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ショー,ワイルド,ウェップ夫妻--歴史意識をめぐって---香川大学学術情報リポジトリ

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ショー,ワイルド,ウェッブ夫妻

一歴史意識をめぐって・一 木 村 正 身 Ⅰ.開題。ⅠⅠ.『資本論』フランス語版のドブィル概要書とレヨ−。 ⅠⅠⅠ.クェツプの歴史主義の歴史意執Ⅶ(1)。ⅠⅤ.同一(2)。 Ⅴ.同仙(3)。 ⅤⅠ.ベアトリス・クェツプの歴史主義の形成。 ⅤⅠⅠ.ショーとワイルド。ⅤⅠⅠⅠ。ショ−の「移行」論の地位。ⅠⅩ叶 ショーの「移行」論の問題点−(1)。Ⅹ.同一(2)。ⅩⅠ.レ ヨ−の劇作酒動と歴史意識。 Ⅰ 筆者は別稿1)に.おいて,フェビアン社会主義の有効さにかんする論争状況を 紹介し,とくに‥エリック・ホプズポ−ムの所説の吟味を中心に,否定論の近年 での有力な状況とその射程について考察の機会をもったが,じつほそのさい触 れ残した最も肝心な問題があった。それは,はたして実際紅,ジョン。サブイ ルのいわゆる「フェビアン時代」(the FabianEra)2)なるものがあったのかど うか,あったとすれほ,その実質はどんなものであったのか,という問題であ る。いわゆる「フェビアン神話」または「クェツプ神路」が,架空なことの自己 宣伝を長命のショーやクェップ夫妻がおこなった点があることを指すかぎりで は,それらは,まさに.否定されなければならない。けれども,第1に,な紅が 1)拙稿「フェビアン社会主義の社会政鼠思想」,『香川大学経済論叢』第51巻第3・4 合併号,1978年10月。

2)John Saville,如The Background to theIndustrial Remuneration Conference Of1885,”in」玩d須fγ∠−扉」鮎朋鋤働■α抽〝 C叫/お′’β〝ぐ♂〔ヱββ5〕ノ アカg βg♪〃γ≠〟

Procecdings andPapers,Reprinted edition,1968,p.40n.参照,拙稿「シ′ヨP 紅おけるフェビアン社会主義の確立過程」,上掲誌,欝50巻欝3・4合併号,1977年

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香川大学経済学部 研究年報18 − 2・− J.97∂ 架空かの判定は,こと思想。政治問題にかんするかぎりほかなり微妙であって, 判定着日身の主観に左右される点がすくなくないし,第2に.,内容が真実であ れ架空であれ,その宣伝自体ほ歴史的事実であった。その未曽有に.活発な宣伝 活動が,とりわけ時代の代表的思想家たちのインチグレイトされた知的交流の 条件がヴィクトリア朝的紅特殊紅めぐまれたかたちで整備された−・定の時期と 場所と紅おいて仙すなわち,具体的紅言え.ば,「社会主義復活」期のイギリ ス,わけても,ブースのロンドン貧民調査の第1巻とならんで『フェビアン社 会主義論集』(以下,引用文中以外は『論集』と略記)3)が刊行された1889年 (ドック・ストの年)から.,フェビアン諸協会全国大会が開催された1892年(ニ ュ−。コ・エオニズム下ほノじめての総選挙。地方選挙の年)へかけての時期を頂 点とし,ロンドンを中心舞台として−,フェビアンたち白身の才能と精力が 最もよく凝集された状態のもとに.,おこ.なわれて,この宣伝が,たとえ結果と しては右紅自由党の政策実施の実際に〟渉透”しえず,また左に・はとんど労働 運動のあたらしい大きな,真に大衆的な動き一新離合主義一にも,また労 働党結成の推進紅も,溶接具体的にほ貢献できなかったにもせよ,時代をり− ドした政治家群およびミドルクラス左派の種々な思想家集団のそれぞれセクト 的な思考と行動紅たいして,よくもあしくも,めずらしく開放的な・コLニニ−クな ム−ドと豊富な知識とを提供し,そこ紅かれら独特のペース紅.のせた人的交流 網をつくりあげるのに貢献したこと,そしてこのムードと知識と人的交流の全 体が自由放任の残塞(COSなど)を内側から自然崩壊させ,現代イギリス的社 会改良の思想基盤づくりにつながったことほ十−−たとえ,イギリス福祉国家形 成の史的内実が,自由党系譜のものであって,はとんどフェビアンのものでは なかったに.もせよ−・,ポ−ル。トムスンやアラン。マクプライアやホプズポ −ムらの調査と主張のあとでも,なおほぼ明白ではないかと思われる。 この意味で,われわれは,1889−92年を中心とした前後の−・定の期間を,サ ゲィルにならって,やはり「フェビアン時代」と呼んでもさしつかえないであ ろうし,この点,シュンぺ一夕−の社会心理学的紅・コLニニ−クな先駆的指摘が,

3)Bernard Shaw(ed.),Fabian EsSa.ySin Socialism,1889;Jubilee ed・P1948, !■ep,1950・以下の引用では1950年版を用いる。

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ショー,ワイルド,クェップ夫妻 ー 3 − フェビアン時代を粗略に広くとりすぎたきらいほあるとしても,一・定の限界内 で有意味と思われることを,付言しでおきたい。u「フェビアン。タイプの 社会主義的努力ほ,他のどんな時期に.も,なんらの存在たりうることもなかっ たであろう。が,はかならぬ1914年に先だつ30年間でほ,それほまさに.,大い なる存在となった,なぜなら,事物も精神も,ラディカルさの度合いがこれ以 下でも以上でもない,ちょうどこの種類のメッセージを,まさに待望していた のだからである。」4) さて,筆者ほ.,もう1つの別稿において,G.B.ショーが,そのフェビア ン社会主義を,1887年から89年までの期間を中心にどのように.確立していった

4)Joseph A.,S二humpeter,CapitaliSm,Socialism,and DeJnOCraC.y,4thed., 1925,p.323,.ジュンぺ−ターほ,フェビアン社会主義を「プル汐ヨア階層の,かの

異常発生物(that eKCIeSCenCe Of the bourgeoisstratumwhich……・t)」と形容した (p…311)。「かれらは,広範な調査班.よって諸事実を収集すること紅.際限なく労を いとわず,その諸事実紅注意ぶかかった。議論・方法に批判的な目をもっていた。も つとも,その諮目的の文化的・経済的基礎事項匿つ小てこは〔良きイギリス人らしく〕 まったく批判の日がなかったが。」「かれらが影響をふるった方途のうちで最重要の ものは,個々の“中心人物”(keymen)との接触,もしくはむしろ,政治・産業・ 労働の指導者たちの周囲にいる個々人との接触,ということであった。かれらの祖国 が,また祖国匠おけるかれら自身の社会的・政治的配置が,そうした接触をつくり, 利用するのに,ユニークな機会を提供した。」「近代の内閣閣僚というものほ,一般紅 自分の地位の城壁内で,心要なたいがいの情報・示唆を見いだしうるものだ。とりわ け,統計の欠如で困るということは,けっしてありえない。が,卯年代,90年代で は,そうではなかった。まれな例外はべつとして,あらゆる階層の公務員は,自分の ルチーソ以外,他のことはほとんど知らない。おきまりの政策の線からはみだすと, 勤務中の議会人,さらに勤務外の議会人ほなおのこと,しばしば,とくに“あたらし い”社会問題の領域における,諸事実・諸思考にひとく欠乏した。およそこれらを貯 え,うまく準備して.,いつでも役紅たつよう大臣席なりその他の議席から提供奉仕の 用意のあるグループというものは,かならずや,とくに遜口からの出入が自由に.でき るものなのであった。公務は,これを受け入れた。それだけでない。1・・川フェビアン たちに.教育されることもゆるした。…・実際,これはかれら紅ピッタリだった。かれ らは,個々人としてほ野心的ではなかった。舞台裏で奉仕することを好んだ。官僚制 州その人数・勢力の増大をかれらほ予見し,かつ承認したのだが−をつうじての 行動ほ.,かれらの民主的国家社会主義の一般計画に.,すこぶるよく適合した。」(pp 322,323)。なお,このシュソぺ、一夕岬の視野の限界についてこほ,本稿末尾で触れる ヘスケス ・ピアスンの見解を参照。

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香川大学経済学部 研究年報18 J97β ー イ ー かについて考察したが,そのさい,ショ−・の根本恩ヨ臥 とくにかれの社会主義 観の基底にひそむはずの歴史意識がどのようなものであったかについては,は とんど触れることができなかったので、溶くればせながら,本稿ではこの問題 について正面から考察を試みることにしたい。この場合,課題への接近の方法 として,考察が散漫となることを避けるため,とくに,フェビアン社会主義を 名実ともに確立させることになったと考えられるとこ.ろの『論集』を中心素材 として,同番払おけるショノーの歴史にかんサーる所論を,同書中のシドニー・・ク ェップの歴史主義的考察との対比紅おいて検討することを基本とし,あわせて, おなじ時期に.形成されていて,やがでクェツプと合流することになったとみら れるところのペアトリス。ポッタ−(クェツプ夫人)の歴史意識についても関 連的に参照したい。さらに.,この場合,ショ−・の歴史意識の展開に・たいして, ウィリアム・モリスおよびオスカー・ワイルドの社会主義論が,クエッグ夫妻 に.おとらず特殊に重要な関連をもつと思われるので,この点についてもあわせ て考察したい。ただし,叙述予定の関係で,モリスについてほあえて簡単に.と どめたいと思う。あらかじめ言えば,ショーほ,フェビアンとしてみずからの 社会主義的歴史観を確立した瞬間紅,すでに.この歴史観が自分の歴史意識をじ ゆうぶんに.表現していないこと,またほ,総体的な自分の歴史意識に.たいして_ 部分的でしかないことを,インプリンツトに予感した形跡がみられるのではな いかと思われる点,また,そこからクェップ夫妻やワイルドやマルクスやモリ スの歴史観をすべてアンチ・デーゼとして,ショL−の歴史意識の遍歴が始まり, いや,すで紅小説執筆から社会主義の研究と運動へ,そしてまた社会主義思想 のなかでもジョーー汐からマルクス,りれ−ドゥ,クイックステイ・−ド,汐エグ ォンズへと敏活に.シフトしては脱皮をかさねていたかれの遍歴過程が,ここで さらに一・段と領域をひろげて伸長し,それとともにかれのフェビアニズムの風 化過程が刻々に.内部展開してゆきはじめるのでほあるまいか,というのが,本 稿の中心論点である。 ⅠⅠ レヨ」−ほ,ピ・−ズの『フェビアン協会史』(1916年)の巻末付録として寄せた

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レヨ−・,ワイルド,クコップ夫妻 ・− 5− た2つのエセイのうちの1つ「フェビアン経済学の歴史について」さ)のなかで, ショL一自身が中心となって協会の成立期の基礎理論たらしめたところの「抽象 的経済学」(abstract economics)・V−・それは,レヨ−・自身も要約したとおり, ジェグォンズの価値論とリカドゥ=ド。クインシーーの地代論とを基礎とし, 「資本と利子が土地と地代(レント)にたいして経済的・道徳的紅同質的であ るこ.と」6)を説いた(そのため,フェビアンたちは,土地と地代は社会化すべき だが資本と利子はそうでなくて−よいとする土地国有化論者とは,一・線を画し た)ところに,最大特色があったとみてよい叫が,G.ウオラスのチャ」−テ イスト運動研究やフランて/ヌ・プレイス研究の発表,およびクェップ夫妻の画 期的な労働組合運動史研究の達成を契機に.,あたらしい歴史的理論紅席をゆず ったことを,述懐している。ウオラスのチャ−ティズム研究が『アワ・コーナ ー』誌に.掲載されたのは1888年であり,7)『プレイス伝』は98年,そしてクェッ プ夫妻の『労働組合運動史』と『産業民主制』はそれぞれ94年と97年に、出版 されたのだから,8)フ.エビアン協会に‥おける歴史主義の優越がいつ成立したか ほ.,大体見当がつぐであろう。とこ.ろでこの場合,ショーは,「この〔抽象的 経済学の〕部門での活動は,クェップおよび私自身にかぎられた」9)と述べて いるが,このうちクェップの役割ほ,学説史の該博な知識,とくに.地代論史の 検討(1886年6月の討論集会で発表)を踏まえたレント概念の早期の抽象的拡 充作業(88年初のクオ・−カ一批判など)が注目されるものの,実践的に.は,お そらくはとんどミルの理論−・とく把.『経済学原理』の後半の分配理論の部分 −の啓蒙と,功利主義的社会主義の導出の可能性およぴ「ミルが社会主義者

5)Bernard Shaw,仏On theHistory of Fabian Economics,”as AppendixI,A, to Edward R.Pease.The HiSiory pfthe Fabian Society,1916.

6)乃査d.,p.261

7)Graham Wallas,“The Char’tistMovement,”OzEr Corncr,Aug.&Sept.,

1888(pp.11ト118,129−140)∴なおクオラスは,ロンドン大学開放講座(1891年五月)

に,も講師として博識を示した。Cf.Shaw to Fisher Unwin,4th March,1891&

1stJan.1892.Dan H.Laurence(ed.),BernardShaw,CoIZecied Lettcrs1874

−Jβタ7,1965,pp.284,330.

8)G.wa11as,The L・i.々qf.FYIanCtS Place,1898;Sidney&Beatrice webb,

T点々月よsねγ.γ 0ノ■Tγαd¢助よ8乃i.s椚,1894,reVised ed.1920;ditto,J〝d〟ざ∼γ去αJ

ββ∽♂C7・αC.γ,1897.

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香川大学経済学部 研究年報18 J97∂ − 6 − として死んだ」10)ことの紹介とに.かぎられたのであって,実践的・積極的に・フ ェビアンに独特な抽象的経済理論の形成,もしくほ折衷的合成,をおこなった のほ,ほとんどもっぱらレヨ」−のはうであったと言ってよいであろう。だから つぎのレヨ・−・の告白は,フェビアニズムの主導的理論の展開の実質的担当者が レヨ−からクェップないしクェップ夫妻へと転移したことを,明白軋示してい ると思われる。 「ふるい抽象的・演繹的経済学と近代的な歴史的・具体的経済学とのあいだ にほっきりと線を画することほ.,不可能であろう。しかし,海水はおなじで も,潮の方向ほ,かわった。『フェビアン論集』の私の第1論文および私の 『無政府主義の不可能性』における私のレント法則の展開を,クェップ夫妻の 2大史書『労働親合運動史』『産業民主制』とくらぺれば,2つの流派のちが いが例証されよう。/出発点を与え/たのはグレイアム。クカ・ラスであって,か れほ,知的諸命題の演繹的構成を捨でて∴ チャーチィスト連動の徹底的な研究 をおこなった。その諸報告がうまく刊行されなかったことほおおい紅惜しまれ る。その報告発表ほ,われわれの思想および宣伝方法の新奇さについて−甚大な 幻滅をもたらした。多くのあたらしい福音も,にわかに陳腐なできそこないに みえてせた。アガメムノン.以前紅も,ずっとしりぞいてクロムウェルの軍隊に さえも,弱い人々がいたことを,われわれは悟った。われわれ自身の運動の歴 史をマスタL−してそのなかの所定の場所にわれわれがおちつかなければならな いことの必然性が,あきらか紅なった。そして,まきにこのようなあたらしい 心構えのうち紅,クェツプ夫妻に.よるあの記念すべき−・連の労作があらわれる にル、たったのである。ウオラスの『フラン1/ス。プレイス伝』ほ,在来の想像 的伝記を顔色なからしめるていのリアリズムで,ひとつの属衆的アジテ−ショ

ンを再構成するカ傾を,示して「いる。そしてかれは,チャ−テイスト運動に

ついても同様の作業をほたすことに.よって,われわれに感銘を与えたのだっ た。」11) 以上のレヨ−の述懐のなかに.,われわれほ初期フェビアニズムのレヨ・−的, 10)′∂∠♂.,p259. 11)J∂‘d.,pp.262−263.

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ショー,ワイルド,クェップ夫妻 ー 7 −− 抽象的基礎理論の,ゆきづきりとまではゆかないにしても,その役割の減衰状 況を,そしてそれにかわってクエッグ夫妻的な歴史研究が,とくに.90年代後単 以降,フェビアニズムの主導的な要素となっていった事情を,直接の証言のか たちで読みとることができるであろう。ところでショ一自身ほ,地味でアカデ ミックな素意と彪大な資料収集とを必要とする歴史研究の適当な担当者ではな かったし(この点に.ついてもショ一に.相当の能力があったことは,推定されう るにしても),たとえ.ばかれは,ウオラスの過度の歴史への耽瀦を,フェビア ンとしてきびしく戒めた12)のでもわかるように.,フェビアニズムに‥おけるこ.の 基本理論の方法の変化を,当初は大いに.警戒し,反発したと推定できるふしが あるのであって−,やがてほ事態を諦観しながら,一方では劇作活動のなかに.真 理の所在をたずねるというかたちで対応するとともに.,他方では,すで紅フ土

ビアン執行部を退いた時点で“the Old Gang”のl人としての自分の役割の 終焉を確認したわけであろうことは,容易紅推測できよう。 それではショ−・は,一・体かれ自身の「抽象的経済学」の背後に.,どのような 社会史観を蔵していたのであろうか。すでに筆者がいくつかの別稿13)でもくわ しく検討したように,かれの「抽象的経済学」の実体は,リカードク的レント 理論を収奪の論理の基礎としながら,これを汐エグォンズ=クイックステイL− ド的限界効用理論に接合させたものであり,かつ,それをとくに.マルクスの剰 余価値論との対比に.おいて,すぐれているとしてノ、ムステ■ッド・ヒストリック ・グループの有志たちとともに採用したものであった。すなわちかれほ,まぎ れもなく,マルクスを棄てた近代主義者であった。このことは,たんに経済理 論の選択の問題にとどまらず,じつは同時に.歴史観の二J者択】・の問題でもあっ たものにたいして−,ショ−が出処進退を明らかにしたことを意味している。で はう十ヨーは,どのように.して,マルクス紅感銘しながらマルクスを放棄するこ とができたのであろうか。筆者の見解では,ショL−は,直接にはつぎに述べる

12)Shaw to Graham Wal1as,20th Sept.,1892.Laurence,Oi,.Cit..,pp.366−・367..

13)上掲2稿のほか,「レヨ−とクイックステイ−ドーイギリス社会主義思想史のひ とこま−」,香川大学経済学部『研究年報』15,1975年;およぴ「G.バ」−ナ−ド・ ショー〈カ−ル・マルクスと『資本論』〉(訳)」,『香川大学経済論差』算49巻第1号, 19」76年4月,の訳者はしがき,をも参照。

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J97β 香川大学経済学部 研究年報18 − ∂・− ような事情から,不幸にも第一・印象において:マルクスを誤読し,『資本論』に おける歴史即理論の方法および構成を理解できず,したがってマルクスの価値 ・剰余価値論の独自な歴史的・弁証法的文脈を理解できないまま,みずからは 理解しえたと信じ,マルクスの彪大な資料からの博引傍証ぶりには感嘆しなが らも,理論的に.ほマルクスとリカードクとの決定的相違点を把握しそこない, マルクスはリカードクで代位させうるものと考えたという事情があると思われ るのである。 ショ−・は,マルクスの学説にたいして,当初のきわめて重要な時期に・『資本 論』第1巻フランス語版のガプリエル・ドゲィルに・よる概要書−『カ−ル。 マルクス著「資本論」の概要。科学的社会主義の要約を付す』14)− を読むこと をとおして接近したのであったが15)このドグィルのフランス語版概要書の長所

14)LeCabiialdeKaYIMaYX・Resum畠etaccompagn畠d’unAper9uSurleSocial・

isme scientifiqueparG.Deville.pp.324.Paris,SaintGermain,〔1883〕12O. なお,ショー・は,84年秋に1エンゲルスの『空想から科学への社会主義の発展』をもフ ランス語から翻訳したいとエンゲルスに・申し出たが,英訳権がすでにエイダリングに 与えられていたため,こ・とわられている。参照,エンゲルスからカ−ル・カクツキ− 宛,1朗4年10月20日付。マルク.スこてエンゲルス全集,大月版,算36巻,202ぺ−ジ。 15)アーチ・ヤー(WilliamA工CheI)は,1885年K・,プリティツVユ・・ミュー汐アムの リーディング・ルームに日参していた折,「自分以上に熱心に・」「毎日,何週間も, 2冊の本−カール・マルクスの『資本論』(フランス語)と〔ワグナ−の〕‘‘トリ スタンとイゾルデの管弦楽譜と−−を前紅して,両者同時に・ではない紅して:もかわ るがわるに,研究していた」青年レヨ一に・興味をもち,親友となった経緯を記録して いるが(T伽Iれ7・Jd,14thDec.,1892),レヨ−はこの部分を含むアーチ・ヤ」−の文 を処女劇作『寡婦たちの象』の1893年刊本の序文中で引用した。のら,『セルフ・ス ケッチ・16章』(1949年)中で2カ所,その「カ−ル・マルクスの『資本論』(フランス 語)」とは「ドヴィルのフランス語本(version)」であったこ・とを告白した。Cf・The

AuthoI,s Preface to1893 edition of mdowers’Houses,The Bodley Head

BernardShaw,Vol.1,1970,p.37;Shaw,Sixieen SeLf.Skuches,1949,Chaps. VII&Ⅹ,American ed., pp.61,97; Stanley Weintraub,Shaw,An

A払わ翫−〃g㌢α♪カ.γJ∂56■−ヱβ9β,5βJ♂Cfβd./シー卯柁β依仁脚力わ狸gざ,1970,pp,.173,264.

なお,シ㌧−の読んだ『資本論』の実体がなにであったかについて,全然不感症のま

まに.Vヨーへのマルクスの影響を論じた著沓の例として,PaulA.Hummert,BeY・

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ショー・,ワイルド,クェップ夫妻 ー 9 −

と欠点についてほ,エンゲルスがたびたびカクッキー,ラファルグ夫妻,グェ

ラ・ザスーリチその他の人々に,手配で書きおくったところであった。18)すな わち,同書は,かねてドグイルが,存命中のマルクスの承認と激励とを受け て,『資本論』第1巻フランス語版(ロア訳,モリス・ラシャトル発行,1872 −・75年)の啓蒙的概要書−−訳の抜粋ではない−として準備され,マルクス はその原稿の一・部にみずから目をとおしたが,その死後はエンゲルスが残りの 原稿を閲読し,′その結果,「純理論的な問題軋ついては,これまでに.出た抜粋 書〔正しくは概要啓〕のうちで最良のもの」17)だが,「記述的な部分〔 協業,マ・ニュ.ファクチプ,大工業などの部分〕はあまりに.もぞんざいな書き かたで,原書を知らない人々にはまったく理解できない箇所がはうぼう紅あ る」18)こと,また,歴史的記述部分に.ついてほ,「大衆向けの解説としてまさ に.理解を非常に.容易にする箇所なのに,継起する歴史的諸時期〔力点原文〕と

してのマニュファクチアと大工業の歴史的な出現が,あまりに.も軽視され

で」19)いること,さらに,「仝内容の抜粋」(正しくは,科学的社会主義全般の 要約)の部分でほ,剰余価値論とその帰結という根本点の理解軋必要のない事 柄までふくめていて,軽重の取捨選択が不適当なこと,また,マルクスが要約 として述べた諸命題は−・言一‥句たがえず採り入れられてはいるが,それらの命 題の前提条件の説明がきわめて不完全なため,誤解をまねくこと,などをドグ イルに注意したが,出版を急がされて,これらの欠点ははとんどあらためられ 16)参照,マルクスからガプリ.エル・ドグィル宛,1877年1月23日付(マル=・エソ全 集,大月版,算34巻,198−・199ぺ・−・ジ), エンゲルスからドゲイル宛,83年8月12日 付(同第36巻,42−・43ぺ一汐),同ラクヲ・ラファルグ宛,同年10月3日付(同巻, 58一・59・ぺ一一汐),同カ−ル・カクツキ−宛,84年1月9日付(同巻,73−74ぺ」−・の, 同,2月4日付(同巻,86−87ぺ−ジ),同ピョ・−トル・ラグロフ宛,同年2月5日付 (同巻,90一・91ぺ−・汐),同れ−ル・カクッキー宛,同年2年16日付(同巻,98ぺ一 汐),同グェヲ・ザス−リチ宛,同年3月6日付(同巻,108ぺ−ジ),同ボ−ル・ラ ファルグ宛,同年8月11日付(同巻,179ぺ一−ジ),同ラクラ・ラファルグ宛,85年7 月23日付(同巻,305ぺ−・汐),同ウイジュネクェツキ夫人宛,86年8月13日付(同 巻,442ぺ−・ジ)。 17),18),19)エンゲルスからカ・−ル・カクツキ・一宛,1884年1月9日付(全集,第36 巻,73ぺ・−汐)。

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−∵㍑トー 香川大学経済学部 研究年報18 ヱ97β ないままに月]刷されたものであった。ドグイルほ.,ラファルグ夫妻やグードと とも紅フランスに‥おけるマルクス主義の代表的な活動家であり,マルクスの忠 実な使徒であったのではあろうが,筆者の調査では,本書の実際内容は,かれ が『資本論』の歴史即理論的な構成(歴史的叙述の重要性)を理解していたこ とを疑わしめるものがあり,本書自身がすでにすこぶる「抽象的経済学」風に 構成されていたと言ってよい。20) こうして∴ たとえば,「記述的な部分紅重大な欠陥があるため,けっしてじ ゆうぶんな役軋はたたないでしょう」21)とか,「後半部は原典をただしく反映 していない」ので,「フランス語版が市場紅出回っているフランスではこのこ とを不問に付することは許容できました。しかし英語訳が出ていないかぎり で,またほこれとの競争の形であれが出版されるかぎりで,当地〔ロンドン〕 ではけっしてそうするわけにはいかないでしょう」22)などとユ∴ンゲルスに評さ れた,そ・して,カクツキ∼がその翻訳希望をエンゲルスに申し出たとき,反対 ほされなかったものの欠点が多いことについて警告を受けた23)という,いわば かなりいわくつきのドグィルの概要音を,㌢ヨ・−がプ.リティッレ.ユ・さ.一ユー汐 アムのリーディング。ルームで「毎日,何週間も」24)熱心に読んで,それによ って「マルクスを読んだ」と思いこんだものとすれば,それが『資本論』第1 20)小型本,序文とも323ぺ−汐にゆっくり36行組みとした本番(序文は1883年8月10 日付。本文のうち冒頭の計63ぺ一汐ほ.「科学的社会主義の要約」)は,フランス語版 原本の抜草本でほなぐで要約番,つまり独立の箸苔であり,『潜本論』欝1巻原典の 計7編25茸の区分は,だまって釘8編29章に.改変され,「労働日」の葦は9ぺ−ジ, 「協業」は7ぺ」−汐 ,「分業とマニュファクチア」は14ぺ−ジ,「機械制と大工業」 は33ぺ−ジ,「資本制的蓄積の一般法則」は28ぺ一汐にとどまり,いずれも歴史的叙 述がはとんどまったく,また注の部分が完全に.,省略されている。Cf.Deville,〃♪. df.,pp.139−・147,157」163,164−177,178−・209,270−297. 21)・エンゲルスからポール・ラフアルグ宛,1884年8月11日付(全集第36巻,179ぺ・− ジ)。 22)エンゲルスからヲクラ・ラファルグ宛,1885年7月23日付(全集第36巻,305ぺ・− ジ)。 23)エンゲルスからカ−ル・カクツキ−・宛,1884年2月4日付(全集第36巻,86−87ぺ 一汐)。 24)脚注15)を参照。

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ショー,ワイルド,クェツプ夫妻 − ノブ− 巻の歴史的叙述の諸費の真意を把握しそこねたことの可能性,また,ひいて ほ.,・その歴史的叙述部分と理論との不可分の弁証法的関係のじゅうぷんな理解 にたってのみほ.じめてわかるほずのマルクスの価値。剰余価値概念の画期的な 意義を,ショーが理解するのに∵失敗した可能性は,すこぶる大きV、ものと思わ れる。もっとも,別途紅ショ−ほ,なんらかの手順で『資本論』フランス語版 原典そのものをも入手しただろうと推定されるし(この点ほ今後の考証課題で ある),またすすんでドイツ語を学習し,クェップの指導で『資本論』第2巻 のドイツ語版をテキストとして読んだといわれて.いる(1885年夏ごろ)。25)しか し,いずれに.せよ終始クェップがデューク−では.,ミ/ヨ・−ほ原典の博引傍証ぶ りにあらためて感銘を受けながらも,ドグイルの概要書に.よって得た先入観を おそらくほとんど払拭しえなかったのではあるまいか。この点は,モリスがバ ックスという良き教師紅めぐまれたのといちじるしく異る背景事情であろう。 このようにして,ショーは,ドブイル概要書の不手際というアクシデントに 媒介されて,そもそも本当の『資本論』第1巻の姿にさえおそらく接しえず, いわんや第8巻まで,さら紅ほ剰余価値学説史までをも含めた『ノ資本論』の未 公開の全貌に接するべくもないまま,かれなりのゆがんだ『資本論』像とマル クス像とをつくりあげ,そこからかれ自身のいわゆる抽象的経済学の部分,す なわち,形而上学的と思える(クイックステイ」−ドからそう教わった)ところ の弁証法的価値概念は棚上げにして,絶対的。静態的なレント概念紅ひき直し てしまったととろの剰余価値範疇の非弁証法的形骸だけを吸収し,他方,歴史 的叙述の諸牽からは白書類の施大な引証ぶりに.ついてのみ感銘をもって歴史主 義をまなび,結局『資本論』の背骨たる歴史即理論の弁証法的構造とその展開 の総体的な筋道を,把握しそこねたものと考えられる。そしてこのことほ,と りもなおさず,ショーがマルクスの歴史意識の追体験に完全に失敗したことを 示すものであったと言えよう。 ⅠⅠⅠ ところでわれわれは,歴史観の点で不断に.直接にショ」−をみちびいたと思わ

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香川大学経済学部 研究年報18 −Jヱー J97∂ れるシドニ−・クェップ(ないし,やがてクェップ夫妻)も,おそらく以上の ようなショーの偏った『資本論』理解を共有したであろうことを,たとえば 『論集』中のクェップの担当した社会主義の「歴史的」基礎論にたいする,ウ イリアム・モリスのきびしい批評から,容易に推察することができる。モリス は,『資本論』策1巻における歴史的叙述の展開に厳密に.即しながら,つぎの ように.クェップを批判した。 「シドニ−・クェッブ氏は,社会主義の‘●歴史的”基礎を担当する。が,氏ほ 他のどの筆者以上にも,歴史的ではない。実際,レヨ−氏以下である。戌の歴 史は,18世紀の大産業峯命の盾前期からはじまるに.すぎない。この時期の産業 状態を,氏は.,あまりに.も粗略に.取り扱っている。実際,まことに粗略なため 不正確でもあれば,誤解をもまねく。なるはど,国の諸産業のうちにほ,表 面上個性的なやりかたで運営されたものもあるが,大部分は,中世の労働者の 全然知らなかったひとつのきわめて洗練された分業制度のルールのもとに.あっ たのであって,ヨ−クレヤの織元たち(イリングワース氏が立派把持写したよ うな)は,なるはど自分の作業場またほ家屋内では自分の道具・時間。資初の 主人ではあったけれども,かれらをゆるやかながらも搾取して財貨を仲買人紅 売るところの主人(ふつう,隣人の農業者)のために.,働いたのであった。労 働者たちは,その背後に.世界の市場を,それと意識せずとも,もっていた。財 貨は,〔すでに.〕利潤のために作られたのである。寛一儀的に使用のために・作 られるのでほ,なかった。要するに,シドニ→。クェップ氏ほ,中世の崩壊お よび民衆の土地からの追放とともに16世紀にはじまった産業移行期をば,無 視したのである。この移行軋,カール・マルクスに.よって“マニュファクチア 期”という名称(われわれほ,これを手工場期と呼んでもいい)のもとに.,大い 紅慎重・厳密に月文り扱われており,この点はすこしは,シドニンー・・クエッグ氏 の‘‘歴史”のなかに.ふくめられて然るべきものであった。・…」28) もっとも,『論集』中のクェップの「歴史」的基礎論ほ,事実上むしろ主 として近代社会経済思想の展開の素描が中心であったようで,経済史の説明

26)William Morris,“Fabian Essaysin Socialism,〃The Commonu]eal,January

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−J3− ショ−,ワイルド,クェップ夫妻 のスぺ一−スは限られていたとほ言えよう。それにして:も,モリスの批判点は, クェップの「歴史的」基礎論の弱点の核心を衝いた観がある。実際,既述のよ うにクェップは,ショ一に1885年夏ごろすで軋レヨ一に・『資本論』第2巻のド イツ語仮の読書指導をしたといわれるにもかかわらず,そのあとでもなお悠々 とミル的雰囲気を継いだ“コクエ−”=クェップの姿勢は,アイルランド出身 のショ−と『資本論』の受容のしかたにおいてもいささかちがうものがあった ことにふしぎほ.ないに.しても,シリアスな社会主義の主張のためには,モリス の指摘したとおり『資本論』の歴史即理論の見地からの最も重要な力点をクェ ップが終始理解しえ/ないままに.推移したことは,重大であったと思われる。な おわれわれは『資本論』第1巻のドブイルの概要書のミスリ−ディングな役割 を,ショ・−経由でクェップについてこも類推しうるかもしれない。ロンドン育ち の青年公務員ク.ェップは,1875年から1892年の地方選挙に・出るまで17年間コロ ニアル・オフィスに勤務し,同僚のオリグイアと同年齢,レヨ−より8歳年少 で,小声で,演説がきわめて下手だったという。かれら3名にピL−ズ,クラー ク,ウオラスも加わってノ、ムスタッド。ヒストリック。ソサエティでマルクス を読んだときのテキストがなにであったかは,詳細不詳だが,ミル=コント的 先入観が不抜のものだったにちがいない。ともあれ『資本論』第1巻につVノ、て は,ドグィル概要書から入ったレヨ−のはうが先に・読み−「フェビアンたち のなかでは,ひとりショ・−だけがマルクスを研究していた」(マーーガレッ コ−ル)27〉− ,これをショーがクェップらに宣伝したのでは.あるまいか0クェ ップは,読んだが,感銘を受けなかったといわれる。28)ただし,この場合,レ ヨ−の真意は,マ・−ガレット。コ−ルも指摘したように,マルクスの価値論な り,それを中心とした経済理論構成の意味の重要性を伝えるというよりも(そ れは,上述のとおり,じつは到底無理な課題であった),むしろ,その歴史的

27)Margaret Cole,The Stor.y of Fabi’an Socialism,1961,p・18・なお,

Hampstead HistoricSocietyに・率けるクエツプのマルクス批判の様相紅ついてこは,

N,&J.MacKenzie,Ob小 Cit.,pp.63,109.

28)Margaret Cole,OP。Cit.;ditto(ed.),The Webbs and TJLeir Work,1949,

p.6;JamesW.Hulse,Revolutionistsin LIO71don,A Study ofFiye thlqY・

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香川大学経済学部 研究年報18 ・−・J4 − J97β 叙述に・おける工場監督官報告書等々の資料の徹底的な利用の意味紅注目して, このような資料活用の方法をフェビアン協会の宣伝にとり入れるべきことをあ らためてクェップに・すすめることにあったとみてよいであろう。そのかぎりで の成果が,クェップ自身が署名入りで書いたフェビアン・トラクト第5冊『社 会主義のための諸事実』(1887年)29)なのであった。 「かれ〔クェップ〕ほどの経済学および統計の知識をもちあわせたメンバ− は,いなかった。この文献ほ.,その標題が示すとおり,もっぱら,経済学の標 準的諸著作の引用の集大成なのであって,そのつなぎあわせの目的ほノ,年々 生産される富の大半が,僅少のサービスとひきかえか,またはまったくの無償 で,社会の1小部分に帰属するということ,また,大衆の貧困が,個人主義者 の言いたてるように.,個々人の資性の欠陥からくるのでほなく,ジョン・スチ・ ユ.アート・ミルが宣言したように.,土地および資本の所有者龍帰する国民分配 分の分け前が過大であることからくるのだということを,証明することに.あっ た。」30)と,ピーーズは書いているが,この趣意の導出に.は,クェップはぺつにマ ルクスを必要としなかったとして.−も,ふしぎでは.ないと思われる。クエッグが 『資本論』からまなんだことは,全然その理論部分ではなく,また歴史認識の 弁証法的方法でもなく,『資本論』中の歴史的叙述における労働史的諸素材の 広範な駆使の効果,そして産業社会の進展が必然的に.集塵主義に」匂うという進 化論的な大史実の看取,ということであったであろう。そ・して,このあとの点 について,クェップ自身の歴史観がそれ自身ですで紅ポジティグにできあがっ て.いて,その先入歴史観が『資本論』払おける唯物史観のポイントを受けつけ え.なかったという面が考えられる。 では,そのクェップの歴史観とほ,どのようなものであっただろうか。あら かじめ言えば,それほ,ダ−ウイン,ハックスリー,スぺンサー・らを中心に, とくに・社会にかんしてほスぺンサ」−を代表として19世紀中葉にイギリスで独自 に展開した社会進化史観を,ミルの社会改良的経済学およびコント実証主義払 おける倫理的要素(「人間宗教」)によって方向修正し,さらにミルやコントに.お 29)Sidneywebb,Facts.fb7・Socialists,Fabian TractNo.5,1887. 30)Pease,〃♪.df.,pp.70−71,

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ショー,ワイルド,クェップ夫妻 − ヱ∂− ける道義論的。理想主義的色彩の進展をも,それ白身ひとつの進化的過程とし て全体の進化に.織りこむものであったと言えよう。クェップほ,みずからスぺ ンサーーの著作.およびノ、ツクスリーのダーウィン注解ならびにミルの経済学の研 究をもとおして,またあわせて−盟友オリグィアのコント熱中からも大きく影響 されて,コントの実証主義史観に.到達したようであるが,31)ショーによれば, コントの実証主義哲学を正式紅通過してストレ」−トに.フェビアンとなったの は,カ■リグイアだけであり,他方,クェップは「ジ′ヨン。スチェア−ト・ミ.ル をとおしてのセコンドハンドのコント主義者」32)であったとされる。しかし, 広くみれば,ひとりオリグイアやクエツプとかぎらず,「社会主義復活」期に 先だっ20年間,すなわちミ.ルが社会思想家として君臨した期間に.は,コント的 実証主義が,功利主義という基本的底流とならんで相促的にイギリスの思潮を 大きく支配し,それがミル自身をも功利主義と同様紅貫徹したわけであり,こ れがフレデリック。ハリスンやE.S.ピ−ズリ−やヘンリL−・クロンプトンの ような,当時の労働運動。労働立法に届要な連繋を保った実証主義派労働経済 思想家集団−それ自身としてははとんど積極的。体系的原理も独創性も′もち あわせず,そしてベンタムやクエッグのような指導者もいなかったといわれ, 結局「功利主義者とフェビアン社会主義者との−・種の中間物」(ロイヂン。ハ リスン)83)であったかもしれない紅せよ…を形成させたばかりでなく,すす んでウ一エツプ以下のフェビアンたちの歴史観の土台ともなったと,みてよいで あろう。 だが,クェップは,一歩をすすめて,この進化の必然的展開物として,社会 主義を規定した。そして,その場合の理論装置および倫理基準として−,ペンタ ムに・よってデフォルメされていた形態のかぁりに,財産の安全優先という条件 をとり払った本来の純粋論理的形態に復元したところの功利主義を用いたもの と考えられる。『論集』の第2論文たるクェッブ撃の社会主義の「歴史的」基 31)N.&,.MacKetlZie,OP.ciL.,pp。60−61,109.

32)Shaw,パSomeImpressions,”a Preface to S.ydney Olivier:Letters a〝d Selected W7・iiings,1948.Cf.weintraub,Ob.cit.,p.126.

33)Royden HaI【・ison,βげわγg 才力β SクぐよαJ∠.ざ≠∫.:・S∼〟d≠g∫よ〝上元恩の〝・“ね㌧円満f如

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香川大学経済学部 研究年報18 −J6− ヱ97β 礎論および籍8論文たるタラ−ク筆の「産業的」基礎論について,マーガレッ ト・コールは言う,「つづく2つの論文に.おいて−,シドニ・岬。クェップとウイリ アム。クラークほ,おなじように.マルクスおよび功利主義者たちの教示から欲 するだけを換っている。ク.ェップほ,その父がクエストミンスタ−のジョン・ スチェア−ト・ミルの委員会メンバ−・の1人でもあったところから,当然期待 されたことだが,ペンタムにつよく依拠している。“最大多数の最大事福”ほ, クーエツプに.とって,じゅうぶんに立派な原理なのであって,かれのもっぱらの 関心は.,最大幸福が,生産資源の共同体的使用に.よってのみ達成されるものだ ということを示すことに.ある。マルクスについて言えは,かれもクラークもと もに,経済学(「生産力」)が社会の政治的条件を規定すると唯物史観が宣言 する側面を,承認するのであ・つて,クヲ」−クは,製造産業の成長およびそこか ら生ずるトラスト化を,完全に.マルクス的なやりかたで(マルクスの用語を使 っでではないが)述べ,またクェップは,この世紀の経済的進歩を,直接に.社 会主義紅いたるものとみなしてル、る。」銅) しかし,筆者の理解するかぎり,クラ」−クもまたクェップと同様,なんら産 業資本の概念規定も,その創世記の説明も,あたえてほいない。クラークは, 資本家の起源は「監督賃金」の受領者の階級として有意味であったのが,利潤 追求のため紅次発紅社会に.とって無用有害の存在となってせたのであるとし て,資本家が機能退行により淘汰されるという社会進化の1局面を述べ,ま た,これから資本の大独占(リングやトラスト)が形成される経緯を,イギリ スよりもむしろアメリカを舞台として説明し,この弊害紅たいし,集中のすす むのほ,社会化の必然のあらわれであり,その過程とともに無用・非能率なも のはかならず淘汰されるのだから,民主的集塵主義の方向から逆戻りすること のないかぎりで,最後に.全人属有の瞬間がくるまで愚昧紅対応した適当なあれ これの政農を講じつつ見守っていればいいという,ある意味でベラミ∴−の『回 顧録』85)を想起させるような楽観的な進化論的・民主的社会化説を提唱してい るが,その考察はがいして甘く,ミ/ヨーやクェツプのようなレント論の採用も 34)Margarer Cole,Ob.cii.,p.,28.

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レヨ」−,ワイルド,クェップ夫妻 −J7− ないかわり,それにかわるポジティグなマルクス的経済理論がみられるわけで もなく,要する紅タラ−クのものは,ひたすら産業民主化の急進的進化理論な のであると思われる。独占の必然的で不可逆な進行がおなじく不可逆な社会化 のあらわれだとクラ・−クがみている点ほ.,たしかにマルクスの視点と符合する し,まさにこの点がクラークの本論文をしてフェビアンたちだけでなぐマルク ス主義者にも当時人気あらしめた所以であろうが,全体としての方法紅ついて は,「マルクス的なやりかた」またほ.「民主主義の将来を,まともに.マルクス 主義的歴史分析で基礎づけようとする試み」(ホプズポL−ム)叫と規定すること に,筆者は臆躇を感ずる。 クラ−クは.,元来成功した急進自由主義派の汐ヤ−ナリストであったが,こ の論文における産業民主化への急進楽観的期待は,90年代以降の事態の推移に よって袈切られ,絶望が楽観にとってかわり,世紀転換期のポ−ア戦争に反対 するうち,糖尿病で1901年に死んだ。ともあれ,この論文でのクラ−クの歴史 観ほ,厳密には,マルクス的唯物史観というよりもむしろ実証主義的進化史観 の−・種とでもいうべきものであったと思われる。87)そして,この点でほ,クェ ツプもまた同様であったと考えられるのである。 200∂A.∂.,1887.他のフェビアンたちとともにクラーークもまた,ベラミ−から 大きく影響を受けていたことは明白である。『論集』中でほ,アニ−・ベサントが 「社会主義下の産業」論中で,社会主義下の分業についてのベラミ.−の同番中の轟に. 言及している(ダα∂∠α乃β∫・ざ抑S,p..149.)。ベラミノーの序論のついたアメリカ版の ダd汀の官長丸は.γ・S(1る94年版,Cba工・1es E.BIOWn,Boston)紅,クラ−クが仲よくま えがきを寄せている。Cf.Pease,OP.cit.,p.89.ちなみK,,クェップがベラミ− のβグ.〝β∠d♂〝如//’5ク㌢〃‘g∫ざ,18銅.を滞独中紅読み,その頭脳衛生学的発想私大 きな感銘を受けたと言われることも,注目される。Ct.N.&J.MacKenzie,Ob. C査Jリ p巾 66.

36) Eric‡王Obsbawm,7−he Lesser Fabians,Our History Pamphlet No.28,1962.

p.7. 37)実証主義とマルクス主義との類似性ないし親近性の認否紅かんして,論争があり, ロイヂソ・ハリスンがこれを概観整理している。Cf.Royden Harrison,OP.cit., p.271n.ハリスンは,マルクス派からの肯定論の例としてL.PI・enant,反マルク ス派の所論の例として:K.R.Popper,H.B.Acton,Ⅰ.Berlinらをあげ,後者の系 列における運動論的視点の欠如を批判し,他方T.B。BottomoreとM.Rubelの類似 否定論をも批判する。筆者としては,この問題は,課題が設定される次元次第である と考える。われわれのここでの課題は,ある実証主義思想家が社会主義的かどうかと いうことより,むしろ特定の思想家たちの「社会主義」の性格の比較論的析出(たと えば,モリスとベラミ・一・ とのちがいの確認)に・あるからである9

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香川大学経済学部 研究年報18 −ヱ∂叫 ヱ97β ⅠⅤ そこでわれわれは,クェップの所論について,ややくわしくみてみよう。 「社会主義の歴史的土台を論ずる紅あたって.,社会主義が歴史に基礎をもっ ものだという主張をしても,べつに.社会主義のために.なんら特別な要求を出し てこいるわけでほないことは,記憶しておくに値いする。ちょうど,人間がみな, たとえ自分にほわからなくとも祖先をもつように,思想,事件,運動のどれも がみな・,それ自身の長い原因連鎖を過去にもっており,これなくしてほ存在し えなかったわけである。かつてほ.われわれほ,死者は死者をして∴葬らしめる∈・ とで満足していたが,今日では,われわれは好んで人なり事物なりの記録をと り,また,意識した功利主義的目標をもたずとも,すすんで起源探求に.営々と 従うものである。われわれは,誰でも祖先をもつのだから,もはや祖先をもつ ことをはこりとはしない。が,祖先のなか紅はわれわれ白身を構成サーる諸断片 が見いだされるものだとわかった以上,われわれの祖先にたいする興味も従来 以上に.増してくる。現世紀のあいだのイギリス社.会組織の史的系譜は,社会主 義があらわす諸思想の不可抗力的ないきおいの証拠となる。イギリス社会史に おけるこの世紀の記録ほ.,はとんど完全な産業的個人主義の審判および絶望的 な失敗とともに.はじまるのであるが,もっとも,そこでほ,土地・資本の無制 限な私有は,政治的寡頭制を伴っていたのだった。この個人主義的秩序には永 続的要素ほきわめて−稀薄であったから,政治的解放とともに,生産手段の私有 は,なんらかの方向に.つぎつぎと規制され制限され取り替えられてきて,つい には,いまやじゅうぶん正当に訴えうることは,今日の社会主義哲学は,すで に大部分無意識のうち紅採用されてきたところの社会組織原理を,ただ意識的 ・陽表的に主張することにすぎないということである。現世紀の経済史は,社 会主義の前進のほとんど連続した記録なのである。」88)一 社金主義の「歴史的」基礎にかんするクエッグの議論ほ,このような社会的 進化のマクロ的な必然的帰結としての社会主義の把捉をもって,はじまる。そ して,社会主義をそれ白身の内部史としてのニL一−トピア社会主義思想のあゆみ 38)SidneyWebb,“Historic”BasisofSocialism,Fabian Essays,pP・28−・29,

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レヨ−・,ワイルド,クェツプ夫妻 −J9− を,プラトン,トマス・モア,バブ−フ,カベ−,サンーレモン,フ」−リ・エ, オクエンおよびコント(「オーギュスト・=トントさえも,同時代の諸弱点の多 くをこえてはいたが,その実証主義の哲学にほぜひ詳細な政治組織を加えなけ ればならない」39))の提案について簡単に.要約したのち,つぎのように述べ た。 「すべてこれらの緒提案の主要な特色は,いわばその静態的な性格というこ とであった。理想的社会は,完全に.つりあいのとれた均衡状態にあり,将来の 組織変更の必要も可能性もないものとして,示された。が,かれらの時代以来, 社会的再建は,こうしたやりかたでとりかかってほならないことを,われわれ ほまなんできた。主としてコント,ダーウィンおよびノ、−バ一−ト・スぺンサー の努力に.よって,われわれほもはや理想社会を不変の国家として構想す・ること は,できなくなっている。社会的理想ほ,静態的であることをやめて,動態的 となった。社会有機体の不断の成長・発展の必然性ほ,公理的となった。いま やどんな哲学者も,ふるい秩序からのあたらしい秩序の漸進的進化が,その過 程のあいだにどの時点紅おいても全社会組織の連続性の破裂や唐突な変草など なしにおこなわれるということ以外のことを,求めたりは.しない。あたらしい ものも,しばしばそれがあたらしいものとして意識的にみとめられる以前に, それ自身でふるくなるのであり,歴史は,われわれ紅,エ・・−トピア的・革命的 なロマンスの突然の置き換えの例を,なんら示してほいない。」40) そして,クェップによれば,このような,社会主義に.向けての不可避の連続 的な社会発展ほ,つとに.ド。トクヴィルも指摘したように.,過去100年のヨ一 口ツパ社会については「民主主義の不可抗力的な進歩」41)紅はかならない。と ころが,一方では,屈主主義を,たとえばへンリ−。メインのように,たんに. 静態的な秩序におけるひとつの政治機構の他の政治機構との取り替えだと考え たり,社会経済問題と政治問題との不可分の関連にかんするコントやカ−ライ ルの指摘を理解できない人々が多く,他方では,・コ∴−トピアンたちは,いたず 9 1 2 3 p p d d d 乃化川乃 ︶ ︶ ︶ 9 0 1 ︵∂ 4 4

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香川大学経済学部 研究年報18 Jタ7β −2♂− らに仁慈な専政君主のように.,上からのあらいプランを考えるだけで,「じつ はかれらの統御しえ.ないていの,そしでユ・J一トピアンたちの思いもしない方途 で社会的救済を容赦なくつくりだしてこゆぐていの,盲目的な社会的力を,考慮 に.入れていない一」42)ことを指摘したのち,クェップは,要約的につぎのように 言う。・岬ルーー 「現在の社会主義運動では,以上の2つの思潮ほ,統一・される。社会再建の 唱導者たちは,民主主義の教訓をまなびおわって,社会再建がすこしずつ到来 するのは,まさにあたらしい諸原理へと民衆の心を徐々・漸進的に.ふりむける こと把.よってであることを,知っている。時代に.即応した社会の研究者たちは みな,社会主義者も個人主義者も,重要な組織的変化が,もっぱら,(1)民主 的であり,したがって人民の大多数が受け入れられうるもの,全員の心に対応 の用意ができるものであること,(2)漸進的であり,したがって,進歩の速度 がたとえどんなに∴迅速であっても混乱をおこさないものであること,(3)人民 大衆がこれを不道徳的とみず,したがって,かれらにとって主観的紅みて堕落 的でないこと,かつ,(4)いずれ紅してもこの国では,立意的で平和的である こと,以上以外にほありえないことを,悟っている。したがって社会主義者 は,政治的諸方法の点では,急進主義者と,まったく一・致しうるであろう。他 方,急進主義者ほ,国家を無政府状態と絶望とから救うには,たんなる政治的 水平化だけでほふじゅうぶんであることを,否応なし紅.悟りつつある。困難の 根基が経済的なものであることを,両派とも認識せざるをえなくなっている。 そして,民主主義の不可避の帰結として,人民白身が,かれら自身の政治組織 を統制するだけでなく,それをつうじて,富の生産の主要手段をも,統制する こととなり,競争的格闘のアナ脚キーー紅漸次組織された協同を置き換えること となり,またその結果として,ジョン・スチュアーート・ミルのいわゆる‘‘産業 手段の所有者が生産物から収取しうる巨大な分け前”を,唯一・の可能な方途 で,回復するよう紅なるのだということ紅ついて,意見の−・致が日々広まって いる。民主主義的理想の経済的側面は,実際,社会主義そのものに.はかならな 42)J∂よ♂.,p.32.

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ショ−,ワイルド,クェップ夫妻 −2ユー い。」431 ク=ツプは,「ふるい総合」としての近世的な差別と干渉の体系の解体状況 およびそれ紅つづく個人主義。ベンタム主義的自由放任の無政府状態−−「行 政ニヒリズム」(ハックスリ−)−とそのもとでの不労所得(地代および利 子)の必然的増大,を概観したのち,それへの自然的反発として,一−・方でほ, 知的・思想的次元での批判が展開し,「つい紅最後に.は,コント,汐ヨン・ス チェア−・ト・ミル,ダーウィン,ハ−バート・スぺンサー紅よって−“社会有機 体”(SocialCrganism)の概念が,いまだ書物を,わが経済学の教授たちの書 物を,つらぬくまでに.ほいたらないとしても,人々の心をはつらぬくに.いたっ た」44)こと,他方では,そうした思想の流れとほ.一応無関係紅,実際政治・政 策の面で,社会的弱者のための多種多様なおびただしい立法。行政が,自給, 上下水道,エ場。鉱山労働,労使関係,公衆衛生,各種交通(道路・港湾・船

舶・鉄道),消費,文化,図書館,博物館,会堂,教育,医療,薬品,病院,

保育,金融,証券,出生,婚姻,結婚,埋葬,救急,消防,海難,浴場,貨

幣,ガス,電気,電信電話,土地制度,等々,各般にわたり進行し,レント・ 利子への課税,公営企業の拡大,総じてイ産業の進歩的な国営イヒまたほ自治体 〔公〕営化」45),企業経営の社会化と株式所有の民衆化,各種の私的団体・企業 の登録。監督。統制の進展があり,それを担当する実務家たちほ,「自分の軽 蔑する社会主義そのものを,かえって一・挙手−・投足ごとに.つくりだすように.活 動して−きた」4の ことを,指摘する。 そしてかれは,とくに.「自治体社会主義」の進展状況を具体的に.詳説し,47) それをふまえながら,便宜,最近の急進派綱領(1888年8月8日付『スタ−』 紙掲載)の諸項目が「立法前進への当面の社会主義的要求の説明として役だ つ」48′として,その計6項目一1.課税の修正(勤労者からレント・利子所 43)∫∂∠dリpp.32−33. 44)乃∠d.,p小43. 45)乃よ♂一・,p.45. 46)乃どd.,p.46. 47)J∂査d.,pp.47・−50. 48)J∂よd.,p..50.

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香川大学経済学部 研究年報18 J97β −22− 得者への課税対象の完全シフト)。2.工場法の拡大(最低賃金。最高労働日の 全般承認に.よる快適水準の向上)。3.教育改革(最善な内容の全児童義務教 育)。4.救貧法行政の再編(老齢。疾病・失業者の屈辱感なき生酒保障,ただ し怠惰者チェック審査つき)。5.自治体活動の拡大(公共目的のための漸進的 な公的労働組織化と私的資本家・仲買人の廃絶)。6.政治機構の改修(常時大 多数人民の正確な代表と意志反映との実現)−の目的。方法を引用・紹介し たのち,ベンタム主義が自由と財産安全のため紅平等を犠牲にした経緯や,そ の不合理さの判明の状況,ミルの『原理,』が版をかさねるごとに.社会主義的と なった状況などの説明とともに.,「あたらしい総合」として,社会有機体観に 立脚した福祉国家理念としての「あたらしい科学的な社会有機体概念」49)の必 然的成立について提示したのだった。 こうしてクェツプは,「進化」とほ,けっして盲目的・無政府的な競争の進 行そのものなのではなく,かえって,晩年のハックスリ、−もついにみとめたよ うに,それを意識的に統制された協同におきかえることなのであり,「私的企 業の政府による統制の着実な増大,自治体行政の成長,および課税負担を直接 に地代(レソト)・利子に.シフトさせることのすみやかな進行,以上は3者あ いならんで,ふるい個人主義を政治家が無意識に放棄しつつあること,われ われが不可抗力的に集産社会主義紅すべりこみつつあることを,物語ってい る」50)のだとした。 なお,この社会的進化の必然的過程にたいする個人の役割については,クェ ップは,一応史的唯物論に.近づいていることが注目されよう。「個々の改良家 たちの意識的努力なしに,社会的再建の諸端緒がえられたとか,その拡大の提 議が正面紅もちだされたとか,けっして想像してほならない。“時代精神” (Zeitgeist)は熟しても,立法者なし紅議会法案を通過させたり,市議会議員 なしに公立図書館を設立することは,ない。われわれの決定は.,時代の事情に よって形づくられるし,環境は,われわれの目標を,われわれがそれをどう形 づくりたく欲するにせよ,すくなくともあらをナずりに決めてしまうのではある 49)乃∠d.,p.54, 50)乃よd,リp.56.

(23)

ショ−,ワイルド,ウェップ夫妻 ー23− が,しかもなお,各世代ほ,独力で決定をする。意識的または無意識的に,そ の性格・情報に.したがって社会進化をはばんだり,促進したりすることは,な お個人紅かかわっている。時代の社会的傾向を完全に意識することの重要さ ほ,この意識の存在およびひろがりが,しばしばわれわれの特定の行動の都合 を決めるものだという事実に,依存するわけであって,われわれは,流れに・さ からってよりも,流れに.沿うて−動くはうが,抵抗がすくない。」51) Ⅴ 以上ではば判明するように.,クェップの進化史観の特徴として,つぎの3点 があげられる。第1に.,時代の基本的底流思潮としての実証主義二枚会進化論 を踏まえながら,すすんで,社会進化の過程の必然的帰結としてスぺソナーが 『人間対国家』(1884年)で提示したような「行政1=1・ヒリズム」(Administrative Nibilism)とほ.まったく運に.,「あたらしい総合」としての社会有機体の成立 (ただし,民主化の徹底を内包する点で,旧ドイツ的社会有機体理念とは異な る)それ自身もまた,ひとつの不可逆必然的な過程として展望し,従来の経済 学および哲学的急進主義=自由放任の終焉を宣言し,さらに.社会有機体の成立 条件として,民主主義の徹底の政治的実現,すなわち代議制の不断の改革,お よび経済的実現,すなわちレント。利子の廃絶,をあげ,このような社会有機 体の成立を,みずから「社会主義」ないし「集塵的社会主義」(co11ectivist socialism)52)として規定したということ。 第2に,クェッブのあたらしい社会有機体への展望−「われわれは,各人 がみな独立の単位だど想像するといううぬぼれを嚢て,自分自身だけの修養に 没頭するねたみ心をば,より高い目的たるパ共同の福祉”(the Common Weal) へと服従させるよう矯めなくてはならない。」53)一に.は,あきらかに.ひとつの 倫理基準が看取されるが,それは,晩年のコントの「人間宗教」のような信念 とは異なって,あくまで冷静で科学的に厳密に規定されるていの功利主義的な 能率基準的なものであり−「社会的健康の諸条件ほ,科学的調査の対象とな 51)′∂よdい,pp.46−47. 52)∫∂よd.,p.56. 53)∫ゐ去dい,p.54..

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香川大学経済学部 研究年報18 ー24− ∫タ7β る。どんな瞬間でも,“自然の替番”のただ申で人間的困窮を所与の時と場所 で可儲なミ.ニマムに.とどめるような,社会関係の特定のある調整が,存在する ものである。」54)− ,こ.れは,たんに.若きコントに返ることではなく,実証主 義的進化史観を維持しながら,コントの人間宗教のかわりに,功利主義の本来 の倫理基準−すなわち,経済学に弱かったベンタムの「財産の安全」優先の 前提をレントの法則に.かんがみてとりはずしたものとしての,所得の平等を純 粋に.帰結する社会化の倫理基準−一柳を置きなおすこと,あるいほ.むしろ功利主 義そのものの進化を確認するということであったと考えられること。第8に 「必然的進化」の諸局面の論証を,マルクスのように史的唯物論に.よる厳密に 弁証法的,歴史即理論的な論証を用いるのではなく,特殊具体的な諸傾向や事 実の枚挙的な調査・集約。帰結という方法紅もっぱら依拠して導出しているこ と。 そして,以上のうち,弟2の点から,クエッグの歴史観紅ほ,経験主義・実 証主義的帰納点を実践のために.一・般化するに.あたっての統劇原理として,能率 原理が与えられていることがわかるのであるが,考え.てみれば,能率原理は社 会有機体のむしろ静態的ないしせいぜい短期動態的な目標原理でほ.ありえて も,社会有機体の史的変遷の過程そのものの総体的動態を説明する原理ではな いであろうから,後者ほ,すなわちウエッグのいわゆる「漸進の不可避性」 (inevitability of gradualness)の原理的根拠そのものは,別途紅求められ なくてほならない。しかし,クェップほ,この点,進化論的思考以上紅ほ,そ れに該当するものを示してはいないよ.うに.思われる。功利主義的な「文化生活 の最低基準」の設定は,目標原理であって,過程の原理とはなりえないであろ う。この事態は,クェツプをしてかれ自身のみずからコント風に設定した社会 動学の基本課題を見失わせてしまうという自己矛盾をふくんでいたと,言えよ う。ここから,第$の特徴点が,あしきプラグマティズムをもって維持され ことに.なり,モリスが批判したように.,社会史の基礎過程の旋回にかんする最 も重要なデータ(資本の本源的蓄積やマニュファクチア資本制の関連資料)を かえって帰納しそこなう,もしくは黙殺するという結果となったものとみられ 54)J∂よd‥p.53.

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ー25− ショ−,ワイルド,クェツプ夫妻 る。すすんで第1の特徴点についても,「社会主義」が目標では・なくて必然的 過程であることを,目標原理たる能率原理とはべつの適当な原理によって説明 しないかぎり,いくら傾向を強調してみても,理論の実質では静態的説明しか 残らなくなり,かくてはクエッグが批判したはずの一ユ−トピア社会主義に共通 な「静態的性格」に,かれ自身の社会主義も連座することにならざるをえなく なるだろう。総じて−クェップの歴史観に・ほ,表面のリアリズムのかげに,コン ト的なロマン性が漂っていたように思われる。 なお,ここで付言しておかなければならないのは,以上のようなクェツプの 歴史観は,おそらくフェビアン協会の加入に伴ってはじめて確立したとみられ るということである。協会加入前,すなわち実践的社会理論を求めての暗中模 索期,たとえば1884年8月の段階では,なおかれは,「残念ながら私ほ,国家 社会主義の信者ではないと申さなければならない。国家社会主義の不可能なこ とは,証示をくわだてる必要さえないと考える。」55)と述べ,みずから「〔古典 派〕経済学の心底から正統的な信者」弼であるこ.とを公言していた。しかし, フェビアン協会への参加とともに,コぺルエクス的に.旋回し,とりわけ『論 集』では,スぺンサ−の『社会静学』(1850年)における個人主義的共同体にか んする土地国有化の前提に注意を払う−・方,57)『人間対国家』に.おける個人主 義的無政府主義をきびしく批判し,コント紅ついてさえ,上述でみたとおり, くわしい政治組織論の欠如を批判するに.いたっていることほ,この思想家なり の大飛躍として注目される。しかし,それにもかかわらず,クエッグの議論の 基底に.ほ前後−・質して実証主義的進化史観が舵うっていたと考えてよいであろ う。 ⅤⅠ ここで,ベアトリス。クェツブの歴史観紅ついても,あわせて−・瞥しておき たい。かの女の歴史観もまた,あらかじめ言えば,シドニL−と会うまでに,期 せずしてはぼおなじように.,もしくは,スぺンサ一に盾接教導されただけシド 55),56) Church Re.fbYImer,March1884;Cf.N.&).MacKetlZie,0♪.cii., pp.60,416. 57)ダα∂査α乃β5・Sα.γざ,p.38n.

参照

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