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戦後初期の単元はいかに構成されたのか-単元習作というワークショップ-

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(1)戦後初期の単元はいかに構成されたのか -単元習作というワークショップ- 金馬国晴 How had been the Units structured in the Early Postwar Period? : Workshops called “ Tangen Shusaku” Kuniharu KIMMA. はじめに. -単元習作の背景と問題関心・課題-. 戦後初期のカリキュラムは,いかなる過程で構成されたのか。カリキュラム・マネジメ ントが強調される今後から見るととくに,戦後初期に新設された社会科において,様々な 単元を,各学校や各教師が自由に構成していた事実とその詳細は注目に値する。 単元とは,初期社会科や,現在の生活科・総合的な学習の時間では,活動やその経験・ 内容のまとまりを指すものである。1時間1時間の授業では済まず,数回分のまとまり, す な わ ち 数 週 間 ,数 カ 月 ほ ど 続 く 単 位 と な る と , “ 単 元 ”と い う 用 語 で 呼 ば れた し ,今 も 呼 ば れ る わ け で あ る 。 こ の 活 動 単 元 , 生 活 単 元 と い っ た 意 味 で の 単 元 (1) は , 学 習 活 動 が 次 々 と 自 然 に 発 展 し て い っ て 形 づ く ら れ る 系 列 と も い わ れ ,始 め・中・終 わ り が あ っ て 全 体 性 , 連続性,継続性,発展性が特徴となる。 こうした単元を構成する際に留意すべきポイントは,授業を1時間ごとでみて,方法を 工夫して組むだけでなく,目標や内容から考え直し,実践の全体像などをも理論的に考え つつ,連続的に発展するようなデザインをし,具体的な書式に表現すべき,といったこと としてまとめられる。 戦 後 初 期 ,そ う し た 単 元 じ た い を 多 彩 に 思 い 切 っ て 構 成 で き た 事 情 は ,学 習 指 導 要 領( 一 般 編 は 1947 年 と 1951 年 )が「( 試 案 )」で し か な く ,各 学 校 が カ リ キ ュ ラ ム な ど の 詳 細 を 決めるに任されていたことにもよる。 そ う し た 中 で 学 校 加 盟 の 民 間 団 体 と し て コ ア ・ カ リ キ ュ ラ ム 連 盟 ( コ ア 連 ,1948- 53) が組織され,その加盟校・関係校,そして個人会員たちが,単元を自主的につくることを 内外に広く呼びかけ続けた。カリキュラム構成,カリキュラム改造がキーワードとなり, 全国各地の現場や集会,研修において,カリキュラム・ブームが巻き起こった。 こうした自由な時代には,各校がカリキュラム案を書き上げて,内外に示す必要が生じ た。そこで,当時新設された社会科を中心に,各校であらゆる単元が構成され,公開授業 等で配布したり販売したりできるよう,冊子類の形に編集・印刷されることが頻繁に行な わ れ た ,と い う わ け で あ る (金 馬・安 井 一 郎 編『 戦 後 初 期 コ ア・カ リ キ ュ ラ ム 研 究 資 料 集 』 (ク ロ ス カ ル チ ャ ー 出 版 )と し て , 約 1200 冊 収 集 し た う ち の 一 部 分 を 復 刻 。 東 日 本 編 (3 巻 セ ッ ト ,2018 年 9 月 )は 99 冊 か ら 抜 粋 。 今 後 , 西 日 本 編 ・ 中 学 校 編 , 附 属 学 校 編 を 予 定 )。 11.

(2) で は ,カ リ キ ュ ラ ム の う ち で も こ れ ら の 単 元 は ,日 本 の 教 師 た ち が ど の よ う に 作 っ た( 構 成した)ものなのか。本稿でとくに問いたいことは,単元を構成した場についてである。 ここでいう場は空間的な場でもあるが,人びとが集まり構成活動をする学習・研修の場と いう意味も含む。いわゆるワークショップと呼ばれる場である。 先行研究は単元をもっぱら,すでに文字や表で書かれ,完成したかのような書類として の単元計画,あるいはすでに実践された単元に関する記録の文章として扱ってきた。それ らの単元が作成されたプロセス・過程じたいにまで遡ることは,一部あったが詳細には試 みられてこなかった。これでは実践というものが,事前の計画や事後の記録から,いわば 「 固 定 化 」 (2) ,「 形 式 化 」( い わ ば 物 象 化 ) し た 形 態 の み か ら 捉 え ら れる こ と に な り , そ の 作成過程や実践が疎外されてきたことにならないか。 そこで本稿では,単元などのいわゆるカリキュラム計画自体を,完成物としてだけでな く,その構成過程を含めて捉え直すべきものである,として問題提起をしたい。 筆者が数年,戦後教育の研究をしてきた中で,発見したのが単元習作という,単元の構 成過程の一例だった。それは一言で定義するなら,研究集会の分科会などで,試しに参加 者集団で具体的な単元を作ってみることで,実際に使う単元を手伝い合ったり,カリキュ ラ ム 構 成 力 を 養 っ た り し た よ う な , ワ ー ク シ ョ ッ プ と い え る も の で あ る 。 (3) 筆 者 も ま た こ こ 5 年 間 ほ ど , カ リ キ ュ ラ ム 研 究 の 実 践 化 と し て ,「 カ リ キ ュ ラ ム 構 成 ワ ー ク シ ョ ッ プ 」,別 名「 単 元 習 作 ワ ー ク シ ョ ッ プ 」と い う 会 を 企 画・実 施 し て き た 。若 い 教 師が激増する今,単元習作という活動やその場を,教育界でも流行し始めたワークショッ プの一形態と位置付けて,その復興を試みる価値を感じている。 以上のような問題関心から発して,本稿は,対象を単元習作に絞りつつ,戦後初期の時 点において,それをどこで,何を,いかに,誰が,いつ行なっていたかを明らかにするも の で あ る( 前 半 )。加 え て ,今 日 的 に 考 察 す る な ら ば ,ワ ー ク シ ョ ッ プ と し て い か な る 意 義 を も っ て い た か (な ぜ )を 考 察 し た い ( 後 半 )。 1 単元習作に関する文章と先行研究 -ワークショップとしての捉え直し 単元習作そのものについての先行研究は多くない。戦後初期当時の文章で,単元習作を タ イ ト ル に 含 む も の は 計 4 本 し か な く ,全 て が コ ア 連 と そ の 後 身 の 日 本 生 活 教 育 連 盟 (日 生 連 。 1953-)の 月 刊 機 関 誌 『 カ リ キ ュ ラ ム 』 (1948-60)に 載 っ た も の で あ る 。 そ の う ち , 一 つ の タ イ プ は , 一 人 で 作 成 し た 単 元 を 自 ら 紹 介 す る も の で 2 件 あ る (4) 。 も う一つのタイプとは,集団的に試作した単元とその構成過程の紹介であり,関連するもの が 2 件 あ る (5) 。 だ が , こ れ ら の 文 章 だ け か ら わ か る こ と は あ ま り に 少 な い 。 当時の史料が少ない状況もあってか,単元習作に関する先行研究は,管見の限りほとん ど な い 。例 え ば ,日 生 連 の 50 年 史(『 日 本 の 生 活 教 育 50 年 』学 文 社 ,1998 年 )や 近 年 ま と め ら れ た 臼 井 嘉 一 監 修 『 戦 後 日 本 の 教 育 実 践 』( 三 恵 社 , 2013 年 ) で も 検 討 は さ れ て い ない。戦後初期の単元ほかカリキュラム関連の先行研究では,社会科を中心に,各校ごと の 単 元 の 構 造 が 分 析 さ れ て き た (6) 。 ま た は 実 践 ま で 見 た 論 考 で も, 類 型 化 と い う か た ち の 構 造 化 が 図 ら れ て き た (7) 。 そ れ ら は 主 に , 計 画 と し て 書 か れ た 案 や 図 表 を 対 象 と し た も の 12.

(3) であった。 各県各校のプランに関する先行研究は,とくに大学院生や現職研修院生などが紀要他に 載せたもの(おそらくもとは修士論文)が多いが,単元構成の具体的な場面については, あっても経緯に触れる程度であった。 教員研修に関する先行研究をみても,研修一般については,政府と占領軍による研修の 資 料 や 講 義 ノ ー ト の 発 掘・出 版 (8) は 多 く な さ れ て き た が ,単 元 習 作 に は 言 及 さ れ て い な い 。 そこで新たに本稿では,ワークショップというキーワードに注目することとしたい。そ うするならば,いくつかの先行研究を加えることができる。ワークショップという用語自 体 は ア メ リ カ 発 だ が ,戦 後 初 期 に ,占 領 軍 と 文 部 省 の 共 同 に よ る IFEL(ア イ フ ェ ル ,194852 年 。 教 育 長 等 講 習 , 後 に 教 育 指 導 者 講 習 )を 通 じ て 広 ま っ た こ と が わ か っ て い る 。 戦後初期当時に即したワークショップの意味分類については,西洋と日本の教育史に基 づ く 研 究 が あ る (9) 。 高 橋 陽 一 に よ る も の だ が ,結 論 的 に は , 1 ) 作 業 場 ・ 工 房 と 置 き 換 え 可能な用例,2)講習会・実習と置き換え可能な用例,3)ワークショップとしか言えな いワークショップ,に分けられる。これらをベン図(下図)に表してみた。. 図のうちでまず,単元習作は,1)作業場,工房といった空間を指す意味の強いワーク ショップとは重ならない。他方で,戦後初期には2)講習会が多く行われ,それは研究集 会とも訳されたが,コア連・日生連の全国集会の全体も実際,2)の意味でワークショッ プ と 呼 ば れ て い た 。戦 後 初 期 当 時 に だ さ れ た 先 駆 的 な 文 献 に あ る 定 義 で い え ば , 「教育関係 者が,専門家による指導援助の便宜を与えられて,現場に必要な問題について,自主的な 態 度 で , 協 同 研 究 を 行 う た め の 集 ま り 」 (10) と い う も の に な る 。 先行研究では,これら全国集会他で提起された概念や発表文書の整理,分析,検討が多 く さ れ て き た (11) 。当 日 配 布 の 要 項 や ,報 告 書 も 入 手 し て 通 読 し た と こ ろ ,そ れ ら の う ち に , 詳しく単元習作に言及した文は発見できなかった。 形式的には単元習作は,こうした2)研究集会の日程中の分科会などで試みられたワー クショップの一形態ではある。ただ,2)講習会には教師役がいるし,正解や場合によっ ては評価があるが,単元習作にはそれらがなく,研究集会全体を呼ぶ場合ともあくまで異 な る 。そ こ で 単 元 習 作 は ,高 橋 に よ る 分 類 の う ち で も 3 ) 「ワークショップとしか言えない 13.

(4) ワークショップ」にあたると考えられる。 すなわち高橋は,3)を「参加者が主体となった教育であり,その過程や結果を参加者 が享受することを目的とするが,その知識や技能の取得などを目的とせず,さらに準備し て 見 守 る フ ァ シ リ テ ー タ ー は 存 在 し て も ,指 導 し て 評 価 す る 教 師 が 存 在 し な い も の 」(12) と 定義する。単元習作というものは,単元の構成法というある種の技能も結果として身につ くが,人によって異なる目的と結果をもってよく,過程もそれぞれであって,評価の基準 も立てられない,といった自由さにおいて参加者主体で,そうした点では3)に近い。 以 上 の よ う に ,単 元 習 作 は ,戦 後 初 期 当 時 の ワ ー ク シ ョ ッ プ の 3 つ の 用 法 の う ち , 「ワー クショップとしか言えないワークショップ」にあたるといえるものなのだ。 2. 戦後初期の教師たちへのインタビュー記録とその例 -素材と方法. 当 時 の 文 章 と 先 行 研 究 を 通 じ て わ か る こ と は ,以 上 ま で の 検 討 で 尽 き て し ま う 。そ こ で , 他の史料が必要となってくる。金馬が戦後初期当時について元教師へのインタビューを行 なってきた中で,単元習作の詳細が語られてきた。そこで,その語りの記録を史料に加え て考察の中心に据え,これ以降,文字史料は補助的な位置づけに変えたい。 金 馬 は こ れ ま で 戦 後 初 期 に 若 手 で あ っ た 方 々 50 名 以 上 に , 43 件 の イ ン タ ビ ュ ー を 実 施 してきた。対象者の多くは,コア・カリキュラムといえるものを各校で構成・実践し,と く に 日 生 連 , 全 青 教 ( 全 国 青 年 教 師 連 絡 協 議 会 , 1952- 62) に 関 わ っ た 教 師 た ち で あ る 。 戦 後 を 迎 え て 初 め て 教 師 と な っ た 当 時 の 20・ 30 代 が 多 く , 師 範 学 校 の 末 期 か 教 員 養 成 大 学・学 部 の 初 期 を 経 験 し た 方 々 と な る 。 ( 以 下 の 表 に ,本 稿 で 引 用 し た イ ン タ ビ ュ ー の み の 実 施 状 況 を 示 し た 。実 施 順 に ,校 名 か 地 域・プ ラ ン 名 ,対 象 者 (氏 名 は 本 稿 で 引 用 し た 者 と 著 名 な 者 の み ),お よ び 同 席 者・調 査 者 ,日 時 と い う 順 で 示 す 。ま た ,具 体 的 な イ ン タ ビ ュ ー 項 目 は , 本 論 文 末 に [ 資 料 ] と し て 掲 載 し た 。) (13) 表. イ ン タ ビ ュ ー の 実 施 状 況 ・ 抄(実 施 順 )(“ 現 ” は イ ン タ ビ ュ ー 当 時 ). 調査対象校. 調査対象の教師他,および調査者他. 調査日. 調査場所. 墨田区立. 高木浩朗,他 5 名,元児童. 2005.5/14. 墨田区内某. 業平小学校. 調査者,学生 2 名. 川口プラン. 村 本 精 一 (元 西 中 学 校 長 ), 斎 藤 晴 雄 , 他 2 名. 関係者. 調 査 者 , 伏 木 久 始 (信 州 大 ). 横浜市立. 伊従寿雄,梅原福司,他 1 名. 城郷小学校. 調査者,院生・学生 3 名,現校長・副校長. 加 東 郡 (兵 庫. 小紫博. 県 )某 校. 調査者,加東市内現小学校教諭. 館山市立. 安 田 豊 作 (戦 後 初 期 当 時 の 教 頭 ),金 木 賢 三 ,石. 北条小学校. 井辰雄,他 1 名. 他 店 2005.9/26. 埼玉教育会 館 101. 2006.7/16. 同校校長室. 2007.2/6. 某病院内廊 下. 2007.6/1. 同校「サロ ン」. 調 査 者 2 名 , 学 生 ・ 院 生 10 名 ,現 校 長 他 数 名 14.

(5) 香川大学附. 岡 野 啓 (後 に 香 社 研 = 香 川 県 社 会 科 教 育 研 究. 属坂出小学. 会 を 主 宰 ), 亀 山 信 夫 (香 社 研 ). 校. 調査者,現附属坂出小教諭 2 名. 墨田区立. 高木浩朗. 業平小学校. 調査者. 2007.12/8. 岡野宅. 2015.11/30. (電話にて). 実は単元やその習作という問題は,これらの教師に対するインタビューを積み重ねてい く 過 程 を 通 じ て ,次 第 に テ ー マ 化 さ れ て き た も の で あ っ た 。当 初 は カ リ キ ュ ラ ム の「 構 造 」 に関心があった調査者だが,以下に引用していくように,その「構成」過程,とくに単元 を「つくる」意義を,熱く想いを込めて語る教師が目立つことに気づき,次第にそのこと の意味を考えるようになったのである。この「構成」する作業こそ,単元習作で教師たち が 実 際 に 行 っ て い た 活 動 で あ る 。“ 習 ” 作 と い う 表 現 は ,「 構 造 」 を 手 が か り と し て 実 践 を 想定していく「構成」作業は一つの仕事であっても,かつ練習にもなる,との意味合いを も つ 。 (14) 以下本節では,インタビュー記録の例として,当時,教師たちにとって,単元を構成す ることがいかなる意味を持ち,今にどう引きつけ意義づけられたかを確認しておきたい。 (ここに,以下でインタビュー記録を引用する際の「凡例」を示しておく。 後日にテープ起こしを郵送し対象者に加筆いただいた点を( ま た ,調 査 者 に よ る 補 足・言 い 換 え を(. ), 修 正 を [. ]で 示 し た 。. ),短 い 省 略 を・・,長 い 省 略 を・・・と 示 し た 。). a ) 川 口 プ ラ ン の 川 口 市 に 勤 め た 斎 藤 晴 雄 (15) 斎藤は,川口プランに直接関わったわけではないが,先輩たちにその神髄は教わってき た 当 時 の 若 手 世 代 で あ る 。彼 が 語 る に , 「 自 分 の 頭 で も の を ,目 標 か ら 内 容 や 方 法 を 考 え て いくんだと,それが教育なんだ,というふうな経験というふうなものが,やっぱり貴重な んじゃないですかねぇ」と考えている。目標から出発し,内容そして方法をも「つくる」 べ き ,と 考 え て い る 点 が 注 目 で き る 。そ の 考 え に 至 っ た の は ,戦 後 初 期 , 「教科書にあるか らそれで,教科書の進度に合わせたカリキュラムを作って順番に教えればいいという,そ う い う も ん じ ゃ な い 」と 先 輩 か ら 教 わ り , 「 だ か ら ,カ リ キ ュ ラ ム づ く り と か ,自 分 で も の を組み立てていくとか,子どもと一緒になって組み立てていくとか」いう,新しいカリキ ュラムを「つくる」経験を,若手の頃にもち,その後続けてきたからである。それを振り 返 っ て ,「 そ こ か ら 教 師 生 活 が ス タ ー ト し て い る か ら , す ご く そ れ は 幸 せ だ っ た で す よ ね 」 としみじみ語られた。 b)横浜市立城郷小で実践した伊従寿雄ほか 伊 従 に よ っ て は ,戦 後 初 期 と 比 較 し て ,現 在 の 学 校 に 対 し て 感 じ て い る 問 題 が 語 ら れ た 。 まさに単元構成という仕事自体の意義について語った発言である。 「今の学校ではね,自分で単元構成をやるという場があまりないですねー。ほとんどの 先生が,指導書丸写しの指導案をやっているというか。または『教科書を今日は何頁を 開 い て 』『 今 日 は こ こ を 読 ん で ご ら ん な さ い 』『 ど ん な 感 想 で す か 』 と い う 教 科 書 を 読 む 15.

(6) ところから始まる指導が多くなっていましてね。 ・・子 ど も が ど ん な こ と に 困 っ て い る か , どんなことにつまずいているかなんていうようなことより,自分が教えることが先に来 る と い う 傾 向 が あ り ま す が , こ れ が 一 番 ま ず い ん じ ゃ な い で す か 。・ ・ 」 そこで,総合的学習に話が及び, 「総合的学習で一番大事なのは,プランニングを教師自身がやらなければならないとい うところに非常に私は意味があると思う。人のやったのを持ってきてね,これをやれば 見てくれのいい時間になるというものではね,あまり教育的な価値はないと。そういう 営みをここ(城郷小)の過程でやったと,言わせてもらえるんならば,私としては非常 に よ か っ た と い う , え え 。・ ・ 」 そして,城郷プランを構成した過程を振り返り, 「 足 が き (試 行 錯 誤 )の 過 程 が こ の( プ ラ ン の )中 に 入 っ て ま す か ら 。そ れ が 完 成 さ れ た も の じ ゃ な い ん で す け ど ね 。 そ う い う 教 師 と し て の 足 が き が こ う い う も の に 入 っ て ね 。」 伊従の後輩である梅原福司の方は,単元構成を料理にたとえた。その上で,単元は一人で つくれず,同僚で共同してカリキュラムをつくった意義を,何度も強調したのであった。 以上2人の発言から,戦後初期当時,単元構成が教師の仕事として位置づいた学校が確 かにあり,そこでは若手が困難を感じながらも,日々の集団的・個人的な学びを通じて単 元を構成していたし,その思い出が心に深く残っていることが見えてくる。 3. 単元習作の5W1H -多方面からみた実態と範囲. こうした各校での単元構成を支えたり促したりしていたのが,単元習作なのである。そ の詳細を各側面に分けて明らかにしていきたい。本稿の史料としてはとくに,近年行った 上記の表の最終行の,高木浩朗に対するインタビュー記録を中心的に参照する。 高木は,初期社会科やコア・カリキュラムで当時知られた業平小学校に長く勤めただけ でなく,郷里の中国地方や四国のいくつかの学校で開かれた単元習作にリーダーや参加者 として関わった。全国的にも,日生連や全青教の全国集会や冊子・雑誌において,リーダ ー的な若手としても活躍した教師であり,それだけに語られる内容は信頼がおけ,一般性 も あ る (16) 。以 下 で は ,高 木 が 語 っ た 内 容 を コ ア と し て 他 の 資 料 を 絡 め な が ら ,単 元 習 作 と いうものの詳細を,5W1Hに分けて,先の図も活用しながら論じていく。 A.どこで -合宿集会の会場校や研修室,そして会議室,宿直室 イ ン タ ビ ュ ー か ら ,単 元 習 作 は 主 に ,合 宿 形 式 の 集 会 (コ ア 連・日 生 連 ,全 青 教 )の 分 科 会で行われ,会場とされた学校の教室,または合宿所,宿泊所,旅館などの研修室などが 空 間 的 な 場 と な っ た (17) こ と が わ か っ た 。他 方 で ,勤 務 校 に 戻 っ て も ,各 学 校 の 会 議 室 や 宿 直室(当直室)が場となった,と度々きいた。夜中まで論議をし,ときにけんかし,また 教え合い,相談し合いの場にもなったという。学校の校舎が会場の年にも,宿舎の方がそ うなった。 ここで再び,先ほどの図を見てほしい。先に見たワークショップの円に絡めて,交わる よ う に“ 単 元 構 成 ”の だ 円 を 描 い て あ る 。二 つ の 円 が 重 な っ た 部 分 の 一 部 分 が“ 単 元 習 作 ” 16.

(7) に あ た り (① ),ワ ー ク シ ョ ッ プ と 重 な っ て い な い 外 の 部 分 (② )は“ 教 師 の 仕 事 ”と し て の 単 元構成ということになろう。ワークショップで作成された単元のうちでも,本番として実 行 に 移 さ れ る 段 に な る と , 教 師 の 仕 事 と し て の 単 元 構 成 (② )で も あ っ た こ と に な る 。 逆 に 言 え ば ,単 元 習 作 (① )は ,単 元 を 生 み 出 し た 源 泉 で あ り ,ま た 単 元 を 構 成 す る こ と の 練 習 , いわば研修であって,そのニュアンスが“習”作との表現のうちに表されている。 全国集会での単元習作は,先駆的な教師が各校で単元構成をしてきた経験に支えられ, 発展したともいえる。逆にまだ行われていなかった現場では,全国集会という場で経験し てみることで,教師たちが実際に勤務校での単元構成ができるよう経験を重ねていったと 見られる。たとえ独りで単元を作ってみた場合でも,全国や勤務校の仲間と共同でつくっ た 経 験 が あ れ ば ,一 定 水 準 の 内 容 に ま で 練 り 上 げ ら れ ,仕 上 げ ら れ る よ う に な っ た だ ろ う 。 戦後初期,各県で実験地区を設定して,県基底の実践化を図っていた中で,その過程に お い て , 単 元 習 作 に よ る 研 究 を 採 用 し て い た 自 治 体 も あ る 。( 管 見 の 限 り で は 埼 玉 県 の 例 。 宗 像 他 1952 年 - 註 5)に 掲 載 - の 28 頁 ) な お ,さ ら に 逆 に 言 え ば ,全 国 集 会 で の 単 元 習 作 (① = 単 元 構 成 と ワ ー ク シ ョ ッ プ の 共 通 部 分 )は , 先 駆 的 な 教 師 に よ る 各 学 校 で の 単 元 構 成 (② = 単 元 構 成 の う ち ワ ー ク シ ョ ッ プ と 重 な ら な い 部 分 )が あ っ て こ そ 成 り 立 っ た も の と も い え る 。 単 元 構 成 の う ち ,作 業 場・工 房 と 重 な る 部 分 (③ )と い う も の も あ り う る 。そ れ は 宿 直 室 で 行 わ れ た こ と に な ろ う が ,そ の 場 に 関 す る 件 は ,当 初 イ ン タ ビ ュ ー 項 目 (本 論 文 末 [資 料 ])に は含めなかったものの,多数の言及が聞かれた。宿直室自体のあり方に関する発言も含め て,いくつか引用したい。 a)加 東 郡 (兵 庫 県 ,現 加 東 市 )の 某 校 に つ い て ,小 柴 博 に よ る 証 言 ). 職 員 会 の と き は ,盛 ん. なディスカッションはなかった。教務主任の井上貢の話を聞いて,終わった後に宿直室に 移 動 す る こ と で , 井 上 先 生 は 来 な い の で ,「 井 上 先 生 こ な い 言 い お っ た な , そ や け ど な 。」 「でもな,でもな」と猛烈に議論をしたという。これで帰れない,と思ったという。 「やっぱし,おったら,まあときにはね決戦になったことはあったけど,やっぱし一緒 に お り た い い う 感 じ も あ っ た ん や な い で す か 。」 同僚同士の仲は,小紫が子どもができたときに,先輩の名前の一字をもらったほど深かっ た。 「 こ の 先 生 は 大 好 き や っ た 。な ん か 若 い こ ろ に 影 響 受 け る 先 生 は あ る で し ょ 。」と い う 。 b)丸 亀 市 立 城 乾 小 学 校 ,岡 野 啓・実 習 校 ) 若 手 (教 師 )が い つ も 宿 直 室 で ,宿 直 を し な が ら , コ ア・カ リ キ ュ ラ ム を つ く る 話 し 合 い を し て い た 。そ の 中 に ,実 習 生 と し て 入 っ て ,コ ア・ カ リ キ ュ ラ ム と い う の を「 聞 く と も な し に 聴 い て い て 」,夜 一 緒 に 飯 食 っ た り ,そ の 話 し 合 いのグループに入ったりした。 c) 館 山 市 立 北 条 小 学 校 ,石 井 辰 雄 ). 当 直 室 は 6 畳 間 で ,畳 が 真 っ 黒 で 毛 羽 立 ち ,畳 の 糸. が見えていた。酒臭く,たばこの吸殻の跡が無数にあった。そこは「修行の場」だと言わ れ ,「 ほ ん と に , や る か っ て , と っ く み あ い 」 の ケ ン カ も あ っ た 。 な お ,他 の 学 校 に 関 す る イ ン タ ビ ュ ー で も ,宿 直 室 に 数 日 連 続 や 一 週 間 も 泊 ま っ て い た , 「ほぼ住んでいた」との証言さえきかれた。 以上のようにみていくと,戦後ある時期までの学校には,宿直室(当直室)という,自 17.

(8) 然発生的な例も含めて単元習作が行われた場があったとわかる。この部屋の場合は,ワー ク シ ョ ッ プ の う ち 1 ) 作 業 所 , 工 房 (③ )に あ た る と い え る 。 B.何を -活用できる単元を,または単元構成力の形成を 単元習作じたいは何を内容としていたのか,つまり何を話し合っていたのであろうか。 そ の 典 型 と し て 以 下 で は , 高 木 が 語 っ た 日 生 連 の 北 潟 合 宿 研 究 集 会 (福 井 県 内 , 1952 年 3 月 )で の , と あ る 分 科 会 の 例 を 見 て み よ う 。 参加者は,地元の教師が半分以上で,他は全国の他地域の教師であった。まず,地元教 師 が 地 図 を 広 げ て ,「 こ こ は 北 潟 湖 と い う 湖 が あ る ん で ,・ ・ 小 学 校 で と り 上 げ る と し た ら ど う い う 展 開 が 考 え ら れ る だ ろ う か 」と ,北 潟 湖 と 農 業 の 問 題 (塩 害 な ど )や ,子 ど も た ち が どう考えているかを話した。そして参加者全員で,どこから入るべきかの「単元の入り口 の問題」をずいぶん考えたという。たとえば,どういう課題を持って見学に,どこに行け ばいいか,といったことだ。さらには野外学習を一つ入れて,帰ってきてどういうまとめ をして,どういう課題が新たに立ちそうかなどが話題となったという。 ここで注目すべきポイントは,他の地域からの参加者は想像ができる限りで単元構成を してみるのに対し,地元の参加者からすると,自身の勤務校でも活用できる(あるいは実 践をした)単元を共につくってもらうことになった,という実現性のズレである。 「習作」と表現された意味合いは,ここでつくった単元を,必ずしも事後,全員が実践 に 移 す と は 限 ら な い と い う 点 に あ る の で あ る 。だ が ,架 空 で あ っ て も 計 画・案 を つ く る「 構 成」作業自体が,練“習”としての意義を持ちうるというわけである。 では,勤務する学校も地域も違うのに,話がかみ合ったのならいかにしてなのか。この 点こそが,単元習作が成り立つか否かの分岐点となる。高木がその詳細を語った。彼の学 級の子どもたちが,墨田区の川の水が1日に2回も増えたり減ったりするのはなぜかに取 り組んだ話を,この単元習作の場でしたという。事実としては潮の干満の問題なのだが, 「すると当時,子どもが変な問題を出してきてね。海の水が減った時にこっちの川の水 が増えるんだという,全くおかしな論理が出てきてね。それじゃ実際,増えてるとき自 転車で行ってみようと・・確かめた。 ・・そんな話をして,子どもっていうのは案外,潮の干満と水というのはつかみづら い と こ ろ も も っ て る し , 結 構 面 白 い ( と い う ) 話 を し た の を 覚 え て る け ど ね 。」 参加教師の勤務校やその地域が互いに異なり,担当する子どももかなり違うにもかかわら ず ,〈 共 同 構 成 〉 が 進 ん で い き う る 。「 と に か く 子 ど も が ど ん な こ と か ら 問 題 意 識 を 持 つ か と い う こ と か ら 出 発 し て ,見 学 に 行 く ,そ し て 見 学 に 行 っ た 中 で 新 し い 問 題 を 発 見 し た り , より深い問題を発見して帰ってくる,それらをまとめて単元の入り口にしたらどうか」な どと話せたのである。別地域の子どもを例にしつつ,いやだからこそ子どもや学習の一般 論にも,議論が展開していったのだ。さらに広く,自然に対する意識の問題,社会事象と して干拓をするか,干拓したら塩害がでるといった,広い話もできたという。 地元教師が提案しての,北潟湖そのものを教材としてとり上げるには何を考えるべきな のかという一方の軸に加えて,高木発言にみるような,子どもの思考の筋道という他方の 軸が出されて,そもそも論まで深めて議論できたからこそ,実際「つくりたく」なって, 18.

(9) その方向へ皆が動機付けされていったわけである。 以上より, 「 単 元 習 作 」は ,教 師 の 仕 事 に 密 接 に 絡 み 実 際 に そ の ま ま 実 践 に 移 し う る 地 元 の教師と,いわば研修的に参加しそのまま実践化するあてはない他の地域の教師たちとの 共 同 に よ っ て こ そ 展 開 し て い く 活 動 と も 表 現 で き る 。両 者 の ズ レ は ,悩 み の 種 で は あ る が , 抽象的・一般的な論点をめぐってならば話がかみ合いやすくなる場合もあったわけで,一 つの単元をめぐる議論をより深めるきっかけとなったのではないか。 なお,集会の日程中に,現地のフィールドワークを設定することもあったという。教材 となりそうな地域素材を参加者で共有し,共通にそれらの理解を深めてから単元習作を進 めるためであった。 C.誰が -複数の役割を兼ねたリーダー 全 国 集 会 の 各 分 科 会 に お け る 単 元 習 作 の 参 加 者 た ち( た と え ば ,北 潟 湖 の 習 作 で は 30 人 ほど)は同じ年代ではないし,力量も異なる教師たちだった点が重要なのである。その中 には,様々な役割を独りで担うリーダーと呼ばれた教師がいた。司会,というよりむしろ 今 で 言 う フ ァ シ リ テ ー タ ー ( 進 行 促 進 役 ), 兼 記 録 係 を 担 っ た 者 で あ る 。 例 え ば ,北 潟 集 会 の 習 作 で の リ ー ダ ー ,久 保 田 浩 (私 立 和 光 小 学 校 )は ,高 木 が い う に「 あ の 先 生 の 良 さ で も あ り 」, あ ま り 強 く 引 っ 張 ら な か っ た と い う 。「 皆 で 話 し 合 う と い う ス タ イルは,非常にあの時期,集会の中で学んだ」ともいう。 た だ し 話 が 行 き 詰 ま っ た 場 面 で は ,久 保 田 は 思 い 切 っ た 発 言 を し た 。そ れ は , 「単元の途中 で歴史的なものを思い切ってここへ入れないといけないんじゃないか,かつてどうしてき た の か と い う の は い る 」と の 発 言 で あ っ た 。高 木 が い う に「 そ れ は 思 い 切 っ た ,と い う か , みんながぐずぐず話している中でね,自然の角度からと同時に,歴史的な見方を入れてい く こ と が 子 ど も の 学 習 を 深 め て い く 大 事 な こ と じ ゃ な い か , と い う 指 摘 だ っ た 」。 ファシリテーターといえる進行促進役だからこそ,必要なときは鋭く切り込む必要があ ったのだろう。こうしたリーダー役を担った人で,確認できたのは,インタビュー対象者 の 高 木 浩 朗 (墨 田 区 立 業 平 小 ), 彼 が 言 及 し た 久 保 田 浩 (和 光 小 )の 他 に ,『 村 の 五 年 生 - 農 村 社 会 科 の 実 践 』(1956 年 )で 知 ら れ た 江 口 武 正 (上 越 教 師 の 会 )が い る (18) 。他 に も 何 度 か 集 会 に来た後輩世代の教師たちに,リーダーをやってごらん,と回していった,と高木は証言 した。 他 方 で 各 学 校 に 戻 っ て は ,同 僚 ど う し で の 単 元 習 作 が 行 わ れ て い た わ け だ (先 の 図 で 言 う ② や ③ )。 全 国 集 会 の 参 加 者 は , そ の 際 に リ ー ダ ー 役 を 買 っ て 出 た こ と だ ろ う 。 D.いかに -黒板,そして模造紙に記録しながら では,記録というのはいかなる媒体に記されていたのだろうか。初期においては黒板を 使 い ,「 皆 の 考 え を 書 い て い っ て , 消 し た り , あ る い は 広 げ た り , ず っ ー と し て い た 」 (高 木 )。 今 日 的 に い う 「 見 え る 化 」 と い え る 。 こ の 板 書 役 も リ ー ダ ー が 兼 ね た の だ が,「 み ん なの意見のうちのいくつかを採り入れながら」進み,その意味で司会的な役割も兼ねるこ ととなった。 後に,全青教の集会で,模造紙が使われ始めた。高木は,会場が学校でなく合宿所に移 19.

(10) ると,黒板が無かったからが理由であり,雰囲気を変える効果をねらったわけでもないと いう。 昼間いろいろ書き込んでいった模造紙は,夜,会合が終わった後,その部会の組織が, 次の日までにまとめ上げた。ガリ版で刷って次の朝,参加者に配った(そのために,ガリ 版 や 鉄 筆 な ど も 持 参 し た )。 ま た は , 翌 朝 , 模 造 紙 そ の も の を 使 っ て , 報 告 会 が さ れ た 。 次に,北潟集会の雰囲気に関する高木の語りが「いかに」にかかわるので引用する。 「 う ー ん 。 そ れ こ そ 熱 心 だ っ た ね ー , み ん な が ね ー 。・ ・ ど ん ど ん 発 言 し て い た ね ー 。 ・・『 教 え る 教 育 』み た い な も の が ま だ 皆 の 頭 の 中 に あ る ね ,昭 和 26 年 の こ ろ は ね 。そ の中で『子どもの考えを大事にせないけん』というのは皆さんも同意していたし,中に ときどきそうでない考えが出るのを,皆が『それじゃいけんのじゃないか』と言い出し ていたからねー。 新しいものに取り組むみんなの気持ちというかねー。 ・・自 分 た ち も 新 し い も の を『 作 っ て い く 』 と い う , 抱 負 も み た い な の も あ っ た し ね 。 喜 び も あ っ た し ね 。」 一言でまとめるに, 「 戸 惑 い も 感 じ つ つ ,新 し い も の を 皆 で『 作 り 上 げ て い く 』と い う 喜 び 」 があった,と高木は語った。黒板や模造紙に,参加者の議論が全員に対して「見える化」 されたという記録の方法も,そのつくり上げる喜びを喚起したと考えられる。 なお,合宿で行なわれた習作では,関連しそうな書籍を互いに持ち寄って,各人が必要 に応じて必要な箇所を読みながら発言していった,との証言も得られている。 E.いつ -サイクル,経緯,その後の継承 いつということでは,短期的には,事前の単元構成としての単元習作,事中の実践,事 後の振り返りという3時点の連続するサイクルが想定されていたことが重要ではないか。 まず事前には,つくりたい実践の「構造」を想像して語り合いながら,実際的な単元を 共 同 で「 構 成 」し 創 造 し た わ け だ が ,そ れ 自 体 が 単 元 習 作 な の で あ っ た 。 〈 今 ,こ こ で 〉 「つ くる」ということに重点を置く点が,いかにもワークショップらしい。 しかも単元習作は,その場でのワークショップ的な意義とともに,事後に自校に帰って か ら 実 践 化 で き る 計 画 案 を ,事 前 に つ く る と い う 意 味 が あ る 。か つ「 習 」作 と い う よ う に , 学習や練習にもなっていたのであり,そのためにこそ事後の振り返りも必要となる。 そ う し た 単 元 案 じ た い が ,コ ア 連・日 生 連 の 機 関 誌『 カ リ キ ュ ラ ム 』 ( 後 に『 生 活 教 育 』) に入稿され,募集もされていたため投稿されるものもあった。ふつうに掲載されていた各 単元も,集会や職場において〈共同構成〉されたものならば,単元習作の成果であったと 見ることもできよう。以上のようなサイクルと交流を読み込むと解釈できる単元もあった のではないか。単元というものは,共同で構成されたものならば,また上記のサイクルを たどったものならば,単元習作の成果であると捉えられるからである。逆にそうした共同 性やサイクルを加味しなければ,この時代の単元が「形式」的に理解されるにとどまるお それがある。 長 期 的 に は , 以 上 の よ う な 単 元 習 作 が 用 語 と し て も 現 わ れ た の は , 全 国 的 に は 1950 年 か ら だ が , 1950 年 代 の 隆 盛 を 終 え て , 新 教 育 の 衰 退 後 ( 1958 年 ~ ) に も , 各 自 の 職 場 の 学 校 や ,研 究 集 会 な ど で 続 け て い た と の 証 言 も 度 々 き か れ ,教 員 経 験 へ の 定 着 が 見 ら れ る 。 20.

(11) 例 え ば 高 木 は ,郷 里 に 帰 っ て 岡 山 大 学 附 属 小 学 校 に 赴 任 し て か ら も ,同 じ 手 法 を 岡 社 研 (岡 山 県 社 会 科 教 育 研 究 会 )で 続 け た 。 夜 , 寺 を 借 り て 合 宿 で や る 際 も , 模 造 紙 を 使 っ て 進 め , 記録をしたという。こうしたことは他の何人もの教師からきいたことである。 どれくらいの他の教師が,戦後初期より後の単元を,習作によってつくっていたかどう か,そのような研修を開いていたかについては,今後の研究としたい。 4. 意義(なぜ)-「つくる」ことによる総合と3つの意味. 最後に,単元習作について研究し,現在に復興させることの意義について考察する。 第一に,単元などを構成すること,一般的にいえばカリキュラムを「つくる」ことは, 理 論 と 実 践 を つ な ぎ ,総 合 す る こ と を め ざ す 作 業 へ と 発 展 す る 可 能 性 が あ る 。21 世 紀 の 近 年,教員養成,現職研修をめぐっては,理論と実践の往還がしばしば課題となってきた。 他方で「実践的指導力」など方法面の講義や研修が求められてくる現状の中では,実践偏 重が懸念される。 対して今,教師自らが,計画を目標・内容からいわば理論的に「つくる」ことで,理論 を実践に向けて活用し,ひとまとまりの単元を書き上げる作業やその経験をすることこそ 必要に思うのだ。 近 年 ,そ の よ う な「 つ く る 」こ と は ,研 究 や 現 場 で 十 分 推 進 さ れ て き て い る か 。例 え ば , 総合的な学習などは,学校や学級の裁量で全てを「つくる」ことが可能だが,全ての学校 が熱心であるといえない。一人の教師が案づくりを任され,学年会などのミーティングで 多少の修正のみをして,他の教師は模倣して実践したり,例年,改訂もせずに使い続けた り す る よ う な ,カ リ キ ュ ラ ム の「 形 式 化 」(固 定 化 ),さ ら に は マ ニ ュ ア ル 化 も 見 受 け ら れ る 。 近 年 に な り ,ミ ー テ ィ ン グ を ワ ー ク シ ョ ッ プ の 形 式 に 改 革 す る 動 き が 見 ら れ る( 横 浜 市 , 上 越 市 ほ か )。た だ し ,公 開 授 業 の ふ り か え り (協 議 会 )へ の 導 入 な ら 目 立 つ 。こ れ で は 先 の 図 で い う 2 )の 一 部 や 3 )で は あ る も の の , 「 つ く る 」こ と に 重 点 は な い 。ワ ー ク シ ョ ッ プ を,単元構成を兼ねた仕事やその力量を形成する研修として進めていきたいものである。 第二には, 「 つ く る 」こ と の 意 義 を 理 論 的 に 考 察 し て お き た い 。す で に 中 内 敏 夫 が 教 育 学 を,事実を認識する学問ではなく,事実を作ろうとしている,人間の制作の学と規定した (19) 。 「 つ く る 」と い う 言 葉 に は ,こ の“ 制 作 ”,そ の た め の 計 画 と し て の カ リ キ ュ ラ ム( 単. 元 や 授 業 の 案 を 含 む )の“ 構 成 ”,人 間 や カ リ キ ュ ラ ム な ど の 理 想 的 な“ 創 造 ”と い っ た 3 つの意味を込めることができよう。 「 形 式 化 」を 越 え る に は ,こ う し た 3 つ の 意 味 で の「 つ くる」ことを再評価する必要がある。ワークショップを開かずとも,すでに行われている 自主研修,例えば研究サークルや集会において,実践報告をきくだけでなく,その直後に 関連したテーマの単元習作を組み合わせる,という形でも「つくる」ことを導入できる。 第三に,カリキュラム・マネジメントが強調されていく今後,共同で単元などの計画を 「つくる」ことは,意義深い挑戦となる。毎年の子どもや学級,地域・社会の実態に合わ せ て ,新 た な 単 元 を 構 成 す る か ,い っ た ん 構 成 し た 単 元 計 画 を も 改 訂 し 続 け る こ と (再 構 成 ) は,今後においても意義がある。このいわば自主編成ともいえる単元構成の作業は,教科 書以上の授業を「つくる」ならばどこでも有効であるし,また教師にとっては定年まで続 21.

(12) く。その力量を磨く練習・学習の機会となるのもまた単元習作なのである。 おわりに -単元習作をめぐるまとめと課題- 以上のようにインタビューを通じて,文字記録ではわからなかった単元習作というもの の実際が見えてきた。要約すれば,単元習作というものは,歴史も踏まえていうならば, (1 ) 1950 年 代 に ,合 宿 形 式 の 集 会( ワ ー ク シ ョ ッ プ )の 分 科 会 に て 行 わ れ ,会 場 と な っ た 学校の教室または合宿所などで,そこに参加した教師たちにより試みられた教員研修,と 定義できる。そのうちリーダーと呼ばれる人が,司会,今で言うファシリテーターに加え て,記録係をも兼ねて務めた。記録は黒板,後に模造紙の上に書かれた。 単元習作は,その単元テーマが教師の仕事に密接に絡んですでに実践に移しているか, 実 践 す る か も し れ な い 地 元 の 教 師 (た ち )と , 教 員 研 修 や 研 究 の 一 環 と し て 参 加 す る 他 の 地 域からの教師たちとの共同作業ということができる。 ま た ,(2 )各 学 校 に 戻 っ て の ,会 議 室 や 宿 直 室・当 直 室 で 行 う 研 修 か つ 仕 事 と し て も 行 わ れていた。そうした場合は,実際に活用するための単元を作り上げ,ついには完成させる と い う 仕 事 の 一 環 で あ り , 練 習 と い っ て も 実 地 で の 研 修 ( OJT) 的 な 意 義 を 持 っ た 。 逆に,集会でつくられた単元自体は,全員は活用しないし,全く活用されない場合もあ っただろう。だが,単元習作の主眼とは,各教師の内面や身体に“カリキュラム経験”が 蓄積され,スキルや知見,熱意,そして創造力,いわば単元構成力のようなものが身につ き,いつか各現場での「単元づくり」の場において発揮される準備ができることだ。 とくに意義がある(あった)点は,一言でいえば「つくる」ことに重点を置いた点,す なわちつくりたい実践の「構造」を,実際的な単元という形で,理論的な目標から内容, そして実践的な方法までをも含めて,事前に想像して語り合いつつ,実際的な単元を共同 で「構成」し創造していった点であろう。 こ う し て み る と 実 感 さ れ る よ う に ,単 元 習 作 ,あ る い は そ の ワ ー ク シ ョ ッ プ の う ち に は , さ ま ざ ま な 意 味 の「 つ く る 」こ と が 含 ま れ て い る 。(1)単 元 を そ し て 人 間 を“ 制 作 ”す る 過 程 の う ち に ,理 論 と 実 践 が 集 大 成 さ れ る 。(2)そ の た め に ,単 元 を と く に 目 標・内 容 も 含 め て “ 構 成 ” す る 。 そ う し た 中 で , (3)イ メ ー ジ 豊 か に 新 し い 単 元 と 人 間 を 生 み 出 し て い く , という意味で“創造”をすることがめざされていた。層の異なるこれらの「つくる」こと は ど れ も , 理 論 と 実 践 の 往 還 が 言 わ れ る こ の 21 世 紀 に こ そ 必 要 な こ と だ け に , 筆 者 個 人 としてもその復興をめざしたワークショップを試みてきているわけだ。 今後の課題としては,単元習作,ワークショップを通じた教師の成長が実際いかなるも のとして成り立っていたかを,いわば「教師のカリキュラム経験」といえるものとして明 らかにすることがあろう。集会でつくられた単元は,必ずしも全員は活用しないし,全く 活用されないとしても,それをつくる過程を通じて,熱意や創造力などが「形式陶冶」的 に養われ,教師の内面や身体に蓄積されていったと考えられるからだ。単元習作は,教師 個人の側からいえば,教師一人一人の内面に,単元構成力などが“カリキュラム経験”と して蓄えられていくワークショップ,という定義も可能なものである。 戦後初期に行われていたこの「ワークショップとしか言えないワークショップ」を,先 22.

(13) 駆 的 な も の と 再 評 価 し ,戦 後 初 期 の 文 脈 に お い て 研 究 し 続 け る だ け で な く ,21 世 紀 の 現 在 に ,バ ー ジ ョ ン ア ッ プ し つ つ 復 興 さ せ る こ と を 提 起 す る と と も に ,か つ 実 現 し て い き た い 。. 註 (1) 単 元 は , 他 の 各 教 科 で は 通 常 , 系 統 的 に 配 列 さ れ た 教 材 の 一 区 分 , 教 科 書 の 第 一 課 … のことを指し,ここでいう単元とは,教科単元と呼んで区別できる。 (2) 「 固 定 化 」の 作 用 と い う 問 題 提 起 は ,海 後 宗 臣 監 修・東 大 カ リ キ ュ ラ ム 研 究 会 編 集『 日 本 カ リ キ ュ ラ ム の 検 討 』 1950 年 , 明 治 図 書 , 30 頁 な ど で な さ れ た が , 重 要 で あ る 。 (3) 現 在 に お い て , 単 元 を つ く る ワ ー ク シ ョ ッ プ に つ い て は , 村 川 雅 弘 編 『 授 業 に い か す 教 師 が い き る ワ ー ク シ ョ ッ プ 型 研 修 の す す め 』 ぎ ょ う せ い , 2005 年 な ど に 示 さ れ る 。 (4)樋 口 澄 雄 「 単 元 習 作 "衣 "- 5 年 」 (『 カ リ キ ュ ラ ム 』 26 号 , 1951 年 2 月 号 , 35-39 頁 ), 「「 雪 」 - 暖 地 で の 単 元 習 作 」 (『 カ リ キ ュ ラ ム 』 44 号 , 1952 年 8 月 号 , 72-73 頁 ) (5)梅 根 悟 「 単 元 習 作 」(『 カ リ キ ュ ラ ム 』 24 号 , 1950 年 12 月 号 , 91-99 頁 ), お よ び 宗 像 憲治,村本精一,海後勝雄,佐藤英一郎,皆川正治「基底にもとづく学習指導計画の実習 - 単 元 習 作 の 効 用 と 過 程 の 研 究 -《 附 》小 五 単 元「 秩 父 銘 仙 」習 作 」 『 カ リ キ ュ ラ ム 』45 号 , 1952 年 9 月 号 , 28-32 頁 ) (6)例 え ば ,平 田 嘉 三・初 期 社 会 科 実 践 史 研 究 会 編 著『 初 期 社 会 科 実 践 史 研 究 』教 育 出 版 セ ン タ ー , 1986 年 , 他 (7)例 え ば , 小 原 友 行 『 初 期 社 会 科 授 業 論 の 展 開 』 風 間 書 房 , 1998 年 他 (8)高 橋 寛 人 編 『 占 領 期 指 導 者 講 習 (IFEL)基 本 資 料 集 成 』 全 Ⅲ 巻 , す ず さ わ 書 店 , 1999 年 の 他 ,佐 藤 広 美 編『 資 料 日 本 の 戦 後 教 育 改 革 - 松 本 喜 美 子 資 料 』緑 蔭 書 房 ,1998 年 に IFEL ほか当時の研修の講義ノートが収録されている。 (9)高 橋 陽 一 編『 造 形 ワ ー ク シ ョ ッ プ 入 門 』武 蔵 野 美 術 大 学 出 版 局 ,2015 年 ,160-171 頁 , および高橋陽一『造形ワークショップを支える-ファシリテーターのちから』武蔵野美術 大 学 出 版 局 , 2012 年 , 14-27 頁 (10)大 照 完 『 教 師 の ワ ー ク シ ョ ッ プ - 参 加 ・ 計 画 ・ 指 導 の た め に 』 教 育 問 題 調 査 所 , 1950 年 , 44-47 頁 。 戦 後 日 本 の 教 育 改 革 の 中 , ア メ リ カ 進 歩 主 義 教 育 に よ る ワ ー ク シ ョ ッ プ と い う 用 語 が 導 入 さ れ た が , 最 初 の 実 施 は 「 教 員 養 成 の た め の 研 究 集 会 」 (1947 年 7 月 , 東 京 帝 大 ,東 大 と 文 部 省 の 共 催 )と い わ れ る (大 照「 ワ ー ク シ ョ ッ プ 覚 え 書 」, 『 教 育 新 潮 』第 1 巻 第 5 号 ・ 1950 年 9 月 号 )。 前 掲 村 川 編 2005 で も , こ の 著 に つ い て 言 及 さ れ て い る 。 (11)書 籍 と な っ た も の で は ,日 本 生 活 教 育 連 盟 編『 日 本 の 生 活 教 育 50 年 』学 文 社 ,1998 年 や , 川 合 章 に よ る 日 生 連 史 , た と え ば 『 日 本 の 生 活 教 育 の 100 年 』 星 林 社 , 2000 年 ほ か (12)前 掲 ・ 高 橋 陽 一 編 『 造 形 ワ ー ク シ ョ ッ プ 入 門 』 159 頁 , ほ か (13)20 あ ま り の イ ン タ ビ ュ ー 項 目( 本 論 文 末 に[ 資 料 ]と し て 掲 載 )を 設 定 し ,対 象 者 に 事前に郵送して,当日は自由に語って頂いた後,回答されなかった項目を質問していく形 の半構造化インタビューを行った。 全 て IC レ コ ー ダ ー で 録 音 し , 後 日 テ ー プ 起 こ し を 行 っ て , 文 字 デ ー タ を 変 換 し て い っ た。語り口,方言なども本人が承諾される限りで残した。そうしてできた仮稿を,対象者 23.

(14) に送付してフィードバックし,赤ペンでの修正・削除・加筆などを頂いた。それを踏まえ て修正を施し,プリントアウトして小冊子も作成してきた。 (14)本 研 究 で「 構 造 」と 表 記 す る 場 合 ,計 画 段 階 に お け る 静 的 な 枠 組 み を 指 す も の と す る 。 対して注目したいのは, 「 構 造 」を 具 体 化 し た も の で あ り ,計 画 を 実 践 に 移 し 動 的 に 展 開 す る場面を想定し, 「 構 成 」す る こ と と 表 記 す る 。こ れ は ま だ 実 際 に 実 践 に 移 し た 段 階 に は 至 っていないものであり,計画寄りの準備段階ではある。 (15)斎 藤 晴 雄 は , 野 々 垣 務 編 『 あ る 教 師 の 戦 後 史 』 (本 の 泉 社 , 2012 年 , 192-205 頁 )で も インタビュー対象とされた,埼玉で活躍した教師である。 (16)高 木 浩 朗 は , 木 村 博 一 「 戦 前 ・ 戦 後 を つ ら ぬ く 業 平 小 学 校 の カ リ キ ュ ラ ム と 教 育 実 践 の 展 開 」(共 同 研 究 で あ る 臼 井 嘉 一 監 修『 戦 後 日 本 の 教 育 実 践 』三 恵 社 ,2013 年 に 所 収 )に おいてもインタビューを受けている。後に郷里の岡山県に戻って井原市教育長も勤めた。 (17)会 場 と は ,全 青 教 で は ,1952 年 の 千 葉・富 崎 小 か ら 順 に い え ば ,群 馬・神 津 牧 場 ,阿 蘇・内牧小,妙高小,小豆島の公民館,九段会館,愛知・河和小,別府温泉,そして日本 青年館,丹後宮津小,山中湖といった場所である。日生連では,本部や各地区の合宿集会 や研究総会が年に数回開かれたのだが,前掲の日生連編にまとめられた年表などを参照。 (18)全 青 教 の 富 崎 集 会 (1952)と リ ー ダ ー 江 口 武 正 に つ き , 北 条 小 か ら 参 加 し た 教 師 , 石 井 辰雄が語ったエピソードが,詳しく具体的なものなので,長くなるが引用する。 「2 日目ぐらいの夜になりますとね,ぼやきが出るんですよ。みんな全然わからないん だから。問題解決学習がどうたらこうたら,ときいてもわかんない。ぼやきが出るんで す ,「 お 家 に 帰 り た い よ 」 と か ね 。「 汽 車 や 電 車 に 乗 せ ら れ て 」 と 兵 隊 の 歌 を 歌 っ て 。 そ こ で ,江 口 武 正 が 私 の 隣 の [席 ]に い て , 「 ま ぁ 皆 さ ん よ ,わ か ん な い の は わ か る け ど , 明日になると単元習作っていうのをやるから,僕がそれやるから,おもしろいから石井 さん一緒にやりましょうよ」と言うんですよ。当時私は素直ですから,そうですかと。 それでね,翌日,3日目ですよ。3日目。朝から。私は江口さんのいるグループに入 っ た 。 こ の 人 の と こ に く っ つ い て い け ば 何 か わ か る ん じ ゃ な い か っ て 。 12, 3 人 い ま し た 。 そ れ は 「 日 本 の 農 業 」。・ ・ 初 め て 問 題 意 識 だ と か 認 識 だ と か , 問 題 解 決 学 習 ・ 過 程 だとか。江口さんがそばにいて,こうなってこうなってこうなって,こういう資料を見 せるとこうなってとプログラムをずっとつくっていった。 だいたい丸一日かかった。朝から,休憩無しですよ。夜になってだいたい終わってか ら ,ガ リ 版 起 こ し て 明 日 の 全 体 会 で 発 表 し な い と い け な い と な る と , 「 俺 は よ ,頭 悪 い か らいくら聞いてもわからないからガリ切りやろう」という人が出まして,ガリ切りやる ん で す よ ,一 生 懸 命 に な っ て 。夜 通 し や っ て ま し た ね ,10 枚 ぐ ら い あ っ た か な 。私 な ん か印刷して。 8 時 半 か 9 時 か ら 始 ま り だ か ら , と 江 口 さ ん が 全 体 会 で 発 表 し て 。」 (19)中 内 敏 夫 は ア リ ス ト テ レ ス に よ る 学 問 区 分 を 参 考 に し て ,教 育 学 を 認 識( テ オ ー リ ア ) の学と実践(プラクシス)の学の間における制作(ポイエーシス)の学と位置づけ,政治 学,美学,建築学,医学,農学にならぶものとした。これらの説については,中内『生活 訓 練 論 第 一 歩〔 付 〕教 育 学 概 論 草 稿 』日 本 標 準 ,2008 年 ,186 頁・156-157 頁 ,他 を 参 照 。. 24.

(15) [資料] コア・カリキュラム他 に関 するインタビューの質 問 事 項 (共 通 事 項 例 ) ●戦 後 におけるご自 身 のこと 1, 1,ご生 年 ,2,ご出 身 の教 員 養 成 関 連 の学 校 ,3,教 員 歴 ,4,ご赴 任 校 と異 動 ,5,各 年 に担 当 された学 年 ・分 掌 ほかについて,さしつかえのない範 囲 でお知 らせください。. ●コア・カリキュラムに関 して 2,当 時 担 当 された学 級 での実 践 について,もし生 活 教 育 ,コア・カリキュラム,三 層 四 領 域 について 意 図 されていたとしましたら,それぞれどれほどですか。それらを実 践 し始 める決 断 はいつどのようにな されましたか。 また,先 生 ご自 身 や担 当 された子 ども達 ,保 護 者 や地 域 の人 たちは,そうしたカリキュラムのもとでの 授 業 ,活 動 をどう思 っていたでしょうか。 3,〇〇小 学 校 では,社 会 科 やカリキュラム全 体 についてどんな論 議 および研 修 がなされていましたか。 または校 内 研 あるいは公 開 の研 究 発 表 会 で「よい」と評 価 されたり,批 判 がされたことはどのようなこ とですか。断 片 的 なことでもおきかせください。 4,勤 務 校 全 体 として,カリキュラムの全 体 構 造 を編 成 する,または解 体 するような動 きはありましたか。 それらの決 断 は,誰 がどんな理 由から下 したのでしょうか。 5,学 校 の公 開 研 究 会 または自 主 的 なかたちでの参 観 者 は,どこから来 たどのような方 々でしたか。そ こで寄 せられた感 想 や批 判 で,とくに印 象 深 かったものは何 でしたか。 「学 力 低 下 」「はいまわる経 験 主 義 」といった批 判 が聞かれましたか。 6,当 時 ご自 身 で,機 関 誌 『カリキュラム』や『生 活 教 育 』をいつから講 読 し,どのくらい活 用 されていま したか。勤 務 校 で講 読 したり,回 し読 みがされていましたか。 また,今 でも印 象 に残 っている論 文 ,実 践 記 録 ,カリキュラム報 告 などがあればあげてください。 7,コア連 や日 生 連 の研 究 者 たち,または大 学 の先 生 方 とは研 究 上 どのようなお付 き合 いがありました か。梅 根 悟 ,海 後 勝 雄 ,石 山 脩 平 ,馬 場 四 郎 ,倉 澤 剛 ,広 岡 亮 蔵 ,金 子 孫 市 ,和 田 義 信 ,井 坂 行 男 ,長 坂 端 午 ,春 田 正 治 ,重 松 鷹 泰 ,上 田 薫 ,森 昭 ・・・ 8,〇〇県 内 または〇〇地 方 の各 小 学 校 の間 で,学 校 間 または個 人 間 の交 流 や研 究 会 がありました か。また幼 稚 園 や中 学 校 などとは連 携 されましたか。 また,全 国 のコア・カリキュラム研 究 校 とは交 流 ・関 係 はありましたか。. 25.

(16) 9,以 上 のことと,戦 後 初 期 の政 治 ・経 済 ・文 化 の状 況 は,何 らかの結 びつきがあったと思 いますか。 先 生 自 身 ,校 外 などでの活 動 はされていましたか。. ●当 時 作 成 されたカリキュラム冊 子 や研 究 紀 要 について 10,勤 務 校 でカリキュラム冊 子 や研 究 紀 要 が作 られた際 に,その形 式 は,どの学 校 または誰 から学 ん だものでしょうか。コア連 ・日 生 連 の加 盟 校 や会 員 ,研 究 者 だったでしょうか。それ以 外 にもあったので しょうか。 11,カリキュラム冊 子 は,誰 が中 心 になってどのように作 成 されたのでしょうか。研 究 主 任 でしょうか, 各 担 任 が自 らの実 践 をもとにして書 いたものの合 作 だったのでしょうか。 原 稿 は教 職 員 全 員 では,どのような経 過 で検 討 ・執 筆 されたのでしょうか。 12,カリキュラム冊 子 は,以 降 に実 践 する予 定 のプラン(計 画 書 )だったのでしょうか,または実 際 に実 現 された実 践 ・カリキュラムの報 告 書 だったのでしょうか。冊 子 ごとに意 味 合 いが違 っていたのでしょう か。 13,スコープとシーケンス,生 活 単 元 学 習 ,要 素 表 ・能 力 表 ,問 題 解 決 学 習 といった概 念 のいくつか を意 識 して作 成 ・実 施 されたものだったのでしょうか。 またはそれらに対 する批 判 意 識 からだったのでしょうか。 一 般 的 に,それらの概 念 について,ご存 知 のことやご意 見 があればお願 いします。. ●コア・カリキュラムの衰 退 (昭 和 25~30 年 ごろまで)について 14,当 時 ,「学 力 低 下 」「はいまわる経 験 主 義 」など様 々な批 判 がありましたが,先 生 の印 象 に残 って いるコトバはありますか。学 校 や地 域 で内 外 の先 生 方 などが言 っていたものはありますか。それはどのよ うな意 味 で言 われていましたか。 15,先 生 自 身 の担 当 学 級 での実 践 やその教 育 方 針 などに,それらの批 判 は生 かされていたのでしょ うか。また,勤 務 校 内 の研 修 や先 生 方 の論 議 に,影 響 はありましたか。 例 えば,「学 力 が下 がっているので学 力 をつけさせてほしい」,「子 どものしつけがなっていない」といっ たことです。 16,地 域 の方 や保 護 者 は,先 生 や学 校 全 体 の 実 践 をどう思 われていたのでしょうか。また,その感 想 ・意 見 に変 化 がみられるようになりましたか。 17,以 上 をふまえると,コア連じたいの「転 進 」(昭 和 25 年 前 後 ~)が始 まったことは, 先 生 の実 践 や学 校 のカリキュラムにどんな影 響 を与 えたといえそうですか。 先 生 ご自 身 がコア・カリキュラムをやめられたならば,その理 由 は何 でしょうか。 26.

(17) ●21 世 紀 の現 在 と今 後 について 18,以 降 ,戦 後 を通 じた先 生 の教 員 経 験 にとって,戦 後 初 期 の生 活 教 育 やコア・カリキュラムの研 究 と実 践 は,どのような形 で生 きてきたと思 われますか。とくに他 の学 校 に異 動 されてからはいかがでした か。 19,最 近 ,学 力 低 下 論 争 やゆとり教 育 批 判 ,学 力 向 上 の動 きが活 発 になっています。生 活 科 ・総 合 的 な学 習 も削 減 が言 われますが,先 生 はどのように考 えられますか。 20,現 在 の学 校 教 育 や今 後 の教 育 改 革 に対 して,どんな考 えをお持 ちですか。 21,その他 ,ご感 想 や,若 い学 生 ,教 師 に対 してメッセージをお願 いします。. ●補 足 22,「コア・カリキュラム連 盟 」の関 係 校 リストをご覧 になって,思 い出 のある個 人 会 員 ,関 係 校 がござ いますか。. ※ 本 稿 は ,JSPS 科 研 費 の う ち 金 馬 個 人 の 若 手 研 究 (B) 17730450(2005-07 年 度 ),若 手 研 究 (B) 21730616(2009-11 年 度 ),若 手 研 究 (B) 25870241(2013-16 年 度 ),お よ び 進 行 中 の 基 盤 研 究 (C)17K04533(2017-20 年 度 )を 活 用 し た も の で あ る 。 本稿の3以降の一部分は行田稔彦他編『希望をつむぐ教育―人間の育ちとくらしを問い 直 す 』( 生 活 ジ ャ ー ナ ル , 2018 年 ) 所 収 の 拙 稿 と 重 な る 。 そ こ で , 近 年 試 み て き た 単 元 習 作ワークショップとそのポイントについても詳しく報告・展開したので参照されたい。. 27.

(18)

参照

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