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農村の子供と女性の戦争体験と技能習得(5)

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農村の子供と女性の戦争体験と技能習得(5)

     太平洋戦争後期の食料生産

永 島 利 明*

(1995年10月13日受理)

Children s and Women s War Experiences or Acqusition of Skills in Rural Communities(Part 5):Production of Agriculture during the latter days of the Pacific War

 Toshiaki NAGAsHIMA

(Received October 13,1995)

低学年生の勤労奉仕への参加

 日本軍が1941年12月8日の真珠湾攻撃や南洋を攻撃し,各地を占領すると,「大東亜共栄圏」の構 想が実現したように思われた。しかし,日本より国力の大きかった連合国は猛烈な反撃に転じた。1942 年6月のミッドウエー海戦はその始まりであった。8月にアメリカ軍は日本軍の守る南の最前線であっ たガダルカナル島に上陸した。猛烈な戦いの後,43年2月にこの島を退却した。食料の補給路をアメ

リカ軍により封鎖され,「餓島」といわれたほどであった。

 軍は国内における戦争が避けられないものと考え,軍隊の徴兵を急いだ。1941年には日本軍は242万 人,42年283万人,43年361万人,44年530万人,45年810万人と急増した。特に,44〜45年の増加が極端 であった1)。これは農村や工場の男の人が軍人になることを意味した。この労働力の代わりにするた め,農村の子供が農作業のために,勤労奉仕の日数が増えた2)。また,41年には学年は5年生までであ

った対象学年を4年生まで引き下げた。文部省はそのための通牒を次々と出した。例えば,43年10月 22日の「麦作完遂学徒動員二関スル件」では15日間をかぎり国民学校初等科4年以上の児童生徒を「徹 底動員」することになった。続く11月21日の「土地改良完遂学徒動員二関スル件」では土地改良事 業のため国民学校初等科4年以上の児童,生徒,学生に概ね30日(工業学校は20日程度)を標準とし て食料自給のため,役立たせることになった。

 1944年になると,ますます食糧が不足し,1月10日の「国民学校教育二関スル戦時非常措置二関ス ル件」では高等科児童の授業を勤労作業に振り替えることができる期間をそれまでの30日以内を60

日まで延長した。2月25日の「食料増産二関スル学徒動員二関スル件」では麦,いも,自給肥料の生産 のため,国民学校4年以上の児童,簡単な作業では低学年の子供,青年学校,男女中等学校生徒を対

*茨城大学教育学部技術科教育研究室(Dept.of Technology Education, Faculty of Education,

Ibaraki University,310 Japan)

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象としていた。この頃の文部省の通達には増産という言葉が氾濫している。しかし,増産どころか 減産も食い止めることはできなかった。

各種学校や私立学校の廃校

 労働力の不足対策として43年5月3日の国民動員計画策定の閣議において,各種学校の廃止の方針 を決定した3)。当時日本には3000の各種学校があると見られていた。その第1歩として6大都市の教務 課長を文部省に集めて,その方針を伝えた。その方針は認可を受けていないものは勿論であるが,○

学校の種別,○経営方針,○経営方針から検討を加えて整理か,存続か決定するというものであっ た。認可されているものでも,決戦上不急とみられるもの,学校設備教員の陣容が営利の目的で 行われているもの,教育内容がよくないものも対象とされた。当時の各種学校は予備校,技芸学校,花 嫁学校,割烹(料理)学校,洋裁学校,裁縫学校,タイピスト学校があった。農村やその近くの町 には未婚の女性が通う裁縫塾があったが,ほとんど各種学校の認可を受けていなかった。このため

「もぐりの学校」とみなされていた。このことについて市川房枝は次のように話していた。

この決戦が始まってから一般には遊休婦人はすでに一人もいないはずです。ただ中産階級以上の 家庭に不急学校ともいうべき・・教養施設にこもる子女があるようです。これらの整理は当然です が,既存施設を閉鎖せずに,割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか或は国民学校訓導,看護 婦,保母,保健婦の養成所を開設するなど,あくまでも女性独特な職場に役立つ教導機関にあて ていただきたい。農村の女性はあくまでも野良に出て男同様鍬に汗しています。都会の中流以上 の子女が家庭教育第一だと無為に過ごすなどは見当違いもはなはだしく,決戦女性は家庭ととも に職場を持つのが当然です。家庭に多い遊休女性の多いのは,母親が職場の環境と設備に不安を もっているのに原因している。関係当局は女性の職場管理にいま一層の注意を払い女性としての 心の根底から職場を謳歌して働きうる場所を与えて欲しい。そして母親は娘が受けた女学校教育 を無駄にさせず,また家庭以外のことに対処させる教養を与えていただきたい。

 未婚の女性を対象にした学校は不用不急と見られて閉鎖されたが,岡山県の場合はドレス研究所,

和洋裁タイピスト養成所など76カ所,生徒数は1674人,そのうち無職のものは1236名であった。76 カ所のうち,70までが和洋裁の塾で嫁入前の修業の場であった。現在は既製服が普及しているが,自 力による被服製作は,当時は女性の大切な役割であったから,それを「不用不急」と断定するのは 実態に合わなかった4)。しかし,岡山の場合,その内容を警察が調査して,廃止に追こんだ。

 岡山県では各種学校の廃止だけが新聞に掲載されたが,茨城県では私立学校が廃止された。毎日 新聞はそれらの学校が「自発的に廃止」したと報道し,県は「私立学校のうち比較的戦力増強に関 係の薄いものに対し整備を考慮していた」と書いているところを見れば,廃止の行政指導が行われ たとしか考えられない。現在の国立大学改革を見ても大学が「改革」を自主的にしているような形 を取りながら,文部省に都合のよい案をもっていかなくては予算を伴う改革は承認されない。例えば,

国際化と言いながら,日本にいる外国人で最も多い中国や韓国・朝鮮系の言葉を話すような方針は

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とられない。それどころか語学の卒業に必要な単位は減少している。

 茨城県では1944年1月7日常総学院など男子中等学校7校と土浦清香女学校,下館裁縫学校,女子中 等学校など8校が廃止の決定をした。15校の生徒約1000人は直ちに工場や鉱山に送られた。また,学 校の施設や土地は都会から空襲を避けて避難してくる人のために,転用された。また,教職員のうち 資格のあるものは県立学校へ転任し,無資格のものは農業の増産などにたずさわるように奨励され た。「奨励された」という美辞麗句を使っていたものの実際は,無資格者は解雇されたのである5}。こ れらの廃止された学校のうち,常総学院は1986年に復活し,野球や進学などで成果を上げている。

農 業 要 員

 廃校になった学校の生徒は軍需工業や鉱山に送られた。しかし,軍需工業に送られたのは,それ らの生徒だけではなかった。旧制の中学生も高等女学校生徒も軍需工業で兵器の生産をするように なった。その中等学校を卒業したものも上級学校に進学した人,農業要員となって家の農業を手伝 う人,母子家庭や病人のいる家庭で家を助ける家庭要員となった人6〕,鉄道に就職して鉄道要員にな った人などを除けば,軍需工業に動員されたn。

 農業要員制は農業統制令の離農統制対策により決定され,その資格は「3反歩(アール)以上経営する 農家で1年90日以上農耕に従事するもの」となっていた8}。耕作面積は3アール以上となっていたが,地 方の実情に応じて,それ以下の場合もあった。例えば,長野県では更級,長水地方は2アー 似上であっ た9)。しかし,これ以外の細かい規則はなかったので,1ヘクタールも持っていて1人で経営する農家も3アー ルしか持っていなくても5人も働き手がいる農家もあった。この場合,3アールの耕作に必要な労働力以外 の人も実際には農業をしない人もいた。例えば,製炭や輸送をしているような人もいた。また,自 家保有米を確保したり,配給を確保するため,農業要員として申請する人もいた。

 このような人は工業に動員をすることを目的として作られた勤労動員署から「不的確要員」とされ た。また,農業要員に指定されたため,駅員を辞職しなければならなくなったもの,また,部落一 番米を供出していても,農業会(現在の農協,JA)に勤めていたため,要員に指定されないものもい た。軍は農村から労働者として軍需工業で働かせるため,手段を選ばなかった。農業の最低の生産 力を確保するための農業要員制度もあまり役には立たなかった。

 この農業要員も必ずしも自分の家の農業にだけ専念できない場合もあった10〕。長野県飯田国民勤労 動員署は43年3月23日に地方事務所,警察署,翼賛会,翼壮,婦人会の代表を集めて,食料増産奉 仕隊を結成すると共に,非農家を動員して勤労奉仕隊を組織することを決定した。各部落は両者合 同の共同作業班をつくり,農繁期に共同作業をすることを目的としていた。農家は1戸1人以上を出 して,食料増産奉仕隊に参加させ,班長は実行組合長がなるというものであった。これを実行しな いところには勤労奉仕隊を送らないという内容であった。

 この方式では働き手のいない農家は要員を出したならば,ますます農業が困難になることは目に

見えている。共同作業を実行できないところでは勤労奉仕を受けられないから,ますます作業はく

るしくなる。農民が軍隊にいき,共同作業ができなくなったにもかかわらず,それを無視して,ま

た,農業になれない人と共同作業ではますます作業能率が悪くなる。これは役人のデスクプランに

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過ぎなかった。

 女子挺身隊を編成するに当って,長野県では農業団体と女子挺身隊員を管轄する勤労動員署の間 に争いが起こり,県は関係者と協議して,次の方針を決めた11}。

一,農業要員は農村労力確保のうえから可能なかぎり女子挺身隊には編入しないこと 二,しかしながら編成上万やむを得ない場合は農業要員として不適格者から選ぶこと

三,その場合はあらかじめ農業要員指定取消の手続きをとって,その上で女子挺身隊に編入する   こと

 長野県上伊那町女子勤労隊は1944年1月19日工場で働くため,役場で壮行会をしたが,40名中26人 が農家出身であった12)。高女出は19名であった。当時は高女は農村では上流の家庭でなければ入学で きなかったから,地域によってはそうした家庭しか働く人はいなかったかもしれない。また,福島県 南会津郡荒海村(現在田島町)では1945年6月7日に田島国民勤労動員署に10人の未婚女性を除いて 挺身隊員と報告しているが,6人が農家の出身である13)。その報告書の摘要に4人までが「労働力過大」

と書かれている。小規模の農家では労働力が多いということもあったかもしれないが,そのような人 が農繁期には他の農家を手伝い,全体にバランスが取れていた。しかし,このような農家からも女 子挺身隊として動員したことは,農業をすることをますます困難にしていった。

 農繁期には工場から勤労奉仕隊がきて,農業を援助することは,戦争が始まってからの習慣にな っていた。しかし,1944年になるとそれが予定数に達しなくなっているところが出てきた。長野市の 麦秋勤労奉仕隊は6月21日から実施されることになっていた。この隊は学徒と職場の人から編成され ていたが,職場からは予定した人が参加せず,21〜22日とも100名ほどの不参加者が出て,農家は非 常に困った。特に,出征兵士のいる農家に割り当てる予定であったので,麦の収穫が遅れた14)。

 戦争中には新聞には厳しい検閲が敷かれ,国民にはあらゆることが成功しているように見せられ ていたが,それを隠すことが不可能になりはじめていていることを示していた。また,工場も人手 不足が深刻になっていた。

 その対策として第2次世界大戦中はどの国も軍需工場に女性を雇った1%日本では軍需工場に動員 された各国の女性は次のように報道されていた。ドイツは1600万人,アメリカ1700万人,イギリス 730万人,ソ連1500万人であった。アメリカは強制動員制ではなかったが,全労働者の31%が女であ

った。かなりの家庭の主婦が多かった。ドイツは自発的動員から申告義務制をもうけて,一部の例 外を除くほか,収入があって働く必要のない45才までの女性を動員していた。イギリスは年齢別に みると,18〜40才570万人,40〜60才60万人となっていた。18〜40才の未婚者は320万人で,これは同年 齢間の未婚女性の91%をしめており,また,労働者でも子供なしの女性は250万人で80%という高い率 を示していた。この数字はアメリカに関するかぎりほぼ正確であった。

 日本でも女性を強制的に動員する徴用問題が議会で問題となった16)。東条総理大臣は1944年の衆議

院本会議で「我が国古来の美風たる家族制度を尊重して女性徴用は断じてやらぬ」と明言していた

が,1944年2月2日の衆議院戦時保険委員会では福岡選出の林某議員と愛知選出の山崎常吉議員が「徴

用は懲罰にあらず栄誉である。女性にこの栄誉を与えることを何故拒むか」と主張した。翌日もこ

の議論が続いたが,小泉厚生大臣が「女子の徴用は運用」による。「受入れ態勢の確立とともに事態

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の変化によっては徴用もありうる」と発言して,討論は打ち切られた。また,雑誌「婦人公論」は世 界の動向を軍人に説明した特集を行い,女性の徴用を主張していた17)。未婚の女性に対する工業への 動員は厳しいものがあり,実際には徴用と変わらなかった。このことについては別の機会に述べた いと思う。1944年になると,農村の働き手は老人と農村の主婦しかいなくなった。最後に残されてい たのは,学校にいた子供たちだけであった。しかし,この児童を狙っている人達がいた。

満蒙開拓義勇軍養成訓練

 長野県は満蒙開拓義勇軍を中国東北部(当時は満州といわれた)に最も多く送り出した県であっ た。この義勇軍は日本が中国農民から収奪した土地や異常に安く買いたたいた土地を耕作したり,開 拓した少年の集団であった。しかし,義勇軍という名前から推測すれば,志願して参加したと思う 人が多いようであるが,日本の満州の植民地化を進めるための農民になるために,送られた人たち であった。志願とは名ばかりで,実際は割当てがあり,教師はそれを満たすために,苦労しなけれ ばならなかった。茨城県の内原にあった加藤完治が所長であった訓練所で農業の訓練を受けた後,満 州に送られた。日本全国では84,566万人を送出したが,敗戦により約50%という高率の死者を出し

た18)。

 その訓練様式を取り入れた国民学校があった19)。上伊南向国民学校では高等科の児童300人は5時起 床,(現在の皇居を宮城といい,それおがませた)宮城遥拝,米英撃滅必勝祈願,海ゆかば,挨拶,体 操,6時朝食,7時宿舎出発8時から午後5時まで勤労作業,6時半夕食(炊事当番は三時半打ちきり),

7時半から学科,8時半から反省,9時点呼生家遥拝,就寝といった順序で,村内の農作業をした。今 の中学生に当る高等科の児童が8時間の労働をした上,いろいろな訓練をするのは,かなり厳しいも のであった。現在ならば,義務教育を終わっていない子供に8時間労働をすることは許されないこと なのに,国民学校の制度が,このようは長期にわたって合宿勤労作業を誇りにしていた。

 以下は校長や職員の一問一答は次のとおりであった。

問 炊事はどんな方法でやったか。(答)村の女子青年が応援してくれると申しでたが,それでは集   団生活の練成にならないので,断り一切子供にやらせた。

問 雨天の日はどうしたか。(答)晴天一週間勤労作業をするのだから,雨天の日は宿舎で学科をやっ   た。

問 農繁期中上級児童が家庭から離れるので,一般家庭は困りはせぬか。(答)宿泊作業に出た後は   初等科の児童が帰って家庭勤労をしたので。上級生がいないというので,下級生も非常によく   働いて,この方面も好結果だと思う。

問 食料はどうしたか。(答)みな児童が持参したが,オヤツだけは各部落が共同して作ってくれた。

問 今回の計画で大きな収穫は何か。(答)実施の狙いはいろいろあるが,農繁期中家庭勤労でなお

  かつ残った仕事を片端から集団的に処理しようとするのだった。その間共同一致,責任完遂,創

  意工夫,食事作法を正しく,沈黙精進誠をもって奉仕する。困苦に絶えて頑張るという点大き

  な収穫だったと思う。つまり,その間勤労食料宿泊訓練と行学一体化運動をやったわけである。

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問 学校の授業の延長としてやったわけか。(答)家庭の了解を求めて延長として教練面の陣中勤労   を主眼としてやったが,今後も随時必要に応じてやるつもりだ。

 この内容から見ると,満蒙開拓義勇軍の志願者養成と同時に勤労奉仕も重視していたようである。

この義勇軍の訓練は各地で行われていた。例えば,岡山県勝田郡教育会主催の「義勇軍柘植訓練」は 勝田国民学校を会場として義勇軍志願者44名を対象に行われた20)。第1編成開所式より校長が中隊長,

第1小隊長山本教諭,第2小隊国富訓導が内原で経験した訓練をそのまま行った。第1日目は日本体操,

作業,講話,座談会などでその「精神を叩き込み,大陸雄飛の心を沸きた」たせていた。第2日目は 植月村開拓農園で農地の開拓をした。

 1944年になると満蒙開拓義勇軍の志望者が少なくなり,適格者を強制的に勧誘することを決めた ところも出てきた。長野県上高井地方事務所と満州上高井郷建設本部では1945年度の方法では団員 の充足ができないことがわかり,団員からの縁故募集や勤労奉仕派遣とともに,強制勧誘を行うこ とになった。このことはすでに満蒙開拓義勇軍が政府の宣伝のようによくないことを長野県民が知 り始めていたことを示しているように思われる21》。

落ち穂拾いとどんぐり拾い

 文部省は食糧不足対策として次々と通達を学校に出したが,それまでと違った実践があらわれた。

1943年までは米を作るには,子供は田植えから秋の収穫を手伝うという形が普通であったが,44年の 秋にはそれまでと異なっていた。例えば,秋田県では今は一粒の米も無駄にできないと10月下旬か ら12月5日まで収穫が終わった後,児童は田に入って落ち穂を拾った。その結果,1400俵分の米を得 た。それは現在の単位に換算すると,28ヘクタール分の収穫があったのと同じであった22)。学校では1割を 使い,残りは供出した。これだけの落ちた穂があることは,丁寧に収穫する人手がなくなったことを 示していた。新潟県西蒲原郡弥彦村内の3国民学校の1000人余の子供は班に別れて落穂拾いを行い,

2日間で2石8斗という収穫を得た23)。このように一粒一粒の落ち穂を拾わざるを得ないことは,翌年 に田植えをして収穫していたのでは,まにあわないという食料不足が迫っていた切実な背景があっ

た。

 「どんぐりころころどんぐりこ」の歌でドングリは子供に人気がある。戦争の初期にはどんぐり はタンニンを集めるため,どんぐりを集めた。どんぐり集めは本格化したのは,1940年頃からのようで ある。この年には全国で130万貫を集めたという記録がある。新聞の記事になったのは,岡山の合同 新聞に掲載されたものが比較的早いと思われる。その記事には次のように書かれていた24}。

今月の下旬にはドングリ集めのシーズンになるので,県ではこの程改めて県下の市町村,国民学

校,中等学校長に収集運動の普及徹底方を通知。収集した木の実は決して水洗を行わず,二日間

十分乾燥して,虫食いを除き,一俵四斗入りのこもかかますで荷造をし・・県山林会社の指導する

甘庶馬鈴薯会社に送り出すように希望している。昨年は全国で130万貫,岡山は55,750貫の実績を

上げている。団栗は普通70%以上の澱粉と5%以上のタンニン分を含有し,アルコール,タンニン,

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着色及び塗料となる。

ている。

しぽり粕は家畜の飼料となる重要な資源で,本年は一層の増産を期待され

 このように初期に集められたドングリはタンニンを含んでいたから,それを取り出すのに使われ た。タンニンは渋みのある黄色の粉で薬,染料,インクを作るのに必要な材料であった。それは都 会でも行われていた25)。1942年6月の武蔵野市第3国民学校の文書によると団栗(どんぐり)拾い,集 めが盛んにおこなわれて,出荷とその代金の支払が行われていたことが分かる。昭和17年(1942年)

6月1日付東京府山林会(印)から同校長にあてたもので,同校は1月18日に5石7斗1升2合を集めたも ので代金は39円18銭であった。支払日は1月27日,送金方法は郵便為替であった。文書の欄外のメモ に「ダンゴ,シブが強い」と食べ方が書いてあった。このころになると,ドングリは化学製品の材料 としではなく,食用に使うことも真剣に考えられるようになったのであろう。

 しかし,1943年になると,食用にするための新聞記事がみられるようになった。例えば,岡山県紙 の合同新聞は同県苫田郡の例を紹介している26}。この郡では「どんぐりをたべましょう」と各町村に 呼びかけていた。食べ方はドングリを一昼夜水に浸し,これをむしろに広げ約10日間乾燥し,(もち をつく)臼(うす)で軽くつき,表皮を除き,水の中に約7日間つけた後,流水に2〜3日つける。そ うすると,まったく無色無味になり,ピーナツを二つに割ったような形となったものを水とともに 炊き,食べるというものであった。この新聞は「栄養価も味もよくこれを粉にして,渋を除き餅,ま たは団子にすれば立派な食物になる」と宣伝していた。しかし,これを食べるまでに20日もかかり,

しかも,その手間を考えると,現在ではそれを試みることも困難であろう。

 いま軍隊はなくなったが,しかし,農民はだんだんいなくなり,食物の自給率は低下した。世界 中で食糧が不足すれば,ドングリを再び食べることもありうるかもしれない。実際にドングリは「栄 養パン」になって全国的に製造配給が行われた。厚生省健民局では食物の節約と栄養確保のため,澱 粉粕,ドングリ,アカザ,クロバーの葉,さつまいものつるや葉の食料化を研究していたが,戦後 の1945年8月20日に「栄養パン」を作って配給することを発表した。もともとアカザの若葉やさつま いものつるは厚生省が研究する前にすでに食べていたから,ドングリが最も大きな対象であった。厚 生省によると,前記の可食未利用資源の食料化により1年に米にして,350万石に相当するものが国民 の口にはいるという計算であった。そのため,国民栄養協会を設立し,保健所を中心にし,農家,学 生,生徒に呼びかけて,採集し,乾燥のうえ,同協会が各地に設立する製パン工場でパンにすると いうものであった2T。

開 墾

 日中戦争に入って以後,2年間は食糧事情は,比較的安定していた。内地,台湾,朝鮮を自給自足 圏と呼んでいた。内地の米の不足分は朝鮮,台湾より求め,しかも中国にいた日本軍の食料を補給 することができた。しかし,1939年の朝鮮,中国地方の干ばつ,戦争の拡大による工場や軍事基地の 新設・拡張,労力や生産資材の不足によって自給は崩れ始めた。食糧事情が深刻化して,1941年3月,

農地開発法を制定し,食料の自給と自作農創設の強化をはかるようになった。自作農創設のために,

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開墾を行い,開墾を大規模に行うようになった。大規模な農地の開発は農地開発事業団が行うよう になった。だが,労力は不足し,学生,生徒,児童が動員されることになった。1942年には朝鮮の干 ばつ,麦の不作と戦争の敗北が始まり,外米に頼ることができなくなることがあきらかとなってき

始めていた28)。

 政府は1943年6月第1次食料増産対策として臨時の対応策として,端境期の対策を作った。それは 農林省の立場から見れば,荒廃水田,耕作を放置された農地に雑穀,いも類の増産と労力補給に関 する措置がとられた。それだけでは完全な食糧対策と言えず,1943年8月,翌年の米の生産を180万石 増やす目標で第2次食料増産対策として土地改良をすることであった。その事業は実施目標は93万ヘ クタール,開田5000ヘクタールであり,これは従来の5〜6年分に相当するものであった。土地改良では地元負 担を軽くし,国の負担を65%(従来45%)とした。このため実施目標は35万ヘクタールを越えた。1944年7 月には第3次食料増産対策として77万ヘクタールの土地改良を計画した。

 この第3次対策と関連していると推測されるが,同年7月8日付の農林省と文部省の通牒の報道によ ると29),農村に通年動員されている生徒や学生は,農繁期が終わると,平地林の伐採跡地,高原の農 業可能地の開墾をすることになった。その動員目標は140万人であった。一人当りの割り当て面積が あり,国民学校高等科児童7畝(約0,7アール)以上,中等学校生徒1反(約10アール)以上,農業関係学徒や 大学高専学生1反3畝(13アール)以上となっていた。この責任面積は本当に実施されたら,かなりの負 担であったであろう。では地方の実情はどうであつたのであろうか。広島の場合をみることにする。

 1945年2月7日に広島県内政部長は「学徒ノ食料増産二関スル件」で耕地面積は一人当リニ十坪ヲ 基準トシテ耕作地ヲ確保スル」と通牒していた30}。それからみても開墾300坪はあまりにも過大でデ スクプランではなかったかと推測される。広島県の安田学園では,農場は体育の時間を使用してい た。肥料は馬の糞でみんなで競争して集めた。広島県内政部長の同年5月18日付けの「青少年学徒南 瓜増産実施二関スル件」では国民学校初等科一人に付10本,高等科20本,一般中等学校20本,農学 校生徒30本」を目標にしていた。6月21日には[校地等休閑地利用徹底強化ノ件」で「運動場ソノ他 休閑地ノ利用二付」徹底しない地域があるから「寸土ヲモ余マサズ」つまり少しの土地も残さず利 用させるよう命令によって通知するとしていた。

 すでに,いままで見てきたように,荒廃田を復元して,再び,耕作するような仕事は村の学校で はかなり行われていたが,地方の中等学校まで広く行われるようになった31)。例えば,岡山県小田郡 三谷村には真言宗の古い寺がある。その付近にはこの寺の土地があり,1937〜8年頃まで農家が耕作

していたが,人里はなれた山の僻地であっため,農家が移転し12アールの土地は耕作されなくなってい た。42年,そこから12キロ離れた矢掛中学はその土地を借りて,夏休みも休まず交代で施肥や除草を

し,秋になると全生徒が稲刈りをし,35石の米を収穫した。脱穀から俵に入れるまで全て生徒の手で 行い寄宿舎の生徒の食べる米を除いて供出した。食糧不足が寮まで押し寄せていたのであった。農 林省や文部省はその現実に後追いしているのに過ぎなかった。地方の国民学校が戦争の初期にして

いたことを中等学校が始めた。

 太平洋戦争が始まる前後に大都市で行われた校庭を農園にする仕事は,地方でも行われるように

なった32)。農村の女学校でさえも開墾をするようになった。長野県中野高等女学校では1944年農業専

任の教員を迎え,校庭やテニスコートを開墾し,約2アールの耕地にじやがいもを植えた。続いて道路

や寺の境内などの空き地にさつまいもや大豆を育てた。そして女学生の情操を養った桜も切り倒し

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て食料を作る状況になっていった。

 大規模な開拓が行われたところでは中等学校の生徒から町民まで,動員されていた33)。長野県矢代 町の巽佐沼を埋立て6へ妙一,レの田を生み出す工事が行われ,1943年12月から矢代町内の中学,高女,青 年学校生,町民など延べ1万人が参加して工事を完成した。150石の米が取れると予想された。

 また,専門学校や大学の学生まで土地改良事業や開拓に参加していたが,同時に,軍需工場の現 場で仕事をしていた。工場では軍から派遣された将校に厳しく監視され,しかも,重労働であった から,学生の記録集には,兵器の生産労働の厳しさは書いてあるものの開拓に参加したことしか簡 単に書いていないものが多い。

米軍上陸予定地の人たち

 1945年になると,フィリピン,硫黄島,沖縄の敗戦により,日本本土の決戦を覚悟しなければなら ないほど,追い詰められた。農作業の厳しさについて水戸中学卒業生は,次のように書いている鋤。

食料増産でテニスコートや・・道のそばに大豆,じゃがいも,ヒマが植えられ・・(他の農場でも)小 麦,さつまいもを作る仕事が作業科として・・行われた。みな国家の危急を思い,農作業に精を出 したが,過重な労働や収穫物が自分達の手に渡らない不満から・・作業の帰途,収穫した小麦を道 に少しずつ捨てたり,また鍬を那珂川に捨てる生徒もいた。45年になると・・運動場も野球のダイ ヤモンドのみを教練用に残して開墾し,大豆,馬鈴署を栽培した。

 この記録は重労働をさせられるのに,何も還元されない中学生が消極的に抵抗することを書いて いる非常に少ない例である。生産した農作物は一体どこで消費したのであろうか。そのことを書い たものはほとんどなかった。わずかな例として子供の集めたものを特攻隊が食べたということがあ るだけであった。いままで述べてきたように日本中の学校が農作業しなければならなかったのは,農 民が兵隊に徴兵され過ぎたことは,言うまでもない。戦争末期には,武器を持たない兵隊が農業を

していた場合があった。茨城県の場合をみよう。

敵の上陸予想地で30%未満の武器しか持たなかったから,それでないところはもっとひどかった。

1945年5月に宇都宮師団が本土決戦と称して茨城県西地方の学校や寺に駐屯した。これらの部隊は 農部隊と言われた。銃も持っているのは半分くらいで,目立った軍事訓練もしなかった。風呂は 民家のものを利用した。校庭を開墾したり,空き地を使ってさつまいもをつくったり,松根油を

とっているものもいた35}。

 この農部隊は納部隊農耕隊など土地によって違っていた。兵士のうち,戦地にいかず,農業生産を していた者をさしていた。このような軍隊になると予想していなかったから,統一した名前がなか ったのであろう。茨城県では筑波町では納部隊その近くの八千代町では農部隊と呼んでいた36)。

 1945年5月7日,第1総軍司令官は沖縄戦の戦況から,米軍は秋頃,九十九里や鹿島灘に上陸するし,

(10)

東京を占拠するであろうとの情勢判断を示し,5月23日には多数の部隊を臨時編成した「第3次兵備」

が発令された。ところがこれによって配備された部隊は極端に人員と武器が不足していた。不足し ているものは後から補充していくというものであった。茨城県の太平洋沿岸地域の防備を担当した 穂第51軍の弾薬の補充率は29.88程度(小銃実包20%,機関銃実包10%,歩兵砲弾薬60%,小口径砲弾 薬20%,大口径砲弾薬20%,因みに同時期の第12方面軍の充足状況は40%)であった。早急に充足しな ければ,戦闘部隊として機能が果たせない状況であった3T。実際には米軍は神奈川に上陸を予定し ていた。このような編成に伴う部隊装備の不足は,国力の極端な低下と空襲による大都市周辺の軍 事工場の焼失・分散や補給路の不整備によるものであった。各部隊は当座の戦闘に必要な(信号用)

打上筒,槍,爆雷砲,ざん壕堀りのための十字鍬,担架などの兵器・戦闘資材・築城資材の自給に あたらなければならなかった。その上,国内の食料事情は極端に悪くなっており,主食代用品・副食 品・炊事用のまきや炭まで自給しなければならなかった。更に,軍の命令により農家の麦刈り,田 植え,農耕,播種まで援助しなければならなかった。とても戦える状態ではなかった37)。

 このような状態であったならば,徴兵するよりも,在宅して農業したほうが能率があがってよか ったのではないか。このような行き詰まりは終戦の直前にはいろいろなところでみられた。軍需工 場に動員された生徒は,必要な資材がなくてする仕事がなかったという例がある。アメリカ軍に包 囲され,資材はなく,無為に過ごすうちに戦争が終わった。それだけであったら,まだ,幸せであ った。B29爆撃による空襲で命を落とした民間人は72万人と言われている。空襲は大都市をねらって 行われたから,農村はその被害にあわなかったと思っている人がいるとしたら,それは誤解である。

軍事基地,軍需工場,アメリカ軍の上陸予定地はかなりの被害を受けていた。次に千葉県の教師の

体験をみようas)。

1945年の夏には艦載機グラマン戦闘機の襲撃が多かった。太平洋の航空母艦から飛んでくるので,

艦載機といわれた。ある女教師は勤労奉仕のため,高学年の女子を連れて谷あいの水田の除草に でかけた。よく晴れた夏の日であった。突然サイレンの音が聞こえてきた。それは空襲警報の 合図であった。突然,グラマンが襲ってきた。「伏せて,動くな。伏せろ動いては駄目」夢中で叫 んだ。大声で叫んだが,爆音に消されて聞こえなかったのか,近くに立ったままの子どもがいる。

その子を緑の中に突き飛ばし,私もその上にしがみついた。敵機は数発の銃声と共に姿を消した。

わずかな時間であったが,それは長い時間に感じられた。

豊成村に1944年に飛行場がつくられることになり,校舎は取り壊された。6年の生徒は役場を借り,

全ての学級が,お寺や集会所に分散し,寺小屋式の教育を受けることになった。高学年の生徒は 飛行場の草刈りや芝植えに動員され・・空襲警報も何度も発令され,・・素堀の防空壕の中へ飛行場 の兵士と一緒ににげこむこともたびたびであった。数人ずつ分散して待避するように指示してあ っても,いざ空襲となり,・・敵機の数も多くなると,中には火をふいて落ちる飛行機を見て危険 を感じ,ザワザワと壕を移動して「死ぬなら一緒」と教師の入っている中にギュウギュウ詰めと なり,もしここに爆弾が落ちたらと心配しても手の施しようなかった39}。

食生活は村でも不足していた。例えば,千葉県豊成村(現在東金市)では戸数579戸,人口3440人

(11)

が還元配給を受ける49}。このものたちの1カ月の規制消費の2割引必要数は620俵。実際の配給数は550 俵であって,70俵も不足していた。しかし,生産の減少があって米の供出目標を達成できなかった。

そのために地区では供出を完遂するため,

1,各部落ごとに供出督励員を置く。

2.自家保有米はつとめて縮小し,供出米はつとめて多くするよう努力する。

3.混食,代用食等の奨励により,供出米の増大を図る。

4.自家保有米は部落共同管理とする。

5.節米状況調査のために,学童の弁当調査をする。

6.村民互いに監視しあい,横流しの防止につとめ,発見したときは農業会に申告する。

7.割当完遂のため,最大努力につとめる。

8.米代金及び奨励金は当局の指示に従い,処分する。

9.代替品に対して公布した奨励品は,これを返却させ,国防献金とする。

 という取り決めをした。農民が食べるものを我慢して食料生産に励んだ結果,根こそぎ供出に近 く,お互いに監視しあい,不正を摘発し合うという最悪の状態になっていた。しかも,児童の弁当 まで調べるという状態であった。それでも「お国のため」ということで来年の種子を大切に保存し 野草や動物を食べながら飢に耐え忍んだ。

 終戦の年に「ザリガニ」とりがあった。農薬使用のため,いまはあまりみられなくなったが,当 時は田にたくさん居た。これを全校生徒が手わけして,バケツをもって取りにいった。とった「ザ リガニ」は校庭に集められ,高等科の女子によってゆでられる。ゆであがったものは,頭を取り,皮 を向くと,えびのように小さい身が出てくる。こうした仕事は千葉県の山武郡や長生郡ではかなり 行われていた。筆者の郷里では自家用の蛋白質の確保のために,行われた。また,ザリガニは稲を 食べるので,それを駆除する必要もあった。当時の豊成村は山武郡に属していたが,飛行場がある ため,白身は航空兵のためにテンプラとなるため,供出させられた41》。夏休みには子供は危険の少な い家庭に婦された。しかし,空襲は続き,空中戦を見ようとして壕から抜けだし,銃弾の犠牲にな った少年もいた。民家も銃撃され被害を受けていた。

「戦時下,食うのに困ったのは大都市だけ」か?

 戦争中農村も食料不足で困っていたという多数の事実があるのにもにもかかわらず,なお,農村 では食料があったということが一部の人から言われている。ジャーナリストで1944年秋田に疎開し た山本夏彦は黒柳徹子との対談で「戦時下,食うのに困ったのは大都市だけ」42〕と発言している。

秋田県横手町に疎開した。木工会社に「食べるものは不自由しないからと」といわれ転居した。「木

工会社ですから,燃やすものも食い物も困らない。輸送がうまくいかないから,米はあまるほどあ

る」。「人口2〜3万の町ですと,あたりは農村で,親類が全部農家でしょう。ですからあの町で困

(12)

っている人は一人もいないんです。・・食うのに困ったのは,東京,大阪の大都市の人間だけです よ。これも本当に困ったのは第1回の空襲が始まった(昭和)19年以後です。・・

 これは戦後50年に当る1995年7月30日の「産経新聞」に掲載された記事である。全国紙に掲載さ れただけに影響は大きいと思われる。「輸送がうまくいかないから,米はあまるほどある」と話しな がら,ほかの県まで米が余っていたというのは,拡大解釈ではないだろうか。同じ東北でも宮城県 白石市に住んでいた山田とくよは1942年数えの19才で結婚して3日目に召集令状がきて,夫は1週間 したら出征したという経験をしていた。農村に残っていたのは,老人と嫁だけで農業をしていた。その 経験を書いている43)。

農村の食糧事情の悪さは,ひどいものでした。それでも,とにかく食べなければなりませんから,

老人と嫁で田仕事をしました。しかし,米の多くは供出です。もう残っていないといっても,警 察は土足で上がって,供出米を捜したりしました。ですから,「供出」は「強出」といわれたものです。

 配給されるはずの塩もありません。いつも浜のほうに買い出しにいきました。しかし,向こう は物々交換だ,米をもってこい,というのです。米はなくなる一方でした。足りないので,山に 野ビルをとりにいって米に混ぜて食べたりしました。

 こうした事例があるにもにもかかわらず,自分の経験だけで戦争中の農村に食糧不足がなかった というのは,行き過ぎではなかろうか。軍や軍需工業は食料を調達するルートを持っていた。終戦 後軍の解体に伴う物資の放出は,軍はこんなに贅沢をしていたのかという驚きを子供ながら,鮮明 に覚えている。終戦後,近所や親戚の兵隊から帰ってきた者からいろいろなものを分けてもらった思 い出がある。終戦直前は鉄がなくなり,木造船,木造飛行機の建造も行われていた。木工工場はそ のようなルートはなかったのであろうか。商工業者の戦争体験を調査することは,今後の課題であ

る。

 1995年は終戦50周年関連の報道が例年より多く見られた。また,95年は外国米が本格的に輸入され る初年度である。しかし,戦時の農村がどんな状態であったかという記事は,まったく見られなか った。この研究がすこしでも当時の農村の実情と農業の大切さを知る資料となれば,幸いである。

1.東洋経済新報社編『昭和国勢総覧下巻』(同社,1980),p.509 2.福間敏矩『学徒動員・学徒出陣』(第1法規,1980),pp.79−80 3,「三千のもぐり学校秋までに槍玉に」r読売報知』1943年5月4日。

4.「整理の姐上に七十六校」r合同新聞』1943年10月8日。

5.「自主的に廃校」r毎日新聞茨城版』1944年1月8日。

6.山室静編『16歳の兵器工場』(太平出版社,1975),p.209 7.同上,p.126

8.「権威のない 農業要員制 」r信濃毎日新聞』1944年11月24日。

(13)

9.「農業要員基準面積」『信濃毎日新聞』1944年1月14日。

10.「勤労動員と共作式」r信濃毎日新聞』1944年3月21日。

11.「成可く編入避けよ,農業要員の挺身隊出動問題」r信濃毎日新聞』1944年11月18日。

12.「頼もしいよ農村娘」r信濃毎日新聞』1944年1月18日

13.(福島県南会津郡)r田島町史第8巻近代史料』(田島町史編纂委員会,1985),pp.615−616 14.「そろはぬ勤奉隊,長野困るのは受け入れ農家」r信濃毎日新聞』1944年6月23日。

15.「各国の女子労務動員」r新潟日報』1944年4月10日。

16,「女子も徴用する。小泉さんが最後の釘」r新潟日報』1944年2月4日。

17.r婦人公論』1944年5月号, p.5。

18.上笙一郎r満蒙開拓青少年義勇軍』(中央公論社,1973),p.75.

19,「内原様式そのまま」r信濃毎日新聞』1944年7月14日。

20.「勝田郡教育会の義勇軍柘植訓練」『合同新聞』1943年8月28日。

21.「強硬勧誘で,上高井郷充足協議」r信濃毎日新聞』1944年9月23日。

22,「落ち穂拾って千四百俵」『秋田魁新報』1944年12月21日。

23.「僕らもあげる大戦果,落穂拾いで二石八斗を収穫」r新潟日報』1944年2月21日。

24.「ドングリ集めた総動員」r合同新聞』1941年10月11日。山陽新聞社編r[昭和明治大正編]

  しゃしんでみるおかやま』(同社編,1990),p.334。

25.(東京都)r武蔵野市教育史第1巻』(同市,1992),p.650・−651.

26.「どんぐりの食べ方」r合同新聞』1943年11月27日。山陽新聞社編,前掲,p.351。

27.「どんぐりなどで栄養パン」r信濃毎日新聞』1945年8月20日。

28.農林大臣官房総務課丁農林行政史』第1巻(農林協会,1957),pp.789−793。

29.「責任面積を割当」『新岩手日報』1945年7月6日。

30.『安田学園70年史』(1985),pp.110〜111。

31.「荒廃田を見事に克服」r合同新聞』1942年11月12日。

32.「校庭をおいもの畑に」r信濃毎日新聞』1944年4月18日。

33.「目に沁む稲の青さ」『信濃毎日新聞』1944年7月14日。

34.r水戸一高百年史』(1978), p.477.

35.r(茨城県)八千代町史通史編』, p.1089.

36.r(茨城県)筑波町史』, p.455.

37.『(茨城県)神栖町史下巻』(1989),p.651.

38.千葉県退職婦人教職員の会r戦争と平和』(同会,1987),p.38.

39.同上,p.94.

40.『(千葉県)東金市史』(1993),pp.936−938.

41.千葉県退職婦人教職員の会,前掲,pp.97−98.

42.山本夏彦「戦時下,食うのに困ったのは大都市だけ」r産経新聞』1995年7月30日。

43,創価学会青年部反戦出版委員会r隣組と戦争一踏みにじられた民衆の心(戦争を知らない世代へ

  ・46宮城編』(第3文明社,1978),p.42.

参照

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