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「司馬光傳承」拾遺 : 明清「編年」書六種における

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「司馬光傳承」拾遺 : 明清「編年」書六種におけ

著者

熊本 崇

雑誌名

東北大学文学研究科研究年報

65

ページ

1-36

発行年

2016-03-01

URL

http://hdl.handle.net/10097/63062

(2)

﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶

﹁司馬光傳承﹂拾遺

明清﹁編年﹂書六種における

  

     

序にかえて   別 ︶1 ︵ 稿 では、 宋哲宗朝初における司馬光最晩年の事蹟、 首相發令と就任、 差役法復活

募役法から差役法への回歸

等を、 ﹃資 冶通鑑﹄の後繼を稱する明清人の﹁編年﹂書六種が、如何に傳えたかを明らかにすべく試み、いくつかの知見を得た。例えば先行 する史書の後發のそれに對する、拘束力の強さである。後者が前者の踏襲に過ぎぬ場合が、むしろ常態でさえある。あるいは後發 史書の怠慢もこれを然らしめる、要因であろう。また六書のうち明薛應旂のそれはその﹁義例﹂で、嚴密な﹁編年例﹂を遵守した と 誇 る。 ﹁ 予 於 紀 事、 仍 序 書 於 年 月 日 之 下 云 云 ﹂ が そ れ で あ る が 實 際 に は、 自 身 が 批 判 し た﹁ 紀 傳 體 ﹂

﹁ 或 合 始 末 併 書 之 ﹂

に堕した具體例も、散見する。   明人の四書には、差役法の復活は光の正月二十二日上奏︵ ﹁罷免役錢依舊差役箚子﹂ ︶が﹁得旨﹂した、元祐元年︵一〇八六︶二 月六日であるにも拘わらず、閏二月あるいは三月とする、二月末に設置された詳定役法所の意味、光正月﹁箚子﹂との關係につい ての理解不足等の、問題點を指摘し得た。詳定役法所等役法關連記事が、特に清徐乾學等の書において如何に繼承されたか、その 檢討が小稿に遺された課題である。乾學等に敢て限定するのは、乾學等の不備はほぼただちに畢沅のそれでもあるからである。少

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 な く と も 當 該 期 の 光 を め ぐ る 記 事 に 限 れ ば、 畢 沅 は 殆 ど 乾 學 等 の 轉 寫 に 終 始 す る。 因 み に 六 者 の う ち 畢 沅 の 書 だ け が﹃ 四 庫 全 書 ﹄ 以後の、編纂に係る。 ﹃永樂大典﹄から抽出された李燾の﹃續資治通鑑長編

以下長編

﹄、特にその哲宗紀を利用し得たのは 畢沅のみである。その史料環境において畢沅は、他の五者より著しく有利であった。   小稿では別稿同樣六種の﹁編年﹂書を、以下の如く略稱する。①明陳 桱 ﹃通鑑續編﹄ 、陳 桱 A 、②同商輅﹃通鑑綱目續編﹄ 、商輅 B 、 ③ 同 薛 應 旂﹃ 宋 元 資 冶 通 鑑 ﹄、 應 旂 C 、 ④ 同 王 宗 沐﹃ 宋 元 資 治 通 鑑 ﹄、 宗 沐 D 、 ⑤ 清 徐 乾 學 等﹃ 資 治 通 鑑 後 編 ﹄、 乾 學 等 E 、 ⑥ 同畢沅﹃續資治通鑑﹄ 、畢沅 F 。 Ⅰ、門下侍郎就任   徐乾學等 E には、先行する明人

陳 桱 ・商輅・薛應旂・王宗沐

の四書に比べその﹁編年﹂に、若干の改善がみえる。司馬 光 の 元 祐 元 年︵ 一 〇 八 六 ︶ 正 月 二 十 二 日 上 奏 に 係 る、 ﹁ 乞 罷 免 役 錢 依 舊 差 役 箚 子 ﹂ を

明 人 の 如 く 同 年 閏 二 月 な い し は 三 月 で は な く

聖 旨﹁ 奏 ニ 依 レ ﹂ を 得 た、 二 月 六 日 に 繋 け た か ら で あ る。 ﹁ 奏 ニ 依 レ ﹂ は、 光 の 該﹁ 箚 子 ﹂ を 以 て 差 役 法 が、 復 活 し た こ とを意味する。ただ遺憾な點が無いわけではない。同じく光の﹁乞去新法之病民傷國者疏﹂を、 E 卷八六元豐八年︵一〇八五︶五 月戊午︵二十五日︶條に引くのは、その一例である。 E 同條は、光への門下侍郎︵執政官︶發令、光の辭退と最終的受諾を傳えて いる。受諾は實際には二十八日のことと考えられる。 別 ︶2 ︵ 稿 にもみたように、該﹁疏﹂上奏時光の寄祿階は、太中大夫であり、門下 侍 郎 發 令 時 の そ れ は 一 級 上 の、 通 議 大 夫 で あ る か ら、 明 ら か に﹁ 疏 ﹂ は 發 令 以 前、 恐 ら く は 四 月 二 十 七 日 の 上 奏 に 係 る。 ﹁ 疏 ﹂ の 一節には﹁如保甲 ・ 免役錢 ・ 將官三事、皆當今之急務、釐革所宜先者、臣今別具狀奏聞﹂とみえ、總論というべき﹁疏﹂とは別に、 各 論﹁ 乞 罷 保 甲 狀 ﹂﹁ 乞 罷 免 役 狀 ﹂﹁ 乞 罷 將 官 狀 ﹂ の 三﹁ 狀 ﹂ が、 同 時 に 上 奏 さ れ た。 ﹁ 疏 ﹂ と 三﹁ 狀 ﹂ は、 執 政 官 登 用 を 豫 測 し た 光 に お け る 施 政 方 針 の、 一 環 と 位 置 づ け 得 よ う︵ ﹃ 温 國 文 正 司 馬 公 集

以 下 司 馬 公 集

﹄ 卷 四 九﹁ 乞 罷 免 役 錢 依 舊 差 役 箚 子 ﹂、 同卷四六﹁乞去新法之病民傷國者疏﹂ 、同﹁乞罷保甲狀﹂ 、同卷四七﹁乞罷免役狀﹂ 、同﹁乞罷將官狀﹂ ︶。

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶   ﹃ 宋 史 ﹄ 卷 一 七 七 役 法 上 は

あ る い は 陳 均﹃ 皇 朝 編 年 綱 目 備 要

以 下 備 要

﹄ 卷 二 十 一 元 豐 八 年 五 月﹁ 司 馬 光 門 下 侍 郎 ﹂ 條﹁分註﹂を誤讀 し ︶3 ︵ て

三﹁狀﹂の一﹁乞罷免役狀﹂を、門下侍郎光の上奏として引き、陳 桱 A も役法上に據り、 A 卷一〇元祐 元年閏二月﹁詔詳定役法﹂條﹁分註﹂に、 ﹁執政﹂光の上奏として﹁乞罷免役狀﹂を、 略する。乾學等 E 五月戊午條における﹁疏﹂ は、これと範疇を同じくする、少なくとも﹁編年書﹂としての不備ではある。   乾學等 E は、 楊仲良 ﹃資冶通鑑長編紀事本末

以下紀事本末﹄ 卷九四 ﹁變新法﹂ に據って、 ﹁疏﹂ 上奏が元豐八年四月己丑 ︵二十六 日 ︶

﹃ 長 編 ﹄ は 庚 寅︵ 二 十 七 日 ︶

で あ る こ と を 知 り 得 る 立 場 に 在 り は し た。 だ が E 五 月 戊 午 條 は、 ﹃ 宋 史 ﹄ 卷 三 三 六 光 傳 と明人の四書 A B C D 、および蘇軾撰の光﹁行狀﹂を、繼承したであろう。光傳は﹁起光知陳州、過闕、留爲門下侍郎﹂としたあ と、 ﹁ 是 時 天 下 之 民 ﹂ は 新 政︵ 新 法 改 變 ︶ に 期 待 し た が、 議 者︵ 新 法 黨 ︶ が﹁ 三 年 無 改 於 父︵ 神 宗 ︶ 之 道 ﹂ を 口 實 に、 人 言 を 防 遏 しようとしたため、光が﹁況太皇太后以母改子、非子改父﹂と反論し、衆議は鎭定したと述べる。陳 桱 A 卷九元豐八年五月﹁以司 馬 光 爲 門 下 侍 郎 ﹂ 條﹁ 分 註 ﹂、 商 輅 B 同 年 同 月 同 條﹁ 分 註 ﹂、 應 旂 C 卷 三 九 同 年 同 月﹁ 丙 ︶4 ︵ 辰 ﹂ 條、 宗 沐 D 同 年 同 月 戊 午 ︶5 ︵ 條 は な べ て、 光 傳 の 記 述 を 踏 襲 す る。 ﹁ 況 太 皇 太 后 云 云 ﹂ は、 母 で あ る 高 氏 は 神 宗 の 諸 政 策 を 否 定 し て よ い と す る、 新 法 改 變 正 當 化 に お け る 最 有 力 の 論 據 で あ る。 該﹁ 疏 ﹂ 末 尾 に は、 ﹁ 況 今 軍 國 之 事、 太 皇 太 后 陛 下 權 同 行 處 分、 是 乃 母 改 子 之 政、 非 子 改 父 之 道 也、 何 憚 而 不 爲哉﹂とある。 ﹁編年﹂書としての妥當性を害うとはいえ、乾學等には、 ﹁疏﹂を戊午條に繋ける必然性は有った。ただ﹁三年無改 於父之道﹂に對する光の反論については、乾學等は、 ﹁疏﹂自體よりむしろ、軾撰﹁行狀﹂におけるその略を採った︵ ﹃名臣碑傳 琬琰集﹄中卷五一﹁司馬文正公行狀﹂ ︶。   ﹃宋史﹄光傳には、 ﹁況太皇太后以母改子、 非子改父﹂に先行して、 ﹁光曰、 先帝之法、 其善者雖百世不可變也、 若安石 ・ 惠卿所建、 爲 天 下 害 者、 改 之 當 如 救 焚 拯 溺 ﹂ と あ る が こ の 一 は、 軾 撰 光﹁ 行 狀 ﹂ に 據 る。 ﹁ 行 狀 ﹂ に は﹁ 公 然 爭 曰、 先 帝 之 法、 ︿ 中 略 ﹀、 當如救焚拯溺、 猶恐不及﹂とあるからである。 ﹁行狀﹂の﹁猶恐不及﹂以下には、 ﹁昔漢文帝除肉刑、 ︿中略﹀ 、 景帝元年卽改之、 ︿中 略﹀ 、德宗晩年爲宮市、 ︿中略﹀ 、順宗卽位罷之、當時悦服、後世稱頌、未有或非之者也。況太皇太后以母改子、非子改父﹂とある。 特に﹁昔漢文帝﹂以下は明らかに、光﹁疏﹂後段の略である︵ただし﹁先帝之法﹂以下﹁猶恐不及﹂までを軾が何に採ったかは

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 詳らかにし得ない︶ 。乾學等 E 五月戊午條は、 ﹁行狀﹂の﹁公然爭之曰﹂以下﹁非子改父﹂に至るまでを、 ほぼ字字句句採録する。 E 戊午條は光傳の當該部分を、 ﹁﹁行狀﹂を以て増量した。   門下侍郎發令以前の上奏を、 發令以後に引用する筆法は、 ﹁行狀﹂ ・ 列傳等﹁紀傳體﹂の場合には當を失しているとはいえまい。 ﹁編 年﹂書であるにしても、例えば陳 桱 A ・商輅 B のように﹁綱目﹂の體を採り、某月某日某條﹁分註﹂に、複數年に渉る記事を集中 し て 收 録 す る 場 合 も、 一 槪 に 不 當 と は 爲 し 得 ま い。 應 旂 C ・ 宗 沐 D は す で に﹁ 綱 目 ﹂ で は な く、 ﹁ 編 年 ﹂ 書 で あ る。 だ が 兩 者 の 基 本的作業は、商輅 B ﹁分註﹂の正文化に過ぎずしかも、某日條における

あるいは複數年に渉る

諸記事の、前後關係、因果 關係は必ずしも整序されていない。例えば B ﹁以司馬光爲門下侍郎﹂ ﹁分註﹂ ﹁旣而蘇軾自登州召還、縁道人相聚號呼曰、寄謝司馬 相公、毋去朝廷云云﹂は、そのまま C ﹁丙辰﹂ D 戊午條に繋けられる。軾は五月戊戌︵六日︶配流︵常州安置︶を赦され、朝奉郎 を以て知登州を發令さ れ ︶6 ︵ た 。登州から開封ヘの召遷はこの年十一月以降である。四月上奏に係る光﹁疏﹂は、 この﹁旣而蘇軾云云﹂ に 接 續 さ れ て い る。 應 旂 C 宗 沐 D の﹁ 編 年 ﹂ は、 不 適 切 の 毀 り を 免 か れ ま い。 例 え ば、 ﹁ 先 是 ﹂ 等 前 後 關 係 の 明 示 も 無 い ま ま、 乾 學等 E も光﹁疏﹂を五月戊午條に繋けている。 C D の踏襲であるがさらに、乾學等は同一疏の前段を恰かも別の一疏の如くに、引 用 す る。 乾 學 等 E 五 月 戊 午 條 の 構 成 は ほ ぼ 以 下 の 如 く で あ る。 ① 門 下 侍 郎 發 令。 ② 發 令 以 前、 知 陳 州 を 以 て 過 闕、 入 見。 ﹁ 詔 書 始 末 之 言、 固 已 盡 善、 中 間 逆 以 六 事 防 之 云 云 ﹂ を 上 奏。 ③﹁ 至 是 拜 門 下 侍 郎、 光 辭、 二 箚 並 臣。 其 一 請 釐 革 新 法 曰 云 云 ﹂ ④﹁ 光 復 辭 ︶7 ︵ 。太皇太后賜以手詔、 ︿中略﹀ 、且使梁惟簡宣旨曰、早來所奏備悉卿意、再降詔開言路、俟卿供職施行。光由是不敢辭﹂⑤﹁時民 日夜引領以觀新政、而議者猶以爲、三年無改於父之道﹂⑥﹁光然爭之曰、 ︿中略﹀ 、昔漢文帝云云﹂   ②過闕までと、①⑤⑥は﹃宋史﹄光傳と﹁行狀﹂に據ったであろう。③﹁請釐革新法﹂として乾學等が引用したのが、 ﹁如保甲 ・ 免 役 錢・ 將 官 三 事、 皆 當 今 之 急 務 釐 革 所 宜 先 者、 臣 今 別 具 狀 奏 聞 ﹂ に 至 る ま で の、 四 月 上 奏 に 係 る 光﹁ 疏 ﹂ 前 段 に ほ か な ら な い。 該﹁疏﹂は④⑤を介して、⑥﹁光然爭之曰、 ︿中略﹀ 。昔漢文帝云云﹂の後段と、分離された。かかる不自然な引用には、 ﹁行狀﹂ の影響を想定し得る。 ﹁行狀﹂は、 ﹁詔除公知陳州、且過闕入見、 ︿中略﹀ 、至則拜門下侍郎、公力辭、 ︿中略﹀ 、公不敢復辭﹂に先行 して、 ﹃司馬公集﹄卷四六﹁乞開言路箚子﹂同卷四七﹁乞開言路狀﹂ ﹁乞改求諫詔書 箚 ︶8 ︵ 子 ﹂の略を引き、次いで﹁ a 公方草具所當

(6)

﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ 行 者、 而 太 皇 太 后 已 有 旨 4 4 4 4 4 4 4 4 、 散 遣 修 城 役 夫、 寛 保 馬 限。 皆 從 中 出、 大 臣 不 與。 b 公 上 疏 謝、 當 今 急 務、 陛 下 略 已 行 之 矣 4 4 4 4 4 4 4 、 小 臣 稽 慢 4 4 4 4 、 罪 當 萬 死 4 4 4 4 ︹ a b 、 傍 點 引 用 者 ︺﹂ と い う。 ﹁ 皆 從 中 出、 大 臣 不 與 ﹂ の 前 後 a b は い ず れ も、 該﹁ 疏 ﹂ 前 段 の 引 用 で あ る。 ﹁ 疏 ﹂ に は a’﹁旣而聞有旨罷修城役夫、 ︿中略﹀ 。及歸西京之後、 繼聞︿中略﹀ 、 又寛保馬年限﹂ b’﹁凡臣所欲言者、 陛下略已行之、 臣稽慢之罪、 實負萬死﹂とあるからである。 ﹁公不敢復辭﹂以後に﹁疏﹂後段、 ﹁公然爭之曰、 ︿中略﹀ 。昔漢文帝云云﹂を﹁行狀﹂は引く。 ﹁行 狀﹂の該﹁疏﹂引用は三分されている。   五 月 戊 午 條 ③ に﹁ 疏 ﹂ 前 段 を 引 用 す る、 乾 學 等 E の 錯 誤 を 決 定 づ け た の は、 揚 仲 良﹃ 資 治 通 鑑 長 編 紀 事 本 末 │ 以 下 紀 事 本 末 │ ﹄ で あ ろ う。 同 書 卷 九 三﹁ 求 直 言 ﹂ 五 月 戊 午 條 は、 ﹁ 資 政 殿 學 士 通 議 大 夫 司 馬 光 爲 門 下 侍 郎。 初 光 以 知 陳 州 過 闕、 未 入 對、 上 疏 曰 ﹂ として、 光の﹁乞改求諫詔書箚子﹂を引く。 E 戊午條②は、 その略であり、 戊午條における、 直接﹁行狀﹂に採った部分、 ﹁行狀﹂ に起源し﹃宋史﹄光傳を經て明人四書︵ A B C D ︶に繼承された部分と、 ﹃紀事本末﹄に由來するそれとの混在が、判明する。 ﹃紀 事本末﹄に據ればこそ乾學等は、 ﹁乞改求諌詔書箚子﹂を光の知陳州、 過闕以前に置く、 ﹁行狀﹂の不適切を是正し得たのであろう。 E 戊 午 條 ④ は﹃ 司 馬 公 集 ﹄ と と も に﹃ 紀 事 本 末 ﹄ も 參 照 し た で あ ろ う。 同 書 卷 九 四﹁ 變 新 法 ﹂ 同 年 同 月 同 日 條 に、 ﹁ 資 政 殿 學 士 通 議大夫司馬光爲門下侍郎、 a 光以箚子辭免、乞對訖赴陳州、 b 幷 請更張新法曰、 ︿中略﹀ 。 c 于是太皇太后、遣中使梁惟簡賜手詔諭 令供職曰、 ︿中略﹀ 、卿又何辭。再降詔開言路、須卿供職施行。光乃受命︹ a b c は引用者附加︺ ﹂とみえる。 ﹁變新法﹂ c は E 戊午 條④にほぼ一致する。 E 戊午條③も﹁變新法﹂ b に據ったとみなして、 誤り有るまい。乾學等は恐らく﹁變新法﹂ b ﹁請更張新法﹂ に據り、その戊午條④﹁請釐革新法﹂以下に、 ﹁疏﹂前段を引いた。乾學等の錯誤はここに存する。 b ﹁請更張新法﹂には、 ﹁臣曾 上言、教閲保甲、公私勞費而無所用之、歛免役錢、寛富而困貧、以養浮浪之人、 ︿中略﹀ 、將官、專制軍政、州縣無權、無以備倉卒 云云﹂とみえる。過去

﹁曾﹂ 、光﹁箚子﹂では﹁ 曏 曾﹂

の上言とは、 ﹁疏﹂および﹁乞罷保甲狀﹂以下三﹁狀﹂以外ではあ るまい。いうまでもなく﹁疏﹂と﹁請更張新法﹂は同一ではあり得ない。乾學等は兩者を混同した。   ﹃ 司 馬 公 集 ﹄ 卷 四 七 に は、 ﹁ 請 更 張 新 法 箚 子 ﹂﹁ 乞 改 求 諫 詔 書 箚 子 ﹂﹁ 辭 門 下 侍 郎 第 一 箚 子 ﹂﹁ 第 二 箚 子 ﹂ が 有 る。 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 變 新法﹂ a における﹁箚子﹂は、 ﹁伏望聖慈特寢新命、聽臣赴陳州本任云云﹂という、 ﹁第一箚子﹂であろう。該﹁箚子﹂からすれば

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 光は、五月二十七日段階で就任を受諾してはいない。 ﹁第二箚子﹂自注には、 ﹁又未上聞、中使梁惟簡賜手詔令受、傳宣﹃再降詔開 言路、俟卿供職施行﹄遂止 不 ︶9 ︵ 上 ﹂とある。高氏が、宦者に口頭で傳えさせた﹁宣﹂において、光の主張﹁開言路﹂を光就任後施行 す る と 確 約 し た た め、 該﹁ 箚 子 ﹂ は﹁ 不 上 ﹂ に お わ っ ︶10 ︵ た 。﹁ 不 上 ﹂ と は 就 任 受 諾 と 同 義 で あ ろ う。 ﹁ 第 二 箚 子 ﹂ に は、 ﹁ 言 路 不 通 新 法患爲るは當今の切務なるを以て、遂くて今早に於て一箚子を入れ恩命を辭免し、準備する所の上殿箚子二道を 幷 せ通進司に於て 投下するに及びては、 未だ聖意臣が前後所言を以て果たして如何と爲すやを審らかにせず云云︹傍點引用者︺ ﹂とみえる。 ﹁一箚子﹂ は ﹁辭門下侍郎第一箚子﹂ 、上殿奏事のために準備されていた ﹁箚子二道﹂ のうち一道は、 ﹁乞改求諫詔書箚子﹂ を謂うであろう。 ﹃司 馬公集﹄同卷所收の高氏手詔

および傳宣

に、 ﹁早來所奏、備悉卿意、再降詔開言路云云﹂とみえる。 ﹁一箚子﹂ ﹁箚子二道﹂ 上奏と同日中に、 ﹁開言路﹂を確約する高氏の回答が、有った如くである。 ﹁第二箚子﹂冒頭には、二十八日御藥︵宦官︶呉靖方が 派遣され、門下侍郎告身の受理を光に促したという。これの辭退を表明した﹁第一箚子﹂は﹁箚子二道﹂とともに、卽日上奏され たのである。二十八日は雙日であり、 高氏が延和殿に垂簾し臣僚が、 上殿奏事する日でもある。 ﹁乞改求諫詔書箚子﹂が﹁言路不通﹂ を論じたとすれば、 ﹁新法爲患﹂を論じたそれは﹁請更張新法箚子﹂にほかなるまい。五月二十八日上奏に係る﹁請更張新法箚子﹂ は、四月に上奏された﹁疏﹂と、決して同一ではあり得ない。   ﹁請更張新法箚子﹂と﹁疏﹂とは、その内容が共通する。兩者とともに、保甲・免役錢・將官の廢止を當今の急務とする。 ﹁請更 張新法箚子﹂も﹁疏﹂と同じく、その末尾に﹁況太皇太后陛下、同斷國事、捨非而取是、去害而就利、於體甚順、何爲而不可﹂と い い、 ﹁ 母 ﹂ 高 氏 に よ る 新 法 の 廢 止 を

用 字 は 相 異 す る が

正 當 化 し て い る。 後 發 の﹁ 箚 子 ﹂ が 先 行 す る﹁ 疏 ﹂ の、 光 自 身 の 要約であるからにほかなるまい。乾學等 E 戊午條③に﹁二箚並進﹂というから、 乾學等は、 ﹁上殿箚子二道﹂という﹃司馬公集﹄ ﹁第 二箚子﹂ を參照していた。だが同じ ﹃司馬公集﹄ に據って、 ﹁請更張新法箚子﹂ と ﹁疏﹂ との異同を確認する、 最も基本的作業を怠っ た。   乾 學 等 E 戊 午 條 に﹁ 編 年 ﹂ 書 と し て 不 適 切 な、 ⑤ ⑥

﹁ 疏 ﹂ 後 段

が 遺 さ れ た の は、 こ れ が 正 史 光 傳 に 由 來 し 明 人 四 書 も、 光の門下侍郎發令と一括して⑤⑥に相當する記事を、 五月に繋けた故であろう。特に⑥において乾學等は、 光傳からさらに﹁行狀﹂

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ に 遡 及 し て い る。 翌 年 閏 二 月 庚 寅 の 光 の 首 相 發 令 の 場 合 に も、 乾 學 等 は﹁ 行 狀 ﹂ に 據 っ て い る。 ﹁ 母 ﹂ 高 氏 に よ る 新 法 改 廢 の 正 當 化を、門下侍郎發令と不可分でありかつ、首相發令と同樣に重要とみなした故に、光傳より以上の詳細を期したのであろう。いず れにせよ⑤⑥には﹃宋史﹄および明人四書の、乾學等に對する拘束力を想定し得る。 E 戊午條②③④は、 ﹃紀事本末﹄ ﹁求直言﹂と ﹁變新法﹂を繼承しようとした。 ﹃宋史﹄光傳および明人四書と、 ﹃紀事本末﹄との折衷が試みられたが、 ③﹁請釐革新法曰﹂以下に、 ﹁ 疏 ﹂ 前 段 を 引 く 錯 誤 を 犯 し、 破 綻 を 露 呈 す る に 至 っ た。 錯 誤 を 然 ら し め た の は、 乾 學 等 に お け る﹃ 司 馬 公 集 ﹄ 檢 詳 の 不 備 で は あ るが、 ﹁行狀﹂をあるいはその副次的原因とみなすこともできる。 ﹁行狀﹂が⑥﹁公然爭之曰﹂以下以外にも、光の知陳州發令以 前に、 恰かも別個の上奏の如く﹁疏﹂の一部

後段

を引くからである。 E 戊午條③における錯誤は一面では、 かかる﹁行狀﹂ の﹁疏﹂引用が、 誘発したといえる。ただし﹁紀傳體﹂史料

﹁行狀﹂

の﹁編年﹂書における再構成が、 疎そかであるとは、 指摘せざるを得まい。   乾學等の疎略は覆い難いが、畢沅はより以上の責を負うべきであろう。 F 卷七八元豐八年五月戊午條は例の如く、乾學等 E 當該 條 の 轉 寫 に 過 ぎ な い。 ﹃ 長 編 ﹄ 同 月 同 日 條 は 光 の 門 下 侍 郎 發 令 に 續 け て、 ﹁ 乞 改 求 諫 詔 書 箚 子 ﹂﹁ 請 更 張 新 法 箚 子 ﹂ 全 文 を 引 く。 畢 沅がこれに據れば、乾學等の誤謬は是正され得た︵ ﹃長編﹄卷三五六/一一∼一三︶ 。 Ⅱ、 ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂   別稿では陳 桱 A 卷一〇元祐元年閏二月﹁詔詳定役法﹂條﹁分註﹂ 、同月﹁章惇免﹂條﹁分註﹂ 、三月﹁罷免役錢復差役法﹂條﹁分 註﹂における、光およびその差役法復活に關わる記事を①∼⑭に分け、後續する明人三書︵ B C D ︶にそれらが、如何に繼承され たかを檢討した。①∼⑦は、 陳 桱 が光の正月二十二日﹁乞罷免役錢依舊差役箚子﹂の、 引用以前に配した記事、 ⑧∼⑭は該﹁箚子﹂ 引用以後に配したそれである。乾學等 E における A ① ∼⑦の繼承は、ほぼ認め得ない。②は﹁疏﹂の各論というべき三﹁狀﹂のひ とつ、 ﹁乞罷免役狀﹂であるが、乾學等は總論である﹁疏﹂を

誤って

元豐八年五月戊午に繋け、繼承に代えたともいえる。

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号   光 正 月﹁ 箚 子 ﹂ に 續 く ⑧ は、 光 の﹁ 乞 堅 守 罷 役 錢 敕 不 改 更 箚 子 ﹂ で あ る。 ﹃ 宋 史 ﹄ 卷 一 七 七 役 法 上 は 兩 箚 子 を 混 同 し、 後 者 の 末 尾を前者の引用に直結させ、陳 桱 はこれを踏襲した。役法上と陳 桱 の錯誤はすでに、商輅 B が修正している。 A ⑧ ﹁箚子﹂を乾學 等 は 抄 録 す る。 た だ し 元 年 二 月 甲 戌︵ 十 五 日 ︶ 條 に お い て で あ る。 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄ 卷 一 〇 八﹁ 差 役 ﹂ は こ れ を 同 月 丙 子︵ 十 七 日 ︶ 條 に繋ける。畢沅 F も E をほぼ踏襲するが、 ただこの場合は所引﹁箚子﹂冒頭に﹁丙子﹂を、 補っている。乾學等は本来有るべき﹁丙 子﹂二字を脱落させたのである。乾學等 E における日付︵干支︶の脱落は、以下にみるように頻出する。陳 桱 A ⑨ 以降と對應する 乾 學 等 E の 記 事 の、 月 日 を 示 せ ば 次 の 如 く で あ る。 ︿   ﹀ 内 は﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂、 ま た は 同 卷 九 七﹁ 逐 小 人 上 ﹂ に、 對 應 記 事 が 有る場合の月日である。   ⑨ 章 惇 駁 奏、 ⓐ E 卷 八 七 二 月 甲 戌、 ︿﹁ 差 役 ﹂ 同 月 丁 亥︵ 二 十 八 日 ︶﹀ ⑩ 詳 定 役 法 所 設 置、 ⓑ 同 二 日 甲 戊、 ︿﹁ 差 役 ﹂ 同 月 丁 亥 ﹀ ⑪ 蘇 軾 の 光 批 判 ⓒ 同 二 月 辛 巳︵ 二 十 二 日 ︶、 ︿ × ﹀ ⑫ 知 開 封 府 蔡 京 の 光 へ の 報 告、 ⓓ 同 二 月 辛 未︵ 十 二 日 ︶、 ︿﹁ 差 役 ﹂ 同 月 丁 亥 ﹀ ⑬ 章 惇 罷 免、 ⓔ 同 閏 二 月 辛 亥︵ 二 十 三 日 ︶、 ︿﹁ 逐 小 人 上 ﹂ 同 月 同 日 ﹀ ⑭︵ ⅰ ︶ 役 人 見 額 維 持、 衙 前 以 外 は 定 差、 罷 官 戸 等 助 役 錢、 ⓕ 同 三月庚辰︵三日︶ 、︿ ﹁差役﹂同月己未︵ 二 ︶11 ︵ 日 ︶﹀ ︵ⅱ︶范純仁の光批判、ⓖ同二月辛巳、 ︿﹁差役﹂同月丁亥﹀   乾 學 等 E ⓕ に は、 陳 桱 A 以 下 明 人 の 四 書 と、 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂ の﹁ 三 月 己 未、 詳 定 役 法 所 言、 乞 下 諸 路 a 除 衙 前 外 諸 色 役 人、 只依見用人數定差 b 今年夏料納︹役?︺錢住罷、更不起催 c 官戸・僧道・單丁・女戸出錢助役指揮勿行。從之︹ a b c は引用者︺ ﹂ と兩者の、 影響を見出し得る。まず ac は E 三月庚申條と字字句句一致する。 ﹃宋史﹄ 役法上に據る陳 桱 A 以下明人の a 相當部分は、 坊 場 河 渡 錢 を 用 い た 衙 前 の 雇 募、 不 足 の 場 合 の 定 差 に も 言 及 し、 こ れ よ り 詳 細 で あ る。 陳 桱 は 役 法 上 に お け る﹁ 遂 罷 官 戸︿ 中 略 ﹀ 女 戸 出 助 役 法 ﹂ の、 ﹁ 出 助 役 法 ﹂ を 脱 落 さ せ、 商 輅 以 下 三 者 も こ れ を 踏 襲 し た。 役 法 上 自 體﹁ 錢 ﹂ 字 を 缺 落 さ せ て い る か ら、 乾 學 等は﹁差役﹂に據ってこれを補正した。一方 A 以下明人四書は役法上の﹁其今夏役錢卽免輸﹂ 、﹁差役﹂ b 相當部分を一貫して缺落 さ せ て い る。 ﹁ 今 夏 役 錢 ﹂ は 兩 税 法 に お け る 夏 税 と と も に 徴 收 す る べ き 役 錢 で あ ろ う。 光 正 月﹁ 箚 子 ﹂ が 二 月 六 日﹁ 得 旨 ﹂ し、 免 役錢廢止が決定した。これを實施すべくまず爾後の夏期役錢の廢止が、 建議されたのであろう。乾學等 E ⓕ にも明人四書同樣、 ﹁差 役 ﹂ b 相 當 部 分 が 無 い。 別 稿 に は、 A 三 月 に、 ﹁ 罷 免 役 錢 復 差 役 法 ﹂ を 立 て る 以 上、 陳 桱 は、 な ん ら か の 貨 幣 徴 収 廢 止 を 以 て 差 役

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ 法 復 活 の 證 據 と み な し た、 ﹁ 出 助 役 法 ﹂ を 脱 落 は さ せ た が、 助 役 錢 の 廢 止 を 免 役 錢 の そ れ と み な し た と い う、 想 定 を 示 し た。 E ⓕ は﹁ 差 役 ﹂ c 相 當 部 分 に 續 き、 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄ に は 無 い 記 事 を 附 加 す る。 ﹁ 王 安 石 聞 朝 廷 變 其 法、 夷 然 不 以 爲 意、 及 聞 罷 助 役 復 差 役 4 4 4 4 4 4 4 4 、 愕然失聲曰、亦罷至此云云︹傍點引用者︺ ﹂が、それである。出處は﹃三朝名臣言行録﹄卷六丞相荊國王文公の一條であろう。 ﹃巵 史 ﹄ に 據 る と い う 當 該 條 は、 殆 ど ⓕ と 一 致 す る が た だ、 ⓕ 傍 點 部 分 に 對 應 す る の は、 ﹁ 及 聞 罷 役 法 ﹂ で あ る。 旣 に﹁ 差 役 ﹂ b ﹁ 夏 納 役 錢 ﹂ を 採 ら な い ば か り か、 ﹃ 巵 史 ﹄ の﹁ 役 法 ﹂ を﹁ 助 役 ﹂ に 改 め て い る の は、 安 石 役 法︵ 免 役 錢 ︶ の 廢 止 と 助 役 錢 の そ れ と を 同義とする理解

誤解

延いては三月に始めて、差役法が復活したとする誤解を、陳 桱 と共有した故ではないか。乾學等 E は 明人四書と異なり、光正月﹁箚子﹂とその﹁得旨﹂を、 ﹁差役﹂と同じく二月六日に繋けるが、 ﹁得旨﹂の意味

差役法復活

が 正 し く 理 解 さ れ た の か、 疑 問 を 遺 す。 明 人 四 書 に お け る﹃ 宋 史 ﹄ 役 法 上﹁ 出︹ 錢 ︺ 助 役 法 ﹂ 四 字 の 脱 落 を、 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂ c を以て補正した點は評價し得ても、宋代役法に對する理解不足については、 E は明人を繼承している。畢沅 F も﹃長編﹄三月庚 辰條を以て、 E における﹁差役﹂ b 缺落を知り得たにも拘わらず、例の加く E を踏襲している。   乾 學 等 E 二 月 の 諸 記 事︵ ⓐ ⓑ ⓒ ⓓ ︶ と、 こ れ に 對 應 す る﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂ の そ れ と の 日 付 に は、 不 一 致 が 明 ら か で あ る。 ま た 後 者 の そ れ は な べ て 丁 亥 で も あ る。 ﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 條 の 内 容 は 概 略 以 下 の 如 く で あ る。 ①︵ ⅰ ︶ 惇 の 光 役 法︵ 正 月 二 十 二 日﹁ 乞 罷 免役錢依舊差役箚子﹂ 、 二月十七日﹁乞堅守罷役錢敕不更改箚子﹂ ︶駁奏。 ︵ⅱ︶ ﹁惇又嘗與同列爭曰、 保甲保馬一日不罷則有一日害、 如 役 法、 熙 寧 初 以 雇 代 差、 行 之 太 速、 故 有 今 弊、 今 復 以 差 代 雇、 當 詳 議 熟 講、 庶 幾 可 行、 而 限 止 五 日、 其 弊 將 益 甚 矣 ﹂。 ② 御 史 中 丞 劉 摯 上 奏 二 件、 略。 ③ 左︹ 右?︺ 司 諫 蘇 轍 上 奏 二 件、 略。 ④ 知 開 封 府 蔡 京、 ﹁ 東 府 ﹂ で 光 に 報 告、 ⑤ 呂 公 著 の 詳 定 役 法 建 議 と詳定役法所設置の詔。⑥光上奏︵ ﹃司馬公集﹄卷五一﹁乞申敕州縣依前敕差役箚子﹂ ︶略。⑦范純仁の光批判。⑧中書舍人范百 祿の、光ヘの助言。 ﹁差役﹂丁亥條は、右正言王覿上奏を缺く點、惇以下の上奏が略である點を除き當然ながら、 ﹃長編﹄同日條 と一致する。 ﹁差役﹂ 丁亥には李燾の役法記事における編纂方針を、 窺い得る。李燾は、 詳定役法所設置詔を閏二月二日とする ﹃︵新︶ 哲 宗 實 録 ﹄、 二 月 二 十 九 日 と す る﹃ ︵ 舊 ︶ 哲 宗 實 録 ﹄ の い ず れ を も 排 し、 ﹃ 司 馬 公 集 ﹄ 卷 五 一﹁ 三︹ 二 ︺ 月 二 十 八 日 内 降 ﹂ を 根 據 に 二 十 八 日 を 是 と す る 考 證 を、 展 開 す る。 あ る い は 閏 二 月 二 日 と す る﹃ 新 録 ﹄ を、 ﹁ 似 太 疎 略 也 ﹂ と さ え い う。 か か る 執 著 か ら す れ

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 ば﹃ 長 編 ﹄ 丁 亥 條 に お け る 李 燾 の 中 心 課 題 は、 詳 定 役 法 所 の 設 置、 延 い て は こ れ を 必 要 と し た 光 役 法︵ 正 月﹁ 箚 子 ﹂︶ に お け る、 不備にほかなるまい。光役法に不備有ればこそ章惇はこれを駁奏し、駁奏されたからこそ公著は、不備を彌縫し微修正すべく詳定 役法を、 建議した。詳定所設置に至る經緯がここに表わされている。從って惇駁奏も

﹃長編﹄および﹁差役﹂が冒頭に﹁先是﹂ とするように

必ずしも丁亥の上奏ではない。詳定所設置の必然性を明らかにするうえで、丁亥條に諸多の記事を集中する必要 が、李燾には有った︵ ﹃長編﹄卷三六七/三∼ 二 ︶12 ︵ 〇 ︶。   ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂二月丁亥條と内容的には對應しながら、日付が一致しない乾學等 E の記事のうち、 E ⓓ 蔡京關係記事につい ては、 ﹁差役﹂の如く丁亥ではなく辛未︵十二日︶に繫けた必然性を、 想定し得る。光正月二十二日﹁箚子﹂は、 翌月六日に﹁得旨﹂ し 同 七 日 に 行 下 さ れ た。 ﹁ 箚 子 ﹂ に は﹁ 卽 仰 限 敕 到 五 日 内 ﹂ の 句 が 有 る。 所 謂﹁ 五 日 ﹂ が 差 役 法 に 關 わ る 期 限 で あ る な ら ば、 十 二 日が期限滿了の翌日である。京は開封・祥符兩縣役法の差役への回歸を﹁五日の限を用い﹂完了したと、光に報告しその賞贊を得 た と い う。 ﹁ 五 日 ﹂ が、 こ の 逸 話 を 十 二 日 に 繋 け さ せ た 理 由 で あ ろ う。 他 の 不 一 致 を 然 ら し め た も の と し て、 ま ず 考 え ら れ る の は 干支の脱落である。みたように乾學等は、光の﹁乞堅守罷役錢敕不更改箚子﹂抄録に際し、本來有るべき冒頭の干支を脱洛させ畢 沅 が、 ﹁ 丙 子 ﹂ を 補 っ て い る。 旣 に﹁ 丙 子 ﹂ の 脱 落 が 有 る 以 上﹁ 丁 亥 ﹂ の そ れ も、 有 り 得 る。 本 來 乾 學 等 E は 必 ず し も 決 定 稿 で は なかった。 ﹃四庫全書叢目提要﹄卷一〇史部・編年﹃資冶通鑑後編﹄にいう。 ﹁今原稾僅ど存し惟だ第十一卷を闕く、書中塗乙刪改 の處多く、猶お︹閻︺若 璩 の手蹟のごとしと相傳せらる﹂抹消︵塗︶前後入替︵乙︶書替︵刪改︶が、隨處に遺されていたのであ れば、干支脱落も生じ易い。   乾 學 等 E 二 月 甲 戌︵ 丙 子 ︶ 條 以 後 に は、 ﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 條 ① ∼ ⑧ の う ち、 ② ③ ⑥ ⑧ に 相 當 す る 記 事 は 無 い。 ⑧ を E は 正 月 丙 辰 條 に す で に 採 録 し て い る。 ﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 條 ① は E ⓐ 、 ④ は E ⓓ 、 ⑤ は E ⓑ 、 ⑦ は E ⓖ に そ れ ぞ れ 對 應 す る。 E ⓒ 軾 の 光 批 判 に 對 應 す る 記 事 は、 ﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 條 に は 無 い。 E が 二 月 辛 未 に 繋 け た ⓓ、 閏 二 月 辛 亥 ⓔ、 三 月 庚 申 ⓕ を 除 き、 他 の 四 項 ⓐ ⓑ ⓒ ⓖ は E 二 月 に お いて、次のように配列される。   甲戌︵丙子︶光﹁箚子﹂抄録・ⓐ・ⓑ

庚辰︵二十一日︶

辛巳︵二十二日︶ⓒ・ ⓖ

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶   ⓐⓑを二月甲戊、 ⓒⓓを同月辛巳としたのは、 かかる配列の故である。 E 二月には丁亥︵二十八日︶條は無い。畢沅が補った﹁丙 子﹂脱落に鑑み﹁丁亥﹂の脱落をも想定すれば、配列は次のように修正される。   ﹁丙子﹂光箚子抄録

丁亥ⓐ・ⓑ

庚辰

辛巳

﹁丁亥﹂ⓒ・ⓖ   E 庚 辰 以 下 に は、 ﹁ 庚 辰、 夏 國 遣 使 來 貢、 辛 巳、 寶 文 閣 待 制・ 刑 部 侍 郎 蹇 周 輔、 坐 變 湖 南 鹽 法、 抑 勒 騷 擾、 落 職 知 和 州。 ⓒ 蘇 軾 言 於 司 馬 光 云 云︹ ⓒ は 引 用 者 ︺﹂ と あ る。 ﹃ 宋 史 ﹄ 哲 宗 本 紀 元 年 二 月 の 末 に は、 ﹁ 庚 辰、 夏 人 入 貢、 辛 巳、 刑 部 侍 郎 蹇 周 輔、 坐 變 鹽 法落職﹂とみえる。少なくとも元年二月については、 E は本紀の記事をすべて採録している。これが編集における甚本方針であっ たと、考えられる。例えば E は﹁三月辛未、詔毋以堂差衝在選已注官云云﹂とする。以下 E 三月は殆ど本紀の轉寫に過ぎない。そ の結果辛未︵十四日︶以前の、己未︵二日︶ ・庚申︵三日︶

先出ⓕを含む

、﹁庚午︵脱落︶ ﹂︵十三日︶の諸記事は、三月の 記事でありながら恰かも、 前月閏二月のそれであるかの如くに、 誤解を 誘 ︶13 ︵ う 。本紀を偏重せぬ限り有り得ぬ、 疎略にほかならない。 恐らくは乾學等はその草稿において、 ﹁丙子﹂ ﹁丁亥﹂を脱落させたまま、光﹁箚子﹂抄録にⓐⓑを續けた。その段階で本紀から採 録 す べ き 庚 辰・ 辛 巳 兩 條 の 遺 漏 を 發 見 し、 忽 卒 の 間 に、 ⓐ ⓑ に こ れ を 續 け、 さ ら に 辛 巳 蹇 周 輔 落 職 記 事 の 後 に、 ⓒ ⓖ を 追 書 し た。 經緯はこのように想定できる。二月辛巳に例えばⓒ軾の光批判のような、役法關係記事を繫けるべき、然るべき根據は見出し得な い。 ﹃長編﹄二月辛巳條にも、 役法關係記事は無い。想定の如くであれば、 本來 E 二月における配列は以下の如くされる筈であった。   ﹁丙子﹂光﹁箚子﹂抄録

庚辰、夏國遣使

辛巳、周輔落職

﹁丁亥﹂ ⓐ ⓑ ⓒ ⓖ   記 事 の 内 容 に つ い て は 暫 く 措 き、 そ の 日 付 に つ い て は﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂ が、 一 定 の 影 響 を 與 え た で あ ろ う。 畢 沅 は 本 來 有 る べき﹁三月﹂二字を己未︵二日︶の前に補い、乾學等の疎略を修正してはいる。だが E 二月の諸記事については、光﹁箚子﹂の前 に丙子を補ったほかは、日付における乾學等の混亂を放置し、踏襲している。   ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂二月丁亥條①∼⑧と對應する記事が、 E ⓐ ∼ⓖに有り、しかも内容に相違が有る事例はとりあえず、次の二 點 で あ る。 ま ず E ⓐ 後 段﹁ 又 嘗 與 同 列 爭 曰 云 云 ﹂ は、 ﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 ①︵ ⅱ ︶ と 一 致 す る が、 ①︵ ⅰ ︶ 章 惇 の 長 文 の 駁 奏 は、 ⓐ 前 段 で は﹁ 章 惇 取 光 所 奏 凡 疎 略 未 盡 者、 枚 數 而 駁 奏 之 ﹂ と、 極 端 に 簡 略 化 さ れ て い る。 ﹁ 章 惇 取 光 所 奏 云 云 ﹂ は、 E 甲 戊︵ 丙 子 ︶ 條 の

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 光﹁乞堅守罷役錢敕不更改箚子﹂略の、直後に配されるから、恰かも駁奏の標的

﹁光所奏﹂

はこれに限定され、光正月 二 十 二 日﹁ 箚 子 ﹂ は 除 外 さ れ る か の 如 く に、 印 象 さ れ も す る。 ﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 ⑤ に 對 應 す る E ⓑ に は、 公 著 の 詳 定 建 議 は 有 る が、 詳 定役法所設置の詔は無く、詔は閏二月庚寅︵二日︶に繫けられる。差役法復活

詳定所設置を含む

關係記事を、一括して元 年三月に繫ける、商輅 B ・應旂 C ・宗沐 D を超え、閏二月に﹁詔詳定役法﹂條を立てる陳 桱 に、回歸した如くではあるが、乾學等 にみた本紀偏重の姿勢から推して、本紀に從ったとみなすべきであろう。惇駁奏の簡略化は、明人四書以來一貫している。光役法 の不備

﹁疎略未盡﹂

はかくて、稀釋され續ける。明人四書と乾學等 E の相異も摘出し得る。 E が敢えて二月辛未に繋けた ⓓ蔡京記事は、京の光ヘの報告の場を、應旂 C ・宗沐 D までの﹁政事堂﹂ではなく、 ﹁東府﹂としている。 ﹁東府﹂ヘの修正は明ら かに﹃紀事本末﹄が然らしめた。 ﹁差役﹂二月丁亥條は﹁知開封府蔡京、 ︿中略﹀ 、亟詣東府白光云云﹂とし、 さらに﹁此據邵伯温﹃見 聞 録 ﹄ 幷 紹 聖 三 年 十 二 月 己 未 董 敦 逸 章。 伯 温 謂 蔡 京 詣 政 事 堂 4 4 4 、 白 司 馬 光、 誤 也。 或 至 東 府 4 4 耳︹ 傍 點 引 用 者 ︺﹂ と い う、 李 燾 注 を 引 くからである。ただし﹁東府﹂であることの意味を、乾學等が理解したとはみなし難い。   ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂二月丁亥條⑦純仁の光批判は、差役はまず一州一路で試行せよという純仁發言から推して、時期としては光 正 月﹁ 箚 子 ﹂ の﹁ 得 旨 ﹂、 差 役 法 復 活 以 前 の 論 で あ ろ う。 恐 ら く は 李 燾 は こ れ を 光 役 法 に お け る 不 備 の 傍 證 と し て、 惇 駁 奏、 詳 定 所設置とともに﹁得旨﹂以後、丁亥︵二十八日︶に繋けた。⑧百祿の助言もその意圖は同じであろう。乾學等 E は﹁差役﹂⑦に對 應 す る ⓖ を、 や は り 丁 亥 に 繋 け て は い る。 た だ そ の 措 辭 は、 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄ の そ れ で は な い。 明 人 四 書 の う ち 例 え ば 應 旂 C 卷 四 〇 元 年三月乙亥條が、 ﹃宋史﹄卷三一四純仁傅に採った、 ﹁按問自首之法﹂に關わる光への批判、これに續く﹁純仁素與光同志、及臨時 規正、類如此﹂はⓖには無いが、同じく純仁傳に由來する﹁是使人不得言爾、若欲媚公以爲容悦、何如少年合安石以速富貴哉﹂等 は、 有る。 ﹁差役﹂⑦では、 ﹁若果如此、 則是純仁不若少年合介甫求早富貴也云云﹂が、 ⓖ﹁是使人云云﹂に對應している。純仁﹁行 狀 ﹂ に 起 源 す る で あ ろ う﹁ 是 使 人 云 云 ﹂、 同﹁ 言 行 録 ﹂ に 由 來 す る で あ ろ う﹁ 若 果 如 此 云 云 ﹂ の、 い ず れ を 是 と も し 難 い。 文 意 の 理解は後者がより容易ではあろうが、乾學等は、應旂等明人四書、延いては﹃宋史﹄純仁傳に從っている。 ﹁差役﹂に有る純仁の、 光の頑迷に對する慨嘆の語﹁是亦一王介甫﹂も、乾學等は

明人四書同樣

ⓖに採らない。

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶   ﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 條 に は、 E ⓒ 軾 の 光 批 判 に 對 應 す る 記 事 は 無 い。 こ の 部 分 で は 特 に、 明 人 四 書 の う ち 應 旂 ⓒ の 繼 承 を、 見出し得る。ⓒは﹃宋史﹄卷三三八軾傳・陳 桱 A ・商輅 B をも繼承はするが、商輅までには無く宗沐 C にも認め得ない、應旂にお ける蘇轍撰軾﹁墓誌銘﹂の引用を、 繼承するからである。 ﹁墓誌銘﹂の一節に﹁差役行於祖宗之世、 ︿中略﹀ 、 先帝知其然、 故爲免役、 ︿中略﹀ 、行法者不循上意、於雇役實費之外、取錢過多、民遂以病、 ︿中略﹀ 、君實 爲人忠信有餘 4 4 4 4 4 4 、而 才智不足 4 4 4 4 、知免役之害、而不知 其利、欲一切以差役代之。方差官 置局 4 4 、公亦與其選、 獨以實告 4 4 4 4 、而君實始不悦矣。嘗見之政事堂云云︹傍點引用者︺ ﹂とある。 ﹁置 局﹂は詳定役法所設置の謂である。應旂 C はここから﹁方差官署局、公亦與其選﹂を去り、 ﹁而才智不足﹂を﹁而通達不足﹂ 、﹁公﹂ を﹁ 光 ﹂ に 改 め る ほ か は、 ほ ぼ 逐 語 的 に こ れ を 三 月 乙 亥 條 に 引 く。 E ⓒ は﹁ 爲 人 忠 信 有 餘、 而 通 達 不 足 ﹂、 光 を 無 能 と す る 轍 の 酷 評を去っている點では、 ﹃宋史﹄軾傳に回歸したといえるが、 ﹁軾獨以實告﹂は依然遺されている。 ﹁公獨以實告﹂はあくまでも﹁墓 誌銘﹂における、 轍の軾顯彰の語であり、 史實として﹁編年﹂書に引用さるべきではあるまい。 ﹁墓誌銘﹂に據るならばむしろ、 ﹁方 差官置局云云﹂が遺されるべきであった。詳定所が設置され、 軾はその一員として光役法を批判した事實が、 示されるからである。 ﹁差官置局﹂ は ﹃宋史﹄ 軾傳には有るが、 C のみならず他の明人三書も採ってはいない。 ﹁獨以實告﹂ は軾傳には無い。乾學等は ﹁墓 誌銘﹂のみならず﹃宋史﹄軾傳にも遡及せず、專ら安易に應旂 C に採った如くでさえある。ここでも詳定役法所の意味は稀釋され た︵ ﹃名臣碑傳琬琰集︵中︶ ﹄卷二六﹁蘇文忠公軾墓誌銘﹂ ︶。   乾學等 E における應旂 C の繼承は、ⓔ閏二月辛亥︵二十三日︶の、知樞密院事章惇の罷免記事にも窺える。同條には﹁惇與蔡確 在 位、 窺 伺 得 失、 惇 尤 以 謔 侮 困 光 4 4 4 4 4 4 4 、 臺 諌 交 章 疏 其 罪 惡、 請 黜 之、 未 報︹ 傍 點 引 用 者 ︺﹂ と み え る。 惇 の﹁ 謔 侮 ﹂ も 軾﹁ 墓 誌 銘 ﹂ に 起源する。 ﹁公舊善門下侍郎司馬君實及知樞密院章子厚、 二人氷炭不相入、 子厚毎以謔侮困君實云云﹂とあるのが、 それである。 ﹁謔 侮﹂された光が軾に助を求め、軾が惇を諌めた結果光は、 ﹁少安﹂を得たという逸話が續く。 ﹁謔侮﹂自體は惇の知樞密院事解任に おける、直接原因ではない。小人惇によって一方的に加害された光が、軾によって救濟されたという言説を以て﹁墓誌銘﹂は、軾 の 光 に 對 す る 優 位 を 宣 明 し た の で あ ろ う。 ﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 逐 小 人 上 ﹂ 閏 二 月 辛 亥 條 章 惇 罷 免 記 事 に は、 ﹁ 謔 侮 云 云 ﹂ は 無 い。 應 旂 C 同月同日條には、 有る。應旂は同條において惇解任に先行し、 軾﹁墓誌銘﹂ ﹁謔侮﹂逸話を逐語的に詳細に、 引用する。しかも﹁墓

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 誌銘﹂では﹁謔侮﹂當時門下侍郎︵執政官︶であった光の官銜を、 僕射︵宰相︶に改竄してである。應旂 C における﹁及光爲僕射﹂ は明らかに﹁謔侮﹂を、閏二月二日光の首相發令以後のことと、みなしている。ここに首相光に對する惇の﹁謔侮﹂が、その罷免 の 主 要 原 因 で あ る と の 虚 構 が、 成 立 す る。 乾 學 等 E は ⓒ に お い て、 ﹁ 墓 誌 銘 ﹂ の 軾 顯 彰 の 語﹁ 獨 以 實 告 ﹂ を 採 る、 應 旂 の 不 適 切 な 引用を踏襲したばかりか、ⓔにおいても

逸話の逐語的引用こそ無いが

應旂に據り﹁謔侮云云﹂を踏襲し、かくすることで 應旂の虚構に加擔もした。畢沅も例の如く E ⓒ ﹁獨以實告﹂ 、ⓔ﹁謔侮云云﹂を踏襲する。   ﹃宋史﹄役法上から明人四書を經て、乾學等 E に至るまでほぼなべて、 ﹁小人﹂章惇の主張はその原文が抄録すらされず、簡略化 された大意のみ示されるのに比べ、 ﹁君子﹂軾 ・ 純仁のそれは惇の場合よりは確實に詳細に紹介され、以て光にすら直言した兩﹁君 子 ﹂ の 硬 骨 が、 強 調 さ れ る。 す で に 多 數 の 具 體 例 に 就 い て み た、 新 た な 追 加 例 で は あ る。 明 人 の 四 書 を 通 じ て、 ﹃ 宋 史 ﹄ 役 法 上 に は有る夏料役錢の廢止、軾﹁墓誌銘﹂には有る軾の詳定役法官就任は、捨象された。乾學 E ・畢沅 F もこれを繼承したこと、前述 の 如 く で あ る。 明 清﹁ 編 年 ﹂ 書 六 種 を 通 じ て、 ﹁ 紀 傳 體 ﹂ 史 書 で い え ば 志 に 關 わ る 役 法 關 連 事 項 よ り、 傳

そ れ も﹁ 君 子 ﹂ の

に 關 す る 事 項 の 採 録 繼 承 が 優 先 さ れ た 如 く で あ る。 明 清 代 に 宋 人 の 評 價 が 固 定 さ れ た、 そ の 一 端 が、 こ こ に 露 わ れ て い よ う。 評 價 延 い て は 史 觀 の 固 定 は 例 え ば、 元 祐 に お け る﹁ 君 子 ﹂ の 基 本 的 一 致 を、 虚 構 す る。 ﹁ 君 子 ﹂ の 直 言 は む し ろ 積 極 的 に 採 録 さ れ ても、 ﹁君子﹂間の深刻な内部分裂を窺わせる事例は、 排除される。軾﹁墓誌銘﹂は、 ﹁政事堂﹂における軾の批をうけ光が、 ﹁笑 而止﹂としたあと、 ﹁公言用いられざるを知り補外を乞うも許されず、 君實始めて怒り 公 4 を 逐 4 う 意有 4 4 り、 其 4 の 病卒 4 4 に 會 4 い 乃 4 ち 已 4 む︹傍 點 引 用 者 ︺﹂ と い い、 そ の 後 も﹁ 多 く 君 實 の 人 ﹂ で あ っ た 時 の 臺 諫 が、 競 っ て 軾 の﹁ 瑕 疵 ﹂ を 求 め た と い う。 虚 構 に 抵 觸 す る か か る證言は、恐らくは﹃宋史﹄軾傳がこれを採らぬ故に、陳 桱 以後顧みられることは無い。いうまでもなく乾學等 E を踏襲した、畢 沅 F は、かかる系譜の末端に在る。

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ Ⅲ、光と蘇軾   乾學等 E ⓒ は、 ﹁紀傳體﹂史料である軾﹁墓誌銘﹂および﹃宋史﹄軾傳、 ﹁編年﹂書である明人四書の系譜に連なるが、みたよう に特に應旂 C の影響が顯著である。陳 桱 A は E ⓒ に對應する記事を閏二月 ﹁詔詳定役法﹂ 條 ﹁分註﹂ 、商輅 B は三月 ﹁罷免役﹂ 條 ﹁分 註﹂に採録し、宗沐 D は三月應旂 C は三月乙亥條に繋ける。 ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂二月丁亥條には、ⓒに對應する記事は無いが、乾 學 等 は こ れ を 同 月﹁ 辛 巳 ﹂

本 來 丁 亥

條 に 繋 け る。 然 る べ き 考 證 の 結 果 で あ る よ り は、 明 人 の 四 書 が 一 貫 し て、 章 惇 駁 奏・ 詳定役法所設置とともに、純仁の光批判と一括して軾のそれを、同一條

ないしは同一﹁分註﹂

に採録した旣成事實に、安 易に迫隨した故にほかなるまい。軾の發言は前後二段に大別できる。前段では、差役法を唐の府兵制、募役︵免役︶法を唐の募兵 ︵長征︶制に比擬し、後者から前者へは不可逆的であるとする。後段は、 ﹁墓誌銘﹂以下が﹁政事堂﹂における議論とするもので軾 の 所 論 に 納 得 し な い 光 に 對 す る、 ﹁ 昔 韓 魏 公 刺 陝 西 義 勇、 公 爲 諫 官 爭 之 甚 力、 魏 公 不 樂、 公 道 其 詳、 豈 今 日 作 相、 不 許 軾 盡 耶 ﹂ と い う、 軾 の 語 を 傳 え る。 墓 誌 銘 に 前 段 は 無 く、 ﹁ 差 役 行 於 祖 宗 之 世、 ︿ 中 略 ﹀、 獨 以 實 告、 而 君 實 始 不 悦 矣 ﹂ に、 後 段﹁ 政 事 堂 ﹂ に おける議論を續ける。乾學等 E ⓒ は恐らくは應旂 C に據り、 ﹁初差役行於祖宗之世、 ︿中略﹀ 、軾獨以實告、而光不悦﹂の前に前段、 後に後段を配す。 ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂には前段に相當する記事は無いが、後段のそれは七月丁巳︵二日︶條に、有る。ただし﹁昔 韓魏公云云﹂が﹁政事堂﹂における發言であるとは、いわない。發言の場には一切言及しない。前段は軾の﹃奏議集﹄卷三﹁辯試 館職策問箚子﹂第二に起源し、李燾は元祐二年正月庚午︵十七日︶條に繋ける。役法議論の前に﹁臣前歳自登州召還、始見故相司 馬光﹂の語が有るから知登州であった軾が開封に召還された、 元豐八年末元祐初年初の交に、 前段の議論は爲されたと推定し得る。 ﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂が後段相當記事を、七月二日に繋けるのは、この日に軾の詳定役法官辭任が、認められたからである。 ﹁差役﹂ はまたその四月癸巳︵六日︶條に、 中書舍人蘇軾の詳定役法官就任を、 傳えている。 ﹁墓誌銘﹂および﹃宋史﹄軾傳は、 ﹁獨以實告﹂ の前に ﹁差官置局﹂ し、 軾も選に與かったという。 ﹁政事堂﹂ における發言は

それが事實有ったとして

軾の詳定官就任以後、 その辭任許可以前とみなすべきである。 ﹁差役﹂七月丁巳條所載の軾上 奏 ︶14 ︵ に 、﹁臣先曾奏論、衙前一役、只當招募、不當定差、 執政 4 4

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 不以爲然 4 4 4 4 、 臣遂奏乞罷免臣詳定役法 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、奉聖旨﹃不許﹄ 、經今月餘、前所論奏、並不蒙施行云云︹傍點引用者︺ ﹂とある。一箇月以上 前 に 解 任 を 乞 う た の は、 ﹁ 執 政 ﹂ と 對 立 し た か ら で あ る が、 そ の 對 立 點 は 衙 前 の 問 題 で あ る。 李 燾 は﹃ 司 馬 公 集 ﹄ 卷 五 三﹁ 申 明 役 法箚子﹂を、六月甲寅︵二十八日︶に繋ける。該﹁箚子﹂において光は、諸色役人を一槪に﹁定差﹂せよと主張した、自身の正月 二十二日﹁箚子﹂が﹁得旨﹂した後、 ﹁雇募足らざれば方めて定差を行え﹂の﹁指揮﹂が有り、 人が疑惑したと、 不滿を表わす。 ﹁指 揮 ﹂ 自 體 は 閏 二 月 十 五 日 詳 定 所 建 議 に 對 す る、 裁 可 で あ ︶15 ︵ る と み な し 得 る が、 光 は﹁ 雇 募 ﹂﹁ 定 差 ﹂ の 倂 用 す ら 不 可 と し た。 ﹁ 定 差 ﹂ を全面的に否定する軾との對立は、必然である。七月丁巳條軾の所謂﹁執政﹂は、光にほかなるまい。軾﹃奏議集﹄卷三﹁乞罷詳 定 役 法 箚 子 ﹂﹁ 申 省 乞 罷 詳 定 役 法 狀 ﹂ に 據 れ ば、 解 任 要 求 は 五 月 二 十 五 日 で あ り、 七 月 丁 巳 條 軾 所 奏 の﹁ 經 今 月 餘 ﹂ と 符 合 す る。 軾は七月初まで詳定官の職に在りはしたが、役法をめぐる﹁執政﹂光との對立は五月二十五日直前に、生起した。 ﹁昔韓魏公云云﹂ はその時の、光の頑迷に觸發された語であり得る。さらに嚴密を期すならば五月十二日以後、二十五日以前であろう。正月二十一 日以來足疾療養のため謁告︵休職︶していた光は、十二日延和殿に入對して、首相就任手續き﹁正謝﹂を行い、以て謁告を終えた からで あ ︶16 ︵ る 。﹁墓誌銘﹂以後乾學等 E まで繼承された、 ﹁政事堂﹂における軾の光批判は、決して E ⓒ 二月﹁辛巳﹂

ないしは丁 亥

ではあり得ない︵ ﹃長編﹄卷三九四/八∼一二︶ 。   光 批 判

後 段

の 當 時 軾 が 詳 定 官 で あ っ た 事 實 は、 ﹃ 宋 史 ﹄ 軾 傳 に 據 り さ え す れ ば、 容 易 に 知 り 得 る に も 拘 わ ら ず、 明 人 四 書にはその言及が無く、 乾學等 E ⓒ もまたこれを踏襲する。既にⓒを二月に繫けている以上乾學等は、 利用し得た﹃紀事本末﹄の、 四月癸巳條詳定官就任、 七月丁巳條同辭任の兩條はもとより、 軾傳すらあらためて參照せず、 專ら明人四書とりわけ應旂 C にのみ、 據ったと考えられる。   ﹁差役﹂二月丁亥條の呂公著建議に假りれば光正月二十二日﹁箚子﹂等には、 ﹁疎略未完備の處無くんば 不 あらず ﹂である一方、章惇の 駁奏には﹁取る可き處﹂が有った。光﹁箚子﹂は惇駁奏によって論破されたといえる。詳定所設置の目的はこの光﹁箚子﹂におけ る﹁疎略未完備處﹂の、彌縫である。彌縫のためには新たな人選が、必要であった。三省・樞密院の構成人員︵宰執︶は、公著と 光を除けば二月段階では依然、 神宗朝以來の新法黨人である。 ﹁得旨﹂ したとはいえ、 惇の駁奏により缺陷を露呈せしめられた光 ﹁箚

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ 子﹂につき、從來どおり三省・樞密院が議論すれば、差役法復活は覆えり得る。その故に別途詳定官として、韓維︵侍講︶呂大防 ︵ 吏 部 尚 書 ︶ 孫 永︵ 工 部 尚 書 ︶ 范 純 仁︵ 給 事 中 ︶ が、 選 任 さ れ た と 考 え ら れ る。 爾 後 大 防・ 純 仁 が 執 政 官︵ 大 防 は 尚 書 右 丞、 純 仁 は 同 知 樞 密 院 事 ︶ に 陞 進 し た か ら、 軾 の 詳 定 官 は 兩 名 の 闕 の 補 塡 で あ っ た で あ ろ う。 た だ 軾﹃ 奏 議 集 ﹄ 卷 三﹁ 再 乞 罷 詳 定 役 法 狀 ﹂

先引﹁差役﹂七月丁巳條所載

は、みた如く衙前は專ら招募すベきであり、定差すベきではないという。光﹁箚子﹂の趣旨 とは、 到底相容れない。就任二箇月にして早くも辭意を表わすに至ったのは、 當然の歸結である。一旦は與えられた辭任の許可は、 五月二十六日に撤回された。恐らくは御史中丞劉摯の發言が、これを然らしめた。軾の辭任を認めれば﹁則ち獨り議法成り難きの みには非ず、姦人をして伺隙乘釁し法意を搖憾せしむ、國の計には非ざるなり﹂が、摯の論の一である。辭任の不許可は、黨内 對立の隱蔽のためであった。彌縫しない限り實施し得ない光﹁箚子﹂における缺陷、軾という異分子の存在、その存在を秘匿しな け れ ば な ら な い 政 冶 狀 況、 詳 定 所 に は こ れ ら 元 祐 舊 法 黨 政 權 に お け る 諸 矛 盾 が、 凝 縮 さ れ て い た︵ ﹃ 長 編 ﹄ 卷 三 七 八 / 一 二 ∼ 一四︶ 。   すでにみたように主に﹃宋史﹄役法上・同軾傳・純仁傳に據り、陳 桱 A が閏二月および三月、商輅 B ・宗沐 C が三月、應旂が三 月乙亥條に集約した、差役法復活に關わる諸情報は、乾學等 E

およびこれを踏襲した畢沅 F

では、量的に減少した。時の 經過に伴う役法についての關心の減衰は、半ば必然であるとはしても、旣に﹃紀事本末﹄に據り得た以上乾學等は、少なくとも月 日 に 關 わ る 考 證 に お い て、 明 人 四 書 と は 格 段 に 緻 密 で あ っ て 然 る べ き で あ る。 乾 學 等 は﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 用 舊 臣 上 ﹂ に 據 れ ば、 正 月 二十一日以降五月十二日の延和殿における入對﹁正謝﹂まで、光が謁告していた事實を、知り得る立場に在った。乾學等 E がⓒを 繋けた二月﹁辛巳﹂

本來は丁亥

には、 軾は詳定官就任以前であるばかりか、 光の謁告も依然繼續されつつあった。 ﹁政事堂﹂ で の 役 法 を め ぐ る 兩 者 の 論 爭 は、 當 然 こ の 日 に は 有 り 得 な い。 乾 學 等 E は そ の 閏 二 月 甲 辰︵ 十 六 日 ︶ 條 に、 恐 ら く は﹃ 宋 史 全 文 ﹄ 卷 一 三 上 に 據 り、 諫 官 朱 光 庭 の 發 言 を 載 せ る。 ﹁ 今 日 廟 堂 之 上、 司 馬 光 未 出 4 4 4 4 4 、 唯 有 呂 公 著 一 人 忠 樸 可 倚、 其 餘 皆 姦 邪、 伏 望 聖 慈 早 進 范 純 仁、 庶 得 賢 者 在 位 同 心 一 德、 以 輔 聖 政︹ 傍 點 引 用 者 ︺﹂ が そ れ で あ ︶17 ︵ る 。 二 月 に お け る﹁ 政 事 堂 ﹂ で の 論 爭 と、 閏 二 月 に お け る 光 の﹁ 未 出 ﹂ は、 相 容 れ な い。 E ⓐ ⓑ ⓖ は、 月 日 に つ い て は﹃ 紀 事 本 末 ﹄﹁ 差 役 ﹂ 丁 亥 條 に 據 り、 記 事 の 内 容 に つ い て は 應 旂 C

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 三月乙亥條のそれが、 採られたであろう。 ﹁差役﹂と應旂 C との折衷は、 ﹁差役﹂二月丁亥條には該當記事の無いⓒにも及び、 ﹁辛巳﹂

丁亥

條に一括採録された。ⓒにおける月日考證の不備は果たして、例えば閏二月甲辰條朱光庭發言との間に不整合を生じ たが乾學等はこれを放置し、畢沅 F も例の如く、これを是正してはいない。   軾の詳定官辭任を傳える﹃紀事本末﹄ ﹁差役﹂七月丁巳條は、軾﹁墓誌銘﹂の一を﹁軾意以爲﹂以下に、 ﹁免役法弊當改、但不 當於雇役實費之外多取民錢、若量出爲入無多取民錢、則不足以害民﹂と意譯した後、同意しなかった光に對する發言﹁昔韓魏公云 云﹂を、 續ける。軾﹁墓誌銘﹂が必ずしも忠實に引用されていないのは、 李燾が撰者蘇轍の﹁私意﹂を、 疑ったからであろう。 ﹃長 編 ﹄ 卷 三 八 二 同 月 同 日 條 李 燾 注 は﹁ 按 轍 所 作 墓 誌 恐 有 私 意、 難 盡 信、 今 刪 取 之 ﹂ と い う。 ﹁ 私 意 ﹂ に 該 當 す る 具 體 例 を 李 燾 は、 明 示 し て は い な い が、 軾 顯 彰 の 語 と い う べ き﹁ 獨 以 實 告 ﹂ は 採 録 さ れ て い な ︶18 ︵ い 。 敢 て﹁ 獨 以 實 告 ﹂ の 採 録 を 避 け、 ﹁ 軾 意 以 爲 ﹂ 以 下 を以てこれに代えた如くである。果たして﹁私意﹂の故であるか否か、判然としないが、李燾は﹁昔韓魏公云云﹂を﹁政事堂﹂で の發言とする﹁墓誌銘﹂を自注に引きながら、正文には﹁昔韓魏公云云﹂のみ採り、軾發言の場は一切特定しない。光との論爭の 場が﹁政事堂﹂であるか否か、疑った故であり得る。軾の詳定官解任要求を結果した﹁執政﹂光との對立は、五月二十五日以前に 生起したと想定した。對立以前﹁政事堂﹂における軾と光との接觸の機會は、 自ずから限定される。同月十二日の﹁正謝﹂までは、 光の謁告が繼續していたからである。しかも同月二日聖旨は、門下省・尚書省での執務および、都堂︵政事堂︶での聚議を、三日 に 一 回 に 限 る 特 權 を、 光 に 與 え て い る。 と り わ け 光 が こ の 特 權 を 利 用 し た 場 合、 十 二 日﹁ 正 謝 ﹂ 以 後 二 十 五 日 以 前 の 十 餘 日、 ﹁ 政 事堂﹂における兩者の接觸の機會は、三四回に過ぎない。 ﹁政事堂﹂での論爭の有無は、微妙ともいえる︵ ﹃長編﹄巻三八二/一∼ 三、 ﹃司馬公集﹄卷五三﹁辭三日一至都堂箚子﹂ ︶。   詳 定 官 と 宰 執 の 議 論 の 場 は 專 ら 政 事 堂 に は、 限 定 し 得 な い。 先 引 軾﹁ 辯 試 館 職 策 問 箚 子 ﹂ の 一 に、 ﹁ 及 蒙 差 詳 定 役 法、 先 與 本 局 官 吏 孫 永・ 傅 堯 ︶19 ︵ 兪 之 流 論 難 反 覆、 次 於 西 府 及 政 事 堂 中 與 執 政 商 議 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 皆 不 見 從、 ︿ 中 略 ﹀、 因 乞 罷 詳 定 役 法 云 云︹ 傍 點 引 用 者 ︺﹂ と みえる。まず軾の證言から、政事堂における宰執との﹁商議﹂は、有った。五月十二日﹁正謝﹂後であればそれは、光との議論で も あ り 得 た。 政 事 堂 以 外 に 宰 執 と の﹁ 商 議 ﹂ の 場 と し て、 軾 は 西 府 を 舉 げ る。 西 府 は 東 府 と と も に 熙 寧 以 來 の、 宰 執 の 官 舍 で あ

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ る ︶20 ︵ 。元豐八年七月以來宰執は、假日ないしは三省・樞密院からの退廳後、本來政事堂で行うべき聚議を、東西府で行うことを認め られて い ︶21 ︵ た 。謁告中ではあっても、東西府という非公式の場であれば光は、これに參加した可能性は有る。例えば﹁近日臣の人微 位輕者の如きを以てすら、 久しく病假に在るを以て、 執政猶お臣家に來至し公事を商量す﹂と光はいう。首相發令後﹁正謝﹂以前、 執政は光が居住する東府に至り、合議した。論爭の場が東西府であれば、その生起し得た時期は、軾が詳定官に就任した四月癸巳 ︵ 六 日 ︶ 以 後、 翌 月 二 十 五 日 に ま で あ る い は、 擴 大 し 得 る。 た だ﹁ 昔 韓 魏 公 云 云 ﹂ と 軾 に 慨 嘆 さ せ る に 至 っ た 光 と の 對 立 を、 詳 定 官解任要求の直接の契機とは、みなさぬ場合においてである。對立の生起は五月二十五日直前として、誤りあるまい。ただしその 場については﹁墓誌銘﹂の所謂﹁政事堂﹂以外に、東西府、特に光の居住した東府を、選擇肢に加え得る。李燾が論爭の場を特定 しなかったのも、 ﹁政事堂﹂以外である可能性を排除し得なかった故であると、考えられる。いうまでもなく軾の﹁昔韓魏公云云﹂ を、 ﹁ 政 事 堂 ﹂ に お け る 發 言 と す る 蘇 轍 の 證 言 は、 閑 却 し 難 い。 だ が 轍 の 提 供 す る 情 報 に は、 一 抹 の 不 信 を 拂 拭 し 得 な い 場 合 も 有 る︵ ﹃長編﹄卷三五八/七、同卷三七六/二五︶ 。 Ⅳ、光と章惇   乾學等 E ⓔ 閏二月辛亥︵二十三日︶條に次の如くいう。 ﹁章惇罷。司馬光・呂公著改更弊事、 ︿中略﹀ 、惇尤以謔侮困光、 ︿中略﹀ 。 已 而 惇 與 光 簾 前 爭 論 喧 悖、 至 曰 它 日 安 能 奉 陪 喫 劍。 太 皇 太 后 怒。 ︿ 中 略 ﹀。 惇 遂 罷、 爲 正 議 大 夫・ 知 汝 州︹ 傍 點 引 用 者 ︺﹂ 高 氏 簾 前 における

役法をめぐる

光との論爭、 その結果としての知樞密院事解任は、 恐らく﹃備要﹄卷二十二閏二月﹁章惇罷﹂條﹁分 註 ﹂ に 據 っ た 陳 桱 A 以 後、 應 旂 C ま で 繼 承 さ れ て い る︵ 宗 沐 D に は 章 惇 罷 免 記 事 が 無 い ︶。 章 惇 の 暴 言﹁ 它 日 安 能 奉 陪 喫 劍︵ 將 來 の 地 獄 の 道 づ れ は ま っ ぴ ら ご め ん ︶﹂ は、 ﹃ 備 要 ﹄﹁ 分 註 ﹂ に は 有 る が 明 人 三 書 に は、 無 い。 た だ し﹃ 備 要 ﹄ で は 暴 言﹁ 它 日 云 云 ﹂ よりはむしろ、韓 縝 が訴えた惇等の、哲宗定策僭稱が解任の直接の動機である。 ﹁它日云云﹂については、乾學等は﹃邵氏聞見録﹄ に 據 っ た で あ ろ う。 み た よ う に 應 旂 C は そ の 閏 二 月 辛 亥 條 に お い て、 軾﹁ 墓 誌 銘 ﹂ を 改 竄 し、 ﹁ 僕 射 ﹂ 光 を﹁ 謔 侮 ﹂ し た 惇 が さ ら

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東北大学文学研究科研究年報   第六五号 に簾前で光と役法をめぐり論爭し、かくて解任されたという構圖を 創 ︶22 ︵ る 。 E ⓔ はこれに﹁它日安能奉陪喫劍﹂の語を加え、 ﹁小人﹂ の﹁君子﹂に對する一方的加害、 ﹁小人﹂の敗退という物語を完成する。畢沅 F は例の如く、これを踏襲する。   蘇轍﹃欒城後集﹄卷一六﹁論御試策題箚子﹂二首は、紹聖初年︵一〇九四︶の上奏とみなし得る。該﹁箚子﹂第二﹁貼黃﹂はそ の 冒 頭 に、 ﹁ 臣 竊 か に 見 る に 章 惇 昔 し 樞 密 使 に 任 ぜ し と き 司 馬 光 と 役 法 を 爭 論 す、 其 の 言 に 曰 う 有 り 云 云 ﹂ と い う。 轍 が 舉 げ る 惇 の 發 言 の 具 體 例 の ひ と つ は、 ﹁ 自 行 免 役、 所 遣 使 者、 不 能 體 先 帝 愛 民 之 意、 差 役 舊 害 雖 已 盡 去、 而 免 役 新 害 隨 而 復 生、 今 日 正 是 更 張 修 完 之 時 ﹂ で あ る。 字 句 に 異 同 は 有 る が 論 旨 か ら す れ ば、 ﹃ 長 編 ﹄ 二 月 丁 亥 所 載 の、 光 正 月﹁ 箚 子 ﹂ に 對 す る 駁 奏 の 一 と 一 致 す る ︶23 ︵ 。轍の所謂﹁爭論﹂とは、駁奏自體であるよりは、上奏後これをめぐり惇と光との論爭が有ったとの、理解であろう。いまひ と つ の 惇 の 發 言 例 は 次 の 如 く で あ る。 ﹁ 如 京 東 西 保 馬 緩 一 日、 則 民 間 有 一 日 之 害、 此 不 可 緩 者 也、 如 後︹ 役 ︺ 法、 歳 月 之 間、 改 更 了當、 誠不爲緩﹂ 。﹃長編﹄二月丁亥條は、 詳定所設置を結果した惇の駁奏に續けて、 ﹃邵氏聞見録﹄に據り惇の發言を著録する。 ﹁保 甲保馬一日不罷、則有一日害、如役法、熙寧初以雇代差、行之太速、故有今弊、今復以差代雇、當詳議熟講、庶幾可行、而限止五 日、其弊益甚矣﹂がそれである。この場合も字句の異同は有るが論旨は、轍の所引とほぼ一致する。李燾は﹃邵氏聞見録﹄に據り はするが、 伯温との間には見解に隔たりが、 有る。伯温は光との論爭の際の發言とみなし、 惇のそれに﹁温公以不爲然﹂を續ける。 これに對し李燾は、光に對するそれではあり得ぬとして、冒頭に﹁又嘗與同列爭曰﹂を置く。李燾はまた惇の發言を

口頭の論 爭 の 語 で は な く 上 奏 さ れ た 文 字

﹁ 箚 子 ﹂ の 一 部 と す る、 見 解 も 示 す。 ﹁ 曾 布﹃ 日 録 ﹄ 惇 の 此 の 語 を 載 す、 蓋 し 是 れ 箚 子 な り、 當に檢詳追附すベし﹂と自注に い ︶24 ︵ う 。   閏 二 月 庚 寅︵ 二 日 ︶ 詔 は、 こ の 惇﹁ 箚 子 ﹂ が 然 ら し め た で あ ろ う。 該 詔 は、 ﹁ 二 月 初 六 日 指 揮︵ 光 正 月 二 十 二 日﹁ 乞 罷 免 役 錢 依 舊 差 役 箚 子 ﹂︶ ﹂ に 依 る﹁ 定 差 ﹂ を 命 じ る 一 方、 州 縣 お よ び 轉 運 司・ 提 舉 司 に そ れ ぞ れ 兩 月 の 期 限 を 與 え、 ﹁ 役 法 民 間 的 確 利 害 ﹂ を 調査・報告させ、さらに差役の當事者、舊來免役錢を納め、今來差役さるべき人戸に各各利害を具し、 ﹁實封﹂自陳させよという。 惇が批判した光正月﹁箚子﹂における﹁五日﹂の期限は、縣段階だけでも兩月に擴大された。州縣監司における調査・報告、當事 者 た る 人 戸 の﹁ 實 封 ﹂ 自 陳 は、 惇 の 所 謂﹁ 詳 議 熟 講 ﹂ の 資 料 た り 得 よ う。 劉 摯・ 王 覿 等 臺 諫 の 論 難 に よ り、 閏 二 月 戊 戌︵ 十 日 ︶、

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﹁司馬光傳承﹂拾遺︵熊本︶ 該 詔 は 撤 回 さ れ る。 例 え ば 摯 は、 ﹁ 實 封 之 狀、 州 縣 疲 於 遞 送、 其 達 於 朝 廷 者、 計 須 山 積、 則 考 謁 何 時 可 遍、 而 所 謂 差 役 之 法 何 年 可 見其成也、不知誰建此論者、蓋欲爲遷延之謀・動搖之術﹂という。摯の立場からすれば﹁實封﹂自陳は、差役法復活日程の決定的 遲滯を企圖した、明らかな惡意の所産にほかならないが、同時にこれによる、光正月﹁箚子﹂の缺陷のさらなる暴露も、危惧され たであろう。王覿は﹁實封﹂自陳を、新法黨宰執

首相蔡確罷免後は次相韓 縝 ・中書侍郎張 璪 および惇

における、反差役法 戰 略 の 一 環 に 位 置 づ け る。 ﹁ 故 に 初 は 則 ち 但 だ 司 馬 光﹃ 箚 子 ﹄ を 録 し て 行 下 し 條 目 を 立 て ず、 以 て 則 ち 其 の 失 を 幸 ねが う、 中 は 則 ち 惇 出力して以て之を排し而して其の成るを恐る、終は則ち詳定の事畢るを侍たず而して實封狀の法を爲り以て四方を惑わす﹂がそれ である。三段階のうち﹁中は云云﹂が惇駁奏を指すのは、いうまでもあるまい。當該期役法につき、積極的に發言した新法黨宰執 は、 ほ ぼ 惇 に 限 ら れ る。 後 に み る 蘇 轍 閏 二 月 十 八 日 上 奏 の 一 に、 ﹁ 今 乃 不 候 修 完、 便 乞 再 行 指 揮 使 諸 路 一 依 前 件﹃ 箚 子 ﹄ 施 行、 却令被差人戸具利害實封聞奏 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 、 臣不知陛下謂 惇此舉其意安在 4 4 4 4 4 4 4 ︹傍點引用者︺ ﹂とある。 ﹁實封﹂自陳︵閏二月庚寅詔︶は、 惇﹁箚子﹂ の建議に係ると認め得る。惇の駁奏は二月末の詳定役法所設置を、結果した。駁奏とは別に、光正月﹁箚子﹂に則り定差せしめる 一方で、當役人戸に﹁實封﹂自陳せしめよという﹁箚子﹂も、閏二月庚寅以前に上奏した。伯温が光との論爭の語とみなした﹁保 甲 保 馬 云 云 ﹂ は、 こ の 惇﹁ 箚 子 ﹂ の 一 部 で あ ろ う︵ ﹃ 長 編 ﹄ 卷 三 六 七 / 一 一、 同 卷 三 六 八 / 七 ∼ 九、 同 卷 三 六 八 / 三 二 ∼ 三 三、 同 卷三六九/二四∼二五、同卷三六九/一四∼一五︶ 。   ﹁保甲保馬云云﹂を光との論爭の語とする伯温の見解を、李燾は、 ﹁按ずるに光此の時已に病告に在り﹂といい却ける。駁奏の言 説を信ずれば惇は、光正月﹁箚子﹂が﹁得旨﹂し行下されるに至るまで、殆ど役法議論に關預し得なかった。光﹁箚子﹂行下まで の 時 系 列 を﹃ 長 編 ﹄ 二 月 乙 丑︵ 六 日 ︶ 條 に 據 り 整 理 す れ ば、 以 下 の 如 く で あ る。 ① 正 月 二 十 二 日、 光﹁ 乞 罷 免 役 錢 依 舊 差 役 箚 子 ﹂ 上奏、②二月三日、高氏光﹁箚子﹂を三省へ行下、③四日、三省﹁箚子﹂の檢討 ・ 進擬に樞密院の參加を要請、高氏許可、④五日、 三省・樞密院﹁箚子﹂を檢討・審議︵聚廳商量︶ 、⑤三省・樞密院﹁箚子﹂施行を進擬、高氏裁可︵進呈、得旨﹁依奏﹂ ︶、⑥七日、 ﹁ 箚 子 ﹂ 行 下、 差 役 法 復 活。 惇 は そ の 駁 奏 冒 頭 に お い て 自 身 の 役 法 と の 關 わ り を、 槪 略 以 下 の 如 く 述 べ る。 ① 役 法 は 本 來 樞 密 院 の 職掌外であり、 元豐八年秋から今春に至るまで、 光も專ら三省と商議し、 樞密は一切預聞しなかった。②役法に關わる上奏︵箚子︶

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