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戦時期の「日本文化講義」と経済学者

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戦時期の「日本文化講義」と経済学者

上久保 敏

工学部総合人間学系教室

(2013年 9 月24日受理)

“Lectures on Japanese Culture” and Economists in Wartime Japan

by

Satoshi KAMIKUBO

Department of Human Sciences,

Faculty of Engineering (Manuscript received Sep 24, 2013)

Abstract

Lectures on Japanese culture (Nippon Bunka Kogi) were lectures which the Ministry of Education required national universities and national senior high schools to present for compulsory subjects in 1936. Their purpose was to give direction to student thinking as a part of the revision of education and study. In this point it was similar to the aim of the Society for the Promotion of Japanese Learning (Nippon Shogaku Shinko Iinkai). Many Japanese economists, were required to present these government-produced lectures.

This paper focuses on the situation in which lectures on Japanese culture were presented and considers the content of those presented by economists in wartime Japan.

キーワード; 日本文化講義,特別講義,教学刷新,思想善導,日本経済学,純粋経済学, 日本諸学振興委員会

K e y w o r d; lecture on Japanese culture (Nippon Bunka Kogi), special lecture, revision of education and study, thought guidance, Nippon economics, pure economics, the Society for the Promotion of Japanese Learning (Nippon Shogaku Shinko Iinkai)

Memoirs of Osaka Institute of Technology, Series B Vol. 58, No. 2(2013)pp. 1〜36

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1. はじめに  「日本文化講義」は昭和11年 7 月22日に文部省思 想局が帝国大学や官立大学,直轄諸学校等に対して 実施に関する通牒を出し,各校で必修科目として実 施するよう求めた講義である.この通牒の約 1 ヶ月 半後の同年 9 月 8 日に設置された日本諸学振興委員 会とともに日本文化講義は,教学刷新のための施策 であった.日本諸学振興委員会は我が国独自の学問 を構築する場として教育学,哲学,国語国文学,歴 史学,経済学など 9 分野で大学教員等を動員して 「官製学会」を組織したが,同じく教学刷新上の国 策である日本文化講義は,学生・生徒を対象に日本 独自の文化や学問に対する理解・体認を得させるこ とを目的の 1 つとして文部省・教学局が国家予算に より大学教員等を動員して実施させた点で「官製講 義」とも呼べるものであった.  日本文化講義は国家が日本文化に関する講義を課 すことにより,学生・生徒に対して国民的性格の涵 養や日本精神の発揚を図ろうとした政府による思想 善導策の 1 つであった.戦前の我が国の思想善導に 関しては,内務省社会局や文部省社会教育局あるい は民間の教化団体等によって担われた一般国民対象 の通俗教育や社会教育によるものと,文部省の思想 善導担当部署(学生課やその後身の学生部・思想局 あるいは外局となった教学局など)によって担われ た学校教育によるものの 2 ルートに大別することが できる.このうち,学校教育ルートによる思想善導 策には文部省主催あるいは文部省が都道府県に委託 した思想問題講習会や国民精神文化研究所(教員の 再教育や国民精神文化の研究を担当する機関)によ る国民精神文化講習会があり1),ここでも大学教員 等が小・中学校等の教員を対象に講義を行なった. 日本文化講義はその前身である特別講義とともに学 生・生徒を直接対象とした思想善導策である.  戦時下の学問や教育に対する国家の統制について は,日本教育史や日本近代史の分野を中心に今日ま で研究が続けられている2).特に官製学会を組織し た日本諸学振興委員会については駒込武・川村肇・ 奈須恵子編著『戦時下学問の統制と動員—日本諸学 振興委員会の研究』(東京大学出版会,平成23年) の刊行により,その全貌が明らかになりつつあるが, 国家による思想善導の 1 つである「日本文化講義」 については教育史や戦前の教育・研究活動に関する 研究書あるいは一部大学の自校史の中で部分的に言 及されることはあっても,その全体に焦点を当てた 詳細な研究は多くないのが実状である3).また,戦 前の経済学を巡る学問状況についても近年明らかに なりつつあるが4),当時の経済学者のうち,誰がど のように思想善導に関わったかということについて はあまり具体的な言及はなされていない5)  筆者は以前に日本諸学振興委員会経済学会を取り 上げ,戦時下の官製学会に関する一考察を行なっ た6).本稿では日本文化講義の実施状況そのものに 焦点を当て,日本文化講義についてその実施例をで きるだけ具体的に見ていくとともに,当時の経済学 者のうち誰がこの官製講義に関わり,どのような内 容の講義を行ったかについても考察を行なう.  本稿の構成は以下の通りである.まず,文部省・ 教学局より発信された日本文化講義の実施に関する 通牒を見ていくことで,日本文化講義の実施要領を 確認し,実施要綱の目的の変遷を追う.次に日本文 化講義の実施状況を概観し,帝国大学や直轄諸学校 での実施例を取り上げるとともに日本文化講義に対 する学生・生徒の反応をみていく.更に経済分野の 日本文化講義の実施状況に焦点を当て,経済学者が 行なった日本文化講義の内容を考察する.最後に経 済分野の日本文化講義と日本諸学振興委員会経済学 会との関係に触れ,日本文化講義とは何であったか について考える. 2. 日本文化講義の実施に関する通牒 2.1 日本文化講義の前身としての特別講義制度  学生・生徒を直接対象とした思想善導の講義は昭 和11年度の日本文化講義に始まった訳ではない.既 に官立高等学校では昭和 5 年度から指導教官制度や 学生福利施設(学資の補給や内職の斡旋,診療所や 健康相談所の設置など)の実施とともに特別講義制 度が導入され,6 年度からは官立専門学校,官立実 業専門学校,高等師範学校,大学予科でも特別講義 制度が導入された.  特別講義制度の目的と内容については文部省によ る次の説明に尽きる.「生徒ヲシテ広ク一般思想問 題、社会問題等ニ関シ中正穏健ナル識見ト批判力ト ヲ養ハシメ、又誤ツテ外来思想ニノミ傾注スルコト ヲ避ケ、ヨク日本精神ノ本義ニ目醒メシムル目的ヲ 以テ各学校ニ於テ学者、実際家等ニ委嘱シ毎学年六 時間乃至十二時間ノ特別講義ヲ開講シ全校生徒ヲシ テ聴講セシメツヽアリ」7).特別講義制度は,当局

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にとって危険なマルクス主義を批判する講義や日本 精神の本義を訴える講義を聴講させることで生徒の 左傾化,赤化を防ぐための思想善導策であった.  特別講義の実施状況は昭和 5 〜 7 年度分について は文部省思想局『思想局要項』で,8 年度分は文部 省思想局『思想調査資料』第25輯(昭和9年11月),  9 年度分は同第29輯(昭和10年 9 月),10年度分は 同第33輯(昭和12年 3 月)でそれぞれ確認できる. このうち,昭和 8 〜10年度実施分については『思想 調査資料』に一部の講義の要旨も掲載されている.  特別講義は昭和 5 年度については25校(官立高等 学校のみ)で50回,6 年度は48校で73回,7 年度は 47校で85回,8 年度は49校で90回,9 年度は51校で 85回,10年度は58校で100回実施された8).この特別 講義制度は次に述べる日本文化講義の実施により昭 和11年度の途中で廃止されることになった9).その 意味で,特別講義は日本文化講義の「前身」と呼べ るものであった. 2.2 日本文化講義の目的と実施要領  昭和11年 7 月22日付けで文部省思想局長より帝国 大学総長,官立大学長,直轄諸学校長(高等師範学 校を含み盲聾唖学校を除く),公私立大学高等専門 学校長宛に「日本文化講義実施ニ関スル通牒」10) 発信された.帝国大学総長宛の通牒は「日本文化講 義ニ関スル件」として「今般教学刷新ノ見地ヨリ別 記目的ノ下ニ学生(生徒)ニ対シ日本文化講義ヲ実 施致スコトト相成タルニ付テハ別記要綱ニ準拠シ 夫々御計画相成様致度依命此段及通牒」という文言 で始まっていた.  この文言からわかる通り,日本文化講義は教学刷 新の一環として文部省が大学や高等学校,専門学校 等に実施を命じた天下りの「官製講義」であった. この日本文化講義の実施対象校は帝国・官立大学や 直轄諸学校だけではなく,公立・私立の大学・高等 専門学校も対象となった.すなわち,文部省は公私 立大学高等専門学校長宛に「本年度ヨリ直轄学校ニ 対シ別記要旨ノ日本文化講義ヲ実施セシムルコトニ 決定相成リタルニ付テハ貴校ニ於テモ之ニ準ジ本制 度ノ趣旨ノ達成ニ御尽力有之様特ニ御配慮相成様致 度依命此段及通牒」と日本文化講義の実施を求めた.  文部省は思想問題に対処するため,昭和 3 年10月 に専門学務局内に学生課を設置して,思想善導を担 当させたが,学生課は翌年 7 月に早くも学生部に昇 格し,更に 9 年 6 月に学生部を拡張した思想局が設 置され,思想対策の強化が図られていった.当初, 日本文化講義や日本諸学振興委員会などの教学刷新 を担当したのはこの思想局であったが,昭和12年  7 月に中央官庁に準ずる外局として教学局が設置さ れ,教学刷新の中心機関としての役割を果たしてい く.しかし,昭和17年に行政簡素化のため,教学局 は文部省の内局になった.  通牒で示された「日本文化講義要綱」は「一、目 的 二、講師 三、講義 四、速記 五、実施方法  六、経費」の 6 項目について規定していた.この うち日本文化講義の目的については 2 つあった.1  つは日本文化に関する講義を課すことにより,学 生・生徒の国民的性格の涵養や日本精神の発揚を図 ることである.もう 1 つは日本独自の学問,文化に 関する十分な理解・体認を得させるということで あった.教学刷新評議会の答申(昭和11年10月29日) で示された「学問研究・大学刷新ニ関スル実施事項」 には国体・日本精神を学問的体系において明らかに することや学生の教育に当たって自由主義や功利主 義に陥らないよう,日本人としての自覚的修練を重 視し,国家観・人生観の確立を図れるようにするこ となどが謳われていたが,日本文化講義の目的もこ れに添うものであった.  日本文化講義実施要綱では講師について「国体、 日本精神ノ真義ヲ明ニシ教学刷新ノ目的ヲ達スルニ 適当ナル人」と条件を付けていた.また,講師の決 定については,直轄諸学校に対してはこの条件に 従って選び,文部省と合議して決定するように求め たが,帝国・官立大学に対しては学内の教授職員の 中から主として人文諸学の講師を選定して文部省と 合議して決定するように求めていた.つまり,帝国・ 官立大学では人文科学分野の学部が無い大学は外部 からの講師選定も認めたが,原則は学内の教授に担 当させる「自前主義」での対応を求めたのである. ただし,この学内の教授職員の中からの講師選定は 帝国大学に関しては昭和12年度に,官立大学につい ても13年度に求められなくなり,更に帝国大学に関 しては「文部省と合議」という制約も消えた.  講義に関しては帝国大学では 1 学部年 3 回,毎回  2 時間の計 6 時間,官立大学では年 4 回,毎回 2 時 間の計 8 時間,直轄諸学校では年 5 回,毎回 2 時間 の計10時間の回数・時間数を求めた上で,帝国・官 立大学では「本講義ハ必修科目ニ準ジテ行ヒ学生(生 徒)ヲ必ズ出席セシムル様適宜方法ヲ講ズルコト」 と記し,直轄諸学校に対しても「本講義ハ学科目ニ

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準ジテ行フコト」を求め,日本文化講義を必修扱い するように促した.そして,講義は速記に付し,速 記録を文部省思想局長宛に提出することも求めてい た.ただし,昭和12年度以降は,「必要ニ応シ講義 ヲ速記ニ附スル場合ハ」と表現が変わり,速記録の 提出は必ずしも必要ではなくなった.  実施方法については講義の計画書と予算書を事前 に提出し,講義終了後は実施状況報告と収支決算書 を提出することになっていた.このうち実施状況報 告には,講師名・演題,講義日時・時間数,講義要 旨,聴講学生(生徒)数・出席率,学生(生徒)に 与えた講義の影響,その他参考となるべき事項を書 く必要があった.また,日本文化講義の経費につい ては文部省より支出する予定金額が示されており, 国家が資金を賄った点でも日本文化講義は「官製講 義」という性格を持っていた.例えば名古屋高等商 業学校長宛の通牒ではこの予定金額は470円と示さ れており,文部省思想局からは同時に「日本文化講 義手当等計算方ニ関スル件」という通牒も送られ, そこでは具体的に講師の謝礼金は 1 時間15円以内, 速記者に支払う速記料は 1 時間 7 円以内など,手当 等の計算が細かく指示されていた11) 2.3 日本文化講義実施要綱の変化  日本文化講義の実施に関する通牒は昭和11年度か ら20年度まで文部省あるいは教学局より毎年度出さ れたが,通牒で示された「日本文化講義実施要綱」 は時局の推移とともに変わっていった.実施要綱に 記載されている「目的」を中心に通牒や要綱の変化 を辿っておきたい.昭和11年度から20年度にかけて, 目的の文言は表−1 のように変わっていった.  昭和11年度と12年度の間では大きな変化とまでは 言えないが,「日本独自ノ学問」という言葉が消えた. 事情は分からないが,昭和17年度の実施要綱で復活 するところからみて,単なる表現の簡潔化のためな のかもしれない.むしろ,昭和12年度の大きな変化 は 4 月 5 日の通牒だけではなく,次の通り 9 月20日 にも教学局長官名でこの年度 2 度目の通牒が出さ れたことである.「国民精神総動員二関シテハ昭和 十二年九月十日付文部、内務両省ヨリ依命通牒ノ次 第モ有之夫々実施方御配意中ノコトヽ存ゼラルルモ 昨年来実施シ来レル日本文化講義ハ其ノ趣旨大学、 高等専門学校ノ学徒ヲシテ一ニ国体日本精神ノ真義 ヲ確認体現セシムルニ在リ、今次ノ如キ重大事局ニ 際シテハ一層、本制度ノ機能ヲ強化拡充シ学生、生 徒ヲシテ国民的志操ヲ涵養確保シ、皇運ノ隆昌ニ忠 誠ヲ致サシムベキモノト信ズ、各大学(学校)ニ於 テハ国民精神総動員ノ趣旨ヲ体シ特ニ左記事項ニ留 意シ貴学(校)ノ実情ニ即シテ有効適切ナル計画ヲ 樹立実施シ其ノ実績ヲ挙グルニ万遺憾ナキヲ期セラ レ度此段通牒ス」.昭和12年 7 月に勃発した日中戦 争(支那事変)を受け,「国民的志操を涵養確保」,「皇 運の隆昌に忠誠」など国民精神総動員体制の強化が 日本文化講義でも求められることとなった. 表−1 「日本文化講義実施要綱」の目的の変化 㻔㻕勖 㻔㻗 㻔㻚 㻔㻛 (資料)文部省『思想時報』第 5 輯,教学局『教学局時報』第  1・3 号,中村治人「日本文化講義に関する通牒と 実施要綱—名古屋大学経済学部所蔵「日本文化講義」 関係史料について」(『名古屋大学史紀要』第 8 号, 平成12年 3 月)  昭和14年度から15年度にかけて注目すべき変化が あった.実施要綱の目的の一文に「之ガ創造発展ニ 寄与スベキ気魄ト信念トヲ涵養セシムル」という言 葉が加わり,気魄や信念といった精神面での涵養に まで目的が及ぶことになった.昭和15年度の通牒の 冒頭には「尚本年度ハ紀元二千六百年ニ因ミ特ニ肇 国精神ヲ明カニシ之ニ基ク我国文化ノ創造発展ニ重 点ヲ置キ実施相成様致度」と書かれており,昭和15 年が紀元2600年に当たることから,建国の精神を明 らかにするという方針が日本文化講義の目的にまで 反映したのである.  また,昭和15年度は実施要綱の「六、実施状況報

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告及び収支決算書」の実施状況報告から「学生生徒 ニ与ヘタル講義ノ影響」が消え,「学生生徒ノ主ナ ル質問意見ノ要旨」が加わった.教員から見た学生・ 生徒の講義に対する受け止め方の報告ではなく,学 生・生徒が講義に対して抱いた疑問や意見を直接報 告させるようになったのである.  昭和15年度と16年度の間では15年度までの「権威 アル学者・実際家等ニ委嘱シテ之ヲ実施スルモノト ス」がより簡単に「以テ目的トス」と置き換えられ ただけで,実質的な変化はない.ただ,昭和16年度 の通牒文には「尚本年度ハ時局並ニ皇国ノ使命ニ鑑 ミ一層国体観念ノ徹底ヲ期スルト共ニ新体制ノ諸問 題・国土計画・人口問題・食糧問題・大陸政策・太 平洋問題等ニ関スル講義ヲモ加へ以テ十分成果ヲ挙 グルヤウ御配慮相成度」と日本の抱える問題が羅列 的に明示された.日本文化講義の実施に当たっても, より具体的に諸問題を考えるように促したものとみ られる.  昭和16年度から17年度にかけては15年度に付け加 わった「之ガ創造発展ニ寄与スベキ気魄ト信念トヲ 涵養セシムル」という言葉が消え,いわば精神面の 強調が無くなった.そもそも昭和17,18年度はそれ ぞれ通牒文自体に次のような大きな変化があった. まず,昭和17年度は「昭和十七年度標記文化講義ハ 大東亜共栄圏建設ノ歴史的使命ニ鑑ミ内容ノ充実清 新化ヲ図ルベク左記要綱ニ基キ実施相成度此段及通 牒」と大東亜共栄圏の建設という大目標に鑑みた内 容の充実,清新化を当局は要求した.同じく昭和18 年度も「尚本年度ハ大東亜戦争ノ完遂、大東亜共栄 圏建設ニ邁進シツツアル我国ノ歴史的使命ニ鑑ミ 益々内容ノ充実ト効果ノ徹底トヲ計リ本講義本来ノ 目的達成ニ力ヲ注グト共ニ戦時下学徒ノ自覚ヲ全力 ラシムルヤウ御配慮相成度」と日本文化講義の目的 達成に当たり鑑みるべきものとして大東亜戦争の完 遂や大東亜共栄圏の建設を挙げている.昭和16年12 月に米英への宣戦布告により太平洋戦争(大東亜戦 争)が始まり,大東亜共栄圏の建設に向かうに当たっ て,今更「気魄」や「信念」は強調するまでもない 言わずもがなのことになっていたのであろう.  また,昭和16年度から17年度にかけては「日本文 化ニ関スル十分ナル理解体認」が「日本独自ノ学問 文化ニ関スル十分ナル理解体認」に変化して,先に 述べた通り12年度の要綱から落ちた「日本独自の学 問」が復活した.昭和18年度に関しては要綱の「二、 講義」にそれまではなかった「講義内容」が加わり, 次のような一文が入った.「広ク日本文化ニ関スル 講義ノ外時局ニ鑑ミ日本世界観及国民錬成ノ問題、 食料及生産増強ノ問題、思想戦ノ問題ソノ他広ク大 東亜共栄圏建設ノ諸問題ニ関スル講義ヲモ加ヘ十分 効果ヲ収ムルヤウ工夫スルコト」.時局を重んじた 講義内容にし,十分効果を収めるようにせよという 当局の非常に具体的な要請からは戦局の長期化に苦 しむ焦燥感が読み取れる.なお,昭和17年度からは 要綱の「六、実施状況報告及び収支決算書」の実施 状況報告に「学生・生徒ノ感想」が加わり,感想の 要旨ではなく,感想そのものの提出が求められるこ とになった.同じく実施状況報告に関しては昭和18 年度になると「講義要旨」が「詳細ナル講義要旨」 に変わっている.詳細な感想や講義要旨を要求する ことになった真意は不明だが,当局による思想統制 の強化の現れとみられる.  思想統制の強化という点では昭和17年度から日本 文化講義の担当講師との座談会を講義終了後に実施 することが実施要綱の中に加わった点も指摘してお きたい.講師との座談会については既に昭和14年度 の実施要綱において「講義終了後講師ヲ中心トスル 座談会ヲ開催スルモ差支ナシ」との一文が加わって いたが,あくまで任意のものであった.しかし,昭 和17年度の実施要綱では,「経費ノ範囲内ニ於テ講 義終了後教職員及ビ学生・生徒有志ヲ以テ座談会ヲ 実施シ質疑応答ニヨリ講義ノ効果ヲ確実ナラシムル コト」と経費の範囲内との断りを付けながらも,座 談会実施は半ば義務化された.  日本文化講義実施要綱の目的は昭和18年度と19年 度の間でも表現が大きく変化した.目的の表記が短 縮化された上に,新たに「日本世界観ノ確立,必勝 信念ノ昂揚ニ資スルヲ以テ目的トス」という表現に 変わった点が興味深い.そもそも年に数回の日本文 化講義をもって西洋的世界観を否定し,日本精神に 貫かれた日本世界観を確立することや必勝信念の昂 揚に資することが可能なのか,疑問とするところは 多いが,この昭和19年度に関しては通牒文に「尚本 年度ハ緊迫セル時局ニ鑑ミ決戦下学徒ノ本分ヲ全力 ラシムベク十分本講義ヲ活用シソノ成果ヲ挙グルヤ ウ御配慮相成度」と書かれており,「決戦下学徒の 本分」という言葉に当局の緊迫感が読み取れる.  なお,昭和19年度は要綱の講義内容が「広ク日本 文化ニ関スル講義ノ外日本世界観、皇国勤労観、食 料及生産増強問題、国防問題、国際思想戦、大東亜 事情等時局ニ関スル講義ヲモ加ヘ十分効果ヲ収ムル

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ヤウ工夫スルコト」となり,18年度と比較して新た に皇国勤労観,国防問題が加わった.  もう一点,昭和19年度は「講師ハ学者宗教者実際 家等広ク本講義ノ目的達成ニ適当ト認メラルル者ヲ 選ビ・・・」と講師の中に宗教者が入ったのも大きな 変化である.日本文化講義の講師として実際にどれ だけの宗教者が動員されたかは不明であるが,文部 省教学局宗教課は「昭和19年 9 月 宗教関係講師名 簿」を作成し,同年 9 月22日付けの文部省教学局長 名による「今般,日本文化講義等ニ於ケル宗教関係 講師選定ノ参考資料トシテ「宗教関係講師名簿」作 成致シタルニ付一部別途及送付」という文書が残っ ている12)  終戦を迎える昭和20年度に関しては要綱の目的は これまでにない「皇国隆替ノ秋ニ当リ」という書き 出しになった.そして,「神州護持ノ信念ヲ昂揚シ 愈々学徒ノ本分ヲ完カラシムルヲ以テ目的トス」と より神懸かった言葉が加わっている.20年度の通牒 文は「日本文化講義ハ昭和十一年度之ヲ実施以来其 ノ運営極メテ適切ナリシタメ逐年其ノ成果大イニ挙 リ学徒ノ識見ヲ長養シ教養ヲ啓培セルトコロ極メテ 大ナルモノアリ  本年度ニ於テハ愈々苛烈ナル戦 局ニ即応シテ別紙要綱ニ依リ之ガ有効ナル実施ヲ御 考慮相成度  特ニ動員ノ強化ニ因リ授業ヲ受クル 機会少キ学徒ニ対シ十分本講義ヲ活用シテ教育ノ効 果ヲ挙グル様致度此段及通牒」と日本文化講義を総 括するような言葉で始まり,「愈々苛烈ナル戦局ニ 即応シテ」という言葉も目を惹くが,学徒動員で授 業を受ける機会は少なくなっても,この日本文化講 義を活用して教育の効果を挙げよというのはもはや 無理難題に近いものがあった. 3. 日本文化講義の実施状況 3.1 日本文化講義に関する諸資料  1.で述べた通り,日本文化講義そのものに焦点 を当てた先行研究が少ないため,ここではまず日本 文化講義の実施状況を示す資料としてどのようなも のがあるかを紹介しておく. (1)文部省・教学局発行の資料  2.2で見た通り,文部省・教学局では日本文化講 義の実施状況報告の提出を実施校に求めていた.こ れを取りまとめたとみられる「日本文化講義実施状 況一覧」は昭和11年度から13年度分については文部 省や教学局の逐次刊行物に掲載された.すなわち, 昭和11年度の「日本文化講義実施状況一覧」は文部 省思想局『思想時報』第 6 輯(昭和12年 3 月)と教 学局『教学局時報』第 1 号(昭和12年 9 月)に,昭 和12年度については『教学局時報』の第 2 号(昭和 12年10月),第 4 号(同年12月),第 7 号(昭和13年 10月)に,また昭和13年度については,『教学局時 報』の第 8 号(昭和14年 2 月),第 9 号(同年 3 月) に掲載された.『思想時報』,『教学局時報』は現在 でも復刻版が出ているため13),参照は容易である.  また,昭和13〜15年度の日本文化講義の実施状況 については名古屋大学大学文書資料室所蔵の「自昭 和十四年度至昭和十九年度 日本文化講義に関する 綴 教務課」に含まれている,(教学局作成とみら れる)「昭和13年度日本文化講義実施状況一覧」,教 学局指導部指導課「[昭和14年度]日本文化講義実 施状況一覧(抄録)」,(教学局作成とみられる)「昭 和15年度日本文化講義実施状況一覧表」で確認する ことができる14).これらの実施状況一覧(表)は奈 良女子大学附属図書館がホームページ上で公開して いる「奈良女子大学所蔵資料電子画像集 奈良女子 大学校史関係史料」15)の中の「日本文化講義ニ関ス ル書類」にも含まれており,閲覧・参照は容易であ る.  この他に日本文化講義を扱った資料としては教学 局『日本文化講義要旨』(昭和13年 3 月)がある16) 同書は145頁の小冊子で「日本文化講義の実施上の 考察に資するため直轄学校に於ける昭和十一年度同 講義の一部に就いて其の要旨を輯録したものであ る」17).昭和11年度に実施された日本文化講義の一 部についてその要旨を講師の専門別に哲学,歴史, 文学及び芸術,法政及び経済,自然科学の 5 分野に 分けて収録している.収録されている要旨は昭和11 年度に実施された日本文化講義の23%に相当する86 回分である.また,同書は附録として昭和11年度日 本文化講義実施状況を講師別一覧表にして掲載して いる他,実施校数,実施回数などの統計も収録して おり,単年度ながら昭和11年度の実施状況がある程 度掴める内容となっている.  総じて日本文化講義についてはここで述べたもの 以外,実施状況を示す資料が刊行されておらず,特 に昭和16年度以降の実施状況は全国ベースで捉える のが困難である.この点,日本文化講義と同じく教 学刷新を目的に組織された日本諸学振興委員会に関 しては『日本諸学振興委員会研究報告』,『日本諸学

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講演集』,雑誌『日本諸学』などが逐次刊行され, 同委員会が組織した官製学会の動向が掴めるのとは 対照的である. (2)実施校所蔵・発行の資料  文部省・教学局側が作成した日本文化講義に関す る資料は(1)で述べた通り,限られてしまうため, 実施状況を詳細に把握するためには,実施校が文部 省・教学局に提出した実施状況報告などの関係書類 に当たるしかない.しかし,日本文化講義の実施状 況を示す関係書類は公文書であり,奈良女子大のよ うに前身の奈良女高師の書類をホームページ上に掲 載しているのはむしろ例外である.各校でどのよう な形で保存されているか(あるいは廃棄されたか), 閲覧は可能なのか等を各大学の資料館などに確認す ることから始めるしかない.名古屋大学大学文書資 料室,金沢大学資料館には日本文化講義に関する資 料が所蔵されており,閲覧も可能である.  日本文化講義の講義録を刊行した例は若干ある. 講義録を最も多く発行したとみられるのは北海道 帝大学生課である.北海道大学編著『北大百年史』 (ぎょうせい,昭和55〜57年)には日本文化講義に 関する記述は見出せないが,北海道帝大では既に昭 和 9 年に特別講義の講義録を 2 回発行しており,日 本文化講義についても逐次その講義録を発行し,最 低でも10輯までの発行があったと推測される18)(表 −2 参照). 表−2 北海道帝大学生課発行の日本文化講義 (注)第 7 〜 9,11輯以降については不明.対象欄の「実」 は実科専門部、「日」は日本学文武会を示す.  第10輯の扉には「本書は本学に於ける日本文化講 義の昭和16年度第三回の催しとして九月三十日札幌 市公会堂に於て東京帝国大学文学部教授伊藤吉之助 氏が講演せられしものを録したるものなり」と書か れており,「世界観と科学」という演題で,ナチス の世界観と科学に関する所見を講演したものであっ た.奥付には「発行所 北海道帝国大学学生課」と あり,昭和17年 3 月30日の印刷・発行である.第 4  〜 6 輯と10輯の奥付には「教学局 蔵版」「発行部 数 3,000」「配布範囲 学内」と記載されており, 学内限定で 3 千部配布したものとみられる.  北海道帝大学生課に次いで日本文化講義の講義録 を多く発行したとみられるのは京都帝大学生課であ る.同課は昭和10年 4 月から20年11月までに10回に わたって「学生課叢書」(第10編は「学生部叢書」) を発行した.その内容は表−3 の通りである.この 全てが日本文化講義(月曜講義)ではなく,第4編 の西田幾多郎『日本文化の問題』,第 7 編の天沼俊 一『日本の建築』,第 8 編の田辺元『歴史的現実』, 第 9 編の阿部次郎他『万葉集について』が日本文化 講義の講義録であった19)(ただし,第 8 編は月曜講 義ではなく水曜講義). 表−3 京都帝大の学生課叢書 (注)第 1・2 編には学生課叢書を示す記載はなく推測に 基 づ く20). 第 3・7・8・9  編 は「 学 生 課 叢 書 」, 第 4  〜 6  編 は「 京 大 学 生 課 叢 書 」, 第10編 は「 京 都 帝 大 学生部叢書」と表紙あるいは見返しに表記.第 9 編 のみ岩波書店から刊行,他は京都帝国大学学生課発 行( 第10編 は 学 生 部 発 行 ). た だ し, 第 4  編 は 昭 和 15年 に 岩 波 書 店 か ら 岩 波 新 書 と し て 刊 行 さ れ, 第  8 編は学生課の発行と同時に岩波書店からも刊行され た.*は日本文化講義として実施されたものを示す.  北海道帝大,京都帝大以外で確認できる日本文化 講義の講義録については山田孝雄『国体について』 (日本大学法文学科報国団学術班,1943.7,昭和17 年日本文化講義講演筆記)がある21).同書の見返し には「本書は本大学顧問山田孝雄博士が昭和十七年 度日本文化講義の一部として法文学科学生の為に述

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べられた講演の筆記を印刷に付したものであつて、 校閲の労までも煩はした博士に対して深く謝意を表 する次第である。昭和十八年七月 日本大学法文学 科報国団文化部学術班長小松雄道」と記載されてい る.同書の発行数や日本大学法文学科で他にも日本 文化講義の講義録が発行されたかについては不明で ある. 3.2 日本文化講義の実施状況の概観―特別講義の徹 底拡充  ここでは日本文化講義の実施状況を概観してみた い.2.1で述べた通り,日本文化講義の実施により 特別講義制度は廃止となったが,日本文化講義につ いて教学局は『第七十六回帝国議会説明材料』の中 で「本制度ハ従来官立高等学校・大学予科(昭和五 年度ヨリ)官立専門・実業専門学校・高等師範学校 (昭和六年度ヨリ)ニ実施シ来リタル特別講義制度 ヲ更二徹底拡充シタルモノナリ」22)と説明していた. 具体的にどのように「徹底拡充」されたのであろう か.  特別講義制度は昭和 5 年度に始まったが,直轄諸 学校の全てがこの特別講義を実施した訳ではなかっ た.2.1で見た通り,特別講義の実施校は年々増え ていったが,昭和10年度でも58校であった.しかし, 日本文化講義は開始年度である昭和11年度に80校の 直轄諸学校で実施されており,特別講義から日本文 化講義になって実施が「徹底拡充」されたことがわ かる.例えば名古屋高等商業学校は小樽,長崎,山 口などの高商が特別講義を実施していたにもかかわ らず,(理由は不明ながら)1 度も実施しなかったが, 後述する通り日本文化講義は昭和20年度まで毎年度 実施している.  また,特別講義では官立の高等学校,専門学校, 実業専門学校,高等師範学校,大学予科が実施対象 であったが,日本文化講義では帝国大学,官立大学 が対象に加わり,更に公立・私立の大学や高等学校・ 専門学校も事実上対象となった.高等学校・専門学 校等から最高学府である大学にまで対象が拡充され ることになったのは,もちろん昭和10年の 2 度にわ たる「国体明徴声明」の発表や教学刷新評議会の設 置など,「天皇機関説」問題に端を発した学問統制 の本格化や教学刷新の推進が背景にある.日本諸学 振興委員会の設置が大学での研究内容にまで文部省 の統制が及んできたことを象徴するとすれば,高等 学校などの直轄諸学校だけでなく大学においても日 本文化講義の実施が求められたことは,大学教育の 中身にも文部省の統制が及んできたことを象徴して いる.  講義の目的については特別講義と日本文化講義の 間で実質的に大きな違いはなかった.ただ敢えて言 えば,特別講義では,思想問題や社会問題等に関し て中正穏健な識見と批判力とを養わせ,外来思想に のみ傾注することを避けるというものであったが, 日本文化講義ではより積極的に日本独自の学問,文 化に関する十分な理解体認,という点に重きが置か れていた.そもそも「特別講義」というようなある 意味であいまいな名称ではなく,「日本文化」を前 面に出した講義名にした点で,日本文化講義は日本 独自のものをより重視する方向で特別講義から一段 と徹底が図られたものとみることができる.  文部省・教学局作成の「日本文化講義実施状況一 覧」を使って,昭和11年度から15年度までの実施状 況を学校の種類別に見てみると,表−4・5 のよう になる.後述するように,日本文化講義を実施して も文部省・教学局作成の「日本文化講義実施状況一 覧」には掲載されていないことがあるため,各校の 日本文化講義の実施状況を網羅したものではない. 表−4 日本文化講義の実施校数 表−5 日本文化講義の実施回数(講師延べ数) (注)昭和14年度の日本文化講義実施状況一覧は抄録のため, 括弧書きで示した.同じ講師が同一校でN日続けて講 義したような場合はN回でカウントしている. (資料)文部省思想局『思想時報』第 6 輯,教学局『教学局時 報』第 2・4・7 〜 9 号,「昭和13年度日本文化講義 実施状況一覧」,教学局指導部指導課「[昭和14年度] 日本文化講義実施状況一覧(抄録)」,「昭和15年度 日本文化講義実施状況一覧表」23)  表−4・5 を見てみると,昭和11年度においては 年度途中からの開始となったこともあり,合計97校 で375回(=講師延べ数)の実施回数にとどまったが,

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昭和12年度は合計98校で574回の実施回数と大きく 拡大した.しかし,昭和13年度は実施回数は348回 に激減した.これは教学局の「日本文化講義実施要 綱」で示された年間の講義数が昭和13年度から官立 大学が 3 回に,直轄諸学校が 4 回となり,ともに前 年度より 1 回減ったことが主として影響したものと みられる.ただし,減少の度合いがこの影響以上の ものになっており,教学局側の集計に関する事情も しくは各校で日本文化講義を所定の回数分実施する のに困難な事情があったことなどが考えられるが, 真因は不明である.昭和15年度は直轄諸学校での講 義数がさらに 3 回に減ったことが影響したのか,合 計97校で248回の実施となり,昭和12年度の 4 割程 度の実施にとどまった.  昭和16年度以降の日本文化講義の実施状況につい ては文部省・教学局作成の「日本文化講義実施状況 一覧」の存在が確認できないため,3.1で述べた通 り各実施校(あるいはその後身校)に残された関係 書類に当たるか,あるいは学生新聞の記事や各校の 自校史類に当たるしかない.一部の学校では終戦後 もしばらくは日本文化講義の実施があったことを確 認できる.例えば,『金沢大学50年史』通史編には 昭和20年11月26日に(旧制)金沢医大で京都帝大教 授・高田保馬による「新シキ日本ノ進路」という演 題の日本文化講義が実施されたことが記述されてい る24).また,後述する通り,名古屋高商でも昭和21 年 3 月16日に日本文化講義が実施されていた. 3.3 大学における実施例  昭和11年 7 月22日の文部省からの通牒で実施を求 められた日本文化講義に対して帝国大学や官立大学 等がどのように受け容れ,実施していったかについ てはこれまであまり言及されてこなかった.ここで は学生新聞等の利用により日本文化講義の具体的実 施例を考察する. (1)東京帝大の場合  東京帝国大学は昭和11年度に関しては日本文化講 義の実施を見送った.すなわち,文部省の昭和11年  7 月22日の通牒に対して「大体本件実施要綱ヲ其儘 ニテハ施行シ難ク、大学独自ノ立場ヨリ実行シ得ル 対案即チ綜合大学ノ実ヲ挙クル為メ人文科学自然科 学相互一層ノ接触ヲ計リ、講演其ノ他ノ方法ニヨリ 其ノ目的ヲ達成」できるという趣旨で文部省に回答 し,11月中に了承を得たとのことである25).文部省 の通牒に関して同年 9 月29日の評議会の場で議論さ れたが,経済学部長の河合栄治郎が「此種ノ事項カ 繰返サルルニ従ヒ、遂ニハ大学ノ組織機構ニ干渉ノ 端ヲ開キ、延テハ大学ノ自治自由ニ迄重大ナル影響 ヲ及ボスヤモ計難ク」26)と危惧を表明するなど,東 京帝大では日本文化講義に対して総じて消極的で あった.  東京帝大総長長与又郎は昭和11年12月 2 日に文部 省専門学務局長伊藤延吉と会見した際に,日本文化 講義のための委員会を設ける方針を示し,これを受 けて評議会は12年 3 月 2 日に「教養委員会」の設置 を決定した.ただ,東京帝大が教養委員会を設置し た狙いは決して文部省から通牒のあった日本文化講 義の実施を第一に考えてのことではなかった.東京 帝大は昭和10年の農学部の本郷移転で総合大学の実 態を備えたことから,学生の教養涵養のためにこの 総合大学の体制を活かした全学的な講義の実現を目 指していた.教養委員会設置の真意はむしろこうし た全学的な教養講義をどのように実現していくかと いうことにあった.  昭和12年 3 月 1 日付けの『帝国大学新聞』27)に長 与総長の談話が次の通り掲載されている.「この度 の教養委員会は非常に広汎なもので学生の教養を中 心として、なるべく根本的な事を積極的に、そして 恒在性のあるものとしてやつてゆく、人文、自然両 科学の綜合的な教養を学問の本質から研究してゆく のである、だから日本文化講義はこの一部にすぎな い」.長与総長の言葉にある通り,東京帝大にとっ て日本文化講義は総合的な教養教育という観点から は単なる一部に過ぎなかった.更に同紙は「「文化 講義」の難点」という見出しの下,次のように報じ ている.「この『日本文化講義』は教育の本義から 見て余りに狭量なる制度にすぎず、而もその中には 政治的圧力によつて純粋なるべき『教育』を左右せ んとする意図も含まれてをり、しかのみならず本学 としては当時既に『教養委員会』を設立の意見も台 頭した際とて日本文化講義実施の必要を認めず、昨 年九月の評議会の結果この旨を文部省宛に報告した ものである、而してこの文部省の『日本文化講義』 要〔ママ〕項は大体左の如くであるが本学として採用するに は幾多の難点があつたものと見られる。〔日本文化 講義要綱の引用省略〕日本文化講義の要 〔ママ〕 項は大体右 の如くであるがこの中、学問の本質は人文、自然両 科学併行して理解さるべきものでありながら特に講 義内容を一方的に規定してゐること講師選定に当た

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つて大学側は文部省と合議して決定すること、必須 科目に準じて必ず学生の出席をなさしむること、講 義を速記録にとり思想局長宛に提出することの四点 は特に学問の本質と大学の自治を冒涜するものとし て、本学にあつてはこの講義を施行する必要なしと 評議会に於て決定したものと見られる」.東京帝大 が昭和11年度に日本文化講義の実施を見送ったのは 学問の自由,大学の自治といった理念からこうした 押しつけ講義は不要であり,到底受け容れ難いもの であるという判断以外の何物でもなかった.  日本文化講義に対する東京帝大の受け止め方は昭 和12年 5 月17日付け『帝国大学新聞』に掲載された 同年 5 月12日開催の第 3 回教養委員会の記事でも推 し量ることができる.同紙は講演会等について「日 本文化講義の偏倚した難点を克服した本学独自の学 生教養涵養方法が具体化されるものと見られる」と 報じている.東京帝大が日本文化講義の他大学での 実施動向をどの程度まで捕捉していたかは不明であ るが,少なくとも日本文化講義を偏ったものとして 捉え,文部省が言うままに実施するのは困難なもの とみていたことがわかる.  しかし,東京帝大も日本文化講義を全く実施しな い訳にはいかなかった.『教学局時報』第 7 号に掲 載された「昭和十二年度日本文化講義実施状況(三)」 には東京帝大での実施状況も記載されており,それ によると医学部で 2 回,工学部で 1 回,法学部で 2  回,文学部で 2 回,農学部で 2 回,理学部で 6 回, 経済学部で 1 回,そして全学実施のものとして 4 回, 合計20回の日本文化講義が実施されていた(表−6  参照).昭和12年度の日本文化講義に関する通牒で は2.2で述べた通り,帝国大学に関しては講師の学 内登用を求める文言は無くなっていたが,実際12年 度の東京帝大の日本文化講義は20名の講師中東京帝 大の現役・退職の教官は 3 割の 6 人にとどまってい た.この学内登用の低さは日本文化講義への学内の 抵抗あるいは消極的受容が一部反映した可能性があ る.  昭和12年10月11日付け『帝国大学新聞』は「映画 をも動員して時局認識を徹底化」という大きめの見 出しを付けて,教養委員会での決定事項を次のよう に報道した.「本学に於ては国民精神総動員運動実 行の具体案として学生に時局の重大性並びに局認識 を徹底させるため本学としては主として学術的方向 をとり、政治、経済、軍事その他各方面の専門家を 学生課及び各学友会が主体となつて選択しその強化 を主眼とする学生の教養一般の向上を計ることに決 定し更に時局講演会開催と並行して映画を活用、ニ ユース映画を初め有意義な記録映画を続々上映し積 極的に時局認識の徹底強化策に資することゝとなつ た[。]尚日本文化講義は今春来数回に亘つて行は れてゐるが28)今後は時局認識に重点を置き講義題 目、講師は凡てこの基幹に副ふて採択することによ り時局性を鮮明化することゝなつた」.この記事で は時局講演会の予定プランとして34の演題・講師が 記載されている.しかし,そのうち教学局作成の 「昭和十二年度日本文化講義実施状況(三)」に掲載 されているのは,新城新蔵「事変下ノ上海」,青木 一男「北支ノ経済」,坂口康蔵「国力増進ト医学知 識ノ普及」,田辺尚雄「日本音楽ノ変遷」,畠山久尚 「我ガ国ニ於ケル地磁気研究ノ最近ノ進歩」の 5 講 義だけであり(このうち新城と青木の講義に関して は『帝国大学新聞』で比較的詳しく講義内容が記事 になっている),時局講演会のごく一部のみが日本 文化講義として教学局に報告されたものとみられ る. 表−6 東京帝大における日本文化講義 ᫓ ࿰ 㻔㻕ᖳ ᗐ 㻔㻖ᖳ ᗐ 㻔㻘ᖳ ᗐ (資料)表−4・5 に同じ

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 昭和12年度に東京帝大で実施された日本文化講義 の中には『帝国大学新聞』で記事として取り上げら れなかったものが多く,主催者や内容が分からない ものも散見される.同紙の記事で判明するのは,次 の通りである.医学部で行なわれた永井潜「北京ニ 於ケル大学及研究所ニ就イテ」は鉄門倶楽部主催, 農学部で行なわれた有馬頼寧「革新政策ト農村問 題」及び鈴木梅太郎「満州ヲ語ル」は紫友会主催, 理学部で行なわれた徳永重康「ソビエートノ最近ノ 状勢ニ就イテ」は理学部会主催,全学で行なわれた 石本己四雄「日本人ハ地震ヲ如何見タカ」は学生課 主催であった.「官製講義」とも言うべき日本文化 講義に元来,否定的,消極的であった東京帝大が学 術的方向を採ると言いつつも,教養主義的な講義に せず,主に時局講演会を利用することにしたのは, 昭和12年 7 月の日中戦争(支那事変)開始によって 出てきた国民精神総動員運動に東京帝大としても協 力せざるを得なかったという苦渋の決断があったた めと思われる.  『教学局時報』第 8 号所収の「昭和十三年度日本 文化講義実施状況一覧(一)」には東京帝大全学で 10回,医学部と農学部で各1回,文学部で 2 回と合 計13回の実施が記されている(表−6 参照).この うち,8 回は学内教授や学生主事が講師となってお り,学内講師登用の比重は昭和12年度の30%から13 年度は61.5%へと一気に高まった.『帝国大学新聞』 の記事になっていない講義もいくつかあるが,農学 部は紫友会,文学部は学友会の主催となっている. 全学での日本文化講義については 5 月 7 日の今井登 志喜「チエツコスロバキヤノ立場」と東畑精一「日 本農業ノ特徴」は総合学術講演会で実施されたもの であり,その他のものも含めてそのほとんどが学生 課の主催となっていた.学内講師の登用比率が高ま り,学生課主催の講義が多くなった確たる理由はわ からないが,このこと自体が東京帝大としても日本 文化講義を(積極的ではないにせよ)他大学並みに 受容していったことの現れと言えるかもしれない. ただ,教学局に対して日本文化講義として実施報告 がなされた講演であっても,『帝国大学新聞』には 日本文化講義として実施された旨は一切書かれてお らず,学内では「日本文化講義」の名称を使用する ことに抵抗があった可能性も考えられる.  昭和14年度の「日本文化講義実施状況一覧(抄 録)」には東京帝大での実施状況の記載がないため, 実際に日本文化講義が実施されたかどうかの確認は できない.ただし,この年は 5 月 6 日に総合学術講 演会が,また 4 月18日,5 月 2 日,9 日,30日と 4  回にわたって新東亜文化講義が催されており29),特 に新東亜文化講義は学生課の主催であることからも 教学局には日本文化講義と報告して開催された可能 性はある.  昭和15年度の日本文化講義のうち(表−6 参照) 佐々木信綱「新しき命うまれむがため」は総合学術 講演会の講義であり,昭和15年 5 月16日付けの『帝 国大学新聞』で大きく報じられていた.伍堂卓雄 「東亜新秩序と技術者の使命」と浅川武磨「大日向 村の分村—農村更生生の体験」はいずれも学生課の 主催であったことが『帝国大学新聞』の記事で確認 できるが,出光万兵衛「大御心を仰ぎ奉りて」と仁 科芳雄「列国科学の趨勢」については『帝国大学新 聞』で記事を確認できないため,詳細は不明である. 昭和16年度以降の東京帝大における日本文化講義に ついては,3.1(1)で述べた通り,文部省・教学局 作成の「日本文化講義実施状況」は16年度以降分の 存在が確認できず,また16年以降の『帝国大学新聞』 には「日本文化講義」の記事がないため,実施状況 を掴めない.  『帝国大学新聞』で報じられた記事の大きさを見 ても,東京帝大で日本文化講義がさほど重んじられ ていたとは思えない.東京帝大が力を入れたのは日 本文化講義ではなく,昭和15年 4 月15日から開講し た「全学講義」であった.この講義は文科学生に自 然科学的知識を,理科学生に人文科学的知識の注入 を計ることで総合大学の質を上げることを狙うもの であり,人文科学講義と自然科学講義に分かれてい た.「全学講義」という名称は昭和15年 3 月 5 日の 教養委員会で決定された.  この教養委員会で決まった全学講義の大綱には, 「学生ノ聴講ヲ誘導スル方法トシテハ帝国大学ノ名 ニ於テ学生一般ニ出席聴講スヘキ旨ヲ告示シ、各学 部時間割ニモ之ヲ入ルルト共ニ学校当局自身カ本講 義ヲ大イニ尊重スル熱意ヲ示サヽルヘカラサルコ ト」30)と記されており,東京帝大の全学講義に対す る力の入れ具合が強かったことを読み取れる.昭和 15年 3 月30日付け『帝国大学新聞』は教養委員会 の今井委員長談を載せている.「この講義の計画は 七八年前からして居たものですが漸く開講となつて その成果は大いに期待してゐます、要旨は一口に云 へば綜合大学の実を挙げるにあるのですが日本文化 講義よりも一層自由に駆使出来ますし内容も普通の

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講義の程度で充実した講義と云へませうね、今回は 委員会、各学部間だけでまとめましたが今後は学生 諸君の意向も大いに聞きたいと考へてゐます」.日 本文化講義よりも全学講義を重視する姿勢が東京帝 大にあったのは間違いなさそうである.昭和15年度 の全学講義の講師と論題は表−7 の通りであった.  昭和15年 4 月22日付け『帝国大学新聞』は全学講 義の第一講について報道しているが,超満員の盛況 振りで理系は1,206人,文系は541人の聴講者があり, 立見にも加われなかった聴講不能が500名出たと伝 えている. 表−7 東京帝大の全学講義(昭和15年度) (資料)東京大学百年史編集委員会編『東京大学百年史』通 史二(東京大学,昭和60年)  昭和15年度の全学講義の中には演題からみて日本 文化講義として実施しても通用する講義もあった が,表−6 と表−7 を照合すればわかる通り,15年 度に実施した全学講義は少なくとも教学局に実施報 告された日本文化講義ではない31)『東京大学百年 史』の中でも全学講義に比べると,日本文化講義の 言及はかなり少ない.東大の歴史の中で全学講義の 前に日本文化講義は霞んだ存在であると言えるが, そのこと自体に東京帝大における日本文化講義の扱 われ方を見ることができる.  なお,全学講義は昭和16年度も実施されたが,17 年度は学年臨時措置による学年短縮のため中絶し た.18年度は復活したが,19年度は「一時休講」と することになり,以降未開講になった32) (2)京都帝大の場合  昭和11年度は日本文化講義の実施を見送った東京 帝大とは異なり,京都帝国大学では11年度から実施 した.まずは学内の教授による他学部への出講とい う形態での実施であった.表−8 の通り,法学部の 牧健二が工学部で,経済学部の神戸正雄,作田荘一, 本庄栄治郎がそれぞれ文学部,法学部,理学部で, また文学部の田辺元,野上俊夫,西田直二郎がそれ ぞれ経済学部,医学部,農学部で講義を行っている.  京都帝大では昭和12年度も例えば工学部で経済学 部教授の谷口吉彦が「日本経済ノ特殊性ト優秀性」 の演題で講義したように,11年度と同様に各学部で 他学部からの教授による日本文化講義が行なわれ た.つまり,昭和11,12年度と京都帝大の日本文化 講義は100%自前の講師で実施され,11年度の「日 本文化講義実施要綱」で文部省が求めた講師登用の 仕方に添ったものであった.この点でも(1)で見た 東京帝大とは大いに異なる. 表−8 京都帝大における日本文化講義 ᫓ ࿰ 㻔㻔ᖳ ᗐ 㻔㻕ᖳ ᗐ 㻔㻖ᖳ ᗐ (注)学部欄の「日本」は日本文化研究会,「指導」は指導 講演座談会を示す. (資料)表−4・5 に同じ  しかし,当時の学生新聞である『京都帝国大学新 聞』33)は昭和11年度の日本文化講義については開催 予定を記事にしたものの実際に行なわれた講義その ものについては一切報じなかった.昭和12年度の日 本文化講義については開催予定すら報じておらず, 学内での反響は大きくなかったものと推測される.  その日本文化講義を『京都帝国大学新聞』が大々 的に取り上げることになるのは昭和13年度からであ る.この年度より日本文化講義は「月曜講義」とい う名称で実施されることになった.当時の京都帝大 には「金曜講義」と呼ばれる講義が定着していた. これは「総合大学の実を示す特別講義の復活」34)

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あり,昭和 4 年 5 月17日から総合大学の性質を発揮 して一般学生が興味を抱くテーマで行なう特別講義 として文字通り金曜に開かれていた.京都帝大はこ の金曜講義の実施を続けながら昭和13年度に月曜講 義を開講したのである.  日本文化講義を「月曜講義」という名前で実施す ることを決めたのは文学部教授で学生課長の天野貞 祐であった.昭和13年 5 月 5 日付けの『京都帝国大 学新聞』に天野学生課長の談話が掲載されている. 「従来各学部で行つてゐた日本文化講義を今度一つ に纏めて行ふことにしました。学生に自由に聴講さ せなほ席に余裕のある場合には学外有志の聴講を許 します」.天野はかつて留学した南ドイツの学都ハ イデルベルクと同じように京都市も大学都市として 市民の教養程度が他の都市よりも高くならなければ ならないと考えていた.天野は次のように言う.「私 は精神科学と自然科学とに関して各々公開講座を設 け学外男女有志の聴講を許して大学の延長を計り度 い願望を懐いてをりますが、差当りその第一歩とし て先づこの日本文化講義を事情の許す限り公開する 次第であります。なほこの講義は月曜日に開くこと とし「月曜講義」と名づけることに致しました」.  京都帝大の月曜講義の実施に関して確認できた のは表−9 の通りである.第 1 回目は西田幾多郎の 「日本文化ノ問題」であり,昭和13年 4 月27日の午 後 7 時から京都帝大法経第一教室で開催された.西 田の後は文学部助教授・高山岩男「文化類型学ノ概 念」,文学部教授・植田寿蔵「日本芸術ノ特質」,元 京都帝大教授・天沼俊一「日本ノ建築」が月曜講義 として開講された.  月曜講義の立役者とも言える天野は昭和14年 1 月 14日付けで学生課長を辞したが,月曜講義の精神は その後も引き継がれた.昭和14年度以降は共通テー マが設定され,14年度が「遺伝の話」,「万葉講座」, 「音楽講座」,15年度が「支那問題」と「東洋文化」, 16年度が「日本文化と仏教」,17年度が「日本文学 の思想的芸術的様相」,18年度が「大東亜建設の理 念」であった.このうち,昭和18年度の共通テーマ 「大東亜建設の理念」はかなり時局に合致したもの になっており,同年度開催された日本諸学振興委員 会の哲学会や歴史学会の研究発表主題が「大東亜ノ 文化建設ト哲学」や「大東亜ノ文化建設ト歴史学」 であったことを踏まえると,この時の月曜講義が当 時の時代的雰囲気に大きく影響されていたものであ ることがわかる. 表−9 京都帝大の月曜講義 ᫓ ࿰ 㻔㻖ᖳ ᗐ 㻔㻗ᖳ ᗐ 㻔㻘ᖳ ᗐ 㻔㻙ᖳ ᗐ 㻔㻚ᖳ ᗐ 㻔㻛ᖳ ᗐ 㻔㻜ᖳ ᗐ 㻕㻓ᖳ ᗐ (資料)京都帝国大学新聞社『京都帝国大学新聞』,京都帝 国大学庶務課『学報』2391号(昭和17年10月14日), 京都大学大学文書館所蔵「学友会関係資料」(識別 番号:学友会−35−10,学友会−35−100,学友会−35 −107)  『京都帝国大学新聞』の記事で月曜講義を確認で きるのは昭和18年度までだが,『京都大学百年史』 には「この月曜講〔ママ〕座は、その後敗戦の色濃い昭和20 年7月(主題:鎌倉時代の精神史的考察)まで続け られた」35)と記されており,月曜講義は終戦直前ま で実施されたことが確認できる.ただ,『京都大学 百年史』では日本文化講義ないしは月曜講義につい て詳細には言及しておらず,昭和19・20年度の月曜 講義についても講師や演題に関する記述はない.  昭和19年度の月曜講義については,村田治郎『東 洋の建築』(学生部叢書第十編,京都帝国大学学生 部)のあとがきに相当する京都帝大学生部による文

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章(昭和20年11月)に「昭和十九年度学生課主催の 「月曜講義」は「東洋文化の性格」を主題として開 講せられた」36)との記述がある.また,京都大学大 学文書館所蔵の「学友会関係資料」の中に含まれて いる「月曜講義関係ノ件伺」という日付不明の文書 (同文書館の識別番号:学友会−35−10)には「学生 課主催月曜講義(続編)左案ノ通開催相成可然哉」 とあり,表−9 で示した村田治郎と久松真一の演題 が記されている.昭和19年度については「東洋文化 の性格」を主題として月曜講義が実施されたのはま ず間違いないとみてよいが,詳細については不明で ある.  昭和20年度の月曜講義に関しては,同じく京都大 学大学文書館所蔵の「学友会関係資料」のうち,昭 和20年 5 月29日起案の文書「月曜講義開講案内状発 送ノ件」(識別番号:学友会−35−100)と同年 6 月  6 日起案の文書「月曜講義追加案内ノ件」(識別番 号:学友会−35−107)で実施予定日・講師・演題を 確認できる(表−9 参照).  昭和13年度の月曜講義が日本文化講義として行な われたことは間違いないが,14・15年度の月曜講義 については教学局作成の「日本文化講義実施状況一 覧」には記載がなく,これを見る限りでは文化講義 として実施されたかどうかは不明である.また,昭 和16年度以降の月曜講義も日本文化講義として実施 されたかどうかの確認はできない.  ただ,『京都帝国大学新聞』の記事を見ると,昭 和14年度については「新学期を迎へて文化講義大い に振ふ」との見出しで報じられ(昭和14年 9 月20日 付け),少なくとも「万葉講座」については『万葉 集について』(学生課叢書第 9 編,岩波書店,昭和 18年)の序に学生課主催の日本文化講義である旨が 書かれているので日本文化講義として実施された ことは間違いないだろう37).昭和15年度についても 『京都帝国大学新聞』の記事に「学問の解放、大学 と市井との文化の交流としてつとに好評を博して居 る本学の文化講義第二学期のプランは」(昭和15年 10月20日付け)とあり,また16年度についても「今 秋第二回の文化講義は」(昭和16年10月20日付け) とあることから,少なくとも昭和14〜16年度の月曜 講義は日本文化講義として実施された可能性が高 い.  前述の通り,昭和11・12年度の日本文化講義は 『京都帝国大学新聞』での扱いがほとんどなく,注 目度は低かったとみられるが,これとは対照的に月 曜講義に対する注目度は非常に高かったようで,ほ とんどの講義が『京都帝国大学新聞』で記事として 採り上げられていた.特に昭和13年度の西田,高 山,植田の講義と18年度の「大東亜建設の理念」の 各講義については要旨を伝えるためにかなりの紙面 が割かれていた.  月曜講義の特徴を表−9 で示した昭和13〜20年度 の判明分についてみてみると,まず学内講師の比率 が高く自前主義の傾向が見られることを指摘でき る.すなわちこの間の講義担当者延べ46名中,退職 者(名誉教授・元教授)も含めると学内の講師は34 名となり,73.9%の比重になる.また,分野でみて みると,自然科学の内容は昭和14年度の「遺伝の話」 の 2 回だけであり,昭和13年度の「日本ノ建築」、 19年度の「東洋の建築」を含めても理科系分野は 4  回しかなく,大半が文系分野の講義であった.講師 の所属学部としては文学部が圧倒的に多く,哲学, 文学,歴史,芸術分野の内容がほとんどであった. 自然科学分野での全学的な講義は「金曜講義」で行 なっていたため,月曜講義は人文科学分野に特化し たものとみられる.しかも,同じく文系の法学部, 経済学部からの講師登用はゼロであり,社会科学的 な内容の講義は全く行なわれなかった.昭和18年度 の「大東亜建設の理念」を除き,時事的な内容の講 義はほとんどなく,京都帝大の月曜講義はまさしく 日本文化講義の名にふさわしいものであったと言え よう.  なお,昭和15年 2 月26日付け『帝国大学新聞』は「円 満な知識養成へ 特別講義を開講」という見出しで 新学期より特別講義(全学講義)を行なうことを決 めた東京帝大評議会での決定事項を報じているが, その記事中には「大体曩に京大に於て好評を呼んだ "月曜講義"を拡大したものになるとみられ」とい う記述がある.これは月曜講義が哲学・文学・歴史・ 芸術分野に限られていたことを受けていると思われ るが,恐らくは東京帝大が昭和15年度から開始した 「全学講義」は学内からの講師登用という自前主義 や全学対象という点でも,京都帝大が既に13年度か ら始めていた月曜講義を十分に意識したものであっ たとみられる.  昭和15年 6 月に岩波書店から刊行された田辺元 『歴史的現実』のはしがきには次の通り書かれてい る.「本書は昭和十四年五月十日から同年六月十四 日までの間に前後六回に亙る京都帝国大学学生課主 催の日本文化講義に於て田辺元先生のなされた御話

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を速記し、教学局の許諾を得、先生に請うて上梓し たものである」38).京都帝大学生課作成の昭和14年 の諸行事表には日本文化講義(月曜講義)として, 「万葉講座」とともにこの田辺の「歴史的現実」が 書かれている.しかし,田辺のこの講義は「月曜講 義」としてではなく「水曜講義」として実施された. 水曜講義は昭和14年 3 月 5 日付け『京都帝国大学新 聞』によれば14年度に「文化教養への一施設として」 学生課によって新設された講義であった.月曜講義 は一般に公開されていたが,水曜講義は学内のみが 対象であり,その第 1 回目が田辺元の「歴史的現 実」であった.水曜講義が昭和15年度以降も実施さ れたかどうかは不明である.ただ,田辺のこの水曜 講義も昭和14年度の「日本文化講義実施状況一覧(抄 録)」には記載されていなかった. (3)東京商大の場合  官立大学である東京商科大学で実施された日本文 化講義について文部省・教学局作成の「日本文化講 義実施状況一覧」で確認できるのは昭和11年度と12 年度の 2 年分にとどまる.  昭和11年度については表−10の通り,日本文化講 義は学部で 3 回,予科で 4 回,附属商学専門部で 4  回実施された.昭和11年度の日本文化講義について 東京商大の学生新聞『一橋新聞』39)は短い記事なが ら報じている.まず,昭和11年11月 9 日の記事では 「日本文化講座 三科で夫々開講」との見出しに続 き「本学における日本精神文化講座は・・・」と既に 実施された講義の講師名,今後の予定を伝えている. また,同年11月23日の記事では「去る十七日(火) 午後一時より本年度最後の日本文化講座の哲学の担 当者、予科石神井時代の講師紀平正美氏が遙々小平 まで足を運び新講堂に全予科生を集め「真理とは何 ぞや」の題目の下に二時間にわたり、日本には哲学 なしと得意の行の哲学を講義し予科生を唖然たらし めた」と報じた40).国民精神文化研究所員の紀平は  3 科のいずれにも出講していた.  昭和12年度については表−10の通り,学部で 8 回, 予科で 3 回,附属商学専門部(商業教員養成所を含 む)で 4 回と,合計15回にわたり日本文化講義が実 施されたが,これらのうち,学部で行われた測候技 術官養成所講師加茂儀一による「家畜史ヨリ見タル 欧亜古代文化」は昭和12年 6 月28日付け『一橋新聞』 に予告記事が出ている.また,予科で行われた帝国 芸術院会員石井満吉の「世界ニ於ケル日本ノ美術」 は同年10月10日付け記事で「予科に於ては秋の文化 講義第一陣に我洋画壇の重鎮石井柏亭氏を迎へ去る 六日午前十時半より講堂に於て「世界に於ける日本 の美術」なる講演を聴講したが、その要旨は左の如 くである」と1500字程度の要旨が紹介されている. しかし,その他の講義に関しては『一橋新聞』では 報道されていない. 表−10 東京商大における日本文化講義 ᫓ ࿰ 㻔㻔ᖳ ᗐ 㻔㻕ᖳ ᗐ (注)文部省・教学局作成の「日本文化講義実施状況一覧」 で確認できるもののみ. (資料)表−4・5 に同じ  昭和11年度は学内からの日本文化講義への講師登 用は一切なかったが,12年度は15回のうち 6 割に当 たる 9 回の講義で学内の教員が講師を務めた41)  表−10に掲げた昭和12年度の東京商大の日本文化 講義に関して特筆すべきは学部で行われた上田貞次 郎,米田実,井藤半弥,猪谷善一,米谷隆三,増地 庸治郎の講義である.これらは「時局特別講義」と 銘打ってなされた「戦時経済講話」の一部である. これについては昭和12年 9 月27日付け『一橋新聞』 が「重大事局に対応して特別講義を連続開講 —全 教授を動員して— 上田学長第一陣を担当」との大 きな見出しの下,次のように報じた.「去る廿日国 立本館会議室において開催された学部教授会は現下 の重大時局に対応し、本学としても全教授を国策遂 行に動員することを決議し、その第一着手として学 内において出来得る限り時局特別講義を続開すると

参照

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