幕末期オランダ対日外交政策における
蘭領東インドの役割
―インドネシア国立公文書館(ANRI)現地調査に
基づく蘭領東インド総務局文書の検討から
〔Summary〕 This article aims to discuss the policy of the colonial government in the Netherlands Indies towards Japan in mid-nineteenth century. The study is based on the archival documents of the General Affairs Bureau. The article also reports on the present condition of documents in the National Archives in Indonesia. In practice the General Affairs Bureau dealt with political matters relating to Japan and provided advice to the Ministry of Colonial Affairs in the Netherlands.
Formally, the tasks of the Netherlands Indies government included dealing with commercial, but not political, matters concerning Japan. However, it was confronted with various political issues around the time of the opening of Japan and so it frequently had to ask the Ministry of Colonial Affairs for instructions. The minister, Charles Ferdinand Pahud de Montange, undertook an active and autonomous diplomacy toward Japanese affairs, in order to strengthen Dutch influence in Asia. But in contrary to the minister’s approach, Governor-General Duymaer van Twist preferred a less activist foreign policy in Asia. The latter did not want to become involved in difficulties with the other European powers. Consequently a clash occurred between the minister and his governor-general.
Many documents produced by the Netherlands Indies government seem to have been thrown away because of the limited space available for storage. Only a few memorandums, notes and drafts have survived. It should be taken into account that inside the Indies government no active debate took place on political matter concerning Japanese Affairs.
During the research in the ANRI for this article, secret documents were found that related to the question whether or not diplomatic pressure was to be applied on Japan. The process of the opening of Japan did not develop as fast as had been expected, and the other European powers thought that the Netherlands might be secretly supporting Japanese resistance in order to maximize its own economic interest. It was important for the Netherlands to gain commercial profits, but at the same time it had to avoid any trouble with the Western powers. These documents thus deals with an crucial issue for Dutch diplomacy toward Japan at
は じ め に
本稿は,インドネシア国立文書館( )(Arsip Nasional Republik Indonesia,略称 ANRI。
旧バタフィア地方文書館[Landsarchief Batavia])における現地調査に基づき,幕末期のオラ ンダ対日外交政策を,蘭領東インド(現インドネシア)の日本関係史料を中心に考察する( )。
今回,主に蘭領東インド政庁において日本問題を扱っていた総務局(Algemene Secretarie van de Nederlands-Indische Regering)の関係文書を検討した。幸いにもオランダ対日外交 関係史上,重大な事件を扱っている蘭領東インド総督決議文書を発見することが出来た( )。 本論文では,まずほとんど周知ではない 世紀中葉の蘭領東インドにおける日本問題の状況 とその処理過程を説明し,今回の現地調査から,現在のインドネシア国立文書館における最新 の史料状況をも報告しながら,発見できた現地史料により,蘭領東インド政庁における一日本 問題の処理を検討する。既に筆者は,主にオランダ本国植民省の原文書を用いて,日本開国期 のオランダ対日外交政策について検討した( )。そこで本稿では,この現地実行機関が,当時 目まぐるしく変化する日本問題を,どのように考察していたのか。またどのような地域的な議 論がなされたのか,また実際,現在まで不明であったが,誰が処理していたのかを明らかにす る。これによりオランダ本国と蘭領東インド間に生じた,日本問題の捉え方に関する温度差を 理解し,当時の日本問題における蘭領東インドの役割,そこからアジアにおけるオランダの地 位を浮き彫りにすることを意図している。 問題の所在 オランダでは, 年外務省が日本用件を引き継ぐまで,植民省が同用件を担当してい た( )。日本開国後,蘭領東インドが関わるアジアでの利害だけではなく,オランダ本国の政 治経済的観点から,日本用件は極めて重要な問題となった。当時オランダは,この広大な蘭領 東インドの首尾良い運営から,本国の経済を大いに潤わせていた。この蘭領東インド経営の点 から,アジアにおけるオランダの影響力を維持・向上させることは,極めて重要な問題と認識 されていた。また欧米諸国中,唯一オランダだけが,日本貿易を許されていた。ここから日本 開国にあたりオランダは,欧米諸列強に対し,この特別な関係を政治経済的観点から利用する ことで,ヨーロッパでは領土的小国であるオランダの国家的名声を高め,更に日本開国後の貿 易拡大の見通しから,それまでの日本への知識や経験を生かし,出来る限りの実益を得ようと した。そこでオランダ本国植民省は,当時積極的に日本問題に取り組んだのである。 一方植民省下級官庁で,日本問題の実行を担当していた蘭領東インド政庁にとっては,日本 用件は非常に厄介な問題となっていった。なぜなら同政庁にとっては,この広大な植民地の首 尾良い経営が最優先される問題であり,それだけでも常に容易ではなかった。更に当時アジア には,欧米列強の強力な艦隊が頻繁に訪れていた。このような事実を目の当たりにする蘭領東 that time.
Consequently Van Twist resigned from his position. He was succeeded by Pahud, who reformed the General Affairs Bureau. Thus this former minister of Colonial Affairs himself initiated a more active diplomacy towards Japan in order to restore the Dutch influence in Japan.
〔キーワード〕 インドネシア国立文書館(ANRI),オランダ植民省,蘭領東インド政 庁総務局,幕末期オランダ対日外交政策,圧迫手段適用
インドでは,日本用件で,このような欧米列強と諍いを起こすこと,そしてそこから生ずる直 接的な損失を忌避した。ここから当時日本問題をめぐり,本国植民相パフッツ(Charles Ferdinand Pahud de Montanges, ― )と蘭領東インド総督ダイマール・ファン・ト ウィスト(A.J. Duymaer van Twist, ― )との間に,大きな確執が生じた。この事 件に纏わるテーマは,オランダ国立中央文書館(Het Nationaal Archief,現略称は NA。旧 称は ARA[Algemeen Rijksarchief])が所有する植民省文書により,既に検討された( )。 しかしながら蘭領東インドから植民省に送られる文書の原本,また本国に発送されない現地 における地域的議論・考慮を含む文書は,未だインドネシア国立文書館が所蔵しており,これ らの文書をオランダでは見ることが出来ない。また現在までこの種の史料を用いて,当該の研 究はなされたことはなく,また実際,その存在さえも確認されて来なかったのである。ここか ら,この未見の詳細な地域的議論を含む史料の存在を確認し,更にその検討を行えば,当時の 日本問題をより具体的に,かつ動的に捉えることが出来ると考えられた。すなわち同文書の検 討により,蘭領東インド政庁から本国に発送される文書の作成に,どの程度の議論がなされた か。またオランダ本国に発送された文書は最終稿の清書であるが,それが作成される間,どれ 程の地域的な議論が,そしてどれ位の関係文書が発生したか。更に具体的には,実際蘭領東イ ンド政庁内では,誰が日本問題を扱っていたのか。また一方,どのような意見や議論が,本国 への最終稿に反映されなかったかである。このような視点を念頭に置き,以下問題点を検討す る。 本研究の位置づけであるが,大きくは 世紀中葉の欧米列強によるアジア進出の一環に含ま れよう。西欧諸国の,特に中国を中心とした東アジアの活動においては,多くの研究が存在す る。しかしながらこの種の研究内で,日本を対象とするものは極端に少ない。日本と西欧との 関係では,日本では日蘭交渉史,特にオランダ東インド会社(VOC, Vereenigde Oost-Indische Compagnie, ― )時代の研究は盛んである。しかし本研究が扱う幕末・維新 期の対外交渉史となると,研究は極めて希少となる。またアメリカ合衆国ペリー司令官 (Matthew Calbraith Perry, ― )日本来航( )以降の,幕府の対外政策・政治 改革のプロセスは,専ら日本の史料に基づき検討されている。 このような中,諸外国側からの対日政策を理解できる日本の研究としては,古くは田簿橋 潔( ),その後金井圓( )・石井孝( ),最近ではオランダ外務省文書を初めて全体として紹介し, オランダの対日政策の意義を明確に指摘した横山伊徳の作品がある( )。またペリー司令官日 本来航を中心に英米史料・資料を用いて考察した加藤祐三( ),日本の開国を世界経済史の視 点から分析した石井寛治・関口尚志( ),また幕末初期ウィレム二世の開国勧告からオランダ の対日問題への取り組みを提議した松方冬子( ),幕末期の日本におけるオランダ人の役割に 注目した西澤美穂子( )の研究が挙げられる。また幕末期に活躍したオランダ人の報告書・日 誌等の翻訳により,当時のオランダ人の対日政策,対日観を具体的に示したフォス・美弥子の 一連の作品も重要である( )。 欧米の研究においても,本研究に関わる成果は少ない。それは日本の研究同様,日本開国以 降,日本と欧米諸列強,特に英米仏との関係に焦点が向けられたことによる。イギリスでは, イギリス外務省文書や日本の当時の古文書を詳細に用いたビーズリー( ),コルタッチ( )の一 連の著作は注目される。また当時の駐日外交官等の研究,日誌等は多く出版されている。そし てアメリカでは,アメリカの日本関係外交文書を詳細に用いたグッドマン( )やワイリー( )の 著作は有益である。更にペリー司令官遠征記や当時の日本を訪れた各国要人に関する研究は,
詳細になされている。 ここから本研究は,このような既存の研究の弱点を補うものであり,また新史料により新視 角から関連研究に貢献するものである。すなわち上述の研究状況から,今回インドネシア国立 文書館が保有する幕末期の対日外交を示す文書の検討は,先行研究にはなかった新たな試みで あり,またこの種のオランダ語文書は,現在極めて閲覧が困難である。さらに当面そのような 状況は続くと予想される。そこで以下,未だ分類されず倉庫に眠っていたが,幸運にも閲覧で きた対日政治問題を扱う同文書を,なるべく丁寧に訳出し,文書の状態・体裁等も示していく ことには意味がある。すなわち同手法により,オランダ本国文書の相違も,今回初めて明らか に出来るのである。ここから当該文書から,多少長くはあるものの,あえて可能な限り詳細な 引用・翻訳をしながら,その意義を示したい。 本論 蘭領東インド政庁における日本用件 ナポレオン戦争( ― )後,フランスに併合されていたオランダは,その独立を回復 した。蘭領東インドは,フランス軍の占領後,オランダの同盟国イギリスに再占領されていた。 その後英蘭間で締結されたロンドン条約(Londensch Tractaat, , )により,この 広大な植民地はオランダに返還された( )。オランダは,日本の出島に商館を有していた。そ れはオランダが西欧国としては唯一,所謂日本の「鎖国」期間においても,同国との貿易関係 を続けていたからである。この貿易を実行していたのが,蘭領東インドである。オランダ東イ ンド会社は蘭領東インドを,その解散まで運営した。同会社は,東アジアにおける独占的な貿 易を,オランダ議会からの特許状に基づき行っており,そこで日本貿易も,同会社が実施して い た。オ ラ ン ダ の 独 立 回 復 後,こ の 広 大 な 植 民 地 を 引 き 継 い だ の が,オ ラ ン ダ 植 民 省 (Ministerie van Koloniën)である。そしてその下級官庁が蘭領東インド政庁であり,先の オランダ東インド会社の業務を引き継いだ。
蘭領東インド政庁は,本国植民省の委任を受け,日本貿易を実行した。そこで出島商館は, この蘭領東インド政庁に属する。蘭領東インドでは,主に民間貯蔵局(Departement van Produkten en Civiele Magazijn)が出島商館からの注文や自らの考慮により,日本への貿易 品を選別した。オランダは,日本の国体に干渉しないことを条件に,その独占貿易が許可され ていた。そこで貿易のみの関係でいえば,本国植民省が日本問題について蘭領東インド政庁に 干渉することはなかった。しかしアメリカ合衆国ペリー司令官の日本来航より,日本は開国 ( ―)した。直接的にはこの事件以降,オランダにとって日本問題は,もはや貿易関係の みではなくなったのである。蘭領東インド政庁は,日本貿易を委任されていたが,日本用件の 政治的問題を決定する権限はなかった。すなわち同政庁の日本用件に関する任務は,本国に必 要な情報と有益な考慮と助言を行うことにあった。 蘭領東インド日本関係文書とその性格 筆者は自身の博士論文で,主にオランダ本国にある史料を用いて,幕末期におけるオランダ 対日外交政策について検討した( )。オランダ国立中央文書館にも,蘭領東インドで発生した 文書は保存されている。この自身のテーマ内で述べれば,この文書は大きく分けると,蘭領東 インド政庁内で発生した文書とそれ以外の地域から蘭領東インドに送られてくる文書がある。 前者の中で重要なものは,蘭領東インド決議(Oost-Indische Besluiten),蘭領東インド評議
会の考慮と助言(Konsideratiën en Advies van den Raad van Nederlandsch Indië)( ),オ
ランダ植民相宛蘭領東インド総督半公文書書簡(Semi-officiële beriefwisseling van de Minister van Koloniën)のオリジナルである。そして後者では,特に在日オランダ商館長 (後に弁務官)の報告や書簡,更にはその覚書(例をあげれば,通称ドンケル・クルチウス覚 書( )等)である。直接本国に宛てる文書または書簡を除き,蘭領東インド政庁に送られてき た,またはそこで発生した重要な文書は,基本的にはそのコピー(複写)を本国に送付する。 そこでオランダ本国では,蘭領東インド決議,蘭領東インド評議会の考慮と助言,在日オラ ンダ商館長の報告や書簡,その覚書を,コピーで見ることが出来る。このコピーで送られてき た文書を考慮して,オランダ本国では,更なる関係文書が作成される。この中で重要な文書と しては,蘭領東インド総督への指示や国王への報告書等がある。植民省内に保存される国王へ の報告書には,蘭領東インド政庁から送られたコピーが,資料として付属される。この国王へ の報告書は,植民省内での考慮・意見により纏められるが,そのベースは,蘭領東インド総督 決議や蘭領東インド評議会考慮と助言から成っている。そこから双方の文書には,同表現が多 く見られる。 注意すべき点は,蘭領東インドが,ヨーロッパから遠く離れたアジアに位置するとの事実で ある。特に 世紀中葉から,アジアへの欧米列強の進出は著しかった。日本問題でオランダに とって最も困難な相手は,“ヨーロッパの最強国に匹敵する”と判断された,新興国アメリカ であった( )。アメリカのアジア進出は比較的遅かったが,その活動は積極的に展開され,と うとう日本にも,古来の関係を有するオランダを押しのける形で参入してきた。オランダ本国 では,このようなアメリカの手法を不快に観察していた。蘭領東インドでも,恐らくそのよう であったと思われる。しかしながら蘭領東インドでは,強国アメリカの圧力を間近に感じなけ ればならなかった。このような状況の中,蘭領東インドでは日本問題に関し,自らの地域的な 利害を加味して本国に助言しなければならなかった。すなわち蘭領東インドは,極めて現実的 な状況に立たされており,アジアから隔絶されたヨーロッパの本国は,その現実を容易には理 解できなかった。ここから本国と蘭領東インド間で,日本問題に関する温度差が生じ,その政 策についても大きな相違が生じたと考えられる。 蘭領東インド総務局と総務局文書の状況 蘭領東インド政庁で,日本用件を処理していたのは総務局である。この局は総督官房とも呼 べるが,植民地行政機構との性格,またその規模から,総務局と訳出する( )。日本貿易自体 は上述の民間貯蔵局が取り扱ったが,日本の政治用件は総務局が処理した。例をあげるとアヘ ン戦争( ― )以降,アジアにおける欧米列強の活動が活発になった際,それに関する 情報を日本がオランダに要求した。そこで従来の風説書とは別に作成された文書が,オランダ 別段風説書であり,オランダでは,この別段風説書が日本で高く評価されていることにより, その来航が許されていると考えた時期もあった( )。同文書は,蘭領東インド政庁総務局局長 の監督の下,入念に作成され,更に 年以降は蘭領東インド総督が署名し日本に提出された のである( )。 インドネシア国立文書館における総務局文書の状況であるが,残念ながら同文書は未だ分類 されておらず,同文書館倉庫に入っている( )。そこで請求は,極めて困難である。同文書の インデックスは,マイクロフィルム化されている。しかしながら全体的に蘭領東インドにおけ る原文書の保存状況が悪かったと思われ,同マイクロフィルムの文字の判読は困難,時に不可
能である。この経緯は,「 世紀前半から文書の保存が悪く傷んだり散逸したりしていること が指摘されていた。 世紀後半にはもはやバタフィア城内には年々増え続けるこの書類の置き 場がなくなった。当時の政庁は秘密保持を大原則としていたので,文書を城外へ出すことは考 えられず,むしろ余分なものを廃棄する方法を採り,複本の焼却が行われたという。さらに, VOCの解散後, 年代頃文書が城内から運び出され,様々な悪条件の場所に収納されたた め,破損や紛失などの大きなダメージを受けたとされる。」との状況から推測される( )。 ただ同インデックスから容易に判断できることは,特に日本開国後,日本関係文書の量が著 しく増大し,それは主に,日本からの西欧科学機器に関する要求である。同種の文書との比較 から,これらの文書内で日本の政治的用件を扱っている文書が,「日本用件(Japansche aangelegenheden)」と題される文書と認識される。同文書は,他の文書の量から比べると, それ程多くはない。このような状況から当時蘭領東インドでは,それまで制限され一定の利益 しか期待できなかった日本貿易が,日本からの夥しい商品の要求により,著しく活性化したこ とだけに満足していたと考えられる。しかしそれは余りに多く,時にその要求が満たせない不 安に駆られるほどであった( )。蘭領東インドでは,日本の要求に対処することに精一杯であ った。そこでオランダ本国植民省が推進する対日積極外交について,勿論他の欧米諸列強への 考慮もあったが,オランダが何か特別なことを行う必要がないと考えていたと思われる。 オランダ対日外交政策における日本への圧迫手段適用問 今回インドネシア国立文書館の調査で,総務局文書インデックス内で「日本用件」と題され る日本問題の政治用件を扱う文書を複数請求した。幸運にも唯一,日本への圧迫手段適用に関 する文書を見ることが出来た( )。これは 年 月 日秘密総督決議からなり,比較的厚く, 様々な付属資料を含んでいた。この文書は幕末期オランダ対日外交政策史上,重要な問題を扱 っており検討に値する。ちなみに総務局インデックス( )では,同文書は以下のように記述さ れ,この程度理解される。 「 .世界貿易への日本の開国が失望となった場合,オランダが従う方策に関する 年 月 日 E 号書簡の .日本問題に関しオランダが取るべき手段,そして日本用件の適切な指導と計画された 諸手段の適正な執行を定める所見や異議,または提案に関する国王に提出された二つの報告 書を提供している 年 月 日 244 X 号書簡の .日本との条約を実行する条項を提供している 年 月 日 / 号文書の植民省 急信(Ministeriele depeches)受領に署名。 上述の国王への報告書の写しは,その処理と勅令実行に要求された提案をなすとの記述をし, 蘭領東インド評議会と在日オランダ弁務官に発送された。」 日本は開国し西欧化の途を辿ることになったが,当初その進展は,欧米諸列強の意に沿うも のではなかった。 年,日蘭和親条約が締結される見通しとなった。この条約には,オラン ダの長崎における特権が明記されていた。これは古来の関係にあるオランダが,日本の“親 戚”として優遇された結果( )であり,長崎でのオランダ・中国の特権が公認されたと考えた。 オランダ本国植民相は,この知らせに大いに満足した。しかし蘭領東インド総督は,英米仏が, 日本の開国を遅れさせるような口実に対しては,武力を用いるとも考えられ,それは我々の立
場を極めて危険にすると恐れた。彼は,日本用件において欧米列強が,オランダを嫉妬また誤 解しており,そこでこの仮協約・最終的条約により,この嫉妬・誤解は更に増大するであろう と指摘した。植民相は条約や協約に基づき,オランダだけの権利を明確に獲得する方策を採用 した。なぜなら,それまでのオランダの権利は,文書に基づく明確な根拠ではなく,ただ日本 の好意による,極めて不安定な性格であったからである。しかし蘭領東インド総督は,他国に もオランダと同権が与えられる条約等を結ばないことを提言した。すなわち彼は,実際よりも 大きく見られ問題ともなっているが,オランダが日本にもつ影響力を指摘し,そこで他国の嫉 妬を呼び起こすような条約で諸権利を明確にせずとも,現在日本が持つオランダへの信用から, より好ましい待遇がオランダに認められる方策を選んだのである( )。
このような中,植民省顧問フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, ― ) の提案があった。その中で彼は,日本への圧迫手段の適用を進言した。しかし当時植民省で日 本 問 題 を 担 当 し て い た 歴 史 図 書 部 門G部,い わ ゆ る“日 本 部 局”の ク ラ ッ ベ(H.T. Krabbe, ― )は,このシーボルトの提案に強く異議を唱えた( )。それは,フォン・ シーボルトの主張する圧迫手段適用が,日本に自らの要求を満たせるか否かの二者択一を提供 する場合なら良いが,現在日本は様々な大海上諸国家との関係があり,オランダが日本の要求 を満たさない場合,ただその要求を他国に求めるだけと考えたからである。この状況から,ま ず日本に対して緩やかな圧迫手段を適用することが検討された。オランダ本国では,日本の軍 需品要求を満たすことから生じる国際的非難の危惧があった。そこで当時,日本から要望があ った長崎海軍分遣隊( )は残すが,更なる軍需品の要求には応じないとした。すなわち当時日 本で採用された欧化政策から,オランダに求める“実益”を見捨てられなかったのである。 上述の理由から,まずこの緩やかな圧迫手段適用の問題について,蘭領東インド政庁に報告 された( )。その後 年日蘭和親条約において,オランダが獲得した日本からの譲歩や権利 が縮小される傾向が認められた。そこで植民相は対日政策を修正せざるを得なくなり,日本へ の緩やかな圧迫手段適用を決めた( )。当時日本との交流がより深まり,出島商館が大きな利 益をあげていたが,日本の武器要求について,差し当たり緩やかな圧迫手段を一時的に適用す ることは,問題がないとした。しかし植民相は蘭領東インド総督に,この圧迫手段を即座に手 放すことができ,この固執により我々の商業的利害が犠牲にならないようにと注意を促してい る。すなわちこの圧迫手段適用を見誤ることにより,大損失を招くことを極度に警戒したので ある( )。ここから日本への圧迫手段適用は,当時のオランダ対日外交政策上,極めて重要な 問題であった。 圧迫手段適用に関する蘭領東インドでの処理 蘭領東インド総督秘密決議文書が直接本件を扱っている最も古い文書は, 年 月 日 番O号植民省急信である。この文書は,数々の膨大な文書群から構成され,条約に関する 日蘭双方の文書や,それを見て作成された本国植民省の観察等の重要な史料を含んでいる( )。 当時日本問題に関して,本国と蘭領東インド政庁における意見の相違が先鋭化していた。すな わち植民省は,日本問題を積極的に取り組み,同問題の中で,他の欧米諸列強に対して指導的 な役割を果たすことで,オランダの“国家的名声”を高めたかった。しかし蘭領東インドでは, この問題に何ら特別な価値を置かず,それ以上に他の欧米諸列強との点で,災いを起しうる厄 介な問題と観察していた。そこで同急信内で植民相は,蘭領東インド総督に対し,緊急を要す る日本用件の蘭領東インドでの処理が遅すぎること,また日本から発送された文書をただ転送
するのみで,何の助言や考慮もなされていないことを挙げ,実行機関としての役割を果たして いないことを咎めている。また上述の理由から蘭領東インドでは,直接的な日本への圧迫手段 を行わないとしていた。これに関して植民相は,現在差し当たりその意見に同意するが,貿易 の点で日本の一層の開国に向け努力するよう指示を送った。 この蘭領東インド決議文書では, 年 月 日文書については回答したと書かれている。 そこでその後生じた状況の変化から, 年 月蘭領東インド総務局から蘭領東インド評議会 へ,改めて照会したと思われる。蘭領東インド評議会は, 年 月 日付文書により,本件 に関する考慮と助言を総務局に送っている。その中では,以下のように述べられている。 「蘭領東インド評議会の誤解がなければ,蘭領東インド総督から求められた考慮と助言は, 我々と日本間の現在の政治的関係と,先年 月に同国と締結された条約に関する同評議会の観 察と思われる。しかし同問題の解決には,現在手元にある文書からでは,この評議会は十分な 説明を受けていないと思われる。すなわちこのためには,重要な文書が欠けている。それは a. 年 月 日 番O号植民省急信[ 年 月 日 KI 号秘密東インド決議文書] で送られた日本との条約締結に関する全ての文書 b. 年締結された日本との仮協定 c.最新の日本派遣に関するファビウス中佐(Gerhardus Fabius,1806―1888)の報告書 である。 ここから同評議会は,このファビウス中佐の報告書写しと上述の文書が届くまで,差し当た り当該文書に関する助言を控える。」 その後 年 AG : 423 a 秘密文書に関して, 年 月 日 番蘭領東インド政庁書記官 書簡が蘭領東インド評議会に送られている。この AG : 423 a は覚書(メモ)であり,この内 容は,「この度付属資料を送付するので,ここから先に生じた諸問題を解決し得るか」との照 会である。この短い記述によって,具体的な事実を正確には判断できない。しかしテキストで は「 ・ 年の延期と出島人員改組提案」と読める。恐らく延期とは,この圧迫手段適応 の延期と思われる。ただ明らかなことは,この 年時点でも, 年の問題が未解決となっ ていることである。 これを受け,蘭領東インド評議会助言の文書が続く。これは 年 月 日付蘭領東インド 総督宛となっている。この中では同評議会が,以下のような考慮と助言を送っている。 「日本から国王蒸気船メドゥーサ(Medusa)と 年同地に渡航したオランダ商船が帰還 した。そこで両船から日本用件に関する文書が,蘭領インド評議会に送付された。しかし蘭領 東インド評議会は, 年 月 日 Z 3 号第一等書記官秘密書簡内で了解済みであるが, 年 月 日 番官房書簡で意図された以上のことはないと観察している。しかしこの判断に 同評議会が,当該文書を考慮して,蘭領東インド総督に考慮と助言を行うことが良いと思われ, そこでお伝えする。 年 月 日 369 a 番委員会に基づく 年 月 日 番蘭領東インド評議会助言を考慮 し, 年 月 日 番 U 1 号官房書簡で扱われているが,当該用件に関する同評議会の任 務は極めて簡単に実行された。この結果, 年 月 日 65/C 番秘密植民省急信と,同文書 に複写で添付された 年 月 日 番国王への報告書から,日本問題に関しオランダが従う
べき政治的ガイドラインに関する洞察の違いが,蘭領東インド文書では一層際立っているが, 明らかであった。それは 年 月 日 196/O 番秘密植民省急信でも同様で,このため諸見 解への総意が取られた。 年 月 日Z号秘密官房回答書による,現在国王が承認した政治原則内よりも, 年 月 日条約が,二年以内に双方の君主による批准を条件に,双方の全権により署名される方 が好ましかった。しかしこの評議会の意見は,この理由で同批准を控えることにはならない。 保留すべきではない同批准は,本件で,命令を忠実に実行している我が全権ドンケル・クル チウスの影響力に,何ら大きな影響を及ぼすことはないと思われる。更に現在,ドンケル・ク ルチウスが同時期に制定した追加条項について,既に 年 月 日,彼は日本政府と交渉を 開始している。またこの批准により,日本政府が大きな関心を向けることで,追加条約への更 なる交渉が望ましい結果になると期待されるならば,これは一層異議のないものと思われる。 そこでこの限りにおいて,なお一層必然的に推し進められるべきである。 蘭領東インド評議会は,上述の観察に留まる。この中には同評議会が,問題の用件について 助言するには遅いものもある。しかしこれは要求される全ての回顧録と文書が閲覧できない結 果でもあり,その中には現在も,ファビウス艦長の報告書が欠けている。同報告書については, この目録と覚書Aで述べられた 年 月 日 番在日オランダ弁務官書簡で指摘されている。 この遅れから,本件における蘭領東インド政庁への,そして蘭領東インド評議会の更なる観察 が母国に届けられる前に, 年 月 日 183 a 番 F 4 a 号蘭領東インド官房書簡で提出され た文書が,必ず植民相に届けられるべきである。 以上をもって蘭領東インド評議会は,上述の観察の報告に留め,そして同評議会に要求され た助言は終了したとお考え下さい。」 その後 年 月 日付で,蘭領東インド評議会から蘭領東インド総督に,約 センチ程の ファイルが送られている。この中で,その後の蘭領東インド評議会の考慮と助言が送られてい る。これは同年 月 日になされた同評議会の助言に基づいている。これを受け,総務局内で 問題点が総括されている。これは 月 日付で,以下のような内容である。 「これらの文書は,処理のため私の手元にあります。 簡潔に述べますと,蘭領東インド評議会助言内では三点,a,b,cとして,説明が求めら れております。 a.これはその通りです。その意味は,先年になされた以上のことは行わない。 b.これに関しては, 年 月 日Z号のこちら側の官房書簡に,上級政府の回答がなさ れるように思われる。発送された覚書 Ia を参照されたい。 c.これについてはファビウス氏の報告書がある。覚書 Ib と II を参照されたい。 同文書と蘭領東インド評議会助言について複写を取り,これらをもう一度照会のため,海軍 局に報告することが最善と思われます。 [cの隣に大きな括弧の書き込みがあり。以下のc:筆者注] c.同評議会はちなみに,上級政府に加担するような処理済み規定(提案)を出来ないであ ろう。(その後判読不能:筆者注)」 このa,b,cの項目は,上述の 年 月 日蘭領東インド評議会からの総務局への回答
書内で,欠けている文書として挙げられたものと一致する。ここから総務局では,この返答に 四か月以上も要していることになる。また良く判読できず,残念であるが,cの横につけられ た書き込みは,恐らく本国植民相と対立する,蘭領東インド総督を安心させるものと思われる。 更にこの文書には,小さな覚書が付いていた。この種の書類は,問題を直接取り扱うよう指示 された官吏によるものである。多少判読しづらいところがあったが,この内容は,おおよそ以 下である。 「照会された 年 423 a 秘密委員会決議への 年 月 日 番蘭領東インド評議会書簡 は,私が処理しました。明確に述べられることは,同評議会の先の文書で,特別に(斜体強 調:筆者注)指示されている 年 番秘密議事録ファビウス艦長報告書を,私が添付したこと です。その証拠に文書脇に署名がなされ,現在もこの史料室にある当該の 423 a 番委員会決議 は,C局で処理され, 年 月 日 番蘭領東インド政庁書記官書簡に引き継がれます。 同時にこの部局に送られてきた他の日本関係文書があり,これについては覚書が作成されま した。 ファビウス氏報告書 年 番秘密議事録は,C局か蘭領東インド評議会にあると思われます。 (同史料室では,これ以上の説明は出来ません) 年 月 日ハイティング」 この問題を照会され,回答をなした人物は誰か。幸いそのきれいなサインから,文字が判読 されたので,『 年蘭領東インド官吏名簿』( )の総務局スタッフを調べると,第三等書記官
(Derde kommiezen)の中に,この名前(D[irk]. Heijting, ― )( )があった。ここ
から当時総務局で,この問題を担当したのは,ハイティングと判断される。 そして恐らくこの総務局の処理から,蘭領東インド評議会 番と 番とする, 年 月 日 番と 年 月 日 番委員会から, 年 月 日付秘密文書が作成された。内容は 以下である。 「現在 年 月の日本用件に関するこちら側から上級政府に提出した文書を取り扱ってい る 年 月 日 r番と 年 月 日 258 Y 番植民省急信を拝受しました。そこで 年 月 日 番秘密文書と 年 月 日 番秘密文書に関する委員会により,同時にこれ らの処理を,蘭領東インド評議会が特別に行います。 年 月 日 番と 月 日 番秘密文書の外務・植民両大臣の国王への報告書につい て認識した後,蘭領東インド評議会は本委員会の最初の文書( 年 月 日 番秘密:筆 者注)を考慮すると, 年 月 日と 月 日 番と 番秘密文書の委員会で, 番, 番と 番で, 年 月 日になされた助言を参照すべきように思われます。 同委員会における次の文書( 年 月 日 番秘密:筆者注)と上級政府の命令遂行に 関しては,同評議会は以下のような判断,すなわちまず以下に限定すべきであります。それは 既出の両大臣による国王への報告書の内容を在日オランダ弁務官に伝え,その際 年 月 日 K 6 号と 年 月 日 L 6 号(秘密)官房回答書で,国王陛下は既にこれらの報告書の 趣旨に同意され,そこで同処理を喜んで委任されたと報告する。同弁務官に指示することは, その処理を実施し,当該の国王の命令を実行するために,出来る限り必要な提案を行うこと, そして上級政府の考慮を最善に促進すると思われる考慮と説明を蘭領東インド政庁に行うこと
である。」 以上検討してきたような蘭領東インド政庁内における,様々な地域的議論と,最終的には, この蘭領東インド評議会の考慮と助言から, 年 月 日蘭領東インド総督決議が作成され た。内容は以下である( )。 「 年 月 日バイテンゾルフ 秘密文書 Ya 号植民相の諸書簡を読んで, a. 年 月 日 番 E 号秘密文書について。これは 年 月 日 F 1 号秘密決議を扱 う 年 月 日 番 O 号秘密指示書の結果, 年 月 日付 番により外務省との共同 で提出された国王への報告書複写を提出し,そして世界貿易への日本の開国が失望となった場 合,どのような手段をオランダは取らなければならないかを問うている。更に 年 月 日 Z号秘密官房回答書により,国王は本件に同意し,その結果要求された権限を与えたとの報告 をも含んでいる。 言うまでもなく,本件に関し植民相が明白に述べていることは,同報告書で提案されている 日本に関する政治的指針は,実際諸目的,とりわけ十分な同文書の結論のようなものでは全く なく,各々固く繋がれてきた決議の意味で捉えられなければならず,むしろある実験のような ものである。すなわちまた圧迫手段の適用を,何時,今か,その後に移行するか。この適用の 際,日本政府への多くの配慮を行うべきであり,この実行には,常に今後の状況に依存する。 b. 年 月 日 番X号秘密文書について。これは 年 月 日・ 月 日 3/33 番 と 年 月 日・ 月 日 番秘密文書である外務大臣との国王への二つの共同報告書を 提供している。これら報告書は,日本の状況によりオランダが採る同用件の諸手段や,若干の 所見や異議,また日本用件の適切な指導と立案された諸手段の適切な実行を保障する観察や提 案を行っている。 更に同書簡は, 年 月 日 K 6 号と L 6 号官房回答書から,更に国王がこれらの両報 告書の趣旨に同意され,本件を委任したとの報告をも含む。 そしてこの大臣が,必要な実行を蘭領東インド政庁に行う要請をしている。 c. 年 月 日 番 Y 号秘密文書について( )。これは 年 月 日オランダ国王と 日本皇帝との双方の全権間により長崎で締結・署名された日本との条約について, 年 月 日に署名され制定された実効文書(条約:筆者注)を提出している。そして在日オランダ弁 務官に,この批准された条約を交換し,また提出された書式に従い,同種の日本政府の文書や この交換に関する口頭調書を作成することを要請している。 条項b,cで述べられた書簡,すなわち 年 月日本用件に関し上級政府に提出された文 書の処置を含んでいる。 年 月 日 番蘭領東インド政庁第一等書記官書簡に注意せよ( )。これには,後に なされる指示と上述の諸報告書や条項b内で記されているものに関する在日オランダ弁務官へ の仮報告を含んでいる。
更に 年 月 日 番付同様の書簡に注意されたい( )。それには既に条項cの上級政
府の要請が扱われている。― 同時に以下の文書が提供されている。
.同条項bで述べられている 年 月 日/ 月 日 3/33 番植民・外務両大臣による国
王への報告書が掲載されている 年 月 日 番『オランダ官報』。
.条 項bで 述 べ た 大 臣 報 告 書 番 に 関 す る 年 月 日 ラ イ デ ン の ホ フ マ ン 教 授 (Johan Joseph Hoffmann, ― )の書簡。
蘭領東インド評議会による 年 月 日 番, 番, 番と 年 月 日 , 番助言。 以下が了承,理解される: 先行する大臣書簡と付録の受領により,覚書を作成する。そして条項a,bで述べられた国 王への諸報告書,そして条項cで述べられた日本との条約に関する実効文書の複写を,以下に 発送する。 .蘭領東インド評議会へ。情報提供のため。 .在日オランダ弁務官へ。この処理と国王の当該諸命令を実行し,更に出来る限り要求さ れる提案を行い,上級政府の洞察が最も促進されるように。蘭領東インド評議会に複写。 オランダ弁務官には抜粋と,既に発送した 年 月 日報告書を除く複写( )」 緩やかな圧迫手段適用問題の帰結 幕末期オランダ対日外交政策史上,重大な用件の検討であったが,結果は曖昧なものとなっ た。しかし文章は,今後を期待させる。これは当時蘭領東インド総督が,対日消極政策者であ るファン・トゥストから,対日積極政策者で,先の本国植民相パフッツに代わっていることに よる。すなわちここで挙げられている本国における日本関係の重要文書は,彼(パフッツ)の 手によるものであり,先の植民相の考えを,(本人である)彼が「明白に」と記述することは 理解でき,またおかしくも聞こえる。更にパフッツは,蘭領東インド総督として受領した国王 の決議文書に対し,「私は日本問題で貴下に一致している。」と新植民相マイヤー(Pieter Mijer, ― )( )に明言し,そこで日本の要求に対して制限なく援助を与えることを述 べている( )。このパフッツの蘭領東インド総督就任後,同総務局・評議員の改組がなされて いる。すなわちパフッツは,現状から最大限積極的に同問題を捉え,取り組んだのである。 この総督秘密決議は本国に送られた。しかしこの文書では,圧迫手段適応を状況次第として おり,ここから本国が何か新しい措置を考えた様子はない。その後日本から 年条約に基づ く, 年追加条約の知らせを受ける。これにより,未だ長崎のみの制限的な貿易形態ではあ るが,以前の状況から比べると大いに貿易が解放された。そこで本国では,この追加条約条項 が,着実に実施されるように蘭領東インドに指示を送っている。同条約による新しい貿易形態 は,他の諸外国にも開かれてはいたが,既存の長崎貿易を拡大した制限貿易であった。当然こ のような貿易形態を,アメリカは認めなかった。そこでその後在日アメリカ総領事ハリス (Townsend Harris, ― )は,日本との交渉を続け, 年日米修好通商条約を締結 する。これにより全世界に,普通貿易の道が開かれた。ここからオランダの,圧迫手段適用に 関するオランダ本国植民省の,政治経済的苦悩は完全に終わりを告げた。
お わ り に 日本開国後,蘭領東インド政庁は目まぐるしく変化する同用件を,実行機関として,本国の 指示に基づき迅速に処理する一方,本国に必要な情報と考慮を早急に提供しなければならなか った。またこのような状況の中,当然最大の案件である,蘭領東インド領内の厄介な統治も行 わなければならなかった。ここからアジアから遠い本国の考慮と,現地実行機関との考慮には, 大きな隔たりが生まれた。 今回限られた史料からの考察ではあったが,現地調査により,幕末期のオランダ対日外交政 策史上,重要な用件であった日本への圧迫手段適用に関する事件に注目できた。そして本件に おける蘭領東インドにおける地域的で詳細な議論,更にその実態を明らかにした。このオラン ダ本国と蘭領東インド間の温度差を,地域的史料から検討・理解できたことは,大変貴重であ った。 上記に検討した蘭領東インド政庁内の地域的文書は,現在もインドネシア国立文書館が有し, それ以外では見ることが出来ない。同史料の分析・検討から,今まで理解されてこなかった新 たな事実が数多く浮かび上がる。このような検討の継続から,未知の蘭領東インド政庁の側面, また当時のより正しい洞察も可能になると思われる。そこで今後一層,同史料への注目が望ま れる。 註 ( ) 現在のインドネシア国立文書館は, 年以来の新館である。 年からその時点ま で は, 年に設立された蘭領東インド総督旧邸(通称ガジャマダハウス)が旧文書館であった。 旧館所蔵文書の目録化(目録名:ガジャマダ[Gadjah Mada])は終了し,現在はボゴール(オ ランダ名:バイテンゾルフ[Buitenzorg]。蘭領東インド総督の避暑地。そこで公務も行われて いた)に置かれていた 世紀後半以降の文書を整理中(目録名:ボゴール[Bogor])である。 ( ) 東南アジア・アフリカ諸国で一般的であるが,インドネシアでの研究も許可が必要である。 またこの手続きは,容易ではない。これに関しては拙稿「インドネシア短期研究滞在を充実さ せるために―インドネシア国立文書館(ANRI)における調査を例にして」『広島東洋史学報』 第 号 年を参照されたい。
( ) この本文は蘭領東インド決議録(Besluiten van Indische Regering)に含まれ,オランダ国 立中央文書館の蘭領東インド総督秘密決議集(NA, Register der Geheime Besluiten van den
Gouverneur Generaal van Nederlandsch Indië)内で,そのコピーを見ることができる。しか しながらこの決議文書作成に関わる細かな議論を扱う文書は,オランダでは見ることが出来な い。
( ) Minori Kogure, National Prestige and Economic Interest - Dutch diplomacy towards
Japan 1850―1863, Maastricht (Shaker Publishing), 2008. (オランダ国ライデン大学学位 論文;英語) ( ) ここからオランダは,日本を植民地と見なしていたのかと考えるかもしれないが,それは正 しくない。これは植民省が,ヨーロッパの理解や習慣の異なるアジアの国々との関係に慣れて いたこと,そこでそのような国々との条約締結の権限が付与されていたこと,そして特には距 離的に近い蘭領東インドを有しているため,同省が日本用件を処理することは,最善と考えら れていたことが理由である。 ( ) 拙稿「国家的名声と実益―幕末期のオランダ対日外交政策への一視点」『駿台史學』 号
年。 ( ) 田簿橋潔『増訂近代日本外国関係史』原書房 年。 ( ) 金井圓『近世日本とオランダ』放送大学教育振興会 年。 ( ) 石井孝『日本開国史』 吉川弘文館 年。 ( ) 横山伊徳「日本の開港とオランダの外交―オランダ外務省試論」『アジアの中の日本史Ⅱ』東 京大学出版会 年。更に幕末期の対外交渉の著作として,同『開国前夜の世界』吉川弘文 館 年がある。 ( ) 加藤祐三『黒船異変:ペリーの挑戦』岩波新書 年。同『幕末外交と開国』筑摩書房 年。 ( ) 石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』東京大学出版会 年。 ( ) 松方冬子『オランダ風説書と近世日本』東京大学出版会 年。同『オランダ風説書― 「鎖国」日本に語られた「世界」―』中央公論新社(中公新書) 年。 ( ) 西澤美穂子『和親条約と日蘭関係』吉川弘文館 年。 ( ) 代表的な作品として,フォス美弥子編訳『幕末出島未公開文書―ドンケル=クルチウス覚え 書―』新人物往来社 年。同『海国日本の夜明け』思文閣出版 年がある。
( ) Beasley, W.G., The Modern History of Japan, London, 1963. Beasley, W.G., Great
Britain and the Opening of Japan 1834―1858, Folkestone, 1995(rep.). ( ) Cortazzi, Hugh(ed.), British Envoy in Japan 1859―1972, Folkestone, 2004. ( ) Goodman, Grant Kohen, The Dutch Impact on Japan (1640―1853), Leiden, 1967. ( ) ピーター・ブース・ワイリー著 興梠一郎訳『黒船が見た幕末日本―徳川慶喜とペリーの時
代』ティービーエス・ブリタニカ 年(Wiley, Peter Booth with Ichiro Korogi, Yankees
in the Land of the Gods - Commodore Perry and the Opening of Japan, New York, 1990) ( ) 拙稿「幕末オランダ対日外交政策に関する諸前提―植民地規定に関するイギリス・オランダ
のロンドン条約を中心にして―」『洋学』 号 年。
( ) Kogure, National Prestige and Economic Interest.
( ) 同文書は植民省文書目録で個別に分類されておらず,同省内の個々の文書内で,蘭領東イン ド総督決議文書等に添付されて見ることが出来る。
( ) フォス『幕末出島未公開文書』。
( ) オランダ国立文書館植民省秘密文書(NA, Ministerie van Koloniën Geheim,以下 MKG)
内 年 月 日 番内 年 月 日 番 E 号書簡。 ( ) 拓務省文書課編『蘭領東印度の統治機構』東京 年では,総督官房と訳出している。ま た規模であるが,同時期の司法局(Justitie)と比べると,ほぼ同じ人員数(約 人)である。 ( ) MKG, 年 月 日 番書簡。この中で前在日オランダ商館長メイラン(G.F. Meijlan) の報告書から「別段風説書は,我々が日本に認容され,友人として見なされる重大な理由であ る」との言葉を挙げ,この意見を共有することは少しも困難ではないとしている。更に同種の 発言はオランダ議会下院議事録(Handelingen Tweede Kamer 1856―1857)p. でも見るこ とが出来る。
( ) オランダ風説書に関する研究書としては,松方『オランダ風説書と近世日本』。
( ) 現在同文書館のオランダ東インド会社時代の文書は,ほぼ分類されている。その最新のカタ ログが,G.L. Balk, F. van Dijk, D.J. Kortlang, F.S. Gaastra, Hendrik E. Niemeijer, P. Koenders, The Archives of the Dutch East India Company (VOC) and the Local Institutions
in Batavia (Jakarta), Brill, 2007.
―」『東京大学史料編纂所研究紀要』第 号 年。
( ) MKG, 年 月 日 番。
( ) 同用件の経緯について詳しくは,拙著「国家的名声と実益」を参照されたい。この文書は, インドネシア国立文書館 GH Besluiten 1857 Agustus 20 LY, Algemene Secretarie, 1816―
1942, NO.INV: ・ である。
( ) インドネシア国立文書館 Daftar Indesk Folio Dan Klapper Gajah Mada (GM).
( ) ドンケル・クルチウス覚書 番から,フォス『幕末出島未公開文書』p. .MKG,
年 月 日 番。
( ) MKS(植民省半公文書書簡), 年 月 日 番植民相宛蘭領東インド総督書簡。
( ) 彼 の 生 没 年 は オ ラ ン ダ の ハ ー グ に あ る 家 系 学 研 究 所(Het Centraal Bureau voor Genealogie, CBG)のファイル(Familieadvertenties Krabbe Collectie : (1716) Gescande Familieadvertenties tot 1970)に含まれる訃報通知から判明した。それによると「植民省元局 長(Oud-Referendaris)ク ラ ッ ベ は, 年 月 日 ハ ー グ に て 歳 で 没 す る」と あ る。 MKG, 年 月 日 番内 月 日報告書。シーボルトの提案は同年 月 日 番。 ( ) この分遣隊について詳しくは,拙稿「シェイス著『オランダ日本開国論』付属資料 II「オラ ンダ海軍日本分遣隊の歴史」」洋学研究誌『一滴』(津山洋学資料館紀要) 号 年を参照 されたい。 ( ) MKG, 年 月 日 番内 月 日報告書。そして MKG, 年 月 日 番内同年 月 日書簡。更に MKG, 年 月 日 番。 ( ) MKS, 年 月 日 番 蘭 領 東 イ ン ド 総 督 宛 植 民 相 書 簡。こ の 共 同 報 告 書 と は, MKG, 年 月 日 番を指している。 ( ) MKG, 年 月 日 番。MKS, 年 月 日 番蘭領東インド総督宛植民相書簡。 ( ) MKG, 年 月 日 /O番。この文書は膨大なため,文書館での収納に,小箱丸々一つ 分を要している。
( ) Almanak en Naamregister van Nederlandsch-Indie, voor 1857, Batavia, Ter lands-Drukkerij, 1857.
( ) 彼の生没年は,オランダ国立中央文書館旧植民省文書内の蘭領東インド官吏名簿
(Oost-Indië : Stamboeken Ambtenaren en Gouvernementsmarine, 567 [Register : G 1])と家系学 研 究 所 の フ ァ イ ル(Familieadvertenties Heijting Collectie : (1716) Gescande Familieadvertenties tot 1970)から判明した。この官吏名簿によると,彼が総務局内で,
年第二等書記官, 年第一等書記官, 年首席書記官と着実に昇進し, 年には第二等
民間首席官吏(Radicaal van Ambtenaar der Tweede klasse), 年には総務局局長 (Referendaris ter Algemeen Secretarie)になっている。その後 年バンダ・アンボイナ副 長 官(assistent-resident van Banda/Amboina), 年 ベ ン ク ー レ ン(Benkoelen)長
官,
年アンボイナ長官を歴任した。また訃報通知からは,彼がアンボイナ元長官(Oud-Resident van Amboina)として, 年 月 日ハーグにて 歳で死去したことが分かる。
( ) インドネシア国立文書館が所有する同文書原本では判読しづらい部分があったので,オラン ダ本国に送られた蘭領東インド決議コピーも参照した。多少文章に違いがあることが分かる。 ( ) 原文では 番と読めたが,本国の文書では 番とある。 ( ) 原文では と読めたが,本国の文書では 9 e とあった。 ( ) 原文では と読めたが,本国の文書では とあった。 ( ) この最後の文章は,原文ではこのようにあるが,本国の文書では「在日オランダ弁務官には, 情報提供と参考のため,抜粋が与えられる」とある。
( ) マイヤーは ― 年間蘭領東インド評議員(lid van den Raad van Indië)として,日本問 題に参与した経験を持っていた。Handelingen Tweede Kamer 1856―1857,p. .
( ) MKS, 年 月 日 番植民相宛蘭領東インド総督書簡。このような発言は,後の日本
からの返礼品に関する植民相の所見に対する回答でも,パフッツは「完全に貴下に一致しま
す」と述べている。MKS, 年 月 日 番植民相宛蘭領東インド総督書簡。
本稿は,平成 年度科学研究費補助金(若手A)の成果の一部である。成果の公表が大変遅れたこ とについて,記してお詫びを申し上げる。インドネシア調査では,インドネシア国立科学技術省 (RISTEK),インドネシア国立文書館(ANRI),同文書館アーカイヴィスト Senja Kala Yahya 女史, インドネシア国立科学院(LIPI)Prof. Dr. Syamsudin Haris,Dr. Muridan S. Widjojo に,オラン ダ調査では,ブイケルス教授(Prof. Dr. Harmen Beukers:オランダ国ライデン大学スカリヒャー研 究所〔Scaliger Instituut〕所長)に,大変お世話になった。記して感謝致します。また当時の受け入 れ機関である明治大学文化継承学研究所,そしてこの度発表の機会を与えて下さった天理大学にも, 謹んで感謝を申し上げたい。