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佛教大學大學院研究紀要 09号(19810314) 001成田貞寛「南都聖道諸師の善導観 : 貞慶・明恵を中心にして」

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il

貞慶、明恵を中心としてーーー

日本における善導大師︵以降大師称号を略す︶浄土教の受容をめぐって、時代により、人によって、その色彩は多 さいである。特に鎌倉期に入り、法然上人︵以降上人の称号を略す︶は偏依善導を標梼し、選揮本願念仏一向専修 に徹し、時機相応の教として成立せしめるには、法然の思想的遍歴のあとをたどり時代的段階をも考えねばならぬ 点もあるが、しかし、ここでは法然の善導浄土教受容をめぐって、特にその晩年、多くの反論批判者の出づること となるが、貞慶、明恵の反論は善導浄土教の内容的理解を根抵においての反論であるだけ、その反論批判において、 極めて具体的なるものがあると云うことが出来る。しかもこれ等の反論批判の内容規定に至っては、従来もしばし ば論ぜられるところであるが、その反論者の教学信仰の内容の把握が必ずしも充分でないために、その反論批判の 究極態に至らずに終っている点さえ見うけられる。かかる反省の上に立って、善導浄土教をめぐって、法然とその 南都聖道諸師の善導観

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悌教大事大皐院研究紀要第九披 反論者である貞慶・明恵の両者との理解の差異点を見ながら、その善導観の一端を考察せんとするものである。先 づ貞慶の善導観より始めよう。 貞慶の浄土教思想の基本的立場はすでに論じたこともあるように、念仏諸善兼修の浄土往生義であり、それは仏 界平等理性の顕性に相応せしめ、特に念仏論においては、観勝称劣を基本的立場とし、一心観成就、観心修入の実 践的立場に相応せしめていることである。ここでは彼の念仏論を中心に論じ、法然の理解との相違点を指摘しなが ら善導観を述べんとするものである。 貞慶の念仏思想の根本的立場が彼が法相宗であるどころから、弥勃念仏に中心がおかれていることは明らかであ るが、その晩年には弥陀念仏にも深い関心をもち、認識を深めていたことが知られる。かくて念仏に対する理解に ついても、彼の晩年の作である﹃法相心要紗﹄及び﹃興福寺奏状﹄等に於て説かれているが、それはどこまでも法 相教学的立場からの理解であることが知られる。﹃興福寺奏状﹄第七誤一一念仏一失に於ては、先づ念仏の対象ど能念 の相について語り、念仏の対象を仏名と仏体とに分け、仏体をさらに事仏と理仏とに分けている。また能念の相に ついては、口称と心念とに分け、さらに心念の中に繋念と観念とに分け、そして観念は散位より定位にわたり、有 漏より無漏におよび、前者は浅にして劣、後者は深にして勝としている。即ち貞慶の念仏の立場は観勝称劣の立場 からの理解であることが知られる。また﹃法相心要紗﹄第六念仏門に於ては、先づ念仏の相を示すとして、念とは 唯識五位百法中の分類に従い、心所の中の別境に属し、それはかつて縁じた境を心内に明記して忘れざらしめない 作用でこれを性用とし、その念の中でも善念は定の所依となって定を生ぜしめる業用があると説いている。次に仏

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どは如来であり、その相好、名号、福智、本願、乃至法身を云い、それを明記して忘れず、一ニー昧を発得せしめるの が念仏であると述べ、念仏三昧すなはち唯識観なりと規定している。ここに彼の念仏観が一心観成就、観心修入の 実践的立場に相応せしめ観念仏三昧を以てその究極としていることが理解される。 きれば、貞慶はかかる念仏観に立って善導の念仏思想を如何に理解したであろうか。まやっ﹃法相心要紗﹄第六念 仏門、引教段には、観経下々口聞の文を引用して次の如く論じている。 ﹁ 観 無 量 害 経 云 、 或 有 − 一 衆 生 一 作 目 一 不 善 業 五 逆 十 悪 一 具 − 一 諸 不 善 九 此 人 逼 レ 苦 不 レ 違 − 一 念 傍 六 善 友 告 云 、 汝 | 剖 刻 川 相 川 創 者 、 臆 レ 稿 − 一 無 量 害 悌 一 口 如 レ 是 至 心 令 一 一 聾 不 v 、 具 一 一 足 十 念 一 橋 一 一 南 無 量 害 俳 九 稽 日 一 悌 名 一 故 於 一 一 念 念 中 一 除 = 八 十 億 劫 生死之罪一。乃至如二念頃一部得レ往−一生極楽世界九刻嗣討割引 1 劃創伺刻。故稽念亦念。故得三ニ昧六得レ見レ 梯 也 。 善 導 和 向 現 成 三 ニ 昧 六 専 勘 − 一 口 稽 念 悌 一 。 ﹂ 即ち、若し不レ能レ念なれば無量寿仏と称すべしとの文に重点をおき理解されている。善導は三昧成就の人であり、 専ら口称念仏を勧めているが、その口称念仏は三昧成就の方便のものであり、その本意はどこまでも、下々品には 不レ能レ念者と云う前提に於て初めて称念が許されるから、観念為本のものでなればならぬと論じている。かかる立 場は﹃興福寺奏曲以﹄第七誤一一念仏一失に於ても示すところで、次の如く反論している。 ﹁ 愛 専 修 蒙 − 一 如 レ 此 難 一 之 時 、 不 レ 顧 一 一 高 事 一 只 答 一 二 言 九 是 繭 陀 本 願 有 一 一 四 十 八 願 一 。 念 俳 往 生 第 十 八 願 也 。 何 隠 − 一 爾 許 大 願 一 唯 以 二 種 一 競 一 一 本 願 一 哉 。 付 − 一 彼 一 願 一 、 乃 至 十 念 者 翠 − 一 其 最 下 一 也 。 以 一 一 観 念 一 億 レ 本 、 下 及 一 一 口 裕 九 以 一 一 多 念 一 矯 レ 先 、 不 レ 捨 − 一 十 念 九 回 疋 大 悲 至 深 、 悌 力 尤 大 也 。 其 易 レ 導 易 レ 生 者 、 観 念 也 多 念 也 。 依 レ 之 観 経 ︵ 下 々 品 ︶ 云 、 若 人 苦 迫 不 レ 得 − 一 念 悌 六 際 レ 稽 − 一 無 量 害 伸 一 三 。 銃 稽 名 之 外 有 − 一 念 傍 若 一 口 一 、 知 。 其 念 傍 目 疋 心 念 也 観 念 也 。 彼 勝 劣 雨 種 之 中 、 如 来 本 願 寧 置 レ 勝 而 取 レ 劣 哉 。 ﹂ 南都聖道諸師の善導観

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悌教大皐大事院研究紀要第九強 四 と説いている。専修念仏者が四十八願の中、第十八願を念仏往生の願とし、他の四十七願をかくして、たゾ第十八 願のみを取るのは不可解であると反論すると共に乃至十念についての見解を述べている。即ち乃至十念とは、最下 をあげるのであって観念を本となし口称に及ぴ、多念を先どなし十念を捨てないのである。これは大悲の至深を示 すものであり、仏力の大であることを示すものであって、導き易く生じ易いのは観念であり多念であると云い、前述 の観経下々品中の若不能念者の文を引いてこれを証している。称名の外に念仏の言葉があり、その念仏は心念であ り観念である。口称に限るものではない。如来の本願はどうして勝の観念をおいて劣の口称を取るであろうかと反 論するのであるが、乃至十念を口称にのみ限定することを否定している。貞慶の念仏義の立場は観念の外に口称を 認容するが、その基本的立場は観念為本のものであることが理解される。かくして、彼はかかる立場より善導を三 味発得の人と解し、その念仏の行実を説いて次の如く説いている。 ﹁ 善 導 和 尚 畿 心 之 初 、 見 コ 揮 土 圏 一 歎 云 、 唯 此 観 門 定 超 一 一 空 死 六 途 入 − 一 此 道 一 議 − 一 得 三 昧 一 。 定 知 。 彼 師 自 行 一 一 十 六 想 観 一 也 。 念 傍 之 名 、 乗 − 一 観 輿 口 九 若 不 レ 然 者 、 作 − 一 観 経 疏 一 亦 作 − 一 観 念 法 門 一 。 云 − 一 本 経 二 子 一 別 草 一 題 目 何 表 日 一 観 宇 一 哉 。 ﹂ 善導は十六想観を行じた人であり、その念仏は観念と口称を兼ねたものである。もししからざれば観経疏を作り観 念法門を作ることはないではないかと説いている。 きて、貞慶の善導念仏についての把握に対し、法然は如何に理解していたであろうか。 法然は善導の意をうけ、第十八願を以て念仏往生の願とし、本願中の王とせられ、四十七願のすべてが第十八願 に結帰すとの信仰に住せられたことは明らかである。また乃至十念については﹃選揮集﹄第三念仏往生本願篇にお いて、念声是一、乃至下至の論を展開して、問答を設けて次の如く説いている。 ﹁ 間 目 、 経 云 日 一 十 念 六 懇 一 玄 一 一 十 聾 一 。 念 聾 之 義 如 何 。 答 日 、 念 聾 是 一 。 何 以 得 レ 知 。 観 経 下 品 下 生 云 、 令 − 一 撃 不 v

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具 一 一 足 十 念 六 稽 − 一 南 無 阿 禰 陀 悌 九 稽 一 一 悌 名 一 故 於 − 一 念 念 中 一 除 一 入 十 億 劫 生 死 之 罪 一 。 今 依 一 一 此 文 一 聾 是 念 、 念 卸 是 撃 、 其 意 明 失 。 ﹂ 善導の経釈の文意を受け、﹃観経﹄下々品の令一一聾不下紹具一一足十念一穣−一南無阿繭陀悌一の文を以て証明し、念とは即 ち声なりとしているが、貞慶が観念盛岡本を証するに﹃観経﹄下々品の若不レ能レ念者謄レ稽一一無量害悌一の文を以てす るのと対照的である。また乃至については問答を設けて次の如く説いている。 ﹁ 間 目 、 経 云 一 一 乃 至 六 程 一 子 一 下 至 一 。 其 意 如 何 。 答 日 、 乃 至 興 三 下 至 一 其 意 是 一 。 経 一 玄 コ 乃 至 一 者 、 従 レ 多 向 レ 少 之 言 也 。 多 者 上 重 二 形 一 也 。 少 者 下 至 日 一 十 聾 一 聾 等 一 也 。 程 一 玄 一 一 下 至 一 者 、 下 者 封 レ 上 之 言 也 。 下 者 下 至 一 一 十 聾 一 聾 等 一 也 。 上 者 上 童 二 形 一 也 。 ﹂ と説いて乃至と下至とはその意は一にして、経の乃至は多より少に向うの言葉であり、多とは上み一形を尽し、少 とは下も十声一声等に至るのであるとし、釈の下至は、下者は上に対する言葉であり、下は十声一声に至り上は一 形を尽す言葉なりと説いて、経釈の意を明らかならしめ、行体を願じたまえるものとして善導による第十八願念仏 往生願の意を明らかならしめていることが理解される。貞慶が乃至十念の文を以て、その最下を挙げるとし、観念 を本となし、下も口称に及び、多念を以て先となし十念を捨てないと理解せるのと、如何にその意を異にせるかを 知ることが出来る。 き て 、 次 に ﹃ 観 経 ﹄ 附 属 の 文 に ﹁ 汝 好 持 − 一 回 一 比 一 訪 問 一 持 日 一 是 盟 国 六 日 疋 持 エ 無 量 寄 併 名 こ と あ る に 対 し 、 善 導 は ﹃ 散 善 義 ﹄ に 於 て ﹁ 正 明 下 附 − 一 麗 繭 陀 名 競 一 流 中 遁 還 代 よ 。 上 来 雄 レ 読 − 一 定 散 雨 門 之 盆 一 、 望 一 一 悌 本 願 一 意 在 一 一 一 衆 生 一 向 専 稽 − 一 禰 陀 雰 岳 南都聖道諸師の善導観 五

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梯教大事大事院研究紀要第九銭 _.... /\ と解してその独自性を説いているが、これについての貞慶と法然との見解の相異を探ることによって善導念仏思想 受容の特色を見ることにしよう。 先 づ 貞 慶 は ﹃ 興 一 繭 寺 奏 扶 ﹄ 第 七 誤 一 一 念 悌 一 失 に 於 て 次 の 如 く 説 い て い る 。 ﹁ 観 経 附 属 之 文 、 善 導 一 期 之 行 、 唯 在 日 一 悌 名 一 者 誘 − 一 下 機 一 方 便 也 。 彼 師 解 程 、 詞 有 一 一 表 伊 一 一 慈 悲 智 恵 善 巧 非 レ 一 。 守 レ 杭 僕 関 − 一 過 祖 師 一 欺 。 設 亦 雄 レ 付 コ 口 稽 一 、 三 心 能 具 、 四 修 無 レ 閥 、 異 質 念 悌 。 名 億 一 一 専 修 一 。 ﹂ ﹃観経﹄附属の文、善導生涯の行業がただ仏名を称するにあるは、下機の衆生を誘引するための方便にすぎない。 善導の詞には表裏があり、慈悲智恵による善巧方便は一ではないと反論する。しかもたとえ口称に付くとしても、 三心具足のもので四修に於てかくることがないのが真実の念仏であり専修となすことが出来る。しかるに当今の者 のように余行を捨てるを以て専となし、口手を動かすを、以て修とするは不専の専であり、非修の修である。このよ うな虚仮雑毒の行をたのんで、決定往生の思いをなすものがどうして善導の宗と云い、弥陀の正機であると云うこ とが出来ようかと反論している。善導の解釈には詞に表裏があると論ずることは、先にも一言せる如くその基本的 立場が観念為本であるが、下機の者には口称をも認容すると云う態度を取っての表現であると思われる。何れにし ても貞慶に於ける﹃観経﹄附属の持無量寿仏名及び善導一期の口称念仏の行業は、下機誘引の方便のものであると し、善導を以て十六想観を行じ三味発得せる所にその究極を見出しているが如くである。 きて、次に法然はこれをいかに受容しているであろうか。﹃選択集﹄第十二附属仏名篇において、﹃観経﹄附属 流通の文、及び﹃散善義﹄附属文釈の文を引用し、私釈を施し自説を述べている。即ち﹃観経﹄には定善十三観、 散善三福九品の行が説かれているが、釈尊の本意とするところは、弥陀の本願である口称念仏を開示するところに あり、これがまた善導の観経観の帰結であるとする立場である。法然は先づ次の如く説いている。

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﹁ 今 一 言 T 明 丙 附 − 扇 繭 陀 名 銃 一 流 2 於 還 代 甲 者 、 凡 斯 経 中 既 慶 雄 レ 説 日 一 定 散 諸 行 一 、 部 以 − 一 定 散 一 不 レ 令 下 付 コ 麗 阿 難 一 流 中 還 後 世 上 、 唯 以 − 一 念 悌 三 昧 一 行 一 郎 使 下 付 − 一 属 阿 難 一 流 中 遇 制 搭 代 上 也 ♂ と説いて、善導が附属文釈に於て弥陀の名号を附属し、流通するを明かすと云うは、この経の中にはすでに広く定 散の諸行を説いているが、定散を以て附属流通せしめられているのではない、ただ念仏三昧の一行を以て附属流通 せしめるところにありとし、その理由を問答を設けて次の如く説いている。 ﹁ 間 目 、 何 故 以 一 一 定 散 諸 行 一 而 不 一 一 付 属 流 通 一 乎 。 若 夫 依 一 一 業 浅 深 一 嫌 不 一 一 付 属 一 、 三 幅 業 中 有 レ 浅 有 レ 深 。 : : : 若 依 一 一 観 浅 深 一 嫌 不 一 一 付 属 一 十 三 観 中 有 レ 浅 有 レ 深 : : : : ・ 就 レ 中 第 九 観 是 阿 繍 陀 傍 観 也 。 部 回 疋 観 悌 三 昧 也 。 就 レ 中 間 疏 玄 義 分 中 云 、 此 経 一 観 悌 三 昧 篤 レ 宗 亦 念 悌 三 昧 矯 レ 宗 。 鏡 、 以 一 三 行 一 矯 二 経 宗 一 。 何 慶 一 一 観 悌 三 昧 一 、 而 付 一 一 層 念 悌 三 昧 一 之 都 心 即ち定散諸行を付属流通せざる所以を間い、更にその基準を求めて、もし業の浅深によって嫌って付属しないなら ば、三福業の中にも浅があり深があると云い。もし観の浅深によって嫌って付属しないならば、十三観の中にも浅 あり深があると云い、中にも第九観は阿弥陀仏であり観仏三昧である。中についても﹃玄義分﹄にはこの経を観仏 三昧を宗となし、また念仏三昧を宗となすと規定されている。にもかかわらず、何故に観仏三昧を廃して念仏三昧 を付属せらるるやと間いをおこし、次の如く答えている。 ﹁ 答 目 、 云 了 笠 一 一 悌 一 本 願 一 、 意 在 丙 衆 生 一 向 専 稽 る 繭 陀 併 名 申 。 定 散 諸 行 非 二 本 願 一 故 不 レ 付 一 一 層 之 一 。 昧 雄 一 一 殊 勝 行 六 非 一 一 悌 本 願 一 故 不 − 一 付 属 一 。 念 悌 三 昧 是 俳 本 願 、 故 以 付 一 一 層 之 九 ﹂ 亦 於 − 一 其 中 一 観 悌 三 と説いて、定散諸行は非本願の行であるからこれを付属せず、またその中に於ても観仏三昧は殊勝の行であるが非 本願のものであるから付属せず、念仏三昧は仏の本願であるからこれを付属するのであると論じている。法然は善 導の観経観の究極を附属の持無量寿仏名にありとし、衆生をして一向に専ら阿弥陀仏名を称せしめるところに釈尊 南部聖道諸師の善導観 七

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梯教大皐大事院研究紀要第九強 ;¥ の聖意を見るものであるとする立場である。さらに法然は善導が諸行を廃して念仏に帰せしめる所以について論じ、 弥陀の本願たるの上に、また釈尊附属の行であるからであると説いている。しかも更に続けて、諸行は時機を失し ているが、念仏往生は機根に相応し、時を得たものであり、どうしてむなしく捨てるようなことはないと独自の見 解を説いている。善導の観経観の究極を附属持無量寿仏名に見出し、口称念仏こそ本願の行であると同時に附属の 行であるとして把握していることが理解される。貞慶の見解との聞に大いなる相異を見ることが出来る。 要するに貞慶は善導を十六想観を成就し、三昧発得の人と解し、善導の念仏思想においては、下機の口称念仏を 認めてはいるが、観念と口称とを兼ね、観勝称劣の立場より観念為本が善導念仏の根本的立場であるとしている。 この観念為本の念仏の場合、口称念仏は三昧を発得し見仏する方便の行と解されていた如くである。 註 ︵1︶拙著、法然の専修念仏義成立の波紋︵仏教文佑研究 第 二 十 二 号 所 収 ︶ ︵ 2 ︶ 大 日 本 仏 教 全 書 ︵ 興 福 寺 叢 書 第 二 ︶ 、 ︵ 3 ︶ 大 正 蔵 経 七 一 、 五 八 頁 。 ︵ 4 ︶大正蔵経七一、五八頁。 ︵ 5 ︶ 大 日 本 仏 教 全 書 ︵ 興 福 寺 叢 書 第 一 一 ︶ 、 ︵ 6 ︶同上、一

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七 頁 。 一

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六 頁 。 一

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六 頁 。 ︵ 7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ ロ ︶ ︵ 日 ︶ 浄 全 七 、 二 二 頁 。 向 上 、 二 三 頁 。 浄 全 二 、 七 一 頁 。 大 日 本 仏 教 全 書 ︵ 興 福 寺 叢 書 第 一 一 ︶ 、 浄全七、六

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一 貝 。 向 上 。 向 上 、 六 一 頁 。 一

O

七 頁 。

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法然の善導浄土教受容をめぐって、その反論批判の極めて具体的なるものは、法然の入滅直後に執筆された明恵 の﹃擢邪輪﹄および﹃荘厳記﹄二部四巻である。これが選述の動機については種々に考えられることであろうが ﹃選揮集﹄を披見するに及び、内容を検察するの結果、著されたものである。先づ二難を出して、かの書を破すと 述べ、一には、菩提心を援去する過失、二には、聖道門を以て群賊に警ふる過失の二大過失を掲げ、更に反論批判 の結論及ぴ基準立場の大要を記して次の如く説いている。 ﹁ 今 依 一 一 聖 教 一 検 一 一 察 此 集 宗 要 六 対 劃 U 剖 剖 同 九 棺

U

胴 親 剖 間 二 賂 | 刻 引 開 倒 刈 碍 引 劃 罪 よ 。 依 レ 之 愚 借 天 性 雄 レ 倦 − 一 於 執 筆 六 誌 撰 二 章 一 柳 決 日 一 邪 正 九 哀 哉 悲 哉 、 日 月 如 レ 矢 走 奪 三 我 短 命 九 藤 下 救 − 一 頭 燃 一 求 中 解 脱 よ 。 何 違 レ 作 一 一 自 他 偏 執 一 乎 。 是故刻剥剥組矧六百明劃喝事。於一一回創周到創倒者一悉奉−一騎命頂麓九必可レ蒙−一来世引導一ル﹂ 即ち﹃選揮集﹄の所明は仏教の根本法印に違背し、往生浄土の道を迷はす邪道に相順するものであり、帰信の人を して重罪を荷せしめんとするものであると結論ずけると共に、称名行を非とせず、善導の釈に背かず、正念正見の 念仏者には悉ぐ帰命頂礼すると云う自己の立場を示して、法然の善導浄土教観の間違いを指摘すると云う態度で反 論が展開されている。 ﹃擢邪輪﹄はかような反論の結論と特色とを以て、その論難を展開するのであるが、具体的には、﹁一、援−一去菩 提 心 一 過 失 。 一 一 、 以 一 一 聖 道 門 一 警 − 一 群 賊 一 過 失 。 ﹂ の 二 大 過 失 を 掲 げ 、 前 者 を 更 に 五 種 の 大 過 を 立 て て 論 難 し 、 後 者 で は 南都聖道諸師の善導観 九

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悌教大事大事院研究紀要第九強

八項目に分けて反論している。更に翌年追記した﹃荘厳記﹄では摂取不捨、念仏本願、十声十念についての法然の 謬 解 を 出 し て 重 ね て 論 難 し て い る 。 さ て 五 種 大 過 の 中 、 第 一 は ﹁ 以 コ 菩 提 心 一 不 レ 借 地 一 一 往 生 極 楽 行 一 過 ﹂ であって、 ﹃選揮集﹄第三念仏往生本願篇において、弥陀如来は余行を以て往生の本願とせず、ただ念仏を以て本願とするこ とを説いて、菩提心を余行とすることに対する論難である。第ニは﹁言一 揮集﹄第四三輩念悌往生篇において、﹃無量害経﹄下巻の三輩往生の文を釈するに廃助傍の三義を以てし、善導が ﹃ 観 経 疏 ﹄ 散 善 義 附 属 文 釈 に 説 く ﹁ 上 来 雄 レ 説 一 一 定 散 雨 門 之 盆 一 室 − 一 悌 本 願 一 意 在 三 衆 生 一 向 専 稽 一 一 禰 ⋮ 陀 偽 名 こ の 釈 意 に よって、この三輩往生の文には﹁菩提心等の余行を説くといえども、本願に望むるに、意はただ衆生をして専ら弥 陀仏名を称せしむるにあり、しかるに本願の中には更に余行なし﹂といって、阿弥陀仏の本願に菩提心を以て往生 業とする願はないと云うことに対する論難である。第三は﹁以コ菩提心一矯−一一旬上小利一過﹂である。﹃選揮集﹄第五 念仏利益篇において、菩提心等の諸行を小利、乃至一念を大利とし、余行を有上、念仏を無上とし、無上大利の念 仏 を す す め て 、 有 上 小 利 の 余 行 の 廃 捨 を 説 く 文 に 対 す る 論 難 で あ る 。 第 四 は 、 ﹁ 一 五 五 双 観 経 不 レ 説 − 一 菩 提 心 一 井 言 一 日 一 瀬 陀一一叙止往時無コ菩提心一過﹂である。﹃選揮集﹄第六末法万年特留念仏篇に末法万年の後に余行は悉く滅し、ひと り 念 仏 の み 留 ま る と い う 説 に 対 す る 批 判 で あ る 。 第 五 は ﹁ 一 一 −

E

菩 提 心 抑 一 一 念 俳 一 過 ﹂ で あ る 。 ﹃ 選 揮 集 ﹄ 第 十 二 付 属 仏 名篇にて、釈尊は定散諸行を付属せず、ただ念仏を以て阿難に付属したまうことを説く文の中で、持戒、菩提心、 解第一義、読語大乗等の四箇の行が念仏を抑えるということに対する反論である。第五過の余は﹃選揮集﹄第七 光明唯摂コ念仏行者一篇に弥陀の光明は余行の者を照らさずただ念仏の行者のみ摂取したまうの文に対する反論であ る 。 ま た 二 大 過 の 中 の 後 の ﹁ 二 、 以 一 一 国 語 道 門 一 躍 す ご 一 群 賊 一 過 失 ﹂ は 、 ﹃ 選 揮 集 ﹄ 第 八 三 心 篇 の 善 導 の ニ 河 白 道 の 警 愉 を 説くところにおいて、善導の疏文に﹁一百三或行一分二分群賊等喚回一者、卸聡下別解別行悪見人等、妄読−一見解一迭相

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惑乱、及自造レ罪退失亡とあるを、法然ば釈して﹁比中言こ切別解別行、異皐異見等一者、是指一一望選門解行事見一 也﹂といって、要道門を以て群賊に擬したことに対する反論である。以上のように﹁選揮集﹄の各編の所見に対し て反論を展開するが、その中心主点は、法然の菩提心諸行廃除による選揮本願念仏一向専修の主張に対する反論で あり、その所論は大乗仏教の根本的理念に立っと共に、善導の経釈における内容理解による立場からの基礎的反論 であり、かかる点、貞慶とは趣を異にせるものである。従来、考察されているところであるが、明恵の論難を通 じて両者の善導念仏観の相異点を見ることにしよう。 さて、明恵は法然の﹃選揮集﹄における菩提心援去の所説に対し、いかに論難しているであろうか。先づ明恵は、 菩提心とは自性空を義とするもので、空法は差別あることはないと説き、故に龍樹は﹃菩提心離相論﹄を造って、 菩提心とは一切を遠離せる性であり、法無我の理と相応する心である。大乗の菩提心はニ空の理を以て体性として いるから、諸教の菩提心はその体性に差別はない。しかしながら、菩提心の体性は一であるが、初後の位に随って 浅深の不同があるとして、表公の四発心の説を出して次の如く説いている。 ﹁ 一 、 縁 護 心 、 謂 仰 コ 縁 菩 提 一 市 議 心 求 名 目 一 縁 義 心 九 未 入 位 前 也 。 一 一 、 解 義 心 、 謂 解 二 切 法 悉 是 菩 提 一 名 − 一 解 議 、 少 。 十 信 十 解 位 也 。 三 、 行 設 心 、 謂 一 切 行 皆 合 一 一 菩 提 一 名 一 一 行 護 心 一 。 十 行 十 回 向 位 也 。 四 、 韓 議 心 、 亦 名 一 一 詮 議 心 一 。 謂 詮 こ 切 性 一 、 郎 是 主 口 提 自 鰻 頬 義 名 矯 コ 脇 田 愛 心 一 也 。 初 地 己 上 至 − 一 金 剛 心 一 是 也 。 今 依 − 一 善 導 意 一 於 − 一 静 土 家 一 可 レ 取 − 一 縁 議 、

υ

。 ﹂ 即ち位の不同によって菩提心に浅深の差がある。四種の菩提心の中において九品皆凡夫の説をとる善導の菩提心は 南都聖道諸師の善導観

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梯教大事大事院研究紀要第九競 縁発心をとるものであるとしている。かくの如く菩提心には位の不同によりて浅深の差はあるが、体性は一であり、 従って諸教の菩提心は分位の不同は評するが、心体には差別なしと主張し、聖道浄土の二門においても同様である と説いている。以上の如き大乗仏教の基本原理よりする菩提心の理解に立って法然を論難して次の如く説いてい る 。 ﹁ 汝 機 一 一 菩 提 心 一 邪 見 者 、 三 賓 四 諦 皆 援 レ 之 也 。 何 者 謂 菩 提 心 者 、 自 性 空 矯 レ 性 。 如 日 一 前 菩 提 心 決 成 v 。 然 汝 相 一 一 連 菩 提 心 一 立 一 一 別 念 悌 心 一 。 印 是 可 レ 矯 一 一 性 有 心 一 。 然 三 賓 四 諦 皆 畢 寛 真 空 矯 レ 性 故 。 汝 雄 レ 不 − 一 作 意 一 不 思 見 市 援 − 一 去 之 一 也 。 若 云 一 一 性 有 一 者 印 岡 下 敷 論 外 道 計 中 有 性 興 一 一 諸 法 二 九 若 爾 者 繭 陀 有 性 輿 一 一 凡 夫 有 性 二 者 、 郎 無 − 一 凡 聖 不 同 一 。 湾 土 有 性 奥 日 一 議 土 有 性 二 者 、 又 無 一 一 湾 穣 差 別 一 。 有 一 一 此 大 過 一 。 ﹂ 菩提心は自性空を性とする、法然が菩提心に相違して別の念仏心を立てるのは性有の心である。数論外道の有性と 諸法と一なりとする説と同じであると批判しているのである。又菩提心は空義に順じて生じ、我見煩悩を遠離する にある。法然が菩提心を援して別の念仏心を立てるのは、法無我平等の心を捨て、諸法無我印に違するもので、外 道神我の見に問、ずるものであり、生死を出、ずることは不可能であると論難している。以上は大乗仏教の基本原理よ りの明恵の論難であるが、次には更に浄土門自体に立つての論難について述べよう。 法然は﹃選揮集﹄第四、三輩念仏往生篇に於て、本願中には余行︵菩提心等︶なしと説いているが、明恵は弥陀 本願中に菩提心なしとするは理に合はないとして次の如く説いている。 ﹁ 若 一 五 三 調 陀 利 生 本 願 中 無 一 一 菩 提 心 一 者 、 自 因 位 亦 不 レ 可 レ 有 一 一 菩 提 心 九 汝 盛 成 一 一 立 此 義 一 也 。 是 以 汝 集 奥 文 云 、 此 経 雄 レ 有 − 一 菩 提 心 之 言 一 未 レ 設 一 一 菩 提 心 之 行 相 一 文 。 汝 指 一 一 隻 観 経 一 作 一 一 此 読 九 然 此 経 中 設 一 一 四 十 八 願 一 、 以 一 一 菩 提 心 一 名 レ 願 者、自他宗盛談酢︶

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若し弥陪の本願中に菩提心がなかったならば、弥陪自らの因位においても菩提心がないことになると批判し、この 経の中に四十八願が説かれているが、菩提心を以て願と名ゃつくるのであり、これは自他宗の盛談であると論難して いる。また次の如くにも説いている。 ﹁ 諸 楽 一 一 往 生 部 土 一 人 、 皆 以 一 一 菩 提 心 一 可 レ 矯 ニ 正 因 一 也 。 是 以 四 十 八 願 中 庭 々 又 有 一 一 議 菩 提 心 之 言 一 。 中 云 、 至 心 信 築 欲 生 我 圏 一 子 。 明 知 、 内 心 是 正 因 也 。 往 生 之 業 非 三 唯 限 一 一 口 稽 一 也 。 ﹂ 四十八願中の慮々に発菩提心の言ありとし、第十八願文の中、至心信楽欲生我圏の内心が正図であって、往生の業 はただ口称にのみに限定すべきではないと批判している。 また、更に次の如く反論している。 ﹁ 解 目 、 此 中 既 以 = 至 心 議 願 一 剣 矯 一 一 大 菩 提 心 行 人 一 。 明 知 。 至 心 信 築 之 言 専 以 一 一 大 菩 提 心 一 可 レ 矯 レ 先 。 伴 史 観 経 三 輩 皆 以 − 一 菩 提 心 一 震 一 一 往 生 正 因 一 事 解 懇 又 顕 然 也 。 若 一 階 者 云 レ ヂ 一 本 願 一 立 − 一 徐 行 名 一 甚 以 不 可 也

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﹀ 汝所引第十八願 至心信楽の言は大菩提心を以て先となすのであって、三輩共に菩提心を以て往生の正因となすのである。若し菩提 心を以て本願にあらずとして余行の名を立てるのは不可であると説いている。菩提心正因論を述ぶると共に、本願 中に菩提心の容在せることを主張している。法然といかに対遮的であるかが理解される。 更にまた法然が念仏と諸行についての廃助傍の三義を明かす中に、称名を所助正行とし、菩提心を能助助行とす るに対して、これを論難して次の如くにも説いている。 ご 代 聖 一 説 梯 道 妙 因 都 離 一 一 菩 提 心 一 無 日 食 事 二 然 以 一 一 菩 提 心 一 震 一 一 能 助 一 策 − 一 助 行 一 事 、 不 レ 知 一 一 能 所 一 不 レ 分 一 一 傍 正 一 何 其 迷 乎 。 但 此 中 所 破 者 汝 依 下 以 一 一 菩 提 心 一 不 レ 矯 中 往 生 正 図 上 一 子 一 能 助 一 云 一 一 助 行 一 。 其 意 許 皆 以 一 一 菩 提 心 一 矯 一 一 傍 義 一 也 。 一 今 破 レ 之 以 − 一 菩 提 心 一 成 下 矯 一 一 諸 行 本 一 義 上 也 。 ﹂ 南都聖道諸師の善導観

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悌教大事大事院研究紀要第九挽 四 と説いて、どこまでも菩提心を以て諸行の本となし、往庄の正困、正行所助の説を展開し、法然は菩提を愛楽せざ るのみならず反って菩提を妨磯せるものである。ただ自らこれを妨擬するのみならず弥陀如来をして菩提心を妨磯 せしむ。往空門において大賊である口又廃助傍の三義の中、初義を以て善導義とするのは善導を駿誘する罪人であ ると論難している。更にまた第二過の末尾に於て次の如くに批判している。 ﹁ 汝 亦 如 レ 是 性 非 − 一 質 直 一 非 − 一 質 直 類 九 唯 雄 レ 有 レ ヵ ー 一 能 立 一 一 穂 名 行 一 、 而 復 安 コ 住 自 見 取 中 一 於 − 一 観 経 汗 善 導 解 程 一 無 レ カ コ 能 如 レ 賓 解 了 一 。 於 一 一 念 悌 行 一 雄 レ 生 一 一 信 解 一 而 於 一 一 汝 好 持 是 語 等 経 文 、 上 来 雄 説 等 疏 程 一 、 随 − 一 其 言 一 執 着 迷 − 一 菩 提 心 義 一 、 取 コ 稽 名 一 矯 − 一 正 行 九 以 − 一 菩 提 心 一 名 − 一 徐 行 一 。 由 − 一 是 因 縁 一 獲 下 得 以 − 一 菩 提 心 一 不 レ 矯 コ 往 生 正 業 一 大 邪 見 ム 。 由 一 一 此 邪 見 一 皆 誹 一 一 援 凶 器 道 路 叩 土 二 円 九 : : : ・ : 汝 観 コ 観 経 井 善 導 程 一 不 レ 能 = 一 如 レ 質 解 コ 所 設 義 一 起 − 一 如 レ 是 見 一 。 唯 稽 名 一 行 是 矯 − 一 往 生 正 因 九 若 如 レ 是 矯 一 一 善 導 宗 義 一 於 一 一 種 ⋮ 名 所 依 菩 提 心 一 機 一 億 レ 非 − 一 往 生 正 因 九 然 離 − 一 菩 提 心 一 念 梯 業 不 − 一 成 立 一 。 是 故 汝 回 一 一 道 密 閉 土 二 門 倶 誘 都 無 一 一 所 有 一 。 蛍 レ 知 汝 名 目 一 最 極 無 者 一 。 ﹂ 法然は﹃観経﹄付属の文や善導の﹃散善義﹄の付属文釈により念仏行に於て信解を得ているが、その言に執着し、 その結果菩提心の義に迷い、菩提心を以て往庄の正業となさざる大邪見を得、この邪見によって聖道浄土の二門を 誹援している。また称名の所依である菩提心を援去して往去の正因にあらずとしているが菩提心を離れては念仏業 は成立しない。かかる法然の見解は聖道浄土をともに誘ずるもので最極無者であると論難している。かくして法然 の菩提心援去の所論は善導をして道心なき者とし、議口道一寸の宗源をけがすものであると非難している。 以上法然の菩提心廃除論に対する明恵の大乗仏教の基本原理に立つての論難と浄土門自体に立つての論難につい て述べて来たが、次に善導の念仏思想に対する両者の見解について述ぶることにしよう。

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次に先にも一言せる如く菩提心正因を主張する明恵に於ては、法然の善導念仏思想の受容に対し、いかなる論難 を し て い る で あ ろ う か 。 先 づ 第 一 、 ﹁ 以 一 一 菩 提 心 一 不 レ 震 − 一 往 生 極 集 之 行 一 過 ﹂ の 条 下 に お い て 、 善 導 の ﹃ 散 善 義 ﹄ 就 行 立信釈の正助二業論に言及し、法然が善導の意に従い正雑二行の中、正行につき前三後一を以て助業となし、称名 正行を以て本願による正定業として往生の正因としているに対し、次の如く説いている。 ﹁ 善 導 作 − 一 正 助 二 業 一 者 、 以 一 一 能 起 菩 提 心 一 置 而 不 レ 論 レ 之 。 就 一 一 所 起 諸 行 一 分 三 別 之 一 也 。 如 下 彼 間 一 一 裁 打 聾 一 間 胸 中 功 於 万 杖 よ 。 傍 法 諸 行 皆 謄 レ 譲 一 一 功 於 菩 提 心 二 以 一 一 菩 提 心 是 体 稽 名 等 是 業 一 故 。 是 故 若 就 下 菩 提 心 輿 一 一 稿 ⋮ 名 三 行 よ 論 レ 之 時 、 以 一 一 菩 提 心 一 矯 − 一 正 業 一 事 、 可 一 一 理 在 絶 一 一 一 目 ご 善導が正助二業を論ずるのは、能起の菩提心が所依にあって、ただ所起の諸行についてこれを分別しているにすぎ ない。菩提心が体であり称名等は業である。もし菩提心と称名について正助を論ずるならば、菩提心が正業である ことは理の当然であると反論している。この故に﹃観経疏﹄第一巻の初めに﹁道俗時衆等各発無上心﹂と云い、ま た﹁願以此功徳平等抱一切同発菩提心往生安楽国﹂と云っている。また第四巻の終りには、﹁以比功徳廻施衆生悉 発菩提心慈心相向仏眼相看﹂と云っている、と説いて善導に於ては菩提心が正行であり、所助であり、称名は助行 であり能助であると云っている。更に法然が菩提心等の諸行が称名の助業であると云うに対して、善導の著作に於 て菩提心を助業と規定した所はないとして次の如く説いている。 ﹁ 醤 レ 知 菩 提 心 是 密 閉 土 正 因 故 線 標 虞 唯 出 − 一 正 因 一 也 。 若 不 レ 爾 者 善 導 何 慮 轄 下 以 − 一 菩 提 心 一 矯 中 助 業 上 耶 。 若 篤 − 一 助 業 一 者 、 綿 標 慮 出 − 一 正 因 一 時 何 翠 − 一 菩 提 心 一 不 レ 出 ︼ 一 稽 名 一 耶 。 ﹂ 南都聖道諸師の善導観 一 五

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悌教大事大事院研究紀要第九挽 一 六 と 反 論 し 更 に 、 又 第 一 一 、 ﹁ 破

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一 口 三 禰 陀 本 願 中 無 一 一 菩 提 心 一 過 亡 の 条 下 に 於 て も 次 の 如 く 説 い て い る 。 ﹁ 次 以 一 一 稀 名 一 億 一 一 正 行 一 矯 一 一 所 助 六 以 − 一 菩 提 心 一 億 一 一 助 行 一 矯 − 一 能 助 一 更 無 − 一 其 謂 九 若 好 作 − 一 正 助 能 所 一 者 、 可 下 翻 − 一 汝 言 一 日 よ 。 謂菩提心者是正行也所助也。稽名者是助行也能助也。謂往生之業以コ菩提心一矯レ本故、矯一向熟︼一菩提心一捨レ家棄 レ 欲 市 作 − 一 沙 門 一 専 稽 一 一 悌 名 一 也 。 謂 菩 提 心 者 是 諸 善 之 根 本 高 行 寧 首 也 。 と説いて菩提心を正行所助であり、称名を以て助行能助としている。故に善導の﹃散善義﹄就行立信釈下所明の称 名念仏はどこまでも菩提心を体とし能起の心とする所起の行業である立場より正助二業論を理解している。法然の 正助二業論は先にも一言せる如く五種正行中における正助二業論にして、正助の関係は心行の関係ではなく助業は 称名正行そのものにかかわるのでなくそれを行ずる者にかかわるもので称名念仏の一行に徹せしめる役割をもつも のである。かかる点において明恵とはその論ずるところを異にせるものと云うべきである。 さて、明恵は善導の念仏義を理解するにあたり、先づ念仏について次の如く説いている。 ﹁ 凡 言 レ 念 者 明 記 不 忘 之 稿 、 既 在 レ 心 也 。 是 故 言 − 一 念 悌 一 者 正 指 − 一 心 念 一 之 言 也 。 ’ 固 定 故 観 経 九 品 往 生 皆 名 レ 観 、 稽 名 亦 ︵ 臼 ﹀ 栄 一 一 心 念 一 故 也 。 ﹂ 即ち明恵の念仏は正しくは心念を指すものであるが、また称名も心念を兼ねるものと主張している。称名に心念を 兼ねるに就て法位の﹃観経﹄下々品の釈、﹃十住昆裟沙論﹄の易行品等の説を以て引証しているが、更にまた善導の ﹃観念法門﹄の念仏三昧法及び入道場念仏三昧法を明かす文によってこれを証し、﹁善導意称名下必兼−一心念一也﹂ と説いて口称の下に心念を兼ねることを説いている。しかもかかる見解のもとに称名が宗で三昧が趣であるとし、 称名は真念を得しむるためのものであるとしている。かくしてかかる立場に立って﹃礼讃﹄の一行三昧を明かす文

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について理解している。 ﹁ 卸 言 下 識 陽 神 飛 観 難 日 一 成 就 一 令 レ 専 申 稽 名 字 よ 、 此 矯 レ 令 レ 成 一 一 就 念 心 一 也 。 所 引 文 殊 般 若 文 云 、 印 於 − 一 念 中 一 得 レ 見 − 一 彼 阿 禰 陀 悌 及 一 切 悌 一 等 者 、 由 一 一 穂 名 一 必 念 心 成 就 、 於 一 一 此 念 中 一 得 一 一 見 悌 一 也 。 ﹂ 即ち称名により念心を成ぜしめ、この念中に見仏を期するのである。称名は観念成就のための方便とすると云うの が明恵の見解である。かくて一行三昧を明す文に﹁不レ観一一相貌一、ニ専稽一一名字ことあるのは如何なる意なりやと聞 い、これに答えて、三十二相を観ぜずと雄も、称名の位に念心が白から堅住するから上の文に﹁捨コ諸説意一係一一心 一悌こと言うのであるど説いている。そして善導の上に於ては称名に限らないのであって、宗趣分別せば、称名 を以て宗とし三昧を以て趣となすとし、三昧に浅深があり、聞思相応は浅、修慧相応は深とし、間思相応は称名の 位にあり、修慧相応は定心である。しかも念仏三昧の名は二位に通ずるが正しくは修慧相応の定心を以て本とすと 説いている。以上明恵に於ける善導の口称念仏は間思相応のものであり三昧発得成就のための方便行と云うことが 出来る。即ち善導の口称念仏には心念を具する故に観念三昧定に趣くものであると説いている。 きて、法然は﹃選揮集﹄第三念仏往生本願篇に於て、本願称名念仏と諸行との難易を比較する条下で﹃礼讃﹄の 一行三昧釈における問答の文を引用し、観念仏を諸行中におさめ、口称念仏は易なるが故に一切に通じ、諸行は難 なるが故に諸機に通ぜすとして本願称名念仏の普遍超勝性を強調している。同じ一行三昧釈の文によりながらもそ の趣意を異にしていることが理解せられる。

第五、﹁言三菩提心抑−一念悌一過﹂の条下においては、善導の念仏定散観についての解明に霊点をおいての反論であ 南都聖道諸師の善導観

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梯教大事大事院研究紀要第九競 J¥ るが、初めには念仏定散義について述べ、更に付属文釈における一向専称弥陀仏名の文について説き、終りに観経 宗旨論について説かんとしていることが注目される。まず﹁先須レ弁−一定念悌定散義ことの見出しを掲げ、善導の 念仏は定善とみらるべきであるか、散善とみるべきであるかとの間いを設け次の如く説いている。 ﹁ 問 日 、 依 − 一 善 導 意 一 今 所 レ 言 念 併 者 、 震 コ 固 定 定 善 一 亦 矯 − 一 散 善 一 耶 。 ・ : : : : 答 。 立 − 一 念 悌 三 昧 名 一 者 、 是 名 − 一 於 定 善 一 也 。 然 稽 名 者 是 念 悌 三 昧 加 行 。 雄 三 穏 名 位 田 疋 矯 − 一 散 善 六 ⋮ 従 − 一 根 本 一 立 レ 名 云 − 一 念 悌 三 昧 一 也 。 是 故 従 − 一 其 根 本 一 言 レ 之 撮 − 一 定 善 一 也 。 ﹂ 即ち称名は念仏三昧の加行であり、定散ニ善に対すれば散善位であるが根本にしたがえて定善に摂し念仏三昧と云 う と 説 い て い る 。 更 に か か る 立 場 か ら 論 及 し ﹁ 依 三 善 導 御 意 一 以 コ 稀 名 一 名 − 一 念 悌 三 昧 一 者 源 依 − 一 定 善 一 也 ﹂ ど 述 べ 、 こ の 義を証するものとして﹃礼讃﹄の文殊般若経による一行三昧論の定心加行の称名の文等を指摘することにより善 導の念仏は定心三味を得るためのものであり修禅の軌別であるとしている。かくして善導の口称念仏は心念を堅住 せしめるところにあるから定善観法の前方便であり、しかも口称と心念と和合すれば往生浄土の行は決定し決定往 生の業となると主張している。故に明恵に於ては善導の称名は念仏三昧定心発得の修定の総方便行であり、称名の 位は散善にあるが念仏三昧の前加行方便である以上は定善に摂すると結論している。かかる見解を以て法然の附属 文釈による定散二善は非本願の行の故にこれを廃捨し、一向専称の念仏三昧のみ本願の行としてこれを立て、附属 の行とする説に反論するのである。その見解の相違の程を知ることが出来る。 さて、更に﹁次正料−一簡観経疏文一成下穏名下有−一菩提心一義とと題し﹃散善義﹄付属文釈の一向専称弥陀仏名の文 の意義の検討に移っている。始め一向専称について次の如く説いている。 ﹁ 言 こ 向 一 遁 コ 一 二 業 九 郎 如 コ 疏 一 五 六 種 種 目 一 誠 陀 一 穣 稽 − 一 誠 陀 一 観 観 − 一 瀬 陀 一 等 此 中 取 − 一 穂 名 一 故 除 − 一 身 業 一 。 於 − 一 垣 間 意 一 可 レ

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有 三 向 義 九 : : : : : : 先 就 三 ニ 業 一 向 義 一 、 設 雄 レ 有 一 一 身 語 一 向 行 一 若 無 一 一 意 一 向 義 一 者 、 不 レ 得 一 一 往 生 九 設 雄 三 身 語 不 − 一 一 向 一 若 有 − 一 意 一 向 義 一 者 必 可 レ 得 − 一 往 生 一 。 比 中 取 − 一 語 意 一 向 義 一 也 。 ﹂ 即ち一向と云うは身口意の三業にわたるとしている。三業にわたる一向の中、身口一向の行があっても意一向の義 がなければ往生は不可能である。たとい身語一向ならずとも意一向の義があれば往生は可能であるとしている。か く一向は三業に通ずるが今は語意一向を取るとし、語一向は称名念仏であり意一向は菩提心のことで一向称名の語 一向より意一向の菩提心が根本であると説いている。更にまた明恵は善導念仏義に於ては、浄土の諸行中に於て体 声為声の二向があるとし、﹁同発菩提心﹂とは体声であり、﹁往生安楽国﹂とは為声である。この発菩提心の体声中 に一向専念の業声を摂するのであり、また一向専念の業声を出して発菩提心の体声と往生安楽園の為声とを摂する のが今の一向専称の意であるとする。故に附属文釈の一向専称には菩提心が摂せられているとの見解を立てている。 更 に ﹁ 就 − 一 此 文 一 剣 一 一 宗 趣 一 者 ﹂ と し て 二 重 あ る こ と を 説 い て い る 。 即 ち 一 は 語 意 相 対 で 、 称 仏 名 を 宗 と し 心 念 成 就 を趣とする。二は因果相対で、心念成就を宗とし、往生浄土を趣とすると云い、若ししからずば持無量寿仏名の経 文、専称弥陀仏名の疏釈はただ口舌を動かすだけであって帰趣する所なしと説き、善導は﹃礼讃﹄等の文において ﹁ 具 − 一 比 三 心 一 必 得 レ 生 也 ﹂ と 説 い て 三 心 具 足 の こ と を 述 べ て い る が 、 ト 三 心 具 足 を 言 え ば 必 ず 菩 提 心 を 本 と す べ き で 、 文に単に仏名といい心念を取らないのであるならば三心具足の文に違するとし、かかる観点より一向専称には心念 である菩提心の義をふくむことを説いている。 更にまた、本願の文の上よりこれを論じ、善導の釈により第十八願中、何故に称名を以て先とするかと間い、第 十八願文の三心︵菩提心︶と称名の関係の上より論じている。即ち至心信楽と云うはこれ真心相応の称名であると 云い、本願の称名は真心相応であり、真心︵三心︶は菩提心に通じ、称名は真心とはなれないものであることを説 南都聖道諸師の善導観 九

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悌教大事大皐院研究紀要第九競

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いている。要するに付属釈の一向専称には語一向と意一向の義があるのであって、称名には菩提心を具していると 主張するのである。法然が一向専称を三輩文中の一向専念を指すものとし、本願称名の一向専修と理解せることと いかに相違するかを知ることが出来る。 さて、次に観経宗旨論についてである。﹃玄義分﹄には﹃観経﹄の宗旨を判じて﹁今此観経郎以コ観悌三昧一億レ宗、 亦以一一念悌三昧一億レ宗﹂と説示している。法然と明恵の聞には見解の相違が見られる。法然においては、先にも一 言せる如く﹃散善義﹄附属文釈により観仏三昧を定善に摂し非本願の行としてこれを廃し、念仏三昧は一向専称の 本願念仏と解してこれを立てている。これに対し明恵に於ては、観仏三昧と念仏三昧とは別体ではなく同体である となし、同体を証するに三文を挙げているが、その初には次の如く説いている。 ﹁ 今 引 一 一 経 疏 文 一 章 一 可 レ 成 = 彼 義 一 。 謂 観 経 読 一 一 第 八 像 観 一 終 云 、 作 一 一 固 定 観 一 者 除 コ 無 量 億 劫 生 死 之 罪 一 。 於 日 一 現 身 中 一 得 − 一 念 悌 三 昧 一 。 疏 第 三 程 云 、 従 一 一 作 是 観 経 一 下 至 − 一 得 念 悌 三 昧 一 巳 来 正 明 三 魁 念 修 観 現 蒙 − 一 利 盆 一 一 子 、 解 日 、 魁 念 修 観 者 是 観 悌 義 、 現 蒙 利 盆 者 指 − 一 経 得 念 悌 三 昧 文 一 也 。 下 結 句 念 言 郎 指 − 一 観 世 誠 一 言 コ 念 悌 一 也 。 患 で 観仏三味と念仏三昧とは同体であることを証している。しかして加行差別の上より観仏三昧と念仏三昧の関係を見 れば、口称を含む念仏が観仏よりその意義を寛くし、寛狭の差があると説き、観仏と念仏の勝劣についても観仏を 以て念仏とせば二名ともに勝劣なしと説き、観も念も一心上の作用の故に別体なく勝劣なしと説いている。かくし てかかる観点より﹃玄義分﹄の宗旨文に及び二種三昧は別体ありとは云はない、どうして二種ありと云はずして、 ただ亦の字を置くやと聞い、亦の字は観仏三味と念仏三昧の聞においてあるのは、両者が別体であることを示す意 ではなく、同体であることを示すものであり、亦の字に驚くなかれと指摘している。また法然が﹃選揮集﹄で観仏 を願う者は弥陀の本願にそむき、釈尊の附属に違すると云うのは不可であるとし、附属文釈の一向専称と云うのは、

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ただ口称に限って心念を取らざるかと反問し、若し心念を取ると云うならば念仏と観念とは遂には相違は容しない と説いている。かくして明恵に於ては二種三昧を同一視することにより、心念を離れぬ称名念仏を修定の方便とし、 念仏三昧、観仏三昧により観念成就を期するのが観経の本旨であると論じている。法然が先にも指摘せる如く付属 文釈により観仏三昧を定善諸行に摂し、念仏三昧を口称念仏と解し本願称名念仏一向専修を主張せる所に観経の眼 目があると主張せるものと如何にその趣きを異にせるかを知ることが出来る。 以上、法然の菩提心援去に関し、明恵の大乗仏教の根本的立場からと浄土問自体からの論難について述べ、更に法 然が善導の﹃散善義﹄就行立信釈の文によって本願念仏一向専修による往生浄土説を確立せるに対し、明恵に於て は、善導の口称念仏は能起の心︵菩提心︶を所依とする所起の行についての論であり、就行立信釈の正助二業論も かかる立場より論ずるものであることを述べ、更に善導の念仏義について特に口称念仏について、称名は宗であり三 味は趣であるとなし、口称には下に心念を兼ねるから、三味成就の方便と解し、また口称は念心を堅住せしめる所 にあるから定善観法の前方便であり、定心三昧発得のための修定の総方便であると規定している。また称名は位に つけば散善であるが念仏三昧の前加行で方便である以上は定善に摂すべきであると主張する。また﹃散善義﹄の付 属文釈の一向専称の称名念仏について、明恵に於ては三昧発得の方便であり、しかも一向専称とは単なる口称念仏 ではなく、意一向と語一向の義があり、語一向の口称に意一向の菩提心が摂せられていると解されている。更にま た観経の宗旨論については、念仏三昧と観仏三昧とを同体と見て観念成就定心三味に至らしめんとする所にその本 旨があるとするのが善導の意であるとしている。明恵の善導観の一端を知ることが出来る。 註 ︵ 1 ﹀ 浄 全 八 、 六 七 六 頁 。 ︵ 2 ︶ 普賢晃寿著﹁日本浄土教思想史研究﹂所収。 南都聖道諸師の善導観

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梯数大事大串院研究紀要第九挽 ︵ 3 ﹀ ︿ 4 ︶ ︵ 5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶ ︿ 8 ︶ ︵ 9 ︶ ︵ 叩 ﹀ 浄 全 八 、 向 上 、 同 上 、 向 上 、 同 上 、 向 上 、 同 上 、 向 上 、 六 七 九 頁 。 六 九 九 頁 。 六 八 六 頁 。 六 八 七 頁 。 六 九 四 頁 。 六 九 五 頁 。 七

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三 頁 。 六 八 八 頁 。 ︵ 日 ︶ ︵ 臼 ︶ ︵ 臼 ︶ ︵M ︶ ︵ 店 ︶ ︵ 日 ﹀ ︵ 臼 ︶ ︵ 時 ︶ 同 上 、 向 上 、 向 上 、 向 上 、 浄 全 七 、 浄 全 八 、 向 上 、 向 上 、 六 八 八 頁 。 六 九 四 頁 。 六 八 八 頁 。 六 九 一 頁 。 一 八 頁 。 七 二 二 頁 。 七 二 九 頁 。 七 三 四 頁 。

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