ミレナ・イェセンスカーのエッセイ4 選 ―『シン
プルへの道』(1926年)からの抜粋 ―
著者
半田 幸子
雑誌名
ヨーロッパ研究
号
15
ページ
145-159
発行年
2021-03-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00131615
ミレナ・イェセンスカーのエッセイ
4 選
*―『シンプルへの道』
(
1926 年)からの抜粋 ―
半 田 幸 子
キーワード : ミレナ・イェセンスカー/『シンプルへの道』/エッセイ/ 翻訳/Cestakjednoduchosti * 本稿は、『ヨーロッパ研究』第13 号および第 14 号に掲載された拙稿「ミレナ・イェセンスカーのモード論」(一) および(二)の補足資料を兼ねて投稿するものである。はじめに
両大戦間期チェコの論壇で活躍したジャーナリスト、ミレナ・イェセンスカー (Milena Jesenská, 1896-1944)は、生前に 3 冊の単著を刊行した。主に、チェコの保守 系日刊紙『国民新聞』(Národní listy, 1861-1941(1))の紙面に掲載された記事を編集し たものである。1925 年に刊行された最初の単著は、紙面で読者にレシピを募り集まっ たものをまとめたレシピ集(2)で、翌1926 年から 2 年続けて刊行されたのはエッセイ 集(3)であった。自身の記事を自ら編集した。レシピ集含め3 冊とも F. トピチュ出版 (Nakladatelství F. Topič)から刊行された。 本稿では、『ヨーロッパ研究』第13 号および第 14 号に掲載された拙稿「ミレナ・イェ センスカーのモード論」(一)および(二)で引用したものから、1926 年刊行のエッ セイ集『シンプルへの道』に収録された4 篇のエッセイの全文訳を試みる(4)。なお、 当該エッセイ集に関する参考資料として、目次およびその日本語訳、初出記事の掲 載年月日を巻末の付録に付しておく。1. 外からと内から(原題:
Zvenčí a zevnitř)
それは彼の責任ではない、という文が私は嫌いだ。その言葉を言うときに、善良な 心の持ち主だからと主張しないで欲しい。善良な心は、人に謝る必要も、一切の道徳を説くことも、批判することもなく、人を愛するものである。「その人の責任では ない」とは、偽善であり、見せびらかしであり、何よりそれは有害である。たとえ 何の責任がないとしても、世の中も私たち自身も、すべてに責任を負うよう私たち に求めるのだ。私たちは、世の中のことがよく分かるようになった瞬間に、考えたり、 考え出したり、決心したりすることができるようになるのであり、その瞬間にはもう、 出来上がった人間、すなわち何千もの不可思議で自分とは関係のない出来事にもと づいて作り上げられた人間になっているのである。私たち自身を構築するものは、 教育、環境、子どもの頃の貴重な体験、遺伝に加え、その他さまざまな生理学的な 影響なのである。だから実は存在している時点ですでに、私たちは自らのあるがま まを受け入れているのだが、求められているのは、あるがままの自分に基づいて生 きることではなく、どうあるべきかに基づいて生きることなのである。しかし、こ の運命が、生死や病気のリスク同様にすべての人々に共通するものであるがために、 それはもはや運命ではなく事実なのであって、したがって私たちに残されているこ とは、唯一の大きな義務「他人の中に加わること」だけなのである。おそらく人間 に求められるすべてのことは、また人間の勇敢さと自分のための人間的な仕事のな かでおそらく最大級のことは、「他人の中に加わること」の一文で表現することがで きる。つまり、自然の行いとまったく反対のことを行い、自然によって与えられる ものとはまったく反対の性質に磨きをかける必要があるのだ。ということはつまり、 皆にとっての良き仲間となるすべてを自らの内に育てる必要があり、社会の利益を 犠牲にして自らの利益にかまけるような性質は退化させる必要がある。 この意味において誰しもに責任があるのだ。私たちは次のことを認識しなければ ならない。すなわち、すべての人に同じ仕事があるわけではないということ、自分 の行いに対して責任を負うという課題がただ喜びや満足心として作用する人がいる ということ、責任を負うことを極めて絶望的に重く受け止める人もまた存在すると いうことを認識する必要がある。 この意味において誰しもが、自らの顔にも、身体にも、目の表情に対してさえも、 また自らの動きの調和性あるいは質素さにも責任を負うのだ。身体は、脳や思考、 精神と同様にまさに成形可能なものである。愚かでしかない人や、ただただ醜いと いう人が生まれることはないのと同様である。顔には、どのような仕事に従事して いるかが明白明瞭な文字で書かれ、どのような成果を出しているのかが内側から顔 を照らし出す。仕事に従事することは、最大で、実質的であると同時に観念的でも ある、つまり実用性があって効果的な「他人の中に加わること」のために私たちが
できる唯一のことである。 人間の最大の美は調和性である。ここで私が言っているのは、外見のセンスでは ない。私の念頭にあるのは、悪い特性と良い特性を一つの明確なまとまりとして内 側から照らし出す調和とバランスである。例えば、あなたが猫を見るとき、あなた はまったく完璧な姿を見ているのだが、猫は決して完璧ではない。猫は飛ぶことも できないし、吠えることもできないし、話すことだって、計算することだってでき ない。他にもたくさんできないことがあるだろう。だが、猫は、こなせることは完 璧にこなし、こなせないこと、例えば踊るなんてことを試そうなどとは思いつきも しない。人間でも、完全なる調和を持ってなんでも完璧にこなし、それだけの自己 統制や自己批判もでき、おそらく理解できないことは決してやらないという気まま な気質も兼ね備えている人がいる。彼らはどんなときも決して醜くはない。なぜなら、 醜いのは、ぎこちないこと、滑稽なこと、強欲な虚栄心だけなのだから。彼らはま るで円のようであり、優れた形を持つ。それを意識的かつ後天的にその形を持つと きもあれば、無意識のうちに持つときもある。だが、いずれのときも、常に正しく 行う人の優れた確実性を持って動く。正しく話し、正しく交渉し、正しく振るまい、 正しく服を着る。ひょっとすると、モード雑誌を一度も読んだことがないかもしれ ないし、もしかするとそれにかまう時間もお金もそれほどないかもしれない。けれ ど、彼らの内部の組織は、意識的に整っているのである。自分の欲しいものを知っ ていて、何を欲するのがいいことかを知っている。外見的なことはすべて、この中 心の清らかさに自然に従うのだ。まるで、蒸気式脱穀機が、自動的に籾と殻を分別し、 目的に適った集積力をもって作動し、自らのゴミをきれいに掃き出すのと同じよう に、正しいタイミングで正しい目標に向かってすべてを活用する。 人間がすることのすべては、内面の洗練度と関係する。どのように見えるのか、 どのように動くのか、どのように服を身につけるのか、足裏をどのように置くのか、 それからどのように微笑むことができるのか、そしてどのように握手をするのか。す べては一つの源、すなわち内面生活の豊かさと上品さから発生している。人間をつく るのは衣服ではない―戦後どれだけの人が、衣服に自分をつくるよう求めただろう か? ―それはうまくいったのだろうか? ほぼ断言するが、衣装は曝け出すもの であって、人間を包み隠すものではない。本当に価値のある人間は、たとえ「似合う」 ものでないものを身につけていたとしても、自分の外見のぎこちなさを決して無駄 にしない。その人は、それでも満たされ、凝縮された独特の表情を浮かべ、その姿は、 すべてにおいて必要以上に用心深く慎重になる人よりはるかに美しいのだ。外見がど
うでもいいと言いたいのではまったくない、むしろその反対である。外見は外見で はなく、内面の表出した結果だと言いたいだけなのだ。豊かで美しい中身を持つ人は、 自分の外見の問題を自然に(もはや上手にと言っているのとほぼ同意である)解決し、 滑稽でほつれたぼろを身につけることは決してないのだ。なぜなら、その人にとっ てシンプルさとこぎれいさは、呼吸にとっての空気のように不可欠なものだからで ある。中身が嘘つきの人や中身のない人にとって、美しさや上品さに到達するには、 もっとも高価なドレスであっても役に立たない。もし、その高価なドレスに仕立て 上何一つミスがないとしても、袖やデザインに名も無き何かが足りないことだろう。 名も無き何かとは、何かしら価値のある人から溢れんばかりに光り輝くものである。 それを何と言うのだろうか? 天から与えられなければ、薬局では買わない[訳注: チェコの古いことわざ。「能力はお金で買えるものではない」ことの例え]。
2.シンプルへの道(原題:
Cesta k jednoduchosti)
あらゆるものの中でもっとも不思議なことは、シンプルな物事を理解するように なるのは最後だということである。子どもに質素なものと飾りのあるものを選ばせ たなら、確実に飾りのあるものを選ぶだろうし、いくつかある中から選ばせたなら、 もっともシンプルでないものに触れるだろう。街の中心部に店が並んでいて—もっ とも高く、もっともこだわりのある店ばかり—それらの品揃えのほとんどが、シン プルで質素なものだったりすると、「何もないわね」と田舎から出てきたおばあさん は言い、「こういうのは野蛮なお金に相応しいわ」とのたまう。街の外れに行けば行 くほど、より熱心に装飾に力が注がれる。たとえば、服は市場の染料で染められて フリルや安価なレースが施され、帽子のつばには鳥の羽や造花が飾られ、食器には あらゆる絵がまばゆく描かれ、花屋では花ではなく花束が売られ、文具店では兵士 や詩、それに深紅のバラの絵はがきが売られている。田舎では、シンプルなものはまっ たく見当たらない。すべてのものに何かが掛けられ、貼られ、磨かれ、美しく施され、 質素な形に飾りものが組み合わせられるのだ、子どもの麦わら帽子を思い出してご らんなさい。忘れな草やひなぎくの造花で飾り付けられ、耳元にリボンがあしらわ れたあの典型的な帽子を! それを被った子どもの顔は何ともみすぼらしく、魔法 にかかったかのごとく愚かに見える。一目見ただけでひどく痛ましく感じ、こうい う人が、忘れな草の帽子への称賛からきれいな麦わらでできたシンプルな帽子への 愛へとたどり着くまでに一度にどれほどの内面の痛みを消費するのか、あるいはそもそもたどり着けるのかさえ、誰にも分からない。思い出すのは子どもの頃のこと、 お土産でもらったピンクと水色の櫛を母が本物のべっ甲製のものと取り替えたこと に対してひどく号泣し、悲劇ぶった悲しみを抱いたことだ! それから船乗りのよ うなジャケットにはいかに屈辱を受け、悩ませられたことか。お隣のファンダのリ ボンとレースのついたブラウスをどれほど欲しがったことか。彼女は12 歳にしてい ろんな髪型にしてみせ、本物のヘアピンをつけ、スカートのポケットにはどこかの 学生のぼろぼろになったラブレターが入っていたのだ! このような痛みは誰もが 経験するということや、シンプルの美と品にようやく気づくまでに運命の真の一撃、 内面の苦い葛藤、熱い告白を経験するということに気づき、ある日突然、日々暮ら す世界で、まるで新しい世界を体験するかのような状態になるのだということに気 づくとき、私はとても逆説的なことを言わずにはいられない。つまり、シンプルと はまったくシンプルではないのだ、と。おそらくそれは次の理由からである。つまり、 私たちの中には抑制されていない、まだ脳に支配されていない、凶暴で手に負えな い形、私たちの中には誰しも一度は経験したことのある貪欲さが眠っているからな のであり、私たちの心はすべてに対していつでも「もっと、もっと、もっと!」と 言っているからである。私たちにはそれを止めることはできず、足りない、といつ も不安に思うのだ。もし多く持っていたら、失う心配をする。もしそれを失うならば、 もう二度と手にできないのではないかという心配をする。いつでも自分の所有物に ついて何らかの不安を抱え、魂の一番奥底にも穴があって、魂のより奥底へと導く のである。幸せな1時間を手にすれば、「もう1時間!」と私たちは叫ぶ。帽子を手 に入れたなら、帽子につける花をさらに求める。千のものを持っていたならば、も う一つ欲しがり、二つ持っていたら、二百個足りないのである。 小さな、取るにたらない特性ではない。小さな、取るにたらない特性はただの欠 片であり、欠片は、大きな特性によって砕かれて、無防備に表面に顕われたという だけである。すべて、まったくすべてのものは内面から湧き出るのであって、人々 にセンスを教えながら自制のきかない心を放置することは、初めに時計をつけてか らベスト、コートを着るのと同じようにばかげたことである。自制とはしかしなが ら、最も複雑な性質であり、最も難しい美徳である。なぜなら、内面の確実性もそ こに含まれるからだ。だが、生まれながらに確実性のある人間などはいない。確実 性とはつかみ取るもの、美しいもの、称賛に値するもの、埋め合わせるものであり、 確実性には何より、すべての価値に対する自覚的で正しい評価が含まれるのだ。そ れを手に入れる人とは、絶望することなく失うことを学んだ人、多くを欲張るとか
自分の貪欲さの穴埋めのためだとかではなく手に入れることのできる人なのだ。分 け合うことを学んだ人、人間の確実性が物質的価値の中ではなく広い心の中にある のだということを悟った人である。広い心は常に物事の真の核心を間違いなくつか み、どんな状況であっても、ほんの些細なことであっても、重要なことであっても、 最深の最も簡明な基礎部分を注意深く確かめる。確認する場所が深ければ深いほど、 認識の範囲は狭まり、最終的には磁石のように最も明快でシンプルなところで止ま るのだ。なんとまあ、なんという闘いや戦さのあとに、なんというさすらいや失敗 のあとに、日の光のように明らかなことを見出すのだろうか。それは世の中を明る くするために必要なランタンである。振り返って、時に通り過ぎてしまう隅々まで 照らし出し、そのまぶしい輝きの中かつて探していたものすべてを見渡し、自分自 身を注意深く観察し、再びかつ最後に少なくとももう百回再度見渡すのは良いこと である。始めから人間の中では、斜めに指す太陽光線の中の粉状の結晶のように現 在までの考えすべてが飛び交っている。それは痛みを伴い、何よりも大きな負荷が かかる。しかし、気を緩めずにいたら、すべては勝手に治まり、すべてが自分の中で、 何らかの遠心運動を起こし、すべて自然にそれぞれの場所に収まるのだ。あなたの 心はシンプルな心のように見え始めるのだ。このような完成された心を持っている 女性たちもいて、彼女たちは誰のことも決して悪く言わず、皆のことを理解し、自 ずと自制することができ、誰も彼女らが自制していることさえ知らないのだ。 もっとも深い意味での自制を一度身につけた者は、例えば偽物の真珠などを愛す ることは決してないであろう。しかしそれよりも、それを愛することができるとい う考え自体、決して浮かばないだろうし、また、それを愛していないことを自慢げ にすることも決してないだろう。それを愛さないということは、それがとにかく存 在していないのと同じだけ自明のこととなるのであろう。 さてもちろん、偽物の真珠は実に取るにたらない物である。しかし、もっとも取 るにたらない物との関係性が私たちの中で良ければ、重要な物との関係性がどれほ ど良いものになりえるだろうか?
3.10 コルナ以内の喜び(原題:
Radost do deseti korun)
私の仕事机の片隅には、壁に向かってゴーギャンの絵の複製が立てかけてある。 大きく広大な空、下には海が広がり、2 頭の黒馬と 1 頭の白馬、それぞれに跨がる 3 人の裸の男たちが満潮の方へと背の高い草むらの中を分け出ていく。ひょっとした ら、あなたがたの好みではないかもしれない。その絵は、とても質素でシンプルな
絵で、3 人の背中、3 頭の背中、筋肉の動き、水平線のみである。だが、とても繊細 であり、とても穏やかで、心が痛むほどである。その絵は、外国について、見知ら ぬ天国について、人間について描いている。その人間は世界をとても甘い色の中に 見ているようで、天はピンク色に、海は群青色に、3 頭の馬と 3 人の男は、その景色 を前に描かれた色の悲しく憂鬱な歌のように見えたようだ。私はこの絵が大好きな のだが、それは、ただ美しいからとか、遠くの世界や知らない土地について描いて いるからというだけでなく、この絵が、私がとても大事にしている世界の一部だか らであり、色彩の小さな奇跡、叫び、宇宙の表情でもあるからだ。私はこの絵を小 さな文具店の店頭で埃をかぶっている状態で見つけた。10 コルナだった。だが、こ の絵は高価な贈り物や金縁の額に入った大きな絵よりも大きな喜びを私にもたらし た。私がその絵から喜びを感じなくなったら、仕事机の中にそれを仕舞い込み、そ れでまた数ヶ月後、偶然再会したときには、愛の味や、私たちがともに過ごした日々 のちょっとした感傷的な思い出が蘇ってくることだろう。私の仕事机の引き出しの 底には、何かの雑誌から切り抜いた、さっきと似たような絵がある。「太陽に向かっ て」というタイトルだ。その絵は、海岸沿いを男女が手をつないで太陽と風に向かっ て歩いている、特に美しいわけでも貴重なわけでもなく、なんともキッチュな絵で ある。それでも私はその絵をゴミ箱に捨てる決心が一向につかない。13 歳の少女の あらゆる願望、小さな少女のくだらない想像のすべてがその絵にぶら下がっていて、 私がその絵に微笑みかけるとすれば、私は、大人になるまでのすべての過程をまっ すぐ歩んできた自分の青春時代に直接微笑みかけているのだ。 喜びにお金が必須だと主張する人は、どれほど世の中を愛していないことか! 喜 びにお金を払う人は、なんと貧しいことか! 喜ぶために確かな期待を必要とする 人はなんたる誤解をしていることか! わずかなお金しか無いことは、ほぼ幸せと 同じことである。それはたとえば心が傷つき、通りの角や公園の片隅、あるいは野 の果てに悲しみと心配を抱え、周囲の過ぎゆくままに立ち尽くしたとしても。本当に、 本当に、人間から願望や空想を奪うことができないのに、人間を貧しくすることが どうしてできるというのだろうか? 手を頭の下に置いて、世の中をじっと見つめ てごらんなさい。巨大な駅へ通じる鉄道を、生活の喧騒が流れる通りを、美しい女 性たちが歩く色とりどりの海岸を、電気ランプのついた栗の木の下の音楽を、ドア のベルが鳴るところ、バニラと酢漬けのキュウリの香りのするところを、大きな庭 のテニスコートを、駅員たちの家々の周りのマリーゴールドや薄紫色の薔薇、アス ター[訳注:キク科の植物]の咲く小さな庭を、大きな鉄の建造物を、空を漂う雲を、
ニューヨークの前の海にそびえ立つ自由の女神像を、タバコ屋の向かいの小さな子 猫を、全世界を! あなたは不幸? あなたは寂しい? あなたは悲しい? どう してもっと放浪しないの! 放浪は大きい、ずっと続く幸せなのだ。放浪は人間を 悲しみから異国へと連れ去ってくれる。一度でも放浪の幸せを知ったなら、もう二 度と死ぬまで不幸になることはない。つまり、世界が大きいということや私たちが ちっぽけだと知ることにこそ、人々の救済があるのだ。本当に、真上に太陽が昇っ た通りに立って世界と心でつながっていること、その心が世界をとても愛すること は、ほぼ幸せと同じことなのだ。すべてをゼロから始めることは、ほぼ幸せなこと と言っていい。 あなたはすでに午前中に町外れのひとけの無いカフェに入って、レモネードをす すり、絵入り雑誌を見てみたことはあるだろうか? 絵入り雑誌と分厚い雑誌は、 私の知るもっともきれいなものである。その中には世界すべてがある。美しい女性、 ドレス、縞模様のしまうま、列車、風を切って仕事に飛んでいく人々、シカゴの通り の果物を乗せた台車、決して知ることの無いX氏の車、うわさ話をよく聞く女優Y の猫、白いカーテンが風でなびくモダン調に整えられた部屋、花瓶の花、どこかの城。 頁をめくり、世界のことを考える。しばしの間、自分の部屋から世界へと飛び出す。 豊かな気持ちになって家に戻り、叶わない願望も叶ったものと同然に喜ばしいのだ ということが分からないとすれば、願望や喜びを理解していないということだ。パ リは、私の15 年に及ぶパリへの憧れほど美しいわけがない。もし私が人生で一度も パリを見ないとしても、私にとってパリは困難な時期からの救出を意味する。つま り、すべてに失敗したときに、私はパリへ行くのだから。大通りの大きなホテルで、 住み込みの皿洗いとして部屋を借りる。洗い終わったお皿がテーブルの上でガチャ ガチャ鳴るのがすでに聞こえてくるし、仕事が終わって、ロールパンといくらかの 小銭を持って、美しくエレガントな人があふれる通りへ出かけて行く自分の姿が見 える。パリ! パリ! パリ! 私はその中心にいて、心奪われ、隠れ、羽を伸ば し、自由な、パリと私。この夢とともに、この後ろのドアとともに、私に何が起こ るのだろうか? きっと一度もパリに行かないとしたらなんだというのか? きっ と、そこは醜くて騒々しい街だろうが、しかしだからどうしたというのだ? あなたがたはもうすでに車で移動するという幸運を試したことがあるだろうか? 大 都市には動く自動車が何百とある。空想や、豪雨のように突然襲ってくる痛みや幸 せの不思議な味を知らない厳粛な人は私に、自動車は場所から場所へより早く移動 するためにあるものだと説得したがる。もうこの世には本当にロマンチシズムはす
べて死に絶えたのだろうか? 知らない街の偶然出会う通りの中(そこには窓、お店、 看板、人、電車、埃がある)を地下鉄に乗って移動することは、幸せではないだろう か? 目的なしに、時間の波とともに終着駅まで行くのは? 薄明かりのトンネル、 汽笛、看板、見知らぬ人々。列車はしばし深みから上がり、地上に姿を現し、通り の一部に轟音を立てて、少し新鮮な空気をとらえる。また新しい通り、新しい人々、 物乞い、橋、缶をいくつも引きずって走る自動車、街の眺め。心は驚きと広い好奇 心で震え、目は見るだけでは足りない。あなたがたはもう夜間に、バスの屋根の上 に乗って走ったことはあるだろうか? 頭はほぼ星のそば、通りは足の下、夜の歩 行者はまるで前に伸びる影のよう、幾千もの静かな沈黙の窓が向かい合い、家々の 玄関の向こうには幾千もの閉ざされた運命があって、カフェの前の庭、色とりどり のランプ、レモネードのグラス? 夜から回転木馬に乗ることが幸せなのではなく、 はしゃぐ子供たち、町外れのほぼでこぼこした大地、どこか遠くのれんがと壊れた 鍋の山、むき出しでカラフルな周囲、遠くの方は暗く、背後には町の境界線があり、 星の邪魔をする空のまぶしさ、そういうことが、燃える空に向かう夜の町なのである。 そういうところであなたが、自分の四角い箱の中に帰り、らせん階段を3階まで上 がっていくと、そのうちのどれかの段にごきぶりが居座っている。部屋に逃げ込む と、そこで天井に未熟な考えや浅く不安定な感情がぶら下がっているのを見つけ、 両方をつかんでそれを陽気に窓から路上に投げ捨てるのだ。なぜならすごく疲れて いるからで、疲れているのは町外れで赤い帽子をかぶった白い象に跨がってきたか らである。小さな白いバッタに乗る代わりに馬車に乗り、当てもなく街の中を走る ということがたとえばいつか起きたとしても、それはただそう見えるだけであって、 現実のイメージでは、愛する誰かのもとへ出かけて、どんどん近づき、通りで互い に見合うのだけれど、そこで彼の顔だけを見て、空気に「こんにちは」と言い、他 にもまだたくさんの馬鹿げたことを言うということだ。こんなことであなたがたは、 どれほど戸惑い、孤独でうぶなことか、タツノオトシゴはゆらゆら揺れ、たてがみ によって動くが、あなたはたとえば人生全体が向かっている方向には決してたどり 着かないとしても、けれどそれによってだめになることがあるものか、世の中はあ なたを包み込み、守り、驚かし、満たし、それから一度吐き出して、終わりなのだ。 あなたがたはもう小さな町で一日を過ごしたことがあるだろうか? すべてのも のが町の中心にある小さな広場に集まっていて、そこから野まで通りがまっすぐ伸 びている。そこの小さなカフェには赤いビロードと何かグロテスクな新聞が置いて あり、新聞には、信じられないような、とんでもない、世間にとって行方知れずの
事件が掲載されている。あなたは、この町でも人々が不幸な愛から首を吊り、この 世に誤って生まれてきてしまった子どもたちを殺すという記事を読み終えると、す ぐ隣の欄に、もう2 年前には知っている映画の上映スケジュールを目にするのだ。 小さなカフェの周りには、円状に小さな店屋が立ち並び、サラミ、ポストカード、 靴と靴ひも、エメンタールチーズやサワーキャンディ、その店屋群で一度にすべて が手に入る。いつだったかすでに絵や夢の中あるいはおとぎ話の中で見たような人々 が行き交うが、彼らは陽気で、賢く、滑稽さの中に威厳があって、人生を真剣に捉 えている。夜になるころ、まだ夕暮れどき、まだ銀白色の光のもと、大きくおぼろ げな8 月の月がまさに向かいのとんがり屋根の上にのぼり、それと同じ月がちょう ど同じときにモンテ・カルロの空にのぼり、パリの空に、ミシシッピの空に、何マ イルも越えてあなたがよく想う人の家の上空にのぼる、能力のある人はこのことを 理解してほしい。ここの駅は小さく、すでに野には2 本の樺の木と赤い帽子をかぶっ た人間一人が立ち、列車はまるでここには相応しくないかのように通り過ぎ、その うちの一台に乗ってあなたは去り、小さな町は闇に沈み、この試みは正しかったと 信じるに至るのだ。 夕方の幹線道路! 町の向こうの白く細い道路、野中の車道、町から聞こえる晩 の鐘、幸せなことじゃない? 信じて欲しい、世の中には、知らない道路の上を行 くしっかりとした良い足取りが、リズミカルでない振動を立てることなどないのだ。 いち、に、いち、に。不幸は規則正しい光のちらつきにたどり着き、整然としたな かにたどり着く、いち、に、いち、に。不幸が足と小競り合い、心が痛いと言うと、 足はこう言う。世界はここにある、世界はここにあるのだ、と。心はゆっくりと開き、 振り返り、何かがひっくり返り、かき乱され、それから落ち着きを取り戻し、ぐらつき、 突然、笑い出す。足は痛みを横滑りさせ、心はその痛みの後について、世界はここ、 世界はここ。しかし、今は止まらないで、「今は」だめ、さもなければすぐまた不幸 になる。「今は」進みなさい、まだまだ前へ、何時間もずっと遠くへ、あなたが疲れ 果てるまで。ずっと向こうで立ち止まったら、足音が静まりかえって突如周囲に広 がる静寂の中で、たぶん、おそらく―ああ、絶対とは約束できないけれど―、2 粒、 いやきっと3 粒の涙を見るだろう、運が良ければ。
4.
個人主義と個人主義者(原題:
Individualismus a individualisté)
現在、世の中には大きな不安がある。つまり、個人主義はどうなるのか? ということである。集合財の生産や集団教育が人口の増加に伴い拡大し、私たちの人口は たえず増え続け、下の人は右肩上がりに数を増し、上の人は右肩下がりに数を減らし、 その数は大体等しいものとなって、製品と思考の大量生産が支配的になり、工場生 産によって幾千もの同じ製品が産出され、私たちはこういう印象を持つのだ。自分 のものはすべて同時に他人のものでもあって、あるいは少なくとも他人のものにな りうるものであり、多くの人にとって入手可能なものであり、自分だけのものを持 つことは決してなく、何かを指差して、これは自分しか持っていないと言うことさ えできない、という印象を。アメリカから帰国した人は、大量の同じ商品や、同じ 環境で同じ教育を受けた大勢の人間に対して不満を口にする。個人の成長を組織的 に阻害したことによる文化の崩壊を指摘しているのだ。私たち皆が同じになったと きには世界は消えると主張し、将来に対する不安を提示している。 私にはそれが大げさな不安のように思われ、言うなれば、それはかなりどうでも いいことのように思われる。何よりも私は、いわゆる個性的であることを皆が過大 評価しているように思う。この国では、人々が個性的であろうとすることに囚われて、 自分が十分に個性的でないという不安から、他者と仲良くできないでいるのだ。芸 術家の間では、ほぼ皆が何らかの運動の支持者であり、チェコ人の芸術家がいると ころには必ず運動があり、政治家の間でもほぼ皆がそれぞれの政党の支持者であり、 チェコ人の政治家のいるところには政党がある。新しい人間がやってきて、以前の 考えと少し違ったことを考え出し、自分を唯一の正しい救済者であると宣言し、新 しい政党を設立する。その人の周りの人はもちろん、自分たちが先導者となり一体 となって組織化するべきだと誤った考えのもと彼を容認し、ただちに独自路線へ走 り、曲がった思想へと新たな岐路を考え出し、しまいにはいつも、スープの中に何 らかの毛が見つかるのだ。そのように私たちは分裂し、細分化し、小さくちっぽけで、 これほど多くの政党や運動が存在するところは他にどこにもない。その点で私たち は個性的であり、皆それぞれが自分の歌を歌う。近くを見回すと、世の中に対して 何か本当に新しいこと、核となること、唯一のこと、まだ誰も言っていないことを いう人は、私たちの間にはほとんどおらず、個人主義はいずれも人間の仕事細胞に 職業的に組み込まれた無能の中に存在する。 女性はこの痛みに男性以上に頭を悩ませている。他の女性と同じ、あるいは似た ようなドレスを着るべきだということ、似たような家に住むべきだということ、似 たような家具を買わなければならないということ、見せびらかすものがなく、他の 女性より良いものを持つことはほとんどないということが女性に痛みをもたらす。
ときには、例えば実用的でない、役にも立たない、無駄に高い、けれどもただただ 独創的だというものによって、どうやったら個性のなさを補えるかと絶望的にもな る。名刺は読むことが目的のものであるにもかかわらず、名刺に自筆の、もしかし たら読めないかもしれないサインを印刷するのだ。手紙は、ただ特別なものとする ためだけに濃い紫色の紙に書く、なぜなら分別のある人間なら誰でも白い紙を使う からである。ドレスは、ろうけつ染めにしてあらゆる方法で醜くくする。すると着 心地が悪く高額だが風変わりで人目を引くものになる。個性を発揮するためにこの ような方法を使うなんて、なんてちっぽけな個性なのだろうか! 風変わりな人間は自分の風変わりさを外見で表現することは決してなく、行動で示 すものだと私は思う。風変わりなものを作り出し、風変わりに仕事をこなし、自分 自身の話し方や振る舞いを持っていて、そのすべてを秘密の法則がつかさどり、そ の法則が他でもないまさにその人を形成し、その人は本当にそれ以外のやり方がで きないのであり、行動すべてからそれが分かるのだ。紫色の紙に表れる個性はひど く疑わしい。なぜ、教えください、なぜよりによって紫なのだろうか? なぜ緑や 赤や青ではだめなのだろうか? その色は一様に醜いし、一様に非実用的だし、一 様に「特別」である。その色には、魂の主張など微塵もなく、有機的な創作性もなく、 とにかくその「小さくも自分の」ものを持ちたいという頭の固い人間のつまらない ユーモアでしかない。 個性的な人は、それをそう易々と持つことはない。彼らは自分のオリジナリティ の印を店から数コルナで手に入れることはないが、激しくそれに値するのであり、 精神的価値でそれを補うのだ。それからその人が本当に神々しく個性的である場合 は自らの光で輝いているため、他20 人と同じ恰好をさせても、2 歩前へ出させたり、 微笑ませるかあるいは表情を曇らせたり、ひとこと言わせたり、握手をさせたり、 あるいはおそらくもっと取るに足らないことでも十分だがさせると、一目見て、そ の人が個性的で自分を持った人で、その個性が、深いところ、内面から、ふさわし い源から流れているのだということが分かるだろう。
付録『シンプルへの道』目次
タイトル 原題 頁数 掲載年月日
1. シンプルへの道 Cesta k jednoduchosti 9-12 1925.11.6
2. 外からと内から Zvenčí a zevnitř 13-16 1925.10.1
3. 私たちの内に見る鏡 Zrcadlo, které se v nás zhlíží 17-19 1926.1.24
4. 婦人と現代女性 Dáma a moderní žena 20-23 1926.1.14
5. かまどの悪魔 Ďábel u krbu 24-29 1923.1.18
6. 10 コルナ以内の喜び Radost do deseti korun 30-35 1923.8.11
7. 喜びへの義務 Povinnost k radosti 36-38 不明
8. 見知らぬ夫人たち Neznámé paní 39-42 不明
9. 紳士 Kavalír 43-45 1923.8.23
10. 二通の手紙、書き手が術を知っていたなら小説化したはずのもの Dva dopisy, ze kterých by byl autor udělal novelu, kdyby to byl dovedl 46-51 1925.2.13 11. 女性解放に関する非常に後進的な覚書 O té ženské emancipaci několik zaostalých poznámek 52-57 1923.2.17 12. いくつかの社会的法則 Několik společenských zákonů 58-62 1923.5.27 13. 装飾的なアイテム? Dekorativní předmět? 63-66 1925.10.18
14. 喜ばせる術について O umění potěšiti 67-71 1924.9.14
15. 原因、あるいは結果? Příčina, nebo účinek? 72-76 1923.6.12 16. 筋肉のトレーニングと性格のトレーニング Trénink svalů a trénink vlastností 77-80 1926.1.21 17. 個人主義と個人主義者 Individualismus a individualisté 81-83 不明 18. 忍耐力、痛みからの最短の逃げ道 Otužilost, nejkratší útěk z bolesti 84-86 不明 19. 素晴らしい性格の呪縛 Kletba výtečných vlastností 87-90 不明 注)1.「シンプルへの道」は『トピチュ選集』に掲載、判明しているもののうち他はすべて『国
民新聞』に掲載された。なお、初出記事の原題は一部、上記のものとは異なる。初出記事では、2. は、
Zvenčí a uvnitř(「外からと内側」)、3. は、Zrcadlo, které se v nás vzhlíží(「私たち内に見上げる鏡」)、 4. は、Dáma a „moderní“ žena(「婦人と『現代』女性」)、16. は、Training svalů a training vlastností(「筋
肉のトレーニングと性格のトレーニング)」(トレーニングの綴り違い(英語表記))。文面にも一
部異なる箇所が見られるが、本稿では『シンプルへの道』収録のエッセイを底本とした。
注:
( 1 ) チェコの新聞史上最も古い歴史を持ち、当初、国民党(Národní strana)、その後、党 内の左派勢力独立に伴い結党された国民自由思想党(Národní strana svobodomyslná、 通称:青年チェコ党Mladočeská strana)、建国後は後継政党チェコスロヴァキア国民 民 主 党(Československá národní demokracie、通称:国民民主党 Národní demokracie) の機関紙として刊行された。
( 2 )Milena. Mileniny recepty. Praha: F. Topič, 1925.(『ミレナのレシピ集』)
dělášaty. Praha: F. Topič, 1927.(『人が衣装をつくる』)
( 4 ) 「ミレナ・イェセンスカーのモード論(一)」で引用したものとして、「外からと内から」 Zvenčí a zevnitř を、「ミレナ・イェセンスカーのモード論(二)」で引用したものとし て、「シンプルへの道」Cesta k jednoduchosti、「10 コルナ以内の喜び」Radosti do deseti korun、「個人主義と個人主義者」Individualismus a individualisté を取り上げる。
Four Essays Written by Milena Jesenská:
Selected from Cestakjednoduchosti (1926)
H
ANDASachiko
Abstract
This paper is a Japanese translation of 4 essays selected from an anthology of essays entitled Cestakjednoduchostiwritten and edited by Milena Jesenská (Praha: Nakladatelství F. Topič, 1926). This paper notes that Jesenská published a recipe book in 1925 and two anthologies of essays in 1926 and 1927.
The selected four essays are quoted in the former articles in EUROPEAN
STUDIES vol. 13 and vol 14.; “Fashion Journalism in the Articles of Milena
Jesenská (1) (clothes): A Consideration in the Study of Czech Culture in the 1920s.” and “Fashion Journalism in the Articles of Milena Jesenská (2) (lifestyle): A Consideration in the Study of Czech Culture in the 1920s.”, which are written by the translator.
The original titles of the essays are “Zvenčí a zevnitř” (From outside and from inside), “Cesta k jednoduchosti” (A path toward simplicity), “Radosti do deseti korun” (Joy in ten koruna), and “Individualismus and Individualisté” (Individualism and Individualists). This paper also contains a table of contents of the anthology, as a reference, including the dates first published in newspapers.