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良雄彦亨規俊 斐井

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中国における「文化大革命」期教育課程の改革(1966−1976)

良雄彦 甲鯨

はじめに

 五十年代末期から,毛沢東唱導の「総筋道」、「大躍進」、「人民公社化」などの急進的な 国家経済政策が,実践中失敗の原因は,彼の党と国家の最高リーダー劉少奇を代表とする

リーダー層の挑戦を受けたことであった。一貫した階級闘争の哲学を信奉する毛沢東は,

ソ連が修正主義になった教訓をくみ取って,「文化大革命」を企図した。その目的は「党内 のごく少数の権力を持つ資本主義道を歩く派」を清洗し,自分の党と国家の絶対的な地位 を強固にすることであった。

 教育政策については,毛沢東は建国以来,特に「教育大革命」教育課程改革時期,「倣ソ」

の「三離れ」を是正のため提出した「教育は必ず無産階級政治と合致させる,必ず生産労 働と合致させる,必ず実際と合致させる」などの「徳、智、体全面発展」の教育思想が,

劉少奇たちにその大衆的教育課程改革運動中の急進的な欠点を把捉し,「調整」等の名目で 貫徹拒否されことに対して,「文化大革命」の基本的な任務の一部として,劉の「資産階級 指揮部」及び教育部門の代理人を打倒し,徹底的に自分の教育思想を実践することであっ

た。

 「文革」初期は,それ以前の教学計画や教学大綱,教科書などすべて廃止し,教学活動 は無計画、無秩序になった。「復課(授業を再開すること)闘革命」期に,毛沢東の「五・

七」指示によって,「精簡」課程、「開門学習Jなどを通して,文系は極「左」政治の社会 政治活動を中心とする「社会が学習の工場(比喩的)」になり,理系は実用的な工農業の「典 型産品」を学習の中心とすることになった。大批判、社会調査、生産労働が過重で,学問 的知識が極端に不足し,教学水準が極度に低下するという問題が出て,戦後中国小・中学 校教育課程改革史上,最も暗い一ページと言われた。

第一章 「文化大革命」教育課程改革の方向と任務

,「文化大革命」教育課程改革の方向と任務  1.『5・16お知らせ』

 1966年5月16日に,中共中央(以下中央)政治局拡大会議は『中国共産党中央委員お知 らせ』(簡称『5・16お知らせ』)を通過させた。この「無産階級文化大革命の綱領」と言 われる『お知らせ』の中に「文化領域と党、政、軍各領域に一部資産階級の代表人物を混 入した」ωと明言し,全党に「無産階級文化革命の旗を揚げ,徹底的にこの一部党と社会主 義を反対する学術権威の資産階級反動立場を暴き出す,徹底的に学術界,教育界,新聞界,

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文芸界,出版界の資産階級反動思想を批判し,これら文化領域のリード権を奪回する」②と 呼び掛けた。また「党、政府、軍隊と各種文化界に混入した資産階級の代表人物は,反革 命の修正主義分子である。一旦時機成熟したら,すぐ政権を奪取し,無産階級専政は資産 階級専政になる。彼等の中に一部が私たちに見破られ,一部がまだ見破られておらず,私 たちに信用されている,私たちの継承人として養成されている。例えばフルシチョフみた いな人物が,私たちの側に寝ている,各級の党委員会は充分に注意しなければならない」(3)

と悟らせた。この『5・16お知らせ』は,全国人民に中央リード層に修正主義の敵対勢力 が存在している錯覚を与え,「文化大革命」(以下「文革」)の嵐は中国全土に吹き荒れた。

 2.『5・7指示』

 1966年5月7日に,毛沢東は中国人民解放軍総後勤部の『軍隊の農副業生産をもっと良 くすることについて報告』を読んだ後,彼自ら選んだ纏承人,国防部長林彪に手紙を書く ことになった。この手紙の中に「学生も同じく,学習を主にして,他のものを兼学し、文 を学ぶのみならず,工や農や軍なども学び,資産階級を批判することに参加する必要もあ る。学制を短縮し,教育に革命を起こし,資産階級知識分子が私たちの学校を統治してい る状況を続けさせない」ωと述べた。5月15日に,中共中央はこの手紙を全国各地に伝達す ると同時に「中央は毛沢東同志が林彪同志に書簡で,極めて重要な歴史意義を持っ文献,

これはマルクス・レーニン主義の新時代を開啓する新発展である」(5)という評語をつけた。

8月1日に,『人民日報』の社説『記念中国人民解放軍誕生39周年』中に,この毛沢東の指 示を公示し,「文革」中教育課程改革を中心とする「教育革命」の方向となった。

 3.「教学改革」

 毛沢東の「5・7指示」によって,1966年8月8日に,中共中央第八回代表大会第十一 回会議上通過した『申国共産党無産階級文化大革命に関する決定』(全文は十六条あるの で,簡称『十六条』)の第十条「教学改革」は,「旧教育制度、旧教育方針と方法を改革す るのは,この無産階級文化大革命の極めて重要な任務である」,「必ず資産階級知識分子は 私たちの学校を統治する状況を改変する」⑥と強調すると同時に,具体的に「学制を短縮す

る,課程(教科)を精簡する,教材を徹底的に改革する(まず繁雑なものを削除,簡単に する)」と「学習を主にし,文を学ぶのみならず,工や農や軍なども学ぶ,随時資産階級に 対する批判という文化革命闘争に参加する必要もある」(ηと文化大革命「教育革命」教育課 程改革の方向と任務を正式に確立した。この「文革」「教学改革」の実際は教育課程の改革 であり,その方向と任務は,前期中国に根ざす教育を探索期教育課程改革の任務と比べる

と,基本的に変わっていない。つまり教育と生産労働,無産階級政治が加わり,実際合計 すると,学制を短縮し,課程(教科)を精簡し,教材を改革することなどである。注目さ れたのは『十六条』が毛沢東の「5・7指示」中に「資産階級知識分子が,私たちの学校 を統治している状況を続けさせない」という厳しい指示に従って,当時教育課程を中心と して中国学校教育体系を全面否定するという意向を表明した。その上で小・中学校教育課 程改革の性質は,本来学術問題であるという現在の階級闘争の一部となった。

4.紅衛兵運動

『5・7指示』と『十六条』は,「文革」の教育課程改革を中心とする「教育革命」の性

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質と敵対矛盾することから,一時紅衛兵運動が起ってきた。毛沢東支持の紅衛兵(小学校 には「紅小兵」である)は,学校の幹部,優秀教師が「黒いグループ」,「資産階級の代表 人物」,「反動学術権威」であるとして批判、迫害,同時に次々と学業を放棄し,社会へ出 て「大胆に考える,大胆に言える,大胆にやる,大胆に造反する革命精神」㈹で,彼等が認 める「封建主義,資産階級,修正主義」の旧思想,旧文化,旧風俗,旧習慣」を暴力的な 手段で大掃討を行った。

 毛沢東は紅衛兵の行動に対して「熱烈な支持」(9)を表示し,「あなたたちの行動は反動派 に対する造反の理由があると証明した」(1°)と褒め,また1966年8月から11月の間に前後8 回北京天安門広場で,「文革」を参観、学習のため全国各地から来た総計1千万紅衛兵と接 見した。小・中学校教師中の造反派と紅衛兵,紅小兵は各自学校のリード権を奪取した後,

全面的に江青女史を代表とする「中央文革組」の「闘争、批判、改造」の政策を遂行し,

この時期の小・中学校教学活動は事実上麻痺状態になった。

二,「文革」以前小・中学校教育課程体系に対する全面的否定  1.中・小学校文系教材の全面廃止

 「文革」が始まり,全国に展開する小・中学校文系教材が封建主義、資本主義、修正主 義の「ごった煮」としてまず批判された。1966年6月中央,国務院は,教育部の『1966−1967 学年度中学校政治、国語、歴史教材について処理意見の伺い報告』に対して,「現在中学校 で使用されている教材は,毛沢東思想が指導の地位になっていないだけでなく,無産階級 政治が突出しておらず,毛主席の階級と階級闘争に関する学説,党の教育方針に叛いてお り,引き続き使用してはならない。教育部は積極的に人員を組織し,党と毛主席の教育工 作に関する指示に従い,中学校各教科の新しい教材を編修すべきだ」(11)と書きつけて返答

した。教育部『伺い報告』の中に,元政治、国語、歴史教材に存在している問題を指摘し たと同時に,「この三教科の教材を印刷発行を中止,中学校歴史科授業を暫く停止,政治科

と国語科を合併,毛主席の著作は基本教材とする,また文化大革命の良い文章と革命作品

を選択し必読とする」(12)などを提出した。

 小学校の文系教材については,中央、国務院はこの「書きつけ返答』の中に「小学校の 国語、歴史教材は問題も多い,教育部は新しい教材の編修と審査を行うべきである。現在 は歴史科授業を暫く停止,国語教材はもう一度審査の必要があり,その中の悪い内容を除 去して暫く使用する。高小,初小にかかわらず,必ず毛主席著作を勉強する。初小各年級

は毛主席の語録で,高小は『老三篇』(毛沢東の『人民のために奉仕する』、『紀念バキュウ オン』、『愚公移山』三篇著作)は,他の児童思想政治と国語水準上匹敵する文章である」(13)

と規定した。

 この『書きつけ返答』は,中央、国務院が「文革」以前小・中学校の政治、国語、歴史 科教材を全面廃止し,小・中学校歴史科を暫く停止して,この三教科教育を全面的に否認 する態度を明らかにした。また中学校政治科と国語科を合併,毛主席著作は小・中学校文 系の基本教材になるなどの措置で,「文化大革命」の政治闘争の需要により,児童生徒の政 治思想教育を強化する意向を明らかにした。中央,国務院の意見によって,各地の小・中 学校は次々と元政治,国語,歴史など教科の教材を批判してから廃止し,毛沢東の著作と 極「左」文章が小・中学校の文系学習教材になった。小・中学校の文系知識体系は徹底的

に打ち破られ,児童生徒の思想を混乱させた。

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 2.建国17年教育工作の全面否定

 1967年になると小・中学校文系教材に対する批判は,「文革」政治闘争の勢いで,建国以 来17年教育課程改革を中心とした小・中学校教育工作の全面的否定まで広がり,7月18日

に,『人民日報2の社説『打倒修正主義教育筋道の総座長』の中に,建国17年の教育工作に 対する「封建主義、資本主義、修正主義教育の廃物である」(14)と評価した。小・中学校教 育課程改革について,具体的な例として,1963年中共中央,国務院が制定した全日制小・

中学校の二つの暫行工作条例は「智育第一」、「技術至上」の思想を集中して具現し,「資本 家の経営する学店の再版と発展」㈹,重点学校は「資本主義を盛り返すのために,使いや すい精神貴族を養成する」㈹としている。要するに,建国以来教育工作が遂行した教育筋 道は「反革命修正主義教育筋道」,「党内最大の権力を持つ資本主義道を歩く派(劉少奇)

はこの反革命修正主義筋道を遂行する総座長」(17)である。

 1971年4月15日から7月31日まで全国教育工作会議は北京で開催され,会議上通過した

『全国教育工作会議紀要』(以下『紀要』)の中に「二つの評価」があり,即ち建国後の17 年に「毛沢東の無産階級教育筋道が基本的に貫徹,実行されておらず」㈹,大多数教師の

「世界観は基本的に資産階級である」(19)と述べている。同時に『紀要』は「全民教育」、「天

才教育」、「智育第一」、「洋奴哲学」、「知識私有」、「個人奮闘」、「学習無用」などが,17年

中「資産階級は学校を統治する精神である」と断言,8月に中共中央はこの『紀要』を認 め,全国各地に伝達した。『紀要』は「文革」以前,前述したように教育課程改革を中心と した小・中学校教育工作を正式に全面否定し,幅広い教育理論研究者,教師に過重な精神 圧迫と束縛を与えた。

第二章 「復課闘革命」の新しい教育課程「改革と実践」

s「復課闘革命」初期小・中学校教育課程

 1966年夏からの全国的な「文革大串連」(省市を越え,交通,食泊費無料で交流すること)

は,小・中学校の教学活動を完全に停止した。1967年2月に中共中央は『小学校無産階級 文化大革命に関するお知らせ』(以下『お知らせ』),『中学校無産階級文化大革命に関する 意見』(以下『意見』)を公示し,児童生徒に「大串連」を停止し,復課闘革命という要求

を提出した。『人民日報』はこの『お知らせ』と『意見』の精神により,3月7日の社説『小・

中学校復課闘革命』の中に「復課闘革命の意味は,毛沢東思想の授業を再開することであ り,無産階級文化大革命の授業をすることである。」㈹と述べている。しかし,当時社会情 勢は無政府主義思潮が氾濫,同属している造反派,紅衛兵のお互いに激しい派別闘争を起

こし,一時授業を再開することが難航した。10月に中共中央,国務院,中央文革の連名で

『小・中・大学復課闘革命に関するお知らせ』を発表し,全国各地各級学校に度々授業を 再開することを呼び掛け,「教学しながら改革を行い,一歩一歩と教育制度と教育内容の改 革案を提出する」(21}と強調した。それから各地の学校は続々と「復課」が始まったが進展

は遅かった。

 「復課」した小・学校教育課程は,「文革」前教学計画や教学大綱,教科書などがすべて 否定されたことが原因で,一連の中共中央『お知らせ』,『意見』,『人民日報』社説の中に 規定された教育内容に従い,以下の具体的な構成で実施された。

(5)

 小学校:

   第一、二,三学年は毛主席語録を学習し,識字を兼学すること。革命歌曲を学唱す   ること、少し算術と科学常識を学習すること

   第五、六学年、66年卒業生(22)は無産階級文化大革命と合わせて毛主席語録、「老三

  篇」、三大紀律八項注意(23)、「十六条」(24)を学習すること。革命歌曲を学唱すること;

  少し算術、科学常識を学習すること(25}

 中学校

   初・高中,学年区別の区別なく,無産階級文化大革命と合わせて毛主席著作と語録,

  無産階級文化大革命中央の文書を学習し,文革前の資産階級教材と教育制度を批判し,

  少し数学、物理、外国語と必要な常識を学習すること。㈹

 以上小・中学校教育課程構成によると,「復課闘革命」初期の教育課程の改革は,1966年 6月に教育部提出,中央,国務院で批准された小・中学校文系教材を全面廃止の上,「文革」

以前確立した小・中学校教育課程体系を全面否認まで広げた。ここから中国小・中学校教 育は,極「左」政治主導の無教学計画,無教学大綱,無教科書の混乱時代となった。それ は課程の知識体系を壊すことは必定で,学力低下の結果を招き,社会発展,特に経済建設 に大きな危害を与えると考えられる。

二,「精簡課程」(教科)

 毛沢東は1964年「春節懇談会」上提出した「課程は半分切り捨て」(27)の意見により,同 年7月教育部は小・初中学校教科の授業を各学年に集中配分し,授業時数を減少させるこ

とを中心にする「精簡課程」を行ったが,根本的に小・中学校の課程が多く,児童生徒の 負担が重過ぎ,問題を解決することができなかった。毛沢東の「5・7指示」と中共中央 文化大革命「十六条」の第十条「教学改革」の中に,度々「精簡課程」は,「文革」教育課 程改革任務として強調した。当時の「精簡課程」は,基本的に各地の各校の自主決定が全 国的に意義ある典型的な改革案であり,吉林省梨樹県革命委員会制定の『農村小・中学校 教育大綱』検討案と上海市革命委員会制定の『上海市小・中学校教育革命綱要案』がその 典型である。この二つ教学改革案が中国農村,都会小・中学校教育課程改革の代表作とし て,極「左」政治の要求により,「文革」前の教育課程に対抗した教科合併の方法で,徹底 した「精簡課程」の考えを強調した。

 1.『農村小・中学校教育革命大綱』検討案

 1969年5月12日,『人民日報』第1面に吉林省梨樹県革命委員会制定の『農村小・中学校 教育大綱』(以下『梨樹教育大綱案』)検討案が公示された。この検討案の第六章「教育工 作」の中に農村小・中学校教育課程設置について,以下の五課程の設立を明らかにした。

 小学校

  政治国語科、算術科、革命文芸科、軍事体育科、労働科  中学校(初・高中)

  毛沢東思想教育科(中国近代史、中国現代史、党内二つ筋道闘争史を含む)

  農業基礎科(数学、物理、化学、経済地理を含む)

  革命文芸科(国語を含む)

  軍事体育科(毛沢東の人民戦争思想を学習する,戦備観念教育と軍事体育活動の展開

(6)

      を含む)

  労 働 科(中学校課程設置について,あと一つの意見は毛沢東思想教育科、農業常       識科、数学科、物理科、化学科、国語科、革命文芸科と軍事体育科)

 授業時数配分上,各教科の各学年,週授業時数は,はっきり規定されていないが,課程 の総時数の中に文化基礎学習の時数は小学校70%以上,中学 校(初・高中)60%位を占

めることを明確化した。(28)

 2.『上海市小・中学校教育革命綱要案』

 1969年6月18日上海市革命委員会は,『上海市小・中学校教育革命綱要案』(以下『上海 教育綱要案』)を公示した。『上海教育綱要案』の制定は農村の『梨樹教育大綱案』と対応

し,都会小・中学校教育革命典範を用意したものである。その綱要案の第七部分「課程と 教材」の中に,小・中学校は各七課程(教科)を設置した。

 小学校

  毛沢東思想教育科、国語科、算術科(珠算を含む)

  革命文芸科(あと一つの意見は唱歌と図画を分設する)

  軍事体育科、科学常識科、外国語科(最後二つ教科は第四学年から増設する)

 中学校

  毛沢東思想教育科(中国近代史、党内二つ筋道闘争史、社会発展史と地理知識含む)

  国  語  科(文法、ロジックを含む)

  数学科,革命文芸科(あと一つの意見は音楽と図画を分設する)

  工農業基礎知識科(あと一つの意見は物理、化学を分設する)

  外国語科,軍事体育科㈹。

 『梨樹教育大綱案』と同様,『上海教育綱要案』は各教科,各学年,週授業時数などが提 示されなかったが,ただ文化知識類科目の授業時数が課程の全体比率の,小・中学校それ ぞれ75%(3°)と65%(31)を占めると規定した。この比率は『梨樹教育大綱案』より小・中学校 共に5%を増加し,当時中国農村と都会の小・中学校教育課程設置上文化知識類教科の比 率の違いが分かる。

 この二つ「文革」農村、都市「教育革命」大綱(綱要)の中に設置された小・中学校教 育課程から見れば,前期1963年7月に教育部公示『全日制小・中学校教学計画案』の中に 規定された課程及び時数比率に対する「精簡」が,主に「教科合併」と「切り捨て」とい

う方法で行われた。つまり「文革」極「左」政治の要求により,教科と時数減少の目的を 達成するため,元小・中学校の教科を合併することであった。1963年7月教育部『全日制 小・中学校教学計画案』の中に,小学校週会、国語、数学、歴史、地理、自然、生産常(知)

識、体育、音楽、図画、手工など11教科,中学校(初・高中)政治、国語、外国語、数学、

物理、化学、生物、歴史、地理、生産常(知)識、体育、音楽、図画など13教科(高校に 選択科があるが,各校決定で統計に入れていない)あったが,両「教育革命」大綱(綱要)

案にそれぞれ合併された小・中学校教科は5教科と7教科になった。

 それと同時に,一部必要性のある教科と教科中関連のある知識内容を切り捨てた。小学 校の歴史,地理,自然(『上海教育綱要案』自然科の一部は科学常識科に含む)三教科を切 り捨てた。中学校(初・高中)の歴史科は「毛沢東思想教育科」に合併されたが,歴史知 識に関する教育内容は中国近代史,党内二つ筋道闘争史,社会発展史の内容しかなく,「文

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革」前の中国古代史,世界史などが全て切り捨てられた。『梨樹教育大綱案』は,国語科が

「革命文芸科」に合併されたが,国語教育は単一的な文学作品学習になって,元国語科中 の文法、ロジック、応用文、論説文、古文なども切り捨てた。

 授業時数の比率について,『梨樹教育大綱案sと『上海教育綱要案』は文化基礎学習時数 が課程全体比率の中で,小学校それぞれ70%,75%,中学校は60%,65%を占めるが,1963 年7月教育部『全日制小・中学校教学計画案』の中に規定された小学校78%(総時数6620,

その中に文化基礎学習時数5181),中学校83%(総時数選択科を含む6819,その中に文化基 礎学習時数5678)より,それぞれ8%,3%と23%,18%に減少した。

 この「課程精簡」の考え方は,表面的上見れば「文革」極「左」政治を突出し,教科半 分ぐらい,文化基礎学習時数(特に中学校の方)も減少たが,当時中国小・中学校教育課 程改革に以下の問題が惹起した。

 (1)教学計画を破壊したが,新しい教学計画を確立することができなかったこと   梨樹県と上海市二つ「教育革命」大綱(綱要)案は小・中学校教育課程の編成上,一  方的に「文革」極「左」政治要求を反映し,国家経済建設,知識学問と児童生徒身心的  素質の養成をゆるかせにしたので,それら教科設置,文化基礎学習比率などが,本格的  な教学計画と言えず,特定時期の崎形改革案である。

 ②知識体系を破壊したが,新しい科学的な知識体系を形成することができなかったこ

 と

  例えば中学校の物理,化学,生物三教科は,「農業基礎」科(『梨樹教育大綱案),「工  農業基礎科」(『上海教育綱要案』)に合併した後,前教科中の一部基礎理論,実験を除去  したが,新教科の「知識構造」は混雑,順序を飛び越え,系統化することができなかっ  た。その教科により展開された教学活動は,児童生徒の学習したものは断片的な知識で,

 基礎教育としての小・中学校教育の特性に相反することになった。

 (3)児童生徒の認知構造,教師の指導能力

  合併した新教科は,教育課程理論上から言えば「総合的」な課程になったが,その「総  合」はただ断片的な知識をかき集めたもので,知識類別を統合する系統性が明らかでは  なく,児童生徒の認知構造,教師の指導能力とに齪齪}をきたし,教学活動の展開は難し

 くなった。

三,「開門学習」

 「精簡課程」の教科合併と合わせ,「開門学習」という教育内容と方法の改革も行った。

実際,この改革は1958年「教育大革命」期流行していた工場、農村、軍営への現場授業,

工員、農民、兵士などを呼び,学校の授業を担当するなど教育方法改革の続けた。しかし

「文革」の「開門学習」は,教育方法の改革ではなく,極「左」政治の社会活動を中心に する「文革」教育内容の改革と直結することであった。要するに小・中学校の文,理教科 教育の特徴を「社会は工場で行う」,「工農業典型産品は教学中心とする」という側面に重 点を置いたのである。

 1.「社会は工場で行う」

 この比喩的な文系教育内容、方法の改革は,階級闘争を学校教育の「綱」にし,「文革戦 闘任務」と合わせて教学活動を組織し,児童生徒思想を変更させることである。

(8)

 1971年6月に,『人民日報』は北京大学に駐在している工員,解放軍毛沢東思想宣伝隊の

『文系は社会の全体を自己の工場とする』という文章を発表した。この文章は大学文系教 育革命方向は「社会は工場で行う」㈹,「封建主義,資産階級,修正主義に対する批判を首 位に置き,闘争の中にマルクス・レーニン,毛沢東思想を使うことを学習する」㈹を建議 した。1973年6月に,国務院科教組(「文革」以前の教育部にあたる)開催の「文系教育革 命懇談会」は,という風に,実際と合わせて,林彪の「極右実質」(3 )を批判することを重 点研究の上,正式に文系教育は「社会は工場で行う」という教育革命の指導思想を提出し

た。

 この大学文系教育革命の指導思想は,実際上小・中学校文系教育の指導になった。1974 年に全国的な「批林批孔」㈹運動中,中央政治局委員,文教改革の直接指導者江青女史は 全国の小・中学校に「中学校,果ては小学校まで批林批孔をしっかり掴み,典型を掴む,

「点(典型)」で「面(全体)」を働かす,…子供から少しずつマルクス主義を教え,大胆 に孔老二(36)を批判する」(37)という指示を伝達した。この指示により,各地の小・中学校は 次々と「理論学習クラス」を成立し,文系すべての教科の学習(教育)内容は「論語」、「三 字経」、「千字文」、「女児経」などを批判することになり,またその時期文系教科教学活動 の基本形式として,児童生徒は学校を出て社会へ,工員、農民、兵士と一一vaに「孔老二」㈹

の批判活動を展開した。その上で,各地は一部小・中学校をこの教育内容と方法改革の「典 型経験」として,本地区学校に推広した。「批林批孔」の後,共産党内部極「左」勢力より 起こした古典文学名著『水濡』㈹,「右傾風」㈹に対する批判などの政治運動中,小・中学 校の文系教育をめぐって,一連の「開門学習」活動を行った。

 2.「典型産品は教学中心とする」

 この「文革」小6中学校の理系教科教育内容、方法の改革は,実用的に工農業生産中に,

良く使う機械、農・畜産品などを教学内容の中心にし,労働実践を通して学習することで

ある。

 1974年8月に,中共中央政治局常委張春橋は農村にいる知識青年(41)から農業生産に関す る専門的な函受教育を大歓迎し,手紙の上で講評した。「教育管理部門の責任者たちに一つ の問題を考えさせたい,私たち中学校の教学は何故そのような不足した門類(生産知識の こと)を函受教育に解決させ,何故学校でこの技術能力の学習をすることができないのか。

研究の必要がある。」(42)。国務院科教組はこの教育課程改革の新方針として,全国各地各校 に伝達し,各地の小・中学校は教師,生徒を動員し,「大字報」,批判会の形で,教育領域 にまだ存在している「三離れ」現象,修正主義教育筋道などの大批判を行い,『光明日 報』,『文ひ報』など主要文教新聞はこの改革の課題をめぐって,闘争的な厳しい討論も展

開された。

 その批判活動と同時に,各地の小・中学校(特に中学校)は,教科合併された後,総合 的な教科「工業基礎基礎知識」,「農業基礎知識」の中に残っている僅かの数学,物理,化 学,生物などの知識を捨て,実用主義の立場で自発的に工場,農村の生産現場へ生産知識,

経験を持つ短期間教師となる工員,農民の授業を受け,生産労働実践に参加しながら,工 農業生産に関するもの,例えば電工、識図、製図、農村機械、農田測量、水利測量、農村 会計、化学肥料、農薬、農作物などの教育内容を増加した。基礎知識教育として普通教育 は,事実上専門的なものを学習することになった。当時全国小・中学校理系(工農業基礎

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知識科)「開門学習」教育内容の中心は,普通に採用されたのは工農(畜を含む)業生産の 典型産品「三機一ポンプ」(ガソリン・エンジン、ディーゼル・エンジン、トラクター、水 圧ポンプ)と米、麦、棉、豚であった。

 「開門学習」の中の文系「社会は工場で行う」は,階級闘争の観点に基づいて,児童生 徒に極「左」政治思想を教えこみ,結果として前文系教育の知識体系を根本的に破壊し,

児童生徒の世界観の形成に不利な要因を残した。同様,理系の「典型産品は教学中心とす る」は,教育内容を選択する時に基礎知識教育と工農業生産需要の関係について,実用的 に基礎知識教育を否定し,工農業生産の典型産品は教学の中心になり,数理化生内面的な 知識体系は完備的に具現できず,児童生徒の学習した知識と技能はすべて断片的なもので,

科学的,合理的な知識構造になっていない。また教学方法上,学校教学の基本形式を変更 させ,大衆的な社会運動の形が教学活動の主流となり,改革は反教育科学の岐路に立つこ

とになった。

四,教材改革

 1967年2月に中央は全国に「復課闘革命」を呼び掛けた後,「文革」以前の小・中学校教 材全面否定し,前全国小・中学校統一教材を編修出版の担当機構人民教育出版社も解散さ れた。1968年に各地は次々と小・中学校教材編修組を構成し,合併,更新された教科,教 育内容によって,新しい教材を編修することになった。1969年に北京,上海など地区編修 の小・中学校暫定教材は正式に発行,まだできてない地区はすぐこの教材を採用し,1978 年人民教育出版社は全国統一教材を編修再開まで,この情況はずっと続けていた。当時北 京,上海などで編修した教材は「左」傾思想の影響を受け入れ,問題が多く,概して以下 の問題が生じた。

 1.極「左」思想が全国に溢れたこと

 この時期編修した教材,特に文系教材は,「政治内容は知識体系を指導する」のスローガ ンの下,「四人組」(共産党内極「左」勢力の代表人物王洪文,江青,張春橋,挑文元)の

「左」傾思想内容が全国に溢れた。当時多くの地区の小・中学校は,一時政治、国語、歴 史三教科が合併された毛沢東思想教育科は,毛沢東著作を主要な教材としたが,毛の著作

に対する解説は,すべて「四人組」の理解に従って編修したものである。(一部教科は合併 したが,内容は統合されてない,教材は別々にしている)例えば華東地方一部小学校高年 級の『政治』、中学校(初、高中共通)の『社会発展史』、『哲学常識』、『政治経済学常識』

などの教材の中に,毛沢東の社会主義革命の性質,主要矛盾,主要対象,主要危害及び反 修防修(修正主義を反対,防止する),資産階級法権を制限,無産階級専政を強固するなど の理論についての説明は,基本的に「四人組」の文章を引用していた。各地の小・中学校

『国語』教材中に,普遍的に江青指導下の京劇「様板劇」(模範見本劇)の脚本を取り入 れ,江青の「三突出」㈹の文芸創作原則を児童生徒に学習をさせた。『歴史』教材は当時の 政治大批判形勢と合わせて,中国史は単純な「農民戦争史」、「儒家と法家の闘争史」とな

った。

2.教科の知識体系が混迷したこと

この時期編修した教材,特に理科教材は,教科合併による合併の手段とした。その教材

(10)

合併は,「開門学習」と合致するように,実用主義の立場で簡単に教科を越え,工農業生産 の「典型産品」を教材編修の筋にしたものであって,小・中学校知識の学科体系を乱し,

基礎知識の系統性と整合性を破壊し,学科間の内面的な知識は,相互の合理的の横断統合 ができず,児童生徒の認知構造と教師の指導能力も噛み合わなかった。例えば数学、物理 と化学の一部内容は『工基』になり,電工、化工など分類にした。生物と物理、化学の一 部内容は「農基』になり,「三機一ポンプ」、「三大農作物と豚」などに分類にした。

 3.基礎知識,基本技能の内容を精簡し過ぎたこと

 この時期編修した教材は,『十六条』の教材を徹底的に改革したことについて「まず繁雑 を除き,簡単にする」㈹の要求に従って,「文革」以前の小・中学校教材の知識構造に対し て,大幅な「精簡」を行った。その「精簡」は一方的に政治運動,工農業生産の需要を強 調し,学問体系として基礎知識,基本技能の養成をゆるがせにし,必要性のある知識が「精 簡」されたで,児童生徒の学力不足,教学質的な内容が急激に低下する結果を招いた。例 えば各地小学校国語教材の識字教育は,漢字の構造特徴を突出させず,字詞の出る順番が 平易から深くではなく,前教材中の漢語頻音頻讃,正音,辮形などが削減された。中学校 の数学教材は,元全国統一教材中の390(45)位公理,定義,定理は80(46)位しか残っていない。

頻度性のある知識も削減された。一部地方で1971年以前編修した『工業基礎知識化学部分』

は,基礎知識は化工生産の系統に入れ,基礎知識は生産内容より減少させ,1974−1976の 化学教材は農業生産の内容が増加し,基礎理論,生産実践の基本技能教育ができなくなっ

た。

 4.児童生徒の認知能力と教師の指導能力不足

 この時期編修した教材は,多くの知識内容が児童生徒の認知能力とかけ離れ,例えば小・

中学校政治,国語科教材の中に,マルクスー毛沢東の著作,政治性のある文章が多く,難 しい字句,理論などに対して,児童生徒は理解できず,工業基礎知識,農業基礎知識科の 中の「典型産品」の教育内容は,一般教師にはその知識を教員養成時に学習したことがな

く,勿論指導もできず,教学活動の展開が正常に行われなかった。

五,学制改革

 建国以来,中国の小・中学校の学制は何度か変化したが,決定されず,つまり学制を短 縮することができなかった。『十六条』は毛沢東の「5・7指示」に従って,「学制を短縮 する」が「文革」教育課程に関する改革の一つの重要な任務として提出された。各地は,

この改革は融通性のない規定として,様々な改革を行い,一時多種学制が成立した。概し て言えば附表の通りである。

 改革後の小・中学校学制は,一般的に「文革」前の12年制より2−3年間を短縮し,特 に小学校は基本的に5年制を実施したが,当時非正常状態下で行った改革のため,学制改 革に合わせた教科、内容、教科書などの調整が不可能であった。児童生徒の知識は本来不 足しており,また学習時間も2−3年分減少し,教育の質的な内容は急激に低下するとい

う局面が出てきた。同時,60年代末期と70年代の初期,中国は都会の労働力が過剰,生徒 は「高中」卒業した後,進学(当時大学の入学はすべて社会からの推薦制である)と就職 は両方できず,毛沢東の「知識青年は農村へ,貧下中農の再教育を受ける必要がある」と

(11)

の呼び掛けにより,極度低下の知識と技能能力を持って,農村僻地で農業の仕事をするし かなかった。要するに「文革」の学制改革は,小・中学校教育の質的な内容の向上,社会 経済建設と児童生徒の個人の成長に有利な効果が見られず失敗であった。

第三章 「文革」極「左」的な教育課程改革についての反省と現場教師の探索実践

,「極「左」教育課程改革の危害

 「文革」期の極「左」的な教育課程改革は,小・中学校教育事業に大きな災難を及ぼし た。その危害と言えば,主に次の通りである。

 1.極「左」教育内容の害毒

 当時学校教育内容がすべて極「左」思想の支配下で編成されたもので,社会主義本来の 政治思想教育の科学性をなくしていた。「階級闘争を学校教育の綱にする」、「四大武器(大 鳴,大放,大辮論,大字報)を唱導する」、「資産階級を批判する」などは児童生徒の世界 観の形成に良くない影響を与え,児童生徒は「四人組」の極「左」政治に利用され,社会 不安定の原因になった。同時に「開門学習」の「社会は工場でおこなう」、「工農業典型産 品は教学中心とする」などの文,理系教育内容の転換は,必要な基礎知識,技能学習が達 成されず,事実上児童生徒が学業を廃棄することになり,学問的知識の不足と教育水準の 極度の低下を招き,社会主義経済,文化建設を促進することができなくなった。

 2.世界における教育課程改革の主流との乖離

 中国の「文革」と同時期に,世界は科学技術発展の大飛躍で知識爆発と情報化社会にな っていた。そのため欧米、日本など工業先進国は,1950年代末期と1960年代初期に,米ソ 両国対立時確立した科学教育課程体系の上で,教育内容の現代化に即応し,教育課程改革 の核となる根本的な実質を掴むことができた。そのため旧知識構造を整理し,現代化に副 った知識内容を導入しながら,新しい理念、視点として,教育課程編成は以前の社会,学 問,児童の三つのポイントの中に,客観的な社会の要求に基づいた学問を中心に,児童生 徒の個性を尊重し,個性化、多様化した教育課程編成となった。それは民主主義教育の性 質を徹底的に明らかにし,人間の素質の向上と社会経済発展に大きな役割を果たすことが

できた。

 中国は,遅れた教育課程に関する研究(当時は「教学論」と言う)は,「文革」大混乱が 原因で,世界先進国とのレベル差は大きくなった。そのレベル差の最大の問題は,教育課 程編成の基本原理として社会、学問、児童から編成するのではなく,一方的に極「左」政 治需要を強調し,社会経済発展の要求,学科知識体系の完整性,児童生徒の正しい道徳資 質の養成などをすべて無視していた。それと同時に,旧ソ連教育経験模倣期教育課程改革 中の教育内容の現代化のための改革視点は,工農業生産の実用技術を増加することに読み 替えられ,「文革」の10年間そして前期、中国に根ざす教育を探索期(1958−1965)の8年 間と合わせて,小・中学校の教学計画,教学大綱,教科書などがめまぐるしく改訂された が,新しい科学技術を具現する知識は,小・中学校の教育内容の中に入れることはなかっ た。当時中国の小・中学校教育の内容は,世界先進国より20年間ぐらい遅れ,世界教育課 程改革の主流と乖離することになった。

(12)

二,現場教師の探索実践

 「文革」の極めて険悪な政治環境下,一部小・中学校の現場教師(特に小学校教師)は 依然として前の教育課程について改革探索実践を改めず,可能な範囲内で一連の改革活動 を展開した。当時全国的に影響があった教学探索実践活動は,小学校算術教育の内「三算 結合」と「漢語音基本式教学」試験であった。

 1.「三算結合」

 小学算術教育の内,口算、珠算、筆算など「三算結合」の教学試験は,低年齢児童には 経験が少なく,抽象的な思維の能力も低いという特徴によって,数,式の概念学習時に,

算盤と図形などの直観的なものを借りて,問題に対応する理解、分析,解決の能力を養成 することであった。この教学内容と方法の改革は算術教育の中の内面的な関連を掴み,重 復する内容を精簡し,筆算と珠算を合併し,教科数も合理的に減少させた。この試験は1969 年に上海市崇明県新川公社「五・七」三校,天津市河西市上海道小学校などの小学校から 初め,その後数年の間に北京,広西,江,福建,山西など地方の一部小学校まで広げた。

 2.「漢語耕音基本教学方式」

 小学校国語教育の中「漢語排音基本教学方式」試験は,小学校漢語音教育の中にもとも と一緒になっていた基本内容と写規則の教学は,現在二段階に分け,第一学年に音の基本 内容を教え,第二学年に写規則を学習することである。この試験は過去低年級国語教育の

「識字教育」を重点にすることは束縛することになると解放され,低年生は識字を減少す ことになり,漢語音で読む,書くことができなくなり,当時小学校国語教育,特に教材の 改革にある程度の経験を提供した。1973年から1975年まで,全国20ぐらいの省,市自治区 はこの教学試験を一部小学校で行い,河南,江両省は全省範囲に拡大し,1974年12月に,

中国文字改革委員会は河南省開封市,江蘇省蘇州市,山西省太原市でそれぞれ懇談会が開 かれ,各地「漢語音基本教学方式」の試験経験を交流した。

おわりに

 「文革」極「左」混乱的な教育課程の改革は,中国教育事業、国家経済文化建設に大き な危害を与えた。その結果により,これから小・中学校教育課程改革の任務は,その混乱 した学制,教科,教育内容などを回復,更新し,早く先進国の教育現代化の方向に向け,

自国教育現代化することで,中央政府と教育界は新しい改革を行う計画を実施に移した。

 注釈

(1)一(3)中共中央『5.16お知らせ』『人民日報』1966年5月17日 第一面

(4)一(5) 『中国人民解放軍誕生39周年を記念する』(『人民日報社説』)同上 1966年8月1日 第

  一面

(6)一(7)中共中央『十六条』同上 1966年8月9日

(8)一(9)呂型偉主編『上海普通教育史』(1949−1989)上海教育出版社 1994年 352頁 ao)一(10 中国教育事典編修委員会編「中国教育事典』河北教育出版社 310頁

(12)同上 311頁

(13)

03)一(15) 「人民日報』1967年第7月18日 第一面 a6)一(17)前掲『上海普通教育史』366頁

OS)一(19)前掲『中国教育事典』149頁

(20)1966年「文革」で,小・中学校卒業生卒業ことができなかった。

⑳ 同注as)

⑫2)前掲「中国教育事典』148頁

㈱ 『人民日報』1969年5月12日 第一面

(20 前掲『上海普通教育史』612頁

㈲ 同注㈱

㈱ 同注(24

(27)一(29)前掲『上海普通教育史』(1949−1989)387頁

(30)一(39)同上 388−389頁

⑩ 江青文学芸術創造方法,つまり正面人物と反面人物中に正面人物を突出する,正面人物と英雄   人物の中に英雄人物を突出する,英雄人物の中に主要英雄人物を突出することである。

(4D 同注⑥

(42)一(43)前掲『上海普通教育史』(1949−2989)39頁

(44 前掲『中国教育事典』150頁

(45)一㈲ 「中国教育事典』224頁

附表 各地学制実施状況一覧

学制類型 小学校 初中 高中 実行の省,市,自治教区

9年制 5 2 2

14

6 3(分段なし)

1(西蔵)

5

3 2 7

10年制 6 4

9年一貫制 分段なし 部農村学校

10年一貫制 分段なし 部都会学校

8年制 5 3

1(西蔵)

1.西蔵自治区は,9年制と8年制並存

2.この表は1973年9月11日の国務院科教組の内部雑誌上の当時小・中学校学制状 況の統計を基に作成

3.省,市,自治区数空欄は,学制実行不全のため

参照

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