2010 年 12 月 24 日 発 行 長 崎 大 学 経 済 学 会
マスメディアの表現の自由の現代的意義
海 野 敦 史
マスメディアの表現の自由の現代的意義
海 野 敦 史
Abstract
This paper addresses contemporary legal interests protected by the right to freedom of expression by the mass media that is assured un- der Japan's Constitutional Law(the constitution).Traditional aca- demic theories have commonly held that the legal interests protected by freedom of expression under the constitution include the free flow of information .What underlies this understanding is the view that free- dom of expression by the mass media is expected to contribute to the right to know of the general public.These rights were originally targeted at overcoming a variety of phenomena that hindered the smooth flow of information.However, my view is that this freedom does not encompass such an objective norm, because it attempts to en- sure the liberty of actions of expression, not the state of information flow.Therefore, it would be reasonable to assume that freedom of ex- pression by the mass media, featuring the collective exercise of fun- damental rights through freedom of association, principally ensures the subjective rights of the mass media in accordance with the ordinary legal interests protected by freedom of expression.That is, freedom of expression by the mass media is not concerned with whether or not the receivers actually received the information in the mass media.Yet, it should be noted that norms regarding the free flow of information are still protected under the constitution insofar as they relate to the free- dom of communications.This aims to ensure that the communications process is accomplished by the action of information receivers.
Keywords:freedom of expression, mass media, free flow of informa- tion, rights to know, Japan's Constitutional Law
1 序 論
日本国憲法(以下「憲法」という)21条1項が保障する基本権1である表 現の自由の中で,マスメディアが享有するとされる表現の自由(以下「マス メディアの表現の自由」という)については,学説上しばしば特有の扱いが 行われてきた。これは,マスメディアの表現の自由が,個人の表現の自由と は異質なものとして把握されてきたということをその含意とする。もとより,
マスメディアがこれまで果たしてきた主な役割が,「思想の自由市場」2が適 切に機能していくうえで必要となる基本的な情報を人々に伝達することによ り,議論のための基盤となる条件の提供や問題の設定等を行うことにある3 という点については,ほぼ衆目の一致するところであろうが,その役割をマ スメディアの表現の自由とどのように関連づけるかということに関しては,
慎重な検討が必要である。
そもそも「マスメディア」とは,一般に,「マス‑コミュニケーションの媒 体」4として「新聞・出版・放送・映画など」5を指すものと理解されている が,代表的な学説において,このようなマスメディアの表現の自由の保護法 益は,究極的にはその受け手である国民の権利を保障することにあるものと 構成されてきた6。しかも,例えばテレビ・ラジオのような「放送」と「新 聞」等の活字媒体との間で,その果たすべき役割について大きな差異はみら れなさそうであるにもかかわらず,メディアの種類に応じて異なる扱いが容 認されてきたところである。すなわち,「放送」というマスメディアに対し ては放送法(昭和25年法律132号)や電波法(昭和25年法律131号)に基づく 多様な規制(以下「放送規制」という)7が施されているのに対し,「新聞」
等の他のマスメディアに対してはそのような規制が存在しないことについ て,その正当性が主張されてきた。このように,マスメディアの表現が「特 別扱い」され,かつマスメディア間において表現の主体が享有する表現の自 由の射程が著しく異なることについては,一見すると不合理な帰結のように
もみえる。
もとより,このようなマスメディアの表現の自由とその制約のあり方に対 しては,多様な観点からの説明が行われてきたところであり,その多くは一 定の説得力を有するものであった。しかしながら,マスメディアを取り巻く 昨今の環境に目を向けると,従来の説明がそのままでは必ずしも成立しない という「ほころび」が生じているように思えてならない。そのほころびの端 緒は,以下の各点に集約される。第一に,これまでの学説において表現の自 由の原理論ないし保障根拠8については厖大な蓄積がみられる反面9,そもそ も「表現」とは何か,表現の自由の保護法益は何かということになると,必 ずしも十分な共通了解が得られていなかったように思われる。これらについ て曖昧な理解のままに,マスメディアの表現の自由の意義を考察しようとし ても,正鵠を射た考え方にたどり着くことができないであろう。第二に,近 年の情報通信の著しい発展に伴い,マスメディアそのものの位置づけが変化 しつつあると考えられることから,表現の自由一般の中におけるマスメディ アの表現の自由の意義について,再検討が求められているといえる。とりわ け,インターネットの急速な普及を背景として,いわゆる「ユビキタスネッ ト社会」10が実現しつつあることは,マスメディアの定義ないし位置づけを 大きく変えるものとなると思われる。第三に,第二の点とも関連して,近年 のブロードバンド・ネットワークを通じた「放送的」な映像配信サービスの 普及等に代表される「通信と放送の融合」という現代的現象が,マスメディ アの表現の自由の一環として捉えられてきた「放送の自由」を必然的に「通 信の自由」に「接近」させ,それが翻って両者の異同を明確にすることを強 く求めるようになっているといえる。これは,マスメディアの享有する自由 の内実を「解きほぐす」足がかりとしても作用すると思われる。
以上のような観点のうち,第三の点については別稿11に譲ることとし,本 稿においては特に第一及び第二の点から,マスメディアの表現の自由の現代 的な意義ないし保護法益について明らかにすることを目的とする。ここで
「現代的」としているのは,高度情報通信ネットワーク社会12と言われる現 代社会において,従来型のマスメディアの表現の自由の保護法益に対する捉 え方が変容を余儀なくされているのではないかという問題意識が根底にある ということをその含意とする。
具体的な考察の手順としては,憲法21条1項にいう「表現」の意義につい て検討したうえで,それを踏まえて「表現の自由」の保障の意義を考察し,
国民の「知る権利」や表現の自由の優越的地位との関係にも触れながら,マ スメディアの表現の自由の一次的な保護法益について明らかにする(第2 節)。次いで,マスメディアが一般に法人ないし団体であることを踏まえ,
「法人(団体)の基本権」という観点からみて,マスメディアの表現の自由 がどのように捉えられるべきであるかということについて,前節の内容を踏 まえて検討する。その過程で,マスメディアの「内部的自由」の問題につい ても言及する(第3節)。そして,これらの考察に基づき,今日におけるマ スメディアを取り巻く環境の変化に留意しながら,マスメディアの表現の自 由に対する従来の学説の考え方を整理し,管見を展開する(第4節)。以上 の内容に基づき,マスメディアの表現の自由の現代的な保護法益に関する結 論を導出する(第5節)。これらの分析を通じて,前述の問題意識に対する 筆者の「解答」を示すことが,本稿の主眼となる。
2 「表現の自由」の保護法益からみたマスメディアの表現の自由
マスメディアの表現の自由をどのように捉えるかということを検討するに 当たっては,憲法21条1項にいう「表現」とは何か,また「表現の自由」の 保護法益とは何かを慎重に検討する必要がある。もとより,表現の自由に関 する厖大な学説の蓄積に本稿が付加することのできる内容は乏しいが,前述 のとおり,「表現」の意義や「表現の自由」の保護法益を正面から取り上げ た研究は必ずしも充実しているとはいえないと思われる13。それゆえ,今後
の議論の円滑な展開のために,まずはその基本的な考え方を整理しておくこ とは有益であると考えられる。そこで,本節においては,これらの点につい て検討を行うこととする。
(1) 「表現」の意義
通説的見解によれば,憲法21条1項にいう「表現」については,「人の内 面的な精神活動を外部に(すなわち他者に対して)公表する精神活動」14,
「人の内心における精神作用を,方法の如何を問わず,外部に公表する精神 活動」15などと定義される16。一方,ある学説は,「内心における精神作用」
とその外部への公表との連関を絶つ観点から,「表現」を「対人的コミュニ ケイション行為」と定義する17。これらの定義は,表現の行われる過程の捉 え方等に関して見解の相違がみられるものの,その大筋においては共通項も 多い。管見もその「共通項」に異を唱えるものではないが,これらの学説を 踏まえて演繹される「表現」の意義として,以下の各点が指摘できる。
第一に,外部に表明されるものは,憲法19条にいう「思想」に限られず,
単なる事実なども含まれるということである。今日においては,この点につ いては異説をみない。もっとも,「表現」の原動力を「人の内面的な精神活 動」と捉える通説的見解からは,内面における精神の動きとは無関係に「外 面」に現れる言語等が存在する場合には,それが「表現」に該当しなくなる 可能性がある18。外部に表明されたものはすべて表現であると解することも 可能であるが,表明された「表現物」が表現者自身の能力をもってしても認 識することが著しく困難であるものについては,本人が自己の「表現」であ ると意図していないことが推定されるうえに,そもそも他者に客観的に認 識・受領される可能性が極めて低いため,他者への表明の効果を事実上ほと んど有しないことから,憲法21条1項により保護される「表現」とは認めら れないと思われる。したがって,表現の主体がその内面において何らかの形 で認識した思想,知識,事実等を他者に向けて客観的に認識可能な形で表出
している限りにおいて,それらはすべて「表現」となると解される。
第二に,「表現」が成立するためには,外部への表明が必要となるが,こ こでいう「外部」には,表現者本人は含まれないということである。すなわ ち,独り言や非公表の日記の執筆など,「他者」への表明を前提としない活 動については,憲法21条1項にいう「表現」には含まれないということであ る。「表現」されたものが他者の認識下に入る余地がまったくない限り,憲 法19条の思想・良心の自由ないし「内心の自由」の問題に吸収され得ると考 えられるからである。逆に,「他者」への表明を前提とする活動である限り において,相手方が不特定多数である必要はなく,特定の者に対する表明で あっても「表現」に該当し得る19。また,外部への表明形式も問う必要がな く,対話による双方向のコミュニケーションに限らず,マスメディアの表現 活動にみられるような一方的な情報の提供も含まれる。
第三に,「表現」を行うための媒体は問われないということである20。憲 法21条1項は表現を行う媒体として「言論」(口頭による表現)と「出版」
(印刷による表現)を例示していると解されるが21,これらに限らず「一切 の表現」の自由を保障していることから,新聞,放送,通信等のあらゆる表 現媒体の使用(又は不使用)がその視野に入れられているといえる。これは,
仮に表現媒体の相違に基づき表現の自由の保障内容に差異を設けるために は,表現媒体の特性に応じた別途の合理的理由が必要となるということをそ の含意とする。なお,表現媒体の使用に関する自由が認められるということ は,表現の場所や時間等についても表現の主体の任意であるということをも 意味するものと考えられる。
第四に,「表現」とは人の「活動」ないし「行為」であるということであ る。これは,「表現」とは表現活動によってもたらされる客観的な「状態」
ではないということをその含意とする22。しかも,「表現」という行為の内 容は,「外部への表明」であって,それが実際に他者に受領されたか否かを 問わないものである23。よって,他者に向けて表現された内容(以下「表現
物」という)が誰にも的確に認識されないということも想定される。しかし ながら,これは表現物の受け手の受領行為が阻害されてもよいということを 意味しない。なぜなら,「表現」が「外部への表明」である以上,「外部」と なる「他者」が表現物を積極的に受領しようとするとき,その環境を不当に 妨げられたとしたら,「表現」という行為が実質的に阻害されることとなる からである。その意味において,「表現」とは,広義に解すればコミュニケー ション過程ないし情報伝達過程全体を包含するものであると考えられるが,
狭義においては表現者の表現行為であり,必ずしも受け手の受領行為を待っ て初めて成立するものではないと解される。
以上を踏まえれば,憲法21条1項にいう「表現」とは,「主体の内面にお ける精神作用について,その表出のために利用する媒体を含む方法・形式,
場所,時間等を自ら選択しつつ,他者に向けて表出する行為」であると定義 することができる。表現が他者に向けられたものである以上,その受け手が 表現物を積極的に受領する(又は受領しない)ことも表現に付随する行為で あるといえる。
(2) 「表現の自由」の保障の意義
我が国の伝統的な学説は,「表現の自由」の保障の意義について,その
「国家からの自由」の側面を強調してきた24。しかし同時に,マスメディア の表現の自由や後述する国民の知る権利を語る文脈においては,「ただ情報 源を多元化するだけでなく,思想・情報の多様化を確保することが,表現の 自由の理念を実現するために不可欠である」25とも説いてきた。ここでいう
「情報の多様化の確保」とは,一定の場合に公権力による積極的な措置を要 求する「国家による自由」の意味合いが強いものと解される26。それゆえ,
このような支配的な学説の立場は,「表現の自由」の保障の意義を「国家か らの自由」として捉えるのか,それとも「国家による自由」をも十分に加味 して捉えるのかということに関して,あるいは両者のバランスをどのように 図るべきであるかということに関して,多大な曖昧さを残してきたといえる。
このような不明確さの中で,表現の自由を「情報の流通にかかわる国民の諸 活動」27の自由と同視し,「国家による自由」と親和的な「自由な情報の流 通のプロセスを保障すること」28をもその保護法益として読み込むような解 釈が有力となる29。そして,これらのことが,マスメディアの表現の自由の 保護法益に関する考察を混迷の世界へと導き,マスメディアの表現の自由の 中でなぜ放送事業者の行う表現に対する制約のみが憲法上正当化され得るの かという問題提起とそれに対する百家争鳴的な「応答」30を誘発してきたと 考えられる。したがって,マスメディアの表現の自由の保護法益を考察する に当たっては,公権力との関係における「表現の自由」の保障の意義を明ら かにすることが極めて重要である。
思うに,前述のような「表現」の意義にかんがみると,表現の自由とは,
基本的には,各人が認識した思想,知識,事実等のさまざまな精神作用を他 者に向けて表出する行為の公権力からの自由を保障するものであると捉える ことが可能である。これには,表現行為そのものの自由に加え,表現行為の ための媒体,場所,時間等を選択・決定する自由も含まれると解される31。 なぜなら,これらの条件の選択・決定は,表現内容と密接に関わるものであ ると考えられるからである。すなわち,表現の自由は,広義においてはコミ ュニケーション過程ないし情報伝達過程全体を保護するものではあるが,一 次的には表現を行う主体にとっての行為の自由であって32,表現の受け手に とっての自由については,表現を行う主体から発せられた表現物を受領する か否かを自ら決定できる自由,表現物の受領に際して公権力による不当な介 入を排除する権利が随伴的に導かれるにとどまる33。後者の権利については,
当該受け手が表現物を積極的に受領する(又は受領しない)ことを欲してい る者(以下「積極的受領者」という)である場合にのみ問題となるものであ り,表現物が結果として誰にも受領されないこともあり得ることにかんがみ れば,積極的受領者以外の表現の受け手の表現物の受領に対する権利は憲法 上問題とならないと解される。換言すれば,積極的受領者以外の表現の受け
手ないし消極的受領者は,もとより表現物を受領するか否かに対して無関心 なのであるから,当該受領を公権力により不当に「妨げられる」ことが想定 されないため,当該受領に関する表現の自由による保障を受けるものではな いといえる。我が国の通説的見解が,表現の自由の意義について,「思想・
情報(これを広く情報という)の発表(伝達)の自由のみならず,その受領 および提供請求の権利を含む」34とか,表現物の受領の自由(以下「情報受 領権」という)を伴うことを前提としている35と解していることについても,
本来はこのような文脈の中で捉えられるべき事柄である。
それゆえ,表現の自由から,ただちに「自由な情報流通」の確保という憲 法規範が導かれるという考え方には論理の飛躍があり,いわんや「情報の多 様性」の確保という憲法規範が客観的に保障されるという見解についてはそ の根拠が不明であると言わざるを得ない。その理由を敷衍すれば,前者につ いては,情報の「流通」の実現は受け手の受領行為を暗黙の前提としている が,前述のとおり,表現物は結果として誰にも受領されない(すなわち「流 通」しない)こともあり得るのであって,そのような表現物についても憲法 はそれを表出する自由を保障している(すなわち,流通しない表現物の表現 行為も憲法21条1項の保障の射程に含めている)と解されるからである。後 者については,表現の自由を保障することにより,「思想の自由市場」が活 性化し,その結果として流通する情報の多様性が確保されることとなる効果 がもたらされることは十分に想定されるが,逆に表・
現・ を・
通・ じ・
た・
情報の多様性 の確保それ自体のための具体的な条件整備について,それを公権力の義務と 考えることについては,憲法21条1項の規定からは導かれないと考えられる からである。すなわち,「国家による自由」としての「情報の多様性」の確 保という命題は,憲法21条1項との関係においては,その保護法益ではなく 反射的効果にすぎないと解すべきである36。よって,表現の自由の保障は,
「国家からの自由」を原則とするものと考えるべきである。
これらをマスメディアの表現の自由という文脈から敷衍すれば,マスメデ
ィアの表現行為が公権力による介入を受けないことに加え,マスメディアの 表現物(すなわちマスメディアが提供する情報)に対する積極的受領者が,
その情報を受領することについて公権力による妨害を受けないことに対する 権利についても,憲法21条1項に基づき保障されることとなる。これは,憲 法21条1項に基づく受け手の権利については,対公権力との関係における防 御権にとどまり,マスメディアによる表現を介した一定の「状態」(例えば
「自由な情報流通」や「情報の多様性」)の実現を要求する権利は内在しな いということをその含意とする。この意味合いについて,以下に挙げる複数 の異なる視点−すなわち「知る権利」との関係及び「表現の自由の優越的地 位」との関係−から更なる考察を加えることとしたい。
(3) 「知る権利」と「表現の自由」との関係
①学 説
通説的見解は,前述のような表現の自由の解釈に関する管見の方向性とは 必ずしも符合せず,受け手の情報受領権の定立の延長線上に,「言論・表現 の自由の現代的な発現形態」37としての「知る権利」をも導くこととなる38。 この「知る権利」は,判例39が「報道機関の報道は,民主主義社会において,
国民が国政に関与するにつき,重要な判断の資料を提供し,国民の『知る権 利』に奉仕するものである」と述べていることからも明らかなとおり,マス メディアの表現の自由と「不即不離の関係」40にあるものであるといえる41。 ここで問題となるのが,はたして「知る権利」は「表現の自由」から導かれ る権利といえるのかどうか,またマスメディアの表現の自由は本当に国民の
「知る権利」に奉仕することが憲法上求められているのかどうかということ である。そこで,この点に関する考察を行うために,「知る権利」に関する 主な学説を一瞥したうえで,これらの問題に対する管見を展開することとし たい。
「知る権利」は,一次的には「『表現の自由』全般を支える基礎的原理な
いし理念」42として,より具体的には「情報の受領を妨げる公権力の行為の 排除」43を要求する権利として,定位されている。もっとも,このような権 利にとどまる限り,前述の情報受領権に符合し,表現の自由の保障の射程に 含まれるものと解される44。通説はこれに加え,「積極的情報収集権」45ない し「国民が情報源に対して情報の公開ないし提供を要求することができ る」46権利をその保障の射程に含めている。そして,ここでいう要求対象の 情報源は,一般に公権力であると解されており,それゆえこの権利は「政府 情報開示請求権」と称することが可能である47。したがって,これらの情報 受領権と政府情報開示請求権とを包括する「知る権利」は,自由権的性格に 加え,請求権的・社会権的性格を帯びることとなり,個人権的要素48を基盤 としつつも民主主義的要素にその機能の重点がおかれているものと解されて いる49。そして,「知る権利」は,その内実の多様性にもかかわらず,「表現 の自由の現代的形態」50であるとされ,国民主権の原理と相まって,表現の 自由の一環として憲法21条1項に基づき保障される基本権であると定位され ることが一般的である51。
また,「知る権利」が定立された背景事情については,(ア)「社会的に影 響力をもつ有力なマス・メディアが一部の企業体に集中する傾向が進むにつ れて,それらによる情報の独占ないし寡占の状況が生まれ,送り手と受け手 との分離が顕著になってきたこと」や,(イ)「積極国家(福祉国家)化に伴 う国家機能の増大と行政権の拡大強化の現象が,(中略)驚くべき数量の情 報を秘密という名の障壁によって国民から遠ざける事態を生むことになった こと」などが指摘されている52。換言すれば,「送り手と受け手の分離」と
「国家秘密の増大」とが「知る権利」の概念を生成することとなったといえ る。
一方,前述の「知る権利」の2つの側面について,学説においては,知る 権利の本質は「国家権力によって邪魔されないという消極的なものではなく て,国家の情報提供という行為を要求する権利」53であるとする指摘にも象
徴されるとおり,政府情報開示請求権の側面こそがその核心であると解する 見解が有力である54。すなわち,公権力に対する「国民の知る権利」55とし て,政府に対して情報開示を請求する権利を中核としながらこれを構成する 考え方である。この考え方は,表現の自由とは,表現という「情報伝達行為
(コミュニケーション行為)の自由」の保障にとどまらず,「自由な情報流 通」という客観的な「状態」の保障をも含むという解釈を前提としているも のと思われる56。元来,知る権利は,「自由な情報流通」を阻害する現象を 主権者である国民の立場から克服しようという文脈の中から構成されてきた ものであるといえるからである57。このような解釈の展開により,表現の自 由の保障は,その解釈論上,「自由な情報流通」という客観的な制度的保障 の性格を強めることとなる58。
もっとも,このような知る権利に関する学説の考え方には,いくつかの異 論もみられる。それは,政府情報開示請求権としての知る権利が憲法21条1 項に定礎される権利ではないという見解に根ざすものである。例えば,憲法 21条1項の権利の射程(国家からの自由としての側面)と有効な権利行使の 条件(権利行使の主体の条件・能力の不十分さ)との間の「溝」に国民主権 の原理等の概念を「挿入」しても,前者が後者にまで拡大されることにはな らないと説く学説59は,その典型である。また,政府の保有する情報の開示 について憲法は何の要請も含んでいないわけではないが,憲法21条1項から ただちに政府への情報開示請求権を導くことは困難であり,立法の解釈にお いて憲法上の要請が考慮されるにとどまると解する学説も提示されてい る60。この場合,具体的な立法措置としては,行政機関の保有する情報の公 開に関する法律(平成11年法律42号),独立行政法人等の保有する情報の公 開に関する法律(平成13年法律140号),行政機関の保有する個人情報の保護 に関する法律(平成15年法律58号),独立行政法人等の保有する個人情報の 保護に関する法律(平成15年法律59号)などが挙げられよう。この学説は,
知る権利の内実として,(ア)「マスメディアから市民への情報の伝達が政府
によって阻害されない権利」ないし「市民が自由に情報を受け取る権利」,
(イ)「マスメディアが情報源にアクセスする権利」61を挙げるが62,「市民が 主体的に情報の提供を政府に求める権利」については慎重である。更に,知 る権利を表現者の享有する表現の自由から導出するのは権利主体の拡張であ って,知る権利は憲法13条の問題であるとする学説もある63。
②管 見
「知る権利」は,マスメディアの表現の自由との関係においては,いわば
「両刃の剣」となる。すなわち,知る権利は,その主体にマスメディアも含 まれると解する限りにおいて,「マスメディアが情報源にアクセスする権利」
を媒介として,例えば「取材の自由」64などを導き得ることから65,マスメ ディアの表現の自由の射程を拡大させる効果をもたらす。それと同時に,他 方で,マスメディアの表現の自由は国民の知る権利に奉仕するものであると いう規範を導き出し66,当該自由はマスメディア自身の自由にとどまらない ことを明らかにする効果67をも提供することとなる68。もっとも,後者の効 果については,「マス・メディアの自由を厚く保障すればするほど,国民の
『知る権利』も充足されるという予定調和的な前提」69に依拠することも理 論上は可能であるが,実際には,国民の知る権利を充足させるためにマスメ ディアの表現の自由に一定の制約を課すことも正当化されるという理論が通 説的地位を占めるようになり70,この理論が特に実定法上の放送規制の合憲 性を説明するための前提の一つとして用いられるようになったのである。
しかしながら,「知る権利」を憲法21条1項から導き出す通説的見解の考 え方については,昨今のマスメディアを取り巻く状況の変化も踏まえ,その 妥当性について改めて検証する必要があると思われる。そもそも憲法21条1 項から導かれる情報受領権は,「表現を行う主体から発せられた表現物を受 領するか否かを自ら決定できる自由」ないし「表現物の積極的な受領に際し て公権力による不当な介入を排除する権利」としての情報受領権である。政 府は表現の自由の享有主体ではないから,ここでいう「表現を行う主体」な
いし表現物の提供主体に政府が含まれないことは言うまでもない。換言すれ ば,表現の自由に含まれると解される情報受領権の客体は「国民各人(法人 を含む)によって表現されたもの」に限られると解される。よって,政府に より公表された情報の受領については,憲法21条1項は何ら保障していない と解すべきである。もっとも,「自由な情報流通」という規範が憲法21条1 項に内在しているのであれば,「政府により公表された情報の流通」につい てもその保障の射程に入り得ると解する余地が生じるが,前述のとおり,表 現の自由から「自由な情報流通」という規範を導くことは困難である。した がって,憲法21条1項は,国民各人の表現物に関する情報受領権としての
「知る権利」の根拠規定にはなり得ても,政府情報開示請求権としての「知 る権利」の根拠規定にはなり得ないと考えられる71。
また,近年においては,基本権としての「知る権利」(政府情報開示請求 権)自体の存立基盤も揺らいでいる。これは,政府情報開示請求権が何ら基 本権として認められないということではなく,当該権利を憲法上の権利とし て主張する必要性が薄らいでいるということである。この点につき,通説的 見解が主張する知る権利の定立の背景事情について,現代社会の状況に照ら し,再検討することとする。
まず,前述の「送り手と受け手の分離」についてであるが,これはマスメ ディアによる「コミュニケーション市場」の支配の高まりに応じて72,「大 衆は一方的に情報受領者の地位におしとどめられる」73ということをその前 提としている。しかし,情報通信の著しい発展に伴い,インターネットを通 じて,政府はもとより国民の誰もが容易に情報発信を行うことができるよう になった今日において,この前提は必ずしも妥当しなくなっている。「大衆」
としての国民が情報発信者であると同時に情報受領者となることはもはや一 般的となり,新聞や放送などの伝統的なマスメディアのみが「コミュニケー ション市場」を支配しているとはとうてい言いがたい状況が出現している。
それゆえ,「送り手と受け手の分離」を根拠として,「受け手」の立場から表
現の自由を再構成する必要性は,明らかに低下しているといえる。しかも,
このような「再構成」が本来もたらす帰結は,マスメディアを情報源とする 表現物へのアクセスに対する権利であって,政府情報開示請求権ではない74。 したがって,「送り手と受け手の分離」は,もはや知る権利の存立基盤たり 得ないといえる。
次に,「国家秘密の増大」についてであるが,公権力が厖大な量の情報を 管理していることは,今日においてもなお妥当する事実である。しかし,そ もそも表現の自由から,そのような情報源に対して情報の公開・提供を請求 する権利を演繹することができるかどうかということは別問題である。表現 の自由の保障を表現行為ないし情報伝達行為の保障であると解する立場から は,このような情報公開に関する請求権はただちには導かれないからである。
それに加え,立法措置に基づく政府の情報公開制度が従前と比較して大きく 進展・定着した今日においては,公権力が情報を「秘密」とするケースはか なり限定的なものとなると同時に,請求権としての憲法上の知る権利を主張 しなくとも,必要な情報を入手することが可能となりつつあると考えられ る75。公開されていない情報で必要なものについては,行政機関の保有する 情報の公開に関する法律3条に基づく開示請求権を行使すれば足りるからで ある。もっとも,これは基本権としての「知る権利」の必要性そのものを否 定する理由となるものではないが76,少なくとも従来の学説に従ってそれを 表現の自由に「接着」させておく必要性に疑問を呈する根拠の一つとはなる ように思われる。
また,例えば問題となる情報が一定の個人情報(行政機関の保有する情報 の公開に関する法律5条1号に規定される情報)である場合には,法律上不 開示が予定されていることから,表現の自由の問題としてよりも,むしろ憲 法13条に定礎されるプライバシーの権利の問題(「自己情報コントロール 権」77の問題)として捉える方が妥当であろう。更に,近年ではインターネ ットの普及を背景として多様な情報がネットワーク上を流通するようになっ
た結果,「情報管理」を行っている主体については,公権力に限られず,さ まざまな民間の主体がこれに含まれるようになった。すなわち,情報は多く の主体によって重畳的に管理されているのであり,政府情報開示請求権さえ 保障すれば「知る権利」が充足されるとは言いがたい状況になっている。し たがって,「国家秘密の増大」についても,もはや知る権利の十分な存立基 盤たり得ないといえる。
このように考えると,政府情報開示請求権としての憲法上の知る権利につ いては,その存在意義自体が不明確になりつつある中で,それを表現の自由 に付随させておくことができないことはもとより,それへの奉仕を根拠とし てマスメディアの表現の自由を制約することも認められないといえよう。ま た,元来は民主主義の実現という目的(民主主義的要素)の意味合いが強か った知る権利(政府情報開示請求権)が,近年では国民生活にとって必要な 情報の開示という利益のために保障される必要性が高まっているといえ る78。それゆえ,そのような幅広い情報を客体とした権利に対して,マスメ ディアがどの程度「奉仕」すべき責務を負うかは慎重に考える必要があろう。
すなわち,マスメディアの表現活動が国民の知る権利に奉仕するという機能 は反射的効果として定位すべきものであって,それをマスメディア自身の基 本権の制約の正当化事由とするのは不適当であると考えられる。そもそも
「マスメディアの表現」が果たす役割には,国民の知る権利に奉仕すること だけでなく,文化の形成や娯楽の提供等のさまざまな機能があるのであっ て79,「知る権利」のみを断片的に抽出して,それを表現内容規制を実施す るための根拠として援用するのは偏向的な発想であると思われる。
もっとも,管見は,「知る権利」の意義そのものを根底から否定するもの ではない。なぜなら,憲法が定める「個人の尊重」の原理(憲法13条)に照 らし,各人が幸福追求の一環として個人の自律の確保に必要となる「判断材 料」としてのさまざまな情報の開示を政府に対して求めることは,今日でも なお憲法上の基本権として認められると考えられるからである。また,この
ような政府情報開示請求権は,「健康で文化的な」生活(憲法25条1項)と いう物質的にのみならず精神的にも豊かな暮らしを志向する憲法の趣旨に適 合する。その根底には,「知ることに対する好奇心は人間のもっとも自然な 欲求であるという認識」80があるといえる。したがって,「知る権利」は基 本的には憲法13条に定礎され,憲法25条1項により補完される基本権である と解するのが妥当であると考えられる。換言すれば,この基本権は,表現の 受け手としての情報受領に対する権利としてではなく,国民自身にとっての 所要の公的情報取得に対する権利として位置づけるべきであると思われる。
なお,法律上の情報公開制度についても,国民主権の原理及びそれと密接に 関わる政府の説明責任と相まって,このような形で位置づけられる知る権利 を具体化したものと捉えるべきであると考えられる。
(4) 「表現の自由の優越的地位」の理論との関係
以上の考察から,高度情報通信ネットワーク社会を迎えた今日においては,
表現の自由の保障について,知る権利の定立を含めた「自由な情報流通」と いう状態の保障と同視することは,必ずしも妥当ではないという帰結が導か れそうである。しかし,この帰結をより明確に裏づけるためには,通説的見 解の主張する「表現の自由の優越的地位」の理論についても併せて考察する 必要がある。なぜなら,「自由な情報流通」という規範は,「表現の自由の優 越的地位」の理論と必ずしも整合的ではないと考えられるからである。
「表現の自由の優越的地位」の理論とは,周知のとおり,いわゆる二重の 基準論81に根ざすものであり,「人権のカタログの中で,表現の自由を中心 とする精神活動の自由と,それに密接に関連する参政権および疎外された少 数者の権利は,民主政の過程の正常な運営を維持するために,特別に厚い保 護を受ける」とするものである82。これは,表現の自由を中心とする精神活 動の自由について,「国家からの自由」を前提とする限りにおいて83,「それ を規制する立法の合憲性は,経済活動の自由を規制する立法の場合よりも厳
格な基準によって判定されなければならない」ということをその含意として いる84。この理論については,もはや「公理」として受け入れられていると する指摘もあるほどであるが85,その具体的な理由については,必ずしも明 らかになっているとはいえないように思われる。ある学説は,「表現の自由 の優越的地位」が認められる理由については,表現の自由が認められる理由 そのものに見出されると説き86,表現の自由の保障根拠そのものが「優越的 地位」を裏づけるとするほどである。これを踏まえ,これまでの学説におい て提示されてきたその理由について,若干の考察を加えることとする。
第一の理由は,表現の自由が民主政の政治過程(自己統治)に不可欠の権 利であるということである。すなわち,民主政の政治過程が正常に機能して いる限り,経済的自由権に対する不当な制約は除去することが可能であるが,
表現の自由が不当に制約されると,民主政の政治過程そのものを傷つけるこ ととなるため,当該政治過程による適切な対応を期待することが困難となる とされる87。このような観点の根底には,「裁判所は民主的政治過程自体が そこなわれる危険のある場合に限って厳格な違憲審査を行うべきであり,そ れ以外の問題については政治部門への謙譲を保つべきである」88とする考え 方が横たわっていると考えられる。
しかし,この点については,学説上,その問題点が指摘されている。それ は,(ア)「民主政の政治過程」という概念が一義的ではなく,これをどのよ うに位置づけるかによって,真に保障すべき過程であるか否かが決まる要素 を有しているということ89,(イ)厳格な違憲審査が要求される問題領域が狭 隘化され,優越的地位に基づき保護される「表現」の範囲が政治的な内容の 表現に限定される可能性があること90,(ウ)民主政の政治過程において必要 となる国民の政治的見解は,表現行為への従事のみによるのではなく,全生 活領域において形成され得ること91などに集約される。
確かに,民主政の政治過程を憲法が真に保障すべきものとして捉える(す なわち憲法上保護されるべき民主政に限定する)限りにおいて,表現の自由
が当該過程に不可欠であることは肯定されようが,これは表現の自由が民主 政の政治過程の実現にとっての必要条件であることを意味するにとどまり,
十分条件であることを意味するものではない。換言すれば,表現の自由が保 障されたからといって,民主政の政治過程が実現されるとは限らず,またそ こで実現され得る政治過程が憲法の要請を常に満たすものであるとは限らな い。これは,憲法上保護されるべき民主政の政治過程に不可欠の基本権は,
必ずしも表現の自由に限定されないということをその含意とする。もっとも,
これはそれ自体として「表現の自由の優越的地位」を否定する根拠となるも のではない。なぜなら,民主政の政治過程に不可欠となる他の基本権にも同 様に「優越的地位」を認めればよいということになり得るからである92。同 時に,民主政の政治過程に不可欠となる基本権の・
一・ つ・
が表現の自由だとして,
それを根拠に「表現の自由の優越的地位」が認められるとしても,前述の学 説の指摘するとおり,それは「民主政の政治過程に不可欠となる表現」につ いて妥当するにとどまり,それ以外の表現については必ずしも「優越的地位」
が保障されるものではないという帰結を導き得る。もっとも,この点につい ても,「民主政の政治過程に不可欠となる表現」とそれ以外の表現との分水 嶺を明確に描くことは難しいことから,少しでも政治過程と関係がある表現 であれば「優越的地位」を認めるものと解する立論も成り立つ余地がある93。 逆に,「民主政の政治過程に不可欠となる表現」といえるかどうかの判断を 公権力に委ねるとすれば,憲法21条1項の保障の趣旨に背反するおそれが生 じることとなる94。
第二の理由は,表現の自由を中心とする精神的自由権に対する規制立法に ついては,司法審査によりなじむということである。換言すれば,専門的な 社会・経済政策との関係の深い経済的自由権に対する規制立法については,
司法審査の能力に限界があり,特に明白な違憲性が認められない限り立法権 の判断を尊重せざるを得ないということである95。
この点についても,学説上,その問題点が指摘されている。それは,仮に
個別の政策に関する専門的知識に欠ける司法権の審査能力に限界があるとし ても,それのみでは立法権の判断を尊重すべきであるとする帰結はただちに は導かれないということである96。また,個別の政策に関する問題であって も,それは憲法が司法権にどのような権限を付与したかの問題になるのであ って,司法権の審査能力が憲法以前に決定されているわけではないとする批 判もある97。いずれも妥当な指摘であると思われる。
第三の理由は,表現の自由が自己の人格の発展に結びつくということであ る98。すなわち,人間は自己の精神活動の所産を他者に対して表出し,又は 他者の精神活動の所産を受領することによって,人格的な発展を実現するこ とができるという考え方に立てば,表現の自由の保障は,自己実現や人格的 自律99の前提条件を形成するというものである。
この点についても,学説上,その妥当性に疑問が提示されている。それは,
(ア)自己実現の意味合いが必ずしも明確ではないうえに,主体の意図を外部 に表出する「表現」は本質的に「自己実現」を超えた公共的な行為であるこ と100,(イ)人格の発展や自己実現といっても,表現の自由の保障によって憲 法の期待する人格が形成されるとは限らないこと,(ウ)人格的自律の実現の ために必要となるのは,表現の自由にとどまらず,例えば財産権なども重要 となること101などに集約される。これらの点についても,管見はほぼ同様 に解する。特に,財産権や職業選択の自由のような,個人の人格的自律の確 保と密接な関わり合いを有する経済的自由権の価値が軽視されるべきではな いと思われる。
第四の理由は,表現の自由がコミュニケーション行為の開放を通じて合理 的な知識を増大させそれを共有することを可能とするということである102。 換言すれば,表現を通じて多様な知識や信念等が社会の構成員の間でやり取 りされ,それが相互了解に結びつけば,より合理的な「知」の形成に資する ということである。これは,各人が自己の意見等を自由に表明し合うことに より「真理」に接近・到達するという「思想の自由市場」論の考え方に通底
するものであるといえる。
この学説は一定の説得力を有するが,表現の自由が合理的な「知」の形成 に資するということが必ずしも実証されていないという点で難点があるうえ に,特に価値観の多様化が進行し,表現に基づく知識等を共有し合うコミュ ニティの分化が顕著となりつつある今日の社会において,このような論理が そのまま妥当するかどうかは検討の余地があると思われる。むしろ,サイバー 空間(インターネット上)においてコミュニティが形成されるような現代社 会の実相を踏まえると,「表現一般」ではなく,「インターネット上の表現」
を含む「通信」の領域(通信の自由)においてこそ,このような特徴が強く 妥当するというのが今日的な状況といえるのではないだろうか。また,仮に 今日でもなお表現の自由が合理的な「知」の形成に大いに資するとしても,
それ自体が「表現の自由の優越的地位」の根拠として十分なものといえるか どうかについてもまったく疑問がないとはいえない。「知」の形成に必要と なる基本権は他にも存在するからである。
以上の整理に基づけば,「表現の自由の優越的地位」の理論を支える実体 的な根拠は,詰まるところ,表現の自由が憲法上保護されるべき民主政の政 治過程に不可欠の権利の一つであり,それゆえ公権力による不当又は恣意的 な侵害から保護されなければならないというところに求められ103,「表現」
がこのようなものとして捉えられる限りにおいて,優越的地位が認められる ということになるものと考えられる。これは,「表現」を民主政の政治過程 への寄与という観点から二分するという発想において,米国の議論を源泉と する「表現の自由の二段階論」に結びつく。この理論は,元来,「表現には,
そもそも自由の保障にあずかる階層にあるもの(たとえば,典型的には一般 的な社会批判や政治批判)と,自由保障にあずからない階層にあるもの(た とえば,わいせつ文書)の二種類がある」104という考え方に根ざすものであ る。しかし,この論理を貫くと,「本来憲法上保障されるべき表現まで憲法 の保障の外におかれてしまうおそれ」105が生じ,表現の主体に対していわゆ
る「萎縮効果(
chilling effect
)」106をもたらすこととなってしまう。そこで,「表現の自由の射程は広くとり,そのうえで問題となる表現行為の価値と弊 害とを利益衡量して保障の程度・限界を判断するというアプローチ」107がと られることとなる。このアプローチは,憲法上保護される「表現」がおしな べて「優越的地位」にふさわしい保障を受けることができるわけではないと いうことをその含意とする。換言すれば,表現行為の中には,「優越的地位」
を支える価値との結びつきの程度に応じて,「高い価値の表現」と「低い価 値の表現」とがあり,後者の典型として,わいせつ表現,名誉毀損表現,煽 動的表現等の「問題含みの表現」が挙げられるということである108。したが って,「表現の自由の優越的地位」の理論は,このような「問題含みの表現」
がその保障の程度・限界に関して他の表現と区別されるという土台の上に成 立するものであるといえる109。
仮に表現の自由が「自由な情報流通」を保障しているとすれば,多種多様 な情報が「コミュニケーション市場」を流通することが憲法21条1項の要請 となる。それゆえ,民主政の発展に資する政治的表現のみならず,例えば前 述の「問題含みの表現」についても原則として幅広くその流通が保障される べきこととなる。しかしながら,「公理」とされる「表現の自由の優越的地 位」の理論は,これらの表現の「流通」を高い次元で保障されるべきものと は捉えていない。それゆえ,「自由な情報流通」という規範は,「表現の自由 の優越的地位」の理論と両立し得ない側面をはらんでいるのである。
したがって,表現の自由の保障の意義については,「原点」に立ち返り,
表現を行おうとする者の表現行為の自由を保障するものと定位したうえで,
「自由な情報流通」の保障については当然にこれに含まれるものではないと 解すべきである。この解釈は,マスメディアの表現の自由を考えるうえで,
重要な示唆を与えてくれる。すなわち,マスメディアの表現の自由の保障に おいては,まずは表現の主体であるマスメディア自身の表現行為の自由が保 障されることを第一に考えるべきであるということである。もちろんマスメ
ディアの表現物を受領したいと考える国民の受領行為が不当に妨げられては ならないが,その結果として,当該表現物がどの程度社会を流通するかとい うことについては,マスメディアの表現の自由の保障の射程には含まれない というべきである。
3 「法人の基本権」の観点からみたマスメディアの表現の自由
本節においては,伝統的なマスメディアの多くが「事業」を営む法人ない し団体であることを踏まえ,法人(団体)の享有する基本権という観点から マスメディアの表現の自由の保護法益について考察することとする。一般に,
表現の自由の規定が法人その他の団体にも適用されること自体についてはほ ぼ異論がないが,焦点となるのはどの程度の保障が及ぶかということである。
ここでは「法人の基本権」論を詳述する余裕はないが,この問題に関する基 本的な考え方を整理しておくこととしたい。
(1) 法人としてのマスメディアが享有する表現の自由
性質上可能な限り,法人の基本権享有主体性を認めるのが通説・判例であ る。その根拠について,かつての支配的な学説は,自然人を通じて行われる 法人の活動の効果が自然人に帰属するということを挙げていたが110,必ずし も自然人への還元を導くことができないような社会的権力も出現しているこ とを背景として,「法人が社会において自然人と同じく活動する実体であり,
とくに現代社会における重要な構成要素であること」111を指摘する考え方が 通説となった112。判例も,法人(企業)が自然人とともに社会的実在である ことを認めたうえで,「憲法第3章に定める国民の権利および義務の各条項 は,性質上可能なかぎり,内国の法人にも適用される」ものと解している113。
これに対し,憲法の保障する基本権について,「人間が人間なるがゆえに 当然有する権利としての自然権の考えから由来しているのであって,人間の