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ニーチェにおける自由と自律

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133  倫理学年報第 70 集

ニーチェにおける自由と自律

大 

久 

保   

序 

問題の所在

││

││

  ルソーやカント以来 、 自 律 ︵ Autonomie ︶ は倫理的あるいは政 治的な理想であり続けてきた。神のような超越的価値をもはや前提 できない時代において、人間がみずからを統治し、みずからの従う 法や価値基準をみずからに与えることが課題となったのである。ニ ーチェがこの伝統に連なっていることは言うまでもない。自己決定 ︵ MA Vorrede 3; 4 ︶ や 自己の価値の創造 ︵ Z I Von der schenken-den Tugend 2; AC 11 ︶ についての議論は 、 後期ニーチェの主要な テーマであると言えよう。倫理的自律と政治的自律は本来切り離し えないが ︶1 ︵ 、本稿ではニーチェにおける倫理的自律、すなわち個人が みずからに道徳的規則や価値基準を与えるあり方を主に論じていく。   倫理的自律の問題系は、後期に前景化するとしても、初期から一 貫してニーチェのなかを流れる主題であることを確認しておこう ︵竹 内 二〇〇三参照 ︶。 たとえば 、 初期の ﹃ 教育者としてのショー ペンハウアー ﹄ においてニーチェは 、﹁ 自分自身の尺度や法にした がって生きること ﹂、 自分の良心にしたがって自分自身であること を人びとに求める ︵ SE 1 ︶ 人びとは 、 自分がこの歴史上一回きり 現れた偶然的で奇跡的な存在であることを忘れ、怠惰から無批判に 慣習に付き従い、周りの評判や世論を気にして生きている。そのよ うな人びとに対してニーチェは 、﹁ 汝自身であれ ﹂ と求めるのであ る︵ ebd. ︶。 中期の ﹃ 人 間的な 、 あ まりに人間的な ﹄︵ 以下 ﹃ 人 間 的﹄と略す︶においては、道徳が三段階に分けられ、人類は、功利 的な道徳 、 名誉を求める道徳を経て 、﹁ これまでの道徳性の最高段 階 ﹂ において 、﹁ 自己の尺度 ﹂ にしたがって行動するようになると

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ニーチェにおける自由と自律  134 言われる ︵ MA 94 ︶。 この最終段階こそ 、﹁ 成熟した個人の道徳 ﹂ ︵ MA 9 5 ︶な の で あ る。ま た、後 期 の﹃道 徳 の 系 譜 学 ﹄︵ 以 下﹃系 譜学﹄と略す︶において描かれる﹁主権的個人﹂の有名な形象は、 古代の ﹁ 習俗の倫理 ﹂ の訓育の ﹁ 果 実 ﹂ として生み出される 、﹁ 自 律的で超倫理的な個人 ﹂ であるとされる ︵ GM II 2 ︶ 。﹁ 自由な意志 の主人 ﹂︵ ebd. ︶ とも呼ばれるこの形象は 、 ニーチェのひとつの理 想を表していると言えるだろう。   後期ニーチェの道徳批判は、こうした自律の要請の観点からなさ れている面をもつ。ニーチェが﹁畜群道徳﹂と呼ぶ現代の道徳は、 他者からの評価をまず考慮する道徳であり ︵ JGB 261 ︶、 その意味 でまったく他律的︵ heteronom ︶であり、それゆえに批判されるべ きなのである。たとえば、利他的な行為を﹁善い﹂とする道徳判断 は、行為の帰結に対する行為の受け手の評価を根拠とするものであ り 、 行為の主体による評価を根拠としていない ︵ GM I 2 ︶。 そもそ も道徳一般は、歴史的に見れば、共同体の習俗に無条件的に服従す ることを起源としており ︵ M 9 ︶ さらには 、 こうした習俗は 、 個 人の素質の開花のためのものではなく、共同体を維持することを目 的としている ︵ FW 116 ︶。 つまり 、 ニーチェにとって道徳とは 、 歴史的に見れば、習俗への無批判な服従という形式面からも、個人 自身の評価ではなく他者や共同体の評価を主眼とするという内容面 からも、他律的であることをその本質とする。   後期に激しさを増すデモクラシー批判も、この文脈で理解するこ とができる。デモクラシー運動は本来、政治的自律を目指すはずで あった。しかし、ニーチェの診断によれば、現実には、命令し決定 するという責任を逃れ、周りの評価に同調する人間ばかりを生み出 し 、 人 間の卑小化や画一化に貢献してきたにすぎない ︵ JGB 199; Herbst 1887, 9 43 ]︶ 。 つまり 、 デ モクラシー運動は 、﹁ 自律的な 畜群 ﹂︵ JGB 202 ︶ を目指しているが 、 結局のところ 、 だれも牧人 の役割を引き受けない 、 牧人なき畜群 ︵ Z I Vorrede 5 ︶を 作 り 出 したのである。   このように、ニーチェにとって、とりわけ後期において、倫理的 自律は重要なテーマであり、近年のニーチェ研究において、ひとつ の大きな論点になっている ︶2 ︵ 。しかし、このテーマを論じるとき、大 きく分けて二つの論争点がある。まず、ニーチェの自由意志批判と 自律の問題系がどのように整合するのかという問題である。自由意 志批判は、ニーチェ中期以降の主要なテーマのひとつである。しか し、何かしらの自由を前提せずに自律を考えることは難しいだろう。 自由意志の批判と自律の要請というこの二つの主張のあいだの矛盾 をどのように考えればよいのか。一方で自由意志を否定しながら、 他方で自律を求めることが、どのようにして可能になるのだろうか。 本稿は、 ﹁ 責任﹂ ︵ Verantwortung, Verantwortlichkeit ︶の概念に 着目することで、先行研究とは違った仕方でこの矛盾を解消するこ

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135  倫理学年報第 70 集 とを試みる。   次に、ニーチェの提示する自律がどのようなものであるのかとい う問題である。ニーチェは新たな価値の定立をつねに唱えるが、そ れがどのように行われるのかは、研究者のあいだでも定説がないよ うに思われる。本稿は、まず、自律そのものに存するアポリアに着 目することで、問題点を整理する。自律のアポリアとは、自律の自 由の面を重視すれば恣意に陥り、反対に、自律の法の側面を重視す れば 、 他律に陥るというアポリアである ︵ 詳しくは第二節で論じ る ︶。 先行研究の多くはこのアポリアを意識しないために 、 ニーチ ェの自律を結局のところ恣意的なものか他律的なものとして描いて いるように思われる。これに対して、本稿では、ニーチェがこのア ポリアにどのように対処しているか、考察する。これによって、ニ ーチェを読むことを通して、自律の理想に潜む問題点を明らかにす ることが試みられる。   本稿の構成は以下の通りである。第一節では、自由意志批判と自 律の要請のあいだの矛盾について考察する。問題を概観したのち、 後期ニーチェの﹁責任﹂概念に着目することで矛盾の解消を図る。 第二節では、まず、ニーチェが自律の問題を先鋭化する姿を追跡す る。次に、自律のアポリアをより詳細に検討し、先行研究をこのア ポリアの観点から整理する。第三節では、ニーチェが自律のアポリ アにどのように対処しているのか、考察する。まず、ニーチェの系 譜学が、恣意に陥らない自律へ至る歴史として描かれていることを 確認する 。 次 に 、﹁ 自由精神 ﹂ が自律からたんなる他律へと堕落し ないために重要な役割を果たしていることに着目する。

一 

自由意志の問題の﹁解体﹂

││﹁責任﹂概念の分節││

  中期のニーチェは、道徳一般への批判のなかで、一種の決定論の 立場から自由意志を否定する。ニーチェによれば、われわれはある 人の行為によって損害を受けたとき、そこに行為者の自由意志を想 定し、その行為を行わないこともできたはずだと考え、そうした行 為 を﹁悪﹂ とみなす ︵ MA 99 ︶。 しかし 、 全知の存在ならば 、 あ ら ゆる行為は前もって算出可能であり、自由意志の想定すらも、こう した行為のひとつにすぎない ︵ MA 106 ︶。 こうした決定論の立場 に立つならば 、 人間はみずからの行為に責任をもつ必要はない ︵ MA 107; MA 39 ︶ 。   こうした自由意志批判と、後期以降前景化する自律の問題系とは、 どのようにして整合的に解釈することができるのだろうか。自律が 自由を前提するならば、自由意志批判と自律の要請は矛盾するので はないか。   この矛盾に対して、ひとつには、一方の主張だけをニーチェの真 正な主張として解釈し、矛盾そのものを解消する立場がありえるだ

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ニーチェにおける自由と自律  136 ろう。たとえば、ブライアン・ライターは、決定論や運命論をニー チェの真正な主張として捉え、自律の問題系をこうした主張のなか に解消してしまう ︵ Leiter 2014: 69 81 ︶。 しかし 、 これではニーチ ェの重要な議論の多くを捨て去ることになるだろう。   これに対して、近年の英米圏の分析系研究者たちは、自然主義の 立場から両立論を主張している。つまり、カントのように形而上学 的な主体を想定せずとも、自由意志の批判と自律の要請は決して矛 盾せず、両立するという立場である。この立場の有力な論者のひと りが 、 ケ ン・ ジームスである ︵ Gemes 2009 ︶。 ジームスは 、 この矛 盾を解決するために 、 意志を二つの種類に分ける 。 すなわち 、﹁ 賞 罰自由意志 ︵

desert free will

︶﹂ と ﹁ 行為者自由意志 ︵ agency free will ︶﹂ である 。 賞 罰自由意志とは 、 過 去の行為に対して賞罰を与 えるときの根拠として想定される意志である。他にも行為の可能性 があった︵別行為可能性︶にもかかわらず、行為者はその行為を選 択したと想定することによって、行為者にその行為の帰結の責任を 負わせるのである。これに対して、行為者自由意志は、自律の根拠 として想定される意志であり、未来の行為の原因となりうる。意志 をこのように分けた上で、ジームスは、ニーチェが批判しているの は、前者の賞罰自由意志だけであり、後者の行為者自由意志は積極 的に評価していると解釈する。そして、行為者自由意志の内実を、 ニーチェの衝動論などから自然主義的に明らかにすることに精力を 傾けている ︶3 ︵ 。   本稿は、ジームスと同じく両立論の立場に立ちながらも、しかし、 自然主義とは異なる観点からこの両立論を分析する。その際、ニー チェのパースペクティビズムが手がかりになるだろう。そして、ジ ームスのように意志のあり方を二つに分けるのではなく、責任を二 種類に分けることで、後期ニーチェの特質を明らかにする。これに よって、ニーチェの自律を分析する足がかりをえたい。   後期においてもニーチェは自由意志をたびたび批判している。し かし、注意すべきは、後期に入ると、この自由意志批判の根拠とな る決定論も批判しはじめることである ︵ vgl. Herbst 1887, 9 [ 9 ] ︶ 。 この点で重要なのが、 ﹃善悪の彼岸﹄ ︵以下﹃彼岸﹄と略す︶の第二 一断章である。ニーチェの自律を論じるとき多くの論者が触れるこ の断章を、詳しく見ていこう。   この断章で 、 ニ ーチェはまず 、﹁ 自 己原因 ︵ causa sui ︶﹂ の概念 を否定することによって、自由意志の立場を批判する。自己原因の 概念が﹁これまで考案されたなかで最もはなはだしい自己矛盾﹂で あり 、 そしてこの ﹁ 自己原因であろうとする ﹂ 欲求が 、﹁ あの形而 上学的な最高級の知性のなかにある﹁自由意志﹂への欲求﹂にほか ならないと断じられる︵ JGB 21 ︶ 。   しかし、ニーチェの批判はこれで終わらない。ニーチェは、自由 意志概念とともに 、 返す刀で 、﹁ 不自由意志 ﹂ の概念 、 すなわち決

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137  倫理学年報第 70 集 定論が誤りであることも主張する 。﹁ 啓蒙 ﹂ によって 、 自由意志概 念だけでなく 、﹁ ﹁ 不自由意志 ﹂ の非概念 ︹ Unbegriff ︺﹂も﹁頭 か ら抹消する ﹂ べ きだとニーチェは言う ︵ ebd. ︶。 では 、 な ぜ決定論 が誤りなのか。それは決定論と自由意志概念の両方を支える、原因 と結果の概念にそもそも問題があるからである。すべてに生成を見 るニーチェの立場からは、原因と結果の概念は、事象を固定化し同 一性を想定する点で誤りなのである ︵ vgl. W S 11; ミュラー =ラウ ター 一九九九三〇五 三〇八 ︶。 したがって 、﹃ 彼岸 ﹄ の先の断 章でニーチェは次のように続ける。 ﹁﹁原因﹂と﹁結果﹂を誤って物 体化し ︹ verdinglichen ︺ てはならない ﹂ 。 ﹁ ﹁ それ自体 ﹂ としては 、 ﹁因 果 連 鎖﹂や﹁必 然 性﹂や﹁ 心理的不自由 ﹂ は何一つ存在しない 。 ﹁ 結果が原因に ﹂ 続くことはないし 、 いかなる ﹁ 法 則 ﹂ も存在しな い ﹂。 原因と結果の概念はあくまで ﹁ 記 述﹂や﹁理 解﹂ のための概 念であり、 ﹁説明﹂のための概念ではない︵ JGB 21 ︶ 。   このように、因果関係の概念自体を批判することで、ニーチェは、 自由意志の概念だけでなく、決定論をも批判する。実際、後期のニ ーチェは、因果関係を基礎とする科学の法則性自体を批判していく。 ニーチェによれば 、 物理学者の誇る ﹁ 自然の法則性 ﹂ と は 、﹁ な ん ら事実ではなく 、 いかなる ﹁ テクスト ﹂ でもなく ﹂、 たんに ﹁ 粗 悪 な解釈技術 ﹂ によって成り立っているひとつの解釈にすぎない ︵ JGB 22 ︶ 。   こうして、自由意志概念と決定論の両者を支える因果関係の概念 自体の基礎を掘り崩すことで、ニーチェは両者のあいだの形而上学 的なアンチノミーを解消してしまう。つまり、この問題自体を﹁解 体︵ Auflösung ︶﹂ ︵ミュラー=ラウター 一九九九︶するのである。   そして、この﹁解体﹂を可能にしているのが、ニーチェのパース ペクティビズムである。この理論によれば、決定論も自由意志論も、 根源的な生成の世界に対するひとつの解釈であり﹁記述﹂であって、 世界それ自体を﹁説明﹂しているわけではない。しかし、こうした 解釈はそれぞれひとつのパースペクティブであり、ある種の生のた めに必要とされる 。 たとえば 、﹁ 物 体、線、面、原 因 と 結 果、運 動 と静止、形と内容﹂などの概念がひとつの解釈でしかないとしても、 人間が生きていくためには必要な解釈であり、必要な﹁誤﹂なの である︵ FW 121 ︶ 。   それゆえ、問題は、パースペクティブや解釈自体の真偽ではもは やなく︵ニーチェにとってはあらゆるパースペクティブや解釈は根 本的には偽である ︶、 どのような生がそれぞれのパースペクティブ を必要としているかである。今の文脈で言えば、決定論や自由意志 論のパースペクティブをどのような生が求めているかである。実際、 ニーチェは、先の﹃彼岸﹄第二一断章において、決定論のパースペ クティブに対する二つの種類の態度を区別している。ニーチェによ れば 、 そ の態度が生の ﹁ 症 候 ﹂ であり 、 そこで ﹁ 人格が暴露され

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ニーチェにおける自由と自律  138 る﹂の で あ る︵ JGB 21 ︶。 一方には 、 決定論を前にして 、﹁ ﹁ 責任 ﹂ を、自己への信仰を、自らの功績に対する権利を、断じて放棄しま いとする ﹂ 人びとがいる 。 他方には 、﹁ まったく責任をとろうとせ ず 、 何 についても罪を負うまいとし 、[ ⋮ ] 自分自身の存在すら他 に転嫁できればと考え ﹂、 決定論を歓迎する人びともいる 。︵ ebd. ︶ 。 後者の人びとが ﹁ 意志薄弱者たち ﹂︵ ebd. ︶ と呼ばれていることか らも、ニーチェがどちらの人びとに好感を寄せ、どちらに批判の矛 先を向けているかは明らかだろう。つまり、ニーチェは、無責任性 を言祝いだ中期 ︵ vgl. M A 39; 105; 107 ︶ とは異なり 、 自己の責任 0 0 0 0 0 を引き受けようとしない人びとを批判している 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 のである。決定論と いうパースペクティブが問題なのではなく、それを求める弱い生が 問題なのである。   ここまでの分析からも明らかなように、後期においては、 ﹁責任﹂ 概念それ自体は必ずしも批判の対象ではない。たとえば、未来への 立法者とされる﹁新しい哲学者﹂は、 ﹁責任﹂を担う﹁意志の強さ﹂ を持つ者としてつねに特徴づけられている ︵ JGB 210; 212; 213 ︶ 。 また 、 真の自由とは ﹁ 自己責任への意志 ﹂︵ GD Streitzüge 38︶で あると定義される。最後期には、ニーチェ自身が﹁自分のあとのす べての世紀への責任﹂を担っているとまで言われる︵ EH Klug 10 ︶ 。 このように、後期のニーチェには、散発的ではあれ、責任を積極的 に捉える局面があり、しかもその責任は、未来への責任 0 0 0 0 0 0 、みずから の定立する価値への責任を意味しているように思われるのである。   積極的に提示されるこうした未来への責任を析出することで、ニ ーチェが自由意志批判を通して何を批判しようとしているのかが明 確化されるだろう。批判されるべきなのは、道徳的責任 0 0 0 0 0 、とりわけ キリスト教的なそれである 。﹃ 系譜学 ﹄ 第 二・ 三論文でニーチェは 、 なぜ道徳的責任が批判されるべきか、系譜学的にって明らかにし ようとしている 。﹁ 負い目 ︵ Schuld ︶﹂ や義務の概念が 、 内へ向け られた攻撃性と結びつき、さらには、神への無限の負債の感覚とも 結びつくことで 、 人間を永遠に苛む道徳的責任が生み出される ︵ GM II 21 ︶。 そして禁欲主義的僧侶がこれを支配の道具として利 用するのである ︵

GM III; Vgl. GD die vier grossen Irrthümer 7

︶ 。 この道徳的責任は、永遠に返済不可能であり、それゆえ、これを負 わされた人間は永遠に苦悩することになる。だからこそ批判される べきなのである。   このように、後期ニーチェにおける自由意志概念と決定論の矛盾 は、ジームスのように意志を分節するよりはむしろ、パースペクテ ィビズムを通して責任概念に着目しこれを分節することで、よりよ く説明されうる。未来への責任と道徳的責任を分節することが、後 期ニーチェの特徴だと言えよう ︶4 ︵ 。これによって、ニーチェにおける 自律を論じるための足がかりも得られただろう。未来への責任こそ、 ニーチェの自律の前提である。

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139  倫理学年報第 70 集

二 

自律のアポリア││恣意か他律か││

  それでは 、 ニーチェにおける自律 、﹁ みずからにみずから法を与 え る﹂こ と︵ FW 335 ︶ と は 、 どのような性格をもつのか 。 ルソー やカント以来の伝統に連なりながらも、ニーチェは倫理的自律にど のような独自の特徴を与えているのだろうか。   ニーチェにおいて自律の問題が先鋭化されるのは、道徳批判を通 して、われわれの下している道徳的価値判断のほとんどが他律的で あることが明らかになる過程においてである。このとき重要になる のが 、﹁ 誠実さ ﹂ という徳であり 、 ニーチェが ﹁ 知的良心 ﹂ と呼ぶ ものである。ほとんどの人間は、自分の価値判断の﹁最も確実な究 極的根拠﹂を自覚することなく、この価値判断にしたがって生きて いる 。 このような生き方を軽蔑するのが知的良心なのである ︵ FW 2. 竹内 二〇〇三参照︶ 。このような欺瞞を許さない誠実さや知的良 心は、逆説的なことに、キリスト教のもとで鍛えられた徳であり良 心である ︵ FW 357 ︶。 キリスト教道徳のもとで生い育った誠実さ という徳が、道徳を徹底的に批判することになるのであり、それゆ えに誠実さは、ニーチェによって﹁われわれの徳﹂や﹁最後の徳﹂ と呼ばれることにもなる ︵ Herbst 1885 Frühjahr 1886, 1 [ 145 ] . Vgl. van Tongeren 2014 ︶ 。   で は 、﹁ 誠 実 さ﹂や﹁ 知的良心 ﹂ はどのようにして道徳的価値判 断の他律性を明らかにするのだろうか 。﹃ 悦ばしき学 ﹄ 第三三五断 章を詳しく検討しながら、この点を見ていこう。われわれはふだん、 みずからの良心に従って﹁これは正しい﹂と価値判断を下している ように考えている。しかし、ニーチェによれば、そうした判断は、 われわれの﹁衝動や傾向、嫌悪、経験や無経験﹂のうちに﹁前史﹂ をもつ ︵ FW 335 ︶。 つまり 、 われわれの価値判断は 、 われわれの なかに経験的に形成された衝動や傾向にもとづいている。では、そ のような衝動や傾向はどのように形成されたのか。 ﹁[⋮]あなたが 何かを正しいと感じること、その原因は、あなたが自分自身につい てよく考えなかったところに、そして、これが正しいと子供のころ に言われたものを盲目的に受け入れたところにある。あるいは、あ なたが自分の義務だと呼ぶものと一緒にパンや名誉があなたに分け 与えられところにある、││あなたに﹁正しい﹂と思えるのは、そ れがあなたにとって ﹁ 存在条件 ﹂ に思えるからである ﹂︵ ebd. Vgl. WS 52 ︶。 つまり 、 われわれに自明に思える価値判断は 、 みずから の設定した価値基準に従っているのではなく、むしろ、幼少期の教 育によって、あるいは功利性や名誉︵ ﹁パンや名誉﹂ ︶にもとづいて、 無自覚的に受け入れられた価値基準に従っているのである。こうし た価値基準はわれわれの﹁自然﹂ ︵ M 104 ︶や﹁肉や血﹂ ︵ FW 380 ︶ にすでになっているが、われわれはこれを自覚することなく、これ を学び直そうとすらしない ︵ M 104 ︶。 みずからの価値基準を吟味

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ニーチェにおける自由と自律  140 することのない者は 、 すでに慣れ親しんだ価値判断の ﹁ 道 化 ﹂︵ M 104 ︶にすぎないのである。   このように、ニーチェは、誠実さや知的良心によって、道徳的価 値判断の他律性を明らかにしてく。そしてこの欺瞞の告発の果てに ニーチェは、あらゆる道徳的価値基準からの自由の境地、いわゆる ﹁善 悪 の 彼 岸﹂に た ど り 着 く︵ FW 380 ︶。 それは 、﹁ われわれの肉 や血のなかに受け継がれた 、 命令的価値判断の総計 ﹂︵ ebd. ︶を 超 え出た地点である。 ﹁善悪の彼岸﹂に行き着くことは一種の﹁狂気﹂ ︵ ebd. ︶ にほかならないが 、 道徳や自律について思考するためには 、 こ の﹁漂 泊 者 ﹂︵ ebd. ︶ の位置を理論的に前提せざるをえない 。 価 値判断の他律性が明らかになることによってはじめて、ニーチェに おいて自律が真に問題になるのである。同様の理路をカントのなか にも見出すことができる。カントは、まず、道徳的価値基準として 立てられる格率がすべて衝動や傾向にもとづくがゆえに他律的であ ることを批判し、その上で、理性的存在者にとって普遍化可能な価 値規則として定言命法を提示し、これに従うことこそ真に自律的で あるとした。ニーチェも、誠実さや知的良心による欺瞞の告発を通 して、道徳的価値判断の他律性を暴露し、自律の問題に真に行き着 くのである。   それでは、ニーチェにおいて自律はどのように捉えられることに なるのか。ニーチェは、ルソーやカントにならって、自律を﹁みず からにみずから法を与えること ﹂︵ FW 335 ︶ と考えている 。 し か し、このように定式化される自律は、そもそもアポリアを抱えてい ることが指摘されている。いわゆる﹁カントのパラドクス﹂である ︶5 ︵ 。 それは次のようなアポリアでありパラドクスである。一方で、われ われがみずからに法を与えようとするとき、自律的であろうとする ならば、その立法行為はいかなる外的な要因によっても規定されて はならないだろう。いわば﹁善悪の彼岸﹂からこの立法行為は行わ れなければならないのである。しかし、何ものにも拘束されないこ うした法なき立法行為は 、 当然問題含みである 。﹁ 善悪の彼岸 ﹂ か ら法を与える自己は、果たしてみずからの与える法に拘束されうる のだろうか。いつでもその法を捨てて新たな法を立てることができ るのではないか。結局、自律は、たんなる恣意に陥り、 ﹁わがまま﹂ と変わらないのではないか。他方で、恣意に陥ることなくみずから に法を与えようとして 、﹁ 善悪の彼岸 ﹂ か らそうするのではなく 、 なんらかの根拠にもとづくならば、この立法行為には、先行する根 拠や理由があることになる。これは果たして自由で自律的であると 言えるだろうか。むしろ他律的ではないだろうか。   このように﹁みずからにみずから法を与える﹂自律は、恣意か他 律かのいずれかに陥らざるをえないように思われる 。﹁ 自律の自由 0 0 │主体の絶対的な創始者性│と自律の合法性 0 0 0 │法の絶対的な効力│ は 、 そのつど他方を犠牲にしてはじめて実現されるように思われ

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141  倫理学年報第 70 集 る﹂ ︵ Khurana 2011: 14.  強調本文 ︶。 この自律のアポリアにどの ように向き合うかという問いが、カントとそれ以降のドイツ観念論 を規定していくことになる ︵ cf. Pinkard 2002 ︶。 カント自身は 、 ﹁ 理 性の事実 ﹂ を持ち出すことでアポリアの解決を図る 。 つまり 、 自由で理性的な存在者であれば、道徳法則の存在は、先行する根拠 や経験によることなく 、﹁ 事実 ﹂ として意識される 、 とカントは主 張する ︵ Kant 1974: AA31. Cf. Pinkard 2002: 59 60 ︶。 こうしてカ ントは、立法行為の前に普遍的な道徳法則が存在していると想定す ることによって、アポリアを回避しようとする。当然、これによっ て自律の二つの側面、自由と合法性のうち、自由が犠牲にされるこ とになる。ニーチェがカントを鋭く批判したのはまさにこの点であ った。定言命法のような普遍的な法則に無条件に従うならば、それ はもはや自律ではなく ﹁ 洗練された奴隷根性 ﹂ の表れにすぎない ︵ FW 5 ︶ 。   それでは、ニーチェは自律のアポリアにどう向き合うのか。ニー チェがこのアポリアを自覚していたようには思われない。だが、こ のアポリアを解釈格子として用いることで、ニーチェの倫理的自律 の思想とその解釈に、見通しを与えることができるだろう。これま での典型的な解釈を、この自律のアポリアへの対処の仕方に応じて 二つの種類に分けることができるのである。すなわち、自由をとる か、合法性をとるかで、二通りの解釈戦略に分かれる。   まず、ひとつの解釈戦略は、ニーチェの自律を徹底的に個人的な 倫理とみなす方法である ︵ Gerhardt 1992; マッキンタイア 一九九 三 ︶。 たしかにニーチェは 、 普遍的な規則を批判し 、 あくまでも個 人の倫理にとどまろうとしているように見える 。﹁ ひとりひとりが 、 自分の徳を 、 自分の定言命法を 、 自分で発見せよ ﹂︵ AC 11 ︶ 。 さ ら には、ひとつひとつの場面に応じて、そのつど判断を下すよう求め ているように見える。ひとつひとつの行為は、その文脈に応じて意 味が与えられるからである ︵ vgl. F W 335 ︶。 だが 、 このような個 人主義的な倫理は 、 社会性に欠けるとされ ︵ Gerhardt 1 992: 49; Ansel-Pearson 1991: 285 ︶、 極端な多元主義を生むと批判されてき た︵マッキンタイア 一九九三三一四 三一五︶ 。   もうひとつの解釈戦略は、力への意志や生のなかにニーチェにお け る 合 法 性 を 見 る 方 向 性 で あ る ︵ Bernstein 1991; Katsafanas 2017 ︶。 たしかに 、 ニーチェは 、 特に最後期において 、 力への意志 や生をある種の形而上学的な原理として設定しているように見える。 最も端的にそれが表れているのが 、 次の箇所だろう 。﹁ 何がよいの か。│人間の中で力の感情を、力への意志を、力自体を高めるもの すべて/何が悪いのか。│弱さから生じるものすべて/幸福とは何 か 。 │力が増大する感情 、 抵抗が克服されたという感情 ﹂︵ AC 2 ︶ ニーチェにおける生や自然に、カントにおける﹁理性の事実﹂と対 応するものを見ることも可能だろう ︵ cf. Nancy 1980: 406 ︶ 。 だ が 、

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ニーチェにおける自由と自律  142 このような普遍的な原理こそ、ニーチェがカントに対して批判して いたまさにそのものではないだろうか。すべての価値が力への意志 や生によって規定されるならば、それは自由や自律とは呼べないの ではないだろうか。   このように、ニーチェの自律をとらえようとするとき、自律のア ポリアに直面せざるをえない。それでは、このアポリアを回避する ことはできないのだろうか。そしてニーチェの思想はまさにこのア ポリアを前にして分裂してしまったのだろうか。

三 

自律のアポリアとの格闘

││歴史と自由精神││

  本節では、自律のアポリアの突破口として、ニーチェの思想のう ちの二つの契機に着目する。すなわち、歴史と自由精神である。ア ポリアから逃れることなど本来不可能なことであり、したがって、 本節の議論にはさまざまな問題点が含まれることだろう。しかし、 ニーチェが自律の問題と格闘したさまが描き出せれば、自律の理想 にある問題点を明らかにするという本稿の目的は果たせたことにな るだろう。   まず、ニーチェが﹃系譜学﹄で描いた歴史が、自律のアポリアか らの脱出の試みとみなせることを示してみたい。手がかりとなるの は 、﹃ 系譜学 ﹄ における ﹁ 主権的個人 ﹂ の形象である 。 この形象は 、 先にも触れたように 、﹁ 自律的で超倫理的な個人 ﹂、 ﹁ 自由な意志の 主 人﹂と さ れ ︵ GM II 2 ︶ ニーチェの考える自律のあり方が反映 されているのは間違いないだろう。注目すべきなのは、この形象が ﹁社会性︹ Societät ︺と習俗の倫理﹂の﹁途方もない過程の終わり﹂ に現れる ﹁ 果 実 ﹂ だとされている点である ︵ GM II 2 ︶ よく知ら れているように 、 こ の ﹁ 主権的個人 ﹂ の形象が論じられる ﹃ 系 譜 学﹄第二論文の前半は、未来に向けて約束できる人間を育成する、 ﹁ 習俗の倫理 ﹂ が問題になっている 。 刑罰によって記憶を植え付け 、 偶然と必然の区別や因果関係の概念を習得させ ︵ GM II 1 ︶ 人間を ﹁ 計算可能な ﹂︵ ebd. ︶ 存在にすること 、 すなわち 、 行動の予測が可 能な動物にすることが、先史時代の課題であったとニーチェは主張 する。そして、記憶が必要となるのは、約束ができる動物、つまり、 負債を将来返すと他人に確証できる動物に人間を訓育することが課 題だったからである ︵ GM II 5 ︶ このように 、﹁ 習俗の倫理 ﹂ の 歴 史とは、社会的規範を遂行する能力を養い、この規範を内面化させ る歴史である。そしてニーチェは、この訓育の過程の先に、この社 会的規範を完全に遂行できる個人が現れると考えているのである。 この ﹁ 約束のできる 、 独立した長い意志をもった ﹂︵ GM II 2 ︶個 人は 、﹁ 人類そのものの完成の感情 ﹂︵ ebd. ︶ に満ちてさえいる 。 こ の個人は﹁習俗の倫理﹂の訓育の先に現れる存在であるがゆえに、 ニーチェは 、 この自律的個人を ﹁ 超倫理的 ︹ übersittlich ︺﹂ と呼ぶ

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143  倫理学年報第 70 集 ︵ ebd. ︶。 ニーチェにとって ﹁﹁ 自律 的﹂と﹁倫 理 的 ︹ sittlich ︺ ] ﹂ は 両立しない﹂のである ︶6 ︵ 。   このように、ニーチェは、自律の理想がたんに恣意に陥らないた めの展望を、人間自身の訓育の歴史に求めた。人間は一度決めた約 束を未来に向かって保持する能力を身につけ、自己を拘束する。し かもそれは、他者との﹁約束﹂を守ることにあり、たんに自己中心 的な人間ではない。歴史のなかで人間は、自己に向かって命令しそ れを完全に遂行する能力を備えた、未来への責任を担える存在へと 育成されていく 。 さ まざまな研究者が指摘するように 、﹁ 主権的個 人﹂が、どのような歴史的段階で現れるとニーチェが考えているの かは判然としない。しかし、少なくともニーチェは、歴史を通して 人間が、自己を未来に向けて統御する能力を得ていくと考えていた ように思われる。もちろん、このような歴史哲学的展望が楽観的で あることは否めない。外的な強制なしに、人間がどこまで自己拘束 的でありえるのか、疑問の余地があるだろう。だが、ニーチェはこ うした未来に賭けたのである。   それでは、自律のアポリアのもう一つの面、他律の危機にはどの ような方策が用意されているのだろうか。先に書いたように、生や 力への意志に普遍的な法則を読み込む解釈は、ニーチェ自身のカン ト批判と齟齬をきたす。したがって、生や力への意志はニーチェに とっての﹁仮説﹂ ︵ JGB 23 ︶であり、ニーチェ自身にとっての価値 基準と解釈すべきではないだろうか。たしかにニーチェは力への意 志を採用すべき価値基準として提示しているが、すべての人びとが それに服すべきということにはならないだろう。それでは自律とは 呼べないからである。それゆえに、ニーチェは、みずからと同様に 力への意志を価値規則として採用する者を求めて、著作で訴えかけ るのではないだろうか。   後期に現れる政治構想 、﹁ 大いなる政治 ﹂ もこの文脈で理解すべ きだろう。みずからの倫理的自律を貫徹しようとするならば、そう した生活を可能にする政治が必要になるからである。それゆえに、 ニーチェにおいても倫理的自律と政治的自律は最終的には切り離し えないと言える。   このように、ニーチェの自律において普遍的法則が想定できない とすれば、その都度選択される法や価値基準は、偶然的なもので一 時的なものにならざるをえない。さらには、そうした法や価値基準 が普遍的なものと錯覚されることがあってはならないだろう。この 点に自由精神の役割を見出すことができる。たえず因習から離れる ことを求める自由精神 ︵ MA 225 ︶ は 、 自分が慣れ親しんだ価値基 準の根拠をたえず問い直すことを可能にする ︵ cf. Reginster 2003 ︶ 。 後期に書かれた﹃人間的﹄序文でニーチェは、さまざまな価値基準 を行き来できる﹁内面の広大さ﹂を有するがゆえに、ひとつの価値 基準にこだわる偏狭さを離れることができる存在として、自由精神

(12)

ニーチェにおける自由と自律  144 を描く ︵ MA Vorrede 4 ︶ 自律が他律に陥ることを防ぐ精神のあ り方として、自由精神は中期から後期まで重要な形象であり続ける のである。   以上見てきたように、ニーチェの歴史哲学と自由精神は、自律の アポリアからの脱出の試みとして解釈できる。自律が社会性を欠い たたんなる恣意にならず、同時に、普遍性を装った他律へとも陥ら ないために、歴史のなかでの訓育と、みずからの価値基準からたえ ず距離を取る自由精神とが要請されるのである。

結語

  本稿の内容を振り返っておこう。   第一節では、自由意志批判と自律の要請のあいだの矛盾について 考察した。後期ニーチェは、パースペクティビズムによってこの形 而上学的な矛盾を解消する。ニーチェの批判は、自由意志そのもの ではなく、道徳的責任に対して向けられている。これに対して、未 来への責任は積極的に価値付けられる。この未来への責任に自律の 基礎を見出すことができる。   第二節では、まず、ニーチェにおいて自律が真に問題になる理路 がられた。誠実さの徳や知的良心が道徳的価値の他律性を徹底的 に明らかにすることで、自律がはじめて問われることになる。次に、 自律のアポリアを分析の手がかりとすることによってニーチェの自 律に関するこれまでの解釈が二つに分類できることを示した。すな わち、自由を重視することでニーチェに徹底的に個人的な倫理を見 る解釈と、合法性を重視することで力への意志や生を普遍的価値基 準と見なす解釈である。   第三節では、自律のアポリアを逃れうる契機として、ニーチェの 歴史哲学と自由精神の形象を分析した。これによって、ニーチェ独 自の自律のあり方の一端を示した。   本稿は、ニーチェの自律の理想が直面する問題点を明らかにする ところまでは達することができたものの、残念ながらニーチェの自 律の独自性に十分に踏み込むことができなかった。この点を明らか にすることで、現代においても重要な理想であり続けている自律の 思想に新たな光を当てることができることが期待できる。今後の課 題としたい。 注 *ニーチェの著作への参照は、著作名の省略記号と、節や論文の番号で示 す。遺稿については執筆時期とノート番号を記す。原文中の強調はすべ て省略した 。 省略記号は以下の通り 。 SE ﹃ 反時代的考察第三 教 育 者としてのショーペンハウアー ﹄/ MA ﹃ 人間的な 、 あ まりに人間的 な﹄ / WS ﹃ 漂泊者とその影 ﹄/ M ﹃ 光 ﹄ / FW ﹃ 悦ばしき学 ﹄/ Z ﹃ ツァラトゥストラはこう語った ﹄/ JGB ﹃ 善悪の彼岸 ﹄/ GM ﹃ 道 徳 の系譜学 ﹄ / GD ﹃ 偶像の黄昏 ﹄/ AC ﹃ 反キリスト者 ﹄/ EH ﹃ こ の

(13)

145  倫理学年報第 70 集 人を見よ﹄ 。   テクストは以下のものを使用した。 , hrsg. von G . Colli und M . Montinari, Münchn/Berlin /

New York: de Gruyter, 1980.

︵ 1︶   ニーチェにおける倫理的自律と政治的自律の関係については第三節 で触れる。 ︵ 2︶   ニーチェの自律の問題系についての論集としては 、 cf. Gemes and May 2009.   カントと対比しながら論じた論文を多く収めた論集とし ては、

cf. Constâncio and Bailey 2017.

︵ 3︶   ジームスと同様に、後期ニーチェにおいて積極的に提示されている 自由を自然主義的に分析した論文は数多いが 、 たとえば 、 cf. May 2009. ︵ 4︶   竹内は中期ニーチェに本稿と同じく二つの責任概念を見出している。 竹内 二〇〇八一〇七 一〇八。 ︵ 5︶   カントのパラドクスについては 、 cf. Pinkard 2002: 59 60; Pippin 2017: 262; Khurana 2011: 1 2 14. 論者によって ﹁ カントのパラドク ス﹂のどこに強調点を置くかは異なっている。本稿のここでの記述は Khurana の整理に主に基づいている。 ︵ 6︶   ﹁超倫理的﹂という表現の由来については、 vgl. Brussoti 2019. 文献表 Ansell-Pearson, K . 1991. “ Nietzsche o n Autonomy and Morality: the

Challenge to Political Theory,

”, 39, 270 286. Bernstein, J . M. 1991. “ Autonomy and Solitude, ” i n Ansell-Pearson, K. ed. ︶, , London/ New York: Routeledge, p. 192 215. Brussoti, M . 2019. “ Die Autonomie des ,souveränen Individuums ’ i n

Nietzsches Genealogie der Moral,

” , 49, 26

48.

Constâncio, J. and Bailey, T.

︵ ed. ︶ 2017. ,

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68. Katsafanas, P . 2017. “ The Problem o f Normative Authority i n Kant,

Hegel and Nietzsche,

” in Constâncio and Bailey 2017, p. 19

50. Khurana, T . 2011. “ Paradoxien der Autonomie zur Einleitung, ” i n Khurana, T . und Menke, C . ︵ hrsg. ︶, , Berlin: August, S. 7 23. Leiter, B . 2014. , 2nd. Ed., London/ New Y ork: Routledge. マッキンタイア、 A. 一九九三、 ﹃美徳なき時代﹄ 、篠崎榮訳、みすず書房。 May, S . 2009. “Nihilism and the Free Self, ” in Gemes and May 2009, p .

(14)

ニーチェにおける自由と自律  146 89 106. ミュラー =ラウター 、 W ・ 一九九九 、﹁ ニーチェの権力への意志説 ﹂、 ﹃ ニ ーチェ論攷﹄所収、新田章訳、理想社、三七 一二四頁。 Nancy, J.-L. 1980. “«NOTRE PROBITÉ!»   ︵ sur la vérité a u sens mor-al chez N ietzsche ︶, ” , 112, 391 407. Pinkard, T . 2002.

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Pippin, R . 2017. “ Hegel ’s Practical Philosophy: The Realization o f Freedom, ” in Ameriks, K . ︵ ed. ︶, , 2nd. Ed., p. 248 270. Reginster, B . 2003, “What is a Free Spirit?: N ietzsche o n Fanaticism, ” , 85, S. 51 85. van Tongeren, P . 2014, „ Nietzsches „ Redlichkeit ”: Das siebte Haupt-stück: „ unsere T ugenden ”“ i n Born, M . A. hrsg. ︶,

, Berlin/ Boston: de Gruyter,

S. 147 165. 竹内綱史 、 二〇〇三 、﹁ ニーチェ哲学における良心という問題 ﹂、 ﹃ 宗教哲 学研究﹄ 、二〇巻、六五 七六頁。 │││、二〇〇八、 ﹁自由精神と自由意志││﹃人間的、あまりに人間的﹄ におけるニーチェの自由論││﹂ 、﹃倫理学研究﹄ 、三八号、一〇〇 一 一一頁。 ︵おおくぼ   あゆむ・大阪大学︶

(15)

8  

that his ethical system and his theory of religion are theoretically disconnected and that the latter is merely an addendum from outside of his critical philoso-phy. However, if it is shown that the ethical system involves a teleological con-ception that necessarily presupposes religious notions such as God, church, and grace, the suggested disconnection cannot be accepted any longer. In this paper, I examine the inner connection between the ethical system and religious notions from such a teleological perspective. In the first section, I outline four possible variants of a teleological conception. In order to get a criterion for discussing which conception best fits Kant’s ethical system, I show that the final end of the system is the highest good in section 2. Based on this result, I indicate that for the sake of the realization of the highest good, it is necessary that I have two beliefs whenever I act towards this end in section 3; the first is the belief that no obstacles can fundamentally prevent the realizability of the highest good, and secondly, the belief that it is possible for a person to make progress towards the highest good. Finally, in sections 4 and 5, I give an answer to the title question: a strong teleological conception is required for Kant’s ethical system.

Through-out this paper, I shall conclude not only that Kant’s ethical system is internally

connected to the theory of religion, but also that an acknowledgement of this inner connection is necessary for our everyday moral behavior.

Freiheit und Autonomie bei Nietzsche

Ayumu OKUBO

 In dem vorliegenden Aufsatz soll erörtert werden, wie sich Nietzsche mit der Frage der Autonomie auseinandersetzt. Nietzsche geht es stets darum, wie man der bisherigen Moral und den öffentlichen Meinungen kritisch gegenüberstehen kann, um sich selbst Gesetze zu geben und ein neues Wertemaß zu setzen. In der bisher veröffentlichten Literatur gibt es zwei umstrittene Punkte bezüglich Ni-etzsches Autonomie:

 1. Wie soll man den Widerspruch zwischen Nietzsches Verneinung der Freiheit des Willens und sein Verlangen nach Autonomie behandeln?

 2. Was ist die eigentliche Beschaffenheit seiner Autonomie?

 Während Nietzsche in seiner mittleren Periode die Freiheit des Willens aufgr-und des Determinismus verneint, hält der späte Nietzsche es für eine wichtige Aufgabe, neue Werte zu setzen. Obwohl manche Forscher die zwei widersprüchli-chen Behauptungen als Nietzsches naturalistiswidersprüchli-chen Kompatibilismus auszulegen versuchen, handelt es sich meiner Meinung nach um den Unterschied zweier

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Ve-  9 rantwortlichkeiten: Bei der Kritik über die Freiheit des Willens greift Nietzsche die moralische Verantwortlichkeit an, die die Leute mit dem Gefühl der unge-heuren Schuld beladet und sie dadurch immer weiter leiden lässt. Wenn dagegen Nietzsche das Ideal der Autonomie darstellt, setzt er eine andere Verant-wortlichkeit voraus, bei der man mit andern eine Versprechung macht und die Folgen verantwortet.

 Bei der Erörterung von der Beschaffenheit Nietzsches Autonomie ist es hilf-reich, sich auf die der Autonomie selbst inhärenten Aporie zu beziehen: Wenn man sich gesetzlos, d.h. ohne Grund, ein Gesetz gibt, gerät man nur in Willkür; wenn man sich jedoch aufgrund eines Grundes ein Gesetz gibt, ist die eigene Ge-setzgebung von außen schon bestimmt und darum heteronom. Bei bisherigen Auslegungen wird Nietzsches Autonomie entweder oft als eine willkürliche und individuelle Ethik oder als eine vom Willen zur Macht beherrschte Heteronomie vorgestellt. Meiner Auffassung nach versucht Nietzsche seine Autonomie gegen die Willkür der Annahme, dass sich die Menschen durch Züchtung in der Ge-schichte gesellschaftliche Normen verinnerlicht haben, zu verteidigen. Um

Heter-onomie vom Willen zur Macht zu vermeiden, spielt der „Freigeist“, der

unbeding-te Begründung ablehnt und nur kontingenunbeding-te Gründe annimmt, eine große Rolle.

Development and Transition of Levinas’s Anti-Historical Theory

Masami ISHII

 Emmanuel Levinas emphatically reiterates his caustic critique of

historiogra-phy in (1961). For Levinas, “[historiography]rests on

the usurpation carried out by the conquerors, that is by the survivors,” and to

him, it is a violence of totality that ignores the particularities of the individual and reduces them into a narrative convenient to the victors.

 In this paper, we first take up the text of , where Levinas

most explicitly declares his critique of history, and lay out why history is the violence of totality. In doing so, we demonstrate that both ethics and fecundity are deployed as resistance to the violence of history. Secondly, we analyze how Levinas addresses the difficulties that the theory of history in

faced, in his later works including

(1974). We summarize our engagement with the other found in the dimen-sion of “trace,” focusing especially on discusdimen-sions of “survival” and “books.” We

then analyze the path of change in Levinas’s strict attitude toward history and

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