• 検索結果がありません。

日本語教育における言語と思考 : その意味づけの変遷と問題点

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本語教育における言語と思考 : その意味づけの変遷と問題点"

Copied!
25
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)日本語教育における 言語と思考 その意味づけの 変遷と問題点 一. 一. 桂川 [ キーワード ]. 0. .. 波 都季. 思考様式、 言説分析、 言語柏村仮説、 日本語教育学. はじめに. 言語が人間の 思考を規定するという 言明は、 その正否を問 ぃ 性質のものであ る. (=. う. ことのできな. 井 2000 , 1 、 池上 1993,2L。. しかし、 後述する日本語 教材の例のように、 この言明は現在でも、 正しいものだと 素朴に信じられて ) る 。 言語や思考というものは 非常に大きな 概念であ る。 そのため、 論じる. 側も読む側も 、 銘々の勝手な 解釈で、 この言明を使用・. それぞれに異なっていたとしても、. 理解し ぅる 。 解釈が. その解釈をそれぞれが 述べ比較する 機会. がなければ、 言明自体は通念として 受けいれられ 続ける。 言語が人間の 思考・を規定するという 言明の正否自体は 検証できる性質のも のではない。 したがって、 本稿では、 この言語が人間の 思考を規定するとい う通念自体の 正否は問わない。 本稿で論じるのは、 言語が思考を 規定すると いう、 誰でもがそれぞれに 解釈し ぅる 通念が、 日本語教育ではどのように 解 秋 され、 どのようにその 解釈の正当性が 主張され、 その結果、 どのような 問 題 がもたらされてきたか、 ということであ る。 そのごく最近の 例として、 『大学・大学院留学生の 日本語①読解 編 』の第 1 課を取り上げよう。 『読むだけ小論文. コ. この教材の第 1 課「言葉の役割」 学習研究社. ). ( 出典は樋口裕一. 2001. の「本文」は、 言葉と認識の 関係について. 述べた小論であ る。 そこでは、 民族によって 虹の見え方が 違うのは、 色を指 す 言葉の数が違 う からだと述べられた. 後、 最後に、 言葉と「認識のしかた」. の 関係が次のように 結論・付けられている。 我々は言葉によってものを 考え、 また、 感じているのであ る。 つまり、 言葉は 我々の考え方や 感じ方、 すな ね ち、 認識のしかたを 規定しているのであ る。 (11 頁). 一 61 一.

(2) 「言語が思考様式を 規定する」という. 言明を通じ、. この教材は学習者に 何. を 学ばせようとしているのだろうか。. この教材では、 本文読解の前後に、 「読む双に」「読んだあ とで」という. コ. 一 ナーが設けられ、 学習者は、 そこに書かれた 問いかけに答える 形で話し合. いをすることになっている。 「読む双に」では、 い. く. っ あ ると考えられていますか。. 「あ. なたの国では、. 虹の色は. それはどんな 色ですか」「日本では、 虹. の色は七色と 考えられています。 それは図 1 のような色です。 あ なたの国と 同じですか。 違 う なら、 どこが違いますか。 また、 違 う のはどうしてだと 思 いますか」 (10頁 ) という問 いが 投げかけられている。 教師向けの解説によ ると、 ここで学習者に 期待されているのは、 「日本で虹の 色が 7 色なのはその 色を表す言葉があ るためであ ること、 つまり、 言葉が概俳を 規定する、 とぃ ぅ ことに学習者が 気がつく」 ( 回書添付「解答と 解説」 5 頁 ) ことであ る。 つ まり、 ここでは、 国によって虹の 色の数は異なる、 それは「言葉が 概念を規 走 する」ためだと 気づくことが 促されている。 この 嵐 づきのあ と、 学習者は、 冒頭に述べたような 本文の内容を 読む。 そ. の上で、 「読んだあ とで」において、 学習者は「虹の 色の数は 、 国によって 遠 います。 それはどうしてですか。 説明してみましょう」 (15頁 ) と 問いか けられる。 読解前の話し 合いや、 上記のような 内容の本文を 読んだ後だと ぃ ことを考えると、 ここで期待されている 答えは、 言葉は「認識のしかた」 を規定している、 そして虹の色名は 国によって違 う から、 国によって認識で、 ぅ. きる色数が違. う. 、 という内容だと 考えてよいだろう。. つまり、 この教材は、 言葉は「認識のし 考様式」. ;. 、 た」. ( 本稿の用語で. 言えば、 思 「. *3) を規定するという 言明を根拠に、 だから、 国によって思考様式. は異なるのだ、 という内容を 学習者に繰り 返し確認させるものだ、. と 言 うこ. とができる。 言語が思考様式を 規定するということを 事実であ るかのように. 学習者に訴えることを 通じて、 言語二国による 思考様式の違いを 強調してい る。. 以上のような 内容は、 学習者が日本語を 学ぶ 際 、 どのような影響をもたら し. ぅる だろうか。 この教材では、 日本人の思考様式を 習得せよというような、. あ からさまに同化的な. 主張がなされているわけではない。. むしろ、 学習者の. 母国の思考様式と 日本の思考様式の 差異を確認させるものであ 身の思考様式を 尊重する立場から 作られたものであ. り、 学習者. ろう。 しかし、. 自. 学習者の. 2 6.

(3) 国 では特定の言語が 使用され、 その言語が学習者の 思考様式を規定するとの. 説を、. 学習中の日本語にそのまま 当てはぬた場合、 学習者には、 日本で使わ. れている日本語が、 日本人の思考様式を 規定するという 説が浮かぶのではな )か. 。 そして、 このような日本語と 日本人の思考様式との 強 い 結びっきは、. 学習者に、 い. う. 際は、 日本人の思考様式になるはず、 なるべきだと 無言の圧迫をもたらすことになるかもしれない。 日本語を使. う. このような 危 ,惧は単なる危 ,惧でしかな い のか。 このことを検証すべく、 過. 去の日本語教育学に 遡り、 言語と思考とを 結びつける言説の 意味づけとその 問題について 考察する。. 1. 研究目的 本稿は、 日本語教育学で、 言語と思考とを 関連づけようとする 言説はどの ように意味づけられていたのか、. その意味づけの 正ヨ , 性はどのような 論理 展. によって主張されてきたのか、. その主張の結果、 どのような問題が 生み出. 開. されてきたのか、 ほ ついて考察するものであ る。. 具体的には、 1960 年代末から 70 年代半ばにかけて、 『日本語教育』に 発表 された論文の 中から、 言語と思考とを 関連づける言説を 含む論文を取り 上げ、. その内容を分析する。 分析対象を 1960 年代末から 70 年代半ばに限定する 理由は、 この ょう な言説 が日本語教育学で 最も頻出したのがこの 時期だからであ る。 『日本語教育』 では、 すでに 660年代末から言語と 思考とを関連づける 記述が見られ、 75 年前. 一ムは. 後に、 その頻度は最も 高くなった , 4 。 その後、 70 年代後半からは 減少しはじ めたことから、 日本語教育学において、 言語と思考とを 関連づける言説の ブ. 1970 年代半ばにあ ったとい. と ができる。. う. ただ、 冒頭の教材の 例に見られるよ. う. に、 現在でも日本語教育の 現場では、. 言語と思考との 関連づけは自明視されており、. その関連づけを 根拠に 、 国と. 言語とが同一視され、 特定の国や言語に 特定の思考様式が 存在するという 内 容 が教えられている。 認知心理学などの 個分野の研究成果は、 言語と思考と の単純な関連づけが 不可能であ ることを示しているが 門 日本語教育ではそ うした成果は 取り入れられていない。 こうした現状の 原因の 一 っとして考えられるのは、 「はじめに」でも 述べた よ. う. に、 思考と言語が 大きな概念であ り、 言語と思考とに 関係があ るとする 言. 一 63 一.

(4) 。力. も 達平貝 は 開化 に 者、午 ぅ ㏄ よ 、る. 、﹂. 筆が. さ ﹁. 。のる 得. あ 育てが. る学ハ調. こ本 と連 う日 、 関. い、かの. とのいと. でと. ㏄てて. も は. 飲. む 半の考 込伐 る 思 み午ぃ. なとつ 文 ま 性に論. ざ能視究 ま可明研 さの自の. ぇる 書き方で主張されたのだとしたら、 そうした「理論的な」説明は 言語と思、. 考 とに何らかの 関係があ るという説の 流布を容易にするだろう。 以上の理由から、 本稿では、 60 年代末から 70 年代半ばの日本語教育学研究 を 分析対象として、. 言語と思考とを 関連づけようとする 言説の意味づけ、 論. 理展開の実態とその 問題点の解明を 目指す。. 2.. 日本語を特徴付ける 日本人の思考様式 2. 1. 「参酌」されなければならない 日本人の思考様式 『日本語教育』では、 第 10 号 (1967年 m2 月 ) 以降、 言語と思考様式、 日本 語と日本人の 思考様式とを 関連づける言説がしばしば 見られるようになる。 川瀬 (1968) は日本語の助詞の 分類を試みた 論考で、 「は」と「が」の 違 いに考察の焦点を 置いている。 「は」と「が」の 違いは、 日本語学・日本語 教育学において 常に議論されるトピックであ. り、 特に 1960 年の三上草による. 象ハ鼻ガ長ィ J ( くろしお出版 ) 以後、 象" は 鼻が長い」という 例文中の 、 「は」と「が」の 違いをど う 説明するかが 研究の一大テーマとなっていた。. 『. 「. 川瀬は「象は 鼻が長 い 」の「は」と「が」の 違いは、 主語と述語の 関係を 述べるだけでは 十分に説明できないと 言い、 語順の観点からそれらの 違い る 説明しょうとする。 「は」は場面を 設定するのですから、 焦点を示す「が」よりも 広 い 領域のものを 一般に示すことになります。 これは語順の 問題とも関係があ ると思いますが、 太 + 小 という形態になります。 (33頁 ). Jl@ は、 場面を設定する「は」は、 焦点を示す「が」よりも 広い領域のも のを示す、 だから、 語順は大づ 小 、 すなわち「は」. づ 「が」だと述べている。. ただし、 川瀬は、 大 「は」から か 「が」という 並び方については、 「語順 も. と. 関係があ ると思いますが」と 推測で述べているにすぎない。 指示領域の. 大・ 小と 、 語順が「は」から「が」であ. ることとのつながりに 確信があ るわ. 一 64 一.

(5) けではない。 そして、 この引用後に 次の文が続く。 欧米人の思考 法 では、 個 より始まって 集団へというのが 一般的であ るが、 日本 人の思考 法 では、 集団を意識してから、 はじめて 個 へというのが 一般的であ る とは社会心理学者などによって 言われているところです。 このような思考法か らくる対象の 把握のしかたの 差異も語順の 問題では参酌されねばならないと. 思. います。 (33頁 ). 言き. Jl 頃 が、 大. 「は」. + 山「が」だということを、. 集団のあ とに個を意識する. という、 日本人の思考法から 説明しょうと 試みている。 指示領域の大小と 語 順との っぽ がりを「関係があ ると思いますが」という 程度にしか確信できな いために、 そのつながりを 補足すべく、 このような説明が 採られている。 だ が、 ここでの補足説明もそれほど 成功してはいない。 指示領域の大小と 語順 とのつながり 同様、 日本人の思考 法と 、 日本語の語順との っ ながりも、 参 「. 酌 されねばならないと 思います」と、 非常に暖 味 な形でしか述べられていな いからであ る。 なぜどのように「参酌」 しぅ るのかについての 説明がなけれ ば 、 日本人の思考法は 日本語の語順の 根拠にはならない。. この引用の後にも「は」と「が」の. 違いについての 考察が続くのだが、 思. 考 法 に触れた箇所は 上の引用以覚にはない。 思考 法は ついての言及は 、. 「は」. 「が」の語順を 補足説明するための 挿入でしかなく、 論旨に決定的な 意味を 持っようなものではない。 また、 なぜ日本人の 思考 法 というものを 持ち出す ことで日本語のあ る特徴が説明できるのかについて、 論者自身に確信があ る わけでもない。 にもかかわらず、 日本人の思考 法 というものが、 語順の説明 を補足するために 挿入されている。 こうした思考様式の 持ち出し方は、 この時期の日本語教育学に、 日本語の 特徴を説明する 際、 「ふと」日本人の 思考様式を持ち 出してもよいという 雰 四気が広がり 始めたことを 示唆する。 このことは、 次の寺村 (1968) からも わかる。. 2. 2. 日本人の思考様式を「暗示する」日本語 寺村 (1968) は、 名詞・代名詞を 、 「モノ性」「トコロ 性 」などの特性によ って分類した 論考であ る。 寺村は、 名詞の特性は、 日本人の捉え 方によって 類別できる、 「我々日本人は 直観によって 知っている」. 一 65 一. (46頁 ) とする。 この.

(6) ような日本人の 捉え 方. ・直観、 すなわち思考様式で 類別し. ぅる. 特性により、. 名詞の分類を 試みた後、 寺村は、 結論近くになって 、 「コソアド吉岡」. "6 の 分. 類を試みる。 代名詞というものが、 その言語が外界をど. 類別して捉えるかを 端的に示すも ( それに上の体系 (= 佐久間 鼎 による「コソ う. のとすれば、 日本語のコソアド 詞 アド 詞 」の体系 : 牲 ml@) からはみだす「ナニ」「ダ. ン 」なども含めて ). は、 本人が覚界の 事物や概念をどう 類型化しているかを 暗示するものであ って、. 日 そ. れは当然「名詞」の 類別に連なるものであ ろう (56頁 ) 。. 日本語のコソアド 詞は、 日本人の覚界の 類型化の仕方、 すなわち思考様式 を暗示しているとされている。 コソアド詞も 名詞も、 日本人の思考様式と 関 係している点では 共通しており、 そのことから、 コソアド詞は「当然「名詞」 の 類別に連なるもの」だとみなされたのだろう。. 日本人の思考様式と 関係が あ る共通点を支柱にして、 名詞の特,性分類をコソア ド詞にも適用することを. 理由付けたのが 上の引用箇所だということができる。 ここを読めば、 コソ ア ド詞の分類になぜ 名詞の分類を 適用してもよいのか、. その理由についての 寺村の考えは 理解できる。 しかし、 なぜ引用のように、 日本語が日本人の 外界類型化の 仕方、 本稿の用語で 言えば思考様式を「暗示 する」と いえ るのかについては、 川瀬 (1968) 同様、 暖 昧 にしか示されてい ない。 寺村は、 コソ ア ド詞は日本人の 思考様式を「暗示する」としている。. 「暗示する」という 表現から読み 取れるのは、 寺村が、 日本人の思考様式が 最初に. (あ. るいは土台に. えていることであ る。 を. ). あ. り、 思考様式の表れの 一つがコソアド 詞 だと 捉. 「は」「が」の. 「参酌」せねばならないとした. 語順を考える 際には、 日本人の思考様式. Jl@ (1968)よりは、. どのように関係しているのかをうかがい. うる. 言語と思考様式とが. 書き方であ る。. とはいえ、 ここでも、 日本語は日本人の 思考様式を「暗示する」と 表現さ れるのにとどまり、 両者の影響の 与 え 方などが具体的に 説明されているわけ ではない。 両者は「暗示する」という 暖味 な表現によって、 関係がほのめか されるにとどまっているが、 両者に関係があ ることは疑われていない。. ml@ や寺村の例に 典型的なよ. 様式との関係が、 が. う. に、 1960年代末には、 日本語と日本人の 思考. 関係のあ り方はごく 暖昧 だが前提となり、 日本人の思考様式. 日本語の特徴記述のよりどころとして 抵抗なく持ち 出されるよ. 一 66 一. う. になった。.

(7) 3.. 影響・制約する. 母語の思考様式. 3. 1. 「影響」する 母語の思考様式 水谷 (1969) は、 論考の執筆動機を 次のように述べる。 あ. るひとっの表現方法、 たとえば仮定法に. が 、 英語国民の思考形式の. ょ. 6 表現とか、 比較に ょ 6 表現など. 中に深く根づいているとすると、. な ぶさいにどう 影響するかという 疑問から出発したものであ. それが日本語をま る。 たとえ直ま妾を去. をとって日本語を 教えたとしても、 学生の頭の中に 英語的なものの 考えかた、 ものの 表 わしかた、 言い表わすに 至る過程、 つまり発想 法 とでもい. が根をおろしているにちがいない。. う. べきもの. (2-3頁 ). 水谷は、 英語的発想 法 と「英語国民」の 思考形式や頭の 中との関係を、 「深く根づいている」「根をおろしている」といった 比倫的な表現でしか 表し ていない。 だが、 英語的な発想 法 と日本語を学ぶ 学習者の思考様式との 間に 何らかの関係があ るということについては、 前者が後者に「根をおろしてい るにちがいない」と 断定的に述べる。 また、 引用で、 水谷は、. 「英語国民」. には何らかの 英語的な発想 法 が根づ い ており、 その発想 法 が日本語学習に 「ど. う. 影響するか」という 疑問が執筆動機だとしている。. 国民に何らかの 英語的発想 法が. 「. この論考は、 英語. 根 づいている」ことを 自明視し、 そうした. 英語的発想 法 が日本語学習に 影響を与えることを 暗黙の前提にしたものだと 一,6. だが、 水谷の目論見に 反し、 「英語国民」による 作文からは、 英語的な発 想法 が日本語学習に「ど. う. 影響を与えるか」の 実例を探し出すことはできな. かった "7 。 そこで水谷は、 対訳つき著作の 原文・訳をデータとし、 それらを 上ヒ駁することで、. 英語と日本語の 表現の特徴を 述べ、 その特徴を、 経験的に 思い浮んだ例にあ てはめることで、 英語の特徴が、 日本語学習に「ど う 影響. するか」を述べようとする。 たとえば英語の 特徴について 論じた箇所では、 まず、 対訳つき著作のデー タ. や国広哲弥の 叙述から、 「英語は主語と 動詞という 一つのはっきりした 型. を 強くまもっているのに る」. 対して、 日本語は実にさまざまな 表現が対応してい. (14 頁 ) と、 日英語のシンタク ス の違いを述べた 上で、 次に 、 下のよう. に 述べる。. 一 67 一.

(8) Ⅰー|. こうした主語プラス 述語 式 構造が深く根ざしているのは、 印欧語を母国語とする 人々に共通することではないかと. ば」の表現が 習得しにくいばかりでなく、. 英語国民にかぎらず、. 想像するが、. 「……すれ. 時に学生の中には「……すれば」と. い う 条件節をむだだと 感じる者もあ る。 ( 中略 ) 英語国民のあ たまの中に、 ひと つの主語にひとつの 本動詞 (mainverb) という考えかたが 深くしみこんでいる ことは、 日本語を教えるさい 十分認識しておくべきことだと 思われる。 とくに 年齢が高くて 英語的発想 法 ; ; よく身についていれば 問題はいっそ う 大きい。. (14-15 頁) 出所のはっきりしない 学生の例を根拠に、 主語プラス述語という 英語的発 想 法 が深く根付いていると、. あ. る表現が習得しにくかったり、. か. だだと感じ. させたりするのだと 主張されている。 また、 英語国民の頭の 中に、 そうした 「考えかたが 深くしみこんで い ること」は、 日本語教師が 認識しておくべき 課題だと提示している。 つまり、 英語国民と英語的発想 法 に関係があ ること は. 自明視され、 出所が不明の 作例によって、 そうした英語的発想 法 が日本語. 習得に何らかの 問題を与えると 主張されていることになる。. この時期、 水谷同様、 池尾 (1970) も、 日本語学習者の 実例ではなく、 作 王 側 だけを根拠に、 「文化的背景の 相違からくる 思考や連想の 型の違い、 意味 領域のずれ られる」. ( 中略 ). 等の点で、 日本人なら問題にならない 問題の解明にせき. (56頁 ) と、 思考様式の相違が 日本語学習に 問題をもたらすと 述べ. ている。 水谷や池尾は、 学習者の思考様式を 排除すべきだとは 述べない。 しかし、. 1960 年代未から 70 年代初めに、 学習者が母語や 文化の思考様式を 持っている ことを自明視し、 それらが日本語習得に 問題をもたらすと 捉える言説が 見ら れるよ. う. になったことは 確かであ る。. 3. 2. アメリカ語に「制約」される 思考様式 宮地 (1973) は、 1972 年の日本語教育学会研究例会で. 話した原稿を、 宮地. 自身が短縮したものであ る。 ペンシルベニア 大学、 ミドルベリィ 大学での経. 験に基づき、 アメリカの日本語教育の 現状や問題点、 理想について 記されて いろ。 この論考では、 ァメリヵ の日本語学習者に 干渉する様々な 条件について、. かなりの紙幅を 割いて論じられている。 宮地に. 一 68. 一. よ. ると、 学習者を制約する 条.

(9) 件は二つに分けられる。 一 つは 、 外的な制約条件であ り、 経済的・時間的制. 的や、 アメリカ社会という 環境で学ぶことがそれにあ たる。 二つ目は内的な 制約条件で、 日本語の学習目的などから 来る心理的条件、 アメリカ 語 という 言語の現実が 日本語学習に 干渉する、 とされている。 二 つ 日の内的な制約条件の、 言語の干渉について 述べた箇所で、 宮地は次. のように記す。 特殊な場合を 除いて、 アメリカ語を 話し、 書く言語社会に 生まれ育った 学生は 、 単に言語習慣ばかりでなく、 言語に制約されてその 思考の形も、 外界の認識の 型も日本人と 全く 畢 っていることは 言うまでもあ りません. (65 頁 ) 。. この記述は、 母語と日本語学習者の 思考様式に関係があ るとする点では、 英語的な発想 法 が英語国民の 頭の中に根づいているとした、. 水谷 (1969). と. ほとんど違いはない。 また、 母語と日本語学習者の 思考様式との 間に関係を 見 いだすからといって、 学習者の思考様式を 排除はしないという 点でも共通 している。. 最大の相違点は、 水谷が、 学習者の母語と 思考様式の関係を、 前者が後者 に 「根をおろしている」「深くしみこんでいる」という. 地楡的な表現で 記し. たのに対し、 宮地は双者が 後者を「制約」するとした 点であ る。 水谷の表現からは、 水谷にとって、 学習者の思考様式が、 母語の思考様式 が 根をおろし、 しみこみ ぅる ぅ. 土のようなものとして 捉えられていたとうかが ことができる。 ただ、 両者の関係はあ くまでもイメージとして 思い浮かぶ. だけで、 具体的な力関係ははっきりしていない。 それに比べ、 宮地の「制約」という 表現からは、 言語がその話者の 思考様 式の広がりを 枠 付けるものであ り、 言語と思考様式は、 制約するものと 制約 されるものとして 捉えられていることがはっきりとわかる。 考えるとき、 日本人の思考様式を「参酌」すべきだとした 日本語が日本人の 思考様式を「暗示」するとした. 日本語の特徴を. 川瀬 (1968) や、. 寺村 (1968) に比べると、. より一層、 言語とその使用者の 思考様式との 関係が明確に 描かれている。 ここでさらに、 宮地の日本語観について 見ておきたい。 言語と思考様式と の 関係について 述べた箇所ではないが、 宮地は、 最終部分で、 帰国して一番. 衝撃を受けたこととして、. 「日本における 日本人自身の 恐るべき日本語の 軽. 視 」「国語に対する 愛情の欠如」を. 嘆く. 一 69. (68頁 ) 。 宮地にとって、 言語とは 国 一.

(10) の 言葉なのであ り、 そしてその国の 人々は、 ただ国語を使用すればよいので. はなく、 国語に対し愛惜を 抱かねばならない。 この記述からは、 宮地が日本 語 る旧 本人の,情感と 強い関わりをもつ 存在として捉えていたことが 理解でき る。. また、 アメリカ社会で 学ぶという覚的制約条件をどう. 乗り越えるかについ. て 論じた箇所で、 次のように述べてもいる。. たとえ明らかな 限界があ り、 いわばっくりものに 過ぎないにしても、 日本語が 使われる背景の 現実、 本当にささやかな 日本的な現実を 教室の中だけにでもっ くりだす努力がなければ、 私が今申し上げた inte㎡erence をのりこえることはま すます難しくなります。 ただ、 Goodmorning" は 日本語では「おはよ う 。 」、 「お はよ う ございます。」だと教えるだけでなく、 おじぎが自然に 伴 う よさに、 更に は微笑が ぅ かぶところまで 教えなければ、 本当に日本語を 教えたとは言えない と 思います。 (64頁 ) Ⅱ. 本当の日本語教育とは、 伴. 単なる行動様式の「おじ. 「微笑」まで 教えることだと. う. ぎ 」だけでなく、 情感を. 宮地は考えている。 ここに、. 先の日本語と. 日本人の情感に 強 い 結びっきを 見ぃ だす日本語観を 適用するなら、 日本語と. 教えるということは、 日本語とともに 日本人の 言い換えることができる。 このような日本人の 情感の. 同時に情感を 伴う「微笑」を 情感を教えることだと. 教育を論じた 箇所と、 言語による 思考様式の「制約」を 論じた箇所とは、 前 者は外的制約条件の り. 文脈で、 後者は内的制約条件の. 文脈で出てきたものであ. 、 直接の関係はない。 しかし、 後述するように、 このような宮地の 日本語. 教育観と思考様式 観 とは、 両者が密接に. 絡み合い、. 日本人への同化を 主張す. る 論理へと展開することになる。. 4.. 理解・習得すべき 外国語 = 外国 4. 1. 「理解」させたい 民族の思考様式. (火 ). の思考様式. 第二外国語としての ドィ,ツ語教育の目的について 述べた合文 (1973) は、 外国語の「理解」 ( 聞く 、 読む ) とは何かについて 説明した箇所で、 言語と 思考との関係を 次のように描く。 「理解」であ るが、 ことはの単なる 理解にとどまるのではなく、 W.von. 0 7.

(11) Humboldt や L.Weisgerber もいっているように、 言語にはそれを 担っている民族 なり言語共同社会なりの「ものの. 肥 え万」、 「ものの見方」が 結晶化しているこ とまで考えた「理解」でなければならない。 言語は、 それを担い且つ 用いてい る 主体者の思考と. 行為を潜在 裡に 規定すると同時に、 またそれらによって 規定 されているのであ る。 「理解」というとき、 わたしたちは、 そのような民族のも. のの見方、 把 え方を無視して 真の「理解」はない、. と考えなければならない。. (28頁 ) 一文目と三文目の 主旨はほぼ同じで、 外国語の「理解」においては、 を担. 言語. 把 え方」「ものの 見方」を無視してはならないと 主張されて いる。 これらとは独立して、 二 文目では、 言語と主体者の 思考とが相互規定 う. 「ものの. 関係にあ るとの断定が 挿入されている。 この断定と他の 二文の関係は、 論理 関係を表す接続詞などがなりため、. 非常にわかりにくいが、 説明を補えば、. この断定を根拠に、 外国語「理解」において 民族の思考様式を 無視してはな らないという 主張を導き出そうとしたことが 読み取れる。 つまり、 言語と主 体者の思考とは 相互規定関係という 非常に強い結びつきを 持っている、 だか ら、. 外国語とそれを 担 う 民族の思考様式とも 強い結びつきがあ る、 したがっ. て、 外国語の「理解」において、. 民族の思考様式を 無視してはならない、. と. 流れを見出せる。 ただ、 ここで指摘したいのは、 「言語と主体者の 思考は強い結びっきがあ る 」という漠然とした 言明が、 外国語学習の 文脈では、 外国・民族の 言語と. い. う. 民族の思考様式との 結びっきを根拠付けるものとして. 解釈されている、. とい. う点であ る。 言語をなぜ外国・ 民族の言語に 置き換えうるのか、 主体者の思 者 をなぜ民族の 思考様式に置き 換えうるのかについて 説明されていない。. ま. た、 さらに、 言語と主体者の 思考とは相互規定関係にあ るという言明自体は 検証できないので、 それを根拠とした 主張は論をなさない。 つまり、 倉 又は、 根拠を示さないままに、 言語と主体者の 思考は相互規定関係にあ ると断定し、. 民族の思考様式を 無視すべきでないと 主張している。 導き出された 主張自体 は 、 民族の思考様式の 習得を積極的に 求めているわけではない。. 拠なく、. あ. しかし、 根. る外国語とそれを 使用する民族の 思考様式との 間に強力な結びっ. きを見出している。 そして、 そのような強力な 結びつきは、 外国語学習に 際 して民族の思考様式を 身につけて当然という 主張を生み出さないとは 言い切 れない。 次に見る同時期の 小川 (1973) には、 明らかにこうした 主張を見る. 7. 1.1.

(12) ことができる。. 4. 2. タも 国語学習 = 外国的な思考様式の 学習 S 侠 WeekstoWordsofPower (Funk l955) という英単語リストの 序文には、 、ジョン ニ デューイのⅡⅢ loughtis. ㎞ possible 研 thoutwords. y@V@(D@"There@@@ such@ an@ in mate@ connec Ⅰ. whateverde. 丘clencyorfaultthe. 丘. Ⅰ. Ⅱとトマス ニ シェリ. on@ between@ ideas@ and@ words@ that. emaybeinthenecessarlly. 姐ectsthe0ther. Ⅱ. が、 出典が明記されないまま 引用された箇所があ る。 この引用の後、 著者で あ るファン ク は 、 次のように述べる。 Itfollowsthen. a ㎞ ostlike. alaw ofmathematicsthatthe. morewordsyou. ㎞ ow the. more…learly‖nd}owerfully【ou『ill》hinkAnd , also , the[ore(deas【ou『ill(nvite ・. intoyourmind. (2頁 ). words を数多く知れば 知るほど、 明蜥 かっ力強く思考できるよ う になり、 数多くの ideasを心の中に招き 入れることができる、 としている。 数を増やせ るということ、 また、 この著書が 6 週間で学べる 単語根であ ることからする と. 、 ここでの words の意味は明らかに 単語を指している。 ファン. ーイとシェリダンを 引いて、 単語彙. と 思考力との比例関係を. ク. は、 デュ. 訴えたかったの. だろう。 一方、 『日本語教育』に 掲載されたに 小 Jll (1973) にも、 先のファン ク が 引いたのと全く 同じデュー イと シェリダンの 言が、 出典が示されることなく 引用されている。 小川は、 デュー 「言語と思考が 不可分であ を. イ. ること」. の引用のほかに 聖書の言葉などを 引用し. (4頁 ) を主張する。 さらに、 シェリダン. 引いて「思考が 変であ れば言葉も変であ り、 言葉がととのって い なければ. (5頁 ) とする。 言葉と思考との 関係は、 相互に 規. 思考の方もととのわな い. 」. 定. い 関係として捉えられている。. しる. う、 結びっきの強. 小川は、 ファン クと 同じデューイとシェリダンの 言を引用している。 だが、 ファン. ク. がそれらの引用から 単語彙. と 思考 カ. との比例関係を 主張したのに 対. し、 小川は言語と 思考との相互規定関係を 主張する。 そして、 その主張の後 に、 言語学習と思考との 関係を次のようにまとめる。 言葉を学ぶことは 考え方を学ぶことであ. り、 thoughtpattern. 「思想 (思考 ) の. 72.

(13) 型 」を獲得することであ る。 ( 中略 ) 外国語を学習することは 外国的な思考形式 を身につけることであ る。 (5頁 ). デューイやシェリダンなどを 引用した箇所では、 強い結びつきをもつもの は 、 言語と思考だった。 ところが、 その後にあ る上記引用箇所では、 言語学. 「覚国語」と「覚国的・ ,. 習 と「思考の型」「思考形式」に ・・ 変わり、 さらに、. 音形式」に変わっている。. 合文. ・. ・・・・な目. ・. (1973)と同様、 ここでも、 言語と思考との. 関係が、 言語学習の文脈では、 言語と思考様式へと 変形されている。 小川の 場合、 言語と思考とは 相互に作用し 合うという説明は、 言語と思考様式との 関係へと変形され、 こうした無根拠な 変形をもとに、 外国語学習とはすなわ 「覚国的な思考形式」の. ち. 習得なのだという 主張が生み出されている。. 小川 (1973) と 合文 (1973) との違いは、 合文 が 民族の思考様式を 無視し てはならないとしていたのに 対し、 小川は外国の 思考様式を身につけること を 積極的に求めている 点であ る。 言語と思考との 関係を柑互に 影響し合 う強. い 関係だとした 点は、 合文. も ⅡⅥ l8. 規定関係とみなす 場合、 言語を使 い. う. う. 変わりない。 しかし言言 吾と 思考とを木目 互. 集団の思考様式を 無視すべきではないと. 、 合文のような 教育理念が導き 出されるとは 限らないのであ る。 小川の. 論考は、 言語と思考のこのような 関係の捉え方が、 言語学習と同時にその 語を使用する 集団の思考様式の 習得を積極的に ボ める根拠になり 示している。. ぅ. 言. ることを. このように、 小川 (1973) では、 「言語と思考が 相互規定関係にあ る」と い う 言明をもとに、 外国語を学ぶことすなわち 外国的な思考様式の 習得であ るとの主張がなされているのだが、 いう. 「言語と思考が 相互規定関係にあ る」と. 言明自体は、 これまでの論考同様、 検証されない。 また、 外国語とは 何. か 、 外国的な思考様式とは 何かも全く説明されておらず、. それらの概念は 暖. 味なまま自明視されている。 つまり、 外国語学習とはすなわち 外国的な思考 様式の習得だという 主張は、 その根拠も概念も 暖 味 なものであ る。 唆昧 では あ. るが、 それだけに主張自体は 検証も反証もできず、 漠然と存在し 続けるこ. とができる。. 小川の主張は、. 外国的な思考様式とは 何かを示さないまま、 それでもなお、. 外国語習得に 不可欠なものとして 外国的な思考様式の 習得を促すものであ る. 。 このような小川の 主張のもとで、 学習者は、 外国語習得と 結び付けられ. 一 73 一.

(14) た 外国的な思考様式を. 学ぼ ぅ とする。 しかしその学習対象は 見えない。 学習 者は、 見えない目標の 習得を目指し、 いつまでも学習し 続けなければならな いことになるだろう。 小川の主張にはこのような. 問題があ る。 にもかかわらず、 この主張は 、 外. 国語が日本語へ、 外国的な思考様式が 日本・日本人の 思考様式へと 置き換え られ、 日本語学習とは 日本 (火 ) の思考様式の 習得だとする 主張へと発展す る。. 5. 教育内容としての 日本語 = 日本人の思考様式 先 の合文やり }llの論考が掲載されたのと 同じ 1973 年には、 日本人の思考様 へ. 式 が日本語教育の 教育内容として 取り上げられ 始める。 森田 (1973) は、 「学習者の文法理解、 文型修得」について 次のように 記 す。 場面と文脈を 明示し ぅる 文型練習からのみ、 (時には実演によって ) 修得が可能 なのであ る。 これを解説法や 翻訳 法 によっても上達しない。 ましてや日本語の コソアドや「 行ク、 来ル 」を安易に thisや that などに、 togo,tocome に置き替え てみても、 日本語独自の 用法 ( それは日本人の 考え方や発想に 由来するのだが ) を 教えたことにはならない。 (33頁 ). 日本語と日本人の 思考様式がいかに 関係づけられているかという 前者が後者に「由来する」とした. 点では、. 森田と、 寺村 (1968) とほとんど変わりは. ない。 ただし、 日本人の思考様式に 由来する日本語独自の 用法が 、 教えるべき内. 容として設定されている 点に大きな違いがあ る。 寺村が、 の 特徴を説明するために、. あ. くまでも日本語. 日本人の思考様式を 持ち出したのに 比べると、 森. 田は 、 日本人の思考様式を 、 教えるべき日本語独自の 用法と関連付ける 形で. 持ち出すようになる。 そして 1975 年になると、 日本人の思考様式がはっきりと 教育内容として 設 定されるようになる。 三島 (1975) は、 アメリカでの 日本語教育を 効率的に行 ラムの一案として、 サンフランシスコ 大学における. う. 3 点の取り組みを. ている。 1 点目は教室内で 話す機会をできるだけ 与えること、. 一 74 一. ためのカリキュ 紹介し. 2 点目は時間木.

(15) 足を補うべく 機能的なカリキュラムを 作ること、 3 点目は、 学習者の個人差 を 考慮すること、. であ る。 2 点目の取り組みの 例として、 三島は、 日本の文 化を勉強する 場合を挙げ、 以下のような 提案を行 う 。 初級日本語では 日本語の表現 法 に現れる日本人の 物の考え方、 日本人の生活態 度 、 生活様式、 対人関係などにも 注意させる。 (69頁 ). 将来の「日本文化」コースにつながるような 総合的プランの 一部として、 初級では、 日本語に現れる 日本人の思考様式に 注意を向けさせねばならない とするのだが、 日本語と日本人の 思考様式とに 関係があ ることは自明視され ている。. これ以前に本稿で 取り上げてきた 論考は、 日本語は日本人の 思考様式に由 来するというものや、 言語と思考様式は 切り離すことができないとするもの など、 書き方は様々ではあ るが、 言語と思考様式との 関係を説明した 箇所の あ るものだった。 しかし、 この三島の記述では、 日本語の表現 法 に日本人の 物の考え方が 現れることは、 取り立てて説明されることはなく、. もはや自明. とされている。 つまり、 日本語と日本人の 思考様式との 間に何らかの 関係が あ. ることは、 1975 年の時点では 完全に自明視されており、 それを教育内容と. することも、 がわかる。. あ. えて主張する 必要もな いぼ どに当然のものとなっていたこと. この論考で着目しておきたいことは、. こうした日本語と 日本人の思考様式. の 結びっきを自明視する 三島が、 一方では、 学習者の「一人一人の 進度や バ. クグランド、 性格」「学習目的、 あ るいは関心の 個人差」 (69 頁 ) を考慮し た 授業方法をせねばならないと 主張している 点であ る。 学習者に関しては、 ソ. 個人の関心事などを 配慮することが 重要だとしているにも 関わらず、 「日本 人の物の考え. 方、 日本人の生活態度、 生活様式、 対人関係」という、. 日本人. 間の個人差を 一切排した教授内容を 教えることには 何の跨 曙 もなされていな い 。 この例は、 「日本人」という 枠組みが、 いかに壊れにくく、 無条件に信. じられやすいものなのかを 物語っている。. 6. 日本語を媒介とした、 ・日本人の思考様式への「洗脳」 宮地 (1973) では、 言語が思考様式を 制約するのでアメリカ 詔使用者と日. 一 75 一.

(16) 者. 同語. 、本. で壱. は論教. m. 使. 語方. 力一ち. 。り. 深. リ のも メそ を. ア. のつむ のかつ もない. 情. いてと. たい. はれ感. てさ. れ 張の ら 主人 本. べは. 述と日 とよは. 地. 式は. る 待木 な 留目 異を. は. 式横. 、. 思 ので 0 人中. 考思. 様考宮. 八本の 本日者. 育 では「微笑」までも 教えるべきだ、 と主張してもいた。 この 1973 年当時の 宮地の思考様式 観 ・日本語教育観は、 その後、 どのように展開しただろうか。 宮地 (1975)は、 「日本文化」すなわち 日本人の思考様式や 日本の社会構 造などと、 日本語表現との 関係の深さについて 述べ、 日本語教育で「日本文 化」をど. う. 扱 う べきかについて 論じたものであ る。. 宮地は、 日本人は相手に 対する考慮をまず 第一とする、 だからフライバシ 一の つ. う. るさくなっている 今日の日本でも「これからどちらへ」と. 聞き「ちょ. とそこまで」という 無意味な答えをされて 満足するといった 現象が見られ. ると言. う. (21頁 ) 。 そしてこうした 例は「日本社会の 人間関係と、 それにか. かわる行動の 規範、 また、 日本人の持っている 自他の概念などが、 日本語の 表現のしかたをきめているということをしめしています」 日本人が相手への 考慮を第一とするのかについての. (22頁 ) と述べる。. 検証はなく、 また、 仮に. そうした思考様式を 日本人が持つとしても、 その思考様式が 日本語を決めて いるのかどうかは、 例によって示される 類の間いではない。 宮地は、 証拠は ないが、 ともかくも、 日本人の思考様式と 日本語との関係を、 前者が後者を 規定するものとして 関係づける。 その上で、 日本語教育・ 外国語学習につい て次のように 説明する。 このような特長をもった 日本語を、 大変ちがった 社会構造・風俗,習慣を 背景 に 持っている、 たとえば、 、 アメリカ語の 中に生まれ、 それを使. う. 人たちに教え. るというのは、 どういうことなのでしょうか。. それは、 極端に言えば、 物事の 判断のしかた、 考え方を変えさせるということであ ります。 いわゆる外国語を 学ぶ、 その外国語の 中に入ってゆく、 ということは、 その外国語に、 自分の思 考 ・認識を規定させるのをゆるすということであ. ります。 (22頁 ). 日本人の思考様式によって 規定される日本語を 教えるとは、 アメリカ 語 話 者の「判断のしかた、 考え方を変えさせる」ということだ、 と宮地は述べる。 ここでは、 アメリカ 語 話者の思考様式と 日本語との関係とは、 前者が後者に. よって規定される 関係として描かれ、 日本語教育がアメリ ヵ 詩話者の思考様 式に変更を加える 場となることは 全く 蹄蹄 されておらず、 むしろ、 それこそ 6. Ⅰ ウ.

(17) が 日本語教育の 役割だと訴えられている。. 宮地は、 この主張の根拠として、 言語が認識を 規定するというウォー フの 言語柏村仮説を 持ち出す。 宮地自身、 証明も否定も 難しいと述べていること からもわかるよ リ. う. に、 この仮説は証明困難なものであ. り、 日本語教育がアメ. ヵ語 話者の思考様式を 変更してもよいとする 主張を根拠付けうるものでは. ない。 それでも、 言語相対仮説を 引いた後、 宮地は、 「極端すぎるかもしれ ませんが」という 留保っきで、 「日本語を覚国語として 教えるのは、 日本語 に よ る、 いわば洗脳を 試みるに等しい」と 上ヒ楡的に述べる. (22 頁 ) 。 一定の. 留保という、 まっとうに見える 付言をつけながらも、 その結論は、 日本人の 思考様式が決める 日本語、 その日本語によってアメリカ 語 話者の思考様式を 変えようという、 同化的な内容をもつものであ る。 だが、 このような同化的な 主張が導き出されるまでの 論の流れを振り 返る と. 、 その大筋には 大きな矛盾があ る。 宮地の論は、 日本語は、 日本人の思考. 様式によって 決められる、 日本語教育の 際、 その日本語の 特徴がアメリカ 語 話者の思考様式を 規定して当然、 というものであ る。 宮地は、 日本人と日本語の 関連について 述べる際には、 日本人の思考様式 が 日本語の表現を 決めている、 すな む ち、 思考様式が言語を 規定すると述べ る。 一方、 アメリカ詩話者の 思考様式と日本語との 関係を説明する 際には、. 言語が思考様式を 規定するというウォー フ の説を持ち出し、 ァメリヵ語 話者 の 思考様式は日本語によってを 変えられるべきだとする。 日本人に対しては、 思考様式が言語を 規定するという 関係づけ、 アメリカ詩話者に 対しては、 言 語が思考様式を 規定するという 関係づけが用いられている。 言語と思考様式との 規定関係を、 言語のもともとの 使用者と学習者とでそ れぞれ別の使 い 方をするという 例は、 これまでの論考には 見られなかったこ とであ る。 小川 (1973) も、 この宮地の論考と 同じように、 言語学習の際、 その言語が使われる 国の思考様式を 学ぶべきだ、 としてはいた。 だが、 その. 根拠は、 言語は思考 と相 互に強く作用しるうものだからとするにとどまり、 外国語のもともとの 話者と覚国的な 思考様式との 関係、 外国語学習者と 外国 的な思考様式との 関係については 全く論じていなかった。 具体的な規定の 有 様は暖味なまま、 言語と思考様式のつながりの 深さだけは強調されていたの が 、 小川の論考だった。. それに比べ、 宮地 (1975) では、 言語と思考様式との 規定関係が、 言語の. 一 77. 一.

(18) もともとの使用者と 学習者との間で 使い分けられていた。 日本人の思考様式 ほ ついて論じた 箇所では、 言語と思考様式は、 規定されるものⅠするもので あ. り、 アメリカ詩話者についての 箇所では、 言語と思考様式は、 規定するも. の / されるものであ った。 つまり、 対象ごとに別々に 読んだ場合には、 相互. 規定関係とだけするよりも、. 方向,注が「はっきりと」描かれていたことにな. 。 また、 日本人の思考様式が 日本語の表現を 決めるという 規定関係には、 日本語の例が 挙げられ、 アメリカ詩話者の 思考様式は日本語によって 変え ろ. る. れるという規定関係には、. ウォー フの 説が持ち出されていた。 これらの根拠. が、 言語と思考様式の 規定関係を示す 根拠になり ぇ な い ものであ ることは 先 に 述べたとおりだが、 こうした根拠らしきものが 示されることで、 言語と思 考様式との規定関係は 一定の説得力を 持って示されている。 論考全体の流れを 見れば、.ときには思考様式が言語を規定しているとし、 ときには言語が 思考様式を規定しているというよ う に、 その主張に合わせて 別々の説明が 用いられていたことになる。 何が何を規定するのかが 明確には 定義されないままの 言明であ る。 ゆえに、 方向性が全く 逆の二つの主張も、 それぞれを反証することはできず、. 漠然と一貫した 主張として成立するかに. 見えてしまう。 宮地自身が、 方向性の異なる 規定関係を自覚的に 使い分けたのかはわから ない。 しかし、 上の引用からわかるよ う に、 日本人の思考様式に 規定された 日本語、 その日本語によるアメリカ 語 話者の思考様式の「洗脳」という 主張 は宮地のものであ った。 そして、 言語と思考との 規定関係への 言及が、 結果. 的に、 そうした主張を 成立させることに 用いられていることははっきりと. 示. されている。. この宮地 (1975) でもう一つ指摘しておきたいことがあ. る。 それは、 ここ. まで「理論的に」アメリカ 詩話者の「洗脳」を 主張しながら、 直後に「洗脳」 の 限界も述べているということであ る。 宮地は、 「日本語を覚国語として 教. えるのは、 日本語による、 いわば洗脳を 試みるに等しい」 (22頁 ) と述べた すぐ後で、 「この洗脳は 、 口でい. う. ほどかんたんなことではあ. 自らの主張の 困難さを述べる。 宮地は 、 「もったいない」という その日本語が. 含んでいる観念と、. りません」と. 一例を挙げ、. アメリカの学生の 考え方との「くいちがい. は、 ちよっと解決できないだろうと 思います」 (23頁 ) と言う。 ここで、 「も づたいない」という 日本語が含んでいる 観念として、 「あ る物は、 タテの 関. 一 78 一.

(19) 係の中で. (神. ・. ム ・雇い主・両親などとあ る個人 ) 上の方からいただいた 物. だ 」というものが. 挙げられている。 何をもって、 こうした観念が「もったい. ない」に含まれていると 言いうるのかは 全く説明されない。 また、 なぜアメ リカの学生の 思考様式と日本語の 観念の食い違いが「解決できない」と. 断定. るのか、 どうなったとき、 日本語の観念を 習得しえたといえるのかも 述 へられない。 しぅ. ただ、 宮地は、 日本語の観念とアメリカの 学生の思考様式との 食い違いを. 解決しないままにはしない。 食い違いについて 述べた後で、 宮地は、 には限界があ るけれども、 日本語を教えながら「いつも、. 「洗脳」. 日本の社会構造、. 人間関係、 価値観、 思考と行動の 形態、 規範など、 ・ひっくるめて 言えば日本 文化を教えなければなりません。. むしろ、 日本語を教えることは、 けっきょ. 日本文化を教えることだ」 (23頁 ) と言う。 日本語の観念とアメリカの 学 生の思考様式の 違いは解決しがたいが、 日本の社会構造や 思考様式などとい く. った 日本文化を教えることが、 何らかの解決につながりうると 述べられてい る。. これらの引用からは、 宮地の いう 日本語の観念が、 学習者にとって 背反す る 二重の意味をもたらしていることがわかる。. 一方では、 日本語の観念とア. メリカの学生の 思考様式は食い 違っているとされていることから、 と 密接な関係を. 日本文化. 持っ日本語の 観念は 、 ァメリヵ の学生には非常に 習得しにく. いものとして 描かれている。 また、 他方では、 日本語とその 観念は切り離し がたいとされていることから、 日本語習得のためには、 日本語の観念を 習得 することが不可欠だともされている。 日本語の観念とは 何かについては、 「タテ社会」というステレオタイプな 一例で述べられるだけで、 その内実が検証されるわけではない。. しかし、. 日. 本語の思考様式の 習得を困難なものとして 描き、 かつ、 その習得が不可欠だ とすることは、 学習者を習得不可能な 目標へと永遠に 駆り立て続ける。 あ る 観念が日本語には 含まれているとするのだから、 日本語を習得しょうと 思え ばその一部であ る観念も習得しなければならない。. しかし、 その習得は困難. でもあ り、 かつ習得の結果は 見えない。 学習者は、 日本語の思考様式の 習得 という見えない 目標に、 永遠に向わなくてはならなくなる。 学習者にとって、 日本人の思考様式や 日本文化と強い 結びつきを持つ 日本 語の思考様式の 習得は、 「解決できない」ほど 困難なものであ る。 だからこ. 一 79 一.

(20) そ、. 日本語教師には、 日本語とともに、 日本の思考様式を 含む日本文化を 教 えることが求められる。 学習者にとっての 目標は見えないが、 見えないがた. めに、 その習得の困難さを 補. う. べく、 日本語教師もまた 同じ見えない 目標に. 伺って、 「日本文化」という 暖味 なものの教育へと 促されるのであ る。 合文 (1973)、 小 J@l (1973) は、 言語と思考様式とを 相互規定関係として 捉え、 外国語学習にともな 田. う. 外国的思考様式の 習得を主張した。 そして、 森. (1973)、 三島 (1975) らによって、 日本語教育の 教育内容として 日本人. の 思考様式が設定されるよ. う. になった。 この流れが統合すれば、 外国語学習. と外国的思考様式の 習得の関係は、 日本語学習と 日本的思考様式の 習得の関 係へと言い換え. ろ. ことが可能になる。 そのことを示すよ. う. に、 宮地 (1975). では、 日本語教育において、 日本人の思考様式に 規定された日本語によって、 アメリカ 語 話者を「洗脳」しょうという 主張がなされるに 至る。 言語と思考 の 規定関係という 説は非常に漠然としたものであ. ることは再三述べてきたと. おりであ る。 その一般性の 高さのために、 日本人と学習者という 対象によっ て言語と思考様式の 規定関係の方向を 変えるという 操作が可能になった。 そ. して宮地は、 一見論理的な 操作を根拠にして、. 永遠に続く同化教育を 主張し. た. 7. 結論 日本語教育では、 1960 年代末から 1970 年代半ばにかけて、 思考様式という ものの存在が 様々な形で取り 上げられていた。. 1968 年には、 日本語の特徴を 語るために、 日本人の思考様式が 持ち出され 始めた。 「参酌」「暗示」といった 暖味 な表現ではあ るが、 日本語と日本人の 思考様式との 間に何らかの 関係を想定することで、 日本人の思考様式の 特徴 によって、 日本語の特徴を 説明しようと 試みられた。 また、 1969 年から 70 年には、 母語の思考様式や 文化の思考様式が 与える、. 日本語学習者への 干渉について 言及されるようになった。. この時期に、 日本. 語 教育という文脈の 中に思考様式が 持ち込まれたとい える 。. 1973 年初めには、 母語がその言語を 使用する使用者の 思考様式を「制約す る 」とする記述が. よ. う. 現れ、 言語と思考様式との 関係が規定関係として 描かれる. になった。 この時点では、 母語による思考様式の 差異が強調されるだけ. で、 こうした思考様式の 差異を根拠に、 母語の思考様式を 排除したり、 日本. 一 80 一.

(21) 語の思考様式の 習得を求めたりすることはなかった。. ただし、 日本語と日本. 人の,情態とのつながりを強く訴えるものではあ った。. 1973 年終わりになると、 言語とその話者の 思考様式とが 相互規定関係であ ると記述されるよ. う. になり、 その関係を根拠に、 外国語学習者に、 その外国. 語の使用者の 思考様式への「理解」を 求め、 さらには、 外国語の思考様式の 習得が主張されるようになった。. ただし、 このときには、 一般的な外国語学. 習の文脈で語られているだけで、. 日本人の思考様式の 習得は主張されてはい. なかった。. 1973 年から 75 午にかけて、 日本語教育で 教える内容として 日本人の思考様 式が主張されるようになった。. 言語と思考様式とが 相互規定関係にあ ること. は 、 すでに訴えられていたからか、. もはや、 日本語と日本人の 思考様式とに. 関係があ ることは自明視されている。 どのような関係にあ るかは説明されな いまま、 日本人の思考様式を 日本語教育で 学ばせることは、 当然のことにな っていった。 その同時期の 1975 年には、 思考様式は言語を 規定するという 説明によって 、. 日本人の思考様式と 日本語とが関係づけられ、 言語は思考様式を 規定すると いう説明によって、 日本語学習者の 思考様式と日本語とが 関係づけられるよ うになった。 二つの、 一貫性を欠いた 説明が根拠となり、 日本語の思考様式 で 学習者の思考様式を 変えようとすることが 正当化されるに 至る。 言語と思考様式とに 何らかの関係があ るという前提をもっという 点で、. れるの言説は 全て共通している。 しかし、 その中で、 言語とは何か、 思考・ 思考様式とは 何かを論じたものはない。 また、 関係を検証しょうとした 論考 もない。 そして、 関係の捉え方にはバリエーションがあ. り、 何の誰の思考様. 式 であ るかについても、 外国語や母語の 思考様式であ ったり、 民族であ った り、 日本人であ ったりと、 各論考ごとにばらつきがあ. る。 「言語と思考は 関. 係 あ る」とする言明は、 それだけ幅広い 解釈を成り立たせるものであ る。 この幅広い解釈を 許す言明は、 外国語・日本語の 学習・教育という 文脈で 用いられたとき、 外国語,日本語を学ぶ際にはその 言語を使. う. 集団の思考様. 式を習得せよという 主張を生み出してきた。 小川 (1973) では、 外国語学習 すなわち外国的な 思考様式の学習だとする 主張が、 宮地 (1975) では、 日本 語学習 (教育 ) すなわち日本・ 日本人の思考様式の 学習 張 がなされた。. 一 81 一. ( 教育 ). だとする 主.

(22) これらの主張自体は、 言語と思考様式とを 関連づけることの 正否や、 外 国・日本の思考様式とは 何かを検証しておらず、 結局は、 非常に漠然とした ものでしかない。 しかし、 その 暖昧 さゆえに、 これらの主張は 検証も反証も できないものとなっていた。 そして、 このような検証・ 反証不可能な 主張は、 外国語学習者・ 日本語学習者に、 外国的な思考様式・ 日本的な思考様式の 習 得を求め、 かつ、 外国語・日本語教育者にも、. それらの教育を 促す内容をも. っていた。. 外国・日本の 思考様式は検証も 反証も不可能であ るがゆえに、 学習者にと っては習得不可能なものであ った。 しかし、 いったん、 外国語や日本語の 習 得に不可欠な 学習内容として 設定されれば、 思考様式という 漠然とした存在 は 学ぶべき確固たる 実体として作り 出され、 学習者をその 学びへと、 日本語 教師をその教育へと 駆り立てることになる。 最後に、 冒頭の『留学生の 日本語』の第 1 課に立ち戻りたい。 この課で学 習者に促されていたのは、 言語によって 認識の仕方は 規定されている、 だか ら 国によって思考様式は. 異なるということへの 気 づきだけだった。 これ自体. は、 日本語を学ぶとき、 日本人の思考様式に 同化せよという 内容は持って. らず、. 国ごとの思考様式の. 差異を理解し、. お. 尊重せよということを 訴えるもの. であ る。 しかし、 第二言語学習の 文脈で、 言語とそれが 使われる 国 特有の思 考様式とを関係づけるという 説が用いられた 場合、 言語と密接な 関わりをも つとされる思考様式の 習得を促す 説 へと変質し. ぅ. ることを、 小川 (1973)や. 宮地 (1975) の例は実証した。 国 による思考様式の 違いは、 経済力などを 背景にあ る国があ る国を躁 躍 し ているような 場合、 それに対抗するために 強調される価値は 当然あ る。 しか し、 日本語教育の 場で、 言語との関係という、 一見、 反証しがたい 根拠を軸 に 、 そうした違いを 自明視して教えることは、. 日本語を使うときは 日本人の. 思考様式で考えよという 到達し得ない 空しい目標に 駆り立てかれないもので あ. ることを指摘して、 本稿を終えたい。. 江 *1 言語が思考を 規定している、 という説は、 一般に言語相対仮説またはサピ アニウォー. フ. の仮説と呼ばれている。 心理言語学では、 長い間、 この 仮. 一 82 一.

(23) を言正明・ 横 正 し よ 言. ぅ. という試みがなされてきた。. その試みを総括した. 今井 (2000) では、 言語が思考に 影響を及ぼしていること、 的 制約と. 栢互 作用しながら 思考を形成すること、. 舌血 日田 が生得. という観点では、 サピ. ア・ウォー フ の仮説は疑いないとする。. ただし、 思考が 、 異なる言語の 者 間で異なるのかという 点については、 思考のどの側面を 問題にするの. 言舌. か 、 どの認知領域を 対象とするのか、 その認知領域で 環境がどれほど 人. に訴えてくるのか、 に依存する、 と述べている (429 頁 ) 。 人間にとっ 且" 寮ロ ての言語と思考という 観点からすると、 言語が思考に 何らかの影響を 与 間. えていることは 間違いない。 しかし、 今井もいうように、 どの観点でこ の 仮説を評価し、 どの認知領域でどの 思考のレベルを 問題にするのかを 明らかにした 上ア研究しなければ、 単に、 漠然と、 サピア・ウォー フ の. 仮説の正否を 問題にする単純な 議論をしても 意味はな い (429 頁 ) 。 "2 池上 (1993) は、 言語相対仮説の 心理言語学と 認知心理学の 研究成果を踏 まえ、 「現実の意味処理について 見た通り、 そこで ぅ. く. 言語 ) 的なものをそ. でないものから 区別することを 試みることは 殆ど無意味」. (328 頁 ) だ. と言う。 現実をどのように 意味づけるのかという 観点からすると、 人間 の 認知に訴えてくる 環境自身の性質や 人間の生得的な 認知枠組みなどが、 複雑に影響するのであ. り、 もはや言語による 認知と、 それ以外の何かに. よる認知は区別すること 自体、 無意味だということになる。 以外の要素とが 区別困難だとすれば、 池上が言 ー フの 仮説」を検証するという. う. よ. う. 言語とそれ. に「「サピアニウォ. 試みが本質的に 成立し難い」. (328 頁 ) と. いうことになろう。 この池上や注 1 の今井の議論から 理解できるのは、 言. 語が思考を規定するか 否かというも 問いは、 言語・思考とは、 それぞれ が 何であ るのかを述べない 限り、 検証も反証もしえないということであ る. 。 思考には様々なレベルが 存在している。 また言語については、 現実. の 意味処理という 点からは、 単独のシステムとして 抽出することが 難し い という指摘さ. え あ. り、 何をもって言語とするのかを 定義しなければ、. 検証・反証をしても、 その結果はお 互いにすれ違. う. だけだろう。 言語が. 思考を規定するか 否かという問題設定は 過剰に一般的なもので、 正しい とも誤っているとも 言いがたい問いなのであ る。. "3 本稿では、 「考え方」「発想 法 」「思考形式」など、 目に見えない 人間の内. 一 83 一.

(24) 的な活動を想定し、. その活動を あ る特定のパターンをもつものとして. 表. す 用語を「思考様式」と 呼ぶことにする。 , 4 頻度の変化については、 桂川 (2004) を参照のこと。 また、 日本語教育学 に限らず、 60 年代末から 70 年代半ばにかけて、 英語教育学や 言語学など でもく関連づけ 言説. の流行は見られた. ). ( 牧野. 1968 、 森 ・中村・川本. 1972 、 山本 1974 など ) 。 *5 本Ⅰ・ ネ 2 参貝召。. *f ,7. r コソアド. 詞 」とは、. 「コレ」「. ソレ 」「アレ」「ドレ」など、 指示代名言 司と. 言われる語を 指す。 r 日本語を外国語としてまなぶ 英語国民が日本語を 考えるさい、 英語の仮. 定法がどうあ らわれるか、 過去の記録や 学生の答案などを 調べてみたが、 実は明瞭な例がみあ たらなかった」. ( 水谷 1969: ふ 6). 引用文献 アカデミック・ジャパニーズ. 研究会、 2001 、 『大学・大学院留学生の 日本語. ①読解 編 』アルク 池上嘉彦、 1993 、 「学術文庫版のための 訳者解説追補」、 B 七 ウォーフ 嘉彦 訳 ) 『言語・思考・. ( 池上. 現実』講談社学術文庫. 今井むつみ、 2000 、 「サピア・フーフ 仮説再考一一思考形成における 役割、 その相対性と 普遍性」『心理学研究』. 言語の. 71 (5). 小川芳男、 1973 、 「覚国語学習の 方法と意義」『日本語教育』 22 Jll願主部、 1968 、 「助詞の分類法についての 一考察と若干の 助詞についての 考察」『日本語教育』 11 合 文 浩一、 1973 、 「第二覚国語としてのドイツ 語教育の最終目標」『日本語教 22 掛 l@ 郁李、 2004 、 「日本語教育学における「思考様式言説」の 変遷」『日本 育』. 語 教育』 121 寺村秀夫、 1968 、 「日本語名詞の 下位分類」『日本語教育』. 12. 牧野 方 、 1968 、 「日英語比較の 共 源的 次元について」『英語教育』 10 月号 三島登志子、 1975 、 「日本語教授法の 焦点一一サンフランシスコ 州立大学の 場合」『日本語教育』 26. 一 84. 一.

(25) 水谷信子、 1969 、 「日英面語の 比較. 仮定法的表現を 中心として」『日本語. 教育』 14 号森田良行、 1973 、 「日本語教育と 文法教育」『日本語教育』. 20 宮地 宏 、 1973 、 「日本語教育への 反省一一 アメリカでの 教育の現状」『日本語 教育 J 19 号宮地表、 1975 、 「目には青葉. 」『日本語教育Ⅱ. 森有正・中村雄二郎・ 川本茂雄、 1972 、 にとばの世界. 27. ( 上 ) 」『言語』. 1. (5). 山本千 2 (1974) 「「ことは」としての 英語のおもしろさ」『現代英語教育』 10@ (10) Funk , Wlfred. 付記. :. , 1955 , Six@Weeks@to@Words@of@Power. , New@York:@Pocket@Books. 本稿の執筆にあ たり、 心理言語学の 近年の成果については、 谷岡慶民. ( 早稲田大学文学研究科博士後期課程 ). に助言をいただいた。 ここに謝意. を表したい。 なお、 本稿は、 科学研究費補助金「日本語教育と 、ン 一に関する理論的研究、. および、 実践モデルの 開発」. 課題番号 15320066 、 研究代表者. :. 佐々木倫子. )、. 文化リテラ. ( 基盤研究. (B) 、. 早稲田大学特定課題研究. 助成費「日本語教育における 学習者中心主義の 受容とその質的変化につい ての言説分析」. ( 課題番号. 2003 ん 139 、 研究代表者. 究 助成の成果の 一部であ る。. 一 85 一. :. 桂川波郁李. ). による 研.

(26)

参照

関連したドキュメント

具体的には、これまでの日本語教育においては「言語から出発する」アプローチが主流 であったことを指摘し( 2 節) 、それが理論と実践の

 発表では作文教育とそれの実践報告がかなりのウエイトを占めているよ

筆者は、教室活動を通して「必修」と「公開」の二つのタイプの講座をともに持続させ ることが FLSH

日本語教育に携わる中で、日本語学習者(以下、学習者)から「 A と B

注5 各証明書は,日本語又は英語で書かれているものを有効書類とします。それ以外の言語で書

高等教育機関の日本語教育に関しては、まず、その代表となる「ドイツ語圏大学日本語 教育研究会( Japanisch an Hochschulen :以下 JaH ) 」 2 を紹介する。

その結果、 「ことばの力」の付く場とは、実は外(日本語教室外)の世界なのではないだろ

日本語接触場面における参加者母語話者と非母語話者のインターアクション行動お