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ゲーテの「イフィゲーニェ」における自由について

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

ゲーテの「イフィゲーニェ」における自由について

著者 小野村 胤久

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 15

号 1

ページ 13‑29

発行年 1967‑02‑28

その他のタイトル UBER DIE FREIHEIT IN GOETHES ?IPHIGENIE AUF TAURIS

URL http://hdl.handle.net/10105/3340

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ゲーテの「イフイゲ‑ニェ」における自由について

小  野  村  胤  久 (外国文学教室)

13

I 運命 と 自 由

ゲ‑テの「ファウスト」において現われている運命と自由の問題は既にその「イフィゲ一二 ェ」 (1789)において複雑な要素を展開していると思われるO エウリピデスの「イフィゲ‑ニァ」

において取扱われたタンタルス(Tantalus)にまつわる神話を素材にしたゲーテの「イフィゲー ニェ」も一種の運命劇ではあるが、ギリシャ的運命がゲーテの作中に取り入れられる為には質的 な転換が必要であった。之は当時のゲーテにおける内面化、自我と世界との均衡という人道 (Humanitat)に通ずる.この場合運命の内面化とは人間の精神に内在する悪魔的(damonisch) な力からの解放であるO ここに全体としてイフィゲ〜ニェの自由の概念がうかがわれると思うo

此劇の様式は所謂高尚な単純さと静かな偉大さ(edle Einfalt und stille GroBe)の典型とい われ、之はヴィンケルマンの感化による造形美術の影響と見られるが、その裏には諦念(Entsa‑

gung)のエートス(Ethos)がある.卜‑マス.マンもこのエートスはゲーテの個人的なもので あり、運命であるといっている。(注1)コルフのいう様に、あらゆる脅迫的な葛藤を人道によりて 克服することに此劇の主契機がある。(注2)

ゲーテ自身がシラー宛の手紙(1802年1月19日)でのべているように、この「イフィゲ‑ニェ」

とレッシングの「貿者ナ‑タン」 (Nathan der Weise)とはよく比較されるが、要するに前者に は寛容の恩想(Toleranzgedanke)がないのに、後者にはそれがあること、前者が恐るべき悲劇 の純粋な美しい解決の劇(Schauspiel)であるに反し、後者は真面目さへと探化してゆく喜劇で ある。又、前者の悪性の男(オレスト)の情熱は高潔な女性(イフィゲ‑ニェ)の純粋な人間性 によりて救われるが、後者の喜劇の錯綜した運命の結節(Schicksalsknoten)は男の叡智によっ て解かれることに差違が見られる。(注3)しかし両者共に運命と自由の問題を解決していることは 共通である。

ゲーテの「イフィゲ‑ニェ」では人道(Humanitat)と非人遺(Inhumanitat)との間の緊張 が非常に進んでいるが、最後に非人迫から人道が現われ、その克服力は明るい光明をもたら し、真の自由が開けて来る0 ‑ルダー(Herder)の歴史哲学によると、人道(Humanit云t)の 根本規定をなすものは理性(Vernunft)と自由(Freiheit)である。即ち自然の努力の最高の目 標は自由と理性に達することであり、この二つは原理において一つで、同じものから生じて来

る。我々が自由と名づけるものは我々の力を自由に使うことであり、自然が個々の衝動(Trieb) より開放される時には自然はこの状態に到達する。どの動物にも特殊の衝動は具現されてはいる が、人間ではその本質がすべての衝動の合一であり、この衝動が平衡状態に達している。それら は互いに制限しあい、抑制しあう。之を我々は自由と名づける。しかし自由のこの無差別状態

(Indifferenzzustand)が達成され、その中で自然力がその結合により拘束される場合には更に

高級なものが寛われる地盤が準備されるO その時に自由は理性として現われる。理性とは慎重

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ゲ‑テの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

(Besonner‑heit)の状態と解すべきで、自由が自由意志における衝動の揚棄(aufheben)に基 くように、理性はある判断における種々雑多な経験の揚乗に基く。なぜなら人間の理性は経験に よりて学ばれる人生の実習(Lebenspraxis)であるから。かくて理性は自由の旗下にある。人間 は最早衝動の支配を受けず、衝動はこの衝動を選択する理性の支配下にあるOかくてヘルダ‑の いうように、人間こそ神の創造物中で最初に自由の身にされた者(der erste Freigelassene der Schopfung)であるO人間はそれ故自然の冒険行為の産物であり、自然は人間と共に自由に達す るために迷誤を敢行するが、迷誤から最後に真理が期待されるので自由を敢行する。つまり迷誤 を通じて真理へ、非人道から人道へと到達する可能性を人間は持っているのであり、ヘルダーも この迷誤の教育的価値を認め、ゲーテも之を認めていたことは明らかであるO唱4)

かくして人道と自由との関係は明らかになるが、之と関連する重要な事柄は宗教である。 ‑ ルダーが「結局宗教が人間の最高の人道である」というように、宗教とは神の認識だけではな く、人間が伸の法則に自発的に従うことであり、人間が人道により自由を所有する時、益々重要 なものとなる。即ち宗教は自由の必然的な補充であるといわれる。つまり人間が神の法則に強制 的に結びつけられていたことから解放されて後、自発的にこれに結びつくことで、この坤の法則 は人道以外は望まない。之がゲーテの「イフィゲーニェ」に全体として貫くイデーの一つで、

又之がゲーテが「イフィゲ‑ニェ」の素材をとった古代との関係が一種の宗教といえることとも 関連していると思う。

ゲーテにとっては、すべて偉大なるもの・高貴で真なるものの総計がギリシャ的なものであ り、彼は造形美術から発するギリシャの主要人物の「高尚な単純さと静かな偉大さ」がギリシャ 悲劇の主人公中に再発見されることを信じ、ソフォクレスの「フィロクテ‑ト」 (Philoktet)や

「コロノスのエジープス」 (Odipus auf Kolonos)にこれが再現されているのを見た。 「イフィゲ

‑ニェ」の根本思想はこの根底に築かれている。(注5)この作の作者の最も特有な秘密の運命が全 人類の運命を包括するような最も一般的な意味を獲得する点に「イフィゲーニェ」の本質があ る。ゲ‑テの詩「花婿」 (derBrautigam)に、 「人生はどうであろうとも、よいものだ。」(,,Wie es auch sei, das Leben, es ist gut.)とあるのが、ゲーテの道であり、心の底から光明のある 高所へ通ずる自由の道である。 「イフィゲーニェ」の事件はゲーテの初期ワイマール時代の袈期 期の中で演ぜられ、運命の暗黒がその底に醗酵するが、その頂上では神(Vorsehung)への信仰 の明るさが支配している。現実においては運命と自由とが不可解に互いに作用しあい、之をゲー テはヴィル‑ルム・フォン・フムボルト(Wilhelm ‑von Humbolt)宛の手紙(1832年3月17日) 中で紙片と封筒(Zettel und Einschlag)という比境を用いて次の様にのべている。

「無意識と意識とは私が好んで用いる比境である紙片と封筒のようなものだ。人間の器官は練 習・教え・沈思・成功・不成功・促進と抵抗そして又もや沈思によって意識なくして自由な活 動において、後天的なものを先天的なものとを結びつける。そのため世界を驚かす様な統一を

もち出すものだ。」

しかし、現実においては何人も「紙片」を「封筒」から、さっぱり離して原因と結果を敢えて 区別してはならない。即ち人間を永劫の罰を受ける者として描く者や自分の自然への信頼を破壊 する者は心の中に悪(das Ubel)をつくり出し、之をふやすのであり、人を悪者(Schurke)と 見放す者は其の中に悪者を喚起する危険を冒すのであるD反対に人に愛と信親の目を向ける者は

高級な力を起させ、その人を信頼にふさわしいものと見るであろう。即ち悪は説明を要するが、

善は自然に理解される。(注6)之が道徳的美(Kalokagathie)である。人間はいわば運命と神との間に

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ゲ‑テの「イフイゲ‑ニヱ」における自由について(小野村)

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立っている。人間はその民族とか、両親とか、周囲の生活を自分で選んだわけではなく、自分 の遺産をいかに形成して行くか、又、人生に如何なる意味を与えようとするかは人間の自由に任 されている。しかし、ゲーテの詩「神的なるもの」 (das Gottliche)にあるように、人間は高尚で あり、有用な善良なものであるべきで、高級な本体を我々は単に予感し、人間は此予感によって 聞えて来る声に従うことによってのみ、神の勝利を助けるので、信仰・希望・愛情こそ人間の最 高の自由であってゲ‑テの人道の方式といえよう1827年3月31日にゲ‑テが俳優クリュ‑ガ‑

(Kruger)に宛てて書いた詩の中の

Alle menschliche Gebrechen Siihnet reine Menschlichkeit すべての人間的な欠陥を 純粋な人間性が購ってくれる。

という言葉は此人道の象徴と見られるO エゥリピテスの「イフィゲ‑ニァ」とゲ‑テの「イフィ ゲ‑ニェ」の相違は結局エゥリピデスでは運命が人間を支配しているが、ゲーテは人間対人問の 魂が自由を得る点に認められると思う。

Ⅱ 性格の 自 由 1)女主公イフィゲ一二ェについて

イフィゲーニェの性格を最もよく現わしているのは此劇の第5幕第6場でオレスト(Orest)が いう次の言葉である。

Gewalt und List, der M邑nner h∂clister Ruhm

Wird durch die Wahrheit dieser hohen Seele Beschamt, und reines kindliches Vertrauen Zu einem edeln Manne wird belohnt.

男子の最高の栄誉たる暴力も妊計も この尊い魂の真実によって辱められ 高貴な人への純真な信頼は

今その報償を得るのです (2142行‑2145行)

(成瀬無極先生訳、以下同じ)

先ずイフィゲ‑‑ユは人間の犠牲という奉仕を女神官として強制的にやらされて来たので、こ の勤めから自由になることを願う。しかし自由の正しい解釈では、自由とは法則と義務の履行に 忠実であることであるO第5幕第3場で、ト‑アス(Thoas)が

Gehorche deinem Dienste, nicht dem Herrn.

主人ではなく、おん身の勤めに従えと申すのだ(1855行) という言葉に対し、イフィゲーこェほ、次のようにいう。

LaB ab ! Beschonige nicht Gewalt,

Die sich der Schwachheit eines Weibes freut.

Ich bin frei geboren als ein Mann.

お止し下さいませ!それは女の弱さを楽む

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ゲーテの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

暴力が巳れが非を飾ると申すもの、

女ながらも私は男と同じ自由の生れでございます(1856‑1858行) この言葉は女性としての自由・人権を現わす現代にも通ずるもので、之は同じく第5幕第3場の イフィゲ‑ニェの次の言葉と照応する。

Von Jugend auf nab'ich gelernt gehorchen,

Erst meinen Eltern und dann e二ner Gottheit,

Una folgsam fiihlt'ich immer meine Seele Am schonsten frei ; allein dem harten Worte, Dem rauhen Ausspruch eines Mannes mich Zu fiigen, lernt'ich weder dort noch hier.

幼少の頃から服従の道は学びました。

最初は両親に、次には神様に、そして

従JrBにいたしながら私の心はいつもこの上もなく晴やかに 自由でございました。しかし一人の男の無情な言葉や 粗暴な申し出に従うようには彼処でも此処でも 鉢けられなかったのでございます。 (1827‑1830行)

これらの言葉は一面イフィゲーニェの外部的自由を示しており、カントが「永遠の平和」 (der ewige Friede)の中で「自由とは何人にも不当なことをしない場合の行為の能力である。私の外 部的自由とは私が同意を与えることの出来た以外の如何なる社会にも服従しない権能である。」

といったことを参照しても首肯できる。イフィゲーニェは純粋に良心で行動する近代女性で、イ プセンの女性に近いが、イプセンのように神経的なところや過度の興奮はなく、強気・大胆でな い点で区別される。彼女の言葉の中には神様(Gottheit)ということばがあるので、他面彼女の

内面的自由が示唆されている(ft?)

元来自我と世界との問の均衡が形成されるべきことが、自我が人道へ移行する特徴であって、

このことが女主人公を通じて全篇に劇の内面化を表現している。即ち全篇を通じて自由という言 葉の内面的形式があるO

イフィゲ‑ニェの性格の実行力とエネルギーを強調する方面は外部的自由に現われ、彼女の永 遠に女性的なるもの(das Ewig‑Weibliche)は内面的自由として効果ある働きをするわけで、

之は後にファウスト第2部に出てくるが、 「イフィゲ‑ニェ」にその萌芽が認められる。彼女は コルフのいうように、一方では人間的な余りに人間的な衝動を感ずると共に、他方その魂の中に は人間の理想が支配して居り、之が特別の意味で清浄な人間として我々に現われて来る。此高度 の理想が一部分は宗教的、一部分は純人間的性質の遺徳的義務感情であって、彼女の高潔な人間 性と真の人道性とは彼女の使命として野蛮人のところへ漂着したものを死より救っている.之は 彼女の個人的救いの原因である許りでなく、スキチャ人を道徳的野蛮状態から自由にし、救うこ

とで(江8)一つの特別の自由の表現といえよう。

又、第4幕第4場のピュラデス(Pylades)との対話で彼女がいう Ganz unbefleckt genieBt sich nur das Herz.

一点の汚れを知らないで心丈が自ら楽しめるものです(1652行)

というのがイフィゲーニェの全生活の内面的意味であっても、彼女の人道性はその限界に達して

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ゲーテの「イフイゲ一二ェ」における自由について(小野村)

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トーアス王からの求婚を拒否して後に起る、弟にふりかかる犠牲や王‑の不信行為をせざるを得 ない運命のため彼女は迷うことになる。生活と運命が彼女が不当なことから自由であることの不 可能を教える.これは自由の危機であるO コルフその他の人々がいう様に、イフィゲ‑ニュの神 及び人道への信仰の動揺は第4幕第5場での彼女の独自及之に続く運命女神の歌(Parzenlied)に おいて体験された。即ち善が此世界を支配するのでなく、権力が支配し、神々自身が善でなくて 悪であり、残酷に思われ、永遠の正義はないかに見え、彼女の精神は世界と一致出来ないけれど

も彼女の感情は尚神を信じようとして、人道の神への祈りが独白の中に見られる。

O daB in meinem Busen nicht zuletzt Ein Widerwille keime ! der Titanen Der alten Gotter tiefer HaB auf euch, Olympier, nicht auch die zarte Brust Mit Geierklauen fasse ! Rettet mich und rettet euer Bild in meiner Seele!

おお、とどのつまりこの胸に

飯逆の心が萌さねばよいが!オリンプの神々よ あなた方に対する古い神々、巨人族の深い憎悪が この弓凱、胸まで隼のような爪で掴みませんように!

私をお救い下さいL,

そして私の魂に宿るあなた方の串姿もお救い下さいまし!

( 1712‑1719行) グンドルフのいうように、イフィゲ‑ニェのこの独自において、人間における絶対善を信ずる 近代人はその永遠の祈りの一つを見るであろうし、元来この祈りの出来ること自体が神の恩恵の しるLであり、之に続く運命女神の歌は此劇全体の重点であるといわれる。(注9)女主人公には遺 徳的力と運命・古い呪いとの闘争が集中しており、劇全体には、これが悲劇におけるカタルシス (Katharsis)の役目をしている。(注1)これを通じて第5幕の最後の和解的解決という内面的自由 の世界が展開する。つまりゲーテの作ではトーアス王からイフィゲ一二ェへ、イフィゲ‑ニェか らオレスト‑、オレストからピュラデス‑と内面的な作用と反作用の連鎖がひかれるが、之がす べて最後にはイフィゲーニェ自身により、即ち彼女の中に支配する真実性と高貴性という遺徳的 力によりて解決されることになる。

2)オレストの自由について

イフイゲ‑ニェほ第5幕第3場で弟オレストの自由について、次のようにいうo Der alteste, den das Ubel hier ergriffen

und nun verlassen hat ‑‑es ist Orest,

Mein Bruder, und der andere sein Vertrauter.

Sein Jugendfreund, mit Namen Pylades.

Apoll schickt sie von Delphi diesem Ufer Mit gottlichen Befehlen zu, das Bild Dianens wegzurauben und zu ihm Die Schwester hinzubringen, und dafiir

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ゲ‑テの「イフイゲ‑こェ」における自由について(小野村)

Verspricht er dem von Furien Verfolgten, Des Mutterblutes Schuldigen, Befreiung.

此処で狂気に罷り、今それが癒えました 年長の男‑私の弟オレストでございます。

して他の男はその腹心の者、竹馬の友で 名はピュラデスと申します。

アポロのお使いとしてデルフィからこの岸辺へ まいりました者。その神勅は

ディアーナの御神像を奪いとり 御妹神をお傍へお連れ申せ。

その褒美には母殺しの罪によって復讐女神に

苦しめられる者を救ってとらせるというのでございます。

オレストは彼が最も愛している者に恐ろしい罪を犯さねばならないという運命に捉えられ、こ の矛盾が彼を狂気に追いやるのであるが、ゲーテ自身の胸中にも二つの魂が絶えず闘争していた ことはファウストの言葉の中にも見られる。オレストを呪いと狂気から癒すものはいう迄もなく 姉イフィゲーニェの純粋な人間性で、之により彼に精神的・内面的自由が与えられる。しかしオ

レスト自身も元来美しい自由な魂を持っていたことはピュラデスの言葉(854‑855行)に見えて いる。        Und seine scheme freie Seele wird

Den Furien zum Raube hingegeben.

彼の美しい自由な魂は

復讐女神の餌食になって了うのです。

叉、彼が第3幕第1場で失神の直前に

Weine nicht! Du hast nicht Schuld.

Seit meinen ersten Jahren hab'ich nichts Geliebt, wie ich dich lieben konnte.

お泣きなさるな!あなたに罪はないのです。

助ない噂から、姉さん、あなたに捧げることが 出来たらと思うような

愛情をまだ何ものにも注いだことはないのです。

といって姉を慰める彼の性格にはあらゆる人間の罪を償う純粋な人間性が認められる。之は既に 同じ場でオレストが姉に自分の身分を打ち明ける時に出ている。

Ich kann nicht leiden, da13 du, groBe Seele, Mit einem falschen Wort betrogen werdest.

Dem Fremden, sinnreich und der List gewohnt,

Zur Falle vor die F也Be, zwischen uns

Sei Wahrheit !

あなたのような立派な方が虚偽の言葉で 偏されるのを私は見るに堪えません。

異国人同士なら腹黒く、読計に慣れて

虚偽で編んだわなを相手にかけるのもよいが、

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ゲ‑テの「イフィゲ‑こェ」における自由について(小野村)

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お互いの間はどこまでも 真実でありたいものです。

つまりオレストの純粋な人間性に、イフィゲ一二ェのそれが反映してオレストの呪より自由に なる契機が出てくるのである。(注11)オレストの母殺しは自然により強制された情熱的な欲望であ って、彼はこの行為の責任を神々に転嫁していた。この神々の命令としての血の復讐は非人道的 な自己欺臓で、オレストの心の中の人道の声がこれを明るみに出すわけであり、かような深刻な苦 しみの際に、内面的な照明としての愛情が出てくる。こういう心の安静は前にゲーテが書いたヴ ェルターにはなかったことはヴォルフ(Wolff)等がいう通りである。(注12)真の人道は復讐でなく て、 「和解」であり、憎悪でなく愛情で、情熱でなく情熱を抑えることなので、ここで大きな内 面的な自由がオレストの上に迫ってくる。オレストが失神して後、我に返っていう独自(第3幕 第2場)はこの劇でも重要なポイントとしてグンドルフからも指摘されているが、ここでは呪

い・罪が最高度に働いているのが見られ、シラーも此独自をはめて「悲劇の舞台では独特のもの で、これはオレストの最後の狂気で、これによって仮肇の女神達も別れをつげる。」と述べた。(注13) 此場面は「エグモント」やグレートへンの没落後の「ファウスト」と同様、気づかいが最高頂に 達した時の眠りが示され、最高の興奮につづいて最も早く弛緩が来るという心理的な法則に従

っているというだけでは充分でなく、ゲーテがひどい試練を受けた人間を尊い悩みの経験をへて 忘却という神の恩恵に任せたと考えられる。一面において、この最後の狂気は所謂悲劇的イロニ

ーといわれ、エリT)ピデスの悲劇とはちがった一つの必然性であるといえよう。この眠りからオ レストは高級な人間として立ち上り、自由な気持で人生の喜ばしい挨拶に答えることが出来る。

1830年2月15E]のゲーテのツェルター宛手紙にも「呼吸するたびに審美的な忘却の川の水が我々 の本質全体に満ちわたるものを考えるがよい。それで我々は自分に適当に喜びを懐古し、悩みを 殆んど恩い出さないのだ。此高貴な神の恵みを私は前から評価し、利用し、高めることが出来た

のだO」といっているG第3幕第3場でオレストはイフィゲ‑ニェにいう。

La6=mich zum erstenmal mit freiem Herzen In deinen Armen reine Freude haben ! 今こそ初めて自由な心であなたの胸の中に 清浄な喜びを味わせて下さい(1341‑‑1342行) 更に同じところで、呪いのとけた喜びの言葉がある。

Es lost sich der Fluch, mir sagts das Herz.

Die蝶Eumeniden ziehn, ich hore sie,

Zum Tartarus und schlagen hinter sich

Die ehrnen Tore'fernabdonnernd叩zu.

Die Erde dampft erquickenden Geruch Und ladet mich auf ihren FIachen ein.

Nach Lebensfreud und groBer Tat zu jagen.

ああ、呪謁が解けるO 私の心がそれを語る0 復讐の女神が立ち去る。その足音が聞える。

地獄‑帰って行く。背後に鉄の門がしまる。

その昔がはるか下方からとどろいて来るO

大地は清新な芳香に煙り、

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20 ゲ‑テの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

その広い面を開いて私を迎え、

生の歓びと偉大なる事業を追い求めしめる。

かくてイフィゲーニェとオレストの二人が内面的に浄化されることにより、次に来る葛藤を克 服して最後の和解的結末が招来される。この二人ともゲーテ自身のカと悩みの具現であるから。

イフィゲーニェの帰郷を実現させたものはエウリピデスにおけるdeus ex machinaではなく、

オレストの無邪気な心情とトーアス王の高潔な心情によるのであって、オレストが情熱を誇りと する青年から遺徳的秩序を自発的に認めることに真の自由を知る成熟した大人に発展したことを 示し、これにもゲーテ自身の体験がある。オレストが第5幕第6場で(2107‑2114行)でいうよ うに、アポロの神託でギリシャに持ち帰るべき姉妹はアポロの妹Dianaの神像でなく、オレス トの姉イフィゲ‑ニェの意味であることが分ったのも、単なる解釈の賠誤に気づいたということ でなく、体験に基く内面的自由の賜物であると考えられる。(酎4)

3) ピュラデス及びトーアス王の性格

第2幕第2場においてイフィゲ‑ニュは異国人ピュラデスの縛めを解いてこういう。

Gefahrlich ist die Freiheit, die ich gebe.

Die Gotter wenden ab, was Euch bedroht!

こうしてあなたに与える自由は危険なものです

神々があなた方を危難からおまもりなさるように! (799‑SOO行) ピュラデスも自分の家の兄達の争いに巻きこまれて救済を得るためオレストと共にイフィゲ‑

ニュのところへ来たが、友情に結ばれているこの二人は深い心的な共通性があるに拘らず内面的 には異質である。この異質はゲーテ自身の新しい概念によるもので、ピュラデスはオレストと密 接に結びついて、オレストを励まして筋の発展に重要な役割を演じている。即ち算2幕第1場で ピュラデスがオレストにいう言葉はその例であるo

Der Gotter Worte sind nicht doppelsinnig,

Wie der Gedriickte sie in Unmut w邑hnt.

神々の言葉は陰ウツな人間が不機嫌に想像するような 酸味なものではない  (613‑614行)

Da ich mit dir und deinetwillen nur Seit meiner Kindheit leb'und leben mag.

幼い頃からお前だけと、ただお前ゆえに

生きもし、生きたいと思う俺なのだ。 (641‑642行) Da ring mein Leben an, als ich dich liebte.

お前を愛し初めた時俺の生活が始まった (654行)

これらはピュラデスが友オレスト‑の愛情と共に明るい彼の人生観や神‑の信仰によって友を 励していることを示すものである。第4幕第1場でイフィゲ‑ニェは先づ弟オレストを神々が喜 びより悲しみへ、悲しみから喜びへと引まわしているのをのべ(1369‑1375行)、次に友ピュラ デスについて次のように感謝して神々に祈る。

Dann erziehen sie ihm

In der N邑he der Stack

oder am fernen Gestade

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ゲ‑テの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

21

DaB in Stunden der Not Auch die Hii】fe bereit sei, Einen ruhigen Freund.

O segnet, Gotter. unsern Pylades, und was er immer unternehmen mag !

一方には神々は彼(オレスト)のために 祖国の町、辺土の岸に

沈着な友を養い育てて

危急の時に備え、助けをお授け下さる。

おお、神々よ、私共のピュラデスと彼の企てまする 一切のことに祝福をお与え下さいませI (1376‑1383行) 続いて彼女はピュラデスの性格について心から賞講のことばをのべる。

Er ist der Arm des Junglings in der Schlacht, Des Greises leuchtend Aug'in der Versammlung ; Derm seine Seel'ist stille ; sie bewahrt

Der Rune heil'ges, unerschopftes Gut, Aus ihren Tie fen Rat und Hulfe.

あの人は戦場における若者の腕、

評議の席における元老の輝く眼だといってよい.

あの人の静かな心は落着という 聖い、尽きせぬ財宝を宿している。

そして妨但し、流浪する者のために

その心の底から忠言と助力をとり出す (1384‑1389行)

実際ピュラデスは極めて心の静かな人物で、髄才に富み、 Dianaの神像を盗み出す計画にも巧 みな考えを出し、オレストを救おうと努力するが、彼には友を内面的な苦悩から引き離す能力は ない。彼はオレストを自分自身の楽観的な世界観に改宗させ、治癒しょうとする。即ちオレスト の苦々しい訴えに、神々の正当なことや神々の慈悲を弁護して次の様にいう。

Ein jeglicher, gut ober bose, nimmt Sich seinen Lohn mit seiner Tat hinweg.

Es erbt der Eltern Segen, nicht ihr Fluch.

善人でも悪人でもみな自分の行為の 復讐をうけるのだ。

両親から子供に伝わるのは祝福だけで呪岨ではない(715‑717行) ピュラデスがドイツ啓蒙主義及びライプニッツからとった此楽天的世界像はオレストへの働き では失敗し、彼の説得の試みもオレストの苦痛を和げることなく、イフィゲーニェが弟を治癒す ることになる。(注15、'しかし、劇全体の雰囲気から見てもピュラデスはこの劇の自由ということに は大いに貢献していると思われる。

次にト‑アス王は女神官の古い習慣を断念して人間的にイフィゲ‑ニュに近づく。彼は初めの

うちはイフィゲ‑ニェに畏敬の念を抱いていたが、次弟にこれが男性から女性への愛に変り、求

婚することになる。ゲーテの作ではエゥリピデスの作とは異なり、イフィゲ‑ニェを感謝を通じ

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ゲーテの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

てトーアスに結びつけ、トーアスを愛情によりイフィゲーニェに結びつけている。これによりエ ウリピデスでは単なる過重にすぎなかったイフィゲ一二ェとト‑アス王との葛藤がゲーテでは深 化されて心の中へ移される。トーアス王はイフィゲーニェが求婚の返事をためらうので、むっと

していう。

Wenn du nach Hause Riickkehr hoffen kannst, So sprech'ich dich von aller Forderung los.

Sprich offen ! und du weiBt, ich halte Wort.

若しおん身が帰国の望み叶うものならば

すべての要求をすてておん身を自由の身としょう。

包まず話されよ!誓言を違えぬほおん身も御存知の筈。

(293‑299行)

この中の最後のセリフ(299行)は理想化されたト‑アス王の性格を示し、和解的な結末を暗 示している。(注16)トーアスは元来自由については第5幕第2場での独白でいう次のような考えを持 っている。

Zur Sklaverei gew∂hnt der Mensch sich gut Und lernet leicht gehorchen, wenn man ihn Der Freiheit ganz beraubt.

人間は全自由を奪われると 容易に奴隷の境遇に慣れ、

服従を学ぶものだ  (1787‑1789行)

しかし、イフィゲ‑ニェが一時的な迷いを神々への祈りによって浄化されて、トーアス王と対 話する時に、彼には真実性がつよく働き、彼は遂にイフィゲ‑ニェの希望を容れて帰国を認める

ことになる。彼の最後のことば「ご機嫌よう!」 (Lebl wohl)はコルフその他の人のいう様に、

ドイツ文芸でも例のない程含蓄にとんだ言葉で、これにより最も苦痛な克己という行為が素朴な 而も感動的結末を見るのであるO 相矛盾する感情の仕界がこの二つの語に含まれ、しかもこれが 互いに別れてゆく人々を和解させるだけでなく、遺徳的運命の放しさをも我々に理解させる。この 運命は諦念のイデーからは分離されないOトーアスの諦念と克己とは非常に美しく、その形而上 学的真価を我々に納得させるもので、我々は最早イフィゲーニュのように、遺徳性と生活とを全 く結合出来ない神と争うことをしないようになる。真に彼にはゲーテの「西東詩集」中のselige Sehnsuchtでいわれる言葉「死して生れよ!」 (Stirb und werde!)という思想があるように思

われる。 (註17)これは真実性を通じて、彼が真に自由な気持を内面的に体得したことによるので、

ヨ‑ネ福音書8の32に「汝等真理を知らんO 而して真理は汝等に自由を得さすべし。」とあるの を想わせるものがある。

4)アルカス(Arkas)について

アルカスは劇の上ではトーアス王の使者の役目を呆しているに過ぎないように見えるが、殊に

(12)

ゲ‑テの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

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第4幕第2場でのイフィゲ〜ニェとの対話では、イフィゲ‑ニェがピュラデスによって定められ た虚偽の芝居の実行を始めねばならないので、彼女の不安がつのるのを彼が予感しているかの如 く、イフィゲ‑ニュに、彼女がタウリス島でしたこと、彼女が自分の仕事を破壊しようとしてい ることを意識させる。彼女はアルカスの言葉で深い感動をうけ、彼の言葉が自分の苦痛を惹きお こすことを認めざるを得ない。而も此苦痛はやましい心から発しているので、アルカスはこの苦 痛を友人だというo即ち次の様な対話になる.

Arkas

Solang es Zeit ist, schont man weder Miihe Noch eines guten Wortes Wiederholung.

Iphigenie

Du machst dir Miih'und mir erregst du Schmerzen ! Vergebens beides : darum laB mien nun.

Arkas

Die Schmerzen sind's, die ich zu Hiilfe rufe : Denn es sind Freunde, Gutes raten sie.

アルカス 時のある限りは、骨折りも 重ねての忠告もいといません。

イフィゲ一二ェ そのお骨折も、私には苦痛となるばかり

言はば両損と申すもの‑それ故もうお許し下さいませO アルカス

その苦痛に私は加勢して貰いましょうー一

苦痛は忠言を与える友人のようなもの故 (1485‑1490行)

アルカスは彼女にタウリス島で示された好意を忘れぬようにと切に勧告して去るのであるが、こ こに彼の人間としての道徳性が灰かに見られ、彼の言葉が無駄でなかったことは、次の第4幕第3 場の独自でイフィゲ‑ニェが愛する人々を運命より自由にするために考えた不正に対する嫌悪・

法則への復帰がその道を開きはじめたことでも分り、その後イフィゲ‑ニュとどュラデスとの対 話を‑て、イフィゲ‑ニェの最後の浄化が行われる。アルカスはすでにイフィゲ‑ニェにその浄 化を用意せしめたもので、彼も人道的立場よりの自由に貢献したものといえよう。

Ⅲ そ の 他の 問 題

1)純粋の人間性(reine Menschlichkeit)と自由

ハイネマンのいうようにゲーテが此作に着手した時代の倫理的宗教的理想即ち教育と発展の目 標は人道性、高貴な人間性であり、ルソ‑の哲学論集、レッシングの「人間の教育」や「ナ‑タ ン」、ヘルダ‑の「歴史哲学」では自然と純粋な人間性‑の復帰を呼びかけているO この純粋な 人間性がこの作の根底となっており、本稿における自由と密接に関係していることは上述の通り

である。

(13)

24 ゲーテの「イフイゲーニェ」における自由について(小野村)

この「イフィゲーニェ」における純粋の理念については前に松山武夫氏が詳しくのべられた が、(注18)結局自由については、シュタィガ‑ (Staiger)のいう様な「自己に内在する神慮の足跡 を消すものから自由になること」が純粋の根本概念となっており、イフィゲーニェに於ても内面 的必然的な神の命令に従うことが純粋であって、彼女の人道性の出発点は彼女の主体性自身の自 由な人格形成の根源的創造にあることが明らかにされている。この具体的な現われとしてイフィ ゲーニェが「一点の汚れを知らない必丈が自ら楽しめるものです.」 (1652fJ)といった言葉があ げられる。つまりシュタイガーのいうように、他人の干渉から自由になって、それ自体の本質に 存する精神・事物・状態が純粋なのであり、 1780年9月8日にシュタイン夫人に宛ての手紙中で呈 示した次の黄金放言(goldene Spriiche)の一部分にはこの消極的な説明と更に積極的説明が附 加されている。

Und wenn du's vollbracht hast,

Wirst du erkennen der Gotter und Menschen unveriinderlich Wesen, Drin sich alles bewegt und davon alles umgrenzt ist,

Stille schaun die Natur, sich gleich in allem und allem, Nichts Unmogliches hoffen und doch dem Leben genug sein.

汝がもしこれを成しとげれば

神々と人間の不易の本地を認めるであろうO その中に一切は動き、

一切はそれに囲統される。汝は心静かに見るであろう。この自然は ものすべてのうちにあって、不能事を敬わないが、しかも生命には 充ち足りていることを。

この放言はゲ‑テ自身が「洗源し、清掃する目的でギリシャ語から翻訳した」ことをのべてい るが、純粋なものは生命には充ち足りたもので、不可能を望み、個々のものへ浪費される放縦は 純粋ではなく、又不調和を固執することは純粋ではない。純粋な人間は純粋な気分の一切との調 和を守ってゆくO かくて1779年8月7日のE]記にrわが口にする‑片の食物にもおよぶ純粋の理 念がわが内にいよいよ明るく輝くことをいのる。」と書いたゲーテは「イフィゲ‑ニェ」におい て、ギリシャ的神に対してスピノ‑ザ的神を心に画いて、人間・運命・神慮の一致する真に自由 な境地を作全体に示していると思われる。

2)浄化(L丘uterung)と自由

此劇で重要なことは女主人公イフィゲーニェとオレストの浄化である。イフィゲーニュについ

ては前述の通り、第4幕第5場の復讐女神の歌が所謂カタルシスの役目を果し、劇全体の筋にも

関係しているO彼女は悪に対する善の勝利を信じていたが、突然非人道的慈意の代表者を神々の

中に見る訳で、復讐女神の歌で噴罪が不可能なこともあり得ることを信心深い、浄化された人間

が回想しており、イフィゲ‑ニュには代々の呪い(Erbfluch)が問題であっても、原罪(Erb細nde)

は問題でなかった。従って彼女には遺徳的な人間の意志が救いの力であった。(注19)即ち運命の浄化

は性格の浄化がなくては不可能であり、心の真実性が浄化の第一条件となっている。これはオレス

トのことばにも見えており、イフィゲーニェもオレストも共に彼等の種族Tantalidenの持つ呪

いの下に立っているけれども、オレストでは情熱と浄化の力が闘っている。ゲーテ自身がシュタ

イン夫人の影響で自分の浄化を内面的におこなったように、オレストの場合も浄化は外部からと

いうよりも内部的に行われる。即ちイフィゲ‑ニェの感化・浄化の力を自ら兄い出したのであ

(14)

ゲーテの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

蝣25

り、シュタイン夫人へのゲーテの信頼が彼の中に既に決定されていた浄化の力を見出したのと同 様である。イフィゲ‑ニェの素材はゲーテ自身の浄化の歴史というべきもので、道徳的浄化の象 徴として彼がエゥリピデスから取り入れた。この点で人間は自力で幸福になりうると主張したベ ラギウス派(Pelagius)の考えも見られるが、 (注20)人間の働きは遠くまでは及ばない。人間の我 欲は頑固な人間の本能であり、人間を納得させること即ち浄化にはイフィゲーニェの性格の前提 である率直なやさしみが必要なのであった。オレストの浄化はこれによって行われた。即ち1770 年代から80年代にかけてのゲ‑テ自身の調和がこの浄化の誘因であって、其の自由を得る手段と 見られる0

3)筋(Handlungl)の自由

ゲーテは彼以前において同じ題材をとり扱った劇の固い伝統から自由にされて、独特な劇の内 面化の過程を踏んでいる。シラー宛の1802年1月19日の手紙にあるように、人道的に筋をすすめ ることを主眼とし、悲劇的基準として旧来の、特にエゥリピデスによって示されたプロロゴス (Prologos)、合唱歌(Chorlied)、使者の報告(Botenbericht)は消失し又は弱められたO(注21) 又、ゲーテ自身のシラー宛手紙(1802年1月22日)の中の言葉のように、この作の特長は筋が舞 台裏で進行し、胸中の倫理的なもの、心情が筋となって眼前にもたらされることで、此作の其の 特長は心魂(Seele)にあるということが出来る。イフィゲーニュとオレストという二人の人物 を中心にした契機は外面的には分離してはいるが、内面的には統一されている。しかも全体とし てゲーテでは悲劇でなく、‑演劇(ein Schauspiel)と名付けられているのも、極めて自由な表現 である。又、ゲーテがエクリピデスのようにdeus ex machinaを入れずに、これを内面的に解 決したのも新しい手法で、之も自由な宗教観念より来ている。レッシングはその「‑ンブルグ戯 曲論」の48節と49節において、これについて論じ、 「人物が動き出せば我々見物人はその動きに 従って人物を感じとらなければならないだろう。筋の発展が見物の前に隠されねばならぬと劇文 学について書いた人々と共に信ずべきだという訳ではない。私はむしろ筋の発展がすぐに第‑に 明るみに出されて、その状況そのものから非常に強い興味が生ずるような作品をつくるとしても、

之は私の力に余るものではなかろう。」といっているが、叉「エゥリピテスの劇もプロロゴスな しでも完全に理解出来る。」とものべている。ゲーテはギリシャ悲劇における対話とコ‑ラス、

舞台とコーラスとの対立を調停し、聴衆を自分のところへひきあげ、人物のやさしい同情に信頼 させようとした。つまり作品全体が人間への最高の信頼を告げ、暴力をいやしむ自由をのべてい る。ギ1)シャの伝説をとり入れつつも、新しい自由の概念を入れて、 Dianaの神像の代りに姉を つれ帰るという解決をみるオレストの性格やトーアス王の和解の精神にもこの筋の自由があづか

って力があるものと思われる。

4)諦念(Entsagrung:)について

女主人公イフィゲーニェの神への帰依と没我的愛情は犠牲死より救われた点に特殊の根拠を

持っているが、彼女は勤めによって最も美しく自由であると感ずる程には人間としての自然の活

動を超越していない。ただその没我的なところが諦念に高められたので、この中に人間の理想が

支配している。フリッツ・シュトリヒの説くように、ドイツ人の本性は東に向けられ、ドイツ精

神は西に向けられているところにドイツ人の悲劇の緊張があり、ドイツ古典文学はこの悲劇的起

原即ち個々の本性の諦念より発生しているO 古典的なゲーテも此深い悲劇性の様相を持ち、疾風

(15)

26

ゲ‑テの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

怒涛より古典主義に至る彼の道は最も苦痛な諦念の通であったo彼の古典的形式は諦念より出て おり、諦念はイフィゲーニェのテ‑マとして始まり、 「タッソ‑」、 「ヴィルヘルム.マイスタ ー」 「ファウスト」にまで及んでいる。叉、ドイツの古代趣味文芸は古代文芸そのものとは全く ちがった面を持ち、それは古代に比して一つの使命を感ずるO それは教化(Versittlichung)と 内面化(Verinnerlichung)である.かくしてゲーテもエゥリ ピデスのイフィゲーニァを全く変 更して、純粋な、神聖な人間性の作用をあらわした。これは救いが古代劇のように欺臓や策略に

よるのでなく、真実性によって求められるからであるO(注22)第4幕第1場におけるイフィゲ‑ニ ェの独白はこれを示している。

O wen der Liige! sie befreiet nicht, Wie jedes andre wahrgesprochene Wort,

Die Brust ; sie macht uns nicht getrost ; sie云ngstet

Den, der sie heimlich schmiedet, und sie kehrt, Ein losgedruckter Pfeil, von einem Gotte Gewendet und versagend, sich zuriick und trifft den Schiitzen.

虚偽こそ禍いだ!

真実の言葉のように胸を軽くしない、

我々に安心を与えず、虚偽をたくらむ者を おびえさせる。虚偽はまた、

神の手によって向きをかえられ、力を失った 矢のように、はね返って

その射手にあたる。       ‑ ・ ・ ・

(1405‑1411行)

又、第5幕第3場でイフィゲ‑ニェがすべての不安を克服してトーアス王に真実を明そうとしてい う言葉も神の正義を信頼して自由の道に通ずるものである。

Allein Euch leg'ich's auf die Knie ! Wenn

Ihr wahrhaft seid, wie ihr gepriesen werdet So zeigt's durch euern Beistand und verherrlicht

Durch mien die Wahrheit !

けれども神々よ、私は一切をお膝の上におゆだね申します!

はめ讃えられ給う如く、まことの神々にてましまさば、

ど加護によりてあかしを立て給い、このしもべによりて、

真実を輝かせ給え!

イフィゲ‑‑ェの感化でト‑アス王も最後に諦念を悟り、彼にも純粋の人間性に基く自由が与え られるが、此教化の意味をゲ‑テが理解せるところに諦念のドイツ的意味があり、諦念は思想に よりて浄化され、内面的に向上して真の自由を得るのである。

Ⅳ 結 論

要するにゲーテの「イフィゲ‑ニュ」では、純粋の人間性が基本となり、女主人公を始めすべ

(16)

ゲ‑テの「イフイゲ一二ェ」における自由について(小野村)

27

ての人物が外面的自由の獲得に努力すると共に、内面的自由を得るために神‑の信仰を通じて浄 化を行い、すべての障害を排除して人間性の向上をはかっている。古代に対する近代的な深化が うかがわれ、そこには又大きな調和・和解の精神が満ち溢れているので、人間の外部的自由に比 して内面的自由のいかに重要であるかが充分に示唆されていると思う。

(完)

注1. Thomas Mann: Bemiihungen. S.84.

注 2. Korff: Geist der Goethe‑Zeit. Bd. IT. S.155.

注 3. Korff:a.a.O. S.156.

注 4. Korff: a.a.O. S.64以下及びS.139以下、 Herders Werke. Hrsg. von Heinrvich Diintzer.

Tl.K. S.154.以下

注 5. Goeths Werke. Meyers Klassiker Ausgabe. Bd. 6.のHeinemannの序文による.

注 6. Emil Staiger: Goethe. Bd.l. S.367.

注 7. Anna Miura: Geistge Fiihrung in den Hauptdramen Goethes (Fortsetzung) (ゲーテ年鑑第2巻1933年刊、 58頁)

注!. Korff: a.a.O. S.161‑162.

注 9. Gundolf: Goethe. S.313.

注10.永野藤夫氏 タウリスのイフイゲ一二ェ(ゲーテ年鑑第3巻 関西ゲーテ協会発行、昭和34年刊、

335頁.)

注11.山岡直通氏 ゲーテのイフイゲ‑ニュに就て. (ゲ‑テ年鑑第1巻1932年刊.287頁) 注12. Hans M. Wolff: Goethes Weg zur Humanit五t. 1951. S.216.

注13. Schiller: Uber Goethes "Iphigenie auf Tauris". (Meyers Klassiker Ausgabe. Bd.15. S.348.) 注14.山岡直通氏 前掲290頁

注15. Hans M. Wolff: a.a.O. S.213‑214.

注16. Gundolf: a.a.O. S.324.

注17. Korff a.a.O. S.168.

注18.校山武夫氏 イフイゲ‑ニェにおける≪純粋≫の理念. (関西ゲ‑テ協会発行 昭和32年刊277頁

!giサ:

注19. Gundolf: a.a.O. S.312‑313.

注20. Emil Staiger: a、a.O. S.366.

注21. Emil Staiger: a.a.O. S.356.

注22. Fritz Strich: Dichtung und Zivilisation S.21‑22.

参 考 文 献

Anna Miura : Geistige Fiihrung in den Hauptdramen Goethes (Fortsetzung) (Goethe‑Jahrbuch 2.Bd.1933)

Hans M.Wolff: Goethes Weg zur Humamtat 1951.

(17)

28

ゲーテの「イフイゲ‑ニェ」における自由について(小野村)

H.A. Korff: Geist der Goethezeit. Bdn. 1934.

Friedrich Gundolf: Goethe. 1917.

Herders Werke. Hrsg. von Heinrich Diintzer. IX. Tl. Schillers Werke. (Meyers Klassiker Aus‑

gabe) Bd.15.

Thomas Mann: Bern屯hungen. 1925.

Emil Staiger: Goethe. Bd. I. (1749‑1786) 1964.

Fritz Strich: Dichtung und Zivilisation. 1928.

Albert Zipper: Goethes Iphigenie anf Tauris. (Reclam)

松山武夫氏 イフイゲ‑ニェにおける≪純粋≫の理念(ゲ‑テ年鑑3関西ゲーテ協会発行) 永野藤夫氏 タウリスのイフイゲーニェ(同上)

山間直道民 ゲーテのイフイゲ‑ニェに就て(ゲ‑テ年鑑第1巻1932年刊)

桜井正寅氏 「タウリスのイフイゲ‑こェ」に関するひとつの考察(ゲ‑テ年刊、復刊9)

そ の 他 Goethe: Briefe und Tagebiicher (InseLVerlag), Breifwechsel zwischen Goethe und Zelter 1949, Eckermanns Gesprache mit Goethe, Briefwechsel zwischen Schiller und Goethe.

等。

(18)

f -7D

f

4 7 1f -::r.J K*üütäHüK?v.( (d'Wf{)

ÜNPN DIE FREIHEIT IN GOETHES ,,IPHIGENIE AUF TAURIS..

Tanehisa Onomura

(Abteilung der ausland.ischen Literatur, padagogische Hochschule Nara, Jafian)

In Goethes ,,Iphigenie" tritt die Frage nach der äußeren und inneren Freiheit hervor. Die innere Freiheit ist doch in diesem Drama am wichtigsten, weil sie mit der Vernunft

des

Menschen das höchste Ziel der Natur ist, wie Herder sagte : ,,Der Mensch ist der

erste Freigelassene

der Schopfung." Diese Freiheit wird nur durch die Humanität erreicht. Beson- ders ist ihr Verhältnis mit dem Schicksal sehr verwickelt, so muß man den Göttern ver- trauen und ihrem

Gesetz

freiwillig folgen, wenn man die wahre Freiheit gewinnen will.

Das

Gesetz der Götter will nichts haben als die Humanität. Die ist eine Idee, die Goethes "I-

phigenie" durchdringt. Der Mensch steht zwischen Gott und dem Schicksal, daher hat er

die

htichste Freiheit, wenn er Glaube, Hoffnung und Liebe in sich trägt. Die Heldin Iphigenie wünscht dem König Thoas ihre

äußere

Freiheit, indem

sie

die Gewalt des Mannes

beseitigen

will, der sich der Schwachheit eines Weibes freut, und sagt, daß sie frei geboren sei, wie

ein Mann, was der Meinung entspricht, die Kant in seinem ,,ewigen Frieden"

geäußert

hat. Iphigenie ist ein modernes Weib, das nur durch reine Menschlichkeit handelt und mit Ibsens Weib verglichen wird. Andererseits hat ihre edle Menschlichkeit und wahre Humanität die innere Bedeutung ihres ganzen Lebens. Durch diese Humanität hat sie die Krise ihrer Freiheit durchmachen können, wie sie im Parzenliedmonolog im 5. Auftritt des 4. Aufzugs gezeigt wurde. Auch ihrem Bruder Orest wird die innere Freiheit durch rhre Liebe

und

reine Menschlichkeit gegeben, die schon in ihm selbst gewesen ist. Er ist d.h. von

dem

Fluch befreit, daß er wegen der Schuld seines Muttermordes von den Erinnyen verfolgt worden ist. König Thoas gewinnt auch schließlich seine wahre Freiheit durch seine Entsa- gungsidee, die infolge der menschlichen Güte und Reinheit Iphigeniens entstanden ist.

Diese

Personen sind alle die Symbole der inneren wahren Freiheit, die durch die Läuterung ihrer Seele und die moderne Vertiefung und Verinnerlichung des antiken Dramas ,,fphigenia"

von Euripides gewonnen wird.

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