大正期 にお け る自由主義
体 育思想の研 究
(Ⅱ
) 保健体 育科教育教室 入 己 は じ め に 前稿(1)一
第18巻第1号
― では,明
治30年代以降における体育の近代化論および大正初期 から10年代にかけて成立 した自由主義体育論の思想的特質を検討 したが,ひ
きつづ き大正10年代か ら昭和5年
前後 にいたる自由主義体育思想の展開とその終焦の過程を明らかにするとともに,
自由 主義体育思想のもつ今 日的意味を探 りたい。3.フ
ァ シ ズ ム 体 育 の 胎 動 と 自由 主 義 体 育 思 想の 展 開(1)「
軍教」の実施 と「学校体操教授要 目」の改正 大正10年以後 における教育の政策決定 にとってロシア革命 (大正6年 ),米
騒動 (大正7年
),朝
鮮 における独立運動 (大正8年
),同年の対支21カ条条約 に対す る5。4運
動等国内的,国
際的 な民 主主義運動,労
働運動 が興隆す るなかで国民全般の「思想」問題が重要な契機 となっていった。 そ の主 な理由は,旧
絶対主義勢力にとり原内閣に象徴 され るよ うなブル ジョア合理主義 にもとづ いた 天皇制絶対主義教育に対す る修正策が次第 に大 きな不安 となって拡 がっていったことによるもので あった。 その結果,原
政友会内閣の後 を うけて大正11年6月 に成立 した加藤友二郎内閣以後,近
代 的 な帝国主義国家への再編 に対応 した教育の 自由化政策は,そ
の影 をひそめていった。 加藤内閣の初代文相鎌 田栄吉 と交代 した岡野文相 は,思
想悪化の防止,教
育・研究の 自由に対す る抑圧のための諸政策 を実施 した。 また,大
正13年 1月 に貴族院 を中心 として成立 した清浦超然内 閣の文相 に江木千之が就任 してか らは急速 に国権主義的 な教育政策が展開されていった。江木は, 就任早々の 1月 に早 くも思 想善 導 を強調 し,2月
には神仏基の二派代表を招 き,国
民精神復興会 議 を開 くなど国家主義的 な教育政策 を実施 していった。清浦 自らも「最近社会の風潮 を観 ます るに 民心動 もすれば軽挑浮華 に趨 りて放縦 に流れ信仰道義 を蔑視 して徒 らに唯物 思想 に捉 われゴ)と 思想 の 自由主義化傾向を批判 した。 しか し,こ
の清浦内閣も国内の民主主義運動 とブル ジ ョア勢力の圧 力の まえに僅 か 6カ 月で崩壊 を余儀 なくされたので ある。っ まり,無
産階級の抵抗 と拡が りの なかでブルジ ョァ勢力は,こ
の体 制的危機 を単 なる抑圧的 な反動政策だけをもって乗 り切 ることがで きないことを察知 し,絶
対主義 的 な天皇制イデオロギーを加味 しなが ら,同時 に,自 らの合理主義 にもとづ く近代的な帝国主義的政 策 を実施す ることによって旧絶対主義勢 力か ら主導権 を奪い返 し,国
家権 力の中枢 に自らの位置 を 克 江入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (I) 見出す必要 にせ まられていた。 そ して
,こ
の立場 か らブルジ ョア勢 力は,貴
族院の改革,政
党内閣 制の確立,普
通選挙の実施等のスローガ ンをかかげ,い
わゆる「護憲二派」が結集 し,清
浦内閣の 瓦解 をはかったので ある。大正13年6月 に成立 した憲政会加藤高明内閣は,そ
うしたブルジ ョア勢 力と旧絶対主義勢力との妥協の うえに生 れたもので ある。 加藤内閣は,無
産階級の要求 に譲歩 して普通選挙法 を提示 したが,同
時 に,そ
の肩代 りとして小 作争議 に対す る小作調停法 (大正13年7月)お
よび従来の治安警察法の「国体 ノ変革」に加えて「私 有財産制度 ノ否認」 をも処罰す る治安維持法 を大正14年5月 に制定 したので ある。 一方,教
育政策 においては大正14年7月 に政友会が「教育内容の革新 と民衆教育の向上 と更 らに 従来の官僚的教育制度の打破F)と いった近代的 な教育の方向をかかげは したものの,こ
の政策理念 も文相岡田良平の軍教構想にもとづ く学校の兵営化政策 によって大 きく後退 していった。学校 にお ける軍事教練の実現 に最 も意欲的で あった岡田は,大
正13年7月に軍教実施 を表明 したの ち,「中等 程度以上の学校 に軍事教練 を増加 し,軍
事教育の社会化 を図 る件」 につ いて陸軍省 と協議 し,同
年 12月には文政審議会 (大正13年4月 設置)に
対 して「学校教練振興計画」 とも云 うべ き「学校二於 ケル教練振作二関スル件」を諮問 した。 こうした経過の もとに大正14年4月 に「陸軍現役】乎校学校配属令」および「教練教授要 目」 が公 布 されたので あるが,さ
らに文部省は,陸
軍省 との合意 にもとづ き大正14年 10月 に文 政 審 議 会 に 「全国青少年訓練二関スル件」を諮問 した。 この件 に関 して同審議会は,諮
問中の「青年訓練団」の名称 を「青年訓練所」 とすべ きことを加 えて答 申 し,大
正15年4月 の「青年訓練所令」の公布 となって具体化 されたのである。 これ ら総体 としての学校の兵営化政策は,明
らかに先の臨時教育会議で確認 された「兵式体操ニ 関スル建議」 にもとづ いたもので あったが,そ
の主 な政策的意 図は どこにあったのであろ うか。 一つ には,第
一次大戦後の国内的,国
際的 な自由主義,民
主主義的思想の興隆に対 し,そ
うした 思想傾向を「浮華軽桃の弊風」 と指弾 し,「危険思想」 として排除す ることによって国家的観念 を培 養す ることにあった。た とえば,岡
田良平 は,「教育の内容及方法が断えず発達改善 を要す るは論 を 須たず然れ ども軽卒 に新奇の説を実行 し厳正 なる批判慎重 なる考慮 を加ふ ることなくして従来の教 育の方針並びに其の方法 を変更す ることあらば人の子 を賊ふの結果 あるべ し殊 に法令 に定めた る学 科課程 に違背 し教科書 を無視 して濫 に教材及其の程度 を定め るが如 きは厳 に之 を戒め ざるべか らず ゴ)と 自由教育を批判 した。 また,宇
垣陸相 も「勒近世風動 もすれば,浮
華軽挑 に流れんとす るの風 あ り。 一 中略 一 此の民心の弛廃 を緊張 し益々基 を撃 くし国 防上 にも違算 な きを期す るためには, 第二の国民の心身を鍛練 し其資質を向上す るを切要すFと
思想菩 導と体 力の向上 が密接な関係 にあ ることを強調 してい るを そ して,他
の一つ は,大
正10年2月 の ワシン トン軍縮会議 にみ られるよ う に世界的 な軍縮へ の動 きのなかで潜在的兵 力の実質的 な確保,在
営年限の短縮 による者年労働 力の 確保,さ
らには加藤内閣の公約で ある4個
師団廃上 によって失職 した将校 を軍事教練 にあて,そ
の 救済策 とす ることで あった。岡田文相 は,「一朝有事の際兵士は出来て も肝賢の将校 を得 るに困難で あることは欧)H戦争 における各国の状態 について見 るも明 らかで ある。 一 中略 一 斯 る見地 か ら 中等学校以上 に於て一 は体育奨励の為め,一
は予備】学校 を作 る為,兵
式教練 を改善す ること」,ま
た,「学校 に於て教練 を徹底的 にや ることが,何
うして平和の障害 になろ うf)と その意図を明 らかに したが,こ
の軍教実施の背景 には第一次大戦 を契機 とした軍事戦略・技術の質的転換および軍制改 革問題 が深 くかかわっていた。大正末期 におけるこれ らの「軍事教育の社会化J政
策は,教
育制度鳥取大学教育幸部 教育科学 第18巻 第2号 に確 固たる地位 を占め るとともに
,フ
ァシズム体育 の萌芽的形態を成立 させ るにいたったことを示 している。 ところで,こ
の軍教実施 に対 し沢柳政太郎,野
口援太郎,下
中弥二郎等 を中心 とした教育擁護同 盟は,「中学校以上の学校 に軍事教育を行ひ在営年限の短縮 を為すは有産階級の子弟 に対す る特典 を 重ねるもの」で あ り,軍
人が学校職員 になると学校長の統卒にも問題 をおこす と同時 に,こ
のよ う な措置は,「列国 を して更 に好戦国 として我が国 を眺め しむる理 由∫ )に なるとの反対声明を出 したが, 体育の立場 か らの軍教批判は,な
され ることなく終 った手 こ うした状況の もとに大正15年 5月 に学 校体操教授要 目が改正 されたが,こ
の改正は,そ
の首文 に明示 されているよ うに教授要 目の国家基 準化 によって教育内容 を統制 し,教
練教授要 日との補完的 な関係 において軍事体 力の陶冶 を媒介す る一般体 力の形成 を基本理念 としていたことを特徴 とす る。(2)手
塚岸衛の「 自治」教育 と体育実践 大正10年代 における全般的 な学校の兵営化政策を背景 に しなが らも自由教育論 とその運動は,一
定の発展 と拡が りをみせていった。各地の新学校への参観者 あるいは自由教育に関す る研究会への 参加者 は,膨
大 な数 にのぼ り,ま
た,一
部の私立学校,師
範学校付小 を中心 とした自由教育は,次
第に公立学校 にもその影響 を及ぼ していったず この 自由教育運動の趨勢 を象徴す るものが大正10年 8月 に日本学術協会の主催 によって開催 された人大教育主張講演会で あった。 この講演会場 には全 国 から5000名もの申込者 が殺到 し,そ
の講演記録集 である「八大教 育思潮J(大正11年)は
,14版
も 版を重ねた。その八大教育主張の題 目,講
演者は,次
の通 りで あった。(1)自
学主義の根底 (樋口長市) (2)自
動主義の教育 (河野清九)(3)自
由教育の真髄 (手 塚岸衛)(4)衝
動皆満足 と倉J造教育 (千葉命吉)(5)真
実の倉J造教育 (稲毛註風)(6)動
的 教育の要点 (及川平治)(7)全
人教育論 (小原国芳)(8)文
芸教育論 (井上伸) 八大教育主張者 の一人で「 自由教育の真髄」 を主唱 した手塚岸衛 は,大
正8年
6月 に京都師範学 校教諭か ら千葉師範学校付属小学校の主事 に就任 し,同
付小 を中心 に自由教育論 にもとづ く教育改 造運動 を展開す るとともに,「自由教育真義」(大正11年)を
著 したざ同付小ではすで に,手
塚が赴任 す る前年 に(1疾力養成 (2)自由研究(3泣
憲的活動 を学校の教育理念 としてかかげてお り,千
葉県 当局 も前述 したよ うに「 自発的学習ノ習慣 ヲ涵養スル」ための「具体的方策」 につ いて県教育会 に 諮問 していた。千葉県下の こうした 自由主義的な雰囲気の なかで手塚 は,「自治」的学習 とい う,い
わば自学主義 を教育理念 とした実践 を行 うと同時 に,県
下 にその運動 を拡げていった。 彼は,「教授 とは,教
え授 くるではな く,自
らを教 え自ら学ぶの生活 を生活せ しむ る謂である。教 授は文化の伝達ではない。教育は教 え授 けた ることの反覆練習ではなく自由なる学習 による自己創 造である∫)と近代的な学習論の立場 に立 ち,こ
の観点か ら自学主義 を強調 し,「常 に児童 を して事物 及び理法 に直接せ しめ,考
えつつ為 しつつ考 うることによって学ば しむべ きで ある。児童独 自に仮 説せ しめ,資
料 を蒐集せ しめ,こ
れを組織 しこれを系統づ け しめ,こ
れを解決 し,こ
れを発展せ し め, さらに自己批判即 ち反省をしつつ, 自由に学習せ しむべ きで あるゴ)と述べてい る。 手塚の 自学主義は,樋
国の活動主義,谷
本の 自学主義の思想的流 れを くむもので あったが,彼
は, 単 に「教科」の枠内に限定 された 自学主義 には批判的で あった。 「 自学輔導 とい う言葉は,明
治40年頃い らいの もの と思 う。今で は方法上の 自学主義は,何
人 も これを疑 うものす らないほどに,肯
定 され,普
及 されているが,
しか し実際上 には徹底 を欠いてい るよ うに見 える。教育全系統の 自学ではなく単 に教科 に止 ま り,教
科の中で も読方 か算術位 に過 ぎ入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (Ⅱ) ず。家庭 に於て或は始業前放課後の早出晩退 による単 なる復習予習をなさしめ
,教
授の進行上の埋 草のための 自学で,教
師の教授 と児童の 自学 とは何 ら関係 な しに予備提示整理 といった風の教授 を な して依然 として受動注入をこれ事 とせずんば,い
たず らに愚間忌答 を重ねて,開
発 問答式 と心得 ているものが決 して少 くはあるまい。デ そ して,
自学主義教育は,全
教科のみ な らず学校教育を成立 させている全領城 において統一的 に 実現 されなければならないとしたので ある。 「われ等は,知
識技芸 に対す る自学 自習,道
徳 訓練 に対す る自律 自治,身
体養護 に対す る自彊 自 育 と,つ
とめて児童の 自覚即 ち自由なる自己実現 を本体 と して全教科 に渉 って否単 に教授の方面ば か りで な く,訓
練 も養護 も,如
何 なる処 に於て も学校教育の金局面 に渉 って,何
処 を切 って も血の で るよ うな自学主義 にまで改造すべ きことを主張す るので ある。」0 こうして千葉師範学校付小で は,手
塚 を中心 に「学級 自治会」組織 を「 自治」的学習の基本的集 団 として位置づ け,自
学主義教育 を具体化 していったので ある。大正8年
9月 か ら尋常5年
以上の 学級に「 自治会」 を組織 し,ま
た,大
正9年
1月 か ら高等科の男子学級 に週1時
間の「 自由学習時 間」 を特設 し,こ
の学級 自治会組織の 自治的 な学習活動 として教科外の体育行事 (校内競技会)が
実践 されていた。 それは,生
徒 自らが校内競技会の種 目,か
加者,そ
の他運営方針等 につ いて討論 し,決
定す るとい うものであったが,国
家的観念の陶冶 と軍事訓練的 な性格 が支配す るなかで教科 外活動 を自学主義の観点か ら捉 えなお し,「自治」学習の対象 として教育領域 に再編 したことの意義 は大 き彰ヽ。 その指導にあたった川島伊織訓導は,「12月第 3日 曜 日午前8時
よ り4時
半 に亘 って競技会は行 わ れた。競技場 の設計整理,用
具の借入其他の準備,同
僚 中学生 に箸判 を依頼 して公平 を期す など至 れ り尽せ りで ある。一 中略-4時
半閉会 となったが,責
任 あ り而 も自発的の後片付の協同動作 い ちいち私の心は打たれて魂の偉大 なおのの きを覚 えた。ああ自律 自治,
自由責任何 と力の籠る言 葉で しょう。人格 は自由の圃たのみ成 る。何 と無限の発展 を蔵す る教育だろ う」)と報告 している。(3)木
下竹治の「生活」学習 と「立憲」的体育 手塚の 自学主義 にもとづ く教育改造運動 とともに,京
都女子師範学校長 か ら奈良女高師付属小学 校の主事 に転任 した木下竹治の「生活」学習論 とその実践 がある。木下は,「学習原論」(大正12年) の なかで 自律的学習,合
科学習,生
活学習 を主唱 し,
自律的学習の立場 か ら他動的,形
式主義的な 教育 を批半」したのである。 「教師先ず教授 し,教
師から規範を与え,教
師が真偽,菩
悪,美
醜を判断 して其の結果を児童生 徒 に承認 させていく,教
師は自己の意志を以て児童生徒 を支配 し,児
童生徒 に対 しては,一
向に教 師の意志に従順であることを要求 している。訓育に於ても体育に捺ても大体同様の態度で児童に臨 み教育の目的に到達 しようとしている。」p 木下 は,こ
の批判の上 に立 って「 自律」学習を独 自学習 ―封目互学習 一 独 自学習 とい う循環的 な学習過程 として規定 し,独
自学習 を教授一学習過程の コアとして捉 え,相
互学習 を媒介 とした集 団学習への発展 を見通 していたので ある。 「従来 として も予習復習の名の下で随分独 自学習は行 われたもので あるが,そ
れが何 よ りも教授 の従属的活動であった。且つ非科学的で又学 力浪費的の もので あった。吾々は此の独 自学習を教師 の直接又は間接の指導の下で組織的 に計画的 に又経済的 に実行 して之 を学習の重要部分 としようと い うので ある。ゴ鳥取大学教育学部 教育科学 第18巻 第2号 さらに木下は,「他人の作 った教科書又は教授細 目によって学習す る『教科書学校』の幸習は社会 の進歩 に伴 うことが困難で
,且
つ学習者の実際生活 と離れて しま う」0と教育内容の国家統制 と対峠 す るとともに,独
自学習 一 本目互学習 とい う拮抗的な学習過程 は,具
体的 な生活経験の場 を通 して 展 開 されるべ きで あ り,生
きることによって学習せねばならぬ とい う「学習即生活」論 を主張 した ので ある。彼 は,こ
のいわば「生活教育」の理念か ら児童 自らに学習教材 を選択 させ,ま
た,音
楽 会,
自治会,校
合の修繕 などとともに,運
動会 を生活学習の恰好の機会 として位置づ けたので ある。 そ して,「立憲」的,「自治」的活動の観点か ら体育 と健康の重要性 を次のよ うに指摘 している。 「立憲政体 が専制政体 に代 り人々が家庭 に於て も社会国家 に於て も立憲的に活動す ることを必要 とす る様 になると,勢
い個人及び団体の 自治 を重 ん じ,法
治思想の発展 を図 らねばな らぬ様 になる。 又時勢の進歩 に伴 い人々が自我の満足 と能率の増進 とを欲す る様 になる。健康 自体の必要 なこと は今 日も昔 も同様で あるが軍備 を縮少 し平和時の教育 によって和戦両様の準備 をす るには大 に体育 を盛 に して心身の健康 を増進す ることが第一 に必要 なことで あろ う。」 0 木下 にとって もやは り大戦後の国際舞台で活躍す る自律的で活動的 な人Щρ 形成 と「和戦両様」 のための体育 を構想す ることが主眼で あったので ある。 その意味において木下の 自学主義的体育は, 樋 口,谷
本等の 自学主義,活
動主義 を逸脱す るものではなかった。(4)体
育 における機械論批判 こうした自由教育運動の潮流 は,大
正10年代 において具体的 な体育の実践的研究 に大 きな影響 を及ぼしていつたぎたとえば
,大
正
11年5月に東京高等師範学校付小で第
2回
全国小学校訓導体操科
協議会が開催 されているが,そ
の研究発表の主 な内容は,次
のよ うなもので あった。1.全
我活動表現 (没我の境地)鑑
賞 を体育の 目的 としたい, 2.体
操 に興味 あ らしむ ることに よって これを遊戯化 し,競
技 に節制あ らしむ ることによってこれを体操化せ しめよ, 3.気
分及至 気 力の養成 に重 きを置け, 4.児
童の生活 を重視せ よ (体育の生活化), 5,体
育 を民衆化せ よ,6.体
操科を体育科 と改めて包括的 なもの にせ よ, 7.好
きな運動 と嫌いな運動 に対す る児童告 白 の研究, 8.自
発的 な運動の研究 (児童生活視の希望 をも含む),9.体
育個人化の基礎た るべ き児 童個性診査法の研究,10,趣
味 (音楽応用連続体 操)の
考案等。 そ して,こ
の時期 に自動主義,個
別主義の観点 か ら体育の内容,方
法 に支配的 な生理 学,解
剖学 中心の 自然科学主義的 もしくは機械論的な傾 向に対 して批半Jが加 えられていった。 旧体育の機械的,形
式的 な鍛練主義 を批判 したのが小野源三であった。彼 は,「体育の真義 を究明 して其の鍛練主義的考察 に及ぶ」0(大
正10年)の
なかで まず,当
時の体育の思想的状況 につ いて次 の ように指摘 している。 「或 る者は,今
日の体育が余 りに解剖的 にす ぎて綜合的の精神の効果が足 らぬ と云ふ。或 るもの は,余
りに機械器具 に依頼 し過 ぎて,経
費が相償 はぬとす る。余 りに画一的で他動的で被教育者の 自然の好 尚に適せぬといふ。第一 は例の精神 的鍛練 を以て体育の要諦とす るものの言で あ り,第
二 は体育実施上 の経済的基礎で あ り,第
二 は競技運動新興の機運 に傾倒 しつつ ある一種の新運動の云 ふ事で あつて,何
れも相当に傾聴す るの価値 はある。併 しさらばとで,今
日の体 育界か ら,こ
の主 潮 を除 き去 ったならば,果
して どうで あ らうか。 恐 らく,戦
慄すべ き暗黒時代 が現 出す るのみで あ ら,。」 そ して,小
野は,「労働問題の社会主義化」,「デモ クラシーの喧伝」 あるいは「教育上の創造主義 や 自動主義」等の思想的傾向は「知情意の意志化」のあ らわれで あり,人
間の「′b身
両作 用を分つ入江克己 :大 正期 における自由主義体 育思想の研究 (工) 事す ら従来は
,余
りに度に過 ぎて居 った。抽象的の精ネ申と物 質的の肉体 と二つ を作 り上 げて,そ
の 各々の一角 に根拠を据 えて頑守 し来ったのは,随
分馬鹿 げた話」で ある。 これまで「意志」 は,「通 俗的に忍抑の生活」 あるいは「感情生活の敵手」であるとされて きたが,そ
れll・,「偏務的 に感情生 活 を否定せん とした固胚 な思想の結果」であると理性 と感性の分裂を批判す る一方,「意志生活は畢 意慾望満足の生活で なければならぬ。ただ其れの本能生活 と異 る庭 は,持
続性 と価値的 自覚 とを有 す る点 に於てである」 と両者 が統一 されるべ きことを主張 した。彼は,こ
の立場 か ら従来の体育 に おける禁欲主義的傾向を批判 したので ある。 「我国の体 育は明治維新以後50幾年の歳月を閲 して居 るけれども,未
だ菖態依然 として封建時代 の甲冑に堅め られて居 る。体育の方法及至形式は其時々の指導者 により,或
は独逸式,或
は瑞典式 と幾度変遷 を繰返 して居 るけれども,国
民その ものの体育思想は相変 らず,チ
ョンマゲ式で ある。 彼等のなす ところを見れば,極
端 なる清教徒流 か,若
くは『勝 った方がいい』主義の外1こ何物 も ない。」 こう批半Jした小野は,「真の国民体育はデモ クラチ ックに して鍛練主義的で なければならぬ」 と鍛 練 を強調 したので あるが,彼
の意味す る鍛練 とは個性発展のために「動機 と結果とを一貫す る」 と ころの「過程主義」であり,「菖式 な忍抑生活の事で ない,型
を示 して,そ
れに適応せ しめん とす る 範疇主義の教育で ない,而
してその鍛練の効果 にのみ腐心す る功利主義的見解でもない」 とした。 「私 は意志 その もの,動
念その ものの原型たる衝動 をば,最
も天真 に卒直 に育成す る方途 に於 い て,我
が体育は具案的になさるべ きもので その方法論に於 いては,あ
くまで も鍛練的 にその 目的論 に於いては,何
処 まで も過程主義で なければな らぬ。」 そして,小
野は,「思ふ に単 なる手足の運動 によって因果的 に筋骨の発達 を来す もので あると考ヘ るものの機械的 な仕事が体育で あるかの如 く,見
なされてい る過去の蓄見」 がなお支配的で あると 批判す るとともに,「体育は徒 らなる忍抑の生活ではない。従来 よ りもっともっと自由奔放 なるもの で なければな らぬ」 と主張 したので ある。 また,大
西要は,「小学校の体育」η(大正15年)の
なかで子 どもの生活 を無視 した画一的 な体育の 現実を厳 しく批半Jした。彼は,「小学校体育の現状が形 と しての完備 されない体操,流
行的の傾向」 をもち,
しかも,「学校のために,教
師のために体育を手段視す るは己に過去の笑ひ草で ある。毎 日 午後 の5時 6時
まで児童を残 して,体
操の練習をして,十
分の用意が出来上 った上で,や
れ公開授 業だの,そ
れ批評教授研究だの と騒いでいる」が,そ
れこそまさに「児童の人格 を教師学級のため に踏みに じった圧迫的教育法で ある」 と教育現場 における形式主義に批半Jを加 えた。 彼は,小
学校 における体育は本来,子
どもの理性,情
動 を包括 した「全体性 と児童性」 の もとに お しすすめ られるべ きであるとし,こ
の立場 か ら従来の体育が「 あまりにも児童の生活を無視 し」 てお り,「あまりに児童化 されていない」 と批判す るとともに,体
育内容,方
法 における科学主義的 誤 りを指摘 している。 「現在の刻ヽ学校体操のそれがあま りに生理解剖的に組織 された る結果,あ
ま りに知的に走 りつつ あると同時 に,又
あまりに部分的要求のみに終始 して特殊的」 になりす ぎている。「取扱が解剖生 理的になったことがどれほど体育の内容 を充実せ しめたか,そ
れは誠 に尊いものであるが,唯
それ らを児童体育 なりとす るは早計の諦 りを免れないだろ う。」 そして,大
西 は,「遊成が自由快活の精神 か ら自由快感美,美
的観念 な り,又
は団体的動作,服
従 なりの美徳 を養 う」 ことを目的 とす るならば,「ルールは教へ られ るべ きではなく,児
童によって創鳥取大学教育学部 教育科学 第18巻 第 2号 作 されるべ き」で あ り,「青空 に一つのボールを望む感情の流れ もなければならぬ
,静
的 に動的に, さては自己の号令 によって 自己の支配 して ゆ くところの構案 と努 力がなければならない。教師児童 と名付 くる以前のあこがれや,血
も涙 もなければならぬので ある」 と主張 した。 体育 における教授=学
習過程は,単
なる身体の物理的=化
学的過程 に追 元す ることはで きず,身
体 (子ども)一
対象 (教材)の
相互過程 によって喚起 される仮像,想
像 あるいは構想力といった 情動的 な世界に感応す るところに体育の本 質的な性格がある。 したがって,教
授=学
習過程 におけ る純粋 な科学化 と個別化の原理は, もともと「科学」 と云われ るものが人間の等質化 も しくは非性 化 において成 り立つ ことか ら,究
極的 にはその矛盾 をさけることはで きない。刻ヽ野,大
西等 による 批判は,体
育の もつ感性的世 界を全面的 に承認 し,そ
うした矛盾 を突いたことにおいて単 に非合理 主義,反
科学主義 として看過す ることので きない祝点 を提起 していた。 この批半J的立場 に立 ち,体
育の「学」的構 想に反映 させ よ うとしたのが置田正吾で あった。 彼は,「体育学の建設 と哲学的示唆」0(大
正15年)に
おいて「 けだ し人間は強 き動物 たることを要 し,か
くして始めて生物 界の道者 と して共生共存 を完 うす ることを得 るので ある。優勝劣敗,適
者 生存の原理 は,文
化の進歩如何 を間はず,如
何 なる時代 につ いて も,こ
れを肯定す る事 が可能で あ る。 か くて こそ体育は人類共通の要求 として必然性 を持つ に至 るで あ らう」 と社会 ダーウイニズム の限界に留 りなが らも,「現代体育 なる名辞 に値す る概念は『人』 にまでの教養 を意味 し,そ
れと同 時 に『個性』の拡充で あ らねばな らぬ。而 も此庭 に云ふ『人にまで』 なる語 と『個性』 なる語 とは 完全に『同時』 にといふ接言吾によって統合せ られるべ きことを要求す る。換言すれば この 概 念 は 『 自我』の返照Aushaungで
あることを条件 とす る」 と個性の拡充 を基本理念 とすべ きことを強調 す るとともに,体
育 における生物学主義 を次のよ うに批判 した。 「近世精神 に育 まれた『正 にあるべ き体育』の即 ち体育学の樹立 は生物学的基礎 に鼓舞せ られ る ことの実 に多いもので あったが,既
に云 った様 に体育は『人にまで』の教養 を意味す ると同時 に, 『個性』の拡充 を要求す る以上,体
育の指導原理 は生物学のみ に委すべ きではない。」 そ して,直
田は,「体育事実は偶 然的 な感性の世界に属す る」 と規定 し,体
育学は,こ
の感性的世 界を対象 とした総合科学的 な性格 をもつ ものであることを示唆 した。(5)「
合理的体操」論 と自動主義 大正6年
頃か ら九州帝大の桜井恒次郎,今
井学治,石
九節夫,小
森耕之助等 によって伝統的 な形 式化 したスエーデ ン体操が批半Jされていった。 彼等は,「自動」,「興鳴 ,「個十角 といった方法理念か ら旧来の体操 を科学的,合
理的 に再編すべ きであるとして「合理的体操」 を唱導 したのであった。桜井等の体操論は,「学校体操教材の学理的 解説」(大正12年 ),「合理的体操学」(大正13年 ),「桜井博士体 操講演集」(大正13年)と
して公刊 され た。 当時 欧米で は,い
わゆる身体運動の 自然主義的要素に対応 した 自然体操 (naturlich Turnen)に 向って転換 しつつ あったが,桜
井等 によって提唱 された合理的体操は,従
来の画一化 した体育の教 授方法 に対す る批半Jの上 に成 り立 っていた。 「一般国民の必ず受 くべ き普通教育 に於て主要部分 を占む る体操科の教授 にあ りて,運
動の要領 を理解せず して,唯
僕倣的に,盲
目的 に無暗に運動 をした り,
させた りして,児
童 。生徒の心身の 状況 に道合せ しむべ きことを忘れ,
目的 とすべ き生活能率の不断の向上発達 に対 しては直接的 に考 慮せ られず,唯
体操科の為の運動 となって居 る観 がある。」9入江克 己:大正期 における自由主義体育思想の研究 (I) 「従来の如 く
,そ
れぞれ特殊の体 質や体 力を有す る児童 。生徒 に対 して,画
一的,号
令的にす る 体育は,充
分の効果を収め得 ざるばか りで なく,大
なる不合理 と云 はねばならぬ。ゴげ 桜井等は, さらに最 も形式的教授 が支配 している体操教材 と教授法 につ いて「従来体操は興味を 喚起せ しむるに困難を感 じたるは事実 な り。而 も拙劣なる教授と窮屈 なる教材 とは児童の天性 を束 縛 し自由快活の気分 を抑圧せ るゴ〕もので あると批判す るとともに,「興H/k」 ,「個性Jの
原理 によって 改造すべ きことを主張 したので ある。 「余は体操其のものに興味 を起 さしめ,児
童 を して体操 を愛好せ しめ,熱
心 に従来す るの結果 と して身心 に好影響 を興ふ ると共 に愉快 を感ぜ しむ る事 に於て興味を惹起せ しめ得べ きを信 じ,幼
年 の児童 には遊戯其他快活 なる教材 を実施せ しむ るゴ2必要 がある。 「個性 に応 じた体育,こ
れは決 して特殊の体育で はない。体育の本質で あるべ きであって,そ
れ が今 日取 り立てて唱道せ られるのは,畢
党従来の体育の画一的で あったことを裏書 きす るもので あ る。ゴa これ らの批半Jのもとに,彼
等 は,「従来行はれたるが如 き学問的背景の濃厚 な らざる運動 を,盲
目 的 に,受
動的 に,命
令的に,強
制的 に唯無暗天鱈 に行 った庭で,そ
れは真の体育 と しての価値 があ ま りに貧弱で ある。 一― 中略 ― 吾人は仮令一挙一投足 と雖も,其
庭 に学理的根拠の あるものを , 自動的 に,自
主的に,自
発的 に実施 して こそ初めて体育の意義があるゴ4と教材の科学化 と自動主義 の結合 を強調 したのである。 この観点か ら桜井等 は,(1藤
本体操 に対す る解剖学,(2運
動 に関す る生理学,(3運
動 に関す る心 理学,(4運
動 に関す る物理学,(5体
育 に関す る衛生学等 による科学的分析 を行 うべ きで あると提唱 す ると同時 に,体
育の改善すべ き事項 として次の点 をあげている。 (1教師 自身の修養,(2敗
材の精選 (教材の系統整理,簡
単容易主義の採用,競
争的遊戯の活用), (3皮兄の協 力,14府
効なる器械体採用具の完備 と活用,(5凋 R装の改善,(5体
育衛生の顧慮,(7体
格 検査の活用, 桜井等が主唱 したこの合理的体操論は,
自動主義,個
別主義 を方法原理 と し,子
どもの発育 。発 達 あるいは興味 に対応 した教材の精選 と系統化 が科学的根拠 にもとづいて行 われるべ きことを要求 す る,極
めて近代的 な体育思想を提示 したので あるが,桜
井等にあって も結局 は壮丁体位の低下 に 起 因す る天皇制国家の危機的状況 の回避 とそのための「体 力」形成 とい う限界を超克 しえなかった。 「皇威」の高揚,「国権の仲長」 とい う観点 か ら体育 における自動主義,個
別主義 そ して科学化 が 主張 されたのであ り,明
らかに高島,永
井の思想的系譜をひ くもので あった。 「東亜の形勢 日に非 にして 日本人の実 力養成焦眉の急 に迫れるの時,其
根底 たる体育の振興 に想 到す。而 して国民の大多数は此実情 を知 らず 鳴呼危い哉 日本。余は現状 を称 して体育の危機 となす。 願 くは国民悉 く体育の必要 を覚 り,之
を奨励 し,健
実 なる実行 によりて,其
体 力の増進 を図 らん 事 を希望 してやまず。r
(6)川
日英明の「生活即体育」 と自動主義 この合理的体操論 とともに,
自動主義体 育 を主唱 し,
自ら実践 を展開 したの が奈良女高師付小の 川 日英明で あった。川 日は,木
下竹治の 自律的,自
治的学習論の思想的影響の もとに「体 育学習の 実際」(大正14年 )を著 し,「独 自学習」を主体 とした 自由主義的な体育を提起 したので あった。 彼は,「学校二於ケル体育ハ主 トシテ体操科 ノ教授二俊 ツ」 とす る学校体操教授要 目の規定は,「体 操」 をもって「体育」で あるかのよ うに理解 されがちで あると批半↓す るとともに,旧
来の体育 には鳥取大学教育学部 教育科学 第18巻 第2号 295 (1激師のための体育教授
,(2器
機,設
備 にたよ りきった「設備の体育教狛,(3購
習会の内容 をそ の まま「 自分 が受講 した と同様 に児童 を取 扱ひ,甚
だ しきは講師の号令 か ら態度 に至 るまで一 致F
させたよ うな「講習体操教勇,14肢
術 中心の体育教授,(5政
任主義的 な体育教授が支配 してい る と指摘 している。 「定め られた体育の時間が来 ると運動服 に身 を固め運動場の中央 に位置 して『集 レ』 と一令 の下 に集合 させ整頓番号教練 と型の如 く進み,各
運動模範説明と一 々要領 を示 し強 きも弱 きも児童,生
徒 に注意す ることは更 になく,元
気々々 と励 ます はよいが玉石混合,は
や疲れ きった子供 も居 るが 教 師の威圧 に恐れてつ いてい く。やっと嬉 しい遊戯 じや と喜ぶは束の間,終
りをつ ぐる鐘 がなる。 何の事だい一時間あちこち引き廻 されて終 った。やれやれ体育の時間がすんだ,今
日は叱 られず に すんだ,
と子供 はほっと吐息す る。教師は汗 しつ くり,声
は乱れて咽喉 に痛み を覚 えるが先づ予定 の教授案を全部 なし終 ることが出来た,先
づ安心。 これを教師のための体育教授 と言はず何 と言はふ。命令式,又
は注入 式 もこれに類す る。 尚画一 式,読
書式 と言ふ もこの類で ある。ゴ0 さらに,川
日は,画
一的教授 を具体的 に批判 したので ある。 「教師が案 をたて一 々注意 して教授す ると云ふ教育は早や19世紀の追物」9であ り,「自由に自然 に 平等 に伸 びん とす る独創性,倉J造性 を有す る児童は,体
育学習にも個性に応 じた体育法 を取 らねば な らない様 に教へ る。一 中略 一 又児童 は単 に体格,体
質,体
力等 に差異 を有す るばか りで な く, 家庭の職業,家
庭の位置 (周囲),通学距離,栄
養,睡
眠等の外囲の状況 に依 りてその 日,そ
の 日の 体育条件 を異 にす るものであるか ら,如
何 なる方面 か ら考へて見て も一 斉的学習が合理的で ない こ とが明かである。ゴ0 形式主義的 な教授 に対 し,こ
うした批判 を加 えた川 口にとって体育の教授=学
習過程 は,
自律的, 個性的で なければならなかった。 「他律的の教授が自律的の学習 となって,総
ての学習が児童本位 となり,児
童は自由に快活 に, 根強 く,真
剣 に,自
分の学習を仲展 さしてい く様 に願はねばな らなくなった。 一 中略 ― 殊 に体 育の本質が,自
分で 自分の体 を育ててい くと言ふ ことで ある以上,従
来の ような教師の命令 に依 り, 一斉 に画― に行ふ と言ふ こと許 りで は,そ
の 目的 を達す ることが出来 ない。寧 ろ各児童が個性を異 にす る様 に,個
別的で あ り,自
律的で あ らねばな らぬ といふ ことの本質に,まづ 目覚めねばならぬども ところで,こ
う主張す る川 回は,体
育の本質をど う捉 えたので あろ うか。彼 は,体
育 を「有為的 無意的の状態に於て身体 (身体 と精神 とを一 元的 に見た る)の
諸機能 を向上発達せ しむ ることゴ2で あると規定 し,ま
た,「生活即教育で あるか ら体育生活即体育学習である。そ して体育の本 質は独 自 学習で ならねばならぬ。学校 に於 ける体育学習は児童の体育生活の一部分であって,家
庭 に於 ける 体育生活がその大半 を占むるもので ある。併 し学校の体育学習は学校生活よ り来 る不健康の予防 と, その矯正の任 に当 り,社
会的団体 訓練の機会 を興へ ると同時 に体育研究法の実演の場 所で あるか ら, 家庭 にて行ふ ことの出来 ない種々の体育設備 を利用す ることが出来 るゴひと,い
わゆる「生活体育」 を提唱 したので ある。 彼 は,こ
の「生活即体育」の学習過程の中核 に「独 自学習」 をす えたので あるが,そ
の「独 自学 習」の教育的意義 につ いては次のよ うに述べている。 「従来教師は児童の程度,教
材の難易,季
節の寒暑等 を参酌 して体操教 授案 を作製 し,そ
してそ れ に依 って教授 を進めた。勿論現在 とで もこれで結構で ある。 しか し従来 よ り以上,児
童の 自律的296 入江克 己:大正期 における自由主義体 育思 想の研究 (Ⅱ) 学習を尊重 し
,個
性 に応 じた る合理的体育 を施 さん とす るには,児
童の理解 に訴へ,児
童の研究 に 俊 たねばな らぬ。始めか ら子供 は不完全 なもの と,定
めてかかる程危険 なものはなく,非
教育的 な 事はない。子供 は子供相応 に出来 るもので ある。ゴリ この観点か ら彼 は,(1/国性 に応ず る体育,(2)自律,自
動的体育 を実体化す るために「学級組樋 を教授=学
習過程の基本的 な学習集 団 として位置づ け,分
団式学習 を展 開 したのである。 よ り具体 的には,発
育,発
達,年
令,性
別のほかに遊戯,競
技の種 目および性格,通
学距離,跳
躍,懸
垂等 の条件 にもとづ いて「分団」 を編成 し,
リー ダー を中心 に子 ども自らが「学習計画案」 を立案 し, 独 自的,自
立的 に学習 をお しすすめたので あった。彼 は,次
の よ うに述べている。 「体育学習力M固性 を尊重 し,個
性 に準 じて行はれる様 になれば,
自らの 自発的 に行はるる様 にな るものである。 多 くの学習教材の中か ら自分の身体 に相応 しい材料 を選び,回
数や時間を定めて実 行す る。不審や疑間が起れば質問す る。 自ら立案 した学習案 に対 しては責任 と熱心とを以て遂行す る。要領は鏡 に向って矯正す る,或
は仲 間や教師に相談す る。教師は仲 間 となって運動 して其間に 示範 となる。此間少 しの余裕 もない。従 って活気があ り沈滞がない。それで無駄 な時間がない。 自 発的,
自律 にな らざるを得 ない。ゴ9 ここには,独
自学習 ― 相互学習の発展過程 を追求 した木下の学習理論が反映 されてお り,川
口 は,体
育学習の集 回化 を期待す るとともに,こ
の「 自律学習」 を中核 とした分団式学習は,今
日の グループ学習論 を構想 しよ うとした ものであった。(7)体
育の「民衆化」論 自由主義体育思想 に特徴的 な自動主義体育論は,川
日の理論 に象徴 され るよ うにおおむね「生活 即体育」 とい う,い
わゆる生活体育 をその理念 としていたが,こ
の大正10年に体育の「民衆化」 問 題 が集 中的 に論 じられることになったので ある。 この民衆化論は,新
中間層の台頭 を背景 としたスポーッの相対的 な大衆化現象 と労働時 間短縮へ の世界的 な傾向を社会的条件 として成立 したが,少
くとも体育問題 が「教科」 の枠 を越 え,民
衆化, 社会化 といった警庶 か ら問題 とされ るに至ったことは注 目されてよい。 ところで,社
会体育が歴史的,現
実的意味 をおびて政策領域 に登場 して来 るのは大逆事件 (明治 43年)以後の ことで ある。したがって,この社会体育政策は,思想対策 としての性格 を色濃 くしていた。 大正期 における民主主義運動,労
働運動の高揚す るなかで ドイツの「」ung Deutchlandゴ を模倣 し, 田中義― によって組織 された地方青年 団あるいは在郷軍人会等の教化組織を媒体 としなが ら内務省 の民力涵養訓令 (大正8年
)に
象徴 されるよ うに,中
央集 力による国民思想の善導と国体観念の造 成手段 および国民体 力の総体的 な管理体制 とその強化策 と して実施 されていったぎそして,こ
の政 策過程 は,内
務官僚 を中心 とした地方改良運動,即
ち,地
方行政の中央集権化の過程 と全 く無縁で はあ りえなかったので ある。 ここで,「民衆化」論がそ うした政策状況 とどう対置 しよ うとしたのかが問題 になって くるが,
ま ず,民
衆化論の主 なもの をみてみたい。 藤井仁作 は,「将来 に期待す る体育界ゴ0(大
正10年)に
おいて「体育の究極的理想は人 を作 る教育 の一手段」で あ り,「人間生活現象 (生活能率)の
常的向上発達」 にあるとし,民
衆化問題 につ いて 次のよ うに論 じている。 「学校体育中の主体 は体操 にある。 この体操は生徒児童の学校生活中にのみ止 るべ きで はない。 これを基礎 的 に将来 に亘 り社会化,民
衆化 して国民体 操の普及 に努めねばな らぬ。体育の修 養 も鳥取大学教育学部 教育科学 第18巻 第 2号 297 知徳 と等 しく人生畢生の修養で ある学校体育 も
,此
の意味で社会化民衆化 まで進展せ なければ徹底 せぬ。故 に都会地等 には体育館の必要 もあれば公園等の公設場所 には体育的設備の完備 が体育向上 国運発展上の一要件で ある。」 また,日
比野寛は,体
育を民衆化,「
国民化」 し,「体育運動 を以て万人の身神保護の最良法 とし て普通 に均等 に行は しめ ること」 が「運動のデモ クラシーゴηで あると主張 したので あるが,こ
の体 育の民衆化 を「文明の弊」 か らの脱却,「余暇の善用」 とい う観点 か ら論 じたのが大谷武汁 であった。 彼 は,「民衆体育」の 目的は「運動競技 によって社会の人々の健康 を保護 し,増
進す ることである。 近代の所謂文明生活が,人
々の健康 を如何 に破壊 しつつ あるかといふ ことは,何
人 も疑はぬ ところ の事実である。識者 は『文明への捷径 は,身
体的堕落へ の近路で ある』 と叫んでいる程で,文
明生 活 に対す る謬見は文化生活の基調 をなす健康への努 力を忘れ しめ る。一― 中略 一 それに今日では 余暇の利用 といふ ことは,最
も重要 な社会 問題で ある。今 日頻 々 と起 る罪悪は,経
済上の圧迫 よ り, この余暇の悪用 されることか ら起 る場合 が多いのである。運動競技は容易に解せ られるであらう。 実際今 日人々の欲求す るところの ものは,活
動的な娯楽 で ある。積極的な慰安で ある。ゴD さらに,安
川伊三 は,「民衆体育の揺驚 と しての学校体育ゴ0(大
正13年)の
なかで民衆体育を育成 す ることが学校体育の課題で あ り,体
育 を民衆化す るためには「運動 に対す る理論 と興BA」 を教 え る必要があるとして次のよ うに述べている。 「学校体育はそれ 自身目的を有す ると共 に,他
方民衆体育の揺鑑 で あ らねばならぬ。即 ち,児
童 ・生徒の心身の鍛練 をなす と共 に,将
来彼等が学窓 を去 って後 も,運
動 を継続 し得 る様 にスポーツ に楽 しむ習慣 と,こ
れを理解す る知識及び愛好心 を涵養 しなければならぬ。 これには従来の如 く実 地 に依 って心身を鍛練す るのみ ならず,体
操 に対す る平 易なる理論及びゲイムスに対す る簡易なる 知識を与へ,正
しき方法 を理解せ しめなければならぬ。又実地時 間に於ては自治的に練習す る様補 導す ると共 に,放
課の時 間等 には出来 る限 り個人的に親切 に↓旨導 しなければな らぬ。」 これ らの民衆体育論は,昭
和初期の「無産階級体育ゴ論へ と発展 してい くことになるが,そ
の一 般的な特徴 は,大
谷武― の発想に うかがわれるよ うに近代文明に対す る農本主義的 な嫌悪感 に支 え られていると同時 に,「国家社会及至は種族の立場 から云 えば,
一 中略 一 須 らく種族的,国
家的 に特長 ある身体 をよい とす るのみ ならず進 んでは他の人種,他
の国民 を圧倒す るの体格 を作 る」0べ く「戦後此の好機を逸せず に一大覚醒 と発達 を計 り国家社会 に貢献 し国史の上 に大正聖代体育興隆 の責 を採 りたいゴ とい う体 力を媒介 とした国家主義 を発 想の基盤 としていた。 この発想は,社
会体 育政策の論理 と矛盾す るものではな く,体
力と国体観念 とは予定調和的 に統一 されていたので ある。4.フ
ァ シ ズ ム体 育 の 成 立 と 自由 主 義 体 育 思 想 の 終 焉(1)「
思想」 問題の成立 と体育のフ ァシズム化政策 大正末期 に顕著 な体育の軍事化政策は,昭
和 に入 り次第 にフ ァシズム化の過程 を辿っていった。 日露戦争 によって帝国主義 を確立 した 日本資本主義は,第
一 次大戦後の反動恐慌,震
災恐慌 に続 いて昭和2年
に金 融恐慌 そ して,昭和4年
には国際的な恐慌 に直面 し,農村 に破局的 な農業恐慌 をも た らした。昭和2年
3月 に成立 した田中政友会内閣は,こ
の国内の危機的状況 の解決 を海外,特
に 中国大陸 に求め,英
米の先 を越 して中国市場 を掌中にお さめ るべ く「対支政策綱領」 を発表 し,中
国,な
かで も満州支配 に向って動 き始めた。入江克 己:大正期 における自由主義体 育思想の研究 (1) この侵略政策 をよ り合理的
,積
極的 に推 し進め るためには,国
内 における労働運動,社
会主義運 動 に対す る抑止 と同時 に,侵
略 に対す る自発的 な「忠蒟 が要求 されていった。田中は,全
般的 な 政治の中央集権化の傾向を反省 し,昭
和2年
5月 に教育政策の基本方向を「従来の 態度 を改め地方 分権の方針 に転換す ることが,最
も肝要 な り」どと教育の地方分権化,画
一化の打破,実
際化 を明 ら かにしたので あるが,そ
の本意は,そ
うした現実 に対処 し,帝
国主義的進出 に対応 した実質的 な人 材開発 と国家意識の形成にあったので ある。 この政策理念は,三
士文相 と交替 した水野練太郎文相 において も基本的 に変 るものではなかった。 そ して,満
州 をめ ぐる抗争 を背景 に,中
国支配を国民 的合意の もとに遂行す る必要 か ら思想菩導がよ リー層強調 されるとともに,思
想対策が積極的 に実 施 されていった。体育は,そ
うした思想対策の手段 として政策の前面 に推 し出 されるとともに,他
方では帝国主義的進出に見合 った体 力形成の合理化政策 が展開 されていった。昭和3年
5月 に水野 文相の後 を うけて就任 した勝田主計は,同
年 6月 の地方長官会議 において学生,生
徒 が我が国の建 国の由来 を体得せ しめ,確
固不抜の国民精神 を涵 養せ しめると同時 に,「思想善導の上 に体育の奨励 は極めて有効 なる手段であると認めますゴ と述べ,思
想善導策 として体育 に政策的比重 をかけるこ とを表明 した。 また,田
中首相 自らも次のよ うに強調 している。 「本邦人 と欧米人の体 力を比較 してみ ると砂 か らざる遜色 を免れないので あ ります る し又我国 と しては近年著 しく普及致した とは申 します が,平
素克 く運動 を実行 して心身の修練 に努めて居 るも のの実数 を比較致 しますれば,遠
く彼 に及ばないと言ふ実情 にあ ります。殊 に日下国民の思想状態 を顧みその醇化 を図る点か ら考へ ま して も体育運動の堅実 なる発達 を促す ことは極 めて緊要 なるこ とを認めるので あ ります。」4 この「思価 と「体 力」の合理的管理策は,体
育課の設置 (昭和3年
5月)あ
るいは体育運動審 議会の設置 (昭和4年
■月)に
よって制度化 されていった。体育運動審議会は,文
相 を会長 とし, 学識経験者40名をもって構成 され,以
後 の「国民精神 ノ振作」 と「国民本位 ノ向上」 に関す る政策 の基本方向が同審議会 によって決定 されていった。 たとえば,昭
和5年
7月 の第2回
審議会で は諮 問事項「体育運動 ノ合理的振興方策二関スル件」 が審議 され,思
想問題 に対す る体 育の重要性が指 摘 されている。他方,こ
の審議会 と併行 して体操指 導監督者協議会 (大正15年設置)は
,体
育運動 主事会議 として再編 され,こ
の政策的意図を教育現場 に定着 させ る媒介的 な機能 を果 していった。 この よ うに,わ
が国体育の近代化の過程 において特徴的 なことは,体
育が 日本資本主義の全般的 な危機的状況 を背景 に「思樋 と「体 力」 の両管理機能 としての性格 を絶 えず政策的 に規定 されて きたことである。 そして,こ
の政策理念は,臨
時 教育会議 によって明確化 され,大
正末期 か ら昭和 初期 にかけての総体的なフ ァシズム化過程 において名実 ともに確認 されるので ある。(2)自
由教育運動の挫折 と自由主義体育実践 大正10年代 に大 きな発展 をみせた 自由教育運動 も「思想し 問題の成立とともに,国
家権 力による 干渉の対象 となっていった。 自由教育運動 に対す る権 力的 な干渉 が組織的 に展 開 されるのIよ,治
安 維持法 が成立す る前年の大正13年頃か らで あるが舞 それ以前 にもすで に手塚岸衛 の講習会 を県当局 が禁止 した「茨城県 自由教育禁止事件:(大正10年),また,一
切衝動皆満足 を主唱 した千葉命告 に対 す る干渉 などがあげられる。 この弾圧 は,岡
田良平 が文相 に就任 してか らよ り組織的,系
統的 に行 われるよ うになった。「川井訓導事件」(大正13年)を
は じめ千葉師範付小 に対す る弾圧 によって 自 由教育運動は,自
らの限界と可能性 を模索す る段階を迎 えつつ あった10 昭和初期 における体育のフ ァシズム化政策 と自由教育運動 に対す る権 力的干渉 がすすむなかで 自鳥取大学教育学部 教 育科 学 第18巻 第2号 由主義体育は
,一
定の実践 をともないなが ら展 開 されていった。大正14年に「体 育学習の実際」 を 著 した川 日英明は,昭
和3年
に「児童の体 育学習」 を,ま
た,昭
和4年
か ら6年
にかけて「学習指 導案」 を公刊 して 自学主義 にもとづ く学習理論 を主張 した。 この同 じ時期 に神奈川県古浜小学校 訓 導の岩本次郎 が自動主義,個
別主義 にもとづ いた実践 を「児童の体 力と自党 に基づ ける個別体育指 導の実際」すとして発表 している。彼 は,当
時の 自由教育の様相を次のよ うに伝 えてい る。 「軌近教育の進歩発達 に伴 って教育学 に於 る諸説は雨後の筍のや うに唱へ られて来た。 国 く自由 教育曰 く動教育国 く創造教育国く芸術教育国 く自学 自習教育 国 く体験教育曰 く『 グル トン案』『プロ ゼ ク トメソー ド』其の他枚挙 に暇の ない程で あって,
さなが ら群雄割拠の観 を呈 している。 一一 中 略 一―一方本屋の店頭 に立てば何 々学習何 々 自習書等児童の学習書が山間避地の書店 に於て も店頭 の大部分 を飾 ってい るといふ盛況 で,そ
のが考書の選択 に困るといふ有様。此の如 く他教育に於て は新思潮 によって旭 日昇天の勢ひを以 って指導法 が論ぜ られている。」 この新教育運動の隆盛 に反 して「体操科の個別指導の意見の挙げ られているの を観 ない」 と同時 に,た
とえ問題 にされて も具体性 に欠けてお り,「他教科の指導より劣 るとも優秀 ならず」 といった 実情で あると批判 している。 岩本は,「教育は個性に始 まり個性 に終 る」べ きもので あ り,「人は一人々々異 る個性 を持 っている。 其の異 なった個性が総ての基礎 となるもので あるか ら,教
育の始 りもこの異 なれる個性 を基 とし なければならぬ」 と個別主義 を主張 したので ある。 彼 は,体
育を「人生最大幸福の根本 は体 力に立脚 した身体 の練磨 に始 まる」 と捉 え,個
別主義の 観点か ら個々の児童の実態を「体 力調査」 によって把握 しよ うとしたが,そ
の個別学習の意義 につ いて「体操科の実際の指導に当 り,其
の運動 に対す る得意,不
得意が表われ,そ
こに個人 として又 級 として一貫 した癖 を発見す ることがで きる。つ まり運動 に対す る身体的個性 が表 わされ る」ので あ り,そ
れによって身体の異常や過去の指導法 を改善す ることがで きると指摘 したので ある。 そ し て,岩
本は,児
童の「 自覚」 を促す ため に学習書 をもとに子 ども達の立案 した学習計画 に応 じて分 団学習 による個別主義体育を実践 したので ある。 この岩本の実践 は,指
摘す るまで もな く及川平治の「分団式動的教育法」,本下竹治,川
日英明の 「独 自学習」論の立場 に立つ もので あった。 また,東
京市三河台小学校の中島石敦は,班
別指導 による実践 を試みている。彼 は,「体 育指導を完 全 ならしむるには,各
個人の体 力適応の方法 に擦 らねばならぬ事は云ふ まで もない。然れ共之 が実 施の上 に常 に伴ふ指導上の煩雑 と真 にその労 力の結果 とを考へ る時 に此の問題 が如何 に重大 に して, 而 し困難で あるかを思わせ るもので ある」0と班別指導の重要性 を指摘 したが,中
島は,具
体的 には2学
級90名の児童 を第1班
強壮児,第
2班
普通健康児,第
3班
虚弱児に「生理解剖学」 と「医学的 観察」 によって編成 し,体
力に応 じた指導 を行 ったので ある。彼の班別指導は,あ
くまで も体 力の 合理的形成 とい う観点から捉 えられてお り,同
質の学習集団が考えられていた。 その他,九
州の第7大
牟田小学校で も教師の指導計画 に従 って児童 自らが学習案 を作成 し,分
団学習が実践 されてい た。 一方,こ
れ ら個別主義 にもとづ く実践 を背景 に体育論 においても自動主義,個別主義 が強調 されて いった。大谷武― は,「教育体操」(昭和3年
)の
なかで身体の均斉的発達,健
康の保護増進,機
敏で 耐久的 な動作の発達 を促す ことが教育体操の 目的であると規定 し,そ
の体操の指導 につ いて「体操 の指導は一般 に一斉指導によってい るが,時
々練習者 に自習を命 じ,彼
等の 自由活動 に任せ る」ηこ入江克己 :大 正期 における自由主義体育思想の研究 (I) とによって運動教材の要領 を自ら理解 させ るべ きであることを指摘するとともに
,班
別指導 も必要 であ り,ま
た,子
どもの「′b持
」 に/3・って「彼等の間 に旺盛 な想像 力に訴へ,そ
れによって体操 に 興味 を感得 させ るよ うに指導す る必要がある」0と述べてい る。二宮文右衛 門も「体育指導原論」(昭 和7年
)に
おいて体操教 授の画―主義 を批判す るとともに,
自動主義の重要性を次のよ うに指摘 し ている。 「体操は合理的で なくてはならぬ。正 しく行はれな くてはならない。然 し厳格 に過 ぎる時 は児童 生徒の心理状態 を無視す ることになる。体の角度にせよ方向にせ よ分度器で計った様な正確 さを要 求す ることは決 して真の意味の正 しい教授ではない。体 操は決 して徹頭徹尾鍛練的な圧迫的な形式 をとる事 を得策 としない。鍛練的 な指導 を時 に必要 とす るが夫 さへ も生徒の 自発的な努力によって 行はなくてはならないものである。」9 また,藤
村 とよは,「運動は米養衛生 と共 に児童の身体の発育を助長 し,身
体生活を向上せ しむ る のである」 が,「体育は精神的作用の基礎 として常 に知育,徳
育 と相関連 し,相
一致 して進 まなけれ ばならない。殊 に運動は自動的 自発的行動 なる点に於て深 く徳性の涵養 と相俊 ち,相
助 けて進 まな ければならぬ彗0と述べ,さ
らに「真の興味 を喚起 し,総
ての運動 に対す る自発活動1雪Jを伴 わなけ ればならないとしたのである。 こうして体育における自動主義,個
別主義 といった方法理念は,昭
和初期 にほぼ定着 していった とみることがで きるが, 自由教育運動が国家権 力による弾圧 を前 に挫折 していったのに対 し, 自由 主義体育思想は,何
らの権 力的干渉 に直面す ることもない まま,昭
和5年
前後 を境 に自然消滅的 に 途絶 していった。 大正デモ クラシー と自由教育運動 を背景 に輿隆 した,い
わゆる大正 自由主義体育思想は,そ
の成 立 と展開の過程 において 自動主義,個
別主義 といった近代教育の理念 にもとづ き子 どもの発育 。発 達 を生理学,解
剖学等の 自然科学的研究 によって明 らかにすべ きことを提起 し,こ
の立場 か ら合理 的な体育の内容,方
法 を確立すべ く改造運動が展開 された。 この運動は,そ
れまでの非科学的,形
式主義的あるいは画―主義的 な教授法 と体操教材中心の内容が支配す る伝統的な体育から子 どもを 解放す るうえで大 きな役割 を果 しえたので ある。 しか し,こ
うした歴史的な意味 をもちながらもこの 自由主義体育思想は,明
治30年代以降樋 口勘 次郎,谷
本富,高
島平三郎等 によって提唱 された帝国主義的体育論を思想的源流 とし,そ
の限界 を 克服 しえなかった。永井道 明,桜
井恒次郎等の思想に明 らかなよ うに,第
一次大戦前後の天皇制体 制の全般的危機 を背景に社会 ダーウイニズムを思想的原質とし,国
家主義的観点か らの「体 力」形 成 とい う理論 に貫かれていた。その結果,学
校体操教授要 目に規定 された「体 力」の陶冶 とい う国 家 目的 に対す る検討は,不
間に付 され,所
与 として絶対化 され, 目的その ものが捨象 されて しま う こ とになった。 自動主義,個
別主義 といった近代教育理念 も実体化 されることなく,あ
くまで も軍 事的,産
業的体 力の再生産 をよ り効率的 に,よ
り合理的 に遂行す るとい う立場 から要求 されたので あ り,方
法主義,操
作 主義の限界を越 えるものではなかった。 そ して,体
育の 自然科学化 は,確
か に形式主義 か ら子 どもを解放 しえたが,他
面,「個性」 をも体格,体
質 といった体 力の要素に矮小化 し,子
どもを点と線に分断す る科学主義 に埋没す ることになったのである。このことは,「科学」 と云 め鳥取大学教育学部 教育科学 第18巻 第 2号 われるものが国家 目的 に従属す るとともに