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市史だより「がちまやぁ」(年2回 7・12月発行) | 宜野湾市公式ホームページ

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(1)

各 字 を 取 り 上 げ て 紹 介 し て い く シ リ ー ズ は 、野 嵩・新 城・普 天 間 ・

安 仁 屋・喜 友 名 と 続 き 6 回 目 を 迎 え ま し た 。今 回 は 、「 伊 佐 」で す 。

伊 佐 は 、 宜 野 湾 市 域 の 北 西 に 位 置 し 、 北

は 北 谷 町 北 前 、東 は 宜 野 湾 市 喜 友 名・新 城 、

南 は 大 山 に 隣 接 し 、西 は 海 に 面 し て い ま す 。

戦 前 の 伊 佐 は 、 さ と う き び と 米 ・ 藁 を 換

金 作 物 と し て 耕 作 し 、 さ つ ま い も を 常 食 と

し た 自 給 自 足 の の ど か な 集 落 で し た 。 伊 佐

浜 か ら 北 谷 に か け て 広 が っ た 「 北 谷 タ ー ブ

ッ ク ヮ 」 は 、 豊 富 な 湧 水 と 地 質 の 良 さ で 知

ら れ 、「 沖 縄 一 の 美 田 」と 言 わ れ る ほ ど の 収

穫 量 を 誇 っ て い ま し た 。

戦 後 は 、米 軍 の 基 地 建 設 に よ り 、現 在 の 国 道 5 8 号 線 よ り 東 側 に 位 置 し て い た 伊 佐

の 集 落 地 が 、キ ャ ン プ 瑞 慶 覧 と し て 接 収 さ れ て し ま い ま し た 。そ の た め 、伊 佐 の 人 々

は 西 側 と 旧 護 岸 を 挟 む 狭 小 な 土 地 へ と 移 動 さ せ ら れ 、 農 業 の 零 細 化 が 進 み ま し た 。

伊 佐 の 人 々 は 、 時 代 が 進 む に つ れ 、 地 域 の 歴 史 に 対 す る 認 識 の 薄 れ を 懸 念 し 、 次

世 代 へ 継 承 し て い こ う と 、「 字 伊 佐 集 落 図 板 」 や 「 伊 佐 区 戦 没 者 慰 霊 之 碑 」 を 建 立 し

て い ま す 。 ま た 、 2 0 1 1 ( 平 成 2 3 ) 年 に は 、 伊 佐 に 関 す る 沖 縄 戦 や 、 伊 佐 浜 の 土 地 闘

争 な ど の 歴 史 を 含 め 、 自 然 、 文 化 等 を 記 録 に ま と め た 字 誌 『 伊 佐 誌 』 が 発 刊 さ れ る

な ど 、 人 々 の 団 結 力 、 絆 の 強 さ が 感 じ ら れ ま す 。

問 い合 わせ・情 報 提 供 先

Š ∗ § ∗ ¬ ∗ ¡

« (098)870− 9317

F a x (098)870− 9316

E -M a i l :K y o i k u 0 8 @c i t y. g i n o w a n . o k i n a w a . j p

第 28号 ・

201

3年 7月 31

日 (

水 )

発 行

年 2回 (7・12月 発 行 )

Ø Ø Ø Ø Ø

編 集 ・宜 野 湾 市 教 育 委 員 会 文 化 課 市 史 編 集 係

〒 901­ 2224

沖 縄 県 宜 野 湾 市 真 志 喜 1­ 25‐ 1

(宜 野 湾 市 立 博 物 館 内 )

Ga

č

i-m a ja a

※宜 野 湾 市 役 所 の ホ ーム ペ ージで 、バ ックナ ンバ ーも 公 開 中! ! !

H Ph t t p : / / w w w . c i t y. g i n o w a n . o k i n a w a . j p

▲ 喜 友 名 よりキャンプ瑞 慶 覧 を挟 んだ伊 佐 方 面

(2)

けた

もともとの位置から移動されておら ず、保存状態も良いので、1991(平成 3)年に市の史跡として指定された。

いさ

クンチンガー(フンシン ガー)の近くにあった。

いさ

嶽原

赤くて軽い。文化課が保 管しているハル石の中では 一番小さい。

伊佐についての史料や習俗について、いくつかご紹介します♪

1623 年

伊佐の名称が確認できる史料は、現在のところ 1 6 2 3 (天啓

てんけい

3)年

の『おもろさうし(巻 1 5

の 5 1 )

』にある「ゑさ」が最も古いもので

す。

「宜野湾ノロ(神女)が伊佐杜に天降りして、シマ(村)を霊的に

統治して、按司襲い(王)に奉れ」というもので、地方おもろに分類

され、按司や神女を讃め謡ったものです。

ちなみに…

宜野湾は、琉球王国時代の 1 6 7 1 (康熙

こうき

1 0 )年に「宜野湾間切」とし

て誕生しました。浦添間切から 1 0 ムラ(伊佐・宜野湾・神山・喜友名・

嘉数・我如古・大山・大謝名・宇地泊・新城)、中城間切から2ムラ(野

嵩・普天間)、北谷間切から1ムラ(安仁屋)を分け、1ムラ(真志喜)を

新設し、計 1 4 ムラで構成されました。現在の宜野湾市域は主に浦添間切

であり、そのため、宜野湾関係のおもろが多く入っているのは、巻 1 5 の

「うらおそいきたたんよんたむざおもろ御さうし<浦添・北谷・読谷山>」

ということになります。

1737∼1750 年

伊佐には印部

し る べ

土手

ど て

いし

通称

「ハル石」

が残っています。

首里王府が 1 7 3 7 ∼1 7 5 0 ( 乾

けん

りゅう

2∼1 5 ) 年に土地測量を実施( 元文

げんぶん

検地

け ん ち

) し、その際に設置された図

根点

こんてん

( 基準点) です。伊佐

関係で確認できているものは3基あり、そのひとつは市指定史跡となっています。

■『おもろさうし』

沖縄 最古 の歌 謡集。

第 15 巻は 1623(天啓3)

年編さん。

(3)

1820 年

伊佐には、市指定史跡がもうひとつあります。

国道58号線近く、伊佐市営住宅の一角にある

伊佐

い さ

はま

「新造

しんぞう

佐阿天

さあてん

はし

」という石碑です。これ

は中頭方

なかがみほう

西海道

せいかいどう

という公道を、1 8 2 0 (嘉慶

か け い

2 5 )

年に大幅改修(山手側から海岸寄りに)した記念

として建立されたものです。

以前この周辺は、白砂が遠浅の浜辺に続く美し

い海岸だったそうです。その美しさは、組踊『姉

妹敵討』や新作民謡にも登場しています。

戦前の習俗

海岸沿いにある伊佐ですが、戦前は農業中心の集落でした。普段海へ

行くのは怠け者とされていたそうです。そのため、海に関する習俗はそ

れほど多くはないようですが、旧盆の 1 3

日と 1 4

日には海に出て、魚

釣りや潮干狩りをするの大目に見てもらえたといいます。そこで獲れた

ものを仏壇に供えたそうです。

また、伊佐をはじめ、西海岸の大山・真志喜・宇地泊などでは、ダビ(荼毘)の夜、喪

家の室内にウル(珊瑚の礫

れき

)を投げつけることで、家人を死に至らしめた魔物を追い祓

はら

ムヌウーイ(魔物追い)という儀式が戦前まで行われていたそうです。

「喪家の人や親戚の

人たちを座敷に集め、夜7時頃から、葬式でアカンマー(龕

がん

)を担いだ5人のなかから3

人が行う。ブイという板切れを振り回す人に続いて、他の2人は塩水をまきながら家の中

を7回ほど回る。その後、庭先に用意された包丁を置いた臼を蹴り倒し、門外へと走り出

る。そのまま、葬式で通った道の両脇にウルを投げつけながら、墓地の近くまでムヌを追

っていった。その後、喪家に戻り、ウルを入れていたティール(手籠)を壁や雨戸に投げ

つけた」というものです。野嵩や嘉数ではイリチマーミ(炒り豆)

を投げつけたそうですが、ウルを使うところが海に近い集落なら

ではといえるかもしれません。

のどかな集落だった伊佐も、沖縄戦によっ

てその姿は大きく変わりました。戦前に拝ま

れていた御嶽

う た き

や聖地

なども、そのほとん

どが米軍の土地接収

により破壊されまし

た。現在それらは、

伊佐公民館敷地内に

建てられた拝所に合祀されており、新しい

石の香炉が11個安置されています。

● こぼれ話 ●

戦前の伊佐には石敢当はなかった!?

きれいに碁盤目状に区切られていたので、

T 字路がなかったためだそうです。

(4)

■ 頭越しの「折衝」

1954年7月に突如として通告された、伊佐浜の水田地帯における水稲植付禁止令‐ もちろん

それはキャンプ瑞慶覧の増強に他なりませんが‐ 以降、幾多

いくた

の「交渉」がなされてきました。

しかしながら、それらの「交渉」の結果は、ことごとく伊佐浜側の要求‐ 軍用地の開放にせよ、

だい

替地

たいち

の獲得にせよ‐ を踏みにじるものでした。とりわけ、54年12月13日から翌年1 月17

日にかけての、約一ヵ月間に及んだ「 折 衝

せっしょう

」は、米軍、琉球政府、そして宜野湾村の三者のみ

でなされたがゆえに、すなわち伊佐浜住民の頭越しになされたがゆえに、「折衝」のあり方自体

が伊佐浜住民にとっては全く不服なものであったと言わざるを得ません。

■ 史料について

沖縄県公文書館で公開されている米軍側の史料、“Land, 1955. Miscellaneous”(資料コード:

U81101363B)には、55年1月上旬の、つまり前記の三者が「折衝」している最中の、数名の

伊佐浜住民と宜野湾村長の発言が英文に翻訳され、「概要」として記録されています。

誰がどのような方法でこのような発言を 聴 取

ちょうしゅ

したのか、そもそもどのような目的でこの史料

が作成されたのか、という点についての確かなことは即断できませんが、史料中の「情報源」の

欄に「米国民政府公安局」とあることから、伊佐浜内部の動きを米軍側が察知

さっち

しようとしたとい

う可能性は否定できません。

■ 立退き反対の決意

まず史料を一瞥

いちべつ

して見て取れることは、代替

地の獲得が 暗 礁

あんしょう

に乗り上げていることによる、

伊佐浜の人々の生活不安の大きさです。事実、

これまで 伊佐浜 の人々が 代替地 として 要求し

ていた伊 佐浜海 岸の三万 坪の干 拓はす でに軍

によって却下され、さらにその代案とされた志

真志区の荒蕪地

こうぶち

については、志真志の地主との

協議が設定すらされていませんでした。

このような状況の中、伊佐浜の人々は立退き

反対の意思を明確にしていきます。例えば、農

業で生計を立てていた、当時60歳の伊佐浜の

男性は、「私が車に轢

き殺されたとしても、我々

の生計が保障されない限り、私は伊佐浜を出て

行かないと決心した」との強い決意を表明し、

「戦争が終って10年が経つ今日、我々の生計

の基盤は伊佐浜の土地に託されたのだ」と発言

しています。この発言にみるように、伊佐浜の

人々が立退き反対の決意を固めたのも、伊佐浜

の人々の生活が、伊佐浜の土地に深く根差した

ものであったからに他ならなかったからです。

“ Sta te m e nt Re g a rd ing Milita ry La nd Issue o f Isa ha m a ”

伊佐浜代表者の澤岻安良氏の発言が記録される

(5)

■ 琉球政府、米軍への不満

こうした決意表明と並んで、史料には琉球政府や米軍への不満が記録されています。

同じく立退き反対を表明した、当時 38 歳の男性は、「政府でさえ緊急の解決方法を知らない

ようだ」と、琉球政府の無策に言及しつつ、「政府は補償法を要求する手続き中だと言われるが、

もし沖縄で補償法が求められたとしても、それは米国連邦議会に承認されなければならず、その

法律も米軍に対処するためのものなのだ」と述べています。こうした発言は、「補償法」の一つ

を取ってみても、琉球政府と米軍/米国という気の遠くなるような二重のハードルが、伊佐浜の

人々に立ちはだかっていたことを伝えています。

■ 生きる権利の要求

一連の史料には、伊佐浜の代表者であった澤岻安良氏の発言内容も確認できます。代替地の獲

得にせよ、再建資金の要求にせよ、それらが伊佐浜の人々にとっての生きる権利を保証するため

の要求であったという点が、以下に引用した澤岻氏の発言からうかがえます。

「現在、我々がなしている要求は、我々の生きる権利に基づくものであり、それらは『理由な

き貪欲な』要求ではないと私は信ずる。〔略〕先祖伝来の土地を軍に提供することによって、

我々は最大の犠牲を被っていると私は思う。したがって、軍と政府はこの犠牲の見返りとして、

我々の再建のための最低限の保証をしなければならないはずではないか?私は貪欲なのでは

絶対にない。」

こうしたなか、米軍、琉球政府、宜野湾村の三者による「折衝」は55年1月17日をもって

打切られました。翌日付の新聞報道を通じて「伊佐浜問題の円満解決」が伊佐浜の人々の頭越し

に演出されましたが、そこで提示された「八条件」とは、伊佐浜側の要求とは程遠いものでした。

この「円満解決」の報道後、伊佐浜の女性たちが立ち上がり、伊佐浜闘争は新たな展開が切り

拓かれていくことになるのです。

戦後資料編Ⅱ「伊佐浜の土地闘争」の事業では資料の

編集と並行して、聴き取り調査や伊江島、沖縄県公文書

館で史料調査を行いました。

沖縄県公文書館ではプライ ス調査団や戦後移 民 の渡

航費に関する史料を新たに収集することができました。

聴き取り調査では、当時伊佐浜に住んでいた方に今回

収集した史料を見てもらいながら、お話を伺いました。

女性たちが異議申し立てをした時の話や接収後 来沖し

たプライス調査団へ手交した反駁文の話につい て詳し

く語ってくださいました。

この場を借りて今回調査に ご協力いただいた 皆 様に

深く感謝申し上げます。ありがとうございました。

「price committee visit 1955」 沖縄県公文書館所蔵

(資料コード:0000024776)

(6)

2013( 平 成

25)年

5 月

31 日 、南 風 原 町 中 央 公 民 館 黄 金 ホ ー ル に お い て 、沖 縄

県 地 域 史 協 議 会

2013 年 度 総 会 お よ び 第 1 回 研 修 会 が 行 わ れ ま し た 。

沖 縄 県 地 域 史 協 議 会 は 、 市 町 村 史 編 集 関

係 者 お よ び そ の 関 係 機 関 で 組 織 さ れ て い て 、

定 期 的 に 研 修 会 等 を 行 い な が ら 、 情 報 の 交

換 な ど を 行 っ て い ま す 。

ま ず は 、

「 沖 縄 陸 軍 病 院 壕 群 の あ る 黄 金

森 周 辺 を 歩 く 」 と い う フ ィ ー ル ド ワ ー ク に

参 加 し ま し た 。 ガ イ ド と 共 に 慰 霊 祈 和 の 塔

か ら 国 民 学 校 跡 へ 行 き 、 炊 事 場 跡 を 通 っ て

き ま し た 。 ガ イ ド さ ん に は 丁 寧 な 説 明 を し

て も ら っ て 、 と て も 感 謝 し て い ま す 。 坂 道

を 暑 さ に 耐 え な が ら 登 っ て い く と 、 戦 争 当

時 の 足 場 が 悪 い 過 酷 な 状 況 が 想 像 で き て 、

感 慨 深 い も の が あ り ま し た 。

午 後 は 講 演 会 を 中 心 に 進 め ら れ ま し た 。

地 域 史 に お け る 沖 縄 戦 史 に つ い て な ど 、 こ

れ か ら 地 域 史 を 研 究 し 、 発 展 さ せ て い く た

め の ヒ ン ト を 数 多 く 学 ば せ て い た だ い た も

の と 思 っ て い ま す 。 県 や 市 町 村 、 ま た 多 く

の 地 域 史 づ く り に 携 わ っ て い る

人 達 と の 交 流 も 行 わ れ 、 勉 強 に

な っ た 一 日 で し た 。

地 域 史 協 議 会 に 参 加 し ま し た !

フ ィ ー ル ド ワ ー ク の 様 子 ♪

吉 浜 忍 先 生 の 講 演 ☆ ミ

■ ■ ぎのわんのサングヮチャー(三 月 遊 び)調 査■ ■

市 史 編 集 係 で は 、 市 内 民 俗 芸 能 調 査 事 業 と

し て 、 旧 暦 3 月 3 日 の サ ン グ ヮ チ ャ ー ( 三 月

遊 び ) の 調 査 を 行 っ て い ま す 。 こ れ か ら あ ち

こ ち 伺 う 予 定 で す の で 、 調 査 の 際 に は ご 協 力

よ ろ し く お 願 い し ま す 。

● ● 平 和 学 習 in嘉 数 高 台 公 園 ● ●

6 / 26 に 宜 野 湾 市 立 嘉 数 中 学 校 の 1 年 生 の

み な さ ん 、 7 / 3 に は 西 原 町 立 西 原 東 中 学 校

の 1 年 生 の み な さ ん と 嘉 数 高 台 公 園 に て 平 和

学 習 を 行 い ま し た 。 陣 地 壕 ・ ト ー チ カ ・ 慰 霊

の 塔 や 展 望 台 な ど を 巡 り ま し た 。 暑 い な か 、

一 生 懸 命 説 明 を 聞 い て く れ ま し た !

激 戦 の 地 に 実 際 に 来 て み て 、 ど ん な こ と を

感 じ た で し ょ う

か 。 沖 縄 戦 、 そ

し て 平 和 に つ い

て 考 え る 一 助 と

な っ た の で あ れ

ば 幸 い で す 。

▲ 4 / 2 1 我 如 古 の サ ン グ ヮ チ ャ ー ♪

▼ 4 / 2 3 字 宜 野 湾 の サ ン グ ヮ チ ャ ー ♪

嘉 数 中 の み な さ ん

参照

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