、明治初期に描かれた油画の地塗りについて明治初期に描かれた油画の地塗り層についてEPMA及 四調査の具体例
四九
びX線回折による分析を行った結果、その成分と構造とにより五種類の分類が可能であることがわかった。例えば鉛白が主、炭酸カルシウムが従の配合比で数層からなるものや鉛白のみの単層からなるものなどである。さらに作品の制作地と前述の組成の関連から、イギリスと日本で制作された作品の地塗りに共通性があることが認められ、当時日本においてイギリス製のカンヴァスが普及していた可能性が明らかとなった。さらにこのイギリス・日本型の地塗り層には、日本では産出されない白亜紀に堆積した化石が見つかっており、イギリスからの絵画材料の輸入を裏付けて
い魂・
口、高橋由一作「司馬江漢像」について日本における油画の開拓者として知られる高橋由一つ八二八’一八九四)の描いた「司馬江漢像」(写真①)について光学調査を行った結果いくつかの事実が判明し切・
この作品は明治一一十六年の洋画沿革展に出品されたもので、大垣の江間家にあった江漢晩年の自像(水墨)を由一が油絵具で模写したものとされてい釦(現在東京芸術大学
所蔵)。江間家の江漢自像は行方知れずとなっているが、明治二十年に由一が同図を墨を用いて模写をした一町(写真
②)を見ると赤外線テレビ画像(写真③)に見える下素描 法政史稚狛八‐トー:‐ノー〃との間に相似性が認められる。また、X線写真(写真④)に頭部の形が明確に読み取れることから、自像にはない頭巾も制作途中で描き加えられたことがわかる。さらに赤外線テレビ画像及びX線写真共にもう一人の人物像を映し出しており、この絵が別の人物像の上に描かれたことを示している。このように下層に存在する絵を映像として捕えられることは、美術史上の研究においても新たな資料の提示として興味深い。臼、「長崎奉行所旧蔵キリシタン遺物三聖人像」について東京国立博物館に保管されているこの作品(写真⑤)は作者、制作年ともに不明であるが、日本に現存する油画で重要文化財に指定されたものとしては最も古い時代のもの
と考えられ率この作品には模写が一点あり、昭和六一~
六一一一年にかけて原画、模写ともに修復及び調査が行われ、原画と模写との間に多くの技術的相違が判明し趣・原画の
X線写真(写真⑥)と模写の同じ部分(写真⑦)を比較すると、原画では明部に鉛白を多く使用して立体感を表しているが、模写では全体に均一に塗られており平板である。クロスセクションでこの人物の肌色を観察すると、原画(写真⑧)では画面全体に白色の地塗り層の上に濃青の有色地があり、その上に何層か絵具が重ねられて複雑な重層○Ⅲ
絵画研究における科学的手法(中石)
写真②高橋由一模写「江漢翁自像」
井上和雄編『浮世絵師伝』(国立国会図 書館蔵)より
写真①高橋由一「司馬江漢像」
(東京芸術大学所蔵)
舌
写真③赤外線テレビ画像 写真④X線写真
法政史学第五トー号
写真⑤「三聖人像」(原画)
(東京国立博物館保管)
写真⑥「三聖人像」(原画)
向かって右端の人物の顔のX線写真
写真⑧「三聖人像」(原画)向かって右端の 人物/左指先部分の肌色のクロスセクション
(50匹、/10目)
鰯
辮轤識
間,繊鍾藤$
照
写真⑨「三聖人像」(模写)向かって右端の 人物/左指先部分の肌色のクロスセクション
(501m/15月)
写真⑦「三聖人像」(模写)
向かって右端の人物の顔のX線写真
以上、油画の様々な科学的調査方法とそれによって得られる情報について述べてきたが、画家が使用した絵具の耐久性など、実際の修復作業を通じて明らかになる事実も多い。日本の初期の油絵画家が西洋の手本通りの描き進め方で制作した作品はマチエールも美しく堅牢な絵肌を保っているが、黒田清輝以降の制約にとらわれない自由な絵画表現の中で制作された作品には耐久性の劣るものが多いこと
が指摘されてい率
修復家、科学技術者、美学・美術史研究家の共同研究は徐々にその輪を広げつつあるが、今後より活発な交流がはかられるべきであろう。 構造となっているが、模写(写真⑨)では有色地は見られず、白色の地塗り層の上に直接やや白っぽい層と赤昧を帯びた層があるのみであ範・原画の方は明らかに西洋の油画
の技法に精通した画家の手によるものであり、一方模写の方は絵の表面的な部分のみをとらえて模写した日本人の手によることが明らかである。註(1)佐藤一郎「絵画作品に対する自然科学的調査研究の方
絵画研究における科学的手法(中右) 法」(『明治前期油画基礎資料集成東京芸術大学収蔵作品研究編』中央公論美術出版、’九九一年)一六七~一六九頁。(2)田中一松他『光学的方法による古美術品の研究』(吉川弘文館、’九八四年)|~’六頁。(3)森田恒之「絵画を中心とした美術品の光学的調査の方法lとくに不可視放射の応用」S創形美術学校修復研究所報告』V01.4学校法人高澤学園、一九八五年)四五~五一頁。(4)註(3)に同じ。(5)註(3)に同じ。(6)三浦定俊・神庭信幸「エミシオグラフィによる絵馬の調査」(『保存科学』二六号、東京国立文化財研究所、一九八七年)’’’一|~三○頁。(7)三浦定俊「エミシオグラフィの黒田清輝画油絵調査への応用」(『古文化財の科学』三○号、文化財保存修復学会、一九八五年)一二~一一七頁。(8)註(6)に同じ。(9)神庭信幸「初期洋画の技術的変遷Ⅲl明治初期油彩画の下地組成l」s国立歴史民俗博物館研究報告』第一九集、国立歴史民俗博物館、一九八九年)三五七~一一一九一頁。神庭信幸・佐藤時幸「初期洋画の技術的変遷②l明治初期油彩画の下地組成と石灰石ナンノプランクトンー」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第一一一八集、’九九二年)九一一一~’○
五
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(u)註(旧)に同じ。(旧)宮田順一「長崎奉行所旧蔵キリシタン遺物三聖人図『原 二頁。神庭信幸「初期洋画の技術的変遷㈹’’九世紀イギリスにおけるカンバス製造会社」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第四○集、一九九二年)’二一~’一一一五頁。(皿)『明治前期油画基礎資料集成東京芸術大学収蔵作品研究編』(中央公論美術出版、’九九一年)二五頁、五八~五九頁。(、)青木茂「高橋由一「司馬江漢像」の成立について」『美学美術史学科報』十六号、跡見学園女子大学美術史学科、’九八八年)|~十三頁。(皿)井上和雄『浮世絵師伝』(渡避版薑店、一九三一年)六十八頁、「司馬江漢」の項の挿絵に見られる。「江漢か年かよったで死ぬるなり浮世にのこす浮世一枚」「阿蘭陀画法を以て山水遠近の風景を写せは真に浮み出たるか如し俗是をうきゑと云ふ」との賛が写されており「此司馬峻江漢翁自像ハ濃州大垣医家江馬活堂氏所有也明治二十年秋八月上瀞臨墓以供於二世玄々堂老台之筧天絵楼主人」とある(青木茂氏前掲論文による)。(旧)歌田眞介・渡辺一郎「長崎奉行所旧蔵キリシタン遺物三聖人図『原画』『模写』修理報告」白創形美術学校修復研究所報告』V01.8学校法人高澤学園、一九九二年)四 法政史強筋バーーュリ所報告』|~’四頁。 参考文献・宮田順一「工学機器を使用した絵画材料の調査」(『明治前期油画基礎資料集成東京芸術大学収蔵作品研究編』中央公論美術出版、’九九一年)。・加藤誠軌「X線で何がわかるか」内田老鶴圃、’九九一年。 画』『模写』の絵画試料調査報告」負創形美術学校修復研究所報告』V01.8学校法人高澤学園、一九九二年)’五~二○頁。(旧)『明治前期油画基礎資料集成東京芸術大学収蔵作品研究編』(中央公論美術出版、’九九一年)二七頁。写真提供/東京芸術大学大学美術館・同保存修復油画研究室・東京国立博物館・国立国会図書館。(付記)昨年のシンポジウムに参加の機会を与えていただいた法政大学教授中野栄夫先生、本稿の執筆にあたり大変お世話になった東京芸術大学教授歌田眞介先生に深謝いたします。また東京国立博物館彫刻室、創形美術学校修復研究所の御好意により協力を得ましたことを感謝いたします。法政大学助教授澤登寛聡先生には連絡面で大変お手数をおかけしました。記して御礼を申し上げます。 万四