1.はじめに
本稿の課題は、特に国立大学に限定して、
英語教育のプログラム・デザインの有する意 義を明らかにしようとしたものである。国立 大学に限定したのには理由がある。私立大学 は膨大な数にのぼり、それぞれが個性的で一 律に問題をたてることが困難なこと、また、
もともと私立大学はこれまで大学経営という 観点からさまざまな取組みがなされてきてお り、こと大学経営に関して言えば国立大学と は一線を画していると考えられること、によ
る。つまり、私立大学とは異なり、国立大学 は法人化を経由して大学経営に選択の余地が 生まれるまで、文科省の管理下にあり事実上 大学経営の自由など存在しなかったからであ る
1。以上を反映してか、国立大学には私立大学 に見られるような学生をできるだけ多く集め ようとする姿勢がそもそも存在しなかった
2。国立大学が総じて研究に傾斜し、教育は研究 に付随するものとして二次的に捉えられてき たことにも起因している。国立大学も法人化 後は、教育デザインに個性を発揮できる条件
国立大学における教育プログラム・デザインの有する意義
─ふたつの英語教育改革の事例─
The Significance of Constructing Program Design on National Universities: ficance of Constructing Program Design on National Universities: f Two Cases of Reform about English Course
村 中 知 子
抄録
本稿は、国立大学における教育プログラム・デザインの必要性を、国立大学法人化による大学の 経営権等の変化と主要な教育答申の中身に即して明らかにし、ついでプログラム・デザインのふた つの事例(茨城大学及び宇都宮大学)を取り上げ、その有する意味(教育の質の保証)と改革の困 難性の一端を分析したものである。
1 法人化前までは、全ての国立大学は学生数、教員数が文科省によって管理されていて自由にはならな かった。また、国立大学の運営費用もすべて税金から拠出され、大学の予算委員会で審議されていた のは、その一部である教育研究費の配分に関わる問題だけであった。したがって、国立大学は文科省 の傘下にあり、大学の自治とは、予算の使途にかかわるごく部分的問題と教員人事等についての教授 会決定を基礎にした評議会自治を意味していた。周知のように、大学法人法には、教授会の規定はなく、
学外委員を半数以上とした経営協議会と教育研究評議会が置かれ、従来の評議会自治が弱まっている。
その反面では経営と教学に対する強大な学長権を認めている。ここから伺えるのは、従来の国立大学 の意思決定メカニズムをどうにかして壊そうとする意図であり、学長によるトップダウン経営権の確 立である。
2 国立大学のそれぞれの入学検定料、入学金、授業料等はそのまま国庫に入り、それらの実績が予算配 分に反映されることはなかったので、国立大学の教員にとっては入試倍率ですら一部の教員の関心し かひかなかった。
が整えられるようになったにもかかわらず、
その法人化後手に入れた独自の裁量権が必ず しも生かされていないように思える。国立大 学が「教育重視」への舵取りをしたのは、法 人化の結果であって、大学内部から醸成され たものではなかったことにもその原因の一端 はありそうである。「教育重視」の強調とそ れを実現しようとする趨勢は、法人化による 外圧と、それを契機として生まれた点検評価 の推進による所が大きい
3。もとより、同世代の若者の
50%が大学に進学するといった「大学のユニバーサル化」
の進行
4による学力低下等の深刻な問題が、
大学における教育重視の底流にあることは否 定できない。しかしながら、法人化したとは いえ、従来の制度設計にまつわる制約が簡単 に消えるはずはない。国立大学は教育デザイ ンを実行しにくい特別な事情を抱えていたと 理解されるのである。
とはいえ、法人化によってまがりなりにも 教育重視の方向性が定められた。しかしなが ら、教育重視の傾向は、しばしば教育は重要 だとのかけ声に終わり、その内実はあまり変 化していない。今なお従来型の教育に理由な く固執し、あらゆる改革や変化を嫌う根強い 勢力が国立大学で一定の力を持ち
5、なかなか国立大学は変化 していないようにも見え る。いまなお国立大学においては、教育デザ
イン描き、プログラムを実践するところまで こぎつけるのが困難であるという事情は変化 していないのである。
本稿においては、英語教育を題材にして国 立大学における教育プログラム化の必要性お よびその意義を具体的事例に即して明らかに することを目指している。 そのためにはまず、
国立大学の変化を法人化と点検評価の導入か らおさえることから始めたい。ついで教育に 関してや次々とくりだされた答申および文科 省施策と大学の関係を分析するなかで、国立 大学のプログラム・デザインの意義について ふれ、プログラムを実践した二つの事例を紹 介することにする。そのうちのひとつは、茨 城大学の事例で、私はこの事例 が実現する 過程に経営側の教育担当副学長として関与し た。二つ目は宇都宮大学の事例で、これは大 学全体の英語プログラム策定するために根拠 資料づくりのための英語教育についての外部 評価委員に私自身が推薦され、関わりをもっ たものである。英語教員でもない私が、この 委員に推挙されたのも法人化の大学の変化の 現れである。なぜならこの外部評価には、経 営側の視点 を導入 するとの観点から、茨城 大学の経験を生かそうとされているからであ る。
この二つの事例に関与する機会を得たこと で、国立大学における教育デザインの困難さ
3 後に詳しく述べるように、教育重視の強調は、矢継ぎ早に出された教育答申と「自己点検評価」「認証 評価」等の点検活動に押されて出来しているのであって、国立大学の教員の内部から醸成された意識 の変化とは必ずしも言えない。これは各種の点検評価書やFDがほとんど教育改革に役立っていない ことから明らかである。
4 マーチン・トローによる、いわゆるエリート、マス、ユニバーサルの三段階説は、日本で広く流布し ており、いたるところで引用されている。喜多村和之編訳『高度情報社会の大学』玉川大学出版部 2000参照
5 根拠が示されずに、「従来型でよい」とする勢力が改革に際しては自生的に形成される。そのばあい、
改革の中身が批判され、これまでのあり方の欠陥が不問にされるという特徴をもつ。つまり、現状維 持がよいとの理由のない確信に支えられている人びとの行動によって多くの場合、現状が追認され、
改革が挫折するのである。
の一端を英語のプラグラム・デザインを通し て具体的に体験することができた。この困難 さはもちろん英語教育にとどまるものではな いが、困難さが集約して現れているのが英語 教育だという見解もなりたつ。 いずれにせよ、
法人化してトップマネージメントが発揮され る余地が生まれたものの、従来型の国立大学 における意思決定メカニズムとの関係でさ まざまな軋轢が生まれていることも事実であ る。大学経営陣のイニシアティブを正当化す るのは、学生のニーズを反映した教育改革に ついての合理性だけである。その意味で、法 人化後の学長はじめとするトップは大きな権 限とともにそのコインの裏側としての大きな 責任も引き受けたのである。残念なことに、
この責任については経営陣も教職員双方の意 識は極めて薄いといわねばならない。
問題なのは、大学の「教育の質」が問わ れる以上、成果が問題となり、どのような教 育を展開しているかで大学が選ばれる時代に 入っているということである。この意味で、
教育の質への問いは社会のニーズの現れであ る。このニーズに応答する力のない大学は、
大学過剰時代において何らかの淘汰を免れる ことはできない。国立大学であっても同様で ある。それでなくとも、2001 年のあの遠山 プラン以来、国立大学の統合再編問題はくす ぶりつづけている。2008 年に中央教育審議 会から出された「教育振興基本計画について
─
『教育立国』の実現に向けて」 においては、
「時代は社会の要請に応える国立大学の更な
る改革」として、国立大学の再編統合、学部 の再編や学部入学定員の見直し、徹底したマ ネージメント改革、学部の壁を越えた教育体
制など、時代や社会の要請に応えるための国立大学法人の自主的な取組みを促す」 とされ、
また、「一つの国立大学法人による複数の大
学の設置管理等についての検討を行う」こと が明記されている
6。後に見るように、文科省による大学管理が
「事前規制から事後チェックへと転換」され、
今流行りの用語で言えば、 国立大学の将来は、
「自己責任」に委ねられたのである。ここを
しっかり押さえさえすれば、「国立大学の教 育プログラム・デザインの有する意義につい て」と題する本稿のねらいも理解されるであ ろう。
2.国立大学の法人化による経営権の 拡大
⑴ 法人化への道のり
ここでは、後の議論の展開の必要から、最 小限の法人化への推移を確認しておきたい。
日本全国を席巻したいわゆる大学紛争が収束 しつつあった
1971年の中教審答申には早く も「国立大学法人化構想」が現れている
7。昭和
46年に出されたことから、46 答申とし てつとに名高いこの答申に国立大学の法人 化構想が盛り込まれたのは、むろん大学紛 争の影響を憂えたからである。その証拠に、
1973
年には従来型の大学からの大きな脱皮 を目指して筑波大学が創設されている。現在 の視点からみれば、筑波大学の創設はその内 容からして、法人化への重要な橋頭堡であっ たことが分かる。教員組織と教育組織が分離 され、教員人事においては従来の教授会にか わって一元的な学長権限が認められており、
内容的に現在の法人化構想を先取りして体現 しているからである。
1984
年には中曽根首相のもとで「臨時教 育審議会」(臨教審)が設置され、この臨教 審答申を受けて、1987 年には「大学審議会」
6 中央教育審議会「教育振興基本計画について─「教育立国」の実現に向けて」2008、32ページ 7 中井浩一『徹底検証 国立大学法人化』中公ラクレ新書2002
が設置されている。また、1991 年には「大 学設置基準の大綱化」が実施され、いわゆる 専門教育と一般教育の課程区分が廃止され た。この問題の中心が実は「大学教育の質の 改善」に置かれていたことはほとんど知られ ていない。課程区分の廃止が教養部の廃止へ とつながり、廃止が存続かというポレミック な議論にすり替わったためである。もともと はといえば、事前規制から事後チェックへと いうその後明確になる大きな規制緩和の流れ の一歩であったのだが、そのような議論には ほとんどいたらなかった
8。1996
年には、橋本内閣のもと行政改革に おいて国立大学の独法化論がおこり、ついで 小渕内閣においては国家公務員
20%削減が決定され、大学審からの「21 世紀の大学像 と今後の改革方針について」によって国立大 学の法人化の流れが定まる。
1999年には、
「国立大学の独法化について
03年までに結論を 得る」と閣議決定され、独立行政法人化通則 法が成立する。2000 年には大学評価・学位
授与機構の設置、2001 年にはいわゆる遠山 プランが出され、2002 年には「学校教育法」
を改正して、すべての高等教育機関に第三者 評価(認証評価)の義務化が盛り込まれる。
同年、「大学の質の保証に係る新しいシステ ムの構築について」「新しい時代における教 養教育の在り方について」が出て、ついに
2003年には国立大学法人法が成立し、2004 年の
4月から国立大学法人がスタートした。
以上 のような経過を辿って国立大学は国 立大学法人に衣替えしたのだが、自戒の念を こめて以下のことを指摘しておかねばならな い。それは、国立大学の法人化が明治期以来 の未曾有の制度改革であると把握されたにも 拘わらず、法人化についての議論はさほど盛 り上がらず、制度設計の変化についての議論 は、大学の資金という経済的な問題や身分問 題に偏向していたことである
9。すなわち、運営交付金はどう配分されるのか、自分たち の研究費がどうなるのかが、公務員でなくな ると就業形態はどう変わるのか等々が主な関
8 私はこの教養部廃止を教養部教官として経験したが、正直言ってほとんど変化の内実を理解していな かった。言い訳になるが、まだ若かったこともあり、大学行政について無知であったし、大学の教員 は研究をしっかりすればよいとの観念しかなかった。今にして思うが、教養部長や評議員の説明も十 分ではなかった。ただし、教養部の教員でなかった他の多くの大学教員は、教養部の問題としてしか 捉えていなかったことを思うと、あながち当事者であった教養部教員のみを責めるわけにはいかない。
他学部の教員は、教養部教員のポストをいかに多く自学部へ取り込むかで実に醜い争奪戦を繰り広げ た。しかも、このときのポスト配分数がその後ことあるごとにむしかえされ、大学共通の改革を阻ん できたことを考えると、国立大学の一種の病理を考えないわけにはいかない。その後法人化を体験し て分かったことは、変化や改革の意味を繰り返し伝えることのできる「解釈者」ないし「伝道者」が いないことには、本来の意味はほとんど浸透しないことである。部分的な情報が錯綜し、場合によっ てはまったく間違った情報がまかり通ることがありうる。
9 この法人化への移行を、私は茨城大学人文学部長として経験した。教養部解体のときよりも、もうす こし文科省の施策に敏感になってはいたが、やはり大きなうねりの背後にある本質的な部分を感受で きたとは言い難い。私学での経験がなく、国立大学の制度や出来事を自明のものと受け容れる態勢か ら自由になっていなかったと思う。法人化6年第一期中期目標期間を終えて感じることは、国立大学は、
強い文科省の規制がなくなったメリットを生かし切れていない。法人化によって、国立大学はいわば 訓練期間なく「自由な経営」へ強制された。自律的であれとの要請が自律性を育むことなく、形のみ を整えて「自律からの逃走」を生み出し、組織の緊張感が弛緩したと感じるのは私だけだろうか。
心事であって、教育についての変化はほとん ど議論にならなかった。従来の既得権の維持 が多くの大学人の主要関心事であったと言え ば、言い過ぎになるだろうか。
ともあれ、頑強な抵抗を予想していた文科 省も拍子抜けするくらいに簡単に国立大学は 国立大学法人へと大きく転換したのである。
⑵ 国立大学法人の制度設計によってもたら された変化
次に必要最低限の国立大学法人の制度設計 がもたらす変化について述べておきたい。と いうのも、よい悪いは別にして、国立大学時 代には考えられなかったいわゆる規制緩和と いうか柔軟な施策がもたらされるようになっ たのは、法人化後のことだからである。国立 大学として文科省のなかに位置づけられ、定 員管理も学生管理も文科省によって決められ ていた国立大学時代とは大きく異なる点を把 握せずして、法人化後の各大学に出現した教 育施策や教育方針についての理解はありえな いからである。
国立大学と国立大学法人との差異は、およ そ次の
7項目に要約できる。
①学長のイニシアティブによる個性ある大 学運営
②役員会、経営協議会、教育研究評議会、
学長選考会議、 監事の役割等が「法人法」
で規定されているが、 学部の規定はない。
③公務員からから非公務員へ
「国家公務員法」「国立学校設置法」(廃止)「教育 公務員特例法」から「法人法」「学校教 育法」「就業規則」へ
④運営費交付金 評価による配分
⑤競争的資金によるサポート 科学研究 費、COE、各種
GP等
⑥特別会計から企業会計へ
⑦認証評価の義務化 規制緩和による事後 チェック、競争的環境の創出
国立大学評価委員会(文科省)、学位授 与機構の評価、 認証評価、 総務省評価(プ ラス内閣府の総合科学技術会議の評価)
以上のなかで、大学における教育施策・方 針の決定という文脈から大きな意味をもつの は、①②④⑤⑦である。①に関しては、早く から1.国立大学法人における学長が経営 権と教学権の双方合わせもっていること、ま た2.重要な案件については役員会の議を 経ることまた経営協議会および教育研究評議 会の審議事項は法人法に定められてはいるも のの、その決定権は学長に集中していること から、世界に類をみない強大な学長権限であ ることが指摘されてきた。私立大学の学長は 教学権は持つが、経営権は理事長にあり、私 学において経営と教学のせめぎ合いが見られ るのとは著しく異なり、すべてが学長権にお いて処理されるよう定められていた。この権 限の強大化がどう生かされるかは未知数であ り、対応・運用を誤れば多くの問題点を孕む ことも指摘されてきた
10。本稿 のテーマの文脈に即して 問題を整理 すれば、従来の国立大学にはみられなかった
「大学経営の自由度の拡大」は、
ひとえにトッ プたる学長の采配次第であることが確認され る。経営の自由度の中には、当然ながら教育 プランも含まれる。学生や保護者の注目を喚 起するファクターとして、なによりも教育の 内容のよさとそれによる出口である就職先の
10 大学教員であった者に研究や教学上のリーダーシップに加えて経営上の采配を求めることには、大き
な無理があるように思える。もちろん、その方面の研究に従事してきた人材も皆無とはいえない。し かし、実態は研究や教学上の采配ですら、力量不足によるものでないかと疑われるケースも少くない。
学長の権限強化によって、うまくいく大学と失敗する大学は明確に分かれると思われる。
よさが説得力をもつからである。たとえは悪 いが、教育デザインは企業でいう商品カタロ グに該当する。法人化後大学のブランド化は いっそう進んだと見られるが、それは大学教 育を含めたサーヴィスの向上とそれをどう発 信するかの戦略、言い換えればマーケティン グの手法が大学内にも取り入れられるように なった結果である。
さらに注目されるべきは、 後にデューアル
・サポートとしてとりあげられるようになる運 営交付金と競争資金の
2本立てによる財政サ ポートである。国立大学法人化のねらいは、
少子化による
18歳人口の減少を受けて、多 すぎる国立大学の再編統合にある。官の手で それを推し進めることをせず、自己責任とし て大学自体にその選択を任せたのである。努 力し成果を出したところは生き残れるが、そ うでないものは滅びよというわけである。
「努力し成果を出す」ことは高等教育機関である ことからして、それは「教育」を通して達成 されるものであり、すでに指摘したように、
その「教育の内容」を向上させる施策ないし 方針を決定権は学長に委ねられたのである。
横並びと称された国立大学が個性を出して競 いあう関係がこうして作られたのである。そ してその競争は、各種
GP等によって評価が 定められる。
研究については
COEや科研費等の外部資 金、教育についてはその努力と成果が評価さ れる
GPという具合に、学生数等によって算 出される運営交付金の他に結果が加味される 競争資金が明確に位置づけられたのである。
以上のような評価による資金サポートば かりではなく、すでに指摘した事前規制から 事後チェックの総仕上げとして「認証評価の 義務化」を挙げなければならない。2002 年 に「学校教育法」を改正して導入されたこの 審査制度は、従来の国立大学が内容の審査な しに得ていた資金を評価を入れた資金援助を する仕組みへの転換の基底をなすものであ
る。「援助すれども口は出さず」(support but
no control) から「評価を伴った援助」(support with evaluation)が教育にまだ及んでいるこ とを示している。
見られたように、法人化によって国立大学 は研究と教育の振興を含む大学経営の責任を 担う存在となった。それが功を奏するかどう かは、ひとえに学長のイニシアティブに求め られる仕組みが整えられた。しかもこれまで 実績に関わりなく保障されていた経営資金が こうした「学長のイニシアティブを経由した 成果」を評価することによって差がつくこと になったのである。まさしく学長の責任は重 大である。もし、こうしたことを十分に理解 していない者が学長の地位を占めることにな れば、事態は最悪となる。従来のようにそれ なりにやっていればなんとかなる時代ではな くなっているからである。
こうした文科省の資金援助システムの変化 はどのように準備されたのであろうか。以下 その動きを簡単に概観しておきたい。
3.教育に関する答申の歩みから見え てくるもの
⑴ 事前規制から事後チェックへの転換 1987
年、臨時教育審議会(臨教審)の答 申を受け、「大学審議会」が設置された。こ の後
2001年までの
14年間に、高等教育に 関わる
28の答申が出された。2001 年の省庁 再編により、大学審議会は中央教育審議会に 吸収されたが、これ以後も中央教育審議会か ら矢継ぎ早に答申が出されており、この
20年間の高等教育に関わる答申の数の多さに瞠 目させられる。
戦後およそ
40年の間に我が国高等教育を
取り巻く環境は進学率の飛躍的伸びを契機と
して大転換を遂げたのであり、それに応じて
我が国の高等教育の改善課題が噴出したので
ある。その事情を反映したのが、この答申数 であると考えられる。そのなかで、1991 年 にははやくも「大学教育の質の改善」をテー マとする答申が出されている。この答申は、
課程区分の廃止(いわゆる大学設置基準の大 綱化)と引き替えに大学による「自己点検評 価」 が打ち出された点で、 画期的なものであっ た。それまで文科省によって厳しく統制され ていた大学は、これを嚆矢として規制緩和さ れ、 前規制から事後チェック のプロセス にゆだねられてゆくからである。
この要に位置するのが
2004年から義務化 された認証評価である。2002 年の中央教育 審議会の答申「大学の質の保証に係る新たシ ステムの構築について」においては、大学の 質の保証と向上のための制度改革として、事 前規制から事後チェックへという流れのなか で、設置認可の弾力化と第三者評価の導入が 謳われている。すなわち、多様な評価機関に よる評価によって大学が自ら主体的に改善す ることが期待されている。第三者評価制度の 導入は、国の認証を受けた評価機関が
7年 に
1度評価 し、一定基準に達しているかを チェックするものとされ、閉鎖命令等の強権 的措置を発動するに至る事前の緩やかな措置
(改善勧告等)が導入されている。
この認証評価によって、それまで任意で
あった自己点検評価の基準そのものが外部化 され客観化された点は注目に値する。この評 価基準の外部化こそが認証評価を、これまで の自己点検評価と根本的に分かつ点である。
認証評価機関による評価の基準を通して、大 学は大学にふさわしい教育をおこなっている かが査定される。認証評価は大学教育の資格 証明という機能を果たすことになる
11。それだけではない。認証評価は、大学がそ の生命線である教育をどれだけ自浄作用的に 高度化できるかの試金石となっている。評価 されるからではなく、評価を梃子にどれだけ 教育をよりよいものに改善できるか、が問わ れているからである。従来の自己点検評価で は、悪くいえばお手盛りによるアリバイ証明 的要素が払拭されず、「教育の質」を高める ことにはほとんど役には立たなかったとみら れる。この法整備により、教育の質も点検評 価にさらされ透明化されることになった
12。⑵ 法人化前および以後の教育答申
国立大学が法人化する直前から法人化後の 答申一覧は以下のとおりである。
①
1998(h10)「21世紀の大学像と今後 の改革方針について」
②
2000(h12)「グローバル化時代に求められる高等教育の在り方について」
11 茨城大学も平成22年(2010)の3月に、学位授与機構からの評価書を受理している。ここで改善す べき点として掲げられているのは、次の2点であり、ひかえめな表現ながら、基本的なことがらへの 点検は成就されている。○教育学研究科教科教育専攻のうち6専修においては、「専攻」に準じる形で 教育研究が行われている実態に鑑みて、大学院設置基準の教科に係る「専攻」を「専修」に準用すると、
平成21年5月1日現在における教員配置状況が「教科に係る先行において必要とされる教員数」を下 回っている。○大学院課程の一つの研究科においては、入学定員超過率が高い。
12 国立大学の総合評価と主に教育に対してなされる認証評価とは、その趣旨にも違いがあるのは当然で
ある。しかしながら、この両者の最も大きな差異は、前者が自分で目標を設定して、その達成度も自 分で評価し、そのこと自体が評価されるという仕組みであるのに対し、後者ははじめから基準点がも うけられた客観評価に対する自己評価であることである。前者に関しては、初めから達成しやすい目 標を設定した方が有利であるのではないかとか、そういう自前の点検評価にどんな意味があるのかと いった根本的な疑問が提起されていた。
③
2002(h14)「大学の質の保証に係る新しいシステムの構築について」
④
2005(h17)「我が国の高等教育の将来像」
⑤同「新時代の大学院教育―国際的に魅力 のある大学院教育の構築にむけて」
⑥
2008(h20)「教育振興基本計画についてー『教育立国』の実現に向けて」
⑦同「学士課程教育の構築に向けて」
この中で最も包括的で影響力の大きな答申 としては、2005 年の「我が国の高等教育の 将来像」が挙げられる。この答申以後に出さ れた「新時代の大学院教育」、「教育振興基本 計画について」、「学士教育の構築に向けて」
の三つの答申は、この「我が国の高等教員の 将来像」の中身を具体化して提示したもので あるから、基本線はこの答申にあることは明 白である。言い換えれば、「我が国の高等教 育の将来像」は、国立大学法人にその将来像 のデザインを迫る上で大きなインパクトを 持った。従来、国立大学には創立の経緯や規 模の違いから複雑な格差が存在したが、この 答申はこの格差構造を強化する形で大学によ る選択としての「個性化」を迫っている。こ の間の事情については、天野郁夫による『国 立大学・法人化の行方 自立と格差のはざま で』(2008)に詳しい。そこで、我が国の高 等教育の行く末の集大成的提示であるこの答 申の中身を以下簡単に押さえておきたい。
⑶ 「我が国の高等教育の将来像」の内容
この答申から 窺い知れるのは、なみなみ ならぬ我が国の高等教育に対する危機感であ る。「教育の在り方は、その国の将来の社会
・経済の在り方を左右する重大な問題である」
と当然のことが述べられた後で、「・・全体 として大きな成功を収めてきた」 としつつ
「戦後久しく、我が国においては高等教育、特に その経済的基盤に関する社会全体での議論が
必ずしも活発であったとは言いがたく、国全 体の経済発展と個人所得の動向に支えられて きたとの感をもたざるを得ない」と述べてい る。この文意は不明瞭であり、何が経済発展 と個人所得によって支えられてきたのかがわ からない。高等教育であるはずがないので、
社会の発展を指すのかと思われるが、ここで 問題になっているのは、 高等教育であるので、
いささか混線しており、読み手を惑わせる。
ところが、続けて「この二つの基盤(経済 発展と個人所得)が大きく変調しつつある今 日、 高等教育の量の面でも、 また質の面でも、
より根本的な議論が不可避となっているので ある」とまた議論の必要性に言及されている ので、上述の二つの基盤によってささえられ てきたのは、議論されなくてもなんとかなっ た高等教育なのかと考えこまされる。ともあ れ、この議論の必要性への言及の後で、いき なり「高等教育の危機は社会の危機であり、
これ以上、現在の高等教育が置かれている深 刻な状況を座視し続けることは許されないも のと考える」と結論づけられている。
高等教育の危機として捉えられているもの が何かは答申を細かく読んでいくと、どうや ら、 高等教育が近年の社会変化に対応できず、
十分に高い質を保っているのかという問題で
あることが分かる。「各高等教育機関の個性
・特色の相対化、各機関ごとの人材養成目的の
曖昧化、教育機能軽視の傾向、度重なる規制
改革の中での『大学とは何か』という概念の
希薄化、他の先進諸国に比べて必ずしも十分
とは言えない高等教育の経済的基盤など、む
しろ、我が国の高等教育は危機に瀕している
と言っても過言ではない」との認識が示され
た後、この現状の打破には、大学における教
養教育や大学院の充実、短期高等教育の多様
化、国際化への積極的対応など、我が国の高
等教育を時代の牽引車として社会の負託に十
分こたえるものへと変革していかなければな
らない」とされ、優れた人材の養成と科学技
術の振興が今後の発展の両輪とされている。
この答申の日本語の文章自体かなり問題が あるものであるが、以下要約的にまとめて、
重要な項目を析出すると、 以下のようになる。
*高等教育の危機は社会の危機:社会との
双方向の関係重視
*「高等教育計画の策定と各種規制」の時
代から「将来像の提示と政策誘導」の時 代へ
*高等教育の多様な機能と個性・特色の明
確化―大学の機能別分化
*高等教育の質の保証は国としての基本的
債務
*国際的通用性のある大学教育・大学院教
育の質の向上
*高等教育への支援の拡充
*早急に取り組むべき重点施策:12
の提言
答申の具体的表現からその内容を確認する 作業を省略し、 肝要な中身をトレースすると、
第一に、これまで文科省は、国立大学に対し て新規学卒者の動向を踏まえて細かに規制を かけてそのあり方を誘導してきたが、それを やめ大まかに指針を示すにとどめ、大学の選 択に任せる方針に切り替えたということであ る。言い換えれば政策誘導をしてもそれに従 わないばあいは、その大学に責任をとらせる ということである。
第二に、先に述べた高等教育への危機感を 反映して、「高等教育の質の保証」を重点項 目に掲げていることである。国際的通用性の ある大学教育・大学院教育の質の向上の強調 は、国際的な通用性がないことへのいらだち
が表明されている。第三に、もっとも論議を 呼んだいわゆる大学の機能別分化である。大 学の機能は、七つに分類されており、①世界 的研究・教育拠点、②高度専門職業人養成、
③幅広い職業人養成、④総合的教養教育、⑤ 特定の専門的分野(芸術、体育等)の教育・
研究、⑥地域の生涯学習機会の拠点、⑦社会 貢献機能(地域貢献、産学官連携、国際交流 等)である。各々の大学は、自らの選択に基 づいて 、 これらの機能のすべてではなく、一 部分を保有し、 それらの比重の置き方の違い、
すなわち個性の違いによってゆるやかに機能 分化してゆくことが求められている。①②の 機能に特化して、大学院の博士課程や専門職 大学院課程に重点を置く大学もあれば、④の 機能に特化してリベラル・アーツ・カレッジ 型を目指す大学という例示もわざわざ掲げら れている。ここから読み取れることは、従来 から国立大学にあった格差を前提として、自 らの立ち位置を選択しろと迫っていることで ある
13。そして第四に、自らの選択に依拠して成果 を上げたばあいは、さらにそれが伸ばせるよ うに資金援助をする、ということである。高 等教育機関の多様な機能に応じたきめ細やか なファンディング・システムがそれである。
以上述べてきた事柄の骨格だけを取り出す とどうなるだろうか。繰り返しになるが、文 科省は事前規制から事後チェックという規制 緩和政策へと政策転換をするなかで、教育・
研究に関し、それぞれの大学に自ら目的を掲 げさせその達成度をはかることによって資金 援助を行ってゆく仕組みを作ろうとしている ことである。しかも、同時に教育に関しては
13 「我が国の高等教育の将来像」に示された機能別分化を選択した第2期中期目標が平成22年3月(2010)
に公表された。1の世界的教育・研究の拠点を明示的に選択した総合大学はさほど多くはなく、旧帝 大や医学部を持つ大学が多い。たとえば、旧帝大を別にすれば、1を選択したのは、新潟大学、お茶 の水大学、一橋大学、東京外国語大学、千葉大学、横浜国立大学、広島大学、金沢大学、群馬大学、
秋田大学、熊本大学、茨城大学、弘前大学等であり、多くはない。
より客観的な認証評価をあわせて導入するこ とにより、教育の質の低下を阻止しようとし ている。なぜなら、大学自身の目標設定だけ の評価では、極端な場合全般的な落層が生じ る虞があるからであろう。そのように考えれ ば、この「我が国の高等教育の将来像」の後 にくる答申が、「新時代の大学院教育─国際 的に魅力のある大学院教育の構築にむけて」
(2005)、「教育振興基本計画について─『教
育立国』の実現 に向けて」(2008)、学士課 程教育の構築に向けて」(2008)となってお り、それらにおいて問題のキー概念になって いるのは、 大学院教育と学士教育を問わず
「教育の質の確保」 であることが納得させられる。
そこで強調されているのは、狭い専門分野に とらわれない幅広い教育である。教養教育が 一段と強調されている。それはなぜかと言え ば、研究と教育の可能性を育む基礎教育の充 実こそが不可避がからだと考えられよう。問 題なのは、教養教育がたんに言葉として強調 されても、何にもならないということである だろう。
4.大学教育におけるプログラム・デ ザインの意義
⑴ 「 英語が使える日本人 」 の育成のための 行動計画
「我が国の高等教育の将来像」に先立つ 2003
年に、「 英語が使える日本人 」 の育成 のための行動計画が文科省により策定され た。これまで直接語ることをせず諮問機関の 答申等でその政策を示してきた文科省が、は じめてとも言える英語教育全般に対する見解 と施策を明らかにしたこの行動計画は、中身
の是非は別にしてそのこと自体は大きな意義 を有するものであると評価できる。 ところが、
実際にはこの行動計画は強い反発を巻き起こ し、特に小学教育への英語の導入をめぐって 今もなお熱い議論を呼んでいる
14。この 行動計画において大学に課せられた 課題は何かといえば、専門分野に必要な英語 力や国際社会に活躍する人材等に求められる 英語力であり、「大学を卒業したら仕事で英 語使える」であった。ここから、各大学が仕 事で英語が使える人材を育成するとの観点か ら、達成目標を設定するという課題が導出さ れることになる。もとより、文科省が英語教 育政策を明らかにしたからといって、それが どのように実現されるのかのより具体的施策 を抜きにしては事実上「絵に描いた餅」にな る。ほとんど何もなかったところから、「大 学を卒業したら仕事で英語使える」ようにと 課題設定されても、正直なところ教育現場は とまどいを隠せないだろう。この行動計画に 欠けているのは、現実の大学で行われている 英語教育の現実を見据えていない点である。
いきなり高い目標を掲げて叱咤激励しても、
目標が達成されるわけではない。大学教育の 現状を真摯に観察すれば、そもそも課題設定 以前の状態にあることが分かるであろう。
そうしたことを押さえつつも、ここでは施 策の是非には直接立ち入らずに、大学教育の 質の問題が取り沙汰される根本問題から、大 学教育におけるプログラム・デザインの意義 について以下、整理してみたい。
⑵ 大学教育におけるカリキュラムとシラバス
従来、大学では教育の質の問題は、教員の 自由な研究に基礎をおくものであり、むしろ 型にはめずに自由に研究・教育をすることに
14 参考文献としては以下のものがある。大津由紀雄『日本の英語教育に必要なこと』慶応義塾大学出版
会2006 奥野 久『日本の言語政策と英語教育「英語が使える日本人」は育成されるのか?』三友社出版
2007 大津由紀雄『危機にたつ日本の英語教育』慶応義塾大学出版会2009
よっておのずと育まれるものであるというい わばレッセフェールの原則が是認されてきた とみてよい。いわばエリート教育 では成り 立ってきたこの原則が大学の大衆化につれて 当てはまらなくなり、 学力低下等の問題から、
それですまされるわけにはいかなくなってき た。すでに指摘した文科省の高等教育への危 機感は、ユニバーサル・アクセス時代の高等 教育そのものの変容を背景にしている。むし ろ文科省はそうした高等教育の変化を先取り した有効な施策を打ち出すことができず、矛 盾が覆いがたく露になった段階で事後的に危 機感を募らせているとも言えなくもない。そ うした意味では、今日の高等教育の危機は文 科省の無策が招いた結果とも言える。だが、
だからといって大学にその責任がないとは言 えない。いずれにしても、ユニバーサル段階 に急激に突入した現段階では、それぞれの大 学はどうにかしてその大学独自の個性あふれ る教育を目に見える形で作り出さなければな らなくなったのである。大学教育も一部を除 き、市場原理の波にさらされることになった のである。 好むと好まざるとにかかわらず
「学生から選択される大学」に向けての大学経営 が日程に上っているとみてよい。
では通常大学の教育の中身はどこで判定さ れるのだろうか。一つの指標は有名大学で質 が高いとされるブランド名である。そして次 に来るのが就職率と就職先である。もちろん 前者と後者は分かちがたく結びついており、
もともと質の高い学生が入学してくる大学で は、 その教育の中身も自ずと高いと評価され、
それほどやっきにならずとも入試倍率が減る こともないかもしれない。しかし、大学教育 はそうした外形的なものばかりでなく、中 身で判断されなければならないのも当然であ る。では、大学教育の中身を判断する材料は
何かといえば、それはカリキュラムでありシ ラバスであるだろう。
大学のカリキュラムの体系とその具体化で あるシラバスからしか、大学教育の中身は窺 い知れない。この意味でカリキュラムとシラ バスは、大学教育のマニフエストと言えるの である
15。ところが、自己点検評価の一環として、報 告書やシラバスなどを作ることに情熱が注が れても、大学として、学部として、学科とし て、教員グループとしての教育内容の点検に いたらず、それぞれの大学の教育全体を体系 的に吟味し直そうとする動きは必ずしも醸成 されていない。あいかわらず個々の講義はそ れぞれの教師の自由裁量に任され、極端なば あい、 同一の科目であっても教えられる内容、
評価基準などどれをとっても任意であり、学 生の「獲得される教育効果」という視点は欠 落しているとみられる。ピアグループによる 相互作用を通した「教育の質の保証」という 課題は、今もって課題でありつづけている。
⑶ プログラム・デザインとは何か
大学全体、あるいは学部全体、学科全体の カリキュラムが有機的なつながりをもって構 成されていなければならないのは言うまでも ないが、その下位のレベルに問題を限定し、
一つの教科のカリキュラムの全体を俯瞰し、
それを実施する計画全体をここではプログラ ム・デザインと呼ぶことにする
16。そうすると、当然のことながら大学、学部、学科のど のレベルであろうとも、教科に関係するプロ グラム・デザインがクラスターをなせば、そ れが全体のプログラム・デザインを構成する ことになる。もちろん、それ以前にどのよう な教育をし、そのような人材養成をするかに よって、選択される教科群が異なるのは言う
15 茨城大学シラバス作成の手引きである「シラバスの理解のために」(茨城大学教育担当副学長 村中知
子 2007)を参照。
までもない。そもそもカリキュラムは、必修 科目と選択科目の組合せから構成されてお り、「我が国の高等教育の将来像」で強調さ れているように、いまさらながらにディプロ マ・ポリシーが強調される所以である。全体 のカリキュラムが全体として意味をもつ最小 の単位が教科であり、 その教科のプログラム
・デザインができあがっていないことには、カ リキュラム全体の質を問えないことが問題で あり、そこを解決することがまずもって重要 なのである。
では、それぞれの教科のプログラム・デザ インに最低限度必須な要件は何であろうか。
繰り返し述べてきたように、大学の授業とい えどもそれぞれの教員の自由裁量に任された ままでは困るようになってきた。第一に同じ 社会学や経済学、心理学や英語を学んでも、
それぞれの教科において担当教員の違いに よって、得られた知識、評価方法等すべてが ランダムなままであったらどうなるか。
以下は、第三評価としての認証評価の基準 点の一部である。これまでの内容に近接する 部分である基準点5の「教育内容及び方法」
だけを取り出すと、以下のようになる(大学 院は省略し、学士課程にだけ言及している)。
これをつぶさに見てゆくと、おおまかながら 質の保証にとって何が必要かの手がかりが得 られる。
5−1 教育課程が教育の目的に照らして体
系的に編成されており、その内容、水準、
授与される学位名において適切 であるこ と。
5−1−① 教育の目的や授与される学位に
照らして、 授業科目が適切に配置(例えば、
教養教育及び専門教育のバランス、必修科
目、選択科目等の配当等が考えられる。)
され、教育課程の体系性が確保されている か。
5−1−② 授業の内容が、全体として教育
課程の編成の趣旨に沿ったものになってい るか。
5−1−③ 授業の内容が、全体として教育
の目的を達成するための基礎となる研究活 動を反映したものとなっているか。
5−1−④ 学生の多様なニーズ、学術の発
展動向、社会からの要請等に対応した教育 課程の編成(例えば、他学部の授業科目の 履修、 他大学との単位互換、 インターンシッ プによる単位認定、補充教育の実施、編入 学への配慮、修士(博士課程前期)課程教 育との連携が考えられる。)に配慮してい るか。
5−1−⑤ 単位の実質化への配慮がなされ
ているか。
5−2 教育課程を展開するにふさわしい授
業形態、学習指導法等が整備されているこ と。
5−2−① 教育の目的に照らして、講義、
演習、実験、実習等の授業形態の組合せ・
バランスが適切であり、それぞれの教育内 容に応じた適切な学習指導法の工夫がなさ れているか。(例えば、少人数教育、対話
・討論型授業、フィールド型授業、多様なメ ディアを高度に利用した授業、情報機器の 活用、TA の活用等が考えられる。)
5−2−② 教育課程の編成の趣旨に沿って
適切なシラバスが作成され、活用されてい るか。
5−2−③ 自主学習への配慮、基礎学力不
足の学生への配慮が組織的に行われている か。
16 日本技術者教育認定制度の定義によれは、教育プログラムとは、「ある教育目的・目標を実現するため
のカリキュラムと教育システム(時間割、教育方法、評価方法、教育組織、設備等を含む)とを包括 した概念で、その中には、教育成果の保証も含まれている」
5−3 成績評価や単位認定、卒業認定が適
切であり、有効なものとなっていること。
5−3−① 教育の目的に応じた成績評価基
準や卒業認定基準が組織として策定され、
学生に周知されているか。
5−3−② 成績評価基準や卒業認定基準に
従って、成績評価、単位認定、卒業認定が 適切に実施されているか。
5−3−③ 成績評価等の正確性を担保する
ための措置(例えば、学生からの成績評価 に関する申立て等が考えられる。)が講じ られているか。
以上に答える方法は、少なくとも同じ教科 については、担当教員が、授業内容がカバー する範囲、授業の達成目標(到達度)、成績 評価等に関して最低限の合意していることが 必要である。単に就職に限らず、奨学金や留 学生としての推薦等学業成績が利用される場 合が多いことを考えると、学生からすれば、
努力に見合った結果が正しく公平に評価され ているかは大きな関心事となる。同じ教科を 選択しても、選択した教員による違いが大き ければ、納得できないであろう。もちろん教 科の特殊性や高等教育に保証されている「学 問の自由」等を考慮すれば、授業内容や評価 方法が単に一律であればよいとするわけには いかない。どの程度まで自由裁量に任せるか についても授業担当者によって話合いが行わ れていなければ、不必要なランダム性を排除 できなくなる。
FD
の本来の目的は、板書や情報機器の利 用等の問題に限定されずに、カリキュラムの
体系性に由来する教科それ 自体のプログラ ム・デザインの構築に関わる議論にある。そ のさい、注目されなければならないのは、カ リキュラムにおける教科の積み上げである。
一般的なテーマから特殊なテーマへ、基礎的 知識から高度な知識へという二つの軸は考慮 の必須要件である
17。教養教育であるにも拘わらず、教員 の専門性にのみ強く依存した 授業が従来行われがちであったことを考える と、同じ教科に関わる教員同士が話し合い、
互いの授業を見合って最低限教科の到達目標 についての共通理解の構築するのが本来の趣 旨に沿った
FDといえよう。
以上述べてきた教科ごとのプログラム・デ ザインは、未だに実施されているとはいえな いが、この問題は昨今とみに忙しさを増して いる教員の自発的な行動になかなか期待でき ない。というのも、「はじめに」のところで 述べたように、国立大学で「教育重視」が叫 ばれるようになったのは新しいことであり、
研究中心にやってきた教員は頭で理解してい ても、行動のレベルで何が必要かの視点にな かなか立てず、それにそった実践もできない のが現状である。経営と教学の二つながらの 責任を負うことになった学長を中心として、
大学の教育のグランド・デザインを英知を集 めて描く責任が大学トップには課せられてい ることからして、具体的な行動計画も策定す る責任を有していると言える。現場に任せる だけでは事態は進展しない。
大学教育のプログラム・デザインを描き、
それが実施できるような財政的な裏付けを与 えることが今大学教育にもっとも必要なこと
17 広島大学の生和秀敏教授は、教育プログラムの編成条件として、①プログラムの教育目標を明確にする、
②学士課程を通じた一環プログラムとする、③教養教育と専門教育という区分を撤廃する、④学部・
学科の枠を越え、似通った学問分野の教員が協力する、⑤プログラムに必要な授業科目等と系統的に 配置する、⑥過剰な専門分化を抑制し、履修基準の共通化を図る。⑦学生の評価を踏まえ、定期的 にプログラムの点検・評価を行い、絶えず改善を行う、を挙げ、横軸に一般(general)、専門(specifi c)、
縦軸に基礎(basic)、展開(advanced)により、G1、G2、S1、S2の四つの区分を設けている。
として求められているのである。中央教育審 議会答申に現れている
「教育の質の確保」は、
首尾一貫して大学教育のグランド
・デザイン、
個々のセクションのプログラム・デザイン、
最終的にはそれぞれの教科のプログラム・デ ザインが定められ、 実施されてこそ実現する。
ここに切り込むのはどうしたらよいのか。大 学トップの腕のふるいどころはどこにあるの かについて、以下英語教育の二つの事例をみ てゆくことにしたい。
5.英語教育のプログラム化の二つの 事例
⑴ 茨城大学における「総合英語」の取組み
茨城大学の「総合英語」についての取組は かなり早かったことから 、 注目を集めた
18。最初に、このプログラムについて最低限度の 紹介をし、ついでなぜこのプログラム化が成 功したのかについての分析に紙面を割くこと にしたい。
巻末の資料
1に示されているとおり、茨城 大学の卒業要件は総合英語レベル
3の修了
(4単位必修)であるが、その 過程ですべての 学生に自律段階の使用者(Independent User)
になるよう指導することを大きな目標にして いる。レベル
3以上の学生にはより高度な英 語能力の獲得ができるようレベル
4と
5や
EAP(学術英語)を用意している。以下この
プログラムの特徴と要約すると、以下のよう になる。
総合英語プログラムの特徴
1.レベル1
からレベル5までの習熟度別授 業
2.ヨ ー ロ ッ パ
評 議 会の 共 通 参 照 レ ベ ル
(CEFR)に依拠した各レベルの明確な到達
目標の設定
3.到達目標に到達するための効果的な教材
と少人数教育によるきめ細かい指導
4.学生の自律的学習を支援するe-learningシステム
習熟度別のクラス分け
毎年新入生の英語の熟達度を測定し、その 結果をもとに
5段階のクラス分けを実施して いる。
学習支援プログラム
総合英語プログラムでは、学生が生涯にわ たって必要な時に必要な英語能力を習得でき るように、学習方法の学習も重視している。
学生の学習支援および学生の英語学習への動 機付けの一環として毎年総合英語についての 総合的なガイダンスを実施している。
このプログラムに盛り込まれている理念 は、①到達目標の設定、という実は本来すべ ての授業が明示しなければならない当然のこ
18 茨城大学の「総合英語」についての文献には以下のものがある。福田浩子「茨城大学教養英語教育の
理念と目標─『英語が使える日本人』育成のための行動計画の一環として─」『茨城大学人文学部紀要 コミュニケーション学科論集』第14号2002、永井典子・福田浩子「茨城大学教養英語教育のレベル 別目標設定─COEの共通参照レベルを参考にして─」『茨城大学人文学部紀要コミュニケーション学 科論集』第16号2004 茨城大学大学教育研究開発センター 教養英語教育改革小委員会『教養英語教 育改革─21世紀の大学英語教育を目指して─茨城大学教養英語教育改革プロジェクト報告書』2004 茨城大学・大学教育研究開発センター『総合英語プログラム:全学導入と新たなる挑戦─茨城大学教 養英語教育改革報告書』2006 阿野幸一他「ヨーロッパ言語共通参照枠に基づく英語能力尺度:茨城大 学総合英語プログラムにおけるケーススタディ」『茨城大学人文学部紀要人文コミュニケーション学科 論集』第2号2007