企業福祉の変容と生命保険会社の対応
⎜⎜ 雇用調整と団体保険 ⎜⎜
河 本 淳 孝
■アブストラクト
慢性的な労働力不足の時代に脚光を浴びた企業福祉は,雇用調整の時代を 迎えて大きく変容しつつある。わが国では99年から雇用調整が本格化して正 規雇用が大幅に縮小した。企業福祉の主な対象である正規社員が減少すれば 団体保険の被保険者も減少する。事実,正規社員は06年までに12%減少し,
団体保険の被保険者はそれを上回って減少した。人件費効率化を促す経営環 境は今後も続くことが予想されるだけに,生命保険会社は安定した事業基盤 を維持するための有効策を打ち出す時期にある。
雇用調整が進む側らで,非正規社員,若年層等の労働力不足は常態化しつ つある。良質な労働力を安定的に確保する方策のひとつとして企業福祉を再 評価する動きも見られる。生命保険会社はこれまで正規社員の有配偶者層等 を主な顧客層と想定してきたが,今後は多様な顧客層を想定したうえで,企 業の人件費効率や生産性向上あるいは企業福祉格差にも配慮した提案を心が けたい。
■キーワード
企業福祉,団体保険,企業福祉格差
*平成20年9月27日の日本保険学会関東部会報告による。
/平成20年10月9日原稿受領。
1.はじめに
⑴企業福祉を研究対象とした定量調査について
財団法人生命保険文化センターは,80年から02年にかけて, 企業の福利 厚生制度に関する調査 を実施・公表した。同調査で明らかにされた企業の 福利厚生制度や退職給付制度の実態は,企業福祉の研究者や実務担当者等に 有益な情報を提供した。また,社団法人日本経団連は55年から約半世紀にわ たり 福利厚生費調査 を実施しており,広く経済界に人事・労務管理の運 営に資する情報を提供している。株式会社明治安田生活福祉研究所は,社団 法人企業福祉・共済総合研究所と共同して,06年に企業福祉に関する有識者 研究会を設けて定量調査を実施した。同調査では,先に紹介した 企業の福 利厚生制度に関する調査 の一部を継承して,企業福祉の新たな方向性を探 っている。以下では,上記の調査結果を部分的に引用しながら論考を進める。
⑵本稿の目的
本稿ではまず,近年の企業福祉の変容と団体保険市場の推移を確認する。
つぎに,企業福祉格差の拡大という新しい視点から,その背景となっている 雇用調整の実態に光を当てる。続いて,わが国の雇用調整が,今後の団体保 険市場や社会保障財政にどのような影響を及ぼすかを検討したうえで,最後 に,企業福祉格差の拡大が進展する環境下での生命保険会社の対応について 考えてみたい。なお,以下では,福利厚生費は法定福利費,法定外福利費お よび退職費用の合計を指す言葉として用いる(表1)。
表1 福利厚生費の内訳
法定福利費 法定外福利費 退職費用
健康保険・介護保険 社宅・住宅関連 退職一時金
厚生年金保険 医療・健康・生活支援 退職年金
雇用保険・労災保険 文化・体育・レクリエーション 中退金等 児童手当拠出金 団体保険・慶弔関係等
2.景気回復期の企業福祉と団体保険
02年度から始まった景気回復は06年11月には いざなぎ景気 を超えて戦 後最長に至り,06年度決算では過去最高益を更新する企業が続出した。企業 の利益が増えると,その利益の分配先のひとつである福利厚生費も増加する ことが期待されるが,実際のところはどうであったか。人件費に関する統計 は,総額を1人当たり金額(タテ)×対象者人数(ヨコ)で分析するのが一 般的である。まずは,1人当たり金額から見ていくことにしよう。
⑴1人当たり金額の推移
表2はすべて1人当たりの統計である。また,GDP以外の統計はデフレ ーターがないため,名目値を比較している。なお,増減の推移がわかりやす いように,実数を指数に置き換えている。
01年度を100とした指数は06年度になると,名目GDP103.5,厚生労働省 調査の福利厚生費(全国企業)102.8にそれぞれ上昇している。両者は,こ
1) 厚生労働省 就労条件総合調査 が行われなかった年については,前後年度 の調査結果を用いて線形補完で推計。
表2 福利厚生費と団体保険の推移(1人当たり,指数)01‑06年度
01年度=100
1人当たり(per capita)
名目GDP
福利厚生費 保有契約の保険金額
厚生労働省 (全国企業)
日本経団連 (大企業中心)
総合福祉 団体定期保険
<参考>
任意加入制 団体定期保険
2001年度 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0
2002年度 99.1 98.1 100.9 101.9 103.4
2003年度 99.8 98.8 105.1 109.6 111.0
2004年度 100.7 99.5 106.8 110.5 112.3
2005年度 101.7 101.2 108.2 111.9 112.6
2006年度 103.5 102.8 109.3 113.1 112.3
(出典:内閣府 国民経済計算92SNA,厚生労働省 就労条件総合調査 ,㈳日 本経団連 福利厚生費調査 ,㈳生命保険協会 生命保険事業概況 )
の5年間に,ほぼ足並みを揃える格好で推移したようである。一方,日本経 団連調査の福利厚生費(大企業中心)は06年度に109.3まで達しており,先 に見た厚生労働省調査の福利厚生費(全国企業)102.8との比較から,企業 規模間に格差が存在することがわかる。つぎに,被保険者1人当たりの団体 保険の保険金額を見ると,総合福祉団体定期保険 は113.1まで増加して,
名目GDP103.5を大きく上回っている。
わが国では90年代後半あたりから企業福祉の再構築あるいは選択と集中な どが謳われて,社宅・保養所などの改廃や企業福祉のポイント化あるいは賃 金化などの事例が現れたために,その影響で企業福祉の水準が低下して,団 体保険等を扱う生命保険会社への影響も懸念された。しかしながら,表2の 統計を見る限り,懸念された事態は起きておらず,むしろこの5年間は大企 業を中心に景気回復と足並みを揃える格好あるいはそれを上回る水準で企業 福祉と団体保険(遺族保障)の充実が図られたという印象がある。ところが,
つぎの統計を見ると,そのような印象は一転する。
⑵総額の推移
表3に示したのは,1人当たりの統計ではなく,総額の統計である。 法 人企業統計調査 は企業福祉に焦点を当てた統計ではないが,わが国企業が 支出した福利厚生費の総額を確定決算計数に基づいて年単位で推計している。
06年度の指数を見ると,福利厚生費の原資となる付加価値額 は企業利益の 拡大に伴って114.4まで上昇しているにもかかわらず,福利厚生費は93.3に 下降している。また,総合福祉団体定期保険の減少はさらに大きく,06年度 の指数は87.6まで下降している。
2) 弔慰金規定,死亡退職金規定などの財源確保を目的として,企業が保険料を 拠出して加入する企業保険契約。
3) 賃金や福利厚生費等を労働者に分配する前の利益。本稿では,売上高から売 上原価(人件費を除く)と諸経費を差し引いた金額で減価償却を含む。
わが国企業には,バブル崩壊後に業績が低迷して付加価値額が伸び悩むな か,その付加価値額を大幅に上回る勢いで膨れ上がる福利厚生費を全くと言 ってよいほど抑制できなかったという苦い経験がある(2008年4月拙稿 わ が国の福利厚生費の現状と推移 クォータリー生活福祉研究通巻65号)。そ れが,02年度以降の業績好調期になると,一転して,業績低迷期でさえ実現 できなかった福利厚生費の抑制に成功している。賃金や福利厚生費の伸び率 を付加価値額の成長率と安定的にリンクさせる業績連動型のトータル・コン ペンセーション は,米国ではすでに主流になっていると言われるが,わが 国に根付いているとは言い難いのではないか。
⑶対象者人数の推移
既に見たとおり02年度以降の景気回復期に,福利厚生費や団体保険の1人 当たり金額は増加したものの,総額は減少していた。その原因が,対象者人 数の減少にあることは自明である。表4に示したとおり,企業福祉の主な対
4) 賃金と福利厚生費をパッケージにして労使交渉を行い,人事費の伸び率を原 則として利益成長率の範囲内に誘導する人事労務管理の手法。
表3 福利厚生費と団体保険の推移(総額,指数)01‑06年度
(出典:内閣府 国民経済計算92SNA,総務省 法人企業統計調査 ,㈳生命保険 協会 生命保険事業概況 )
01年度=100
名目GDP 付加価値額
福利厚生費 保有契約の保険金額
法人企業 統計調査
総合福祉 団体定期保険
<参考>
任意加入制 団体定期保険
2001年度 100.0 100.0 100.0 100.0
2002年度 99.0 100.9 92.6 95.4
2003年度 99.8 94.6 87.0 92.2
2004年度 105.3 93.6 85.6 89.9
2005年度 106.0 91.0 85.9 87.8
2006年度 103.8 114.4 93.3 87.6 85.6
102.1 101.0 100.0 99.2 100.0
総額(gross)
象者となる正規社員数は91.8,総合福祉団体定期保険の被保険者数は77.5に まで減少 していた。生命保険会社はこのような状況をどう受けとめてどう 対応すべきだろうか。
企業の人件費の調整弁が1人当たり金額(タテ)から対象者人数(ヨコ)
へ比重を移して,正規社員の雇用調整が本格化した。企業福祉や団体保険の 対象となる正規社員が大きく減少することは,安定的な保険事業の基盤を確 保するという観点から憂慮すべき傾向である。団体保険は人的集団の属性に 応じて付保可能性や保険料率を判定するため,被保険者数の持続的な減少は,
契約条件(最低被保険者数等)を下回る事例を増加させ,その結果,契約者 団体ならびにその社員に不効率や不利益が生じる懸念がある。それにしても,
今回の雇用調整はなぜ景気回復期に進行したのか。このような現象はいつま で続くのか。また,同様の現象は,諸外国にも見られるのか。
3.わが国の雇用調整
⑴いつから始まったか
図1に正規社員数と非正規比率の推移を示した。まずは,非正規化の傾向 から確認してみたい。84年度から06年度までの間に,非正規比率はほぼ一貫
5) 02・03年度の減少は,新企業年金保険(死亡退職金規定の財源確保を目的とした 総合福祉団体期保険加入)の被保険者数減少も影響しているものと思われる。
表4 福利厚生費と団体保険の推移(対象者人数,指数)01‑06年度
(出典:総務省 労働力調査 ,㈳生命保険協会 生命保険事業概況 ) 01年度=100
正規社員数 保有契約の被保険者数
<参考>
任意加入制 団体定期保険
100.0 92.3 83.1 80.1 78.0 76.2 総合福祉
団体定期保険 100.0
90.9 79.4 77.4 76.7 77.5 総務省
(労働力調査) 100.0 95.8 94.6 92.9 91.6 91.8 2001年度
2002年度 2003年度 2004年度 2005年度 2006年度
して上昇を続けている。つまり,非正規社員化の進展は近年になって顕著に なった現象ではなく,少なくとも20年間は続いている現象である。つぎに,
正規社員数の推移を見ると,バブル崩壊後も94年度までは増加を続けて,そ れに次ぐ数年間は僅かな増減で推移した後に,99年度から急激な減少に転じ ている。非正規化はかねてより進行していた現象であったが,99年度からは それに正規雇用の縮小が加わって,わが国の雇用調整は本格化した。
⑵どこまで進んでいるか
正規社員数のピークは97年度の3,812万人であった。それが06年度には 3,340万人にまで縮小している。472万人の減少(▲12.4%)である。同期間 には,少子高齢化等の影響で労働力人口が111万人減少しているので,その
図1 正規社員数と非正規比率の推移 84‑06年度
(注)非正規社員=パート・アルバイト労働者+派遣社員+契約社員+嘱託その他 社員。正規社員=非正規社員以外の常用雇用者(役員を除く)。非正規比 率=非正規社員数╱(正規社員数+非正規社員数)
(出典:総務省 労働力調査 )
分は除外して361万人程度の正規雇用調整が行われたことになる(表5)。総 務省 法人企業統計調査 によると,06年度の361万人分の賃金は約19.2兆 円,福利厚生費は約2.5兆円,両者をあわせると約21.8兆円になり,06年度 の税引き前当期利益49.0兆円の44.4%に相当する。その数字を,今回の企業 業績回復における雇用調整の貢献度と見ることもできる。
わが国企業が業績回復期にあえて雇用調整を進めた背景にはどのような事 情があったのだろうか。ひとつには,短期利益を重視する株主や高配当を要 求する海外機関投資家の影響力増大がある。彼らにとって,労働への分配
(賃金,福利厚生費など)が増え続けてその分資本への分配(株主配当,内 部留保など)が減り続ける状況を見過ごすことはできないだろう。また,人 件費効率の芳しくない企業等に容赦なくM&Aを仕掛ける投資ファンド等 も存在する。さらには,これまで低価格を武器に成長してきた新興工業国の 企業の多くは,さらなる低価格の追求に加えて品質の向上にも力を注ぎ始め ている。それらのことを含めた国際的な競争環境の変化が,わが国企業の雇 用調整に少なからず影響を及ぼしていることは疑う余地がない。
表5 労働力人口と正規雇用者の増減 97・06年度 (単位:万人)
(出典:総務省 労働力調査 に基づいて明治安田生活福祉研究所が算出。) 1997 2006 増減
15歳以上人口 10,661 11,020 359 非労働力人口等 3,893 4,363 470 労働力人口 6,768 6,657 ▲ 111
完全失業者 230 275 45
就業者 6,557 6,382 ▲ 175 非雇用就業者等 1,208 989 ▲ 219
役員 386 391 5
雇用者 4,963 5,002 39 正規雇用者 3,812 3,340 ▲ 472 非正規雇用者 1,152 1,663 511
⑶諸外国も同様か
人件費の効率化を進めるのは,わが国企業ばかりではない。OECD先進 各国の企業も同様である。先進国の多くは現在,人口,環境,資源といった 重たい成長制約を抱えて,国内市場の量的拡大はそれほど期待できなくなり,
その代わりに,人件費効率や労働生産性の優劣が企業の競争力を大きく左右 するようになっている。それにもかかわらず,ドイツを除くEU先進各国で は,フルタイム労働者が増加する傾向にある(表6)。
80年代以降,欧州のいくつかの国で,雇用創出型のワーク・シェアリング あるいはそれに類似する政策が採用された。それに伴い,企業グループ内部 で労働時間の再分配のようなことが生じて,その結果,パートタイム労働者 が減ってフルタイム労働者が増えた。また,時間単価の高い残業労働等が減 って時間単価の低い法定内労働等が増えたために,フルタイム労働者が増え るなかで,人件費を抑制することができたと言われている。オランダでは,
政労使の合意を経てワーク・シェアリング政策が実行に移され,その過程で,
税・社会保障負担の軽減( 政 の譲歩),賃上げ抑制( 労 の譲歩)ならび に雇用創出( 使 の譲歩)を同時に目標として掲げることができた。欧州 型のワーク・シェアリングに学ぶべき点のひとつは,社会保障制度の持続可
表6 OECD 先進国のフルタイム労働者数の推移(指数) 97−06年
(注)フルタイム労働者数はOECD定義(主たる仕事で週30時間以上勤務等)
(出典:OECD Employment database,総務省 労働力調査 )
1997 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 カナダ 100 103 106 110 113 115 117 119 121 125 127 フランス 100 102 104 108 112 104 114 115 116 116 118 ドイツ 100 100 100 100 100 99 96 94 93 96 98 イタリア 100 101 102 104 106 109 111 106 108 112 113 イギリス 100 102 104 106 107 102 102 101 102 103 103 日本 (正規社員) 100 100 97 95 95 91 90 89 87 88 89
能性を高めるという目的のために,政労使が痛みを分かち合う態勢を作った ことにあるのではないか。
表6の統計について,補足しておかねばならない。OECD統計には正規 社員/非正規社員という分類は存在しない。それに近似する分類は,フルタ イム労働者/パートタイム労働者である。両者は近似する統計であるが,若 干異なる点もある。日本で言うところの フルタイム・パート社員 (形容 矛盾のある言葉だが,そのまま使用)は,OECD統計ではフルタイム労働 者に,わが国総務省の労働統計では非正規社員に分類される。OECD統計 は労働時間の長さに着目しているのに対して,総務省統計は労働時間という よりはむしろ処遇格差に着目して雇用者を分類している。
⑷いつまで続くか
正規雇用を非正規雇用に置き換えるオペレーションは,正規/非正規間に 存在する処遇格差が大きければ大きいほど,人件費節減の実が上がる。裏返 して言えば,正規/非正規間の処遇格差が完全になくなれば,非正規化の効 果はなくなる。そもそも,正規/非正規という区分自体が無意味になる。し たがって, いつまで続くか という問いに対しては, 正規/非正規間の処 遇格差がなくなるまで という答え方が存在することになる。
企業の人事労務担当者を対象に 企業福祉の課題・問題点 を尋ねたとこ ろ, 社会保障事業主負担(法定福利費)の増加 が突出した1位(44.9%)
の回答であった(明治安田生活福祉研究所 福利厚生施策の新たな方向性 2008年3月)。表7に,社会保障事業主負担の増加額の将来推計を示した。
前提条件を変化させていくつかの推計値を求めた。そのうち,最も大きい値 が11.3兆円であった。わが国企業が現在の正規雇用者数を維持した場合,20 年後には社会保障事業主負担が11.3兆円増加する。仮に,わが国企業が将来 に業績を伸ばして11.3兆円の利益(3.4%の利益成長に相当)を嵩上げでき たとしても,2025年度になると丸ごと社会保障事業主負担に飲み込まれてし まう。ちなみに,11.3兆円を雇用調整で捻出するならば,179.2万人の正規
社員を削減しなければならない。同数の非正規雇用を増加させる前提で計算 すると,正規社員の必要削減数は224.3万人に増える。
社会保障の事業主負担はわが国ばかりでなく,OECD先進国にも存在す る。わが国に固有の問題は,かつて経験のないスピードで少子高齢化が進む ために,社会保障事業主負担の増加も他国に例を見ないスピードで進展する 可能性があり,そのことに強い懸念を感じている経営者が少なからずいるこ とである。そして,そのような懸念が過度の経費削減の圧力となっている可 能性も考えられる。雇用調整は いつまで続くか という問いに対して,
社会保障事業主負担増加にかかる懸念が十分に緩和されるまで という二 つ目の答え方が存在することになる。
ドラッカー(Peter F.Drucker)は 未来への決断 (1995)のなかで,
トップ・マネジメントまで昇進する道のない職種・職務は,すべて外部委託 されるようになる と書いている。 外部委託 は,企業内の雇用縮小と企 業外の雇用創造の双方を促す。わが国では,正規雇用の縮小と,非正規雇用 の創造の双方が促された。そして,その非正規雇用の多くは,厚生年金や雇 用保険ばかりでなく団体保険(遺族補償)や退職年金の対象からも外されて いる。非正規化の進展は,そのような1人当たりの企業福祉格差が横方向に 広がることを意味する。また,企業福祉の対象者の著しい減少は,社会保障 財政や民間保険事業の健全性さらには日本経済全体にとっての打撃となりか ねない。人件費効率化を目的とした雇用調整は,個々の企業にとって短期に
表7 社会保障事業主負担(法定福利費)の増加額 06年度→25年度
(注)西久保浩二(山梨大学教授)の推計値(厚生年金保険,健康・介護保険,雇 用・労災保険等の合計)に基づいて明治安田生活福祉研究所が算出。標準報 酬の上限は変わらないと仮定。
2006 2025 負担増 法定福利費の対賃金比率(%) 12.4 19.3 6.9 社会保障事業主負担の推計(兆円) 20.2 31.5 11.3
は合理的な行動であっても,社会全体で見ると不利益が生じて,その結果,
長期には個々の企業にとっても非合理的な行動となる懸念がある。
4.企業福祉格差
⑴労働市場の二重構造
わが国では,50年代から60年代にかけて 労働市場の二重構造 が顕在化 したと言われる。 労働市場の二重構造 とは,労働条件をたとえば正規社 員と非正規社員に階層化することによって,企業が業績変動の調整弁を持つ 構造を言う。業績低迷期になると,相対的に雇用調整の容易な非正規社員が 減少して企業利益の調整弁の役割を果たす。先に見たとおり,わが国の非正 規比率は84年度以降一貫して上昇しており, 労働市場の二重構造 は確か に存在する。一方,EU諸国では処遇格差の矯正が進んでおり,その観点か ら 労働市場の二重構造 は解消に向かっていると見ることができる。わが 国では,非正規化がもたらす企業利益へのプラス効果(人件費削減効果)に 関心が集中しているのに対して,EU諸国では均等処遇がもたらす社会全体 へのプラス効果(社会保障財政の健全化,雇用の創出,総人件費の抑制など の効果)に光が当たっている印象がある。
非正規社員が増加する理由は,企業側ばかりでなく,従業員側にもあると 言われる。 103万円の壁 や 130万円の壁 を理由に,従業員側にも低処 遇のニーズがあるという主張である。しかしながら,年収に上限を設けてい るからと言って,低処遇を望んでいるとは言い切れないだろう。従業員側に あるのは,低処遇へのニーズというよりは,むしろ家庭生活との両立に有益 な短時間勤務あるいは柔軟な働き方へのニーズではないだろうか。年収に上
6) 妻の所得が103万円を超えると,夫の所得について配偶者控除がなくなる,
妻の所得について課税される(住民税は100万円超で課税される)等が生じる。
夫と妻が逆の場合も同様。
7) 被用者保険の被保険者でない妻の所得が130万円を超えると,国民年金,健 康保険ともに夫の被扶養配偶者ではいられなくなるため,妻に保険料の支払い が生じる。夫と妻が逆の場合も同様。
限を設けていても,基本的には,より高い時給とより短い勤務時間を望むだ ろうし,ましてや,課税対象にならない企業福祉は多ければ多いほど望まし いと考えるのではないか。
⑵企業福祉格差の拡大という新しい視点
米国には,近年の企業福祉格差の拡大速度は賃金格差の拡大速度を上回っ ているという研究報告(Pierce,2001)(Chung,2003)がある。また,両 報告では,正規雇用の減少がとりわけ低所得者層を 企業福祉の少ない仕 事 に追いやる懸念が指摘されている。社会保障と企業福祉の相互補完の態 様は日米で異なるところがあるものの,日本の格差問題を考えるうえで考慮 すべき新しい論点を示唆している(太田總一,2007)。
たしかに,公的保障が社会保険方式で運営される国において,給付費が持 続的に増加する局面に至ると,負担増加が企業(雇用主)等に集中するため に,福利厚生費の節減を目的とした正規雇用の縮小が生じて,結果として,
被用者保険(厚生年金保険と健康保険)および社会保障以外の企業福祉の双 方が適用されない労働者を増加させる可能性が高い。労働者間の格差拡大の
図2 わが国の企業福祉格差のイメージ
研究においては,これまでは賃金格差に焦点が当てられる傾向にあったが,
より正確に生活水準の格差を測定するためには,福利厚生の部分も考慮する 必要がある。実際のところ,わが国の非正規社員は,被用者保険も企業独自 の福祉メニューも,ともに非対象である場合が少なくない(図2)。さらに,
図3に示したとおり,雇用者数に占める厚生年金被保険者の割合は長期に減 少傾向にある。その結果,本来,自営業者などを対象とするはずの国民年金
(第1号被保険者)の37%は雇用者が占めている。もともとは職業別に分立 する制度であったはずの国民年金と厚生年金の区分はあいまいになっている。
最近になってようやく,非正規社員の被用者保険加入促進が重要視される ようになって,均等処遇の推進という観点からの実効性には課題を残しなが らも パートタイム労働法 が改正(2008年4月1日施行)されるなど,非 正規社員の処遇改善に向けた具体的な動きがある。社会保障以外の企業福祉
図3 厚生年金被保険者数および被保険者比率の推移 89‑04年度
(注)雇用者数は非農林雇用者で官公を除く。また,厚年被保険者数は坑内員,船 員,旧3共済等を除く。
(出典:社会保険庁 事業年報 ,総務省 労働力調査 )
(団体保険等)についても,企業福祉格差の是正という観点からの具体的な 対応が望まれる。
5.企業福祉の変容と生命保険会社の対応(雇用調整と団体保険)
⑴タテ・ヨコ両面からの提案
先に見たとおり,02年度から06年度までの5年間に,総合福祉団体定期保 険の1人当たり保険金額(タテ)はGDP成長を大きく上回って13.1%も増 加したものの,被保険者数(ヨコ)は▲22.5%と大幅に減少したために,保 有契約(総額)は▲12.4%と景気回復期にもかかわらず二桁の減少となった。
それらの経験から,景気回復期であっても雇用調整が進展する局面において は,安定的な保険事業基盤の維持・確保は困難であり,新たな対応が必要で あることがわかる。だからと言って,被保険者数(ヨコ)の拡大提案が簡単 に受け容れられる環境にはない。そもそも,福利厚生費を含む人件費総額を 効率化するために,雇用調整が進められているのであるから,企業側には被 保険者の範囲拡大を受け容れる動機は乏しい。そこで注目されるのが,非正 規,若年層あるいは海外生産拠点などで現在生じている労働力不足あるいは 人材獲得競争である。
⑵非正規社員を対象とした企業福祉の充実
表8に,正規社員と非正規社員の求人倍率を示した。両者を比較すると,
一貫して,非正規社員の求人倍率が高いことがわかる。有効求人倍率は1.4 前後,新規求人倍率は2.0前後と長期に高い水準で安定している。非正規社 員の労働力不足は常態化していると見てよいだろう。
それに加えて,近年は非正規社員の基幹社員化に取り組む企業が増えてお り,良質な労働力を安定的に確保する方策のひとつとして企業福祉を再評価 する動きが見られる。たとえば,大手メーカーが国内の工場労働者等を対象 に,非正規社員の入居を想定した社宅を大量に新設する事例などがある。06 年度の非正規社員の市場規模は雇用者全体の33.2%,1,663万人にものぼる
(図1)。
生命保険会社は,ヨコ型の提案を行うにあたり,非正規社員の多様なニー ズをきめ細かく理解する必要があるだろう。たとえば,非正規社員の3分の 1程度は,130万円を上限として年間所得を調整している(21世紀職業財団 平成17年パートタイム労働者実態調査 )。多くの場合は,社会保険の被扶 養配偶者になることならびに所得税の配偶者控除の適用を受けることが主た る目的と考えられる。それらの非正規社員は,賃金が上限に近づくことには 神経質であっても,企業福祉が増えることについてはそれほどに神経質では ない。同じ雇用主からの報酬であっても企業福祉の場合はほとんどが所得に 加算されないからである。さらに,団体保険の保険料のように,金銭価値を イメージしやすいメニューはとりわけ歓迎される可能性が高い。また,非正 規社員の多くは,厚生年金(2階部分)と健康保険の傷病手当金(最長1年 6カ月の休業補償)がないため,それらの給付に対するニーズは強い。さら に,医療費支払いについて税制優遇のある貯蓄商品などを開発することも望 まれるところである。なお,幹部を目指す非正規社員には配偶者や子どもが いる場合も多い。保障ニーズは基本的には正規社員と変わらないはずである。
紙幅の都合で細かい検討は別の機会に譲るが,遺族生活保障(団体保険)に 加えて老後生活保障にも配慮した提案などが望まれるのではないか。
表8 正規社員と非正規社員の求人倍率 01‑07年度
(出典:厚生労働省職業安定局雇用政策課)
有効求人倍率 新規求人倍率 非正規 2.12 1.94 2.10 1.98 1.96 2.08 2.04 正規
0.81 0.74 0.86 1.11 1.31 1.40 1.35 非正規
1.42 1.32 1.46 1.47 1.36 1.46 1.43 正規
0.43 0.47 0.61 0.85 0.93 1.01 0.94 01年度 02年度 03年度 04年度 05年度 06年度 07年度
⑶若年層にとって魅力的な企業福祉
表9に,新規学卒者の有効求人倍率を示した。中卒,高卒の倍率が上昇傾 向にあることはよく知られているが,大卒(従業員1000人未満企業)の倍率 はそれを上回る。また,従業員1000人以上の大企業では,専門能力の高い労 働者や技術者等の獲得競争が存在すると言われる。若年層の企業福祉ニーズ についての細かい検討は割愛する。ご興味のある方は,東京大学社会科学研 究所附属日本社会研究情報センター(SSJDA)に寄託している定量調査デ ータ(明治安田生活福祉研究所 企業福利厚生の現状・課題と方向性 )を二 次分析いただければ幸いである。
未婚化・晩婚化の進展等に伴い,若年層の家族構成は多様化している。平 成17年 国勢調査 によると,男性の未婚率は20代後半が72.6%,30代前半 は47.7%であった。保険に対するニーズにも変化が見られる。扶養家族数が 減少するなかで 家族のための保障 から 自分のための保障 へ重点が移 っており,若者の保障への関心は医療に向かっている。
医療保障にニーズを感じているのは,若年層ばかりではない(図4)。医 療保障ニーズに対応した保険商品については,これまでは,どちらかと言う と個人向けが先行していて団体向けはそれを追いかける立場にある。今後も,
正規社員の有配偶者層が主な顧客層であることに違いはないだろうが,若年 表9 新規学卒者の有効求人倍率 (民間) 04‑08年度
(出典:中卒・高卒は厚生労働省,大卒はリクルートワークス研究所)
中卒 高卒
大卒 従1000人 未満企業
従1000人 以上企業 04年3月卒 1.07 1.27 2.55 0.50 05年3月卒 1.11 1.30 2.53 0.56 06年3月卒 1.30 1.46 2.77 0.68 07年3月卒 1.42 1.63 3.42 0.75 08年3月卒 1.53 1.81 4.22 0.77
層を中心とした未婚者が増加していることも踏まえて,多様な顧客層のそれ ぞれのニーズに対応した企業福祉提案が一層求められるのではないか。
⑷人件費効率や生産性向上への配慮
雇用調整の時代においては,企業が抱えている人事・労務の課題解決に配 慮した提案が求められる。その一例として,非正規社員および若年層の労働 力不足に着目したヨコ型の企業福祉提案を紹介した。しかしながら,着目点 が良いだけでは十分とは言えないだろう。企業福祉のコストを人件費効率や 生産性向上の枠組みの中で管理したいと考える企業(契約者)のニーズを的 確に捉えて対応する必要がある。たとえば,同額の報酬を賃金で支給せず企
図4 企業福祉における健康・医療ニーズ(今回:2002,前回:2007)
(出典:明治安田生活福祉研究所 福利厚生制度の新たな方向性 2007)
業福祉で支給した場合の税・社会保険料にかかる効果 を計量的に把握でき るモデルを提供する。あるいは,今後の社会保障事業主負担の上昇を所与と して福利厚生費を適正水準に管理するための手法を提供する。さらには,業 種別,企業規模別の企業福祉の動向について定量的な分析データを提供する。
保険業法に抵触しない範囲でそれらのサービスを有償で提供するという選択 肢もあるだろう。
6.むすびにかえて
人件費の効率化を促す経営環境は今後も続くことが予想されるため,雇用 調整はさらに進展する可能性がある。雇用調整に伴って増加する非正規社員 の多くは,社会保険や雇用保険ばかりでなく団体保険(遺族補償)や退職給 付の対象からも外れており,正規と非正規との間には企業福祉格差が存在す る。非正規比率の上昇は,そのような1人当たりの企業福祉格差が横方向に 広がることを意味する。それに伴い,団体保険の被保険者数も減少する。生 命保険会社が安定した事業基盤を維持するためには,1人当たりの保険金増 額提案に加えて,被保険者数(横方向)の拡大提案を積極化させる必要があ る。さいわい,非正規社員の人材市場では労働力不足が生じており,企業に は労働力を安定的に確保する手段として非正規社員の企業福祉を拡充する動 機が存在する。
保険会社による非正規社員等を対象とした被保険者数の拡大提案が実を結 べば,結果として,企業福祉格差の緩和に資することになろう。保険会社の 社会的責任(CSR)に関する議論が盛んになりつつあるなかで,この分野 における保険会社の役割についても,今後に議論が深まることを期待してい る。
(筆者は株式会社明治安田生活福祉研究所勤務)
8) 企業の法人税や社会保障事業主負担は,主に賃金を課税・徴収の対象として いて福利厚生費のほとんどはその対象としないため,賃金に代えて福利厚生費 を支払うことによって企業は税・社会保険料の節約が可能となる。
参考 献
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明治安田生活福祉研究所(2007) 福利厚生施策の新たな方向性