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ライプニッツにおける予定調和と 個体的実体の自由について

井上義彦

Sur la Harmonie preetablie et la Liberte de la substance individuelle chez Leibniz.

Yoshihiko INOUE

序論‑問題の所在

我々がこの′j、論で論究しようとする問題点は、神の予定調和(I'harmonie preetablie)と個体的実体(la substance individuelle)即ち人間の自由(la Liberte de l'homme)との関係である.つまり、ライプニッツが論ずる如く、

一切の実体が全て神の予定調和の下に、決定されているのであるのならば、被 造物としての個体的実体たる人間には、果して自由の成立する余地はありうる であろうか、という問題である。

かかる問題の所在を、もう少し詳細にライプニッツに即して論じてみよう。

「実体概念」は、ライプニッツによると、主語概念がこれに属する全ての述 語を含んでいるように、それに起りうる全ての出来事を一度に合せて含んでい る。 「個体的実体、即ち完足的なもの(un estre complet)は、その本性上、

(それを表わす概念の属している主語に含まれているすべての述語を理解する に足り、又そこから清輝してくるに足りる位完足的な概念)を持っている」

(1)

(D.d.M. §8)。又それと共に、それには出来事にまつわるあらゆる状態も、

外界事物の全系列も含まれており、 「実体は各自全宇宙を自分の流儀に従って 表出する(elle 〔toute substauce〕 exprime 〔tout l'univers〕 chacuneえsa

(2)

fa^on)」 (D.d.M. § 9)Oそれ故に、 「全ての実体は一つのまとまった世界のよ

(3I

うなものであり、神の鏡もしくは全宇宙の鏡のようなものである」 (D.d.M.§9)。

従ってこの個体的実体の概念を見れば、それに起りうる全てのことを予じめ予 知予見できることになる。これは、丁度我々が幾何学的対象の概念から清輝し

(2)

2 井上義彦

うる全ての性質を知ることができるようなものである。かかる考え方が、ライ プニッツの予定調和の思想である。予定調和とは、 「神が初めに精神又は他のあ らゆる事象的統一体(unite reelle)を創造した際その精神に生ずる全てのこ

° ° °

とが、精神そのものから見ると完全な自発性une parfaite spontaneite)に

° °

よっていながら、しかも外界の事象と完全な適合une parfaite conformite, を保って精神そのものの奥底から出てくるような具合にしておいたのであると

n

する説である」 (Systeme nouveau. §14)。

同一の都市がそれを眺める人の様々な位置に従って色々に異なって表現され るように、 「これらの実体の各々は、自分流儀に一定の視点から宇宙全体を厳密 に表現(representer)し、外界事象の表象もしくは表出は、精神自身の法則 の力によって定めの時に、別にそれだけ独立した世界ともいうべき精神の中に ちゃんと起ってくる結果、 ・・・‑‑・これらの全ての実体の間には完全な一致を見

(5)

ることになる」 (Systeme nouveau. §14)。従って、

体において規定されている相互関係は、我々の 所

じ・ 問

㌫

﹁ 壬 P

め宇宙の各実

° ° °

の交通Ieur

° ° ° ° ° ° ° e °

communication)を生じ、又この関係のみが精神と物体との結合(l'l de

(6)

l'ame et du corps)をなすのである」 (Systeme nouveau. §14)。ライプニッツ は、このことを有名な二つの時計の比喉で考察する。 「ここに二つの置時計か懐 中時計があって、互いに完全に合っていると想像する」 (Second eclair‑

(7)

cissement.)。そして「二つの時計を初めに造る時に、それが後にまで一致し て行くと確信できるほど十分に技巧を用いて精巧に造ってお」 (Second eclair‑

(8)

cissement.)けば、両者は直接に何の作用もし合わないにも拘らず、一見相互 関係があるかのように完全に一致するであろう。このことは、製作者が優秀で あればあるほど、そうであるし、ましてやそれが神であれば、尚更である。「今 この二つの時計の代りに、精神と物体とを置いて見る」 (Second eclair‑

(9)

cissement.)。このことは、当然ながら一般に各実体相互間、実体とその身体、

及び各実体と物体、従って宇宙との間に、成立する。

だがしかし、そうするとここに、自由について重大な問題が生じてくること になる。

神の予定調和によって、 「個体的実体の概念が、それに起りうる全てのことを

(10)

一度に合わせて含んでいる」 (D.d.M. §13)ものとすれば、その実体に生起す る出来事は、全て神によって予知予見されており、予じめ既に決定されている ことになる。人間は神の摂理としての予定調和の下にあることになろう。だが そうすると、そこには個体的実体即ち人間の自由が成立することが出来るであ

(3)

ろうか。まさに、ライプニッツが自問する事態が生ずる。「そうすると、人間の 自由はもはや成り立たなくなり、絶対的宿命があらゆる我々の作用並びに他の

(ll)

すべての世界の出来事を支配するようになりそうである」 (D.d.M. §13)。

それにも拘らず、ライプニッツは、個体的実体即ち人間の自由を肯定する。

つまり予定調和と人間の自由との両立を説くのである。

ではこれは、如何にして可能であろうか。また、ライプニッツの考える自由 とは、如何なるものであろうか。

本論

予定調和と個体的実体(人間)の自由とが両立しうるとすれば、まず第一に、

かかる予定調和という神的決定性は、いかなるものであるのか。次に第二に、

かかる予定調和の下に成立可能射固体的実体の自由とは、いかなるものであろ うか。

我々は、この自由の問題に関するライプニッツの考え方を論究するにあたっ て、それを次の二つの面から考察するのが適当であろうと考える。

それは、まず第一に、神の側における自由、即ち神の自由決定の問題である。

第二に、被造物たる人間の側における自由、即ち行為の自由の問題である。

工神の自由決定

神は、予定調和によって、世界における全ての事物を予じめ決定している。

従って神には、過去現在未来の一切の事象が予知予見されている。 ‑被造物た る個体的実体としての人間存在もその例外ではない。 「各人の個体的概念は、い つかその人に起ることを、一度に合わせて含んでいる(la notion individuelle

de chaque personne renferme une fois pour toutes ce qui luy arrivera

3りBiE

jamais.)」 (D.d.M. §13)。

『形而上学叙説』の第13節におけるこの個体概念の規定は、ライプニッツと

Elユ)

アルノー(パスカルと並ぶジャンセン派の指導的神学者)との間に哲学史上有 名な論争を惹起せしめたのである。

人間の自由に関心をもつ我々は、かかる個体概念の規定を導出するライプニ ッツの「予定調和」は、人間の自由を一切排除・否定しているのではないかと いう危供に提われるのであるが、熱烈なジャンセニストたるアルノーには、む

(4)

4 井上義彦

しろ反対にかかる個体概念の規定をもつ「予定調和」は、神の自由を束縛する のではないかという疑義に提われたのである。この意味では、アルノーとの論 争は、ライプニッツにとって自由の問題を思いもかけない面から考察させるこ とになり、またそれによってこの問題に対するライプニッツの考えをより具体 的に明確に明るみに出させることになったといえよう。

結論を先取して言えば、この論争を通して予定調和という神的決定性の性格 が明らかにされる。つまり偶然的真理という仮定的必然性と永久真理という絶対 的必然性との相違を明らかにする、従って予定調和という神的決定性は、仮定 的必然性として人間的個体の自由を排除するものではをく、それを許容するも のであること、しかもその際この予定調和は、変更不可能な絶対的必然性とし て神の自由を束縛するものではなくして、変更可能という意味で、神の自由及 び神の自由決定を許容するものである、ということである。

具体的にアルノーの質疑から見ていくことにしょう。 ‑ 「《各人の個体概 念は、いつかその人に起ることを一度に合わせて含んでいる》、云々とあります が、もしそうだとしても、神は、〔アダムを〕創造すると〔か、創造しないとか〕

いうことについて自由だったのであります。 〔しかし神がアダムを創造すること を飲したと仮定すれば〕、その後人類に起った全てのこと及び今後いつか人類に 起る全てのことは、宿命以上の必然によって起ったはずであるし、又起るはず である。何故かというと、アダムの個体概念は、アダムが何人子供を持つとい

うことを含んでいるし、その子供達めいめいの個体概念は、その子供達のする 全てのことと、その子供達のもつ全ての子供とを含んでいる、という風に続い て行く。ですから、一旦神が〔予定調和二よって〕アダムを創造しようと欲し たと仮定すれば、そういう全てのことに対して〔もはや〕神に自由がないこと になるIIn'y a done pas plus de liberte en Dieuえl'egard de tout

(14)

cela.)」。

これに対するライプニッツの反論は、 ̲こうである‑「これらの言葉は、 『仮 定的必然性』 necessitas ex hypothesi)を絶対的必然性(la necessite absolue)と混同している。 ‑・‑神は永遠に亘って宇宙の全系列を支配してき

]il監E

ているが、それは決して神の自由を滅ずることにならない」。従って「神の決心 から結果として出てくる全てのことは、仮定的必然性によって必然的なのであ って、決して神の自由をも神の創造した(精神)の自由も破壊しはしません

(tout ce qui s'ensuit de sa resolution, n'est necessaire que par une necessite hypothetique, et nedetruit nullement la liberte de Dieu ny celle

(5)

as

des esprits crees.)」。

これに対して、アルノーは「私が仮定的必然性を絶対的必然性と混同したの だとは思われない。何故かといえば、私はあそこではかえって《仮定的≫必然

Ifl

性のことしか言っていないからである」として、反駁している。即ち「(これが 私の困難であるが)、これらのもの(私は一方にはアダムを、他方にはアダム並 びにアダムの子供に起るはずであった全てのことを意味する)の間の関係は、

神のあらゆる自由決定(tous les Decrets libres de Dieu)には依存せずに いるのか、それとも神の自由決定に依存しているのかということ、言い換えれ ば、神がアダムとその子孫とにその後起るはずの全てのことを知ったのは、神 が自由決定によってアダムとその子孫とにその後起るはずの全てのことを命じ たからであるのか、それとも(これらの決定には依存せずに)一方アダムと、

他方アダム及びその子孫に起った、又これから起ることとの間に、内的な必然 的な関連が存するものであるのか、ということが、尚問題として残っているよ

うに思われる。もしこの最後〔後者〕の関係がなければ、あなたの説く《各人 の個体概念はいつかその人に起る全てのことを一度に合わせて含んでいる≫と いうことは、 (たとえその概念を神に関係させて考えたとしても)真でありうる

asi

とは、私には考えられない」。

ライプニッツは、次に見るアルノーへの返書についての「備考」(下書き)の 中で、 「種の概念(la notion d'une espece)は、永久的、即ち必然的真理しか

° i

含まないのに、個体の概念(la notion d'un individu)は、可能性の見地にお いては(sub ratione possibilitatis)事実的なところ、即ち事物の実在及び時 間に関係のあるところを含み、従って可能的と者えられている神の自由決定に 依存する‑・・‑。というのも、事実の真理即ち実在の真理(les verites de fait

119

ou d'existence)は神の決定に依存しているからである」ということを記して いる。ライプニッツはこの考え方を基にして、次のように返答している。‑

「個体的実体の概念は、完足的な概念で、その主語を他のものから全く区別す ることができ、従って偶然的真理即ち事実真理を含むと共に、時、処、その他 個別的境遇を含むから、その可能的と考えられる概念の中にも、同じく可能的 と者えられる神の自由決定を含んでい射すればならない。何故かというと、こ の自由決定が実在や事実の主要な源であるces decrets libres [de Dieu〕

sout les principales sources de existences ou faits.)のだからである。こ れに反して本質は、意志を考察するよりも前に、神の悟性の中にあるからであ

(20)

る」oそうしてこう言う‑「私がアダムと人類の出来事との間に老えている関

(6)

6 井上義彦

連は、内的ではあるが、神の自由決定に依存しないものでなく、必然的なもの ではないと信ずる。何故なら、可能的と考えられる神の自由決定は、 (可能的 なアダム)の概念の中に入っているので、まさにこれらの決定が現実的なもの になった際に、それは(現実的なアダム)の原因になるのである。 ‑‑・・なぜな ら、個体的なものあるいは偶然的真理の可能性は、それらの概念の中に、それ らの原因の可能性即ち神の自由決定の可能性を含んでいる(les possibilites

des individuels ou des verites contingentes enferment dans leur notion

la possibility de leur causes, spavoir des decrets libres de Dieu.,から

° ° °

である。この点で、それらのものの可能性は、種や永久真理のような(神の意

° ° ° ° °

志を仮定しないで、専ら神の悟性に依存しているもの)の可能性とは異なって

位1)

いる。 ‑‑」。

こうしたライプニッツとアルノーとの質疑応答の中で明らかになってきたこ とは、世界の出来事のような偶然的真理は、永久真理と違って、神の自由決定 を可能性として含んでいるということである。逆に言えば、世界の偶然的な出 来事は、神の決定を挨って初めてその事象における主語と述語との可能的な関 係を現実的関係にするのである。 「未来の偶然的な出来事は、神がそれを予見し ている以上、確実なものasseures.であるが、それだからといって必然的

C2)

necessaires)ではない」 (D.d.M. §13),

ここに、ライプニッツが二種の結合の区別を提示する所以がある。結合関係 たる主語述語関係、換言すれば「連結あるいは連絡作用には二種ある。一方は

° ° °

絶対的に必然的であり、それの反対は矛盾を含むものであり(dont le contraire implique contradiction.)、その清輝は幾何学の真理のような永久真理の中で行

° °

なわれる。他方は単に仮定によって、いわば附随的に必然的なものにすぎず、

その反対は矛盾を含まない(le contraire n'implique point [contradiction〕.)

...位3)

から、それ自身においては偶然的(contingente)である」 (D.d.M. §13), 幾何学的真理のような永久真理は、その反対が不可能であるが故に、必然的 であり、又世界の出来事のような事実真理は、その反対が可能であるが故に、

偶然的である。それ故に、ユリウス・カエサルがルビコン河を渡るという事実 は、神の予見の下では、必然的であるが、それの反対の行為即ちルビコン河を 渡らなくてもよいという事が可能であるという意味では、偶然的である。従っ て神の予定調和の下に生起したかかるカエサルの行為の決定性は、仮定的必然 性であって、確実なものであるが偶然的である。

カエサルの行為は、彼の個体概念(即ち形相)に即応している。 「何故かとい

(7)

うと、我々は、その述語も中に含まれるような具合に、即ち『述語が主語に内 在することができるように』 (ut [le predicat〕 possit inesse subjecto.)、全 てを含むのが、かかる完全な主語の本性である、と仮定しているからである」

位4)

(D.d.M. §13)<そして「未来の偶然的な出釆事は、まだ神の悟性と意志との

° ° °

中においてしか事象的reel)なところを持っていないが、神が予じめそれに その形相を与えた以上は、やはりその形相に応じかすればならない」 (D.d.M.

(25)

§13)とすれば、神が予定調和によってカエサルにあの述語規定を与えた以上 は、それに適うようにしていくことが以後のカエサルにとって必然的なものに なるのではないかと推定される。

だがそうすると、ここに明白に人間の自由が危機に瀕する事態が、生じてき ていないであろうか。

だがしかし、ライプニッツは、前述したように、「そこで今こそ前に述べた二

L?61

種の結合の区別を施さぞ目すればならないことになった」 (D.d.M. §13)として、

「予じめ定められた条件に適って起る事は、確実であるが必然的ではない」

27)

(D.d.M. §13)と主張したのである。そしてそれによって、ライプニッツは この困難を克服できると考えたのである。

そこで、ライプニッツはこう言う‑「カエサルのこの述語の証明〔カエサ ルが何故ルビコン河を渡ったかの理由〕は、数や幾何学の証明ほど絶対的なも のではなくて、神が自由に選んだ事物の系列を前提とするものであるというこ とが分る。その系列は、最も完全なことを常に行なおうと心掛けている神の自 由な最初の決定に基づくと共に、 (その最初の決定に引き続いて)神が人間の本 性に対して行なった決定、即ち最も善いと思われることをいつも人間に(勿論

自由にではあるが)させようという決定に基づくものである。ところで、こう いう種類の決定に基づく真理は、全て確実であるが偶然的である、何故かとい うと、こういう決定は事物の可能性を変えるものではなく、神は確かにいつも 最善のものを選ぶけれども、その為に不完全をものがそれ自身において可能で あり、可能のままであることは差しつかえないから。又反対が可能なものは必

aサ

然的ではない」 (D.d.M. §13)。

しかしながら、今一度言うと、神は予定調和によって、単に世界の一切の物 を予知予見するばかりでなく、一切を調和的に支配し予定しているのであるか ら、やはりそこには偶然性や自由は存しないことにならないであろうか。

ライプニッツは、 「予知それ自体は偶然的未来の真理の決定性に何物も附如し

をい(la presciellce en elle m芭me n'ajmtte rtenえIa determination de la

(8)

Jil 井上義彦

(291

verite des futurs contingens.,」 (Th. §37)と考えている。換言すると、

「予知それ自体は真理をより決定をものにしない。真理はそれが決定的である が故に、それが真であるが故に、予見されている。しかしそれが予見されてい

30)

るが故に、真なのでは射、」 (Th. §38)。

ライプニッツとアルノーとの往復書簡による論争の中で、はしなくも明らか になったように、予定調和という神的決定性は、仮定的必然性であって、確実 であっても必然的でない。つまりそれは、神自身をも拘束する絶対的必然性で なくて、神の自由決定を尚可能なものとして許容している。予定調和による決 定性は、なお神の自由決定の入る余地を残している。このことは、逆に言えば 個体的実体(人間)にとって、その自由を語りうる余地が形而上学的に尚残さ れていることを示している。つまり、神が現実的に創造したもの以外に何一つ 可能なものが存しないとすれば、神の創造したものは、その反対が不可能であ るから必然的なものとなり、神が何か創造しようと決心した場合に、ただその ものだけしか創造しえないことになり、神には選択の自由即ち神の自由決定は、

もう不可能になってしまう。これは、明らかに神の概念に反しており、不合理 である。だから、ライプニッツは、 「もし我々が純粋に可能なものを絶対的に

131'

拒否しようと欲すれば、偶然性や自由を打ち壊わすことになるだろう」と考え て、神は神の悟性の中にある「無数の可能を世界」から、最善の性界としてこ の現実の世界を選んだと考えることによって、懸案の自由の問題を解決しよう としたのである。

「このために、私は‑無数の可能を世界という私の原理に訴える(Pour

cet effect je viensえmon principe d'une infinite de monds possibles.)」

i32

(Th. §42)。既に論述したように、 「もし仮りに神が、現実に創造したもの以 外に一つも可能なものが存しないとすれば、神が創造したものは必然的なもの になって、神はあるものを創造しようと欲する場合にただそのものしか創造し

(33)

えず、選択の自由(la liberte du choix)を持たないことになる」。それ故、神 の悟性の中にある無数の可能な世界の考え方が、神の自由決定の余地を確保す ることになる。ライプニッツによれば、神の予知・予見あるいは予定は、何物 も存在の決定性を附加するわけではない。 「神は、偶然的な未来の出来事が存在 するのを許し命ずるより前に、それらが可能的なものの領域の内にあるがまま

(34)

に、神はそれらを見るであろう」 (Th. §42)。

要するに、無数の可能なせ界には、 「未来のあらゆる出来事が他の無限の可能 性と並んで、従って自由別品然的なこととして、表現されているのである。神

(9)

はかかる可能的世界の一つに存在を与えた。その際、神はその世界の内容を何 等変化せしめることなく、可能性の状態において出来上っているままに、存在 せしめたのである。従って可能的世界におけることと現実的世界におけること との相違は、それが存在するか否かだけであって、両者において或る事柄が偶 然的であり、自由であること自体は全く相等しい。それ故に神の悟性による予

05)

知も、神の意志による予定も、人間の自由を何ら割引くものではない」。

ライプニッツ自身は、こう言っている、 ‑「神の決定は、最善である世界 を選ぶために、 ・‑‑あらゆる可能を世界を比較した後で、専ら神が取る決心に 依存しているので、この神の決定が事物の構成の中にある何物をも変化させな いのは明らかである。神の決定は、それらをそれらが正に単なる可能性の状態 (l'etat de pure possibilite)であったままにしておく、即ち神の決定は、そ れらの本質や本性の中にあるものも、この可能的な世界の観念の中に既に完全 に表象されていたところの、それらの附随性の中にあるものさえも、何等変化 せしめないのは明らかである。かくして、偶然的で自由であるものは、神の予 見(prevision)の下においてと同様に、神の決定(decrets)の下において36) も、それをそのままにとどめているのである」 (Th. §52)。従って、 「神の誤 りのない予見も、原因の予定も、神の決定の予定(predermination)も、かか

13T

る偶然性や自由を破壊しないのである」 (Th. §52)。別言すると、 「神は最善の ものを選びそこなわないが、そうすることにも束縛されない。否むしろ、神の 選択の対象には必然性はない。なぜなら他の事物の系列が等しく可能なのだか ら。この理由の故にこそ、選択は自由であり、必然性から独立である。という のは、選択は多くの可能なものの間からなされ、そして意志はその対象の優勢

as

な善性によってのみしか決定されないからである」 (Th. §45)。

かくして、無数の可能な世界の想定により、神の側における自由決定の余地 が確保され、そしてそれによってまた予定調和そのものにおける偶然性や自由 の存在が確かめられた。そこに、神のみならず人間の自由成立のための「形而 上学的自由」の地平が存立しているといえよう。

最後に要約的に言えば、「偶然的命題はこうはなるが、あ,ほならないという

(39)

理由をもつ」 (D.d.M. §13)とは、偶然的真理は、その本性上矛盾律のみに よっては成立してないから、それ以外に概念の関係を決定する理由、即ち述語 の主語への内在(inesse)という名辞の間の関係を成り立たしめる理由が、求 められねばならない。「そこで要するに、必然的真理においては、矛盾律乃至自

° ° °

同律だけで理由を得るが、偶然的真理においては、理由律によって初めて述語

(10)

id 井上義彦

が主語に内在する(即ち自同的命題となりうる)、という関係にある。かくして 理由律は、偶然的真理における名辞の間の内在関係を要求することによって、

かえって名辞の外に出ることを要求する。論理学的に偶然的命題の理由を求め

(40)

ることは、実は概念の外に真理成立の根拠を求めることなのである」。

ライプニッツはこう言う、 ‑ 「必然的真理は矛盾の原理に基づき、従って 本質自身の可能性と不可能性に基づくから、その点において神や神の造った物 の自由意志には関係しないが、偶然的命題の理由は、事物の偶然性の原理即ち

41)

事物実在の原理に基づく」 (D.d.M. §13)、そして「こういう偶然的真理は神 や神の造った物の自由意志に基づいているから、確実であるがそれでもやはり 偶然的である。成程こういう真理を選ぶには、常にその理由があるけれども、

その理由は傾かせるが、強制はしない(ses raisons qui inclinent sans

日E!確

necessiter)」 (D.d.M. §13)。

Ⅱ個体的実体の自由

近世哲学において一貫して自由の問題を規定してきた課題は、自由と決定論 の問題である。そこで語られる哲学的決定論は、一面近代科学の発展に伴う物 理学的・機械論的な決定論と、他面予定説などに見られる宗教的・神学的な決 定論との両面を合意していることに注意せねばならない。

ライプニッツの予定調和説は、まさにこの両面の意味を併せもつ形而上学的 な決定論であるといいえよう。換言すると、予定調和による神的決定性は、世 界におけるあらゆる存在物の目的論的被決定性を意味している。そしてそれは また、ライプニッツの事物世界の存在原理たる「充足理由律」の存在根拠につ ながるものである。

いずれにせよ、我々の個体的実体概念が、我々にいつか起こることを全て一 度に合わせて含んでいるように、換言すると何事かが生起するには、必らずそ の決定原因や決定理由が存せねばならないように、我々の行為が全て完全に決 定されているとするならば、如何にして我々人間の自由は成り立ちうるといい

うるのであろうか。

ライプニッツは、如何に人間の自由を論じるのか。

ライプニッツは、 「自由」 (la liberte)を成立させる三つの条件(要素)とし て、知性(intelligence)と自発性(spontaneite)と偶然性(contingence)とを 挙示している。

(11)

ライプニッツは言う、 ‑ 「自由は、思考の対象についての明断な知識を包 含する知性に存し、我々がそれによって決心する自発性に存し、そして偶然性 即ち論理的なあるいは形而上学的な必然性の排除に存している。知性はいわば 自由の魂であり、他の残りはその身体や基底のようなものである(la liberte,

.…‥ consiste dans l'intelligence, qui enveloppe une connoissance distincte

de l'objet de la deliberation, dans la spontaneite, avec laquelle nous nous determinons, et dans la contingence, c'estぇdire dans l'exclusion de la necessite logique ou metaphysique. L intelligence est comme 1 ame de la liberte, et le reste en est comme le corps et la base.)」 (Th.

§2品)。

『弁神論』の中にあるこの一文は、ライプニッツの自由についての者え方を 明確に表示している。とはいえそれは、余りに簡潔にすぎる。それ故次に我々 は、これらの三つの自由の条件(要素)が、如何にして決定論的決定性と矛盾 抵触せずに、それと両立しうるのであるかを、それぞれの条件について順次に 考察していくことにする。

Ⅱ a.偶然性(Contingence)

まず第一に、ライプニッツのいう「偶然性」は、どのような概念であるのか。

それは、予定調和的決定論と抵触せずに、如何にして自由の条件たりうるので あろうか。

予定調和としての決定性は、既に論じたように絶対的必然性でなくて、仮定 的必然性であり、そして事物の出来事は確実であっても、必然的でなく偶然的 である。従ってこの決定性は、偶然性や自由を排除するものではない。しかし ながら偶然性といっても、それは決して無差別の均衡状態une indi∬erence d'equilibre)を意味すると考えてはならない。 「我々の自由は、無決定性や無差

(44)

別の均衡状態に存すると考えるべきではない」 (Th. §35)。かの充足理由律か ら考えてみても、そのような偶然性はありえないし、またさもないと、肝心の 予定調和説自体が有名無実になってしまうであろう。理由律より見て、ある事 柄が起こるにはそれを起こす決定原因・決定理由があり、何事も何の理由も原 因なしには生起しえないのであるというところに、偶然的出来事の真理性の根 拠があり、そしてそれは、かかる偶然的出来事の生起を神が予定していたとい

う意味では、予定調和の決定性とうまく合致するのである。我々があ″π ̄

(12)

12 井上義彦

選択する時、我々が全てのものに等しく傾けられることは決してない。我々は 偶然にあるものを選ぶように見えるが、我々がそれを選ぶには、それを選ぶだ けの原因や理由が常に存するのであり、それを偶然だと思うのは、この決定理 由(原因)に気付かないだけのことである。「人は、我々を動かすものに非常に しばしば気が付かないけれども、人が取る過程へ我々を傾かせる原因や理由が

45)

常にあることが分る」 (Th. §35)。従って「意志をその選択へ導びく優勢な理

nE

由が常にある」 (Th. §45)。それ故に、我々の行為や意志作用は、 「理性の側か

(471

らも感情の側からも来る、あらゆる傾向性の結果」 (Th. §51)として生起する のである。

ら

ライプニッツも、スピノザと同じく「ブリダンの櫨馬」の例を取り上げて、

意志決定には常にそれに先行する決定理由や原因が存することを主張する。両 者ともに、櫨馬がもし無差別の均衡状態におかれたならば、飢死することを等 しく是認する。しかしライプニッツは、 「この問題は不可能なものを取り扱ってい

(48

る」 (Th. §49)として、 「ブリダンの櫨馬の例(le cas de l'云ne de Buridan) は、宇宙にも自然の秩序の中にも起りえない虚構である」 (Th. §品)とその間 題自体をきっぱりと否定している。そういうような状況は、ライプニッツの所 謂「不可識別同一の原理」から言っても、ありえない想定であろう。いずれに

(50)

せよ、彼には「無差別の均衡状態とは虚偽の観念である」 (Th. §48)からして、

無差別の均衡状態といえるような偶然性は、容認できないのである。

「偶然性の自由(la liberte de contingence)、あるいはある意味で無差別の 自由(la liberte d'indi肝erence)は存在する。 ‑しかし、無差別の均衡状

sv一

態は決して存在し射、」 (Th. §46)。

ライプニッツは言う‑「未来の偶然事の真理は決定されているが、それで もやはり偶然的である。‑‑‑たとえ結果が生じないとしても、事物はそれ自身 において何らの矛盾をも含まない。この点にこそ、偶然性が存するのである

52)

c'est en cela que consiste la contingence.)」 (Th. §44)。

ライプニッツは、このことをよりよく理解するために、我々の推理の二大原 理即ち矛盾の原理と決定理由の原理とを考察せねばならないと論及する。彼に よれば、全ての出来事の根底には常に、この二大原理たる矛盾律と理由律が存 している。だから偶然性は、予定調和という決定性と矛盾するものではなく、

むしろその反対が可能であるという意味では、その決定性と両立しうるのであ

° ° °

る。 「決定性(la determination)は、もしそれが認識されれば、確実性(certitude)

... (53)

と呼ばれるであろうが、それは偶然性と両立できか、ものではない」 (Th. §36)。

(13)

かくして、偶然性は、予定調和の決定性と両立しうるのである。そしてかか る決定性は、「傾かせるが強いない」という意味で、自由の存立をも許容するの である。「意志の自由を保持するためには、この理由が傾かせるが強制はしない ということで十分であるilsuffitpourco「serversaliberte,quecette

54)raisonincline,sansnecessiter.)」(Th.§45)。

n b.自発性(Spontaneite)

次に、ライプニッツのいう自発性の概念は、決定性と抵触せずに、自由性を 旬合しうるのかどうか、検討せねばならない。

全ての個体的実体概念は、いつかそれに起こりうる全てのことを一度に合せ て含んでいるから、その創造者たる神を除けば、何一つ実体的に決定するもの はなく、また依存するものもない。精神的実体に起こることは、全てそれの概 念から出てくる結果であり、それは時間の経過と共に何物にも依存せずに、内 的に徐々に自発的に展開してくる。そこで、 「精神の観念そのもの、即ち本質上、

° ° ° °

精神のあらゆる現象や表象は精神そのものの本性から(自発的に)生まれてく

3控BIE

ることになる」 (D.d.M. §33)。

このように全ての実体は、完全なる自発性をもっており、こうした表象する 表現的本性は、創造時から与えられた実体の個体的特質を成しているのである。

この自発性の考え方には、当時の主知主義的決定論に共通の思想が見出され るように思われる。例えばスピノザは、 『ェチカ』の中で、 「自己の本性の必然

° °

性のみによって存在し、自己自身によって行動に決定されるものは自由である

69

と言われる」と、自由を定義している。スピノザのこの定義は、ライプニッツ

° ° ° °

にも通用する面がある。ライプニッツによれば、 「全て個体的実体は、完全な自

° °

発性(une parfaite spontaneite)を持っていて、悟性を具えた実体において

・・(5の

は、その自発性は自由(la liberte)となっている」 (D.d.M. §32)。

自発性とは、作用原理がその作用老自身の内にある場合に考えられうるので ある。それ故に前述したように、個体的実体は表象や表出などの表現的本性を その本質としており、そうした作用の原理は作用する実体の内部にあるから、

自発的である。従ってかかる精神的実体は、それ自身によって作用に決定され、

自己の表現的本性によって自発的に活動するといえよう。このようにライプニ ッツにおいては、個体的実体は表象作用の自発性を本性としているから、自発 性とは、自己の本性の必然性に従って作冊することになる。かかるラオラ三三一Tフ…

(14)

it 井上義彦

ツの自発性の考え方は、前述したように、スピノザの自由の定義を想い出させ るものである。

自発性は、実体がそれ自身によって決定されているところに、成立する。自 発性は、自己決定性を意味し、そしてそれによってまたそれは、神の決定性と しての予定調和にも連結している。自発性は、予定調和としての神的決定性に 適合すればするほど、より完全な自発性に接近することになる。かかる自発性 は、内的必然という意味では、自由と同義であるといいえよう。

「我々の作用への我々の支配力を可能な限り高めるところの、これまで殆ん

(59

ど知られなかったこの自発性は、 ‑‑予定調和の体系の帰結である」 (Th.§59)。

そして「この自発性は、ある意味で魂をその決心において、全ての他の被造物

(591

の物理的影響から独立なものにするのである」 (Th. §59)。かくして「最後に この自発性の問題について結論すれば、厳密に解すると、魂は自己の内に魂の

60)

全ての作用の原理を、その全ての情念の原理をさえ有するのである」 (Th.§65),

° ° °

だからかかる実体的魂に、自発性は存在するのである。だがしかし、 「知性的な

.. 161)・..・

実体の内にしか、自由は存在しか1」 (Th. §65)。なぜなら「自由とは、知性

H Hコ^蝣^l^^^^^^l^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^Z材

を伴う自発性である(La Liberte est la spontaneite jointeえl'intelligence.)U からである。

Ⅱ C.知性(lnteHgence)

最後に知性を考察しよう。 「自発性や偶然性が、自由の身体やその基底である ならば、知性は自由の魂である」とされるように、知性は自由にとって、非常 に重要な概念になっている。

知性によって最善のものへ決定されることが最も程度の高い自由であるとす るライプニッツの考え方は、やはり主知主義的な自由論と共通な思考法に通じ ているといえる。スピノザは、 「理性の指令に従って行動する限りにおいての

・・(63)

み、人は自由であると呼ばれる」としている。つまりスピノザは、人間は自然 の一部分である限り、外物から因果的に働きを受けざるをえない。そして外物 に対する人間の隷属から、そこに受動感情が生じてくる。そこで人間が自由で あるためには、何よりもこの受動感情を脱さねばならない。この受動感情から 能動感情への転換にこそ、理性や知性の役割があり、そしてかかる理性や知性 の支配の確立に、自由は存立すると考えているのである。 ‑

ライプニッツにおいても、知性のない単なる実体においては、自由とは本性

(15)

からの必然性即ち単なる自発性にすぎなかった。そして偶然性とは無知なる決 定性であった。しかし知性を具えた実体、即ち理性的精神では、知性を伴った

自発性は自由になる。

従って、知性という概念が導入されることによって、自由の問題は自然的な 機構の中にあった自発性としての自由性の在り方から、倫理的遺徳的な秩序の

中にある本来的な精神的な自由性の在り方へと転化することになる。

ライプニッツによれば、一般的にいって、 「実体の本性は進歩や変化を必然 的に要求し、それを本質的に内に蔵しており、それなしには実体は作用する力

64)

を持てなくなる」 (Systeme nouveau. §15)。だから実体は自己の中から無限 な事物の系列を表出し展開し、これを内から統一する力である。「力は実体の特

略5)

質である作用の原理である」 Systeme nouveau pour expliquer."。

実体は、こうした事象的統一体(l'unite reelle)として本性上、出来るだけ 自発的に発展展開しようとする。 「単純実体においては、現在の状態はそれに時 間的に先行する状態から自然的に出て来た帰結であり、従ってそこでは現在が

as

未来を学んでいることになるから」 (M. §22)、それはいわば因果必然的に決定 されており、その作用は自発性の域にとどまっているが、知性的な実体におい ては、表象作用は思惟に、欲求作用は意志に高められている。従ってその意志 においては、実体一般の本性である自立性(独立性)は、単なる自発性ではな くて、自由となる。それ故に自由とは、自己の目的を意識し、十分に反省熟慮

°

しつつ行動することであるOそれ故、 「判断が作用するものの内にない時は、自

°佑7)

由はない」 (Th. §34)ことになる。

各々の実体は、その表象の程度に応じてその相違や差異があるように、自由 の場合も、実体の意志的精神的な在り方に対応して、自由の高低が生じてくる。

つまり低級な実体ほど、その自立性は事物の必然的決定性に接近し、それが高 級になるにつれて、それは自発性となり、知性的・自由意志的となり、真の自

由性に相応しいものになっていくのである。

そこにまた、ライプニッツの予定調和説の新しい局面が出てくる。知性的実 体においては、自己を決定するのはもはや先行的状態からの帰結という因果律

ではなくて、かえって逆に末釆的に選ばれる目的、即ち善か悪かという対象の 価値なのである。この決定は自己決定に他ならない。この知性的な自己決定に こそ、人間の自由性は存する。従って次のように言うことができる。‑「自 由な実体は、悟性によって認知された善という、それを強いずして傾かせる動 機に従い、自己自身によって自己を決定する(La substance libre se determine

(16)

16 井上義彦

par elle m芭me, et cela suivant le motif du bien apperfu par l'entendement

68)

qui l'incline sans la necessiter.)」 (Th. §288)。この言葉の中には、いわば ライプニッツの自由観の骨子が合意されていると言ってよいであろう0

ところで、ライプニッツは、永久真理と偶然的真理、理性真理と事実真理、

従って絶対的必然性と仮定的必然性を区別した。前者は、矛盾の原理(矛盾律) に基づくもので、悟性の作用によって実現され絶対的なものであるから、たと え神といえども、それを変えることはできない。しかし後者は予定調和による 適合の原理(充足理由律)に基づくもので、神及び被造物の意志の介入即ちそ の自由決定を許容するものである。

それ故に、後者による偶然的真理は、 「反対が可能である」から、その決定理 由は傾かせるが強いはしないのである.一般的に言って「人間の意志は強制か

略91

らのみならず、必然性からも免ぜられている」 (Th. §34),換言すると、 「意志 は常にそれが取る過程に、より一層傾けられるが、それを取らしめる必然性に

(701

よって束縛されない」 (Th. §43)。

しかしながら、 「人間はその意志作用において、知性の側からも感情の側から

G'tl

も来るあらゆる傾向性の結果(le resultat)に常に従う」 (Th. §51)から、人 間の意志行為においては、 「意志をその選択へ導く優勢な理由が常に存する」

コkJ均に

(Th. §45)のである。

だがらといって、これが意志の自由を害なうわけではない。というのは、「意 志の自由を保持するためには、こうした理由は傾かせるが強いはしない、とい

173)

えば十分である」 (Th. §45)からである。

いずれにせよ、全ての実体は本性上、その存在実現への要求をもっており、

それは実体自身の自発的傾向性に他ならなかった。そして人間においては、そ れは自由性であった。しかるに全ては、神の予定調和の下に決定されている。

従って「人間においても、全ては予じめ確実であり、決定されている。その意 味では、人間はいわば一種の精神的な自動機械automate spirituel)である。

(741

だがしかし、それは絶対的必然性とは抵触しない」 (Th. §52)。

それは何故であろうか。なるほど人間の行為は、神の予定調和という決定性 の下に予定されている。しかし逆説的に言えば、人間が予じめ神の決定をいか にしても知ることができないという意味では、神の決定は、人間の自己決定に 他ならないという面がある。平たくいえば、「人間における事実真理は、神及び

(75>

被造物の自由意志に基づいている」 (D.d.M. §13)。そして「事実の真理即ち

kJ胃l

実在の真理は神の決定に依存している」のであるが、実際的には神の決定は、

(17)

人間の自由意志的な自己決定を通じて初めて発現してくる。何故ならば、神の 決定が原理的に従って絶対的に人間に分らぬ以上、我々人間はその時点その時

そんたく

点で最善と思われることを自己決定し、神の意志を敢えて付度し、いわば神の 意を体する積りで白から選択せねばならない。従って神の予定調和における決 定は、人間に分らぬ以上、人間の自己決定を侯って初めて発現するという独特 の性格を持つことに、我々は強く注意する必要がある。人間は、神の決定がま ず出現して、それを見て行為を決めることはできないのである。徒らな静観主 義は、「無為の理」として、ライプニッツの強く否定するものである。

要するに、我々人間は、行為・実践において神の推定的な意志に従いながら、

換言すると神は予定調和によって最善のものをもたらすはずであるし、神の意 志をその都度推定しながら、且つ自己の自由意志に従いつつ、知性によって自 己決定し、そして自己完成を図り、最善な仕界秩序をもたらすように努力しな ければならない。そしてここにこそ、人間の最も高い自由が存するといいうる であろう。

Ⅲ悪の問題

人間の自由とは、知性によって最善のものへ自己決定することにあった。だ から自由とは善の能力であった。だがそうすると、問題が出てくる。それは悪 の問題である。

「人はまず第‑に、悪は何処から来るか(d'od vient lemal?と問う」 (Th.

(771

§20)。自由が善の能力であるとすれば、悪はそもそも何処から生ずるのか。そ して悪の能力は何であろうか。

第二に、現実の世界における悪の存在は、予定調和による神の決定に矛盾し ないのであろうか。ライプニッツの最善観によれば、 「神は智恵によって最善の ものを知り、その意志によってこれを選び、その力によってこれを生ずる」(M.

78)

§55)とすれば、何故に悪はこの現実世界に現存するのであろうか。

第三に、かかる悪の責任は、誰れに帰属するのか。それは神か人間か、その いずれであるか。

ライプニッツは、悪の問題についてこう言う、 ‑「精神は考え且つ飲する ということ、多くの思惟や意志を我々の中に生ずるということ、我々が自発的 なところをもつということは、疑いをいれない。これを疑えば、人間の自由が 否定され、憩の原因が神に帰せられるのみならず、我々の内的経験や意識92一正L

(18)

18 井上義彦

証に矛盾することになる。しかもその立証によって、我々は反対者が何等の理 由なしに神に帰しているものが、まさに我々のものだということを自覚する。

(丁91

我々の精神には内在的作用やその力がある」 (De ipsa natura.).

ここから明らかに次のことが、推論されうる。即ち、人間の行為は人間の自 由(意志)に基づくものであり、その行為の結果の責任は、全て行為者たる人 間に帰され、従って道徳的な恵の責任も神ではなく、人間に帰されることにな る。またそれ故にこそ、ここに神の賞罰や恩寵・恩恵の存在理由もあるのであ る。

ところで、悪には様々をものが考えられうる。人間の関与する悪は、行為に 関わるものであるから、道徳的なものである。では、それ以外の悪は如何に考

えるべきであろうか。

ライプニッツは、一般に悪を消極的・否定的なもの、即ち欠如(privation)と 解する。それは、創造の際に付与された根源的制約であって、被造物にはどう

しようもないものとされている。

ライプニッツは白から悪は何処から来るかと自問して、こう答えている、 ‑

「全ての存在を神に由来させる我々は、悪の源泉を何処に見出すのであろうか。

その答えはこうである‑悪の源泉は被造物の観念的本性(la nature ideale de la creature)の内に、この本性が神の意志から独立に、神の悟性の内にあ る永久真理に包含される限りにおいて、求められるべきである。何故かといえ

° ° ° °

ば、被造物は本質的に制限されているが故に、罪以前の被造物の内に本源的不

° ° °

完全性une imperfection originale dans la creature)があるということを、

(80)

考究せねばならないから」 (Th. §20)。更にこう言う、 ‑「ここ〔永久真理 の領域〕に、善の根源的形相(la forme primitive)のみならず、悪の起源(l'origine

i ° ° °

du mal)も見出される。 ・‑‑この永久真理の領域が、善と同様に悪の観念的原

°

因である(Cette Region 〔des verites eternelles] est la cause ideale du

° ° °

mal aussi bien que du bien.)。しかし厳密に言えば、悪の形相因は能作図

° °

(la cause efficiente)ではない。なぜなら、それは欠如(la privation)の内

° ° °

に存するから。それ故にスコラ哲学者達は、悪の原因を無作因Iacause

(81)

deficiente)と呼ぶのを常としたのである」 (Th. §20)。

では何故に、ライプニッツはこうした悪の考え方を取ったのであろうか。

ライプニッツのこの欠如悪は、弁神の為に説かれたといえよう。哲学史上初め てこの問題を真正面から論じた著作、 『弁神論』が、このことを端的に示してい る。この著作の正式な名称は、 「神の善意と人間の自由及び悪の起源に関する弁

(19)

神の論説」である。いずれにしても、 「伝統的な欠如悪がキリスト教有神論に結 びつく時、それは弁神論(Theodicee)にとって極めて好都合な概念になる。

というのは、被造物の不完全性という原理の欠如が悪一般の原因であるとすれ ば、被造悪の原因は創造の原理そのものに累を及ぼすことなく、創造的意志の

侶2)

不完全性に責めを帰すことも避けられると考えられるからである」。

さて、悪にはいくつかの種類が考えられる。ライプニッツは、悪を形而上学 的、物理的、道徳的の三種莫酎こ分けている。

ライプニッツは言う‑「形而上学的悪(le malmetaphysique)は単なる 不完全性(la simple imperfection)に存し、物理的悪(le mal physique)は苦 症(la souffrance)に存し、道徳的悪(le mal moral)は罪(le peche)に存 する」 (Th. §21)。

それにしても、何故にかかる悪の存在はライプニッツによって許容されたの であろうか。まさしく、 「神は悪を作らず、悪を欲しか、のではないか」 (Th.

841..

§22)。そこで、神が悪を許容する理由が考察されねばならない。

・・(85)

「ここで、許容(Permission)とは何かを説明する必要がある」 (Th. §22)。

ライプニッツは、 「神は先行的に羊を欲し、帰結的に最善のものを欲する(Die

(86)

veut autecedemment le bien, et consequent le meilleur)」 (Th. §23)と考 えるO彼によると、「:般的な意味で、意志はあることを、それが包含する善に 応じて、なす傾向性に存する。この意志はそれが他から引き離され、各々の善

(871

を別々に羊として考える時に、先行的(antecedent)と呼ばれる」 (Th. §22)。

° ° ° ° °

また究極的・決定的な意志として、 「帰結的意志(la volonte consequente)は、

° ° ° ° °

善へ向かう人々の意志と悪を斥ける人々の意志とを問わず、全ての先行的意志

188:

(les volontes antecedentes)の衡実の結果として生ずる」 (Th. §22)。それ 故に、神は先行的には悪そのものを欲することは決してない。

ところで、「物理的悪(le malphysique)については、罪に妥当な罰として あるいは目的への適当な手段として、即ちより大きな悪を妨げ、より大きな善

t891

を得る為に、神はそれを欲するということができる」(Th. §23)。

これに対して、道徳的悪(le mal moral)については、それ即ち罪を神が先 行的に欲することは如何なる意味においてもありえないが、帰結的に即ち究極 的な結果全体として最善をもたらす為に、これを許容せざるをえぬことがある。

つまり「罪が欠くべからざる義務からの確実を結果であると者えられる場合に

801

のみ、罪は是認され許容されねばならない」 (Th. §24)。

そこで一般的に言えば、 「神は先行的には自己の内の全ての善を臥し林地

(20)

20 井上義彦

には最善のものを目的として欲すること、神は無記なものや時として物理的悪 を手段un moyen)として欲すること、しかし神は道徳的悪を、ただ最善のも のと結びついた不可欠条件sine qua non,としてのみ、あるいは仮定的必然性 (la necessite hypothetique)としてのみ、許容することを欲することが結論

°

されねばならない。このような理由で、罪を対象とする神の帰結的意志は、許

° °伯l)

容的(permissive)であるにすぎない」 (Th. §25)。更に付言すると、 「道徳的 悪に関しては、それは手段としてではなくて、不可欠条件として神の裁量の対 象unobjetdudecretdeDieu)である。そしてその為に、それは単に許容

(92)

される(permis)にすぎない」 (Th. §230), ‑シェリングが、上記の二つ の引用文を「この二つの個所は、ライプニッツの弁神論全体の核心を含んでい

S3)

る」と指摘していたことは、我々の注目に値いするであろう。

だがそれにしても、まだ問題は残る。

悪が神によって許容されたということは、結局その悪の存在が神によって是 認されたことになりはしないか。そして最善なものをもたらす為に、神の帰結 的意志によって悪が許容されたのならば、やはりその悪の根本原因は神に帰着、

帰国することになりはしないか。そして悪の責任は、最終的に神に帰責するこ とになりはしないか。さもかすれば、道徳的悪たる罪を犯した人間は、最善の 世界をもたらす予定調和のための哀れな犠牲者になりはしをいか。

「事物の系列は、最も完全な事を常に行なおうと心掛けている神の自由な決 定に基づくと共に、神が人間の本性に対して行なった決定、即ち最善と思われ ることをいつも人間に(勿論自由にではあるが)させようという決定に基づく

(94)

ものである」 (D.d.M. §13)のであるから、人間誰しも自分の自由意志によっ てできるだけよく生きていこうと努めるはずであるが、それが犯罪者や罪悪人 の場合、結局結果的には、神の予定調和の計りごと即ち摂理の為の犠牲行為に なっているのではないかという疑問がなお残るであろう。

ライプニッツは言う‑「神が世界全体を我々の為に造ったということは、

確かに真実であるが、神が世界をただ我々の為にばかり造ったと信ずるのは、

D巳BIE

大きな誤りである」 (D.d.M. §19)。

ライプニッツによると、神の目的や計画をある特殊射国別対象に限定するこ とは、神の意図に反する。神は個々の善を別々に切り離して創造するのではな くて、常に宇宙全体を顧りみてそれの最善をもたらすものを創造するのである。

個々の善は、こうした普遍的調和の中でのみ存在するにすぎない。従ってライ プニッツの最善観を合意する予定調和説においては、一切は常に宇宙全体の普

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