• 検索結果がありません。

夫の歸宅 : 南北朝後期の「羅敷古辭」模擬作品について

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "夫の歸宅 : 南北朝後期の「羅敷古辭」模擬作品について"

Copied!
16
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

夫の蹄宅

l

南北朝後期の

模擬作品について

︿ 序 章 ﹀ ﹁ 羅 敷 古 僻 ﹂ と 南 北 靭 文 拳 研 究 (一)競膏南北朝惰期の﹁羅敷古僻﹂の模擬作品数 中関文筆において桑摘みの女性が登場する作品と言えば、羅敷を主人公とする﹁緩敷古島および秋胡とその妻の故事に由来するとされる﹁秋 拐行﹂という梁府を想起する人は少なくないであろう。特に、桑摘みを得意とする美しい﹁羅敷﹂が﹁使君﹂の誘引を拒絶し、夫自慢をするとい う筋書きを持つ前者は人々の関心を集め、貌雷南北朝期、中でも南朝斉梁棟期に数多くの模擬作が生みだされた。﹃梁府詩集﹄によれば、﹁羅敷古 僻﹂とその貌菅南北朝隔期の模擬作品は延べ三十七篇を数えるが、その中で南朝湾梁から惰までに活躍した詩人の作品は二十八篇である。この時 期には女性および関連する事物を一詠った﹁艶詩﹂が大流行し、その代表作品とそれに影響を輿えた先行作品を牧録した﹃玉蓋新一詠﹄が編纂された。 この詞華集にも﹁羅敷古齢﹂とその模擬作品および関連作品も少なからず牧録されてお附 f この一連の築府は南北朝後期の﹁艶詩﹂の代表的作品 群の一っと見倣せるであろう。従って、これら一濯の築府の研究も、南北朝後期の﹁艶詩﹂の本質の解明に資すると予測される。 会己﹁羅敷古癖﹂の構成要素 本稿で南北朝後期の﹁羅敷古僻﹂の模擬作品を取り上げるにあたって、まずは古癖の内容の構成要素を確認しておこう。藤野岩友氏と佐藤大志 氏の設に擦れば、次の六黙が奉げられる。 ﹁ 日 の 出 と 美 し い 主 人 公 の 住 む 建 築 物 の 描 寓 ﹂ 、 ﹁ 女 性 主 人 公 の 美 し さ ﹂ 、 二 一 ﹁ 主 人 公 は 既 婚 ﹂ 、 四 五

(2)

ム /¥ ﹁桑摘み﹂、五﹁男性による誘引と主人公による拒絶﹂、六﹁主人公の夫褒め﹂。これらのうち、 こから五は﹁秋胡行﹂とも共湿する鮎であるが、特 に後世の人々から注目を浴びたのが第五鮎である。 模擬作品を作るにあたっては、右の六要素の全てを繕承するか、取捨選揮するか、あるいは新たな要素を追加するかなどの方法が考えられるで あろう。本稿ではまず南北朝後期の﹁羅敷古僻﹂ の模擬作品に焦貼を嘗てて古僻との比較を行うことによって、その特徴鮎を抽出する。もし模擬 作品の中に大きな愛更が加えられているとすれば、それはなぜか。本稿ではその直接の淵源と一意味、更には饗更の背景について探ってみたい。 ︿ 第 一 章 ﹀ 陳 ・ 張 正 見 の ﹁ 鑑 歌 行 ﹂ まず初めに張正見の﹁盤歌行﹂を取り上げる。張正見、字は見蹟の停は﹃陳書﹄巻三四﹁文撃惇﹂と﹃南史﹄巻七二 る。これらの史書によれば、張正見の父、修謹は嘗初北競に仕えていたが後に梁に録順し、正見は十三歳で時の皇太子、後の簡文帝粛綱(西暦 ﹁ 文 曲 学 俸 ﹂ に 牧 録 さ れ て い 五

O

三│五二に文才を賞賛され、その文民子集国に属した。粛綱は周知のごとく梁代後期の艶詩流行の主導者である。張正見は侯景の乱の後は元 帝粛鐸に、梁滅亡後は陳に仕え、徐陵や江轡りとともに重用されわ r 前掲の史書は陳の太建年間(五六九│八二に四十九歳で逝去と記している ので生年は梁中期(五二

O

l

O

)

で あ る と 考 え ら れ 、 議 綱 の 文 出 場 干 集 園 に 加 わ っ た の は 梁 後 期 に 嘗 た る こ と に な る 。 それでは作品全文を見てみよう。 ﹁城隅上朝日、斜眼照杏梁。併巻莱英帳、争移務翠林。紫雲柳向属、梯鏡且調敗。裁金作小磨、散寮起微黄。二八秦棲婦、三十侍中部。執戟 超丹地、豊紹入建章。未安文史閥、濁結少年場。轡﹃弧貫葉影、同学剣動星芭。翠蓋飛城曲、金鞍横道傍。調鷹向新市、弾雀往錐陽。行行梢有極、 暮暮競蘭房。前謄富羅続、左顧足鴛驚。蓮箭千葉気、燈吐百枝光。満酌胡姫酒、多焼萄令香。不出品千幽閏妾、生離怨採桑(城隅より朝日上り、 斜峰は杏梁を照らす。併びに品甘く菜英の帳、争いて移る務翠の林。髪を紫い柳か痛に向かい、鏡を梯いて豆く帖酬を調す。金を裁ちて小厭置を作 し、豪を散じて微黄を起こす。 二八秦楼の婦、三十侍中部。戟を執りて丹地を超え、豊紹建章に入る。未だ文史の閣に安んぜず、濁り結ぶ少 年の場。弧を脅きて葉影を貫き、剣を曲学、びて星芭を動かす。翠蓋を城曲に飛ばし、金鞍は遁傍を横ぎる。鷹を調え新市に向かい、雀を弾きて 雄陽に往く。行き行きて稿く極まること有り、暮暮蘭房に踊る。前を陰れば羅締富み、左を顧れば鴛鷲足る。蓮は箭ぶ千葉の気、燈は吐く百 枝の光。満酌す胡姫の酒、多く焼く萄令の香。向学、はず幽間の妾の、生離し怨みて桑を採るを)﹂(﹃梁府詩集﹄四一八頁,巻二八)

(3)

七 張正見の右の作品は﹁羅敷古僻﹂ の冒頭を踏襲した﹁城隅上朝日、斜曙照杏梁﹂という二句で始まっており、女性の部屋の調度と彼女の美しさを 描寓したあと、更に九・十句で﹁二八秦棲婦、三十侍中郎﹂という﹁羅敷古僻﹂ の羅敷とその夫の経歴を述べた句をほぼそのまま用いている。 二十句までは夫の容姿や言動が描かれ、南北朝時代に好まれた﹁豪侠﹂としての性格付けもされている。ここまでは﹁羅敷古僻﹂の 十 一 旬 以 降 、 第一二一、三、六の要素と共通する。 この模擬作品の最大の特徴は、﹁行行﹂以降で妻が待つ﹁蘭房﹂に夫が腸宅する場面である。﹁蘭房﹂は庚義で部屋の美稀であるが、狭義で妻の 居室を指す場合もあり、右の例も後者であろう。この夫の蹄宅という要素は古僻に見られない。 夫の録宅後の邸宅内を描潟した﹁前陪富羅椅、左顧足鴛驚﹂ 二句では、古僻﹁相逢行﹂中の﹁兄弟﹂が賜る豪邸の描腐の語と表現を用いている。 古 僻 ﹁ 相 逢 行 ﹂ の嘗該部分を引用してみよう。 ﹁兄弟爾三人、中子矯侍郎ロ五日一来鶴、道上自生光。黄金絡馬頭、観者満路傍。入門時左顧、但見隻鴛鴛。鴛鴛七十二、羅列自成行。一音聾 何嘘味、鶴鳴東西廟。大婦織羅締、中婦織流黄。小婦無所作、挟惹上高堂。丈人

E

安坐、調絃未逮央﹂(﹃玉蓋新諒筆注﹄九│一一頁、巻一) これは作品の後宇部である。兄弟は三人いて、次子は侍郎の官職を得ている。彼らが五日に一同師宅する際には道に光が溢れるようである。彼ら の乗る馬は頭に黄金の飾りを纏っており、彼らを見ょうと道は野次馬でごった返す。さて、彼らが屋敷の門に入って左を見るとつがいの鴛鴛が見 える。鴛鴛の敷は七十二期制、並んで列を成している。また、温和な鳴き撃がしたかと思えば、鶴が東西の建物のところで鳴いている。これ以降は 兄弟それぞれの妻が男に仕える様子を描寓しているが、長男の妻が﹁羅縞﹂を織っているとする。別稿で論じたように、この作品とそれを踏襲し た後世の模擬作品は様々な吉祥的モチーフを盛り込み、貴闘糊の一家の幸福な姿を象徴的に描いている。 張正見の作品はこの中から﹁鴛鴛﹂と﹁羅締﹂の句の語と表現を用いている。後者は古僻﹁相逢行﹂で﹁大婦﹂が織る物として描かれていたが、 美女の衣服を指す場合もあり、張正見の作品では家妓たちを指しているとも考えられる。いずれにせよ、この句は腸宅した夫を歓待することを描 いている。前者の﹁鴛鴛﹂は周知のごとく夫婦国満を象徴する語である。また、耳目・侍玄の﹁歴九秋篇董逃行﹂が﹁捕弱手今金環、上遊飛簡雲開。 穆若鴛鳳隻輔閥、還幸蘭房白安(弱手の金環せるを捕え、上に飛閣の雲間にあるに遊ぶ。穆まじきこと鴛鳳隻驚の若く、還た蘭房に幸し自ら安ん ず ) ﹂ ( ﹃ 玉 蓋 新 一 諒 一 筆 注 ﹄ 四

O

二頁、巻九)と一諒って夫婦の仲が睦まじいことを﹁鴛驚や鳳風、 つがいの鷲のようだ﹂と表現しているだけでなく、 ﹁蘭房﹂に戻って安息すると描いている鮎も右の張正見の句の先行例として注目される。右のように、張正見の作品の﹁行行﹂から﹁羅締﹂まで の 句 は 古 館 ﹁ 相 逢 行 ﹂ の兄弟の腸宅の場面に侍玄の作品中の表現を交えて夫の賜宅と彼への饗慮を描き、夫婦国満を象徴的に表現していると解緯

(4)

八 さ れ る 。 次の﹁蓮﹂句と ﹁燈﹂句は数射が用いられた情景描寝のように見える。後者の﹁燈吐百枝光﹂句は注 ( 9 ) で奉げた別稿第三章で論じたように、 ﹁ 相 逢 行 ﹂ ﹁ 長 安 有 狭 斜 行 ﹂ の梁代の模擬作品において﹁三婦﹂ の夫﹁三子﹂が腸宅する場面にもこれと酷似した句が見られたが、これはもともと 宗廟歌や郊紀歌の組曲の降神歌において紳霊を迎える場面に見られる語を用いたものであった。前者の﹁蓮﹂ の句そのままの先行例は現行作品の 中からは見いだせないが、﹃楚僻﹄﹁招魂﹂で霊魂を迎える宮殿内の庭園の描寓に﹁芙蓉始設、雑斐荷比一ごとあり、それにおして王逸注は﹁芙蓉、 蓮華也﹂と注すお r 南朝時代に﹁蓮﹂は好んで捕かれたが、張正見の 迎える吉祥的景物の一つとして用いられていると考えられる。 ﹁ 蓮 ﹂ の 句 は 、 ﹁ 燈 吐 ﹂ の句の劉であることと考え合わせれば、夫の蹄宅を 注 ( 9 ) の別稿で論じたように、降紳儀雄とは、祖先祭杷では祖霊を、郊紀では天地紳を現世の祭紀の場に降臨させ饗癒しようとするものであ り、招魂儀躍は死者または死なんとする者の魂塊を現世に呼び戻そうとするものであるが、雨者とも霊魂を降臨させ饗暗服することによって、祭杷 する側の幸福の獲得を目的とする駄では共通する。祭把の手順は鵡経に記され、祭記歌は各史書の ﹁ 楽 士 山 ﹂ に 牧 録 さ れ て お り 、 少 な く と も 知 識 人 の聞ではその内容や表現が共有されていた。張正見の﹁蓮﹂ 二句は郊犯組曲中の降神歌や﹁招魂﹂ の紳霊を迎える場面に見えた景物などを用い、 夫の競宅に降紳儀謹や招魂儀趨を重ね合わせることによって、幸福の獲得を重層的に表現したと考えられる。 次 の ﹁ 満 酌 ﹂ 二句は典故を用いて夫妻の私宴を描き、夫婦の幸福を象徴させていると解嗣押される。﹁満酌﹂ は杯になみなみと沼を注ぐこと。 梁・徐君傍﹁初春捕内人行戯﹂ で﹁内人﹂と一初春の私宴を催す場面で﹁満酌蘭英酒、制剖此得娯紳︿満酌す蘭英の酒、此れに封して紳を娯しますを 得たり)﹂(﹃玉肇新一諒築注﹄一二四三頁、谷八)と一詠い、夫婦仲の睦まじきを象徴的に描いている。張正見の作品で注がれているのは﹁胡姫酒﹂ で あるが、これは後漢・辛延年﹁羽林郎﹂﹁胡姫年十五、春日濁嘗埴(胡姫は年十五、春日濁り塘に営たると(﹃玉肇新一詠築注﹄二四頁、巻二に由 来 す る 。 ﹁ 萄 令 香 ﹂ は﹃太卒御覧﹄が引用する習撃歯﹃嚢陽記﹄の記事、﹁萄令君至人家、坐慮三日香(萄令君人家に至れば、坐りし慮は三日香れり)﹂ に由来すると考えられる。この ﹁萄令君﹂は曹操の参謀で角書令に任じられ、美男子としても有名であった萄議を指す。右の﹃裏陽記﹄の記事に よれば、萄裁が人を訪問すれば、彼が坐った所に三日聞は芳しい香りが残っていたという。これは夫の鴎宅とはやや異なるが、男性の到来と見れ ば、共通する鮎は認められる。張正見のこの作品で香を焚くことは、個師宅した夫を饗臆するためであると解担押される。 張正見はこの部分までに夫婦の幸福な姿を措き、末二句では夫と生き別れたことを悲しみながら桑を採るような﹁幽聞の妾﹂ の員似はしたくな

(5)

つまり、張正見の ﹁ 艶 歌 行 ﹂ の特徴貼 いと述べ、それまでに描かれた幸福を強調して作品を締めくくる。この土木句は古齢の第四の要素の饗奏と言えるが、南朝期に新たに登場した悲傷 する桑摘みの女性像を意識した表現であると考えられる。 ﹂ の よ う に 、 張 正 見 の ﹁ 羅 敷 古 僻 ﹂ の模擬作品には古献の最も特徴的だった第五の要素が見られず、代わりに古僻で直接は登場しなかった主人 公の夫の鋳宅という新たな要素を揺入し、更に﹁相逢行﹂ の 子 の腸宅の場面の表現も用いて、主人公夫婦の幸福な姿を描いているのである。 以上のように、貌晋南北朝時代に模擬作品が最も多く制作された﹁相逢行﹂と﹁羅敷古僻﹂ の二大柴府が張正見﹁艶歌行﹂ に 至 っ て 融 合 し た 。 張正見の作品のこれらの特徴は彼の濁創によるものなのか、或いはそうではないのか。またこの ﹁ 羅 敷 古 餅 ﹂ 模 擬 作 品 の テ

l

マの獲更の背景に何 があるのか。以下、これらの問題について検討していきたい。 ︿ 第 二 章 ﹀ 南 朝 梁 ・ 粛 綱 の ﹁ 盤 歌 篇 十 八 頭 ﹂ と 沈 約 ﹁ 日 出 東 南 隅 行 ﹂ ( 一 ) 粛 綱 の ﹁ 踏 歌 篇 十 八 韻 ﹂ 張正見の﹁盤歌行﹂がいつ制作されたのかを明示する資料は現存していない。前述のごとく彼が死去したのは陳の太建年開であるが、ちょうど その時期から嘗時皇太子だった陳叔賓が文皐活動を開始したとい

h

r

陳叔賓と言えば陳の最後の皇帝であり、陳代の艶詩の代表的詩人かつ文拳集 圏の領袖だが、﹃陳書﹄﹁挑察傍﹂と﹁顧野王侍﹂が記録する、皇太子時代の陳叔賓の文事集圏のメンバーに張正見の名は見えない。もし張正見ほ どの人物が参加していたとすれば史書に明記されていたはずである。少なくとも、現存している陳後主の は異なり、夫の帰宅のモチーフや﹁相逢行﹂中の表現は見られない。その他の陳代詩人の作も同様である。 ﹁羅敷古僻﹂模擬作品は張正見のものと に陳代詩人の模擬作品からの影響は認められないのである。 このように張正見の作品が、後竿生に仕えた王朝での文撃活動からの影響に因る可能性が低いのであれば、彼の前牢生の文曲学活動で受けた影響 を検討しなければならない。注 ( 9 ) の別稿で詳しく論じたように、﹁相逢行﹂およびそれと関連する梁府の古鮮系模擬作品の制作が梁代に大流 行したが、その流行の中心は梁武帝粛街と太子粛綱であった。そしてこの時、張正見は粛綱の文事集固に所属していた。そこで考えられるのは、 張 正 見 の ﹁羅敷古僻﹂模擬作品の特徴が、粛綱に倣ったものではないかということである。 九

(6)

この仮設の嘗否を検討するために、次に粛綱の﹁盤歌篇十八韻(以下、賂歌篇と略す)﹂を取り上げ

h

r

それでは全文を見てみよう。 ﹁凌震光景麗、信女鳳楼中。前謄削成小、傍望巻腔空。分敗開浅唇、繰験侍斜紅。張琴未調診、歌吹不全絡。自知心所愛、出入仕秦宮。誰言 連予屈、更是莫数遇。軽紹綴息蓋、飛轡蝶雲勝。金鞍障繋尾、街瑛映纏駿。え鍍剤山玉、剣飾丹陽銅。左把蘇合弾、傍持大屈弓。接弦因鵠血、 挽 強 用 牛 蛾 。 半 、 強 多 登 陣 、 酎 歌 毎 入 園 Eo 輝陣隠落日、舟舟濯房様。鐙生陽燈火、塵散鯉魚風。流蘇時下帳、象歯車復籍筒。霧一暗箇前柳、寒疎井 上桐。女譲託松際、甘瓜蔓井束。拳拳侍君寵、歳暮望無窮(凌震に光景麗なり、但女は鳳棲の中にあり。前より陪れば削り成して小に、傍ら より望めば巻経は空し。般を分かちて浅醤に関え、験を繰りて斜紅を侍く。琴を張りて未だ杉を調えず、歌吹全くは終らず。自ら知る心の愛 する所、出入して秦宮に仕うるを。誰か言う連予に屈すと、更に是れ莫款と遁ず。軽轄に息蓋綴り、轡を飛ばして雲聴を蝶す。金鞍に繋尾随 ぃ、街礁は纏駿に映ず。文には剤山の玉を鍍め、剣には丹陽の銅を飾る。左に把る蘇合の弾、傍らに持す大屈の弓。弦を控くに鵠血に因り、 強を挽くに牛蛾を用う。半、猟多く障に登り、酎歌毎に豊に入る。晦障として落日隠れ、舟舟として房様に還る。鐙に陽燐火生じ、塵は鯉魚風 に散ず。流蘇は時に帳より下ろし、象箪は復た筒に臨む。霧に一陪し窟前の柳、寒に疎し井上の桐。女譲は松際に託し、甘瓜は井東に蔓す。拳 ︽ 却 ザ 拳として君が寵を侍む、歳暮には望み窮まる無し)﹂ 早朝の麗らかな陽光が照らす﹁鳳楼﹂に女性がいることが述べられる冒頭二句は﹁羅敷古辞﹂ の構成要素の第一鮎に相嘗する。次に彼女の容姿を 描寓する第三句﹁前膳﹂から第六句﹁縫険﹂ は第二貼に、彼女の愛する男性を描寓する第九句﹁自知﹂から第二十四句﹁樹歌﹂までは第六鮎に相 に 由 来 す る 。 更 に ﹁ 女 譲 ﹂ の 夫 の 描 薦 、 ﹁ 青 称 繋 馬 尾 、 黄 金 絡 馬 頭 ﹂ 二句で夫婦を指す興的表現が見られることから、この男性は主人公の夫であると考えて良いであろう。 は呉兆宜注が指摘するように﹁羅敷古僻﹂ 嘗 す る と 解 輯 拝 さ れ る 。 こ の 男 性 の 騎 馬 の 摘 潟 、 ﹁ 金 鞍 随 繋 尾 ﹂ そして第二十五句﹁晦晦隠落日﹂以降でその夫の跨宅を描いている。第二十六句目房様﹂の﹁様﹂について﹃説文解字﹄は﹁櫨也﹂と説明し、 A n ︺ 段玉裁注が﹁様、房室之疏也(様、房室の疏なれ勾﹂と解説しているとおり狭義では部屋の箇を指すが、庚義で夫婦の居室全健を一意味する。従つ て、第二十七句から第三十二句目までは、表面上は﹁房様﹂ のある内部と居室の周園の情景の描潟と解轄できる。 この部分でまず注目されるのは﹁楊燐火﹂が燈火として用いられるという勲である。これは凹面鏡を用いて太陽から採った火を指し、現存する 先秦抽盟国南北朝時代の作品にはほとんど見られない珍しい語であるが、﹃周趨﹄によればこれは祭杷で紳霊への供物を照らす燈火である。前章で 指摘したように、祭杷歌で神霊を迎える場面に登場する燈火のモチーフは張正見の作品に見られた。粛綱のこの作品でも﹁陽陣地火﹂という珍しい 語を用いて夫の腸宅を迎える舞牽を設え、祭紀における神霊の降臨と饗膝の場面を重ね合わせることによって、この夫婦の幸福の獲得を重屠的に

(7)

曹叡の用例では限りある人命に到して、天地は、一水遠に不獲であるという。後者の成公綴の﹁正旦大曾行誼歌﹂ の句は元且の宴の儀謹歌であり、 E 日 表現したと考えられる。 他に、﹁流蘇﹂とは惟帳などに付ける五色の羽仲間りであ

h

﹁﹁象筆﹂は象牙で編んだ敷物で呉地方の名品を指ね r 第三十三・三十四句は注(幻)に述べたように新婚夫婦の仲睦まじきの輿的表現であり、末二句は女主人公が夫に釣して敬愛の念を抱いている ことを述べ、老年まで幸福が績くであろうことを言祝ぐ。﹁拳拳﹂という語は粛綱のこの作品では、夫からの情愛に劃する主人公の感謝と夫への A n ) A m ) 敬意を述べていると解縛される。﹁歳暮﹂は年の暮れ。第二十八句の﹁鯉魚風﹂は醤暦九月ころに吹く風を指し、第三十一句﹁霧暗箇前柳﹂は気 候 が 寒 冷 で あ る こ と を 描 宙 局 す る 。 つまり﹁鐙生﹂旬以降の六句は、祭杷に見られる景物も交えて夫の腸宅を迎える舞喜一を設えながら、同時に秋の 屋内外の風景を描いて末尾の﹁歳暮﹂ 二句の伏線の機能をも果たしている。 末句の﹁無窮﹂という語は何らかの献態や動作の永績を意味するが、粛綱以前の用例を見てみよう。 -貌・明重量﹁月重輸行﹂﹁天地無窮、人命有終(天地は窮まること無く、人命は終わること有弘﹂ -膏・成公緩﹁正旦大舎行雄歌﹂﹁至治哉、梁無窮(至治なるかな、築窮まること無し)﹂(﹃柴府詩集﹄ 一九一頁、巻二ニ) の治世を讃え、その繁築が永遠に績くことを言祝ぐ祝辞である。これらのように、議綱以前の用例に見られる﹁無窮﹂という語は天地のような永 遠不饗のものに射して用いられたり、儀躍歌中の祝鮮として用いられたりしたことが理解される。法 ( 9 ) の別稿第五章でも詳しく論じたように、 同種の永遠を言祝ぐ表現として﹁梁未央(染未だ舟きず)﹂という祝鮮があるが、これらは祭記歌や儀鵡歌に頻出する祝僻に由来し、﹁相逢行﹂や ﹁白紳舞歌﹂などの南北朝時代の艶詩でもしばしば用いられた。他に薪綱は﹁京洛篇﹂ で 長 安 と 洛 陽 の 描 潟 や 関 係 す る 故 事 を 借 り て 梁 の 都 建 康 の 栄華の永績を言嗣ぐが、その末句﹁惟此雨京盛、数宴遂無窮(惟れ此れ南京の盛、歓宴遂に窮まること無し)﹂にも﹁無窮﹂という語を用いてい る 。 以上のように、驚綱の作品は﹁羅敷古齢﹂と共通する要素が少なくないにも関わらず、古鮮の最も特徴的であった羅敷と使君のやりとりに相嘗 する第五の要素は採っていない。それに射して古鮮で寅際には登場しなかった羅敷の夫に相嘗する人物を作品後宇部で競宅させ、祭杷の降紳儀稽 などに見られた景物なども交えることによって夫の婦宅の舞蓋を設え、荘重な祝辞も用いて夫婦の永遠の幸福の獲得を象徴的かつ重層的に描いて いる。この手法は別稿で取り上げた﹁相逢行﹂ の梁代の模擬作品で用いられたものと基本的に同じであり、家族の幸福をテ!マとする﹁相逢行﹂ に接近しているという貼で、張正見の作との共通性が認められるのである。

(8)

更に遡って、粛綱以前の詩人の﹁羅敷古僻﹂模擬作品の一例として、次に南朝梁・沈約(四四一 l l 五二ニ) の ﹁日出東南隅行﹂を見てみよう。 会一)沈約﹁日出東南隅行﹂と粛綱﹁魅歌篇﹂ の比較 ﹁朝日出部邸、照我叢牽端。中有傾図鑑、顧影織羅航。延躯似織約、遺視若同濁。洛女映屠続、金服舷彫策。幸有同匡好、西仕服秦官。賓剣 垂玉貝、汗馬飾金鞍。祭場類蒋雲、逸按似騰驚。羅衣夕解帯、玉叙暮垂冠(朝日榔鄭より出づ、我が叢蓋の端を照らす。中に傾図の艶有り、 影を顧みて羅紘を織る。延躯すれば繊約に似、遺硯すれば同澗の若し。瑳女は屠締に映じ、金服は彫融市に絃く。幸に同匡の好有り、西のかた 仕えて秦官に服す。賓剣より玉貝垂れ、汗馬に金鞍を飾る。場を祭ること縛雲に類し、逸く控くこと騰驚に似る。羅衣タに帯を解き、玉叙暮 ︹ 認 ︺ に 冠 に 垂 る ) ﹂ 冒頭二句は越の都、協郎に出た朝日が語り手の住む﹁叢肇﹂ の構成要素の第一鮎に、第三句から第八句ま では古僻の構成要素の第二貼に相嘗する。次の第九句から第十四句までは主人公の夫の描潟と考えられ

h

r

この部分は古癖の構成要素の第六鮎に の﹁端﹂を照らすといい、﹁羅敷古僻﹂ 相嘗する。第十五句の﹁羅衣夕解帯﹂ は、夫婦の幸福を言祝ぐ張衡﹁同聾歌﹂ の新婚夫婦の初夜の場面﹁衣解巾粉御(衣解かれて巾粉を御す)﹂ (﹃玉蔓新一詠一築注﹄二九頁、巻二を典故とし、沈約の末句の﹁玉叙﹂が主人公の装飾品、﹁冠﹂が彼女の夫のものとすれば、末二句は夫婦の営み を 描 寓 し て で い 奉 る げ と た 解 佐 稗 藤 で 大 き 志 る

掲 能 書 に が は 既 こ に の 論 要 じ 素

て も

し冶 '正

るい

よ つ 羅 敷 古 菌宇 の構成要素の第て二、六貼やその他の何鮎かの表現や設定において は、確かに沈約と議綱の模擬作品は古鮮に沿って作られたものと考えてよいであろ

h

r

補足すれば、古齢の中で最も注目された第五駄が沈約のこ 注 ( l ) の模擬作品にもなく、末二句で夫婦の営みを開接的に描き、作品全健としては、意綱の作と同様に夫婦の幸福を描く作品に幾化していると総括で き 己 ヲ h v。 しかし、粛綱と沈約の模擬作品の聞には夫婦の幸福の描き方において大きな相違貼が存する。それは夫の腸宅以降の部分の有無である。沈約の 模擬作品では末句で唐突に夫婦の営みが開接的に摘官局されるものの、夫の隠宅は直接描かれないため、作者の主眼は作品の大牢を占める主人公と 戸 お v その夫の容姿の描菊にあると認めざるを得ない。この特徴ならば古僻や張率の模擬作品からも見出すことができ、これといって特筆すべきもので はない。その他、議綱誕生以前に生まれた詩人による﹁羅敷古僻﹂とその関連作品の模擬作品として、貌の武帝、文帯、曹植、耳目の侍玄と陸機、

(9)

も夫の婦宅のモチーフを見出すことができる。しかし、﹁相逢行﹂ では夫の蹄宅が家族の幸一踊を象徴するのに封して、この﹁艶歌行﹂ では主人公 南朝宋の謝護運と飽照、梁の張率(四七五!五二七)、英均(四六九!五二

O

)

、王錆(四八一

l

五四九)、粛子範(四八六

l

五四九)、粛子穎 いずれの作品にも夫の競宅は描かれていない。以上のように、﹁羅敷古齢﹂の歴代の模擬作品を通じて、 ( 四 八 七 │ 五 三 五 ) の も の が 奉 げ ら れ る が 、 夫の婦宅というモチーフは粛綱より上の世代の詩人の作品から見出すことはできない。 ︿第三章﹀もう一つの﹁魅歌行﹂│粛綱の﹁艶歌曲﹂ ところで、夫の蹄宅のモチーフは梁代後期の前掲以外の作品にも見られる。梁府作品では、粛綱の﹁盤歌曲﹂(﹃玉蔓新一詠築注﹄巻七)、﹁紫騒 馬 ﹂ ( 同 上 ) 、 ﹁ 萄 園 弦 歌 十 韻 ﹂ ( 向 上 ) 、 ﹁ 雑 句 従 軍 行 ﹂ ( ﹃ 玉 牽 新 一 詠 築 注 ﹄ 巻 九 ) 、 楽 府 以 外 の 作 品 で は 、 粛 綱 と 劉 湿 の ﹁ 従 頓 ( 建 ) 濯 城 ﹂ ( ﹃ 玉 喜 一 新 ⋮ 一 一 詠 築 注 ﹄ 巻 七 ・ 八 ・ 一

O

)

や劉孝威﹁都懸遇見人織率爾寄婦﹂(﹃玉蓋新一読築注﹄巻八)などにそれが見られる。劉遁も劉孝威も粛綱の文曲学集圏の メ ン バ ー で あ る 。 一方、同時期の他の文筆集闘のメンバーの作では、﹁相逢行﹂古僻系模擬作品以外に夫の蹄宅というモチーフが描かれることは 極めて稀であるロ右に奉げた作品の制作年代を考察する材料は乏しいので、どの作品がどの作品に影響を輿えたのかを明舌一目することは難しい。し かし、少なくともこのモチーフが篇綱らの文拳集圏に特に好まれたものの一つであると考えてよいであろう。 右の作品の中で注目されるのは、粛綱の﹁艶歌曲﹂ である。この作品は﹃梁府詩集﹄巻三九にも﹁艶歌行﹂其二と題して牧録されているが、同 書は其一として前掲の請綱﹁盤歌篇﹂を牧録している。しかも、蒲綱のこのこ作品の古僻として﹃梁府詩集﹄は漢梁府﹁艶歌行﹂を皐げている。 この古僻は﹃玉蓋新一詠筆注﹄巻一にも問題で牧録されている。そこでまずは古僻の全文を見てみよう。 ﹁嗣劇堂前燕、多蔵夏来見。兄弟爾三人、流蕩在他勝。故衣誰醤補、新衣誰骨閏綻。頼得賢主人、買取矯吾綻。夫靖従門来、斜柄西北阿。語卿 且 勿 阿 、 水 清 石 自 見 。 石 見 何 景 品 晶 、 遠 行 不 如 鴎 ( 印 刷 劇 た る 堂 前 の 燕 、 h L 7 に戴れ夏に来り見る。兄弟爾三人あり、流蕩して他豚に在り。故衣誰 さ い わ か骨聞に補うべき、新衣誰か嘗に綻すべき。頼いに賢主人を得て、質取して五口が矯めに綻す。夫培は門より来り、斜柄西北に阿る。卿に語ぐ旦 あ ら わ く 阿 る こ と 勿 か れ 、 水 清 け れ ば 石 自 ら 見 れ ん 。 石 見 る る こ と 何 ぞ 累 累 た る 、 遠 行 は 跨 る に 如 か ず ) ﹂ ( ﹃ 玉 蓋 新 一 一 詠 築 注 ﹄ 一三四頁、谷一) 故郷を離れて流浪する男主人公がある﹁賢主人﹂ の家に厄介になり、彼女に衣服を繕ってもらうが、婦宅した彼女の﹁夫靖﹂に疑いの眼で見られ、 弁解する。末尾は﹁遠行は踊るに如かず﹂という、主人公のような流浪する人物に跨宅を勤めることばで作品が締めくくられる。この漠梁府から

(10)

四 に危機的状況をもたらし、雨作品中における夫の腸宅の役割は大きく異なる。 次に粛綱の﹁盤歌曲﹂を見てみよう。 ﹁雲楯桂成戸、飛棟杏矯梁。斜箇遁薬気、細隙引塵光。裁衣貌后尺、汲水准南林。青漉暮嘗返、預使羅-裾香(雲楯は桂を戸と成し、飛棟は杏 を梁と矯す。斜薗は薬気を通じ、細隙は塵光を引く。衣を裁す貌后の尺、水を汲む准南の淋。青麗暮れに嘗に返るべし、預め羅裾をして香し { 鎚 V か ら し め ん ) ﹂ この作品は前牢四句で女主人公の住む屋敷を描潟し、第五・六句では典故を織り交ぜながら、裁縫や井戸の水汲みという家事に勤しむ主人公の姿 を描く。そして第七句では主人公の夫が﹁青漉﹂に乗って夕暮れに跨宅するであろうことが述べられ、末句では夫を迎えるために主人公が予め衣 服に香を焚きこむことを描寓して作品が締めくくられる。 注目されるのは、第七句の夫の錆宅の場面に見える﹁青環﹂という語である。この語の彼以前の先行例も多くはないが、最初期の例として﹁招 魂﹂の鋭箭の中の夜の狩磁の場面、﹁青癒結駆今斉千乗(青膿胸を結び千乗を費くす)﹂が奉げられる。王逸は﹁純黒局襲。結、達也ロ四馬矯細。 調 問 、 同 也 0 4 一 一 一 同 屈 原 嘗 輿 君 倶 磁 於 此 ( 純 里 山 を 臓 と 局 す 。 結 は 、 連 な り 。 四 馬 を 細 と 矯 す 。 費 、 同 な り 。 舌 一 ロ う こ こ ろ は 屈 原 嘗 て 君 と 倶 に 此 に 猶 す ) ﹂ と注する(﹃楚齢補注﹄一二三│四頁)。これによれば﹁青騒﹂とは黒い馬ということになるが、﹁白馬﹂やその他の名馬ではなく、殊更に﹁招魂﹂ に由来する﹁車円騒﹂としている貼から、何らかの意園が込められていると考えられよう。 の狩猶はただの狩畿ではなく、﹁現世の快楽を誇示する招魂儀穫の結果、この世を離れてさまよって いた魂が狩の姿をとって戻って﹂くる﹁ことを夢想する﹂ものであるとい

h

r

谷口氏も紹介しているように﹁招魂﹂の蹴僻の狩猟の場面の意味に 谷口洋氏によれば、右に引用した﹁招魂﹂ つ い て は 数 種 の 設 が あ る 。 し か し 、 いずれにせよ、被招者の蹄還に到する﹁招魂﹂ の作者の強い思いが込められていることは間違い無いであろう。 古来、名馬を指す語に事紋かないのに、﹁招魂﹂ の狩猟の場面に登場した﹁青擁﹂という語を粛綱が敢えてここで用いたのは、前掲の張正見﹁盤 歌行﹂や粛綱﹁盤歌篇﹂同様に、﹁蹄宅﹂﹁蹄還﹂というモチーフを強調するためであろうと考えられる。 また、﹁盤歌曲﹂末尾では﹁預使羅裾香﹂、騎宅する夫のためにスカートに香をたきこめるという。夫の鶴宅を描き、彼を饗慮するのに芳香を用 いる貼も張正見の作品と共通している。 以上のように、この﹁艶歌曲﹂にも夫の錫宅は見られるが、士口鮮とは異なり、﹁招魂﹂などに見られる特徴的な要素を用いて夫婦の幸福を象徴 するものに饗更されている。なお、﹃梁府詩集﹄巻三九は古僻﹁艶歌行﹂と蒲綱の摸擬作品との聞に督・傍玄と南朝宋・劉義恭の模擬作品を牧録

(11)

五 しているが、両者に夫の婦宅というモチーフは見られない。 前掲の粛綱の ﹁ 艶 歌 篇 ﹂ は﹁羅敷古鮮﹂と共、通貼が少なくないが、肝心のテ!?が愛更され、男女の騒け引きをテ

17

とする作品から、夫婦の 幸福を言蹴ぐ作品に饗化した。また、この ﹁ 艶 歌 曲 ﹂ で も ﹁ 夫 靖 ﹂ から嫌疑をかけられるという古欝﹁盤歌行﹂ の最も特徴的な要素は見られず、 古癖を換骨奪胎して夫の蹄宅というモチーフの意味を愛更し、夫婦の幸福をテ

17

とする作品となった。見方を整えれば、﹁監歌曲﹂と﹁盤歌篇﹂ は夫の婦宅を共通項として近づいている。更に、夫の錫宅というモチーフを用いて夫婦の幸福をテ

17

としている貼に加え、祭記の降紳儀誼や ﹁招魂﹂に見られた特徴的要素を用いている貼においても、この二作品は家族の幸福をテ

l

マ と す る ﹁相逢行﹂古爺系模擬作品に接近しており、 改めて粛綱の作と張正見の作との共通鮎が確認されるのである。 以上の考察により、張正見が﹁羅敷古癖﹂ の模擬作品である﹁盤歌行﹂を作るに営たり、古齢の最も特徴的な第五の要素を採らずに夫の鶴宅と いうモチーフを新たに揺入したのは、彼が青年期に所属していた粛綱の文挙集固からの影響に因るものと見て、大過はないであろう。 ︿ 第 四 章 ﹀ ﹁ 羅 敷 古 僻 ﹂ 模 擬 作 品 の 歯 車 容 の 背 景 これまで見てきたように、粛織は﹁羅敷古僻﹂や古僻﹁監歌行﹂ の テ

l

マを繁更してまで夫の婦宅を描き、夫婦の幸福をテ

l

マとする模擬作品 を 制 作 し て い た 。 古来、夫の不在を嘆く婦人を主人公とした所謂﹁閏怨﹂ の作品は作られ績けてきた。夫の鶴宅というモチーフはその裏返しであると見なすこと ができるが、これはただの思いつきゃ小手先の嬰更ではない。先秦漠貌晋南北朝の詩歌ではそもそも一度外出をした者が腸宅するということ自鰻 が、大きな幸福の象徴であった。﹃文選﹄ では漢の蘇武の作品とされる ﹁ 詩 ﹂ 其 一 一 一 ( 結 髪 矯 夫 妻 ) は相思相愛の夫婦の離別をテ

l

マとするが、そ の末句では﹁生省復来婦、死骨閏長相思(生きては嘗に復た来り競るべく、死しては嘗に長く相思うぺし)﹂(﹃文選﹄四二ニ頁、巻二九)と一詠う。 ︹ m w v ここでは夫の生存という最大の幸福を競宅という行局が端的に象徴している。問題は、なぜ梁代に夫婦の幸一帽をテ

l

マとする作品が急増したのか と い う こ と で あ る 。 注 ( 9 ) の別稿終章で詳しく論じたように、梁の武一帝はそれまでの南朝の殺裁の歴史に終止符を打とうとして梁朝創建嘗初に融和政策を採用し、 文曲学方面では儒教経典で園家繁築の基礎とされた夫婦、兄弟、父子の三つの関係を核とする家族の幸福を言祝ぐ作品を多数制作した。その代表作

(12)

ム ノ、 品群の一つが﹁相逢行﹂古齢系模擬作品であった。﹁相逢行﹂ の古僻系模擬作品には右の三組の家族関係全てが登場したが、主に﹁三婦﹂ の 夫 で ある﹁三子﹂と、﹁三婦﹂が由男を饗臆する貼に焦鮎が嘗てられる傾向があった。具健的に言えば、夫の競宅は描かれていたものの、夫婦の直接の やり取りを全ての模擬作品が描いていたというわけではなく、小婦が饗臆する相手が﹁丈人﹂、 つまり男である割合が高い。具種的な数字を奉げ れ ば 、 ﹁ 相 逢 行 ﹂ と ﹁ 長 安 有 狭 斜 行 ﹂ の梁代までの士口僻系模擬作品の中で右の三者が見られるのは篇綱の模擬作品を含めて十一首あるが、それら の中で末尾において小婦が饗臆する相手が実を表す﹁丈人﹂となっているのは七首、夫を表す﹁住人﹂﹁夫君﹂ であるのはこ首であった。意綱の 模擬作品は﹁丈人且安坐(丈人且く安坐せよ)﹂(﹃柴府詩集﹄五一六頁、巻三五)といい、前者のグループに属する。 その一方で彼は夫の腸宅というモチーフを﹁羅敷古欝﹂に追加し、古館﹁盤歌行﹂ の夫の腸宅のモチーフの役割を餐え、それらの模擬作品を夫 婦 の 幸 一 帽 を テ

l

マとする作品に愛更した。これらのように夫婦の幸福を描いた粛綱らの作品は、結果的に﹁相逢行﹂模擬作品と相補う関係となっ ているのである。前述のごとく、粛織の﹁盤歌篇﹂に﹁相逢行﹂との共通貼が見られることから、﹁羅敷古齢﹂と﹁相逢行﹂それぞれの模擬作品 の テ

l

マの方向性を接近させながらも作り分けようとする意圃を見いだすことができよう。 張 正 見 も ﹁ 長 安 有 狭 斜 行 ﹂ の模擬作品を残しているが、古鮮や古僻系模擬作品とは異なり、豪侠﹁少年﹂を主人公とする作品に饗えている。そ れに射して、﹁羅敷古僻﹂模擬作品では夫の婦宅の場面に﹁相逢行﹂とその古齢系模擬作品に由来する表現を用いることによって、夫の鋳宅とい う粛綱の文事集圏で好まれたモチーフを繕承し、粛綱の梁府制作の時鮎でテ

l

マの方向性を同じくしていた﹁羅敷古欝﹂模擬作品と﹁相逢行﹂古 融附系模擬作品をよりいっそう融合させた。これらのことから、張正見の﹁羅敷古齢﹂模擬作品の制作時期は粛綱在世時か、あるいは陳後主が文撃 活動を本格化させる太建年開以前で、議綱の文血甲子集圏の文撃の影響が強い時期からそれほど離れていない頃に制作されたと考えるのが穏嘗であろ

予 つ 。

︿終章﹀南北朝後期の二大築府の融合 これまで論じてきたように、﹁相逢行﹂と﹁羅敷古僻﹂ の二大築府の模擬作品は南北朝時代に最も多く制作されたが、南北朝後期に至って家族 の幸福を描くという方向を同じくし、そしてついには融合したのであった。また、古辞﹁艶歌行﹂も夫の婦宅というモチーフを持つが、粛綱の模 擬作品ではその役割が饗更されているのも右の二大築府の繁化の流れの中に位置づけることができる。このように、﹁羅敷古僻﹂ の研究では特に

(13)

七 作中の表現やモチーフそのものに目を向け、他の築府や別のジャンルの作品をも視野に入れなければならない。 本稿では﹁羅敷古都﹂ の模擬作品が梁代に夫婦の幸福をテ

17

とする作品に愛化したことを指摘したが、陳代の他の詩人の模擬作品と粛綱・張 正見らのものとの差異の問題も考えなければならない。今後の課題としたい。 法 ( 1 ) 佐藤大志氏﹃六朝柴府文拳史研究﹄(渓水枇、二00=己所牧の﹁梁府題愛濯考

l

梁府題﹁阪上桑﹂を中心として

i

﹂は、羅敷が登場する数種類の梁府題 の婆濯を論じているが、羅敷が登場する漠梁府、﹁羅敷艶歌羅敷行﹂(﹃宋書﹄巻一二﹁梁志﹂三)、﹁日出東南隅行﹂(﹃玉蓋新諒﹄巻二、﹁陪上桑﹂(﹃梁 府詩集﹄巻二八)を﹁羅敷士臼齢﹂と呼んでいる。本稿もそれに従う。なお、本稿では、﹃端末府詩集﹄のテキストは基本的に一九九八年中華書局標勲本によ る 。 ( 2 ) ﹃梁府詩集﹄巻=一六に牧録されている﹁秋胡行﹂の中で本稿が桑摘みの女性を描いた作品に含めるのは晋の侍玄、南朝宋の顔延之、南朝費の王融の模擬作 口 問 で あ る 。 ( 3 ) 巻二八の﹁陪上桑﹂﹁採桑﹂﹁艶歌行﹂﹁羅敷行﹂﹁日出東南隅行﹂﹁日出行﹂の陪代までの作品および巻=一九の南朝梁・粛綱﹁盤歌行二首﹂の其一(﹃玉蔓新 2 詠築注﹄巻七では﹁盤歌篇十八頭﹂)と南朝陳・顧野主の﹁盤歌行三首﹂の其一一および三園貌・曹植の﹁美女篇﹂を併せた数。各梁府題の惰代までの作者 は以下の遁り。﹁陪上桑﹂古僻、﹃楚僻紗﹄、(三園貌)武一帝、文帝、(南朝梁)呉均、王蓋卿、王錯、亡名氏。﹁採桑﹂

l(

南 朝 宋 ) 飽 田 川 、 ( 梁 ) 筏 文 一 一 帝 、 桃翻、呉均、劉遡、沈君依、(南朝陳)後主、張正見、賀徹、侍絡。﹁艶歌行﹂(耳目)侍玄、(南朝陳)張正見。﹁羅敷行﹂│(南朝梁)篇子範、(南朝陳) 顧 野 玉 、 ( 後 貌 ) 高 允 。 ﹁ 日 出 東 南 隅 行 ﹂ [ ( 青 ) 陸 機 、 ( 南 朝 宋 ) 謝 霊 運 、 ( 南 朝 梁 ) 沈 約 、 張 率 、 粛 子 額 、 ( 由 岡 山 朝 陳 ) 後 主 、 徐 伯 陽 、 股 謀 、 ( 北 周 ) 王 褒 、 ( 惰 ) 塵 思 道 。 ﹁ 日 出 行 ﹂

l

(

北 周 ) 斎 橋 。 ﹁ 盤 歌 行 ( ﹃ 梁 府 詩 集 ﹄ 巻 = 一 九 ) ﹂ │ ( 南 朝 梁 ) 衛 文 一 帝 、 ( 南 朝 陳 ) 顧 野 王 ( 三 首 の う ち 一 首 ) 。 ﹁ 美 女 篇 ﹂ ( 一 一 一 園 競)嘗植。なお、技 ( 4 ) で見るように、呉均の作品の一部と、銚翻、劉遡の作品は元々梁府として制作されたのではない可能性がある。 ( 4 ) 明 越 均 復 宋 本 系 統 本 ( こ こ で は ﹃ 明 小 宛 堂 覆 宋 本 玉 置 室 新 一 一 詠 ﹄ ( 人 民 文 事 出 版 社 、 二 O 一 O ) を代表とした)牧録作品は以下の遁り。無名氏﹁日出東南隅行﹂ ( 巻 二 、 E 日・陸機﹁盤歌行﹂︿巻三)、南朝宋・飽照﹁採桑﹂(巻四)、梁・呉均﹁和斎洗馬子顛古意六首﹂其一と﹁陪上桑﹂、梁・銚翻﹁同郭侍鄭采桑﹂(以 上巻六)、梁-粛綱﹁盤歌篇十八韻﹂(巻七)、梁・篇子顛﹁日出東南隅行﹂、梁・劉遜﹁高山見采桑人﹂(以上巻八 )o な お 、 本 稿 で は ﹃ 玉 肇 新 一 詠 ﹄ の テ キ ス トは基本的に﹃玉妻新諒築注﹄(中華書局、一九九九)による。 ( 5 ) この六貼は藤野岩友氏﹁梁府﹁陪上桑﹂の源委﹂(﹃大東文化大撃漢撃舎誌﹄一回、一九七五)と注 ( 1 ) で奉げた佐藤大志氏著書による。 ( 6 ) 前掲の史書と森野繁夫氏の﹃六朝詩の研究﹄(第一同学習祉、一九七六)一五八頁、第三章・第四節・第一項参照。 ︿7 ) 貌膏南北朝期の詩歌における豪侠﹁少年﹂については小西昇氏の﹁漢代梁府詩と遊侠の世界南朝文事放蕩論の護生│﹂(﹃日本中園事舎報﹄ 一 五 、 一 九 六 三 ) 多 照 。

(14)

八 (8)この語は後掲の侍玄の﹁歴九秋篇董逃行﹂に見えるほか、彼よりやや少し後の菅・潜岳﹁哀永逝文﹂の﹁委蘭房今繁華﹂という句にも妻の居室として登場 する。(﹃文選﹄(中華書局、一九八一)七九五頁、巻五七。以後、﹃文選﹄のテキストは基本的にこれによる。) (9)拙稿﹃梁代﹁艶詩﹂の再検討﹄(コンテンツワ l ケ ス 、 二 O 一 O ) 参 照 。 (印)一例を翠げる。後漠・張衡﹁西京賦﹂﹁妖量盤夫夏姫、美聾暢於虞氏。始徐準而蔵形、似不任乎羅締(妖轟は夫の夏姫より艶にして、美聾は虞氏より暢ぶ。 始めは徐ろに進みて扇形は羅績に任えざるに似たり)﹂(﹃文選﹄四九頁、巻三) (日)詳細は佐藤保氏の﹃漢詩のイメージ﹄(大修館書応、一九九一己第三部・第一章・第一項﹁おしどり﹂参照。 ( ロ ) ﹃ 楚 齢 補 注 ﹄ ( 中 華 書 局 、 二 0 0 0 ) 三 O 六頁。﹁招魂﹂が誰の霊魂を招くのかという問題に劃しては幾つかの設があるが、ここではこの問題に深く立ち入 らない。以後、﹃楚齢﹄のテキストは基本的にこれによる。寺井泰明氏が﹃花と木の漢字撃﹄(大修館害賠、三 O O O ) で﹃爾雅﹄を引用して論じているよ うに、﹁蓮﹂は狭義ではハスの花托を指すが、張正見のこの作品ではハス全韓を指すと解岬押して大過はないであろう。 (日)市川桃子氏は、﹃中国古典詩における植物描潟の研究﹄(汲古書院、三 OO 七)十一頁、第一部・第一章で前掲の﹁招魂﹂の句は﹁吉瑞の景﹂として述べら れたもの﹂のであると論じている。この他、南朝梁府・無名氏﹁讃曲歌﹂其四に﹁千葉紅芙蓉、照灼緑水準。品開花任郎摘、慎莫罷健蓮(千葉に紅芙蓉あり、 照灼たり線水の漫。徐花郎の摘むに任せん、慎みて健が蓮を軍く莫かれ)﹂(﹃幾府詩集﹄六七一頁、巻四六)とあり、﹁千葉﹂という表現が見える。末句の ﹁ 蓮 ﹂ は ﹁ 憐 ﹂ と 通 じ る が ( 王 逗 照 氏 の ﹁ 論 呉 聾 西 曲 輿 譜 一 孟 一 回 隻 閥 語 ﹂ ( ﹃ 築 府 詩 述 論 ﹄ 、 上 海 古 籍 出 版 社 、 一 九 九 六 所 牧 ) 参 照 ) 、 こ の 作 品 で は 冒 頭 の 句 の 表 現と響き合っていると解稗できる。これに基づくならば、張正見の﹁蓮﹂は夫の蹄宅を迎える景物であると同時に、夫への情愛をも表現していると考える こ と が で き よ う 。 ( 凶 ) ﹃ 太 卒 御 覧 ﹄ ( 中 華 書 局 、 一 九 九 八 ) 一 一 一 一 一 一 一 九 頁 、 巻 七 O 三 。 (日)元来、芳香という要素も迎紳などの祭記には侠かせない要素であったことは付言しておく o 士 山 村 良 治 氏 の ﹁ ﹃ 昨 ﹄ 祭 と 古 歌 謡 ﹂ ( ﹃ 神 観 念 の 比 較 文 化 論 的 研 究﹄(講談社、一九八二および狩野雄氏の﹁香りを含む女たち(上)﹂(﹃東北大曲学中園語華文撃論集﹄一一、三 OO 六 ) 参 照 。 (日)佐藤大志氏前掲書第三章・第四節および第八節参照。 ( げ ) ﹃ 陳 書 ﹄ 巻 二 七 ﹁ 挑 察 惇 ﹂ ・ 巻 三 O ﹁ 顧 野 主 博 ﹂ お よ び 森 野 氏 前 掲 書 一 六 回 頁 多 照 。 (国)陳後主﹁日出東南隅行﹂﹁重輪上瑞輝、西北照南威。南威年二八、開腐倣重閣。嘗櫨迭客去、上苑逐春弱。賓下珠勝月、箇前雲帯衣。紅福結未解、線締自 ひ ら 難徽(重輪瑞障を上げ、西北に南威を照らす。南威は年三八、腐を開き重閣を倣く。櫨に嘗たり客の去るを送り、苑に上旬春の婦るを逐う。震下の珠は月 に勝り、薗前の雲は衣に帯ぶ。紅詔結びて未だ解かず、緑締自ら徽ぎ難し)﹂(﹃梁府詩集﹄四一一一頁、巻二八。﹁緑締自難徽﹂は原書では﹁緑締白難徽﹂と なっているが、明-張樽﹃漠貌六朝百三名家集﹄に擦って改めたとする中華書局標貼本の校勘に従った。)この作品には古齢の第一、二の要素しか見られ な し ( 四 ) 明 嘉 靖 鄭 玄 撫 刊 本 系 統 の 版 本 ﹃ 玉 蓋 新 一 詠 嚢 校 ﹄ ( 上 海 古 籍 出 版 社 、 二 O 一一)四一七頁、巻五では﹁有女篇﹂となっている。なお、この﹁踏歌篇﹂と後掲 の粛綱﹁艶歌曲﹂の本文で詳説しなかった部分の誇注に関しては、石川忠久氏﹃玉肇新一詠﹄(撃習研究社、一九八六)参照。 ( 初 ) ﹃ 玉 牽 新 一 詠 築 注 ﹄ 三 七 五 頁 、 巻 七 。 原 文 で は ﹁ 舟 再 選 房 様 ﹂ が ﹁ 由 汁 由 什 濯 房 能 ﹂ と 、 ﹁ 拳 拳 侍 君 寵 ﹂ が ﹁ 拳 拳 特 君 寵 ﹂ と な っ て い る が 、 ﹃ 梁 府 詩 集 ﹄ 五 八 二 良 に従って改めた。また、﹃幾府詩集﹄では﹁街瑛挟纏媛﹂が﹁街漬映纏駿﹂と、﹁鐙生陽燐火﹂が﹁燈生陽燈火﹂と、﹁寡疎井上桐﹂が﹁寒疏井上桐﹂とな っ て い る 。

(15)

九 (幻)第三十四句﹁甘瓜蔓井東﹂の典故として呉注は貌明帝曹叡﹁柴府詩﹂其二を翠げる。﹁種瓜東井上、舟舟自険垣。輿君新民婚、瓜葛相結漣。寄託不宵躯、 有如僑太山。菟総無根株、蔓延白登縁。捧藻託清流、常恐身不全。被蒙邸山悪、賎妾執拳拳。天日照知之、想君亦倶然(瓜を種う東井の上、再舟として自 ら垣を険ゅ。君と新たに婚を矯すこと、瓜葛の棺結濯するがごとし。寄託す不向円の躯、太山に侍るが如くなる有り。菟絡に根株無し、蔓延して自ら登縁す。 搾藻は清流に託す、常に身の全からざるを恐る。邸山の恵を被蒙し、賎妾執ること拳拳たり。天日照らして之を知る、君も亦た倶に然らんことを想う)﹂ (﹃玉蓋新一一詠築註﹄六九頁、巻二)。この作品の冒頭句に﹁瓜﹂と﹁井東﹂が、第十二句に後述の﹁拳拳﹂が見え、それらが競綱の﹁盤歌篇﹂にも用いられ ていることから、粛綱のこの作品に登場する男女は夫婦であると考えてよいであろう。 ( 忽 ) ﹃ 説 文 解 字 注 ﹄ ( 上 海 古 籍 出 版 社 、 一 九 九 八 ) 一 一 七 O 頁 。 ( 幻 ) 雷 ・ 張 華 ﹁ 雑 詩 ﹂ 其 二 は 夫 婦 の 居 室 に お け る 夫 の 不 在 を ﹁ 房 様 白 来 風 、 戸 庭 無 行 跡 ( 房 様 自 ら 風 来 る 、 戸 庭 に 行 跡 無 し ) ﹂ と 一 詠 う ( ﹃ 玉 牽 新 一 詠 筆 法 ﹄ 八 二 頁 、 巻 一 二 。 ( 但 ) 清 ・ 孫 訟 譲 ﹃ 周 纏 正 義 ﹄ ( 中 華 書 局 、 二 OO 八)二九 O 九頁、巻七 0 ・秋官﹁可短氏﹂﹁司短氏掌以夫途取明火於目、以竪取明水於丹、以共祭紀之明憲、明 燭、共明水(司短氏は掌るに夫迭を以て明火を日より取り、竪を以て明水を月より取り、以て祭犯の明藩、明燭に共し、明水に共す)﹂鄭注﹁夫途、陽途 也(夫迭、陽遂なり)﹂﹁取日之火、月之水、欲得陰陽之繋気也。明燭以照僕陳、明水以矯玄酒。鄭司農(衆)云、夫、設聾。明棄、謂以明水精機棄盛黍稜 (日の火、月の水を取る、陰陽の繋気を得んと欲す。明燭は以て僕陳を照らし、明水は以て玄酒と矯す。鄭司農(衆)云う、夫、設聾なり。明奈、明水を 以て奈盛黍稜を精機するを謂う)﹂詩語としては、菅・楊方の﹁合歓詩﹂其二に﹁陽健下炎煙(陽継は炎煙を下すご(﹃玉蔓新一詠築注﹄一一一頁、巻=一)と 一一詠われているのが漢貌六朝時代の現存詩歌の中では他の唯一の例であり、右の﹃周鵡﹄の本文と法穫を典故とする最一初期の先行例であると位置づけること が で き よ う 。 ( お ) ﹁ 古 詩 矯 焦 仲 卿 妻 作 ﹂ の 二 度 目 の 婚 誼 の 場 面 ﹁ 隣 踊 青 駿 馬 、 流 蘇 金 鎮 鞍 ( 廊 踊 す 青 聴 の 馬 、 流 蘇 金 銭 の 鞍 ) ﹂ ( ﹃ 玉 牽 新 一 一 詠 築 注 ﹄ 五 O 頁、巻二に見られ、臭 兆宜注は左思﹃臭都賦﹄﹁張組雌、構流蘇﹂の句に謝する呂向註﹁流蘇、五色弱飾椴而垂之(流蘇、五色の視の惟を飾りて之を垂るどを引用する(﹃文選﹄ 九 二 頁 、 巻 五 ) 。 ( m m ) 左思﹁呉都賦﹂で臭の市場で交易されている珍口聞を列奉した一段に﹁桃笠象筆、話於筒中﹂とあり、劉淵林注﹁桃笠、桃枝筆也。臭人謂筆矯笠、叉象牙以 矯筆(桃笠、桃枝の筆なり。臭人筆を謂いて笠と矯し、叉た象牙を以て箪と属す)﹂(﹃文選﹄八九頁、巻五)と解説する。 (幻)この語は前掲の曹叡の作品に見られたが、﹃誼記﹄﹁中庸篇﹂の﹁子日、問之矯人也、揮乎中庸、得一善、則拳拳服庸而弗失之失(子日く、同の人と矯りや、 中庸を揮、び、一善を得れば、則わち拳拳と服庸して之を失わずと)﹂に由来する語で、﹁恭しく奉持する﹂様子を表すという(十三経注疏本﹃躍記正義﹄ ( 上 海 古 籍 出 版 社 、 一 九 九 七 ) 一 六 二 六 頁 、 巻 五 二 。 鄭 玄 注 ﹁ 拳 拳 、 奉 持 之 貌 。 ﹂ ) 。 (お)鈴木虎雄氏はご年のくれと一身の晩暮とかけてある﹂と解轄するロ﹃玉肇新諒集中巻﹄(岩波文庫、一九七五)=一五七頁。 ( 却 ) 呉 注 ﹁ ﹃ 提 要 録 ﹄ 、 鯉 魚 風 、 九 月 風 也 ( ﹃ 提 要 録 ﹄ に 、 鯉 魚 の 風 、 九 月 の 風 な り と ど 。

( ω )

﹃義文類緊﹄(土海古籍出版社、一九九九)七五五頁、巻四三。以後、﹃義文類爽﹄のテキストは基本的にこれによる。 (出)﹃義文類表﹄七五三頁、巻四二。﹃梁府詩集﹄五八三頁、巻三九では﹁燈燈京洛行﹂と題され、﹁惟此南京盛﹂が﹁誰知雨京盛﹂となっている。本稿ではよ り古いテキストである﹃義文類衆﹄を採用した。 ( 幻 ) ﹃ 梁 府 詩 集 ﹄ 四 二 O 頁、巻二八。﹃塾文類衆﹄七四三頁、雀四一は﹁延躯似繊約、遺視若同調。議女映層続、金服熔彫繁﹂が無い。

(16)

0

( m M ) 後漢・張衡﹁同聾歌﹂に﹁思矯苑務席、在下蔽匡林(思う苑蕩の席と矯り、下に在りては匡淋を蔽うを)﹂(﹃玉牽新一諒築注﹄三八頁、倉一)とあり、新婚 の夫を慕う表現として、下にあっては寝肇を覆う蒲の敷物となりたい、と一吉う。このように﹁匡﹂は夫婦にも関連する調度品の一つとして認識されていた。 (但)佐藤大志氏前掲書八二頁。氏は議綱の﹁盤歌篇﹂と張正見の﹁監歌行﹂が﹁沈約の﹁日出東南隅行﹂の模擬から生まれた﹁羅敷古僻﹂の設展型と見ること が で き る ﹂ と す る 。 {お)松家裕子氏は、古辞の羅敷と彼女の夫の描鶏が、民聞の婚躍の場における花嫁春めと花婿春めの祝辞に由来するのではないか、という説を提出している。 松家氏の﹁陪上桑をめぐって﹂(﹃中園文撃報﹄一一一九、一九八八)参照。主人公と男性の容姿の描寓が作品の主眼である沈約や張率の模擬作品は主に古癖の この黙を擁大設展させたものであると位置づけることができよう。 (お)﹃也市府詩集﹄巻二八参照。紙幅の関係上、全作品を引用できないが、この貼は指摘しておく。飽黙の﹁採桑﹂は男女の出曾いと幸福な結婚を描くが、やは り夫の腸宅は見られない。議子顕の模擬作品が古僻の全ての要素を踏襲していることについては佐藤大志氏前掲書七七│八頁参照。 (幻)森野氏前掲書第二章・第三節・第三項参照。 (お)﹃玉牽新諒築注﹄二九四頁、巻七。﹃義文類衆﹄七五七頁、巻四三でも﹁踏歌行﹂と題されており、﹁青蝿暮嘗返﹂が﹁青躍暮以及﹂となっている。いずれ にせよ、男性が主人公のもとに来ることには饗わりは無い。 (羽)﹁早期齢賦における狩狼│古代的象徴世界からの逃走﹂(﹃輿膳宏教授退官記念中園文撃論集﹄、汲古書院、二 000 所 枚 。 ) 参 照 。 ( 伺 ) 拙 稿 ﹁ 都 へ の 鶴 選

l

曹 植 ﹁ 名 都 篇 ﹂ 再 考 ﹂ ( ﹃ 一 一 一 園 士 山 研 究 ﹄ 七 、 三 O 一 二 ) 参 照 。 (但)﹁少年重遊侠、長安有狭斜。路窄時容馬、枝高易度車。鐘高同落照、巷小共飛花。相溝爽縛穀、借問是誰家(少年は遊侠を重んじ、長安に狭斜有り。路は 窄く時に馬を容る、枝は吉岡く車は度り易し。篇は高く落照を同じくし、巷は小さく飛花を共にす。相溝に繍毅を爽みて、借問す是れ誰が家ぞと)﹂(﹃梁府 詩 集 ﹄ 五 一 七 頁 、 袋 三 五 ) 。 (位)初め粛綱の文筆集園に属し、梁滅亡後は北周に仕えた王褒の﹁日出東南隅行﹂後半部にも夫の蹄宅の要素が見られ、そこには﹁兄弟五日時来婦、高車寛道 生光輝。名僧雨行堂上起、鴛驚七十階前飛(兄弟五日時に来鶴し、高車寛道光輝生ず。名侶雨行堂上に起ち、鴛驚七十階前に飛ぶ)﹂という古僻﹁相逢行﹂ の嘗該部分に獄似した部分がある。この作品も別の機舎に論じたい。 ※本研究は、平成二十四年度科撃研究費補助金(若手研究 B ・ 二 二 七 二 O 一 四 一 二 ) の 助 成 を 受 け た も の で あ る 。

参照

関連したドキュメント

[r]

作品研究についてであるが、小林の死後の一時期、特に彼が文筆活動の主な拠点としていた雑誌『新

シートの入力方法について シート内の【入力例】に基づいて以下の項目について、入力してください。 ・住宅の名称 ・住宅の所在地

令和元年11月16日 区政モニター会議 北区

単に,南北を指す磁石くらいはあったのではないかと思

西山層支持の施設 1.耐震重要施設 2.重大事故等対処施設 1-1.原子炉建屋(主排気筒含む) 2-1.廃棄物処理建屋.

1-2.タービン建屋 2-2.3号炉原子炉建屋内緊急時対策所 1-3.コントロール建屋 2-3.格納容器圧力逃がし装置

 記録映像を確認したところ, 2/24夜間〜2/25早朝の作業において,複数回コネクタ部が⼿摺に