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共約不可能性・翻訳・論理

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共約不可能性・翻訳・論理

飯田 隆

1983

二つの文化の論理どうしは、最悪の場合でも共約不可能といった 程度であり、決して相反することはない。なぜならば、そうした 相反は、それだけで、われわれの翻訳が誤りであると結論するに 十分だからである。同じ態度が、われわれの言語共同体のなかで 逸脱的な論理を唱える人に対しても適用できる。すなわち、そう した逸脱は、方言の違いと見なされるであろう。 クワイン『論理学の哲学』1

I

『論理学の哲学』において2、クワインは、非古典論理学について、次のよ うなテーゼを主張している。すなわち、非古典論理を唱える人が、正統的な 論理法則(=古典論理の法則)を否定しようとすれば、主題そのものが変わっ てしまう3、と。ここからは、次のことが帰結すると思われる。第一に、古典 論理の法則に対する反対者は、実際は、われわれのもつ否定や選言と似ては いるが、かれ独自の何か他の観念について語っているということになろう。 第二に、古典論理とそれに対立する他の論理体系とのあいだの競合といった 事態もありえないはずである。なぜならば、古典論理が扱う概念と、非古典 この論文の I 節から IV 節までは、1978 年秋の西日本哲学会における「論理の相違につい て—非古典論理学についてのクワインのテーゼをめぐって」という標題での発表に基づいてい る。ただし、そこで「クワインのテーゼ」と称したものが、非古典論理についてのクワインの発 言のすべてを覆うものではないことは、付言しておかねばならない。そうした留保は、以下の註 の各所に散見されるであろう。この点に限らず、ここで取り扱っている主題全般に関して再考す るきっかけとなったものは、Levin (1979) である。(文献の引用については、末尾の文献表に従 い、著者名および発表年による。) 1Quine (1970), p.96. 2ここで考察の対象とするのは、Quine (1970) までのクワインである。Quine (1974) 以降 のクワインが、非古典論理に対して、それ以前とは異なる態度を取っているとするならば、それ は、ここでは考慮されない。ただし、このクワインの「翻心」という点については、異論もある。 Berger (1980)および Roth (1982) を参照。

3“Here . . . is the deviant logician’s predicament: when he tries to deny the doctrine

(2)

論理が扱う概念とは異なるのであるから、両者のあいだで同じ争点をめぐっ て対立が生ずることはないはずだからである4 小論の目標とするところは、二つある。第一に、クワインのテーゼは、ひ とつの言語の論理の具体的指定という企ての不当な狭小化に基づいているこ とを示したい。それは、非古典論理に対するクワインのような扱いが、実は、 非古典論理の提起するもっとも根本的な問題を回避する結果になることをも 示すであろう。この根本的な問題への考察への端緒を開くことが、目標の第 二にほかならない。すなわち、古典論理こそがわれわれの論理であるとする ことには、いったいいかなる根拠があるのだろうか、という問いの有意味性 が擁護されない限りは、非古典論理は、哲学上の興味をたいしてひくもので はないままに、少数の好事家のための珍種といった扱いに甘んじなければな るまい。したがって、小論は、全体として、非古典論理の提起する問題を考 察するためのひとつの、しかしながら、不可欠の予備作業を果たすための試 みであると見なすことができよう。 前もって以下の議論の見通しをつけておくならば、それは、次のようなス テップから成っている。第一に、「非古典論理」の名称のもとに包括される さまざまな論理体系は、通常、古典論理の拡張体系(たとえば、様相論理) と、古典論理からの逸脱体系(たとえば、直観主義論理)の二種に分類され るが、その分類の規準が吟味される。純粋に形式的な規準と意味論的な規準 とが考察され、そのどちらもが不十分であることが示される(II 節および III 節)。第二に、クワインのテーゼに至る議論が検討され、それが、古典論理の 拡張もしくは共約不可能性という二者択一へと導くものであることが示され る(IV 節)。この議論は、非古典論理を「正当な」論理と見なす人の立場か らも、まったく同様の力をもって繰り返されうるように見えるが、こうした 反論の道は、クワインによる内在と超越の区別によってふさがれている(V 節)。しかし、それにもかかわらず、内在的な立場が言語の論理の一義的な指 定に導くものではないことが、論じられる(VI 節)。最後に、ひとつの言語 の論理の具体的指定という企ての性格の若干が、考察される(VII 節)。

II

「非古典論理」の名称のもとに研究されている論理体系は、実に多様であ るが、それらを、(1) 古典論理の拡張体系、と (2) 古典論理からの逸脱体系、 4古典論理が扱うものとは別の概念のセットを提案する、という意味で非古典論理を唱える 可能性は、クワインも認めている。しかし、古典論理の法則が誤りであるという理由で、それに 取って代わる正しい論理として非古典論理を擁護するという可能性を、かれは認めない。そして、 非古典論理に対するクワインの態度のこうした二面性は、二つの相異なる種類の考察に由来す るものであると思われる。すなわち、論理どうしの相反の不可能性は、もっぱら翻訳についての 考察によって支持されているのに対して、提案間の競合の問題は、われわれの所有する理論全体 の単純性という観点にその解決が求められる。こうした二種類の考察方は、「内在 immanence」 と「超越 trancendence」というクワインの区別に対応する。この点については、本文 V 節以下 を参照。

(3)

との二種に分類するのが慣例であろう5。拡張体系に属するものは、様相論 理、時制論理などであり、逸脱体系に属するものは、直観主義論理、多値論 理、量子論理などである。ここでは、拡張体系の代表例としては様相論理を、 逸脱体系の代表例としては直観主義論理を取り上げることにする。拡張体系 と逸脱体系との区別は、おおまかには次のような点に注目してなされている。 すなわち、拡張体系の必要性を主張する人は、古典論理がその範囲では正し いことを認めるが、それが論理的真理のすべてを尽くしてはいないという点 で不十分であることを主張していると考えられる。これに対して、逸脱体系 を支持する人は、古典論理が誤りである(すなわち、古典論理は、論理的真 理でないものを、論理的真理であると見なしている)ことを主張していると、 通常考えられている。拡張と逸脱との対照は、これで十分明白のように思え るが、この分類規準を明確な形で述べようとすれば、直ちに、それがいかに 困難な仕事であるかを思い知らされることになる。 まず、純粋に形式的な形で(シンタクティカルに)分類規準を定式化する ことを試みてみよう6。形式的に処理しようとするときに着目すべき条件は、 (i)論理語の範囲がどのようなものであるか—これは、形式的には、論理式の 定義の問題に帰着する、および、(ii) 論理的真理の範囲がどのようなものであ るか—これは、形式的には、定理の範囲の問題に帰着する、の二つであろう。 古典論理で認められている論理語について、そのうちに論理語として認め られるべきではないものが入っているという主張は、これまでなされたこと はないと思われる7ので、(i) については、次の二つの可能性を考慮するだけ でよかろう。 S(C)を古典論理 C の論理式全体の集合とし、S(L) を任意の論理 Lの論理式全体の集合とする。 (a1) S(C) = S(L) (a2) S(C)⊂ S(L) (ii)については、次の二つの条件の各々について考えるべきであろう。 (b) Cの定理はすべて、L の定理でもある。 (C の任意の論理式 A について、⊢CA⇒⊢LA。) 5Haack (1974)がもっとも明示的にこの分類を採用しているが、同様の分類は多くの著者に 見られる。なお、「古典論理」として、一階述語論理だけを指すのか、それとも、同一性までを 含めるのか、さらには、高階述語論理をも含めるのか、という問題があるが、ここでは一階述語 論理の範囲で考察する。同一性および高階への拡張に関しては、論理的真理の範囲という点で は、ここで言う「拡張体系」についてと同様の問題が生ずるが、別個の検討が必要であると考え られる。 6ここでは、古典論理の拡張および古典論理からの逸脱についてのみ考察する。より一般に、 任意の論理 L1と L2に関して、拡張と逸脱の関係を定義する試みについては、Haack (1974) p.4を参照。 7同一性や高階への拡張をも古典論理の範囲に含めれば、このことは正しくない。註 5 参照。

(4)

(c) Lの定理はすべて、C の定理でもある。 (L の任意の論理式 B について、⊢LB⇒⊢C B8。) (a)・(b)・(c) の三条件の組合せのうち、起こりえない場合および考慮に値 しない場合を除く9と、次の三つの場合が考えられる。 (I) Lの論理式の全体は、C の論理式のすべてを含み((a2))、C の定理はすべて L の定理でもある((b))が、L の定理には Cの定理でないものが存在する((c))。 (II) Lの論理式の全体と C の論理式の全体とは完全に一致する ((a1))が、C の定理ではあるが L の定理ではないものが存 在する((b))。 (III) Lの論理式の全体は、C の論理式のすべてを含み((a2))、C の定理ではあるが L の定理ではないものが存在し((b))、さ らに L の定理には C の定理ではないものが存在する((c))。 (I)の場合には L は古典論理の拡張体系であり、(II) の場合には L は古典 論理からの逸脱体系であり、(III) の場合は拡張と逸脱との混合であると考え るのが、ごく自然な解釈であると思われる。また、こうした基準は、本節の はじめに述べたような直観的な分類基準とも合致しているように見える。た とえば、通常の様相論理の体系は (I) に該当し、直観主義論理は (II) に該当 し、(III) に該当するものとしては直観主義論理をベースとする様相論理の体 系を考えればよい。 しかし、この基準が不十分であることは、簡単な考察からすぐに明らかと なる。いま、古典論理 C の定式化として「¬」と「∨」と「∀」の三つを論理 語とするようなものを考え、L として、「¬」と「∨」と「∀」のほかに「∧」 と「→」と「∃」をも論理語として採用するような古典論理の定式化を考えれ ば、L は (I) の条件を満足し、L は古典論理の拡張体系となってします。し かし、L と C が「同一の」論理であることは明らかである。このような場合 を除外するために、ここで L の論理式と C の論理式とのあいだには記法上の 相違しか存在しないと主張することは、「記法上の相違」という概念の定式化 という新たな困難を引き起こすだけである。 古典論理の相異なる定式化のようなケースに気付いて、L が C と記法的に 異なるだけであることをシンタクティカルに表現しようとするとき、いちば ん素直に出て来るものは、次のようなものであろう。 以下の条件を満たすとき、L は C の記法的ヴァリアントである。 8(a2)が成り立っているとき、L の論理式 B に対して「 CB」が定義されていない場合が あるが、このときは、便宜上、¬ ⊢CBと考える。

9(a1)(b)(c)は起こりえない場合であり、(a1)(b)(c) および (a2)(b)(c) は L が実質的には C

と同一である場合であり、(a2) (b) (c) は (II) の場合に含めて考えてよい。(「(c)」は、(c) の 否定を表す。以下も同様。

(5)

次のような二つの翻訳関数 t1、t2が存在する: (i) t1は、S(C) から S(L) のなかへ(into)の関数であ り、A∈ S(C) であるようなすべての A について、 ⊢CA⇔⊢Lt1(A)。 (ii) t2は、S(L) から S(C) のなかへの関数であり、B∈ S(L)であるようなすべての B について、 ⊢LB⇔⊢C t2(B)。 たとえば、古典論理の二つの定式化として、「¬」・「∨」・「∀」を論理語とす るもの(C1)と、「¬」・「∧」・「∃」を論理語とするもの(C2)とを考えよう。 二つの翻訳関数 t1、t2は、次のように定義される。 (i)   A が S(C1)の原子式であるならば、t1(A) = A t1(¬A) = ¬t1(A) t1(A∨ B) = ¬(¬t1(A)∧ ¬t1(B)) t1(∀xA) = ¬∃x¬t1(A) (ii)   A が S(C2)の原子式であるならば、t2(A) = A t2(¬A) = ¬t2(A) t2(A∧ B) = ¬(¬t2(A)∨ ¬t2(B)) t2(∃xA) = ¬∀x¬t2(A) C1と C2とが古典論理の定式化である限り、これらの翻訳関数が定理性を保 存するものであることは言うまでもない、しかしながら、記法上のヴァリア ントを、定理性を保存する翻訳関数の存在だけによって特徴づけられないこ とは、ごく簡単な例から明らかになる。古典論理の定式化として C1 を取り、 その拡張体系であるはずの様相論理の定式化 LM(古典論理に必然性のオペ レータを付加しただけのものであれば、S5 であろうが S4 であろうが何でも よい)で、論理語として C1における「¬」・「∨」・「∀」に加えて必然性のオペ レータ「Nec」をもつものを考え、それらのあいだの「翻訳関数」t1、t2を次 のように定義する。

(i) C1から LMへの「翻訳関数」t1は同一性関数(identity func-tion)にほかならない。

(6)

Aが S(LM)の原子式であるならば、t2(A) = A t2(¬A) = ¬t2(A) t2(A∨ B) = t2(A)∨ t2(B)) t2(∀xA) = ∀x¬t2(A) t2(Nec(A)) = ¬¬t2(A) つまり、t1は、まったくの同一性関数であり、t2 は、必然性のオペレータ 「Nec」の出現をすべて二重否定に変換するだけの関数である。これらの関数 は、明らかに定理性を保存する。 ここで、単なる記法上の相違を解消するための翻訳規則とそうではない翻 訳規則とを区別できないかと考えるのは、当然であろう。つい今しがた考え られたような「翻訳規則」は、もとの体系で「Nec」を二重否定の別名として 使っているのでない限り許されないと言いたくなる。しかし、このように考 えることは、純粋に形式的な分類基準を断念する方向につながらざるをえな い。問題は、「意味に忠実な」翻訳規則とそうでない翻訳規則とを区別するこ とである。たとえば、古典論理の二つの相異なる定式化 C1、C2で、「p∧ q」 を「¬(¬p ∨ ¬q)」へと翻訳することが、単なる記法上の相違を解消するため のものであると考えられたのは、真理値の概念を用いた古典命題論理の意味 論的考察に根拠をもつものと思われる。意味論的概念をまったく用いずに、 翻訳規則に形式的な制限を課すことだけによって、もともとの意味を保持す る翻訳規則とそうでない翻訳規則とを区別しようとすることは、ほとんど絶 望的な企てであろう。したがって、次には、拡張体系と逸脱体系とを区別す る基準の定式化が、意味論的考察に頼ることができないかを考えてみよう。

III

いまや標準的なものとなっている意味論的考察の方法においては、論理語の 意味は、それが現れる言語における真理の再帰的定義(recursive definition) の部分節によって固定されると、考えてよい。この方法を用いて L の論理語 の意味を確定し、その結果として、L が拡張体系であるのか、それとも逸脱 体系であるかを判定できないだろうか。だが、この考えが役に立たないこと はすぐにわかる。というのは、L の言語における真理の定義は、メタ言語の なかで与えられねばならず、それが L の言語自身の場合には明らかに当面の 問題の解決には何らの寄与もなさない10し、それが L の言語以外の言語 M で 10誤解を招かぬために断っておくが、これは、あくまでも当面の問題、すなわち、拡張と逸脱 の判別という点に関してであって、homophonic な意味論の貢献が無であるとか、ました、トリ ビアルであるとかいうことを主張しているのではない。

(7)

ある場合には、L の言語から M への翻訳が必要となり11、こうした翻訳の存 在は、L の論理語の意味の確定を前提しているはずだからである。 標準的な意味論的考察には、さらに、拡張と逸脱との区別を見失わせる要 素があると思われる。一九六〇年代以降急速に発展を遂げた非古典論理の意 味論的研究は、その多くが、古典論理をメタ・レベルで採用している。すな わち、メタ言語の論理は古典論理であっても、それに一定の集合論的道具立 てを付加することによって、拡張体系で新たに導入される論理語(たとえば、 必然性のオペレータ)を含む文の真理条件のみならず、逸脱体系で用いられ る論理語を含む文の真理条件をも、メタ言語で定式化することができる。 こうした結果は、次のような哲学的テーゼに、人を導きかねない。すなわ ち、メタ論理として古典論理を用いて、古典論理の拡張体系や古典論理から の逸脱体系を解釈することができる。たとえば、直観主義者の用いる論理語 の意味も、古典論理をメタ論理とする意味論において解明できる12。このこ とから、直観主義論理の信奉者の発言を、古典論理の立場から再解釈して、 彼女が用いている概念は純粋に論理的な概念ではなくて、「通常の」論理的概 念(=古典論理の概念)に加えて何らかの理由で導入された別の概念である と主張するのは、それほど不自然ではない。もしもこの主張が正しいならば、 古典論理からの逸脱体系は存在せず、せいぜい、古典論理の拡張体系だけが 存在し、しかも、拡張体系を理解するには、論理としては古典論理だけで十 分であるということになる。 こうした主張は、論理どうしの相反という事態は存在せず、ただ、主題の 違いがあるのみという、クワインのテーゼときわめて類似している。しかし、 クワインが、自らのテーゼを支持するために展開した議論は、ここまで検討 してきた事柄とは別の種類の考察に基づいている。

IV

クワインの議論は、ある未知の言語を、その言語を使用する人々の観察可 能な行動についての情報から解釈する場面における、論理の役割の考察に基 づいている。L1という言語を自分の言語としてもつ観察者が、L2という言 語をもつ人々の行動を観察することによって、L2と L1のあいだの翻訳規則 を構成することが問題である。L2の論理の決定は、こうした翻訳にクワイン が課する制限と密接に関わっている。すなわち、クワインは、こうした翻訳 11デイヴィドソン流に、L の言語の真理論を M において構築することによって L の言語か ら M への翻訳を引き出すという可能性が考えられるかもしれないが、この際にも、L の言語の 論理語の意味は、理論家の「読み込み」によって大部分決定される(Davidson (1967) p.318)。 たしかにデイヴィドソンは、かれのプログラムは必ずしも「モデル T 型の論理および意味論」 (すなわち、古典一階述語論理およびその通常の意味論)にコミットするわけではないと、述べ ている(Davidson (1973) p.78)が、論理および意味論的枠組みの選択がどうなされるかにつ いては何も述べていない。 12Kripke (1965)。ただし、この論文でクリプキも断っているように、直観主義論理のクリプ キ型意味論は、直観主義論理をメタ論理としても展開できる。本文 V 節をも参照。

(8)

に際しては、「明白なものを保存せよ Save the obvious」という規則が守られ るべきだと主張している13。ここで言う「明白さ」を、クワインは、ほぼ次の ように説明している14。すなわち、言語 L に属する言明 A が(L において) 明白であるとは、L をその言語としてもつ集団に属する人々のほとんどだれ もが、ためらわずに A に同意を与えることである。 「明白なものを保存せよ」という規則には、いくつかの異なった解釈が可 能であるが、モートンによる分析15の結果を、われわれは採用することがで きると思われる。すなわち、この規則は、次の (i) と (ii) の両方が、翻訳の際 に守られなければならないという意味で解釈できる。 (i) L1の文 A が、L1において明白であるならば、A の L2へ の翻訳 A′は、L2において同意されるものでなければなら ない。 (ii) L2の文 B が、L2において同意されるならば、B の L1への 翻訳 B′は、L1において明白に偽16であってはならない。 この規則に加えて、クワインは、論理的真理を、明白である言明の代表的な ものであるとしている。すなわち、 (*) Lの論理的真理は、L において明白である。 を、クワインは認めると思われる。 (i)、(ii)、および (*) から、クワインのテーゼは次のようにして導出される と考えられる。 いま、観察者の言語 L1の論理は古典論理であるとする。そうすると、古典 論理の諸法則は L1において明白であるから、(i) によって、それらは L2の真 なる文へと翻訳されなければならない。ただし、ここには重要な留保が必要 である。それは、(i) の適用においては、「L2において翻訳が存在する限り」 という但し書きが必要だからである。そして、クワインは、そうした但し書 きを必要とするような場合、すなわち、L1の論理法則のすべてを表現するす べが L2にないような場合がありうることを認めている17。したがって、二 通りの場合が可能である。ひとつは、L2が、われわれの論理定項(のいくつ

13Quine (1970) p.82。Quine (1969a) では、もっと端的に、「論理的真理を保存せよ」と述

べられている。

14Quine (1970) p.82。

15Morton (1973)。本文の (i)(ii) は、それぞれ、モートンの定式化した条件 (a)(c) と同じで

ある。そして、モートンは、クワインの意図がこれら二つの条件の連言によってもっとも良く表 現されるとしている。(i)(ii) それぞれのポイントについては、註 20 を参照。 16「明白に偽」という概念は、問題の言語における否定の概念を前提せずに、同意の対概念で ある「反対 dissent」の概念によって定義できる。 17「ある言語には、われわれの『がある』といった存在を示す語句や量化子と明瞭に対応する ような語句がないかもしれない. . . 」Quine (1970) p.89。

(9)

か)について、その対応物をもたない場合18であり、これが、クワインの言う 「最悪の場合」としての共約不可能性にわれわれが直面する場合である。もう ひとつは、翻訳が可能であり、規則 (i) が適用できる場合であり、このときに は、L2においても古典論理の諸法則は成立しなければならないこととなる。 他方、規則 (ii) からは、L2の論理定項と思われるもの(のいくつか)が L1 への翻訳を許さない場合があったとしても、翻訳可能な部分においては、次 のような結論が引き出される。すなわち、L2における推論と考えられるもの と、L1から L2へと「読み込まれた」古典論理の諸法則とのあいだに食い違 いが生ずるようなことが観察された場合でさえ、(ii) に従う限りは、L2にお ける推論と考えられるものを古典論理と矛盾するような形で翻訳することは 許されない。したがって、こうした場合に取りうる道は、L2における非古典 的な推論に現れる概念は、古典的な推論に現れる概念とは異なるものである と結論する形で、(ii) との抵触を避けることであろう。 ところで、ここまでは、まだ、クワインのテーゼの導出のための前段階に 過ぎない。(i)、(ii)、および、(*) に従って L2の翻訳がなされるとき、L2の論 理が古典論理からの拡張体系となることは、十分に許容される。しかし、L2 の論理が古典論理からの逸脱体系になることはあるだろうか。いま、直観主 義者の言語 L2を L1へと翻訳する場合を考えてみよう。一見すると、L2は、 L1の論理定項の対応物として、命題結合詞や量化子を備えているように見え、 共約不可能という事態は生じないように思える。だが、もちろん、問題はそ れほど単純ではない。たとえば、直観主義者は排中律「A∨ ¬A」に無条件に は同意しない19。にもかかわらず、条件 (i) は、排中律への同意を直観主義者 に対しても要請する20。共約不可能性をという結論を避けつつ、こうした不 整合を解消するためには、翻訳者は、L2の使用者に関して次のような仮説を 立てざるをえないと思われる。すなわち、L2における「∨」や「¬」は、L1に おける選言や否定とは異なる概念として解釈されねばならない。さらに、条 件 (i) は、L2においても古典論理の諸法則が成立することを要請するのであ るから、L2の使用者の外部的に観察される言語行動のほかに、L2の使用者 は、古典的な選言や否定にかかわる古典論理の法則を、何らかの意味で「内 化」していなければならない。すなわち、L2は、そうした仮説的な「深層構 造」と合わせて考えられるとき、古典論理の拡張体系をその論理としてもつ 18L 1の論理法則が L2において表現できない場合を、L1 の論理定項の L2における不在に限 るのは、一般性を欠くと思えるかもしれない。たとえば、語彙項目としての論理定項(論理語) の不在によってではなく、ある種の構文法の不在によって L1の論理法則を L2において表現で きない場合はどうするかと、問われよう。しかし、小論では、「言語 L の論理定項」を、語彙項 目として出現するものだけに限らず、L における真理の再帰的定義に必要とされる再帰的要素一 般といった、きわめて広い意味で用いている。Davidson (1973) p.81。なお、Evans (1976) を も参照のこと。 19Aの範囲が決定可能な(decidable)命題に限られているときには、直観主義者の同意が得 られる。 20この例に端的にみられるように、条件 (i) の実質は、古典論理の法則のいくつかに同意しな

いといった弱い意味での逸脱(weak deviance)の可能性を排除することにある。他方、条件 (ii) は、古典論理の法則のいくつかを否定するといった強い意味での逸脱(strong deviance)の可 能性を排除する。Morton (1973) 参照。

(10)

のである。こうした仮説のもとでの L2の翻訳からの結果は、L2の論理を様 相論理と同様な古典論理の拡張体系として「解釈」することになろう21 だが、明らかに、クワインにとって、こうした仮説が前提するメンタリズ ムは、許容できないものである。クワインにとって、「音声や記号と、人がそ うした音声や記号を用いるときに従う規則のほかには、連言や選言の本質を 成すものは、何も残されていない」22のである。よって、クワインにとって、 古典論理からの逸脱は、拡張体系への同化ではなく、共約不可能性を結果す ることになる。 要約するならば、クワインにとって、古典論理以外の論理に関しては、(a) 古典論理の拡張、もしくは、(b) 共約不可能性、という二者択一しかないの である。

V

前節のような形でクワインの議論を述べれば、それが、クワインのテーゼ を支持する根拠となりえないことは明瞭であろう。というのは、前節の議論 では、翻訳者の言語 L1が古典論理に従うことが当然のように仮定されてい たが、この仮定の代わりに、L1の論理は直観主義論理であるとしても、まっ たく同様の議論が成り立つからである23。数学的プラトニストの言語 L 2を、 直観主義者が自分の言語 L1へと翻訳しようと試みるとき、前節のような規 則に従い、メンタリスティックな仮説を排する限り、L2の論理は、L1の使用 者にとって共約不可能なものとならざるをえない24 つまり、クワインの議論は、L1の論理が何であるかからは独立であると思 われる。したがって、前節の結論が一般化されることも不可避であるように 見える。すなわち、言語 L1の使用者にとって、L1の論理以外の論理について は、(a) L1の論理の拡張体系、さもなくば、(b) 共約不可能性、という二者択 一しかない、と。しかしながら、クワインには、こうした一般化に対して抵抗 する十分な理由がある。それは、非古典論理の問題についての考察においての みならず、かれの哲学全般において重要な役割を演ずる、内在(immanence) と超越(trancendence)との区別である。 21直観主義を様相論理として解釈することについては、Sch¨utte (1968) Kapitel IVを参照。 22Quine (1970) p.81。Levin (1979) p.47 をも参照。 23Haack (1974) pp.191f. は、このことから、クワインの議論は論点先取に過ぎないと決め つけている。しかし、これは、以下本文でも論ずるように、クワインの「内在–超越」の区別を 考慮していない故に、性急に過ぎる断定である。 24メンタリスティックな仮説によって、数学的プラトニストの論理(すなわち、古典論理)を、 直観主義者にとっても原則的な了解可能な概念のセットを、直観主義論理に付加したものである という意味で、直観主義論理の拡張体系として解釈することは可能である。そのためには、古典 論理の直観主義論理への埋め込み(embedding)を用いればよい(Bell and Machover (1977) Ch.9,§11 を参照)。たとえば、そうした埋め込みを可能とする翻訳規則のひとつに従えば、排 中律「A∨ ¬A」は、命題とその否定命題との双方がともに矛盾に導くことはないことを主張し ていると解釈できる(Putnam (1978) pp.26f. 参照)。このように、古典論理と直観主義論理の あいだでは、ここで考察されているような論点に限れば、まったく対称的な関係が成立する。

(11)

内在と超越との区別は、次のように説明されている。「ある概念が、ある特 定の言語に対して定義されているとき、それは内在的であり、それが言語一 般に対して定義されているときには超越的である」25。この区別を用いるな らば、クワインの議論はすべて、内在的な立場から行われていると解釈する のが妥当である26と思われる。つまり、翻訳者の言語とは、われわれの言語 であり、その論理も、われわれの論理、すなわち、古典論理である。「論理」 が内在的な概念である限り、それは、古典論理を指すしかないのである27。こ れに対して、クワインの議論における「論理」を、われわれの言語への引照 から独立に考察するとき、それは、もはや内在的な概念としてではなく、超 越的な概念として解されていることになる。クワインによれば、超越的な概 念は、理想としては、観察可能な行動に関わる用語のみから定義されるべき であるが、もともと内在的な概念が超越的に用いられることもある。そして、 このときには、もともとの内在的概念が、ある家族的類似を通じて他の言語 に対しても適用されるのであり、それらの用法のあいだの関係は、「同音異義 とほとんど変わるところがない」28のである。 クワインは、先に述べたようなかれの議論の一般化に対して、次のように 反対することができる。かれの本来の議論は、「論理」を内在的概念として 使っていたのであり、それが、われわれの言語への引照から切り離されて一 般化されるとき、「論理」は超越的な概念とされてしまっているのであり、こ の一般化は、典型的な誤謬推理以外の何物でもない、と。

VI

こうして、クワインのテーゼの評価のためには、「内在的–超越的」という 概念的区別の徹底した検討が不可欠のように思われる29。しかし、ここでは、 この困難な道を選ぶよりは、むしろ、クワインの区別を受け入れて、内在的 な考察に限定したとしても、古典論理と非古典論理とのあいだには真正の対 立があることを示そう。 25Quine (1970) p.19。ただし、内在性は、特定の言語のみならず、特定の理論(その言語の 文法)までをも含めて考えられる場合もある。同書、p.59。こうした曖昧さは、VI 節で問題と なる。(Evans (1976) も同様の区別を用いているが、かれはその区別を理論に相対的に行って いる。 26Levin (1979) pp.59f.。 27「否定と選言は、超越的ではなく、内在的なのである」(Quine (1970) p.87)。IV 節にお けるクワインの議論の再構成は、故意に超越的な形で述べたが、これを内在的な形で述べるため には、若干の記法上の変更で足りよう。たとえば、L1の論理への言及はそのままでよい(それ は、内在的な概念であるから)が、L2 の論理への言及は、それが超越論的概念であることを明 示するために、括弧入れをした形で(「「論理」」という仕方で)行えばよい。L2の「論理定項」 といった語についても、同様の括弧入れをすればよい。 28Quine (1970) p.19。 29ここでは論ずる余裕がとうていないが、「内在的–超越的」の区別は、クワインの哲学の全体 を貫流する大きなモチーフのひとつである。そのことは、かれがスローガンとして採用する「ノ イラートの船」の比喩からも、また、とりわけ、かれの「自然化された認識論」の構想からも見 て取れよう。Quine (1969b) Essay 3。

(12)

まず、内在的な立場に立っても、「われわれの論理」は古典論理であって、 古典論理以外の何物でもないという主張は、正しくない。この主張に反対す る論拠として、少なくとも二つのことを挙げることができる。第一に、「われ われの論理」の具体的指定は、必ず、何らかの理論を必要とする。われわれ が正しいと認める推論の全体を組織化するという課題は、「明白さ、少なくと も、潜在的明白さ」30という表徴だけによってなされることはできない。わ れわれが正しいとしている推論の全体が一貫性を欠くとき、理論家の裁量に よって動きうる範囲は意外と大きいのである31。また、「われわれの論理」を 指定しようとする理論家の論理(メタ論理)が、古典論理でなければならな い必然性もない。第二は、論理定項の体系的「改釈」の可能性32の問題であ る。どのような命題が、ひとつの言語共同体のなかで、論理的真理として同 意されているかを観察するだけでは、そこで採用されている論理が何である かを一義的には確定できないのである33。たしかに、先にも指摘したように、 クワインは、こうした多義性は、メンタリスティックな仮説に頼るときにの み可能だと、抗論するであろう。しかし、この場面34でクワインがメンタリ ズムを頭から排除する理由は、少なくとも命題結合詞に関しては35、行動の 観察から得られる情報がその意味の確定に十分であると考えているためであ る36。しかし、論理の具体的指定が、既に命題論理の範囲においても一義的 とはならず、何らかの理論を前提するときにのみ可能である以上、メンタリ スティックな仮説といえども、それを頭から排除するわけにはいかない。 しかし、このような議論に対しては、内在性の概念をよりきつく取ること によって答えられるかもしれない。すなわち、内在的な概念としての「論理」 とは、単にわれわれの言語にかかわるだけでなく、われわれが現に所有して いる理論全体にも関わっているのだ37と。これに対して即座に指摘できるこ とは、「われわれが現に所有している理論」なるものは、決して単一ではない し、また、個々に数え上げられるような形で並存しているものでもないとい うことである。つまり、「われわれが現に所有している理論」なるものが、単 一ではなく、複数であるとしても、もしもそれら複数個の理論がはっきりと 相互に区別できるほどに分節化されているならば、それらの理論のうちのあ 30Quine (1970) pp.96f.。 31このことをよく証拠立てているのは、意味論的パラドクスに対するタルスキ流の「正統的」 アプローチからの逸脱の試みの多種多様さであろう。 32註 21 ならびに註 24 を参照。 33Quine (1960)の読者は、これこそクワインが主張していることに他ならないと云うであろ うが、問題は、このことが命題論理の範囲にまでは及ぼされていないという点にある。Quine (1960)§13 を見よ。 34もちらおん、クワインには、メンタリズム一般に対して否定的態度を取る理由がある。しか し、論理定項の解釈の問題におけるクワインのメンタリズム排除は、メンタリズム一般を否定 する議論によってではなく、論理的真理に対する態度決定から来ているように思われる。Quine (1970) p.81参照。 35註 33 参照。 36「同意と反対を用いて、真理関数の意味論的基準を述べることができる。すなわち、ある語 句が、当の真理関数を表現していると見なすべきかどうかを決定する基準を述べることができ る。」Quine (1960) p.57。 37註 25 参照。

(13)

るものは、「われわれの論理」の具体的指定に当たって決定的な影響を与える ことができるかもしれない。こうした可能性は、言語のある限定された部分 (たとえば、数学の言語であるとか、物理学の言語であるとか)に関しては、 考えることもできよう。しかし、ひとつの言語の全体が対象であるとき、こ うした可能性は存在しない。ひとつの言語の論理を指定しようとするときの ように、言語全体が考察の対象となるとき、われわれが考慮しなければなら ない「理論」は、じつにわれわれの思考の対象のすべてに及ぶものでなけれ ばなるまい。これほど包括的な領域の全体にわたって、われわれが、そのひ とつひとつが選択肢となりうるほどに分節化され明示的に定式化されうるよ うな諸理論の組を所有しているとは考えられないし、ましてや、そのように 分節化され明示的に定式化可能な単一の理論を所有しているなどとは決して 言えない。したがって、何らかの包括的な「われわれが現に所有している理 論」から、直接的に、われわれの論理の具体的指定を引き出そうとすること は、実際のところ、不可能な企てである。 たしかに、古典論理は、われわれの言語の論理の可能な具体的指定のうち で、もっとも集中的にその構造が研究され、かつ、広く応用されているとい う意味で、「正統な」論理であると言ってよい38。しかし、クワインが考える ように、それがわれわれにとっての唯一の選択肢でもあるという結論は、内 在的な立場からも出て来ないと言うべきであろう。

VII

しかしながら、論理の具体的指定に際して複数個の選択肢があるとしても、 その選択はいったい何に頼ってなされるのか。こう問うとき、次のような議 論が、ふたたび、われわれを古典論理の「正統性」への依存へと引き戻すか のように見える。 「正統性」によって古典論理の採用を理由づけない限り、IV 節でのような 考察は、古典論理と直観主義論理との関係がまったく対称的であると見なし てよいことを示すものである。たとえば、数学的プラトニストが、直観主義 者の論理を古典論理の拡張体系と見なすことが可能であるとまったく同様に、 直観主義者は、数学的プラトニストの論理を直観主義論理の拡張体系である と見なすことが可能である。ここで問題なのは、一種の言語的独在論への傾 斜であるだけでなく、どちらの論理を選択するかという問題が、恣意的な解 決しか許さないという点にある。ひとつの言語共同体に属する人々が同意す 38古典論理こそがわれわれにとっての唯一の選択肢であるという結論を擁護する議論として、 ときどき耳にする議論のひとつについて、ここで簡単に論駁を試みておくことも無駄ではある まい。この議論は、おおざっぱに言って、次のようなものである。すなわち、物理学をはじめと する諸科学は、古典数学(直観主義その他の構成主義的数学と対比される意味で)を前提してお り、この数学は古典論理を前提している。したがって、現在の科学を否定しない限り、古典論理 を選択することは必然的である、と。だが、第一に、これらの前提関係が必然的なものであると いうことは証明されていない。第二に、こうした前提関係を証明しようとする試みは、いずれ も、古典論理以外の論理の採択の可能性の真剣な考慮からしか出発できないはずである。

(14)

る論理的真理の全体は、どちらの論理によっても記述できる。この結論が正 しいとするならば、われわれは、もともとここには真正な選択の可能性など はなかったのだと、言わざるをえまい。つまり、ここには、古典論理の「正 統性」という事実だけがあるのだと結論すべきであろう。 こうした議論がいかに説得的に聞こえようが、ここには、ひとつの重要な 見落としがあるように思われる。われわれの論理の具体的指定という企ては、 たしかに、何らかの形式的(あるいは準形式的)体系としての論理の組織化 を結果するであろうが、それだけを目標とするものではない。われわれの言 語的営みは、当の言語的営み自身についての反省をもその一部として含んで いるのであり、このことは、論理的営みについても同様である。論理の具体 的指定という企ては、われわれの論理的営みそのものに対して働く論理的営 みとして、それ自身、われわれの論理的営みの一部である。さらに、反省の 対象となるわれわれの通常の論理的営み自体、いまだ直観的な形でしかない にせよ、何らかの反省的要素を含んでいる。こうした前理論的でありながら 反省的であるような要素は、われわれの論理的営みのなかで、非反省的に行 われる推論と一定の関係をもっているはずである。論理の具体的指定という 企ては、こうした前理論的な反省的要素をも考慮しつつなされるべきである。 相異なる論理の可能性が示すことは、単に、相異なる形式的体系の可能性で はなく、われわれの論理的営みの一部である前理論的でありながら反省的で あるような要素の体系化・洗練化には、相異なるアプローチが存在しうると いうことであろう。そうした反省的要素の中核を形成するものこそ、「意味」 とか「真理」といった概念なのであり、非古典論理は、そうした概念の再検 討を要求していると考えるべきであろう39。 39Dummett (1975)参照。

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参考文献

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(16)

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