翻刻・寛政期森侍衛門井祥編「書札礼」
H
I解題編‑藤
村潤 一
郎一書札'文体など(1)一六二〇(元和元)年頃に執筆されたpドリーゲス「日本の学芸について'まず文字について」は文字についてへ
「日本人は日常の生活では其xinの書体を用いない。というのは日本では、諸宗派の学者たちがこれを用いるからで
ある。すなわち坊主b6nzo[b6zo]やシナの学者の一派である儒道jutaの人々やその他の人々が、彼らの告物や注釈
において、また書物を印刷するのに︹この字体を︺使うのである。そこで日本人は、喜劫やその他の公のものに'第
二と第三の種輪の行ghi6と革saの文字を用いている。それらの文字だけが王国で通常の用に役立つので、子供が
学校で読み書きして覚えるのはこの文字である。これら二種顕の文字をよく知っている人は、容易に原形の其xin・・の
文字を読みかつ見分けることができるのである」と記している。(2)この行書'草書体で公の文宙が容かれた訳だが'具体的には明治二九年に奥御右筆河田邦が「告助の体裁が今とは
大層変わっておりました.何でも老中が出す書面は、奉書に限るようでしたが、いかに事柄が長くとも短かくとも'
文の長短に拘わらず、1枚の奉書に納まる趣向でした.それ故に変に大きい字を告いたり、小さい字を宙いたり'老
翻刻森戸祥紺「藩札礼」
H (
藤村)二五九史料館研究紀要第一四号lハ○
中の名が大きいのです。よほど体裁の悪いものでした。安藤対馬守の時に改めるつもりでしたが、それまでには至ら
なかったのです」と紹介している。(3)この幕府の御右筆は弘化乙巳(二年)陽月凡例、.偶堂迂夫「更徴」上巻に御目見以上と奥御祐筆二三人(元禄二年
始聾.・西丸奥御祐筆六人(元文三年)、奥御右筆所留物方一〇人(天明八年)・西丸奥御右筆所留物方1人(同上)〜
表御右筆一<人(年月),西丸表御右筆三人(要三年)とあ。、「吏徴別(Bk1T‑巻に布衣以下、御見以上として
表御右筆組頭(元禄二年始置)、奥御右筆(伝天和元年)、表御祐筆(往古より)とある。(5).安政三年丙辰如月仲二日彫久序'鼠沃「寝ものがたり」に
享保の頃、御祐筆を年久しく勤られし人へ
筆とりて天窓かくのも四十年男ならやこそ中根三平㌧此ざれ歌、上聞に達し、出世せられLとぞ、・′(6)と見ている。余り評価されなかったようであるが、「岡部職掌撰衆」第十三冊(寺社大概)には寺社奉行所の「十
九、美紀手形案、廿諸寺院返札案、二十一遠国往返案」が収録されている。他の役職にも同様の事が考えられる。(7)前記河田邦は奥御祐筆は機密を取扱い調査するが、表御右筆は機密と関係がないとし、御祐筆の仕事についてへ
表御祐筆の中から'少年で奥御右筆に入ります時は、見習というので入ります。故老の人が調べるのを、側で見
ていて手伝い‑らいのものです。たいてい三十日位は寝られぬそうです。それを乾き上げんけれはへ右輩の勤め
は出来ぬのです。何事についても例を三ツずつ採らんけれはならぬのですから'帳面を繰ることが出来なければ
いかぬので'記憶がよくなければいかずt.すべてが杓子定規になるのです。例のないことは1ツも言われぬとい・つづらうのですから.大計な菖鶴に1杯になっていか帳面を夜中じゅう調べることなどが多いので、儀式の御次第書な
・ども'御右筆が調べるのです.五節句その他の時に'大名の格式によって何某はどこ尼坐るということなども詞
.べて、それを御目付に渡して進退させるというようなことです。それまでに調べるのはなかなか面倒なふのでt.
二ちょっと入って分かるものではありませぬ、i...とある?これは事務の先例をさがしたのだろうがハ杓子定奴に覚えなければ勤まらない職である.I(8)この御祐筆の他に渡り祐筆がある。明治三五年嗣、昭和四年序'篠田鉱造「幕末百話一に、旗本が勤める御留守居
役の下にいた場合として'
▲でなi)さんぴんこのお留守居役の下に、渡り祐筆というがあって'これが俗に筆砥ピソコと申して、三1の毛の生えたのでござ
・います。給金は七両二人扶持で'御本丸お城に詰めています。お城にはお留居守部屋があって殿様もお泊りにな
.ります.その際には祐筆一人、用人1人附添い'宿直をするのです。この渡り祐輩というのが、最初の辛さとい
ったら男泣きに泣かされた事がある。その代り告式すべてを呑込めは、.こっちがぐっとお高く止り、どこへいっ
・ても喰えるという顔ができます。筆砥ピソコが出世すれば'まず渡り用人なんですが'年を取らなければなり増
せん。四十から五十年輩でなければいけませんでした.情けないものです。ぎむらい文中の三1とは旗本見放の渡り士で1抱えられると給金が年金三両、白米1人扶持から1111、即ちサンピソと言(補1)われた者である.ここでも容式を覚えての職である。(9)以上は幕府についてであるが'各藩から幕府に碇出する文書の場合に\っいては'満釆四郎桐「斉彬公史料」安政二
年に「書塀料紙ノ布達」として,
諸向mリ差出侯容附炉、鹿紙相用侯様相達匿侯得共、此節柄ノ偽二付、猶更在合ノ何紙ニチモ相用、且又字体並
文言ノ儀モ如何様トモ柏崎シ、趣意ノ・・、相分候様認差出侯テモ柳不苦候段へ向々へ可被達匿候事
翻刻森デ祥箱r番札礼」H(藤村)二六T
史料館研究紀要̲第一四号
啓を与えているIL 十月︹十二日︺
右之通従公義被仰渡候条、此旨向々へ可申渡候
十月十音韻石見畑榊
去る。惑罪悪への文書は紙、字体、文言に親定がある事を伺わせ'開港をめぐる動きは。の書塀の上にも影
(10)藩の書札礼については国立史料館蔵、向故国徳島蜂衝賀家文層に「宗鎮様御代文通書状文例」1冊'「璽貴様御代
文例帳」一八冊、「御文例控」六冊がある。機会をみて後日紹介したい。(補3)これらの事からすれば幕府と各藩には祐筆が書胤礼を持っていたと考えるべきだろう。祐筆については昭和四五年(n)刊、小松茂美「日本書流全史」は御家流と唐様について、A幕府の公用書体、m伝内流、必大橋流、愉曽我流tB御
家流の分流tm右筆'脚書家'矧唐様として祐筆の家系へ手本等を紹介している.当然書流としての考察である。(12)法制史の立場からは昭和五二年'水間修平「徳川幕府奥右筆の史的考察」がある。つぎに同五1年'高木昭作「書(13)札礼と右筆」は主として曽我尚祐の役割を考察している。
.昭和五二年刊、橘竪「書簡作法の研究」は国語学の立場からの研究で、近世の書札礼としては、元禄一二年刊'見
原益軒「書礼口訣」へ宝暦10年序'上原茂雅「書札所惑集」'元文五年刊「書札重宝記」'「和簡礼経」'寛文六年刊へ
穿雲道人桐子「簡礼集」'「簡礼記」、一六〇四‑A(慶長九‑1三)年刊、ロドリゲ入「日本大文典」など多数を取扱
っている。
なおロドリゲス、土井忠生訳「日本犬文典」は近世の喜札礼'古文書学だから勉強するように岩生成一先生から御(14)教示をいただいた記憶がある。書札礼については昭和一八年例言'相田二郎「日本の古文書」は書札棟文書を見る時
に、「この書札の相違を知って匿かないと」「差出者と受取者との地位の関係'或は文吉の内容に関する意義を充分了
解することが出来ない」として
文書の差出老受取者との相互関係に依って、書札を書くべき種々の形式'或は一般文書作成上の礼儀'技術を伝
へる為めに作られたものが書札礼である。
と規定し、弘安礼節の内の容札礼の重要性と、諸礼制定の時に定められた事を述べている。つまり諸礼の1部とし
ての性格がある。(15)・近世では候文体が公文書の文体となり、作法も厳しくなった事が知られているO書札礼の問題と言えよう。(16)昭和四六年序へ中村直勝「日本古文審学」上では「徳川時代文章については'それ以前玖政令文告と対比して非常
なる相異を見せるものである」。「用語は'極めて丁寧で、且つ通俗的である。口語に近い文章である。形式も、出来
るだけ竪紙を使わないで'折紙を使うように、心がけておる」が、他方「商業資本力の増大するに従って」「何とかし
て'形の上において、農工商の上に立たんと希念して'文書の形式に'外形上から威厳を加えんとする努力が払われ
初めて来た」点を指摘する。もう一つの特異点として平和が永‑続いた結果役人は責任逃れのため「文章に曲折を作
って意味を唆味にLt如何様にも解釈の出来る文脈を用いる工夫をした」結果、武家は直裁簡明を特色とする管なの
に「徳川時代の武家文書ほど、意味の不明確な文章はない。誰がどこまで言って'どこが誰の批判なのか'その見切
りをつけることが'なかなか困難である」一種独特の文書としている.
私は近世文書せ読む時、主語が何処までかかっているのか'また主語が何処で替っているのか判断に苦るしむ場合
が多い。(17)この中村氏の指摘は、昭和九年序、谷崎潤1郎「文章讃本」の書簡文体についてふれている点を想起させる。即ち
翻刻森戸祥揃r昏札礼LH森村)二六tt1
史料館研究紀要第1四号二六四
モうろうZtん「和文調とも漢文調と皇11芝ない変態な文章、いわゆる候文」は「まだ現在では諸官省を始め'懐古趣味の老人な
ぜの間に通信用として用いられて」いるが'「あの文体の大まかな言い廻し」つまり「昔の候文は1つのセンテンスと
次のセンテンスとの間に相当の間隙がある。前に云ったことせ後に云ったこととが必ずしも論理的に繋がっていず'
その間に意味の切れ目がある、そこが大いに飴情があって面白い」。今の人は候の字は使用するが意味の紫をつけ、
間隙をなくするから候文の廿朱が悪るいとしている。(18)二Jの点を昭和四六年に桑原武夫氏は「頼みにくいことを顕んだり、頼まれたことをことわったりするのには、あの
定式化された候文ほど便利なものはない」としている。飴情にはこのような面も考えられよう。(19)・候文の作法としての書札礼の持つ意味を考える時、‑文書からはなれるが昭和二六年序、伊藤整「小説の方法」の内
で昏崎藤村の文章について述べている事から塀推したい。伊藤整氏は「儀礼的なスタイルの中に彼は真実を包める秘おお各な方法を発見し」ヨーロッパ風の分析的表現、論理的描出を避け「分析的表現が蔽いがちなエゴの蔽い隠す急所を'<<・{は'幾世紀もの洗煤を経て日本の実社会が作った遠慮深i、形式にこだわったようを見えながら必要なことを言わずひ4しに好かない礼儀挨拶のスタイルで蔽い提出した」から'「その文体は、ある捻空孔節によって強いられた間接法を目
立った特色として持って来た」。「礼節的表現があらわに言わずに'しかも含みとして必ず指定せずにおかないものを
自己に有利な諸)hLd必ず拾足し、自己に不利な場合には沈黙露というあの特色を活用した」とLt挨讐表現を散文に生かしたと考えている。伊藤整氏は昭和二九年刊「文学入門」で藤村の文章の持つ意味と社会的背景を、「し
だいに明確さを失って(一種の儀礼的なアイマイさの中に圧迫力のある特殊な文章となっていった」が、「この系統
の表現」が日本社会で力があるのは、理屈を判っきり述べるより「それぞれの人間の立場を利用する圧迫感によっ
て、またその圧迫感に抵抗して物事を解決しょうとする方が、現実に余計行われており、それの方が実際の効果があ
′′ b
るからである。しかもその力は'礼儀的なものの言い方の仮面においてなされるのである」としている。戦後社会の
風潮の内での考え方であるが'近世の文書'書札礼を理解する手懸りとして利用出来ると考えたい。
二底本'校本
イ底本(補4)ここに翻刻する「書札礼」は逓信博物館蔵本である。翻刻はH解題編、日本文編とし、本稿は;に当る。さて底本
とした逓信博物館本は
\
F E D C B A
喜札袖称賛聞書口停一二三
書札袖称賛巻従四重六
書札袖称賢巻七
管用召札八
常用書札九十
苔札法式十一
G書式日用集十二 整理番号
HAIA210
HAIA2LLI
HA‑A2)2
tn‑A2)3
HAIA214tn‑A2)5
m‑A2(6
‑の七冊である。この七冊は同輩で一連番号が示す通り桐誌されたものであり'後世の写本であるが、班写時期は確
定出来ない。一枚の紙が別にあり、それには「1喜札礼七冊(書札袖称賛聞畜口伝三冊'当用容札二冊'苗札
法式一冊、召式日用集一冊)、2著者掲川<右衛門へ3出版地'使用地(記なし)、4筆者不詳'・5出版年
葡刻森戸祥題「番札礼LH(藤村)二六五
史料館研究紀要第一四号二六六
代、一使用年代(記なし)'6出品者樋畑雪湖、7備考明和の頃足利以来の書札礼を森停右衛門ニ口伝せし筆記な
り」とある。これは展示会での説明文と考えられ、樋畑雪湖旧蔵で、書札礼と称されていた事がわかる。備考の記事
はJEの末尾の宛名から考えられたと推測される。
・さて七冊は共に三つ目綴で)2.7×20.4
c
m、.衰耗は山藍摺叉は青摺と称する色紙である.Aの題賓は).7‑8×7.80‑85m、「書札袖称賢聞書口伝T二三」で、
表紙には「往来二四ノ一'(樋畑の印)」「郵便博物館保管品(以下読不明)」「書劫文例」「書劫文例Sq冊ノ内4︼雄一29」rHAIA210J、裏表紙に「十二Sgノ一」などのラベルがあり、1
丁ウラに「逓信博物館蔵書」の朱印がある。このラベルと一丁の印は他の六冊にもあるが以下省略する。Bの題賓は).7‑8×7.8、,「層札袖称賛巻従四至六」、Cの題第は).7‑8×7.85‑90、T書札袖称賛巻七終」、Dの題茶は),17‑8曇.80‑85、r「曹用書札<」tEの題茶は).80‑85×7.85‑90、「常用書札九十」tFの題賓は).7‑8×7.
85
‑90'/「書札法式十二㌧Gの題賓は),7×7,85.‑90.「書式日用集十二」である。
ロ校本
H.A・B・C「書札袖称賛、同聞書口停」については東京大学附属図番館蔵、曽我松軒「書札袖珍賢聞書」(請求
番号
g
G・25)を校木とした。同書は南葵文庫旧蔵本で原本は五冊かかなる。1甫葵文庫の題賓は「雷札袖珍宝」で、内容はa書札袖珍質開署一巻口停(南英文序の蔵印あり)tb書札袖称賢二
巷間書口停'C書札袖琢賢三巷間書口侍の三冊を合冊したもので、裏表紙に「購入、古本、.紀元二千五百六十三年、
明治三十六年十二月廿1日、南英文庫」の記印があを南葵文庫の題賓は全体の表紙に当るものであり、2・3・4・
5の表紙と同様のものと考えられる本来のabCの合冊の表紙はこの表紙の裏に貼付けられたと考えたい。
I‑2衰耗に「袖称賛四五六」とあってtd書札袖称賛巻四(南葵文庫の歳印)、e雷札袖称賛巻五、‑(記なし)か
らなる。
3表紙に「袖称宝聞章1二三」とあり、g書札袖称賛聞雷t巻口停tb醤札袖称賢二巷間番口停'・1番札袖称賛
三巻開署口侍、‑書札袖称賛巻四開署口停t.
k
書札袖称賛巻五聞書口侍からなる。4表紙に「袖称宝聞書六七」とあり、‑書札袖称賛聞書巻六、座右抄故古口停tm書札袖称賛閲書巻七からな
る。巻七の末尾に
此書非先師之選書艶然多集輯古昔之礼法而梢筋合平常流之停説桑賛鷹為払茂之方策也故熟覧之而加卯澄男
.享保庚子年菊月日官道親和判
とある。これは享保五年で'蟻川親和の事である。
5表紙に「袖称賢七」とあ乃'一m書札袖称賢巻七である。裏表紙に「購入'台本、紀元二千五百六十三年、明治
三十六年十二月廿一日'南英文庫」の記印がある。
従って、校本は南葵文庫が購入した時点では8‑ctd‑nの二分冊であったと考えられる。底本には1‑mはな
い。他は大略同容である。民本と校本は'行啓などの点では燐似の事が多い。
なお慧Cには,「荒<十五ケ俵品芸好きがある∵,れと「統群容鮎㌃収の「骨箕島八十五箇慧々
不好革︼とを比較すると'後者は六二ヵ条しかなく'その内で二〇ヵ条は文字の相異がある。参考迄に記るすと'大
賢実学附属図書館#・+森蓬「書札八十嘉俵」(話芸号322・
S
払㌃は各条毎に説明書がある。(24)底本C末尾の署名、.宛名について考えたい。著名人は「寛政重修諸家譜」によると'曾我舌祐は「大飲院殿仰により苔札法式を久保書右衛門正元に伝ふ」とあり'久保正元は「大飲院殿の御時おはせにより骨故丹波守古祐がつたふ
るところの書札法式を受く」'掲川親邦は天和「二年六月伸によって久保寺右衛門正永より曾放流室町将軍家の畜礼法
葡刻森ヂ祥柘r魯札礼」H(*村)二六七
史料館研究紀要「第一四号▲二六八
式下馬札書法の秘事をつたへうく。これ親郡かつJJ正永が門弟たるによりてなり」'・,親英は規照の子供である.親和
は・.「曾我流の書法は父親郡に習ひ(・下馬札の書法は兄彦左衛門規英よ1iうく?̲後足を男親雄に伝ふ」とある。(25)好名人森伝右衛門は伝衛門戸禅である.彼は天明元年致仕したが祐筆ではないJ。しかし
寛政元年九月十二日デ祥祖父より入木道を相伝Lrなを持明院・中納言宗時の門にいりて修行せし事を聞しめさ′
予れTひろ‑御家人の面々にも教授すべきむね仰をかうぶる。・またこの道の書十飴巻を著す。神前書式1冊、右史I,訓五冊∵右史心得1冊、,公私目録集1冊、書状一倍冊'略鴨書状礼節一冊、書重箱銘1冊等なり..由年十11
月廿八日行成筆の朗蔑集摸写のことをぅけたまはりLによ巧、白銀七徹せたまひ(下略)
(26)とある人物で、主.の他に「書道訓」'・寛政二年「入木道伝書目録(・世等寺代々伝書、藤授,l人海頂伝授」tかあそ・・,;‑こ著名人は曽我流書法の伝受順を示し、掩川風腰が森戸禅に授けた事を示している。ところで、阿波国徳島蜂須賀家
文書に「右史之心得」(文書記号27A:・史料番号
80 0)
示ある。表紙に・r此写出凍当年簡込江戸有こ.いたし供儲共∵此本帳老先当年者書抜物箱へ入居候事天保八酉五月十二日」と書いた張紙がある。これは前記の右史心得一冊に当る
と考えられる。最初に・
比書ハ其通すちをなせくをしへん為苦しかi)も、・デ祥元潔文才なY儲言や、r、にてしるせしゆへ,、門人の外に見す・・:‑Jる事を深くはつ、古法のおむきをよ‑しりて常時の礼を書ハ難なし、昔時の礼式を一既等に古法とはかり恩ふか
・・恵也、書礼.'t時の宜にしたかふとあれは、.曹世の礼を専にまもるへき事也、・其申私用の事を改て古法にかへすハ・
こくるしからす、公用の事を改むるハ却て古実にたかふ、ゐさい本文に在、‑見て取捨すへし
曾我氏正統停来源デ祥︻J、..]てNIメ.〜..ヾ主ある。曾我氏正統停未が彼の心郷を示している。書中の記述によると息子は忠功'嫡孫は繁充であり'最後に
愚父デ祥依祖父繁勝愈学武家凄絶於緒川親堆旨趣老有で嶋法下巻且数台絶将来且位署式等之誤久兵然近年病多彼
是不得点改正払然本停之容籍数十巻校合之佼門生清書之与丁諸好士独不可有外見着地
寛政二年庚成五月十二日壬辰源公風書
と な
〟いてる.√っ・。
・
・ P皆用書札」会蔵管用書札」1二三(請求番号)校本た。「帝DE「には、国立国図書館「2)23335を国図とし・・
(
27
書)
館 蔵L「治一〇」」字小栗」が大成定「寛政重修諸家譜」図明四㌧二一九購求「大岡成寛「なの印あ岡はL二どる・・・。
による
上天年退跡継'一御年六五奥御祐輩T二四職欝明八に寛政三年五月六に表右筆、同四月見習、〇月をし日日日
ている。
字 小 栗
が誰かは
不で御祐筆所持宙で明あのあるり'O
1の
巻
頭に.
三綱五常不変古今制文鳥老依代曾我丹改守古祐家停萄記之光様班管用書杜度変也故以内今・
止.'あD
二二の
巻末には、
, ..暑書札之法守御宇二一曾丹波守博之記録文法等悉被附]父書右衛礼後多院弘安年中所レ被定置也然我古祐家.]属愚・ 門
正者之J記
儲父祐代夢】公方l長こ召冊之法式l皆雄t末弟】講こ宙絶軍J拒南t之偽老父正賢家之臣時.多A故令J尚々 . 之
一人
之外
不レ被レ免.之且以)l昔之召 絶一校二今世之文法】暫有恭敬故損益之.ク‑
晩成二五冊l努不可間外々出
老也∴
寛攻七未久保五兵衛
九月日正永
とある.この国会図書館本と底本を比較すると'底本の方がかなり少な‑なっているが'逆に底本にのみ見られる
部分がある。それで東京大学附属図書館蔵「普用書経」上下(請求番号G26・)0)5)により校合した。同番には「中井
氏」ゐ印があり(下の末尾に「寛文四年辰二月久保書右衛門」として'前記国会図古館本の末尾と大略同文で'「父
葡刻.森戸祥揃r雷札礼LI(藤村)二六九
史料館研究紀要第一四号二七〇
正之1人之外不被克之且以昔之書札校今世之法暫恭敬之故以彼官記兼時様損益之の皆用雷札努々不可聞外者也」とあ
る。この久保吉右衛門は正永であるから丙本は同一本から作成されたものである。完n「寛政重修諸家譜」によると久保正永は「管用書札十冊を著す」とあるかtrtrt著者自身が抄録本をこの他にも随時
作成したのではあるまいか。
底本にのみ収録の部分もある。底本の末尾に全一〇冊の内で当時不用分を除き四冊にしたと'寛政三年正月付でチリ艶禅が記るしている。底本Eの末尾にある本日勝左衛親信は「寛政重修諸家譜」によると本日親宜へ勝左衛門で寛文一
1‑四年に御祐筆を勤めており'「兵事元年十1月二十六日領知の御判物、御朱印の事にあづかりしにより」時服二
倍'黄金二枚を典えられている。また井上左大夫は享保三年‑元文元年に御供地方に井上貞高(三次郎、左大夫)が
いるが同一人物かは不明である。大事百助については明らかでない。
最後に底本Dは校合の結果、錯簡を気付かずに筆写したと考えられる箇所がある。この点良質の写本でないが、他
の巻には同様の事は見当らなかった。また庭木Dは途中に「皆用書札七終」'末尾に「常用書札八終」とある。題賓と
の関係は明らかでない。
底本Eの「管用書札十」には朱書の加筆がなされているが、校本と校合の結果、これは訂正と考えて原稿を作成し
た。
臼F「書札法式」は、東京大学附属図書館蔵「書札略法上」(請求番号G27‑510)と、国立国会図書館蔵「書
札法式」(請求番号
)4 9‑ 6)
の前半部分とを校木とした。内容は共に大略同様で底本に省略分は見られない。底本自身は後述する書式法式全部からみれば省略本である。前者の内題は「苔札法式」で「南葵文庫」の印があり'裏表紙に
「購入'古本、紀元二千五百六十三年へ明治三十六年三月廿︼日、南葵文庫」の印記がある。
なお「書札略法下」の末尾に
右此書者曾我又口衛門尚祐嘗記之内也粗不可出聞外老也
寛永十七久保曽右衛門
正月日.正之花押
とある。後者の内題は「容札法式」で'題の右に「東京府士族、文京容籍館雇、増田長塩」と記るし、他に「明治
十年納付」「東京図書館蔵」の印がある。明治期の写本で末尾に前記寛永十七年、久保曽右衛門正之の記があり、次に
右略法三巻之中上巻老文法中巻こ制札高札下巻老諸目録也為右史老停之而可珍味其偽者随に時宜而可計之此三巻
則座右抄之取要所編集也其巻短而其意味甚深
源デ祥誌之
とある。源デ禅は前述の通り森伝右衛門で、字は源流である。底本はデ禅の云う上巻文法に当る。この記述にあ(30)る座右抄は「和簡
礼 経 」
の事であろう。源デ禅話之に続いて「将軍家書札停釆」とLtm室町殿御代文明年中、大館伊改守源尚氏入道常興、二階堂山城守
藤原政入道行二、伊勢下総守平良筋入道宗五の三者から始まり、必曾我兵庫頭平助粟入道松軒は「右従三師之口授号
座右抄書輯数十巻為1子相停仕義暗公義輝公義昭卿文禄四年七月六日卒」へ倣尚祐は「又左衛門助乗嫡子天正十八年率
謁神君公方家古賀言上寛永三二十卒」、紺青祐は「丹波守初名喜太郎明暦四四廿一卒」で、弟に包助、伊汝守がいる。
愉橘正之は「久保新左衛門正友ノ千号菅右街門松雲軒延宝五九十<隠居后改正元」・で'父の正友は「昌雲軒貞順卜
号ス天正十二因幡連容久保新三郎上室且州美濃守氏規二仕ル所浜松二来り御家人二列ス」'子の正之は「執蟹ノ串ヲ
司ル元和元三廿八十四歳ニテ被召出百五十俵被下之寛永六年四百六十石飴被下之」とある。
靭刻森戸祥拐r審札札」H(藤村)
史料館研究紀要第一四号二七二
(31)との久保正元は「寛政重修諸家譜」によると'「苔札法名式三冊、書札略法三冊'書札心得苔二冊を編集す」とあ
る。
・
愉正永は「正之t子音右衛門初名五兵衛右筆頭ヲ司」、「寛永十五年始奉鴇同十六年賜百五十俵天和二六廿一長岡城
主牧野駿河守忠辰江御預元禄二五月没」で'その弟に正真「金左衛門正之二子右筆ノ事ヲ司ル」と、正勝「新左衛門
正之三千正保四小十人江被召出正綱正畳請番」とがあるJ
tⅥ
宮道規燕は「掩川<右衛門子、元加州浜人後松平大和守仕又浪人ス」「寛文二三十五於神田御殿右筆二被召抱天和二四十久保正永書札法式相続被仰付元禄十四正十七没」とある。
(32コ
胤
規英は「彦左衛門卜号親潤子」「元七百石今五百石浜町住居今善九郎家也」とあり、「寛政重修諸家譜」には「宝永五年六月二十三日そのつとめに応ぜざるにより、小普請に庶さる。この月仰によりて伝来るところの書法の書籍こ
と・Vく官に収む。これにより授受し来る曾放流の書法断絶す」とある。
矧親和は「<右衛門・1号ス箕ハ親邦の二子元禄六十二廿二新規被召出元文二六十四没」とある.脚親雄は「<右衛門卜号ス箕ハ親英二子親和義子トス享保十六二日被召出宝暦五十1廿五御役御免安永四八三没」・(33)とある。「寛政重修諸家譜」には宝暦「六年正月仰により下馬札の書法を奥御右筆橋本喜八郎敬周に伝授す。後書札
の書法は宗家善九郎親費につたふ」としている。
次のgに若干問題がある。即A親央は「興三郎卜号ス親雄四男」tBデ祥であるが、親央は親雄と同じ高さに書い
てあるので、系図の線は規椎の下から左に行って一度上り'再び左横に書いている。ヂ禅は親雄の真下に書かれてい
る。
これは停釆が、室町幕府の大館、二階堂、伊勢の三氏から曽我氏に伝えられ、曽我氏が徳川幕府に仕えた事から始
まり'それが久保氏、略川氏に伝わり'略川氏から声禅に伝来したと記るしている。略川家例の伝来については喝川(34)家文書の寛政五冥丑年、略川音九郎官道親賓考書「書札伝来私考」に祥しい。再び「喜札略法」に戻るとと'
停釆如耕然虞有故天明五年六月親央与デ祥及絶交従右以前安永二年曾我助篭朝臣鳥門弟其訳者座右抄十巻者一子
相停故不許之因滋従助篭朝臣令相伴
座右抄停釆如左
古盈銅鯛蓋
包助伊予守
‑
助興包助手伊等‑
助元周防守‑祐有伊等‑助馬若等‑
助篭伊賀守‑デ祥となっている.助興は包助
の
次男である。つ
まりデ禅は堀川家とは絶交したが
、曽我の分家を通して、曽我‑久煤
‑
噂川の停流とは切れていないと主張している。主張は更に「停釆如此侍りLに」として寛政二年正月二八日に曽我助篭が秋元茂朝に事付けて、「当家停来の事先披露のことハ差和玉ハるへし,上への遠慮の事」であり「彼是むつか(読不明)し‑思ハるゝ故」にとなったが'「デ祥さいはひに舌祐朝臣の門人稽菜正則朝口の臣足立弥次兵衛基治停末を其門人筋
三浦明次朝臣の臣に悉停愛す」として委細は葬用閲書の按にあるとしている。
こ切事を裾にとって「右の将来を以人に停へんに何の惇あらんや」と、寛政二年二月三日に源デ禅は書記し、・「デ祥放鳥能書家業依先人繁勝命有飴力学之」とt.意気盛んである。鴨川、曾我の両家の追打ちを無視する事にした
デ禅は
寛文延賢天和兵事之間曾我流を以家をたてし輩すくなからす然問世の習彼流とて偽こ上一家を.なせし師又多t其
正博の家にてさへ信しかたき書お株‑有所謂鎗塾集抜職某等のことしデ祥是を札むと息ひ其家々を尋求て漸成就
す幸なる哉立花鑑虎朝臣へ久保正永の月毒してまいらせし数巻近頃とちもきれ混乱滝しま
ヽ デ
祥に次第を乱すへ葡刻.森戸祥題「看札礼LH(藤村)二七三
史料館研究紀要第一四号二七四
きよしにて一覧の時山脇継俊なと延資年中に正永より停授の書彼是考合せて書目左に喜之此外見聞する所の吾正
侍にあらすけるたちさる者也
と記るす。
デ
禅はこの事態になった以上は、自己の正統性を主張する以外に道はない。一種の家元として奥義、秘伝書の塀を集めて防備を固めなければならないが、それは当然'曽我氏、久保氏のものだから血統でなく実際の良質
テキストの量を誇示する必要が生ずる。その結果は次の通りである。
骨改流正博書籍目六
書札略法三冊
書札法式
書札袖珍宝
僧名遣近道
勅書
日本郡名
雲上景図
百官四分
御判物
語礼問答
右識雑記 三冊
一 一 一 一 一 一 一 一 七 冊
舌状折方
書札法式肋帽諸リ
輪旨御内書
百寮和苛
御下文
吉法三百八十ケ偉
同抜書
将軍家景譜
鷹憾巻
弘安礼節
家書抜薬
慧抄五択帥蓉前文字旗文字棟札二字札下乗
久保氏嗣集
書札心得二皆用苔札十容式日用鋸三和翰張安八諸家蒔某
足立弥次兵衛基治門人大曽根左兵衛友之尉葬用開署二十九巻
残念ながらまだこれらの書を確認していない.なお東京大学附属図苔館蔵「番札法式」(請求番号G27‑508)は末
尾に「右三巻岩田茂吉」とあり、明治三十六年十二月二十1日購求、南英文侍旧蔵本であるが、内容は底本とは別系
統である。
凹G「書札日用集」は本文の後に記るされた起請文に「寛政何年月日」の文言があるから、寛政期以降の写本で
ある。国立史料館歳「書式日用張上中下合本完」(諸礼容、文吉記号27N、史料番号24
7)
を校本とした。校本の内題は「書式日用集上巻'中巻、下巻'伊呂波探玄抄」でこれを合冊したものである。一丁表に「小僧宜」
の朱印'伊呂波探玄抄の終近ぐに「文光堂三十七堅ハ九七号」の塾印があり、下巻末に「明和八卯年九甥写之」と朱▼▼書、巻末に「明和<定年八月十<tZI写之」と墨書がある。
また下巻終の次に
右三巻者従愚父書右衛門尉正元停受ノ通督務所用々品々綴之而班書式日用集ま以才疎貿鈍招他見之噸臭努々不可
出閣外老也
延宝二年三月上旬
翻刻森戸祥編「畜札礼」H(藤村)
史料館研究紀要第一四号
ニ七
六
久保金左衛門
正 貞
此三冊久保正点所選之也夫学習先師跡間暁先哲理云々宣令習暁之守奥書之旨禁他見者也
賂川八右衛門殿也元禄甲成年正月日宮道親和
とある︒底本には延宝二年の文はあるが︑元禄七年の文はない︒校本は官道親和の右脇の説明書である時川八右衛
門股也が示すように︑本文の他に写者の説明が多く記るされている︒底本は校本に比較すると若干の省略がなされて
いる
︒
翻
刻
以上の通り底本は余り良質の史料ではないが︑底本の成立について考えたい︒前述の通りABC書札袖珍宝は明和
期に賂川宛のものだが︑当然同年以後の写本だろう︒
DE
嘗用書札は寛政三年に森予祥が抄録したものであり︑F書
札法式は校本に源ヂ祥がみえ︑G書式日用集には校本に時川の名が見えている︒
底本が一連番号を附して編纂されたものである事︑内容が曽我︑久保︑時川の御祐筆のものであり︑寛政年聞にデ
祥の記写したものがある点が注目される︒校本は原本でないし︑如何なる性質のものかはまだ充分検討していないが︑
校本自体が編纂の時点で書札の現状に合せて省略化している点を考え︑またヂ祥と前記御祐筆の伝流との関係︑予祥
が寛政期に入木道を御家人に教授する立場を考慮した場合︑底本は大胆な推測をすれば寛政期にデ祥が幕府書札礼の
現状に合せて編纂した簡約版ではあるまいか︒
デ禅が御祐筆でない点rl限界はあるが寛政期の書札礼巻がし.ていようし、1連のものとして茶府昏札礼を桐託した
点では他に額似のものに気付いていない。
以上の通り適当な底本ではないが、1連の簡約本としての働巣を認め翻刻する。勿諭告札礼は原塾の完全なものが
望ましいが、近世文miQ大部分が中、後期のものであるから'寛政期の簡約本はそれなりの意味を持つと考えたい。
将来より良いテキスTLによりこの翻刻が無用になる事を期待する。この翻刻の作業自体甚だ拙ないものであるが、
最初にpドリーゲスが述べている通り'行書'草苔のものを活字化する際'何処迄これを行雷、軍容の活字として翻
刻するか、かなり難つかしい。さらに行雷、軍容自身でも区別がある。例えは第1・二図は宝暦七年丑<月書目板(35)行、向栄堂序「高安用文筆道大成」に記るされている上容認棟'酋初審留之高下のように各様である。これを翻刻す
るには、これらの区別を知っ.た上で行なわなければならないが、私はごれを勉範するために翻刻するのだから、果し
て完全に区分出来るか疑問である。それでこのような事は良質のテキスト、例えは私はまだ見ていないが、肥前島原(36)松平文庫の
畜札礼事大二巻1冊写函架・請求番号<1‑三1
当用苔札法式大二巻三冊(慶安四年久保書右衛門尉正之ノ奥)写八一‑三七
苔礼大1巻1冊寛文四年写<四‑二1
などを彫印化した方がよいであろう.なお右の大は莫浪半裁大以上を示す。練返すが私はこれから勉強するので
あり'底本、校本で相異点を考えながら仕事を進めたので、古体、異体へ略体文字と正字'草行田'変態仮名と現行
仮名を完全に区別して示す事ができなかった。∴しの点'容札礼の翻刻としては徹底を欠いているし、全体を通じて首
尾]文していない事を追悼とする。L
葡刻森デ祥拓r音札礼」Hへ藤村)二七七
食料館研究紀要.第一四号
†名 埴 臥 あ
守 ::‑lm ・ :.:,
I.:潤I:
丹 rナ烏 払 てL
rt't払ワトも・t..鮒・...・t'lf.臥..1.iM;i;
'J St.?.・.
域町げTL車中穿
威尉好碇厳粛.
矧 捌捌
「軒姦 乙一
指は柑小ハ・k卦l 乙ケi・さす→‑矧門打電
髄
矧凶届凶.官轟琴曲Jよをかねて‑みて月カモえソ芸初‑虐中手人まぶ11.
瞥ソて戯骨董の・貞!ーノ
翻刻森デ祥編r書札礼LH(藤村)
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史料館研究紀要.第1四号.二<○
つぎに字の右脇の「O」の下の「・」は、校本に「O」のない事を示している。「管用書札」の部分での字の右脇の
「O」は校本のみにあり、底本にはないものである。「O」の所匿について統一を欠くが、余りに繁雑な記号を示すの
もどうかと思い、校本の記号のままにした。
字の左脇の「・」は'校本にこの字がみられない事を示し'行間の()は校本にのみありへ底本にない事を示
す。
字の右側の()を付したルビは'校本の字を示す。このルビがない場合は底本、校本が同様の字である。
菜)「」は朱書、「‑‑」は条線、﹃、﹄は行間の朱点を示す。
行間の」は改行を示す。∧Vは私の記るした説明文である。全文に句点を施して読解の参考にした。︽︾
は校本の墨書のルビを示す。
亮)「()」は'校本にのみ見られる朱書である。
註(1)
へ2)
(3)(4)(5)(6) 浜口乃二雄・伊東俊太郎訳「ロドリーゲス日本教会史」(大航海叢書Ⅰ)下巻八]頁旧東京帝国大学史談金偏「旧事諮問録」(青蛙選香3)三四六1七頁国事刊行全編「続々群書類従」第七二五頁「同右」八五、九1頁森銑三・北川博邦編「続日本随筆大成」n五頁.史籍研究全編「内閣文庫所蔵史籍叢刊」13五八九‑六一〇冥 (7)「旧事諮問録」三五二頁。なお明治三五年刊、逓信省通信局「万国郵便聯合加盟二十五年祝典記念展覧会出品目録」一五1七頁(逓信博物館蔵)には'安政元年琉球中山王より大老井伊掃部頭宛の公文書翰を納めた白木状箱を記した次に一徳川幕府文事係用塁壱挺一同筆壱本是ハ前同時代祐筆二於テ使用シタルモノニシテ中山王へノ返翰ハ此種ノ筆墨ヲ用ヰタウト云フ塁ハ0000000000葵紋付ニシテ天下一森丹後製畠トアリ又撃ハ券寸