翻
訳
人生 の階段
一― 中欧における老化、世代間の関係、および小商品生産 一一
ヨー ゼ フ・ ェ ー マ ー
ザルッブルク大学
(高木正道訳)
原典
:」
osef Ehmer,The Life stairs":Aging,generational relations,贔 d small commodity production in Central Europe,in:T.Ko Hareven(ed。 ),Agjπg απα
gο
んθrα
ιjoれαJ″′αιjοんs ου(グ ιんι Jtt corsθ
fス んjsιoricαιαんα
cross―
cじ
Jι rαJ parspacι
jυθ, 1996, pp. 53‑74.序論 (Introduction)
老化 とライフコースのイメージは、世代間の関係 において重要な役割を演 じている。社会的な慣 行を反映 しなが ら他面ではそれを制御す る手段 として、老化 とライフコースのイメージは、若者 と 老人のあいだでの権力 と資源 と介護の配分の仕方を規制 した り、正当化 したり、あるいはその正当 性 に疑間を抱かせた りする。だか ら、老化 とライフコースのイメージを研究することによって、世 代間の文化的な次元を洞察することが可能になるであろう。
不幸 なことに、老年について過去の人々が抱 いていた考えは、主 として哲学や神学の原典のなか で述べ られてお り、それは普通の人々の経験や実際 とはかけ離れているように思われる。そのよう な隔たりが生 じないように、 この論文は、洗練 された理論ではな く単純な絵で表 されたイメージ、
すなわち人生の階段を扱 う。その他の図像表現 に比べて、 このモチーフは歴史上異常 ともいえる成 功 をおさめた。少な くとも3世紀 にわたって、およそ 1600年 か ら1900年 まで、それは、西洋世界 のいたるところで、特に中欧において、老化 とライフコースについての最 も普及 した世間一般のイ メージであった。
第1節では、人生の階段の創造 と普及 と衰退 について述べる。第2節では、人生の階段のイメー
ジと社会構造 との関係 について論 じる。 もし両者のあいだになにか関係があるとすれば、それは複 雑で一義的なものではない。 しか しなが ら、人生の階段の長期的普及 とそれに特有の時間的・ 空間 的背景 は、気 まぐれで も偶然で もないように思われる。む しろ人生の階段のイメージは、 自己の社 会的地位が家族における世代間での富 と財産権の移転に左右 された人々の目標 と期待 と経験 に、 き わめてよ く適合するものであったように思われる。私の仮説 は、人生の階段に描かれたライフサイ クルにおける老年 と、19世紀末まで中欧で優位を占めていた特殊な社会的関係である「家族的生産 様式」ない し「小商品生産」 とのあいだには、ある関係があった、 というものである。
したが って、 この論文の目的は2重である。すなわち、人生の階段を論 じることによって、小商 品生産内部での世代間の関係への洞察を与え、小商品生産内部での世代間の関係を論 じることによっ て、人生の階段への洞察を与えたい。 この生産様式の歴史は、老化 とライフコースについてのこの 特殊なイメージが世間一般 に普及 し、長期 にわたって存続 し、そ して衰退 していった事情を説明す
る助 けとなるはずである。
昇降の2つの部分から成る階段 一一老化 とライフコースの「 原型」イメ…ジ (The Dud Stairs:An Archetyplcal"Images of Aging and the Life Course)
1540年 、 アウクスブルクの ヨルク・ ブロイ息子 (Jёrg Breu der Jingere)と アムステルダム の コルネ リス・ ア ン トニス (Cornelis Anthonisz)は 、同時に、新 しいモチーフによって、老化 とライフコースの図像表現の多様性をいっそう豊かなものにした。すなわち、かれ らの木版画は、
昇降の2うの部分か ら成 る階段 (dual sLirs, Lebenstreppe")の形で人の ライフコースを表 し た。 ライフコースの前半 は上昇で、40歳で ピークに達す る。 vetich」aer wel ghedaen"(40歳 で裕福 になる)は、 ア ントニスの木版画に見える低地 ドイツ語の表現である。50歳は、頂点である
と同時 に ライフコースの転換点 で もあ る。 それ は、 方向の逆転 が始 まる短 な静止 であ る 一一 Viiftich Jaer stilgestaen"(50歳 は静止状態 〔つまり、上昇 も下降 もしない〕)。 ライフコースの 後半 は下降で、死をもって終わる。階段のアーチを通 して最後の審判が見えるが、衰退 と退化 とし ての老化の強烈な表現 は、それによって和 らげられるものではない。永遠の生への希望 は後景 に退 いている (図1)nt
ヨルク・ ブロイとコルネ リス・ アン トニスの着想 の もとになったパ ラダイムは、1540年 頃の中 欧では新 しいものではなか った。古代の哲学者たちによって展開 されていた人生の段階論 は、少な くとも知識階級のあいだでは知 られていた一一 例えば、 ライフコースを一定数の時期に分 けること
(こ
れはソロンに由来する)、 あるいは、 ライフコースの頂点を中年期に見 るア リス トテ レスの「 中年楽観主義 (mid̲life Optimism)」 (Rosenmayr,1979,p.285;Monois,1987,p.234)。 また、
人生を神聖な宇宙の一部 と解釈 して、 ライフコースを日出か ら日没までの太陽の運行や四季の移 り 変わ りと比較 した中世の著述家たち も、知 られていた (BurrOw,1986,pp.55f。 )。 トマス・ アクィ
ナスは、 ライフコースを上昇 と下降か ら成 るとみな し、中年期 に完成に最 も近づ くという考えを抱 いていた (MinOis,1987,pp.93ff.;Beauvoir,1977,p.94)。 ダンテは、人生を「35歳に最高の 中点を もつ シンメ トリカルなアーチ」 として描 いた (BurrOw,1986,p.35;Sears,1990,pp.103
ff:)。
このような人生のモデルは、16世紀初めの ドイツ語圏で謝肉祭劇の一部 となった。バーゼルで 1515年 に初 めて上演 されたパ ンフィリウス・ ゲーゲ ンバ ッハ (Pamphilius Gegenbach)の 演劇
「世界の 10の 年齢 (The x Ages of the World)」 は、50歳までの上昇 とそれ以後の下降を10の 役割 を配 した ドラマに仕立 てたが、各役割 は年齢段階を表 していた (JoeriSen,n.d.b,Winter Jones,1853,p.179)。 こうして、上昇 と下降のモチーフは、知識階級の範囲をはるかに超えて広
く普及 し、世間一般 に知れ渡 るようになった。
中世末期 にはライフコースの図像表現 もまた発展 したが、そ うした動 きはおそ らく12世紀 に始 まっていた。最初 は、人の一生を円、輪、樹で表すのが支配的なモチーフであった (Setts,1990, pp.140ff.)。 よ く知 られた運命の輪の変形であった一生の輪は、 ライフコースを上昇 と下降か ら成
ると見 る観念をある程度まで表現 していた 一一「若者たちは昇 ってゆき、全盛期の男 は頂点にあり、
全盛期を過 ぎた者たちは、 しば しば厳め しく足早 に降 りてい く」(Sears,1990,p。 145)。 他方で、
このモチーフでは、すべての年齢段階は女神が座 している輪の精神的中心か ら同 じ距離 にあった。
15世紀 と16世紀初めに、年齢段階の配置において直線的な配列が重要性を増 した。初期の図像 ではさまざまな年齢配列が共存 していた 一― 例えば、4年齢体系 もあれば、7年齢、9年齢、ある いは11年齢体系 もあった一― が、今や10年齢体系が優勢になった。個々の年齢段階は、主 として、
個々の人物の姿勢、身振 り、衣装、 アクセサ リーによって特徴づけられた。それに加えて、個々の 年齢段階の肉体的・ 精神的能力 と社会的地位を強調するために、動物のシンボルが用いられた (図
1を 参照
)②
。10 years a child
20 years a youth
30 years a man 40 years well done 50 years stand still
60 years old age begins
10歳は子 ども 20歳は若者 30歳は一人前の男 40歳は裕福である 50歳は静止状態 60歳で老年が始まる
70 years old man
80 years wisdom gone
90 years the children's ridicule
100 years God have mercy6)
70歳は老人 80歳でぼける
90歳は子 どもたちの笑いもの 100歳で神に召 される
このような形で、年齢段階の10分割 は、 さまざまなイラス トーー 銅版画や、挿絵などの木版画
― に浸透 していった (Dal,1980)。 16世紀には、年齢段階のモチーフが、主にボヘ ミア、モラヴィ ア、 オース トリアで、都市の壁画 にも現れた。下 オース トリアの レツ (Retz)市の著名な市民の 家のファサー ドに、年齢段階の文学や絵画での表現 に くり返 し現れるモチーフのひとつ 一―「 若者 による年寄 りの嘲笑」(「90歳は子 どもたちの笑 い もの」)一 の とりわけ入念 な表現が見 られる (図2を参照)。
ライフコースを直線的に表現 したきわめて印象的な事例のひとつが、 アナベルク (Annaberg) の聖 アネ ン教会 (Sto Annen―Kirche)の浅浮 き彫 りに見出される。 それは、1520〜1522年 にフラ
ンツ・ マイ トブルク (Franz Maidburg)に よって彫 られた。1497年の銀鉱発見以後 に建設 され たアナベルク市 は、 わずかの年月で、 ザクセ ンのエルツ山脈 (Erzgebirge)の銀鉱山業の中心 に な った。1499〜1525年 に建て られた同市の教会 は、 ドイツ初期資本主義のすば らしい遺産のひと つである。年齢段階の図像 は、16世紀のあいだに、教会の装飾 と都市の壁画を通 じて大衆を観衆
とするまでになった。
こういった証拠が示唆 しているように、中欧では近代の初めに、年齢段階についての広 く行 き渡 っ た見方が、画像 と概念が密接に結びついた規範 に表現 された。 ヨルク・ ブロイとコルネ リス・ アン トニスの本版画は、 こうした見方 とイメージを借用 したのである。 さらにかれ らは、昇降の 2つ の 部分か ら成 る階段のイメージで もって視覚モデルを創 り、上昇 と下降 という哲学的・ 文学的概念を、
当時広 く行 き渡 っていた年齢段階の図像表現 と結びつけたのである。昇降の 2つ の部分か ら成 る階 段の ヒエラル ヒー的構造 は、若者 と老人 にたいす る中年の特権を強調す るのに最適であった。同様 に、 ピラ ミッ ドのモチーフは、社会の身分秩序 一一「 身分の階段 (Sttndetreppe)」 一 の ヒエラ ル ヒーを象徴 して いた。「 人生 の階段」 のモチーフは、 ひ とつの「 原型」 とな ったのである (Beauvoir, 1977,p. 137)。
研究の現段階か らみると、昇降の2つの部分か ら成 る階段のモチーフは、16世紀 にはほとんど 普及 しなか ったようである (Schenda,n.d。)。 1550年もしくは 1560年 頃に、 このモチーフは、 そ デナのク リス トファノ 0ベ ルテ ッリ(Christofano Bertelli)の 銅版画 に現れたが、 この時期につ いてはそれ以上の事例 は今のところ発見 されていない。17世紀 にな ってや っと、 このモチーフは、
ドイツ語圏 とその他の中欧や西欧の各地へ急速 に広が った。オランダ、南 ドイツ、北イタリア、 フ
ランスか ら、 多数 の事例 が見つか って いる …―「 世界 の大 きな階段 (Le Grande Esmlier du Monde)」 (パリ、1630年)、「 人 の年齢 (Les Aages des Hommes)」 (パリ、1680年)、「人 の年 齢 と生 涯 (The Age and Life of Ma■l)」 (ロ ン ドン、17世紀
)、
「10の年 齢 段 階 (Das Zeheniahrige Alter)」 (アウクスブル ク、1660年)(図3を参照)、
スウェーデ ンの「 年齢階段 (Alderstrappa)」 (1680年 頃)、 その他 い くつか (B■ckner,1969,p.81;Fehrman,1952,p.289;Adhemar,1968,plate 7;Halliwell,1856,pp.154f。)。 われわれは、製造技術 と潜在的な購入者 に関 して、多様化が進んだ ことを知 っている。つまり、人生の階段 はさまざまなかたちで作成 され た 一―油絵、豪華 に仕上げ られた大 きな銅版画、小 さめの質素な本版画。 またそれは、カ レンダー に描かれたり、葬儀の式辞 に付 けられたりした (Imhof,1884,p.144)。 そ して、16世紀 には男の 人生 の階段 と女の人生の階段が別々に描かれていたけれども、一緒 に同 じ人生の階段を歩む夫婦を 描 いたものがますます1増えてい く。 この時までに、昇降の 2つ の部分か ら成 る階段のイメージは周 知の シンボルになった。イギ リスの風刺詩人 トマス・ バ ンクロフ ト(Thomas Bancroft)は、「人 の段階的変化 (Man's Gradation)」 (1639年
)°
という詩のなかで、 ライフコースの視覚 モデルに 言及 した。若 い恋人 と裕福な年配の男のいずれを選ぶべきか決めかねている少女を描いたヤ ン・ ス テ ー ン (Jan Steen)の絵 の ひ とつ で は、 そ の場 面 の背 景 に人 生 の階段 の版 画 が見 え る (Bialostocki,1957,p.544)。18世 紀には、人生の階段の「 ブルジョヮ化」(embourgeoisement)がさらに進んだ。ますます 拡大 していく観衆がターゲットになった。そして、ニュルンベルクのヴォルフ(W0110やバ ッサ ノ・ デル・ グラッパ (BassanO del Grappめ の レモンディーニ (Remondini)のような、大 きな 出版印刷会社は、新 しい製造技術を用いた。登場人物は、ターゲットである消費者集団の地域と社 会に特有の衣装を着せられ、動物のシンボルは消えた。死はバロック時代の人生の階段にはまだ認 められたが、その死 も絵から消え失せた。砂時計のような時間と人生の経過を象徴するその他のも のも、ますます稀になった。家庭を描いたものであることが歴然となり、今や階段のアーチを通 し て見えるのは、最後の審判にとって代わった中産階級の居間である。フランスでは、革命の時まで に伝統的なシンボルは消滅 してしまっていた゛。「 ライフコースは今やブルジョヮの経歴の性格を帯 びるのである」(Hoinisch,1991,p.42)(図 4を 参照)。
19世紀には、人生の階段の人気は頂点に達 した。それは、新 しい大量生産イラス トのお気に入 り のモチーフであり、 リトグラフや版画のかたちで何百万 も売れた。それらを販売 した最 も重要なヨー ロッパの印刷会社としては、 ミラノのピエ トロ・ バ レッリ (Pietro Barelli)、 ニュルンベルクの フリー ドリヒ0カ ンペ (Friedrich Campe)、 エピナル/ヴォージュ (Epina1/VogeS)の イマジェ リ・ ペレラン (Imagerie Pellerin)がある°。「 その後す ぐに、 このパ ターンは大西洋を渡 った」
(Chew,1948,p.165)。 それを作成 したのは、 ニュ=ヨ ークのクー リエ・ アン ド・ イー ヴズ
(Currier&Ives)や ジェームズ 0ベ イ リ(James Baillie)、 マサチューセ ッツか らイ ンデ ィアナ ポ リスまでの印届1業者、そ してペ ンシルヴァニアのカー リスル (Carlisle)の ドイツの印刷会社モー ザー・ ア ン ド・ ペ レス (Moser&Perres)で あった゛。人生の階段のモチーフは、西洋世界のほ とんどいたるところで、 タイル、 ビールのジョッキ、 タバ コの箱、カレンダーに見 られる。人生の 階段を印刷 したものが、居間、宿屋、仕事場 に掛 け られている。ヤーコプ・ グ リムの「老年者への ス ピーチ (address t6 old age)」 (1863年)には、彼の両親の居間にあった人生の階段の絵 とそ の印象 ――「 私 の記憶 に刻 み込 まれた消す ことので きない」 イメー ジ ーー が述べ られている (GFimm,1863,p.43)。 19世紀末の ドイツの著述家たちは、バイエル ンの農家や地方 の定期市で 人生の階段のモチーフを目にした (Boll,1913,p.92ff。)。
第1次世界大戦の頃には、人生の階段の絵にたいする大 きな需要 は減少 した。人生の階段の絵 は、
出版社のカタログか ら消えはじめた。第2次世界大戦の終わ り頃には、それはヨーロッパの経済的 後進地域で しか見 られな くなった (Lebenstreppe,n.d.,pp.160f。 )。
人生の階段の普及 と受容の研究は、始 まったばか りである。 しか し、 これが異常な成功をおさめ たモチープであったことは、疑いえない。16世紀 に創 りだされたそれは、17世紀 と19世紀のあい だに最 も広 く受 け入れ られたライフコースと老化のイメージであった (Cole&Winkler,1988,p。
146)。 年齢段階の言葉 による説明 (40歳 は裕福である、50歳は静止状態……90歳は子 どもたちの
笑 いもの)は、 ドイツ語圏では絵 と同様 に長 く続 いた。年齢段階の直線的な表現のこうした定式化 は、早 くもアントニスの 1540年 の人生の階段に現れ、19世紀半ばにいたるまで世間一般 に流布 し たイラス トの永続的な構成要素であり続 けた。
一般 に、広 く行 き渡 ったパ ラダイムと図像表現 は、強い持続性を もっている。人生の階段のよう なイメージは、おそ らく、「長期の持続」の領域 に、 フェルナ ン・ ブローデルの言 い回 しを使えば、
長期間の「牢獄」であるあの思想構造 に属す る (Braudel,1958,p.750)。 それに して も、ただひ とつの図像表現のモチーフが、老化に関する哲学的・ 宗教的・ 科学的・ 通俗的な言説における、老 化についての種々の競合する見方を退 けて、3世紀 もの長 いあいだ広 く普及 したのは、注 目に値す ることである。歴史上のどの社会をとってみて も、 ライフコースと老化についてのい くつかの見方 が同時に存在 していた。つまり、老化を衰退 と退化 とみる悲観的な解釈 と、上昇 と完成 とみる楽観 的な解釈の両方が、常 に並存 していた。人生の階段のイメージが登場 し普及 していったけれども、
こうした多様な解釈 もまた存在 していた。
老化の悲観的な解釈 は、人文主義者 による「 家父の権力 (patria potestas)」 の批判 においてだ けでな く、演劇や文学 における人生の階段を通 じて表現 された。 これ とは対照的に、ルターやカル ヴァンのような宗教改革者たちは、「神 と主 と父 (God,Lord and Ftther)」 の同一性を強調 し、
老年者の権威を強化 した。 この楽観的な解釈が広め られたのはとりわけ教理問答書の教えを通 じて
であり、 この点ではプロテスタントとカ トリックの対抗宗教改革 とのあいだにほとんど差がなか っ た。16世紀か ら18世紀 に広 く普及 した「 家父の指南書 (Hausvaterliterttur)」 のなかにも、父 と老年者の権威の確認が見出される (Borscheid,1987,p.113;Thomas,1976)。
さらに、老化 とライフコースについてのさまざまなイメージには、一定の「景気循環 (business
cycles)」
があるように見える。 ほとんどすべての老化の文化史 によれば、16世紀 は老化を きわめて否定的に捉えたのにたい して、18世紀、特 に啓蒙主義の時期 は、老年を非常 に高 く評価 したが、
19世紀 には若者 と老人差別 (ageism)の社会への移行が始 まった0。 このような時代区分が正 しい か否かは、 ここでのわれわれの関心ではない。特定の時代には特定の老化の解釈が優勢であり、支 配的な老化のイメージは歴史的に変化 したというのは、そのとおりであると思われる。
これ らのことすべてを考慮すれば、人生の階段が長期にわたって広 く普及 した事実 は、ますます もって注 目に値するものとなる。人生の階段が具現す る観念 は、対立するさまざまな言説 と優勢な 見方の長期的な循環を凌駕 した。人生の階段のイメージに込め られたメッセージは、間違 いようの ない ものである―
‑50歳
以降の人生 は衰退 と退化であり、 これを受 け入れることので きない者 は 子 どもたちのジョークの標的になる。老年のイメージの意味 (The Meaning of hages of Old Age)
何が このモデルを長期 にわた ってか くも魅力的な ものに して きたのであろうか。 このモデルが 16世紀半ばか ら徐 々に広が っていったのは何故であろ うか。 そ して、 それが第1次世界大戦 の頃 に突如 として消えて しまったのは何故であろうか。 これ らの疑間に答えるためには、まず老年のイ メージは何を意味 しうるかを論 じる必要がある。
確かにわれわれは、人生の階段の画一性 と厳格 な配置を、以前の数世紀 における人生の人口面 と 社会面での不確実性を文化的に克服す るための試みとみなす ことができる。イムホーフとア リエス が示唆 したように、 それは安定 を求 める努力の一部 を成 していた
(Ariё
s,1978,p.81;Imhof,1984, p. 136)。
われわれは、 こう考えることも可能か もしれない。つまり、16世紀か ら17世紀への変わ り目に 人生の諸段階が人々の心をとらえたのは、 この時期に死に関することへの関心、 とりわけ良い死 に 方 へ の関心 が強 ま ったか らで あ る、 と。15世紀 の後半 には、 書物 や絵画 が「 往生術 (artes moriendi)」 を教えは じめた (Imhof,1991)。 冊儀や骨、あるいは弓矢で武装 した骸骨 によって象 徴 され る死 は、人生の諸段階を描 いた図像では時には各段階に存在 している。 ここでは死 と人生の 諸段階のテーマは一体化 している (Aritts,1978,p.81)。 しか し、人生の階段の人気 は、死 に関
することへの公衆の関心が消えてか らもず っと後 まで続いたのである。
コール (C61e)と ヴィンクラー (Winkler)は、心性 (menねlit6)の歴史 に社会構造的解釈を つけ加えた。かれ らは、上 り階段 と降 り階段の形状に、中産階級の成功をめざす闘争 と社会的衰退 への恐れを見ている。かれ らにとって、人生の階段は「 ブルジョヮに特有のライフコニスのイメー ジ」を表 している (1988,p.46)。 この後者の解釈 は、人生の階段を時間的・ 空間的にもっと正確 に位置づけることに貢献 した。実際、それはブルジョヮ社会の勃興にともなって生 じた老化のイメー ジである。 しか し、社会的な上昇 と下降のテーマが、非常に長いあいだライフコースと老化の特定 ° の解釈 と結びつ くのは何故であろうか。そのようなイメージと社会構造は、どのような関係にある のだろうか。
人生の階段の私の「読み方 (reading)」 は、老化 のイメー ジと社会的現実のあいだには複雑な 関係があるとい う仮定か ら出発す る°。老化 と人生のさまざまな解釈 は、恣意的で もなければ、好 き勝手に選ばれたので もない。 しか し、それ らは社会的実践の単純な反映で もない。それ らは、社 会的な経験を圧縮 してつ くられた抽象的なステ レオタイプである。 こうして、老化 とライフコース のイメージは社会的な規範 となり、そ うなると今度 はこの規範が実践に影響を与え、期待 と行動を 規制するのである。
このことを背景 として、われわれは、老化のイメージの社会的機能の考察を開始できる。ゲル ト・
ゲケ ンヤ ン(Gerd G6ckenjan)は 、老化 のイメージにはい くつ もの意図が潜んでいると考えた。
すなわち、老化のイメージは、 ライフコースの設計図を提示 し、「 目標 と目的、欲望 と空想の合流 地点」 となる。老化のイメージは、各 自の社会的地位を指定 し、社会問題を映 しだすスク リー ンの 役割を果たす。だが老化のイメージの中心観念 は、 とりわけ、世代間の関係を規制することにある。
つまり、老化のイメージは、世代間での期待の地平 ――社会的に受容可能な世代間での慣行 ―― を 形成 し、家族周期における世代間の関係を規制するのである (Glckenjan,1989)。
こうした観点か らすれば、人生の階段 は、上昇 して くる若い世代か ら年老いた世代へのメッセー ジを具現 している一― あなた方はすでに絶頂期を過 ぎ、あなた方の肉体 と精神は衰えるばか りだ。
引退 して場所を空けて もらいたい。 さもな くば、あなた方は子 どもたちの笑いものになるで しょう。
人生の階段 は、老年者 とって代わろうとする若者たちの願いを正当化すると同時に、老年者がそれ を受 け入れて退 くよう促 しているのである。
こうして、われわれは、人生の階段のモチーフに含まれた、社会的な上昇・ 下降 と個人のライフ コースと家族周期 との結びつきの説明を試みることができる。われわれは、それを、社会的な上昇0 下降 と社会的地位が家族における世代間での財産 と富の移転に依存するさまざまな社会階層の実践 に関係づけることができる。そのような社会的関係が優勢だったあの長期間にわたって、実際に、
人生の階段のモチーフは異常なほど広範に受 け入れ られた。中欧では、そうした時期が、西洋世界
の他の地域 よりも長 く続いた。
財産の移転 と世代間の関係 (Transfer Of Property and Generttiond Relations)
家族の構造、発展周期、および老化の歴史 について、過去20年間に非常 に多 くの研究がなされ た。それ らの研究によって提出された証拠によれば、近世の中欧では、世代間の関係は財産 と富の 移転によって大 きな影響を受 けた。財産のある農民、手工業者、そ して都市の中産階級においては、
特にそ うであった。
南西 ドイツの農村 と小都市 における世代間の関係 については、例えば、17〜19世紀 のネカーハ ウゼ ン(Neckarhausen)に 関す るデーヴィ ド・ サ ビー ンの研究 において、詳 しく研究 されている (Sabean,1990)。 近世の南西 ドイツは、特 に柔軟で流動的な社会構造 によって特徴づ けられた。
南西 ドイツは、小規模農家によって営まれる集約的な市場向け農業生産 と手工業が混在す る地域で、
そ こでは土地市場が発達 し、すべての相続人に質量 ともに同等の財産分与を保証する分割相続の制 度が広 まっていた。
このよ うな条件の もとで、両親の資産の次世代への移転 は、継続的な「 漸次的」過程であ った (Sabean,1990,p.248)。 結婚 に際 して、花婿 と花嫁 はかれ らの将来の相続財産の最初の部分を受 けとった。 どのような形態でどれだけ移転 されるかは、両親 によって決め られた。 しば しば結婚の ときの分与 は、貸与 にとどまるか、用益権だけが移転 されるにすぎなか った。正式な財産譲渡が取 り消されることさえあった。のちになって、男Jの財産が分与 されることもあった。 これ らすべては、
とりわけ、両親の健康状態に依存 していた。両親が肉体の衰えを感 じた場合には、子 どもたちの労 働 および援助 と引 き換えに、財産 を譲渡 した。両親が死ぬ前 に完全な富 の譲渡 (ウ
bθ rgα
bの が行 われることは、 この地域では稀 に しかなかった。老年世代 は、 自分の財産 と経済的独立 にたいす る 支配権をできるだけ長いあいだ手放すまいとした。財産の移転 における最後の決定的な手続 は、か れ らの死 まで行われなか った。「 若 い世代の財産へのアクセスは、絶えぎる交渉の もとに置かれて いた」 (Sabean,1990,p.322)。中規模 と大規模の農家が優勢だ った中欧の地域では、土地市場 も発達 してお らず、単独相続が規 範 であ うた。 そ こで は近世 に、 異 な った財産移転 のモデル、 すなわち、生前譲渡 (inter宙vos inheritance)が広まった。農村社会では、隠居 (4 sg″れま)の制度 とともに、契約によって決 められ法的に規制された、生きている当事者間での財産移転の形態が発展 した。隠居制は、相続人 たちが両親の死を待たずに農家を引き継 ぐことを可能にし、隠居 したあとの両親の生計を保証 した (Gaunt,1983,p.250)。
こうしたや り方 での財産移転 の存在 を示す徴候 は、 ヨー ロ ッパ の各地 で早 くも13世紀 に見 られ
る。 しか し、隠居の普及に関 しては、 ほとんどなにも知 られていない。 それは、15世紀末頃のデ ンマークとスウェァデンで、 しば しば出現 したようである。 ドイツ語圏のいくつかの地域 (例えば、
上 オース トリア、G■11,1969,p.92を 参照)においては、16世紀 に隠居契約の数が多 くなるけ れども、他の地域では隠居制はこの時期にはまだ知 られていない。現在の研究状況か ら判断すれば、
隠居制 は一般 に17世紀の ヨーロッパで見出され、19世紀 にその頂点に達 したようである (Gaunt, 1983;Taeger,1990)。
しか し、隠居制の「普及」 とはどのようなことを意味するのであろうか。それは、世代間でのこ の種の財産移転が利用可能なものとして一般に知 られていたことを意味するにすぎない。 ドイツ語 圏には、 この種の財産移転の概念を表す言葉が種々の方言 に見 られる一 Aじ
sgaご
j昭ら スJιθれιθjみLο
jbzcん
ι等々。隠居制の存在 は、隠居世代のためのスペースを備えた農家の建物の レイアウ トか らも知 られる。隠居のためのスペースは、裕福な農家の母屋に隣接 した小 さな家や、貧 しい農家の 別棟であったり、あるいはまた小 さな部屋にすぎないこともあった。隠居制の「普及」 とは、 この生前の財産移転が唯一の形態ない し支配的な形態 として行われたこ とを決 して意味するものではない。隠居制の可能性 は、 さまざまな外的要因 ―一 生死にかかわる不 確実性、農家の生産力 …― に左右 された。大規模な農家だけが、2組の家族を扶養できた。 とりわ け、隠居制の可能性 は、財産を支配する老年世代の意思 と頑固さと戦略に依存 した。
17世紀か ら19世紀 のオース トリアの史料を調査 した トーマス ●ヘル ドの数量的な研究によれば、
隠居制 はきわめてわずか しか見出されない。隠居 していたのは、平均 して、51〜70歳の老人のお よそ8パーセ ントであった。11パーセ ン トの世帯が隠居人を含んでいた (Held,1982)。 この こと は、大多数の老人が死ぬまで家父や主婦の役割を果た したことを意味するわけではない。多 くの人 はこの地位に達す ることがなか った し、独身の親族あるいは同居人 として農家に住んでいた。 この 時期のオース トリアのい くつかの農村では、世帯主 とその配偶者が60歳以上である世帯の割合 は、
め ったに50パーセ ン トを超えることがなか った (Ehmer,1982,p.85)。 しか し、 この地位 に達 していたものは、めったにそれを手放 さなか った。
したが って、隠居制が広 く行われていたところで も、家族内での財産の移転が自動的に起 こるわ けではな く、世代間の交渉の もとに置かれていたのである。 これは、年配の農民がそもそ も隠居す るか どうかだけでな く、かれ らの隠居が農家に課す負担の程度 にも関連 している。隠居契約では、
隠居する所有者 はしば しば莫大な収入の保証を受 け、それによって次世代 に重荷を負わせ、 ときに はかれ らを破滅 させることもあった。確かに、契約で合意 された金銭 と現物での年金は、実際には その完全履行を要求 されることのない上限を意味 したが、隠居人の権力を強める手段にもなりえた。
ハーマ ン・ レーベルが研究 した17世紀上オース トリアの農村では、農家の収入の4分の1から半 分が隠居人のものとなった (Rebel,1978)。 かれ らのなかには、地元の金貸 しとして活動 している
者 もいた。 そのような場合 には、「 隠居制 は、老人 たちを引退 させてかれ らのわずかの福祉 を整え るための社会的便法ではな く、む しろ、世帯主が家庭 と家族の範囲をこえて新たな経済的・ 社会的 活動を探すためのオプ ションであった」(Rebel,1983,p.173)。 言い換えれば、 これ らの活動 は、
隠居契約で保証 された分与のほかに、付加的な経済力を隠居人 に与えたのである。
また、老年世代 は、重荷や義務や責任や負債か ら自由になるために、あるいはレジャーを楽 しむ ために、農場経営を放棄す る必要があったのか もしれないm。 裕福 な農民 は、 しば しば、家族内で の継承の継続を保証す るタイム リーな隠居を戦略 として用いた。例えば、ヘ ッセンのシュヴァルム (Schwalm)のフェルテス農場
(Vtttes―
ねrm)は、 1776年 か ら1970年まで、 ヨハネス・ フース 家 (a」Ohallnes Hooss)のものであ った。代々の ヨハネス・ フースは、次世代への農場の移転を 注意深 く計画 した。かれ らの平均的な隠居年齢 は60歳であった。そのあとかれ らは一一 平均 して 一 隠居人 として農場でさらに18年生 きた (Imhof,1984,p.142)。中欧の これ らすべての農村地域では、家族における財産の移転 は、種々の相違す る利害が集 まる 焦点 となった。財産の移転 は、世代間の絶えぎる複雑な交渉のプロセスであった。単純明快に図式 化 されたライフコースのモデルが必要 となったのは、 このプロセスの複雑 さと継続性の故であった。
人生の階段のイメージは、 こうした絶えぎる交渉の当事者たちのなかにその市場を見出 した、 と言 えそ うである。
夫婦が ともに歩む人生の階段 (The Partnership Conception of the Life Stairs)
すでに述べたように、16世紀 と17世紀初 めには、人生の階段の圧倒的に多 いタイプは男女別 に 描かれたものであった。人生の階段のモチーフが普及す るにつれて、夫婦が一緒に描かれ る頻度が 増 していった。
この変化 は、財産移転の観点か らしてまった く適切なものである。オース トリアの村落の研究が 明 らかに したところによれば、財産移転 は高い確率で再婚 と結 びついて起 こっている。調査 された 事例の30〜40パーセ ントにおいて、夫が死んだあと寡婦が農場の所有権を継承 した。 これ らの寡 婦の多 くは再婚 しなか ったのであるが、その場合で も、彼女 たちによる遺産の継承 は将来の相続人 にとって脅威 とな りえた。「確かに、再婚 した寡婦たちは推定相続人 との利害衝突 に直面 したであ ろう。後者 は、よ くて も相続財産がかなりのあいだ手 に入 らないことを考慮せねばならず、悪 くし て女性が2度目 (あるいは3度日)の結婚で子 どもを生むようなことになれば、 これ らの子 どもの か ら相続人が選ばれて財産 を横取 りされるか もしれないことも考慮せねばな らなか った」(Sider
&Mitterauer,1983,p.313)。 19世紀 には、再婚の減少が隠居の増加 とパ ラレルに進んだ。 さら
に、 デ ンマークのある事例研究が示 しているように、18世紀後期 に始 まった現象であるが、農民 たちは男女 ともに一定年齢以後 はもう再婚 しな くなった (Johansen,1987,p.297)。 約60歳を過 ぎると、配偶者の一方が死んだあとは、農場の移転が完全に行われた。隠居が自動的な性格を帯び たのは、 このような場合においてだけであつた。
こうした戦略は、隠居制が普及 していないところで もある役割を果た した。1700〜1870年のネ カーハ ウゼ ンでは、生前譲渡が行われたのは相続財産全体の14パーセ ントにす ぎなか った。それ らはほとんどすべて、一方の配偶者が死亡 し、残 された配偶者が隠居 した場合 に起 こった。サ ビー ンが見出 した夫婦隠居の事例 はただひとつであった (Sabean,1990,p。
341)。
一般 に寡婦 と男鰈 は、で きるだけ長いあいだ財産にたいする支配権を保持 しようとするか、そうでない場合には再婚 しようとした。2度日あるいは3度目の結婚 は、財産相続資格者の数を増や し、最初の結婚で生 ま れた子 どもたちの分与財産を減少 させた。夫婦が ともに歩む人生の階段 は、残 された配偶者が隠居 す るよう促 したので、世代間での交渉においてひとつの論拠 となったであろう。人間の寿命と人生の階段に見る生涯
(Hum田l mfe Spttm ttld the ChЮ nology of the Lfe Stdrs)
人生の階段の表現では、人間の寿命 は、50歳を人生の頂点 として、100歳に及ぶ とされている。
勿論、 これは近世における実際の人口現象を反映するものではない。すでに見たように、それは、
現実ではな く、哲学 と図像の伝統 と10進法の シンメ トリーに従 っている。実際、生涯を10年きざ みで10段階に分 けるのは、特 に後半部の後半の解釈 について問題 をひき起 こす。「 10の 年齢段階 は要するに多す ぎる」 (Burrow,1986,p。 73)も しか し、100歳という長 さも、50歳の転換点 も、
当時の人々の経験や願いとまった く矛盾するわけではない。
平均寿命 は低かったけれども、老年 まで生 き延びるチャンスも勿論あった。イギ リスでよ く知 ら れた シリーズである「歴史名士録 (Who is Who in History)」 を用いた
S.R.ス
ミスの調査に よれば、16世紀の巻 に挙げられた人々のうち約3分の1が、 また18世紀 にはほとんど半分が、70 歳 もしくは70歳を超 えて生 きた。宗教改革期のヘ ッセ ンの牧師の死亡年齢 も、 まった く似たよう な数字 を示 している (Borscheid,1987,p.46)。 すべての年寄 りが実際に正確 な出生 日を憶えて いた、と考えることはできないであろう。1681年 3月に哲学者のジョン・ ロックは、オ ックスフォー ドのア リス・ ジョージ夫人 一 「108歳だ といわれている女性」 ― を訪ねた。隣の部屋に住んで いる彼女の息子 は、77歳だといわれていた。 これ らの数字 はどちらも誇張されているであろう。 し か し、人間のライフコースが官僚行政によって完全に捕捉 される以前には、老齢者 はおそらく自分や親族や隣人を実際よりも年寄 りだと見ていた。かれ らにとって100歳の寿命のイメージは、現代 の注意深,く数える歴史人 口学者にとってと同 じほど途方 もないことではなか ったであろう。
われわれにとって もっと興味深いのは、人生の階段の転換点である。 さまざまな研究が提供 して いる証拠 によれば、50歳 は実際にもライフコースの決定的な時点で もあった。
分割相続の制度のゆえに世代間の財産の移転が漸次的・継続的な仕方で行われた南西 ドイツでは、
個々人の財産総額 はライフコースにわたってかな り変動 した。例えば、18世紀 と19世紀のネカー ハ ウゼ ンでは、「個人が保有する財産の平均総額は……徐々に増加 し、およそ45〜54歳で ピークに 達 した……30歳までは、富 に恵 まれることはほとんどなか った。30〜44歳の時期 に、人々は結婚 持参金や相続財産を手 に入れた り、資産を購入 した りし、 この過程 は45歳かそこらの年齢で完了 した……そのあと、おそ らく富の移転が始 まると、資産を維持する段階に入 った」 (Sabean,1990, pp.257fO。
隣接するエス リンゲ ン (Esslingen)の 農民や ブ ドウ栽培者の個別の家族史 は、同 じ傾向を示 し ている (Schraut,1989a)。 19世紀 には、若い夫婦 は老夫婦 に依存 し、頻繁 に両親 と一緒 に暮 らし 続けた。一連の財産の移転 はかれ らを完全に独立 させ、およそ40歳で自分の家をもてるようになっ た。50歳になるとさらに財産が蓄積 され、かれ らのなかには税を納める豊かな農民 グループに入 る者 も現れた。不動産の最大総額 は50〜60歳で見 られた (Schraut,1989,p.196)。 しか し、 ラ イフコースのその段階に達すると、かれ ら自身の子 どもたちが成長 し、結婚 しはじめるようになる。
こうして世代間での財産移転の新たな循環が始まり、年配世代の財産は減少 した。
東ガ リキアにおけるウクライナとポーランドの農民家族の ライフサイクルは、似たようなパ ター ンを示 している。
農民の息子が成人 したとき、かれは両親か ら2〜 3エ ーカーの土地を与え られ、彼の妻の結 婚持参財産が1〜 2平 ―カー加わる。辛い労働 と倹約 と出稼 ぎによって、彼 はさらに多 くの 土地をなんとか購入 した。そ して彼 は、両親 と親戚が死ぬとさらに多 くの土地を相続する。
彼の保有地 は彼が50歳の頃に最大規模 に達す る。今や彼の子 どもたちは成長 し、彼 は自分 が死ぬ前にかれ らに数エーカーの土地を「分与」せざるをえな くなった。彼はその生涯を小 規模保有者 として開始 し、少 しのあいだ中規模の所有者 になったが、小規模保有者 として死 んだ。(Kieniewicz,1969,p.212;Rudolph,1986,p.32か ら引用)
単独相続の地域では、財産の移転 はあまり漸次的ではなか った。 ここでは、隠居が、 ライフコー スと家族周期における大 きな転換点であった。18世紀 と19世紀 に関する多数の研究が、隠居 した ときの年齢を証明 している。ある上オース トリアの教区 (1813〜173年)では、隠居 した年齢 は37 歳か ら80歳までに及んでいたが、50歳か ら65歳に集中 していた (Krabicka,1980)。 1900年頃 には、隠居時の平均年齢 は、 ボヘ ミアで46歳、 モラヴィアで52歳、上バイエル ンで45〜50歳で
あった。似 たようなデータが、デーヴィッド・ ゴーン トによって、18世紀 と19世紀のフィンラン ドとスウェーデ ンについて提出されている。18世紀末 と19世紀 のオース トリアの農民 に関する一 連の個別家族史は、隠居時の年齢が50歳、51歳、55歳であったことを示 している。 もっと遅い時 点 で の隠居 は、 成 人 した相 続 人 が 身 近 に い な い場 合 に しか見 出 され なか った (Sieder&
Mitterauer, 1983)。
ノル ウェーにおける「 所有者の ライフサイクル」 の分析 も、似たような結果を提供 している。
1664〜1930年 のノルウェーのセ ンサスか ら抽出された年齢集団 ごとの豊かさのイ ンデ ックスは、
考察対象 となった全期間を通 じて驚 くほど安定 したパ ターンを示 している一一「収入、富 と所有地、
土地 占有ない し土地所有の統計 は、一般 に放物線状のパ ター ンを示 している。豊かさは20歳か ら 上昇 しておよそ50歳で ピークを迎え、そのあとに、年老いた人々においては少な くともい くらか 下降す る」(Soltow,1990,pp.445f)。
近世の都市社会における世代の関係 と財産の移転 は、 これまのところあまり研究 されていない。
しか し、われわれが手 にしているわずかな証拠 は、農村地域 と似たような傾向を示 している。 シュ ヴ ァーベ ンのネル トリンゲ ン (Nёrdlingen)市 の市民 の大抵 の男性世帯主 は、 結婚 してか ら 50〜55歳までの時期 に、かれ らの財産のかな りの増加を経験 した (Friedrichs,1979,p.326)。
1500年 頃のヘクスター (Hёxter)市――下ザクセ ンの小都市 一―に関す る研究 は、50歳以後 に富 が移転することをはっきりと示 している。息子や義理の息子の新所帯の創設 は、両親の富が減少す る重大な局面であった (Rithing,1986,p.433)。 ライフコースにわたる財産の変化 は、人生の階 段のカースとぴったりと平行線をな しているのである。
都市の手工業者 における世代間の関係 と財産の移転の研究 は、や っと始まったばか りである。 こ れまでにわれわれが手に している唯一の証拠 は、親方手工業者 に雇われた奉公人の数を、親方の年 齢集団別 に示 したものである。 この数 は、 ライフコースにわたって変化する経済活動の指標 になる。
チェル ッティによる 1705年 の トリノのセ ンサスの分析によれば、なん らかの奉公人を雇 ってい る親方の数 と、親方 に雇われた使用人の工房あた りの数 は、両者 とも、親方の年齢が40〜49歳の ときに頂点 に達 した。「徒弟 と職人の数 は親方が分別盛 りの年齢 の世帯でより多か ったが、40〜 50 歳の範囲 にある世帯で特 に多か った」(Cerutti,1991,pp.1140。 19世紀の ウィー ンで は、手工 業者の工房 に雇われ る労働力 は40歳まで増加 し、奉公人 と子 どもたち ―一 かれ らはときには父親 の手助 けを した 一― の数 は40〜50歳で ピークに達 した。55歳を過 ぎると、正式の奉公人 (徒弟、
職人、女中)と潜在的な使用人 (息子や娘たち)は、ともに急激 に少な くなった (Ehmer,1980,p.
55)。 1840年頃の ドイツの絹織物都市 クレーフェル ト (Krefeld)で も似 たようなカーブが観察 さ れる。 ここでは、親方手工業者の経済力 は37〜46歳にその ピークを迎えた (K五 edte,1991,p。 16
6)。
勿論、 これ らすべての事例 は、断片的でば らば らな証拠 を提供 して くれ るにす ぎない。 しか しな が ら、 これ らはすべて同 じ方 向 を指 して いる。 16〜19世紀 中欧 の さまざまな社会環境 において、
人 々 は、人生 の階段 の理想的なイメー ジか らあま りか け離 れて いなか った ライ フコースを経験 した よ うに思 われ る。
結び (Conclusions)
最後の数節では、い くつかの社会環境で見 られる、 ライフコースと世代間の関係 と老年 との結び つ きの事例を紹介 した。抽象的な観点か らみれば、 これ らの環境はすべてある社会経済的特徴を共 有 している。すなわち、 これ らの社会環境では、家族ない し世帯が最 も重要な生産単位であり、そ れ ら
(も
っと正確 には、その成員のある者つまり世帯主)が生産手段の所有者であり、かれ らはそ の財産を家族内で相続 によって移転 したのである。 こうした社会的構成物を特徴づけるのに、歴史 家たちは異 なった用語を用いている 一―「農民的生産様式 (peasant mOde of produce)」 、「家族 的生産様式 (familial mode of production)」、 あるいは「小商品生産」。この論文の中心的な議論 は、小商品生産 という特定の社会的構造物 と、人生の階段の画像に表現 されたライフサイクルと老年の概念 とのあいだには関係がある、 という仮定に立 っている。 この画 像 は、 ライフコースの設計図を提示 して、 この特殊な生産様式内での世代間の関係を規制するのに 適 していた。 さらに、人生の階段の画像の人気の普及 と持続 と衰退 は、小商品生産の歴史的な発展
と関係 していたように思われる。
中欧では、農民家族の農家 と親方手工業者の工房が社会構造 に及ぼす影響力 は、16世紀か ら19 世紀にかけて増大 したように思われる。農民層 は、その所有権を徐々に強 くして、ついには自らを 解放 した。 こうした法的地位の向上だけでな く、農民 は事実上の相続権 と処分権を行使 した。財産 移転の形態 とメカニズムに関するわれわれの知識 は、非常に限 られたものである。 しか し、資源を 支配 し配分する基本的な枠組 としての家族が、土地市場によって弱体化 された、 と考えねばな らな い証拠 はなにもない。財産相続 と、 もっと一般的には、家族や親族の取引は、む しろこの時期に重 要性を増 した。似たような傾向は、都市の親方手工業者 において も見 られる。同職組合を閉鎖的に して親方の数を制限 しようとす るかれ らの試みは、親方の息子や義理の息子 に特権を与え、社会的 再生産の過程 における家族の役割を強化 した。0。
さらに、同 じ時期 に、社会的階層分化が急速 に進んだ。1500年頃の中欧の農村社会では、人 口 の大多数が農民であったが、1800年頃には本来 の農民 は少数派 になって しまっていた。同 じこと は、都市の手工業者 と商人にも起 こった。ある階級の一員 として生まれたか らといって、 もはや自
動的に生涯にわたってその階級の一員であり続 けるられるわけではなか った。財産のある農民の子 どもたちは、社会的地位が下がる可能性 に気づかねばな らなか った。相続財産 は社会的・ 経済的地 位を保証す るうえでますます重要 にな った。結婚年齢 と未婚率の長期的な上昇 は、 こうした問題の 数量的な表現である。 この現象 は、中欧のさまざまな地域で17世紀 に始 まり、19世紀半ばにその
ピークに達 した (Ehmer,1991)。
19世紀末 までは、賃労働 はまだ大多数 の人 々の全生涯を規定す るものにな っていなか った。む しろ、賃労働 はライフサイクルの初期の段階に限 られていた。大抵の人々は、30歳頃を出発点 と して、 自立 した農民や手工業者や商人 になろうと努 めた。例えば、19世紀末 ドイツの統計 (1882 年、1895年 、1907年)によれば、労働者の割合 は年齢が高 くなるにつれて低下 していき、40〜 49 歳で独立 自営業者の割合が労働者 のそれ と等 しくな り、50歳を こえると前者が後者を数的にかな り凌駕 した (Ehmer,1988)3多くの場合、 こうした独立 自営業者 は生存限界 ぎりぎりの独立状態 にあったが、かれ らは小商品生産の社会的・ 精神的な伝統 一 なかでも資源 と財産権の移転のパ ター ンニーを維持 し続 けた。・
要約す ると、私の見方では、人生の階段 の単純 な図像 は、近世か ら19世紀末 まで中欧で優勢で あったこの特殊な「家族的生産様式」内での世代間の関係の「理念型的」イメージのようなもので あった。相続 と経済的独立 と結婚の結びつ きがその一般的妥当性を失 ったのは、19世紀か ら20世 紀への転換期の頃である。社会的な上昇・ 下降移動 と社会的地位 は、 ますます労働市場 と教育制度 に依存するものになった。社会保障は、ますます家族以外の諸制度 によって提供 されるようになっ た。 こうした変化によって創 りだされた社会的・ 精神的環境 においては、 ライフコースを設計 し、
世代間の関係を規制す るのに、人生の階段の画像 はもやは必要がな くなうていた。現 にそのとき、
人生の階段の長期にわたる人気はその終焉を迎えたのである。 .