伝童属太遅I~司 兼任講師 入 海 崇 私は昨年十月より十二月の二ヶ月間、京都大学ガンダーラ発掘調査に参加する機会を得 た。発掘場所はパキスタン西北辺境州ラニガト遺跡。州都ベシヤ}ワルから東北へ百キロ ほどの位置にある。ラニガトという名は王妃の岩という意味で、
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陵の上に立つ巨石に由 来する。花商岩の切石積み構築、アーチ構造の人口をもっトンネルの存在、巨石を煽り込 んだ点在する石窟など、この仏教寺院祉はガンダーラでは特異な性格をもっ。今回の発掘 成果については別の機会に詳しく報告することにして、ここでは、発掘に携わりながら考 えたことを簡単に記す。 文献資料によると、ガンダーラへの仏教伝播は、カシユミールと同じく、マッジャンテ ィカという僧侶によってなされたとされる。しかも、ナーガ〈龍神〉の調伏を過して行わ れたとったえられる。ナーガとは、農耕民にとっては必須の水〈雨〉をもたらす神として 汎くインドで尊崇された土俗神である。遺品も多い。マッジャンティカの伝道の話は、ガ ンダーラに伝わった仏教が在来の水の信仰と関わったことを示唆している。事実、ガンダ ーラ周辺の仏教遺跡は水との結びつきが強い。ガンダーラ平野の北にあるスワート地方は アパラーラ龍王説話の故地である。ガンダーラの中央部、タレリの仏教遺跡は谷聞に位置 し、泉が重要なポイントである。見事な遺構を残していることで有名なタフティバーイー、 そのタフティバーイーという地名は貯水槽の座という意味である。ラニガトという巨石も わが国の磐座(いわくら〉・のような存在であったかもしれない。何故ガンゲーラの仏教寺 院が平野部に少なく山腹・谷聞に多いのか、改めて見直す必要があろう。 ラニガト遺跡の参道らしき所に井戸跡がみつかっている。ガンダーラ周辺から出土した カローシユティー碑文は、しばしば、井戸・貯水池の寄進を伝える。井戸や貯水池が単に 参詣者の便宜を計るものとして寺院に造営されたとは思えない。ガンダーラ美術に摘かれ るナーガが井戸の中にいる場合が多いことにかんがみるならば、井戸の造営も水の信仰と 関わるものと解したい。西北インドと密接な関係をもっ『法華経』にも井戸を掘ることが 勧められており、水の確保に宗教的功徳があるとみなされていた背景を想定することがで きる。 井戸の造営と並んで、無病を願う祈願文がみられるのもガンダーラ周辺の特徴である。 仏塔に残る土俗神がその一端を伝えてくれる場合がある。 私の担当した、地下にトンネルをもっ仏塔、その基檀部の最下層にアトラスの彫像が数 体残っていた。基檀を両手で支える者、肩で支える者、アトラスは様々なポーズで仏塔を 守護している。インド内部であれば、仏塔の欄橋や塔門にヤクシャ・ナーガといった守護 神が描かれるのだが、欄楯や塔門をもたないガンダ}ラの仏塔では、その基檀部に守護神 を配置している。そこに描かれた神がギリシアの神であっても、それはあくまでもギリシ ア風に表現されたものであって、その内実はインドの土俗神に連なる場合が少なくない。 よくみると、アトラスのなかに肥大した宰丸を露出している者がある。これはクンパーン ダ (kumbhanda 瓶のごとき形の宰丸をもてる者〉というインド起源の土俗神である。 宰丸が大きく肥大する病気が実際にある。フィラリアである。この病気はわが国でもし-15-ばしばみられたのか、葛飾北斎の浮世絵には、天秤棒に肥大した皐丸をつるして歩く男の 姿が描かれている〈定方愚 「天狗の正体と縛狼襲の正体J
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春秋ANo.207)。古代イン ドでは、重症の病気をもたらすのはクンバーンダやヤクシャといった土俗神と考えられて いたようで、病気泊しのために土俗神を慰撫する事例はジャータカ・仏伝資料より知られ る.ガンダーラ美術でよくみられる鬼子母神も子供の命を次々に奪った風土病と関係があ るらしい. 降雨や病気治しといったように、遺物資料は仏教伝播の具体的側面を物語る.そこから 取り出せる仏教の信仰形態は土俗信仰の延長線上にあり、エリート僧の保持した仏教教理 とは大きなギャップを示す。しかし、土俗レヴヱルの事象を仏教教理に昇華させることに より、そのギャップを埋めようとした漏れもある。 土俗神が菩薩に変容した例がある.金剛手である。グヒャカという土俗神たる金剛手は、 ガンダーラの仏伝図の多くのシーンに、釈尊に随侍する者として描かれている。その金剛 手が大乗で菩薩へと昇格し、r
大智度論』では「摩詞街の中、密遁金剛力士が諸菩薩の中 において勝れたりJといわれる。Ii'大日経』ではその冒頭で、大日如来の三句の法門を問 う役割を付され、密教では最も重要な尊格のひとつに教えられる。r
十地経』で菩薩の十 地を託された金剛蔵菩躍も、実は金剛手が原型である。釈尊に随侍する金剛手の図慢が巧 みに教理を盛り込む素材として使われたことを知る〈拙稿「ヴアジュラパーニをめぐる諸 問題J Ii'密教図慢』第4
号)。このように、遺物資料は信仰者レヴェルでの仏教理解にの み資するものではない.時に、仏教教理の屡聞をみるうえにおいても育効な視座を提供し てくれる。 別な例を示そう。大乗経典にはしばしば「法瞳f
ムJr
無量瞳仏J (Ii'阿弥陀経.n)とか 「宝瞳仏Jr
月曜仏Jr
自在瞳仏J (Ii'i
ム名経A
)といったように、睡を名に付した仏名 がみられる。この瞳というのは旗住のことで、古代インドではある種の土俗神を象徴する 礼拝対象であったものである.中インド、ベースナガルに遺るガルダ柱がそれを証する。 柱頭に動物慢を載せるアショーカ王柱もこの旗柱に他ならない〈拙稿「アショーカ王柱と 旗柱J f仏教芸術A163号)0 礼拝対象であった旗柱を仏とみなす考え方は、大乗の現在他 方仏の起源を解明する手がかりとなるばかりか、仏陀観の変還をみるうえにおいて遺物資 料を介在させることの重要さを示唆している。 ガンダーラは仏慢を安置する詞堂、日本でいうところの金堂を生んだ。ラニガト遺跡の トンネルを地下にもつ仏塔は隣にほぼ同じ大きさの洞堂を伴う。仏塔と金堂が並ぶスタイ ルである。こうした遺構のあり方、伽藍配置の変遷が新たな仏陀観を醸成する機縁となっ た可能性があることも考えておかねばなるまい。 旗柱や金剛手が仏・菩薩へと変容を遂げていることの他にも、大乗には、土俗信仰を昇 撃させ、教理の中に定着させた事例が少なくない.そうした古しへの僧侶の営みは非仏教 起源の葬儀を法会の場へとなかなか昇華できない現代に生きる僧侶への痛烈な批判とも受 けとれる。 首のない仏慢の横たわるラニガト遺跡でそんなことを考えた。-14-(写真上〉ラニガト仏教遺跡、西南隅に遺る仏塔と澗堂。 (写翼下〉無残な姿で出土する仏像。