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陳独秀の一貫した民主主義観

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(1)

◎論説特集◎﹁五四﹂の真実

陳 独 秀 の 一 貫 し た 民 主 主 義 観

陳 独 秀 は 晩 年 に マ ル ク ス 主 義 を 清 算 し た か 申

嶽又

はじめに

民主主義は︑人類が政治組織を出現させて以来︑それ

が消滅するまで(ギリシア︑ローマ︑近代から未来ま

で)︑各時代ごとに︑多数階級の人民が少数特権階級に

反対する旗印であった︒プロレタリア民主というのは

事実一つの空虚な名詞ではなく︑その具体的内容はま

た︑ブルジョア民主と同様あらゆる公民が集会・結社・

言論・出版・罷業の自由を要求することである︒そし

て特に重要なのは︑反対党派の自由である︒このよう

なことがなければ︑議会やソビエトも同じように一文

の価値も無いのである︒ 以上の文は︑陳独秀が死去するおよそ二年前の一九四〇

年一一月に書いた﹁我的根本意見﹂という文章から引用し

たものである︒ここで︑民主主義を最高の価値に置き︑階

級的意味よりは人間の基本的人権と政治的自由を重視する

立場から︑自分自身の思想をまとめて表現している︒陳独

秀の一生の中で晩年といえるこの頃︑すでに中国の現実の

政治舞台から身を引いており︑どの党派的立場や政治的利

害関係からも離れて︑中国という祖国と世界人類の自由と

平和のための一観察者として︑より根本的な人間の自由と

基本的人権︑民主主義についての自身の最後の見解を︑親

しい友人への手紙や新聞を通じて発表した︒

周知のように︑陳独秀は︑五四新文化運動時期には民主

と科学運動の先駆者であり︑二〇年代には中国共産主義運

陳独秀の一貫 した民主主義観

ISI

(2)

動の指導者であった︒しかし︑中国共産党をしっかりと導

くことができなかった責任により党籍を剥奪され︑一時︑

反スターリン主義の立場からトロツキー主義運動を主導し

たのち︑三〇年代初めには︑国民党により逮捕投獄された︒

五年あまりの獄中生活を終え︑出獄した後はあらゆる党派

的利害関係を断ち︑生涯の経験を総決算する立場から自身

の思想を整理し始めた︒出獄当時の中国は︑日中戦争によっ

て国家存亡の危機にさらされている状況であり︑また彼を

追放し投獄した中国共産党と国民党は︑依然として中国の

現実政治の主役としての位置にあった︒実際︑彼の立場で

は︑国民党と中国共産党どちらの側にも︑厚い信頼を抱く

ことはできず︑また堅強な気概をもった性格上︑政治的に

妥協しようともしなかった︒そのため出獄後︑党派的な政

治活動から離れ︑生涯を通じて経験し︑身につけてきた自

身の思想を︑独自の観点から改めて確認し︑整理するよう

になったのである︒

七〇年代末以降現在まで︑陳独秀に関する研究は︑中国

や台湾で実事求是的な観点から非常に多くの研究成果が上

げられてきた︒中国において︑陳独秀は一時期︑歴史的業

績自体が否定され︑反革命分子の隊列に押し込められた︒

毛沢東死後になって︑教条的な視点の枠が外され︑新たに

光が当てられ始めた︒しかし今もなお︑基本的に党史的な

観点が歴史的評価と判断の基礎を成しており︑彼について の評価も︑政治と無関係であった五四新文化運動時期の他

は︑相当な影響を受けている︒台湾においては︑かつて︑

彼を共産主義者としてタブー視していたが︑最近では比較

的活発に論議されるようになりつつある︒しかも︑陳独秀

が晩年に国民党の役割を認め︑なおかつそれと対立する中

国共産党を支持しなかったため︑国民党の立場から新しい

評価を始めているのである︒

このように陳独秀と直接関係のある台湾や中国では︑彼

についての評価をそれぞれの立場と関連させながら︑敏感

に解釈している︒そのため︑彼についての評価は︑あまり

にも政治的であるという限界を超えられないでいる︒この

ような意味で︑政治的利害関係から離れ︑第三者的な観点

に立っている日本やアメリカの陳独秀研究者たちの研究成

果は注目するに値する︒しかし︑彼の一生を通じて︑民主

主義に関する自身の経験と主張を最もはっきりと整理し表

現している晩年についての考察は︑いまだに不足している

ようである︒もちろん︑晩年には彼が中国において担った

政治的役割というものは︑ほとんどない︒しかし︑五四新

文化運動時期から初期中国共産主義運動にかけて残した役

割を考えてみると︑晩年の思想を考察することによって︑

彼についての全体的な評価を新たにする多くの示唆が得ら

れると考える︒そこで︑本論文では先行研究成果を基礎と

しつつ︑陳独秀が晩年に書いた文章を中心に思想的な変化

152

(3)

過程と背景を調べ︑ してみたいと思う︒ 彼の最後の思想と立場を具体的に分析

思 想 的 変 化 の 背 景

一九二九年=月︑反党行為者︑反革命主義者として批

判を受け︑中国共産党から除名された陳独秀は︑これを不

服として反スターリン主義者たちを中心にトロツキー派を

結成し︑この運動を主導した︒当時︑中国共産党とコミン

テルンは︑スターリンの政治的指導路線の下にあった︒ト

ロツキーは︑スターリンの路線に反対したために追放され

たが︑その後も継続して反スターリン路線を堅持していた︒

陳独秀は︑ソ連に留学して帰ってきた中国留学生たちから︑

スターリンとトロツキーとの政治闘争過程を生々しく聞い

ており︑自身の主張と路線がトロツキー路線と一致するこムゑとを知って︑トロツキー運動に飛び込んだ︒中国トロツキー

派の指導者として活動していた彼は一九三二年一〇月︑国

民党の警察により逮捕され︑民国に危害を与える叛国罪と

いう名目で八年の刑を宣告されて︑南京監獄で受刑者生活

を送った︒その間に︑一九三六年一二月西安事件が発生し

たことで抗日民族主義運動が全国的に高潮し︑国民党と共

産党間の抗日連合戦線が形成され︑政治犯の釈放という両

党問の合意によって︑一九三七年八月二一二日に︑約五年ぶ りに釈放されたのだった︒

陳独秀の釈放は︑政治的な関心を引いた︒共産党側とは︑

出獄直後に若干の交流があった︒共産党側から公式に話が

あったわけではないが︑出獄後まもなく︑忠実な弟子であ

りコミンテルンとトロツキー派で活動していた羅漢を通じ

て︑自らの入党問題について打診した︒共産党から除名さ

れていた陳独秀が︑ここに来て再入党問題について論議し

たということは大きな変化といえよう︒これは︑一九三七

年七月七日︑盧溝橋事件によって引き起こされた日本軍の

全面的な侵略による政局の変化に伴い︑陳独秀自身も姿勢

を新たにして対応しなければならなかったためである︒言

い換えれば︑日中戦争の開始による民族的な危機状況にお

いて︑共産党も︑階級闘争より抗日救国のための民族闘争

路線に忠実であったため︑陳独秀自身も変化せざるを得な

かったのである︒共産党の立場からも︑陳独秀の入党は︑

抗日闘争のための民族統一戦線の強化に大いに役立つだけ

でなく︑全国的に知られている彼の名声は︑知識人階層や

国民党にまでも大きな影響力を発揮し得るものであった︒

共産党の復党問題が持ち上がった頃︑すでに日本の中国

侵略は東北部から中部の上海地域にまで一層拡大しており︑

中国全域で全国民的な対日抗戦意識が昂揚していた︒国家

的危機の中で︑陳独秀は初めて(一九三七年一〇月二日)︑

同時の抗日戦線に対する自身の立場を﹃宇宙風﹄という雑

陳独 秀の一貫 した民主主義観

153

(4)

誌に以下のように表明した︒

今回の抗日戦線は︑対象がたとえ日本帝国主義に過ぎ

ないとしても︑その内容と歴史発展の前途には︑今後

一切帝国主義の侵略を退け︑完全な国家独立と統一を

完成させるということがある︒(中略)どの誰︑どの党

が指導しようと関係なく︑必ず一致団結して今回の抗

日戦線に協力しなければならない︒

つまり︑今回の抗日戦線を︑帝国主義侵略を退け︑国家

の独立と統一を完成させる契機と見なそうとした︒このた

めには︑あらゆる勢力と党派が一致団結して抗日戦争に協

力しなければならないのである︒

当時︑国家的に最も危急な問題であった抗日戦線に対す

る陳独秀の対応姿勢は︑党派や階級を離れ︑ひたすら民族

的利益と救国を優先するということに端を発する︒したがっ

て︑彼は︑すでに国民党や共産党といった党派的次元を超

え︑抗日救国戦線を形成することに最大の関心を置いた︒

党派問題について︑次のように語っている︒

民族存亡の危機にある今日︑全国の朝野の区分なく︑

各党各派は︑民族利益が党派利益よりも優位であると

考えれば︑躊躇なく必ず抗戦に勝負を決する根本政策

と無関係な論争を避け︑全力を民族解放戦争に注ぐべ

きである︒国共両党は民族危機を克服するために数年

間の内戦を停止し︑軍事的に抗日合力しているが︑こ れは断じて非難し得ることではない︒

一部で階級的な問題をもって国共合作に反対したり︑党

派的利益に執着したりしていることを批判し︑党派利益よ

りも民族利益を優先して︑民族危機を克服するのに全力を

つくすることを主張したのである︒当時の中国は︑内部の

政派的分裂と日本帝国主義の侵略という内憂外患の危機状

況にあり︑なによりも民族の団結と抗日救国が最優先的課

題であった︒そのため陳独秀は︑当時の状況において理念

問題に執着して党派間に陳腐で消耗的な争いをするよりも︑

当面は民族的立場でまず抗日戦線に全力投球し︑ひいては

すべての党派が連合して抗日救国戦線を形成するというこ

とに︑最大の関心を置いていたのである︒陳独秀はこのよ

うな民族的現実の背景の中で︑思想的にはそれ以前とは異

なる重大な認識の変化が生じていた︒彼は︑民族存亡の危

機的状況で︑党派的︑或いは階級的価値よりも︑民族の生

存と発展に︑より大きな価値を置いたのである︒したがっ

て︑この頃の彼の変化した部分は︑大きく二つに分けられ

る︒一つは国民党に対する変化であり︑もう一つは︑国共

合作に対する変化と言えよう︒

共産党創立当初の陳独秀は︑階級的観点から国民党に対

して資産階級の政党であるとして︑基本的に否定的であっ

た︒しかし西安事件以後︑蒋介石の国民党路線が抗日路線

に変化したことで︑陳独秀は国民党政府に対して︑以前の

154

(5)

ように公に激しく批判したり反対することはなくなった︒

抗日戦争での勝利を何よりも重要視しており︑中国が帝国

主義の圧政から逃れ︑国内統一と発展を成し遂げることの

できる契機と考えていた︒中国の民族的利益を︑どの党派

の利益よりも高く考え︑共産党やその他のどの党も︑抗日

戦争に対しては絶対的に支持するよう提唱した︒そのため︑

抗日戦争を先導していた国民党の抗日戦争の軍事最高統帥

権を認め︑全国民に力を合わせて国民党政府の抗日戦争に

協力せよと述べた︒国民党だけでなく︑すべての国民が抗

日民族主義の立場に立ち︑全民抗戦の形で闘争することを

積極的に主張したのであった︒

陳独秀の抗日理論は︑二重の目的を併せ持っていたとい

える︒つまり︑抗日戦争を歴史的転換点と見なし︑ここで

中国が勝利すれば外国の支配から逃れて独立できるのみな

らず︑抗戦を通じて︑凝集された民族国家として発展でき︑

新しい経済体制のための工業発展を通じて︑真の中国建設 ユの足がかりとなるものと考えようとしたのである︒抗戦を︑

即建国に結びつけ︑抗日戦争時期を民衆革命運動時期と見

なした︒この民衆革命運動時期の重要な任務は︑民族の独

立と統一︑立憲政治の確立︑民族工業の発展︑農民解放な

どであるとした︒民衆革命と抗日戦線を主導できる勢力が︑

戦後政権を握ることができると考えていた︒

陳独秀は︑誰が︑どのような党派が抗日戦線を主導しよ うとも︑朝野を区別することなく︑抗日戦争に乗り出さね

ばならないとした︒抗旧戦争時期に︑各党派の理念や思想

の統一の問題を持ち出したり︑また︑各党派の政治や経済

体制の問題を持ち出したりといったことは民族を危うくさ

(>せ︑結局は敵(日本)を手助けすることになるとした︒抗

日戦争に対し︑党派と理念を超えて対応しようとしたので

ある︒とはいえ︑各党派の理念や思想を放棄しようという

ことではない︒何よりも思想や信仰の自由は徹底して認め

るが︑抗日救亡のための行動は︑必ず統一しなければなら

ないということである︒彼は︑この両者の関係を﹁対立的ハぜ統=という言葉で表現した︒すなわち︑思想と信仰の自

由は政治的統一を求める抗日救亡の実践と対立するものの︑

国家的危機にあってはこの両者は統一されねばならないと

いうことである︒この両者の関係を︑次のように述べている︒

我々は︑抗日救亡のために彼らの思想や信仰を放棄す

るよう求めることができるであろうか︒もしも︑各党

派抗日合作のための条件として思想と信仰の統一を要

求したとしたら︑これはただ単に︑内戦を通じて自ら

と異なる異端者を粛正し︑その後に抗日をしようとし

ていたのと同じである︒これは︑党派についての問題

であって︑団結ではなく分裂であり︑抗日救亡に関す

る力量を増そうとすることではなく衰えさせようとす

陳独 秀の一貫 した民主主義 観

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(6)

つまり抗日救亡のために思想と信仰の自由を統一しよう

とすれば︑自ら分裂を招き︑結局は国力を衰えさせ︑敵(日

本)を利することになるということである︒そのため思想

や信仰と自由も︑抗日救亡のための行動と同様重要視しな

くてはならないのである︒五四新文化運動時期から︑絶え

ず思想と宗教の自由を強調してきたが︑抗日戦争時期︑蒋

介石の国民党が︑政治的目的の下︑思想的束縛や信仰の自

由に対する侵害を行なうのを憂慮して指摘したのである︒

彼にとっては︑思想的な理念や体制問題は急を要する問題

ではなく︑戦後になって︑国民たちがそれぞれ自由に選ぶ

べき問題であった︒言い換えれば︑抗日戦争時期には︑ま

ず外敵を追い払い独立することが重要なのであって︑これ

に最善を尽くそうということである︒

陳独秀は国民党に対する立場の変化と同時に︑当然なが

ら国共合作に対しても︑以前とは異なって︑積極的に擁護

する立場を取るようになった︒周知のように︑一九二三年︑

第一次国共合作が始まった頃の彼は︑国民党と共産党と合

作に反対していた︒両党の階級的基礎が異なり︑指向する

目鱒も異なるため︑決して合作しえないと考えたからで

ある︒また一九二九年︑トロツキー派に転向した際︑コミ

ンテルンの国共合作を中心とした︑労働者︑農民︑そして

資産階級(国民党)と無産階級(共産党)の︑四つの階級

ルクス主義の階級的立場から︑他階級とのいかなる形態の

連合(連盟)にも反対していたことを示している︒

このような態度は︑一九三二年一月︑いわゆる一・二八

上海事変を契機に︑日本の侵略が中国の東部に徐々に拡大

してくるにつれ︑少しずつ変化し始めた︒日本帝国主義の

侵略により国家の存亡を危ぶむ視点から︑抗日闘争に消極

的な蒋介石の国民党政府を打倒するため︑小資産階級︑さ

らには資産階級とも共同行動の策略を樹立することもあり

得るとしたのである︒さらに言えば︑帝国主義的侵略に対

する民族的危機の下︑中国を救済するために階級的利害関

係を離れ︑その他の階級とも共同行動(連盟)をすること

もあり得るとしたことを示している︒このため︑無産階級

革命だけを主張していたトロツキー派からも︑厳しい批判

を受けた︒しかし︑陳独秀が述べた共同行動というのは︑

抗日救亡に向けた努力に消極的であった蒋介石の国民党政

府を打倒するため︑ある期間︑階級間で連合するというこ

とに限定されており︑資産階級との長期的な政治連盟を意

味していたわけではなかった︒

そして︑盧溝橋事件によって引き起こされた日本帝国主

義の侵略という民族的危機を前にして︑抗日民族統一戦線

の方法としてすでに進行し始めていた国共合作に対し︑陳

独秀は正当性を認めた︒民族的危機を前にして︑朝野の各

党各派が︑それぞれに自らの価値を民族の価値より上に置

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(7)

くようなことはできないと強調し︑国共両党は長い間の内

戦を停止し︑軍事的に抗日に向けて積極的に力を合わせる

よう︑繰り返し主張している︒それと同時に︑国共合作は

民族生存のための共同闘争の意志であるとした︒この言葉

の中には︑国共合作が達成できなければ︑民族生存のため

に闘争しようとする意志がないという意味が含まれている︒

また当時︑国共合作が進められるとともに︑抗日戦線でも

相当の成果を収めていたが︑部分的に両党間で摩擦も発生

しており︑これを解消する方法として︑次のように述べて

いる︒

(1)国民党は︑共産党及びその他の在野の各党派を︑

すべて公に合法的な存在と認め︑彼らに投降的態度を

要求することなく︑抗日のために力を合わせることを

要求し︑さらに︑政権党に対する在野党の政治的批判

を妨害しない︒(2)共産党及びその他の党派は︑在野

党の資格で抗日戦争に対して絶対に擁護しなければな

らず︑さらに︑国民党の一党政権を一致して認め︑(以

下略)

言い換えれば︑民族的危機の前で︑各党派の存在と主張

をお互いに認め︑党利争いから脱して抗日戦争に共同で力

を合わせようと述べたのである︒戦争という非常時局にお

いて︑現実的に考えると︑まず中国民族を指導し︑抗日救

亡のために結集させることのできる政治勢力としては︑国 民党のほかにないことを表現している︒それまで反対して

いた国民党を︑日本帝国主義侵略という民族的危機の前で︑

抗日救亡の中心勢力として認めたのである︒しかしこれは︑

共産党の立場からは︑抗日戦争の指導権を共産党よりも国

民党に委ねていると同時に︑資産階級との妥協を通じて反

マルクス主義により国民党に従属する態度を取っていると

認識された︒この時期︑陳独秀の思想も︑階級的な観点や

マルクス主義の立場ではなく︑反帝国主義や愛国主義︑民

族主義思想の方へ展開した︒

以上で調べてきたように︑陳独秀は自身の思想的変身に

よって新しい現実に対応した︒このような変身は︑教条的

立場から見ると︑ひとつの思想的変節・屈折と見ることも

できる︒しかし彼の変化の特徴には︑どのような理念や党

派よりも愛国主義と抗日を重んじる民主的国家観が最も鮮

明に現れているということで︑より新しい評価を受けて をいる︒共産党から党籍を剥奪され︑トロツキー派として活

動していた時も︑結局このような自らの観点を堅持したた

め︑自身の同僚たちと対立してしまったのである︒投獄中

も出獄後も︑始終強烈な民族感情と愛国心を持ち︑救国救

亡運動の先頭に立った︒民族的危機にあって︑国家と民族

を最上の価値に置いた︒このような彼の愛国主義的主張は︑

﹃新青年﹄雑誌を通じての五四新文化運動時期︑民主と科学

を通じての愛国啓蒙運動から既に始まっていたといえる︒

陳独秀 の一貫 した民主主義観

157

(8)

しかし︑一九二〇年代に共産主義運動をしたことも︑アメ

リカの陳独秀研究家罠︒目霧O°KuoQ言うように︑中国を

単純に共産国家に変えようとしていたというより︑中国を

近代化しようとする愛国主義的立場に立っての︑一つの政

治的手段であったのである︒

二 晩 年 の 思 想

日中戦争が始まった初めの頃︑中国は日本の侵略に対し︑

一方的に敗退を重ねており︑国共合作で一時国内の戦列が

整備されたものの︑国共関係は日を追うごとに緊張の度合

いを深めていった︒また︑ヨーロッパでは︑ドイツとイタ

リアのファシスト体制が全ヨーロッパを揺るがし︑第二次

世界大戦が勃発して︑世界はそれまで類例のない全体主義

の脅威下に置かれた︒一九三九年七月︑陳独秀は抗日戦争

の本部があった重慶から少し離れた荒涼とした山村に移り︑

その生涯の最後の三年を過ごした︒この時期︑それまでの

自らの政治的変遷の方向についての最後の政治的立場を︑

民主と専制問題︑世界大戦と革命問題などに整理し︑近し

い友人へ手紙を送ったり︑言論機関に表明したりしていた︒

まず︑第二次世界大戦を引き起こしたドイツのヒトラー

にょるファシスト体制について︑民主体制を脅かす最も深

刻な人類の敵と見なし︑阻止するため真っ先に闘争するよ う主張した︒ドイツやイタリアのファシスト体制に反対す

るもっとも重要な理由として︑人間の自由を抹殺すること

を挙げた︒自由というのは︑人間だけの独特な大脳の発達

により︑他の動物と区別し︑万物の霊長としてと特徴づけ

てくれるもっとも重要な要素であり︑必ず守らねばならな

いと主張し︑次のように述べた︒

ファシスト統制は︑人間の思想の自由を停止させるも

のであり︑全ドイツ国民を︑ヒトラーの言葉でなけれ

ば話せないようにし︑全イタリア人を︑ムッソリー二

の言葉でなければ話せないようにさせて︑全国民をヒ

トラーとムッソリー二の鞭で動くような無知な牛馬に

しようと企んでいる︒人間が思想の自由を失ったなら

ば︑大脳は自然に退化し︑そのうち役に立たない器官

となって︑自然に退化消滅する︒人類は思想を自由に

してきたため︑サルから人間に変化したのである︒

すなわち︑思想の自由を停止し︑万物の霊長である人間

をサルに退化させるファシスト統治は︑結局人類世界を動

物の世界に荒廃化させるので︑これは食い止めねばならな

いということである︒このような第二次世界大戦に対する

認識は︑当時の共産党とかなりの違いを有していた︒共産

党は︑第二次世界大戦勃発後︑重慶で発行されていた﹃新

華日報﹄に︑特別に︑レーニンが一九一四年に第一次世界

大戦に反対した論文を翻訳掲載し︑﹁今回(第二次)大戦

158

(9)

も︑前回(第一次)大戦の再演であり︑双方の帝国主義者

がすべての国民を奴隷としてまとめ︑植民地略奪を行なう

ための戦争に過ぎない﹂と連日のように宣伝した︒しかし

陳独秀は︑歴史の時間性と空間性を無視するレーニン主義

的解釈と︑図式的なマルクス主義に基づく階級的認識より

も︑根源的な人間の存在論的立場から︑第二次世界大戦と

ファシズム体制に対処した︒人類世界を荒廃させるファシ

ズム体制に明確に反対しなかったり︑それを擁護したり支

援することも︑ファシズム体制と全く同じに扱った︒

まず︑その当時進行していた第二次世界大戦を︑イギリ

ス︑アメリカ︑フランスなど民主国家側と︑ドイッ︑イタ

リア︑日本のファシスト側にわけ︑ソ連のスターリン体制

を︑ファシズム国家と同一視した︒そして︑人類の歴史の

前進のために︑何よりもファシスト体制︑つまり全体主義

の打倒を主張した︒全体主義体制を︑西洋中世の︑神権が

支配した暗黒時代の教会国家よりもさらに人類に有害だと

認識し︑反帝闘争や他のどのような闘争よりも先に打倒し

なければならない敵と捉えていた︒何人かの友人たちは︑

陳独秀の意見に反対する手紙を送ったが︑全体主義国家を

まず滅亡させてこそ︑抑圧された民衆を解放でき︑次には︑

民主主義を実現できるのだとした︒

ソ連を︑特にファシスト国家と同一視した理由は何か︒

ソ連に失望した理由としては︑いくつかの事件を挙げた︒ 第一に︑日中戦争勃発時︑ソ連は国際社会主義的立場から︑

中国の対日抗戦に責任を持って参与すべきなのに︑そうは

せずに︑結局のところ上海︑南京︑武漢のみならず︑ブイ

リピンやマレーシアなどまでも︑あまりにたやすく日本に

引き渡したこと︑第二に︑一九三九年八月に︑自国の安全

策として︑ヒトラーのドイツと相互不可侵条約を結び︑ヒ

トラーと妥協して︑被圧迫民族を裏切っており︑国際社会

主義的立場から見ると︑第三インターナショナルが実際に

ヒトラーの側に立ったと非難した︒そして︑第三に︑一九

三九年九月︑ドイッ軍がポーランドを攻撃するやいなや︑

ソ連は本国西部に一連の東方戦線を構築するため︑ポーラ

ンド東部地区を攻撃して占領したが︑これをソ連がファシムきストと手を組んでポーランドを分割したものと捉えた︒世

界共産主義運動の宗主国であるソ連が︑このように国家的

利己主義だけを前面に押し出し︑ファシスト国家の侵略を

黙認して︑彼らと条約を締結したことに対し︑中国のよう

な被圧迫民族の立場から︑非常に失望したのである︒陳独

秀の立場に立ってみると︑当時のソ連は︑もはや無産階級

の革命と被圧迫民族の開放を実現する共産主義国家ではな

かった︒むしろ被圧迫民族を裏切り︑自国の利益だけを追

求する国家として︑ドイツやイタリアのようなファシスト

国家と全く同じに見えたのである︒

ソ連に対する彼の失望と批判は︑根本的な体制問題に向っ

15g‑一 陳独 秀 の 一 貫 した 民主 主 義 観

(10)

た︒ソ連で行われていたスターリン式の少数の人間による

GPU(秘密警察)政治は︑決してスターリン個人が愚か

なせいではなく︑むしろ体制の問題であり︑無産階級独裁

体制の論理的飛躍に起因しており︑ボリシェビキ十月革命

以後のソ連における独裁体制が︑スターリンを生み出した

のであり︑スターリンが独裁体制を生んだのではないと

した︒すなわち︑ソ連のような無産階級独裁体制はその構

造的矛盾ゆえに︑必ず独裁者を生むということである︒そ

のため︑ソ連のような独裁体制を生み出す構造的制度問題

や体制問題を改めないままでは︑スターリンがいなくなっ

たとしても︑その後には︑無数の第二︑第三のスターリン

が続けて出てくるのである︒スターリンをヒトラーと同一

視し︑ソ連の社会主義制度をドイツの国家社会主義制度と

同一視し︑ソ連の無産階級独裁をドイッのファシズム統治

と同一視した︒同時に︑彼は︑﹁ソ連の政治体制は︑ドイツ

西

人物(トロツキーも含め)の価値について︑再評価す

るよう主張する︒(中略)私は︑ナチスを︑プロシアと

ボリシェビキの混合物だと考えており︑ボリシェビキ

理論を教条的観点でなく科学的姿勢で見ると︑正当に

評価し得る価値は全くなく︑人物についても同調し難

いのである︒

当時︑無産階級革命を装ったボリシェビキ革命について

信頼できず︑レーニンやスターリンのみならず︑トロツキー

に対しても︑正当とは見なさなかった︒特にスターリンと

ヒトラーが一九三九年八月に︑相互不可侵条約を結んだ後︑

これに失望して︑レーニン主義とトロツキー主義を︑完全ミ に清算したのである︒このような結論を出すまで︑彼は自

身の表現した通り︑﹁ソ連の過去二十年間の経験を土台にし

て︑六︑七年間沈思熟考した末に︑ようやく今日の見解に

到った﹂のであった︒当時︑彼は︑政治的には︑マルクス

主義を完全に清算し︑ソ連のレーニンやスターリン︑さら

にはトロツキー主義に対してまでも︑それ以上信頼を置く

ことはなかった︒

一九二〇年代︑中国共産主義運動から始まったマルクス

主義者としての陳独秀は︑出獄後︑一九三〇年代後半︑人

生の晩年に到って︑マルクス主義を清算し︑自身の根本的

思想と意見を提示し始めた︒彼がマルキシズムを清算する

ようになった動機は︑ソ連共産党︑すなわちスターリンの

i60

(11)

統治に対する失望に始まると考えられる︒陳独秀自身が共

産党を指導していた頃のレーニンに比べ︑一九三〇年代︑

スターリンのソ連共産党が専制性をより色濃くしていくに

つれ︑独裁体制に対する本質的な疑問を抱き始める︒ここ

で︑スターリン個人に対する問題よりも︑そのような独裁

者を生み出した体制の根源を考えつつ︑スターリンが支配

するソ連を︑労働者階級国家とは見なさなかった︒当時ト

ロツキー派の活動をしていた王凡西の言を借りれぼ︑陳独

秀は︑国民党により投獄された後から︑﹁ソ連の国家性質に

疑問を抱き始﹂め︑ソ連を労働者階級が排除された︑一種

の官僚国家として認識した︒そのうち彼は︑スターリンが

自国だけの利益のためにナチスドイツと協定を結び︑隣接

国に対するファシストの侵略を黙認したことなどに失望し

て︑ソ連共産党体制を︑ドイツやイタリア︑日本と同じファ

シスト体制であるという確信を抱くようになったのである︒

陳独秀は独裁体制の発生原因を体制の構造的矛盾に求め︑

このような問題を解決し得る代案として︑民主主義の普遍

性にたどり着いた︒彼にとっては︑民主主義は階級的な次

元の対象ではなかった︒ブルジョア民主にしろ︑プロレタ

リア民主にしろ︑言論︑出版︑思想︑宗教など人間の基本

的人権と自由を保証することが︑最も重要な民主要素であ

った︒このような民主理念の本質は︑=二世紀以来七百年

あまりの間︑大衆の必要のために︑貴い血の闘争を通して︑ 人類の歴史の発展とともに︑より高い段階へと範囲が拡大

されてきたのである︒このように犠牲を払いつつ獲得して

きた基本的人権と自由を抹殺する全体主義は︑民主主義の

最も有害な敵であり︑人類の共同の敵であるといえた︒レー

ニンのソ連革命は︑資産階級政権を打倒し︑無産階級革命

を行なったものの︑結局民主制度を採用せず︑独裁者を誕

生させるようになり︑神聖な民主の価値を抹殺したと述べ なたのである︒

このような民主主義を︑強化し保護発展させるために︑

大衆民主主義を主張した︒世界史的に︑近代世界を資産階

級が支配する時代として︑近代民主制︑或いはブルジョア

民主時代であるとすれば︑その後の世界は︑他でもない大

衆が支配する大衆民主時代でなくてはならないということ

である︒大衆の支持が得られなければ︑必然的にスターリ

ン式の少数秘密警察が支配する独裁体制に代わり︑絶対に

大衆民主主義を実現することはできない︒また︑大衆と対

立する意味を持つ官僚制は民主の最も大きな敵の一つとし

た︒進歩的とは︑ブルジョア民主に代わる大衆民主主義を

実現することを意味し︑退歩的とは︑イギリスやフランス︑

アメリカの民主主義を︑ドイツやソ連の独裁体制に変える

ことを意味していた︒

彼によれば︑政治上の民主主義と経済上の社会主義は︑

相互補完的な面を持っており︑どちらが完壁とは言えない

陳独秀 の一貫 した民主主義観

161

(12)

英 ︑

及 び

連 ︑

制度

1 議会

は ︑ (む)

実行 され ︑ 各党 は必ず公約 と演説を発表し ︑ 最後 に ︑ 投票権 を持 つ選挙民の要求に応えな ければならない ︒ 開会時 には ︑ か な りの 論 争 もある ︒

は ︑

れ ︑

時には ︑ ただ挙手の役割をす るほかは ︑ 論争 はない ︒

2

捕 ︑

治警

で ︑

捕 ︑

る ︒

M政府 党政

り ︑

4 言論

想 ︑

言論 絶対

5罷業 ("V絶対

ず ︑

i6a

 帝国主義集団として認識したのである︒そのため︑どの側

が大戦で勝利しても︑帝国主義的覇権争いは続くと考えた︒

しかし︑アメリカやフランス︑イギリスなどは︑政治的に

対立する野党や︑労働組合などの存在を認めているので︑

ファシスト国家よりはずっと良い意味の民主国家というこ

とになる︒

つづいて︑彼は︑民主制度とファシスト制度の違いを︑

より明確に︑次のように対比して説明し︑民主国家の勝利 を主張した︒

右表に見えるように︑二つの種類の政治制度を比較し︑

人間の基本的人権と自由を拡大するかということでは︑民

主制度のほうが勝っていると結論づけた︒彼の思想は階級

的認識や限界を超えて︑人間の基本的人権と自由を中心と

する︑人間中心の思想体系であるといえる︒彼にとって民

主主義は︑資本主義であれ社会主義であれ関係なく︑人間

の自由と基本的人権が保証される体制であり︑専制主義は

人間の基本的人権を制限する独裁体制を指している︒

当時実施されていた民主制の中で︑議会制度を最も価値

があり意味のある民主主義の要素の一つに含めた︒議会制

を︑民主制の内容のうちの一つと捉えており︑もしも議会

(13)

制を排斥し︑さらに民主を排斥すれば︑ソ連のように堕落

し得る最大の原因となるとした︒なぜかといえぼ︑まず議

会制は官僚制の権力を牽制でき︑さらには大衆的参与政治

の象徴と見なすことができるからである︒

以上︑彼が主張していた民主主義に対する定義は次のよ

うに整理できる︒第一に︑民主主義は︑時間を超越する︒

人類が政治組織を作って以来︑現在と未来に至るまで︑民

主主義は依然として少数特権階級に抵抗する多数階級の旗

印でありつづけるのである︒第二に︑民主主義は︑階級を

超越する︒プロレタリア民主であれ︑ブルジョア民主であ

れ︑民主という内容には変わりなく︑民主主義を実施しな

ければ︑また同じ独裁体制にもどってしまうのである︒第

三に︑民主主義は︑社会制度を超越する︒民主主義とは︑

資本主義や資産階級︑その他︑どのある一つの制度とも︑

不可分の関係にあるわけではない︒言い換えれば︑資本主

義であれ社会主義であれ︑民主制度を採用しなかったり官

僚制の腐敗を防止しなかったりすれば︑また腐敗堕落する

ということである︒第四に︑民主主義の内容は空虚な理念

ではなく︑具体性を持っている︒裁判所以外の機関は身柄

を拘束できず︑参政権のない納税もなく︑議会の通過なき

政府の徴税権はなく︑野党を認め︑労働者の罷業権や農民

の土地耕作権︑思想宗教の自由を認めるなどである︒

陳独秀は晩年に至って︑無産階級専政理論を否定したば かりでなく︑階級的観点をすべて清算したのであった︒こ

れはマルキシズムを否定し︑同時に世界で最初に成功した

ロシアのボリシェビキ革命を否定することであった︒ボリ

シェビキの理論や人物について︑﹁ロシアの迷子﹂と見な

し︑ボリシェビキとファシズムを︑血統を同じくする双子

と見なした︒このような結論は︑どのような主義や政治的

束縛からも完全に脱して︑自由な立場となっていたからこ

そ︑獲得することができたといえる︒

陳独秀は︑一九四二年五月に死去するまでに︑第二次世

界大戦の展望と︑展開された国際情勢についての自らの見

解を著した三編の論文を書いた︒当時︑ヨーロッパでは︑

ドイッがポーランドを攻撃し︑イギリスが対独宣戦を布告

したことで第二次世界大戦が勃発した︒中国では︑日本が

一九三八年一〇月に︑広州武漢を陥落させ︑つづいて︑西

北と四川に向かって攻撃し︑一九四〇年五月には︑宜昌を

陥落させた︒最後に日本は国民党本部が置かれていた重慶

を脅かしつつ︑太平洋戦争の展開のため︑蒋介石に政治的

投降を要求した︒蒋介石の国民党政府は︑一九三九年一月

の国民党第五期五中全会を開催し︑一党統治(独裁)を強

化して︑消極的な抗日政策を取るとともに︑積極的な反共

政策を展開した︒

このような状況下で︑第二次世界大戦の結果を三つの方

向で予測している︒一つは︑英︑米の連合国と︑独︑伊︑

陳独秀の一貫 した民主主義観

i63

(14)

ツと日本が勝利するというものである︒一つ目は︑可能性

が極めて低いとして論外に置き︑二つ目︑三つ目の場合を

さまざまな面から判断した︒英︑米が勝利すれば︑独︑伊︑

日の運命は尽きるが︑戦後の処理過程で再びイギリスとア

メリカが対決局面を形成して︑また別の大戦で勢力競争を

始めるので︑資本帝国体制は続くと見た︒また︑万が一ヒ

トラーが勝利すればイギリスの命運は尽きるが︑結局はド

イツとアメリカの対決につながり︑世界は二分され︑次の

戦争で決着がつくと予想したのであった︒

陳独秀は︑世界大戦の結末がどんな方向に決まろうと︑

資本帝国主義は続くのであって︑﹁資本帝国主義世界の中で

後進国家や弱小民族による民族運動や民族解放闘争は︑本

来一種の幻想﹂であるとし︑また︑弱小民族や落伍国家は︑

敵強我弱の情勢下で脅威にさらされており︑民族闘争は制

限されざるを得ないとした︒しかし︑このような彼の戦後

についての予想は︑帝国主義の存続を既成事実化すること

で︑連合国の反ファシスト戦争の意義を喪失してしまって

いるだけでなく︑戦後の実際の進行状況は予想に反した方

向に展開した︒第二次世界大戦中にも︑さまざまな弱小民

族国家で民族解放運動が活発に展開されていたが︑戦後多

くの新しい民族独立国が誕生するようになり︑結果的に彼 の見解と異なる展開をたどったのである︒このような陳独

秀の誤った判断は戦争の意味をすっかり単純化してしまっ

た結果であり︑帝国主義世界をあまりに拡大して見てしまっ

たためであると言える︒また︑晩年に政治的挫折を味わっ

て以来︑展望については楽観的な見解よりも悲観的見解に ね転じており︑しかも組織と大衆から離れ︑長い間隠遁生活

を起こっていたため︑正確な指導路線を持つことは難しかっ

たのである︒

とはいえ︑弱小民族でも︑民族解放闘争のための効率的

な方法を講じれば︑帝国主義の支配を克服できるとした︒

効率的な方法とは︑政治を民主化することと︑民族工業を

発展させ︑民族の力を養い︑指導国の国内の革命に呼応し

得る闘争を準備しておくことであり︑それによって︑自ら

の民族の真の解放と進歩を達成することができるとしたの

である︒合わせて国外闘争と関連して︑今回の大戦は単純

な一つの民族問題ではなく︑全人類の民主自由の問題であ

るので︑民族主義ではなく民主主義のためという姿勢で闘

争しなければならないと主張した︒

つづいて︑臨終直前に︑世界情勢の未来について著した﹁再論世界大勢﹂という論説の中で︑もし今回の戦争でヒト

ラーが勝利すればイギリスの命運は尽き︑アメリカでもルー

ズベルトに代わって﹁アメリカのヒトラー﹂が登場し︑こ

の時には︑民衆対ナチスの争いではなく︑二つのファシス

t64

(15)

ト集団間の争いになると警告した︒このような状況になれ

ば︑民主自由世界は数百年の間回復され得ず︑ファシスト

体制は長い間続くと述べた︒歴史上の各時期ごとに︑民主

制に発展する前には必ずある暗黒時期を経るものであり︑

今後やって来る未来世界の民主制に先立つ暗黒時期に︑ヒ

トラーのようなファシストが発展することを憂慮した︒し

たがって︑ファシスト専制を経ずに︑ブルジョア民主制か

ら︑民主制が拡大された全民民主制(大衆民主制)へと進

歩することができるように︑今回の戦争でイギリスとアメ

リカが勝利するように援助することを強調している︒

このような陳独秀の民主主義に対する信念は︑実際には︑

かつて一九一〇年代の︑五四新文化運動の頃から始まって

いる︒当時︑民主と科学思想をモットーに﹃新青年﹄雑誌

を通じて啓蒙運動を始めた彼は︑民主思想についてアメリ

カQJhonDewey6̀思想を次のように要約して紹介した︒

(1)憲法で権利を保障し︑代議制で民意を反映させる

こと︑(2)言論の自由︑出版の自由︑信仰の自由︑居

住の自由など︑人民の権利を重視すること︑(3)不平

等な階級を打破し︑不平等な思想を除去し︑人格の平

等を求めるなどの平等主義を実現させること︑(4)不

平等な経済状態を打破し︑貧富の階級を平等にする

(55Vこと︒

陳独秀は︑上に紹介した四種類の内容は︑民主主義を実 現するための最小限の条件であると考えていた︒そして︑

ここでの民主主義(Democracy)を︑古代ヨーロッパにお

ける専制政治(Autocrary)と相反する意味として使ってお

り︑以後︑専制帝王のみならず︑政治︑経済︑文化︑社会︑

思想など諸方面にわたって︑専制的で特権的な人間のあら

ゆる生活に反対するという意味を持っているとした︒この

当時から︑すでに民主主義を時間的超越と階級的普遍性を

持つものとして把握していたのである︒

五四新文化運動時期から主張してきた陳独秀の民主主義

思想は︑時代と状況の変化にもかかわらず︑常に価値判断

の中心に据えられていたと考えられる︒このような意味で︑

抗日戦争時期の民族的課題も︑やはり︑五四新文化運動時

期の延長上で把握していた︒一九三八年八月に書いた﹁五

四運動時代過去了嘱?﹂という文章で︑五四新文化運動時

代の課題は︑日本帝国主義侵略と売国奴に対する反対︑思

想解放と婦女解放における封建の残存の清算︑科学の提唱

と迷信打破︑工業建設︑文化の工具を普及させること︑そ

して民権を提唱して官僚政治に反対することであると述

べた︒このような課題が︑二十年あまりが過ぎた抗日戦争

時期においても︑そのまま同じ意味を有しているとして︑

次のように述べている︒

このような課題(五四新文化運動時期の課題i筆者注)

が︑現在ではすでに過去となってしまい︑完全に過去

陳独 秀の一貫 した民主主 義観

i65

(16)

の時代となってしまうものであろうか?"五四"運動

時代は︑個別の孤立的なものではない︒辛亥革命から

"五四"運動へ︑"五四"運動と北伐戦争︑さらに抗日

戦争は︑ひとつの民主革命運動時代のそれぞれの事変

である︒それぞれの事変で︑仮に社会勢力の参加範囲

が違い︑運動要求の深さが違っても︑民主革命の時代

性には︑根本的な違いはない︒

重ねて言えば︑中国の歴史において︑初めて民主共和制

を施行した辛亥革命から︑五四運動︑北伐運動︑抗日戦争

に至るまで︑すべて同じ内容の民主革命を要求した一つの

事変として把握したのである︒したがって︑日中戦争時期

における︑民族の反帝独立運動と抗日運動も︑辛亥革命と

五四運動の延長線上に把握し︑また︑民主革命の要求のう

ちの一つと見なしている︒このような意味で︑抗日戦争時

期︑彼の晩年の愛国主義的主張と思想は︑本質的に︑一九

一〇年代の五四新文化運動時期の民主主義思想からの延長

であり︑そこに回帰したものと考えられる︒

おわりに

中国の知識社会と政治史において︑陳独秀ほど︑一生を

通じて複雑な思想的軌跡を歩んだ人物はいないであろう︒

一生を通じて変化する現実に対し︑絶えず思想的変身によっ て対応した︒清末の救亡と啓蒙運動から出発した彼は︑五

四時期に民主と科学運動を経験し︑共産党を創党して無産

階級革命を主張したりもした︒しかし︑日中戦争時期に当

たる晩年に至り︑自ら党派的︑階級的利害関係を離れ︑愛

国救亡のための抗日民族統一戦線の提唱と︑民主思想の確

立に乗り出したのである︒このように︑中国現代史に占め

る彼の独特な思想的移り変わりと履歴については︑いまだ

にさまざまな評価が交錯している︒中国では︑過去に共産

党から除名されている陳独秀について︑右傾機会主義者︑

取消主義者︑反革命分子などの反面教師としてすべてを否

定していたが︑八〇年代以降の研究者たちの間では︑当時

の共産党の革命方法と路線を異にする﹁錯誤﹂であるとい

う程度の批判となっている︒これは︑一九七八年末の共産

党=期三中総会以降︑政治的に正常化が図られ︑文化と

科学の各分野でも︑実事求是の精神を基礎とするようになっ

ており︑陳独秀に対する評価も︑このような立場から客観

的に研究分析され始めたためである︒

しかし中国では︑依然として党の路線を基準とする党史

的立場に立っており︑陳独秀に対する評価は創党初期の右

傾投降主義に傾倒した時期が悲劇の始まりであり︑その後

も自らの錯誤に対する反省もなく︑続けて反革命路線にの

めり込んでいったと批判するものである︒つまり︑自らの

錯誤についての反省や教訓を受け入れなかったため︑彼は

t66

(17)

逆に党を批判し︑トロツキー派を結成して反党活動を行な

い︑共産党とマルクス主義から完全に遠ざかって︑結局反

革命路線に堕落してしまったというのである︒そればかり

か︑陳独秀が晩年に主張した民主思想も︑五四運動時期の

ように積極的進取的で︑反帝反封建の立場から主張したも

のというわけではなく︑帝国主義を擁護し︑反ソ反共反社

会主義の立場から︑中国の歴史を前進させまいとした堕落

(60>した反動的思想であるというのである︒創党初期︑陳独秀

の路線が右傾投降主義であったとしてしまえば︑なぜその

ような傾向に行かざるを得なかったのかという歴史的条件

の問題は別個に放置してしまい︑その後︑彼のあらゆる活

動を共産党の路線と立場でのみ評価せざるを得なくなって

しまう︒日中戦争時期︑抗日民族統一戦線や︑抗日戦略上

の問題で︑彼の主張が部分的に共産党の主張と一致した部

分もあったが︑根本的に党を批判し︑マルクス・レーニン

主義を清算したという点で︑彼に対する評価は否定的であっ

た︒そのため︑今に至るまで陳独秀の評価は党史的立場か

ら限界が存在せざるを得ないと言える︒特に︑歴史的人物

に対する評価は︑どのような理念であったかよりも︑その

時代の具体的な歴史的条件と事実の基盤の上に立って︑客

観的に評価すべきであることは︑言うまでもない︒

最近︑中国で実事求是的な研究傾向が徐々に拡大してい

るのは︑幸いであると言える︒中国で一時期︑ブルジョア 知識人の代表で︑国民党の高位官職を務め︑アメリカ帝国

主義の手先であると大々的な批判運動まで展開された胡適

が︑近頃になって再評価されている状況も︑一つの良い例

であると言えよう︒このような次元から︑陳独秀も︑党史

的観点を超えて︑歴史的事実に立脚して再評価してみる必

要がある︒さらに︑今日︑ソ連をはじめとする大部分の共

産主義体制が失敗に終わったことに伴い︑陳独秀に対する

評価は︑一層その意味を増している︒共産主義草創期に当

たる頃︑すでに陳独秀はその体制の根本的な矛盾を認識し︑

この清算を要求するとともに︑新しい代案を提示していた

のである︒このような意味で︑陳独秀の晩年についての思

想的考察は︑それなりに多くの示唆を与えてくれるものと

考える︒

注  

︿1>筆者は︑陳独秀の一生を活動の内容と理念の面から︑

一九一〇年代の五四新文化運動時期︑一九二〇年代の中国

共産主義運動時期︑そして︑出獄後一九三〇年代末から一

九四二年に死去するまでの晩年の︑三段階に区分してみた︒

︿2>陳独秀に関する総合的研究として︑まず中国では︑王

樹様他編﹃陳独秀評論選編﹄上・下(河南人民出版社︑一

九八二年)︑任建樹︑唐賓林﹃陳独秀傳﹄上・下(上海人民

陳独秀 の一貫 した民主主義観

167

参照

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