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ユンカースの世界戦略と中国 1926-1933 永 岑 三千輝

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(1)

はじめに

1.中国の分裂状態と市場開拓の可能性    ―親ドイツ的環境の中で-

2.航空制度構築の試みとユンカース    -北伐末期・南京政府初期-

3.平和的国際協調路線と世界恐慌下での奮闘

4.満州事件前後の情勢と軍用機の需要・国産志向への対応 むすびにかえて

はじめに

 前稿においてフーゴー・ユンカースとユンカース社がヴェルサイユ体制 下ワイマール期の前半において中国との関連でどのような情勢認識でどの ような行動をとったかをドイツ博物館アルヒーフのユンカース文書に依拠 して見てきた1

 フーゴー・ユンカースと彼の会社はドイツ国内における航空機生産に対 する厳しい制約諸条件の中で、航空機の交通運輸手段の革命的性格と将来 性に確信を持ち、世界各国のユンカース機への関心の高まりと需要の動向 を確認しつつ、民間機の開発を推進した。それは戦時期の軍用機開発から 民間機開発への転回というべき根本的方向転換であり、それにより世界市

ユンカースの世界戦略と中国 1926-1933 永 岑 三千輝

1

永岑 [ 2017 b]

(2)

場開拓に邁進した2。だが、そこには種々の難問があった。

 中国市場に関しては、経験を積んだ中国駐在のドイツ商社や元外交官な ど多様な経路とその人的結びつきを活用して開拓に取り組んだ。中国市場 への道を切り開くためには、ユーラシアを横断する航空路線の開拓も重要 な手段であった。そこではロシアあるいは中央アジアを経由する航空路開 拓を志向し、その前提条件の一つともなる中央アジア探検への支援など、

実に多様な行動があった。中国サイドからも様々の利害関係者から、ユン カース機導入について種々のルートでアプローチがあった。諸般の事情か ら構想や希望の段階にとどまったとしても、すでに中国における航空機生 産を求める動きもあった。

 政治的軍事的分裂状態と内戦状態、そこからの脱却・国家的統一を目指 す諸勢力の錯綜する戦いの中から、ついには国民党・蒋介石による北伐勝 利という形で曲がりなりにも統一が進展する過程において、ユンカース社 の行動はその後どのようになったのか、以下では、ユンカース文書が存在 する期間の後半の時期(1926年から33年)についてみておきたい3 1.中国の分裂状態と市場開拓の可能性―親ドイツ的環境の中で-

 1926年1月のユンカース社販売基本方針からの抜粋によれば、中国は軍 用機においても民間機においても「重要な販売地域」であった。しかし、

地理的観点からすれば中国は「航空交通」に重要性がある、と民間機市場 としての大きな潜在性に強く注目していた。さらにロシアとの関係で後々 の大陸横断の航空輸送のための販売の大きな可能性があるとも見ていた。

2

永 岑 [ 2014 a] [ 2014 b] [ 2015 ] [ 2016 a] [ 2016 b] [ 2016 c] 。 日 本 と の 関 係 については、永岑 [ 2017 a] を参照されたい。

3

両大戦間期の国際的技術移転・武器移転の問題の歴史的解明は、現在の日本

における武器輸出解禁・大学における軍事研究をめぐる諸問題(たとえば、西

川純子 [ 2012 ] 、望月衣塑子 [ 2016 ] )についても比較史的素材を提供することに

なろう。

(3)

したがって、「ロシア問題がどのように進展するかは別として」、すなわち、

ソ連進出の挫折・モスクワ近郊フィリ工場放棄・金融的負担問題とその事 後処理の困難さは別としてということだと思われるが、ロシアを経由する 航空路開拓、その手段としての「初回に計画されている大型航空機による 探検飛行」にユンカース社は積極的にかかわろうとした4

 ヴェルサイユ-ワシントン体制下の中国は、一方では勝者でありながら 他方では同じ勝者の側の「大国」日本によって、「対華21か条要求」に代 表されるような屈辱的状態に置かれた。しかも、誕生間もない中華民国は 統一的共和国としての安定に程遠く、国内ではいわゆる軍閥が支配権をめ ぐって争う内戦状態でもあった。

 1926年1月のユンカース社の「南シナ」報告は、この地域が政治的経済 的にますます自立的構築物とみなされねばならないと、分裂深刻化を確認 していた。その報告の見るところ、いわゆる広東政府は事実上完全に北京 ないしほかの中国から独立していた。広東政府は、香港ないしイギリス人 に対しても「必死の戦いを自立的に」進めていた。25年7月の広東での銃 撃事件以降、イギリス人とフランス人は広東の有刺鉄線で防御された一部 地区に、中国人の召使や職員なしで生活していた。彼らは香港から食料を 支給され、約10隻の軍艦に守られていた。イギリスの商業はストライキ とボイコットによって完全に停止していた。ドイツ企業約10社のみが「い い商売」を行っていた5

 中国の無秩序状態に関しても、次のように見ていた。中国に関する政治 情勢一般の特徴として、目下の戦争は「市民」戦争ではなく、また政治的 諸党派間ないし社会階級間の戦争でもなく、「野心満々の、権力欲に飢え た将軍たちないし総督たちの間の戦争」であった。人口の約90パーセン

4

Auszug aus Bedeutung der verschiendenen Absatzgebiete und augenblicklicher Stand unserer Vertriebstätigkeit in den einzelnen Ländern (Richtlinien von Ifa-Vertrieb vom Januar 1926 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 02 .

5

Abschrift. Südchina. Allgemeiner Bericht (f. Alle Konzernfirmen), Junkers & Co. am

11 . Januar 1926 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 02 .

(4)

トをなす農民と市民はこの「無秩序に拒否的態度」であった。なぜなら、

このシステムが「金の提供やゆすり」を伴っているからであった6  ドイツ企業はまさにこうした中国の独特の状況に向き合って流れをつか む必要があった。1926年当時、中国は、躍進している国であり、「列強に よる干渉から解放されよう」としていた。したがって、イギリス、アメリ カ、フランスの商品に対するボイコット運動があった。この国際政治情勢 で、ドイツはヴェルサイユ体制下、「中国における特権を断念し、他の列 強と違って経済的目標のみを追求し、権力政治的目標は追求していなかっ た」。だからこそ、中国の商人はドイツ人に同権を認め、信頼を寄せうる 状況にあった7

 1926年には、中国の交通大臣(

Tsang

8、純然たる専門大臣であり、最近 の全政府の交替を通じてその地位を維持した人物)は、ユンカース社の現 地仲介者コルデス(

Cordes

9と議論を積み重ねていた。コルデスは北京 での活動中、航空交通問題で何度も交通大臣の相談に乗り、航空交通に関 する「ユンカースの理念」を説明した。交通大臣はすでに27年には規則

6

Bericht von E. Pfeiffer, China. Politisches und Allgemeines, Ibid.  

7

ユンカース社がハウスホーファー教授を招いて会談した時の教授の見解。

Niederschrift über den Besuch des Herrn Professor Dr. Haushofer am 7 . u. 8 . Januar 1926 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 02 .

8

本来は当時の高官の中国語表記を特定すべきであるが、本稿ではドキュメン トの表記のままとせざるをえなかった。以下同様。

9

中国でユンカース社を代表する人間として委託。 Schreiben von Staben u. G.

Sachsenberg an Konsul Heinrich Cordes vom 10 . Februar 1926 , DMA, FA Junkers,

Juluft 0702 T 02 . このファイルには 1926 年の年末までにコルデスとユンカース社

の間に多数の書簡の往復が収められているが、ここでは立ち入ることができな い。正式委託の前、24 年初めには、中国の内政状況が「異常にもつれあっており、

不安定」なため、現地事情に詳しい人物して、コルデス領事の「抜きんでた知

識と彼の助言」に頼っていた。 Schreiben an Junkers-Werke vom 29 . Januar 1924 .

Betr. Verwertung China, DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 01 . 「革命以来、中国には海

の中の砂ぐらいたくさんの少将」がおり、その一人( Wang 将軍)が力を持って

いるとしても、「フランスに 1000 機が発注された」などという情報は、コルデ

スによれば「信じられない」と。 Schreiben von Heinrich Cordes am 9 . 1 . 24 , DMA,

FA Junkers, Juluft 0702 T 01 .

(5)

的な航空交通構築の試みを始めていた10

 1926年3月10日のユンカース社の全世界(36か国)での販売実績報告に よれば11、中国については山西総督との売買契約があった。しかし、その 頭金5千ドルの2機の

F

13の引き取りはまだ行われていなかった。代理店の ジームセン(

Siemssen

)は3万7千ドルで2機を販売する可能性を持ってい たが、ユンカース社として同意できるのは4万2千ドルの場合のみであっ た。この額ならすべてのこれまでの余分な出費をカバーできるだろうから であった。その交渉に関する天津からの回答はまだ来ていなかった。こう したこともあって、中国で大規模に売るためには、大々的宣伝、すなわち 探検飛行の派遣がどうしても必要だとした。

2.航空制度構築の試みとユンカース-北伐末期・南京政府初期-

 1927年初め、「ドイツ航空機産業が中国に足場固めの意思。ユンカース も参加」という新聞報道があった。それによれば、中国では戦争の混乱が まだ国を荒廃させているが、西ヨーロッパでますます発展している航空交 通に対する注目が高まっていた。26年にはドイツとフランスの企業が中 国に売り込もうと努力していた。特にフランスは、組み立て倉庫を設立し ようとしたが、機種が不十分だった結果、成功しなかった。ドイツにとっ てフランスは中国において激しい競争ファクターであった。ドイツのマ シーンは資金に制約のある中国にとって「高すぎるから」であった。これ に対し、フランス人はその政府の援助で「低廉に供給でき」た。しかし、

ドイツの製品は「よりいいもの」とみなされ、また機材は「より耐久性が ある」と認められていた。日本も古い機種を中国に売り込もうとしていた。

数機のフォッカー機を持つデンマークでさえ競争に加わった。空港建設で

10

Schreiben Waurcik an Prof. Junkers vom 4 . Januar 1928 , S. 1 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 

11

Vertriebs-Berichte 10 . III. 1926 , DMA, FA Junkers, Juluft 0301 T 12 M 30 .

(6)

も競争があり、どこが契約できるか、宙ぶらりんの状態であった。奉天近 郊に設置されるとされる空港は、テンペルホーフ空港を模範に仕上げられ るといわれていた。その点ではドイツにとって見通しがいいとはいえ、こ こでも競争は激しかった。この空港建設計画は250万ドル、建設期間2年 と見積もられていた。国際的な航空交通を処理するためには、この設備は 緊急とみなされていた。ルフトハンザの二機のユンカース大型機が、東ア ジア・デモンストレーション飛行で中国までやってきて大きな印象を残し、

航空交通への関心の高まりと相まって、特にドイツ製品への関心を高めて いた。以上のように航空交通の開拓でもフランス人と日本人の「激しい競 争」が存在していたが、ドイツの新聞はこれら競争者を「それほど危険で はない」と評価していた12

 1927年2月のユンカース社会議では北伐進展の情勢を見て、担当者は中 国について近い将来様々の中国の権力者の統一が考えられるとした。列強 の圧力に対抗するため、中国人の合同の必要性が「ますます感じられるよ うになっている」からだった。この防衛的中国ナショナリズムの運動は防 衛産業の強力な構築への契機となっていた。すでにドイツにも武器工場設 立に関する問い合わせが寄せられていた。ユンカース社の重役のなかで二 人は、この機運に乗じようとした。彼らは中国向けに金属製航空機に関す る軍事技術的説明書を作成することを推進した。しかし、フーゴーは推進 派に同調するのではなく、むしろ完全に中立的な立場をとっていた。軍用 機販売推進派の重役は、中国人に国防軍の強化のためには金属製航空機が 特に適している、わずかの投資で相当に大きな権力要因を創出すると強調 した。そして、結局この線で作成された機種説明書が分裂状態にあるすべ ての中国諸政府に送付された。この説明書はいい効果を生む見込みがあっ た。ユンカース社の得ている情報では、張作霖がフランスの借款を受け入 れてフランスの航空機を手に入れたが、「非常に劣悪な経験」をしていた

12

Die deutsche Flugzeugindustrie will in China Fuß fassen. Auch Junkers ist dabei.

Central-Anzeiger, 3 . 1 . 27 , DMA LR 05582 .

(7)

からであった。この議論のなかでは、民間機導入は目下の政治情勢では「考 えられない」とされていた13

 しかし、交通大臣(

Tsang

)は、規則的航空交通樹立の試みをより広範 な基盤の上で1928年に継続する方針だった。交通大臣は、

Mao

博士(中国

北部鉄道

Nordbahn

の衛生制度の長官であり、研究目的でドイツに派遣され

ていた)にこの何か月間か手紙で何度もこの問題でユンカースとコンタク トを取るように求めていた。

Mao

博士はすでに留学生のデッサウ視察旅行 に同行していたが、この要請を受けて航空機の機種、価格等に関する資料 を要請した。ユンカース社サイドとしては、自社航空機と他社の機種、部 分的には戦時期に遡るような低廉なフランスの製品とが機械的に比較され ることを危惧した。これまでのところフランス製品が主として中国に供給 されてきたからであった。したがって、競争で不利にならないようにする ため、

Mao

博士にユンカース機を使った航空交通の独自性や諸経験を明確 に示すように努力することになった14

 ヨーロッパと中国を結ぶ航空路線に関して、当時、ロシア政府はルフト ハンザと組んでベルリンからモスクワ経由で極東への航空路線―中国・北 京への分岐路線を持った-を創設しようとしていた。しかし、この計画は 当面、ルフトハンザを通じる交通省の参加を拒否する財務省の異議の結果、

実現できていなかった。中国人グループのなかでは、こうしたロシア政府 の企てに対抗して、北京から可能な限り中国領土を経由して西との連絡を 構築しようという計画が生まれた。シベリア経由の代わりに、黄河諸省-

中国トルキスタンからアフガニスタン、ペルシア、トルコなどに至る航空 路線が構想されたのである。ユンカース社の担当者の見るところ、技術的 観点からは、そのような連絡は「今日全く可能であるばかりでなく、それ どころか、完全に霧や雲がないことから、シベリア路線よりははるかに容

13

Notiz vom 12 . Februar 1927 . Betr.: Besprechung über Russland- und China-Fragen, DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 02 .

14

Ibid. Mao は医学博士 Dr. Med. Mao Yü Hung.

(8)

易に」運行できるものであった。中国にとってはさらに利点があった。こ の路線を取れば、行程の約半分が自国領土を通過することになり、二つの 隣人大国、イギリスとロシアからは独立的にヨーロッパへの道を切り開く ことができるからであった15。ドイツ(ヨーロッパ大陸の航空路線の中心 としてのドイツ16)と中国を結ぶ路線の構築、英仏露の大国に左右されな い独自のルート構築というこの発想は、現在の一帯一路の発想にもつな がっていくものであろうが、このときはユンカース社が提起した。

 このような大陸横断航空路線のプロジェクトが実現すれば、最も重要な 中国内の諸路線のひとつも創出されることになる。北京から黄河諸省を 通って中国トルキスタンへの航空連絡ができれば、「政治的に並外れて重 要な、そして経済的にはまだまったく評価されていない」諸省が20日か ら80日の隊商旅程距離から1日から3日の航空旅程に短縮できることにな る。こうしたことは北部中国にとっての航空交通の重要性の単に一例に過 ぎなかった。Mao博士に対しては、さらに航空交通の経済的収益性の可能 性についても説明した。航空組織がひとたび創出されれば、そして一般的 な組織の支出が経営コスト等の取るに足りない小部分を構成するにすぎな いような航空交通の密度をもたらすことに成功すれば、収益性には大きな 可能性があるとした。しかも、航空輸送に適した商品の存在を前提にして 貨物交通に重心を置くことができれば、それは直ちに可能になるのであっ た。このことは、北部中国では非常に大規模に可能であった。当時の隊商 輸送の運賃率は、ペルシアにおける航空輸送の運送コストと比較すれば、

15

Ibid., S. 2 .

16

ルフトハンザの世界的交通網の地図、ツェッペリンの世界飛行地図などが週

刊誌や新聞の世界中の名所で写したドイツ人パイロットの写真とともに学校教

育の場に持ち込まれ、ワイマール期においても 20 年代末期にはドイツが「ヨー

ロッパの、いやまさに世界のエアターミナル・センターだ」との意識―もちろ

んその大々的な国家的推進は空軍建設と結びつけてナチス期の平時において一

応実現するのだが―が青少年たちに刷り込まれた。 Fritzche [ 1992 ], p. 179 .  その

一つの重要な発信源がここに見るように独自の航路開拓をめざす世界的航空機

企業としてのユンカース社であったといえよう。

(9)

航空機による代替を広範に可能にするものであった17

 

Mao

博士はこうしたユンカース社の説明を踏まえて何通かの報告書を書 き、北京に決断を促す委曲を尽くした資料を送りたいと考えるようになっ た。そこで、ユンカース社の担当者は、彼のために北部中国航空交通計画 のためのデータや諸価格・コスト計算を用意するよう進言した18  1928年1月6日、Mao博士は中国交通大臣の間接的委託者としてシャル ロッテンブルク工科大学の中国人学生を同伴してデッサウを訪問した。目 的は中国の、特に北部中国における航空交通計画の遂行における北京とユ ンカース社との協力の可能性についての一般的会談であった。訪問者はユ ンカース教授に紹介され、かなり長い時間、一般的な中国の経済事情・交 通事情について、とくに航空交通の可能性について話し合った。会談の結 果、合意に達したのは、Mao博士が、「純国民的な中国航空交通」の可能な 組織について、実験路線、例えば北京―奉天間の路線のための組織の案を 仕上げ、これと関連して特にそのような試験的路線を一般的な中国航空路 網の構築に結び付ける可能性を示唆する構想を練り上げることであった。

そこでは、特にそのことがもたらす政治的、経済的、文化的な諸可能性を 強調すべきものとされた。その仕上げにおいては、「製品の売り込み」とい う性格を持つべきではなく、単に方向を示すもの、そしてきっかけを与え る作用を発揮するものとすべきだとした。また、何らかの義務とは結びつ いてはいない数値に基づいて作成されるべきものとした。しかも、ユンカー ス社の関心は、さしあたりは後々の製品納入に制限されるものとした19  ユンカース社の大陸横断航空路線構築とアジアにおける航空機販売を担 当する部局が、ユンカース教授に提出した覚書は、「中国交通省のための、

北京-奉天間航空交通プロジェクト」と題するものであった。その交通プ

17

Notiz vom 12 . Februar 1927 . Betr.: Besprechung über Russland- und China-Fragen, DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 02 , S. 2 f.

18

Ibid., S. 3 .

19

Aktennotiz vom 9 . Januar 1928 , Besuch Dr. Mao, DMA, FA Junkers, Juluft 0702

T 03 .

(10)

ロジェクトは、北京の交通省による実行の場合は、基本的に国家の側で設 立・運営される交通企業とみなされることになっていた。中国サイドの要 請により、

Mao

博士が中国交通大臣に提出するための資料として、関連航 空機とその予備部品の価格リストも仕上げることになった。中国サイドか らは、ユンカース社に対し、豊富な航空交通に関する経験に基づく基本的 な経済的データの提供が要請された。それは北京の交通省に中国における 最初の規則的航空路線での航空機の活用、運転コストなどについて手がか りを提供することに資するものとされた。検討の結果、問題の区間は第一 には貨物輸送路線とみなされるべきであり、もちろん、投入される貨物輸 送機によっては旅客輸送の可能性によっても補完されるものと見た。そこ で、ユンカース社は機種

W

33の供給に基礎をおいて価格提示をしなければ ならないと判断した。もちろん、ユンカース社のその他の機種も、三発機 も含めて図や説明書では言及することにした。さらに、かなり多数の買い 取りがある場合には、割引率の提示も行ってもよいこととした。中国交通 省に提示する資料としては、ユンカース社の航空交通の経験に基づき

to/

kmあたりの運賃に関する概観も提示し、その際には投入される機種ごと

に、その数、利用程度による違いの数値も提示することにした。中国にお いて実際に存在する諸事情に適合したより正確なコスト計算については、

カウマン博士(後述)による北京でのより突っ込んだ会談を踏まえて明確 にすることとした20

 1928年2月9日付で

Mao

博士に提示された販売提案(機種と価格、その 説明)によれば、次のようになっていた21

20

Aktennotiz. Betr. Luftverkehr-Projekt für das chinisische Verkeher-Ministerium Peking-Mukden (Kirin). DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

21

Schreiben an Dr. Mao vom 9 . Februar 1928 . Angebot Nr. 650 für Verkehrsmaschinen,

DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

(11)

機種:

F

13 単発6座席(乗組員2名を含む)のキャビン交通航空機。エン ジンはユンカース

L

5。

W

33

単発特殊貨物輸送機。航空写真および害虫駆除用の特別モデ ル。場合によっては補助的な旅客交通のための複合機。ただし、

貨物輸送課題を特に考慮。エンジンとしてはユンカース

L

5。

G

24

3発11座席(乗組員2名を含む)のキャビン旅客航空機。エン ジンとしては、3基のユンカースL 5。

G

31

3発14ないし20座席(乗組員2名を含む)のキャビン旅客航空機。

エンジンとしては、3基のオリジナルのBristol-Jupiter.

価格:

F 13 機体・・・・・・・・・・・・・・・・・ 63,000ライヒスマルク

 ユンカース

L

5エンジン1基・・・・・・・・16

,

000ライヒスマルク

W 33 機体・・・・・・・・・・・・・・・・63,000ライヒスマルク

 ユンカース

L

5エンジン1基・・・・・・・・16

,

000ライヒスマルク

G 24 機体・・・・・・・・・・・・・・・・239,4000ライヒスマルク

 ユンカース

L

5エンジン3基・・・・・・・・48

,

000ライヒスマルク

G 31 機体・・・・・・・・・・・・・・・・315,000ライヒスマルク

オリジナルの

Bristol-Jupiter

エンジン3基。1基あたり・・32

,

500ライ ヒスマルク(ただしこの価格は算定のためであり、発注ないし 供給時点に有効なブリストル社オリジナル価格となる)。

 以上の全価格は非包装でデッサウ工場出荷の価格であり、目下有効 な正常供給価格を示している。発注が大きなシリーズで行われる場合 は、価格を発注規模に合わせることを留保する。

 このような提案からは、ユンカース機の民間機の販売可能性の拡大が確 認される。提案を受けた

Mao

博士は5月に中国交通省からの電報で帰国を 命じられ、そのことを知らせるフーゴー宛書簡で、「深甚な感謝」を表明し、

(12)

直近の便で数点手に入った中国刺繍の一つを贈呈した。そして、「可能な 限り早急にあなたに注文を出したい」と伝えた22

 1928年3月14日のカウマンの本社への報告によれば、

Mao

書簡に基づい て面会した交通大臣は、航空路線(北京―吉林)プロジェクトに何の緊急 性も認めなかった。この交通大臣(

Chan-yin-kui

23は軍人(将軍)で、張 作霖の鉄道部局の地位を占め、「非常に速やかに」軍用機に関心を示し、

しかも、機種

K

30に注意を集中した。彼はすこし議論しただけで、元帥(張 作霖)に話すための提案を請求した。北京と奉天の両政府の軍需は「異常 に大きかった」。ただし、「資金はわずかで、当然価格には非常に厳しい制 約」があった。しかし、「非常に難しいが、解決不可能な価格」ではない と見た。この

K

30は、もっぱら爆撃機として利用されることになり、そ の他の目的のための装備は除外して価格設定するものとした。10万ドル 以上では「耐えられない」ので、仲介商社ジームセンの手数料を含め最高 価格約7万5千ドルと見積もった。さらに、交通省で別の将軍(Chu-pei-bing)

―奉天派元航空局長で「抜群に技術的に通暁している」との印象―と会談 し、奉天政府が「なお約80基のイーグルVIIIエンジンをヴィッカース借款 で手に入れることになろう」がエンジンだけでは「何も始めることができ ない」。しかも、すでに手に入れているブレゲ―19機は全部が天候等のた めに使用できなくなっているといった情報を得た。イーグルエンジンを使 用する大量販売可能な機種としては、爆弾射程のあるユンカース機W 33 が適していると、カウマンは売り込みの見込みを伝えた24

22

Schreiben von Mao Yü Hung an Hugo Junkers am 11 . Mai 1928 , DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

23

表記はドキュメントに従う。以下同様。

24

Schreiben Kaumanns an Junkers-Flugzeugwerk A. G. Vom 14 . März 1928 , DMA FA

Junkers, Juluft 0702 T 03 . この後、すぐにも何機かの注文が入る状態になったと

の電報が入ったが、ジームセン商会の中国駐在営業担当者( Sterz )が、ルフト

ハンザの中国進出のために引き抜かれそうになった。 Schreiben an die Junkers-

Werke,Hauptbüro, Dessau, 6 . April 1928 , Ibid. この点でも、ユンカース社とルフト

ハンザは利害を異にしていた。 

(13)

 1928年6月、張作霖が日本軍の陰謀により爆殺され、北伐に成功した蒋 介石・南京政府は、「最初、純軍事的目的のためにのみ航空制度を育成し 促進」しようとする態度だった。したがって、民間航空プロジェクトとそ のための航空機購入は最初見込みがなかったようである。しかし、張作霖 爆殺とどのように関係するのか具体的なことはわからないが、軍事航空制 度は28年9月になっても「なお非常に軟弱」であった。これに対し、むし ろ民間航空への関心の高まりは急速であった。南京政府において、商業航 空交通についても関心が持たれ始めたのは、28年9月の文書によれば、「よ うやく昨年の冬」のことであったという25。しかし、28年1月のユンカー ス社重役からフーゴーへの書簡によれば、日本における航空交通の端緒の 事例、25年―26年のロシアの大陸横断飛行、そしてロシアのバイカル湖 地域からモンゴルへの、および中国北西国境沿線の航空路線が、関心ある 中国人グループに自国の航空交通企業の必要性を「緊急なもの」と認識さ せるに至っていた26

 28年8月2日、南京で特別の会議が開催された。これには、航空交通に 関与していたほぼすべての中国人が参加した。この会議で中国のための一 種の航空交通会社が設立されることになった。その本部が南京に置かれた。

さらに、暫定的に南京政府支配下の領域を三つの主要交通ゾーンに細分し、

第一ゾーンは南京事務所、第二ゾーンは広東事務所、そして第三ゾーンは 開封事務所の担当とされた。またこの会議では、さしあたり三つの主要航 空交通路線、すなわち、1

.)

上海-漢口、2

.)

漢口-広東、3

.)

漢口-北京の3 路線が樹立されるべきことが決められた。上海-漢口路線の構築は南京事 務所、漢口-広東路線の構築は広東事務所、漢口-北京路線の構築は開封

25

Auszug aus einem Bericht der chinesischen Zeitung Da -Kung- Bao , Tientsin, vom 1 . September 1928 über dden Luftfahrt in China, DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

26

Schreiben Waurcik an Prof. Junkers vom 4 . Januar 1928 , S. 1 , DMA, FA Junkers,

Juluft 0702 T 03 .

(14)

事務所に託された。さらに、これら航空交通路線の構築のために外国の資 本を使用することは禁じることが決議された。ここに国民党政権のナショ ナリズムと自立志向は明確であった。航空交通会社の社長は当然に中国人

Chang-Hsing-Yue

)であり、南京に事務所を置いた。彼の最初の課題は上

海-漢口路線の構築であり、この路線はそれをいくつかの区間に分けて樹 立することになった。その区間としては、例えば上海-南京、南京-安慶、

安慶-九江、九江-漢口が考えられた。その構築のため、暫定的に100万 メキシコドルの資本を調達するものとされ、この資本はこの路線に存在す る諸都市によって工面されるべきものとされた。さらに外国中国人が30 万メキシコドルの助成金を約束した。南京政府の軍事航空制度は約100人 のパイロットを擁しており、彼らは戦争終結後もちろん航空交通のために 使用され得る人員であった。しかし、この時点で交通航空機は、この会社 の場合、フランス製が考えられていた。この間、買い入れのため特別の委 員会がフランスに派遣されていた。その派遣先からの情報では最初のマ シーンが3か月以内に中国に到着することになっていた27

 1928年7月20日のカウマンの覚書28によれば、彼は中国への販売に関す る交渉が進展していることを偶然に知った。ユンカース教授から彼に与え られた任務は単に日本だけでなく、中国におけるビジネスでも貢献するこ とであった。したがって、彼は極東に出発する前に、中国ビジネスに関し ても話し合っておきたいと申し出た。8月14日の「中国、南京交通制度」

に関する会議の結果、南京委員会(Nanking-Kommission)のための準備の 細部が最終的に確定した。交通制度のプロジェクトに関しては、担当重役

(プランゲ博士)が中国の旅客・郵便交通等に一般的な前提諸条件を概括

27

Auszug aus einem Bericht der chinesischen Zeitung Da -Kung- Bao , Tientsin, vom 1 . September über dden Luftfahrt in China, DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

28

Aktennotiz von Kaumann am 20 . Juli 1928 . Betr.: Aktennotiz Dr. Bruhn über China

vom 18 . 7 . 28 , DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

(15)

する文書を作成することになった。フォン・ベントハイムは民間航空交通 のさまざまの運営種類について原価・価格計算の提案を作成する仕事を引 き受けた。さらにベルリン事務所の担当者が中国政府のための覚書を仕上 げて提供することにした29

 他方で同日、ユンカース社ベルリン事務所には、広東政府委員会(

Kanton- Regierung-Kommission)がやってきた。この委員会は、ユンカース社の軍

用機販売促進派重役が依頼したバウアー大佐作成の17冊の提案書を検討 し、個々のまだ異論の余地のある不明確な点を明らかにし、可能な限り個々 の提案に関して具体像を作り上げたいとしていた30

 この広東委員会は修理と後々の製造の可能性について確信を持っていた。

デッサウ(ユンカース本社)の仕事としては、彼らに個々の機種について その利用可能性などを提示する必要があるとした。特に、ヴェルサイユの 軍用機禁止をのがれるためにスウェーデンにつくった子会社の所在地「リ ムハムで完全に装備されたマシーン」すなわち軍用機を見ることができる ようになれば、直ちに当地工場の視察をアレンジすることも提案された。

この委員会はさまざまの計画の具体化のための資金も持っているので、会 談でユンカース社販売部がそれぞれに対応した注文を目指して努力するこ とも提起された。仲介者のバウアー大佐は、すでにどの程度広東でユンカー ス社提案に対する承諾がなされているか、知らせを待つことにしていた31  しかし、こうしたユンカースの対中国販売の進展に関しては、イギリス が情報を入手し、国際協定違反だと抗議をしてきた。同じ1928年8月16日 のベルリン事務所のメモによれば、外務省極東部のトラウトマンは、イギ リスの公式サイドから、リムハムから広東への納品によってドイツ側が国

29

Aktennotiz. Betr. China, Nanking-Verkehrswesen am 16 . August 1928 , DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

30

Aktennotiz.vom 16 . August 1928 . Betr. China-Kanton, DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

31

Ibid.

(16)

際的協定を侵害したとして、「最近、非常に不快な形で」問いただされた という。イギリス側が直接問題だとして示唆したのは、機関銃を装備し爆 弾投下装置を持つ航空機の取引であった32

 1928年9月17日付、ユンカース宛の報告33によれば、中国との仲介者バ ウアー大佐と「いわゆる南京委員会」との交渉がデッサウへの再度の訪問

(7月30日)を踏まえて続けられていた。しかも、この間に、ドイツには 中国のほかの委員会も派遣されていた。この広東からの委員会も、9月11 日にバウアー大佐とユンカース工場を視察していた。この広東の委員会は、

単なる購入委員会という性格ではなかった。それは、場合によってはユン カースと一緒に広東の航空機のため、当面小規模な生産施設を樹立するた めの基盤を確立することに関心を持っていた。その場合考えられていたの は、A 35月産3-5機であった。広東委員会の長は中国人将軍であり、彼 は広東兵器庫長(

Direktor des Canton-Arsenals

)であり、その上、第8中国 軍の調査委員会委員長(Vorstand der Studienkommission der 8. Chiniesischen

Armee

)でもあった。彼は二人の技師を同伴していた。その一人は航空機

専門家であり、一人は武器技術者であった。前者は1928年に約8か月ユン カース社で実習生として仕事をし、ドイツの大学で数ゼメスター勉強して いた。この委員会がデッサウに残した第一印象は、すばらしいものであっ た。ただ、中央政府によって派遣された南京委員会の諸課題とすでに具体 的な広東委員会の希望との間に一定の対立が存在しているのかどうか、ユ ンカース社としては見極められない状況であった。両委員会の対立ないし 違いから、場合によっては後々諸困難が生じる可能性があり、仲介者のバ ウアー大佐とユンカース社が求めている全中国問題の統一的な処理が難し くなる危険性があった。

32

Aktennotiz vom 16 . 8 . 1928 . Betr. China, Siemssen – Limhamnlieferung, DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

33

Schreiben des Hauptbüros an Prof. Junkers vom 17 . September 1928 , DMA FA

Jukers, Juluft 0702 T 03 .

(17)

 1928年10月1日付のハンブルクの商社ジームセン(

Siemssen & Co.

)か らユンカース社(

Junkers-Flugzeugwerk A.G.

)宛ての書簡は、中国の商業 航空交通に関して、天津の友人からの情報(9月4日付)を伝えるものであっ た。それによれば、天津発行の中国新聞(“

Da-Kung-Bao

”)は南京政府が 計画している中国における航空交通網の建設に関する報告を抜粋して伝え ていた。報告書には根本的に新しいことは含まれてはいなかったが、南京 政府が少し前から中国における航空交通の構築に関する具体的な計画を作 成していることを知らせていた。ただ、この報告書の最後の節では購入委 員会が何機かのフランス製航空機を買ったという情報も含まれていた34  1928年11月、ユンカース社宛、中国に関する交渉の進展に関する報告が 届いた。交渉進展過程でたくさんの電報のやり取りがあった。カウマン博 士からは、第一に、南京の航空局(Luftamt Nanking)との航空機8機の売 買契約に関して、「我々の関与により、これが決定的となった」と知らせ てきた。航空局長が「我々に対して完全に信頼を示した」と35

 1928年12月22日付のユンカース教授宛報告では、「一昨日、南京で公式に イギリスによ中央政府の承認が行われた」との新聞情報が伝えられた。こ れまでは蒋介石の地位に関する不確実性があったが、この承認手続きは、

疑いもなく、イギリスの重要な態度表明であり、「蒋介石の中国政府の長

Präsident der Chinisischen Regierung

)としての地位への支援があった」と36 その地位の一応確立した中国政府に対する売込みが今後の課題となる。そ の方針は次節でみるとおりであるが、その前に補足しておけば、この間に、

中国における航空機生産でも進展が見られ、広東に小さな工場を建設する

34

Schreiben von Siemssen & Co. an Firma Junkers-Flugzeugwerk A.G. vom 1 . Oktober 1928 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

35

Aktennotiz für Prof. Junkers am 24 . November 1928 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

36

Aktennotiz für Prof. Junkers am 22 . Dezember 1928 , DMA, FA Junkers, Juluft 0702

T 03 . 蒋介石の支配的地位が確認されたとみて、カウマン博士の最後の報告(蒋

介石の実際上の地位についての報告)には「修正が必要」ということになった。

(18)

交渉が進んだ。広東調査委員会との交渉の結果、11月初めには機種

A

35 の組み立てと最終的には製造を目的として小規模の工場設備を広東に提供 することで「基本的合意」ができた。契約前文で両当事者の合意事項とし て、この契約がユンカースと中国政府との間の中国における「可能な限り 自立な全金属製航空機製造の発展のための出発点」を形成することを謳う ものとした37。また、中国における特許保護法の欠如などにどう対処する かも決めた。そして、ユンカース社は契約締結時に25万ライヒスマルク を受け取ること、契約機種のドイツ販売価格に7%のライセンス料を政府 から受け取ること、当面契約締結時の価格としては1万3500ドルとするこ となどが合意された。さらに、政府はユンカースに対し毎年のライセンス 最小額を初年度は契約機種20機体、第二年度は25機体、第三年度は30機 体について支払うことなどを取り決めた。後々しかるべき時が来れば、「当 然にも」政府にユンカース機に関する包括的な契約を締結することも、そ の自由裁量にゆだねることが決められた38。 

3.平和的国際協調路線の堅持と世界恐慌下での奮闘

 ユンカース社は1928年には航空機1000機の完成を記念し、W 33の開発 で一時アメリカに抜かれていた長時間飛行の世界記録も更新した。29年 にはユンカース航空エンジン1000基、ユンカース複ピストンエンジン 1000基の供給を祝うことができた。フーゴーは28年から29年にかけ、アー ヘン工科大学、ミュンヘン工科大学、ギーセン大学、カールスルーへ大学 の名誉評議員・名誉教授・名誉市民など実にたくさんの大学や都市から栄 誉ある称号を受けた。プロイセン科学アカデミーの会員にも選ばれた。こ の年はフーゴーにとって栄光の絶頂点といえるであろう。そして、29年に、

37

Luftpost der Junkers-Werke an Dr. Gottfr. Kaumann vom 7 . Nov. 1928 ,S. 1 - 2 , DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 03 .

38

Ibid., S. 5 - 6 .

(19)

それまでに次々と創立されて大きくなったユンカース・コンツェルンが次 のように5つに編成された。ユンカース教授研究所(

Forschungsanstalt Professor Junkers

、ユンカース・給湯暖房用ガス器具会社(

Junkers & Co., Fabrik für Professor Junkers

Gasapparate zur Warmwasserversorgung und Raumheizung,

(略称

JCO

)、熱量計工場(

Kalorifer-Werk Hugo Junkers

)、ユンカース・エ ンジン有限会社(

Junkers-Motoren G.m.b.H

)(略称

Jumo

)、ユンカース航空 機製造株式会社(

Junkers-Flugzeugwerk A.G.

)(略称

Jfa

)。同年も、次々と 技術開発を達成した。すなわち、航空機重油エンジンでも、ガソリンエン ジンほど軽量にはできなかったが、航空機に組み込みことができるほどの 軽量化に成功した。W 34は12,739メートルの世界高度飛行記録を達成し た。それはこのようやく一年後、アメリカ機に追い越されるという記録だっ た。同型機は国際航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale)から認 定された二つの高度記録も達成した。500キログラム積載で高度9190メー トル、1000キログラム積載で高度7907メートルであった。当時のジャン ボ機

G

38は、試験飛行において5000キログラム積載で速度および距離で 世界記録を達成した39

 しかし、こうした先進的技術開発によっても、世界市場の狭さを打破す ることはできず、開発投資の負担が重荷となった。結果的には1930年か ら31年にかけ、金融困難に陥ってしまった。30年に約75万ライヒスマル クのユンカース・エンジン有限会社の手形が不渡りとなってしまった。次 の年にはそれが全コンツェルンの支払い不能を引き起こした。これは、国 の金融支援を求めざるを得ないほどだったが、援助は得られなかった。民 間企業でユンカース・コンツェルンを引き受けようと関心を示す会社も あったが、結局実現しなかった。最終的には給湯暖房設備製造の工場(JCO)

39

Vorarbeiten für eine chronologische Junkers-Kartothek, S. 84 - 87 , DMA, LR 02462 . 念のために付言すれば、会社名略記にはドキュメントにより違いがみられる。

JCO には ICO Jfa には Ifa の略記が併存する。

(20)

をロベルト・ボッシュ株式会社に売却し、何とか危機を乗り切ることになっ 40

 こうした1929年から31年にかけて会社が直面する厳しい状況の下でも、

ユンカースの平和的国際協調主義の理念は揺るがなかった。全体状況とし ては、20年代半ば以降の相対的安定期はドイツとヨーロッパにおける排 外的ナショナリズムの潮流の抑制と国際的協調の潮流の興隆をもたらした ていた。ドイツの国際連盟への加入とそこでの重要な地位の獲得を可能に した国際的潮流、そして、ブリアンの「汎ヨーロッパ理念」のメモランダ ムの発表とそれに対するワイマール共和国政府のポジティヴな反応は、ま さにフーゴー・ユンカースの一貫した平和的・国際協調主義的・民主主義 的な理念と世界戦略に合致するものであった。それはまさに次に示すよう にユンカース社の進むべき道を示したものであった41

 彼はブリアンの「ヨーロッパの連邦的組織化」とこれに対する政府の態 度に積極的に反応し、ユンカース社が表明すべて諸基本原則と諸目標を明 確にし、実際的な提案を提示するべきだとした。それは、中国における満 州事変勃発の約1年2か月前、30年7月の会議においてであった。彼は、「無 理強いの政策」、軍事的、経済的その他の武器を使った政策、こうした世 界史で不断に見られた政策とは反対に、「世界経済的分業の基礎の上での ヨーロッパ諸国民の個別的諸利害の理性的調整によってのみ、汎ヨーロッ パ・プロジェクトの実現は可能である」とした。その際従うべき原則は、「す べての国がその製造に最良の条件を持っている富を生産するとき、利益の 共通性がすべてのものに最もよく保証される」というものであった。ヨー

40

Ibid., S. 89 . 危機を乗り切るにあたっての最終的な売却先―助けの手を差し伸

べたともいえる-がナチス期に「自由主義的抵抗」を行ったとされるロベルト・

ボッシュであったことは、追放されるフーゴーの政治的志向との関係で興味深

い。 Scholtyseck [ 1999 ]. ワイマール期における「確信的民主主義者」とも評され

るボッシュ( Theiner [ 2017 ] )の検証は今後の課題としたい。

41

Aktennotiz vom 29 . Juli 1930 . Betr.: Stellungnahme Professor Junkers zur

paneuropäischen Idee und der Frage der Verkehrswege und Verkehrsmittel der Zukunft,

DMA, FA Junkers, Juluft 0503 T 32 . 議事録署名者はデートマンである。

(21)

ロッパ諸国民の相互理解を進めるためには、政府だけではなく経済自身が、

特定の経済部門の直接的な意思疎通をはかり私経済的基盤の上でその課題 に取り組まなければならず、ヨーロッパ経済の新秩序において重要な地位 を占めなければならないとした。自社が行った直接的意思疎通の実績とし ては、「プジョーとの諸契約やペルシア・南アフリカ等との航空交通」の 構築を挙げた42

 フーゴーは、ユンカース社が質的に高く割安の技術革新の創造の目標を もって工業的経済的研究の諸課題を追求してきたが、その点で「自社の利 害とドイツ国民の利害とが一致」しているのだとした。なぜなら、世界経 済の分業においてドイツは全体として同じ課題に直面しているからだと。

そして、「汎ヨーロッパ諸計画の実現は同時的な交通問題の解決なしには 考えられない」とした。19世紀に鉄道網の建設と関税の撤廃が国民統合 に決定的な役割を演じたとすれば、ヨーロッパ諸国民の経済的境界の緩和 化においては航空交通が、陸上において鉄道が、海上において船がヨーロッ パ諸国民の経済的分業・商業交通に貢献したよりも高度に、その役割を果 たさなければならない。この課題に、航空機製造における諸経験をもとに、

またユンカース社が創設しまだその掌中にある航空路線によって協力しな ければならない。しかも、こうした課題は、ヨーロッパの境界内あるいは 汎ヨーロッパ理念の実現によっては決して果たされない。世界経済的分業 を基礎にした諸利害の共通性の原則は、ヨーロッパを超えて全世界に及ぼ さなければならないと。この原則的立場はドイツ政府のブリアンに対する

42

Ibid., S. 1 f. 1926 年ユンカース航空機製造会社とペルシア政府との間に航空

会社設立の契約が結ばれた。実際の設立は 1927 年で、ユンカース航空ペルシ

ア( Junkers-Luftverkehr Persien )が設立された。この会社はペルシア政府と契約

を結び、予定の 3 航空路線で 5 年間の旅客貨物空輸の独占権を得た。2 月に営

業を開始し、路線を拡大して、29 年には航空郵便が 27 年の 30 倍になった。27

年の乗客の 10%がペルシア人だったが、29 年にはすでに 57%になった。この

会社に「大きな信頼が寄せられた」ためであった。 ‘Neues aus der Industrie’, Der

Motorwagen, Heft 13 vom 10 . Mai 1926 , BArch MA RH 8 I, 3673 .; Vorarbeiten für eine

chronologische Junkers-Kartothek, S. 84 - 87 , DMA, LR 02462 , S. 82 .

(22)

回答の傾向にもあることだと。航空交通には陸上や海上の交通手段に比し て「はるかに大きなパースペクティヴが開かれている」という確信がフー ゴーにはあった43

 この間、中国市場拡大はどのようになっていたか。1929年2月12日の会 議では、中国の政治情勢がユンカース社自身の利害とかかわって問題に なった。目下最も影響力のある、かつは最も有能な権力者で現在の“中央 政府”のメンバーである蒋介石と馮玉祥の対立が問題であった。内的安定 は問題外で、両者の「公然たる決裂、あるいは武力衝突さえ」多方面から 予測される状態であった。満州―日本問題も「非常に繊細」な問題だった

44。1929年1月からの現地担当者(Otfried Fuchs)とユンカース社との往復 書簡によれば、カウマンの協力のもとで3機の陸上機

W

33の馮への供給が 実現したが、こうした状況ではこれは秘密にしておかなければならなかっ

43

Aktennotiz vom 29 . Juli 1930 . Betr.: Stellungnahme Professor Junkers zur paneuropäischen Idee, S. 3 f., DMA, FA Junkers, Juluft 0503 T 32 . ユンカースは、統一 通貨の創設などもすでに構想していた。その点は。1930 年 7 月 14 日のヴァル ネミュンデでの講演でのべていた。 Ibid., S. 4 .

44

Aktennotiz vom 12 . Februar 1929 . Betr. China, Anfrage Habü v. 8 . I. 29 , S. 1 , DMA FA Junkers, Juluft 0702 T 04 . この時点ではいくつもの主体とユンカース社は契約 にこぎつけていた。1 . 南京委員会とベルリンで(暗号名「フィンランド」)。3 機の A 35、エンジン 5 基、交換部品、航空機整備工場の設備。この契約は、「南 京ないしその近隣の勢力圏」向け。2 . 南京政府(ハンブルク商社 S. & Co. 経由) (暗 号名「日本」)。6 機の A 35 陸上機・水上機、2 機の F 13。水上機並びに水陸機。

これらは南京勢力圏の沿岸地域・大河地域向け。3 . 広東委員会とベルリンでの 契約。1 機の A 35 と追加機オプション付きで。これは広東向け。4 . 馮玉祥との ハンブルク商社 S. & co. 経由の契約。3 機の W 33 陸上機。10 機までの追加発注 義務付き。それに交換部品と整備工場設備。これは Langtschou fou )向け。以 上の航空機供給に 1925 年初めから漸次行われてきた供給を合わせると全部で、

約 22 機の A 20 / 35、水上機・陸上機。同じく 5 機の F 13、水上機・陸上機。3

機の W 33 陸上機となった。全中国への航空機の配置を地域別にみると、広東

地域に 1 機の A 35、南京地域に 3 機の A 35 と修理工場、沿岸地域と揚子江地域

に、6 機の A 35 と 2 機の F 13、そして、おそらくは Langtschou fou )に、3 機

W 33 と修理工場。残りの既供給 A 35 と F 13 は、山西から奉天までの地域に

配備される予定であった。さらに上海からは S. & Co. を通じて、揚子江下流の

統制のための航空測量に関する交渉も進んでいる、と。 Ibid., S. 3 - 6 .

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