平戸港〔日本伝承文化保存会〕
平戸港の「みなと文化」
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 目 次
はじめに
第1章 平戸港の整備と利用の沿革 ... 104-1 1.古代から中世 ... 104-1 2.近世 ... 104-4 3.近現代 ... 104-6 第2章 「みなと文化」の要素別概要 ... 104-8 1.船を用いた交易・交流活動によって運び伝えられ、育ってきた「みなと文化」 ... 104-8 (1)芸能 ... 104-8 (2)方言 ... 104-8 (3)信仰 ... 104-9 (4)食べ物... 104-13 (5)人物 ... 104-15 2.交易による流通市場の形成によって育ってきた「みなと文化」 ... 104-22 (1)物資の流通を担う産業... 104-22 (2)交易物資の保管施設... 104-24 (3)行政施設... 104-25 3.航路ネットワークを利用した地場産業の発達によって育ってきた「みなと文化」 . 104-26 (1)港湾利用産業... 104-26 (2)漁業 ... 104-27 (3)漁業風習... 104-29 4.港を介して蓄積された経済力に基づき、 人々の生活の中で育ってきた「みなと文化」 ... 104-30 (1)遊里 ... 104-30 (2)文芸 ... 104-31 (3)祭 ... 104-33 (4)資料館... 104-34 5.港を中心とする社会的・経済的営みの総体として形成されてきた「みなと文化」 . 104-37 (1)港・海運に関する歴史的施設... 104-37 (2)港町の町並み... 104-40 (3)港の景色... 104-42 第3章 「みなと文化」の振興に関する地域の動き ... 104-49 【参考文献】... 104-51平戸港〔日本伝承文化保存会〕 所在地:長崎県平戸市 港の種類:港湾 港格:地方港湾 【位置図】 【現況写真】 (「平戸の文化と自然」より) (長崎県土木港湾課 HP より)
はじめに
平戸港は長崎県平戸市にある港で、港湾法による地方港湾である。港湾管理者は長崎 県である。古くから貿易の重要拠点として栄え、海外への窓口として発展してきた。 平戸市にある地方港湾は、ほかに川内港、古江港、大島港、田平港、江迎港がある。 地方港湾とは、重要港湾以外の港湾で、概ね地方の利害にかかる港湾である。 56 条港湾とは港湾区域の定めのない港湾で、都道府県知事が水域を公告した港湾であ る。平戸市では、紐差港・中の浦港・大川原港・獅子吼港・大塔港・久吹港・鯨ヶ浦港が 56 条港湾である。第1章 平戸港の整備と利用の沿革
1.古代から中世 長崎県は早くから大陸文化の流入口として注目されてきた。旧石器時代から古墳時代 まで、長崎県では良好な遺跡が多くみられる。 平戸港周辺では、田平(たびら)町の「日ノ岳遺跡」が台形石器の出土地として有名で、 出土した石器にも「日ノ岳型」の名がつけられている。 また、入口遺跡は平戸島の北部に位置し、安山岩溶岩台地が神曽根川(かみそねがわ) によって開析されてできた河岸段丘上に位置している。この時代の石器は黒曜石製が中心 で、在地のメノウを利用して作られたものも発見された。遺跡は自然科学分析で 10 万年 前の土層であることがわかり、日本最古級の旧石器といえる。 104-1平戸港〔日本伝承文化保存会〕 【長崎県内主要石器・縄文遺跡地図(「図説長崎県の歴史」より)】 弥生時代の遺跡は平戸島の津書道跡や馬込遺跡、根獅子遺跡、大島の長畑馬場遺跡など いくつかあるが、中でも田平町の「里田原(さとたばる)遺跡」は弥生時代の大型遺跡と して 1970 年に発見され、県でも有数の遺跡として知られている。里田原遺跡では地下水 と粘土に密閉されて木製品が残っていた。出土した木製品は農具・工具・生活用品・建設 部材・祭祀具など多岐にわたり、そのため初期農耕文化の一端を窺うことができる。 【長崎県内主要弥生遺跡地図(「図説長崎県の歴史」より)】 104-2
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 長崎県内の古墳はおよそ510 基で、その大半は壱岐島にある。 平戸島では、田助古墳があり、箱式石棺墓が 10 基ほど築かれており、碧玉製管玉や滑 石製勾玉など検出されたことから、5 世紀前半に構築されたと考えられる。田平町には長 崎県に25 基しかない前方後円墳が 2 基ある。岳崎古墳は全長約 60m あるたいへん大きな もので、4 世紀後半~5 世紀前半に築造されたものと考えられる。いずれの時代の古墳 も、海に近い場所に構築されていることから、海上交通と深いかかわりをもっていた地方 有力者が葬られていたのではないかと思われる。 『肥前国風土記』には、古代の地方の様子を知る興味深い記録がある。現在の長崎県域 に含まれる松浦(まつら)郡の一部と、彼杵(そのぎ)郡の条には、大和王権の地方征服 に対し抵抗した「土蜘妹(つちぐも)」と称された人々の名がみえる。松浦郡内の今日の五 島列島に当たる値嘉郷(ちかごう)には、小近(おちか)島に大耳が、大近(おおちか) 島に垂耳が住んでいた。景行天皇の従者である阿曇連百足(あづみのむらじももたり)に 捕らえられた二人は、天皇の面前で、今後、御贄(食料)をつねに貢進することを約束し、 早速その場で木の皮を使って、さまざまな種類の鮑のサンプルを作ることによって許され た。 大和政権との擬制的同族関係を結んだ族長層は、国郡制の施行とともに郡司となっ て、律令国家の支配機構の中に吸収され、その命脈を保つものが少なくなかった。 平安時代になると、海岸部には新羅人の侵入が増大する。寛平 5 年(893)年には、新羅 の海賊が肥前国松浦郡などを荒らしまわり、翌6 年には、対馬に唐の将軍もまじえた大小 100 隻が侵入、その後もしばしば新羅人らの賊が侵入し、財物や人間を奪われており、防 備がきわめて弱体化していたことがわかる。 このような天皇権力の地方における弱体化にともない、外敵の対抗策として武士団が 形成されつつあった。その代表的なものが松浦党(まつらとう)である。 松浦党とは、平安末期から室町時代にかけて構成された、松浦一族を中心とする地縁 を含む武家の連合体をいう。「松浦党」という呼称は、当時の中央政府からみた松浦地方 の武家集団を指しての呼び方で、本来の結束の形は「松浦一揆(いっき)」であった。 始祖は平安末期に肥前国松浦郡の荘園「宇野御厨」の管理のため下向してきた源久(み なもとのひさし)で、現在の松浦市今福に居住し、松浦(まつら)を名乗ったとされる。 以後子孫達は荘園の範囲内(伊万里から五島列島を含む一帯)の各地を分封する形で小領 主化した。主なものとして、唐津の波多氏、石志氏、北松浦では今福(相神浦)松浦氏、 平戸松浦氏、志々伎氏(一族ではない)、大島氏、五島では育方氏、宇久氏、玉之浦氏が 有力であった。 12 世紀に入ると、平氏は九州を基盤とすることになり、松浦党は平氏に服従する。文治 元年(1185)、壇ノ浦の合戦において松浦党は平家水軍として活躍した。鎌倉幕府成立後、 文永11 年(1274)10 月に元軍が対馬、壱岐を経て平戸を侵略する事件があり、また弘安 4 年(1281)5 月も元軍は平戸北岸を侵略し、その後松浦、鷹島方面で全滅した。 104-3
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 南北朝の争乱気期から戦国時代にかけては築城のブームとなり、松浦久が築いたとい われる梶谷城や松浦平戸氏の白狐山城・箕坪城が建てられた。 2.近世 平戸藩の松浦氏など長崎県域の諸藩はその多くが戦国期以来の居付大名で、一度も転 封をこうむることなく明治維新を迎えた。平戸藩の松浦氏は松浦党の系譜をひき、党の基 本原理である族的結合を換骨脱胎しながら在地領主として発展し、隆信(道可)の代に北 松浦地方と壱岐国を領有する戦国大名となり、隆信の代の初代鎖信(宗陽)が秀吉および 家康に旧領を安堵された。 天文19 年(1550)のポルトガル船の平戸入港と、ザビエルの来訪はともに平戸にとっ て重大な出来事である。平戸は以降、西欧貿易港として海外に知られるようになり、海外 の地図にも「Firando」と表記される。寛永 18 年(1641)オランダ商館長崎移転までわず か 90 年の間に平戸は日本史の舞台に躍り出ることとなる。平戸は貿易とキリシタン信仰 の中心となり、かつてない繁栄を極めた。 『イギリス商館長日記』・『オランダ商館長日記』などの西欧文献にも「平戸」の名が 見られ、これらは、平戸について下記のように紹介している。 ○天文23 年(1554)(ゴアのべロ・デ・アルカセバの晋翰) 平戸には二百のキリスト教徒あり、内三人の主要なる武士あり。領主は大いに ポルトガル人と親しみ、パードレを喜び之にカサ(耶蘇会員の居館)を建つべき地 所を与ふべしと云い…… ○弘治3 年(1557)10 月 14 日付(平戸発ヴィレラの書翰) 平戸島は周囲凡そ3 リーブあり。数箇の村を有す。其中余の住む町最も大きく戸 数凡そ二百戸あり。他の村にも夫々幾人かの信者あり。戦争という障害がなけれ ば毎週彼等を訪問する計面を立てるであろう(「平戸に於ける西教弘通史」によ る)。 ○弘治3 年(1557)2 月 7 日付(豊後発コスモ・デ・トルレスの書翰) 平戸は良き港にして日本全国の異教徒の商人多数同地に赴き、又ポルトガル人 は年々多く同所に来れり。 近世における平戸港の歴史で特記すべきものを年表の形で記す。 天文19 年(1550):ポルトガル船、平戸に入港。ザビエル平戸に来る。 永禄5 年(1562):ポルトガル船、大村領横瀬浦に移る。 永禄7 年(1564):ポルトガル船、横瀬浦より平戸に戻る。 永禄8 年(1565):ポルトガル船、大村領福田港に去る。 天正 12 年(1584):比島(フィリピン)船にてイスパニヤ人平戸に来る。この時、 葉たばこを伝えるともいう。 天正15 年(1587):松浦鎮信(法印)、船を比島に派遣する。 文禄元年(1592):法印鎮信、久信と共に兵 3 千を率いて朝鮮に出陣する。 104-4
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 文禄 2 年(1593):比島長官の使節ペドロ・バブチスタ平戸に来る、名護屋にて秀 吉に謁見する。 文禄 3 年(1594):比島長官の使節としてヒエロニムス・デ・カストロ初めて平戸 に来る。 慶長 2 年(1597):長崎西坂にて 26 聖人殉教、ペドロ・バプチスタもこの時処刑さ れる。 慶長 5 年(1600):オランダ船、豊後に漂着。 慶長14 年(1609):オランダ船 2 隻平戸に入港、この年平戸商館を設置する。 慶長15 年(1610):平戸から輸出された茶が初めて欧州に着く。 慶長 16 年(1611):英国東インド会社はジョーン・セーリスを司令官として日本向 け出港。 慶長18 年(1613):英国のクローブ号平戸に人港する。9 月家康にジェームス 1 世 の書を呈し、11 月平戸に商館設置を決め、ジョーン・セーリ ス帰国の途につく。 元和 2 年(1616):幕府、平戸、長崎に貿易地を限定する。 1 〈オランダ商館部分〉 〈イギリス商館部分〉 【1621 年平戸図(オランダ国立中央文書館所蔵)】 104-5
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 元和 9 年(1623):イギリス商館が閉鎖される。 寛永12 年(1635):薄香、獅子、根師子の切支丹 72 名を処刑する。 寛永 15 年(1638):幕便松平伊豆守信綱、平戸を視察する。平戸の切支丹嫌疑(浮 橋主人事件)。 寛永16 年(1639):江月和尚の平戸検分、この年正宗寺を建つ。(臨済宗) 寛永17 年(1640):幕使井上筑後守来平し、視察の後オランダ商館の破壊を命ずる。 寛永18 年(1641):6 月 24 日、平戸よりオランダ商館の長崎移転を完了。 3.近現代 平戸では幕末までキリスト教の禁止とキリシタンへの厳しい監視が続いた。 平戸藩最後の藩主は天保11 年(1840)生まれの松浦詮(あきら)である。 安政 5 年(1858)には日米修好通商条約が調印され、万延元年(1860)イギリス船は 平戸近海まで近づき、島周辺の水深の測量を行なうなどの行為を行っており、平戸でも異 国船の脅威は身近なものとなっていた。 松浦詮は海防に力を注ぎ、平戸城内は「厩崎(うまやぎき)」「築屋敷(つきやしき)」「稲 荷崎」「叶崎(かないざき)」に、平戸瀬戸は平戸側に「獅子駒崎」「黒子島「南龍崎」、田 平側に「牛ケ首」「波江崎(はえさき)」「望ケ崎(もちがさき)」「浮津(うきつ)」に砲台 場を築き、砲兵を配備した。 松浦家は先祖代々尊王の思想が強い武家で、松浦清の 11 女中山愛子が明治天皇の外祖 母という姻戚の立場もあって、愛子の夫忠能(ただやす)の指導を得て平戸藩は勤王とい う立場を保った。徳川慶喜が大政を奉還した翌明治元年(1868)、旧幕府勢力東北 25 藩 が同盟を結んで新政府に抵抗した戊辰戦争が起こると、7 月に勅命を受けた平戸藩は松浦 大内蔵をはじめとする2 隊 402 名を派遣することとなり、他の九州諸藩の兵とともに苦戦 を強いられていた官軍を救っている。 明治時代までの特記すべき事項は下記の通りである。 天和 2 年(1682):本成寺境内にコルネリアの供養等が建つ。 元禄15 年(1702):木橋の幸橋を石橋に改める。 享保10 年(1725):生月にて益富又左衛門、捕鯨業を始める。 安永 8 年(1779):維新館を創設して藩学の場とする。 文政 4 年(1821):松浦静山清、甲子夜話の稿をはじめる。 嘉永 3 年(1850):吉田松陰、平戸に遊学する。 安政 5 年(1858):勝鱗太郎(海舟)威臨丸でポムペー行と平戸を訪ね、田助に泊 る。日米修好通商条約が調印され、イギリス・フランス・オラ ンダ・ロシアとも同様な条約を結んだ 万延元年(1860):踏絵やむ。 慶応元年(1865):薩長の志士ら田助に来って会合する。(高杉晋作・桂小五郎・西 郷隆盛など) 明治元年(1868):松浦詮、中山忠能、園基茂らと共に勤皇派として活躍する。 明治 2 年(1869):版籍奉還、松浦詮平戸藩知事となる。 104-6
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 104-7 明治 4 年(1871):廃滞置県によって平戸藩は長崎県に併合。亀岡城は廃城となる。 明治21 年(1888):市町村別公布。 明治以降の平戸湾の歴史は下記の通りである 昭和52 年(1977):平戸大橋開通・開通式が行われる。大橋開通まで、本土から平戸 へは平戸口(田平町日の浦)から船で平戸瀬戸を渡るのが主な交 通手段であった。最盛期には田平港と平戸港との間にフェリー の便が1 日 30 往復運航されていた。 昭和59 年(1984):平戸口桟橋(田平港)と平戸港の定期航路が廃止される。 平成11 年(1999):平戸港交流広場を整備。 現在平戸港からの定期便は 平戸~的山大島(あづちおおしま):所用時間約40 分 平戸~度島(たくしま):所用時間約30 分 の2 航路がある。いずれも平戸市営である。 このように平戸港は日本の外交史・宗教史において重要な役割を果たしてきた港である。 現在は長崎県の地方港湾として、年間入港隻数3,134 隻、入港総トン数 620,543 トンの港 湾となっている。船舶昇降人数は172,140 名(いずれも平成 27 年統計)である。
平戸港〔日本伝承文化保存会〕
第2章 「みなと文化」の要素別概要
1.船を用いた交易・交流活動によって運び伝えられ、育ってきた「みなと文化」 (1)芸能 ①平戸神楽 平戸神楽は日向神楽とならんで九州神楽を代 表するものといわれる。 旧平戸藩額内のうち、壱岐を除く地域の神社 祭礼の際に、神前で奉納される神楽で、神職が 踊る。 起源については不明な所もあるが、平戸にも とからあった神楽に、壱岐の御竜祭神楽が招碑 されて融合し、さらに江戸時代前期に平戸藩 主・松浦鎮信(天祥公)の命で家臣の橘三吉(た ちばなのみつよし)が、京都に上って神道を極 めるとともに、全国各地の一の宮を巡話して研 究を重ね、見聞した神楽の粋を集めて作ったの が平戸神楽であると言われている。 平戸神楽は歴代藩主の保護奨励をうけ、藩内 神社の祭礼には必ずこの神楽が奉納されている が、特に亀岡神社秋季大祭の10 月 26 日に平戸 神楽二十四番が奉納される。1942 年に民俗文化財、1987 年に無形民俗文化財となり、平 戸神楽振興会によって神楽の伝承と振興がはかられている。 【平戸神楽(長崎県HPより)】 重要無形民俗文化財(国指定) 、無形民俗文化財(国選択) 管理保護団体:平戸神楽振興会 (2)方言 ①平戸の方言 平戸地方の方言は九州各地の方言と共通する部分もあるが、地域特有の表現も多い。 語尾の変化で特徴的なものは、下記の通りである。 雨だった:雨ジャッタ 雨だろう:雨ジャロー 買った:コウタ 借りた:カッタ 早くしろ:早くセロ・ジェロ また、平戸に特有の言葉もある。ポルトガル語由来の言葉が含まれていることが興味 深い。 アギタ:あご(東北、四国、九州に分布。平安時代の資料、和名抄にのる古語) 104-8平戸港〔日本伝承文化保存会〕 アユル:実が(熟して)おちる。(西日本に分布。万葉集に用例あり) イタグラメスル:あぐらをかく。(九州西部に分布) イヌノヘ:どくだみ。(松浦地方にも分布) エンポ、エンブ:とんぼ。(九州に分布) オンジョーコ:ひきがえる。(松浦地方にも分布) カツグ:潜る(古事記に潜水の意味で「かずき」とある) カワ:井戸。(九州西部、瀬戸内に分布。意味の混乱を避けるため、平戸で川は、「ナガ レガワ」とよび、区別する) ギメ:こおろぎ。(九州では、「ばった」、「いなご」を指す場合あり) ジョーコ:かえる。(松浦地方にも分布) スガリ:蟻。九州に分布。(九州以外では、「蜂」のこと) タカリ:丘 ナー・ナイ:返事の「はい」(江戸時代の物類称呼に「他の呼ぶに答る語。近江にて、ねい。 肥前にて、ない。陸奥にて、ないと云」とある) パーテルサン:牧師。(ラテン語からか) バンコ:涼み台。(九州に分布。ポルトガル語「banco」から) ヒザタテル:すわる。(九州西部に分布) ブエン:刺身(魚)(無塩から。保存の塩を用いてないことから、新鮮なこと、もの。平家 物語に用例あり) ヘッパ:嘘。(対馬、五島にも分布) ヘッパタ:さざえ ユリ:地震。(佐賀、長崎に分布。動詞「ゆれる」からか) ヨーチョー:凧。(五島にも分布) (3)信仰 ①概説 平戸は神道・仏教・キリスト教など、様々な信 仰が混在し、かつ様々な宗教者がそれに関与してお り、現在なお生活の中でそれらの信仰が大きな意味 を持ち続けている。 これらの信仰とともに、山や海の信仰、農耕に 関する信仰、川・池に関する水神信仰・不慮の死者 (死霊)や土地神など様々な理由による崇り神の信 仰、講組織で行われる現世利益的な諸信仰、家内で の屋敷神や荒神信仰など、様々な信仰が展開してい る。 市内の「寺と教会の見える坂道」は、ザビエル教 会と瑞宝禅寺が同時に眺められ、まさに平戸の宗教 と歴史を象徴する風景である。 104-9 【教会と寺院の見える坂道。手 前に瑞宝禅寺、後方にザビエル 教会を望む(筆者撮影)】
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 ②神道 平戸の最も古くかつ重要な神社として、延書式内社・志々伎(ししき)神社があげられ る。志々伎山は標高347m あり、五島灘から生月島にかけての広い海域からはっきりと望 むことができるため、この山が航海者にとって重要な信仰対象であったことが理解でき る。 志々伎山には四社からなる志々伎神社がある。山頂にある上宮、中腹にある中宮、宮の 浦にある地の宵(邊津宮・へつのみや)、沖ノ島にある沖の宮で、江戸時代までは神仏習 合により別当寺の円満寺があった。志々伎神社の祭神は、神功皇后の三韓出兵(日本書紀) に従軍した仲哀(ちゅうあい)天皇の弟、十城別王(とおきわけのみこと)であり、沖の 宮は、十城別王の墳墓と伝わり、地の宮(邊津宮)は武器庫であったとされている。 志々伎山の他にも、中部の安浦岳(白山権現)、北部の白岳(自岳神社)など、高い山 頂にタカガミ様を祀る例が多い。 平戸城下の氏神・亀岡神社も重要な位置を占める神社である。 平戸島内にはその他多くの神社が存在する。その典型的なものとして平戸市水垂町にあ る素盞鳴(すさのお)神社を紹介する。 【素盞鳴神社(筆者撮影)】 ③仏教 寛永16 年(1639)に元平戸藩士であった浮橋主水(うきはしもんど)が、江戸幕府評定 所に平戸藩(松浦氏)にキリシタンの嫌疑があると幕府に対し告発した事件が発生した。こ れが「浮橋主水事件」である。 幕府は江月宗玩和尚を真相を調べるために平戸に向かわせた。江月和尚は仏教への熱 意を示させるため、正宗寺の建立や念仏の普及を奨励したと言われる。 一般住民主体の仏教行事としてはお巡りがある。平戸島内全域を網羅する八十八ケ所 巡礼については、近世中期以降盛んに行われていたようで、文久2 年(1862)の地図も残 っている。飯良では大巡りといい、輿を二人で担って平戸全島を巡ったという。また一方 で、各地区でも域内で完結する小規模なお巡り行事が行われている。 104-10
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 【瑞宝禅寺(筆者撮影)】 【コルネリアの石碑(筆者撮影)】 (P.104-15 参照) ④キリスト教(カトリック) 2016 年の統計によれば、長崎県のカトリック信者数は 60,999 名である。 全国のカトリック信者数432,054 名のうち 14%が長崎県に在住していることになる。ち なみに、東京都のカトリック信者数は940,977 名である。また、教会数は全国 971 のうち 133 が長崎県にあり、修道 院は全国787 のうち 95 が 長崎県に存在する。日本で は3 つの「大司教区」があ る。そのうち2 つは東京と 大阪にあり、もう一つは長 崎に置かれている。 【平戸 ザビエル記 念教会内 部(筆者撮影)】 【平戸ザビエル記念教会(筆 者撮影)】 平戸島中部東側には、紐 差、宝亀地区を中心にカト リック信徒が多く居住して いる。歴史的に価値のある 教会建築も多い。ここでは ザビエル記念教会と宝亀 (ほうき)教会を紹介す る。 【ザビエル像(筆者撮影)】 【ルルドの聖母マリア(筆者撮影)】 104-11
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 ◆平戸ザビエル記念教会 鉄筋コンクリート平屋建て 所在:長崎県平戸市鏡川町259−1 【カトリック宝亀教会(筆者撮影)】 【カトリック宝亀教会(筆者撮影)】 ◆カトリック宝亀教会 基礎は石造、外壁はレンガ造 所在:平戸市宝亀町1170 ⑤カクレキリシタン 平戸島のカクレキリシタンは平成4年(1992)に最後まで残っていた根獅子が解散し、 その歴史は終焉を迎えた。禁教のため、教えを口頭で伝えていたこと、神父や修道士など の指導者との接点がなかったことなどで、独自の宗教として発展した。明治期に再び外国 からカトリックの指導者が来日したときも、本来のカトリック信者に戻らない人々が多か った。カクレキリシタンの信仰については、資料館の項で紹介した「平戸市切支丹資料館」 「平戸市生月町博物館・島の館」でその詳細を見ることができる。 カクレキリシタンの定義は書物によってまちまちであるが、「カクレキリシタンの実 像・日本人のキリスト教理解と受容」の著者である宮崎賢太郎氏は、カクレキリシタンの 104-12
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 本質について、 「カクレキリシタンは自分たちがキリシタンであることを隠すために、仏教徒や神道の 氏子を装って隠れているのではなく、カクレキリシタンの神様を誰かに見せたりすれば災 い(夕タリ)があるかもしれないとか、拝んでも効き目がなくなることを恐れて隠してい るのです。厳密にいえば、彼らはキリシタンであることを隠している『隠れキリシタン』 ではなく、ご神体を他人には見せない『隠しキリシタン』隠れてであるというのが本当の 姿なのです。この考え方はカクレキリシタン独特のものではなく、神道の世界ではごく当 たり前のことで、その慣習を模倣したにすぎないのです。」 「カクレキリシタンにとって大切なのは、先祖が伝えてきたものを、たとえ意味は理解で きなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことなのです。それがキリ スト教の神に対してというのでほなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えてい ることから、カクレはキリスト教徒ではなく祖先崇拝教徒と呼んだほうが実態にふさわし いのです。」 と書いている。更に、 「キリスト教という異文化に初めて接した日本人にとって、キリシタン時代という時 代は、その教えを理解するにはあまりにも条件が整っていませんでした。潜伏時代には、 その環境はさらに悪化し、一人の指導者もいなくなり、教義という内容面ははとんど理解 できなくなり、したがってその伝承も 困難となりました。その空白は、日本の諸宗教の 根底に普遍的に存在する諸要素によって置き換えられるしかありませんでした。こうして、 先祖が残してくれた儀礼的な側面だけが、意味不明なまま、父祖伝来の大切なものとして、 忘れられることなく今日まで大切に伝承されてきたのです。」 という分析を加えている。 (4)食べ物 ①平戸の食べ物の特色 江戸時代の鎖国下において長崎県では外国に向かって開かれていた三つの港があった。 中国、西欧との平戸と長崎、朝鮮との対馬である。このうち、平戸と長崎にはその影響を みることができる。 それは、外国種の農産物の流入と料理の手法の伝来である。外交の拠点が長崎港に移 るまで、平戸は中国・西欧との接点であった。農産物や食べ物にもその影響をみることが できる。農産物の流入は、平戸に入った甘藷や、長崎に入ったじゃがいもをはじめとして きわめて多数である。これらの多くは全国に広がっていったが、長崎の風土に根ざし、そ の後の食生活に大きな役割を果たしているものも多い。 その他、野菜では中国から入った「長崎白菜」がある。これは唐菜または唐人菜とよば れており、半結球で品質が優れていることから、県下で広く栽培され、煮ものや漬物に使 われている。にんじんでは洋種の血をひく「長崎五寸にんじん」「長崎三寸にんじん」、か ぶの「長崎赤かぶ」、じゃがいもの「長崎赤」や「長崎白」などが特有の品種として親し まれている。 果樹では、幕末に中国から入った種子から芽生えた「茂木びわ」は、長崎周辺に広がっ て全国一の産地になり、また、庭先果樹として広く県下に植えつけられている。 104-13
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 料理の手法では、長崎市において中国や西洋の影響を大きく受け、これが長崎料理の 特徴となっている。農漁村ではその影響が少ないが、菓子などに他地域に見られないもの がある。 ②甘藷の伝来 平戸に甘藷が伝わったいきさつは下記の通りである。慶長 19 年(1614)日英貿易当時 英人ウイリアム・アダムスは平戸で日本商船を購い、シー・アドベンチャー号と名づけ日 本、タイ間貿易の為往来の朱印状をうけ川内浦を出発したが、偶々暴風に遭い琉球那覇に 入港、船の修理に約一ケ月を要し翌元和元年(1625)平戸に帰港した。 この間アダムスは琉球において甘藷を購い、これを英商館長コックスを始め藩主や重 臣達にも献じた。コックスは菜園をもとめて栽培し始めて藷を得たという。同年 6 月 19 日のコックス日記に、これは日本ではこれ迄栽培されたことがないものである。此の菜園 のために年額10 匁英貨 5 シリングを支払うことになっていると記した。 ③南蛮菓子 平戸名産の菓子としてカステラ菓子とごぼう餅を紹介する。 【牛蒡餅(筆者撮影)】 【カステラ菓子(筆者撮影)】 カステラ菓子は、ポルトガルとの交流によってうまれた南蛮菓子のひとつで、よく溶 いた卵黄にくぐらせたカステラを熱した糖蜜に浮かべ、砂糖をまぶして作る。平戸市内で は「カステラ」「カスドース」などの商品名で販売されている。 牛蒡餅は、色と形がゴボウに似ていることからこの名がある。ごぼうは使われていな い。中国から伝わったと言われており、黒砂糖または上白糖とうるち米の粉から作った餅 にケシの実をまぶして作る。 ④あごすぼ蒲鉾 海産物の特産品として、「あごすぼ蒲鉾」がある。 平戸の特産品の一つに川内蒲鉾がある。川内は、古くからの漁村で、北にある田助浦 と共に城下へ魚菜を献じていた。そのような中から、蒲鉾製造も発展継承されてきたもの と思われる。 これは近海で採れるあご(とびうお)に他の魚の擦り身を混ぜて作った蒲鉾である。「す 104-14
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 ぼ」と呼ばれる麦わらに擦り身を流し込んで固 める。スボは、昔は麦藁が使われていたが、現 在では化学製品に替わっている。 ⑤かきまぜ 平戸島にはそれぞれの部落に特有のすしが伝 わり、祭りや会合のおりなどに当番の家に集ま り、直径3 尺近くもある半切り(すし桶)でた くさんのすしがつくられる。 かきまぜは、半農半漁の埋部落の祝い日の食 べものである。田植え、稲扱き、家建てなど、家内での祝いごとには女衆がつくるが、船 まわし(進水式)や村祭りなどの部落の行事には、村のおもに 20 代の妻帯者が区長のと ころへ集まって料理いっさいを男手でつくるので、男ずしともいう。 【あごすぼ蒲鉾(筆者撮影)】 ぶり、いさき、たい、あじなど脂の少ない釣りたての魚を使う。身は刺身にとるが、骨 やはらご(腹骨をすきとったあとの脂の多い腹部。かまともいう)、血合いは思い切りよ く身を残して、具に使う。魚は焼くと魚特有のうまみがでるので、これを炭火で焼き、次 に煮えたぎった湯にさっとつける。骨と身が自然にはずれる。これに醤油を入れて煮つけ、 炊きたての自飯の上にのせ、なべに少し残っている煮汁もかけて混ぜる。しばらくおくと、 魚の味と香りが飯になじみ、醤油の色もちょうど混ぜ飯に似た、魚の混ぜ飯ができる。 (5)人物 【フランシスコ・ザビエ ル 像 (「 街 道 の 日 本 史 佐 賀・島原と長崎街道」よ り)】 平戸にかかわりのある人物として、フランシスコ・ザビ エル、第 5 代オランダ商館長の娘・コルネリア、26 代目 松浦藩主の松浦鎮信、9 代目松浦静山、建築家の鉄川与助、 音楽家の藤浦洸を挙げる。 また 16 世紀に中国と日本で活躍した鄭成功も平戸を出 身地とする。 ①フランシスコ・ザビエル(1506 年-1552 年) ナバラ王国の地方豪族の家系に生まれる。 パリ大学で学ぶ間にイグナチオ・ロヨラの感化を受け、 仲間ら7 名と 1534 年、イエズス会を設立した。 1517 年にマルチン・ルターが「95 箇条の論題」を出し、 教会批判を行った。これを契機に宗教改革が進展し、ロー マ法王を中軸とするカトリック体制が危ういものとなって きた。カトリックの体制立て直しのために海外での布教活 動を強めることが急務となったため、ボルトガル国王ジョ アン3 世はアジアの植民地の布教をイエズス会に依頼し、 ザビエルが推挙された。 ザビエルは天文11 年(1542)にインドのゴアに到着し、インド、東南アジアの布教に 従事し、天文18 年(1549)には鹿児島に来た。これがカトリック司祭による本格的な日 104-15
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 本での布教の始まりであった。 ザビエルは天文19 年(1550)年 9 月に鹿児島を発ち、平戸に海路で赴いた。 平戸では約1 カ月間にわたって布教を行い、その後、京都に上ったが、布教の成果があ がらなかったこともあって、山口に移った。同地では大内義隆が布教を認めたことによっ て活動がすすんだ。その後、豊後の大友義鎮(宗麟)の招きで天文20 年(1551)豊後府 内に赴き2 カ月ほど滞在した。ザビエルは同年 11 月にインドのゴアに向けて日本を発っ た。 平戸滞在は短い期間であったが、ザビエルの来日以後、宣教師が続いて日本に来るこ ととなった。日本のカトリック布教の歴史においてザビエルは重要な人物であり、平戸市 内の教会にも彼の名が冠せられている。 ②コルネリア(生年・没年不詳) ジャガタラ文や供餐塔で知られているコルネリアは、第5 代オランダの平戸商館長であ ったコルネリス・ファン・ナイエンローデの2 女として平戸で生れた。 寛永10 年(1633)1 月 31 日、父ナイエンローヂは平戸に於いて病死した。その後、母 は判田五右衛門と再婚したと伝えられている。 彼女は父の遺言に従って異母姉とともにオランダ商館で育てられることになり、バタビ ヤに向うことになった。コルネリアと異母姉のヘステルが乗船した船は、寛永 14 年 (1637)11 月 23 日に出港したようである。この日、ニュー・アムステルダム号、ハリア ス号、ラロップ号、ダィフ号、オースト・カベル号の5 隻が揃って出帆している。この 5 隻の何れにか子皮女ら姉妹は乗船していた。 承応元年(1652)にコルネリアはバタビヤで東インド会社の事務員であった、ピーテ・ コノルと結婚した。このコノルは1663 年から 1672 年までバタビヤの首席商人長となった ので、コルネリアは幸福な歳月を送ったが、その後コノルが死亡、彼女は現地の裁判官と 再婚した。 寛文年間になって文通が許されると、コルネリアに平戸の母から手紙が届いた。コルネ リアの1663 年(寛文 3)8 月 21 日付や 1671 年(寛文 11)4 月 21 日付の返信などが、所 謂「ジャガタラ文」として現存している。 ③松浦 鎮信(まつらしげのぶ)(天祥)(1622年~1703年) 元和8 年(1622)肥前国平戸藩主松浦隆信(宗陽)の長男として、江戸の平戸藩邸で誕 生した。幼名を千代鶴丸、源三郎といい、初めの名前を重信、のちに鎮信と改めた。元禄 2 年(1689)の隠居後には鎮信を音読みして「ちんしん」と称した。寛永 12 年(1635) 従五位下・肥前守に任命され、寛永14 年(1637)に 16 歳の若さで、平戸薄の第 4 代藩主 となる。当時平戸はオランダと盛んに貿易をおこなっており、オランダ、平戸藩双方が大 きな利益を得ていた。寛永18 年(1641)、幕府の命令によるオランダ商館の取り壊し、 長崎出島移転にともない、外国貿易の市場を失って平戸藩の財政は大変苦しくなった。貿 易による利益を失った商人たちには、現在の固定資産税に当たる地銭を減らすなど、立ち 直りの政策を行った。さらに財政建て直しの方策として特に財源を農業に求め、平戸藩領 内各地に新田・新畑を拓いて米・麦ほか穀物の増産を計画実行し、窯業や捕鯨業などの殖 104-16
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 産を奨励した。幕府役人による平戸藩領内の視察に際し、良い政治をたびたび褒められる など、名君の誉が高い藩主であった。 詩歌など芸術性も大変秀でており、特に茶の湯に力を注ぎ、武家茶「鎮信流(ちんしん りゅう)」を創始した。元禄 16 年(1703)、82 歳で江戸で死去した。 ④松浦 清(まつらきよし)(静山)(1760年~1841年) 宝暦10 年(1760)、松浦政信、母袋(もたい)トモの長男として、江戸浅草の平戸藩 邸で誕生した。初めは山代英三郎と称し、名前は成といい後に清と改めた。号は雪洲(せ っしゅう)流水など多くある。静山(せいざん)は隠居後の号である。若いときに父親を 亡くしたので、明和 8 年(1771)、祖父松浦誠信の養嗣子となった。安永 4 年(1775) 16 歳で、平戸藩主となる。安永 8 年(1775)、平戸藩の学校維新館(いしんかん)を開 校し、藩士子弟の教育に力を注いだ。殖産にも力を注ぎ、農業政策を強化した。 文学、武芸に関する書物を数多く著しているが、中でも『甲子夜話(かっしやわ)』は、 江戸時代を代表する随筆である。静山が隠居後 21 年の歳月をかけて記述したもので、全 部で278 冊ある。内容は江戸幕府、大名家、社会風俗、地理、自然現象、海外情報、狐狸 妖怪そのほか広範囲におよんでいる。彩色絵画を交えた豊富な挿絵を載せ、詳しく記述し ている。 天保12 年(1841)、82 歳で死去した。 ⑤鉄川与助(てつかわよすけ)(1879 年~1976 年) 目本の教会建築は、鉄川与助抜きに は語れない。彼は生涯仏教徒だったが、 キリシタンの長年の夢を、すばらしい形 でかなえた人である。 1879 年、彼の師となるド・ロ神父が 外海に赴任した年に上五島の建築業の家 に産まれた。1901 年ごろ、パリ外国宣 教会のペルーが設計・指導した旧曽根教 会の建築に、野原棟梁の下で大工として 参加し、はじめて西洋建築と出会った。 鉄川組をつくり、冷水教会を皮切り に、1907 年以降、自ら設計・施工する。 1908 年には日本建築学准員となり、 数々の挑戦を行いながら、明治から昭和 にかけて長崎県内を中心に九州各地に木 造、煉瓦造、石造、コンクリート造の美 しく堅固な教会を作った。かかわった教 会は50 を越え、設計した教会は 30 あま りいずれも文化財として価値の高いもの ばかりである。彼の97 年間の人生の大半は、教会建築とともにあった。平戸では紐差(ひ 【鉄川与助の設計・施工した平戸の教会群 (「旅する長崎学5キリシタン文化」より】 104-17
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 もさし)教会・田平(たびら)教会を作っている。ここでは鉄川与助の業績として、この 2 つの教会を紹介する。 ◆紐差教会 所在地:長崎県平戸市 昭和4 年(1929)竣工 【紐差教会内部(筆者撮影)】 【紐差教会外観(筆者撮影)】 清爽な趣を漂わせる白亜の教会である。この紐差教会は、与助が手がけた 2 棟目の鉄筋 コンクリート造で、熊本市の手取教会に次ぎ、長崎県下では初となる。1923 年に起きた 関束大東災で多くの煉瓦造や石造建築が崩壊し、地震や火災に強い鉄筋コンクリートが推 奨されるようになった。こうした時代の流れを先取りするように、与助は早くから鉄筋コ ンクリート造への取り組みを進めていく。外観は田平や頭ケ島教会のスタイルをほぼ踏襲 し、八角ドームを戴く方形の鐘塔を正面中央に据え、外壁にロンパルド帯を巡らせている。 しかし装飾は控えめで、全体にすっきりと洗練されたたたずまいを見せる。 ◆田平教会 国指定重要文化財 レンガ造および木造 所在地:長崎県平戸市田平町小手免 104-18
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 【田平教会外観(筆者撮影)】 【田平教会外観(筆者撮影)】 双塔の今村教会とともに、与助が手がけた煉瓦進数会の代表作として知られるのが、 この田平天主堂である。かつて一面の雑木林だった田平にカトリック信者が定住するよう になったのは明治19 年頃である。 西彼杵半島の出津(しつ)に赴任していたド・ロ神父が、土地の貧しい人々の救済事業 として、この原野を購入し、出津、黒崎などの信者を移住させた。与助は敬愛するド・ロ 神父の死後に、師が寄与した地に教会を建てることになり、運命的なものを感じたとい う。 そして渾身の思いを込めて、設計・施工に精魂を傾けた。教会は長崎県の北西部・松 浦半島の突端に、平戸瀬戸を挟んで平戸島を望む丘の上に立つ。正面中央に方形の塔を配 したファサードは、与助が煉瓦道教会建築で刑適したスタイルであり、どっしりと力強い 安定感を見せている。 ⑥藤浦 洸(ふじうら こう)(1898 年~1979 年) 藤浦洸は明治 31 年(1898)に平戸市崎方町に生まれた。父親は藤浦が生まれて間もな く亡くなり、母親は広島に出稼ぎに行ったため、洗濯業を営む祖母と平戸で暮らす。県立 平戸猶興館中学に入学するが祖母を失うと、姉を頼って岡山県興譲館中学に転校し、卒業 の後同志社大学神学部に入学、同校を 1 年で中途退学した。その後慶応義塾大学文学部仏 文科に入学し、卒業後詩人として出発するが、しばらくしてコロムビア・レコードに所属 して歌曲の作詞にいそしむことになる。 104-19
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 「別れのブルース」で一躍名声を博し、その後も「別れても」、「水色のワルツ」など 数多くのヒット曲を作詞した。この他「二十の扉」「私の秘密」等のNHK のラジオ・テレ ビ番組にも多く出演したことでも知られている。 また、純粋詩人としても数多くの作品を残しており、「海の中の故郷」「ふるさとの海」 「海風」など美しい詩を作った。「ラジオ体操の歌」の詞も藤浦の作である。 【平戸港にある藤浦 洸作の詩「海の中の故郷」の石碑(筆者撮影)】 平戸港には藤浦の「海の中の故郷」の石碑がある。 詩の一部を下記に記す。 海の中の故郷 月の夜ばい 満潮ばい ばってら出そたい 明笛(みんてき)吹こたい 伴田の孫やん踊らすばい 朝鮮船の泊まり船 あんべら帆ば着て 寝とらすばい 常灯の鼻の鼻つらが海にうつって 三角ばい ⑦鄭成功(ていせいこう)(1624年~1662年) 中国人海商で平戸を根拠地として活動した鄭芝龍(ていしりゆう)を父に、平戸川内の 田川マツを母に、応永31 年(1424)7 月 14 日、平戸で生まれた。 母マツが千里ケ浜で貝拾いの際、にわかに産気づき千里ケ浜の大石(千里ケ浜の児誕石) にもたれて鄭戌功は生まれたと伝えられる。父芝龍は平戸老一官と称し、数千名の配下を もつ海商船団の頭領であったが、後に明朝の招きに応じて帰順し明朝に仕えることになっ た。その後鄭成功も 7 歳の時芝龍の招きにより単身渡海すると、15 歳で南京大学に入り 学ぶ。21 歳の時には明王隆武から明の皇帝の姓である「朱」を称することを許され、朱成 功の名を賜ることになった。 104-20
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 明の国姓である朱姓を与えられたことから、人々は彼を国姓爺(こくせんや)と敬称し たといわれる。その後、明が滅んだ際、清に抵抗を続け明の再興に尽力した。しかし寛文 2 年(1662)、熱病のために 39 歳という若さで亡くなる。 台湾国内には多数の鄭成功廟が建立され、現在も厚く信仰されている。 日本国内では、江戸時代に彼の生涯を素材とした近松門左衛門作の人形浄瑠璃「国性爺 合戦」が人気を博し、広く知られるようになった。 【鄭成功像と記念碑(筆者撮影)】 【千里浜(筆者撮影)】 【像の解説。福建省南安市より寄贈を受け たことが記されている。(筆者撮影)】 【記念碑の解説。嘉永6年に建てられた とある。(筆者撮影)】 104-21
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 2.交易による流通市場の形成によって育ってきた「みなと文化」 (1)物資の流通を担う産業 平戸は港湾・行政施設・保管施設ともに史跡がよく保存され、当時の貿易の様子など を垣間見ることができる。 ①平戸オランダ商館の概要 平戸オランダ商館は、平戸における経済と文化の中心として重要な役割を果たした。 現在、跡地には記念館が建設され、当時の様子を偲ぶことができる。また、オランダ塀な どの史跡も保存されている。 歴代オランダ商館長の氏名と在勤年は下記の通りである。 【歴代オランダ商館長の氏名と在勤年】 氏 名 在 勤 年 初代 ヤックス・スペックス 1609 年-1613 年 2代 ヘンドリック・ブラウエル 1613 年-1614 年 3代 ヤックス・スペックス(3度目) 1614 年-1621 年 4代 レオナルド・キャンプス 1621 年-1623 年 5代 コルネリス・ファン・ナイエンローデ 1623 年-1632 年 6代 ピーテル・ファン・サンテン 1632 年-1633 年 7代 ニコラス・クーケバッケル 1633 年-1638 年 8代 フランソワ・カロン 1639 年-1640 年 9代 マクシミリアン・ル・メール 1641 年-1641 年 初代3 代商館長であったスペックスは慶長 15 年(1610)の書翰の中で、日本との貿易 について次の内容の事柄を伝えている。当時の日本の需要がわかり、興味深い内容であ る。 1 日本との貿易を継続するならば、本国で一船を仕立て毎年渡航させること。 2 各種色合いの布を多く送ること。黒色、赤、黄、白、紫、灰色の順に好まれてい る。 3 値段は色々に区別した方が良い。 4 1 エレの長さ、2グルデンより10 グルデンのものが良い。 5 カルサイ・バイ・羅紗・プレットは大変良く売れる。 6 品は極上等品でなく、下等或いは中等品で良い。 7 硝子はあらゆる種類を大量に送って欲しい。見栄えの良い物であれば良い。 8 物資過剰にならぬ様考えて送られたい。 9 壜・石壺の類は需要が多いので幾らでも売れる。 10 鉛板貨多量、普通の鉛は2、3百トンの船一隻分でもよい。売り捌きに不自由な し。 11 錫は日本にて多く購入できる。朝鮮での帝要が大きいが厳禁されている。しかし考 えを放棄し難い。 12 棒鉄・釘肇は試験的に少し送られたい。 13 皮革類は最も需要がある。 104-22
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 慶長16 年(1611)以降、日本で最も良く売れたものとして、英国製布・オランダ製布・ 中国銭・砂糖・滑嬬珍・絹糸・生絹糸・撚絹糸・硝子器・赤銅・鉛・錫・鉄・鋼鉄・樟 脳・白檀・象牙・サイ角・鹿皮・鮫皮等があり、日本で購入し、利益を得るものとしては 銀・白銅・藍・麻・陶器漆器・武具・刀剣・槍などである。特に銀は、当時世界で最も優 れた品質で生産も多かったメキシコ銀に迫るものであった。銅も盛んに輸出されている が、銅貨の流通にともない後年輸出禁止の措置がなされた。 ②商館開設までのいきさつ オランダは当初スペインの領土であったが、1600 年頃までに北部 7 州はネーデルラン ト連邦共和国として実質的に独立を果たした。スペイン国王は独立を宣言したオランダに 対する報復としてポルトガルのリスボン港へのオランダ船の出入りを禁じた。これにより オランダは大きな打撃を受けることとなる。ネーデルラント連邦共和国は 1602 年、連合 東インド会社(オランダ東インド会社)を設立してアジアに進出した。 1598 年 6 月、デ・リーフデ号(300 トン)、デ・ホープ号(500 トン)、ヘットへロー フ号(320 トン)、ヘット・トラウ号(220 トン)、デ・フライデ・ボートスハツプ号(150 トン)の5 隻で編成された東洋向けの艦隊が、オランダ・ロッテルダムの港を出港した。 途中、暴風雨、伝染病や飢えなどの困難にあい、5 隻の中のデ・リーフデ号だけが太平洋 横断に成功して、慶長5 年(1600)4 月に豊後の臼杵港(大分県)に漂着した。生存者の 一人に、徳川家康の外交顧問となり平戸オランダ・イギリス両商館の開設に働いたウイリ アム・アダムズ(三浦按針)がいる。 慶長10 年(1605)、デ・リーフデ号生存者乗組員をマレー半島パタニのオランダ商館に 送還する際、松浦鎮信(法印・松浦氏 26 代・初代薄主)は徳川家康より海外渡航許可の 朱印状を人手し送還を援助した。 1609 年 2 月、オランダ東インド会社は、日本との通商を開始することとし、デ・ロー デ・レーウ・メット・パイレン号とフリフーン号の2 隻を日本に向けて出港させることに した。1609 年 6 月、マレー半島パタニのオランダ商館において生糸などを船積みした 2 隻は7 月 1 日(和暦・慶長 14 年(1609)5 月 30 日)夕刻平戸に到着した。オランダ人は パイレン号の船上で会議をおこない平戸にオランダ商館を設置することを決定した。 慶長14 年 8 月 22 日、フリフーン号に乗船していたヤックス・スペックスを初代館長と し、補助員数人他を商館員に任命し、平戸崎方に土蔵付き家屋を借りて商館とした。慶長 18 年(1613)、平戸藩に願いオランダ商館近くの住宅 22 戸を取り払い倉庫等を新築した。 元和4 年(1618)には再び商館に隣接する町屋 50 戸以上取り払い商館を拡張した。 ③平戸オランダ商館の閉鎖 寛永5 年(1682)、台湾における日本人商人とオランダ人の争いがもとでタイオワン事 件が起こった。この事件では幕府・長崎代官・バタヴィア総督がそれぞれの立場から権利 を主張したため、解決に至るまで数年を要した。 タイオワン事件により、平戸商館は長期にわたり活動停止の状態となり、幕府の厳重な 監視下に置かれた。その間に、寛永10 年(1633)に第一次鎖国令が発令される。 しかしながら、オランダ商館が貿易重視の活動に転換したこともあり、貿易活動自体は 104-23
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 飛躍的に増大していき、その取引額は短期間とはいえ出島時代を凌駕するものとなってい く。その背景には鎖国令によるポルトガル船への規制の強化と、宋印船渡航規制の強化、 つまりライバル達が次第に閉め出されていったことによる、相対的なオランダの優位が確 立していくことにも、その原因を求めることが出来る。 また、中国人貿易商鄭芝龍との関係も良好であり、中国産生糸の大量入手が容易になっ たことも一因であると考えられる。 寛永16 年(1639)、江戸幕府がポルトガルとの貿易を断絶した後、オランダは中国とな らび日本貿易を独占し莫大な利益をあげるようになった。 平戸に来航したオランダ船は、多い年で年間12 隻、平均で年間 8 隻を数え。平戸オラ ンダ商館最盛期は「平戸時代」とも称されたが、江戸幕府の鎖国政策により出島に移転さ せられる。平戸オランダ商館破壊命令が江戸幕府より命じられるが、その理由にあげられ たのは石造り倉庫に刻まれた「西暦」年号であった。 ④平戸イギリス商館 イギリス商館の設置から撤収までの経緯は下記の通りである。 慶長18 年(1613)、イギリス船グローブ号(司令官ジョン・セーリス)が平戸に入港 する。これが初めて日本に来航したイギリス船である。直ちに家康と会見したイギリス使 節は、貿易の許可と、商館設置の許可を得る。こうして平戸イギリス商館が設置される。 商館施設は中国人商人李丹より借受け、商館長リチャード・コックスのもと貿易活動に 従事した。この時期、平戸は英蘭両国の商館が並存する城下町であった。ウイリアム・ア ダムス(三浦按針)は、この機会にイギリスへの帰国を望んだが、セーリスとの確執から 帰国を断念し、二年間をイギリス商館員として、以後独立して貿易活動を行い、元和6 年 (1620)、平戸で永眠している。 当初イギリス商館は、ヨーロッパ産の毛織物の販売や、中国との交易ルートの開拓に よって利潤を得ようと考えていたようである。しかし、当時の主要な商品は主に中国産の 生糸をはじめとする東南アジア各地の織物頬が中心であり、イギリスの目論見通りにはい かず、また、中国との交易に関しては、李丹を通じてルートを開拓しょうとするが、仲介 をちらつかせて融資を要求する李丹にいいようにあしらわれた形となり、実現できなかっ た。 さらには、オランダ商館との関係も微妙なものであった。オランダ人の海賊行為など が続き、商館の運営はますます厳しくなってしまった。日本での経営が振るわなかったイ ギリス商館は元和9 年(1623)に閉鎖され、僅か十年で日本から撤退することとなった。 (2)交易物資の保管施設 ①オランダ商館関連史跡 オランダ商館関連史跡として、「オランダ塀」「オランダ井戸」などが残されている。後 述の「オランダ商館」は資料を基に近年復元されたものである。 104-24
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 【オランダ商館関連史跡(観光案内マップより)】 【オランダ塀(筆者撮影)】 【六角井戸(筆者撮影)】 (3)行政施設 ①平戸城 平戸城は歴代松浦氏の居城として、平戸湾を見下ろせる位置に築城されている。江戸 時代まで行政の中心としての機能を果たした。 第 29 代鎮信(天祥)は、江戸において山鹿素行と親しく交り、素行と砂形をおいて築 城用兵のことを研究した。 平戸新城は山鹿流軍学の築城術をとりいれ、棟(雄香)の世、元禄17 年(1704)に着 工し、15 年の歳月と人夫約55 万人、銀1180 貫余を費して、享保 3 年(1718 年)に完成 した。 城は本丸、二の丸、三の丸、外郭及び白浜郭から成り、概ね古城の輪郭に従ったが、 大手門は南西面今の大手坂方面に移し、二の丸に「御殿」が 築かれた。 104-25
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 【平戸城配置図(筆者撮影)】 【平戸城天守閣(筆者撮影)】 (1707 年(宝永 4 年)に完成した旧亀岡城 当時のもの) 【平戸城北虎口門(筆者撮影)】 【平戸城からみた港(筆者撮影)】 3.航路ネットワークを利用した地場産業の発達によって育ってきた「みなと文化」 (1)港湾利用産業(原料の搬入・産品の積み出し) ①平戸オランダ商館(復元) 平戸オランダ商館は、慶長14 年(1609)、幕府から貿易を許可された東インド会社が、 平戸城主松浦隆信公の導きによって平戸に設置した、東アジアにおける貿易拠点である。 オランダ商館長日記などの記述によると、当初は土蔵の付属した住宅1軒を借りて始 まり、その後、貿易が拡大するに従い、順次施設の拡大整備が行なわれた。特に、タイオ ワン事件(台湾での中国貿易をめぐるオランダ商館との紛争事件)によって寛永 5 年 (1628)から5年間交易が途絶えた後の寛永14 年(1637)と寛永 19 年(1642)に建設 された倉庫は規模が大きく、充実した貿易の象徴であった。 しかし、寛永17 年(1640)11 月 9 日、将軍徳川家光の命を受けた大目付井上政重によ り、1639 年建造の倉庫にキリスト生誕にちなむ西暦の年号が示されているとして、当時 104-26
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 の禁教令の下、全ての建物の破壊が命じられた。 寛永18 年(1641)5 月には、商館は長崎出島へ移転。これによって、33 年間の平戸オ ランダ商館の歴史に幕が下ろされた。以降、跡地は平戸の町人地となり、「御船手屋敷」 (船を操る人たちの屋敷)が建ち並んだ。 現在の「平戸オランダ商館」はその跡地に当時の資料をもとに復元された建物である。 航海用具や地図・絵画などが保管されている。 【オランダ商館跡の高台(筆者撮影)】 【復元建造物(筆者撮影)】 【平戸オランダ商館全景(筆者撮影)】 【モンタヌスの『日本誌』に描かれたオラ ンダ商館(平戸オランダ商館HPより)】 国指定「平戸和蘭商館跡」 復元建造物平戸オランダ商館 所在地:長崎県平戸市大久保町2477 番地 (2)漁業 ①あご(とびうお)漁 「あご」とは、まだ成長しきらない、体長 4、5 寸のとびうおのことである。大人にな ったとびうおは、このあたりでは「おおあご」といっている。秋口に、あご風という北々 西の風が吹くと、それにのって、狭い平戸瀬戸や生月瀬戸へ群れをなして、あごがやって くる。秋口から約1 か月間が盛漁期で、その後はほとんどとれない。北松浦一帯では、汁 もののだしの最高は、平戸付近でとれるあごを使ったものとされる。淡白な風味が特徴 104-27
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 で、雑煮にはなくてはならないものである。 この風味を生かすためか、北松浦の雑煮の具 はもちと白菜だけである。 あごは、くせのない味とこしの強さのた め、生でも、焼いても、煮ても、すり身にし てもよい。あごのとれる秋にはさまざまに料 理して食べられ、また干ものは年間を通して 使われる。 焼きあごの作り方と利用は下記の通りで ある。 横 2 尺、横 1 尺 5 寸の角七輪に炭をおこ し、2 本の金串に 20 匹ほどのあごの腹を刺したもの数組をのせて焼く。焼き上がったも のはさらに天日で乾燥させ、わらに組んで仕上げる。平戸では、あごとりに出ない家で も、網が引き上げられるときにあごをもらうことが多く、どこの家でも焼きあごの乾燥さ せたものをつくっておき、1 年中、味噌おつけ、清汁、煮もののだしとして使う。また、 包丁のみねでたたいてほぐし、なますや混ぜ飯、すし、ぞうし(ぞうすい)の具に使う。 【あご干しの様子(「聞き書長崎の料理」 より)】 ②捕鯨 平戸は、日本国内において銃殺捕鯨の継続操業が成立した例外的な場所である。その 理由として、次のような点を指摘できる。 ○極めて狭い海峡を鯨が遊泳するという地形的に恵まれた捕獲条件 ○漁場が平戸城下に近く、旧藩士の鉄砲関係者から銃士を雇用したり、鉄砲鍛冶経験 者をして捕鯨銃の製作を行い得た。 ○また近くに古式捕鯨の中心地・生月島があり、羽指などの熟練した従業員を雇用し 得た。 ○平戸周辺地域に、前代から引き続いて鯨肉に対する強い嗜好があった。 古来玄海灘には鯨の汐吹きが有名であった。西海の鯨は冬は寒流にそって南下し、春 から夏にかけて北上した。平戸の瀬戸も鯨の通路であった。司馬江漢の歌はよく当時の状 況を描いている。 うちかすむ壱岐のわたりを見渡せば鯨のいぶきたゝぬ日もなし 第28 代隆信(宗陽)は平戸に捕鯨の有利なことに着意し、寛永元年(1624)、江戸から 捕鯨奨励の手紙を平戸に送っている。翌寛永2 年、横山五郎兵衛は的山(あずち)大島で 鯨突きを試み、慶安元年(1648)には平戸で吉村庄左衛門が鯨突組を組織し、大島では井 元弥七右衛門が寛文4 年(1664)網組を始め、第 29 代鎮信(天祥)自らもこれを視察奨 励した。 これを最も盛んにしたのは生月の益富又左衛門で、享保10 年(1725)生月御崎おいて 船13 隻を用い、鯨を使用して 7 頭の勢美鯨を獲たのを始め、毎年十数頭宛を捕獲してい たが、享保18 年(1733)には捕鯨網を作り船 2 百、雇人 3 千を使用し、年収 2 百頭にも 104-28
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 及び、漁場も五島、対馬、長崎方面迄も拡張するに至り、藩に対する運上銀、献金、貸上 金も莫大なものであった。 【鯨捕りの模様(筆者撮影)】 (平戸市生月島博物館 島の館) 鯨は食糧のほか、点燈用、駆虫剤として の精製も試みられていたが、明治初年6 代 正敏の頃には、近海への回遊数も減少し、 いわゆる遠海捕鯨船時代となり、益富式捕 鯨業は廃止された。平戸近海では僅かに捕 鯨銃を以て年十数頭を獲る程度となった。 現今近海への鯨の回遊は見られない。 「平戸市生月島博物館 島の館」では生月 島における捕鯨の様子を資料で見ることが できる。 (3)漁業風習 平戸は海に囲まれており、全域で漁業が様々な形で営まれている。天候に関する言い 伝えや漁業の禁忌も多くみられる。 ①天文・気象 海の潮が冷たく感じられる翌日の天気は悪く、暖かく感じられる時は良い。 流れ星の来る方角に風が吹く。 星がじっとしている時は翌日は天気が良く、キラキラ輝いている時は風が吹く。 星が動く夜の翌日は雨になる。 雲の流れが速く、雲の先が回っていると台風になる。 夏、海岸に大波が立つと翌日は台風になる。 秋の大雨の前は必ず北風が吹く。 陽の取入りが高い時は風が吹く。 陽の目(陽の側にかかる虹)が出れば、嵐になる。 5 月の夕焼け苗つなげ、という。大雨が降る。 秋の夕焼け鎌を研げ、という。天気が続く。 梅雨明けは彦太郎雲(積乱雲 で明ける。 満時雨(マンドキアメ)に傘持つな。 朝とんびは時雨、夕とんびは日和。 カラスの昼すぎの水浴びは天気。 月の昇りに陽の下りという。この時虹の輪をかぶっていたら翌日は雨になる。 朝雷(アサガミナリ)は隣の通いもできぬ(激しい雨になる)という。 朝、東が焼けると雨になる。 春の雲痩せ男に見せるな、とは、雲の動きから速く風が吹くように見えるが、風 はそれほどでもない。 鳥の昼過ぎの水浴びは天気が続く。 東風が荒れれば雨になる。 女性が志々伎山に登れば雨になる。 104-29
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 蜂が草木の下に巣を作ると強い凪が吹く。 秋の夕暮れ鎌研いでまってろ。 夏の朝焼け雨が降る。 とんびがビビヨビビヨと啼くと雨が降る。 朝とんびが啼くと雨、昼とんびは風、夕とんびはひより。 ②船上の禁忌 船は赤不浄を嫌う(産袴の妻のもとへ立ち寄った者は三日間漁を休む)。 船の上で口笛吹くな、嵐を呼ぶ。 柄のついた刃物を海へ落とすな、あれる。 4.港を介して蓄積された経済力に基づき、人々の生活の中で育ってきた「みなと 文化」 (1)遊里 【田助港(「図説歴史の島 平戸」より)】 ①田助港 田助港は藩政時代・川内港と共に平 戸の副港であった。当時は船宿3 軒、 遊女屋は 30 余軒を数え、三昧の音の にぎやかな港町であった。この地を訪 れた司馬江漢も遊女と一夜を過してい る。江漢は「西遊日記」に、 「城下の裏半里あり、長崎の方より船 着をり。枚二遊女あり、廿人程アルよ し。亦地下の者とて、安者六七十人あ るとぞ、遊女揚代十七匁、雑用ハ別な り(略)二十七日天気となる。田助浦 より帰り、安兵衛がカニ居ル」 などと記している。 田肋は薩摩・琉球などと木綿、たば こ、木材などの取引もあったことから 角屋さつま、多々良さつま、福田さつ まなどの屋号のついた回船問屋もあっ たという。安政5 年(1858)3 月には ポムペ一行を乗せた咸臨丸が平戸に入 港、田肋で一泊している。この成臨丸の船長は勝麟太郎(勝海舟)であった。 【司馬江漢の描いた田助浦(「図説歴史の島 平 戸」より)】 維新前の慶応2 年(1866)には、田肋港は薩長志士の密談の場所ともなった。角屋の多々 良幸平は西郷降盛や桂小五郎・高杉晋作、山県狂介、大隈重信らとの交流があった。 ハイヤ節の元歌といわれる「田肋ハイヤー節」もこの地で生まれた。風待ち、潮待ちの ため泊った船乗りたちをなぐさめた港の女心が歌い込まれた酒の座の唄である。 104-30
平戸港〔日本伝承文化保存会〕 (2)文芸 ①来遊文人 平戸にゆかりのある文人として、司馬江漢と伊 能忠敬をあげる。 【司馬江漢の描いた田助浦と遊女 (「図説歴史の島 平戸」より)】 4年(1747)~ ●司馬 江漢(しば こうかん)延享 元年(1818) 文政 江戸時代の絵師、蘭学者。浮世絵師の鈴木春重 (すずき はるしげ)は同一人物である。本名は安藤 峻。俗称は勝三郎、後に孫太夫。字は君嶽、君岡、 司馬氏を称した。また、春波楼、桃言、無言道人、 西洋道人と号す。 幼少から絵を得意とし、狩野派の絵画を学んだ 後、洋風画にも興味を示し、平賀源内らと交際し、 前野良沢に蘭学を学んだ。自然科学にも関心が深 く、自然科学・世界地理・天文に関する様々な図版 を出している。 天明8 年(1788)に司馬江漢は平戸を訪れ、生月 の捕鯨なども見物して翌年帰っている。 ●伊能 忠敬 延孝2(1745)~文政元年(1818) 江戸時代の地理学者。上総(千葉県中部)の人。 18 歳の時、下総佐原(千葉県)の酒造家で名主伊 能家に入婿、家業の興隆につとめた。その間、算 数・測量・天文などを研究し、50 歳で家督を譲 ってから江戸に出て高橋至時に入門して、西洋暦 法・測量法を学んだ。 寛政12 年(1800)、幕命により蝦夷をはじめ全 国を測量し地図を作製。幕府天文方とともに「大 日本沿海輿地全図」を完成。主著「測量日記」。 伊能図とは「大日本沿海地全図」の別称で、「日 本沿海輿地全図」「実測輿地全図」ともいう。伊能 忠敬による日本最初の実測精密地図である。測量 は寛政12 年にはじまり、忠敬没後 3 年の文政 4 年(1821)、高橋景保の手によって完成し、幕府 に献上された。大図(3 万 6 千分の1)・中図(21 万6 千分の1)・小図(43 万1千分の 1)の三種 が あ る 。 長 く 幕 府 が 蔵 し て い た が 、 慶 応 元 年 (1865)幕府開成所から小図のみ「官版実測日本 地図」として公刊される。明治以後、地図作製の 基礎となる。 104-31 【「平戸藩領国」平戸島部分 伊能図 大国 副本文政四年版(「平戸街道 江迎筋と御厨筋より)】