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百
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ィ今、 ,..,.,、 式 .1th 悩 和 三 一 十七年十月五 日 、 本 山 子 に 於 て 学園 五 十周年記念式典 が 盛 大 に 挙行 さ れ た 。 学閣 の 創 立 は 、 弘治 二 年 ︵ 一 、 五 五 六 ︶ 身延山 第十四位警学院日鏡上人 の ﹁西谷普学院﹂に発するの で あるが 、 大 正 三 年文部大臣の認可 を 得 て 、 ﹁ 祖 山 学 院 ﹂ と改称され 、 更 に 昭和十 六 年に﹁身延山専門学校﹂並に﹁祖山中学﹂と変り、同昭 和 廿 三 年に至って中学は﹁身延 山高等 学校﹂となり 、 習廿四年に 専門学校は現在の﹁身延 山 短 期 大学﹂と な って今日に及ん で い る の で あ る 。 ﹁砲山学院﹂となってから五十周年を迎えたので 、 愛にその記念 祭 が 催 さ れ た の で あ る 。 先 ず当 日は、総 本 山 大客殿に於て学長藤 井日静抗下の発声による玄題 三 唱により閉式 、 学頭松木本興教授 の経過報告に続いて 、 管長 山田日 真抗下を始め 、 立正大学長石橋 堪山師︵代理坂本幸男博士︶ 、 大本 山池 上木門寺貫首伊藤日定祝 下 等の祝辞があ り、列席者 一 同深い感銘 の中に式 典を終了し た 。 尚 、 こ れ に 先 き立って仏殿では 、学園関係物故者 の追 悼 法要が 修された。また 、 記 念行事の一つとして、永年勤続者︵ニO
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年︶の表彰が行われた。表彰されたのは 、 松木本興 、 里見泰 穏、室住一妙、林是幹 、 疋 田英華、中里 日 応 、坂本幸男、飯 沼 竜 速 の各教授 諸師 で あ る 。 同 窓 会 大 会 と 恕 親 会 記念式典終了後、本学に於 て 全 間 各 地 よ り 集 っ た 同 窓 生諸 師 に よる大会が聞かれた。学耽望月 日雄帥 より 、 鉄筋の校舎建設に つ い て の 計画が述 べ られた あ と 、 大 会 議長に荒 木 義栄師 ︵ 東京同窓 会長 ︶ 副議 長 に 三 木浄達師 ︵ 京 都同 窓 会︶樋口 是 端師 ︵ 本 学 師親 会長︶が そ れ ぞ れ推薦 さ れ 、 次 の 如 き 議事が おこな わ れ た 。 一 、同 窓会支部 を 各 地 に結成す る 件 各地区とも 実 情に応じて 、 出 来 う る 限り 宗 務所単位 に 同窓 会 の ま部を組織 し 、支部 毎に会員 名 簿を完備 し 、 常 に 本部と の 連 絡 を 図 る 。 一 、 校舎建築 の 件 現在の老朽校 舎 で は 、 既に充 分 な 教育活動が出 来 な い 状 態 な の で 、 身延 山開 創七百年記念事 業 の 一 環とし て 、 近い内に建設す る こととなり 、同 窓会も全面的 に バ ッ ク ア ッ プ す る こ とに決定 一 、 その他の件 同 窓生は移動のあった場合 、 本部並に支部 へ 連絡 を と ること 。 及び、﹁棲神 ﹂ の会員として加 入 す ること 。 以上の件に つ いて満場 一 致決議 さ れた。この後引 き 続いて夕刻よ り東谷覚林坊を会場とし て 、懇親 会 が 聞 か れ た 。c
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塩田博士学位取得祝賀会 先きに﹃法華教学史の研究 ﹄で文 学 博 士の学位 を得ら れた本学教授倫明田義遜先生の祝賀会が 、 十月五日の学園記念祭に続いて挙 行された。坂本博士より渡米中の論文主査西博 士 に 代って学位論 文審査報告があり 、 加賀美 宗務総 長 、 望月前総 長 、 並びに本学 よ り飯沼教授が祝辞を述 べ 、 記念品の贈呈がお こ な われた。塩田博 士は病床につかれておられたので夫人が代って出席され 、 録音に よる博士の謝辞があり 、 祝賀会を終 了 し た 。 講 演 会 と 弁 論 大 会 十月八日身延会舘に於て 、 記念講演会が催された。﹁宗教と生 活﹂︵松木本興教授︶﹁宇宙時代と人間﹂︵白上謙一理学博士︶ 終って映画が上映された。また此の目 、 西谷常経殿売会場として 全国高校弁論大会が華々しく展開され 、 各 県 よ り の 参 / 加 二 十 校 に 及び﹁山梨放送﹂の後援をえて盛会であった。 言主