北海道立図書館蔵
「
精 神 修 養 資 料函館戦争実況場面解説」
濱口裕介
〈解題〉 1 大正六年(一九一七)から一五年(一九二六)にかけての九年間、函館五稜郭公園内には五稜郭懐旧館と いう 私設の 歴史資料館が営まれていた。これは、箱館戦争当時の様子を再現した等身大の生人形によるジオ ラマ「函館戦争実況」を中心とし、あわせて 当時の模様を描いた絵画 資料や 砲弾・軍服などの 実物資料を展 示するという施設であった。館主として運営に当たったのは、片上楽天という 人物 である。 こ の 懐 旧 館 と い う 施 設 に つ い て は、 『 函 館 市 史 』 を は じ め と す る 地 方 史 誌 に お い て も ほ と ん ど 言 及 さ れ て おらず、こんにちでは知る人も少ないように思われる。近年まで 楽天のような 在野郷土史家の活動に光が当 てられる機会は少なかったため、評価される機会もなかったのであろう。 しかし、懐旧館の活動の意義は決して小さくないと筆者は考えている。たとえば、懐旧館閉館後も現在の 五稜郭タワーに至るまで、五稜郭周辺では箱館戦争をジオラマによって表現した民間の歴史展示施設が脈々 とつづいている。ここからは、見世物の一形態だったジオラマを歴史展示の手法に取り入れ、五稜郭という 歴史遺産を観光振興に役立てようとした懐旧館の基本設計の先見性、またその影響の大きさを見て取ること [資料紹介]ができるのではないだろうか。 筆者は、かつてこの忘れられつつあった資料館に着目し、その意義を論じたことがあ る 1 。ただし、そこで は展示の詳細について触れる紙幅がなかった。 そ こ で 本 稿 で は、 懐 旧 館 の 展 示 解 説 と も い う べ き 北 海 道 立 図 書 館 蔵「 精神修 養資料 函 館 戦 争 実 況 場 面 解 説 」 を 全 文 紹介し、若干の検討を加えることで、懐旧館の展示の概要を紹介したい。なお、印刷物ゆえ、写真を掲載す れば事足りるところなのだが、かなり細かい字で書かれているため、本稿 では 全文を翻刻することとする。 また、あわせて関連資料も紹介し、今後の研究の利用に供したいと思う。 2 北 海 道 立 図 書 館 が 蔵 す る「 精神修 養資料 函館戦争実況場面解説」 (以下、本資料 請求記号: P210. 51/KA )は、一 枚物の印刷物で 、 法量は縦一五㎝×横四二㎝。両面刷りで、折りたたんで配布することを前提とした、いわ ゆるリーフレット の形態 である。北海道史研究者として知られる河野常吉の旧蔵品であり、表紙には「河野 文庫」の印記が見られる。 内容は 「立案者 片上楽天」 による 「はしがき」 、 次に 「第一 品川湾に於ける開陽艦長室の激論」 から 「第 八 旧 主 従 二 十 年 目 の 邂 逅 」 ま で の 八 つ の ジ オ ラ マ 展 示 の 解 説、 「 函 館 戦 争 実 況 絵 は か き に 題 す 」 と し た 詠 草 2 、 最 後 に 楽 天 の 著 書『 五 稜 郭 史 』 の 案 内 か ら な る。 な お、 『 五 稜 郭 史 』 の「 申 込 所 」 と し て 片 山 禮 と い う 人物の名が見えるが、彼は 当時函館に居住していた楽天の 六男 である。 文 中 に 懐 旧 館 の 名 は 見 出 せ な い が、 「 は し が き 」 中 に「 本 館 」 と い う こ と ば が 見 え る こ と に 加 え、 内 容 か ら判断しても本資料が懐旧館に関連するものなのは明らかである。 ただし、 懐旧館ではジオラマ展示のほか 「時ノ勇士ノ遺品、遺墨、写真、記念品、参考品、油画、各種ノ図面、文章等ヲ陳列」していたという が 3 、
それらについては言及されていない。 「はしがき」には「大正六年八月」の日付が見える ものの 、これは懐旧館開館の年月であり、本資料の成 立時期を意味 するものでは ない。大正一〇年(一九二一)に出版された楽天の著書『五稜郭史』の案内が見 えることから、この年以後、懐旧館が閉館になった同一五年(一九二六)までの間に成立したものと理解で きる。すなわち、本資料は開館後しばらく経った時期に印刷されたものである。 「場面解説」 と銘打ってはいるものの、 内容は大部分が展示されている登場人物のセリフ (あるいは独白) を講談調に書いたものである。これは、懐旧館において各場面に添えられていたキャプションをそのまま活 字にしたもののようだ。 ま た、 表 紙 の 外 題 の 脇 に「 金 五 銭 」 と い う 印 記 が あ る。 楽 天 は 函 館 区 に 懐 旧 館 設 立 を 申 請 す る 際、 「 大 人 金五銭軍人学生等金二銭」を徴収する許可を求めているの で 4 、恐らくこの五銭というのは入館料であろう。 察するに、この入館料を払った者に対し、展示観覧の便宜として無償で本資料を提供したのではないだろう か。 印刷・頒布されたものという 資料の性質上、伝存例が多くとも不思議はないのだが、管見の限りでは函館 市 中 央 図 書 館・ 国 立 国 会 図 書 館 で 異 本 を 確 認 で き た の み で あ る( 以 下、 そ れ ぞ れ 函 図 本・ 国 図 本 と 省 略 )。 ただし、函図本・国図本とも所蔵館において独立の一文献として扱われていない。というのも、函図本は懐 旧 館 発 行 の 絵 葉 書 ( 請 求 記 号 : pc000389 ) の 付 属 品 と し て 扱 わ れ て お り、 一 方 国 図 本 は、 楽 天 の 著 書『 五 稜郭史』 (請求記号: 396 ‐ 204 ) の巻末に綴じこまれている。 また、成立時期が異なるためか、それぞれ内容にはかなりの異同がある。国図本を例に挙げると、まず外 題 が 「 精 神 修 養 資 料函 館 戦 争 の 実 況 場 面 解 説 全 」 と あ っ て 本 資 料 と 異 な る 上 、 展 示 解 説 本 文 に も 明 ら か な 差 異 が 認 め ら れ
る 。 ま た 末 尾 に は『 五 稜 郭 史 』 の 案 内 の 代 わ り に「 函 館 氷 の 由 来 」 と い う 記 事 が 見 え る( 函 図 本 も 同 様 )。 こ れ は、 五 稜 郭 公 園 の 堀 で 採 取 さ れ て い た「 函 館 氷 」 の 紹 介 文 で あ る。 『 五 稜 郭 史 』 発 行 後 し ば ら く 経 っ て から、函館氷の紹介に代えてその案内を挿入したものであろうか。とすれば、 函図本・国図本よりも、本資 料の方が成立時期が新しいものと推察される。 3 本資料の「はしがき」に名がみえる片上楽天は、五稜郭懐旧館の館主を務めた人物である。管見の限りそ の名を事典類で見いだすことができないので、簡単に経歴を確認しておこう。 片上楽天(一八五 七ヵ ~一九二六年)は、伊予松山藩領の出 身 5 。幼名を片上良之助といい、のちに片上良 を 名 乗 る。 ま た、 無 為 庵 楽 天 と 号 し た( 本 稿 で は「 楽 天 」 の 称 で 統 一 す る )。 生 家 は 野 間 郡 波 止 浜 村( 現 在 の今治市波止浜)で月番所役人をしていた家とい う 6 。本資料の「はしがき」に「世々徳川の末流を汲める老 生」とあるのは、親藩である松山藩に仕える家に生まれた、という意であろうか。 楽天みずからが記すところによれば、松山藩が西洋兵学を採用するに当たり、母方の叔父の推挙によって 少 年 の 身 で あ り な が ら 喇 叭 手 に な っ た と い う。 「 長 州 領 八 代 島 征 伐 の 事 と 成 り 予 は 喇 叭 手 と し て 軍 に 従 」 っ たという が 7 、これは第二次長州征討における周防大島(屋代島)の戦闘に従軍したということであろう。こ の戦いで松山藩兵は四国諸藩の先鋒をつとめ緒戦で勝利を収めたが、最終的には長州藩諸隊の攻撃で大敗を 喫している。これがもとで楽天の属した松山藩は朝敵とされ、土佐藩兵に城を明け渡すという屈辱を味わっ ている。年少だった楽天は、この事件に大きなショックを受けたことだろう。 そ の 後、 慶 応 四 年( 一 八 六 八 ) に 縁 者 で 小 松 藩 領 千 束 村 の 庄 屋 で あ り、 「 儒 者 」 で も あ っ た 黒 川 與 一 右 衛
門という人物に随行し、江戸に上った。楽天としては「適当ノ学校ニ入ル」ことが江戸入りの目的だったと い う 8 。ところが、折しも榎本武揚率いる旧幕府艦隊が品川を出帆するに際し、楽天も黒川に随行して艦隊に 投じることになってしまい、 「小父の命ずる侭に乗船」したという。 周知のとおり、旧幕府艦隊はその後蝦夷島を占領し、箱館に臨時政府を樹立、新政府軍と箱館戦争を戦う ことになる。ただし、 楽天の書いた文章をよく読むと、 艦隊に乗り込んだところまでは明記しているものの、 箱館戦争に加わったとは書いていな い 9 。何らかの事情で戦闘には加わらなかったようである。 だが、一時的とはいえ、旧幕府脱走軍と行動をともにしたことは、楽天にとって人生を左右する体験とな った。彼は旧幕府方に身を置いていたという強烈なアイデンティティをその後も有しつづけたらしく、晩年 に 至 っ て も「 元 佐 幕 軍 少 年 隊 」「 幕 軍 遺 兵 」「 幕 軍 残 党 」「 維 新 役 残 卒 」 な ど の 肩 書 を 好 ん で 使 っ た 10 。 ま た、 晩 年 の 楽 天 が 箱 館 戦 争 の 戦 死 者 を「 戦 友 」「 亡 友 」 と 呼 び、 そ の 雪 冤 と 慰 霊 に 異 常 な ま で の 献 身 ぶ り を 見 せ るのも、彼らと同道したというこの強烈な経験のゆえであろう。 一二歳で明治の新時代を迎えた楽天は、明治一一年(一八七八)には愛媛県師範学校小学校速成師範科を 卒業し、小学校訓導補という職を得 た 11 。ほかに波止浜村の「村長」を務めたという話も伝わってい る 12 。その 後明治二三年(一八九〇)には松山市に移り、司法省執達吏として松山区裁判所に勤務し た 13 。 ところが、明治後期になると、 「家道の傾」いたことにより(楽天の四男・第六子の竹内仁による表現) 、 楽天は職と住居を転々とすることにな る 14 。明治三三年(一九〇〇)八月以後わずか一〇年あまりの間に、松 山から香川・徳島・高知、北海道へ渡って根室、さらに国後島の留夜別村へと転居をくり返す という 、まさ に流転の日々を送ったのであっ た 15 。楽天自身ものちにこの歳月を「指を各種の方面に染めしも総て失敗不成 功トント面白ふなかりし」と自嘲気味に回想してい る 16 。
そして大正元年(一九一二)には、函館五稜郭で箱館戦争戦没者の遺体の 身元 調査を始めたと楽天は述べ てい る 17 。これが事実であれば、恐らくこの年までに国後島から函館に移ったのだろう。日本が大正という新 時代に入るとともに、楽天も転居と転職のくりかえしだった人生に一区切りをつけ、新天地に落ち着いたの である。 以 後、 楽 天 は 函 館 を 終 の 棲 家 と し た。 大 正 六 年( 一 九 一 七 ) に 五 稜 郭 懐 旧 館 を 設 立 す る 際 の 趣 意 書 に お い て は、 「 我 函 館 ヲ 愛 ス ル ヿ 敢 テ 人 後 ニ 落 チ ザ ル 」「 我 郷 土 タ ル 函 館 」 と ま で 記 し、 そ の 愛 郷 心 を 吐 露 し て い る 18 。みずから設立した五稜郭懐旧館では館主をつとめ、 ここを拠点に箱館戦争の研究と旧幕府脱走軍の顕彰、 戦没者の慰霊に力を注いだ。晩年の著作に『五稜郭小史』 、その増補版というべき『五稜郭史』がある。 大正一五年(一九二六)六月八日、心臓麻痺で死去した。数日後に懐旧館も閉館となっている。 妻は節といい、今治藩の御用人の娘だったというが、楽天に先立ち明治三八年(一九〇五)に死去。その 後、池田マサを後妻に迎えている。男女合わせて九人の子だくさんだったが、なかでも長男の片上伸は、早 稲田大学教授、ロシア文学・プロレタリア文学理論の紹介者として知られてい る 19 。 ところで、懐旧館の運営に当たっては、楽天と連名で函館区に設立を申請した教師の大西亀三郎(号は五 泉 一 八 五 三 ~ 一 九 一 八 年 20 )、 五 稜 郭 公 園 の 看 守 だ っ た 北 島 勇 之 進( 一 八 六 五 ~ 一 九 四 六 年 ) の 存 在 も 無 視 できな い 21 。また、楽天は他にも、五稜郭史談会・函館戦争戦死者弔霊義会といった五稜郭・懐旧館関係の団 体を結成しており、多くの協力者を得ながら活動したようである。 ただし、懐旧館が片上楽天の死をもって閉鎖されているところを見ると、やはり活動の中心は楽天個人だ ったことがうかがえる。また、懐旧館関係の出版物については、本資料や後掲の絵葉書なども含めてその多 くが「片上楽天」の名で、あるいは「片上発行」として世に出ている。少なくとも懐旧館の出版事業に関し
ては、楽天の個人的な活動の側面が強いものと見ることができそうだ。 4 懐旧館の展示内容については、 前稿でも検討を加えたが、 ここでは本資料にもとづいて再考してゆきたい。 こ ん に ち 誰 し も が 不 可 解 に 思 う の は、 〝 ど の よ う な 意 図 で こ れ ら の 場 面 を 選 択 し た の だ ろ う か 〟 と い う 点 であろう。この展示は「函館戦争実況」と題されているものの、そもそも戦闘場面が表現されていない上、 箱館戦争をめぐる 一連の歴史的経緯のなかで重要な場面を取り上げているとも考えられない。 たとえば、 第 六場面に見られる古 屋 作左衛門の湯治の姿を、箱館戦争の描写に不可欠な場面ととる者はいないだろう。つ まり、箱館戦争の全体像を提示しようという意図 がこの展示から は読み取れないのである。 では、懐旧館の展示はなぜこのような構成を取ったのであろうか。 この点について考えるためのキーワードは、表紙に見られる「隠れたる史実」ということばであろう。何 が「隠れ」ているかというと、箱館戦争における旧幕府脱走軍の 思想と 動向なのである。 本資料の「はしがき」は、この点について次のように説いている。箱館戦争における「榎本将軍等」の真 意 は 世 に 伝 わ ら ず、 「 賊 軍 」 と し て の み 世 に 知 ら れ て い る。 つ ま り、 こ の 戦 争 で 勝 利 し た 新 政 府 が 明 治 と い う 新 時 代 を 築 い た 結 果、 箱 館 戦 争 は 新 政 府 の 視 点 か ら の み 語 ら れ、 「 賊 軍 」 と さ れ た 旧 幕 府 脱 走 軍 の 動 向 や 言い分が語られる機会は少なかった。しかし、この状況は「徳川の末流を汲める」楽天にとっては忍びざる ところである。そこで、ジオラマ展示によって「維新当時の徳川武士が如何に国家に忠にして義を重んじ情 に厚かりし乎」を伝え、 「精神修養」に役立てたい。つまりは、旧幕府脱走軍の言動を伝えることで、 「精神 修養」の手立てとしたい、としている。
「精神修養」は本資料の外題にも用いられており、楽天が強調している語なのが分かる。別の資料 におい て も、 「 精 神 修 養 」 に つ い て 説 く な か で、 楽 天 は「 現 代 ノ 人 情 紙 ヨ リ モ 軽 佻 浮 薄 ノ 風 日 々 月 々 加 ハ ル 」 と い う認識を示してい る 22 。時代は大正デモクラシーの世になりつつあったが、幕末生まれの楽天としては、大正 時代の新思潮よりも「維新当時の徳川武士」の忠義心にこそ価値を見出していたのであろう。 ただし、 この 「精神修養」 の語を額面通りに受け取れ るかどうかは、 疑う必要があると筆者は考えている 。 すでに前稿で論じた点であるが、楽天が「榎本将軍等」を顕彰するのは単に教育に資するという理由だけで はなかった。 「はしがき」では明言していないものの、 「榎本将軍等」の顕彰をはかることは、同時に彼らを 「賊軍」扱いにした明治新政府を糾弾する政治的な姿勢につながりかねない。さらには、彼らの名誉回復・ 雪冤をはかるべきという声にもつうじる。実のところ、楽天のねらいは旧幕府脱走軍の雪冤を果たし、戦没 者も含めて名誉回復を成し遂げることにあったのである。強調される「精神修養」の語には、楽天のそうし た真意をカモフラージュする意図もあったと考えられる。 以上のような 趣旨で設立された懐旧館は、旧幕府脱走軍が「如何に国家に忠にして義を重んじ情に厚かり し乎」という世に 「隠れたる」 箱館戦争の側面を提示することを主目的としていた。そのため、新政府軍の 動向を伝える必要はなく、また箱館戦争の全体像を提示することも考えていないのである。 最後に、 各場面 の具体的内容についても、気づいたところを指摘しておきたい。 第一に、 「 は し が き 」 に 「榎本将軍等」 とあるとおり、 楽天は榎本こそ旧幕府脱走軍のシンボルと認識して いる。 それゆえ、 懐旧館の展示は榎本武揚の言動を中心としている。 第一 ・ 三 ・ 五 ・ 八場面に榎本が登場し、 し か も 第 一 ・ 八 場 面 に つ い て は 箱 館 戦 争 と 直 接 の か か わ り が な い に も か か わ ら ず 「 函 館 戦 争 実 況 」 の 一 場 面 と し て 採 用 さ れ て い る。 さ ら に、 第 二 場 面 も 有 名 な 『 万 国 海 律 全 書 』 を め ぐ る エ ピ ソ ー ド を 表 現 し た も の で
あり、これまた榎本が影の主役といってよさそうだ。恐らくこれらは、旧幕府脱走軍のシンボルとして、五 稜 郭 の 守 将 だ っ た 榎 本 の 言 い 分 や 人 と な り を 伝 え 、彼 に 従 っ た 旧 幕 府 軍 全 体 の 顕 彰 を は か る ね ら い で あ ろ う 。 第二に、懐旧館の展示の特徴として、楽天が独自に発見した「史実」を重視する姿勢が認められる。 一例を挙げると、第六場面は衝鋒隊隊長の古屋佐久左衛門の湯治、第七場面は同じく衝鋒隊の幹部となっ た火消人足藤吉(梶原雄之助)の活躍ぶりを再現している。あまり著名人物とも思われないこの二人を取り 上 げ た の は な ぜ か。 展 示 解 説 を よ く 読 ん で み る と、 こ の 両 人 に は 五 稜 郭 内 に お い て 新 政 府 軍 の「 巨 弾 」( 甲 鉄艦による砲撃)を浴び、重傷を負った 人物 という共通点が認められる。 そこで想起されるのは、楽天が懐旧館設立の五年も前から、五稜郭内で戦没者の遺体 の身元 を調査してい た点である。 当時、古屋や藤吉は五稜郭内で被弾し、死亡したと見られており、郭内で発見された遺骨の一 部は藤吉のものと認識されていた。 大正七年ごろ楽天は藤吉の事績を調べるため、わざわざ上京したことも 新聞で報じられて お り 23 、また 国図本では、第七場面の付記として「山岡鉄舟氏の推挙に依りて宮内省に奉職 し 先帝陛下の馭者を勤め天寿を全ふせりと確聞す」とある 。 聞き取り調査の結果 実は生存していた 藤吉の 動向を「確聞」するに至ったものと察せられる。 また、楽天は人見寧、田村銀之助(第五場面に登場)とい った旧幕府軍参加者、 薩摩藩士恒吉休右衛門の遺族といった人々 とも親交を結んでいるので、彼らからも往 時の貴重な証言を得ていたことであろう。 すなわち楽天は、箱館戦争についてみずからが調査した成果をジオラマとして再現するという姿勢に立っ ている ので ある。もちろん、登場人物のセリフや独白については、楽天の想像の産物と考えられるため、虚 構が まったく 含まれていないわけではない。 とはいえ 、楽天は旧幕府軍の顕彰という大目的のために、歴史 を捏造しているわけではないという点は強調しておきたい。いわば楽天が独自の調査で掘りおこし、楽天の
想像力でもって 演出 した「史実」を再現して展示しているのである。 楽 天 の い う「 隠 れ た る 史 実 」 と い う こ と ば に は、 〝 世 間 で 公 に 語 ら れ て こ な か っ た、 知 ら れ ざ る 旧 幕 府 脱 走 軍 の「 忠 君 愛 国 」 の 言 動 〟 と い う 意 味 と と も に、 〝 楽 天 が 独 自 調 査 の 結 果 知 り え た、 ほ か で は 知 ら れ て い ない歴史の真実〟という自負も込められているのかもしれない。 最後に、観光振興の視点である。恐らく最も不可解なのが、古 屋 が湯治をしている第六場面にどういう意 味 が あ る の か、 と い う 点 で あ ろ う。 実 は こ の 場 面 に つ い て は、 楽 天 自 身 が 開 館 式 の 際、 「 温 泉 の 特 効 を 具 体 的に説明したものです」と説明してい る 24 。そもそも懐旧館を設立するにあたり、楽天は「来観者招致」によ る函館の「繁栄策」という意味合いも込め、またその副次的な目的として湯の川温泉の紹介を掲げてい た 25 。 その役割を担ったのが、この第六場面 であると見ることができよう 。 箱館戦争にかかわりのあった楽天としては、半世紀を経ても「朝敵」扱いをされたままの旧幕府脱走軍の 名誉を回復したいという強烈な思いがあった。そうした楽天の個人的かつ政治的な思惑が、懐旧館設立の主 要な動機であった と考えられる 。 ただし、懐旧館の展示 を見ると 、楽天はみずからが手間をかけて掘り起こした信頼できる「史実」を再現 し、またあわせて函館の観光振興をも視野に入れて展示を構成していたことがうかがえる。こうした楽天の 郷 土 史 家 と し て の 真 摯 な 姿 勢 と 郷 土 振 興 の 思 い も、 五 稜 郭 懐 旧 館 と い う 特 異 な 資 料 館 を 語 る 上 で 無 視 で き な い要素であろう。
[注] 1 拙 稿 「 片 上 楽 天 と 五 稜 郭 懐 旧 館 ― 懐 旧 館 旧 蔵 資 料 に 見 る そ の 活 動 と 思 想 ― 」 ( 岩 下 哲 典 ・ 「 城 下 町 と 日 本 人 の こ こ ろ」研究会編『城下町と日本人の心性』 岩田書院 二〇一六年)。以下、「前稿」と称す。 2 ここでいう「函館戦争絵はがき」とは、後掲の図3のような懐旧館の展示を写した絵葉書のことである。 3 『 楽 天 心 事 の 一 部 亡 友 建 碑 の 事 』 の う ち「 建 碑 発 願 要 旨 摘 録 」。 こ れ は、 楽 天 に よ る 五 稜 郭 内 へ の 慰 霊 碑 建 立 の 請 願書類(一九二六年四月二四日付)である。田原良信氏から写真を提供していただいた。 4 『創業書類』 (市立函館博物館蔵、懐旧館旧蔵資料)のうち「入場料徴収理由具申」 。 5 楽 天 の 生 年 は、 「 亨 年 七 十 歳 」 で 没 し た と い う『 函 館 毎 日 新 聞 』 大 正 十 五 年 六 月 一 一 日 付、 第 二 面 の 死 亡 記 事 か ら 逆 算した。 6 「伊予細見」第八一回 片上伸「不定の故郷」再訪( http://www.trancewave.tv/~iyosaiken/saiken/2003_03.php )。 7 片上楽天『五稜郭史』第四版(懐旧館 一九二六年)一三三頁。 8 前掲『楽天心事の一部 亡友建碑の事』のうち「 蛇足附記 函館戦争ト私」 。 9 た と え ば、 著 書『 五 稜 郭 史 』 に お い て は、 「 往 時 は 佐 幕 の 旗 を 翳 し て 長 州 八 代 島 征 伐 な ん ぞ と 弥 次 り し 身。 顧 へ ば 当 時 戦 線 こ そ 東 西 幾 百 里 を 隔 て た り と は 云 へ。 函 館 戦 争 の 幕 軍 諸 士 と は 共 に 戦 友 」 と 往 時 を 振 り 返 っ て い る( 前 掲 『 五 稜 郭 史 』「 五 稜 郭 史 発 行 の 趣 旨 」 の「 そ へ が き 」) 。 ま た、 「 函 館 戦 争 ト 私 」 と い う 記 事 に お い て も、 旧 幕 府 艦 隊 に 乗 じ て「 北 走 ヲ 供 ニ 為 タ 」 と し か 書 い て い な い( 前 掲『 楽 天 心 事 の 一 部 亡 友 建 碑 の 事 』 の う ち「 蛇 足 附 記 函 館 戦争ト私」 )。箱館戦争と直接のかかわりを持たなかったかのような書きぶりである。 10 片 上 楽 天 旧 蔵 資 料( 市 立 函 館 博 物 館 所 蔵 ) 中 の『 達 磨 霊 像 百 態 之 内 』 と 題 さ れ た 折 本 や、 「 行 脚 ノ 趣 旨 目 的 」 と 題 し た懐旧館発行の絵はがき(函館市中央図書館蔵)などでこの肩書を使っている。 11 柴 田 幸 生「 五 稜 郭 懐 旧 館 と 片 上 楽 天 」( 『 S A R A N I P 市 立 函 館 博 物 館 館 報 』 第 三 号 一 九 七 一 年 ) に は「 小 学 校 速 成 師 範 科 」 を 卒 業 し た と あ る。 愛 媛 県 師 範 学 校 に は 漸 成 科( 二 年 間 )・ 急 成 科( 半 年 間 ) が あ り、 こ れ は 急 成 科 のことと思われる。愛媛県教育センター編・発行『愛媛県教育史』第一巻(一九七一年)四三九 ・ 四四〇頁。 12 大 西 貢 編「 片 上 伸 年 譜 」( 『 現 代 日 本 文 学 大 系 』 五 四 筑 摩 書 房 一 九 七 三 年 ) 四 二 五 頁。 楽 天 の 長 男 伸 は わ ず か 四
歳 の 時、 学 齢 に 達 し て い な い に も か か わ ら ず 父 の 楽 天 が「 村 長 」 だ っ た た め 特 別 に 波 止 浜 小 学 校 に 入 れ た と い う 挿 話 が 伝 わ っ て い る。 な お、 楽 天 が 小 学 校 や 村 役 場 に 勤 務 し て た の は、 恐 ら く 兄 の 片 上 保 憲 が 波 止 浜 村 の「 村 吏 」 を し な が ら 七 番 小 学 校 の 教 員 を 務 め て い た こ と と 関 係 が あ る の で あ ろ う。 『 維 新 前 寺 子 屋・ 手 習 師 匠・ 郷 学 校・ 私 学 校 の調査』二 今治市・越智郡・松山市・温泉郡(愛媛県立図書館蔵) 。前掲『伊予細見』第八一回。 13 『 職 員 録 』 明 治 二 四 年( 乙 )( 内 閣 官 報 局 一 八 九 一 年 ) 五 四 頁。 以 下 同 様 に、 明 治 二 五 年 か ら 二 八 年 分 ま で の 甲 巻 に、松山裁判所執達吏として「片上良」の名が見える。 14 竹内仁遺稿刊行会編『竹内仁遺稿』 (イデア書院 一九二八年)二五八頁。 15 簡 単 に た ど る と、 ま ず 明 治 三 三 年( 一 九 〇 〇 ) 八 月 以 後 香 川 へ、 つ い で 徳 島・ 高 知、 同 三 八 年 八 月 に は「 北 海 道 根 室 牧 場 」 へ 転 居。 同 四 一 年 六 月 に は「 根 室 新 聞 社 」( お そ ら く 北 友 社 か 根 室 時 事 新 聞 社 の こ と で あ ろ う ) に 入 社 す る が、 早 く も 翌 年 四 月 に 退 社。 八 月 に は、 国 後 島 の 留 夜 別 村 戸 長 役 場 に 奉 職 し、 戸 長 に 就 任 す る が、 こ れ も 明 治 四 四 年 一 一 月 に 辞 任 し て い る。 以 上 は、 前 掲「 五 稜 郭 懐 旧 館 と 片 上 楽 天 」 三 頁、 前 掲「 片 上 伸 年 譜 」 四 二 五 頁、 前 掲 『 竹 内 仁 遺 稿 』 五 三 七 頁、 渡 辺 茂 編 著『 根 室 市 史 』 下 巻( 根 室 市 一 九 六 八 年 ) 八 一 七 頁、 根 室・ 千 島 歴 史 人 名 事 典 編集委員会編・発行『根室・千島歴史人名事典』 (二〇〇二年)などを参照した。 16 片上楽天『五稜郭小史』 (北島勇之進 一九一六年)五頁。 17 前掲『五稜郭史』 、一二〇頁。 18 前掲『創業書類』のうち「五稜郭懐旧館設置趣意書」 。 19 前掲「片上伸年譜」四二五頁。 20 大西亀三郎の生没年は、大西の孫にあたる木村ひさ氏のご教示による。 21 渡利フク「五稜郭とともに過ごした日々」 (『地域史研究はこだて』第六号 一九八八)一〇六頁。 22 前掲『楽天心事の一部 亡友建碑の事』のうち「建碑発願要旨摘録」 。 23 『函館新聞』大正七年八月四日付、第四面。 24 『函館新聞』大正六年八月八日付夕刊、第三面。 25 前掲『創業書類』のうち「五稜郭懐旧館設置趣意書」 。
以下、本資料の 全文を翻刻する。なお、末尾に図2として五稜郭懐旧館の展示第一~六場面の写真(懐旧 館 旧 蔵 資 料、 市 立 函 館 博 物 館 蔵 ) を、 図 3 と し て 第 七 ・ 八 場 面 を 写 し た 絵 葉 書( 筆 者 所 蔵 ) を 掲 載 す る。 あ わせて参照されたい。 〔表面〕 賜 久邇宮朝融王邦久王両殿下台覧之栄 精神修 養資料
函館戦争実況場面解説
五稜郭史抜萃。隠れたる史実研究 [資料の紹介] [凡例] ● 漢字は原則として常用漢字に改めた。 ● 原 本 に は 全 文 に 振 り 仮 名 が 施 さ れ、 ま た 人 名 等 に 傍 点 を 付 し て あ る 部 分 も あ る。 こ れ ら は 一 部 を の ぞ き 省略した。 ● 筆者による注記は、 〔 〕で示した。 ● 「 河 野 文 庫 」「 五 銭 」「 北 海 道 立 図 書 館 蔵 書 」 の 印 記 が あ る が、 こ こ で は 省 略 し た。 こ れ ら に つ い て は、 図 2を参照されたい。は
し
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函 館 戦 争 に 於 け る 幕 臣 榎 本 将 軍 等 の 真 意 は 世 に 伝 へ ら れ ず 徒 ら に 賊 軍 と 而 已 認 め ら れ 了 ら ん と す る は 世 々 徳 川 の 末 流 を 汲 め る 老 生 の 忍 び ざ る 処 な る を 以 て 曩 に『 五 稜 廓 小 史 』 を も の し て 世 に 公 け に せ し も 根 が 貧 弱 な る 小 冊 子、 所 期 の 目 的 を 得 難 き を 覚 え た れ ば 百 尺 竿 頭 更 に 一 歩 を 進 め て 有 形 歴 史 と 為 し 以 て 維 新 当 時 の 徳 川 武 士 が 如 何 に 国 家 に 忠 に し て 義 を 重 ん じ 情 に 厚 か り し 乎 を 示 し て 幕 軍 の 真 意 を 明 ら か に し、 聊 か 精 神 修 養 の 資 た ら し め ん と せ り。 之 れ 此計画ある所以なり。 本 館 は 史 実 の 宣 明 を 主 眼 と し 毫 も 営 利 を 希 は ず 故 に 敢 て 人 形 の 美 を 衒 は す 只 管 史 実 に 過 ち 勿 ら ん と 努 め た り 今 そ の 一 例 を 挙 げ ん か 時 は こ れ 北 地 の 五 月 ま だ 残 ん の 雪 あ り て 花 な し。 場 処 は 多 く 十 五 尺 の 高 塁 に 包 ま れ し 稜 城 内 な れ ば 遠 く 海 上 を 展 望 す べ か ら ず。 然 れ ば 背 景 に 花 卉 を 加 へ 遠 景 に 真 風 含 め る 白 帆 を 描 く を 許 さ ず 登 場 人 物 の 如 き 今 日 や 死 な ん 明 日 や 討 れ ん の 悲 惨 時。 何 の 暇 あ つ て 髪 を 理 し 服 を 飾 り 得 べ き 殊 に 前 年 来 の 悪 戦 苦 闘 に 心 身 共 に 疲 労 せ る 場 合、 意 気 稍 く 鎖 〔消〕 沈 の う ち 凛 と し て 冒 し 難 き 威 厳 あ り し 実 況 に 勘 へ 深 き 注 意 を 払 つ て 製 作 せ し め 且 つ 場 面 の 幕 に 印 せ る紋章の如きも出来得る限り各場主人公の家紋を調査採用したる等人知れぬ苦心の潜める事を諒せられよ。 大正六年八月 立案者 片 上 楽 天 ◎第一 品川湾に於ける開陽艦長室の激論 (慶応四年八月十八日) 《国を護り産を興し ・・・・ ▲併せて旧主の恩に報いんとす》 勝 如 何 に 榎 本 氏 既 に 大 将 軍 徳 川 公 恭 順 を 表 せ ら れ た る 今 日 無 名 の 兵 を 動 か し 朝 廷 に 弓 を 弯 く は 不 敬 不 忠 宜しく速かに兵を解きて帰順せられよ。榎 本 是 は 異 な 言 を 承 は る 者 哉 。 抑 も 釜 次 郎 等 此 度 の 挙 は 世 世 の 禄 を 失 ひ 方 向 に 迷 へ る 徳 川 武 士 を 率 ゐ て 蝦 夷 に 渡 り 不 毛 の 地 を 拓 き 自 ら 耕 し 自 ら 食 ふ の 途 を 得 せ し め 。 併 せ て 産 を 興 し て 御 国 の 富 力 を 増 進 す る の 傍 ら。他日我国と事を構ふる時根拠地と為さんの野心を以て漫りに北地要港の測量を為す外艦を防ぎて国家百 年の安全を図り。徳川家の一人を以て其統御者に任用あらん事を請願して徳川家の祀りを断たしめぬ様と存 するに外ならねば折角なれど御勧告には従ひ兼ね申す。 勝 御説一応適理なれど尚ほ不安の念を禁じ得ぬ。宜しく御再考あれ。 榎本 武士に二言は厶りませぬ。御再説御無用に願はしう存ず。 勝 それでは是非に及ばぬ。然れば寸時も早く解纜せられよ。 ◎第二 官軍参謀黒田了介の居室 (明治二年五月十二日) 《天下の偉人を亡はんを歎き ・・・・ ▲寄贈の珍書を見て感更に深し》 黒 田 天 晴 当 代 の 英 傑 、 御 国 の 為 に 最 惜 し き 巨 人 な れ ど 騎 虎 の 勢 ひ 止 む に 止 ま れ ぬ 場 合 な ら ん 。 折 角 贈 り 越 したる兵書他日翻訳して世に頒たば国家に益する処多からん而して榎本の志も亦空しかるまじ。此上はセメ テ精酒など贈つて彼等同志の労を犒ふも武士の至情。 ◎第三 榎本大総裁将に自刃せんとす (明治二年五月十四日) 《身を殺して仁を為す ・・・・ ▲忠僕石川の苦諫》 榎 本 弓 折 れ 矢 尽 き た れ ど 今 一 戦 を 試 み 潔 く 討 死 せ ん と 思 へ 共 。 斯 く て は 徒 ら に 朝 敵 て う 汚 名 を 蒙 む り 多 く の勇士を失ふ訳。如かじ一死以て同志の助命を請はんには。と認めたる一封ヤヨ石川大儀なれど此書面を黒 田官軍参謀の許へ持参せ
石川 御命畏み奉つれど此お手紙は如何なる御用にて候哉。 榎本 問ふ迄もない明日決戦の通告じや早く行け! 石 川 以 為 ら く 吾 を 出 し 遣 り 其 後 に て 御 自 害 と 覚 え た り 要 こ そ あ ら ん と 出 し 振 り し て 小 蔭 に 潜 み 様 子 如 何 に と 窺 が へ ば果せる哉自刃の用意スハ事ぞと飛鳥の如く駈け込み。 石 川 御 短 慮 に て 候 ぞ 御 無 念 は 然 る 事 な れ ど 今 日 迄 の 悪 戦 苦 闘 に 依 て 旧 主 徳 川 家 へ の 御 忠 誠 は 尽 さ れ つ ら ん 今 は 潔 く 御 帰 順 遊 ば さ れ 戦 死 せ し 者 の 遺 族 や 生 残 れ る 同 志 の 末 路 を 保 護 し て お 遣 り 成 さ る が 御 仁 徳 に 候 は ず や 。 因 に 云 ふ 石 川 治 兵 衛 は 本 名 を 大 塚 鶴 之 丞 と 云 ふ。 将 軍 の 自 刃 を 諌 止 し 短 刀 を 没 義 取 ら ん と 為 し 時 右 手 の 指 四 本 に 傷 を負へり。 ◎第四 千代ヶ岱陣屋中島兄弟永別の盃 (明治二年五月十五日) 《日本武士の本領 ・・・・ ▲孝子父の難に殉ず》 兄 恒太郎 天なる哉命なる哉。我軍の兵勢日に非なれば父上には明日を最期と定め給ひしと覚えたり吾等とて争 で後れを取るべき華々敷一戦を試み父上の御供せんと思ふが如何に。 弟 房次郎 仰の通り不肖とて何少女
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と生を措み申すべき潔く御供申さん。 兄 伊美敷申す者哉。然れば永別の一献酌ふぞ。 弟 有り難く戴き申さんイザ兄上より御始めあれ。 腰 元 あやめ 惜しや未来の名将たるべき若様御二人。大殿様の御供と御覚悟。お留め申さん便もなし。此上はお国 に御座る御三男様をお守り立申上げ天晴名将と成らせ給はん事を御祈り申上さん。 主将砲兵頭 中島三郎助 花に比すれば未だ咲き初めぬ莟の若者むざ〱
死なすも武門の習ひ是非もなし。嗚呼為まじき者は宮 仕へなる哉。◎第五 の 一 五稜城内訣別の宴 (明治二年五月十六日) 《稜城を枕に全滅を期す ・・・・ ▲敗残勇士の鉄腸》 榎 本 松 平 副 総 裁 を 始 め 諸 君 に 痛 く 御 苦 労 を 備 へ ま し た 。 然 れ ど 事 皆 志 と 違 ひ 最 早 今 日 に 及 ん で は 如 何 と も 致方厶らぬ。成敗は兵家の事と諦め今夕は打寛ぎ黒田が好意の酒を開きて且つ飲み且つ語り静かに敵の総攻 撃を待ち城を枕に永き夢路を辿り申さう。併し之で徳川家に対する恩誼万分の一に酬いたると同時に義を泰 山の重きに比する徳川武士の本領を後世に印し得るをセメテもの土産として泉下の祖先に見え申さん。 〔裏面〕 松 平 仰 せ の 通 り 縦 し 事 は 成 ら ざ り し も 今 日 迄 の 悪 戦 苦 闘 に 依 つ て 眼 前 の 営 利 栄 達 に 眼 暗 め る 腰 抜 け 武 士 の 心胆を寒からしめ。 大鳥 三河以来の士風を発揮し。花は桜か桜井の駅に散にし菊水の顰に倣ふ。 荒井 武夫の亀鑑を後の世の人に示し得たりとせば夫れで満足。 一同 榎本大総裁閣下今日迄の御心労厚く御礼申上げん。 榎本 ヤヨ田村卿は未だ幼年今無慙死なすに忍びぬ。去つて余命を全ふせ。 田 村 之 れ は 将 軍 の 仰 せ と も 心 得 ま せ ぬ 若 輩 と て 侮 り 給 ふ な 。 十 四 歳 の 死 が 惜 け れ ば 五 十 、八 十 、百 歳 の 死 も尚ほ惜しと思ひ申さん。銀之助は今が死に時。死に花と心得ます。 榎本 豪い斯くてこそ日本益良雄。一盞参らう卿が得意の剣舞一番。冥土へ旅立の餞別せ。 田 村 勤 王 の 一 戦 北 門 に 拠 る 。 碧 血 は 奔 流 す 郭 外 の 村 。 病 兵 を 叱 咤 し て 憊 馬 に 鞭 て ば 。 飛 丸 雨 の 如 し 桔 梗 ヶ 原 。 ◎第五 の 二 最高幹部の再評定 (明治二年五月十六日夜)
《軍議一変甘んじて戮に就き ・・・・ ▲八百の部下を救ふ四将の心事》 榎 本 弁 天 砲 台 降 り 千 代 ヶ 岱 陣 屋 屠 ら れ 今 は 孤 城 落 月 。 此 上 の 抵 抗 は 無 意 義 に 八 百 の 勇 士 を 失 ふ の み 諸 君 の 御賢慮如何に。 松平 御意の如く最早我々の面目武士の意気地をのみ主張する秋に非ざらん。 大鳥 如かじ衆に代つて官に降り。 荒井 潔よく天裁を仰ぎ。 榎本 八百勇士の助命を請はん。 三人 御同感に候ぞ。 ◎第六 古屋衝鋒隊長湯の川湯治 (明治二年五月下旬) 《病床に在つて後事を案じ ・・・・ ▲憐れ異郷の露と消ゆ》 古 屋 如 何 に も し て 天 晴 武 士 の 本 分 を 尽 さ ん と 誓 ひ し 事 も 仇 な れ や 。 武 運 拙 な く 敵 艦 の 巨 弾 五 稜 城 内 訣 別 の 宴席に破裂し憐れ負傷の身と成りし無念さ。然れど霊泉の効に由つて快方に向ひたれば隊に復して亦活動せ ん。 因に云ふ隊長歩兵 頭 〔古〕 店 屋 佐久左衛門は余病併発遂に湯の川に歿す。 ◎第七 江戸火消小頭藤吉の義憤 (慶応四年二月七日) 《野州佐久山の活劇 ・・・・ ▲徳川思ひの纒ひ持》 藤 吉 吾 徳 川 お 抱 へ 十 人 火 消 の 小 頭 纒 持 と し て 安 穏 に 世 を 渡 り し も 将 軍 様 の お 蔭 。 今 又 新 募 の 義 勇 兵 と し て 改役に迄昇りしも徳川様のお情。然るに鳥羽、伏見の戦ひ敗れてより某藩の人々坊主上りの公卿と結託して
強て錦旗を自己の藩に請ひ奉り。将軍様を朝敵呼はり遂に三百年来の御座処たる江戸城より徳川様を追はん との噂さ奇ッ怪千万今一分別せざれば将軍様は如何な憂目にお会ひ成さるかも知れぬ。好し先んずれば人を 制すと聞く。先づ庄内藩に頼寄り徳川家の再興を図らんと。一千有余の同志を率ゐ野州迄来て見れば既に将 軍様に刃向ひせん徒輩の入込み居るこそ面白けれ。イザ越え来れ此棍棒の味ひ見せん。 因 に 云 ふ 藤 吉 は 一 介 の 新 募 兵 よ り 差 図 役 を 経 て 改 役 即 ち 今 の 大 尉 に 迄 昇 進 し 名 を 梶 原 雄 之 助 と 改 め 蝦 夷 各 地 に 転 戦 し 勇 名 を 恣 に せ し が 不 幸 明 治 二 年 五 月 十 六 日 前 節 の 古 屋 隊 長 負 傷 と 同 時 に 巨 弾 の 為 め 惨 死 を 遂 げ た り と 伝 へ ら れ し が 実 は 一 時 気 絶 し て 人 事 不 省 に 陥 り し も 戦 友 の 看 護 に 由 り て 蘇 生 し 維 新 後 石 井 某 方 に 入 夫 と 成 り 山 岡 鉄 舟 翁 の 推 挙 にて宮内省に奉職し 先帝陛下の馭者を勤め天寿を全ふせり。 ◎第八 旧主従二十年目の邂逅 (明治二十一年四月三日) 《此主人にして此従者あり ・・・・ ▲義と情の結晶》 石川 御前お懐かしう存じ升。御見忘れ遊ばせし哉。 榎 本 珍 ら し や 石 川 。 卿 の 事 は 片 時 忘 れ ね ど 其 後 絶 て 久 敷 消 息 を 得 ぬ を 遺 憾 に 思 ひ 居 り し が 能 く 健 康 で 居 て 呉れた嬉しいぞ。併し強う窶れたのう。兎まれ途上で話しも出来ぬ。此馬車に同乗して予が邸に行う。 ▲向島なる榎本子爵邸の奥座敷 榎 本 顧 ひ 起 せ ば 二 十 年 昔 し 予 は 朝 敵 の 汚 名 を 蒙 り た る 侭 骨 と 朽 つ べ か り し を 卿 の 切 な る 忠 言 に 因 つ て 今 日 あるを得たる訳。云はゞ卿は予が命の親にして又我家名誉の恩人忘れて成らう哉。何故早く尋ね越ざりしぞ 余処には見ぬ者を。 石 川 之 れ は 御 前 の 仰 せ と も 心 得 ま せ ぬ 。 御 白 刃 の 時 お 留 め 申 上 げ た は 従 士 の 任 務 を 仕 り た る 迄 、 治 兵 衛 に 寸効も厶りませねば御恩に被て戴く謂れ露程も有ぞとは存じませぬ。然るに石川落魄て伺へば寸功なき事を
恩ヶ間しく御無心に出し様世人に後を見らるゝ事の心苦しさ御懐しさを忍んで態と御無沙汰仕りました。 榎 本 斯 く 迄 窮 し て 尚 ほ 往 昔 の 魂 に 錆 は 着 け ぬ か 。 天 晴 れ 武 士 の 亀 鑑 。 見 あ げ た ぞ や 何 は 兎 も あ れ 今 後 は 予 が引受た老後を安うせ。 因 に 云 ふ 石 川 治 兵 衛 事 大 塚 鶴 之 丞 は 子 爵 に 邂 逅 し て 直 ち に 逓 信 省 に 任 用 さ れ 榎 本 逓 信 大 臣 に 事 へ 後 ち 官 を 辞 し 北 海 道に於ける榎本家の地処支配人と成り小樽に住し楽しき老を送り明治四十年病歿し遺族は東都に移れり。 函館戦争実況絵はかきに題す
御国思ふ兵どもが矢叫びの昔しを偲ぶ便とも為ん
片 上 楽 天 申込所 函館大隊官舎道見付片上禮 定価 金 六拾銭 五稜郭と函館戦争に就て諸君の重なる疑問は ▲五稜郭は何の要あつて誰が何時築きし乎▲榎本勢は何の目的にて蝦夷に来りし哉▲函館 戦争の起りは何乎其終りは如何▲西郷南洲翁が榎本勢の挙を忠君愛国の士と賞せし理由▲ 朝敵たる者が死に処せられざりしは何故ぞ▲維新後榎本子等の優遇されし理由 ・・・・・・ 等な らん本史は之れが解決の鍵。 ・・・・・・ 諸君が想像の外隠れたる史実満載。五
稜
郭
史
図 1 .「 精神修 養資料 函 館戦争実況場面解説 」 の 冒頭部分
図 2 の 1 . 第一場面 品川湾に於ける開陽艦長室の激論 図2の2 . 第二場面 官軍参謀黒田了介の居室
図2の3 . 第三場面 榎本大総裁将に自刃せんとす 図2の4 . 第四場面 千代ヶ岱陣屋中島兄弟永別の盃
図 2 の 5 . 第 五 場面 五 稜城内訣別 の 宴 図 2 の 6 . 第 六 場面 古屋衝鋒隊長湯 の 川湯治
図3の1 . 第七場面 江戸火消小頭藤吉の義憤 図3の2 . 第八場面 旧主従二十年目の邂逅
[ 付 記 ] 北 海 道 立 図 書 館・ 市 立 函 館 博 物 館 に は、 所 蔵 資 料 を 紹 介 す る こ と に つ い て ご 許 可 を い た だ い た。 ま た、田原良信氏・木村ひさ氏・伊藤尚氏には、貴重な資料を提供していただくなど、多くのご教示をいただ いた。心より御礼申し上げる。 なお、本稿は平成二九年度札幌大学研究助成による研究成果の一部である。