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谷崎潤一郎全集逸文及び間連資料紹介

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Academic year: 2021

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(1)(83). 此 の度 、 谷 崎 潤 一郎 全 集 の逸 文 二点 を新 た に発 見 し た の で、 こ こ に紹 介 し てお く。 な お、翻 刻 の際 、 誤植 等 は そ のま ま と し、 旧漢 字 は新 漢 字 に改 め た。 1 。 ﹃現 代 婦 人 の 服 装 ﹄ ︵ 上︶. これ は、京 都 画 壇 の美 術 雑 誌 国 ホ 美﹂の創 刊号 ︵ 昭和 三年二月十五日発行︶ に掲 載 さ れ たも のであ る。 2号 以 下 は未 入 手 のた め、 残 念 な が ら、 こ の文 章 の続 き は紹. う. 。. L ︵ 上︶. の. 谷  崎   潤. 装. 光. 服装 や頭髪 の流行 は 一種 の勢 であ り生 き た力 であ る。 それは 一国民 の間 に話 され る言語と同僕 にそれ自. 人. 稿 す る事 にな った経 緯 も 、今 の所 、不明 であ る。な お、. 郎. 江. 月 風. 田 糸 婦. 身 で刻 々変化し、発達 し、成長 し て行く、 日本を サク. 介 でき な い。 谷 崎 潤 一郎 が こ の様 な畑違 い の雑 誌 に寄. 代. 文 中 、 ︽鹿 児 島 へ行 つた︾ ︽妹 ︾ は、 せ い子 の事 であ ろ. 現.

(2) (84) 谷崎潤一郎全集逸文及 び関連資料紹介. め 、 そ れ に従 ふ よ り仕 方 が な い、 そ し て多 く の場 合 、. て、 事 実 が斯 う な つて来 た 以上 嫌 でも 応 でも それ を 認. 止 め る こと は 出 来 な い、 わ れ わ れ は 現 在 の流 行 を 見. は 唱 へて見 た と ころ で流 行 と いふ生 き た力 を 到底 喰 ひ. 本 人 や、 又 は 旧弊 な 老 人 な ど が偶 々 ﹁国 粋 保 存 ﹂ な ど. の西 洋 人 や そ れ と 同 一の心 理状 態 に居 る洋 行 帰 り の 日. ラと ゲ イ シヤ、 ガ ー ルの国 だ と 思 つて居 る東 洋 か ぶ れ. ぜ ら れ る。 そし てそ の変 化 は、 従 来 の庇 髪 と か七 三と. 髪 が非 常 に変 化 し た事 は、 恐 ら く誰 の眼 にも著 しく感. さ れ て、 流 行 を形 作 る であ ら う。 此 の頃 若 い婦 人 の頭. し た ら、 それ ら の中 の い ゝ物 だ け が自 然 に 一般 に採 用. が黙 つて自 分 の独 創 に成 る者 を 着 て歩 く が い ゝ、 さう. 改 善 ﹂ な ど を叫 ば な い でも、 め いめ い にし て服装 の ﹁. ︱︱ 新 し い美 を開 拓 され ん事 を 希 望 す る。 何 も声 を大. て、 そ れ を 又斜 め にし た り横 にし た り、 縦 にし たり い. か いふ や う な或 る 一つの型 に歓 つた流 行 ではな く、 め. 今 日わ れ /ヽ は 日常 百 般 の生 活 に於 て、 事 毎 に西 洋. ろ んな 風 に いろんな所 へ挿 し て居 る。 リボ ンの結 び方. いめ いが そ の容貌 に似 つか はし いや う な自 由 な髪 の東. の影 響 を受 け てゐ る のだ か ら︱ ︱ 殊 に物 好 き で新 し い. な ど も さ う であ る、此 れ も 矢 張 り西 洋 人 の影 響 であ る. 自 然 に発 達 し て来 た様 式 こそ は最 も よ く そ の時 の事 情. が り や の亜 米 利 加 の影 響 を 最 も 強 く受 けず には居 ら れ. に は違 ひな いが私 は決 し て或 る人 々が 云 ふ や う にあ れ. に適 し て居 る の で、   一時 は突 飛 のや う に見 え ても 、 新. な い関 係 にあ る のだ か ら、 ひと り婦 人 の服装 ば か り が. を 日本 服 に不 調和 だ と は感 じ な い。電 車 の中 で ﹁お や﹂. ね方 を す る。 櫛 の形 にも 恐 ろし く大 き い のや小 さ い の. そ れ の埓 外 に立 つて居 ら れ る訳 はな い。 だ か ら私 は め. と 思 ふ や う な美 し い人 に乗 り合 せ ると、 い つも さう云. し い美 と新 し い真 と が や が て其 処 か ら生 れ出 るも の で. い/ヽ の婦 人 が、 ︱ ︱ 殊 に妙 齢 の婦 人 たち が自 分 の顔. ふ婦 人 た ち が髪 の結 び振 り の巧 者 にな つた の に感 心 す. や、 三角 四角 、 そ の他 いろ/ヽ 不 正 形 を し た のがあ つ. だ ち や体 つき に適 し て居 ると 思 ふ も のな ら ど し /ヽ 何. る。 東 京 は 田舎 に比 べ て美 人 が多 いと 云 ふ のは、 服装. あ る。. 処 の国 の風 俗 でも 採 用 し て新 し い試 み を さ れ ん 事 を.

(3) 光 江 細. (85). 美 人 と は云 はれ な い のが多 いだ け れど も、髪 の毛 を好. の ではな い。  一つ 一つの目 鼻 立 ち を検 べると、 決 し て. 彼 等 は必 ず し も 田舎 の婦 人 よ り顔 だ ち が優 れ て居 る. へる此 の頃 の都 会 の女 子 の顔 は十 年 も 前 と は大 分 違 つ. も、 お で こにも お多福 にも独 得 の美 を発 揮 す る道 を教. は円 ぼち や の顔 にも、 鼻 の低 い人 にも 国 の大 き い人 に. つゝあ る のは確 に結髪 法 の進 化 し た結 果 であ る。 それ. 婦 人 には似合 はな いも のだ と 云 つてよ い。 東 京 に美 人. き な方 へ好 き な部 分 だ け き ゆ つと引 つ詰 め たり、 ゆら. て来 て居 る や う だ。 此 の間 私 の妹 が 鹿 児 島 へ行 つた. の関 係 も あ るだ ら う け れ ど、 主 と し て髪 の東 ね方 の巧. ノヽ と弛 ま せ て浪 打 た せ た り、 そし てそれを東 ね る の. ら、 洋 服 を着 て居 た訳 でも な い の に西 洋 人 と間 違 へら. が 多 く 眼 に つく や う な 女 の数 が だ ん/ヽ 殖 え て行 き. にも 円 錐 形 に高 く し て見 た り、 それを ぐ つと後 の方 へ. れ た と 云 ふ話 だ つたが、 実 際 都 会 と 田舎 と は そ の位 な. な せ い ではな いか と 思 ふ。. 反 ら し て見 た り或 は幾 つつ の小 さな低 い東 にし たも の. 相 違 があ るか も知 れな い。. る。 私 は必 ず し も 日本 在 来 の結 髪 法 を 排 斥 す る の では. 都 会 の婦 人 に ふ さ は し い、 智 慧 と 技 巧 の美 し さ が あ. る。 昭和 三年 十 一月 号 と十 二月 号 の ﹁ 編 輯 を終 へて﹂. 昭 和 四年 一月 号 ︵ 塞 二年第 一号︶に掲 載 さ れ たも の であ. これ は、 松 崎 天 民 が主 宰 し て いた雑 誌 ﹁ 食 道楽 ﹂ の. 2 . ﹃食 味 漫 談 ﹄. を いろ いろ に組 み合 せ て見 た り それら の技 巧 で頂 部 や 額 や頬 や襟 足 の面 積 に思 ひ切 つた変化 を与 へそ こに 一 種 の清 新 な美 し さ を 生 み出 す や う に、 実 によく 工夫 し. な いが、 似合 ふ人 に は そ れ を決 し て悪 い趣 味 だ と は思. によ れば、 当 初 は十 二月 号 に掲 載 予 定 だ った が、 間 に. てゐ る。 そ こには容 貌 の美 し さ が あ ると共 にいか にも. はな いが、 し か し島 田 や丸 髯 は所 謂浮 世 絵 風 の美 人 で. 合 わ な か った為 、新年 号 に廻 さ れ た の であ る。. ﹃ 蓼 喰 ふ虫 ﹄連載 開始 頃 のも のだ け あ って、茶 粥 と梅. な け れ ば似合 はな い のだ か ら、 大 体 か ら 云 つて︱︱ さ う いふ美 人 はさ う沢 山 居 る筈 が な いか ら︱︱ 大 多 数 の.

(4) 食 物 の郷 土 芸 術 ︾を 言 う あ た り、美 佐 子 の 干 に凝 り、︽. ことをかれ これ云ふのはよくな いことだ。さうかと云. とだらうし、人 にはめいめい好き好きがあるので、自 た み 鋭ずん の競味を兇 て他ん の場判 に新割を魔ぼすやうな. 前 に文 芸 春 秋 に書 いた︾ も のは、 大 正 な お、 文 中 ︽. 父 と の類 似 が興 味 深 い。. 支 那 料 理第 一日 十 二年 八 月 号 の ﹃上 方 の食 ひも の﹄、 ︽. 潤. れ てもあまり気が進まないのだが、全体も のゝうまい. りと楽しむ のがいゝので、大びらに通をふり撒くのは き都 ょこ ゐ 己 鵬 に選数 の齢意 に則する。かたがた据熙言 を寄越さ. つて褒たくないも のを褒めたりし て宣伝 に利用される のも感心しない。それに食 道楽 のも のはひとりこ つそ. 本 料 理 第 二西洋 料 理 第 二 と書 いた︾ のは、 同年 同月 号 ﹁随 筆 ﹂ の ﹃ 洋 食 の話 ﹄ であ る。 ︽欧 羅 巴 を 食 つて来 ︾. 崎. た ︽友 人 ︾ は、 津 島 寿 一であ ろ う か。. 食 味 漫 談 谷. まづ いは人 によ つて違ふばかり でなく、年齢 によ つて く もに射齢 つて来ると腱ふ。縛デ ど二十億と年とを﹂ べ き L つくoか つて研 るとだんだん齢 つて来 てゐることに一 こ り し し り し じ ︲ かの雑誌 へ自殖 の嗜嬌は支ル精理第 一日村精理第二猷. になりかけてゐる。そして西洋料理 にはますます縁が み こ ゅ 嵐 て行 。此 %町 縛け だ足 一群ど だ耐味段 の な つ く く き く み 離 競味 な を じうす生栗が腐郡レを食 つて来 てL靴に ﹁. 洋料理第二と書 いたことのあるのは つい二三年前なの こ し り り ︲ だが、それがもう鏡脱では日村糟理第 一支ル糟理第二. つた時 に そ の家 で ひど く 歓 待 さ れ る の で却 つて恐 縮. あ に倫敦 のビフテキなんてそんなにうまいもんぢやな. 則に文 芸 春 秋 に書 いた こと が あ つた が、何処 の な い。一. し てし ま ふ。 考 へて見 る と 向 う は商 売 な んだ か ら、褒. いよ、大阪や神戸 へんの 一流 のすき焼 の方がず つとう. 料 理 が う ま いな ぞ と う つか り 口を す べら す と、 今 度 行. め た場 合 は い ゝけ れ ど も 悪 く 云 は れ た ら随 分 迷 惑 な こ. と 云 ふ こと で、 度 び 度 び 記 者 の方 を 煩 はし て誠 に済 ま. 本 誌 の編 輯者 か ら 何 か 料 理 の こと に就 い てし や べれ. 良Б. (86) 谷崎潤一郎全集逸文及 び関連資料紹介.

(5) た も のだ 結 局 西 比 利 亜 鉄 道 の沿 道 で食 つた も のが 一. を送 つて貰 つたが、  一番古 いところでは明治十年とい. ち る。熟ふまでもなく尽粥は尽枠静船地だが村か である き がヽ概刊 L靴 酢 にうま いのがあると熟ふボデ 聞かな ゃ い。 それ で戴 L靴 難ガ耐から、独話配ぷ屋 のではな ゝ ヵ く、家店 で慨鏡も購薩された醜剖ホームメードのや つ. ま いよ﹂ と 云 つてゐた が、 実 際 そ んなも のか も知 れ な. 番 う ま か つた、 然 し西 洋 も の はみ な大 味 で何 んと 云 つ. ふのがあ つて梅干も こんなに古くな つてしま つてはや. 理 はま だ し も 伊太 利 の方 が い ゝが それ にし た つて知 れ. そ乳井が促離西で虚就したのは静帯乱だけでヽ精. ても 料 理 は 日本 が第 一だ よ と 云 つてゐた。 さ う聞 か さ. も駄目だ つた。せいぜい十年か二十年どまりでそれよ. こた ま食 つて パ ンを食 べる にも バ タを こ て こ てと塗 つ. んが血 のた れ るやうな ビ フテキ の大 き な か た ま りを し. て食 べる と 云 ふ に至 つては話 だ け でも ウ ンザ リさ せら れ る。. 私ばかりでなく、日本人はみなさうなのだらうが、 し とると次 す 第にあつさりした薄供ド好 どうも鏡を取 きに し ゅ み み ヽ︲︲ ﹄の嚇味 餃選寿グ尉 なつて行 く。蕪や廊物や味 後 はそれ になりはしな いか。たしか岩崎男 爵 であ つた. 筆のデ嚇であると熟つたさうだ か槻刊に恭粥が充﹁一 たべるために剤ィ て 回し 、ゐ 縛び蕪弼を食 が、 ヘ 手を て 田鏡 の旧家でこしらへた出来るだけ古い梅干を集めてゐ. が 一割うまいやうになるいか応 によ つてそれぞれの性. の品物 でなしに、実際その地方から厳選したのを送 つ ま た 、、、、 た ︲ て艶 ふ。繕船 のなれずし、腱田の 鮎 、西帰rT の意対 な 概 ち な 概と鯖ずしヽ槻 ケ雌 の菜 の の聞鶴、高知 の爬菜 の聞 こ ら 難 鶴ヽ︱︱解が 難めたものゝ輯 では此 れ等は にE副 で ぁ りゃ く ぁ あ つた。或るだ の部耐 ガィ の精理屋を食 ひ飽きると部 ごち 運 のか店 へ鷲徹されて慰さんの居I で御 馳題 になるの. り古く つてはいけないらしい。それから思 ひ ついたの ょ し だが、まだ世 に知られない識欧 の容蔵を彙め てみるの ど も耐離 いと腱ふo つま先籍 犠 の期土州郡ど 魅氣する ゃ のだ。 これもその進の結伽屋だ の信軋堺献 の意席など. つぱり味がない。明治十二年と云ふのがあ つたがこれ. れ ると ち よ つと洋 行 す る勇 気 も挫 け てし ま ふ、 イギ リ と ぐ ス対 は鏡 を 取 つても震 ろし く 対 食 ひ で、 驚 さ ん や射 さ. い. 江. 光 細. (87).

(6) か な か 面 白 いと 云 ふ こと を 聞 いた が、 な る ほど と 思 つ. 徴 が あ る の で、 友 達 の家 を 一軒 一軒 食 つて廻 る のが な. さ が分 か る。. で、 第 二番 目 に挙 げ ら れ たも の であ る。 そ の信 望 の厚. れ 酒 や保 命 酒 や泡 盛 のや う な も の でも う少 し う ま いも. ラ ンデ ーを 台 にし て造 る ん だ さ う だ が、 日本 にも あ ら. リキ ウ酒 の ド ムや シヤ ト ル ーズ は旧教 の坊 さ ん がブ. ば 、 久 兵 衛 は 一日午 後 九 時 霊岸 島 発 伊 豆 下 田行 き大 正. 東 京 朝 日新 聞 ﹂ 記事 によれ る。 大 正 四年八月 四 日 の ﹁. てく れ た 大 恩 人 だ った が、 こ の 二 年 後 に自 殺 し て い. 支 え、 潤 一郎 にと っても学 資 を出 し て学 業 を続 け さ せ. な お 、 久 兵衛 は、 初 代 久 右 衛 門 亡 き後 の谷 崎 一族 を. のはな いも のか知 ら ん。 梅 の実 のな る家 庭 で梅 酒 な ど. 丸 に乗 り込 んだ が、 翌 日船 が下 田港 に到 着 し た時 には. た。. を こし ら へて置 い て、 土 曜 の暑 い日 にち び り ち び り暑. 伝 記 谷 崎 潤 一郎﹄ に 居 な く な っていた。 野 村 尚 吾 の ﹃. 発 見 さ れ た時、 立 ち合 う事 が出 来 た と いう。. 田 原 の旅 館 で仕 事 を し ていた の で、 遺 体 の片 足 だ け が. か し き 人 々﹄ によれば 、 こ の時 、 潤 一郎 は た ま /ヽ 小. 懐 取 って、 入 水自 殺 を遂 げ た の であ る。 谷 崎 終 平 の ﹃. よ れ ば 、 長 男 が 相 場 に失 敗 し て借 財 を 作 った 責 任 を. 気 払 ひを や る のも い ゝも のだ が。. 次 に、 逸 文 ではな いが、 従 来 余 り よ く知 ら れ て いな か った 谷 崎 潤 一郎 の伯 父 久 兵 衛 の写 真 を 発 見 し た の で、 こ こ に関 連 資 料 と し て、 写 真 版 で紹 介 し てお く。 これ は、 大 正 三年 十 二月 二十 四 日東 京 毎 夕 新 聞 社 発 行. 師し. 琵 l語 i す は る 其あ に 数弯 足 た千 る を 可べ以亀. ﹃大 正 三年   米 之 理想﹄と 題 す る小 冊 子 の末 尾 に、次 の 様 な 前 書 き を 付 し て紹 介 さ れ た十 七 名 の仲 買 人 ・正 米 師 中 、 東 京 米 穀 商 品 取 引 所 理 事 長 根 津 嘉 一郎 に次 い. て 本児 算完非陽. (88) 谷崎潤一郎全集逸文及 び関連資料紹介.

(7) 江 光 細. (89). き信 用 あ り、誠 意 あ る仲 買 人 及 正 米師 に至 ては、晨 星 を光 栄 と す. 美 績 を 録 し て之 を 我 読 者 に紹 介 す る の機 会 を 得 た る. 久. 兵 衛. 君. 年臓月中旬           編   者   識 大正一一. の蓼 々も 菅 な ら ざ るな り、 左 に掲 ぐ る諸 氏 は帝 国 の模 範 仲 買 人 及 正 米 師 と し て、 充 分 に信 用 を 払 ひ尊 敬 を 捧 ぐ る に足 る第 一流 の典 型 な り、 此 著 偶 々諸 氏 の善 行. 崎. 東 京 米 穀 商 品 取 引 所 仲 買 人. 谷. 我東京米商 取引所割立以来仲買人委員長 の栄職 を双肩 に担 ひ て盛名赫 々毎期売買額最高を占め取引所 より賞状賞 品を受領 せし事挙げ数 ふ べからず常 に市人が尊敬 と羨望 の中心 となれ る人 は今印 谷崎久兵衛君なり君は帝都 の中央な る紳 田旅籠 町 に生 ま る旧姓江沢代 々の素封家 たり資性敦厚抱負絶大螢雪 の. 苦を積 む事 十有余年明治八年業を卒 へて谷崎家 に養 子 となり 明治十 一年 二月東京米商会所仲買人となり幾何 も無 くし て其 役員 に推選 せら る明治十六年兜町蛎殻 町 の米商 両会 所合併 し. て東京米商会所 となり二十六年株式会社東京米穀取引所 と改 称し四十 一年更 に商品取引所と合併し て現取引所 の組織を見 るに至 る迄 三十有余年 の久 しき に亘り て能 く現職 に任 じ完全 に其職責を颯 したる其功労 や偉なりと謂 つべし君 や居常質素 を旨 とし浮華 を避 け信用を重 んじ業務 に熱誠な り商 運隆盛当 代君 の右 に出 づ る者なき又 た所以なき に非ず令 や我米界益 々 多事ならんとす真 はくは斯界 の為 に倍 々貢献す る所 あれ.

(8) (90) 谷崎潤一郎全集逸文及 び関連資料紹介. 最 後 に、 谷 崎 潤 一郎 の甥 に当 た ら れ る谷 崎 秀 雄 氏 の 御 教 示 によ り、 従 来 、 昭 和 二十 四年 五月 号 に掲 載 さ れ た と さ れ て来 た ﹃﹁お国 と 五平 ﹂所 感 ﹄は、同 年 八月 二 十 日発 行 の ﹁観 照 ﹂ 第 3 2号 に掲 載 さ れ たも の であ る事 が判 明 し た。 こ こ に報 告 ・訂 正 す る と共 に、 谷 崎 秀 雄 氏 への感 謝 の意 を 表 し ます。.

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