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Tokyo Kasei University 若林 正面 繁 右側面 東善寺 背面 木造聖徳太子立像 定する 像底左右の足首の部分に長方形の枘穴を穿ち 台座より出る枘に短沓とともに差し込んで 像を台座に立てる 短沓を別に彫出しているために 像底部の構造がやや複雑となっている 現状では錆漆地をあらわし

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Academic year: 2021

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Several Issues on Standing Wooden Statue of Prince Shotoku in Tozenji Temple

Shigeru Wakabayashi 若林 繁

東善寺の木造聖徳太子立像について

はじめに  東善寺は新潟県東蒲原郡阿賀町の山間地にある小さな寺で、現在では無住となっている。東蒲原 郡は古くは会津領に属し、明治時代に福島県に入るが、明治19年(1886)に新潟県に編入される。 東蒲原郡の津川町、鹿瀬町、上川村、三川村の4町村が合併して阿賀町となった。東善寺は『新編 会津風土記』(註 1)巻之九十九田沢村東善寺の条にある縁起によれば、大同 2 年(807)空海の開 基と伝える真言宗の寺である。聖徳太子立像は現在、本堂脇壇の厨子内に安置されている。『東蒲 原郡史』編纂にともなう仏像調査で、平成21年8月4日にこの像の調査を行った。会津地方には鎌 倉時代からの聖徳太子像の遺品があり、多くは十六歳孝養像である。東善寺像も同様で、ここでは 会津の聖徳太子像との関連でこの像の歴史的位置、信仰の背景などについて考えてみたい。 1 像の概要  像高が78・7㎝である。(註2)巻き上げ角髪を結い、髪際線はあらわさない。立ち襟の袍をつけ る。左肩より袈裟をかけ、左肩前で紐で吊る。右肩に横被をかける。両手屈臂して前に出し柄香炉 をとるが、柄香炉は現状では左右が反対となっている。短沓をはき、両足をそろえて方形の台座上 に立つ。  桂材と考えられる。寄木造で彫眼とし、現状では錆漆地をあらわす。詳しい構造を記すと、まず 頭部は両耳後を通る線で前後に二材を矧ぎ、襟の線で体躯に差し込む。体躯は両体側部をも含んで 裳裾まで一材で彫出し、背面より内刳を施し背板をあてる。内刳は肩下より裳裾上まで及び、長さ は43・1㎝、幅は上で12・0㎝、深さは中央部で8・5㎝ある。像根幹部の構造は以上のようになり、 その他細部では角髪部は各一材で彫出し、両側頭部に矧ぐ。両手首より先をそれぞれ一材で彫出 し、各袖口に差し込み矧とする。短沓も各一材で彫出し、台座より出る枘に差し込んで像底部に固 造形表現学科 日本・東洋美術史研究室

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定する。像底左右の足首の部分に長方形の枘穴を穿ち、台座より出る枘に短沓とともに差し込んで 像を台座に立てる。短沓を別に彫出しているために、像底部の構造がやや複雑となっている。  現状では錆漆地をあらわしているが、袍の裾部、袈裟田相部に唐草文が残り、衣部の所々に金箔 の断片が付着し、もとは彩色が施されていたようである。なお台座は一材で彫出される。  角髪部、両手首より先、持物、台座より出る枘はそれぞれ後補で、両手首の矧ぎ寄せがはずれ、 背板もはずれるようになっている。その他、大きな損傷はみられない。  伝来については、もと境内の太子堂の本尊といわれている。先の『新編会津風土記』には、大同 2年の空海の開基の記述以後、以下のように記されている。 其後空也住して自太子の像を刻て境内に安ず、天正十八年火災に罹り殿堂什器及太子の像も焼 け失せたり、夫より世々太子守宗の僧侶住せり、寛永十二年順盛と云僧住してより真言宗とな り、相継て今に至りしと云(下略) 空也は平安時代に京都の市中を巡り、民衆に念仏を広めたことでよく知られており、空也が住した とあるのは伝承に過ぎないであろうが、このことは当寺に一時浄土系の流れが入っていたことを示 唆しているものと思われる。江戸時代に入り真言宗となったために、開基を空海に結び付けてし まったもので、創建当初の当寺は浄土系の寺院、あるいは一堂であったものと考えられるのであ る。天正18年(1590)の火災によりすべてを焼失し、それより太子守宗の僧侶が住したという。 東善寺 木造聖徳太子立像 正面 右側面 背面

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 この像の造立は天正 18 年以後ということになり、寛永 12 年(1635)に順盛という僧が住してよ り真言宗となったのであるから、それ以前には完成していたことになる。おそらく天正18年以後、 直ちに造立されたものであろう。背面に省略化はみられるものの、整った造形で、衣の襞なども規 則正しく彫出されている。ただそれが平板になっており、特に側面において著しい。技法及び洗練 さのある造形から、中央系の仏師によって造立されたものと考えられる。そして当寺には太子守宗 の僧侶が以後住しており、この像の造立は太子守宗の僧侶によって成し遂げられたのであり、太子 守宗の本尊として安置されたものと考えられるのである。 2 会津の聖徳太子像  会津地方には、鎌倉時代以来の聖徳太子像が伝えられている。例外はあるものの、いずれも十六 歳孝養像である。これらの像についてはすでに紹介され、技法的特色などが論じられている。(註 3)それをもとにここでは、会津の聖徳太子像を概観してみたい。  鎌倉時代の遺品として、まず浄教寺(喜多方市)の聖徳太子立像をあげることができる。像高が 51・8㎝で、両手首より先を欠失しているが、両手で柄香炉をとっていたものと思われる。桂材で、 構造は頭部を一材で彫出し、襟の線で体躯に差し込む。彫眼とする。体幹部も一材で両足枘から両 足先まで彫出し、内刳はない。両肩先から各袖先まで通して、竪に各一材を体側に矧ぐ。その他、 両手首より先など細部に小材を矧ぐ。正徳寺(柳津町)の聖徳太子立像は像高が78・2㎝で、浄教 寺像と同様のすがたである。根幹部の構造は多少異なり、彫眼で、頭部は頭頂より首枘まで通して 両耳後を通る線で前後に二材を矧ぎ、襟の線で体躯に差し込む。また体幹部も竪に前後に二材を矧 ぎ、両肩先より各袖先まで通して竪に各一材を体側に矧ぐ。現状では部分的に截金文様や彩色が残 り、当初は彩色を施した本格的な仕上げをみせていたことがわかる。金川寺(喜多方市)の聖徳太 子立像もほぼ同様のすがたであるが、この像では右肩に横被をかける。前二像と服装において相違 するところである。像高が 102・7㎝で、もっとも大きい。この像にも彩色の跡がみられるが、こ れが当初のものかどうかはわからない。頭部を頭頂より首枘まで一材で彫出し、襟の線で体躯に差 し込む。彫眼であるにもかかわらず、頭頂より両耳前を通る線で面部を矧ぐ。体幹部は両足下まで 一材で彫出し、腹部から膝部にかけて両体側より内刳を施しているようである。両肩の先端、上膊 部より各袖先まで通して、体側にそれぞれ薄い一材を矧ぐ。頭部を首枘まで一材で彫出し、襟の線 で体躯に差し込むところは浄教寺像と同様であるが、この像では面部を矧いでいる。玉眼を嵌入す る予定であったのであろうか。面部内には眼窩に沿って浅い彫り込みがある。体幹部を一材で彫出 しているところも同じで、ただしこの像では両体側より内刳を入れているようである。浄教寺、金 川寺の両像は多少の違いはあるものの、頭体を各一材で彫出し、襟の線で差し首とする基本的な構 造は一致する。正徳寺像のみ、頭部、体幹部ともそれぞれ前後に二材を矧ぎ、襟の線で差し首とす る。本格的な寄木造の技法で、仕上げにもそれがうかがえる。  浄教寺、正徳寺の二像の造形は正統的なもので、中央の直接的な影響を受けて造立されたものと 考えられる。特に正徳寺像は他とは技法や仕上げが進んでおり、中央でつくられ当地にもたらされ

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たものと推察される。浄教寺像は頭体を各一材で彫出しており、一木造の名残があり、この地で造 立されたものであろう。中央仏師の当地への下向が想定され、在地の造像環境への順応がうかがえ る。金川寺像も同様である。浄教寺、正徳寺の諸像は厳しさのある表情に両頬はふくよかで、体躯 の奥行きもあり、衣の襞の表現も太く、写実的な造形である。それに対して金川寺像では、やや在 地化した造形が目立つようになる。眉を寄せた厳しさの残る表情は共通するが、平面的で、体躯の 量感も減少する。しかし衣の襞は深く大きく彫出され、それがいくらか煩雑になっている。浄教 寺、正徳寺の諸像より、多少造立年代も下がるであろう。これらの諸像は鎌倉時代、13 世紀後半 から14世紀初期頃の造立と考えられるのである。  南北朝時代に入ると、急に在地化した造形の聖徳太子像が現れ、技法も一変する。月光寺(柳津 町)の聖徳太子立像は像高が51・6㎝で、大きさでは浄教寺像に近い。立ち襟の袍をつけ、左肩よ り袈裟をかけ柄香炉をとるすがたも等しい。しかしこの像では、頭部は角髪を結うことはなく円頂 としている。構造は頭体幹部通して一材で彫出し、内刳もない。そして両肩先より各袖先まで通し て、竪に各一材を体側に矧ぐ。平安時代以来の、在地の一木造の伝統上にある技法でつくられてい る。両体側部を別材としているところに、寄木造の面影をみることができなくもない。衣部には朱 彩が残り、胸部や裾部に盛り上げ彩色がみられる。在地の造像では素地仕上げが一般的であり、こ の彩色が当初のものか疑問がある。この像の左右の体側材の矧面に以下の墨書銘がある。(註4)    (左体側材矧面墨書銘)    延文六年大才 辛丑七月上旬    (右体側材矧面墨書銘)     佛師頼元(花押)  これによってこの像が延文6年(1361)に造立されたことがわかる。円頂とするところなど簡略 化もみられるが、円頂とともに表情には幼さがあり、体躯の造形も平板で抑揚に乏しい。一木造の 技法とともに、在地化した素朴な造形となっている。  室町時代では在地化が一層進行し、一木造の素朴な造形の聖徳太子像が主流を占める。願入寺 (喜多方市)の聖徳太子立像(註 5)は像高が 71・8㎝で、金川寺像と同様に右肩に横被をかける。 一木造で、現状では胡粉地が残るが、当初は素地仕上げであったと思われる。頭体通して両足下ま で一材で彫出し、内刳もない。この像では角髪や沓先まで、細部に至るまで一材より彫出されてお り、両手首より先のみを矧いでいるに過ぎない。面長な顔貌表現は稚拙でさえあり、横幅のある体 躯は下半身に量感を蓄える。金川寺には先の聖徳太子立像とともに、地蔵菩薩立像(註 6)が伝え られている。この像は像底の角枘の銘記により、明徳4年(1393)の造立とわかる。がっちりした 体躯は願入寺像に通じるが、衣の襞は太く、うねるように彫出される。金川寺像に比べるとこの像 は衣の襞の省略もあり、彫出も浅くなっている。さらに形式化も進み、平板な造形に陥っている。 15世紀前半の造立と考えられるのである。西隆寺(三島町)の聖徳太子立像(註7)に至ると、よ り素朴で稚拙な造形となる。像高が68・3㎝で、髪を角髪に結い、袍をつけたすがたはわかる。し かし衣の襞の彫出は省略され、素朴さを増幅している。頭体通して両袖をも含んで両足下まで一材

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で彫出し、内刳を施さない基本的構造は、願入寺像と同じである。この像では両手首及び両足先を それぞれ矧いでいる。16世紀後半の造立と考えられる。 3 会津の太子信仰  現存遺品からみる限り、会津への太子信仰の流布は鎌倉時代、13 世紀後半から始まったといえ る。浄教寺や正徳寺の初期の作例では、正統的な造形がうかがえ、金川寺像でやや在地化があらわ れてくる。技法上では、襟の線で差し首とするところに特徴があり、鎌倉時代の遺品ではこの部分 ですべて一致する。南北朝時代以降では在地化が進行し、技法も一木造で、素朴な造形の聖徳太子 像が多くつくられる。在地の造像では平安時代以来、一木造の技法が中心である。ところがこの地 で造立されたとみなされる浄教寺や金川寺の諸像は、聖徳太子像特有の差し首の技法が用いられて いる。鎌倉時代には、太子信仰が新仏教各派や旧仏教にも取り入れられ、全国的な広まりをみせ る。このような中で会津にも太子信仰が流入したと考えられるのであるが、同時に聖徳太子像の造 立にあたって差し首の技法も伝えられたことがわかる。南北朝時代以降、在地の造像の伝統に吸収 されるかのように、聖徳太子像においても一木造の技法が普通となる。この頃に会津での太子信仰 の定着、在地化が始まったと考えられるのである。  会津地方には太子信仰の独特の展開があった。太子守宗という特殊な集団が形成されていた。詳 しい教義などについてはわからないが、寺や庵を営み、阿弥陀如来と聖徳太子の二尊を安置し、朝 と夕暮に念仏を唱えていたという。妻帯を一般としていたようである。江戸時代に入り、本寺がな いという理由で別な宗派に改められたり、取り潰されてしまった。そして元禄4年(1691)頃まで には消滅してしまう。会津の太子守宗はまさに中世、太子信仰の定着と在地化の段階で生まれた一 派と考えられる。聖徳太子像造立の在地化の初期は、月光寺像のあたりに求められるであろう。こ の頃、すなわち 14 世紀後半に太子守宗の始まりは溯るのではなかろうか。そして室町時代には、 会津の地に広く定着していったものと思われる。願入寺像は当寺の什物帳によれば、   聖徳太子御 長ヶ二尺三寸立像太子御直作応永已前ノ創立シテ故ト太子堂存在時北方地方ニテ 一二争フテ実ニ参詣人ノ山ヲ成シト云フ時移リテ人家悉ク東ニ頃キ寛文年中ヨリ参 詣人次第ニ減シ堂宇モ従テ大破ト成リ元禄年□ニ至リ当院中ニ移シ在ル者ナリ とあり、応永(1394〜1428)以前の創立というが、造形などから聖徳太子像は 15 世紀前半、応永 の頃と考えられる。もとは太子堂の本尊であり、参詣人も山を成していたが、時を経て人家も移り 寛文年中(1661〜73)より参詣人が減少し、堂宇も大破したところから当寺に移したという。人 家が移ったとはいえ、寛文年中より参詣人が減少したことは、太子守宗の衰退とも合致する。太子 堂は太子守宗であったと考えられる。また西隆寺は『会津鑑』(註 8)巻之五十五西方村の条によ れば、   明応元壬子年稲荷森麓太子守在松竹菴云今年天寧寺六世天附弟子正元改寺名西隆寺 とあり、明応元年(1492)に寺を改めて西隆寺と名付けたというのは、年代的に早いように思われ るが、ともかくもとは太子守宗であった。『新編会津風土記』(註 9)巻之八十西方村西隆寺の条に

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は、   永正元年安竹と云僧常州より来て開基し、慶長四年越後国大室洞雲寺の僧寒翁再興す とあり、永正元年(1504)開基、慶長 4 年(1599)再興を伝えている。おそらく慶長 4 年の再興時 に寺が改められたものであろう。西隆寺像も当寺の太子守宗時代の本尊であったと考えられるので ある。 4 東善寺と地蔵院の聖徳太子像  同じく阿賀町の地蔵院にも聖徳太子立像が伝えられている。像高が33・2㎝の、東善寺像よりは るかに小さな像である。角髪を結い、袍をつけ、現状では両手首より先を欠失しているが、両手に は柄香炉をとっていたものと思われる。この像では右肩に横被をかけていないところが異なるのみ で、他はほぼ東善寺像と同様のすがたをしている。構造は大きく隔たり、一木造で彫眼とし、錆漆 地をあらわす。すなわち頭体通して両袖をも含んで地付きまで一材で彫出し、内刳は施さない。頭 頂部、角髪部、両手首より先及び両足先をそれぞれ矧ぐのみで、他はすべて一材より彫出されてい るのである。右角髪部、両手首より先、両足先をそれぞれ失っており、像の中央部に干割が入って いるが、他に大きな損傷はない。一木造の素朴な技法は、会津の室町時代の聖徳太子像に通じる。 造形も素朴で、この像では西隆寺像と同様に稚拙でさえある。目鼻立ちは不明瞭で、衣の表現もそ れに準じる。衣の襞の彫出も簡略化して、数本の刻線であらわすに過ぎない。背面はまったく省略 され、平滑なままである。ただし体躯は横幅もあり、がっちりした量感はある。材は桂かと思わ れ、当地で造立されたものと考えられるのである。後述のように造立年代は 16 世紀後半とみなさ れる。  現在、この像は本堂内の位牌壇に安置されている。もとより当寺のものではなく、この地方の東 山村の端村である屋敷の個人宅に伝えられたものという。『新編会津風土記』(註 10)巻之百三東 山村の端村の条に   屋敷 面倉より寅の方十町三十間余にあり、家数六軒、東西一町、南北一町十間山間にあり、 とある。面倉は東山村の東をいう。屋敷の地は、山間の家数六軒の小さな集落であったことがわか る。このような小さな集落では寺院などではなく、この像は当初は庵などに安置されたものと考え られ、それが個人の家に伝えられてきたものであろう。伝来をみるならば、この像も太子守宗の本 尊であったと考えられるのである。  南北朝から室町時代にかけて、太子守宗の本尊とみなされる聖徳太子像は、一木造の素朴な造形 の像であった。会津地方独特の在地の信仰である太子守宗の本尊としては、むしろふさわしい造形 といえる。会津地方のみならず福島県内では室町時代に入ると、在地の造像活動が活発化する。先 述の金川寺の明徳4年(1393)銘の地蔵菩薩立像も、両手首より先を矧ぐのみで頭体通して像底の 角枘まで一材で彫出し、内刳も施さない。像高は49・6㎝でやや大きい。長福寺(会津美里町)の 地蔵菩薩坐像(註11)は像高が26・5㎝で、頭体幹部を通して地付きまで一材で彫出し、同じく内 刳は施さない。両体側部に大きく各一材を竪に矧ぎ、脚部は横に一材を矧ぐ。脚部の裏に墨書銘が

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あり、天文4年(1535)の造立と解される。大檀那として「大郎五郎」の名が記され、現世安穏と 子孫の繁昌、後生善処が祈られている。庶民的な祈願内容が知られるのである。この像では頭体の 中心部のみ一材としており、体躯は左右三材で構成され、寄木造に近い技法であるが、基本は一木 造である。平面的で、おとなしい造形となっている。蒼龍寺(相馬市)の菩薩形坐像(註 12)は 両手首より先を欠失しており、詳しい尊名はわからない。像高が24・6㎝で、髻頂より1・8㎝下よ り頭体通して、両手の袖口部をも含んで地付きまで一材で彫出し、内刳はない。髻頂部に小材を矧 ぎ足す。脚部は横に一材を矧ぐ。この像には背面に天正4年(1576)の墨書銘があり、この年の造 立とわかる。左右の眼の長さと位置が少し違い、幼い表情がうかがえる。体躯は平面的で、衣の襞 も単調な刻線のみで、背面の彫刻は省略されている。頭頂部に小材を矧ぎ足す一木造の技法、衣の 襞の彫出の簡略化や背面の彫刻の省略など、素朴で拙い造形は地藏院像と同様で、地蔵院像も天正 の頃の造立と考えられるところである。  室町時代の在地の造像では、各像の大きさは 30㎝前後で、それ以下の像も多く、小像ではある が、一材で頭体の根幹部、あるいは大半を彫出する技法が一般的で、まれに頭体幹部通して前後に 二材を矧ぎ合わせる例がみられる。造形も素朴で、16 世紀後半に入ると蒼龍寺や地蔵院諸像のよ うな拙いものもあらわれてくる。そのような中にあって、東善寺像は天正 18 年(1590)に近い頃 に、太子守宗の本尊として造立されたことが『新編会津風土記』の記載より判断された。天正の 頃、同じ阿賀町で地蔵院像のようなまったく在地化した造像があり、この像も太子守宗の本尊と考 えられた。両極端の造形の両像が、同じ頃に同じ地域で、地域的信仰である太子守宗の本尊として 造立されている。太子守宗として地蔵院像のような造形の方がふさわしく、在地の人々には受け入 れやすかったであろう。そこに東善寺像のような中央系の整った造形の聖徳太子像が出現したこと は、天正の頃、太子守宗に変化があったことをうかがわせる。技法的に頭部を差し首とするところ 地蔵院 木造聖徳太子立像 正面 右側面 背面

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は、鎌倉時代の会津の初期の中央系の聖徳太子像にみられた。中央系の技法、造形を太子守宗が受 け入れたことは、太子守宗が集団として成長し、いくつかの系統が分かれたことを意味しているの ではなかろうか。在地化を進めた地蔵院像を安置した系統に対して、新たな信仰の流れを受け入れ ていった東善寺像の系統が派生していったものと思われるのである。 おわりに  会津の聖徳太子像のうち、金川寺像は右肩に横被をかけている。浄土真宗では七条袈裟をつける とき、正式には横被を用いることから浄土真宗の聖徳太子像には横被をつけるものがあるといわれ る。(註 13)金川寺像は会津への浄土真宗の流入にともなって、この地で造立されたものと考えら れた。(註 14)東善寺像は横被をかけており、頭部を差し首とし、体躯を一材で彫出する基本的な 構造も金川寺像と同じで、両像の時代は離れているものの信仰の形態は変わることなく、浄土真宗 の会津への流入の中で造立されたものと考えられる。空也が住したという東善寺の縁起からも、そ のことがうかがえるであろう。太子守宗については、いまだ不明な点が多い。会津地方には太子守 宗の本尊であったと思われる聖徳太子像の遺品が、まだまだ見いだされる。そのような状況下で 16 世紀後半になると、同じ地域で系統の異なる聖徳太子像が安置されていることが知られ、太子 守宗の拡大にともなう多様化した様子がみられるのである。 註 1) 文化6年(1809)藩撰 『大日本地誌体系』 雄山閣 2) 詳しい法量は以下の通り。(㎝) 総 高   87・3  胸 奥    10・4 像 高   78・7  腹 奥    13・2 頂―顎    14・1  肘 張    20・2 面 幅    8・6  袖 張    22・0 耳 張   10・5  裾 張    17・5 面 奥   10・4  足先開(内)   6・5 肩 張   14・7      (外)  13・3 台座高    9・2   縦     18・6         横     28・1 3) 拙稿「会津の聖徳太子像」『日本美術襍稿』佐々木剛三先生古稀記念論文集 平成10年12月 明徳 出版社 4) 原田文六郎「福島県内の聖徳太子像と太子信仰―中世紀年銘のある太子像を中心として―」『福島 考古』第27号 昭和61年2月 5) 拙稿「彫刻」『喜多方市史』第10巻 平成15年3月 6) 拙稿『福島の仏像―福島県仏像図説―』 平成9年6月 福島県立博物館 7) 拙稿企画展図録『会津の仏像』 昭和62年10月 福島県立博物館 8) 寛政元年(1789)高嶺覚大夫慶忠編 『会津史料体系』 吉川弘文館 9) 註1参照。

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10) 註1参照。 11) 拙稿「彫刻」『会津高田町史』第7巻 平成11年3月 12) 拙稿「戦国期の在地の造像 ―福島の仏像を中心として ―」『陸奥国の戦国社会』 2004 年 8 月 高 志書院 13) 石田茂作『聖徳太子尊像聚成』 昭和51年2月 講談社 14) 註3参照。

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参照

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