• 検索結果がありません。

アントニオ・ペレス研究のための覚書 -研究動向と史料について-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "アントニオ・ペレス研究のための覚書 -研究動向と史料について-"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

アントニオ・ペレス研究のための覚書

-研究動向と史料について-林     邦   夫 (1985年10月15日 受理)

A Note for the Study on Antonio Perez I Trends and Historical Materials

Kunio Hayashi 43 アントニオ・ペレス-,わが国では一般的には殆ど知られていないと思われるこの人物は一体 何者であるのか。取敢えず,わが国の人名辞典の項目を引用してみよう。 「ペレスPerez, Antonio 1539-1611. ll. 3.スペインの政治家。フェリペ二世の大臣(1567)。 ドン・フアン・デ・アウストリアの手先エスコべド(Juan de Escobedo)を暗殺した(1568),王 の愛人-ポリ公夫人の愛を得て王の信頼を失い,公金費消で投獄されたが,アラゴソのサラゴサ 裁判所に保護を求めた(90).その間回想録《Relaciones, 1588》を書き王を非難し,王は宗教裁 判により迫害したが 91 ,サラゴサの民衆は王に反抗して彼を釈放した.王の出兵にあい,ロ ンドン,パリに亡命,貧窮のうちにパリで穀.」1) 『ウェブスター人名辞典』2)からの引写しの多い,この極く短かい項目の中には次のような誤謬や 不正確な箇所が含まれている。 ①ペレスの生年は1539年ではなく, 1540年6月2日である3), ②エ スコべ-ドはドン・フアンの秘書であり,手先という表現(これは   を訳したものであろう) は誤解を与える, ③-ポリ(Eboli)公夫人は王の愛人ではなかったというのが今日の定説である, ④ペレスについても公夫人の愛人でなかったという見解が有力である, ⑤公金費消を理由としてペ レスが投獄された事実はない, ⑥《Relaciones, 1598》ほ,執筆時期の異なる幾つかの部分から成っ ており,全体がこの時期に書かれた訳ではない。ここでの記述に該当するのは,その中の『覚書』

{Memorial del hecho de su causa)であろう4).

以上の誤りを正して眺めても,ペレスは中々に波潤に富む生涯を送ったことが窺われる。ペレス が今まで多くの著述の対象となって来た一因が,かかる生涯そのものにあったことは否めまい。し かしペレス研究が重要なのは,それが単に一人の興味深い歴史上の人物の生涯を明らかにするから だけではなく,以下の如き諸問題と関連しているからである。即ちペレス問題は大雑把に言って, 第一にペレスが国務秘書として重要な役割を果たしたが故に,中央統治機構の問題と,第二に反王 権的気運の昂まりつつあったアラゴソにべレスが逃亡し,アラゴソの反乱が起ったが故に,国内政 治史の問題と,第三にペレスが異端審問の対象となったが故に,異端審問制の問題と,第四にペレ 鹿児島大学教育学部社会科(西洋史)

(2)

スは亡命者としてフランス,イギリスの宮廷と接触し,両国の対スペイン政策に間接的に関わりを もったが故に,国際政治史の問題と,第五にペレスが文人として著作(書簡を含めて)を残したが 故に,文学史の問題と,夫々結びついているのである。 本稿は,かかる問題関心からペレス研究のための予備的作業として従来の研究動向を纏め,また 史料状況について整理しようとする試みである。ペレス関係の研究文献・史料を遺漏なく入手・参 看することは固より困難であり,本稿もその意味で,今後の作業によって補足する必要のある当面 の中間的整理にすぎないことを予め断っておきたい。なお,本文中にフルタイトルで書名を掲げた 文献はすべて私が直接参看していないものである。 Ⅰ 最初にペレスに関する研究動向を整理していくが,まずスペイン近世の主な通史におけるペレス 関係の記述を,とくにそれが如何なる素材を用いているかに着目して見ていきたい Merrimanは, 第35 -38章5)において,エスコべ-ド暗殺からパリでの死去に至るまでのペレスの生涯を叙述して いるが,通史の割にはかなり詳しく,素材としては,原史料はCODOIN所収の諸史料を用い,他 の研究者の著書・論文も広くあたっているが,中でも全般的にはMignet (後出),アラゴソにおけ るペレスについては Pidal (Marques de Pidal, Historia de las alteraciones de Aragon en el reinado

de Felipe II, 3vols., Madrid, 1862-63)の利用が顔著である.目についた点を挙げると,ペレス 失脚の原因をポルトガルの併合と結びつけて把えていることである。即ち, -ポリ公夫人が娘を Braganza公(Avis朝断絶後のポルトガル王位継承権主張者Don Duarteの女婿)の子息に嫁せたい と望み,ペレスからフェリーペ2世の対ポルトガル政策の情報を得て,これをBraganza公に洩ら したことがペレスの失脚原因であるとする説を説得的だと評価し6),またポルトガルの併合という 大事業のためには現状維持志向の強い-ポリ派(ペレスが故干ポリ公より引継いだ宮廷内の派閥) との絶縁が必要となり,このためにペレスと手を切ってイタリアからGranvelaを呼び寄せたのだ, と考えているのである7)0 MenendezPidal編の『スペイン史』の第19巻(2分冊)はフェリーペ2世時代に充てられており, L. Fernandez de Retanaが執筆しているが,この浩翰な通史に相応しく,ペレスに関しても3章 (第2部第9 17 18章)に亘って詳細な記述が見られる8)。原史料はCODOINのみでなく裁判文 書も利用しており,また同時代の年代記作者L. Cabrera de Cordobaの年代記を丹念に引用してい ることも目を惹く.研究書ではMaraaonの大著-の依拠が大きいようである。エスコべ-ド瞭殺 に関してフェリーペ2世はペレスに晴着されて暗殺を承認したのであり,かかるフェリーペを共犯 者(complice)と呼ぶのは不適当で侮辱的であると述べるなど9),一般にフェリーペ2世擁護の姿 勢が濃厚に看取される。FernAndezは亡命時代のペレスには言及していないが,この点ではElliott,10) Lynchidも同断である。両者とも前二者に比して記述は遥かに簡略で,原史料も利用していない。

(3)

林:アントニオ・ペレス研究のための覚書 45 Lynchは脚註から明らかなようにMaraaonに全面的に依存しており, Elliottも巻末の文献案内か ら見てMaraaon,それにPidalに依拠していると見倣し得る。両者とも宮廷内の派閥対立(所謂ア ルバAlba派と-ポリ派)について触れ,ペレスをかかる派閥対立の中で把え直そうとする方向を 示唆しているのが特徴的である。最後にKamenの近著12)は,異端審問制に関する自著13)でのペレ ス関係の記述を簡略化して組込んでいる。 以上の概観から,古くはMignet,その後はMaraaonが依拠すべき標準的研究として利用されて 来たことが判るが,それでは次にこの二著を中心としてペレスを直接の対象とする研究について見 ていくことにしよう Mignetの著書『アントニオ・ペレスとフェリーペ2世』 (1845年114)は,原 史料に基づく恐らくは最初の本格的な研究であろう。利用された主な手稿文書は次の通りである15) ①パリの外務省(Minist占re des Affaires etrangとres)所蔵文書-カステイ-リャでペレスに対してな された裁判に関する文書の写本を含んでいる Mignetが Proceso, ms.と表記して利用しているこ の史料は,所謂Resumen (後出)の一つであり,これを目にしたことがMignetが該書を著わす契 機となったと言う16) ②--グ王立図書館(Koninkl埴e Bibliotheek, La Haya)所蔵文書-ベルギー の著名なアルシビスト・史家のL.P. Gachardが発見・紹介した文書で,大部分はサラゴサでの裁 判でペレスが弁明のために提出した書類の写本であるという。 79の文書を含むが,書簡が多く,そ の内訳を発信人別に示すと,ペレス37通,ドン・フアン10通,フェリーペ2世7通,エスコべ-ド

6通,チャベス(DiegodeChaves,フェリーペの聴罪司祭) 4通などとなっている。 ③パリの国立図 書館(Bibliothとque Nationale)所蔵文書-Llorenteコレクション(Collection Llorente)と呼ばれる スペイン異端審問制に関する全17巻から成る文書の内の6巻(15分冊)がペレス関係の史料を含む。 以上の根本史料に基づくMignetの著書は,序,本文(全9章),付録といった構成になっている が,その書名が示しているように扱われているのはペレスの全生涯ではなく,彼がフェリーペ2世 と接触するようになってから,即ちほぼ国務秘書登用後から死去までの生涯である。付録で活字化 されている史料(その殆どの出所が上記の②)は, 11編で左程多くはないが,本文中に原史料から の直接引用が豊富になされている Mignetの著書は,根本史料を広汎に利用している点で大きな 価値をもつものではあったが,史料解釈の面では問題を含んでおり,例えばFroudeの指摘してい る諸点から一点だけ紹介すると, 1577年7月21日付のペレス宛のエスコべ-ド書簡-のフェリーペ 2世の書込みに, ``menester sera darnos mucha priesa A despacharle antes que nos mate"とあ るが, Mignetはこれを「彼〔エスコべ-ド〕が余を殺す前に,急いで彼を殺す必要があろう」と 解釈し,フェリーペがペレスにエスコべ-ド陪殺を命じたと主張している17)確かにdespacharに はmatarの意味があるが,この場合には「彼が余を死ぬ程悩ませる前に,急いで彼を追払う必要 があろう」と解する方が自然であるとFroudeは批判する18)っまり,ネ-デルラント-の増援要 請の任務を帯びてマドリードにやって来るエスコべ-ドが執物にフェリーペに迫る前に,ネ-デル ラントへ追返してしまおうというフェリーペの意図を表明したものだと言うのである。かかる問題 点を含みながらも, Mignetの著書は長い間,権威としての地位を保ち,これを全体として凌駕す

(4)

る研究が出現したのは,ほぼ一世紀後のことであった Maraaonの大著『アントニオ・ペレスー人 物・ドラマ・時代-』全2巻(1947年,19)がそれである。これはMaraaonの多くの伝記的著作の中 でも恐らく白眉と目し得るもので, 1951年に校訂・増補版が公刊され,以後今日まで版を重ねてい る。序,本文(全30章とエピローグ),付録から成るが,本文を内容的に見ると,ペレスの生涯を事 実の推移を追いながら時間的順序に従って叙述している部分と,特定のテーマを設定して立入った 検討を加えている部分とに分額出来るように思う。後者に属するのは,第3章・フェリーペ2世の 人物像20)とペレス-の寵愛,第4章・ペレスの邸宅と腹心の従僕たち,第5章・ペレスの家計の収 支と汚職,第6章・ペレスと教会,第7章・貴族の諸党派とペレスと貴族との関係,第8 ・ 9章・ -ポリ公夫人及び夫人とペレス,フェリーペ2世との関係,第10章・フェリーペ2世,ペレス,ド ン・フアンの関係,第13-30章・ペレスの人物像,文人としてのペレス,エピローグ・ペレスと共 に亡命した人々の運命,といった諸章・エピローグとそのテーマである。 Maraaonの著書をMignetの著書と比較すると次のような差異があると言える。第一に後者がペ レスの生涯の一部を対象としているのに対して,前者は全生涯を対象としていること,第二に前者 の方が造かに豊富な付録を付していること,第三に前者には,後者にはない詳細な文献目録が備わっ ていること,第四に既刊史料は言うまでもなく,スペイン国内各地の図書館・文書館は固より,イ ギリス,フランス,ベルギーの代表的図書館の手稿史料を,前者よりも遥かに広く渉猟しているこ と,である。以上の点からMaraaonの著書は完全にMignetを乗越えていると評価出来る。また この点は,個々の問題についてMara缶onがより説得的な解釈を提示していることからも言い得る. 例えば, Mignetは-ポリ公夫人とフェリーペ2世,ペレス両者との間の恋愛関係を認めているのに

対して Maraaonは「恋の伝説」 (La leyendadelosamores)と題する第9章においてこれを否定 する議論を詳細に展開しているし21)またエスコべ-ド暗殺のペレスの動機についてMignetはペ レスと公夫人との関係がエスコべ-ドに知られ,これをフェリーペ2世に告げると脅迫されたから だとしているが Maraaonはペレスがネ-デラントの反徒に国家機密を漏洩して利得を得ていたこ と,ドン・フアンに関してフェリーペ2世に議言して両者の離反を図っていたこと,がエスコべ-ドによってフェリーペ2世に知らされるのを恐れたからだとしている22)今日ではMaraaonの著 書がペレス研究の権威であることは間違いなく,今後もこれを全体的に凌ぐ著作が現われるとは予 想し難いが,今日までの間にはこれを補足する研究は出ており,以下ではこれらを瞥見しておく。 まず Tellechea Idigorasの研究を挙げよう23)これはMaraaonが利用することのなかったヴァ ティカソ文書館(Archivo Segreto Vaticano)にNunziatura di Spagna 〔スペイン-の教皇使節〕の 表題の下に保存されている教皇使節報告書の中のペレス関係の記事を紹介したものである。ペレス がイタリア担当の国務秘書であったことから,主に1570年8月 蝣4592年8月の間の報告書にペレス は数多く言及されていると言う。注目すべき事実としては,ペレスがエスコべ-ド暗殺後もフェリ ーペ2世と教皇使節との間の仲介役を果たしていたこと,教皇使節はペレスの無実を信じて教皇の

(5)

援助を求めるが,やがて巻込まれるのを恐れて手を引くに至ったこと,などがある.しかしTelle-柿:アントニオ・ペレス研究のための覚書 47 chea自身の言によれば,この史料からはMaraaonの明らかにした大筋に新たに付加えるものは殆 ど得られないということであり24)この論文はむしろMara缶onの研究を別の側面から補強するもの であると言ってよかろう。次にEscuderoの研究を紹介しよう。これは,浩潮な秘書官職研究の一部 でペレスに言及しているものであり,とくにペレス研究を標傍したものではない Escuderoの時期 区分によるフェリーペ2世時代の第2期(1567-78年)がペレスに関わる時期で,この時期にはペ レスとGabriel de Zayasとの間で外務が分担され,前者がイタリア,後者が北方を担当地域とした25) Escuderoはこの時期の分析に続けて,ペレスが関与したイタリア会議(Consejo de Italia)の秘書 職を繰る喜藤(Maraaonはこれについて極く簡単に触れているにすぎない)に関して,初期の三者

(Francisco de IdiAquez, Diego de Gante,ペレス)間の争いから,フェリーペ2世の裁断によって 最終的にZayasが任命されるに至るまでの過程を詳細に明らかにしている26)最後にUngererの 研究を見ておこう UngererはMaraaon の著書の内の亡命時代のペレスに関する部分は,他の部 分のレヴェルに達していないとして,その不充分性を指摘している。彼はヨーロッパ各地の図書館 ・文書館をより広く探索し,ペレス関係の多数の文書から成る史料集27)を公刊した。 Ungererはこ れらの史料に基づく亡命時代のペレスを主題とする著書を予定しており,その公刊が待たれるが, これが公刊されればMaraaonの著書と相倹ってペレスに関する我々の知見は一層広がりと深まり を増すことになろう。 一       Ⅱ 以上,通史におけるペレス関係の記述と,ペレスを直接のテーマとする研究の主要なものを見て 釆たが,次にペレスに対する異端審問〔以下,ペレス審問と呼ぶ〕に関する研究を整理していきたい。 著名な人物を対象とする異端審問に関する個別事例研究はスペイン異端審問制史研究の一分野を形 成しているが,ペレス審問もかかる審問の代表的事例の一つである。原史料に基づくスペイン異端 審問制研究の先駆者Llorenteの主著『スペイン異端審問の批判的歴史』 (1818年)の第35章が既に ペレス審問を扱っている28)異端審問所書記を務め,スペイン王ヨゼフ2世から異端審問文書の処 理を委ねられたという Llorenteは29)原史料を自由に利用出来る立場にあり,その後の諸研究の 導きの糸となる著作を残したが,ペレス審問についても上記の箇所で,その大筋を明らかにしてい る。以下ではこれに基づきペレス審問の経過を,死後の名誉回復裁判をも含めて辿っていくことに する。

サラゴサ高等法院長官(regente de la chancilleria)のMicer Urbano Jimenez de Aranguen は, 1591年2月19日付の書簡30)で,ペレスがベアルソかその他のフランスのユグノーの根拠地に逃亡す

る計画を企てていたことを異端審問官のMolina de Medranoに伝えたが,これが契機となって審 問が開始され, 3月10-20日の間に10人の証言が聴取され,その概要が異端審問官-異端審問長官 (inquisidor general)キロ-ガ(Gaspar de Quiroga,トレード大司教,枢機卿)-チャべス-国王と

(6)

いう順序で伝達され,王命によりチャべスは送られてきた知見を基にしてペレスの4項目の異端的 提題を指摘した鑑定書(calificacion)31)を作成してサラゴサの異端審問所-送付した.これを根拠と してペレスを異端審問所の牢獄-移送する手続きがとられるが, 5月24日の民衆暴動によってこの 企ては阻止される。同年9月24日に同様の試みがなされるが,これも同様の騒乱のために中止を余 儀なくされ,ペレスはこの後ベアルソ-亡命する(11月23日夜越境)。 1592年2月15日,ペレス逃 亡後の従僕や友人の証言などを材料として増加させられた罪状を列挙した布告によって異端審問官 はペレスに異端審問所-の出頭を命ずる。 4月16日にはペレスの故地Harizaでペレスの家系調査 が行なわれ, 14人の証言が聴取されたが,これらの証言はペレスの家系は曾て当地でフダイサンテ (judaizantes,隠れユダヤ教徒)として焚殺されたPerez姓の兄弟とは別の家系であることを確認し ているが,その後の再調査での3人の証人の内の1人が,この兄弟の娘の子がペレスの父Gonzalo Perez であると証言した。これに基づいてペレスをフダイサンテであるとする項目を含む43項目か ら成る告訴状32)が, 7月6日,検察官(丘seal)から提出された。 8月16日にはペレスがPauで公刊 した著書の鑑定が委託され,鑑定人はこれから16項目に及ぶ異端的誤謬を摘出した。 9月17日,輿 端審問官は不在のペレスを肖像による焚刑に処することを決定し, 10月13日,異端審問会議(Con-sejo de la Inquisicion,以下,会議と略記)もこれを了承, 10月20日のアウト・デ・フェ(auto de fe)で最終判決33)が公示されたのである。 1610年保護者であったアンリ4世が暗殺されたこともあってペレスは帰国の願望を強め,会議の 参議であったFranciscodeSosa (カナリアス司教)とパリで会見してその希望を伝え, 1611年9月22 日付の書簡34)で,サラゴサの異端審問所で弁明を行なうために,安全通行証(salvoconducto)を交 付するようにSosaに求めるが,これが実現せぬままに11月3日世を去る1612年2月21日,ペレ スの6人の遺児が会議に亡父の名誉回復裁判を求め, 4月10日にはペレスの信仰の正統性を証明す るパリ大学神学部の証明書   年9月6日付)やペレスの遺書など5件の証拠書類35)を提出する が, 7月9日,会議の検察官はこの請求を棄却した。ところが会議自体は12月3日に証拠書類の署 名確認をした上で, 1613年1月7日に検察官の反対を押切って再審開始を決定し,同月22日付で国 王フェリーペ3世の裁可を得た。遺児代表としてゴソサーロ(Gonzalo)がサラゴサに赴き異端審問 所との折衝にあたり, 2月26日には訴訟代理人(abogado)を通して, 3月12日には自ら覚書を提 出して審理開始を求めた1614年末にはペレスの純血(ユダヤ系でないこと)を証明する1567年の Calahoraでの証言など4件の証拠書煩36)を添えて,訴訟代理人が121項目から成る弁護上申書(C占dula de defensas)を提出するが,異端審問官は1615年3月15日,再審請求の棄却を決定し,この旨会 議に上申した。ところがこの上申書を検討した会議は原判決の破棄を決定して4月10日にフェリー ペ3世の承認を受け, 5月2日に異端審問所に差戻した。 6月16日異端審問所はこれに従って原判 決破棄の判決を下し,ここにペレスの名誉回復が漸く達成されたのである。 以上;アラゴソでの異端審問と名誉回復裁判の概略を見てきたが,次にLlorenteのこれらに対 する批判を紹介しておこう。まず彼は,異端審問開始の契機となった逃亡計画について,君主の不

(7)

柿:アントニオ・ペレス研究のための覚書 49 当な圧迫を逃れて異端のいる国-行くことのみで異端とされることになるとして, 「かかる規準を 作り出し,それに従っている悪党どもにどうして雷光の落ちないことがあろうか」と痛罵し,チャ べスの鑑定書については,これはペレスが悲嘆にくれた不安定な心理状態で発した不用意な発言を 根拠にしており,またその内容についても唯一人の証人しかいない場合もあり,これらは異端審問 長官の指示書(Instrucciones)そのものに抵触すると批判している97).家系調査に関してはペレスが ユダヤ系でないのは彼の結婚証明書(partida de casamiento)を見れば瞭然としているのにそれをし なかったのは異端審問官の悪意からだと指摘し,告訴状に対してもそれが教義とは無関係な項目(例 えば国王を風刺する意図を寵めた綴れ織を作らせたという第18項)を含んでいるなどの批難を投げ かけている38)またペレスの著書の鑑定書を迎合的と決めつけるなど39)殆どあらゆる点で異端審 問所を批判しているのである。更に名誉回復裁判に対してすら, 「横暴極まりない残忍な異端審問 官」はゴソサーロの審理迅速化の再三の要請を黙殺したと述べるなど40)弾劾の姿勢を見せている。 J こうした個々の批判の背後にあるのは,異端審問所が王権側の要求によってペレスを異端に仕立て 上げ,権力側のペレス追及に手を貸した,という認識であろう。アラゴソに逃亡したペレスは, フスティシア 「申立て」 (Manifestation)の権利を利用してアラゴソ審判人(Justicia de Aragon)の保護下に入 フスチィシア った.審判人は.国王の司直・官吏から暴行を受けたと申立ててきた(se manifestaba)者の身柄を 引取り,その監獄(cAreel de los Manistadosと言う)に収監し,申立ての審理を行ない,これを認 めれば国王側司直による判決を破棄し,認めなければ身柄を引渡すという訴訟手続(これを「申立 て訴訟」 causa de manifestacionと言う)があり41)この間は国王側はこの訴人に手を触れること は出来なかった。ペレスはこれを利用して王権側の追及を免れていたのである。ところがかかる訴 訟手続は異端審問に関しては適用されないことになっていた。それ故,王権が窮余の策として異端 審問所の裁判権の利用を考えついたのではないか,という推定が生じて来ても不思議はない。従っ てLlorenteより後のペレス審問研究では,ペレス審問の政治的性格を繰る議論が重要な論点となっ ていった。 Leaは,異端審問はその強大な権力と活動の秘匿性によって政治の道具として極めて適合的であ るが,意外なことにそれが王権側によって利用された例は極く稀であったと前提した上で, 「国家 に関する問題で異端審問が利用された最も顕著な例」としてぺレスの事例を挙げている42)しかし この場合でも,異端審問は他のすべての手段が失敗した後に初めて,最後の手段として利用された のであるし,しかも異端審問は国王の意志に唯々諾々として従った訳ではなく,王権の政策に殆ど 頓着することなく自らの論理を全うした,と述べて43)異端審問の政治からの自立性を強調する立場 に立っている。かかるLeaの観点はKamenにも継承されており,ペレス審問は異端審問が政治的 事件に関与した例であるとはしながらも,異端審問全体を政治的道具と促える見方には批判的であ る44)両者と基本的立場は異なるものの, Llorcaも政治と異端審問を結びつける考え方には異議を 唱えており,ペレスがネ-デルラントの異端と通じていたこと,正統信仰と合致しない考えを抱い ていたことを挙げて異端審問のペレス事件-の介入を正当化し,また仮令,介入の最初の動機が政

(8)

治的なものであったとしても,その後の調査でこれを正当化する充分な証拠が発見されたかも知れ ないなどとも述べているが45)かなり苦しい弁護論であるとの印象を受ける。同じスペインの修道 会士Pinta Llorenteは,名誉回復裁判での原判決破棄に関連して, 「異端審問の原動力は常に正義 であった」と一般的な擁護論を表明するのみで46)上言己の問題にはとくに触れていない. これらの論者と対照的な立場に立つ研究者としてまずRothが挙げられる。彼の著書のペレス審 問に関する記述は文章表現の塀似などからTurberville475に大きく依拠しているものと推定される が,後者にはない視点として異端審問が純粋に政治的な問題に介入したことは稀ではないと Lea とは対立的な見解を示し,その代表的事例としてペレス審問を挙げていることが指摘出来る48)一 般にスペインにおける異端審問と国家との結びつきを強調するBennassarも,異端審問を王権の絶 対的武器として捉え,ペレス審問を「異端審問の政治的活動の最もよく知られたエピソード」 「国 家理由のための異端審問の政治的介入の最も特徴的な例」と見倣している49)彼はこの考えを補強 するものとして, 1593年12月1日のアウト・デ・フェで16人が過去の暴動を理由としてサラゴサ異 端審問所によって断罪された事実を挙げ,異端審問が政治的弾圧に加担していると論じている50) Perez Villanuevaの最近の論文も,冒頭でLeaの見解を挙げた後で,政治的利害と国王の目的-の 奉仕が他の目的に勝っている幾つかの有名な異端審問の事例がかかる見解を論駁するに充分である と述べて51)ペレス問題を論述している。 以上,ペレス審問に関する対立的な見解を見てきたが,結局両者の違いはペレス審問をスペイン 異端審問にとっての特徴的な事例と見るか,或いは例外的な事例と見るかに,またペレス審問その ものの政治的性格を大きく評価するか,小さく評価するかにかかっていると言えよう。従って少な くともペレス審問が政治的性格を帯びていたという認識ではほぼ一致していると言って差支えなか ろう。差当りここでは,ペレス審問は単なる興味深い一個別事例であるのみでなく,スペイン異端 審問の全体的評価(とくに政治との関係を繰る)にとっても重要な素材を提供していることを確認 しておきたい。 Ⅱ 研究動向の最後としてペレスに関する書誌学的研究について纏めておこう。ペレス研究にとって 書簡を含むペレスの著作が重要な資料となることは言うまでもない。以下ではペレスの著作に関す る研究を年代順に見ていきたい.まずAzconaの報告52)がある.これはベアルソ関係の或る書誌学 的研究にペレスのRelacionesが抜けているとし,これをパリの国立図書館で捜し当て,実見した ことの報告であり,この書物がLlorenteコレクションの中にあり,欄外にこの書物の含む16項目

の異端的捉題を示す書込みがある,と述べている。次にCerecedaの論文53)があるが,これはAnto-nio Perez, Vart de Gouverner, Paris, 1868なる書物が, ①この書物とペレスの著書Norte de Prin一 吻e, Madrid, 1788の間に類似の思想が見られること, ②書簡集との間にも観念上の類似が見られ

(9)

柿:アントニオ・ペレス研究のための覚書 51

ることを論拠として.ペレスの著作であると推断したものである.なおPerez Gomezはこの書物 の中の書簡・短信・通信文各1通を除く残りすべてについてはペレスの著作かどうか疑義があると

し,同じく Norteについても書簡1通を除く他の部分には疑義があるとしている54)このPerez Gomezの著書はペレスの著作に関する研究の権威であると言ってよい. P占rez Gomezは,スペイ

ン,フランス,イギリス,ドイツ,イタリア,アメリカ合衆国の図書館・文書館を博捜してペレス の著作を実見し,かかる作業に基づいてこの労作を著わしている。この著書は3章に分かたれ,節

1章はペレスの生涯を国外脱出まで概観した後にペレスを主題とする詩・劇文学・小説などの文学 作品やペレスの肖像画について網羅的に述べ,第3章では亡命時代のペレスについて叙述した後に,

各国の文学作品に登場するぺレスについて言及し,シェイクスピアの『恋の骨折損』 (Loves La-hour'sLost)のDon Antonio de Armadoのモデルがペレスであろうと推測している55)しかし彼の

研究の真価はむしろ第2章と刊本目録(Bibliografia de obras impresos)にある。第2章は著作家と してのペレスをテーマとして生前の著作活動と死後の著作の公刊状況について述べるが,ペレスの 作品については文学的には左程秀れたものではないと評価し,時折指摘されるフランスの作家への ペレスの影響についても否定的である。 80貢程にもなる詳細な刊本目録はペレスの個々の著作のす べての刊本の書誌的事項を列挙し,タイトルページの写真をも掲載するという周到なものである。

この目録はペレスの著作を次のように分額している. 価 Relaciones (19冊), (B)書簡集(Cartas, 25 冊), (c)蔵言集(Aforismos, 4冊), ㈲全集(Ediciones Colectivas, 18冊), ㈲詩作(Composiciones poeticas, 3冊), (F)ペレスの著作かどうか疑義のあるもの(11冊), (G)誤ってペレスの著作とされ ているもの(1冊)0 Perez Gomezの研究は完壁とも思われるものだが,その後これを細かい点で補うUngererの論文 が2編出ている.第1論文56)は Pedarosdehistoria, 1594年に関する知見を伝えるもので,この書 物には「レオンで印刷」 (Impresso en Leon)とあってスペイン国内で印刷されたかのように偽装し てあるが,実際にはイギリスで刊行されたことを George Ticknor (1791-1871,ヒスパニスト, Boston Public Library創設者)が初めて証明したことを紹介し,撤密な考証によってこれが1594年 秋に印刷中であったことを明らかにしている。第2論文57)は以下のペレスの著作について論じてい る. ①Pedagos。第1論文と同じ事実を指摘する他に,この書物の公刊には-セックス(Essex)伯 の援助があったことを明らかにし,その後で17-18世紀のイギリスのヒスパニストがこれをどう扱 ってきたかについて述べている.なおPedagosについては前出の史料集第2巻第9章において,関 係史料を活字化しながら,より詳細に論じている58) ② Traicte paraenetiqm, Auch, 1597。 Perez Gomezはこの著作-のペレスの関与を否定し,これをドミニコ会士Jos占Teixeriaとポルトガル王位 継承権主張者Dom Antonio (Crato修道院長)との合作であるとしているが59), UngererはTeixeria とペレスとの合作説を唱えている。 ③全集。 17世紀ジュネ-ヴのユグノーの出版業者が公刊した 全集の最初の版は1624年版であるとされてきたが Ungererは1623年版の存在を推測している。 ④ Retrato al vivo del natvral de la fortvna, 1625C現物には En Rhodanvsiaと架空の地名が印刷さ

(10)

れているが Ungererは出版年から見てジュネ-ヴで印刷されたものと推測している。 最後に書誌学的研究ではないが,これと関係があるのでMaltbyの著書に一言しておきたい。イ ギリスにおける所謂「黒い伝説」 (Leyenda negra)の形成と反スペイン感情の醸成をテーマとする この研究は,イギリス-の代表的なスペイン人流浪者としてペレスを挙げ,彼の著書,とりわけ A Treatise Paraentical, 1598年が,反スペイン感情の醸成に大きく影響したとしている60)しかし この書物は既述のようにペレスの著作かどうか必ずしも確定されている訳ではなく,かかる書誌学 的研究の成果を全く顧慮していない点で, Maltbyの著書のこの箇所には疑問が残る。 Ⅳ 以上のⅠ ∼Ⅱで研究動向の概観を了え,以下ではペレス関係の公刊史料を見ていくが,便宜上, 主要史料集,ペレス裁判文書,ペレス書簡に分類して紹介していきたい。 [1]主要史料集 (1) CODOIN, XII. 全巻574貢がすべてペレス関係史料で占められている。これらの史料はDon Miguel Lafuente Alcantara (アカデミア会員)の所蔵するものだというが,如何なる経緯でこの人

物が入手したかについての説明はない。しかし編者はすべての史料が原本ないし同時代の写本であ ると明記しており61)信頼性は高いものと考えられる。文書は区切りなしに年代順に配列されてい るが,殆どすべての文書が1580年5月10日 -1591年12月14日の間に収まり,アラゴンにおけるペレ スに関するものが中心となっていることが判る。以下では三つの時期に区分してこれらの史料の主 なものを見ていきたい。 ①アラゴソ-の逃亡から1591年5月24日暴動の前まで62)主として次の3種類の文書から成って いる. ④ペレス問題評議会からフェリーペ2世に宛てた上申書(Consulta original hecha A II por la Junta que entendia en el negocio de Antonio Perez) 26通(1590年5月10日 蝣1591年5月

14日)。殆どの上申書の欄外にフェリーペ2世自筆の書込みがあり,その意向を知ることが出来る。 ㊨ Almenara侯からフェリーペ2世に宛てた書簡(Carta original del Marques de Almenara A H) 8通(1590年10月30日 -1591年3月13日)。侯はフェリーペ2世がアラゴソに送り込んだ王権の 利害代弁者であり,その書簡はフェリーペ2世がアラゴソ情勢を把握するための重要な情報源であ ったと思われる。 ⑥ペレスが提出した弁明書に関する報告書2通(1590年6月, 7月)。時期的に 見て,アラゴソでの刑事裁判に関するものであろう。 ②5月24日暴動から9月24日暴動の前まで63) ④5月24日暴動勃発までの諸史料一会議からサラ ゴサの異端審問官-のペレス逮捕命令(1591年3月13日)。命令-の回答(5月15日)。異端審問官 によるペレス逮描命令(5月24日)0 ⑥5月24日暴動に関する諸史料一異端審問所で生じた事態に 関する無名者の証言(日付なし)。サラゴサ大司教から異端審問官-の通信3通(5月24日)。異端 フスチィシア 審問官からアラゴソ審判人-の通告(同日)。大司教からフェリーペ2世宛の書簡(同日)。筆者不

(11)

柿:アソトニオ・ペレス研究のための覚書 53 明の報告書(日付なし)。異端審問官から会議-の書簡(5月25日)0 ⑥暴動以後の事態に関する諸 史料一異端審問官から会議-の書簡6通(5月30日, 6月6日, 30日,同日, 7月11日, 15または 16日)。会議から異端審問官-の命令(6月17日)。会議からフェリーペ2世-の上申書3通(6月 10日, 7月4日, 8月10日)。これらの史料は暴動によってペレスの異端審問所監獄-の移送が中 止された後も,異端審問所-の敵意が依然として昂まっていたことを示している。 ⑧マドリードに おいて異端審問官Pedro Pachecoが聴取したペレスに関する証言。証人数は都合15人,証言聴取の 日付は7月10日∼9月15日に亘っている(この内3人の証言は5月24日暴動に関するものである)0 これらの旺盛な証言収集活動は,ペレス収監失敗にも拘らず,異端審問側が捲土重来を期して充全 な証拠固めに取組んでいたことを窺わせる。 ㊥新たなペレス問題評議会に関する史料一創設命令 (8月5日).諮問事項の提示(同日).評議会のフェ1)-ペ2世宛の上申書(8月13日).以前の評 議会が活発な上申を行なっているのに比して,今回の評議会は史料から見る限り左程重要な役割を 果たさなかったように思われるが,これはこの時期にはむしろ会議が中心的な役割を果たしていた ためだと推定される。 フスチィシア ③9月24日暴動前夜から1591年末まで64}  月17日に異端審問官がアラゴソ審判人にペレスの身 柄の移送を命じるが,これが端緒となって再び5月24日と同様な事態が生じてくる。この時期の史 料は殆どが書簡であるが,数の多い種類の書簡を示しておく。 ④異端審問官の会議-の書簡12通(8 月22日∼12月1日). ㊨ Chinchon伯(アラゴソ会議財務長官,国務会議参議Concejero del Consejo de Estadoとしてアラゴソ,イタリアを担当)宛の諸書簡16通(8月23日∼10月13日)。発信人別に

内訳を示すと,アラゴソ副王(Virrey) 8通,異端審問官Molina 4通, Morata伯,アラゴソ審判 人補佐(lugarteniente del Justicia), Ramon Cerda, Belchite伯各1通,となる。 ⑥フェリーペ2世 宛書簡24通(8月27日∼12月14日)。発信人別に内訳を示すと,アラゴソ副王7通,アラゴソ総督

フステイシアフラ-ド

(Gobernador) 2通,アラゴソ審判人2通,サラゴサ市参事会員(jurados) 3通, Vargas (アラゴソ に侵攻した国王軍の司令官) 7通, Lombay侯3通. ⑥Ger6nimode Oro (異端審問所書記)の書簡 13通(8月19日∼10月31日)。内訳は,サラゴサの異端審問官宛8通,会議の検察官宛5通,となる。

①∼③の時期に収まらない史料は3編あるが65)内1編は, 1592年10月20日のアウト・デ・フェ で公表されたペレスの判決に関する異端審問所書記Ardr占s de Torresの証言である.

(2) CODOIN, XIII. 下記の2編の史料を含む。 ① 『アントニオ・ペレスの投獄と冒険につい ての概略的な報告』 (Relacion sumaria del discurso de las priciones y aventuras de Antonio Perez) 66)。

シマンカス総合文書館(Archivo General de Simancas)所蔵の作者不明の印刷物の断片であり1579 年7月28日のペレスの逮輪から,スペイン国外脱出までの経過を記している. ②国務秘書Gonzalo P占rezの庶子ペレスを, Gonzaloの嫡出子として承認したカール5世の証書(1542年4月14日付167)。

(3) CODOIN, XV. 下記の史料を含む。 ① M. Fernandez Varela所蔵のペレス関係文書から のM. Landeiraによる抜粋68)抜粋者のコメントを挟みながら,引用符で括られた原文が切れ目 なしに延々と続いているが Maraaonによればこれらの文書の大部分は CODOIN, XIIに収載さ

(12)

れているという. ②ペレスの自供(declaraciondeAntonioPerez)69)c 同じコレクションの中の文書 で1583年12月29日1590年2月1日, 2月20日, 2月23日のペレスの自供を含む。最後の日付の

ものは拷問を加えられて行なった有名なものである。

(4) Fragmentos. 国立歴史文書館(Archivo Historico Nacional)所蔵のペレスの私蔵文書 (Archivo particular de P占rez)をGonzAIez Palenciaが活字化したもの(内容を要約しただけの文書 もある)。これらの文書は1585年に裁判官の要求に応じてペレス夫人フアチ(Juana de Coello)に よって引渡されたものの内で,裁判官が破却した国王に不都合な文書を除く残りのものだという70) このペレス文書には2つの目録(Num. 〔編者による文書番号〕1, 68)があるが,これに載ってい るすべての文書が現存する訳ではなく散伏したものも多い。逆に目録に載っていない文書もある。 GonzAIez Palenciaは,現存文書69編を, ㈲目録記載の文書, (B)目録にない文書に分けて活字化して いる。文書の日付は, 1571-1601年に亘っている。これらの文書の特徴は,私蔵文書という性格か らも推察されるように,ペレスの私生活に関わるものが多いことである。主なものを内容別に纏め ておく(事実経過や内容を記し,関係文書を番号で示す)0 ①ペレスは別荘を建築するが,やがてそ れを96枚の絵画とともに24,000doblasで-ポリ公夫人に譲渡する(2-10), ②ェポリ公夫人は この金額を支払うためにペレスを受取人とする地代収入を設定するが,ペレス逮捕後,国王の土地 管理人はこの収入を支払わなかったため,訴えがなされて国王は支払いを命令する(14-34)c ③ ジェノヴァの金融業者Agustin Spinola との貸借勘定。 -ポリ公夫人とのそれを含む(40-45), ㊨ 1589年末のペレス家の収支決算(60)<

(5) AP, Apendices. Marafionの大著巻末の付録は, 110 (I-CX)あるが, ㈲文書(I-XXX VI), (B)ペレス書簡(XXXVII-LXXV), (C)他の人々の書簡(LXXVI-CV), (D)覚書(CVI-CX) に分類されている。この内0)) 〔CVIIIを除く〕は特定の主題に関する著者の覚書(解説)であるが, それら以外はすべて史料の活字化である。すべてが末公刊史料である訳ではなく,既刊史料の再活 字化もかなり多い.配列は㈱ -(C)夫々の中では年代順となっている(B)については後の[3]で扱う のでここでは伽と(C)についてのみ見る。伽には種々の文書が収録されている。重要なのは裁判文 書だがこれは[2]で扱うので,それ以外の目ぼしいものを若干紹介しておく。 ①1567年7月17日付 のペレスの秘書(年給10万mrs.) -の任命状(I-A)c ②同年12月28日付のイタリア担当の国務秘 書(年給20万mrs.他に特別手当400ducs.) -の任命状(I-B)e ③エスコべ-ドの長子Antonioが, 亡父の暗殺に関する捜査についてフェリーペ2世に提出した覚書(V)< ④ペレスが臨終の床で口述 筆記させた告白(1611年11月3日付)。自らが「敬度で真正なキリスト教徒」であり,且つ「誠実な る国王の僕・臣下」であったことを表明している(XXXIII)。 Cには39通の書簡が収められている。 発信人は様々だが,フェリーペ2世とドン・フアンが多い(夫々5通ずつ)。以下,主なものを挙 げておく。 ①ドン・フアンからフェリーペ2世-の書簡(1578年4月10日付)。エスコべ-ドの死 を悼み,暗殺原因の究明と犯人の厳罰を要望するとともに,遺族-の配慮を乞うている(LXXV no, ② MateoVAzquez (国務秘書,ペレスのライヴァル)からフェリーペ2世-の書簡(日付なし).

(13)

林:アントニオ・ペレス研究のための覚書 55 巷間にペレスがエスコべ-ドを暗殺したという疑惑が強まっていることを指摘して,あらゆる手段 を用いて真相を究明するよう命じることを勧めている(LXXXVIII)C ③フェリーペ2世からアラ ディブタ-ドス ゴソ代議役-の書簡(1591年11月2日付)。国王軍のアラゴソ侵攻に関して自らの立場を釈明して いる(CII)C (6) A Spaniard. 亡命時代のペレスに関するこの2巻の史料集は 520編の史料を収めている (通し番号は521であるが No. 261は削除されている)。年代的には1590年11月29日 -1628年に亘っ ている。史料の出所の多くは,スペイン,フランス,イギリス,イタリア各国の図書館・文書館で あり,とくにイギリスが多い(Public Record Office, Lambeth Palace Library, Bodleian Libraryな

ど11箇所に上っている).全10章から成るが,第9章は既述のようにPedagosについての史料と研 究であり,また第10章71)は著作家としてのペレスのマンネリズムについて論じた論文であるから, 大部分の史料は第1-8章に収録されていることになる。史料の配列は,主題・年代・文書の使用 言語・人物などを折衷したものであるが,かかる構成になっているのは Ungererが予定している 著書の構成に照応しているからだという72)以下ではこれに即して概観していく(括弧内の数字は 文書番号を示す)0 第1章・アラゴソ。 ①Walsinghamの間諜として1589年12月スペイン関係の情報を収集すべく Bayonneに定住したChateaumartin (Pierre d'Or,元はリヨン生れの商人)は, Walsinghamの後を 引継いだセシル(William Cecil)にスペイン関係の情報を送っている(1, 3-8, 10-19)が,この 中にはアラゴソの反王権蜂起や,ペレスなど亡命者たちのスペイン侵攻計画に関する知見を与える

ものも含まれている. ②ペレスの従僕メ-サ(Gil de Mesa)は,ペレスのスペイン侵攻計画にイ ギリスを引入れるために1592年エリザベスの宮廷に使する(Chateaumartinも同行している)。メ-サはセシルと枢密院に対して陳情書(20-21)を提出するが反応はなかった. ③ Guipuzcoaの軍司 令官(capitAn general)のJuan VelAzquez は,ベアルソにいるペレスを粒致する謀略を練って いたが Chateaumartinは彼にペレス関係の情報を流していた.この謀略については VelAzquezと フェリーペ2世との書簡などの諸史料(27-36)から知られる。 第2章・第1 ・ 2回の渡英(スペイン語諸文書)。ペレスは1593年4月∼95年7月 1596年4月∼ 97年1月, 1604年2月∼3月と3回渡英しているが,この内の第1 ・ 2回に関する史料の中でスペ イン語で書かれたものを収めている。 ①イギリス人(エリザベス,セシル, -セックス伯, -セッ クス伯の姉Penelope Richなど) -のペレス書簡15通とメモ1通(37-52)< ②エリザベス,セシ ルとの会見のためのペレスのメモ4通(53-56)< ③フランス人(アンリ4世,ナバーラ王妃カトリ ーヌCatherine, Bouillon公など) -のペレス書簡14通(57-70)< ④イギリスでのペレスの動静をフ ェリーペ2世など-報知する書簡6通(71-76)< 第3章・同(フランス語文書).ペレスはアンリ4世のエリザベス-の使節Pregent de la Finに 同行して,特別使節の資格でロンドン入りする(1593年4月24日)が,このPregentとその父親で イギリス駐在使節Jean de la Finが発信人・受信人となった書簡が10通ある。ペレスを受信人と

(14)

する書簡は6通あり,発信人別の内訳は,アンリ4世2通(97, 98), Jean delaFin l通(95), 国務秘書Neufville 3通(99, 100, 103)となっている。なお,アンリ4世がペレスを国務会議参議 に任ずることを示した書状(105)もある。 第4章・同(英語・フランス語文書)。ここに収められた文書は殆どがペレスと親交のあったイ ギリス人によって書かれたものであり,エリザベス朝のイギリス人がペレスをどう捉えていたかを 知る材料となり得るものである. ①ベーコン(Bacon)家の兄弟(アントニー[Anthony, -セッ クス伯の秘書〕,フランシス[Francis,著名な哲学者〕,アンヌ[Anne,両者の異母姉〕)の書簡 ・114), ②SirAnthonyStandenのA.ベーコン宛書簡(115-122), ③A.ベーコンとフランス人 間諜及びフランス人貴族との間の書簡(123, 126-133)< ④ A.ベーコンとその友人・従僕との間 の書簡(135, 138,139, 141-144, 147)< ⑤ A.ベーコンとEdward Reynolds (-セックス伯の秘 書)との間の書簡(147-170)< ⑥A.ベーコン, -セックス伯, PenelopeRichとの間の書簡(171 486)< ⑦ -セックス伯を発信人・受信人とする書簡(188-197, 199-202)< 第5章・同(ラテン語文書)0 ①-セックス伯とペレスとの間の書簡90通など(204-310), ② A.ベーコンとペレスとの間の書簡19通(311-329)< 第6章・フランス。 ① Edward Wilton (ペレス帰仏の際-セックス伯によってつけられた護衛) の伯-の書簡(330-339)< ② Edmund Wiseman (元の在スペインの間諜で帰仏するぺレスに同行) の伯-の書簡(340-344)< ③ Godfrey Aleyn (ペレスの秘書)の伯やA.ベーコンなど-の書簡 など(345-373)< ④EdwardYates (A.ベーコンの従僕)とA.ベーコンとの間の書簡(374-384)。 ⑤ Sir Henry Unton (フランス-の使節)のセシル-の書簡(386-388)< ⑥ Robert Naunton

(Aleyn代わって1596年2月からペレスの秘書役を果たす), -セックス伯, A.ベーコンとの間の 書簡(389-423)<

第7章・諜報活動。 -セックス伯の諜報網-のペレスの貢献を明らかにする諸史料を収める。 ① ヴェネツィア共和国における間諜Dr. Henry Hawkins とA.ベーコンとの間の書簡(424-433), ②ヴェネツィアの代理商Giovanni Battista BasadonnaとA.ベーコン,ペレス, -セックス伯と の間の書簡(434-444)< ③GiacomoMarenco (ペレスの曾ての従僕,ジェノヴァ在住)とペレス, A.ベーコン, -セックス伯などとの間の書簡(445-461)< たび 第8章・第3回渡英。ペレスは1603年2月三度渡英するが1604年ジェームズ1世の逆鱗に触れ て帰仏,1611年11月3日パリで死没する。その間の史料を収めている. ① 1598年スペインとフラン スの間のヴェルヴァソ(Vervins)条約を繰る動きに関する史料(465-472)< この条約によってイギ リスもスペインとの和解が必要となり, -セックス伯にとってペレスのもつ政治的価値が低下する。 ②ぺレスはエリザベスの死を契機として,イギリスで活動する計画を練るが,これにはジェノヴァ

人の友人Francesco Lercanoと在仏イギリス使節Sir Thomas Parryも加わる。この両者に関わる 書簡(473-477)< ③滞英中のペレスに関する史料(478-493)< ④政治の表舞台から退き死去す るまでの間の史料(494-496)<

(15)

林:アントニオ・ペレス研究のための覚書 57 [2]裁判関係文書 ペレスに関する裁判は都合6件ある。即ち,エスコべ-ド暗殺に関する刑事裁判と国王官吏とし てのペレスの不正行為に関する裁判(両者ともカスティーリャとアラゴソで夫々1件ずつ),異端 審問裁判,名誉回復裁判である。以下,年代順にこれらの裁判に関する史料の状況を整理しておき たい73) (1)監察裁判(Proceso de Visita) 1578年3月31日のエスコべ-ド暗殺から1年以上経った15 79年7月28日,ペレスが逮描された.フェリーペ2世は1580年以来,バスケス(Rodrigo VAzquez de Arce,財務会議総裁Presidente del Consejo de Hacienda)にエスコべ-ド暗殺に関する調査を命

じ,バスケスは1582年リスボンにおいて関係者からの証言を聴取した。この結果,エスコべ-ドの 件は差当りは問わず,ペレスの官吏としての不正行為に絞って調査・処罰を行なう方針が固まった。 これらの手続は厳密には裁判ではなく官吏に対する秘密裡の調査・処分であるが,監察裁判と呼ぶ 慣例となっている1584年6月12日,バスケスを補佐する書記Tomas Salazarによってペレスの不 正を列挙した書類が作成され1585年3月23日に処分宣告がなされた.この裁判についての一件書 類の原本は現存せず Maraaonは恐らく17世紀にシマンカス総合文書館から消失したものと想像 している。しかし次のような一部の文書が伝わっている。 ①リスボン証言。次の(2)の裁判文書の中に8人の証言が収められている。これはリスボン証言の すべてではなく,刑事裁判に関連のある証言のみを申送りしたものと考えられるという. ② Salazar 作成の上記の書額。マドリードの国立図書館(Biblioteca Nacional)所蔵のLezaun文書(後の(3) を参照)の中にあり Maraaonによって活字化されている74)全41項目から成るが第1-39項はペ レスが地位を利用して不正な利得を得たこと(汚職,収賄),第40-41項は職務遂行上の不誠実(機 密漏洩,国王宛書簡の改窺)となっている。 ③処分宣告(Sentencia)。 Cerralbo侯所蔵文書に由来 L Maraaonの入手した17世紀の写本で,やはり彼によって活字化されている75)処分の内容は, ④国王の指定する城塞に2年間ないし,国王の御意によるそれ以上の期間,拘禁する, ⑥宮廷及び その周囲30レグワの外に10年間追放する, ⑥上記の期間,国務秘書職を停職とする, ⑧不正に取得 した12,524,793 mrs.を次のような内訳(詳細略)で各人に9日以内に返還すること,となってい る. ④上記の罪状に対するペレスの弁明書(descargos)c オックスフォード大学Bodleian Library 所蔵のペレス自筆の副本であり,羊皮紙の表紙のついた25葉から成る。最近Ungererによって発見 されて活字化された76)この弁明書の原本はペレスからSalazar -手交され,彼の死(1585年)後 はBarajas伯の手中に帰した(1587年6月13日付のペレスのメモに監察裁判の全書頬は伯が所蔵し ているとある,77)この弁明書の内容は,具体的汚職の事実を指摘している上記②の第1-38項(第 39項は第1-38の総括)について逐一反論した後に次のように纏めている。 ④16項目(-ポリ公夫 人12項目,ドン・フアン3項目,キロ-ガ1項目)については,これらの人々が「ペレスの職務故に ではなく,友誼やペレスが負担した費用の償いとして与えたものである」。 ⑥5項目は手数料とし て受領したもの。 ⑥2項目は投獄後の職務不行使の時期のもの。 ⑧7項目はこれを受取っていない

(16)

か,受取っていても代金を支払うかしている。 ⑥1項目は国王に報告して了承を得てある。 ①4項 目はかかる事実はない。 ⑧3項目は賄賂と呼び得るものではなく,友人間でのかかる形での授受は, 法も国王の御意もこれを妨げてはいない78)以上,すべての項目に亘って有責・有罪の根拠となり 得るものはないと全面的に否認している。第40項(機密漏洩)については, 「自分にかかる罪を負わ せた者は,陛下がどれ程秘密や重要事項をこの忠誠なる私の胸に打明けていたのかをよく知らない に相違ない。陛下のようにそれらを知り,それらの重要性を知っている老のみが,アントニオ・ペ レスが秘密を守り,誠実であったことを知ることが出来る」と,また第41項(文書改窺)については, 「ここで触れられている事柄は極めて重大で深刻なので,自分の弁明に関わることとはいえ,アント ニオ・ペレスは重大なる秘密に触れることを恐れる。唯,陛下とその重要書類のみが,アントニ オ・ペレスがかかる失態を犯すことは,どんなに考えられないことかを知っている,とだけ言おう」 と夫々反論している79)以上の弁明の後で,ペレスはこれらの弁明を補強するための証人としてフ ェリーペ2世,キロ-ガ,チャべスを挙げ,彼らに質問すべき事項を指示して証言聴取を要請して いる80)

(2)カスティーリャでの刑事裁判(El proceso criminal de Castilla) 監察裁判終了後もエスコ べ-ドの遺族やペレスの敵対者たちが刑事裁判を要求し,下手人の一人Antonio Enriquezから密 かに証言を得(1584年), 1587年秋にはペレスの執事で暗殺の組織者であったDiego Martinezが捕 えられた1588年フェリーペ2世はバスケスにべレスに対する刑事裁判の開始を命じた。ペレスは 自供を拒み, 90年2月23日には拷問にかけられるなどしたが, 4月19日には脱獄に成功し,アラゴ ソへ逃亡した。 7月1日被告不在のまま,死刑判決が言渡された。 この裁判の一件書塀の原本もやはり17世紀にシマンカス総合文書館から消失したと Maraaonは 考えている。しかし17世紀以来,裁判文書の手稿の要約(Resumen)が現われ始め,その内の一冊 はパリの外務省に所蔵されており,監察裁判の判決をも含んでいる Mignetが利用したのがこれ である.この Resumen はやがてマドリードで印刷業者Valladaresによって公刊された(Proceso criminal que se fulmino contra Antonio Perez, Madrid, 1788.通常Resumen de Valladaresと呼 ばれている)81)。 Resumenについてはこの作者をValladaresだと誤解してその信頼性を疑う説もあ ったが,これはMara白.onが詳細に論破している82)。 Resumenは飽く迄要約にすぎないが,裁判の 一件書額の写本がその後Maraaonによって発見されて活字化された83)この写本は1608年2月6 日に原本から転写されたもので, 345葉から成っている Maraaon は脚註でResumen と比較しな がら活字化している。以下,内容を概観していくが,文書の配列は必ずしも年代順になっていない ので,これを年代順に配列し直して見ていくことにする(括弧内の数字は刊本の真数を示す)0

①フェ1) -ペ2世からバスケス及び王室アルカルデ(alcalde deCorte)のJuan Gomezに刑事裁 判を委託する文書(1588年) (28-32)< ②監察裁判におけるリスボン証言(証人はFuensalida伯, セピーリャ大司教など8人,日付は1582年5月30日∼8月7日) (35-53)< ③エスコべ-ドの親族 Pedro de Quintanaの国王-の書簡(1582年8月22日 1584年3月23日) (59-65)< ④ Enriquezの

(17)

林:アントニオ・ペレス研究のための覚書 59 国王-の書簡(1584年8月16日) (57-58), ⑤同人の陳述   年7月30日) 116-126). ⑥Mar-tinezの陳述(1587年8月25日, 11月24 25日1588年8月29日) (87-89, 67-75, 75-80, 80-81), ⑦ペレスの陳述(1588年8月30日) (81-86)< ⑧Enriquezの証言(1589年2月1日) (89-97)< ⑨ペ レスの陳述(8月25日) (103-108), ㊨ Enriqez, Barajas伯など16人の証言(8月21日∼9月25日) (128-142, 170-173, 185-188), ⑪ペレスを告発し裁判を求めるPedro de Escobedo (エスコべ-ド の長子)の陳情書(9月2日) (148-151), ⑫ペレスとMartinezが申請した証人に対する質問事 項全10項と,これに対するペレスの従僕メ-サやブスタマンテ(Diego de Bustamante)など6人の 回答(9月7日∼11日) (260-277)< ⑬Martinezが申請した証人に対する質問事項全10項と,これ らに対するブスタマンテなど7人の回答(9月7日∼15日) (277-288)< ⑭本裁判から手を引くこ とを告げ,本裁判の中止を請願したP. de Escobedoの書状(9月28日) (189-192)84)c ⑮ペレスに 暗殺の動機を自白させるようバスケスに命じた王令(10月21日) (198-199)< ⑯ペレスの陳述(12 月21 - 29日) (200-201, 20ト202)< ⑰ペレスに対する拷問に関する報告(1590年2月23日) (210-219)< ⑱Martinezの陳述(2月24日)(219-223)ォ ⑲ペレスに対する拷問に関する報告(2月25日)

(223-224)< ⑳ 1583年11月死亡のPedro de la Hera (占星師)とRodrigo Morgado (聖職者,占星 節)をペレスが殺害したとする85) Bartolme dela Hera (上記の兄弟)とAndr占s Morgado (同)の証 言を含む7人の証言(3月2日∼10月22日) (226-240, 247-254)( ⑪アラゴソに送付するために刑 事裁判の一件書類の副本の作成を命じたバスケスの命令(5月14日) (258-259), ㊨ Baltasar de Ala・ mos de Barrientos (Morgado殺害の直接の下手人とされるペレスの友人)の自供(6月4日), Ala一

mos関係の裁判文書(7月1日∼9日), 6年間の追放を内容とするAlamos -の判決(10月17日) (240-246, 288-324, 324), ⑳市中引廻しの上,絞首,晒首,全財産没収を内容とするペレスへの 判決(6月10日, Resumenは7月1日に訂正しておりMaraaonもこれに従っている) (289)<

フステイシア

(3)アラゴソ審判人法廷における刑事裁判(Proceso criminal en la corte del Justicia de Aragon)

フスティシア 1590年4月25日,フェリーペ2世は(2)と同じ罪状に脱獄・逃亡の罪を加えてペレスを審判人法廷に 訴追する権限をアラゴソの国王検察官に与えた。後には,これらにHeraと Morgado殺害の罪が 付加えられた(5月14日)。しかしペレスは結局,放免されるのではないかという観測がマドリー ドに伝わり,かかる事態となって国王の権威を失墜させるよりも自ら退く方が賢明であると考え, フェリーペ2世は8月18日に告訴を取下げる文書に署名し,この裁判は判決の下されぬままに中断 された。 この裁判に関する一件書煩の写本は,下記の諸文献の中に散在している。 ① CODOIN, XII y XV (既出) 0 ②国立歴史文書館(Archivo Historico Nacional)所蔵の写本Procesos de los complicados en los sucesos de Aragon 〔アラゴソでの事件に巻込まれた者たちの裁判書類〕。これは曾てPidalに よって豊富に利用されたという86) ③ Conde de Luna, Comentarios de los sucesos de Aragon en 1591 y 1592. Madrid, 1888. Luna 伯はペレスと同時代のアラゴソ人貴族.この刊本の手稿原本 はマドリードの国立図書館所蔵。 ④マドリードの国立図書館所蔵のLezaun文書(Documentos de

(18)

Don TomAs Fermin de Lezaun)。 2巻から成り,第1巻は Lupercio Leonardo Argensola, Informa-don de los sucesos del Reino de. Aragon en los anos 1590 y 1591. Madrid, 1808の手稿原本(16

ヂィプタシオソ

04年作成)からの写本。第2巻はアラゴソ王国旧常設会議文書(Archivo General de la antigua Diputacion del Reino de Aragon)から転写したArgensolaの著書に関係のある諸文書の集成87) ⑤ --グ王立図書館文書(既出)0 ⑥デウスト大学図書館(Biblioteca de la Universidad de Deusto) 及び Mara缶on 文庫所蔵の刑事裁判の中の Hera と Margado 殺害に関する部分の写本.前者は Pastrana家文庫,後者はDon Pedro Domercq Victor文書(パリ)に由来する88)

(4)査察裁判(Proceso de Encuesta)89) (1)のアラゴン版と言えるもので,アラゴソ王として のアェリーベ2世の秘書としてのペレスの不正を裁くというのがその根拠となっている1590年9 月5日,フェリーペ2世はサラゴサ高等法院長官Jimenezに対してこの裁判の開始を命じアラゴソ フスティシア 審判人もこれを了承したため, 9月26日に正式に告訴がなされた。ペレスの罪状は,今までの(IV (3)における罪状の他に,サラゴサでペレスが弁明のために頒布した文書(所謂Librillo)で国家機 密を漏洩したことが付加えられている。ペレスは,アラゴソ王国に関わる事項を国務秘書として処 理したことはないこと,既にカスティーリャの監察裁判で裁かれていること,を理由としてアラゴ フスティシア ンでかかる裁判にかけられる所以はないとして審判人法廷に保護を求めるが受入れられなかった。 しかしペレスは保護を拒んだ審判人補佐(lugarteniente)のTorralbaを十七人法廷(Tribunal de Diez y Siete,審判人補佐の非違を裁く法廷)に告発し90)ペレス-の攻撃は結局アラゴソのフエ ロ(Fueros de Aragon)と自由(libertades)の侵害に他ならないと主張して世論を煽り,当該法 廷は1591年7月10日の判決でTorralbaを職務剥奪の上, 3年間のアラゴソ王国国外追放に処し た91)王権側はこれによって形勢不利を悟り,裁判を事実上断念したため(3)と同様にこの裁判も 最終判決が下されぬままに頓挫することになった。 査察裁判文書の完全な写本は,国立図書館(マドリード)に所蔵されており(表題は, Sumario

del Proceso Partis Fiscalis Domini Regis Contra Antonium Perez),これは Zarcoの著書の中で 活字化されている(J. Zarco Cuevas, Antonio Perez, Madrid, 1922)<

(5)異端審問裁判(Proceso de la Inquisicion) (6)名誉回復裁判(Proceso de rehabilitacion) 以上, (5) (6)の事実経過については既述したが,裁判の一件書煩は,パリの国立図書館のLlorente コレクションの中にあり, 6巻(15分冊)から成る。写本ではなく原本が完全な形で現存している貴 重な例である,Mignetが初めて詳細に利用した,Maraaonはこの中から次のような文書を活字化し ている(括弧内の数字は AP, Ap占ndicesの文書番号)。 (D1591年5月24日異端審問官がペレスの独 房で発見した物品の一覧(XV)。 ②ブスタマンテの証言(1591年7月23日)と証言の確認(1592年8 月7日),メ-サの証言(同年6月6日), Miguel Donlope (侵攻した王軍に対するアラゴソ抵抗軍 ,sス の部隊長,ペレスと共に亡命するが帰国)の証言(同年6月20日) (XVH-XIX, XXIV)< ③風刺 キーネ 的落首(pasquines)作者で詩人のCosme Parienteの異端審問所に対する赦免請願(1593年   。

(19)

林:アントニオ・ペレス研究のための覚書 61

④ペレス逃亡計画を伝えるサラゴサ高等法院長官の異端審問所-の書簡(XCVII),その他,XXXHI, CII (既出)とペレス書簡3通(XLV, LXX, LXXII)0

ところで最近Llamasによって大英博物館(British Museum)所蔵のスペイン異端審問関係手稿 文書の目録が作成されたが92)この中にペレス関係の文書も含まれている。かかる文書を分類記号 別に記しておく(括弧内の数字は Llamas の目録における文書番号)0 ① g. 1507. -Papeles del Consejo de General Inquisicion. Memoriales y Relaciones Varios (sic), tomo I, 1580-1591と背 表紙に表記され製本された手稿文書337葉。 ④サラゴサ異端審問所関係書簡・文書(1591年) (189), ⑥アラゴソ異端審問を批判するペレス自筆の覚書(1581年) (190)。 ⑥会議が各地の異端審問所や 国王に送った書簡や上申書の副本,各地の異端審問所からの書簡・文書の受領の通知(1590-93年) (192),主としてサラゴサ異端審問所関係のものがペレスと関係がある。 ②Eg.1508. **>-Ibid. tomo //, 1592-1600. 307葉から成り,大部分がアラゴソ王国内の異端審問所関係の書簡・文書である. ④サラゴサ異端審問官の会議-の書簡8通(1591年12月20日/1592年1月4日/6月4 -13日, 7月 4日/7月7日/9月29日/11月13日) (193/197/202/205/219/220)。 ⑥会議の異端審問官-の書簡 (1591年12月1日) (194)< ⑥ペレス-の判決(1592年) (221), ⑥1592年10月20日のアウト・デ・ フェの報告(224)< ⑥ペレスの著書Aventuras de AntonioPerezに関するトレードの異端審問官の 回答(1594年10月10日) (232)< ③Eg. 1874.-ペレスの逮描・投獄に関する史料(1590年) (292)< 〔3]ぺレス書簡 ペレスは多数の書簡を遺しているが,これがペレス研究にとっての重要史料であることは言うま でもない。以下では活字化されているペレスの書簡の内で,直接参看出来たものに限って列挙し, 整理しておきたい。まず書簡を含む文献を書名・編著者名などで示し,次いで①書簡総数, ②書簡 の原本(写本)の出所, ③受信人(少数の場合は日付も)の順で示していく。 (1) Mignet, Apes. C, F, G, H, K. ①6通(Cは2通), ②Kのみ大英博物館,他はすべて --グ王立図書館, ③フェリーペ2世,エスコべ-ド各1通(日付なし) (c),エスコべ-ド(1577 年4月7日)(F),フェリーペ2世(1578年3月12日)(G),フェリーペ2世(同年4月3日)価, -セックス伯(1596年1月21-24日) ㈱。

(2). CODOIN, LL94>  ①2通, ②不明, ③Alonso de Curiel (ペレスの訴訟代理人) (1578年8 月5日 1579年3月31日)0

(3) CODOIN, CIL95) ①1通, ②不明, ③Don Juan de Zuniga (ローマ-の使節1568-81 午) (1573年2月24日)0

(4) Fragmentos. ①17通(草稿を含む), ②ペレス私蔵文書, ③④Fabricio de Urso (ナポリの訴 訟代理人) 、2通(1588年6月28日, 5月28日) (17, 21 〔文書番号を示す,以下同じ〕), ⑥Gonzalo P占rez〔父〕 (同年10月2日) (18bis), ⑥Dr. Francisco Bermddez de Castro (同年6月25日) (19), ⑥ Dr. Miguel Zapullo (ペレスの訴訟代理人) 4通(同年6月25日,同年?,同年4月30日, ll 月11日) (20), ㊥Alonso Jimenez (Melito総督) (同年?) (21), ①エスコべ-ド(1585年9月?)

(20)

(35), ⑧Lope Ochoa Urgartede Marquina (Cuencaのイダルゴ) 2通(1589年1月26日, 1月?) (37bis, 37ter), ⑥Juana Coello (秦) 5通(1590年2月〔20〕日, 〔2月23日〕, 〔2月24日〕, 〔2月 25日〕, 5月10日) (62-65, 66bis)

(5) Eguia Ruiz.96) ① 1通, ② Prada私蔵文書, ③ Andr占s de Prada (ドン・フアンの秘書) (1578年10月15日)0

6 E. Buceta.9" ① 2通, ②国立図書館(マドリード), ③Villahermosa公(1579年4月14 日, 6月28日)0

(7) BAE, XIII.98)これについては説明を加える必要がある。構成を見ると,表題(Cartas de Antonio Pるrez),書簡141通〔以下 Primeras cartas と呼ぶ〕,表題(Segundas cartas de Antonio Perez),書簡171通,となっているが,この構成は編者による説明がないため実に紛らわしいものと なっている。というのはペレスの生前に公刊された書簡集には, ④Cartas de Antonio Perez, Pans, n.d. 〔c. 1598 or 1601〕99)と⑧ Segundas Cartas de Antonio Perez, Paris, 1603の2種額があり, これは1620-70年にかけて公刊された何種輝かの全集にも収載されている。上記の表題と④⑧の書 名とは全く同じでありながら,実は編者が書簡の配列を入替えているために,内容的には一致しな い結果となっている PerezGomezによると, ④⑧は夫々次のような書簡を含んでいる。 ④ -(T Cartas para diversas personas despu占s de su salida de Espaaa 〔スペイン出国以来,様々な人々に宛

てた書簡〕 (U) Cartas a dona Juana Coello su mujer y a sushijos 〔妻子,メ-サ,友人へ宛てた 書簡17通〕, (V)メ-サ Gregoria (娘),友人宛の4通(W) Fpistolarium centuria una 〔殆どが -セックス伯宛のラテン語書簡100通とJusto Lipsio(オランダの古典学者)宛1通〕, (X)メ-サ宛 2通, (Y)メ-サ Gregoria 宛2通100) ⑧-(Z) Segundas Cartas 〔I-CXXXVの番号のついた 135通〕 (Aa) Segundas cartas para dona Juana Coello 〔I-XIIの番号のついた妻子宛12通〕101) Perez Gomezは(7)がこの内の(T) (U) (V) (Y) (Z) (Aa)を含むとしているが102)配列につ

いては全く触れていない。そこで(7)と(TWAa)の内容を比較することによって私が推定した 配列を記しておくと次の通りである。

Primeras cartas I-CXLI     - (T) (但し冒頭のメ-サ宛3通を除く) Segundas cartas I-CXXXV    - (Z)

CXXXVI-CXLVI -(Aa) CXLVII-CXLIX  -(T) (冒頭のメ-サ宛3通のみ) CL-CLXVI   - 蝣(U) CLXVII-CLXVin-- 00 CLXIX-CLXXI  - (U) はぼこれで誤まりないと思われるが, (Aa)は12通とあるのに(7)の対応部分では11通しかないの が問題として残る。以上から(7)の①∼③について纏めておくと, ①312通, ②恐らく上記の④ ⑧か 全集, ③上述したものもあるが,それ以外の(T) (Z)で多いもののみを挙げておくと, (T)では,

参照

関連したドキュメント

 介護問題研究は、介護者の負担軽減を目的とし、負担 に影響する要因やストレスを追究するが、普遍的結論を

が前スライドの (i)-(iii) を満たすとする.このとき,以下の3つの公理を 満たす整数を に対する degree ( 次数 ) といい, と書く..

本節では本研究で実際にスレッドのトレースを行うた めに用いた Linux ftrace 及び ftrace を利用する Android Systrace について説明する.. 2.1

実際, クラス C の多様体については, ここでは 詳細には述べないが, 代数 reduction をはじめ類似のいくつかの方法を 組み合わせてその構造を組織的に研究することができる

この chart の surface braid の closure が 2-twist spun terfoil と呼ばれている 2-knot に ambient isotopic で ある.4個の white vertex をもつ minimal chart

すべての Web ページで HTTPS でのアクセスを提供することが必要である。サーバー証 明書を使った HTTPS

【現状と課題】

遮音壁の色については工夫する余地 があると思うが、一般的な工業製品