新京,奉天,恰爾浜3市の都市計画の特性
山 崎 桂 一
1. ま え が き
満洲国が1932年(昭和7年)3月1日に建国され,3月10日に国都が長春に定められ,
新京と改称されて直ちに国都建設計画の策定に着手され,翌33年1月に建設計画が決定さ れた。奉天においても建国と同時に都市計画の立案が進められ,33年7月計画の大綱が決 定され,ロ合爾浜(以下ハルビンと記す)では少し遅れて33年7月都市計画の立案に着手せ られ,34年4月綱要計画が決定せられた。都市計画事業に関しては,3市とも第ユ期,第 2期およびそれ以後にわたり事業計画を立てて1945年の終戦時まで施行し,市の発展に応 じ道路,上水道,下水道,河川改修,公園等諸施設を整備した。新京,奉天,ハルビンの 3市は満洲の重要都市であり,その都市計画と建設の実施は,都邑計画法(「都市計画法」の 満洲での名称)指定のユ09市の都市計画および事業計画の基底となった。これらの都市計 画については「日本土木史・大正元年〜昭和15年」(土木学会発行),および「満洲国史・
各論」(満洲国史編纂刊行会)に一部が収録され,わが国に関連の深い都市計画史の一環と して扱かわれるに至った。筆者は上記満洲国史の建設編の中,都邑の部の編輯に加わった が,同書が昭和46年1月発行されたのを機に,3市の都市計画について総合的に内容の一 班と策定の諸経過を記し,計画の特性を考究したい。
2.都市計画人ロと都市計画区域 (1)新京市
(a)都市計画人口
新京市は従来の長春の地で,建国と同時に国都に定められ名称が改められた。当時の居 住人口は174, 800人であったが,5年後の1937年に50万人に増加すると予想し,その増 加人口を収容するために必要な地域21.4km2に建設計画が行なわれたが,1940年10月の調 査結果は人口534, 000人に達した。ほぼ予想された人口増加の趨勢であったが,この状勢 から検討された結果「新京の人口はユ00万人をもって適正とする」ということに1943年2 月定められ,結論として都市計画人口は100万人とせられた。
(b)都市計画区域
国都(新京)建設計画の策定に当っては,1932年7月下旬よりユ1月中旬にわたり,関係 機関の連絡会議が,関東軍特務部において3回にわたり行なわれ,同年12月ユ00k皿2の市 街計画区域と,国都建設概要案並びに事業予算案が作成された。その案が満洲国側の諮問 委員会で審議され,翌33年1月に国務総理により決定せられた。100k■2の区域が国都建 設計画事業区域であったが,この区域内には南満洲鉄道株式会社(以下満鉄と略称する)
の附属地,北満鉄路(ソ連邦所属)の附属地,商埠地(諸外国人の居住地域),満洲人居 住の城内等特別市公署(市役所)所管の旧市街地があり,これらを一応除いて,実際の建 設計画事業区域は約79km2であった。100km2の市街計画区域の外周は緑地域で囲続 し,これを含めた都市計画区域は南北の方向に約21km,東西の方向に約17kmの範囲
90
几 例 邦匡界
○ 大三品市 ○ 中小都市 コ■ロ■:鉄 w
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図一1満洲の主要都市と鉄道
であった。都市建設事業は国務総理直属の国都建設局により執行され,その第ユ期5か年 事業は,1932年4月より37年ユ2月にわたり実施せられ,事業執行区域は,事業計画区域 100km2のうち21,4km2の地域であった。
(2)奉 天 市 (a)都市計画人ロ
ユ934年の人口は484,670人であったが,都市計画の策定においては,1943年末にほぼ ユ00万人に達し,さらに1953年にほぼユ50万人に達すると予想された。現実の人口増加の 経過は,1940年ユ0月1日の調査で1,078,004人,翌41年末にはユ,153,332人に達し,増 加率は当初の予想を上廻った。
(b)都市計画区域
都市計画区域は1933年7月面積約400km2を決定し,この区域の外廓線の内側に幅員約 1〜7kmの環状の地帯を緑地地区とし,これに囲まれた中央部面積約192km2の区域に 市街地が計画された。
(3)恰爾浜市 (a)都市計画人口
1933年末に人口381, 060人であったが,都市計画人口は100万人とせられ,33年後にこ の人口に達すると予想された。現実の人口増加の経過は,1940年末における調査の結果は 646,000人に達し,当初の予想512,000人を上廻った。
(b)都市計画区域
当初の計画では,ユ00万人を収容する区域を市街計画区域とし,その面積は約295km2
(河幅約1.5kmの松花江河川敷の面積約22km2を含まない)であった。この市街計画区 域の外周は,幅約2km面積約112km2の環状の緑地域をもって囲続される。上述市街計 画区域内に新都心地を計画し,ここを中心とする半径約25kmの範囲に,都市計画区域が 定められた。その区域面積は約1,840km2であったが,この広域が都市計画区域に設定さ れたのは,主として次の理由からであった。
(i)近郊に計画せられた特性ある市街地および施設等の造設地を包含せしめたこと。
(ii)大自然公園とも称すべき郊外公園の敷地を設定し,その区域を包括せしめたこ と。
(iii) 都市と近隣農村との依存関係を有機的に緊密ならしめるよう,一体の計画樹立が 図られたこと。
(iv)軍の諸施設用地を包括せしめたこと。
しかしながら,1936年6月12日都邑計画法が公布され,ハルビンの都市計画は同法の規 定により決定されたものと見なされた際に,市街計画区域とその外周の緑地域を合せた区 域をもって都市計画区域(面積407km2)とせられた。これが法で定められた計画区域と
なったので,半径25km圏内は地方計画的なマスタープランの対象区域として考えられる こととなった。
3.都市計画区域内に想定された人口密度 (a)想定人口密度
上述3市の計画人口と市街計画区域面積とから,市街計画区域内に想定された人口密度 は表一1のようになる。
92
表一1 想 定 人 口 密 度
都 市
新 京
奉 天
恰 爾 浜
市街計画区域 面積(km2)
100 192 295
計画人口 (万人)
100 150 100
人口密度 (人/km2)
10,000 7,800 3,400
1人当り市街地 面積(m2)
100 128 295 注 (1)市街計画区域面積には外周の緑地地域を含まない。
(2)・・ルビンの市街計画区域面積295km2には軍事,鉄道施設等の用地60km2 を含むので,これを差引くと一般市街地面積は235km2である。
(b)東京首都圏の人ロ密度との比較
表一1に示される人口密度を,東京首都圏の人口密度と比較してみる。首都圏の都心よ り半径10km圏内の人口密度は,1km2当り約20,000人(昭和35年)すなわち1人当 りの市街地面積は約50m2である。この圏内に包含されるのは千代田区,中央区,港区,
台東区,文京区,豊島区,新宿区,渋谷区,品川区,江東区,墨田区,荒川区の12区の全 区域,および江戸川区,葛飾区,足立区,北区,板橋区,中野区,杉並区,世田谷区,目黒 区の9区の都心寄の一部地区である。つぎに,都心より半径10〜20kmの地帯内において は1k皿2当り約6,800人,すなわち1人当りの市街地面積は約150m2である。この地帯 に包含されるのは練馬区,大田区,狛江町の全区域,江戸川区,葛飾区,足立区,北区,
板橋区,中野区,杉並区,世田谷区,目黒区の9区の一部で都心から外周の地区,調布市,
三鷹市,武蔵野市の各市の一部地区,および隣接する神奈川県,埼玉県,千葉県の一部地.
区であって相当面積の農耕地が含まれる。さらに,都心から半径20〜30kmの地帯内では 1km2につき約2,000人である。
前掲表一1の3市人口密度と首都圏との比較を表一2に示す。
表一2 3市と首都圏との入口密度比較 都 市 名
新 京
奉 天
恰 爾 浜 東京首都圏
市街計画区域内想定 人口密度(人/km2)
10,000 7,800 3,400
首都圏都心より半径10km 内の人口密度 (人/km2)
20,000
首都圏都心より半径10〜20km 地帯の人口密度 (人/km2)
6,800
表一2から,
うである。
3市の想定人口密度が首都圏の人口密度に対する比率を書くと表一3のよ
表一3 3市と首都圏との人口密度の比率
都市名莫璽凝購號劉齋麟き㌶懸地帯の
新 京
奉 天
恰 爾 浜
50%
39%
17%
147%
115 f・
50%
表一3に見るように3市の想定人口密度は,首都圏10km圏内の稠密市街地に比すれば 何れも相当低く,首都ee IO〜20km圏内のなお相当の空地を存する地帯に比すれば,ハル ビンを除き幾分高い。わが国都市の市街地人口密度の標準は上限で13,000人/km2,下限 で7,000人/km2,平均で]0,000人/km2とされているが,新京はこの平均密度の標準に,
奉天は下限密度の標準に合致している。ハルビンの人口密度が低く計画されたのは,同市 が北満洲の中枢都市に相応しく,広闊にして快適な環境保持が企図されたためで,同市都 市計画の特色の一つといえる。
なお,市街計画区域設定のための満洲国基準は次のようであった。人口1人当りの一般 民用地の面積を80m2とし,人口3万人以上の都市では1人当り25m2に相当する街路,
.広場およびその他の公用並びに公共用地を加え,1人当りの面積を80m2+25m2=105m2 となし,これに計画人口を乗じて市街計画区域面積を求める。また人口90万人以上の都 市では,一般民用地80m2/人のほかに70m2/人に相当する街路,広場およびその他の公 用,公共地を加え,150m2/人として市街計画区域面積を求める。人口3万人から90万人 までの都市では公用,公共用地を25m2/人と70m2/人の間でとり,80m2/人に加えて計 算するというものである。この考え方は,市民の居住のため利用する土地の面積は,都市
の大小にかかわらず80m2/人であるが,交通,保健,衛生等および業務のために必要な土 地面積は,大都市では小都市の倍近くになることに基づいたのであった。
4. 街路網の計画 (1)新 京 市
新京には国都として国の立法,行政の諸機関をはじめ,経済,金融等諸業務の中枢機関 のための建築,文教の諸施設等が急速に設けられねぽならなかったし,それら諸機関に就 任のため日日に入京する職員とその家族,加えて一般市民のための住居対策も講じられね ばならなかった。そのための都市計画は,長春の市街地に接する広漠たる平原の上に立て られ,国の諸機潤および公共,民間の諸重要機関の建築は機能に応じて集団とし分散配置 せられ,それぞれの副都心が形成された。すなわち順天広場から順天大街に沿って安民広 場までの周辺を政治,行政都心,大同広場周辺を経済都心,南嶺広場周辺を文教都心,盛 京広場周辺を市民都心とし,交通上では鉄道連京線(大連一奉天一新京)に新たに南新京 駅を設けて中心とし,これら各副都心は主要街路をもって結合された。街路網の基幹は,南 北方向の大同大街と,これと直角に交差する東西方向の興仁大路とで,この2つの基幹線
に放射線と環状線とが配された。計画幹線街路の幅員は26〜60m,支線は10〜ユ8m,補助 線は10m以下とせられた。幹線および支線街路は歩車道を区分し,幹線街路には植樹帯を 設けて緩急車線を分離し,中央を高速車道,その両側を緩速車道(馬車,自転車の通行用)
とし,その両端に歩道が設けられた。
周辺の中心的要地農安,長嶺,懐徳,公主嶺一奉天,伊通,双陽,吉林,ハルビン各地 えの国道は,市街周辺の環状道路に連絡し,市街地の放射系幹線街路を通じて市内に到達 するように計画された。
(2)奉 天 市
(a)小西辺門(奉天駅の西約3km)を中心として放射線が計画された。これらは何れも 国道で,撫順線は東え向い撫順え(1等国道),鉄嶺線は北北東え向い鉄嶺を経て新京え く1等国道),法庫線は鉄嶺線から分岐して北え向い法庫え,新民線は西北え向い新民え,
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図一2新京都市計画主要街路と公園
遼陽線は南方え向い遼陽を経大連え(1等国道),遼中線は西南西え向い遼中えそれぞれ到 達する。
(b)環状幹線は4本の主要線が計画された。
(c)連絡幹線は鉄道駅,運河(渾河に通ずる)地帯物揚場,主要公用地を連絡する線と して計画せられた。
以上の放射,環状,連絡の各幹線を主要幹線とし,その街路幅員は市街地で22〜80m とせられた。
(d)主要幹線に補助幹線を配して幹線街路網が構成せられ,さらに小道路を配して区画 道路網が形成せられた。
(e)街路の幅員は最大80m,最小10m(区画街路)とし,街路は歩車道を区分し,幅 員40m以上のものは植樹帯を設けて緩急車道を区分することとせられた。計画街路の幅 員別延長は表一4のようである。
表一4 奉天都市計画街路幅員別延長
幅員(m)1延長(m)
80 33,325
70 40,410
40 40, 070
38 1,070
36 13,820
30 125,550
幅員(m)1延長(m)ピ員(m)1延長(m)
27 27,700
22 275, 160
20 2,780
18 26,140 17 218,370
16 3,420
13 2,870 12 107,575
ユ0 1,045,480
tt−1
]Ll
ロ 1,963,740
(注) 現存の区画街路を含まない。
(3)恰爾浜市
ハルビンは,帝政ロシアにより1898年に建設が始められたが,市街計画の特質を象徴す るのは南嵩区であった。南局区の街路幅員は約42m(ロシアの尺度で21サーヂン)ないし 13mであり,これだけの幅員は将来交通量の増加を予想しても,必要量を相当上廻るもの と考えられた。沿道の家屋は道路境界線に従って建てられているが,道路の施設をしない 両側の地帯は地先の前庭として無償占用させ,各戸で植樹や造園を行ない,出入のため軽 易な門と見透しのきく垣柵を設けることを認めていた。さらに最も広幅な道路は,南嵩か ら旧ハルビン(香坊)に至る幅/R 106mのもので,この道路は中心線をはさみ50m幅に 舗石道と植樹帯および歩道の施設をなし,残り50余mが前庭に使用されていた。前庭に使 用の道路敷は,公共に必要の場合にはその占用を解く規定であったが,道路幅は交通上の 必要以上に余裕があったため,特有のゆとりをもつ市街地を形成していた。ハルビンの都 市計画街路にはこの特質が受け継がれ,幹線街路の幅員は交通に必要と考えられる以上と し,ロシアが建設したと同様な広閲な市街地の形成が企画された。交通のための施設をし ない空地部分には,広く植樹し緑化が図られた。
主要幹線街路網は,新たな都心計画の地区を中心として,近郊の中心要地である扶余,
五家店,双城県(1等国道),大嶺,平房,阿城県(1等国道),延寿,賓県(1等国道),
巴彦,呼閲,蘭西,五姑に通ずる放射状幹線と,これらの放射幹線を相互に連結する環状
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幹線とにより構成された。新たな都心計画というのは,北満鉄路南部線(1933年都市計画 策定当時にはソ連邦所属)が満洲国有となることを予定し,顧郷屯駅付近に新たに中央停 車場を設け,この駅を中心として業務中心地を,その東に連接して行政中心地を設けよう とするものである。なお,南部線はユ935年3月ソ連邦より満洲国に譲渡され,京浜線と改 称された。計画幹線街路の幅員別延長は表一5のようである。
表一5 恰爾浜都市計画幹線街路幅員別延長
幅員(m)∈長(m)|備 考 幅 員 くm 延長 vm 66 考
ユ20 22,030 街路国施設街路
106 3,050 同 上
現存街路
100 3,870
60 5,760
55 50
2,150 10,910
45[…8・
42 1,200
ll 40 35
233,865 76,175 30
25 計
179,305 165,325
709, 820
現存街路
(注) 現存および将来築造する区画街路を含まない。
凡 例
一・・一一一一一一 都市計画区域 一一一一一一一 市街計画区域 主要幹線道路
→→→→→→一←←+÷÷→ 元見在 (193211i) £失〕萱
一一一一一一一一 整備計画ξ戊こ道 ● 現了1: (1932∫ド) 鉄≡宣〕≡i
o 計画駅
1 糸天駅 2 塁姑屯駅 3 溶陽総姑 4 i審陽駅 5 北奉天駅 0 小西辺門
図一3奉天都市計画主要幹線道路および鉄道整備計画
5. 計画街路の幅員について
上述3市の幹線街路および区画街路の計画幅員を摘記すると次のようである。
幹線道路の最広幅
区画街路.幅
新 京
60m 10m
奉 天
80m 10m
恰爾浜
ユ20m(街園施設街路)
︷
]06m(現存街路)
10m
街路幅の計画に関しては,1930年初め頃における日本主要都市の街路幅と交通の状態よ り推考し,また市街地の防災,保健上の安全性を考察し,かつ大陸国土の地理的事情も考 慮して,日本の都市に比し相当に広い幅とせられた。
その当時東京市では,関東震災復興事業により建設された南北軸の昭和通と,東西軸の 靖国通の2線が重要幹線であったが,都心部で昭和通の幅が44m(上野駅前一江戸橋一新 橋,延長約5,700m),靖国通が27m−33m−36m(市谷駅一駿河台下一両国橋,延長約 5,020m)であった。両路線とも供用が開始されてから数年であったが,自動車交通量増 加のため高速交通の円滑性が損なわれようとしていた。他面区画街路は4m〜3m幅が多 かった(特に下町商業地域に)ため,防災と保健の上から問題が提起されていた。東京に 限らず,他の大都市においても同様の状態が現われていた。満洲にては日本における状勢 に鑑み,将来にわたり道路交通に支障を来さず,かつ災害の防止,保健の充実が達成せら れることを期し,幹線街路から区画街路まで日本の標準より一まわり大きい幅員が採用さ れたと観察される。しかして広幅の街路網計画は,何等困難に遇うことなく決定された。
広幅な都市計画街路網が,迅速に企図の通りに策定されたのは,国土面積に比して人口が 少なく,地価が低廉で,日本におけるように集約的な土地利用を余儀なくされることが全 くなかったためであった。1935年代に日本と満洲の領土面積と人口は次のようであった。
人口密度 領土面積(km2) 人 口(人)
日 本 満 洲
675,114 1,416,093
6.都市計画に関連する鉄道計画
90,396,040 29,606,ユ20
人/km2 対 比
134 100.0
21 15.7
1932年3月満洲国建国と同時に,本庄繁関東軍司令官と満洲国執政の書簡交換により
「満洲国は,国防上必要とする既設の鉄道,港湾,水路,航空等の管理並びに新路線の敷 設は,いずれも日本もしくは日本指定の機関に委ねることを承認する。」旨確約され,次 いで同年8月本庄関東軍司令官と鄭考胃国務総理との間に締結された協約により,満洲国 は鉄道,港湾,水路および航空路の管理を関東軍に委託し,関東軍は鉄道,水運,港湾(埠 頭,臨港鉄道)の管理をさらに満鉄に委託したので,国有鉄道の建設,運営はともに満鉄
によって行なわれた。
建国のとき,ハルビン市を中心とする北満鉄道(東支鉄道)はソビエト連邦に属してい た。北満鉄道はハルビンー新京間の南部線,ハルビンー緩採河間の東部線およびハルビン ー 満洲里間の西部線から成り,その軌間は5沢(1.524m)の広軌であった。北満鉄道がソ 連邦の管理下にあったため,満鉄はこれに対抗する拉浜線(拉法一ハルビン)を急速に建設
した。かくしてハルビンには,北満鉄道の3線と拉浜線が集まった。新京には,広軌の北
98
満鉄道南部線と,満鉄が受託経営する標準軌間(1.435m)の連京線(大連一奉天一新 京),京図線(新京一吉林一図佃)が集まり,京白線(新京一白城子)の建設が計画され
ていた。
北満鉄道は,1933年6月より満洲国に買収の交渉が開始され,ユ935年3月に満ソ間の協 定が成立した。国有となった同鉄道の経営は直ちに満鉄に委託された。管理を受託した満 鉄は広軌を標準軌に改軌を実施したが,これとも関連し,各市において総合停車場,鉄道 工場,操車場の設置等都市計画と緊密に関係する問題が多かった。それゆえに,鉄道に関 する計画が都市計画に織り込まれなければならなかったし,また一面において都市計画に 合致した鉄道計画を立てることが緊要とせられた。
(1)新 京 市
新京市の国都建設計画に関しては,1932年7月から同年11月の間に,3次にわたる連絡 会議が関東軍特務部において開かれた。満洲国の政治,経済等に関する基本事項は関東軍 が統括し,連絡会議は軍,満洲国,満鉄等関係機関から参加して行なわれた。満鉄は経済 調査会(在大連)内に都市計画担当の部門を置き,積極的に重要市の都市計画を研究し,
計画の作案も行なった。このため都市計画と都市の鉄道計画につき満洲国政府と連絡が良 く,関東軍の総括下で相互の調整も円滑に行なわれた。このように満鉄が都市計画に関心 をもち,市街地の鉄道施設を都市計画に基づいて実施したため,市の機能増進に寄与する
ところが大きかった。
新京に集まる鉄道のうち,連京線は市街計画区域の西南から入り,計画区域を北北東に 進んで新京駅に達するが,この新京駅の南に新に中央停車場を設け,連京線,南部線(京 浜線),京図線および京白線の接続駅とすることとせられた。連京線は市街地域内の孟家 屯一新京間を切り下げて基面を低くし,交差街路がすべて鉄道の上を通る立体交差とする
こととせられた。
(2)奉 天 市
奉天市においては,連京線が南北の方向に通過し,奉吉線(奉天一吉林)と奉山線(奉 天一山海関)の2つの主要線が終端駅を有していた。奉山線は清国と英国の合同出資に成 る中英公司により経営されていたが,満洲国政府が借款の返済を声明したことにより,円 満に国有鉄道に焉入された。この奉山線と連京線を接続のため,奉山線皇姑屯駅より奉天 駅に入る路線を整備し,また連京線より分岐し鉄西地区の南部を通過して皇姑屯駅の西方 にて奉山線に連なる南廻り線が計画された。この南廻り線は,鉄西工業地開発のためのも のであった。奉吉線に関しては,溶陽駅より直接連京線に連絡する線路が計画され,連京 線の接続点に「北奉天駅」の新設を計画し,従来の藩陽総鈷と奉吉線の一部を撤廃する計 画とせられた。
操車場は,連京線と奉山線に対するものは皇姑屯駅に,連京線と奉吉線に対するものは 藩陽駅に設ける計画とされた。
本市の都市計画に関しては,1932年3月関東軍特務部,満洲国および満鉄の三者により 奉天都市計画準備委員会が設けられ,研究討議を経て翌33年7月計画の大綱が決定され た。鉄道に関する計画は,満鉄が委員として参加し,自らの計画が都市計画として決定せ
られた。
(3)袷薦浜市
ハルビンはユ933年7月満洲国の特別市とせられたが,当時同市に集まる鉄道は次の各線
凡
_.__市街計画区域 主要道路
_一+H−+}S.在(1933年)鉄道 一一一一計画鉄道
o 現在(1933年)鉄道駅
O 計画駅
_一≠一計画堤防
例
髭r・i緑 地 域
図計画墓地
≡ ≡予定鉄道操車場
匡ヨ鉄道工場用地
図一4 蛤雨浜都市計画主要道路および鉄道本線計画
m
100
であった。
(a) ソ連邦が有する北満鉄道に属する南部線(満洲国有の後京浜線と改称),東部線(同 浜緩線と改称)および西部線(同浜洲線と改称)の3線。各線とも軌間が5沢(1.524m)
の広軌であった。
(b)国有鉄道の拉浜線と浜北線(ハルビンー北安)。拉浜線は浜北線と連接し,何れも4 灰8.5吋(1.435m)の標準軌間である。
ハルビンにおける国有鉄道と北満鉄道は,上述のような事情の下で全く離隔した状態に あった。1933年都市計画の立案に当っては,北満鉄道は国有に移し,広軌は標準軌に改軌 を前提とした。計画は,拉浜線と京部線を,市街計画区域の南部において新線を設け西方 に並走させ,南部線に合せるようにする。3線を合せた上並行北進し,既存のハルビン駅 に導くが,ハルビン駅の南に当る願郷屯駅付近に新に中央停車場を設ける。この新計画駅 から,計画拉浜線は既存のハルビン駅および浜江駅を経て浜北線新松浦駅に連接させ,東 部線はこの新計画駅で西部線に接続させ,ハルビン駅を経て満洲里に向はせる。なお,こ の計画中央駅を中心とし,その東側および西側地区を将来の都心地として計画せられた。
操車場は,計画市街の東南方の郊外において拉浜線に設置するか,あるいは南方郊外に おいて南部線に設置する予定とせられ,鉄道工場は拉浜線三棟樹駅の束に設置の計画と
し,面積約3.6km2の用地が予定された。
鉄道に関する計画については,都市計画の立案に当ったハルビン市の当局老が,満鉄計 画部(在大連)および満鉄鉄路総局(満鉄が国有鉄道の受託経営を行なうため1933年3月 奉天に設け,後36年ユ0月鉄道総局に拡大した)と計画の協議を行なった。作成された都市 計画の綱要案は,1934年4月に開催された冶爾浜都市計画委員会の会議で決定された。こ の委員会は関東軍参謀長を委員長とし,下記の各機関の代表者を委員として組織されてい
た。
(i) 関東軍 参謀部,特務部,経理部,交通監督部
(ii) 満洲国 総務庁,民政部,交通部,実業部,恰雨浜特別市 (iii) 満 鉄 経済調査会,鉄路総局,鉄道建設局
(iv) 委員長が委嘱した学識経験者
満洲国の機関以外で,都市計画立案に最も関心を持ったのは,満鉄経済調査会であっ た。満鉄は,その有する鉄道の沿線に附属地を経営し,市街地建設を行なってきた経験に 基づき,特務部の委嘱によリハルビン市と並んで都市計画案を研究したが,それらが調整
され決定をみたのであった。
7. 土地買収による市街地建設
満洲における都市建設の特色の一つは,建設に要する経費が土地経営による財源に求め られたことである。すなわち都市計画事業の施行者が,起債による財源をもって土地を一 括買収し,これに街路,公園,上水道,下水道等の公共施設を施し,宅地としての価値を 高めて売却または貸付を行ない,その収入をもって債務の償還に振り向けた。またその残 金を運転資金として建設の拡張に充当し,自給自足主義の特別会計により事業が施行され た。国都建設局および恰爾浜特別市で買収した土地の面積および買収価格は表一6のよう であった。
表一6 市街用地買収の面積と金額
都 市
新 京
ハルビン
年 次
ユ941年末
ユ938年末
市街用地買収 面積 (km2)
107.62
227.00 10.23
買収・補償の金額
全 額慌当り璽
・・,57・,…円1・・98円
3,330,000 O. 015
摘 要
2,000,000 0.195
一般民有地 i国有地
(注) ハルビン市の買収地のうち,一般民有地には広面積の荒蕪地が含まれ,国有地には 現市街地の土地が存するので,両者の平均価格に開きが出ている。
表 6に見るように,買収土地1m2の平均価格が,新京において0.098円,・・ルビン においては一般民有地0.015円という低価格であり,この低廉地価が土地買収の都市計画 事業を成立せしめた基底であったといえる。
なお,新京における1941年末までの造成土地の売却面積は8,432,110m2,総金額は,
33,403,320円となっており,1m2当り売却価格は平均3.96円である。この平均売却価 格は平均買収価格の約40倍に当り,売価を支配したのは,公共施設のために要した費用 であったことがうかがわれる。
奉天は鉄道,道路の交通の利便が大きく,地下水が豊富で,近辺の撫順に石炭を産し,
鞍山で鉄が生産されるなど工業立地の条件が整い,工場進出の趨勢が顕著であった。よっ て進出する企業に対し土地を提供し,諸施設を整える必要に迫られた。この状勢に対応す べく,満洲国政府は満鉄と協議し,1935年3月政府経済部の監督下に,国と満鉄共同出資 の奉天工業土地股分有限公司(工業土地株式会社)を設立し,鉄道連京線の西側地区に13.90 km2の土地を用意し,必要に応じて23.15 km2まで拡張の計画とした。同公司は経営地 に道路,上下水道等の施設を行ない,工業用地ならびにこれに付随する商業および住居の 用地を造成し貸付を行なったが,土地の需要は極めて多く,創業3年ならずして約7.Okm2 の土地が貸付けられた。同公司は,満洲国における治外法権の撤廃を前にして,1937年11 月政府の方針に基づき,その業務の一切を奉天市に移管し,奉天都市計画事業とともに経 営が一元化された。奉天市は鉄西工業土地管理処を設置し,市の外局として引き続き土地 経営を行なった。
都市の諸施設を合理的に実施し,市街地を理想の姿に造成するため,必要な土地の一括 買収は明らかに最も有効な方法である。わが国において宅地や小市街地の造成のため,従 来用いてきた土地区画整理の手法は開発の規模に限度があり,大規模の市街地開発を要求 する社会状勢に応じ得なくなった。このゆえに,土地買収による宅地および市街地の造成 事業が法制化され,昭和29年から実行にうつされている。すなわち地方公共団体,地方住 宅供給公社,地方公共団体の出資または経営上の援助を受けて設立された住宅協会,公社,
日本勤労者住宅協会が,住宅金融公庫の融資等をもって土地を買収し,新住宅市街地開発 等を行ない,また日本住宅公団が同様土地の買収により住宅用地,工業用地,流通業務用 地の開発および新市街地(筑波研究学園都市)の開発を行なっている。住宅金融公庫融資 による宅地造成で規模の大きい例は,千葉県施行の北千葉団地(船橋市,印旛郡),大阪府 施行の泉北丘陵団地(堺市)等であり,日本住宅公団の施行するものでは,新住宅市街多 摩二=一タウンおよび研究学園都市が大規模の例と考えられる。これら団地,新市街地の
ユ02
開発面積は表一7のようである。
表一7 r]本における土地買収による新市街開発の例 団地・新市街名
北 千 薬 泉 北 丘 陵 多摩ニニータウン
研究学園都市
開発而積(km2)
19. 80
15.04
事業主体
千 葉 県 大 阪 府
摘 要
土地は全面買収
tt
30.11
27.00
日本住宅公団
同
上
土地の買収予定面積22.25km2
{1 19.20km2
(注) 日本住宅公団は土地買収と土地区函整理を合せて全域の開発を行なう。
日本におけるこれら土地買収による市街地造成に比しても,満洲の3市の土地買収規模 がいかにも大陸的であったことがうかがえる。
8. む す び
新京,奉天,恰爾浜3市の都市計画は,それぞれの計画境域において,天然地形の複雑 さから来る制約と,社会的の関係から生ずる対人問題が殆ど無かったため,理想の表現が 妨げられなかった。すなわち3市の都市計画は,大陸の平坦な土地の上にあたかもパター
ンのように画かれ,広い国土,少ない人口,低廉な土地のゆえに権利の頑な固執に遇うこと もなく,計画は土地の問題に煩はされずに策定された。このような事情から,計画案の作 成に着手より決定までの期間も極めて短かった。すなわち新京が11か月,奉天が17か月,
ハルビンが9か月の期間にそれぞれの計画大綱が決められており,計画に必要な広範の測 量等もこの期間に行なわれた。決定されたのはマスタープラン(基本計画)の性格のもの で,都市施設はこのマスタープランに準拠して実施せられた。
都市計画(基本計画)の決定は,関東軍を中心に関係機関が参加する委員会で行なわれ た。委員会には満洲国の機関と満鉄が参加し,市に関係の深い満鉄経営の鉄道の計画が都 市計画の一環として決定され,鉄道の諸施設は都市の要求に応じて実施せられた。3市の 都市計画には,在満のすべての関係機関の熱意が集結したと思はれる。また,日本の都市 計画専門員が満洲の都市計画事業の基本として打ち立てた都市計画区域の土地の買収,経 営の手法が,わが国で団地,新市街地の開発,造成にいま広く用いられていることに,深 い感慨を覚える。
参 考 文 献 日本土木史(大正元年一昭和15年):土木学会編 昭和40年12月 満州国史(各論):満州国史編纂刊行会編 昭和46年1月 武居高四郎:新都市計画 昭和22年4月
山埼桂一:胎爾浜都邑計画の回顧 昭和43年4月
井上孝:日本の都市問題 全日本建設技術協会 都市問題に関する講義集 昭和45年7月 中田亨:土地利用計画について 全日本建設技術協会講義 昭和46年3月
住宅金融公庫,日本住宅公団による宅地造成:新都市 昭和45年3月号