ラードナー運賃論への序説的一考察 (II)
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(2) 62. 丸 茂 新. を認可した法の内容においてまさに運河の一部でしかなかったので、ここに徴. 集しうる通行料は運河と同様、議会により最高許容額が規定されていた。要す るに18Cに存在した鉄道は未だに鉄道としての独立した経営の主体性を持たず、 炭坑あるいは運河経営に附随する寄生的存在であった。事実1819年においてす. ら、ある百科辞典は鉄道を運河の項目にて説明するほど鉄道経営の主体性は弱 体であった3'。. イギリスにおいて鉄道が運河-の寄生的存在から脱皮し、鉄道独自の経営主 体を確立し、したがって議会においてはじめて"鉄道法-Railway ActHとい う形で承認されるようになったのは、 1801年のSurrey Iron Railway Act(Wan・. dsworth-Croydon問、 9.5マイル)であった。この鉄道法は『首都その他の地. 点への、そしてこれらの地点からの(Croydonを結ぶ)石炭、穀物および他の 商品の運送に便宜を与えるため』一株式100ポンドにて35,000ポンドの株式資. 本を調達し、更に15,000ポンドの社債を発行する権利を与えた。この鉄道はそ の3年後、 1804年に開通したのであるが、運河と同様、貨物運送が殆んど唯一 の対象であり、また`way'に関する広義の運送サービスのみを提供するという. 形態をとった4㌦ 通路公開の原則の適用ならびに通行料に関する最高許容額の. 設定も運河のケースと同様であった。より具体的にこの鉄道法第一号は通行料 に関して次のような等級分類と最高許容額を採用していた6㌦ Ⅸ. The Surrey lron Railway一通行料(1801) (per ton per. 肥料(dung)6). 2 3 4 6 a d a a. 石灰岩、粘土、砂、レンガ、粉炭etc. 錫、鉄、その他の鉱石、石炭、コ-クス、穀物etc・. その他の商品. 3 ) Clapham, loc. °it., p.90. "Ree一s Cyclopaedia.". 4) "The conveyances mostly used on it were four-wheeled trucks, about the size of railway contractors' waggons. They belonged either to local traders or to carriers who let them out on hire, it being doubtful whether the company had. any rolling stock of their own・ The motive power was supplied by horses・ mules or donkeys.H E. A. Pratt, loc. °it., p.223.. 5 ) W. M. Acwortb, The Elements of Railway Economics, oxford, 1924, p・112・.
(3) 63. ラードナー運賃論への序説的一考察(Ⅱ). しかし残念ながら現実の通行料がこの枠内でどのような水準を示tていたか ●. I. は明らかでない。. 1821年の鉄道法および1823年の修正法により成立した重要な石炭鉄道、触 S..ckton and Darlington Railway (1825年開通)はSurrey鉄道の成立後約20. 年を経て、一段と成長した内容を示すものであった。最机この鉄道の発起人、 Mr. Edward PeaseがDurham南部で採掘される石炭のより良い市場を開発. すべく、 1821年に鉄道建設に関する議会の承認を得た際・彼の計画はSurrey 鉄道と同様、馬車鉄道を考えていたo丁度この時、 Killingworth坑山め技士で ぁり、蒸気校閲車の実用性を確信していたGeorge Stephensonはこの鉄道計. 画を聞きつけ彼の蒸気枚関車の採用を説いたoこの結果が1823年の修鹿どな. り、イギリス鉄道史上、最初の蒸気機関車の採用となったo更にこの修正法に. ぉいて伝統的な貨物運送に加えて旅客運送が許可されることになったoすなわ ちStockton and Darlington鉄道は蒸気機関車の採用および自己の鉄道上でめ. 本格的な旅客運送の二点において歴史的な鉄道であったo Lかしこの際こ蒸気. 機関車の利用は貨物運送に限定されていたこと、さらにt唱己の鉄道上での旅 客運送・,といってもこの鉄道会社自らが旅客運送を行なったのではない'こと叱 注意しなければならない7,0なおこの鉄道はSurrey鉄道と異なり自ら150輔の. 貨車をも所有していたoまた従来の慣習通りtt通路公開の原則''の適用を受け ながらも同時に鉄道会社自体がcarrierとして運送行為を営むことが許されて いたようであり、実際、貨物運送は最初からこの鉄道会社自らがtt独占的に''営 んでいたと考えられる。 ところでStockton and Darlington鉄道の最も重要な運送対象は石炭であっ. 6) dung以外の肥料(compost・ manure etC・)は鱒二の等級に入れられてILlるq・ I. 7) Stockton and Darlington鉄道において蒸気機関車は1834年にいたるまで貨物逓送の. みに利用され、旅客運送には使用されなかったo旅客運送は鉄道の開通後2週間を経 てPickersgi11社その他の馬車運送業者に委託され、 1833年までこの形憩で営まれ串 cf.. Jackman,. loc°. cit・,. pp・482-3. ;. E・. A・. Pratt,. loc・・. pp・226-228・ ;. ;.
(4) 64. 丸 茂 新. たが、この石炭の運賃(die Fracht)の最高許容額の設定に閤し実に興味ある 実例がある。 Mr. Edward Peaseがこの日Quaker-lineHを建設しようとした意. 図は、前述のようにDurham南部の石炭に対しより良い市場を与えることにあ ったっ 彼はこの市場をロンドンに求めたのである。しかしまずそれにはDur・ ham南部の炭坑とその石炭の積出し港、 Stockton-on-Teesを能率的な運送手. 段で結ぶ必要があった。そこで彼はこの能率的な運送手段を鉄道に求めたので ある。ところがロンドンの石炭苗場はすでに Stocktonの隣接諸港たとえば. Sunderlandを積出し港とする炭坑の重要な市場であったo 当然、後者はこの. 新参の競争柏手をロンドン苗場からしめ出すためSunderland選出の議員Mr・. Lambtonを通してこの建設案に対し活発な反対運動を展開した。その結果、 ロンドン市場を対寮とし畑、石炭(local sales)に対しては運賃の最高許容額 を、当時の当地における陸上運賃1トン・ 1マイル当り4ペンスに等しく設定. すること、そしてロンドン市場を対象とする石炭に対する運賃の最高許容額は 前者の1/8すなわちV2ペニーとすることを条件としてこの鉄道法案が認可された. Mr. Lambton一拍ま、このように極度に低率の運賃をもってすれば Stockton. and Darlington鉄道の経営はなり立たず、早かれ遅かれこの鉄道はほうむり. 去られるものと確信したのである。しかし現実はこの極めて低率な運賃に基づ く石炭運送こそ、逆にこの鉄道にとって"dividend paying business"である. ことを証明し、人々の日をみはらせたのである8㌧ この事実は、 -I-両:=おいて鉄道に秘められた潜在力の大きさをまざまざと見. せつけると同時に、他面、この潜在力の大きさは近い将来、当時隆盛を極めた. 運河時代に終止符を打つことがますます確実になりつつある事を悟らせるもの であった。 1821年Thomas Grayは鉄道との関連において運河の将来を次のよ. うに見通していた9㌦ -the time (is) Hfast approaching when raiレways must, from their. manifest superiority in every respect, supersede the necessity both. 8) G. Cohn, Die Entwicklung, loc. °it., pp.21-22 ; Kirkaldy & Evans, loc. °it., p.35.. 9) C.i. E/A. Pratt, loc. cit., p.221..
(5) ラードナー運賃論-の序説的一考察(Ⅱ). 65. of canals and turnpike roads, So far as the general commerce of the country (is) concerned・". さてほとんど定説として近代的鉄道の成立は、 1826年の議会にてその建設が 承認され、 1830年に開通したLiverpool and Mancbester鉄道に求められてい. る。我々が後に問薩にするDionysius Lardnerも同様の見解をとる10'oその根. 拠は人によりまちまちであるが大体次の三点にまとめる事が出来よう。第一に この鉄道はイギリスにおける最初の、厳密な意味でのHcommon carrierHであ. ること。第二にこのHcommon carrier日の運送行為に関し全面的に蒸気機関. 車を採用して動力の機械化を達成したこと0第三にこの鉄道が石炭あるいは鉱 石という特定の運送対象に限定されない厳密な意味でのHcommon carrierH. であるばかりでなく、現実にこの鉄道会社がこの鉄道上の唯一のHcommon ca,,ierHとして営まれたので、ここに近代的な意味の運賃(rate)が発生した. こと、以上の三点であるo更にもう一点交通経済史の観点から興味ある事実は、 この鉄道こそイギリス鉄道史上はじめて運河との直接的な競争のうちに生れ、 育ちそして勝ち抜いた鉄道であったことである11'oしかもその相手は運河時代 を通して最も強力なBridgewater Canalであったから12'この競争を勝ち抜いた. 意義は極めて大きかったo. ところで一般に冬季の水路の凍結と夏季の水路の減水による運河の運送力の. 低下は運河にとって重大な技術的欠陥であった。更に運河会社に対しては通行 料の齢前官領が規定されていても倉庫保管料をはじめ、水路以外の附帯設備 の利鞘こ関する料金の規制は何等存在しなかった。そのような関係で運河は望 むなら、令法的に極めて大きな負担を利用者に課すことが出来たのである。 18' _. -. --・--. -I-▲-Lー. 10) Dionysius Lardner, Railway Economy, New York・ 1850・ p・ 57・. ll) Prattによれば、運河との直接的な対立において鉄道の建設が計画された最初のケー スはLiverpool and Manchester鉄道が計画される25年前に議会で間鮭になったAber・. cynon-cardiff間の鉄道延長計画であったというo Lかしこれは結局、運河の反対勢 力により押しつぶされてしまったo Cf・E・A・ Pratt・ loc・ cit・・ pp・214-219・. 12) "Bradshaw, the superintendent of the Bridgewater Canal・ whose authority was alm。st as good as law." Jackman, loc° cit・, p・523・. 13) Jackman, loc. cit・, p・516 et seq・.
(6) 66. 丸 茂 新. この運河運送に伴う技術的ならびに経済的制約は、産業革命後期(1820'S)の. 累増する運送量を処理しなければならない製造業者および商人にとって大きな 悩みの種であった。このような事情においてLiverpoolおよびMancbester両 市の市民は前述のStockton and Darlington鉄道(1825年開通)その他の鉄道. の実状を検討した結果、 Bridgewater運河に対抗して、近代的鉄道を建設する ことにした14'。この鉄道建設計画は当然、 Bridgewater運河、 Mersey&Irwell. Navigationその他の猛烈な反対にさらされた。結局この鉄道法案は1826年、. 第二回目の上控においてからくも議会の承認を得ることに成功した。 さてイギリスにおける最初の近代的鉄道をもたらした1826年の鉄道法は、そ れ以前の鉄道に対すると同様、運河法と深い関連をもっていた。 tt通路公開の 原則''および通行料の最高許容額の設定という統制上の二つの基礎は1826年の この法においても等しく推持された.更に鉄道に隣接する者(die Angrenzer). が支線を建設する自由、配当に対する上限(lo劣)の設定、更にまた純収入が この上限を越える配当を与える余裕のある場合には議会はこの通行料の最高許. 容額を引き下げる権利を留保したこと等、これらは全て運河法にて認められた ケースであった11'ところで1826年の法により設定されたLiverpool and Man.. cbester鉄道に対する貨物運送に関する通行料の最高許容額は次のごとき内容 のものであった1¢)0. 14)このL&M鉄道の設立委員会は1824年5月、 Liverpool市長を委員長として発足した。. この委員会はまずBridgewater運河に対し、運河の運送能力を拡大し同時に運賃なり. 通行料の値下げが不可能かどうか打診した。しかしこの点については全面的に否定す る答しか得られなかった。そこで鮪二乗として、この両市間に鉄道を建設する場合、 この鉄道の株式のかなりの部分を引受けてくれるかどうか問うてみた。これに対し、 運河は引受けるとすれば全株式でないと応諾出来ないと答えた。当時、この地の水量 からおして新たな運河の建設は技術的に不可能であったので、この設立委員会に残さ れた方法は万難を排して鉄道を建設する以外になかった。 Cf. G. Cohn, loc. °it., pp. 29-30.. 15) G. Cohnは、配当に対する上限の設定は運河では存在しなかった(Die Entwicklung, loc. cit., p.37)というが、我々はPrattの取り上げるGlamol・ganShire Canalのケー. ス(loc. °it., p.218 et p.238)から8%の上限の存在したことを知る。. 16) Acworth, loc. cit., pp.113-114 ; G. Cohn, Die Entwicklung, loc. cit., p. 35..
(7) ラードナー運賃論への序説的一考察(Ⅱ). X. L & M鉄道一貨物通行料(1826) (per ton per mile) 血 塊血 塊血. l 1 2 2 3. 石灰岩. dd. 石炭、石灰、肥料、道路建設用資材 コークス、木炭、石材、砂利、陶土、レンガetc・. 砂糖、穀物、小麦粉、木材、鉛、鉄etc・. 木桶、羊毛、皮革、薬品、工業製品 その他. また鉄道以外の運送業者がこの鉄道上で旅客運送あるいは家畜の運送を行なう. 場合に、鉄道がこれら運送業者に課しうる通行料の最高許容額は次のように規 定された。ついでながらこれら鉄道以外の運送業者が使用する運搬車輪それ自. 休による線路の使用は運河における船舶と同様、無料であり、この種の通行料 が適用されるのは車輪に積み込まれた運送対象についてであるo xl. L & M鉄道一旅客(家畜)通行料(1826) (旅客) 0-10マイル. ls. 6d. per. passenger. 10-20マイル. 2S. 6d. 〝. 20-33マイル. 4S. Od. 〝. (家畜) 0-15マイル 15-33マイル. 2S. 6d. per. head. 4S. Od. 〝. なおこの鉄道はtt通路公開の原則'・を適用されながら同時に自らcarrierと. して運送行為を行なうことが許可された関係で17'貨物運送に関しては通行料を 17)我々はこの際、 G・ CohnにしたがってL&M鉄道はcarrierとしての企業行為が`許. 可されだとの解釈を採用するが、 Jackmanは貨物運送に関する限り、むしろこの鉄 道が唯一のcarrierであることを`法的に要請された'と説明している。 =Dann wi一d abe一 der Eisenbabngesellscbaft die Erlaubniss gegeben・ auch selber. alS Frachtfiihrer auf ihrer Bahn Gesc旭fte zu treiben・・・H G・ Cohn・ Die Entwicklung, loc° cit・, p・ 35・. "That company was required by its Act to undertake the carriage of any goods. that might be brought to its representatives for conveyancealOng the line ;and thus private carriers were excluded from a share in the goods traffic・H Jack・ man, loc. °it., p・625・.
(8) 丸 茂 新.. 68. 含む運賃の形態においても最高許容額が規定された18'。 油. L & M鉄道一貨物(通行料+運賃) (1826) (per ton). 石灰岩、肥料、道路建設用資材、砂利、木材etc・. 8S. Od (33マイル). 砂糖、穀物、小麦粉、鉛、鉄etc・. 9S. Od 〝. 木桶、羊毛、皮革、薬品、食料雑貨類、工業製品. lls. Od 〝. アルコール飲料、硫酸、ガラスその他の危険晶. 14S. Od 〝. 二二========- ∴ =・・・・・・=-======================一 二 二二 〇 '■■■■■■■■■■■■■■■■=. 石炭、コークス、木炭、粉石炭、灰. 21/2d (permile). なおXB表では最後の項目以外はiLiverpooトManchester間、 33マイルの全長距. 離を対象にしたものであるが、これ以外の運送距離を持つ貨物は距離に比例し てトン当りの最高許容額が規定された。しかしその場合、同時にトン当り最低 2シリングという下限(minimum)も設定されたようである19㌦. ところで貨物運送に関する通行料+運賃兇最高許容額は以上のように規定さ. れたが、鉄道が自ら行なう歩客運送車る照奉養担運送にについては具体的な 最高許容額の設定は存在しなかった。ただ抽象的に.'.i_r・easonable chargeHを課 すよう要請しているにすぎない。 Acworthはその理由を、 St∝kton and Dar・. lington鉄道で経験したような鉄道上での旅客運送に関する競争が旅客運賃を. 低い水準に止めおくものと考えられたからであると説明する20'O HMaximum rates are fixed for goods, not for persons, cattle, and other animals. Evidently it was supposed that coach proprietors and dro・ Yers would be able to compete with their own vehicles and so keep down prices.". 18) Acworth, loc. °it., p・115 ; G・ Cohn, loc・ cit・, pp・ 35-36・. 19) Cf. G.Cohn, Die Entwicklung, loc cit・, p・36・この`minimum'は恐らく次のような. 事晴を意味するものと息われる,石灰岩を問産にするとこのトン・マイル当りの`rate' は-3完-一昔-3・2dであるoしたが-て、 1-7・5-イルの運送距離ではトン当りの rateは2シリング以下である。しかしこの`minimum'の規定により1-7・5マイノYの. 運送拒柾でも石灰岩に対するrateは最低2シリングであることを要した・あるいは2 シリングものrateを課すことが出来たと解される。 20) Acworth, 1∝. cit・, p・ 115・.
(9) ラードナー運賃論-の序説的一考察(Ⅱ). 69. いずれにせよ1830年以前の鉄道はいわゆる=mineral linesHであり旅客運送. は全く二義的なものでしかなかった。事実1830年に開通したLiverpool and. Manchester鉄道ですら、その建設の殆んど唯一の動機は、すでに指摘したよ うに貨物運送にあった。とはいえ結果的にはこのLiverpool and Manchester 鉄道こそイギリスにおけるHThe first real passenger lineHであった2"oとこ. ろでこの鉄道が前述のHr甲SOnable chargeHの規定に則して現実に課した旅客 運賃(通行料をも含む)は1830年の開通時においてLiverpool-Manchester間、. 一等旅客5シリング、二等旅客3シリング6ペンスであった22'o. ィギリスにおける最初の近代的鉄道と称されるこの鉄道は以上のような通行 料ならびに運賃に関する法的規制の下に1830年、営業を開始したoしかし実際、 この鉄道は最初から旅客運送、貨物運送両者についての唯一のCa汀ierであっ. たようである。したがってこの鉄道においてイギリス鉄道史上はじめて交通機. 関の三要素、通路、運搬具、動力が全面的に統合されて新たな運送サービスの 概念と新たな運賃概念が生れるに至ったoその後イギリスの鉄道が技術的なら びに経済的合理性の追求を通してますますこの三要素のtt統合化''を進めるにつ れてtt運賃,,の概念は支配的に、いわゆる広義の運送サービスの対価としての通. 行料と狭義の運送サービスの対価としての運賃の統合された内容を意味するよ うになった。かくして、それまで無秩序に使用されて来たtollおよびrateの 名称は2S,その後、 tollは通行料を、そしてrateは通路、運搬具、動力の利用. に関して鉄道の要求する総合的な対価を意味するものとして区別されることに なった。 1845年の"maximum rate clauseHは24'その良き一例であるo我々も ._ _■・...-.-I. I. I----------. 21) Acworth , loc. cit・, p・68・ 22) Mr. Boothの証言、 Jacknan, loc・ cit・, p・527 note 1 ; G・ Cohn・ Die Entwicklung・ loc. °it., p. 162.. 23)たとえば、かなり一般的に使用されていた"road tolls", "conveyance tollsH・ …locomo・. tive tolls"のような表現。あるいはまた、ある場合には通行料を、ある場合には旧 来の運賃を意味した"rate"の表現. Cf・ E・ A・ Pratt, loc・ cit・・ p・336 ; Acworth loc・. cit., pp.110-115.. 24)この条項は、鉄道が前述の総合的な運送サ-ビスを提供する傾向が顕著になるにつれ、 鉄道がこの種の総合的な運送サービスを提供する場合に課す`運賃-rate'は、元々規 定されているway, vehicle, motive powerの最高許容額の総和以下でなければなら. ぬことを改めて規定した条項である。.
(10) 70. 丸 茂 新. 以後、単に運賃という場合、それは新たな意味における`rate・を意味するもの とする。 HA toll is a charge for the use of the road. A rate is an inclusive charge for the use of the roadand the service of carriage over it.=25) なお以上の事情からしてLiverpool and Manchester鉄道にとり実質的に意. 味のある最高許容額の統制はXu表の統制であったoこの貨物運賃に関する最高 許容額についてみられる等級分類の特質は、運河のケースと同様、商品の価格. を最も重要な指標とする負担力原理の適用である。更にイギリスにおける最初 の近代的運河、 Bridgewater Canalに対しては等級分類という形態での最高許. 容額の規制は存在しなかったが、この最初の近代的鉄道Liverpool and Man. chester鉄道、更に逆のぼって1801年のSurrey鉄道ですら、最初から等級分類. の形態で最高許容額が規制された事は注目すべき事実である。すなわちBridge. water Canalの開通当時(1761年および1767年)この運河は未だ独占的差別運. 賃を課すほど成長していなかった。しかしその後、運河の独占力の成長は、す. でにみたように差別通行料の実践を一般化し、これに対応して議会は同様に等. 級分類制度による最高許容額の統制に移行していった。記録に残るこの種の最 古のケースはGlamorganshire Canal Act (1790年)であった。そしてこのよ. うな歴史事情を背景として、いわば運河の分身として生成した鉄道は当然、運 河と同様に独占化の方向に進むものと考え、議会はむしろ事前的対策として、. 運河に対するものと同様の等級分類に基づく最高許容額の規制をそのまま鉄道 に対して導入したと考えられる26'。. さて近代的鉄道における等級分類制度としての最高許容額は以上の如くであ. るとしても、これは必らずしも現実の運賃水準ではない。しかし残念ながら Liverpool and Manchester鉄道の現実の貨物運賃がどのような水準にあった. か分らない。ただねckmanによれば、この鉄道は運河との競争を考慮して、. 25) Acworth, loc. cit., p. 115 note 1. 26) Cf・正・ A・ Pratt, loc. ciせ., pp.258, 261-262, 290..
(11) 71. ラードナ-運賃論-の序説的一考察(i). 現実には最高許容額以下の運賃を課していた、という27)oいずれにしろこの近 代的鉄道は上記の貨物運賃の統制の下に、そして自らがりreasonable chargeH. と判断した差別的旅客運賃の下で、 1831年の上半期(1月1日-6月30日)に. おいて次のような営業成績を上げた28㌔ ⅩⅠⅠI L & M鉄道-1831年上半期収支計算. 旅客運賃収入. £ 43,600 7S・ 5d・. 貨物運賃収入 雑 貨. 石. £ 21,875 0S. Od・ 218 16. S. 2. a.. 総運賃収入. £ 65,694 3S. 7d・. 修理費、給料etc・. £ 35,379. 純運賃収入. £ 30,315 3S・ 7d・. Os. Od.. この際、極めて驚くべき事実は、運河および初期の鉄道時代を通して伝統的 に椎持されて来た貨物運賃収入の一義的な重要性がこの近代的鉄道の成立にお いて二義的な地位に追いやられたことである。この意味においてもしiverpool and Manchester鉄道はイギリス鉄道史上、重要な転換期を形成する鉄道であ った。. (2)鉄道の独占化傾向. 鉄道時代初期の鉄道は、運河が一般にそうであったように、極めて地方的な ものであった。そしてその鉄道の成功、不成功も問題の地域の"1∝al business-. men-の決断力に左右される場合が多かった29}。これら初期の一地方に限定さ. れた鉄道の独占化傾向は、まず伝統的なtt通路公開の原則"を実質的に無効なも のとなし、鉄道は独占的なHwayHに加えて運送行為(carriage)の独占をも求. める行為に認められる。もっともこの交通の技術的な三要素を統合して鉄道が 特定線路上の唯このCarrierであろうとする主たる動機は、私的利潤の追求も 27) Jackman, loc° cit・, p・625・. 28) Annual Register, 1831, Jackman・ loc・ cit・, p・528 note 2・この資料では総運賃収入. が£ 65, 694 13S. 7d.と誤記されていたのをこの際、修正して記入した0 29) Clapham, loc・ cit・, p・ 386・.
(12) 72 丸茂 新. さることながら、従来のWayとcarriageの経営主体の分離がもたらす運送能. 率上の欠陥あるいは同一繰上での競争行為がもたらす危際性を除去することに ぁったと考えられるoたとえがtocktonand Darlingtoh鉄道は通路公開の原. 則にしたがって、開通後間もなく貨物運送はこの鉄道会社が自ら蒸難関車に ょり、そして旅客運送は馬車運送業者を通して馬車により行なわれたoしかし 鉄道会社による貨物運送と馬車業者による旅客運送の間には、当初何等の時間 調整もなぐ0,、したがって最もスピードの遅い車が全体のpaCe makerとなる. 状態であった。また蒸気機関車による貨物運送と馬車による旅客運送がこのよ ぅに無秩序に同一線路上を運行することは極めて危険な行為であったo St∝k・ ton and Darlington鉄道は、実際この間題の故に余分の待避線(sidings)を. 建設しなければならなかった8日。しかし結局、蒸気機関車という画期的な動力 の機械化を実現した鉄道がそこに創造された新たな運送力を充分に利用するに. は、単一の経営主体が単に線路を支配するのみならず、線路上の運送行為全般 にわたって完全な支配権を持たねばならないことを彼等の貴重な経験を通して 認識したのである各色,0 1830年代の後期においてwayとcarriageの経営には次 の4つの型がみられたo第一の型はLiverp00l and Manchester鉄道のように. wayの経営者が同時に唯一のCarrierであるという型であるoこの当時すでに Leeds and Selby鉄道, Newcastle and Carlisle鉄道, Grand Junction鉄. 道はこのグループに属していた0第二の型は鉄道の経営者が運搬車柄と動力機. 関を所有するが自らは運送行為を行なわず、特定数の運送業者に運搬輔と動 力機械を貸し与えて運送行為を行なわすものであるo London and Birming-. ham鉄道はこのグループに属した0第三の型は鉄道の経営者が全ての運送行為 をある一つの運送業者に全面的に委託するものであり、 Bolton and Leigh鉄 30)開通後5年を経て1830年1月 この鉄道は馬車運送業者のために発車時刻表を作成したo E. A. Pratt, loc° cit・, p・ 227・. 3ユ) Ⅹi血ldy & Evans, 1∝・ cit・・ p・34・. 32) HBut no sooner Were railways worked on a large scale with locomotive power. than it was found inpracticable for the public in generalto use the lines either with carriages or locomotive engines・H Report・ Royal Commission・ 1867・ G・ C血・ Die Entwicklung, l∝・ cit・・ p・ 45・.
(13) ラードナー運賃論-の序説的一考察(Ⅱ). 73. 道がこの型の鉄道であった。第四の・型は前述のSt∝kton and Darlington鉄道. にみられるもので、鉄道の経営者自らがcarrierであり、同時に鉄道以外の運 送業者もcarrierとして同一の線路を利用するケースである33㌦ しかしこれら. 4つの型は時代が進むにつれ次第に第一の、鉄道自身が唯一のcarrierとなる. 方向に進んだ。そして1840年代中期の大規模な合併・吸収は鉄道会社による運. 送業務の独占化をほぼ完成せしめたのである。かくして1846年以後、法的な t可能性''は一応別にして、現実に鉄道はwayの所有者であると同時に、 way での唯一のcarrierであるという近代的な構造を持つにいたった。 -tt通路公 開の原則''の崩壊。. さて鉄道は自己の線路上での運送行為に関する競争性を排除してのち、更に 一層重要な競争性の排除の方向に向う。その一つは運河運送との競争性の排除 であり、他の一つは鉄道間の競争性の排除である。ところで鉄道時代の初期に おいていくつかの鉄道は運河あるいは内陸水運の独占を破壊することこそ、そ の主たる建設目的であった。しかし1840年頃までは、一般に鉄道の運河に対す. る競争は極めてゆるやかに進行した関係で、運河会社が積極的に自己の競争力 を改善する努力を払っていなかった34㌦そのような事情において1845-46年の. 鉄道ブームそして鉄道王、 Hudsonに代表されるような鉄道の吸収・合併が運. 河に対し激しい圧力を加えはじめると、運河会社は鉄道の顕在的ならびに潜在 的な力を前にして相手の条件次第では容易に運河経営を手離す気運にかられて いた。鉄道はこの運河の動揺を巧みに利用して運河運送の最大の弱点を攻め、 運河運送をマヒさせてしまうのである。運河の運送ルートは、一般にかなりの 数の独立した運河会社により一つのtbrough routeが形成されていた。たとえ ば1883年においてすらロンドンとLiverpoolを結ぶ3本の運河のthroughrou・. tesはそれぞれ9-10社の運河から成っていた。 1840-50年の時代においてこ. の分割傾向はJackmanの指摘するように更に強いものであったろう35㌦ この 33) Cf. Clapham, loc. cit., p・ 416. 34) Clapbam, loc. °it., p. 396.. 35) "If, in 1883, there was such lack of unity, it could not have been less, but,. possibly, more diverse in the period before the middle of the century・" Jackman, loc. °it., p. 651..
(14) 74. 丸 茂 新. ような事情の下で鉄道は運河のthrough routeの基幹的な部分のみを冗収する. だけで、この他roughroute全体を支配することが出来た。鉄道はこの基幹部. 分の営業権を手に入れると直ちにこの運河に与えられている最高許容額の水準 ぎりぎりまで通行料を引き上げ、かくしてそのルートを構成する他の多数の運 河が鉄道のthrough routeと競争出来ないように仕向けたのである。この方法. とそ鉄道が運河運送をマヒさせ、破壊させるために用いた最も初期の、そして 轟も効果的な手段の一つであった867。 HThe most important method by which the railway companies have defeated the competition of canals has been the purchase of important links in the system of navigation and the discouragement of through. traffic,--H The Joint Select Committee, 1872.. 更にこの効果的な手段が実践出来ず、鉄道と運河の問に競争が存在する場合 古とは、鉄道は運河運送との関係において代替性の小さい高級貨物および旅客に. 対して最高許容額ぎりぎりの高率運賃を、そして代替性の大きい低級貨物に対 してばt破壊的な''低率運賃を課すことによって運河を圧迫した。 1845年3月、 Lord Campbellを通して鉄道のtt極めて不当な攻撃''に対する善処を議会に申 し立てたBirmingham Canal はまさにこのような状態におかれていたのであ. る。競争地点間には極めて低率の運賃を課し、非競争地点間には高率の運賃を. 課すというよく知られた鉄道の差別運賃政策も、同様にこの当時の運河との競 争においてすでに経験した事実であった37㌦運河は鉄道によるこのような圧迫 の下で一般的な運賃水準の低下は勿論のこと、伝統的な運河の等級分類という. 運賃構造すら放棄してしまった事はすでに指摘したとおりである。そしてこの l. ことは実質的に鉄道に対する運河の敗退を意味した38㌦. さて19C中期において運河時代の終息を決定的なものとした鉄道は、もはや. 36) Jackman, loc. °it., pp. 654-655. 37) Cf. Jackman, loc. °it., pp. 643 et seq ; G・ Colln, Die Entwicklung, loc・ cit・, p・225・. 38) 「長拒離運送に関する鉄道と運河の鋭争は19 Cの中頃にはすでに実質的に消滅してい たといえる」 Jackman, loc. °it., pp. 660-661.. ト.
(15) ラードナ-運賃論への序説的一考察(Ⅱ). 75.. 19C初頭にみられた一地方に限定されるような鉄道ではなかったo鉄道はすで に重要都市間を結ぶ幹線体系の一環としての鉄道にまで成長していたのであるo Lかしこの際、 19C中期の幹線体系の成立はベルギーにみられたような中央政. 府の見事な行政指導の下に実現したものとは対象的に的'イギリスにおいては鉄. 道会社の私的利潤追求の結果として自然発生的に生成した事実を見落してはな らない。すでに我々がみたように鉄道時代の初期においては、鉄道は運河と同 様、 wayに関する独占的経営は許すが、線路上の運送行為は複数の運送業者な いし利用者による競争が支配するもの、すべきものとの見解が一般的であったo. しかしながら現実の鉄道経営は、技術的、経済的理由により鉄道会社が交通の. 三要素を統合して独占的に支配し・伝統的な通路上の競争が存在する余地がな いという方向に進んでいったoこのような事情において議会はこの失なわれた tt通路上の競争,,の代償を、今度ば蘭豊間の競争・・に求めるようになった40'o "It became the established policy of the State to promote competition. between the railway companies themselves by encouraging the construction of competitive lines or otherwise・ thus still protecting, as. was thought, the interests of railway users・ and checking any mOnOpolistic tendencies on the part of the railway companies・=. そしてこのような議会の態度を一つの重要な基礎として生じた1845-6年の. 鉄道マニアはその規模の大きさにおいてイギリス鉄道史上、比類のないもので ぁった。ちなみに1826年から1846年の20年間において議会が承認した鉄道建設 のための資本金額は£286,000,000であったoこのうち1826年から1843年まで の金額は£80,000,000でしかなかったのに比べ、 1845年と1846年の2年間で£ 192,000,000が承認されたのである4日。またJackmanによれば、 1844年から46 39) "The Belgian Government was quick to lay out an admirable railroad system '・ .・・ Nowhere, except in Belgium'were the lines systematically arranged・H A・ T・ Hadley, Railroad Transportation : Its History and Its Laws・ 12th lmpression・ 1900, p.10.. 40) E. A. Pratt, loc・ cit・, p・ 260・. 41) 1871年におけるU・K・の路線マイル数は15,376マイルであったが・ 1844-47年の4年 間には9, 397マイルが承認されていたo G・ Cohn・ Die Entwicklung・ loc・ cit・, pp・ 259 -260..
(16) 丸 茂 新. 76. 年の3年間に議会が承認した路線マイル数は8,470マイルで、当時すでに存在 したマイル数の約3倍に相当したといわれる42'。. このような激しい鉄道建設熱は、一時的には議会の意図したtt鉄道問の競争'' を保証するかに見えた。また当時支配的だったBuchanan-M'Culloch流のtt競. 争本質観''に照して自由の場における競争はtt人間の本質が変らない限り''永 遠の生命を保ちつづけることが期待された48㌦しかし1830年代および40年代に 新たに生れて来た都市ガス、水道あるいは鉄道という、いわゆる"octopoid"産 業は長らく支配的であったBuchanan-M'Culloch流の競争本質観にまさに修. 正を要求するものであった。. さて鉄道間の協調行為あるいは吸政・合併それ自休は鉄道マニアの始まるず っと以前から存在した。鉄道時代の初期において個々の鉄道の営業距離は比較 的短かく、たとえばLondon-Liverpool問は三つの鉄道が補完的に一本のth・. rough routeを形成していた。したがって、このような事情の下に進められる. 何等かの協調行為あるいは吸収・合併の意図は、概して経営の合理化と運送サ ービスの向上であり、競争性の排除それ自体を目的とするものではなかった44'o. 42) Jackman, loc. cit・, p・585・. 43) Herman Levyによれば、 Adam Smithは個人の利益と妖争を無条件に結びつけるも. のではなかった。すなわち、 Adam Smithは競争が、比較的少数の個人の間に存在す る場合、この競争はHCombinationHの形態に進む可能性を留保していたo しかし彼 の二人の直弟子、 BucbananとM'Cullockは、企業数の大小を問わず利己心(self-. interest)に基づく競争こそ企業を営む際の最も強力な動機であり、もしたとえ一時. 的に利己心が何等かの協調行為をとらせるとしても・この同じ利己心がその協調行為 を破壊して再び元の競争に戻ると説いた。 =・・・a combination of rivaltraders is a phenomenoll Which, until human nature. is changed, will never be exhibited・" uNo trader will keep up his prices for the profit of others ; he will always sell when it suits his own convenience・ and upon this prlnCiple accordingly is founded all this rivalship of trade・M HThe. same prlmiple of selfishness which prompts them to form the league・ prompts 也em also to break it. Rival traders have no confidence in each other ; not two. 。f them will ever act in concert." -Buchanan. J.S. Millは1830'S-1840'Sの鉄道、. 都市ガス、水道の実例に基づて、この種の競争本質観に対し疑いの目を向けた最初の 学者であった. Herman Levy, Monopoly and Competition, A Study in English. lndustrialOrganization, London, 1911, pp・ 97-104・ 44) Jadこman, l∝. °it., p・ 587..
(17) ラードナー運賃論への序説的一考察(芯). 77. しかし時代が進むにつれ、一方において鉄道間の補完的必要性がうすれ・他方、. 逆に鉄道ブームなどにより顕在的、潜在的な競争路線が積極的に創造されて来. ると、吸収・合併の意図は、経営能率をたとえ犠牲にしても、まずとにかく競 争を排除するという方向に変化していった. "(The railways)sought to protect themselves as they best could, :and justified their many unprOfitable extensions and amalgamations-.一結局、議会がtt道路上の失なわれた競争''の. 代償とLTCtt鉄道問の競争〟を実現しようとした結果は、極めて高価な浪酢' を伴った幹線鉄道体系の一応の完成と鉄道の独占でしかなかったo. さて鉄道が一端、独占的経営権を獲得し、その権力を充分意識する限り、 18 88年にいたるまでのいわばtt実質的に''自由な運賃設定の歴史事情の下では、 ・quantity adjusterHとしてよりはむしろ独占の固有的性質であるHprice adjus・. ter-として私的な極大利潤の追求をめざすのは自然な姿であったo実際・ 1844. 年、 Gladstoneの提唱により設立された調査委員会は、とりわけこの方面での. 鉄道の徹底した努力に驚かされたoこれについては次のような実例があるo Grand Junction鉄道はもともとMancheste←-Birmingham間の旅客運送を. 独占的に営んでいたoところが新たにManchester and Birmingham鉄道の建. 設計画が生れ、この計画ではCrewe経由のより短い運送距離でもってこの二 都市を結ぶことになっていたoもちろんGrand Junction鉄道は議会での反対. 工作を通じてこの競争路線の実現を阻もうとしたのであるが・結局阻止し切れ. 45)当時のRailway Napoleonと称され、また19C中期の吸収・合併の代表的人物Gg〝gg. Hudsonはこの高価な浪費について次の如く説明するo ttこのような投機熱の結果は、. これが新たな競争路線を生み出す限り、一般の利用者に何等の利益を与えることなく・ ただ既存の鉄道の価値を下げるだけであるo最初、 2-3カ月は新・旧両路線の間の 競争は利用者に利益を与えることもあろうoがしかし結臥利用者はこの一時的に得 られる競争の利益に対し(後ほど設定される)より高率の運賃により償なわれねばな らない。というのも鉄道間の競争は必然的に彼等(鉄道)の妥協に向わざるを得ない からである'' 更にLondonand Brighton鉄道の取締役Rowland HiZlは、 tt競争的な鉄道の建設は. 資本の浪費でしかない0 -・・・競争は競争者の数が実質的に無限である場合にのみ有益 である。しかし鉄道においてこのような事情は不可能である''Cf・ G・Cohn・ Die Ent・ wid⊂lung, loc. °it., pp. 118-121・.
(18) 78 丸茂 新. なかった。そのような事情においてGrand Junction鉄道は一転してMancbes・. ter and Birmingbam鉄道に働らきかけ、名目的には一応二つの独立した鉄道. 会社の形態をとりながらも、実質的に一つの鉄道会社にすぎないという結果に 導いてしまったのである。すなわち両鉄道問に成立した協定によりManches・ ter and Birmingham鉄道は、 Manchester-Crewe間の短縮区間に限って新. 線を建設すること、残りの区間は従来のGrand Juncton鉄道の線路を利用す ること、そしてMancbeste-Birmingham間の全線は両鉄道により共同して. 利用されることとなったo更にこの両鉄道の間に成立した運賃協定により、従. 来のより長い運送距離を持つ両市間の旅客運賃は次のように大巾に値上げされ た。. 旧く 三等琵書 写左'./!.', I(y芳. 新( 三等菜箸 22Ztl/!.',. 1(yg,1:A. 更に新たに三等旅客をも収用する普通列車を走らせて、これに対しては次の ような運賃を課した48㌦ 一等旅客. 節. 211 483 シシシ. 日日ノリリ. ンンン. グググ. 6ペンス. 二等旅客 i 三等旅客. もっとも運賃収入の極大を望む場合・運賃を常に上方に動かすとは限らない0 時には上方に、時には下方に、鉄道は試行錯誤の方法を通して極大収入を与え る運賃を追求したoなおこのような劃青においては、 Rowland Hillあるいは. Lawsの証言が示すように47,、費用原理は現実に、二義的な存在でしかなかっ た。 1843年8月、 Rowland Hillの率いるLondon and Brighton鉄道はそれまで. の両市を結ぶ旅客運賃. 46) G. Cohn, Die Entwicklung・ loc・ cit・・ pp・ 128-129・ 47) HNicht die IIerstellungskosten・ Sondern dierser zu ermittelnde Punkt der h8ch. sten Dividende ist, Sobald einmal die Eisenbahn im Gange ist・ das Entscheidende 肋er die H6he des Tarifs・H G・ Cohn・ Die Entwicklung・ loc・ cit・・ p・ 129・.
(19) 79. ラ-ドナ-運賃論への序説的一考察(Ⅱ). 一等旅客 旧. 141 07 シシシ. 日ソ日払日ソ. ンンン. グググ. 二等旅客 i 三等旅客. を各等級について2シリングづつの値下げを行なったoこの結果、享等旅琴は. 大巾に増大し、旅客数全体としても20%の増加がみられたoしかし他方一等旅 客および二等旅客、とりわけ二等旅客は、以前、旅客数全体の38%を占めてい ▲. .. たものが29%に下ったo Lかしこの運賃の低下は期待された運賃収入の増大と いう目的を一応果したoすなわち総収入は1842年の下半期と1843年の下半期を 比較して、後者は9,195ポンドの増収をもたらしたのである48'0 1767年、 Lancashire南部の重要な二つの都市、 LiverpoolとManchestefを. 結ぶ運送ルートは、イギリスにおける最初の近代的運河を生み出した。そして その後約70年、 1830年に稀しくもこの同一の運送ルートがイギリスにおける故. 初の近代的鉄道を生み出したoそして後者は、既に指摘したように前者の鮎 を消滅すべき目的でもって生れたのであった。しかし奇妙な運命ではあるが・. 鉄道はその後の急速な発展の過程において、もともと自らが排斥した独占をも 身につける結果となった4"oしかも50年足らずの期間を経て鉄道の内に再生し. た独占はそれまでの想像をはるかに越えた強力な独占であり、今や鉄掛とおけ るt唱由競争の原理〟は経験上、幻想(eine Tadschung)にすぎぬも甲となっ ていた50,。そしてこのような歴史的背景において、 1850年、 Dionysius Lar-. dn占rがイギリスにおける最初の、歴史的な鉄道運賃諭を展開した際、離遜 I. 賃論が独占運賃論として展開されたのも当然の帰結であったo. (筆者は関西学院大学商学部講師). 48) G. Cohn, Die Entwicklung, loc・ cit・, pp・130-131・ 49) Liverpooland Manchester鉄道の重要なプロモ-タ-の一人、 Huskissonがこの新 たな鉄道はBridgewater CanalおよびMersey and lrwell Navigationの水運が有. する巨大な独占を破壊するものであると説明した際、 Bridgewater Canalの経営者、 captain Bradshawぱtこの鉄道もまたその所有者の独占となろう''と予言していたo cf. G. Cohn, Die Entwicklung'loc・ cit・・ p・ 32・. 50) G. Cohn, Zur Beurtheilung der Englishen Eisenbahnpolitik・ Leipzig・ 1875・ p・ 3・.
(20) 80. 丸 茂 新. (参考文献〕 E. A. Pratt. A History of Inland Transport and Communication ln England, London, 1912.. G. M. Trevelyan, Illustrated History of England, London, 1962.. W. T. Jackman, The Development of Transportation in Modern England, London, 1962.. Sidneyand Beatrice Webb, The Story of the Xing's Highway, London, 1963・ J. S. Mill, Principles of Political Economy, New York, 1884.. アダム・スミス、 tt諸国民の富''、大内兵衛、松川七郎訳、岩波書店、昭和41年0. 富永祐胎、交通学の生成、日本評論社、昭和18年。 R. A.マスグレイヴ、財政理論Ⅰ、大阪大学財政研究会訳、有斐閣、昭和36年。 Gustav Cohn, Die Entwicklung der Eisenbahngesetzgebung in England, Leipzig, 1874・. Zur Beurtheilung der Englischen Eisenbahnpolitik, Leipzig, 1875. Die Englische Eisenbahnpolitik der Letzten Zehn Jahre, Leipzig, 1883・. paul Mantoux, The IndustrialRevolution in the Eighteenth Century, London, 1964・ A. W. Kirkaldy and A. D. Evans, The Historyand Economics of Transport, London, 1915 (?).. T. S. Ashton, An Economic History of Modern Britain : The 18th Century, London, 1964. ∫. H. Clapham, Am Economic History of Modern Britain : The Early Railway Age,. Cambridge, 1959. ∫. E. T. Rogers, A History of Agriculture and Prices im England, Vol・ Ⅰ, oxford,. 1963.. W. H. B. Court, A Concise Economic History of Britain, Cambridge, 1964・ Gilbert Walker, Road and Rail, London, 1947・. W. M. Acworth, The Elements of Railway Economics, oxford, 1924・ Dionysius Lardner, Railway Economy, New York, 1850・ A. T. Hadley, Railroad Transportation : Its History and Its Laws, New York・ 1900・. Herman Levy, Monoply and Competition, A Study in English IndustrialOrganiza・ tion, London, 1911.. L C. A. Xnowles, The lmdustrial and Comercial Revolutions in Great Britain during tbe Nineteenth Century, London, 1950..
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