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商学 61‐6/5.後藤

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カナダにおける大規模小売商の生成

──ハドソン・ベイ・カンパニー(Hudson’s Bay Company)について──

Ⅰ はじめに Ⅱ Hbc の設立 1.カナダの百貨店の潮流 2.毛皮交易 Ⅲ 小売り部門への進出 Ⅳ Hbc 百貨店出現の背景 Ⅴ むすび

Ⅰ は じ め に

通常,流通における変化として,おしなべて零細規模の小売商が活動していた状態か ら大規模小売商が生まれてくることをあげることは間違いでない。アメリカを例にすれ ば,19 世紀に,百貨店,通信販売店,チェーン・ストアが発展を見せてお 1 り,百貨店 については,その特徴は手短に次のように整理できる。 本来的に小売商は個人的消費の小規模,分散性に規定されるため大規模化をはかるう えでの制約要因を抱え込んでいるが,都市の出現は大量の集中需要を発生させるから, 百貨店は営業基盤として都市立地をとることで大規模化の制約を打破した。取扱商品は 衣料品(dry goods)から出発し次第に買回り品に比重をかけつつ種類を拡大し,それ につれて売場面積を拡大した。取扱商品に関連して商品の部門別管理も百貨店を特徴づ ける。各商品部門ごとに仕入れ,販売をおこなうことは必須であって,この部門別管理 に通信販売店,チェーン・ストアと異なる百貨店の特徴を見てよい。仕入れ面では現金 仕入れをおこなうことで仕入れ価格を低め,また現金販売,定価販売をとりいれ,さら に返品・返金の自由を保証し,品質保証を加えることで,低価格・大量販売を実現し た。言い換えれば,都市における一般の市民層全体を顧客にするというかつてない営業 方法をとってい 2 た。 このような特徴はアメリカだけでなく世界各国に共通しているが,アメリカに隣接す るカナダでは百貨店はどのような出現の経過をとっていたのか。カナダは現在ロシアに ────────────

1 Nystrom, P. H., Economics of Retailing, Vol.1, New York, Ronald Press, 1930, Chap. Ⅵ,Ⅶ,Ⅷ.

2 Cf., Pasdermadjian, H., The Department Store : Its Origins, Evolution and Economics, Newman Books, 1954 (片岡一郎『百貨店論』ダイヤモンド社,昭和 32 年,第 1 章)

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次ぐ広大な国土を有し,人口は 3,300 万人をかぞえ,国民所得の水準はイギリスよりや や低いところに位置しているが,1960 年には世界でも一流の消費水準を誇ってい 3 た。 流通との関わりでは,国土は広いが定住が難しい寒冷地が多く,生活可能なエリアに人 口が集まり,そうしたエリアには流通施設としての大規模小売商,なかんずく百貨店が 立地しているというレビュ−が出されてき 4 た。

カナダの大規模流通企業という場合,Hudson’s Bay Company(以下,Hbc と略称す る)があげられないことはない。19 世紀には早くもカナダ小売り流通で独占の地位を 築いていたといわれてお 5 り,20 世紀末の時点ではカナダの小売り総売上高の 8% を占 め,カナダの百貨店売上高のうちでは 40% をつかむと報じられてい 6 た。 Hbcの設立は 1670 年であり,この限り長い歴史を誇るということになる。歴史が古 いため,多様な形容を受けており,ひとつにはその所有する不動産の広さが現カナダの 40% ちかくにおよぶところから史上最大の不動産所有組織であるとの評価が出されて い 7 た。「現存する世界最古の株式会社」であ 8 るとか,あるいは「世界最古の小売商」に して,自ら貨幣を発行し,自ら所有するラジオ局は 100 以上におよんだといった指摘も 受けてきた。日本との関わりに触れる向きもあ 9 る。 Hbcについての研究は,日本においては株式会社の源流を検討するための論考が発表 されてはいる 10 が,管見ながら,流通研究としては,北アメリカの巨大小売商でありなが ら研究蓄積は乏しいまま今に至っているといってよいのではなかろうか。本稿は大規模 小売商としての Hbc を浮かび上げることを意図している。同社は流通企業だけの色彩 を帯びていたわけではない。というより百貨店として登場するまでの長い歴史の中では 大部分は付随的に小売業もおこなったという程度にすぎず,小売商といえる状態ではな かった。ここでは非小売商としての Hbc が小売商に転化していく過程,百貨店として ────────────

3 K. Mcnaught, The Pelican History of Canada, 1969,(馬場伸也監訳『カナダの歴史』ミネルヴァ書房,1977 年,320−325;木村和男『カナダ史』山川出版社,1999 年,第 8 章。

4 訪問記であるが,武嶋一雄「カナダの商業」『名城商学』第 28 巻第 2・3・4 合併号,1979 年。 5 Benson, J., and Shaw, G., The Evolution of Retail Systems, c.1800−1914, London, Leicester University Press,

1992, pp.186−187, p.196.

6 Grant, T., Canadian Company Histories, Vol.1, New York, Gale, 1996, p.118. カナダの百貨店は統計上,伝 統的な百貨店だけでなく,ディスカウント型の百貨店も含んで扱われており〔The Canadian Encyclope-dia, Hudson’s Bay Company(http : //www.thecanadianencyclopedia.com/index.cfm?PgNm=TCE&Params=A 1 ARTA 0003886)(2008/11/03)〕,Hbc にあっては,伝統的な百貨店〔店舗名はベイ(The Bay)と呼ば れる〕が中心をなすが,この時点ではディスカウント型百貨店のゼラーズ(Zellers)も HBC 百貨店の 売上高に組み込まれていたと思われる。

7 Grant, op. cit., p.118.

8 木村和男『毛皮交易が創る世界』岩波書店,2004 年,215 ページ。

9 同書,181 ページ。Mahoney, T., The Great Merchants, New York, Harper and Brothers, 1955, pp.17−18, p.26.

10 上田光人「イギリス初期株式会社の考察−ハドスン湾会社のばあい−」『中京商学論集』通巻第 67 号, 昭和 49 年;山田勝「イギリス経営史におけるハドソン湾会社−創設期の特徴−」『駒大経営研究』第 7 巻代第 3・4 号,昭和 51 年

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出現していく過程について,仮説的に大枠提示をこころみたい。

Ⅱ Hbc の動き

1.カナダの百貨店の潮流 カナダの主要百貨店の設立年次,当時の取扱商品,設立場所は,フェリー(Ferry, J. W.)によれば第 1 表のようにまとめられる。これらのうちで,実際に百貨店の内実を カナダではじめて備えたのはモルガンであるとされており,1870−1880 年の間に生じた といわれている 11 が,おおむね各社は衣料品取扱いから発して,設立も 1860 年代,1870 年代に集中している。立地場所にも明らかな特徴がある。1871 年をとると,当時のカ ナダの総人口は 370 万人をかぞえ,東海岸側のケベック州と隣接するオンタリオ州にそ の 76% があつまっていた(後掲第 2 表)。同年のモントリオールの人口は 13 万人,ト ロントは 5.6 万人と記録されており,巨大都市の位置づけを得ていた点が一つの背景を なしてい 12 る。百貨店の出現が都市形成と切り離せない関係に立つことはカナダでもあて はまるということになるが,百貨店出現の背景としては他にとりあげるべきはないの か。 百貨店が出現する背景として,都市形成過程だけでなく,もうひとつ消費財産業の生 ────────────

11 Ferry, J. W., A History of the Department Store, New York, Macmillan, 1960, p.318. 12 Benson and Shaw, op. cit., pp.36−37.

モントリオールはケベック州に,トロントもオンタリオ州にあって,19 世紀後半以降には両州は工業 化の進展を特徴としていた。人口も両州に集まっており 1851 年をとっても総人口 244 万人のうちの 76 %が両州に集まっていた(後掲第 2 表による)。 第 1 表 カナダにおける百貨店 設立年次 社 名 設立時の分野 場 所 1860年 ホルト・レンフェリー (Holt Rnefrew) ドレス・スーツ 服飾品 モントリオール 1866年 オーグルヴィー (JAS. A. Ogilvy’s) 衣料品・婦人服 モントリオール 1868年 デュピュイ・フレール (Dupuis Frères) 婦人服 モントリオール 1872年 イートン (Eaton) 衣料品 通販 トロント 1874年 ヘンリー・モルガン (Henry Morgan) 衣料品 婦人服 モントリオール 1875年 シンプソン (Simpson’s) 衣料品・婦人服 トロント 1892年 ウッズワード (Woodward) よろず屋(衣料品中心) ヴァンクーヴァー

出所:Ferry, J. W., A History of the Department Store, New York, Macmillan, 1960, pp.304−333. 同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

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成発展過程を加味する必要があるとの視角を打ち出した研究もあらわされている。そこ では,アメリカにおける消費財産業の発展過程に詳細な考察をくわえ,アメリカの工場 制工業が衣料品,服飾品(以下,衣料品とする)の産業で最もはやく定着したとし,衣 料品産業が生産する各種の商品を一括してあつかう百貨店が最初の大規模小売商として 登場したと分析されている。そして,工場制工業の定着と百貨店の出現とのあいだには 30年ほどのタイムラグがあることを見い出してい 13 る。カナダの工業化はどのような歩 みをたどっていたのかのぞいておこう。 19世紀のカナダ経済については以下のような状況であったことが提示されている。 1851年では,消費財産業はそれほど重要でなかった。衣食住は家庭でまかなわれ,も っぱら自給自足であっ 14 た。全般的にも東部の漁業,林業が目につくほどであり,続いて 製材,造船,木材加工などが位置し,また内陸部は製粉や衣料品の生産量がふえつつあ ったという程度にとどまってい 15 た。漁業や林業などは第 1 次生産物(staple goods)で あり工業製品とは異なる。衣料品(毛織物が中心)はこの時点では機械生産による工場 制工業にのっていたとは言えないが,機械生産に先鞭をつけるかたちはとっていた。 工業化の動きは遅々としていたが,衣料品(特に毛織物,綿織物)は輸入品と競争す るようになっており,高率の関税を求めていた。1870 年代を通じてカナダの衣料品 (綿織物)生産者は国内消費の約 4 分の 1 を供給していた。1879 年にさだめられた関税 によって,衣料品をはじめとする各産業は市場を保護され急速に成長し始め,衣料品は 70年代,80 年代に成長を早めていった。カナダでは 70 年代にいたってから,大量生産 方式を採用した工場制工業が進んだと理解することができるようであ 16 る。 アメリカにあっては,衣料品の工場制工業が先行しその数十年後に百貨店が出現して いたが,カナダでは百貨店の誕生と産業発展とのタイムラグは読み取りにくい。しか し,このような衣料品産業における成長が人口集中地域において低価格・大量販売を基 本とする百貨店の出現を要請するということは指摘できる。また,百貨店は工業発展の 後追い的に成長するというだけではなく,販路提供でもって機械生産のひとつの刺激に なる。低価格・大量販売は都市の消費を促進するだけでなく,都市の消費を平準化する から,それをめあてに生産が促進される面もある。いわば因果の関係というにとどまら ──────────── 13 百貨店に続いて食料品,雑貨類,日用品に工場制工業が普及し,チェーン・ストアの出現につながり, さらに耐久消費財が工場制工業の発展を見たのちに通信販売店が出現した(光澤滋朗『マーケティング 論の源流』千倉書房,平成 2 年,第 3 章)。

14 Pomfret, R., The Economic Development of Canada, Nelson Canada, 1989,(加瀬田博他訳『カナダ経済史』 昭和堂,1991 年,164 ページ)

15 世界経済調査会編『カナダの研究』世界経済調査会発行,昭和 38 年,87 ページ;Caves, R. E. and Hol-ton, R. H., The Canadian Economy : Prospect and Retrospect, Massachusetts, Harvard University Press, 1959, p.154, 179.

16 世界経済調査会編,前掲書,129 ページ。

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ず,相互に補完的な関係にもあっ 17 た。第 1 表のカナダ百貨店各社の創業それ自体はカナ ダの工場制工業の普及とへだたりはあるが,ごくおおざっぱに言って,カナダ百貨店の 出現は人口集中,都市発展,産業発展とおおむね符合した流通変化と受け止めてよい。 産業発展とのタイムラグはカナダ百貨店の成長速度を規定すると見る方がいいだろう。 ところで Hbc についてであるが,前記フェリー著作によれば,カナダの主要百貨店 の先頭に扱われている。Hbc が最初に設けたのは 1859 年であって,場所は現カナダ西 部のブリティッシュ・コロンビア州の太平洋岸都市のヴィクトリアであり,生活用品 (supplies)をとりあつかってい 18 た。設立年次も取扱商品も設立場所も第 1 表が掲げる内 容と一線を画させる。Hbc 百貨店の出現の経緯を把握するためには,HBC の誕生にさ かのぼる必要がある。 2.毛皮交易 現在,カナダはアメリカとならんで北アメリカを構成するが,歴史上,北アメリカは フランスとイギリスの植民地獲得競争の舞台のひとつであった。重商主義政策のもとに あって両国は,国内産業が発展してくると海外市場=植民地を必要とするようになる。 イギリスの場合,後の東部 13 州となる最初の植民地ヴァージニアを建設したのは 1607 年のことであった。東部 13 州の植民地はイギリスと独立戦争をまじえ独立を獲得し合 衆国となっていったが,カナダも両国からの支配を受けてきた。 イギリスは北アメリカ大陸の北を回る北西航路の発見に熱意をそそぎ,その過程でハ ドソン湾を発見し,そこに大量の毛皮獣ビーヴァーが生息していることを知る。毛皮は ヨーロッパでビーヴァー・ハットの原料として珍重されており,イギリスはハドソン湾 岸での毛皮資源を専有するために,1670 年,国王チャールズ 2 世の特許状を与えてそ のための企業を設立した。 特許状には「ハドソン湾において交易をするイングランドの総裁と冒険家の一団(The Governor and Company of Adventurers of England Trading into Hudson’s Bay)」と記され ており,Hbc が誕生したことになる。初代の総裁はチャールズ 2 世のいとこのルパート 王子が就いた。特許状は Hbc にハドソン湾,その沿岸,ハドソン湾に流れ込む諸河川 の流域一帯を領土として与えると記しており,そこをルパーツランドと命名し 19 た。 ──────────── 17 光澤,前掲書,111−112 ページ。 日本においても,三越百貨店の前身の越後屋は江戸時代 1683 年に呉服商として創業していたが,日本 で衣料品の工場制工業が発達したのは明治時代のことであった。 18 Hbc の百貨店は伝統的に離れた場所に立地する単一店であり,オリジナル・ビッグ・シックス(以下, ビッグ・シックス)と呼ばれる 6 大百貨店を展開していた。フェリーがあげるそれぞれの設立年次は, ヴィクトリア(1859 年),カルガリー(1884 年),ヴァンクーヴァー(1887 年),エドモントン(1890 年),サスカツーン(1922 年),ウィニペグ(1926 年)である(Ferry, op. cit, pp.300−304)。

19 MackAY, A., The Honourable Company : A History of The Hudson’s Bay Company, 2nd ed, Toronto, McClelland and Stewart, 1949, pp.34−40.ルパーツランドの広さは現在のカナダの国土の 3 分の 1 近く !

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月) 86( 402 )

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Hbcはハドソン湾内のジェームズ湾周辺に毛皮取引用の交易所(trading post)を設 け,交易所は 1682 年までに 4 か所になっていた。先住民は採取したビーヴァーの毛皮 を交易所に持参し,かわりにナイフ,ケトル,数珠玉,ガラス玉,鏡,針などの工業製 品と物々交換した。 ところで,物々交換は当事者が余剰品を持っていれば成立するというものではない。 第 1 に,先住民が欲する交換品は何かがはっきりしていなくてはならない。初期には, ビーズ,手鏡,櫛,銃と付属品,斧,ヤカン,ナイフなどが,あるいは服飾品としての 外套,シャツ,ズボン,帽子,靴下,靴,手袋,ハンカチーフなどがイギリスから送り こまれたが,先住民は銃と付属品,斧,ナイフ,毛布,煙草,ブランデーといった交換 品を選好するようになっていった。すぐ下で見るが,交換対象品がとどくのは年 1 回で あるから,何が求められているかを把握するには経験の蓄積が必要であった。第 2 には 品質に対する評価がどうかという点がある。銃が交換対象品となることを知ったとし て,銃の品質は重視される。錆の発生や火薬の劣化などによる取引の拒否は起こりう る。合意が成立しないとき先住民はフランスに毛皮を持ち込んだという。品質保証のた めに銘柄が付与された。第 3 に交換比率についての合意も前提をなす。最高級の冬毛ビ ーヴァーの毛皮 1 枚が 1 MB(Made Beaver)とされ,銃 1 丁が 10 MB と等価とされ た。これらの前提が満たされて Hbc が効率よい品揃えを提供できるまでに半世紀ほど を要したと考えられてい 20 る。 毛皮との交換はこのようにいくつかの条件があるが,Hbc が毛皮との交換にのぞむ期 間は短期間であったらしい。イギリスで出航準備に入るのは春であり,6 月初旬に出航 し,1 ヶ月半から 2 ヶ月かけてハドソン湾につき,8 月に先住民との物々交換をした。 そして順調な場合は,9 月初旬にハドソン湾を出航して 11 月に帰国したという。この 場合は,年末か翌年はじめに毛皮の競売が行われ 21 た。毛皮との交換はそうとうの資金と 準備期間をかけていたことは間違いない。 ここで商品としての毛皮の経済的特質を一瞥しておく。毛皮交易の特徴のひとつに高 価さがある。毛皮は流行下のビーヴァー・ハットに使われるところから非弾力的需要の 商品になり,価格の高騰が起きていた。ヨーロッパに到着した毛皮はオークションにか けられ,この限り需要と供給が反映された価格がつけられたということにもなるが,毛 皮はもともとヨーロッパでは希少な商品であるところに加えて,輸入が年一回であった から,情報操作の余地も大きく,高価格化がおきやすかった。また Hbc はヨーロッパ ──────────── ! を占めるといわれている(木村和男 P. バックナー N. ヒルマー『カナダの歴史』刀水書房,1997 年,7 ページ)。 20 木村,前掲『毛皮交易が創る世界』37, 41 ページ。 21 上田,前掲論文,14 ページ。交易は貨幣経済に先行する市場での取引であり,ここでは物々交換を想 定してよいが,貿易は貨幣制度が発達した市場での取引を指している。 カナダにおける大規模小売商の生成(後藤) ( 403 )87

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への輸出規制をおこなうことで値崩れ回避をしてい 22 た。 第 2 に,毛皮にあっては広範な地域で採取され,収集が必要とされるところから,ま た遠距離輸送を行わなければならないところから,大規模な組織が必要とされた。出荷 は一定数量を集めてから行うことになるが,大規模組織の維持費用は一度の船舶出航が イギリスにもちこむ毛皮の販売によってカヴァーされなければならない。したがって, 船舶には大量の積載が意図されることになる。逆にいえば,出荷量が増えるほど単位あ たりの集荷,組織維持,輸出の費用は低下する。取扱数量の増大への圧力は高い。 高価格化,低費用化の要因をかかえているのであるから,毛皮取引は高利潤をもたら すことが可能な産業であったということにな 23 る。 毛皮取引の高利潤に誘引されて競争企業も少なくなかった。特許状によって Hbc は ルパーツランドの領土権と交易独占権は与えられているが,特許状はイギリスにおける 1企業に交易独占権を与えるというだけであって,他国との軋轢が生まれることは当然 あり得る。 フランスも 17 世紀初めに北アメリカに食指を動かしており,18 世紀になって両国の 植民地が境を接するようになると,英仏間植民地競争がおきるようになった。両国間は 毛皮取引をめぐって対立したが,英仏間植民地競争の最後に位置するフレンチ=インデ ィアン戦争(1756−63)をへてフランスの動きは封じられた。カナダはイギリス領カナ ダになる。 フランス以外にも,アメリカ毛皮会社,太平洋毛皮会社,露米会社,ノースウェスト 会社(Northwest Company)といった企業が代表的な競争企業であったが,なかでも Hbc と対立するノースウェスト社はイギリス領カナダに移住してきたアメリカ人やイギリス 人が 1779 年に創設し,西部の毛皮取引を基盤とした企業であったが,Hbc としばしば 衝突した後,1821 年,Hbc に合併された。Hbc はルパーツランドだけでなく西部での 毛皮交易も独占するようにな 24 る。 露米会社はロシアの国策会社たる毛皮交易会社であり,現アラスカの毛皮交易をめぐ って Hbc とたたかったが,Hbc と異なって内陸には進出しておらず,毛皮交易所で必 要な交換品,小麦,肉類などの食糧などの補給にネックをかかえていたため,交換品, ──────────── 22 毛皮の高価格について,1779 年,中国市場ではイギリスが入手したラッコの皮が何 10 倍になって売れ たという(木村,前掲『毛皮交易が創る世界』34, 116, 123 ページ)。 23 さらにいえば,毛皮交易にあっては,かさ/価格の比率をとると,毛皮の前の主要輸出品であった魚, あるいは毛皮の次に主要輸出品の地位を占めた木材にくらべて,かなり低い。そして毛皮は物々交換さ れるのを基本としたから,復路は交換される商品が積み込まれ,そういう商品が毛皮に比して,かさ/ 価格の比率が大きい場合は,船倉に満載されることになる。漁業では輸送の復路はほとんど空船であ り,移民を輸送し得た。また木材の場合も,かさ/価格は高い数値にとどき,木材輸送の船舶は復路で は多数の移民を低運賃で運ぶことが可能であった〔CF., Pomfret, op. cit.,(加瀬田,前掲書,19 ペー ジ)〕。毛皮が主要な商品の時は移民による人口増は抑制される。

24 Mcnaught, op. cit.,(馬場伸也監訳『カナダの歴史』ミネルヴァ書房,1977 年,64−76 ページ。) 同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

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食糧を Hbc に依存することになる(1839 年の協定による)。ひきかえに Hbc は北太平 洋岸の毛皮交易権を手中におさめた。Hbc はカナダ西部から内陸部を経てヨーロッパに のびるビーヴァー交易に加えて北太平洋のラッコ交易を独占したことになる。かくして Hbcは競争企業がいなくなり毛皮交易企業としての組織拡大をとげ,毛皮交易の最盛期 を迎える。版図も最大となり,1820−1860 年間の業績はかつてない高い収益を確保して い 25 た。 しかし,こうした状況は変わりつつあった。ビーヴァーやラッコやの数が減ってきて いた。また移住者数の増加につれてルパーツランドの農地化を求める声が大きくなって いた。アメリカからの移民はさらに西部の農地も求め 26 た。農業がひろがることは毛皮獣 生息地をへらすことになるため,Hbc は移民による農業発展には消極的であった。また 上で触れたように,毛皮交易は移民を促進する働きは内包していなかった。 さらに,1840 年代にイギリスは自由貿易政策に傾いていった。世界の工場の生産力 を背景にして,自由貿易を広げようとした。1846 年の穀物法の撤廃は穀価への課税に よる商品価格の上昇に対する不満から引き起こされ,自由貿易論が主要な動きになろう としており,Hbc をささえた交易独占は足場を狭くしつつあった。Hbc はイギリス商業 のほとんどすべての分野を沈滞させた排他的独占の一つであるとの批判を集め 27 た。毛皮 がイギリスにとって重要性を低めていたことの裏返しである。特許状は無効と主張さ れ,ルパーツランドは肥沃な農地になりうるのであるから,イギリスの直轄植民地とし てカナダに渡されるべきであると主張された。 1857年には交易独占権の是非をめぐってイギリス下院の調査委員会が設置された。 ルパーツランドは有望な農業地帯と見なされ,毛皮交易のために Hbc がそこを独占的 に所有することはできなくなった。カナダの大陸横断鉄道の完成計画が俎上にのぼった のはその頃であり,そのためにルパーツランドの買収が不可欠とされ,Hbc が難色を示 すと Hbc 自体の買収が必要であるとの認識が高まった。買収資金は産業への融資を目 的として 1863 年に設立された国際金融協会(International Financial Society)が拠出する ──────────── 25 木村,前掲『毛皮交易が創る世界』152, 159−162 ページ。 26 19 世紀前半,木材では復路に低廉な運賃が実現され,移民希望者を誘引した。1846 年ヨーロッパで飢 饉が起きたことも移民の大幅増加につながった。あるいは 1856−57 年,ヴァンクーヴァーに流れるフ レーザー川で起きたゴールド・ラッシュはカナダに多数の採探鉱者を呼び込み,また,南北戦争終結後 に王党派もカナダなどへの移住に向かった。 ただし移民の貢献は過大評価できない。カナダはおおよそ移民に見合う程の対外移出民──特にアメリ カへの──を送り出しており,1900 年までの期間で移出民が移入民を上回っていたのは基本的にカナ ダ人を吸収する国内工業が弱かったことを示している(世界経済調査会編,前掲書,76 ページ)。 27 木村,前掲『毛皮交易が創る世界』173−174 ページ。 後述するがカナダはイギリスへの小麦輸出によって重大な恩恵を享受してきたが 1846 年の穀物法の廃 止はイギリスへの経済的依存を後退させ,アメリへの依存を強める契機となっていた。カナダの商業革 命としてこうした変容が指摘されている〔J. M. S. Careless, Canada : A Story of Challenge, Macmillan, 1970(J. M. S. ケアレス,清水博他訳,『カナダの歴史』山川出版社,1978 年,220−226 ページ〕。

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ことになり,1863 年,協会が Hbc の株式すべてを購入した。過半の株式は重役が保有 していたが,重役は保有株を売却したのち Hbc から退陣した。同年,国際金融協会に よって買い集められた Hbc の株は再発行され,株式は少数の株主から多数の株主へと 散らばった。この変更は Hbc に広範な影響を与えた。 イギリスは 1867 年に英領北アメリカ法を制定し,オンタリオ,ケベックの 2 州にほ ぼ限定された伝統的なカナダに,ノヴァスコシア,ニューブラウンズウィックの 2 州を 加えた自治領カナダ(Dominion of Canada)を成立させた。成立当時の自治領カナダは 4州からなるカナダ東部の限られた地域でしかなかったが,地域的な拡大姿勢は強く, ハドソン湾岸一帯の広大なルパーツランドを得るべく Hbc と交渉し,1869 年に,領土 委譲証書(Deed of Surrender)がまとめられた。内容は①ルパーツランドはイギリス国 王に返還されたのちカナダに委譲される,②Hbc への補償金は 30 万ポンドとする,③120 の交易所とその周辺地(5 万エーカー)と 700 万エーカーの肥沃なプレーリー(小麦生 産地帯)での分譲区画の 1/20 を与えるというものであっ 28 た。ルパーツランドの放棄に よって Hbc が毛皮交易の対象としていた地域は縮小する。Hbc は 1869 年をさかいに, これ以後毛皮取引は継続したものの事業の軸足を不動産取引と商品流通にうつしていく ことにな 29 る。 まず不動産取引についてである。ルパーツランドは失ったが,領土委譲証書は Hbc をカナダ最大の不動産所有組織としての不動産業者とした。急増する移住者への不動産 販売は地価を急騰させ,不動産部門は好調そのものであったという。企業業績は抜群で あった。配当率は 1904 年 15.9%,05 年 29%,06 年 40% に上昇し 30 た。不動産販売から 収益は上がってくるので,イギリスの株主にとって毛皮取引の後退は一つの成功のよう にうつった。 1903年が不動産販売による収益のピークであったが,Hbc の営利追求の姿勢には各 方面から批判がわき上がっていた。後で述べるように,19 世紀末から始まったカナダ の小麦ブームのもとで西部には大規模な移民流入が生じたが,この移民ラッシュで入植 した数 1,000 人に対して住宅地を急騰した価格で販売したことがとがめられた。あるい は,農民が開墾した肥沃なプレーリーに不動産事務所を建て不動産取引に乗せたこと, また Hbc がカナダから長期にわたり富を取得した一方で,社会寄付(公共の建物寄付) に対しては消極的であったことなども非難を集めた。 ────────────

28 Hudson’s Bay House, Hudson’s Bay Company, London, 1934, pp.36−37.

29 大衆化した株主のほとんどは毛皮取引には大した関心を持っていなかった(The Canadian Encyclopedia,

op. cit.)。また,毛皮の商品特性は,資本と労働力を投下しての生産活動という点からすれば,工場生 産品と明らかに異なっており,ビーヴァーやラッコの生息数による制約を免れることはできない。加え て,採取地域の拡大化は内陸に向かうため輸送費用や保管費用を引き上げる。工業製品が示すような命 脈を保つことはできなかったということになる。

30 MackAY, op. cit., pp.305−306.

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月) 90( 406 )

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当時 Hbc は毛皮,不動産,小売りの 3 部門体制で営業していた 31 が,小売り部門へ比 重が移動していったのはこうした動きを背景にしていた。

Ⅲ 小売り部門への進出

上でも触れたがもともとカナダにあっては,19 世紀半ば頃までは自給自足的な色彩 を濃厚に残しており,商品経済,商品流通は発展する基盤が乏しかった。小売り商業発 展史に即して述べれば,物々交換のためにまず巡回商人(peddler)が出現し,巡回商人 の訪問が一定の周期をもって特定の場所に決まってくると,交換が行われる市(fair) が発展する。その市に固定して建てられるのが交易所であり,交易所は移動式から常設 に移り変わる。これらは物々交換を前提にしているが,常設交易所の次に,商品販売の ために固定式店舗をかまえた小売店舗(shop)が生まれてく 32 る。 カナダについては,ベンソンによれば,市(春と秋に開設される市),半常設のマー ケット(開設頻度は週に 1 回以上),巡回商人,農村のよろず屋,といった出現順位が 指摘されてお 33 り,巡回商人の位置づけが目にとまるが,カナダでは巡回商人が長期間に わたって残存したと理解すべきであるから,アメリカと一致しないもののほぼ軌を一に している。 さて,Hbc にあっては,先住民が採取した毛皮と交換品との交換を行うべく,交易所 を設立してい 34 た。交易所は特定の場所に孤立して立地していたわけではない。競争企業 から,あるいは外敵から保護するために,砦(Fort)が作られ,砦の内に交易所が置か れたととらえる方がよい。先住民との交易は先住民が欲する交換品でなければならない から,上で見たように銃の他わずかの種類に限られる。しかし,高い収益性を見込める 毛皮交易の重要性に照らせば砦内には Hbc 社員が交易従業者となって居住することに なり,そういう移住者用に食糧や生活用品などは必要とされる。そして未開の地域に設 置された交易所であるから,それらの商品を準備するのも Hbc であった。Hbc が市を 組織し,巡回商人を送り出していたという指 35 摘はこうした交易従業者向けの商品供給に かかわってのことであったろう。 交易所の規模,したがって交易従業者数が大きくなっていくのにつれて,交易所には ──────────── 31 不動産については 1934 年までに,サカスチュワン,マニトバ,アルバータ州の 200 万エーカーの不動 産は売られないままであった。Hbc 社の不動産部門はこの巨大な不動産を管理し,市民居住地のなかに 広範な区画を含んでいた(Hudson’s Bay House, op. cit., p.41, 48)。あるいは,毛皮取引についても,北 部では続いていた。

32 Nystrom, op. cit., pp.70−76. 33 Benson and Shaw, op. cit., pp.87−99.

34 おそらく交易所とは,船舶が川を分け入ってすすんだ場所,先住民の社交の場所が選ばれたことだろ う。

35 Benson and Shaw, op. cit., p.186.

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交易従業者が必要とする食糧品,生活用品の入手がはかれる購買所(supplying depot), あるいはよろず屋が Hbc の直営で付設されていっ 36 た。交易所おいては,交易品の銃が 先住民から返品された場合に対応できるように,鉄砲職人や鍛冶工も入りこんでいた。 1716年にオルバニー交易所(Albany Fort)だけで 573 本の銃身,450 丁のおのなどが製 造され 37 たというから,交易所全体では相当多数の関係者が居住していたことが推測され る。Hbc が合併したノースウェスト会社の交易所の場合,1800 年代という表記である から Hbc に合併される前のことになるが,関係者が約 1,000 人暮らしていたとい 38 う。 さらにいえば,競争相手がいなくなったあとの Hbc は未開地域に踏み出すことになる から,食糧供給,生活用品供給の必要性は Hbc が満たすしかないという状況になる。 以上は,当初,交易所は砦と同義であったが,やがて砦内に居住する Hbc 関係者を 販売対象とする購買所,よろず屋が設けられ,毛皮交易の興隆につれて購買所,よろず 屋が小売商として演じる役割が広がっていったことを物語っている。交易所として見た 場合は Hbc が奥地にすすむほど交易所は食糧貯蔵所として重要になり,新たに開設さ れた交易所も食糧供給を主要任務としていたということになる。ただ,交易所内では 物々交換が続いていた点は見過ごせない。購買所やよろず屋は交易所のなかで中心にな るわけではない。1869 年に領土委譲証書が交わされるまでは中心は毛皮交易にあっ て,物々交換であった。しかし,その割合は低下していき,貨幣との交換たる売買活動 が勢いをつけてくる。 ところで,ビッグ・シックスと呼ばれる Hbc 百貨店の一つにエドモントン店があっ た。エドモントンは領土委譲証書によって,Hbc の手を離れ──したがって農業移民を 阻止することはなくなっているが──自治領カナダのもとにおかれた町の一つであっ 39 た。エドモントンはサスカチュワン河流域の代表的な交易所であって,先住民が運び込 む毛皮との取引をした。エドモントン自体が砦であり,柵で囲まれた場所にチーフが一 人いて,Hbc はこの交易所に専属の従業員を 3 名おいていた。砦の中では 120 人が暮ら しており,エドモントン砦は購買所をそなえていた。 1879年,砦の外にはじめて農業入植地が作られた。農業入植者であるから,食糧品 は基本的に自給でカヴァーされるにせよ生活用品については砦内の購買所に依存するこ とになり,入植者の増加につれて砦内の購買所は生活用品の取り扱いをふやした。その 数年後,最初の不動産ブームが起き,住人が急増し 1883 年には小学校に 50 名の子ども ──────────── 36 交易所内に設けられた購買所,あるいはよろず屋はカナダで最初の店舗形態であったとされている (Ibid., p.186)。 37 木村,前掲『毛皮交易が創る世界』17 ページ。 38 木村,前掲『カナダ史』158 ページ。

39 エドモントンのケースは,Hudson’s Bay House, op. cit., pp.41−43 ; Schooling, W. K, B, E., The Hudson’s

Bay Company 1670−1920, Hudson’s Bay House, Lime Street, E. C. 1920, pp.107−109,に負う。 同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

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が在校するようになっていた。エドモントンでは毛皮との交換も行われたが,入植者へ の販売増加は売買活動の比重が高まることを意味する。購買所は Hbc 関係者以外も販 売する小売店舗(salesshop)となっていき,砦内の小売店舗で商品が購入される場面が ふえていた。1890 年に,Hbc は砦の外に新しい店舗を作り,砦の周辺地に生活用品だ けでなく食糧品も提供し 40 た。数年後には鉄道が南部から到達した。鉄道の開通は遠距離 からの小売店舗の利用を可能にし,またそのことが人口の一層の増加を招来し 41 た。交易 所が外縁を拡大し町(town)となっていった。 19世紀後半以降,カナダでは何度かにわたってゴールド・ラッシュが起きている が,1899 年に起きたゴールド・ラッシュはエドモントンに別の新しい拡張をもたらし た。採鉱者はエドモントンで準備をして出かけ,エドモントンに戻り,エドモントンで 家庭を持った。こういう動きで 3000 人の人口増がおきた。エドモントンは 1904 年に周 辺地域を合併し,翌年には再度,不動産ブームに浴した。Hbc がエドモントンの市街地 (business district)に大規模な小売店舗を作ったのも 1905 年であった。エドモントンの ケースは毛皮取引の砦が町に発展していき,砦内の購買所は大規模な小売店舗になって いった推移を示している。エドモントンならびに周辺地域の人々は Hbc の商品供給力 に依存するという状況を迎えていた。 もうひとつビッグ・シックスのうちのヴィクトリア店を見てみよう。ヴィクトリアは 太平洋岸の島であり,1849 年,イギリス政府によって Hbc に委譲され,1859 年にイギ リスに返還された。ヴィクトリアは毛皮交易地と輸出地として活動することが求めら れ,そのために砦がつくられたが,1856 年からはじまったゴールド・ラッシュはアメ リカ人を中心に 2 万人ほどにのぼった採鉱者を殺到させ,生活用品,食糧品をどうやっ て調達するかを重要な問題としていた。採鉱者に生活用品や食糧品を販売するのは Hbc の担当になり,1859 年,小売店舗がつくられ,屋根裏に倉庫をもった 2 階建ての比較 的大きな店舗の建設が続いた。その店舗は,小売店舗として使われただけではなく卸売 業のためにも用いられ 42 た。 さらにヴァンクーヴァー店についてのぞいておく。Hbc は 1886 年,ヴァンクーヴァ ーのコルドバ通りにみすぼらしい(unpretentious)小売店舗を作った。その店舗の取扱 商品は加工食品,ワイン,アルコールを中心としており,また生活用品も扱っていた。 数ヶ月後には鉄道が開通し,Hbc の小売店舗の活動は拡大し 1890 年,支店が作られた が,2 つの建物はすぐに手狭になり,1893 年に新しいビルが建築された。1897 年にお ──────────── 40 入植者増加による農業人口の増加は,生活用品,さらに食糧品の需要につながっていくが,カナダの場 合 19 世紀後半以降賃金労働者もふえていた。高賃金層の増加もあり,中間層は 1870 年頃に購買力を増 やした(Benson and Shaw, op. cit., pp.38−40)。

41 都市住民の移動手段も都市間では鉄道,都市内では市街電車が用いられるようになり,移動手段の拡大 が生じた。人口の増加,富の拡大,移動手段の拡大は,消費者需要の拡大をみちびくものであった。 42 Ferry, op. cit., p.302.

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きたゴールド・ラッシュによってヴァンクーヴァーへの人口の大流入があり,1898 年,採鉱者への食糧品や生活用品の販売は Hbc の大規模なビジネスとなった。Hbc の ビルは増築が続い 43 た。 以上の 3 つのケースのうちエドモントン店,ヴィクトリア店については,旧式の毛皮 取引の交易所から生活用品,食糧品をあつかう小売商への脱皮を示し,それがさらに進 化していくケースになる。交易所では競争相手がおらず,顧客の要望に応じるかたちで 取扱商品を広げやすかった。もう一つのケースはヴァンクーヴァー店であり,はじめか ら食糧品店として誕生し成長していった。ビッグ・シックスの残りについてはウィニペ グ店が前者のケースに,カルガリー店,サスカツーン店は後者のケースにあた 44 り,共通 して町の規模拡大が成長要因をなしている。いずれの場合であっても,Hbc の百貨店が 衣料品店取扱いを起源としておらず,むしろ各種の商品種類取り扱いから発していた点 は確認できる。

Ⅳ Hbc 百貨店出現の背景

カナダの工業制工業に立ち遅れがあったことはすでに見ている。カナダの工場制工業 がはじまったのは 1870 年代に入ってからのことであった。その頃に大量生産方式が導 入され,商品の標準化,商標付与,包装化などがすすみ,さらに有力紙に掲載される広 告も積極的におこなわれるようになった。 20世紀のカナダ経済にとっては 19 世紀末からの小麦ブームによる影響が重要要因と なっている。自治領カナダは内陸部のマニトバ州,サスカチュワン州,アルバータ州を 創設し,これら 3 州からなるプレーリーは小麦生産地帯となっていた。19 世紀末から 始まったヨーロッパの工業化とそれに伴って生じた食糧需要の増大は小麦価格を上昇さ せ,そのことが 19 世紀末からのカナダの小麦ブームにつながっていく。小麦ブームを つうじた好況によってオンタリオとケベックの内陸二州は小麦輸出の経由地として発展 し,増大する工業製品の需要に応ずるべく工業化がすすめられた。内外において急速な 都市化が進展し,必要とする食糧(バター,チーズ,ミルク,食肉,野菜)への需要を 大きくさせ,なかでも酪農製品が比重を高めた。ケベック州では衣料品,靴,煙草など が伸張し 45 た。こうして生産された大量生産商品は 19 世紀後半に広まった鉄道と運河建 ────────────

43 Schooling, op. cit., p 113 ; Hudson’s Bay House, op. cit., p.49. 44 MackAY, op. cit., p.315.

45 Caves and Holton, op. cit., p.179, 186.

そして 1920 年代にはいるとカナダは消費財産業より生産財産業に,いいかえれば軽工業から重化学工 業へのシフトを明瞭にしていく(世界経済調査会編,前掲書,88−94, 128−133 ページ)。 19世紀後半からのカナダの工業化にはついては,看過し得ない動きがあった。社会資本の蓄積を欠い た植民地では,鉄道建設(経済発展)は政府助成(イギリス)と外国資本に頼らざるを得ない。カナ! 同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月) 94( 410 )

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設をささえにしながらカナダ全体に流通していくことにな 46 る。 20世紀に入ってからのカナダの産業化は人口,新規家庭形成数に影響を与える。人 口増加は 1900 年から 1920 年にかけて大きく(第 2 表),新規家庭形成数もかつてない 水準にとどいていた。実質所得も大幅にふえていた。実質所得と人口増加は消費財産業 の拡大に影響を与えずにはおかない。なかでも衣料品消費の進展が著しかっ 47 た。Hbc に おける生活用品,食糧品の取り扱いにとっては 1910 年代,20 年代の方が好都合に思え る。Hbc 百貨店と産業発展との対応関係をどう見るか。生産面が未発達のまま,いいか えれば商品面,産業面での対応関係がないままで,大規模小売商が成立するのかという ことにもなる。上で見たように Hbc 百貨店の出現は 19 世紀の後半と考えられていた。 ──────────── ! ダは伝統的に資本供給のほとんどをイギリス資本に依存していたが,イギリス資本の大部分は経営支配 でなく利子取得を目的とした投資であり,投資先のひとつに公債,鉄道債の購入があった。そしてイギ リスからの投資の割合は傾向的に低下を見せ,1900 年には 80% を割るようになっていた。他方カナダ への投資を増やしていたのはアメリカであり,その投資金額はおもに工業と資源産業(鉱業や林業)に 投下され,経営権の取得,カナダへの子会社設立がすすめられた。こうして第一次世界大戦以前にカナ ダはイギリス経済圏であったところにアメリカ経済圏が加わるという動きが生まれていた(木村,前掲 『カナダ史』227−232 ページ)ことになるが,20 世紀に入らないと産業発展が起きにくいという特徴を 抱えていた。 46 鉄道網の拡大は郵便制度の整備を引きおこし,また電話の発達と相まって小売業における広告,注文に 使われるようになった。通信販売の成長は郵便制度の発達によるものであったし,通信販売の発達はよ ろず屋の衰退に拍車をかけた。19 世紀の初め頃,郵便制度が発達するまでは,郵便の配達は HBC が年 2回サ−ビスで行っていた(Benson and Shaw, op. cit., pp.43−44)。

47 Firestone, op. cit., p.81.

第 1 次大戦により加速する。戦時中,カナダの小麦への需要は大きくなり,また戦時特需により国内で の生産工場は拡大し,雇用も拡大した。所得の増加が起き,消費財の需要も拡大した〔Mcnaught, op. cit.,(馬場,前掲書,239 ページ)〕。 第 2 表 カナダの人口,家庭数,消費支出額の推移(万人) 人口 増加数 (対前年) 家庭数 新規形成 家庭数 消費者 支出額 1851年 1861年 1871年 1881年 1891年 1901年 1911年 1921年 1931年 244(76%) 323(77%) 369(76%) 433(78%) 483(75%) 537(72%) 721(63%) 879 1,037 6.4 5.4 5.0 8.7 19.7 17.4 14.9 79 90 101 112 148 182 217 1.1 1.1 1.1 2.4 4.4 3.7 2.9 100.0 141.7 169.3 196.3 195.1 211.7 注 1 ( )はオンタリオ州とケベック州が占める割合を示す。 2 対前年増加数は 1 年前の数値との比較を示す。 3 家庭数,新規形成家庭数の単位は万戸。 4 消費者支出額は実質値で 1870 年度の一人当たりの数値を 100.0 とした場合の指数を示し,年次 は前年度の数値である。

出所:Firestone, O. J., Canada’s Economic Development 1867−1953, London, Bowes and Bowes, 1958, p.77, pp.240–241 ; Benson and Shaw, op.cit., p.36.世界経済調査会編,前掲書,77 ページ。

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ところで,カナダにあっては国土が広く,商品の仕入れは容易ではなかったことであ ろう。ビッグ・シックスの一つのウィニペグ店が典型をなすが,その前身のギャリー砦 は,購買所を伴った交易所として建てられた。取扱商品は生活用品と食糧品であった。 1884年のカナダ大西洋鉄道の出現によって,まず新たな小売店舗が建設され,古い店 舗は倉庫として使われた。新しい店舗は 1 層階でウィニペグ以西では最大の店舗と言わ れた。1889 年に一段と大規模な 2 階建ての建物の建設が始まり,2 年後の鉄道開通は人 口移動をうながし,店舗はさらに発展した。上階に伸び,購買所が建っていた場所に新 たな建物が作られ,6 階立てのレンガ倉庫も併設された。すでに見た町の発達と歩調を 合わせた小売商の成長が起きているということになるが,倉庫の大きさが注目される。 1916年,6 階建ての倉庫は小売店舗にとってかわられた。広大な国土で物流網が未熟 にであったから大型の倉庫は必要であったということが読み取れるが,大型の倉庫に入 る商品の出所はどこか。カナダ産業との対応関係は見いだしにくかった。とすると国外 に供給を依存するしかない。輸入業務は誰が担当していたか。当時,百貨店は大規模な 輸入商社であっ 48 た。上で触れたようにカナダの重化学工業化が進むのは 1920 年代にい たってからであり,それ以前,カナダは高級消費財を時はじめとして輸入に依存する局 面が少なくなかっ 49 た。 百貨店は輸入商社であるから,卸売業者であるということにもなる。当時,産業発展 との関連性が強くない Hbc 百貨店が 20 世紀初頭にカナダで最大規模の従業者を擁し, 経済界の中できわだった売上高規模に達していたのは,卸売業務もかねていたことが大 きかった。 前記の通り,ヴィクトリア店の場合も,取扱商品はイギリスから船舶で輸入した生活 用品であり,店舗は小売業と卸売業の両方に用いられた。ヴィクトリア店はもともとイ ギリスへの毛皮輸出用の砦として活動を始めており,輸入の基地としてもかなってい た。Hbc はアメリカのように産業発展と相関した誕生過程をとってはいなかったという ことになる。

Ⅴ む す び

Hbcでは 1910 年−12 年の間に西部地域の都市に巨大百貨店を建設する青写真が作ら れた。この青写真が実現する前に第 1 次大戦が勃発し中断を余儀なくされる。ただし, Hbcは軍需品の輸送に従事することで,言い換えれば軸足を卸売り業務にかけること ────────────

48 Hudson’s Bay Company(http : //www.Hbc.com/Hbcheritage/ history/social/CustomerExperience/ department-store/)(2008/11/03)

49 世界経済調会編,前掲書,133 ページ。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月) 96( 412 )

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で,百貨店展開に向けることができる潤沢な資金を残すことに成功する。おおむね 1910 年代後半以降に取扱い商品種類をヨリ多様化していくと見てよい。ビッグ・シックスの 設立年次について,ヴィクトリア店は 19 世紀の半ばになることをのぞいて,カルガリ ー店(1912 年),ヴァンクーヴァー店(1913 年),エドモントン店(1914 年),サスカ ツーン店(1922 年),ウィニペグ店(1926 年)とする説明があらわされてい 50 るのも,こ の限りにおいて妥当性を持つということにな 51 る。 〔本稿は大阪経済大学中小企業・経営研究所「アメリカ大陸における流通と消費の潮流 に関する研究」の成果の一部である。〕 ────────────

50 Hudson’s Bay House, op. cit., p.49.

51 伝統的百貨店は衣料品取扱いを始めとし,後日各種の多様な商品取扱いをするようになるとはいえ,一 貫して高い割合の衣料品取扱いを保持している。この点では誕生した年次を取り上げることは妥当性を もつが,Hbc の場合は日用品,食糧品の取扱いから発して,多様な取扱いにすすんでいったということ であるから,誕生年次自体,伝統的百貨店とは異なる意味を持っていると見てよい。19 世紀末には,Hbc 百貨店に部門別管理をはじめとする近代的百貨店の運営方法が導入されていた点(Schooling, op. cit., p.106 ; Benson and Shaw, op. cit., pp.191)はもともと各種の商品取扱いを起源にしていたという点から 整理できるのではないか。

参照

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