清 朝 皇 帝 と
三 藩
- 三 藩 研 究 の た め の 覚 書 -
磯 部 淳 史
はじめに
「三藩」とは、清朝の入関(1644 年)の前後に、明朝より清朝に降っ た漢人武将である呉三桂・尚可喜・耿仲明の三人を、入関後に漢地の平 定に功績があったことにより、順治六(1649)年五月に、各地に藩王と して封じたものの総称である。その際に、呉三桂は平西王として雲南に、 尚可喜は平南王として広東に、耿仲明は靖南王として福建に、それぞれ 封じられた。 この三者は、清朝支配下の漢地にあって半独立的な勢力を保ち、やが て康煕十二(1673)年、清の康煕帝が三藩に撤藩命令を出したことから、 これに反発した呉三桂がまず挙兵し、耿仲明の孫である耿精忠らも呉三 桂に応じたために一大反乱に発展した。これが通常「三藩の乱」と呼ば れている反乱であるが、当初優勢であった三藩も、呉三桂が死ぬと勢力 が後退し、康煕二十(1681)年に、清朝によって乱は平定される。 この乱を平定することで、清朝の漢地支配が確立したことは周知の事 実であり、清朝の漢地支配において、三藩の存在が重要な意義を持って いることは言を俟たない。また、三藩の藩王達は、同じように明朝より 清朝に降った他の漢人武将達と異なり、清朝の政治・軍事・社会制度で ある八旗に編入されることなく、来帰した際に率いた軍団を属下に維持だけではなく、彼らは漢人武将としては例外的に王爵を授けられ、清 朝の序列体系の中では相当な高位に位置していた。この点を見ても、 三藩が清朝内部において特異な存在であったことがわかり、清朝初期 の国家構造を考える上で、三藩は欠かすことの出来ない、極めて重要 な存在であるといえるであろう。 日本における三藩研究は、田中懋徳氏の古典的研究を始め、神田信 夫氏の呉三桂についての研究や、中道邦彦氏の耿氏靖南藩についての 研究、また細谷良夫氏の尚可喜一族についての研究が代表的なものと して挙げられ①、中国の研究については、劉風雲氏、滕紹箴氏の網羅 的な三藩研究がある②。これら、特に日本での研究は発表からすでに 長い年月が経っているものの、今なお参考にすべき価値を失わないが、 その後の三藩研究は必ずしも活発であるとはいえず、2000 年以降は 三藩に正面から取り組んだ研究は極めて少ない。また、従来の三藩研 究は、個別の藩に焦点を当てた研究や、藩の内部構成に言及した研究 が多く、清朝中央の政治動向と三藩を関連づけて論じる研究はあまり 存在しなかった。また、先述のように、三藩はそれぞれが清朝から半 ば独立した存在であって、藩内の一切のことは藩王に委ねられて各衙 門からの干渉を受けなかった③。そうした点や、先行研究において各 藩の富強振りが強調されていることもあってか、三藩の存在は清朝に とって脅威であり、いずれ取りつぶすべき存在であったというものが、 一般に語られる三藩のイメージのように思われる。しかしながらこう した見解は、三藩の乱平定後に康煕帝を称賛する目的で編纂された『方 略』や、あるいはそれを参照して書かれた魏源の『聖武記』巻二「康 煕戡定三藩記」の記述や、乱の結果からの類推によるものが多分にあ るように思われ、乱の背景や清朝側の思惑に関してはこれまで十分に 検討されているとはいえない④。果たして実際に三藩は清朝にとって 脅威であり、取りつぶされるべき存在だったのであろうか。また、そ れは清朝内部の政権の変化に関係なく、順治~康煕朝を通じて、清朝 側が共通して持っていた認識だったのであろうか。こうした問題点を
明らかにするためには、三藩の乱の背景や、その淵源について考察し、 清朝中央の政治動向の中で三藩を捉え直すことが不可欠であろう。 筆者はこれまで自身が取り組んできた研究テーマである、順治~康 煕朝の政権構造、および清初の皇帝権力を解明する作業の一環として、 今後三藩に関する研究を行う予定であり、本稿では、具体的研究を始 めるに先立ち、先行研究について整理を行うとともに、三藩研究に対 する筆者なりの視点をまとめたいと思う。三藩の存在を三藩内部だけ で完結させるのではなく、清朝皇帝をめぐる勢力の一つとして三藩を 捉え直し、三藩と清朝の関わりを考察することは、これまで研究の蓄 積の少なかった順治~康煕朝の政治史の解明にとっても有益なものと なるであろう。
1.三藩の研究史
本章では、三藩に関する先行研究のうち、神田、細谷両氏の研究を 中心に、研究史の整理を行いたい。まずは、両氏の説を整理する前に、 三藩の沿革について概略しておく。 本稿の冒頭で述べたように、三藩は呉三桂・尚可喜・耿仲明の三人 を、各地に藩王として封じたものの称であるが、清朝によって入関後 に藩王に封じられた漢人武将は、三者の他に広西に定南王として封じ られた孔有徳がおり、その点でいえば実際に存在していたのは「四 藩」であった。この四者のうち、孔有徳と耿仲明は、元々は遼東の皮 島(椵島)に拠っていた明の総兵官毛文龍の属下の武将で、毛文龍の 死後に彼らは明に背いて山東の登州を支配下に置き、太宗ホンタイ ジ(皇太極 Hong Taiji)の天聡七(1633)年に、配下の軍団を率いて清 朝(当時は後金)に降った⑤。尚可喜もまた、元来は父の尚学礼ととも に毛文龍配下の部将であり、毛文龍死後は文龍の後継者として東江総兵官となった黄龍に従ったが、黄龍戦没後に、尚可喜と反目していた 沈世魁が東江総兵官となったことを機に、天聡八(1634)年清朝に来 帰した⑥。彼らは多数の兵を配下に加えていただけでなく、いずれも
強力な火器を持っていたために、清朝の軍事力の増強に貢献すること になり、太宗は彼らを厚く遇し、孔有徳と耿仲明の軍団を天佑兵(満 洲語では abkai aisilaha cooha)、尚可喜の軍団を天助兵(満洲語では abkai nonggiha cooha)と名づけ、また孔有徳を恭順王(満洲語では ginggun ijishūn wang)、耿仲明を懐順王(満洲語では gūnin ijishūn wang)、尚可 喜を智順王(満洲語では bodohonggo ijishūn wang)とした。
一方、呉三桂は明の錦州総兵官の呉襄を父に持ち、継母の兄である 祖大寿(後に清に降る)とともに、最初遼東で清の進出を防ぐべく戦っ ていたが、順治元(1644)年に李自成の乱によって明朝が滅亡すると 清朝に降り、以降は清の武将として活躍する。 清が入関すると、この四人の武将は漢地征服戦において、南明・李 自成・張献忠らの勢力を追撃して広東・広西・雲南などの各地を転戦 して大いに功績を立てた。清朝は漢地の征服に際して、孔有徳を定南 王、耿仲明を靖南王、尚可喜を平南王、呉三桂を平西王に封じ、漢地 平定後には孔有徳を広西、耿仲明を福建、尚可喜を広東、呉三桂を雲 南に駐屯させた。征服戦の過程で孔有徳は順治九(1652)年に桂林で 李定国のために自害し、耿仲明も罪を得て順治六(1649)年に江西で 自害したが、孔有徳の軍団は、配下で女婿の孫延齢に、耿仲明の軍団 は子の耿継茂に引き継がれた。 これらの藩王達のうち、呉三桂とその配下の軍団に対して網羅的研 究を行ったのが、神田信夫氏である。氏は神田 1952 において、呉三 桂の爵位、その軍団の構成、雲貴二省における呉三桂の権限に詳細な 検討を加え、その結果、以下のような点を明らかにした。①呉三桂の 持つ平西王(後に平西親王)の爵位は、宗室に与えられる九等の爵や、 外藩に対する六等の爵とは別個のものであるが、その地位は多羅郡王 に次ぎ、俸禄などの待遇は和碩親王に次ぐものであった⑦。②呉三桂
配下の軍団は、八旗同様に佐領に編成され、都統・副都統・参領・護 軍統領などの八旗官に相当する官が置かれ、そこには清朝に降る以前 から呉三桂の部下であり、彼と親密な関係にある将官が任じられてい た⑧。③雲貴二省の総管となった呉三桂は、二省の文武官の人事権に 強い影響力を持ち、腹心を要地に配して勢力の拡大をはかったが、こ うした総管の権限は戦時の一時的措置に過ぎず、清朝は永続的に呉三 桂にこれらの権限を許すつもりではなかった⑨。 神田氏の研究の中で注目したいのは、呉三桂を始めとする藩王達が 高位の王爵を有していたという点である。神田氏のいうように、呉三 桂が雲南において大きな権限を有したのは、平西王の爵位ではなく、 総管の地位を得たことによるものであるにせよ⑩、やはり彼が高位の 王爵を持っていた事実は注目に値する。周知のように、清朝の爵位体 系においては、王爵を有するのは宗室である愛新覚羅(アイシン = ギョ ロ Aisin Gioro)一族、その中でも上級の王族に限られており、彼らは 著しい身分の高さを持つだけではなく、王爵は八旗制と連動していて、 王爵を持つ旗王はその属下の旗人に対して支配権を持つ領主でもあっ た⑪。孔有徳と耿仲明は清朝に降った時点で、 ハン(太宗)は新しく降って来た都元帥の孔有徳、総兵官の 耿仲明を帰順して来た功にて八ホショ = ベイレと同等となし、 ベイレらのように振る舞えと言った後、孔有徳、耿仲明は答え て、「この愛しんだことさえ受け取れないのに、どうして敢えて、 ベイレらと同等を受け入れようか」といったので、ハンは断る なかれといった。 というように⑫、旗王達と同待遇で迎えられており、入関後の順治三 (1646)年十二月に、諸王の朝列の席次を定めた際にも、 其の余の藩王、及び平西王呉三桂、恭順王孔有徳、懐順王耿仲
明、智順王尚可喜、坐位は倶に諸多羅郡王に次ぐ。 と⑬、呉三桂を始めとする藩王達は、旗王達の中でも高位に位置する 多羅郡王に次ぐ破格の待遇を受けていた。宗室や外藩以外で王爵を与 えられたのは、この他には順治十四(1657)年に義王に封ぜられた孫 可望だけであり⑭、呉三桂ら四人が、他の漢人武将とは明らかに異な る扱いであったことがわかるであろう。では、清朝の皇帝達は、何故 に彼らを特別視してこのような高い地位を与えたのであろうか。 これに関連して、次に細谷良夫氏の研究について見ていきたい。細 谷 1987 において、氏は尚可喜を中心として、天聡年間に来帰した漢 人武将達を詳細に検討し、その結果、彼らが後代に編纂された『八旗 通志初集』『清史列伝』『清史稿』などの伝記史料に記載されているよ うに、崇徳七(1642)年六月に漢軍八旗が成立した後も、八旗には編 入されずに、八旗とは別の独自の軍団を維持していたことを明らかに した⑮。細谷氏は、彼が他の漢人とは異なる厚遇を受けた理由を、太 宗の政治的立場に求めている。すなわち、彼らを各旗に編入すれば、 それが直ちに所管の旗王の属下の兵力となり、旗王達の勢力を強化す る結果になることを防ぎ、同時に彼らを独自の軍団として太宗自身の 統制下に置くことで、軍事面から皇帝権力の強化をはかったのである ⑯。細谷氏によれば、後の藩王につながる孔有徳・耿仲明・尚可喜の 処遇は、清初の皇帝権力強化政策の一環であり、これは同時期に太宗 が、ホルチン部を始めとするモンゴル諸勢力を、皇帝権力を補完する ために政権内に取り込んでいったことと共通する面を持っていたとも 考えられる⑰。 これらの点を考えれば、藩王達は、そもそも皇帝権力を補完するた めに太宗が厚遇した勢力であり、彼らが他の漢人武将とは明らかに異 なる性格を持ち、前述した高い爵位を持っていることもこれに起因す ると考えられる。してみると、太宗の後を継いで、同じように皇帝権 力の強化に努めた順治帝が、藩王達をどのように見ていたのかという
ことは、三藩、さらには三藩の乱を考える上で欠かせない視点になる であろう。 先行研究において、順治帝や康煕帝と三藩との関わりについて直接 論じた研究は少ないが、細谷 1984 では、順治・康煕両帝の尚之信(尚 可喜の次子で嗣子)に対する信任についての言及がされている。この論 考は、三藩の乱のうち、特に尚之信の反乱について通説に再検討を加 えたもので、『方略』を始めとする清朝側の史料ではなく、『明清史料』 や『清三藩史料』などの檔案類を利用して、乱に際しての尚之信の動 向を跡づけている。 細谷氏によれば、①尚之信の反乱は之信を告訴した広東巡撫の金儁 による虚構であり⑱、②その背景にあったのは之信と弟の尚之孝の後 継者争いで、金儁や同じく之信を告訴した平南王属下都統の王国祥ら は、之孝支持派で之信を陥れたのであり⑲、③通説でいわれている之 信の暴虐も、之信と尚可喜の父子の不和も事実とは認め難く⑳、三藩 の乱において之信が清朝に反乱を起こしたこともそうとは見なし得ず ㉑、④清朝は金儁の告訴を利用して平南藩を解体してこれを漢軍八旗 に編入したという㉒。こうした議論の中で細谷氏は、之信は元々順治・ 康煕両帝に近侍して、両帝に厚く信任されていたことを明らかにして いる。尚之信や耿仲明の孫である耿精忠・昭忠兄弟は、ともに宮中に 入って順治帝に近侍していた経歴があり㉓、特に尚之信は細谷氏が指 摘しているように、『尚冊』によれば、 尚之信、幼くして世祖章皇帝に入侍す。公爵に封ぜられ、少保 太子太保に進む。安達(アンダ)を特賜し、平南親王を襲せしむ。 とあり㉔、順治帝から満洲語で朋友・賓友を意味するアンダ(anda) の待遇を与えられ、帝から厚遇されていた㉕。 細谷氏のいうように、実録や『方略』の記述は、之信が反逆者とし て処刑されたことを受けて後になって作為的になされたものであり、
実際には尚可喜・之信父子が順治・康煕両帝と親密であったならば、 太宗より一貫して清朝皇帝は、藩王達を自身の勢力を強化するために 必要不可欠のものと認識していたのではないだろうか。それを考える 上で手がかりとなるのは、前述の藩王達の爵位であり、清朝と藩王家 との婚姻関係である。 細谷 1984、あるいは杜家驥氏や、劉小萌氏の研究において、三藩 それぞれの王家が皇帝家を含む清室と姻戚関係にあることが指摘され ㉖、また近年では鈴木 2008 がこの婚姻の持つ意義について考察を加 えており、この婚姻は清朝と三藩との関係を考える上で重要な意味を 持つといえる。 また、清朝と三藩との関係についてなされた重要な指摘としては、 岡田英弘氏の康煕初年の輔政大臣と三藩についての言及がある。岡田 氏によれば、三藩は康煕帝の即位当初に帝を補佐した四人の輔政大臣 (ソニン【索尼 Sonin】・スクサハ【蘇克薩哈 Suksaha】・エビルン【遏必隆 Ebi-lun】・オボイ【鰲拝Oboi】)とそれぞれに関わっており、三藩と密接に関わっ ていた輔政大臣が失脚したことが乱に深く影響したという㉗。岡田氏 のこの見解は、言及がなされた書物の性格上、明確な論証がなされて いるわけではないが、三藩と清朝の関わりを考える上で重要な指摘で あり、三藩研究を行う上で具体的に検討する必要があるであろう。 そこで次章では、先行研究によって指摘されてきたこの二つの視 点、三藩と清室との婚姻関係と輔政大臣との関係について検討してみ たい。
2.順治~康煕初年の清朝と三藩
前章では、三藩に関する研究史を整理しつつ、その中から清朝と 三藩の関わりを考える上での問題点を取り上げてみた。本章では、その問題点についての筆者なりの視点を示しつつ、三藩と清朝との関係 について考えてみたい。 その問題点を再度示すと、以下のようである。 ① 三藩はいずれも皇帝、あるいは旗王家と婚姻関係を結んでい るがこれがいかなる意味を持つのか。 ② 三藩はいずれも康煕帝の四人の輔政大臣とそれぞれ密接に関 わっており、輔政大臣が失脚したことが乱の原因となったとい う指摘があるが、これは具体的にどのようなことなのか。 このうち、①の清室と三藩の婚姻の意義については、すでに鈴木 2008 によって検討されており、筆者も鈴木氏の見解に同意するもの であるが、ここでは、筆者自身の研究課題である順治朝政治史研究の 視点もまじえつつ、順治帝と三藩の関わりについて焦点を絞り、今一 度三藩と皇帝家・旗王家の婚姻について整理していきたい。 三藩王家と宗室との婚姻関係について改めて整理すると、下記系 図のようになる。 ‖ は婚姻関係を示す
三藩王家と宗室との婚姻を個別に見ていくと、順治帝異母妹であ る太宗の皇十四女が、平西王呉三桂の子の呉応熊に嫁ぎ㉘、順治帝の 異母兄で鑲紅旗旗王のショセ(碩色 Šose)の次女が、順治帝の養女と なって平南王尚可喜の七子尚之隆に嫁ぎ㉙、同じく順治帝の異母兄で、 正藍旗旗王の粛親王ホーゲ(豪格 Hooge)の七女は靖南王の耿精忠に 嫁ぎ㉚、太宗の異母兄、すなわち順治帝の伯父に当たる正藍旗旗王の アバタイ(阿巴泰 Abatai、太祖ヌルハチ【努爾哈斉 Nurhaci】の七子)の長 子シャンギヤン(尚建 Šanggiyan)の子スブトゥ(蘇布図 Subutu)の女は、 耿精忠の弟の耿昭忠に嫁いでいる㉛。またアバタイの安親王ヨロの次 女は順治帝の養女となって、やはり耿精忠の弟である耿聚忠に嫁ぎ㉜、 同じアバタイ家のバイシェオ(百綬 Baišeo、アバタイの次子ボホト【博和 託 Bohoto】の子であるジャンタイ【章泰 Jangtai】の長子)は耿精忠の女を娶っ ているなど㉝、特にアバタイ家は靖南藩王家と相互に婚姻を重ねてい た。 鈴木氏も指摘しているが、この婚姻を見てわかるのは、三藩に嫁 いだ者は、順治帝の兄弟の家系か、正藍旗の旗王家であるアバタイ家 という特定の旗王家の出身であった㉞。では、彼らはいかなる旗王家 であったのだろうか。 かつて筆者も指摘したことがあるが、順治帝親政期において、ホー ゲ家・アバタイ家はともに、順治帝に近い旗王家であり、順治帝政権 を構成する旗王達を多く輩出していた。ショセとヨロはともに、順治 帝が旗王の力をコントロールするべく創設した宗人府の長官である宗 正を務めており、さらにショセとアバタイ家属下の旗人であるホイ ファ = ナラ(輝発那喇 Hoifa Nara)氏との間には婚姻関係があり、ホ イファ = ナラを介してこの二王家の間にもつながりがあった㉟。また ヨロの三番目の正夫人は、順治帝の腹心で後に輔政大臣の一人となる ソニンであり、このことからもヨロが諸旗王の中でも、順治帝に近い 存在であったことがうかがえる㊱。 一方、順治帝親政期のホーゲ家の旗王達は、いずれも若年であっ
たが、順治帝は早くから彼らを親王や郡王といった高位の王公に封じ ており㊲、中でも特にフシェオ(富綬 Fušeo)は、順治帝が特に目を掛 けていた旗王であった。談遷の『北游録』に、 癸巳(順治十年),粛王子□□(粛王子という肩書きから、富綬 〔フシェオ〕の二字が入ると思われる)万歳山に従い兎を射る。双兎 に連ね中つ。上(順治帝)大いに悦びて曰く、我れ安んぞ生子 を得ること爾の如きやと。諸臣曰く、此れ即ち陛下の子なりと。 因りて之を子とす。 とあることからも㊳、順治帝がフシェオを我が子のように遇していた ことがわかる。 このように、三藩のうち、尚氏・耿氏両王家と婚姻関係にあった 旗王家は順治帝と近く、帝を支持する旗王家の出身であった㊴。この 婚姻はいずれも順治帝の親政期に結ばれたものであり、この婚姻は三 藩を自己の支持勢力として取り込もうとする順治帝の意図によるもの であったと考えられる。藩王ではないが、孔有徳の娘である孔四貞が、 順治帝によって和碩格格(郡主)の待遇を与えられ㊵、孔有徳の軍団 を引き継いだ孫延齢に嫁いでいることも、順治帝が孔四貞を通じて、 この軍団を取り込もうする意図によるものであろう。 こうした順治帝の三藩への働きかけは、いかなる理由によるもの であろうか。この理由として考えられるのは、順治帝をめぐる当時の 政局である。清朝皇帝の皇位継承の状況に詳細な分析を加えた楊珍氏 の研究が指摘するように、順治帝親政後しばらくすると、順治帝は 生母であるモンゴル・ホルチン部出身の孝荘皇太后と対立している ㊶。その政争の中で、順治帝は本来皇帝権力の「藩屏」的存在であっ たホルチンの王公とも反目し、皇后の兄に当たるウクシャン(呉克善 Ukšan)も処罰されている㊷。こうした政争を勝ち抜く中で、順治帝 としては、太宗朝から皇帝権力を補完する役割を果たしていた藩王達
との関係を強化する必要があったものと考えられる。孔四貞は有徳の 死後は宮中の孝荘皇太后のもとで撫育され㊸、楊珍氏によれば皇太后 は彼女を順治帝の妃とする意図だったというが㊹、順治帝がこれに反 して四貞を孫延齢に嫁がせていることからも、順治帝が三藩勢力と密 接な関係を築こうとした背景には、清朝内部の政争が関わっているこ とがうかがえる。 次に②の問題であるが、この三藩と輔政大臣の関係も、順治朝の 政局と密接に関わっていると思われる。岡田氏は、前章で述べたよう に、三藩がそれぞれの輔政大臣と深く関わっており、大臣達が失脚し たことによって、藩王達は危機を強め、それが乱の勃発につながった とするが、史料を見る限り四人の輔政大臣が三藩と特別に関わってい る様子はうかがえない。しかしながら、輔政大臣の中で、旗王家と同 様に三藩王家と婚姻関係を結んでいた大臣が存在する。それが正白旗 人で、イェヘ = ナラ(葉赫那喇 Yehe Nara)氏出身のスクサハであり、 スクサハは三藩のうちの呉氏と婚姻関係を結んでいた。康煕初年の政 争によってスクサハが失脚したことに言及した朝鮮側の史料には、 北京の大臣束沙河(スクサハ)、及び半夫乙於弓、薄豆里弓(オ ボイ)と隙有りて、上年秋、薄豆里弓両人を讒殺せんとし、束 沙河父子三人同時に戮せらる。而して其の一則ち西平王(平西 王)呉三桂の女婿なり。 とあり㊺、また順治~康煕年間に漢地で活動し、清朝の高官とも関わ りがあったイエズス会の宣教師であるグレロンの報告の中にも、 かれ(スクサハ)の息子たちの妻のうちに、だったん(満洲)人 がこの国を征服するのに力を借りた大変有力な雲南の王、すな わち平西王(呉三桂)の女がいた。
とあって㊻、スクサハの息子に呉三桂の女が嫁いでいたことがわかる。 この婚姻については、細谷氏も指摘しているが㊼、筆者もここで改め てこの呉氏とスクサハの婚姻について検討してみたい。 まず、このスクサハとはいかなる旗人であったのだろうか。スクサ ハは元々順治帝の摂政王であるドルゴン(多爾袞 Dorgon)属下の旗人 であったが、ドルゴン死後に彼の生前の罪を告発したことをきっかけ に順治帝の信任を得㊽、正白旗が順治帝の領旗になって後は、皇帝の 側近官である内大臣に任じられて、以降は帝の腹心として活躍してい る。このスクサハは、『聖祖実録』にある彼自身の上奏の中に、 先皇帝の上賓の時に値りて、惟だ身ら殉じて以て愚悃を尽くさ んと願うも、意わざりき、遺詔を恭しく奉ずるに、臣の名の輔 臣の中に列せられんとは。 とあるように㊾、順治帝崩御に際して殉死を願い出ており、このこと も彼が順治帝と特に親密な関係にあったことを物語っている㊿。 ここまで考察してきたような、三藩の藩王家と清朝の旗王、ある いはスクサハといった順治帝側近の旗人との関係を考えれば、三藩の 乱の淵源は順治朝にまで遡るものと見るべきであろう。また、岡田氏 の指摘する、三藩と輔政大臣は密接な関係を持っていて、康煕初年の 輔政大臣の失脚が乱に大きな影響を及ぼしていたという指摘も、より 正確には、順治帝政権から康煕帝政権への変化と、それに続く順治帝 派の大臣スクサハの失脚が乱を促したと見るべきではあるまいか。先 に挙げた朝鮮の史料では、スクサハと呉三桂との婚姻を述べる箇所に 続けて、呉三桂がスクサハの冤罪を康熙帝に訴え、それが帝のオボイ 排除につながったとする記述があるが、清朝の政局の変化に藩王達が 敏感であったことを物語るものである。 細谷 1984 の指摘するように、康煕帝は当初は自身に近侍する尚之 信や耿精忠を信任するも、最終的には呉三桂の反乱を平定すると、乱
後に金儁の告訴を利用して之信を処刑して平南藩を、さらに耿精忠も 処刑して靖南藩を解体して八旗に編入してしまうが、こうした清朝 皇帝の三藩に対する姿勢の変化には、藩王達を厚遇した順治帝が崩御 し孝荘皇太后を後ろ盾とする康煕帝が即位するという清朝内部の政局 の変化が後深い影響を及ぼしているのではないかと筆者は考える。 また、三藩の乱に際して清朝内では、三藩は取りつぶすべきだと する撤藩論と、三藩を維持するべきだとする存続論の二つの意見が対 立していた。『康煕起居注』にある後年の康煕帝の言葉に、 朕思うに曩に平南王尚可喜回籍を奏請せし時、票簽を折出して 面議せしむるに、図海(トゥハイ)言いて遷移するべからずと断ず。 ……憶うに爾の時惟だ莫洛(モロ)、米思漢(ミスガン)、明珠(ミ ンジュ)、蘇拝、塞克徳等応に遷移すべしと言う有れど、其の余 並びに未だ明言せざるも、遷移すれば呉三桂必ず反乱を致さん とす。 とあり、また『欽定八旗通志』の明珠伝に、 是年(康熙十二年)、平南王尚可喜撤藩し遼東移らんと請い、呉 三桂、耿精忠も亦た是を以て請わば、議政王大臣に下して会議 せしむ。……明珠と戸部尚書米思翰、刑部尚書莫洛等堅持して 宜しく撤すべしと。遂に両議を以て上詔して明珠等の議に従う。 ……呉三桂反するや、大学士索額図謂えらく、撤藩に因りて激 変すれば、宜しく議撤の諸臣を罪すべしと。上許さず。 とあるように、この時に撤藩論を支持したのは、正黄旗人イェヘ = ナラ氏のミンジュ(明珠 Mingju)や、鑲黄旗人でシャジ(沙済 Šaji)地 方のフチャ(富察 Fuca)氏のミスガン(米思翰 Misgan)であった。彼 らは鈴木真氏の研究によれば、ともに皇帝の家政機関である内務府の
要職を歴任し、皇太后に親しい旗人官僚であり、滕紹箴氏によれば 皇太后自身も撤藩を支持したという。そして存続論を主張した中心 人物がソニンの子の正黄旗人ソンゴト(索額図 Songgoto)や、同じく 正黄旗人のトゥハイ(図海 Tuhai)であり、ソンゴトの父のソニンは 先述のように順治帝の腹心で、トゥハイもまた、順治帝に近い旗人で あった。すなわち両者の対立は、鈴木真氏が指摘したように、単に 個人的意見の対立というだけでなく、順治帝と孝荘皇太后をめぐる 順治朝後期の政局がこれに影響を及ぼしていると考えられる。以上の ように、三藩の乱は清朝内部の政局とも密接に関わっていると考えら れ、今後の三藩研究においては、清朝中央の政局と三藩の関係にまで 踏み込む視点が必要不可欠であろう。
おわりに
以上、はなはだ粗雑ではあったが、本稿では清代の三藩に関する 研究史を整理しつつ、今後の三藩研究において注目すべき問題点につ いて考察してきた。 これまでの三藩の研究史においては、神田信夫・細谷良夫両氏に 代表されるような優れた研究の成果があるが、それらを再度検討して みると、藩王達の地位や、藩王家と皇帝家・旗王家の婚姻関係、ある いは各藩王と太宗・順治帝・康煕帝のそれぞれの皇帝との関わり、そ ういった清朝中央と三藩の関係については、太宗朝・順治朝・康煕朝 それぞれの時期ごとに検討する余地があるように思われる。 そして、岡田英弘氏がかつて指摘したような、清朝中央の政局の 変化が三藩の乱に対して与えた影響についても、今後具体的に検討す べき課題であろう。この問題は、清朝順治朝・康煕朝政治史、特に当 該期の政治構造や皇帝権力とも密接に関わるものであり、今後の三藩研究は清朝皇帝や清朝の権臣達との関わりも考慮に入れて行うべきで ある。 また近年では、満・漢文の膨大な檔案類が次々と公開、あるいは 刊行され、清朝史研究をめぐる史料状況は、本稿で取り上げた先行研 究が発表された頃に比して、飛躍的に改善されてきている。さらに、 近年の清朝史研究においては、モンゴルやチベットなど藩部地域に関 する研究も進展している。三藩の乱に関しても、今後は漢地だけの視 点にとどまらず、そうした研究成果を活用し、乱をめぐる周辺地域の 情勢、動向なども考慮に入れつつ再検討する必要があるであろう。 本稿で指摘した三藩研究をめぐる問題点については、筆者自身の 課題とし、今後はそれらに個別具体的な検討を加えつつ研究に臨んで いきたいと思う。 【文献目録】 磯部淳史 2009「順治朝における皇帝・旗王関係についての一考察-順 治八~十二年の政局をめぐって-」『立命館東洋史学』 32、逆頁 31 ~ 61 神田信夫 1952 「平西王呉三桂の研究」『清朝史論考』山川出版社、 2005(原載・『明治大学文学部研究報告』東洋史 2)193 ~ 243 頁 1997「孔有徳の後金への来帰-「天聡七年檔」の検討を通し て-」『清朝史論考』山川出版社、2005(原載・『東 方学会創立五十周年記念 東方学論集』(財)東方学会) 179 ~ 192 頁 鈴木真 2007 「康煕朝における近臣たち-「内務府系氏族」について -」『社会文化史学』49、1 ~ 20 頁 2008「清初におけるアバタイ系宗室-婚姻関係を中心に-」
『歴史人類』36、逆頁 77 ~ 107 滕紹箴 2008『三藩史略』(上・下)北京、中国社会科学出版社 細谷良夫 1984「三藩の乱再検討-尚可喜一族の動向を中心に-」『東 北大学東洋史論集』1、182 ~ 218 頁 1987「後金国・清朝に来帰した漢人の様相」『中国-社会と 文化』2、42 ~ 59 頁 2001「三藩の乱をめぐって-呉三桂の反乱と楊起隆・朱三太 子事件-『戦争と平和の中近世史』〈シリーズ歴史学の 現在 7〉青木書店、111 ~ 144 頁 2007「明朝の武将尚可喜-後金国へ帰順した経緯-」『東北 大学 東洋史論集』11、283 ~ 305 頁 劉小萌 2002「清皇室与三藩 “額駙”」『満族研究』2002-3 【史料目録】 『方略』 1934-1935『平定三逆方略』(『四庫全書珍本初集』 所収)上海、商務印書館 『世祖実録』 1964『大清世祖章皇帝実録』(『大清歴朝実録』所収) 台北、華文書局 『聖祖実録』 1964『大清聖祖仁皇帝実録』(『大清歴朝実録』所収) 台北、華文書局 『宗譜』『星源集慶』 1998『愛新覚羅宗譜』(全 30 冊,附『星源集慶』) 北京、学苑出版社 『四王合伝』 2002『四王合伝』(『甲申伝信録』外四種〔明代 野史叢書〕所収)北京、北京古籍出版社 『清史列伝』 2005『清史列伝』(王鍾翰点校、全 20 冊)、北京、 中華書局
『尚冊』 「平南敬親王尚可喜事実冊」(羅振玉輯『史料叢 刊初編』 所収、刊年不明) 注 ① 日本における主な三藩研究としては、田中懋徳「三藩の乱の由来と大乱の 動因に就いて」(『山下先生還暦記念東洋史論叢』六盟館、1938、569 ~ 588 頁)、 中道邦彦「清代靖南藩の福建移鎮と遷海会」(『歴史の研究』12、1966、3 ~ 54 頁)、 同「清初靖南藩と台湾鄭氏の関係―特に経済的側面より見たる―」(『歴史の 研究』13、1967、8 ~ 19 頁)、同「清初靖南藩と台湾鄭氏の関係―特に政治 的側面より見たる―」(『歴史』38、1969、47 ~ 58 頁)、神田 1952、神田信 夫「清初三藩富強の一側面-平南藩を中心として-」(『駿台史学』5、1955)、 神田 1997、細谷 1984、細谷 1987、細谷 2001、細谷良夫「『平定三逆方略』 の編纂と『平定三逆方略』稿本-三藩の乱をめぐる史料」(『アジア流域文化論 研究』Ⅰ)、細谷 2007 などがある。なお、三藩のうち、尚氏の平南藩につい ては、呉三桂の反乱に積極的に関わっていないこと、かつ「三藩」という呼 称自体が同時代的な語ではなく、後に清朝によって慣用化された用語である ことが、すでに細谷 1984 などの先行研究によって明らかにされている。筆 者もこれらの意見に同意するものであるが、本稿では便宜上、反乱を指す際 には「三藩の乱」という名称を使用し、呉氏・耿氏・尚氏の各勢力を一括し て扱う場合は「三藩」と表現する。 ② 劉風雲『清代三藩研究』(北京、中国人民大学出版社、1994)、滕紹箴 2008。 また、劉小萌 2002 は三藩と清朝との婚姻関係について論じている。 ③ 『世祖実録』巻百二十九、順治十六年十月己酉の条。 ④ なお、三藩に関する主な史料としては、清朝側から書かれた『方略』や『聖 武記』(上・下巻、北京、中華書局、1984)、あるいは『清史列伝』に収めら れた藩王達の列伝を含む「逆臣伝」などの他、藩王達の事跡を記した『四 王合伝』、呉三桂に関する記事を記した劉健の『庭聞録』(上海、上海書店、 1985)などの野史、『文献叢編』増刊(1931-1932 →『文献叢編』全編【全 12 冊】、 北京、北京図書館出版社、2008)に所収されている『清三藩史料』(『文献叢編』 増刊)や『明清史料』(上海、商務院書館、1951)などの檔案史料、尚可喜 一族の事跡について記した『尚冊』などがある。 ⑤ 孔有徳と耿仲明の清朝への来帰については、神田 1977 参照。 ⑥ 尚可喜が清朝に帰順した経緯については、細谷 2007 にて詳細に論じられ
ている。 ⑦ 神田 1952、195 ~ 199 頁。 ⑧ 神田 1952、199 ~ 217 頁。 ⑨ 神田 1952、217 ~ 230 頁。 ⑩ 神田 1952、231 頁。 ⑪ 清朝の王爵は、和碩親王(ホショ = チンワン)-多羅郡王(ドロ = ギュンワン) -多羅貝勒(ドロ = ベイレ)-固山貝子(グサ = ベイセ)-入八分鎮国公- 入八分輔国公の順で、この爵位を持つ者が「旗王」であり領主身分 であった。 これについては、杉山清彦「大清帝国支配構造試論:八旗制からみた」(『近 代世界システム以前の諸地域システムと広域ネットワーク』【平成 16 年~平成 18 年度、科学研究費補助金〔基盤研究[B]〕研究成果報告書】2007)、同「大清帝 國の支配構造と八旗制~マンジュ王朝としての國制試論~」(『中国史学』18、 2008)などを参照。 ⑫ 順治初纂満文本『大清太宗文皇帝実録』(マイクロフィルム資料、東洋文庫東 北アジア研究班所蔵)巻十七、天聡八年正月初一日の条。なお、訳文について は拙訳を用いた。 ⑬ 『世祖実録』巻二十九、順治三年十二月丁酉の条。 ⑭ 『世祖実録』巻百十三、順治十四年十二月甲戌の条。 ⑮ 細谷 1987、53 ~ 55 頁。 ⑯ 細谷 1987、56 頁。 ⑰ 太宗の対モンゴル政策については、楠木賢道『清初対モンゴル政策史の研 究』(汲古書院、2009)参照。 ⑱ 細谷 1984、200 ~ 206 頁。 ⑲ 細谷 1984、206 ~ 210 頁。 ⑳ 細谷 1984、186 ~ 190 頁。 ㉑ 細谷 1984、193 ~ 200 頁。 ㉒ 細谷 1984、214 頁。 ㉓ 『世祖実録』巻八十七、順治十一年十一月丁亥朔、癸卯の条。滕紹箴 2008、第二十三章「" 三藩 " 体制」865 頁。 ㉔ 『尚冊』三十葉の表。 ㉕ 細谷 1984、188 ~ 190 頁。なお、満洲におけるアンダ関係については、 増井寛也「満洲〈アンダ〉anda 小考」(『立命館東洋史学』28、2005)参照。 ㉖ 細谷 1984、214 ~ 215 頁、杜家驥「清代皇族与蒙漢貴族聯姻的制度和作 用」 (『南開学報』1990-4)22 頁、劉小萌 2002、滕紹箴 2008、第二十三章「" 三 藩 " 体制」866 ~ 868 頁参照。
㉗ 岡田英弘『康煕帝の手紙』(藤原書店、2013 → 1979 年の中公新書の増補 改訂版)75 ~ 76 頁。 ㉘ 『世祖実録』巻七十七、順治十年八月壬午の条、『順治朝満文内国史院檔』(北 京、中国歴史第一檔案館、2003、マイクロフィルム資料、筑波大学中央図書館所蔵) 順治十年八月十九日の条(中国歴史第一档案館編『清初内国史院満文档案訳編』【全 3 冊、北京、光明日報出版社、1989】では下冊 268、269 頁)、および『星源集慶』 33 頁。 ㉙ 『世祖実録』巻百三十六、順治十七年六月乙未の条、および『星源集慶』、 40 頁。 ㉚ 『太宗文皇帝位下第一子和碩武粛親王之女孫譜』(不分巻、編纂年不明、東 洋文庫所蔵)「和碩武粛豪格十一女」の項。 ㉛ 鈴木 2008、逆頁 93。 ㉜ 『星源集慶』41 頁。 ㉝ 『宗譜』丙冊、5205 頁。 ㉞ 鈴木 2008、逆頁 93 ~ 94。 ㉟ 磯部 2009、逆頁 38 ~ 39、43。鈴木 2008、94 頁。 ㊱ 磯部 2009、逆頁 42 ~ 43。 ㊲ ホーゲの第四子フシェオは順治八年二月に和碩顕親王に封ぜられ(『世祖実 録』巻五十三、順治八年二月乙巳の条)、五子の猛峩は順治十四年に多羅温郡王 に封ぜられている(『世祖実録』巻百六、順治十四年正月丁卯の条)。 ㊳ 談遷『北游録』(清代史料筆記叢刊、北京、中華書局、1960)紀聞下・粛王子。 ㊴ なお、三藩の耿氏・尚氏の間でも婚姻が結ばれており、耿精忠の子は尚可 喜の三子之孝の娘を娶っており、耿継茂の娘も尚氏に嫁いでいる。 ㊵ 『世祖実録』巻九十一、順治十二年四月癸未の条。 ㊶ 楊珍『清朝皇位継承制度』(北京、学苑出版社、2001 → 2009 に修訂本)第二 章「汗位推選制度」61 ~ 84 頁。 ㊷ 『世祖実録』巻百二十六、順治十六年五月壬申の条。 ㊸ 『四王合伝』「孔有徳伝」326 頁。『清史列伝』巻八十、孫延齢伝。 ㊹ 楊珍『歴程 制度 人-清朝皇権略探』(北京、学苑出版社、2013)第五章「皇 室女性」433 ~ 436 頁。 ㊺ 『顕宗改修実録』(『李朝実録』第三十八冊、学習院東洋文化研究所、1964)巻 二十一、顕宗十(康煕八)年十月庚辰の条。 ㊻ アドリアン・グレロン、矢沢利彦訳『東西暦法の対立-清朝初期中国史- (平河出版社、1986)、352 頁。 ㊼ 細谷 2001、134 ~ 135 頁。 ㊽ 『世祖実録』巻九十九、順治十三年三月乙酉の条。
㊾ 『聖祖実録』巻二十三、康煕六年七月乙卯の条。 ㊿ 旗人の殉死の事例に関しては、杉山清彦「大清帝国と江戸幕府」(『世界史 を書き直す 日本史を書き直す』懐徳堂記念会、2008)182 ~ 185 頁参照。 細谷 1984、214 頁。 康煕帝即位をめぐる政局については、磯部淳史「順治朝の後継者問題と康 煕帝をめぐる旗王たち」(『立命館東洋史学』34、2011)参照。ただし、細谷 氏が指摘するように尚之信処刑の背景には之信と弟子孝との後継者をめぐる 対立があったことや、清室と婚姻を結んでいた尚之隆は、之信刑死後も罪を 許されており、彼自身や子の尚崇廙は侍衛・内大臣として皇帝に近侍してい ることなどから(『尚冊』三十一葉の裏)尚一族が一枚岩であったとは考えら れず、尚氏と清朝の関係については之信とその兄弟それぞれの動向に注意す る必要があるであろう。 『康煕起居注』(中国歴史第一档案館整理『康煕起居注』【全 3 冊、標準本】北京、 中華書局、1984・雛愛蓮主編『清代起居注冊・康熙朝』【全 32 冊・影印本】北京、 中華書局、2009)、康煕二十年十二月十四日の条(標点本、第一冊、791 ~ 792 頁・ 影印本、北京所蔵第十一冊、5455 ~ 5457 頁)。 『欽定八旗通志』(【全 12 冊】長春、吉林文史出版社続集、2002)巻 一百五十一、明珠伝。 鈴木 2007、2、6 ~ 12 頁。 滕紹箴 2008、第二十六章「撤藩激変」979 頁。 磯部淳史「順治朝における側近集団の一考察-内三院・内閣、十三衙門を 中心に-」(『立命館東洋史学』35、2012)逆頁 39 ~ 40 頁。 鈴木 2007、11 頁。 [付記] 本稿は 2009 年 12 月 13 日に、第 32 回立命館史学会大会において口頭発 表 した内容の一部を、大幅に加筆・修正したものである。発表に際して 場を与えてくださった立命館史学会、および貴重なご意見を賜った参加各 位に改めて御礼申し上げる。 (大阪市立大学大学院文学研究科都市文化研究センター研究員)