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都市美の創出と橋梁 : 建築家・武田五一と第一次 大阪都市計画事業

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(1)

都市美の創出と橋梁 : 建築家・武田五一と第一次 大阪都市計画事業

著者 清瀬 みさを

雑誌名 文化學年報

号 62

ページ 278‑295

発行年 2013‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027741

(2)

都市美の創出と橋梁 : 建築家・武田五一と第一次 大阪都市計画事業

著者 清瀬,みさを

雑誌名 文化學年報

号 62

ページ 278‑295

発行年 2013‑03‑15

権利 同志社大学文化学会

URL http://doi.org/10.14988/00027741

(3)

都 市 美 の 創 出 と 橋 梁

│ 建 築家

・ 武 田五 一 と 第一 次 大 阪都 市 計 画事 業

清 瀬

み さ を

は じ め に

﹁ 橋と

︑建 物と

︑河 との 調和 美に よっ て︑ 作り 出さ れた 近代 都市 風景

!﹂! 昭和 七︵ 一九 三二

︶年

︑大 阪の 堂島 川に 架か る田 蓑橋 界隈 を形 容し たジ ャー ナリ スト 北尾 鐐之 助︵ 明治 十七

﹇一 八八 四 年﹈

│ 昭和 四十 五﹇ 一九 七十

﹈年

︶の 言葉 であ る︒ 北尾 は﹁ モダ ン・ シテ ィ大 阪﹂ を発 見し た人 物と 評価 され てい る︒ 小 論の 目的 は︑ 第一 次大 阪市 都市 計画 事業 と建 築家

・武 田五 一と の関 わり を軸 に︑ 大正 末期 から 全国 の都 市が 近代 化を め ざす 基盤 整備 に槌 音を 響か せて いた 時代 にあ って

︑北 尾が 感嘆 する 橋と 建物 と河 との 調和 美が 創出 した 近代 都市 風景 が どの よう に構 想さ れた のか を明 らか にす るこ とで ある

︒ 一︑ 北 尾 鐐之 助 と

﹃近 代 大 阪﹄ 北尾

は︑ 昭和 四︵ 一九 二九

︶年 から 十七

︵一 九四 二︶ 年に かけ て﹃ 近畿 景観

﹄と 題し

︑自 ら撮 影し た写 真を まじ えた

― 278 ―

(4)

九 編の 名所 旧跡 紀行 を上 梓し てい る!

︒ 冒頭 に掲 げた 一文 は︑ そ の 第三 編

﹃近 代 大阪

﹄中 の

﹁田 蓑 橋附 近

﹂か ら の 引用 で ある が︑ この 巻の みが 歴史 的な 名所 旧跡 では なく

︑日 々変 貌を 遂げ る近 代大 阪を 前衛 的な カメ ラ・ アイ と鋭 敏な ジャ ー ナリ スト の筆 で切 り取 りつ つ漫 遊す る︑ とい う異 質な 性格 を持 つ︒ モダ ン・ シテ ィと して の大 阪を 活写 した フォ ト・ ル ポル ター ジュ の嚆 矢で ある

"

︒ 北尾 は︑ 大正 元︵ 一九 一二

︶年 に名 古屋 新聞 社か ら大 阪毎 日新 聞社 に移 籍し てい る︒ した がっ て︑ 北尾 は︑ 大阪 が煤 煙 を吹 き上 げつ つ面 積・ 人口 とも に膨 張し 続け

﹁大 大阪

﹂と 称さ れる 日本 一の 大都 会と なり

︑槌 音と とも に都 市の 形が 変 貌す るさ まを 日々 つぶ さに 見届 けて いた こと にな る︒ 北尾 は︑ 山岳 風景 や歴 史的 な名 跡を 巡る 時と 同じ 眼で 日常 を過 ご す近 代都 市の 魅力 を発 掘す る︒ この 書は

︑四 十一 枚の 写真 とと もに

︑上 空か ら見 た大 阪に 始ま り︑ 徒歩 で︑ タク シー で

︑バ スで 都心 も工 場地 帯も 港も 分け 隔て 無く

﹁漫 歩

﹂し

︑乗 り 合い バ ス 遊覧 記 に 終 わる 二 十 七章 で 構 成さ れ て い る︒ 北 尾 自 身 が 序 文 に 記 す よ う に︑ 体 系 的 な 史 的 考 察 を 意 図 す る の で は な く

︑分 秒 も 止 ま る こ と の な い﹁ 都 市 文 明 の 潮 流

﹂︑

﹁ 現代 の大 阪﹂ を書 き綴 って いる

#

︒ 冒頭 に引 用し た﹁ 田蓑 橋附 近﹂ をは じめ

︑﹃ 近 代大 阪﹄ には 新 しい 橋 梁 が作 り 出 す 都市 景 観 の繊 細 な 描写 が 際 立 って 多 いこ とが 注目 され る︒ 田蓑 橋︵ 図1

│1

︶は

︑昭 和四

︵一 九二 九︶ 年に 鉄筋 コン クリ ート

・ア ーチ 橋に 架け 替え られ た

︒北 尾は

︑夜 景写 真︵ 図1

│2

︶を 添え

﹁⁝

⁝北 岸に おけ る阪 大病 院︑ 中央 郵便 局︑ 南岸 にお ける 商船 ビル

︑大 阪帝 国 大学 等︑ この 四つ の建 物の 中心 点を 繋い でい る田 蓑橋 の白 煉瓦 の水 平線 は︑ 天候 その 他の 関係 で︑ 実に 美し い色 彩感 情 を織 り出 すこ とが ある

⁝⁝ 大阪 らし くな い風 景︒ すべ てが 単純 な大 きな 一つ の色 と︑ 形と に纏 まっ て︑ この 都会 特有 の ごみ ごみ した 生活 断片 がな い︒ 外国 のど こか の景 色を 想い 起こ させ る⁝

⁝﹂ と綴 る$

︒ 北尾 は︑ 堂島 川の 両岸 を結 ぶ田 蓑橋 の白 い水 平線

︑そ して 両岸 に立 ち上 がる ビル 建築 と橋 梁と の統 一的 な色 彩と 形に 調 和美 を見 いだ し︑ 異な った 時間 帯の 眺め を綴 りつ つ︑ 外国 のよ うな 近代 都市 風景 と形 容し てい る︒ 外国 とは 西洋 を意

― 279 ― 都市美の創出と橋梁

(5)

味し

︑煤 煙︑ 古い 木造 の家 並み の黒 っぽ い色 彩か ら対 照的 に浮 かび 上が る︑ 生活 感の ない

﹁白

﹂に 近代 を象 徴す る色 彩を 認め てい る︒ ま た

︑﹁ 川 口 風 景

! で は︑ 住 友 倉 庫群

︑中 央市 場︑ 日本 郵船 など

﹁商 業大 阪の 偉大 さ﹂ を象 徴す る大 建築 に 囲 ま れ た 木 津 川 を 広 場 に た と え る︒ 北尾 は︑ それ ら大 建築 の形 には 明朗 性を 見い だし

︑建 物相 互の 作り 出す ライ ンや 面の 巨大 な灰 色︑ 白が 河の 単調 さを 破り

︑そ の壁 面に 反映 す る陽 光の 変化 に﹁ 近代 的感 覚﹂ を感 じ︑ 讃辞 を寄 せる

︒河 と建 物や 橋梁 が単 独で

︑ま た相 互的 に作 り出 す線 や面

︑色 彩

︑光

︑量 感を 新鮮 な目 で捉 えた 描写 は﹃ 近代 大阪

﹄中 でも 圧巻 であ る︒ 北尾 が川 口に 通う のは

︑こ の書 が出 版さ れた 昭和 七︵ 一九 三二

︶年 に架 橋さ れた

︑ア ルミ 塗料 の銀 色も 眩し い鋼 タイ ド

・ア ーチ

︑昭 和橋

︵図 2│ 1︑ 図2

│2

︶が 目当 てで あっ た︒ 昭和 橋は

︑土 佐堀 通り と川 口を 結ぶ 難し い立 地の ため に 極 端 な角 度 の 斜橋 ア ー チ とい う 特 殊な 形 を もつ

︒北 尾 は

︑端 建 蔵橋 か ら 眺め る 住 友 倉 庫

︑日 本 郵 船

︑昭 和 橋 の

﹁空 線

﹂つ まり スカ イラ イン のリ ズム を愉 しみ つつ

︑数 ある 大阪 の橋 梁︑ また 桜宮 橋や 堂島 大橋 など 同じ タイ ド・ アー チ橋 梁 のな かで も昭 和橋 に一 番の

﹁品 格﹂

﹁ モダ アン さと 落ち つき

﹂を 評価 する

︒そ して

︑背 景を なす 川口 の橋 梁群 の交 差︑

1−2 北尾鐐之助撮影《田簑橋と中央電信局》

1−1 田蓑橋と大阪中央郵便局難波分館 堂島川 RC 4連アーチ橋

全長81.3 m.幅14.5 m. 昭和5年 都市美の創出と橋梁 ― 280 ―

(6)

大 建築 群が 橋の 美観 を引 き立 て︑ 斜め に 架か る変 化に 富ん だ昭 和橋 にモ ダン な

﹁美 しい 橋梁 風景

! を嘆 じる

﹃ 近 代 大 阪﹄ に は︑ 橋 梁 風 景 の 描 写 が 頻出 する が︑ 田蓑 橋︑ 昭和 橋の 事例 を 上に 挙げ たよ うに

︑北 尾は 鉄筋 コン ク リ ー トや ア ル ミ 塗 装 の 鋼 ア ー チ 橋︑ ビ ルデ ィン グを 作り 上げ てい る近 代的 な テク ノロ ジー を単 純に 賞讃 して いる 訳 では ない

︒北 尾は

︑単 独の 建造 物や 橋 を 単 焦 点 で 眺 め 批 評 す る の で は な く

︑橋 や建 物を

︑美 術作 品を 分析 する よ うに 線︑ 面︑ 色彩

︑光 など の造 形的 要素 とし て捉 え︑ それ ぞ れ の構 成 要 素が 調 和 し た都 市 景 観に 美 を 発見 し て い る︒ 北 尾は

︑こ のよ うに 橋梁 によ る美 しい 都市 景観 を発 見す る観 点を どこ から 得た ので あろ うか

︒ 北尾 は﹁ 田蓑 橋附 近﹂ にお いて

︑﹁

⁝武 田五 一博 士は

︑曾 て 中之 島 か ら堂 島 川 を 下る に つ れて 変 わ って 行 く 橋 の美 を 語っ て︑ 水平 性を 強調 した 橋と して 玉江 橋︑ 越中 橋︑ 鉾流 橋な どを 挙げ

︑附 近の 高層 建築 と︑ 対照 の美 を強 調し た橋 と し て 田蓑 橋 及 び西 国 橋︵ 大 川 町︶ など を 挙 げら れ た こと が あ っ た⁝

⁝﹂"

と 記し て い る︒ 武田 五 一

︵明 治 五

﹇一 八 七 二

﹈│ 昭 和十 三﹇ 一九 三八

﹈年

︶は

︑京 都帝 国大 学工 学部 建 築学 科 を 創設 し た 建 築家 で あ る︒ 北尾 が こ とさ ら に 大 阪の 橋 梁美 を語 る武 田の 名を 挙げ るの は何 故か

︒以 下に 近代 大阪 の都 市計 画そ して

﹁橋 梁の 美﹂ と武 田五 一の 関係 を明 らか

2−1 北尾鐐之助撮影《昭和橋》

2−2 昭和橋 木津川 鋼タイド・アーチ 橋長82 m.幅25 m. 昭和7年

― 281 ― 都市美の創出と橋梁

(7)

に した い︒

二︑ 第 一 次大 阪 都 市計 画 事 業と 橋 梁

︑都 市 の 美観 水都

大阪 では

︑血 脈の よう な河 が意 識さ れる のは 自然 であ るが

︑冒 頭に 引用 した

﹁橋 と︑ 建物 と︑ 河と の調 和美 によ っ て︑ 作り 出さ れた 近代 都市 風景

!﹂ とい う言 葉に

︑北 尾の 第一 次大 阪都 市計 画事 業に おけ る橋 梁風 景︑ 都市 美︑ 近代 都 市風 景の 発見 があ る︒ この 大事 業は

︑市 長・ 池上 四郎

︵安 政四

﹇一 八五 七﹈

│ 昭和 四﹇ 一九 二九

﹈年

︶及 び助 役・ 関一

︵明 治六

﹇一 八七 三﹈

│ 昭和 十﹇ 一九 三五

﹈年

︶時 代に 立案 され た︒ この 事業 は︑ 大正 八︵ 一九 一九

︶年 四月 公布

︑翌 年九 月に 施行 され た旧 都 市計 画法 を適 用し

︑大 正十

︵一 九二 一年

︶に 着手 され

︑関 の市 長︵ 大正 十二 年就 任︶ 時代 に大 半が 実現 した

︒事 業は 御 堂筋 をは じめ とす る道 路整 備と 架橋 を課 題と して いた

!

︒陸 運の 時代 が本 格 化 した 水 都 の街 路 整 備は

︑必 然 的 に 橋梁 の 架け 替え を前 提と する が︑ ここ に全 国に 先駆 ける 大阪 市独 自の 姿勢 が打 ち出 され た︒ 大 阪市 が 編 纂し た

﹃第 一 次大 阪 都 市 計画 事 業 誌﹄ をひ も と く と︑ 第 二 編︵ 施 工 編︶ 第 三 章 橋 梁 工 事

︑第 四 編

︵余 録 編

︶に は︑ 図面

︑写 真と とも に橋 梁に 関す る工 事記 録か ら竣 工式 の祝 辞ま で︑ 詳細 を極 めた 記録 が収 録さ れて いる

︒そ の 概説 には

︑橋 梁が 交通 網整 備と

﹁都 市美

﹂の 構成 とい う二 重の 役割 を担 い︑ その 完否 が市 民活 動に 大き な影 響を 与え る とい う文 言が 明記 され てい る"

︒ つい で設 計要 項の 要と して 堅牢 な耐 震耐 火 の 実用 的 構 造物 で あ ると と も に︑ 都 市美 の 構成 要素 とし て重 要で ある こと を繰 り返 し︑ 機能

・地 理的 条件 で構 造︑ 形式 を選 び︑ 川筋 の橋 梁群 とし ての 変化 と調 和 が肝 要で ある こと が記 され てい る#

︒ 都市 計画 法策 定段 階で は︑ 策定 委員 会の 内外 で都 市計 画に おけ る美 観が 議論 の的 であ った にも かか わら ず︑ 第一 条に

都市美の創出と橋梁 ― 282 ―

(8)

言 う都 市計 画の 定義 とは

﹁交 通︑ 衛生

︑保 安︑ 経済 等ニ 関シ 永久 ニ公 共ノ 安寧 ヲ維 持シ 又ハ 福利 ヲ増 進ス ル為 ノ重 要施 設 ノ計 画

! で あ り

︑都 市 の風 致 美 観へ の 言 及 が省 か れ た︒ 欧米 の 近 代都 市 計 画 をモ デ ル に︑ 風致 美 観 が市 民 の 精 神的 な 福利 増進 に不 可欠 であ るこ とが 本格 的に 論じ られ るの は︑ 関東 大震 災後 の帝 都復 興計 画を 背景 とす る大 正十 二︵ 一九 二 三︶ 年以 降の こと であ った

"

︒ 国内 の都 市計 画事 業が 土木 技術 的な ハー ド面 での 整備 に終 始し てい た中 で︑ 大阪 市の

﹁都 市美

﹂創 出と いう 構想 は関 一 の存 在を 抜き にし ては 語れ ない であ ろう

︒関 は︑ 明治 三十 一︵ 一八 九八

︶年 にベ ルリ ン大 学に 留学 し︑ ヨー ロッ パ各 地 の都 市を 視察 し︑ 明治 三十 四︵ 一九

〇一

︶年 にア メリ カ経 由で 帰国 して いる

︒彼 は︑ 社会 政策

︑と りわ け都 市計 画論 を 専門 とす る法 学者 であ るが

︑欧 米の 近代 都市 計画 の理 論と 実相 を熟 知し た人 物に 他な らな い︒ 関は

︑都 市計 画法 の法 案 策定 委員 会に も名 を連 ねて いた が︑ 都市 計画 が土 木技 術者 に委 ねら れる 日本 の現 状に 不備 を感 じて いた

︒都 市計 画に 美 観は 必要 であ り︑ 必ず しも 財力 に恵 まれ なく とも

︑努 力に よっ て達 成す べき であ るこ と︑ その ため には 都市 計画 がも っ ぱら 土木 技術 者に 委ね られ るの では なく

︑欧 米の 都市 計画 のよ うに 建築 家が 関与 する べき だと 考え てい た#

﹃ 第一 次大 阪都 市計 画事 業誌

﹄は

︑橋 梁設 計・ 意匠 計画 につ いて

︑過 度の 装飾 を避 け︑

﹁橋 梁本 来の 美し さに 立脚 して 設 計し

︑構 造の 合理 性か ら来 る明 快な 美し さを 活か す﹂ こと を基 本方 針に かか げ︑ その 意匠 指導 を京 都帝 大教 授工 学博 士 武 田 五一 に 委 嘱し た と 記し て い る$

︒ 武 田五 一 と 大阪 市 と の関 わ り は︑ 名 古屋 高 等 工業 学 校︵ 現・ 名 古屋 工 業 大 学︶ 校 長の 職に あっ た大 正八

︵一 九一 九︶ 年に 遡る

︒﹁ 大 大阪 を 大公 園 的 に改 造 し て 理想 美 の 都を 建 て たい

﹂と い う 抱 負を 新 聞紙 上に 語り

︑大 阪市 嘱託 を引 き受 けて いる

%

︒ 武田 は︑ 明治

三十

︵ 一八 九七

︶年 に東 京帝 国大 学造 家学 科︵

現・ 工 学部 建築 学科

︶を 卒業 後︑ 京都 高等 工芸 学校

︵現

・ 京 都工 芸繊 維大 学︶ 教授

︑名 古屋 高等 工業 学校 長を 歴任 し︑ 大正 九︵ 一九 二〇

︶年 に京 都帝 国大 学教 授に 着任 した

︒関 西 近代 建築 の基 を築 いた 大建 築家 であ るこ とは 異論 を 待 たな い

︒し か し︑ 旧都 市 計 画 法が 全 国 の都 市 に 適用 さ れ た 時︑

― 283 ― 都市美の創出と橋梁

(9)

そ の 事 業の 技 術 的主 体 は 通 常内 務 省 の技 術 官 僚と 土 木 技 師 で あ っ た!

︒ 武 田 や 東 大 同 期 の 建 築 家

・松 室 重 光

︵明 治 六

﹇一 八七 三﹈

│昭 和十 一﹇ 一九 三六

﹈年

︶が 明治 三十 年代 に京 都府

︑京 都市 の技 師雇 いに なっ たの は︑ 古社 寺保 存法 の公 布

︵明 治 三 十 年

︶に よ り︑ 関 西 の 古 社 寺 調 査・ 修 復・ 保 存 の た め で あ っ た

︒松 室 に 京 都 府 庁 舎

︵明 治 三 十 七 年 竣 工︶ を

︑ま た 武 田に 京 都 府記 念 図 書 館︵ 現・ 府立 図 書 館︑ 明治 四 十 二年 竣 工

︶な ど の重 要 施 設の 設 計 が 委 ね ら れ た と し て も

︑彼 らが 都市 計画 の主 体と して 位置 付け られ てい たわ けで はな かっ た︒ 大阪 市が 都市 計画 に建 築家

・武 田を 抜擢 した 背 景に は関 の都 市計 画に 対す る思 想が 強く 反映 して いた と言 えよ う︒ 次章 では 他の 建築 家で はな く︑ 武田 が選 ばれ た必 然 性を 検証 した い︒

三︑ 武 田 五一 と 都 市計 画

︑ 橋梁

︑ 都 市美 ここ

で︑ 武田 によ る三 点の 講演 録︑ 雑誌 掲載 論文 に武 田が 都市 計画 と橋 梁と の関 わり をど のよ うに 考え てい たの かを 分 析し

︑建 築家 とし て水 都・ 大阪 市の 嘱託 に選 ばれ たこ との 必然 性を 検証 した い︒

﹁ 都市 計画 に就 て﹂ 武田 は︑ 大阪 市の 委嘱 に先 立つ 大正 六︵ 一九

〇八

︶年

︑京 都市 主催 の大 礼記 念及 び市 公会 堂落 成式 記念 のお りに

﹁都 市 計画 に就 て﹂ とい う演 題で 自説 を開 陳し てい る"

︒ 講演 内容 は︑ 都市 計 画 の概 観 で ある

︒武 田 は︑ 都 市計 画 を 構 成す る 要 素 とし て

︑公 館 を中 心 と す る都 市 の 焦 点

︑商 業 区 域

︑住 宅 区 域

︑交 通 問 題︵ 街 路︑ 系 統︑ 駅︑ 交 通 手 段︶

︑ 衛 生︑ 天 災防 止︑ 美観 を挙 げる

︒そ して 各分 野の 専門 家が 有機 的に 考え る必 要性 を説 き︑ 都市 の美 観形 成は

︑公 館を 中心 に高 い 建物

︑記 念碑 を造 り︑ 自然 環境 と建 物が 調和 する こと で達 成さ れる と述 べる

都市美の創出と橋梁 ― 284 ―

(10)

ここ で︑ 武田 が都 市の 美観 につ いて

︑特 に橋 梁を 取り 上げ てい るこ とが 注目 され る︒ 武田 は︑ 都市 の美 観形 成に 橋梁 は 欠か せな いこ とを 特に 強調 し︑ そこ には

﹁美 術的 素 養﹂ が 求め ら れ るこ と

︑﹁ 橋 の 形な ど は 単に 土 木 技師 の み が やっ て はい けな い﹂! と 言う

︒こ こで

︑﹁ セセ ッシ ョン

﹂の 四条 大橋 と﹁ 擬宝 珠 高 欄﹂ の五 条 大 橋を 悪 し き例 に 挙 げ︑ 統 一性 の 欠如 を批 判し てい るこ とか ら︑ 武田 の言 う﹁ 美術 的素 養﹂

︑﹁ 美 術的 の頭

﹂と は︑ 様式 を理 解す る美 学的 もし くは 芸術 的 素養 のこ とで あり

︑言 外に 橋梁 設計 に建 築家 が関 与す る必 要性 を示 唆し てい ると 解釈 でき よう

︒ 日本 では

︑架 橋は 土木 技術 者の 領分 であ り︑ 建築 家と は接 する とこ ろが 少な かっ た︒ しか し武 田は あえ て建 築家 が都 市 の美 観形 成に 欠か せな い橋 梁設 計を すべ きで ある と考 えた 日本 最初 の建 築家 であ り︑ 一方 の大 阪市 は関 西に おけ る建 築 の権 威で あり

︑橋 梁 につ いて 独自 の思 想を もつ 武田 に第 一次 都市 計画 事業 の橋 梁意 匠を 委嘱 した

︒そ こに は︑ 建築 家・ 武 田と 都市 計画 論の 専門 家・ 関と の間 に︑ 日本 の架 橋伝 統と は異 なる 西洋 の建 築思 想や 都市 設計 理念 が共 通の 了解 事項 と して 存在 した と考 える こと がで きよ う︒ 武田 は︑ 東京 帝国 大学 建築

︵造 家︶ 学科 でコ ンド ル︵

Josiah Conder 1852 − 1920

︶ の薫 陶を 受け 継ぐ 建築 家教 育を 受け た

︒そ こに 学ん だ建 築理 念の 中核 をな すの は︑ 建築 が芸 術で あり

︑そ の美 は比 例関 係の 必然 性に よっ て成 り立 つ︑ とい う アル ベル ティ

Leon Battista Alberti, 1404 − 72

︶以 来の 西洋 古典 主義 的な 思想 であ る︒ そし て︑ 西洋 にお いて は︑ 街道 と 橋を 姉弟 とみ なし

︑両 者の 調和 が美 観を 生む と考 える 古代 ロー マ以 来の 伝統 があ る︒ 橋梁 は︑ 道路 のう ち最 も重 要な 部 分で あり

︑公 共性 が高 いた めに 都市 の中 心に おか れ︑ 恒久 的で なけ れば なら ない

︒そ れゆ え︑ 西洋 では 堅牢 で美 しい 橋 梁を 架け るた めの 設計 は土 木技 術者 では なく

︑多 くを 建築 家が 手が ける

"

︒ 大 阪市 に お いて

︑土 木 分 野の 橋 梁 技 術者 で は なく

︑建 築 家 が 名橋 を 設 計し た 事 例は 希 と は いえ

︑武 田 以 前 に 存 在 す る

︒例 えば

︑住 友 の建 築 家・ 野 口孫 市

︵明 治 二﹇ 一八 六 九

﹈│ 大 正四

﹇一 九 一 六﹈ 年︶ が設 計 し︑ 明 治四 十 二

︵一 九○ 九

︶年 に竣 工し た心 斎橋 は︑ 長堀 川を 渡す 鉄橋 を大 阪最 初の 西洋 風石 造ア ーチ 橋に 架け 替え

︑繁 華街 の象 徴と して 大変

― 285 ― 都市美の創出と橋梁

(11)

な 評判 を呼 んだ

︒し かし

︑心 斎橋 は野 口の 職歴 にお いて 単発 的な 橋梁 作品 に終 わっ てい る︒

﹁ 橋梁 の外 観﹂ 武田 が都 市計 画と の関 連で 橋梁 美に つい ての 考え を多 角的 に論 じた のは

︑昭 和四

︵一 九二 九︶ 年の 土木 学会 関西 支部 第 二回 大会 にお いて 行っ た講 演﹁ 橋梁 の外 観﹂ にお いて であ った

!

︒架 橋の 実 践 家で あ る 土木 技 術 者に 対 し て︑ 欧 米を 引 き合 いに 出し 都市 計画 にお ける 道路 計画 に必 ず含 まれ る橋 梁の 重要 性︑ そし てそ の美 的価 値を 啓蒙 する こと を目 的と し て い る︒ 帝都 復 興 六大 橋 梁︑ 大 阪 の橋 梁 改 築工 事 に 建築 家 が 関 わる よ う にな り

︑橋 梁 の美 的 要 素 が 都 市 の 美 観

︑風 景

︑風 致 と 関連 し て 意識 さ れ つ つあ り

︑い ず れ﹁ 橋梁 芸 術﹂"

が で きる で あ ろ うと 将 来 的展 望 も 示し て い る︒ 講 演内 容 は

︑都 市 計 画と 橋 梁 との 関 係︑ 橋 梁 の美 的 価 値︑ 橋梁 美 の 構成 要 因

︑橋 梁 の 形 式︑ 構 造︑ 素 材︑ 装 飾 に つ い て で あ っ た

︒ この 講演 録に 示さ れた 武田 の注 目す べき 先駆 性は

︑都 市の 建築 物は 日々 更新 され るの に対 して 永久 橋は より 恒久 的で あ るた め︑ 一時 的な 建物 に橋 梁を 調和 させ るの では なく

︑ロ ーマ の橋 梁や 岩国 の錦 帯橋 のよ うに 橋梁 が主 にな り天 然の 地 形と 調和 をは かる べき であ る︑ とす る点 であ る︒ 武田 は︑ 橋梁 の美 的評 価の 観点 とし て主 観的

・個 人的

︑美 学的

・哲 学的

︑印 象的

︑技 術的

︑歴 史的

・考 古学 的︑ 政治 的

・軍 事的

・経 済的

︑工 学的

︑宗 教的

・憧 憬的 など を挙 げる

︒そ の中 で︑ 橋梁 に欠 陥は 禁物 であ るた め工 学的 批評 が一 番 重要 であ ると し︑ 橋梁 美の 構成 には

︑建 築物 と同 じく 比例

︑部 分と 中心 の統 一︑ シン メト リー

︑安 定と 軽快 さ︑ 二元 と 三位

#

を柔 軟に 適用 する 必要 性を 強調 する

︒ま た︑ 橋梁 の美 的意 匠に つ い ては

︑場 所

︑橋 梁 の形 に よ って 問 題 点 が異 な るこ とを 指摘 する

︒橋 長と 幅の 関係 では

︑幅 に対 して 橋長 が著 しく 長い 場合 は側 面観 の輪 郭が

︑ま た幅 に対 して 橋長 が 短い 場合 は正 面観

︑つ まり 高欄

・飾 燈な ど橋 面上 の装 飾が 問題 とな る︒ そし て場 所に よっ ては

︑側 面観

︑正 面観

︑あ

都市美の創出と橋梁 ― 286 ―

(12)

る いは その 両者 を重 視す べき 場合 と逆 にど ちら も目 立た ない ほう が好 まし い場 合が ある と言 う︒

﹁ 大阪 の橋 の美

﹂︵ 都市 と橋 梁︶ さら に武 田は

︑昭 和五 年︑ 大阪 市都 市 協 会の 機 関 誌﹃ 大大 阪

﹄都 市 美 観号 に

﹁大 阪 の橋 の 美﹂

︵ 都市 と 橋 梁︶ と いう 論 考を 発表 して いる

!

︒こ れは

︑一 般読 者に 橋梁 によ る都 市美 創出 への 理解 と関 心を 呼び かけ る主 旨で 書か れて いる

︒ 武田 は︑ 橋梁 が大 阪近 代都 市の 象徴 とな り︑ 当事 者の 努力 で煙 の都 から ホワ イト シテ ィと なる と展 望を 示す

︒一 般読 者 を対 象と する ため

﹁橋 梁の 外観

﹂よ りも 平易 かつ 具体 的な 事例 を挙 げて 橋梁 美の 本質 を論 じて いる

︒ ここ でも 橋梁 の美 が︑ 装飾 の良 否よ りも 空間 に架 ける 水平 性に 依拠 する こと

︑さ らに 水平 性は 両岸 の構 造物 や橋 灯な ど の垂 直性 によ って 対照 的に 強調 され るこ とが 説か れる

︒都 市に おけ る橋 梁に 実用 的︑ 美観 的︑ 歴史 的︑ 記念 的と いう 使 命を 区別 する

︒橋 梁の 美観 的使 命に つい ては

︑﹁ 橋 梁 の外 観

﹂と 同 様に 環 境 と 調和 す べ きで あ る が︑ 場合 に よ っ ては 景 観 の 標準 と な るべ き で あ るこ と

︑同 じ 川筋 の 橋 梁群 は 変 化 をつ け ね ばな ら な いこ と を 述 べる

︒歴 史 的 使命 に つ い て は

︑下 部構 造と は齟 齬が あっ ても 上部 に純 和風 の意 匠を 加え る必 要性 を主 張す る︒ 武田 は︑ 最後 に橋 の公 共性 を再 度強 調 し︑ 大阪 市民 の橋 梁に 対す る興 味が より よい 設 計 につ な が ると 言 う︒ そ し て︑

﹁橋 の 都 大大 阪 は より 美 し く︑ よ り親 し みや すく

︑世 界の 大阪

︑そ して 市民 の大 阪と して 完成 せら れる

"

と締 めく くっ てい る︒ この よう に︑ 日本 の都 市の 形が 激し く変 貌す る時 代を 背景 に︑ 武田 は︑ 土木 技術 者に 対し て︑ また 一方 で市 民に 対し て 橋梁 の存 在意 義︑ 美的 価値

︑公 共資 産と して の都 市美 の啓 蒙に 努め てい るこ と︑ その 根底 には 西洋 流の 建築 理念 が存 在 して いた こと が指 摘さ れる

︒ま た第 一章 に挙 げた 北尾 の﹃ 近代 大阪

﹄に つい て︑ 海野 弘は 一九 二〇 年代 のモ ダン

・シ テ ィの 発見 とい う価 値を 評価 して いる が#

︑ 都市 漫遊 者と して の資 質は とも か く︑ 橋 梁の 見 方 や美 的 価 値や 都 市 美 のと ら え方 が︑

﹃ 大大 阪﹄ 掲載 の武 田論 考﹁ 大阪 の橋 の美

﹂か ら直 接的 な影 響を 受け てい るこ とを 併せ て指 摘し てお きた い︒

― 287 ― 都市美の創出と橋梁

(13)

そ して

︑北 尾は 都市 景観 をひ とつ の美 術作 品の よう に眺 め︑ 建造 物の 色彩 と周 囲の 調和 をし きり と描 写す るが

︑武 田は 建 築物 の色 彩と 周囲 の調 和を 論じ た日 本近 代最 初の 建築 家で あっ たこ とも 附言 して おき たい

!

︒ 四︑ 武 田 五一 の 橋 梁設 計 前章

では

︑橋 梁に よる 都市 美の 創出 とい う武 田の 橋梁 思 想︑ 広 くは 芸 術 観の 発 表 を 通じ た 啓 蒙活 動 に つい て 論 じ た︒ こ こで は︑ 近代 大阪 の架 橋事 情を 概観 した 上で

︑武 田の 思想 が大 阪近 代の 橋梁 景観 の創 出に おい て︑ 実際 にど のよ うに 関 わっ たの かを 考察 する

︒ まず

︑大 阪近 代の 架橋 事情 を振 り返 ると

︑明 治初 期か ら車 両の 通行 に耐 え︑ 流さ れな い︑ 焼け 落ち ない 鉄橋 への 架け 替 えが 始ま る︒ さら に陸 運が 発達 し幹 線道 路を 拡幅 し︑ その 沿道 の建 築物 が防 火建 築に 置き 替え られ たと き︑ 水運 が生 き てい る大 都会 であ るた めに

︑い っそ う堅 牢な 構造 を持 つ橋 梁が 必要 であ る︒ 水上

︑橋 上︑ 岸辺 から の眺 め︑ 周囲 のビ ル 群︑ 同じ 川筋 の橋 梁と 全体 的な 調和 をは かる こと が理 想で あろ う︒ それ を実 現す る機 が熟 した のが 都市 計画 法と

﹁大 大 阪﹂ の時 代︑ つま り大 阪が

︑商 業︑ 綿紡 績︑ 鉄鋼 によ って 飛躍 的に 経済 力を つけ

︑市 街地 も拡 大し 日本 一の 大都 会と な る時 代で ある

︒ち ょう ど︑ 鉄橋 から 鉄筋 コン クリ ート 橋や 鋼橋 への 移行 期に あた る︒ 大阪 市で は︑ 第一 次都 市計 画事 業の 開始 から 昭和 五年 頃ま でに 一五 七に 及ぶ 永久 橋を 建造 した

︒武 田の 本拠 地で ある 京 都市 の場 合は

︑三 方を 山に 囲ま れた 盆地 を北 から 南に 鴨川 が通 景を なす が︑ 水量 が乏 しく 勾配 があ るた めに 水運 に適 さ ず︑ また 歴史 的な 建造 物や 天正 以来 の擬 宝珠 を誇 示す る公 儀橋 が幅 をき かせ てい る︒ 水都 大阪 市は その よう な地 勢や 歴 史の 縛り があ る京 都市 街地 とは 異な り︑ 全く 新し い構 造と 様式 の橋 梁と 建築 物で 都市 景観 を構 築で きる 条件 を備 えて い た︒

都市美の創出と橋梁 ― 288 ―

(14)

昭 和八

︵一 九 三 三︶ 年に 武 田 の﹃ 還暦 記 念 作 品集

! が出 版 さ れて い る︒ そ こ に掲 載 さ れて い る 建築 作 品 は 設 計

︑設 計 指導

︑設 計顧 問を 併せ 八種 類計 一六 二件 を数 える

︒そ のう ち︑ 公共 建築

︑学 校︑ 商業 建築

︑社 寺︑ 住宅 など の本 来的 な 建築 一一 六に 対し て橋 梁が 二十 と大 きな 比率 を占 めて いる

"

︒そ れ ら は︑ 京都

︑大 阪

︑名 古 屋と も に 都市 計 画 に 基づ く 幹線 道路 整備 と連 動し

︑大 半が 第一 次大 阪都 市計 画事 業に おい て大 河川 を渡 す幹 線道 路の 橋梁 であ った

︒そ の図 版解 説 には

﹁⁝

⁝橋 梁を 従来 の通 り単 に無 味乾 燥な るも のと して 取り 扱わ ず︑ その 機能 を満 足せ しめ つつ

︑尚 付近 の環 境に 応 ぜし むべ く︑ いず れも 特種 な建 築的 手法 を講 ぜら れて 居る

⁝⁝

# と記 され てい る︒ 大阪 にお ける 武田 の橋 梁の 外観 は建 築作 品と 同じ く変 化に 富み

︑様 式的 には

︑和 風の 桁橋 から 鋼ア ーチ 橋梁

︑分 離派 様 式︑ 和洋 折衷 とさ まざ まで あり

︑素 材も 石造

︑鋼 製︑ 鉄筋 コン クリ ート と多 様で ある

︒庭 園池 から 都会 の大 河川 に架 か る長 大橋 に至 るま で︑ 武田 の橋 梁は 自己 主張 せず 周囲 の環 境と 一体 化し た景 観を 構築 して いる

$

﹃ 第一 次大 阪都 市計 画事 業 誌﹄ には

︑一 五 七 橋の う ち 高 麗橋

︵昭 和 四 年︶

︑桜 宮 橋︵ 昭 和五 年

︶︑ 昭 和橋

︵昭 和 七 年︶

︑ 淀 屋橋

・大 江橋

︵昭 和十 年︶ の四 橋に つい ての み特 別に 竣工 式祝 辞・ 式 辞 が収 録 さ れて い る%

︒ 祝 辞・ 式辞 に は そ れぞ れ の橋 梁の 由来

︑構 造︑ 形式

︑特 徴と とも に︑ 共通 して

﹁壮 麗か つ堅 牢﹂

︑﹁ 凝 った 意匠

﹂を 讃え

︑い ずれ も﹁ 大都 市の 美 観を 添え

﹂﹁ 橋 を以 て名 ある 本市 に更 に一 名 声を 加 え たり と 謂 う べし

﹂と 結 ん でい る

︒こ の﹃ 事 業誌

﹄が 別 格 扱 いし て いる 四橋 はい ずれ もが 武田 が設 計・ 設計 指導 をし た昭 和初 期の 橋梁 であ る︒ 第三 章で 取り 上げ た武 田の 論考 を参 照し な がら

︑そ れら 四橋 がど のよ うに 都市 景観 と関 わる のか を武 田の 橋梁 思想 を念 頭に 概観 して おき たい

︒ 高麗 橋︵ 図3

︶は 江戸 時代 大坂 十二 の公 儀橋 のひ とつ であ り︑ 大阪 府里 程原 標が 橋詰 に立 てら れて いる とい う由 緒か ら 明ら かに

﹁歴 史的 使命

﹂を おび

︑川 幅が 狭い ため に側 面観 より も正 面観 が重 視さ れる ケー スで ある

︒そ のた め︑ 下部 構 造に 鉄筋 コン クリ ート

・ア ーチ 橋が 採用 され 上部 は花 崗岩 の高 欄に 擬宝 珠を いた だく

﹁近 代的 工法 に鎌 倉時 代の 雅趣 を 配し た﹂&

和 風の 橋梁 とな って いる

― 289 ― 都市美の創出と橋梁

(15)

桜 宮 橋

︵図 4︶ は 幹 線 道 路︵ 天 満 蒲 生 線

︑現

・国 道一 号線

︶の 建設 に伴 い架 橋さ れ た︒ 交通 の要 衝︑ 広い 川幅

︑水 量多 く急 流 であ る架 橋の 難関 であ るた め︑ 実用 的使 命 が 第 一義 と な る

︒東 詰 に は 桜 之 宮 公 園︑ 西 詰 に は

︑明 治 政 府 が 明 治 四

︵一 八 七 一︶ 年

︑最 初の 国家 的事 業と して 造営 した 造幣 寮 およ び泉 布館

︑そ して 明治 四四

︵一 九一 一

︶年 の 造 幣 局 火 力 発 電 所︵ 現 造 幣 博 物 館

︶が 立ち 並ん でい た︒ 水都 の東 玄関

︑大 阪 近代 にと って 歴史 的に も重 要地 点に 立地 す る︒ 煉瓦 や石 の造 幣寮 施設 と対 照的 にア ルミ 塗料 の銀 色に 輝く 三ヒ ンジ

・ア ーチ 鋼橋 で︑ 遠望 する と広 々と 遮る こと の ない 大川 に大 アー チを 描き

︑景 観を 引き 締め てい る︒ 全長 一八 七メ ート ルと 戦前 まで は国 内最 長を 誇り

︑ア ルミ 塗料 の 輝き から

﹁銀 橋﹂ の名 で親 しま れて きた

︒一 方で

︑両 岸に 我が 国で は異 色の 昇降 小屋 を併 設し

︑河 岸と 道路 を結 ぶ赤 煉 瓦・ ロマ ネス ク様 式の 昇降 小屋 は内 部の 螺旋 階段 も極 めて 印象 的で 美し い︒ 平 成十 八 年︑ 国 道一 号 線 の拡 張 お よ び銀 橋 の 補修 工 事 の ため に

︑北 側 に新 桜 宮 橋︵ 新 銀 橋

︶が 建 造 さ れ た

︒新 銀 橋 は

︑旧 銀橋 と似 た外 観で 上流 側に 並列 して いる

︒こ の新 銀橋 の意 匠設 計を 担当 した のは

︑建 築家

・安 藤忠 雄で ある

︒泉 布 館 は 閉め 切 ら れ︑ 造幣 寮 は 玄 関の み を 残し て 半 ば廃 墟 と な り︑ 一帯 に は︑ か つて の 大 造幣 寮 施 設 の 面 影 は な い

︒一 方

︑武 田の 橋梁 は補 修を 要し

︑ま た道 路拡 張が 企図 され た時 に︑ 現代 日本 を代 表す る建 築家 によ って 相似 形の 橋梁 が併

3 高麗橋 東横堀川 RCアーチ橋 橋長49 m. 幅9 m. 昭和4年

4 桜宮橋 旧淀川(大川)3ヒンジ鋼アーチ橋 橋長187 m.幅23 m.昭和5年

都市美の創出と橋梁 ― 290 ―

(16)

設 され た︒ 建築 物は いず れす げ替 えら れる が︑ 橋梁 はよ り恒 久性 をも つ故 に景 色の 規矩 にな るべ きで ある

︑と 武田 は言 う

︒桜 宮橋 は︑ 竣工 以来 八〇 年余 りを 経て 両岸 に高 層ビ ルが 林立 して も︑ その 現代 都市 景観 の中 に古 びて 埋没 する こと が ない

︒ 昭和 橋︵ 図2

│1

︑図 2│ 2︶ は第 一章 で取 り上 げた よう に 土 佐堀 通 り と川 口 を 大 きく 斜 め に渡 す 難 しい 立 地 条 件︑

﹁大 大阪

﹂の 河口 から の玄 関に あた る︒ 東の 入り 口・ 桜宮 橋 と同 じ ア ルミ 塗 装 の 鋼ア ー チ 構造

︑そ し て くせ の あ る 印象 的 な傾 斜を 描く 斜橋 とな った

︒ 中 之島 に 架 かる 淀 屋 橋・ 大江 橋

︵図 5︶ は 平成 二 十 年に 国 の 重要 文 化 財 に指 定 さ れた 近 代 大阪 を 象 徴 す る 名 橋 で あ る

︒大 正十

︵一 九二 一︶ 年︑ 大阪 市は 御堂 筋の 建設 に伴 う淀 屋橋 およ び大 江橋 の 架け 替え に際 して

︑橋 梁の 意匠

・形 式を めぐ る国 内最 初の 全国 公募 意匠 設計 懸 賞 競 技 を 行 い︑ 武 田 は そ の 審 査 員 を つ と め た!

︒ 公 募 条 件 に は

︑橋 梁 の 寸 法

︑二 橋と も同 一の 鉄筋 コン クリ ート

・ア ーチ 橋と いう 形式 に加 え︑ 橋の 両側 の 日 銀 大 阪 支 店︵ 辰 野 金 吾 設 計︑ 明 治 三 十 六 年︶

︑ 大 阪 市 庁 舎︵ 片 岡 安 設 計︑ 大 正十 年︶ とい った 重厚 な歴 史様 式の 建造 物と の調 和が 掲げ られ てい た︒ 審査 の 結 果︑ 武 田が 一 等 図案 に 手 を 加 え 重 厚 で 装 飾 性 の 高 い 現 在 の 橋 梁 が 完 成 し た

︒ その 後︑ 武田 は選 考対 象と なっ た図 案中

︑唯 一分 離派 様式 で異 彩を 放っ てい た 三 等 受賞 図 案 を応 用 し て 橋 梁 設 計 を し た︒ 第 一 章 で 取 り 上 げ た 田 蓑 橋 で あ る

︒そ こで は田 蓑橋 の歴 史的 由緒 より も︑ すで に両 橋詰 めに 立ち 上が って いた 最 も 斬 新な 建 築 様 式 と の 一 体 性 が 重 視 さ れ た と 言 え る

︒北 尾 が

﹁橋 と

︑建 物

5 淀屋橋 土佐堀川 RCアーチ橋 全長53.5 m 幅36.5 m. 昭和10年

― 291 ― 都市美の創出と橋梁

(17)

︑河 との 調和 美に よっ て︑ 作り 出さ れた 近代 都市 風景

!﹂ と賞 讃し た橋 梁風 景で ある

︒ お わ り に 北尾

鐐之 助の

﹃近 代大 阪﹄ は︑

﹁ モダ ン・ シテ ィ大 阪﹂ を 発見 し た フォ ト

・ル ポ ル ター ジ ュ の古 典 的 名著 と 評 価 され て いる

︒小 論で は︑ 都市 漫遊 者・ 北尾 が見 いだ した

﹁橋 と︑ 建物 と︑ 河と の調 和美 によ って

︑作 り出 され た近 代都 市風 景

﹂が 誰に よっ てど のよ うに 構築 され たの か︑ また

︑そ の橋 梁風 景の 見方

︑美 的価 値を 啓蒙 した のは 誰か を明 らか にす る こと を目 的と した

︒ 考察 の結 果︑ 我が 国の 殖産 興業 が一 段落 し都 市整 備の 必要 に迫 られ たと き︑ 第一 次大 阪市 都市 計画 事業 の責 任者 であ っ た市 長・ 関一 が︑ 都市 計画 には 土木 技術 者で はな く︑ 欧米 のよ うに 建築 家を 起用 しな けれ ばな らな いと 考え てい たこ と

︑都 市に 美観 が必 要で ある とい う見 識が あっ たこ と︑ そこ に︑ 都市 景観 の規 矩を つく るの は橋 梁で ある とい う建 築理 念 を堅 持す る建 築家

・武 田五 一が 交差 した とこ ろに

︑水 都近 代に 独特 な橋 梁景 観︑ 都市 美が 立ち 現れ たと いう 構図 が明 ら かに なっ た︒ 武田 は日 本近 代の 建築 家と して 初め て建 築と 周囲 の調 和を 意識 し実 践し よう とし た都 市景 観デ ザイ ナー の 嚆矢 と位 置づ ける こと がで きる

︒ 明ら かに 武田 は﹁ モダ ニズ ム﹂ の美 学的 理念 に立 脚し て都 市全 体の 調和 をそ の機 能・ 景観 にお いて 具現 化す る都 市の 制 作を 企図 した

︒そ の都 市美 創出 の意 味を 発見 した のが

︑北 尾の 功績 では なか った か︒ 北尾 が﹁ モダ ン・ シテ ィ﹂ を発 見 する 眼差 しに は︑ 武田 が一 般読 者に むけ た橋 梁の 美的 価値 や評 価の 観点 など の啓 蒙活 動︑ さら に本 稿で は取 り上 げる こ とが 出来 なか った が︑ 武田 が監 修し 昭和 四年 に創 生社 出版 から 刊行 され た全 三巻 の﹃ 大大 阪橋 梁選 集﹄ に収 録さ れた 橋 梁写 真が 大き な影 響を 与え た可 能性 を指 摘し てお きた い︒

都市美の創出と橋梁 ― 292 ―

(18)

# 註 北 尾 鐐 之 助 著

﹃ 近 畿 景 観 第 三 編 近 代 大 阪

﹄ 創 元 社

︑ 昭 和 七 年

︵ 復 刻 版

︑ 平 成 元 年

︶︑ 二 二 七 頁

$ 北 尾 は 名 古 屋 に 生 ま れ

︑ 東 京 高 等 商 業 学 校 中 退 後

︑ 新 聞 記 者 と し て 活 躍 す る 一 方 で

︑ 山 歩 き を 楽 し み

︑ 写 真

︑ グ ラ フ ィ ッ ク デ ザ イ ン の 可 能 性 を 探 究 し

︑ 山 岳 同 人 誌

﹃ 印 象

﹄ や

﹃ サ ン デ ー 毎 日

﹄ を 創 刊 し て い る

︒ 山 岳

︑ 名 所 旧 跡 の 紀 行 文 に 健 筆 を 振 る い

︑ 創 元 社 か ら

︑ 第 一 編

﹃ 近 畿 景 觀

﹄︵ 昭 和 四 年

︶︑ 第 二 編

﹃ 大 和 河 内

﹄︵ 昭 和 六 年

︶︑ 第 三 編

﹃ 近 代 大 阪

﹄︵ 昭 和 七 年

︶︑ 第 四 編

﹃ 紀 伊 伊 賀

﹄︵ 昭 和 八 年

︶︑ 第 五 編

﹃ 京 都 散 歩

﹄︵ 昭 和 九 年

︶︑ 第 六 編

﹃ 近 江 山 城

﹄︵ 昭 和 十 一 年

︶︑ 第 七 編

﹃ 丹 波 但 馬

﹄︵ 昭 和 十 四 年

︶︑ 第 八 編

﹃ 若 狭 紀 行

﹄︵ 昭 和 十 五 年

︶︑ 第 九 編

﹃ 伊 勢 志 摩

﹄ 昭 和 十 七 年

︶ を 刊 行 し た

% 装 幀 に つ い て も

︑ こ の

﹃ 近 代 大 阪

﹄ の み 地 元 大 阪 の 洋 画 家

・ 高 岡 徳 太 郎

︵ 明 治 三 十 五

﹇ 一 九

○ 四

﹈│ 平 成 三 年

︶ に よ る 斬 新 な 表 紙 デ ザ イ ン を 採 用 し て い る

︒ こ の 書 に 一 九 二

〇 年 代 の モ ダ ン

・ シ テ ィ の 発 見 と い う 価 値 を 再 評 価 し た の は 海 野 弘 で あ る

︒ 海 野 は

︑ 復 刻 版 に 寄 せ た 解 題

﹁ モ ダ ン シ テ ィ 大 阪 の 漫 遊 者

﹂︵ 同 書 解 説

︑ 一

│ 十 四 頁

︶ に お い て

︑ 北 尾 に ル イ

・ ア ラ ゴ ン や ベ ン ヤ ミ ン

︑ エ コ ー ル

・ ド

・ パ リ の 画 家 た ち の よ う な 近 代

︑ す な わ ち 一 九 二

〇 年 代 の 都 市 漫 遊 者 と し て の 資 質 を 見 い だ し た

︒ そ し て

︑ モ ダ ン ツ ー リ ズ ム の 時 代 を 背 景 に

︑ 前 衛 写 真 家 と し て の 眼 が 優 れ た 近 代 都 市 大 阪 の ア ル ピ ニ ズ ム 紀 行 文 を 生 み 出 し た の だ と 分 析 し て い る

︒ ま た こ の 書 に つ い て は

︑ 橋 爪 節 也 編 著

﹃ 大 大 阪 イ メ ー ジ

﹄︵ 創 元 社

︑ 平 成 十 九 年

︶ 中 に 橋 爪 節 也

・ 岩 井 正 也 が

﹁ 北 尾 鐐 之 助

﹃ 近 代 大 阪

﹄ と! 大 大 阪"

﹂︵ 三 八 九

│ 四

○ 二 頁

︶ に お い て

︑ こ の 書 を 構 成 す る 二 十 七 章 に 取 り 上 げ ら れ た 大 大 阪 の イ メ ー ジ を 検 証 し

︑ 映 画 的 な 手 法 で 描 か れ て い る こ と を 指 摘 し て い る

&

北 尾 鐐 之 助 著

﹃ 近 畿 景 観 第 三 編 近 代 大 阪

﹄ 一

│ 三 頁 参 照 の こ と

︒ ' 前 掲 書

︑ 二 七 二

│ 二 七 八 頁 参 照 の こ と

︒ ( 前 掲 書

︑﹁ 川 口 風 景

﹂ 七 七

│ 八 八 頁 参 照 の こ と

︒ ) 同 上

︑ 八 十 四 頁 参 照 の こ と

* 前 掲 書

︑﹁ 田 蓑 橋 附 近

﹂ 二 二 七 頁 参 照 の こ と

︒ + 第 一 次 大 阪 都 市 計 画 事 業 の 骨 子 は

︑ 御 堂 筋 他 二 十 四 路 線 の 街 路 新 設 及 び 拡 張

︑ 八 十 二 橋 の 耐 震 耐 火 構 造 へ の 改 修

︑ 既 設 街 路 面 積 十 八 万 坪 の 舗 装

︑ 面 積 六 万 七 千 坪 の 路 幅 整 理

︑ 五 路 線 に 渡 る 建 築 敷 地 の 造 成 で あ っ た

︒ , 大 阪 市 刊 行

﹃ 第 一 次 大 阪 都 市 計 画 事 業 誌

﹄ 昭 和 十 九 年

︑ 第 三 章 橋 梁 工 事

︑ 第 一 節 橋 梁 設 計 及 び 施 工

︑ 第 一 項 概 説

︑ 三 五 四 頁 を 参 照 の こ と

― 293 ― 都市美の創出と橋梁

(19)

"

同 上

︑ 三 五 四

│ 三 五 五 頁 参 照 の こ と

# 大 正 八 年 年 法 第 三 六 号 を 参 照 の こ と

$ 中 島 直 人 著

﹁ 旧 都 市 計 画 法 第 一 条 に お け る

﹁ 美 観

﹂ に つ い て

﹂﹃ 日 本 建 築 学 会 大 会 学 術 講 演 梗 概 集

﹄︵ 近 畿

︶ 平 成 十 七 年 九 月

︑ 三 六 五

│ 三 六 六 頁 参 照 の こ と

% 大 阪 市 史 編 纂 所 編

﹃ 大 阪 市 史 史 料 第 七 十 五 輯

﹄︵ 平 成 二 十 二 年

︶ 所 収

︑ 昭 和 元 年 九 月 十 八 日 付 関 の 覚 え 書 き

︵ 一 四 七 頁

︶︑ 昭 和 四 年 一 月 十 七 日

﹃ 大 阪 毎 日 新 聞

﹄ 掲 載 記 事

﹁ 住 み 心 地 の よ い 都 市

﹂ を 参 照 の こ と

&

大 阪 市 刊 行

﹃ 第 一 次 大 阪 都 市 計 画 事 業 誌

﹄ 三 六 一 頁 参 照 の こ と

︒ ' 武 田 は

﹃ 大 阪 時 事 新 報

﹄ 大 正 八 年 十 二 月 二 十 八 日 の 紙 面 に

﹁ 改 造 さ る べ き 大 大 阪 の 都 市 の 美 観

﹂ の た め に 委 嘱 さ れ た と 述 べ て い る

︒ ( 小 野 芳 朗 著

﹁ 京 都 帝 国 大 学 土 木 工 学 科 出 身 の 都 市 計 画 系 技 術 吏 員

﹂﹃ 土 木 史 研 究 講 演 集

﹄ 第 三 十 巻

︑ 平 成 二 十 二 年

︑ 二 八 五

│ 二 九 一 頁

︑ 中 川 理 著

﹁ 明 治 期 の 都 市 改 造 事 業 に お け る 土 木 官 吏 の 役 割 に つ い て の 研 究

│ 巨 都 市 の 三 大 事 業 に 至 る 経 緯 を 事 例 と し て

﹂﹃ 日 本 建 築 学 会 計 画 系 論 文 集

﹄ 第 七 十 六 巻

︑ 第 六 六 二 号

︑ 平 成 二 十 三 年

︑ 八 五 九

│ 八 六 八 頁 参 照 の こ と

︒ )

﹁ 都 市 計 画 に つ い て

﹂﹃ 京 都 市 記 念 講 演 誌

﹄ 京 都 市 庶 務 課 発 行

︑ 第 一 編 都 市 計 画

︑ 大 正 七 年

︑ 一

│ 三 十 頁 参 照 の こ と

* 同 上

︑ 二 十 六 頁 を 参 照 の こ と

︒ + 西 洋 に お け る 建 築 思 想 の 原 点 は ア ル ベ ル テ ィ の

﹃ 建 築 論

Dereaedificatoria,1541

︵ 相 沢 弘 訳

﹃ 建 築 論

﹄ 中 央 公 論 美 術 出 版

︑ 昭 和 五 十 七 年

︶ に あ る

︒ こ の 書 の 第 四 書

﹁ 公 共 施 設

﹂ 第 六 節

︵ 邦 訳 一 一 一

│ 一 一 六 頁

︶ が 橋 梁 に あ て ら れ て い る

︒ ,

﹁ 橋 梁 の 外 観

﹂﹃ 土 木 学 会 誌

﹄ 第 十 五 巻 第 五 号

︑ 昭 和 四 年

︑ 三 四 一

│ 三 五 七 頁 参 照 の こ と

︒ - 前 掲 書

︑ 三 四 三 頁 参 照 の こ と

︒ . 二 元 と は 陰 陽

︑ 三 位 は 天 地 人 と い う 宗 教 的 思 想 で あ る

︒ / 武 田 五 一 著

﹁ 大 阪 の 橋 の 美

﹂︵ 都 市 と 橋 梁

︶ 大 阪 市 都 市 協 会 発 行

﹃ 大 大 阪

﹄ 都 市 美 観 号

︑ 昭 和 五 年 六 巻 四 号

︑ 二

│ 十 一 頁 参 照 の こ と

︒ 0 同 上

︑ 十 三 頁 参 照 の こ と

︒ 1 註! を 参 照 の こ と

︒ 2 武 田 五 一 著

﹁ 建 築 と 色

﹂﹃ 建 築 雑 誌

﹄ 二 十 五

︵ 二 九 二

︶ 号 建 築 雑 誌

︑ 明 治 四 十 四 年 四 月

︑ 九 十 二

│ 九 十 六 頁 参 照 の こ と

都市美の創出と橋梁 ― 294 ―

(20)

! 作 品 の 内 訳 は 公 館

・ 会 館 十 五

︑ 学 校

・ 研 究 所 二 十 四

︑ 商 業 建 築

︵ 銀 行

︑ 商 店

︑ 会 社 三 十

︑ 社 寺 十 一

︑ 住 宅 三 十 六

︑ 博 覧 会 場

・ 公 園

・ 街 路 施 設 十

︑ 橋 梁 二 十

︑ 記 念 碑

・ 銅 像 台 座 十 六 で あ る

︒ 武 田 博 士 還 暦 記 念 事 業 会 編

﹃ 武 田 博 士 作 品 集

﹄ 昭 和 八 年

︑ 便 利 堂

︑ 七

│ 十 四 頁 参 照 の こ と

"

武 田 の 手 が け た 建 造 物 と し て は 八 種 類 計 一 六 二 件 が 掲 載 さ れ て い る

︒ 橋 梁 作 品 と し て 挙 が っ て い る の は

︑ 二 条 橋

︵ 京 都 市

︑ 大 正 二 年

︶︑ 河 合 橋

︵ 京 都 市

︑ 大 正 七 年

︶︑ 葵 橋

︵ 京 都 市

︑ 大 正 七 年

︶︑ 岩 井 橋

︵ 名 古 屋 市

︑ 大 正 十 二 年

︶︑ 記 念 橋

︵ 名 古 屋 市

︑ 大 正 十 二 年

︶︑ 大 阪 市

︑ 大 正 十 五 年 の 伏 見 橋

︑ 農 神 橋

︑ 江 戸 橋

︑ 昭 和 二 年 の 堂 島 大 橋

︑ 渡 辺 橋

︑ 昭 和 二 年 か ら 三 年 の 四 つ 橋

︑ 末 吉 橋

︑ 昭 和 四 年 の 田 蓑 橋

︑ 難 波 江 橋

︑ 高 麗 橋

︑ 鉾 流 橋

︑ 昭 和 五 年 の 桜 宮 大 橋

︑ 同 年

︑ 岡 山 市 の 鶴 見 橋

︑ 昭 和 六 年

︑ 京 都 市 の 賀 茂 大 橋

︑ 昭 和 七 年

︑ 大 阪 市 の 昭 和 橋 で あ る

#

﹃ 武 田 博 士 作 品 集

﹄ 五 一 頁 参 照 の こ と

$ 武 田 建 築 の 様 式 的 統 一 性 の 欠 如 と い う 問 題 に つ い て は

︑ 拙 稿

﹁ 京 都 近 代 の 都 市 景 観 と 建 築 家

・ 武 田 五 一

│ 都 市 景 観 デ ザ イ ン 再 考

﹂﹃ 文 化 學 年 報

﹄ 第 五 十 二 輯

︑ 二

〇 三 年 一

○ 九

│ 一 二 三 頁 を 参 照 さ れ た い

︒ ま た 第 一 次 大 阪 都 市 計 画 事 業 前 期 の 橋 梁 に つ い て 佐 々 木 葉 氏 は

︑ 意 匠

︑ 構 造

︑ 装 飾 が ま ち ま ち で

︑ 局 所 的 な 周 囲 と の 調 和 に と ど ま る 原 因 と し て

︑ 統 一 的 な 都 市 景 観 デ ザ イ ン の 欠 如 を 指 摘 し

︑ 昭 和 に 入 っ て か ら の 橋 梁 は

︑ 建 築 家 と 土 木 技 師 の 共 同 と 物 理 的

・ 経 済 的 条 件

︑ 橋 梁 技 術 の 進 歩 が 構 造 美 の 発 展 を 促 し た

︑ と 考 察 し て お ら れ る

︒ 佐 々 木 葉 著

﹁ 戦 前 の 大 阪 市 内 橋 梁 の 景 観 設 計 思 想 に 関 す る 研 究

﹂﹃ 土 木 史 研 究

﹄ 第 十 一 号

︑ 一 九 九 一 年 六 月

︑ 二 十 五

│ 三 十 六 頁 参 照 の こ と

%

﹃ 第 一 次 大 阪 都 市 計 画 事 業 誌

﹄ 第 四 編 余 録 編 第 二 部 雑 録 輯

︑ 六 五 二

│ 六 五 八 頁 参 照 の こ と

&

同 上

︑ 六 五 二

│ 六 五 三 頁 参 照 の こ と

︒ ' 淀 屋 橋

・ 大 江 橋 の 意 匠 設 計 図 案 懸 賞 競 技 に つ い て は

︑ 拙 稿

﹁ 淀 屋 橋

・ 大 江 橋 の 意 匠 設 計 図 案 懸 賞 競 技 の 意 義

│ 橋 梁 に よ る 都 市 景 観 構 築 に つ い て の 一 考 察

﹂﹃ 文 化 學 年 報

﹄ 第 六 十 一 輯

︑ 二

〇 一 二 年

︑ 八 三

│ 一

○ 七 頁 参 照 の こ と

― 295 ― 都市美の創出と橋梁

参照

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