宿
曜
経
の
研
究
ii
東西文化交流上の一資料として
ii
善
波
周
日
次
まえがき 宿耀経の党本は杏在しない 四 十二宮は西方の智識である 二十七宿と二十八宿について インドの牛宿とその有無の問題 五 ノ\ 磨喝宮はインド所産である 七 歳一苅と暦法どの関係 }\ 七曜停来の径路 ま え カ三 き 宿躍経、正しくは﹃文殊一的利菩薩及諸仙所一説吉凶時日善悪宿躍経﹄上下二巻︵ム古伊 γ監
l ︶は、三蔵沙門不空が 宿曜経の研究詔を奉じて謹押し、その弟子の楊景風が修注したと表記されている。そして楊景風の序文によれば、乾元二年に不空 三戴がこの本を翻出し、端州の司馬史培が執持纂集したが、文義煩猿で皐ぷ者が用い難いので、楊景風が親しく三 蔵の指揮を承って更に修注をなし、門人が各と一本を持したとあり、時に﹁大唐賢徳之二年也﹂と記しているから、 まさに西紀七六四年に嘗るわけである。 ところで八世紀はじめ頃の嘗時のシナの情勢を概観するに、唐の玄宗皇帝はかねがね悌教に深く傾倒し、 とくに 密教関係の名借智識をインドから招いて諸経を翻誇させ、 ために密教は最盛期を現出した。すなわち、 まずシナ密 教の始組どいわれる金剛智三蔵︵︿丘
5
ぎ岳山︶は、西紀七二O
年に玄宗に招かれインドから長安の大慈恩寺に入り、 課経ど密教の宣揚に大きな役割をなした。中園人である有名な一行理師はこの金剛智三蔵に濯項を受け、 みずから も数多くの密教関係の著作をなしたが、 とくにかれが入寂した七二七年に完成した大沼暦五十二巻は暦法上にも貴 重な著述であり、嘗時のシナの皐術的優秀さを示すものであった。宿曜経の誇者とされている不空 ︵ ﹀ 目 。 m F ω ︿ mニ
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・不空金剛︶は、買にこうした文化絢燭たる唐時代にシナで活躍した皐借であるが、 かれは北インドまたは南インド の出身ともいわれ、年少にしてさきの金剛智三蔵の門に入り、師に伴われて入唐したが、再び南インドに赴き滞留 十鈴年、経をたずさえて再び婦来し、唐の玄宗、粛宗、代宗三代の帝師どして大いに密教の宣揚につとめ、七O
才 で入寂している。 さて、こうした時代を概観してまず一気のつくこどは、東西の交通が首時かなり頻繁に行われ、 しかも文化の交流 がその智識の幅と深さに強力な根強さを与えていたということである。このことは中国人である一行禅師が、車な る欝経だけではなく、 みずからの手によって嘗時の天文暦法に関する幾多の著述を行っていることによっても充分知りうるのである。宿躍経はそうした一行の泊以後三、四十年後の作であるから、 それだけに宿躍経の内容は、 そ れ 以前の智識を全面的に裏づけうる擢威をもつものであったはずであり、 しかも現在においてもなお宿躍経が密教関 係の一大権威書と認められていることからも、このことは充分想像しうるところである。そうした黙からしても、 その後宿曜経についてのいくつかの註懇書や研究なども出ているが、 しかしそれらはあくまで密教的立場からのも のであり、これを皐術的に取りあげたものは殆んど見嘗らない。もちろん宿曜経は、 その表題の示すように、 あ く まで吉凶時日の善悪を説いた占星を主眼とするものではあるが、 しかしこれを皐間的に見るときは、 その中に出て くる天文暦法はあくまで嘗時の最高科皐であり、 その内容が具躍的なものであるだけに、 その襲遷の跡は明確であ る 。 す な わ ち 、 そうした天文麿法の中にはインドのものだけでなく、ギリシアやシナ、あるいは西域地方のものま しかもそれらは宿擢経という一つのるつぼにおいて美事に集大成されており、本稿があ で混然と入り交っている。 えて宿躍経上下二容を東西文化交流史上の一資料として取りあげたゆえんもここにあるのである。
宿耀経の楚本は寄在しない
さて問題は、まず表題の寸三蔵沙門不空奉 詔誇﹂から始まる。すなわちこの場合、 わざわざ詔の字の上を空白 にして、詔を奉じて誇すとしているのは、皇帝を敬いその勅命によったことを示しているが、同時にまた彼らが、 ① 朝廷から厚い庇護をうけていたことは、宋本によれば、不空の肩書きが﹁開府儀同三司特進試鴻臆郷粛園公、食邑 三千戸、賜紫贈司空、詮大監正、競大慶智大興善寺三蔵沙門不空﹂となっていることからもこれを知ることが出来 る で あ ろ う 。 宿曜経の研究四 ところが問題はその﹁翠﹂の字にある。これは嘗時のそうした時代思想にも関連して考えねばならぬことであろ うが、普通に課といえば、全誇、抄誇などのちがいはあるにしても、 そこには何らかの原本が存在したはずである。 ところがこの宿躍経上下二巻に関する限り、 そうした意味での誇はどうしても存在したとは考えられない。すなわ ち、いまつぶさにその内容筆致などを検討すると、 そこには宿曜経を成立させた一つの纏ったサンスクリットの原 本は存在しなかった、 というのが筆者の見解である。以下順を追うてこれを述べてみたい。 まず容の上の﹁序分定宿直品第一﹂を見ると、 それは次の文で始っている。 天地初建、寒暑之精、佑岳地日月、烏兎抗衡、生成寓物、分宿設宮、管標群品、云々 そして引き績き、二十八宿中の張から始まる十四宿 ︵ 牛 宿 を 含 む ︶ の名稽をあげ、それを分って六宮となすとし、 ︵ 残 り の 六 宮 に は ふ れ て い な い ︶ つ ぎ に 、 日 月 と 辰 星 ︵ 水 ︶ から始まる五星の名稽とその大きさなどをあげているが、 これが後にいう躍である。 かくてその日月諮濯が空中において風に乗って須禰山︵
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ロ 5 2 C ︶ の 中 腹 の 撒 健 陀 羅 ︵g
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︶の上を﹁二十七宿十二宮﹂において運行しているとなし、第一の師子宮から第十二の蟹宮に至るま でを二十七宿との関連配列において詳説し、 それぞれに簡車な吉凶を書き加えている。 さて、ここまでの序説的な一段落において、まず穂種的に気のつくことは、最初の天地初建に始まる一連の文章 は、その内容や語法から見て、古いインドの惇承だけでなく、その後の新らしい智識をも十分盛っている、という ② ことである。しかも﹁烏兎抗衡﹂というような表現は、たとえ翻誇的美句と般定しても、それは思想的にもインドの ものではなく中図式表現である。すなわちインドでは、最古の天文書たる守。z
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な ど に お い て 一 も 、 それらはほとんど始めから部分的説明に入るのが普通であり、このような容頭の一般的序説はほとんど見られない。だからこうした序説的名調子はサンスクリットのものとは思われず、 た と え 一 歩ゆずってそれが不空の作としても、 そこには有能な中国人の加筆があったこどは疑いない。というのは、十二宮 の 詳
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い説明に入るまでの文章は、 インド式のある意味での整然かっ冗漫たる筆致ではなく、すこぶる簡明かっ必 ずしも内容的に整備されていない。とすると宿躍経の序分の始めの方は、おそらく不空みずからの筆ではなく、不 空がそれまでの天文占星に関する諸説を断片的に講述したのを、 文章に巧みな弟子の誰か︵端州司馬史培か楊景風︶ が編集添削したのであろう。しかし序分後半の各項目における一々の説明は確かにインド惇来のものであり、 そ の 内容もまた正確さをもっている。 とすると、表題の﹁不空課﹂と勺つのは、不空が何かサシスクリットの原本からそれを直接翻課したということ にはならない。換言すれば、もともと宿曜経そのものの党本というようなものは存在せず、博撃な不空が自らそれ らを講述したのを、弟子達がそれを権威ゃつけるために、殊更に﹁不空諜﹂としたことは明白であり、おそらくこう した例は他の経典においても見出されるところであろう。 次に巻下の方を見るに、これまた同じように﹁三頭沙門不空奉 詔誇﹂どしているが、容下は決して容上の績き ではない。すなわち、普通の経典において容の上下としているのは、多くの場合、中園編集者の便宜的匝分であり、 サンスクリット原文はほとんどそうした巻別法は用いていない。だから巻の上下の関係は原則として一つのものの 連 績 で あ る が 、 しかしこの宿耀経の場合は決してそうした闘係ではなく、 それは明らかに巻上の補遺なのである。 しかもその作者は、巻上のそれと決して同一人であるとは考えられない。というのは、巻下には容上と内容的に同 一なものがしばしば繰りかえされ、また系統の異ったものも混入している。この一事だけからしても、不空三蔵と 宿曜経の研究 五ーー包囲. ノ\ もあろう高借がそんな不見識なことをするはずもなく、これは不空がその時々に講述したのを、 おそらく楊景風あ た り が 、 その不足分を覚え書き式にしたのを後になって追加編集したのであろう。
十二宮は西方の智識である
いわゆる二十八宿︵二十七宿については後述する︶どは、黄道附近の額著な恒星を基準として日月の運行を観測して 暦 日 を 定 め 、 あるいはそれによって吉凶日時などを占った制度であり、 宿は星宿︵ ω宮−E
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門 店 ︶ と も 稽 し 、 車星 または星座︵8
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ロ︶の名を採っている。これは古くからパピロン、 イ ン ド 、 シ ナ 、 アラビアなどでも用い られていたものであり、密教ではとくに重要視され、 これまた黄道に沿ってこれを十二に分けた星座の名稀であり、同様に暦日や占星術の基礎となっているものである。 いまでも星祭りなどに用いられている。十二宮というのは、 b E て 、 まず結論的にいえば、二十八宿は極めて古い時代からインドで知られていたが、十二宮は全く西方の智識 である。そしてそれがインドの文献に現われるのはかなり遅く、だいたい西紀五世紀以後のことである。しかもそ の雨者がインド人の手によって巧みに組み合わされたものが、 いわゆるインド天文撃といわれるものであり、その 占星的なものを主眼として述べたものが宿躍経上下二巻にほかならない。 ところでこの占星術というのは、 いまでこそ車に書物の上だけで運勢吉凶などを占っているが、嘗初は一々星宿 を観測してその吉凶を卜したのであるから、占星家はまた天文撃者でもあり、同時に暦法家でもあった。そしてそ の基準となったのが二十八宿であるから、古代人は今よりもずっど星宿に謝して関心をもっていたわけである。と ころがその二十八宿の起源についてはパピロン設とシナ設とがあり、前世紀の始めごろから多くの皐者らによって論 じ ら れ た が 、 それを賓議する資料のないことから、 いまだにそれは解決を見ていない。皐者の中には、二十八宿 はインド起源であると考えたものもあるが、 しかし事実はおそらくパピロンあたりで護見されたものがア i リヤ人 の東漸に従ってインドに入り、 それが極めて古い時代に全くインド的に護展したものと考えられる。 インドにおいて、星宿に関する最も古い記事は、少くとも紀元前一千年以上前の停承をもっリグ・ヴェーダ文献 中にも見られるが、 それらは厳密な意味における今日の星宿と解するこどは無理な貼もあり、また二十八宿の前身 と見られる二、三の星名もほとんど季節祭に関連していることは見のがせない。 しかしそれがアタルヴァ・ヴェ l ダになると、今日と全く同じ順序の二十八宿が整然と列翠されており、 ついで各撃波の本集︵∞ ω 同 由 主 芯 ︶ ど か 党 書 ︵
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吋 m F 5 8 m ︶ あるいは古い物語りを集めたプラ l ナQ
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となどには、 二十八宿あるいは二十七宿に関する占星 吉凶の記事が見られ、 一方ではその二十八宿が土台となった暦法が造られ、 それはインド濁得の太陰太陽暦︵Z
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宏司︶として正しい意味の天文翠的立場をとっている。このように二十八宿はたしかに占星術と切っても 切れぬ関係にあり、 とくにインドにおいては全く不可分のものでさえあったが、 いまこれを科撃的に取りあげるこ どによって、そこに多くの問題解決の鍵を見出しうるのである。それにはまず二十八宿そのものの正しい天文撃的 位置が把握されねばならない。 さてアタルヴァ・ヴェーダを始めとする古代の二十八宿は、 その順序のみが記述され、 その位置を確認しうるよ うな記事は全く脊在しない。どころが五世紀以後、ギリシア天文撃の影響のもとに書かれたス l リヤ・シッダ l ン タ ︵ω
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I ω 日 仏 品 目 阿 山 口 同 釦 ︶ と い わ れ る 天 文 書 を 見 る と 、 その第八の﹁星宿と遜星との交曾の章﹂と名づけられるものの 中に、婁宿︵kiE
︶から始まる二十八宿の経緯度が嘗時のインド式計算法によって明示されている。 そこでこれ 宿曜経の研究 七/¥ を現代天文撃によって換算すると、その醤時の正しい二十八宿の黄経と黄緯が出てくる。その詳細についてはかつ ③ て拙稿において述べておいたが、その二十八宿がより古い時代のそれと同一であったという立詮があれば、ヴェ l ダ後期以来の二十八宿の位置は捕捉されるのであり、 そうした意味で宿曜経程上の﹁序日宿直所生品第二﹂は貴重 な資料たりうるのである。 すなわちそこには牛宿を含む二十八宿の星敷・形朕・主紳・主姓・主食などが列記されているが、 その記事内容 は三世紀中葉に課された﹁摩登伽経﹂の説星園品第五のそれと全く同一である。 しかもその原本である西紀早々の 作と考えられる
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悶 d t m w n E H M m w もその通りであるし、さらに六世紀の作と思われる﹁大集経日戴分﹂の二 十八宿もまた同じである。とすると宿曜経の二十八宿はまさしくインドのオーソドックスな停承であり、 しかもそ れはその星朕などから、 ス 1 リヤ・シッダ l ンタの二十八宿と同一なものであったことがその比較封照によって知 られるのである。そうした意味で宿曜経の二十八宿はインド古来の停承を正しく保持しており、それが密教占星術 の 土 ム ロ と な っ て い る の で 、 いまそのサンスクリット名と星数・形吠をあげ、 それが現在どの星に相賞するかを表に すれば第一表のようになる。 次に、このインド在来の二十八宿と西洋痔来の新らしい十二宮との関係はどうなるか。宿耀経以前にはこれにつ そうした意味でもこの宿曜経巻上のそれは重要な役割をなしている。すなわち序分 第一の一般的序説の次に、まずこの十二宮の説明が出てくる。これはその嘗時、十二宮の制度が最も重要観されて いて詳しく説いたものはなく、 いたことを示すものであろう。そこではまず第一の師子宮から始まる十二宮に、二十七宿の各宿をそれぞれ四足 ︵ 宮 含 ・ 四 分 の 一 ︶ ず つ に 分 け 、 一 宮 に 九 足 を 配 嘗 し 、 ﹂れに簡車な吉凶をあげているが、 この十二宮はもともとイ表 第 宿 曜 経 の 二 十 八 宿 番強|漢課| サンスクット |星敷|形扶|相首する距星 1 昂 Krttika 6 剃 万 ηTau. 2 畢 RohiIJ.i 5 宇 車 αTau. 3 費 Mrga合iq;'i 3 鹿 頭 えQri. 4 参 Ardra 1 額 上 黙 αQri. 5 井 Punarvasu 2 屋 紙
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Can, 7 朝日 Asle~五 6 蛇 紳 εHyd. 8 星 Magha 6 購 αLeo. 9 張 P.Phalguni 2 杵。
Leo. 10 翼 U.Phalguni 2 蜘 朕 βLeo. 11 車会 Hasta 5 手 tJ Car. 12 角 Citra 2 長 櫨 αVir. 13 八」 Svati 1 火 珠 αBoo. 14 主主 V i伍kha 4 牛 角 i Lib. 15 房 Anuradha 4 帳 tJ Seo. 16 i[_j、
Jye号th五 3 階 αSeo. 17 尾 Mula 2師子頂毛l X Seo. 18 箕 P.A~王dha 4 牛 歩 tJSag. 19 斗 U.A~:icJh三 4 象 歩 σSag. 20 牛 Abhijit 3 牛 頭 αLyr. 21 女 ~raval).a 3 梨 格 αAql. 22 虚 Dhani手tha 23 危 きatabhi~互 1 花 穂 XAqr. 24 室 P.Bh呈drapada 2 車 鞍 αPeg.25 壁 U.Bh互drapada 2 立 竿 γPeg.
26 杢 Revati 32 小 艇 SPis. 27 3 馬 頭 βAri. 胃 BharaQ.i 3 三 角 35 Ari. シドの思想ではな︿、全くギリシアから停ったものであるから、 いま宿耀経の十二宮を西洋のそれと謝照すれば、 第二表のようになる。 ここでまず気のつくことは、二十八宿中の牛宿が完全にオミットされ二十七宿となっていることである。これに ついては後に詳述するが、少くとも
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という数字的なものが大きく働いていることは事買であろう。 宿曜経の研究 しかしともかく古代以来、人々は賓際に星を見て暦日を定め運勢吉凶を占ったのであるから、二十八宿と十二宮と 九。
の関係ならびに二十八宿から出た十二ヶ月名を現代の星座によって簡車に園示しておこう。 を見ると、第一の師子宮 ところで次に、巻下の二十七宿十二宮園という項目中の固形のホロスコープ︵占星園︶ から始まる十二宮と二十七宿との関係は巻上の説明と全く異っている。すなわちさきの十二宮の表にも見るように、 師子宮は二十七宿中の星・張・翼に相賞しているが、 インドでは星宿あたりから始まる暦はヴェーダ暦に次ぐ第二 期のものである。従って第三期に属する宿曜経が星宿を含む師子宮を第一にしているとりつことは、宿曜経がイン 表 第 宿 曜 経 の 十 二 宮 1 師子宮 星4 張4 翼1 獅子座 Leo 2 女 宮 翼3 車会4 角2 乙女座 Virgo 3 秤 宮 角2 冗2 ~3 天秤座 Libra 4 蝿 宮 底I 房4 心4 さそり座 Scorpius 5 弓 宮 尾4 箕4 斗l 射手座 Sagittarius 6 摩立高宮 斗3 女3 虚2 海豚(座西洋Dはel山ph羊in座u) 7 瓶 宮 虚z危4 室3 水瓶座Aquarius 8 魚 宮 室1 壁4 杢4 魚 座 Pisces 9 羊 宮 婁4 胃4 昂l 牡羊座Aries 10 牛 宮 昂3 畢4 費2 牡牛座 Taurus 11 姪 宮 脅2 参4 井3 I 双 子 座Gemini 12 蟹 宮 井1 鬼4 柳4 蟹 座Cancer 相嘗する星座 二十七宿配嘗 ドの古い惇承をそのまま採用し、 それに十二宮を配管した ﹂ と を 物 語 っ て い る 。 そ の 詮 擦 に は 、 宿 曜 経 岩 下 ︵ 大 正 ・ 二十一・三九五頁︶の二つのホロスコープのうち右側の方は 宋本のそれであるが、 それは第一羊宮となっており、二十 七宿もそこには女・虚・危が配されている。 しかるに左方 の聞は明本のそれであるが、これば同じく第一羊宮から始 まってはいるが二十七宿配嘗は翼・診である。ところで羊 宮 ︵ ﹀ 立 。 ω︶から始まる十二宮はまさしく西方のものであり、 それは西紀三四世紀に湖りうる。とすると巻上の二十七宿 十二宮は古いインドの停承によったものであるが、容下の 方は西方の影響をうけた時代印慮の作であり、 ホ ロ ス コl
プがそれを詮明している。こうした貼から見ても、宿耀経宿 曜 経 の 十 二 宮 ど 二 十 八 宿
。 は 月 名
の容下はあくまで補遺的性格のものであったことがうかがわれるのである。
四
二十七宿と二十八宿について
いわゆる二十八宿とは、古くからパピロン、 シ ナ 、 インドおよぴアラビアなどで用いられていたが、 インドのみ が何故に二十八宿のほかに二十七宿をもっているか。その一宿のちがいは例外なく漢誇でいう牛宿︵ ω宮 ・ ﹀5
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仲︶ の有無によるのであるが、こうした問題については、すでに早くから外国の皐者らもこれに注目し、 いろいろな面 インド人が極めて ④ 古い時代にこの形をパピロンから知ったが、後に二十八宿を知るに及んでこれを採用したのであろうといっている。 からこれを論じている。たとえばドイツのウエ l パ l 教授は二十七宿の万を古い形であるとし、 これに封してアメリカのホイットニi
教 授 は 、 むしろ二十八宿の方を古い形と考え、 たとえ二十八宿がより古いと いう文献がないとしても、インド人が古い時代にその智識を外園から借用し、さらにそれを園内において饗更した ⑤ のであろうといづている。しかしこれらの説はあくまで可想的なものであり、 それを納得させる根擦は示されてい 戸K 3 o f;
v しかもこの問題は本場のインドでも、またシナや日本でも車にその爾万があげられているだけで、 その理由 については何ら解明されていない。 そこでこれを明らかにするために、 まず試みにインドの古い文献を拾って見ると、二十七宿としているものには、 、U 5
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を 始 め 、 し ﹃ 可 。 一 一 戸 市 川 M H l ぐ 。 門 日 間 HJ 問 ω や 回 吋 ︸ H m E l ︸ 悶 g w m w な ど が あ り 、 二十八宿としているものには k F 片 町 何 回 コ 可 一 m w l J 1 0 仏 P 吋 包 江 戸 円 q m w l σ 門 間 F g m F H V P ∞ 口 円3
・1 包 円 四 ︽ 出 品 H M g などがあげられる。 ﹂れを見てもそれは年代的なもの で も な く 、 また家系とか皐振による停承とも考えられない。そしてとくに甚しいのは、同一党本においてさえ異本によってそれが異っていることがある。 ⑥ ﹂可阿世門凶凶 H M m w の刊行本にほ明らかに二十八宿とあるのに、 たとえば世紀早々の作と考えられる摩登伽経の原本たる∞間三巴
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その同じ個所が京都大翠所蔵の馬本では明白に二十七宿 ︿ ω m H ︾g
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件片山山目立﹀ ど な っ て い る 。 しかも一方、その漢誇である摩登伽経が牛宿を欠いているのに、 そ の 同じ個所の党本は明らかに牛宿を取りあげているなど、 そこには多くの混乱が見られる。 ところがこうした同じような混乱が宿躍経においても見られるのである。すなわち、まず巻上の序分第一を見る に、前文の張宿から始まる十三宿には明瞭に斗牛女と列記され、これに虚を加えた十四宿がちょうど二十八宿を二 分する。ところがその同じ序分第一には﹁運行於二十七宿十二宮意﹂という句が見られ、 その十二宮の説明におけ る磨掲宮の個所は、 ﹁第六斗三足、女四足、虚二足﹂どなっており、斗宿と女宿のあいだにあるべき牛宿は欠けて いる。そしてその序分の終り近くにも、宋本は﹁天道二十七宿、有閑有狭﹂としているのに、明本ではそれが﹁天 道二十八宿﹂となっている。また次の宿直所生品第二では、 一々の星宿の敷や形その他の特性および占星事項を詳 記 し て い る が 、 そこでは牛宿が入って二十八宿となっている。 しかしその牛宿の説明の部は一見して他の星宿の読 明とは明らかに筆致を異にし、 それが故意の加筆であることがわかる。ところがその加筆は決して宿曜経作者自身 の 作 意 で は な い 。 というのは宿耀経のこの部分は全く摩登伽経の読星園品第五からの借用であり、 しかもその党本 がそうした挿入を行っているからである。 しからば二十七宿の方が古く、二十八宿の方が後代のものであるかとい うに、事買は決してそうではなく、二十八宿はあくまで天文撃的立場からのものであり、従ってそれが古代世舎に 共通なものであったことを知るのである。ところが、数字に異様なまでの関心を示し、何事にも敷をもてあそんだ インド人は、この二十八宿をも整敷化するために ω × 匂 H 誌としたのであり、宿躍経巻下の﹁三九秘要法﹂はこ 宿曜経の研究四 れを立設するものである。すなわち二十七宿はプラ l ナ的性格から生まれたインド特有のものであるが、 一 宿 を 欠 く場合、何故にそれが牛宿だけに限られたか。それが明らかになれば二十七宿と二十八宿の問題も解決の糸口を見 出しうるであろう。
五
イ ン ド の 牛 宿 と そ の 有 無 の 問 題 まず結論から先にいえば、パピロン、シナおよびアラビアなどの牛宿はすべて黄道に沿った山羊座︵。s
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︶ に あ る が 、 インドの牛宿たる﹀σ
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︺ 立 は 、 それらとは全く異る黄道から透か北方の琴座9 1
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︶であるというのが 筆者の見解である。 しからばインドの牛宿が F M 1 5 であるという根擦は何か。 ⑦ これについては以前に詳しく議表しておいたが、ここでは論を進めるためにその大略を述べると、 まずこの牛宿 についてはすでにヴェーダ後期あたりから問題があったらしく、いま黒ヤ叫ジュール・ヴェーダに属する吋丘三広三 lg H
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を 見 る ど 、 そこには牛宿を除いた二十七宿名が翠げられているのに、それより後代の同汲の叶包江町 q m w i ず S F B M W H M m w には牛宿を含む二十八宿名が列撃され、 しかもそれに引き績いて﹁牛宿と名づけられる星宿は斗宿の 後 ︵ 上 ︶ で あ り 、 女宿の前︵下︶である﹂との一句を入れている。 ﹂れについてはいち早くウエl
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教授がこれ に着目し、これを牛宿の天文撃的位置を示すものとして、 ﹁牛宿は斗宿の上で女宿の下にある﹂と文法的に解し、 インドの牛宿も西洋やシナの牛宿と同じく山羊座にあると主張した。どころがこれに謝してホイットニl
教 授 は ﹁牛宿は斗宿の後で女宿の前にある﹂と解し、 それは星宿の順序を示すものであると反論している。 しかしその敷 次にわたる雨者の論争にもかかわらず、この間題は決定的段階に至らず今日に及んでいる。 というのは、この雨説は今まで見逃がされていた牛宿の問題に始めて科撃的メスを加えたものであったが、もともとこの一句は軍に牛宿 とその隣接星宿との相関関係を述べているだけであるから、その文句語法などを如何に詳しく考究しても、牛宿そ ③ のものの天文事的位置は本質的には出て来ないのである。しからばそれを求めるにはどうしたらよいか。 そこで第一段階として、まずさきに述べたス!リヤ・シッダ l ンタの二十八宿測定記事に注目しなければならな 数 字 で な く 、 い。そこではインド濁得の計算法によって各宿の経緯度があげられているが、しかし斗牛女虚の四宿だけの経度が ⑨ お互の関係において述べられている。これはたしかにそこに何らかの問題があったことを暗示するも のではあるが、幸いなことにその緯度だけは四宿とも明確に示されている。それによると斗宿は南に五、牛宿は北 に 六
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、 女 宿 は 北 に 一 二O
、虚宿は北に三六となっている。この数字は黄道から北極星に向つての黄極緯ともいうべ きもので、現今の責緯どはやや異つてはいるが、 どもかくその数字を見ても、牛宿は決して貰遣に治った山羊座で はなく、数字から見ても透か北方の琴座でなくてはならない。 と こ ろ が 問 題 は 、 そうしたス l リヤ・シッダi
ン タ の牛宿は果してインド古来からの牛宿であったかということである。 そこで第二の段階として、 それを解明するために宿曜経を始めとする漢課悌典やその関連経典が大きな役割を果 すのである。すなわちさきの宿曜経巻上の日宿直所生品第二の表を見ても明らかなように、牛宿は三星で形牛頭の 如しとあり、またその主神・主姓・主食などから見ても、 それは西紀三世紀中葉に掴評された摩登伽経の昂宿から始 まる読星園口聞のそれと全く同じである。しかもその異誇たる合頭東太子二十八宿経やそれらの原本たる前記党本な らびにそのチベット誇と封照して見ても、 それらは完全に一致している。 とすると、不空誇の宿曜経の二十八宿ば まさしく紀元早々のインドの停承をそのまま忠賓に停えていることになり、 宿曜経の研究 より古いインドの二十八宿もまたその 一 五一 六 通りであったと考えざるをえない。こうした見地からして筆者は、 インドの牛宿たる ﹀ ず 日 比 ︺ 日 同 はおそらくヴェ l ダ時代から F 可
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であったと断ぜざるをえないのであり、 そのことはさらに他の万面からも考えうるのである。 そこで次にこの牛宿の有無ということが問題となってくるが、これはさきに述べたように、 その最大の理由は占 星的なものにあるのであろう。ところがそれを二十七宿とする場合、何故に牛宿をけずったか。そこには何らかの 理由がなければならぬが、 それについては誰もふれていない。しかしこのことは牛宿の位置の問題にも関連して決 して見逃がしえない問題である。 ところで、これは占星を主眼とする宿曜経ではオミッ卜されているが、摩登伽経の二十八宿の説明中に、各宿の 賢度ともいうべきものを月の運行する時間︵自ロr
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いまの四十八分︶で表わしいる部分がある。それを見ると、他 の星宿はそれぞれの賢狭によって四十五、三十、十五という数字となっているのに、牛宿のそれだけが遥かに少い 六ムフ l ルタとなっている。これは天文翠的に、牛宿とその次の女宿との聞の視角度の狭いこと物語っている。だ から強いて二十七宿とする場合は天文撃的にもこの牛宿をオミットするのが一番自然でもあるが、 しかし麿法的に 全般を二分するにはどうしても偶数の二十八宿でなければ都合がわるい。 そこでインドでは二十七宿と二十八宿が 混然と雑居したのであろうが、西洋やシナの牛宿は黄遣に近い山羊座にあったから問題はなかった。ところがここ に面白いことは、インドの牛宿が円、可S
であることによって、かつてそれが女宿の k r A丘F
と同一線上に見え、名 賓ともに二十七宿の時代があったというこどである。 すなわち円、可円。は透か北方に離れて緯度として﹀﹄丘宮の ちょうど二倍の位置にあるので、これをある年代の黄道上から見ると雨星聞の角度はかなり小さく見え、 しかもそ れは春分黙の移動によって少しずつ襲って行く。そこでいまノイゲパウエルの星表によって牛宿と女宿がほぼ一直線に見える年代を逆算すると、 それはおおむね西紀前五
000
年前後となる。そして昂宿が春分貼に合したほぼ西 紀前二五O
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年頃には、牛宿と女宿との視角度はやや大きくなってはいるが、 しかしそれは他星宿の賓度とくらべ て透かに狭い。摩登伽経の牛宿の賢度が僅か六ムクールタであることはこの事費を裏書きするものといえよう。 このように純粋に天文撃的立場からすれば、牛宿と女宿が一直線上広見えた時代があったのであるから、 その時 代に二十七宿ができたであろうという俣設も成り立たぬことはないが、 しかし事買上そうした古い時代にインド人 が二十七宿を観測したとは考えられない。したがって二十七という数字はあくまで天文皐的なものではなく、 そ れ はインド人の占星的所産であったと見るべきであろう。 ー-L,. ノ\ 磨 掲 宮 は イ ン ド 所 産 で あ る さて、インドおよび密教関係の十二宮がギリシアからの借用であることはすでに述べたが、 そうなら何故に西洋 にない磨掲宮がインドの十二宮どなったのか。 そ こ で 、 その磨喝宮という文字がいつ頃から文献に現われたかというに、山富時の天文智識をすべて記している摩 登伽経にも十二宮の記事は全然なく、 もちろんその原本たるサンスクリットのそれにも見嘗らない。 己ころが六世 紀ごろの作ど考えられる大集経の月競分に、 サ 、 J スクリットを漢字で音寓した十二宮名が出てくる。これほおそら く十二宮が漢響悌典中に出てくる最初であろうが、 それが音寓であることが頗る興味深い。そしてそこに始めて磨 伽羅どいう字が現われる。そこでいまその音寓による十二宮名を列翠し、括弧の中にその原語とそれに嘗る星座名 を 示 す と 、 宿曜経の研究 一 七}\ 鳩繋︵
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・ 水 瓶 座 ︶ 、 調 那 ︵B
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魚 座 ︶ 、 迷 沙 ︵B
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羊 座 ︶ 、 毘 利 沙 ︵d
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牡 牛 座 ︶ 、 繭 倫 那 ︵E
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− 双 子 座 ︶ 、 濁 迦 托 迦 ︵ 宮 ﹃E
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− 蟹 座 ︶ 、 線 阿 ︵ω
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・ 獅 子 座 ︶ 、 迦 若 ︵ 宮 ロ ユ ・ 乙 女 座 ︶ 、 兜 羅 ︵Z
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F 天 秤 座 ︶ 、 昆 離 支 迦 ︵ ぐ 私 立 宮 蝿 座 ・ ︶ 、 檀 需 用 婆 ︵S
S
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射 手 座 ︶ 、 磨 伽 羅 ︵ 宮 島R
P
︶ 、 というようになり、問題は最後の磨伽羅がどうして西洋の十二宮のように山羊座でないかというところにある。 そこで宿耀経を見ると、 そこでは十二宮の制度は吉凶の部でも大きなウエイトを占め、その名稽も磨掲宮を除い ては、すべて西洋の星座名そのままを採っている。これはその磨掲に明らかに問題があることを示し、 それはまた 牛宿の問題にも関連してくるのである。そこでまず宮内長良”という字を吟味して見ると、 それは∞g
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。 口 忠 良 の 一種であり、時にの58
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︵ わ に ︶ 、 ω F m R W ︵ き め ︶ 、 ロ 。 ] 司F
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︵いるか︶と混同されるとある。そして漢課では時 に磨喝羅獣として出てくるが、その賞纏はともかく相嘗巨大な海獣であることはインドのいろいろな物語りによっ ても明らかである。ところがインドの磨喝宮は宿耀経の序分第一にあるように﹁斗三足、女四足、虚二足﹂であり、 その虚宿はインドでは海豚座︵巴巳℃F
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︶である。とするとまず次のようなことが考えられる。 す な わ ち 、 はじめ西方から十二宮が停って来たときには、 その星座名はそのままサンスクリットに翻課された。 それはさきの大集経の音寓によっても明らかであるが、 しかしそのときはすでにインドが古来からの濁自の牛宿や 女宿をもっていたので、西洋の山羊座の代りにインド在来のものを十二宮の中に入れた。そしてその際、すでに西 洋の海豚座というものの杏在を知っていたインド人がそれをB ω
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と 表 現 し 、 それが音篤のまま後代に停った。 だからインドが磨喝宮を十二宮にもっているということは、 ど り も 直 さ ず 、 インドの牛宿がど戸、 女宿がk r
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・ 、 虚宿がり巳・であったことを立詮するものでなくてはならない。従ってウエl
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教授のいうように、もしインドド
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(
牛
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(織女星)
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(
琴
)
磨 掲 宮 と 牛 宿 の 図AQUILA
(
鷲
)
| 弓 宮
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SAGITTARIUS
(射手)
回因園はシナ・アラビアの二十八宿
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の牛宿や女宿が西洋やシナの牛女宿と同じよう に始めから山羊座や水瓶座にあったら、決して 磨掲宮というようなものは生まれなかったはず である。そうした意味で磨掲宮の存在はインド の牛宿がど1 5
であったことを傍詮するもので なくてはならない。 なおこれを誤みにシナの側から見ても、普通 に二十八宿中の牛宿といわれるのは西洋と同じ よ う に 山 羊 座 ︵ わ 与 し に あ り 、 女 宿 は 水 瓶 座 ︵ ﹀ 呪 ・ ︶ にある。そしてそれと全く別個に織女星︵︿o
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というのがインドの牛宿にあたる琴座91
・ ︶ にあり、牽牛星どいわれるものがインドの女宿 にあたる鷲座︵﹀宇︶にある。 いまこれらの闘 係を簡車に園示すると上図のようになる。 九二 O 七
歳元と暦法との関係
つぎに、宿耀経巻上の序分第一の十二宮の説明の後に、引き績いて次の文が出てくる。 上古白博叉二月春分朔、子時曜眼婁宿、道贋景正日中気和、庶物漸楽︶切増長、焚天歓喜命矯歳元。 ところでこの白博叉というのは、 一月を二分︵3
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S
し 、 朔︵一日新月︶から望︵十五日満月︶までを白パクシャど いってインド特有の暦日上の術語であるから、この一文は、 その内容筆致からしても、宿曜経の作者がインド惇来 の暦法を説明していることは明らかである。しかもインド暦の翻罪である九執暦の巻頭にも、これと全く同じ句が ⑩ 見出される。とする−とその二月とは如何なる暦によった二月であるか。 そこで宿曜経を見ると、右の−文に引き績き茨のような順序で十二ヶ月の名一稽があげられている。 角月、氏一月、心月、箕月、女月、室月、婁月、昂月、砦月、鬼月、星月、翼月、 ところでこの角月︵P
冒とから始まる暦は六世紀以後から通用したものであり、 たとえば七世紀の大唐西域記も こ の 順 序 で 、 しかもそれは制阻羅月、吠合佳月というようにサンスクリットからの音寓でそれを表わしている。し たがって八世紀作の宿曜経が角月から始める暦をあげていることほ掛同然である。だから宿曜経の作者が二月どいつ ているのはインド暦による民一月を指していると考えねばならない。そこでこの一文の大意は、 ﹁ 古 い む か し に ︵ イ ン ド の ︶ 忌 月 ︵ ︿ 包 訪 日 島 ω︶の一日から十五日の聞に春分の日が来たとき、太陽は婁宿︵広三巴︶に宿ったが、 そのと きは昼夜が等しくて気候がよく、高物がもえ出しみな成長したので、党天が喜んで ︵そのとき︶歳元をきめた﹂というのであるから、 その婁宿の正しい天文事的位置さえ知りえたら、 それが何年頃であったかということがわかる。 そこで前掲二十八宿の表によって婁宿の距星はも﹀ユ
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であることを知るので、それが春分黙に合した年代を星表 によって検出すると、 そ こ に 回 ・ 。 ・5
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という数字が出てくる。もちろん嘗時は正確な観測具があったわけではな く、星数も二星または三星としたものもあり、 しかも近くには一等星のω
﹀ ユg
も あ っ て 、 それが春分黙に合した の は 回 ・ 。 ・ ω 匂 ω 年であるから、 だいたい西紀前三世紀前後と考えればよい。 ところが右の文は、 一讃したところ、如何にも太陽が婁宿に宿ったその二月を歳元としたかのごとく見えるが、 事責はどうであるのか。 いったいインドの古暦については今までは一般に、ヴェーダ暦と西紀六世紀以後の角月を @ 年初とする二種の暦があったと考えられていたが、筆者はさきに、その中間に翼月︵百戸包を5
︶から始まる第二期 の暦が存在したということを指摘しておいた︵拙稿﹁摩登伽経の天文暦敷について﹂東洋皐論叢︶。すなわち摩登伽経の 原本たるサンスクリットの潟本︵京大騒︶に、 同 法 問 − m g D m w から始まる十二ヶ月名が列記されており、 また各月にお ける満月と新月のムフi
ルタ敷などの記事から、ヴェーダ後期には唱﹃巴m
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を年初とする暦が成立していたこと が認められる。そしてこの宿耀経の一文が西紀前三世紀前後に歳元がきめられたことを物語っている以上、 それは 前設を完全に裏書きするものといえよう。 しかも宿曜経巻下に﹁正月矯翼月﹂の一句を見出しうることからも、ヴ ェ l ダ暦と角月を年初とする六世紀以後の暦どの中間に翼月を年初とする第二期の暦が寄在したことは疑いないと こ ろ で あ る 。 しかもそれはほぼ西紀前三世紀前後から西紀五世紀ごろまで用いられたのであるから、 それらは多く の悌典に出てくる。とくにパ l リ語関係のものは年代的にもこの暦によっているものが多いので、 いまサンスクリ 宿曜経の研究ットの原名どともにパ l リ語のそれも示しておこう。 第 二 期 の 暦 表 (略 B.C.300
∼
A.D.500) 月j碩|月名|サンスクリット| パ ー リ|
1I
翼月I
Ph忌lgunaI
PhaggunaI
2
1
角月I
CaitraI
CittaI
3!氏月 IVai弱kha I V esakha (春分)| 月| Jyai号tha I T川 山 内 I Ai?adha Jettha As孟】ha Savana(夏至) Potthapada Assayuja Kattika(秋分〉 Maggasira Phussa Magha(冬至) なお、このほか暦法に関連する記事を拾って見ると、まず 12 いるのは、宿曜経が二十七宿を主懐としているのに、唐のこ Sr瓦val)a Bh瓦drapada Asvayuja k瓦rttika M瓦rgasir与a Pausa M瓦gha J心 51箕月
6
1
女月 室月 婁月 白 川 同 刀 同 月 同 月 昂 費 鬼 星 n w d 噌i 噌 ’ ム 巻上の序分第一の月名列記の直後に、 ﹁大唐月建国﹂という 7 8 10 暦表が載っている。これは註にもあるように楊景風が載せた も の で あ る が 、 それは唐の正月から十二月に至る毎月の一日 から三十日に二十八宿を順次配蛍したものであり、 その日が 何の星であるかが一目でわかる。そして十五日が満月である から、それは後に述べる朔から朔を一と月とする暦であり、 インド在来の満月から満月を一ど月とする暦とは異っている。 しかも十五日の満月の日の星がインド暦のそれとやや異って の暦表には明らかに牛宿が入り込んでいるからである。 ﹁凡月有黒白雨分、従一日至十五日矯自分、従十六日至三十日矯 ・次に同じく巻上の序黒白月分品第六の最初に、 黒ハ加﹂どあり、あとはその吉凶記事だけである。ところがそれと同じ内容のことが巻下の最初に出てくる。すなわ ち﹁西園毎一月、分矯白黒爾分、入月一日至十五日矯臼月分、入月十六日至三十日矯黒月分﹂とあり、 その吉凶に 録であることは明白である。 ついても同じ偶.績が重複している。これを見ても巻上と単位下は決して一貫したものではなく、巻下は弟子の補遺集 ﹁西園皆以十五日望宿、億一月之名、故二月 ついで二十八宿十二宮園のところには、震角月、三月名氏月:・:::正月名翼月﹂どあり、次に二十七宿、十二宮、 七躍を組み合わせた園形のホロスコープ を園示しており、 それ以外は吉凶善悪に関するものだけである。 ところでインドでは、古くから満月から満月までを一と月とし、 その時の星宿名から取った月名を輿えている。 だからこれをパクシャでいえば一ど月は黒白の順となり、これを℃口
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凶 ロ 冨 と い う 。 ところがインドでも朔か ら朔を一月とする白黒の順のm w
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の法が極く古い文献にも出てくる。 しかし宿曜経巻下が西園皆以十五日望 宿、矯一月之名としているのは、十五日の満月のときの星でもって月名とするということだけで、 それはm H B
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の場合でも通用する。どすると宿耀経の本文は、漏月から漏月までを一月どする U U 円 包B
凶 ロS
の法には鰯れていな ⑬ いことになる。そうした黙で宿耀経のそれらの記述は天文皐的にはやや不充分であるといえよう。 J¥七曜惇来の径路
いわゆる七曜思想というのは、もともとパピロンあたりがその起源であるといわれ、、ギリシアなどにも古くから 停 っ て お り 、 それは地球からの距離によって月水金日火木土の順であった。ところがインドにおいては、ヴェーダ しかしそれよりやや後代のア l ラ ニ ヤ カ ︵ ﹀E
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島 P 森 林 書 ︶ 時代の文献にはこの七曜に相嘗するものは見嘗らない。 に始めて七つの太陽という語が現われ、 そしてプラ l ナ3
5
2
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古語書︶時代になると始めて七つのグラハ︵m
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︶ という語が盛んに出てくる。このグラハというのは漢謬では﹁執﹂と稽し、さらにこの七つに計都星a z
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︶と羅 限星︵同忠信︶を加えて、これを九曜または九執ど稽し、 たとえば九執暦というような暦書もある。 ところで悌典に出てくる最初の七曜は三世紀中葉に課された摩登伽経の上巻に出てくるそれであり、これを現行 宿曜経の研究二 四 の七曜名によって示せば日月火木土金水の順序となる。ところがその原本たるサンスクリットではそれが金木土水 火日月となっており、 チベット需はそれらともまた異った金水土木火日月となっている。 ところが摩登伽経の下巻 を 見 る と 、 サンスクリットは月日金木土火水、 チベット誇は日月木土火水とそれぞれ異っているのに、漢罪だけが 不思議なことに現行七曜の日月火水木金土の順となっているが、これは明らかに後世の加筆であると考えられる。 このことは六世紀の大集経や八世紀の義国伊誇併設大孔雀呪玉経などのそれもそれぞれ混乱していたことか、りしても、 嘗時そうした現行七躍が知られていたとは考えられない。 ところで宿耀経ではその七曜はどうなっているか。まず序分第一では日月の次に五星として水金火木土の願でそ れがあげられている。 ところが同じく巻上の七曜直日品第四では、まさしく日月火水木金土という現行七躍があげ られ、下巻の七曜直日暦品第八および同品の七曜占もまたはっきり現行七曜の順で説明されている。 さて以上の事賓からして、インド在来の七曜は決して現行七曜のような順序ではなく、現行の七曜思想はかなり 後代に西方から入って来たことを知りうるのであり、 それが八世紀ごろになって密教の隆盛とともに完全に併典の 中に採用されたと見ざるをえない。 その詮擦として宿曜経上下二巻がともに正しくその順序を保有しているだけで なく、同じく不空需の梯母大孔雀経や一行樟師の撰した宿躍儀軌にも、この現行七曜の順序が記述されているから で あ る 。 しかも最も興味あることは、 その現行七躍がまさしく西方から停って来たという詮擦がこの宿曜経巻下の 七曜直日暦品第八にはっきり示されている。それば西方文化が東方に侍ったことを示す好資料として注目に値する の で 、 いまその原文の最初の部分をあげると、 日曜太陽、胡名蜜、波斯名曜森勿、天竺名阿儒底耶。
曜 | 波斯名(ペルシア} |天竺名(サンスクリット) 日(太陽)蜜(mir) 曜森勿(y9-k益−anbed)阿傭底耶(瓦ditya) 月(太陰〉莫(m忌x) 婁 繭 森 勿 (digar−ふ) 蘇 摩 (soma) 火(焚惑) 雲 漢 (wapaxan) 勢 森 勿 (se−ふ) 主制裁擁迦(ang瓦raka) 水(辰星〉 垣(fir) 型 森 勿 Cc忌rーふ) 部 陀(budha) 木(歳星) 鶴 勿 斯 (urmazd) 本森勿(pan:一品) 勿 哩 詞 裟 践 底(v!・haspati) 金(太白) 那 歌 (nるxid) 敷森勿(送a品ーふ) 成 渇 羅 (sukra) 土(鎮星) 相 涜 (kiw忌n) 事 森 勿 (haft-s.) 除乃以室折耀(sanaiscara)I 七 の 経 曜 宿 宿曜経の研究 というように、以下、月火水木金土の順にそれぞれの胡名と天竺名があげられてい る。ところでこの胡名というのは、この場合、 ソグト語のことであり、 そこにはア ヴェスタ語や、パ l ラピ
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語との関連もある。そして波斯名どはペルシア語のこと で、それには新奮雨語があるが、これはZ
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者同M
2
包 何 回 口 の 音 震 で あ り 、 最 後 の 天 佐 一 名とはいうまでもなくサンスクリットのことである。 そこでそれらの原語を括弧内 に示してこれを一表にすれば上表のようである。 さて右の原語のうち、胡名と天竺名とは明らかに固有名詞の封音であるが、波斯 名 の ω記 −r w
門 出 向 ω F お:::が一から七までの数字であることは頗る興味あることであ る。すなわちペルシアでは、 一週を日曜から数えて、第一曜日、第二曜日と呼んだ ことがはっきりわかる。と同時に、この現行七曜の順序というものがギリシアから ペルシアに入って、 それがすっかり暦法的に固定したことを物語っている。そして それが一方では中央アジアから西域を遇ってシナに停ったことを明白に物語ってい る。そうした意味で、この宿曜経巻下の七曜直日暦品第八の七曜記事は、文化停来 の径路を明らかにする貴重な資料であるというべきであろう。 このように見てくると、宿曜経上下二巻は、たしかに内容的にはあくまで占星吉 @ 凶を主限とした昔時の密教的所産ではあったが、それを支えるものが二十七宿、十 宮 七躍である限り、 そこには数多くの天文皐的問題が伏在しており、 それを文 二 五一 一 六 献皐的あるいは天文事的に取りあげることによって、 そこに多くの文化史的問題を見出しうるのである。宿曜経上 下二巻はそうした意味で、東西文化交流史上に一つの貴重な資料を提供するものといえるのである。 註 ① 大正競経の宿曜経は宋本を定本としているが、明本陀はそのような肩書きはなく、 ﹁唐内供奉三職沙門不空﹂としている。 ② 烏兎抗衡というのは、日月が互に括抗して運行していることであるが、中国では烏兎勾勾というような用い方をし、金烏玉 兎として古くから知られている。インドでは太陽と烏との闘係は明らかでないが、月は 22D ︵兎をもつもの︶という異名ぞ もっている。しかし両者聞の閥連については知るをえない。 ③ 拙稿﹁二十八宿と吠陀成立の年代﹂東方皐報・京都第十三冊。 ① ﹀ ・ 者 。 ぴ 2 L E 5 F o m Z E O D L 。 ︼ ・ P ω ・ 主 0 ・
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・ ① 当 ・ 巧 ︸ 岡 山gaL
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m w 白色 ZZ ︼ 日 一 口 才 ω b ・4 1 m 凶 円 山 山 円 高 H Y ∞ ω 山 Y H ∞ ∞ 0 ・これはロ i マナイズ本であるが、デ l ヴアナ l ガリで書かれた刊行本に はω
丘 芹 開 口 自 号 昌 己 島 。 日 出 血 F 1 2戸 川 、 吋 Z ω P E P−
ω w m w S W 4立 脚 吋
M M Y S M 件 ・ と 司 ・ ﹁ ︿ 包 門 回 出 可 何 回 目 u z z z m 丘 駅 同 岡 山 凶 ・ 冨 印 ∞ ・ が あ る 。 ⑤ ⑦ 拙稿﹁印度の牽牛織女﹂印度事悌教事研究・第二巻第一瞬、および前掲拙稿。 タイティリ l ャ・ブラ l フマナの原文は、 ω σ F t D D U H H ・ 5 D m w 何 百 円 3 5 \ 己 目 ︼ ∞ ・ 1 1 M H 門 − S 劉 4 F U H M U B \ ω︿ 何 百 件 仰 の の H M g 信 仰 凶 詰 山 \ と し ているが、ウエ l パ l 教授はこれを h d t o 円 品 。 ロ m w Z 己 gpcE2 品 。 司 郎 円 。 H V ω i .・と解し、ホイットニ l 教授はこれを E え Z 吋 2 1 r m w p r 止 。 5 昨0
2
・ 3 と 見 、 C H U ω 門戸丸山仏の解揮につき敷次にわたる論争ぞ重ねた。 ③ ① ス l リヤ・シッダ 1 タの二十八宿の経度は斗牛女虚の位置だけが数字でなく、それは次のように述べられている。 ﹁ 斗 宿 の 本星は箕宿の半分にあり、牛宿は同様に箕宿の瑞にあり、斗宿の端に女宿がある。しかし虚宿は女宿の四分の三の部分に連っ て い る ﹂⑮ 九執磨は大唐開元占経中の一巻であるが、それは内容的にインドのものである。しかもその巻頭の序説のところに宿曜経の それと全く同じ﹁肇自上古白博又、二月春分朔、干時曜掲婁宿:::﹂の句がある。九執暦の詳しい研究は、薮内清博士によっ ⑪ て﹁晴唐暦法史の研究﹂中に述べられている。 一 戸 明 日 目 。 お 件 数 授 も 、 円