目 次 Ⅰ はしがき Ⅱ 最低賃金制度の目的と決定方式 Ⅲ 欧米の議論を踏まえて Ⅳ 最低賃金の効果について Ⅴ 日本の最低賃金制度について
Ⅰ
は し が き
民主党はマニフェストですべての労働者に適用 される 「全国最低賃金」 を時給 800 円とし, 全国 平均を 1000 円に引き上げることを打ち出した。 こうした公約からも明らかなように, 今日, 日本 の最低賃金は幾つかの問題に直面している。 第一 に, ワーキングプアに代表されるような極度の貧 困が日本にも存在することが認識され始め, 経済 格差の是正が緊急の課題になっているが, 最低賃 金は貧困の下支えとして機能していないこと, 第 二に労働基準法で定められた 1 週 40 時間を働い ても最低賃金では所得が生活保護の給付額より低 くなるケースが多くみられること, 第三に外国人 労働者の賃金が最低賃金近くに設定され, 労働の 内実とそぐわないために, 労働資源の配分メカニ ズムに歪みが生じかねないことである。 この小論の目的は, こうした状況を念頭に日本 の最低賃金の歴史的な変遷と欧米の実態や議論を 踏まえて, 日本の最低賃金がなぜ今日のような状 況にあるのか, また今後, どのような姿としてあ るべきかを探ることにある。 論文の構成は次のよ うである。 Ⅱでは最低賃金制度の目的と決定方式を国際的 に概観し, 決定方式の違いによって最低賃金の水 準と動きにどのような差が生じるかをみる。 Ⅲで は最低賃金制度に関する欧米の実態と議論を踏ま 特集●最低賃金日本の最低賃金制度について
欧米の実態と議論を踏まえて
大橋
勇雄
(中央大学教授) この小論の目的は, 日本の最低賃金制度の歴史的な変遷を概観すると同時に, 欧米の実態 や議論を踏まえて, 日本の最低賃金がなぜ今日のような状況にあるのか, また今後, どの ような姿としてあるべきかを探ることにある。 具体的には, 最低賃金制度の決定方式につ いて国際比較をし, その違いによって最低賃金の水準と動きにどのような差が生じるのか, また最低賃金の引き上げが雇用に対してプラスの効果をもつとする理論モデルの基礎がい かに脆弱であるかを明らかにする。 こうした作業は, 現在, 民主党のマニフェストにそっ て最低賃金が大きく引き上げられようとしている中で, その意味を深く理解するためのも のである。 さらに日本の最低賃金制度がどのような経緯を経て今日に至ったかを見定めた 上で, 今後どのような展開が期待されるかを欧米の実態を踏まえながら展望する。 特に, 低賃金で働く労働者の中には主婦パートや学生アルバイトなど必ずしも低所得の世帯員と は言えない労働者もいれば, 賃金収入で自らの生活を支えなければならない労働者もいる。 現行制度では, これらの労働者を一くくりにして時間給で最低賃金を決めているが, もっ ときめ細かい設定が必要に思われる。 本論では欧米のような年齢別の減額率ではなく, 主 婦のパートや高齢者の存在に配慮して, 労働時間別の減額率を提唱している。えて, それが異なった労働市場の枠組みのもとで 影響にどのような違いがでるかを議論する。 さら にⅣでは最低賃金が雇用に対してもつ効果を理論 的に検討する。 特に, その引き上げが雇用に対し てプラスの効果をもつことを説明する理論モデル の脆弱性を明らかにする。 Ⅴでは日本の最低賃金 の歴史的な変遷を概観し, どのような経緯を経て 今日に至ったか, また今後どのように展開すべき ことが期待されるかを展望する。
Ⅱ
最低賃金制度の目的と決定方式
現行の最低賃金法は第 1 条で 「この法律は, 賃 金の低廉な労働者について, 賃金の最低額を保障 することにより, 労働条件の改善を図り, もって, 労働者の生活の安定, 労働力の質的向上及び事業 の公正な競争の確保に資するとともに, 国民経済 の健全な発展に寄与することを目的とする」 と謳っ ている。 最低賃金制度に関する ILO 条約 (第 26 号) も最低賃金率の適用や公正な競争の確保を強 調しており, 上の目的は, この条約を批准してい る諸国ではほぼ共通している。 しかし, 第一義的 な目的は同じでも, 国によって最低賃金の決定方 式は大きく異なる。 一般にタイプは四つに分類さ れるが, ここでは労働裁判所方式1)を除く次の三 つに着目する。 ただし, 一つの国でもその適用範 囲が国全体や産業, 業種, 地域などによって異な る場合, 異なったタイプの決定方式が並存するこ とに留意されたい。 1 審議会方式 労働側と使用者側をそれぞれ代表する同数の委 員と中立委員から構成される審議会が最低賃金を 決定するが, 形式的にも実質的にも賃金委員会と 呼ばれる審議会が決定権をもつ場合と, 実質的に は審議会が決定権をもつが形式的には決定権限を もつ者の諮問機関として機能する場合とがある。 現在, 前者の方式をとる国としては, ベルギーや ある特定業種に賃金審議会を設置したかってのイ ギリス (1993 年に廃止) などがある2)。 他方, 現 在のイギリスやフランス, スペインなどの多くの EU 諸国, 及び日本では, 後者の審議会方式がと られている。 審議会方式については日本を対象に 後節で詳しく議論しよう。 2 法定方式 法律によって最低賃金を決定する方式であるた めに, その改定は一般の法改正と同じ手続きで行 う必要がある。 その例として, アメリカの連邦最 低賃金は上院と下院での議会審議という立法過程 を経て決められ, 公正労働基準法 (1938 年制定) にその額が直接規定される。 またアメリカの各州 には州法に基づいて州最低賃金制が存在するが, 州によって様々であり, 法定方式を中心に審議会 方式や両者の併用などもみられる。 州によっては 産業別・職種別の最低賃金も存在する。 一般に州の最低賃金額は連邦のそれより同額, 又は低く決められる。 これは適用労働者がほとん どの州で, 州内のすべての労働者とされるのに対 して, 連邦最低賃金の場合, 州際商業 (州相互間, 又は 1 州とその領域外の場所との取引, 輸送, 通信 など) に関連した仕事に従事しているとか, 一定 の規模以上の企業で雇用されている, などの範囲 が決められているからである。 ただし, 近年, 連 邦最低賃金の改定頻度が少なくなり, 物価上昇に よる実質的な最低賃金の低下を避けるため, それ を上回って最低賃金の水準を決める州が少なくな い3)。 3 労働協約方式 この方式は, 労働組合と使用者との間の団体交 渉で締結された労働協約上の賃金の最低額を, 拡 張適用法のもとに, 協約の締結当事者 (組合員) 以外の外部の労働者に対しても強制的に適用しよ うとするものである。 ただし, 元になる労働協約 が, 一定の地域内の特定の産業又は職種の労働者 のかなりの部分, すなわち法で決められた一定比 率以上の者に適用されていなければならない。 こ の方式をとる国として, ドイツやイタリア, オー ストリア, デンマーク, スウェーデン, ノルウェー などがある。 eironline (2005) によれば, こうし た各部門別の協約賃金の拡張適用の結果, 経済全 体で協約最低賃金によってカバーされる雇用者割 合は, 2004 年時点でドイツが 69%, イタリアが100%, オーストリアが 98%, デンマークが 81∼ 90%, ノルウェーが 70%となっている4)。 フランスでも労働協約方式が特定の業種で存在 し, 審議会方式による全国全産業の労働者に一律 に適用される 「発展のための全職業最低賃金」 (SMIC) と並存している。 SMIC を上回って特定 業種の協約最低賃金が決められた場合, その拡張 適用によって最低賃金が決められるという形であ る。 これは基本的にスペインも同様である。 他方, ドイツでは部門特殊法定最低賃金と言わ れる法定最低賃金が導入され始めている。 ただし, それは特定の低賃金業種の協約最低賃金を政府が 法定化するという形のもので正式な審議会方式に よるものではない。 まず 1997 年に建設現場で, 次いで 2004 年に塗装, 屋根ふき, 解体の各部門 で法定最低賃金が設定された。 現在, 政府はすべ ての部門に適用することを提唱しているが, こう した背景にはポーランドやチェコなどからドイツ に派遣される外国人労働者にも最低賃金を導入し, 国内の賃金ダンピングを防ぐ狙いがある。 日本でも労働協約の拡張適用が法制化され, 広 島県と滋賀県の塗装製造業関係で実施されていた が, 日本の労使関係にマッチしていないとして 2007 年の最低賃金法の改正により労働協約に基 づく地域的最低賃金は廃止されることになった。
Ⅲ
欧米の議論を踏まえて
近年, 一体化理論 (the Unified Theory) とい う仮説5)が欧米の経済学者の議論の的になってい る。 それはドイツやフランス, イタリア, スペイ ンといった欧州大陸の主要国とアメリカやイギリ スといったアングロサクソン系の国の間に見られ る経済パフォーマンスの差を労働市場の弾力性, 特に賃金の弾力性と賃金格差の大きさの違いに求 める仮説である。 2008 年にアメリカのサブプラ イムローン問題に端を発した世界的な金融恐慌以 降, アメリカでも失業率は大幅に上昇し, 2009 年 8 月現在, 9.7%とユーロ圏 16 カ国の 9.5%(7 月現在) と肩を並べるまでになっている6)。 しか し, それ以前の状況は欧州大陸とは大きく異なっ ている。 ちなみに, 1960 年から 1990 年代にかけ てアメリカの失業率は一時 7%を超える時期もあっ たが, 総じて言えば 5%前後で横ばいであった。 これに対し, イギリスやドイツ (西), フランス ではかって失業率は 2∼3%程度でアメリカの 5% 前後よりも低い水準にあったが, 1970 年代には 上昇し始め, 2000 年代の前半ではドイツ・フラ ンスともに 8%前後にもなっている。 興味深いの は, イギリスの失業率が 1980 年代の後半から低 下し, 10%強からアメリカと同じ 5%前後の水準 にまで低下したことである。 この背後には 1980 年代のサッチャー政権下での規制緩和政策があっ たとされる7)。 欧米の経済学者が強調するのは, 1960 年代以降 に生起した様々な経済的ショック, たとえば 2 度 にわたる石油ショックや熟練労働に偏向する技術 進歩などに対して, アメリカでは実質賃金の弾力 的な調整によって対応できたが, 欧州大陸の主要 国では賃金が全般的に上昇し, しかも不熟練労働 者の相対賃金も高く維持されたままであったという 点である。 その結果, アメリカやイギリスでは失業 率が低くなり, 賃金格差が拡大したのに対して, 欧州大陸では逆に若年者を中心に失業率が高くな り, 賃金格差は縮小気味に推移したとされる。 ち なみに, OECD Employment Outlook (2004) に よれば, フルタイム雇用者で下位 10%の百分位 数 に あ る 者 の 年 稼 得 収 入 に 対 す る 上 位 90%の者のその比率は, アメリカが 4.59, イギ リスが 3.45 と高いのに対して, ドイツが 2.87, フランスが 3.07 と低い。 しかも, 過去 20 年間以 上にわたり, アメリカとイギリスでは格差は拡大 傾向にある。 要するに, 失業と格差はコインの表 と裏の関係にあるというのが一体化理論である。 日本はどう位置づけられようか。 失業率は傾向 的に上昇し, 2003 年には 5.6%となり, 少しアメ リカを上回る一時期もあったが, 総じてアメリカ よりも低い。 他方, フルタイマーの賃金格差は, ドイツよりは大きいが, フランスとほぼ同じであ り, 拡大傾向は見られない。 ただし, 非正規労働 者をも考慮すれば, 日本でも格差は拡大している だろう。 というのは, 近年, パートタイマーと一 般労働者との賃金格差が拡大すると同時に, 前者 の比率が上昇しているからである8) 。
労働市場の制度的な枠組みのなにが問題になる のだろうか。 よく指摘されるのは次の四つである。 第一に, アメリカでは賃金交渉が個々の企業レベ ルで行われ, 分権的であるのに対して, 欧州大陸 では中央集権的で産業もしくは全国レベルで賃金 交渉がなされる。 個別の賃金交渉であれば, 各企 業の個別事情を勘案して賃金が決められるが, 中 央集権的であればどうしても平均的な賃金に集中 する。 さらに欧州大陸の多くの国では組合との妥 結賃金が拡大適用法のもとに未組織セクターの賃 金にも適用され, 賃金分布が圧縮される。 第二の要因は, 欧州大陸の寛大な社会保障制度 である。 たとえば, 失業手当の平均置き換え率 (失業初年の受給額のこれまでの給与に対する比率) は, ドイツとフランスでは 0.59 と 0.37, アメリ カとイギリスでは 0.29 と 0.17 となっており, 大 きな差がある。 しかも欧州大陸では失業手当を受 給できる期間が長い。 これらは労働者の働くイン センティブを削いでいると言われる9)。 第三の要因として, 雇用保護制度の厳格さが問 題にされる。 厳格さの程度が強ければ, 雇用の弾 力性が失われ, 逆に失業率が高くなるというので ある。 ここで, 雇用保護の厳格さの指標は, 解雇 の予告期間やその手当, 有期雇用の長さなどを総 合的に勘案して作成されたものであり, 恣意的な 要素が入っているとの批判もある10)。 第四の要因が本論で議論される最低賃金の決定 方式である。 まず各国の最低賃金の水準やその動 きを手掛かりに, 審議会と法定, 協約の三つの方 式を簡単に比較してみよう。 表 1 には 2006 年 1 月時点の EU 各国とアメリカ, 日本の最低賃金の 水準 (円換算) が掲載されているが, EU 諸国の 法定最低賃金11) は, スペインとポルトガルを除き, 17 万円を超えており, 日本の 11 万 5000 円, ア メリカの 8 万 9000 円と比較してかなり高い。 た だし, 名目水準を比較しただけでは不十分である。 そこで, Eurostat (news release: 2006/7/13) は, 私的消費財の購買力平価 (2005 年 12 月時点) で調 整した最低賃金額を報告している。 それによれば, 最高額であったアイルランドがフランスに次いで 5 番目になるが, それ以外の国のランクには変化 がない。 カイツ指標 (Kaitz Index) は, 国の平均賃金に 対して相対的に最低賃金がどれほどの水準にある 表 1 最低賃金の国際比較 最低賃金 (円) 変化率 (%) 適用率 (%) カイツ指標 (率) カイツ指標 (%) 2006 年 2000-2006 年 2004 年 1991-1993 年 2005 年 EU 諸国 ドイツ 協約賃金 0.55 フランス 170,520 16.1 15.6 0.50 55 イタリア 協約賃金 0.71 スペイン 88,340 48.5 0.8 0.32 42 オランダ 178,220 16.6 2.1 0.55 52 ポルトガル 61,180 17.8 5.5 0.45 44 ベルギー 172,760 12.6 n.a. 0.60 56 オーストリア 協約賃金 0.62 スウェーデン 協約賃金 0.52 フィンランド 協約賃金 0.52 アイルランド 181,020 36.8 3.3 0.55 60 イギリス 177,660 41.8 1.8 0.40 42 Non-EU スイス 協約賃金 0.52 ノルウェー 協約賃金 0.64 アメリカ 89,095 0 1.4 0.39 37 日本 115,045 1.4 1.4(注) 29 注 : 欧州諸国の最低賃金はフルタイム労働者に適用されるものであり, 月ベースで表示されるために, アメリカと日本の最低賃金の算出に は, 時給に 173 時間を乗した。 また為替レートは, 当時と今日では大幅に異なるが, とりあえず, 1 ユーロを 140 円, 1 ドルを 100 円 として算出した。 適用率とは, 最低賃金を受けている労働者の比率である。 日本の場合は, 未満率 (最低賃金を改正する前に最低賃金 額を下回っている労働者割合) である。 変化率の算出には各国の通貨表示をそのまま利用した。
資料 : 1991-1993 年のカイツ指標は, Dolado et al. (1996), また 2005 年のそれは European Foundation for the improvement of Living and Working Condition (Minimum wages in Europe: Background paper, 2007) を再掲したものである。 その他, eironline (2005). eurostat (news release: 2006/7/13), eurostat (MINIMUM WAGES 2005) を利用している。
かをその比率を通してみたものである。 特に契約 方式を採用しているドイツやイタリアなどでは最 低賃金が年齢や産業, 職種によって大きく異なる ために, 各最低賃金がカバーする労働者の全体に 占める比率をウエイトとして算出する必要がある。 Dolado et al. (1996) は, 1990 年代の初期につい て各国のカイツ指標を報告している。 一般に協約 最低賃金に対して審議会方式と法定方式による最 低 賃 金 は 法 定 最 低 賃 金 (Statutory minimum wage) と呼ばれるが, 表 1 によれば, 協約最低 賃金の方が法定最低賃金より相対的に高いようで ある。 ちなみに, 協約方式をとる国のカイツ指標 はすべて 0.5 を上回るのに対して, 審議会もしく は法定方式の国ではスペインが 0.32, アメリカ 0.39, イギリス 0.40 となっている。 指標が高い 国は, 順にイタリアの 0.71, ノルウェーの 0.64, オーストリアの 0.62 となっており, いずれも協 約方式をとる国である。 こうして強力な労働組合 の存在のもとに妥結した最低賃金を適用拡大法に より未組織のセクターに波及させる仕組みは, 最 低賃金の絶対額とともに国内での相対的な水準を 押し上げる傾向があると言えよう。 2005 年のカイツ指標は, 労働者構成比による ウエイト付けが必要のない法定最低賃金について のものであるが, 1990 年代初期の指標と比較し てその限りでは傾向に大きな差はない。 ここでは 日本も掲載されているが, 29%とアメリカの 37 %より低く, 取り上げられた国の中では最低の位 置にある。 ただし, イギリスを除く多くの EU 諸 国の最低賃金がフルタイムの成人労働者を対象に していることには留意したい。 表 1 には, 2000 年から 2006 年までの法定最低 賃金の上昇率も示されている。 EU 諸国ではどの 国も 10%を超える。 特に, スペインが 48.5%, アイルランドが 36.8%, イギリスが 41.8%と極 めて高くなっている。 理由として, スペインにつ いては消費者物価上昇率が 1995 年から 2005 年に かけての年平均の上昇率が 3%を上回り, 上に掲 げた EU 諸国では最も高いことが考えられる。 消 費者物価上昇率が 2%とフランスなどの他の諸国 より低いイギリスとアイルランドについては, 相 対的に最低賃金が低いために, EU 統合の流れの 中で他国の平均に収斂させる必要に迫られたとい う事情が考えられる。 特に, イギリスとアイルラ ンドは新しい最低賃金制度をそれぞれ 1999 年と 2000 年からスタートさせたばかりであり, 当初 は国の生産性や生活水準に比して低く設定された ものと推測できる。 アメリカと日本は最低賃金の水準も低いが上昇 率も低い。 近年, アメリカでは賃金格差の拡大が 実証的に確認され, また日本でも経済格差の存在 が社会問題化しているが, その背景にはこうした 最低賃金の動向を無視できないだろう。 日本に関 しては後に議論するとして, アメリカで最低賃金 が低く抑制されるのは, 国民の間で自由な市場経 済を標榜する風潮があることのほか, 法定方式に よる最低賃金の決定のあり方とも関連していよう。 たとえば, アメリカでは 1997 年から 2007 年にか けて約 10 年間もの間, 連邦最低賃金が時給 5.15 ドルに据え置かれた。 これには 2001 年から就任 した共和党のブッシュ政権の影響があったと思わ れる。 特に, 大統領が強い拒否権をもつことから, たとえ両院議会で最低賃金の改定が可決したとし ても最終的な決定にはならない可能性すらある。 ただ, 2007 年の最低賃金改定の背後には前年の 中間選挙で民主党が上下両院で過半数を占めるよ うになり, ブッシュ大統領が改定を容認せざるを えない状況になったことが指摘されよう。 同じよ うに 1981 年から約 10 年間の間, 時給 3.35 ドル と据え置かれ, 物価や生産性の上昇にリンクしな い最低賃金の実質的な価値は大幅に減額したとさ れる。 ちなみに, アメリカは 1981 年から 1989 年 まで共和党のレーガン大統領の政権下にあった。 欧州大陸の国々の失業率を低くするために, 最 低賃金制度や社会保障制度, 雇用保護制度などの 改 革 を す べ き で あ る と い う 主 張 が Blau and Kahn (2002) や Heckman (2003) などの伝統的 な市場重視の経済学を信奉する人々からなされる。 同時に, OECD や IMF などの国際機関もそれに 追随する。 しかし, これらの制度は福祉国家の根 幹をなすものであり, 欧州の経済学者の中には Nickell and Layard (1999) や Howell (2005) な どのように, 構造改革論は教科書的な市場経済理 論をあまりにもステレオタイプ化しすぎていると
する者も多い。 次節では最低賃金の効果に焦点を あて, その効果を考えてみよう。
Ⅳ
最低賃金の効果について
最低賃金の効果が経済学者の注目を集めるよう に な っ た の は , Katz and Krueger (1992) や Card and Krueger (1994) などの一連の実証的 研究によるところが大きい。 特に, 後者は 1988 年に最低賃金が引き上げられたニュージャージー 州と引き上げられなかった隣接のペンシルバニア 州でのファーストフード店での雇用変化の差をみ たものである。 より具体的には, 前者の州で雇用 が若干ではあるが増加し, 後者の州では雇用がはっ きりと減少していたことから, 最低賃金は雇用に 対してマイナスの効果をもっているとは言えない とし, むしろプラスの効果もありうるという結論 が導かれた。 伝統的な経済学は基本的に最低賃金 の雇用に対する効果はマイナスであると考えてい たことから, その後, 上の研究の妥当性について 経済学者の間で大論争になった。 その論争の論点 や経緯が Neumark and Wascher (2007) や川口 (2009) に詳細にまとめられている。 筆者がここで注目したいのは, 最低賃金がプラ スの効果をもつとするモデルの理論的基礎の脆弱 さである。 一般に社会科学の実証分析では説明変 数を完全にコントロールすることはできないから, いかなる結果がえられようとも理論的な根拠が脆 弱ならば, その信頼性は薄いだろう。 モデルには 次の三つのタイプがある。 第一は, 労働力の買手 独占モデル (Monopsony model) であり, 第二は, サーチ・モデル (Search model), 第三は効率賃 金モデル (Efficiency wage model) である。 以下, それぞれ批判的に検討しよう。 第一のモデルによれば, 企業が地域などで労働 力の買手として独占的な地位にあるとき, 競争的 な労働市場と比較して雇用が抑制され, 不効率が 発生しているから, 最低賃金の設定が必要である とされる。 すなわち, 買手独占的な労働市場では 採用者数の増加とともに賃金が上昇するために, 労働の限界費用 (追加的に一人の労働者を採用した 場合に必要とされる費用) には新しく採用する労 働者の賃金ばかりではなく, すでに雇用している 労働者の賃金上昇分が加えられる。 その結果, 企 業は採用の抑制により賃金の上昇を防ぐ行動をと る。 こうして労働の価値限界生産物 (追加的に採 用した一人の労働者が生みだす価値) は賃金 (労働 者が働いてもよいとする労働の供給価格) を上回る ことになり, 独占利潤が生まれ均衡の雇用水準は 競争的な市場より低くなる。 このとき, 最低賃金 を均衡賃金より高く設定し, 企業にその履行を強 制すれば, 雇用を増大させうる。 ただし, それは 最低賃金が労働の価値限界生産物と等しくなるま でであり, それ以上の引き上げは価値限界生産物 に沿って雇用は減少する。 買手独占モデルには幾つかの疑問を禁じえない。 第一に, 最低賃金の効果はパートなどの非正規労 働者を多く雇用する中小零細企業を念頭に考える 必要があるが, 地域で労働の買手独占的な地位に ある企業は, 一般に規模の大きな大企業であり, 賃金は他の中小企業と比較して相対的に高い。 第 二に, 中小零細企業でも雇用形態は多様化してお り, 賃金が最低賃金に近い水準の労働者ばかりで はない。 しかも, パートや契約労働者などの基幹 化を考慮すれば, 全くの未熟練で最低賃金に近い 労働者の比率は小さいだろう。 すなわち, 低賃金 労働者の採用増が他の雇用者の賃金総額の上昇を 通して限界費用の増大をもたらす効果は限定的で ある。 第三に, 最低賃金の雇用への正の効果は労 働供給の賃金弾力性が大きいほど, すなわち賃金 の上昇が労働供給量を大幅に増大させるほど大き いが, Cahuc and Zylberberg (2004, Ch. 12) に よれば, 欧米の研究では平均して大きくはないと される。
第二のサーチ・モデルは, Card and Krueger (1995, Ch. 11) や Manning (2003) 等によって展 開されたもので, 労働市場における情報の不完全 性に着目するものである。 労働市場は摩擦的であ り, そこで人々はすべての求人や求職者, 賃金に 関する情報を瞬時に入手することはできない。 そ の結果, 市場では様々な水準の賃金が成立する。 そこで, 労働者は時間などのコストをかけて職を 探索する一方で, 企業は必要な労働者を確保する ための努力をしなければならない。 今, 雇用量を
L , 賃 金 を w , 一 期 間 当 た り の 離 職 率 を 関 数 q(w)(q<0)とすると, 毎期, q(w)L だけの労働 者が新たに条件のよい職を発見したなどの理由で 企業を辞めていく。 そこで企業は L の雇用水準 を維持するためには新規に労働者を採用しなけれ ばならない。 当該企業に応募し, 採用される労働 者の数を関数 H(w)(H>0)とすると, 均衡では q(w)L=H(w) が成立しなければならない。 した がって, 均衡雇用量は L*=H(w)/q(w) となる。 ここで, 採用者数 H は賃金の増加関数, 離職率 q は減少関数であることから, 均衡雇用量は賃金の 増加関数になる。 企業はより多くの雇用量を維持 しようとすれば, より高い賃金を支払わなければ ならないという意味で, この関数は, 個々の企業 が直面する労働供給関数でもある。 こうして企業 は情報が不完全な労働市場で買手独占的な状況に 置かれることになり, すでにみたように, 最低賃 金の引き上げが雇用を増大させる余地が生まれる。 サーチ・モデルに対しても幾つかの批判が可能 である。 第一に, 最低賃金に近い仕事は熟練を必 要としない誰にでも容易にできるものが多く, 市 場賃金は低位で平準化している。 つまり, 完全競 争的な市場に近く, コストをかけて高い賃金を探 す行動にはあまり価値がなさそうである。 むしろ, そこでは労働時間の長さや時間帯などの要因が重 視される。 第二の問題は, 採用関数の定式化をより現実的 にすれば, 結論が大幅に変わることである。 Brown (1999) によれば, 雇用量が増えれば必要 な採用者数も増加するとし, H=h(w)L とした 場合, 均衡で q(w)=h(w) が成立し, この式を 満たす賃金 w*のもとで, どの水準の均衡雇用量 も可能である。 この場合, もし均衡賃金より最低 賃金が高く設定されると, q(w)<h(w) となり, 離職者数が少なく, 必要な採用者数が応募者数を 下回ることになる。 また採用関数が H=h(w)L で>1 のとき, 均衡雇用量は賃金の減少関数に すらなる。 第三の問題は, Stigler (1946) の指摘によるも のである。 先の離職関数も採用関数も, 当該企業 の賃金変化にもかかわらず, 他企業の賃金分布は 一定であると想定されている。 しかし, 最低賃金 の引き上げは, それが有効であればあるほど, よ り多くの企業の賃金をその水準で一様化する。 そ うした状況下で企業が最低賃金に応じて賃金を引 き上げたとしても離職者や応募者の数に大きな変 化は生じないだろう。 サーチ・モデルをより精緻化した形で展開し, 最 低 賃 金 の 雇 用 へ の 正 の 効 果 を 示 し た の が Burdett and Mortensen (1998) である12)。 Card
and Krueger (1994) も彼らのモデルに依拠して いる13)。 彼らのモデルのポイントは, 労働者が様々 な供給価格, つまり留保賃金のもとに職探しをす る場合, 企業はたとえ供給価格が生産性より低い 労働者と遭遇したとしても必ずしも採用するとは 限らないという点にある。 こうした過小で不効率 な雇用が均衡で成立するのは, 企業が様々な供給 価格をもつ労働者のうちからもっと低い供給価格 をもつ労働者と契約しようと, サーチを続行する からである。 このとき, 最低賃金が設定されると, それ以下の賃金での契約が許されなくなるから, サーチを続行するメリットは減少し, 契約が促進 されることになるとされる。 精緻化されたサーチ・モデルは, 一般均衡論的 な枠組みのもとに最低賃金の効果を分析している が, 仮定があまりにも厳しい。 たとえば, 個々の 企業で労働の限界生産性は雇用量の変化とは関係 なく一定であるとか, 労働者の供給価格はその能 力や生産性とは無関係に分布しているといった非 現 実 的 な 仮 定 が な さ れ て い る 。 ま た Brown (1999) は, 現実には最低賃金の水準で賃金分布 にスパイクがみられるが, 彼らのモデルでは賃金 分布が連続的であると批判的である。 第三の効率賃金モデルは, 効率賃金仮説に依拠 して最低賃金が雇用に対して正の効果をもつこと を論じる。 効率賃金仮説は, 賃金と労働生産性と が正の関係にあるとき, 企業は労働の供給価格よ りも賃金を高く設定すると主張する。 Drazen (1986) は, 平均賃金をより高くすればより質の よい労働者が市場に集まるようになり, 個別企業 はその恩恵に浴することができるとし, 最低賃金 の引き上げは市場全体でそれを可能にすると考え る。 また Rebitzer and Taylor (1995) は, 雇用 者数が増大するにつれて労働者の行動を十分に監
視できなくなり, 不正行為の可能性が高まること から, 不正行為の発覚による解雇のコストを大き くするために高い賃金の支払いが必要であるとす る。 さらに Manning (1995) は, 効率賃金仮説を 一般的な形で想定し, 最低賃金が雇用に正の効果 をもつ条件を明らかにしている。 本来, 効率賃金仮説は労働の質や訓練費用の効 率化, 監視費用の削減などが重要な課題となって いる企業が高い賃金を支払うという側面に注目す ることによって, 賃金の下方硬直性, ひいては非 自発的失業者が発生するメカニズムを, また産業 間や企業間で大きな賃金格差が持続することを説 明するために構想されたものである。 それを労働 の質や訓練が重要な関心事とはならない不熟練労 働者の雇用に適用し, 最低賃金の効果を分析しよ うとすることには些か無理があるようである。 これまで最低賃金が雇用に正の効果をもつとす るモデルを批判的に検討したが, 逆にそれは最低 賃金が負の効果をもつことを積極的に主張するも のではない。 最低賃金の引き上げは, ただちにそ の適用者を雇用する企業の労務費を上昇させる。 企業が彼らを熟練労働者に代替したり, 製品やサー ビスの価格を上昇させてそれをカバーしようとす れば, 不熟練の低賃金労働者の雇用は減少しよう。 しかし, 労務費の上昇を打ち消すような何らかの 対応が現場にあれば, 雇用への影響は軽微になる。 考えられる一つは, 賃金の上昇が労働者のインセ ンティブを高める効果である。 しかし, Bewley (1999) が指摘するように, そうした効果は長く は続かない。 というのは, 労働者が次第に賃金の 引き上げを忘れがちになったり, また自分にはそ の賃金に値するだけの価値があると思うようにな るからである。 もう一つの対応は, 仕事の内容を職域の拡大や 労働時間の延長により賃金に見合ったものにする ことである。 Card and Krueger (1995) によれ ば, ファーストフード・レストランでも様々な仕 事があり, 一人の労働者が複数の仕事をしている。 たとえば, 厨房での調理や設備の管理, 清掃, モッ プかけ, レジでの注文取りや集計, 料金の受け取 りなどがあり, 一人が職域を拡大すれば, 職場は より弾力的に変化に対応できる。 また労働時間を 長くすれば, 通勤にかかる時間や費用, 教育訓練 などの固定費も節約できよう。 こうして最低賃金 の引き上げが企業にとって職場の見直しの契機に なれば最低賃金の負の効果の相殺も可能である。
Ⅴ
日本の最低賃金制度について
最初に, 歴史的な展開を簡単にみてみよう14)。 1947 年に労働基準法が制定され, そこで最低賃 金に関する規定が設けられていたが, 具体的な措 置として最低賃金法が制定されたのは 1959 年の ことである。 ただし, それ以前にも最低賃金らし きものは存在した。 それは 1956 年に静岡県労働 基準局長の指導のもとに静岡缶詰協会の会員事業 所が缶詰調理工の初任給協定を締結したことから 始まった。 これは事業者団体による自主的な最低 賃金に関する協定であり, 何ら法的な拘束力をもっ ていない。 また労働組合がその決定に参加してい ないから, ドイツやイタリアなどの労働協約方式 でもない。 単なる業者間協定による最低賃金であ る。 この最低賃金は旧労働省の積極的な推進によ り 各 地 で 締 結 さ れ , 最 低 賃 金 法 が 制 定 さ れ る 1959 年の 4 月までに 127 件になったとされる。 この業者間協定方式が法制化されることになった 背景には, 当時, 輸出の急増によってアメリカを 中心に諸外国からソーシャル・ダンピングとの批 判が日本に向けられ, ガット加入への障害になっ ていたこと, 及び国内的には本格的な高度成長期 の到来を前に繊維や金属・機械などの低賃金業種 で若年者の初任給が上昇し, それをカルテルによ り阻止しようとする意図があったとされる。 制定された最低賃金法には労働協約や審議会方 式を可能にする条項もあったが, 現実には 「業者 間協定にもとづく最低賃金」 を中心にしながら, 併せて 「業者間協定にもとづく地域的最低賃金」 も普及した。 しかし高度成長のもとで最低賃金の 普及状況に産業間及び地域間で不均衡が生まれ, さらに協定最低賃金の水準の低さからその実効性 の欠如が批判されるようになった。 そこで法成立 後に設置された中央最低賃金審議会 (公労使各 7 名) が 1964 年に 「最低賃金の対象業種および最 低賃金額の目安について」 の答申を出し, 地域別及び業種別 (3 地域 2 業種別) に最低賃金の具体 的な目安を示した。 ただし, 2 年後の 1966 年に は業種区分が廃止され, 地域別の目安のみが示さ れるようになった。 さらに審議会により業者間協 定方式から審議会方式への移行が主張された結果, 1968 年には法改正によって審議会方式が基準と され, 業者間協定方式は廃止された。 こうした動 きを後押ししたのは, 労働者の代表が関与しない 業者間協定方式では ILO 条約を批准できないと いう事情であった。 1971 年にようやく最低賃金に関する ILO 条約 (第 26 条及び第 131 号) の批准が行われた。 この 年は同時に法第 16 条 「最低賃金審議会の調査審 議に基づく最低賃金」 のもとで地域別最低賃金の 審議が地方で始まった年でもある。 その後, 労働 省の 「最低賃金の年次推進計画」 のもとに県全域 の労働者を対象にしてそれは急速に発展した。 他 方, 法第 11 条 「労働協約に基づく地域的最低賃 金」 による方式は, 企業別組合をベースにする労 使関係のもとでは普及せず, むしろ審議会方式に よる産業別最低賃金が業種をおおくくりにした形 で進展した。 現在の日本の最低賃金制度の骨格が出来上がっ たのは, 1978 年に目安制度が導入され, 地域別 最低賃金の引き上げ額について中央最低賃金審議 会が地方の審議会に対して目安を提示した時期で ある。 都道府県を A, B, C, D の四つのクラス に分類し, それぞれについて引き上げ額の目安を 示すというものである。 ただし, 公労使の三者が 合意できたのは最初の 3 年間のみで 1981 年以降 は公益見解として引き上げ額が地方に示され, 労 使はそれぞれの不満を意見書によって表明してい る。 他方, 産業別最低賃金の性格も変化し, 地域 別最低賃金より高い水準を必要とする小くくりの 産業に限定すべきとの観点から, 1982 年には新 産業別最低賃金への転換が, さらに 2007 年の法 改正では派遣労働者をも対象にした特定最低賃金 となった。 2007 年の法改正の重要なポイントは, 地域別 最低賃金について第 9 条で労働者の生計費を考慮 するに当たっては, 「生活保護に係る施策との整 合性に配慮するものとする」 とされたことである。 これは 「最低賃金制度のあり方に関する研究会報 告書」 厚生労働省 (2005) で, 特に 18∼19 歳単 身者の最低賃金の水準が生活保護支給額を下回る 地域すらあるとされ, 健康で文化的な最低限度の 生計費の保障という観点から, また就労に対する インセンティブという観点から問題があるという 議論を踏まえたものである。 前者の観点は尤もな ものであるが, 後者には些か疑問が残る。 という のは, 生活保護を受給するには今では厳しい資力 調査をパスした上で, 貯蓄や有価証券, 住宅, 車 などの保有に制限が課され, 不便な生活を強いら れるために, 最低賃金での労働と生活保護受給と は実際には代替的とは言えないからである。 ただ し, 橘木・浦川 (2006) のように, 働いている人 の方が働いていない人より所得が低いのは人間心 理として理解が困難であるとする立場までをも否 定はできないだろう。 国際比較の視点からも生活保護受給額との比較 からも日本の最低賃金は低いと言えるが, 制度の どこに問題があるのだろうか。 筆者は 1990 年代 の中ごろ愛知県地方最低賃金審議会の公益委員を 経験したことがある。 その経験から, まず手元の 資料として失業率や消費者物価などの日本経済の 概況, 春闘の妥結状況, 6 月に行われた 賃金改 定状況調査 の結果, 他県の状況などが配布され る。 今なら県の生活保護受給額の実態報告があっ ても不思議ではない。 使用者側は常に引き上げ額 ゼロの主張から始め, 労働側は目安を上回る額を 主張する。 公益委員は, 岐阜や静岡などの近隣県, あるいは愛知県と同程度に経済力がありそうな大 阪や埼玉などの他県の状況をみて妥当な引き上げ 額を探る。 中央最低賃金審議会の目安の決定とは 異なり, 最終的には労使の意見がまとまらなけれ ば, 審議会は終わらない。 そのため, 1 円の引き 上げをめぐっても延々と議論が続く。 審議会の委 員として労側から大手企業の組合役員が, 使側か らは各種経営者団体の役員が推薦されている場合 が多く, 最賃の 1 円の高低は実利的に大きな問題 ではないだろう。 しかし, 彼らは出身組織や関連 の団体に帰り, 審議結果を説明しなければならな い。 もし十分な説明ができなければ, 職責を問わ れかねない。 これでは目安から大幅に乖離した額
を呑むわけにはいかない。 公益委員の役割は, 落 とし所をみつけ, 労使の委員に理由を分かり易く 説明することである。 中央最低賃金審議会の重要な役割は, 各県の労 使が合意しやすい引き上げ額をランク別に提示す ることである。 特に各ランクでも常に下位にある 県が追随できるような額を決めなければならない。 しかも, 労使が鋭く対立し合意がえられないまま 公益見解として目安を提示しなければならない状 況では, どうしても控え目な額にならざるをえな い15) 。 これに対して, 生活保護給付の算定は一般 の消費水準額の約 6 割で均衡するように世帯類型 別の保護基準額に基づいて決められる。 その意味 では機械的である。 これまで基準額の算定方式は, マーケット・バスケット方式, エンゲル係数方式, 格差縮小方式から現行の水準均衡方式へと推移し てきているが, それは大学教授などの学識経験者 を中心とする社会保障審議会で決められている。 こうして, 審議会の構成と引き上げ額の決め方の 差が, 同じ 「健康で文化的な最低限度の生活費」 にも差をもたらしたと言えよう。 本年, 中央最低賃金審議会は最低賃金が生活保 護の給付水準を上回っている 35 県については現 行水準の維持を基本とし, 引き上げを見送ること が提案された。 しかし, 新潟と岐阜を除き, 各地 で最低賃金が引き上げられた。 また生活保護額を 下回るとされる 12 都道府県でも東京など目安を 上回って最低賃金が決められている。 昨年と一昨 年も全国平均で 16 円と 14 円の引き上げがなされ ており, ここのところ状況は一変している。 今後, 生活保護給付額を最低限の目安とし, いかに雇用 への影響に配慮しつつ最低賃金を決めるか, また そのための枠組みをどうするかが論点になろう。 2009 年の衆議院選挙にあたり民主党はマニフェ ストで 「景気状況に配慮しつつ, 最低賃金の全国 平均 1000 円を目指す」 と明記した。 本年の全国 平均は 713 円であるから, 今後, 300 円近くの引 き上げが必要になる。 これだけ大幅な引き上げが 雇用に対してプラスの効果をもつと考える人はい ないだろう16)。 ここで留意すべきは, 最低賃金の 引き上げがどのような労働者に大きな影響を与え るかということである。 主婦パートや学生アルバ イトなど必ずしも低所得の世帯員とは言えない労 働者もいれば, 賃金収入で自らの生活を支えなけ ればならない労働者もいる。 またキャリア形成の ために訓練を必要とし, 現在は低い賃金を受け入 れている労働者もいよう。 現行制度では, これら の労働者を一くくりにして時間給で最低賃金を決 めているが, もっときめ細かい設定が必要に思わ れる。 eironline (2005) によれば, イギリスやフ ランス, オランダ, アイルランド, ベルギーなど, 多くの国では若年層について年齢別に減額率が設 定され, 成人労働者を対象とする最低賃金額より 低い水準となっている。 たとえば, 1 歳刻みで減 額率が設定されているベルギーでは, 16 歳以下 が 70%, 17 歳が 76%, 18 歳が 82%, 19 歳が 88 %, 20 歳が 94%となっている。 またオランダで も 15 歳の 30%から 22 歳の 85%まで減額率が決 められている。 こうした年齢別の他に, イギリス やアイルランドでは雇用期間が短く訓練中の者に も減額率が適用される。 日本では低賃金で働く労働者の中に主婦のパー トや高齢者が多く存在することを考慮して, 年齢 別の減額率ではなく, 一週又は一日の労働時間別 に減額率を設定することが合理的であろう。 たと えば, 週 40 時間以上働く労働者の最低賃金を 100 とすれば, 週 40 時間未満で 35 時間以上を 94, 35 時間未満で 30 時間以上を 88, 30 時間未満で 25 時間以上を 82, 25 時間未満を 76 とするので ある。 数値はともかく, 減額には二つの要因が配 慮されている。 一つは, 労働時間が異なれば仕事 の内容や責任などが異なり, 単に長さだけでは測 れない生産性の違いがあるという需要側の要因で あり, もう一つは労働市場には主婦パートや学生 アルバイトなどの短時間労働を希望する者と生活 の糧をうるために長時間の労働を必要とする者と が存在するという供給側の要因である。 労働市場 の需給関係をみながら, これらの要因がバランス するように減額率を決めればよい。 今後, 就業形態の多様化のもとで適用者のタイ プの違いを考慮して最低賃金をよりきめ細かく丁 寧に決める必要性が強まろう。 それには労力と費 用を要するが, それを捻出するために, 産業別最 低賃金のように今日的な意義を失いつつあるもの
をスクラップすることも必要に思われる。 1) 決定方式の分類については, 労働調査会 (2009), 及び eironline (2005) を参照。 また労働裁判所方式は, オースト ラリアやニュージーランドで採用されているもので, 労働裁 判所や労働委員会などの労使関係を調整する機関が労使の意 見を聴きながら審議し, 最低賃金を裁定したり, 決定したり するものである。 2) 労使のみの代表で構成される審議会で最低賃金が決定され る場合, それはさながら団体交渉に近くなり, Machin and Manning (1997) は, ベルギーを団体交渉の結果として最低 賃金が決まる国と分類している。 また, イギリスではサッチャー 政権下で規制緩和策が推進され, その一環として賃金審議会 法が廃止された。 しかしその後, 1998 年の最低賃金法によ り低所得委員会が設置され, その推薦に基づいて政府が最低 賃金を決定するという方式がとられている。 3) アメリカの最低賃金の時系列的な動きや実証研究について は , た と え ば Brown (1999) や Neumark and Wascher (2007) を参照。
4) ただし, ドイツの数値は 2003 年のものである。 またイタ リアの場合, 非正規労働者を含むと 85%のカバーである。 オランダは団体交渉で締結された賃金を援用して政府が決め るとされているが, 実質的には労働協約方式に分類できよう。 5) 詳しくは, Blau and Kahn (2002) を参照。
6) JETRO の通商広報 (2009/9/18) による。 7) 概略は Howell (2005) にまとめられている。 8) 平成 18 年版 労働経済白書 (厚生労働省) によれば, 1990 年代を通して 2002 年まで時間当たり所定内給与の格差 は拡大しているが, 近年, 少し縮小している。 また平成 20 年版 厚生労働白書 (厚生労働省) は, 1985 年以降, どの 年齢層でも雇用者に占める正規従業員以外の雇用者の割合が 上昇していることを示しているが, 特に 15∼24 歳層の若者 にそれは顕著である。 9) Howell (2005) 参照。 また Pellizzari (2006) によれば, 今日, 欧州での社会保障改革は社会保障手当の受給額と受給 期間の削減が主な狙いになっているという。 大橋 (2007) に も簡単な紹介がある。
10) 展望論文として, Nickell and Layard (1999) 及び黒田 (2002) を参照。 11) 最低賃金は, 国によって年齢, 性, 職種, 勤続年数, 週の 労働時間のみならず, その適用者が異なる。 国別の詳細は, Ragacs (2004) を参照。 ここで利用した資料では成人のフ ルタイム労働者を対象とする最低賃金とされている。 資料の 出所については表 1 の注を参照。 12) Masters (1999) は, 各マッチングについて賃金以外にも 利得を与える要素が労働者にも企業にも存在するという状況 のもとで, Burdett and Mortensen (1998) と同じようなア イディアを展開している。
13) Card and Krueger (1994) の方が Burdett and Mortensen (1998) より古いのは, 彼らの論文が後者の元になった論文 を参照していることによる。 14) 以下の叙述は, 藤縄 (1972) と中村 (2000), 労働調査会 (2009) を参考にしている。 15) 中央最低賃金審議会委員のご経験のある古郡鞆子中央大学 教授からその様子を詳しくお伺いできた。 16) 川口 (2009) によって展望されているように, 日本では最 低賃金の雇用に対する効果について実証研究は少ないが, 都 道府県別のデータを利用した四つの研究のうち三つが負の効 果を検出している。 また安部・田中 (2007) は, 1990 年代 に全国でほぼ同率で上昇した地域別最低賃金が低賃金地域で パート賃金を下支えしたことを見出しているが, それは雇用 への影響が低賃金地域で大きかったことを含意している。 参考文献 安部由起子・田中藍子 (2007) 「正規―パート賃金格差と地域 別最低賃金の役割 1990 年∼2001 年」 日本労働研究雑誌 No. 568. 大橋勇雄 (2007) 「EU の労働市場と最低賃金」 EU の拡大と 深化 通貨統合後の課題 「拡大 EU の課題」 研究会報告 書, 日本経済研究センター. 川口大司 (2009) 「最低賃金と雇用」 大橋勇雄編著 労働需要 の経済学 ミネルヴァ書房. 黒田祥子 (2002) 「解雇法制の経済効果」 大竹文雄・大内伸哉・ 山川隆一編 解雇法制を考える 法学と経済学の視点 勁 草書房. 橘木俊詔・浦川邦夫 (2006) 日本の貧困研究 東京大学出版 会. 中村智一郎 (2000) 日本の最低賃金制と社会保障 白桃書房. 林正義 (2008) 「生活保護制度の現状と本書の課題」 阿部彩・ 國枝繁樹・鈴木亘・林正義 生活保護の経済分析 東京大学 出版会. 藤縄正勝 (1972) 日本の最低賃金 日刊労働通信社. 労働調査会 (2009) 改訂 3 版 最低賃金法の詳解 労働調査 会.
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おおはし・いさお 中央大学大学院戦略経営研究科教授。 最近の主な論文に 「ミスマッチ指標と失業の分解」 大橋勇雄 編著 労働需要の経済学 (ミネルヴァ書房, 2009 年)。 労 働経済学, 人的資源管理論専攻。