はじめに─問題関心の所在と各節の概要 アレントの思想において,読者にひときわ感銘深 い印象を与える議論のひとつに,子どもの「誕生」 に関する議論が挙げられる。例えば,『人間の条件』 活動論の末尾でアレントは,子どもという「新しい 人びとの誕生」という事実に,「活動」(政治的行為) の存在論的根拠を見出している。 人間事象の領域である世界は,そのまま放置すれ ば「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というの は,究極的には,人間の新生という事実(fact of natality)であり,活動の能力も存在論的にはこの新 生にもとづいている。いいかえれば,それは,新し い人びとの誕生(birth ofnew men)であり,新し い始まり(new beginning)であり,人びとが誕生し たことによって行ないうる活動である。この能力が 完全に経験されて初めて,人間事象に信仰と希望が 与 え ら れ る。つ い で に い え ば,こ の 信 仰 と 希 望 (faith and hope)という,人間存在に本質的な二つ の特徴は,古代ギリシア人がまったく無視したもの
子どもの「新生」を通じた「世界」の再生と持続
─
H・アレント「保守的」教育論の思想的含意─
井上 達郎
ⅰ 本稿の目的は,従来の研究において「保守的」と見なされ批判されてきたアレントの教育論を,彼女の 「権威」および「私的領域」概念に着目して考察することで,彼女の教育論の主眼が,子どもの「新生」 を通じた「世界」の再生と持続にあった点を明らかにすることである。アレントが教育を通して守ろうと したのは,「新参者」として「世界」に到来する子どもの「新生」であり,それと同時に,子どもの「新 生」を媒介とした不断の「更新」に基づく「世界」の存立であった。教育の本質的課題を,「世界」を「更 新」する子どもの「新生」の可能性を育むことを通して,不断の「更新」を伴ってこそ可能となる活気に 満ちた「人間社会」としての「世界」の持続的存立を守ることに見出していた点に,同時代の「進歩主義 的」教育や「保守主義的」教育とも異なるアレント教育論に特徴的な洞察を看取することができる。加え て本稿では,アレントの教育論において,子どもの養育・教育のための安全な空間として,「私的領域」の 意義が重視されている点にも着目した。アレントが,学校教育の「公共性」を認識しつつも,「家族」とと もに「学校」という教育空間を「私的領域」に位置づけたのは,双方の空間を,「公的領域」における政 治的な闘争から子どもを切り離すことで,「世界」を更新する子どもの「新生」の可能性を育む庇護的空間 として捉えていたからである。「家族」および「学校」といった子どもの「新生」を育む保護的空間として 「私的領域」を確立することは,「世界」の再生と持続を主眼とするアレントの教育論にとって不可欠の条 件なのである。 キーワード:ハンナ・アレント,子ども,新生,教育,「世界に対する責任」,権威,私的領域 ⅰ 立命館大学大学院社会学研究科博士後期課程である。(HC: 247=385-6)1) 子どもという「新しい人びとの誕生」と,彼ら彼 女らが「誕生」したことによって「世界」に「新し い始まり」がもたらされることに「信仰と希望」の 源泉を見出そうとする上記の論述は,古代ギリシア のポリス的政治を理想的な政治のモデルと見なした と解釈されてきたアレントの公共性論が,じつは古 代ギリシアのポリスを範例とした公共性概念に止ま らない思想的含意を内包していることを示唆してい る点で興味深い。 例えば,「ポストリベラルの時代を展望した教育 における公共性の問い直し=再審」という問題関心 からアレントの公共性論に注目する小玉重夫は,彼 女の公共性論の思想的含意を以下の二点に見出して いる。それは第一に,「異質な他者同士の出会いの 場」として概念化されている彼女の公共空間論とは, 「異質で多様な声を『聞く』空間」でもあるという意 味で,ポストコロニアリズムが強調する人間の「複 数性」に基づいた「差異の政治」が実現される空間 として解釈できるという点である。第二に,「その ような公共空間の存続を保証するものとして,出生 による世代更新に着目する視点」が彼女の公共性論 に位置づけられている点である。小玉は上記の第二 点,すなわち,子どもの「新生」に注目したアレン トの教育論が,彼女の公共性論において重要な位置 を占めていることを強調しつつ,「この点に,彼女 の公共空間論を単なる古代ギリシアの英雄物語に還 元しないための一つの鍵が隠されている」と指摘し ている(小玉 1999: 202-7)。小玉の先駆的研究を 嚆矢として,子どもの教育をめぐるアレントの議論 は,近年ではとりわけ教育哲学研究の領域において, 教育における公共性の問い直しやシティズンシップ 教育論といった主題と関連づけて注目されていると 言える(Gordon ed 2001; 小玉 1999, 2013; 村松 2013; 田中 2016など)。 しかしながら,アレントがその教育論で,「政治」 と「教育」を厳格に区別する必要を強調している点 については,彼女がシティズンシップ教育論を明示 的に展開していない点も含めて批判の対象とされて きた。例えば,田中智輝が論じるように,G・ビー スタなど,アレントの公共性論を参照しつつ「教育 の場をそこに集う者の複数性が発揮される政治的な 活動(action)の空間へと組み替えることを提案す る」ことで,シティズンシップ教育論を展開しよう とする論者からは,「政治」と「教育」の区別を強調 するアレントの議論は彼女の思想の「保守的」性格 を示すものとして批判の対象と見なされている(田 中 2016: 462)。また石田雅樹は,アレントが『人間 の条件』で,古代ギリシア・ローマの政治経験を 「政治的」行為の範例と見なし,市民が政治へと能 動的に参加する意義を強調しているにもかかわらず, 自身の教育論では,そのような能動的市民を育成す るシティズンシップ教育の意義について明示的に論 じることなく,「政治」と「教育」を区別する必要性 を主張している点に言及し,アレントの教育論には, 「『政治』と『教育』とを結ぶ議論の不在,すなわち シティズンシップ教育への沈黙」(石田 2012: 30) という特徴が見出されると指摘している2)。 このように,アレントの教育論をめぐっては,お もに彼女の公共性論に着目してシティズンシップ教 育論を展開しようとする論者から,「政治」と「教 育」の区別を強調する彼女の議論が「保守的」であ るという批判が提起されてきたのであるが,本稿で はアレントの教育論を,彼女の「権威」および「私 的領域」概念に着目して考察することで,「保守的」 と見なされ批判されてきた彼女の教育論の思想的含 意を解明したい。さらに,「保守的」と見なされて きたアレント教育論の考察と関連づけて,アレント 思想における「私的領域」概念の「積極的」意義の 一端も明らかにしたい。なぜならば,子どもの教育 において「私的領域」がいかなる意義を有するのか という問題をめぐっては,従来の解釈ではこの論点 を看過するか,もしくは消極的にのみ評価するに止 まってきたと考えられるからである。 先述したように,アレントは「政治」と「教育」
を区別したうえで,「教育」という営為が行なわれ る場所を,「家族や学校などの私的な前政治的領域 (private pre-politicalrealmsofthe family and the
school)」に位置づけている(CE: 187=256)。そう だとすれば,彼女は子どもの教育において「私的領 域」が果たす役割を重視していたと考えることがで きるだろう。ところが石戸教嗣は,アレントの教育 論には,子どもの教育において「私的領域」が積極 的な役割を果たすべきだという主張はどこにも見出 せないとして次のように述べている。「確かにアレ ントは『教育の危機』論文において,子どもにとっ て家庭が安全な場であることを強調している。…… ところが,この論文のどこを読んでも,彼女は家族 が積極的な教育機能を果たす場であるとは主張して いない」(石戸 2002: 188)。石戸はその理由を,ア レントの思想総体に根ざす「私的領域」に対する 「消極的」で「否定的」とさえ受けとめられる価値判 断に見出しているが,果たして彼が指摘したように, アレントの教育論では,「私的領域」とは,ただ「消 極的」にのみ評価づけられているにすぎないのだろ うか。 興味深いことに近年の研究では,上記の石戸に見 られるような解釈とは対照的に,アレントの「私的 領域」概念に「積極的」な意義を見出そうとする解 釈が提起されつつある。例えば H・ミューズは,ア レントの「私的領域」概念の意義について次のよう な示唆に富む見解を提起している。 ア レ ン ト の 理 論 に お い て,私 的 領 域(private realm)とは,たんに適切に隠されるべき生命の必 要性(life’snecessities)に支配された領域として存 在するだけではない。それに加えてより重要なのは, 「私的領域」,つまり人間存在の私的な部分とは,わ
れわれの公的な人格(publicpersona)が生まれる 「隠された土台(“hidden ground”)」と見なすべき だということである。「大人(“adult”)」である市民 が責任をもって,「新参者(“newcomers”)」を公的 な世界へと導く必要性を説いた,教育に関する短い 論考を除くと,アレントが,生命の必要性に支配さ れた領域とは異なる空間として私的領域について論 じることはめったにない。しかしながら,公的な行 為者が出現するための「隠された土台」としての私 的領域(private realm asthe “hidden ground”for the emergence ofpublicactors)を捉えることは, 公的生活(publiclife)がどのような特徴をもった私 的な個人(private individual)を必要とするのかを 考察する際にきわめて重要な論点である。(Mews 2009: 88) 上記の論述でミューズが示唆するように,アレン ト思想において「私的領域」概念を,「公的な行為者 が出現するための『隠された土台』」として積極的 に捉え直すことは,研究史における主要な諸動向で も充分に論じられてこなかった論点であり,しかも 「私的領域」概念の積極的な存立意義の考察は,彼 女の「政治」概念そのものの思想的含意を再考する ことにつながる重要な論点であるとも言える。この ような問題関心のもと,第一節では,アレントが教 育の「本質」として把握した「新生(natality)」概念 の特徴を整理する。第二節では,1950年代のアメリ カ社会における「統合教育」政策への反動として発 生した「リトルロック事件」に対するアレントの見 解を考察し,彼女が看取した「教育の危機」の実態 を明らかにする。第三節では,「権威」概念に着目 し,子どもの教育において大人が果たすべき「世界 に対する責任」の内実を考察することで,「保守的」 と見なされてきたアレント教育論の思想的含意を明 らかにする。第四節では,アレント教育論の思想的 含意との関連で相補的関係性を有する「私的領域」 概念の「積極的」意義を明らかにする。本稿全体の 考察を通して,子どもの「新生」を通じた,「世界」 の再生と持続を主眼とするアレント教育論の思想的 含意を浮かび上がらせたい。
1.アレント教育論における「新生」概念の特徴 教育学者ではなかったアレントが教育について論 じた背景には,1950年代のアメリカ社会において教 育の危機が「第一級の政治問題」(CE: 170=233) として現出しているという彼女の時代認識が存在し ていた。アレントは,アメリカ社会における教育の 「危機」の現出は,教育をめぐる問題の「本質」を露 わにしたと指摘している。彼女が把握した教育の 「本質(essence)」とは,「新生(natality),つまり人 間は世界のなかに生まれてくるという事実(fact thathuman beingsare born into the world)」であ る(CE: 171=234)。アレントは「子ども(child)」 を,「人 間 の 世 界 へ の 新 参 者(newcomer in this human world)」(CE: 182=250)であるという意味 で「新しい」存在と捉えている。そして彼女は,子 どもの教育という営為を,「けっしてあるがままに とどまることなく,誕生(birth),つまり新しい人 間の到来(arrivalofnew human beings)によって 絶 え ず み ず か ら を 更 新 す る(renews)人 間 社 会 (human society)にとって,……最も基本的で不可 欠な活動様式(activities)の一つ」として重視して いる(CE: 182=249)。本節では,アレント教育論 の考察という観点に焦点を据えたうえで,「新生」 概念の特徴について以下の三点を提示したい3)。 第一に挙げられるのは,「新生」の根本的条件で ある人間の「誕生」という「出来事(event)」をめぐ るアレントの洞察についてである。彼女は,人間の 「生命」が「ゾーエー(zoê)」と「ビオス(bios)」と いう二つの位相を併せもつ点に注目しており,とり わけ「生と死」によって条件づけられた人間の「生 命(life)」とは,「ユニークで他のものと取り換える ことのできない,そして繰り返しのきかない実体で ある個人(individuals)が,その中に現われ,そして そこを去ってゆく世界に係わっている」(HC: 96-7 =152)という点で,他の動植物の生命の在り様と は区別されると指摘して次のように論じている。
もし「生命(life)」という言葉が世界(world)に 関連づけられ,生から死までの期間(time interval between birth and death)を意味するように考えら れる場合は,それはまったく異なった意味をもつ。 そ の 場 合,生 命 は,始 ま り と 終 わ り(beginning and an end)によって区切られ,世界における出現 と消滅という二つの最高の出来事(two supreme eventsofappearance and disappearance within the world)に制限されて,完全に直線的な運動を辿る。 ……この特殊に人間的な生命の出現と消滅が世界の 出来事を構成するのであるが,その主要な特徴は, 人間の生命が,出来事に満ちており,その出来事は, 最後には物語(story)として語ることのできるもの であり,伝記(biography)を創りあげることのでき るものであるという点にある。アリストテレスが 「ともかくも一種の活動(praxis)である」といった のはこの生命,つまり単なる生命(zoê)と区別され た生(bios)についてである。(HC: 97=152-3) なるほど,子どもの「誕生」という出来事を,「世 界」で継起するありふれた現象として見れば,それ は「た ん に 未 完 成 の ま ま 創 り 出 さ れ た 生 き 物 (living creature)」(CE: 182=250)の誕生にすぎな いと言える。しかしながら F・コリンも指摘するよ うに,アレントが子どもの「誕生」に見出したのは, それが本質的に「更新(novation)」ないし「新しい もの(renewing)」を内在的に備えているというこ とであった(Collin 1999: 107)。子どもとは,一方 で「未完成のまま創り出された生き物」として,み ずからの「生物学的生(biologicallife :life aszoê)」 を生きるとともに,他方で「人間の世界への新参者」 として,固有の「伝記的人生(biographical life: life asbios)」を生きる存在でもある(Collin 1999: 106)。アレントにおいて,子どもの「誕生」とは, 「新生」を概念的な結節点とすることで,生命維持 を目的とした「生物学的生」が緊縛されている自然 的循環のプロセスを断ち切り,「出来事に満ちてお り……最後には物語として語ることのできる」とい
う意味で唯一無二の「伝記的人生」の「始まり」を 画する出来事として捉え直されるのである。 第二に挙げられるのは,「新生」とは「教育」の本 質的問題であるとともに,「活動(政治的行為)」の条 件でもあるということである。アレントは『人間の 条件』で,「人間は誕生(birth)によって,『始まり (initium)』,『新参者(newcomers)』,そして『創始 者(beginners)』となるがゆえに,始まり(initiative) を引き受け,活動(action)へと促される」(HC: 177=288)と述べ,人間の「誕生」とともに「『始ま り』の原理(principle ofbeginning)が世界の中に もちこまれた」ことを主張している4)。この「始ま り(beginning)」とは,「すでに起こった事に対して は期待できないような何か新しいこと(something new)」をなすことができるという,人間の「活動」 能力が有する「意外性(unexpectedness)」という性 格を指しており,アレントは「始まり」を「自由 (freedom)」と同義で用いている(HC: 177-8=289)。 なぜ,人間の「誕生」という事実が,「始まり」な いし「自由」の原理と結び付けられるのか。彼女に よれば,それは「人間は一人ひとりが唯一無二の存 在(unique)」として「誕生」するからである。人間 の「誕 生」と は,「同 等 者 の 間 に あ っ て 差 異 (distinct)を有する唯一無二の存在」が「世界」へと 到来することを意味しており,アレントは人間の 「誕生」という事実に,「複数性という人間の条件 (human condition ofplurality)」を見出している (HC: 178=289-90)。彼女は「複数性」という概念 によって,「世界」に「誕生」した子どもたちは,そ れぞれが「世界」に「始まり」をもたらしうる「新 しい」存在であり,それゆえに一人ひとりが「かけ がえのない存在(uniqueness)」だということを強 調するのである5)。子どもとは,みずからが「かけ がえのない存在」であることを「世界」のなかで 「他者」とともに確かめ合うために,「自ら進んで何 か新しいことを始める」(HC: 177=288)という意 味で「自由」な存在なのである。アレントにとって 「新生(natality)」とは,「誕生という事実(factof
birth)」に対応して「始まりとしての活動(action asbeginning)」に乗り出そうとする「人間の条件」 なのである(HC: 178=289-90)6)。 第三に挙げられるのは,「新生」を秘めた子ども の「誕生」という事実が有する「偶然性」ないし 「受動性」という問題についてである。この「新生」 の困難について,アレントが明示的に論じているわ けではないが,彼女の教育論を考察した複数の論者 が示唆に富む解釈を提示しているのでここで参照し ておきたい。 アレントの「新生」概念に関する体系的な研究を 行なった P・B・ムアは,子どもの「誕生」とは,人 間存在が置かれた三つの実存的な状況を明らかにす ると指摘している。それは第一に,「誕生」という 謎めいた出来事それ自体がまさに人間存在の前提 (sheergivennessofhuman existence)であるとい うこと,第二に,子どもは「世界」のなかに「新参 者(stranger)」として到来するということ,第三に, 「新しい人(newcomer)」がみずからの「誕生」にい かなる意味を付与するのかは,彼と「世界」の双方 にとって未知のままだということである(Moore 1989: 32)。アレントが言うように,「人間は,自分 が生まれたときどこから来たのか,そして死ぬとき どこへ行くのか知らない」(HC: 63=92)。私たちの 生とは,「世界」へと「偶然に」生まれ落ちたという 如何ともしがたい事実を受け入れることから始まる と言えるのである。 さらに子どもの「誕生」という事実の「偶然性」 と 関 連 し て,N・レ ヴ ィ ン ソ ン は,「新 生 の 逆 説 (paradox ofnatality)」という興味深い問題を提起し ている(Levinson 2001: 13)。レヴィンソンが指摘 する「新生の逆説」とは,「新参者」である子どもに 対して「世界」がつねに先行するのみならず,彼ら 彼女らを「ある特定のカテゴリーの人間」として先 験的に規定してしまうという,「世界」と子どもの 関係性から生じる困難な事実を指している。例えば, アメリカ社会においてマイノリティーの学生は,学 校での成功も失敗もみずからの行為如何によってで
はなく,いかなる人種や民族に属しているかという 社会的属性に付随した価値観によって一義的に表象 されることで,自分が「世界」のなかへと「遅れて きたという圧倒的な感覚(overwhelming sense of belatedness)」を経験してしまう。このようにレヴィ ンソンは,「世界」のなかへと到来してきた子ども に,歴史的に規定された価値観の受容を強制する 「社会的境遇の構造(structure ofsocialpositioning)」 を問題視している。「世界」が子どもを社会的表象 によって裁断するならば,子どもは自分が「世界」 を「更新」する「新参者」としてではなく,むしろ この「世界」の「遅参者」,すなわち「遅れてきた存 在だということ(belatedness)」を経験してしまう のである(Levinson 2001: 14-6)。 子どもたちが「世界」にもたらす「新生」とは, 活力ある不断の「更新」によって存続する人間の 「世界」にとって「信仰と希望」の源泉であるが,子 どものもつ「新しさ」は,「世界」においていまだ実 現されておらず,それらはただ子どものうちで潜在 的な可能性としてのみ存在している。森川輝一が論 じるように,「『子ども』の誕生が,ユニークで自由 な生の始まりとなるか否かは,彼(女)の到来を迎 え入れる大人たちの応答にかかっている」(森川 2010: 349)のであり,子どもの「新生」が「世界」 のなかで実現されるためには教育が要請されるので ある。しかしながらアレントは,他ならぬ大人たち が子どもの教育において担うべき責任を放棄してい ることを「教育の危機」として批判的に捉えている。 次節では,彼女が看取した1950年代アメリカ社会に おける「教育の危機」の実態について考察を進めた い。 2.1950年代アメリカ社会における 「教育の危機」 アレントは,1959年の論文「リトルロックについ ての省察“Reflectionson Little Rock”」で,1957年 9月にアーカンサス州リトルロック・セントラル・ ハイスクールで発生した人種差別主義者の暴動事件 を事例として,同年代のアメリカで推進されていた 「(人種)統合教育」に関する批判的な考察を提起し ている。同論文の中で彼女は,「全体の問題のうち でもっとも驚かされるのは,すべての場所,すべて の公立学校で分離の撤廃(integration)を実行する という連邦政府の決定である」と述べ,学校教育に おける人種分離の撤廃(統合)を法制化した連邦政 府の措置を批判する議論を展開している(RLR: 203 =264)。 「リトルロック事件」の原因となった「統合教育」 の法制化は,アメリカ社会における人種差別の撤廃 と黒人の地位向上を目指す公民権運動の進展がもた らした重要な成果であり,「統合教育」を批判する アレントの論考は,「リベラル」で「進歩主義的」な 教育を主導する論者から,公民権運動を妨害する反 動的な主張と見なされ多くの批判が寄せられた (Young-Bruehl1982=1999: 414-26; 小玉 1999: 29-30)。しかしながら当時多くの論者が誤解したよう に,アレントは「統合教育」を批判して「分離教育」 を擁護したわけではない。彼女は,「統合教育」に 反対する人種差別主義者の暴動を明確に批判してお り,なおかつ南部諸州で施行されていた「白人と黒 人の分離(segregation)」は,「法律で施行されてい る差別(discrimination)」にほかならず,「分離を解 消するためには,差別を施行している法律を廃止す る以外に方法はない」と主張していたからである (RLR: 204=265)。それでは,「統合教育」に対する アレントの批判の眼目とは何か。 ここで注目したいのは,「全国の新聞や雑誌に掲 載された」,ある報道写真に対するアレントの所感 である。「リトルロック事件」を象徴するものだと 彼女が述べたその写真には,「黒人の少女が,父親 の白人の友人に付き添われて帰宅する途中で,身近 に迫る若者たちのからかいとしかめ面に耐えて」い る様子が映し出されていた(RLR: 203=264)。アレ ントが眼にしたと思われるその写真には,州兵に入 校を阻まれて下校する一人の黒人の女子学生を取り
囲むように多数の大人たちが映っている。一見する と,これらの大人たちは黒人の少女を白人の暴徒か ら守っているかのように 毅 毅 毅 毅 毅 見える。しかしながらアレ ントの眼には,写真の大人たちが少女を守る「大 人」とは映らなかったようである。彼らは事態の推 移を傍観するだけの受動的な観衆にすぎないのでは ないか。この少女を守るべき「大人」はどこにいる のか。アレントはこの写真から,白人の暴徒のみな らず,この事件に関心を向ける公的な眼差しから少 女を守る責任を負うべき「父親」や,「全米黒人地位 向上委員会(NAACP)の代表」といった「大人」の 不在という問題を看取し次のように論じている。 この写真は,私には進歩主義的教育の非現実的 な 風 刺 画(fantastic caricature of progressive education)のように思える。この教育は大人の権 威(authority ofadults)を喪失させることで,自分 たちの子どもが生まれてきたこの世界に対する責任 (responsibility forthe world)を引き受けることを 暗黙のうちに拒み,世界のうちへと子どもたちを導 く義務(duty ofguiding them into it)を拒否するも のである。いまや大人ではなく,子どもたちに世界 を変革し,改善することを求める時代になったのだ ろうか。そして私たちの政治的な闘いを,校庭で闘 わせようというのだろうか。(RLR: 203-4=265) アレントは,連邦政府が決定した公立学校での 「統合教育」の実施が,学校の教育空間のなかに人 種差別の解決という難題を持ち込むことで,「白人 と黒人を問わず,すべての子どもたちは,大人たち が数世代もの間,自分たちでは解決できないことを 告白している問題に取り組むという大きな負担を負 わされることになる」(RLR: 203=264)のを深く危 惧 し て い た。「教 育 と 学 校 の う ち に 差 別 の 撤 廃 (desegregation)を持ち込もうと試みることは,成
人ではなく子どもたちに責任を転嫁するものであり, きわめて不公正(unfairly)だと感じる」(RLR: 194 =255)。アレントは,白人と黒人の子どもたちを 「平等」な存在と見なし,同じ学校で教育すること を通して,人種間の融和と共生を目指そうとする 「統合教育」の理念そのものを批判しようとしたの ではない。彼女が憂慮したのは,公権力の介入によ って学校が政治的闘争の空間へと変質した場合,そ れが子どもたちにいかなる影響をもたらすのかとい うことであった。「統合」された学校に通う子ども たちは,学校生活のなかで人種問題に日々直面する ことになるが,果たしてそのような負担を子どもた ちに負わせてよいのか。人種差別の解決という難題 は,本来大人たちが責任をもって解決するべき「政 治的」問題ではないのか。アレントは「統合教育」 の推進に,子どもたちと彼ら彼女らが導かれる「世 界」に対する大人たちの「責任」の放棄という問題 を看取しているのである。「リトルロック事件」を めぐる一連の経緯のなかでアレントが提起したのは, 保守と革新の両陣営で論争の焦点となった「統合教 育」の法制化の是非という政治的争点ではなかった。 彼女は,子どもの教育には政治的争点を持ち込むべ きではないこと,そして,政治的闘争が繰り広げら れる領域とは明確に切り離された,教育のための安 全な空間を子どもたちに保障する責務が大人にある ことを,「世界に対する責任」という言葉で提起し たのである。 大人が担うべき「世界に対する責任」の放棄と いう「統合教育」に対するアレントの批判は,「統 合 教 育」政 策 の 背 景 に あ る「進 歩 主 義 的」教 育 (progressive education)に対する彼女の批判の論拠 でもある。「進歩主義的」教育が具体的に何を指す のかアレントは詳述していないが,それは18世紀に 思想的に概念化された,子どもという「新しい存在 へのパトス(pathosofthe new)」に特徴づけられ る「ルソー主義的な……教育理念」(CE: 173=237) に基づく「子ども中心主義的」な教育(田中 2016: 464)を指すものだと考えられる。ここではアレン トが批判する「進歩主義的」教育の特徴について以 下の二点に注目しておきたい。いずれの特徴も,大 人が担うべき「世界に対する責任」の放棄の現われ
であるとして彼女によって批判的に言及されている。 「進歩主義的」教育の特徴として第一に注目すべ きは,「新しい」存在である子どもへの過剰な期待 が生み出した「子どもの世界」という想定である。 アレントによれば「進歩主義的」教育には,「子ども に は 子 ど も の 世 界 と 社 会(child’s world and a society)が存在しており,これらは自立しており, したがって子どもの世界や社会はできる限り子ども 自身に任せなければならない」という基本前提が存 在すると言う。「子どもの世界」に対して,大人は ただ「子どもに自分の好きなようにしなさいと言う だけ」の「無力(helpless)」な存在でしかなく,大 人が出来るのは,「不慮の出来事から最悪の事態が 生じないように見守るだけである」(CE: 177=243-4)。アレントは,「進歩主義的」教育のこのような 想定は,「教えることと学ぶことのうちに存在する 大人と子どもの間の自然な関係を断ち切る」(CE: 180=248)ものだと批判している。なぜなら,大人 の「世界」から自立した「子どもの世界」という想 定のもとでは,「あらゆる年齢の人びとがつねに同 時かつ共に世界に存在するという事実から生じる, 子どもと大人の現実的で正常な関係が断たれてしま う」からである(CE: 178=244)。アレントにとっ て「世界」とは,大人と子どもが共生する「共通世 界(common world)」として存立するものに他なら ず,大人が担うべき「世界に対する責任」を彼女が 強調するのも,大人と子どもがともにひとつの「世 界」を共有しているという事実を重視していたから に他ならない。 さらにアレントは,大人の「世界」から切り離さ れ,「子どもの世界」に留め置かれた子どもたちが, 「大人の権威(authority ofadults)から解放されて
自由になったわけではなく,それにもまして恐るべ き真に暴政的な権威(tyrannicalauthority),すなわ ち多数の暴政(tyranny ofthe majority)に服従させ られ」ることを問題視している。彼女は,大人の 「世界」から「追放」され,「子ども(だけ)の世界」
という「多数の暴政」に直面した個々の子どもの反
応とは,「順応主義(conformism)に向かうか,少年 犯罪(juvenile delinquency)に向かうかのいずれ か」だと警告している(CE: 178=244-5)。 第二に注目すべきは,「進歩主義的」教育におけ る「権威」の否定である。アレントは,「進歩主義 的」な教育制度を導入したアメリカ社会において 「教育の危機」がもっとも先鋭的な形態で現出して いると指摘しているが,彼女によればその主要な原 因とは,大人による「権威」の否定ないし放棄に起 因するものだと言う。彼女は,「リトルロック事件」 に象徴された1950年代のアメリカ社会における「教 育の危機」とは,端的に言えば教育において要請さ れる「権威の危機」でもあったと指摘して次のよう に論じている。 近代教育の難点は,新保守主義をめぐって当世風 の議論があれこれ交わされているにもかかわらず, それなしには教育がまったく不可能となるような保 守や保持しようとする態度をわずかなりとも達成す ることが,われわれの時代には恐ろしく困難になっ ている事実にある。……教育における権威の危機 (crisisofauthority in education)は,伝統の危機 (crisisoftradition),すなわち過去の領域に対する わ れ わ れ の 態 度 の 危 機(crisis in our attitude toward the realm ofthe past)と緊密に結びついて いる。(CE: 189-90=260)
アレントは,「子どもの養育と教育(child-rearing and education)ほど『権威(authority)』の必要性が はっきりしている分野はない」と論じている(WA: 119=162)。なぜなら子どもとは,「世界」の「新参
者(stranger)」であり「みずからの判断で進む方向 を定めることができない」ために,「自分を世界へ 導いてくれる権威(authoritiesto guide him into the world)を本能的に求める」からである(RLR: 212=274)。それにもかかわらず,「子どもの養育と
教育」で必要とされる「極端に限定され政治にとっ ては無に等しい形式の権威さえも根絶しようとする
願望」の現われこそは,「われわれの時代にまった く固有の特徴である」(WA: 119=162)と述べ,「進 歩主義的」教育による「権威」の放棄を批判してい る。このように「進歩主義的」教育を批判したうえ で,アレントは,教育の領域に「権威の概念と過去 への態度(concept of authority and an attitude toward the past)」(CE: 192=263)を適用する必要 性を強調するのである。教育に「権威」を導入する 必要性を強調している点は,アレント教育論の「保 守的」性格を示すものとして批判されてきた。しか しながら彼女が「権威」を強調したのは,教育にお いて子どもに対する「大人の支配」を確立すること が必要だと考えたからではない。アレントが教育論 で「権威」を強調したのは,「進歩主義的」教育が看 過した大人が担うべき「世界に対する責任」の所在 を明らかにするためであった。次節では,「権威」 概念に着目しながら,「保守的」と見なされてきた アレント教育論の思想的含意を明らかにしたい。 3.アレントのいわゆる「保守的」教育論の 思想的含意─「権威」概念に注目して 本節では,アレントの「権威」概念に着目し,子ど もの教育において大人が果たすべき「世界に対する 責任」の内実を考察することで,「保守的」と見なさ れてきたアレント教育論の思想的含意の解明を試み る。まず,彼女が把握した「権威」の基本的性格に ついて確認しておきたい。1969年に発表された論文 「暴力について“Reflectionson Violence”」で,おも に政治学の分析対象である「権力(power)」,「力 (strength)」,「強制力(force)」,「暴力(violence)」
といった「人間が人間を支配するための手段を示 す 語」(OV: 43=133)の ひ と つ と し て「権 威 (authority)」を挙げたうえで,他の用語とは異なる 「権威」の独自性について次のように説明している。 権威は,それに従うように求められた者が疑問を 差し挟むことなくそれを承認することによって保 証 さ れ る の で あ っ て,強 制(coercion)も 説 得 (persuasion)も必要ではない。(父親は子どもを殴る ことによっても,あるいは子どもと議論することに よっても,いいかえれば,子どもにたいして暴君と して振る舞うことによっても,あるいはかれを対等 の者として扱うことによっても,みずからの権威を 失うことがある。)権威を維持するためにはその人 間もしくはその役職への尊敬(respect)が求められ る。それゆえ,権威の最大の敵は軽蔑(contempt) であり,権威を傷つけるもっとも確実な方法は嘲笑 すること(laughter)である。(OV: 45=134-5) 上記の論述からは,アレントが「権威」を,「強 制」や「説得」ではなく,特定の立場・役職にある 人間に対する子どものおのずから湧き出る「尊敬」 によって形成・維持される人間関係─例えば親子 関係や,教師と生徒の関係など─として把握して いたことが読み取れる。「権威」的関係において, 大人は子どもに「服従」を要求することができる。 ただしその際に,暴力的な「強制」や理性的な「説 得」という手段をとった場合,大人は子どもの「服 従」を獲得することに失敗してしまう可能性がある。 その結果,子どもから「軽蔑」され「嘲笑」されれ ば,大人は「権威」を失わざるをえない。アレント は,教育において大人と子どもの間に「権威」的関 係を樹立する必要を提起しているが,そこで彼女が 強調したのは,教育において要請される「権威」と は,「強制」や「説得」によってではなく,何よりも 大人に対する子どもの「尊敬」に基づいて樹立され るべきだということである。それは同時に,子ども の教育において,大人はいかなる役割を果たさねば ならないのかという,子どもに対する大人の「責 任」の所在を鋭く問いかけるものでもある。 アレントは,子どもの教育において「権威」とは, 「世界に対する責任(responsibility forthe world)」 (CE: 186=255)という形式をとると指摘し,大人 がそれを担う責務があることを強調している。彼女 にとって,大人の「権威」の妥当性とは,親子にお
ける「育てる/育てられる」関係性や,教師と生徒 における「教える/教わる」関係性に含まれた自明 の事実の相互確認に基づくものではない。B・ホー ニッグの用語を借りれば,アレントの教育的な「権 威」概 念 に は,「事 実 確 認 的 な 追 認(constative reference)」ではなく,「世界に対する責任」への応 答という「行為遂行的(performative)」な特徴が存 在すると言える(Honig 1995: 137=2001: 196)。教 育において,大人は,「世界に対する責任」を担う態 度を示すことで,子どもの「尊敬」と自発的な「服 従」を獲得することができるのであり,それを看過 し,ただ「強制」や「説得」に基づいて教育するこ とは,子どもに対するみずからの「権威」を放棄す ることと同じなのである。 それでは,教育において大人が果たすべき「世界 に対する責任」とは具体的にはいかなるものか。ア レントはみずからの教育論の末尾を,次のような感 銘深い文章で締めくくっている。 教育は,われわれが世界を愛して(we love the world)世界に対する責任を引き受けるかどうか, さらには更新(renewal)なしには,つまり新しく若 いもの(new and young)が到来せぬ限り,破滅を 運命づけられているこの世界を救うかどうかが決ま る分岐点である。教育はまた,われわれがみずから の子どもを愛し(we love ourchildren),かれらを われわれの世界から追放してかれらの好き放題にさ せたりせずに,あるいは何か新しいもの,われわれ が予見しえないものを企てるチャンスをかれらの手 から奪うこともなく,むしろ,共通世界を新しくす る使命(task ofrenewing acommon world)に対す る準備を前もってかれらにさせるかどうかを決める 分岐点でもある。(CE: 193=264) 上記のアレントの論述からは,教育において大人 が担うべき責任として,大別して二つの責任の所在 を読み取ることができる。それは子どもの「新生」 の可能性を守ること,そして子どもを「世界」へと 導くことで「世界」の「更新」の可能性を守るとい う,子どもと「世界」に対して大人が担うべき二つ の「責任」である。 アレントは,「世界」の存続とは何にもまして子 ど も の「新 生」,す な わ ち,「あ る が ま ま の 世 界 (world asitis)」に「介入し,変革し,新しいもの を 創 造 し よ う」と す る「人 間 の 思 考 と 行 為 の 力 (powerofhuman thoughtand action)」(CE: 191= 262)を守り育てることに賭けられていると強調し て い る。な ぜ な ら ば「世 界」と は,「死 す べ き 者 (mortals)によって創られるがゆえに消耗するので あり,また,世界はそこに住まう者(inhabitants) が絶えず入れ替わるために,かれらと同様に死すべ きもの(mortal)となる危険を伴う」(CE: 189= 259)からである。「世界の創造者とそこに住まう者 の 死 す べ き 運 命 に 抗 し て 世 界 を 保 存 す る (preserve)ために,世界は絶えず新たにはめ直され なければならない(setrightanew)。……つねにわ れわれの希望は各世代がもたらす新しいもの(new which every generation brings)に懸かっている」 (CE: 189=259)。それゆえに,教育において大人が 果たすべき「世界に対する責任」とは,第一に,そ のまま放置すれば破滅の危機に瀕する「世界」を, 不断の「更新」によって活性化させ持続させること ができる子どもの「新生」の可能性を「守る」こと だと言える。 しかしながら,アレントにとって子どもと「世 界」の関係とは,前者が後者を「更新」することで その持続を保障するという肯定的な関係性において のみ捉えられているわけではない。彼女も言うよう に,大人が教育において果たすべき二つの責任,す なわち「子どもの生命と発達,および世界の存続」 に対する責任は合致するどころか,むしろ「両者は 相互に対立する」(CE: 182=250)。「新生の逆説」 として先述したように,子どもの側から見れば, 「世界」とは子どもたちを特定の社会的表象によっ て一義的に規定してしまうという意味で脅威である。 逆に「世界」の側から見れば,子どもの「新生」と
は,「世界」そのものを破壊しかねない脅威でもあ る。なぜならば,子どもの「新生」が何をもたらす のかについては,「世界」も当の子どもにも予見で きないからである。子どもは,「世界から破壊的な ことが何一つふりかからないように特別の保護と配 慮(specialprotection and care)を必要とする」が, 他方,「世界」もまた「世代交代のたびに世界を襲 う新しい者の攻撃(onslaughtofthe new)」,すな わち予測不能な子どもの「新生」の介入によって, 「荒廃させられたり破壊されたりしないように保護 (protection)を必要とする」のである(CE: 182= 250)。そしてこの点に,子どもを「世界」へと導く ことで,「更新」を通じた活気に満ちた「世界」の持 続の可能性を「守る」という,大人が果たすべき第 二の責任が要請されるのである。 アレントにとって子どもとは,「世界」を「更新」 する可能性を秘めた能動的な存在である一方,「新 参者」ゆえに「世界」の在り様を熟知しておらず, みずからを導いてくれる大人の「権威」を必要とす る受動的な存在でもあった。親や教師といった大人 たちは「教育者(educator)」として子どもと対峙し, これから大人と共有することになる「あるがままの 世界」─彼ら彼女らから見れば「更新」の対象で もある「旧い世界」─の在り様を子細に「教える」 ことを通して,子どもを「世界」へと導かなくては ならない(CE: 186=255)。「教育者の務めは,旧い ものと新しいものを和解させる(mediate between the old and the new)」ことなのである(CE: 190= 260)。無論,子どもの「新生」の可能性を守ること は,子どもたちが勝手気儘に「世界」を「新しく」 造り替えるのを容認することではない。大人は「教 育者」として子どもを「世界」に導く際に,彼ら彼 女らから見れば「更新」の対象である「旧い世界」 の在り様を破壊してしまわないように「権威」をも って教え諭さねばならない。「世界」とは,そのま ま放置されれば消耗し解体してしまう脆い存在であ る。他方,子どももまた,「世界」の「新参者」であ るがゆえに「特別の保護と配慮」を必要とする傷つ きやすい存在である。教育とは,「世界」と子ども という脆く傷つきやすい二つの存在を「保守」する 営為であると言える。なぜならば「世界」とは,大 人と子どもが共有しともに生きるための唯一の空間 だからであり,子どもとは,「世界」に「介入し,変 革し,新しいものを創造しよう」と試みることで, 破滅の危機に瀕する「旧い世界」を「更新」によっ て救済する可能性を秘めた「新しい」存在だからで ある。 本節ではここまで,「世界に対する責任」への応 答を主題としたアレントの教育的「権威」論につい て考察してきた。子どもの教育において大人が担う べき「世界に対する責任」をめぐる彼女の議論を通 して,「統合教育」政策の背景をなした「進歩主義 的」教育はもとより,専ら「過去」への態度や「権 威」を重視する傾向がある同時代の「保守主義的」 教育論とも様相を異にする,子どもの「新生」を通 じた「世界」の再生と持続を本質的課題に据えた, アレント教育論の独自性が浮上してくるように思わ れる。アレントは,「どの子どもにもある新しく革 命的なもの(new and revolutionary in every child) のために,教育は保守的(conservative)でなけれ ばならない。教育はこの新しさを守り(preserve), それを一つの新しいものとして旧い世界に導き入れ (introduce)ねばならない」(CE: 189=259-60)と 論じているが,彼女が教育を通して守ろうとしたの は,「新参者」として「世界」に到来する子どもの 「新生」の可能性であり,それと同時に,子どもの 「新生」を媒介とした不断の「更新」に基づく「世 界」の持続的存立の可能性であった。 アレントが用いる「世界」概念には,彼女独特の 多義的意味合いが含まれており,往々にして解釈者 たちを悩ませてきたが,アレント教育論の観点から 見ると,彼女の「世界」概念に内在する重要な特徴 の一端が明確になるように思われる。アレントにと って「世界」とは,いかなる意味において「保守」 されるべきものだったのか,この点に着目すること で,同時代の「進歩主義的」教育および「保守主義
的」教育論を批判する,彼女の「保守的」とされる 教育論の真意とそこに秘められた固有の洞察の所在 が明らかになるのである。アレントがその教育論に おいて守ろうとした「世界」とは,以下の二点の特 徴を有する概念だと言える。 第一に,それは,大人と子どもという異なる世代 の人間たちによって「共有」されるべきただひとつ の「共通世界(common world)」だということであ る。この点に,同時代の「進歩主義的」教育に対す るアレントの批判の論拠が存在する。「新しい」存 在である子どもへの期待という点で共通認識を有し, なおかつ,人種間の融和と共生を目指そうとしたそ の高邁な教育理念に賛同しつつも,アレントが, 1950年代アメリカ社会における「統合教育」政策の 背景をなした「進歩主義的」教育を批判したのは, 子どもの「新しさ」を,「共通世界」の再生と持続と いう課題へと接続させる視座ないし発想が不足して いることを看取したからであった。子どもたちが導 かれるべき場所は,大人の「世界」から自立した 「子ども(だけ)の世界」ではなく,あくまでも大人 たちと共に生きる「世界」なのである。 第二に,この「共通世界」とは,「死すべき者」で ある人間たちによって創られるがゆえに,人間の生 命の有限性と同様に,時間の経過とともに消耗し解 体してしまう脆い存在であり,それゆえ,新たな世 代の人間たちによる「更新」を通じてのみ持続的に 存立しうるということである。先述したように,ア レントにとって「世界」とは,「けっしてあるがまま にとどまることなく,誕生(birth),つまり新しい 人間の到来(arrivalofnew human being)によって 絶 え ず み ず か ら を 更 新 す る(renews)人 間 社 会 (human society)」(CE: 182=249)を意味するもの であった。この点に,同時代の「保守主義的」教育 に対するアレントの批判の論拠が存在する。たしか に,子どもの教育を通じて「旧いものと新しいもの を和解させること」を「教育者の務め」と見なし (CE: 190=260),この目的のために,「過去」への 態度や「権威」を重視する点では,両者の認識に共 通点が見出せる。しかしながら,アレントの立場か らすれば,「保守主義的」教育は,旧いものと新しい ものを調停する際に,「旧い世界」の保持を重視す る一方で,それを「更新」する子どもたちの可能性 を承認できない。 アレントが守ろうとしたのは,「旧い世界」もし くは「あるがままの世界」それ自体ではない。彼女 は,現に存在する「旧い世界」だけを保持するとい う意味での「保守的」態度とは,結局のところ,不 断の「更新」に基づかない限り持続しえない「世界」 を消耗させ破滅させるだけだと批判している。「た だたんに後先考えずに耐えているだけでは,時の流 れに呑み込まれ,破滅するしかない。……それでは, われわれがすでに至るところでその脅威にさらされ ている世界疎外(estrangementfrom the world)を 強めるだけである」(CE: 191=262)。「保守主義的」 教育論者が重視する,世代を超えて継承されるべき 理念や価値観も,「教育者」によって一方的に「伝 達」されるだけでなく,新しい世代の子どもたちに よる「更新」がなされてこそ,活力ある形態で「世 界」のなかに保存されうる7)。アレントが守ろうと したのは,既存の「旧い世界」そのものではなく, 子どもの「新生」を通じた不断の「更新」を経るこ とで,その都度新しく再生される,活気に満ちた 「共通世界」の持続的存立の可能性であった。 このように,教育の本質的課題を,「世界」を「更 新」する子どもの「新生」の可能性を育むことを通 して,そのような絶えざる「更新」の契機を伴って はじめて可能となる,活力ある「人間社会」として の「世界」の持続的な存立を守ることに見出してい た点に,同時代の「進歩主義的」教育や「保守主義 的」教育とも異なる,アレントの「保守的」と目さ れてきた教育論に固有の思想的洞察が看取できるの である。
4.アレント教育論における「私的領域」概念 の「積極的」意義 アレントの教育論には,前節で考察した教育的 「権威」論とともに,「私的領域」論が重要な論点と して位置づけられている。先述したように,アレン ト教育論の主眼とは,子どもの「新生」を通じた 「世界」の再生と持続であったが,この時注目すべ きなのは,「新参者」たる子どもたちが,「世界」を 「更新」する「新生」の能力を損なうことなく発達さ せるために必要なのは,政治的闘争の空間である 「公的領域」とは明確に区別された安全な庇護的空 間であることを彼女が重視していた点である。それ ゆえ,アレント教育論の思想的含意を理解するため には,彼女の教育論を「権威」概念のみならず,「私 的領域」概念との関連性から読み解く必要がある。 本節では,アレント教育論の思想的含意との関連で 相補的関係性を有する「私的領域」概念の「積極的」 意義として以下の三点を指摘したい。 第一に指摘したいのは,アレントの教育論におい て「私的領域」とは,子どもの健全な成長と発達の ために必要とされる「安全な場所」として把握され ているということである。 子どもは世界から保護されねばならない以上,か れらの伝統的な場所は家族(family)─大人たちが 外の世界から日々戻り,四つの壁で囲まれた私的生 活の安全に退きこもる(withdraw into the security ofprivate life within fourwalls)─のうちにある。 人びとがその内側で私的な家族生活を送る四つの壁 (fourwalls,within which people’sprivate family
life)は,世界に対する,とりわけ世界の公的側面に 対する防護壁(shield)をなしている。壁は安全な 場所(secure place)を囲い込んでいるのであり,そ れなしにはいかなる生き物も成長できない。(CE: 182-3=250-51) アレントは,「私的領域」を,「家族生活」を囲う 「四つの壁」,または「世界の公的側面に対する防護 壁」として捉え,そこに積極的な存立意義を見出し ている。「四つの壁」として隠喩的に表現される 「私的領域」とは,彼女にとって,「共通の公的世界 (common publicworld)で行われる一切の事柄だけ でなく,そこで公的に見られたり聞かれたりするこ とからも身を隠すための唯一の場所(only reliable hiding place)」なのである(HC: 71=101)8)。この ようにアレントにおいて「私的領域」とは,公権力 の恣意的な介入や,社会の画一的な価値評価,さら には見知らぬ他者の好奇の眼差しといった「世界の 公的側面」からもたらされる様々な脅威を遮断する ことで,「他者の侵入を拒絶できる空間」,または 「他者の視線にさらされることのない」生活空間と して存立するものなのである(金 2011: 119)。この ような「世界の公的側面に対する防護壁」として確 立された「安全な場所」である「私的領域」の存立 こそは,とりわけ「特別の保護と配慮」を必要とす る子どもたちにとって,「生き生きとした発達と成 長に必要な条件」(CE: 183=252)だと言えるだろ う。このように,アレントの教育論において「私的 領域」とは,子どもの成長と発達に必要な基本的条 件を保障するための「空間」論として「積極的」な 意味において構成されているのである。 これと関連して第二に指摘したいのは,アレント が自身の教育論において,「家族」とともに「学校」 も「私 的 な 前 政 治 的 領 域(private pre-political realms)」に位置づけていることである(CE: 187= 256)。アレントが「学校」を,「家族」と同様に「私 的な前政治的領域」に位置づけている点は,彼女の 教育論における解釈上の争点でもあり,この点につ いて,教育の公共性やシティズンシップ教育を重視 する論者は,「学校」を「家族」の「私的領域」に 位置づけるアレントの見解を批判し,むしろそれを 彼女が言う意味での「公共空間」─将来の「市民」 を育成するための空間─として捉え直すべきこと を主張している。しかし,アレントにおいても子ど
もとは,たんに「私的領域」において保護されるだ けの受動的な存在として一面的に捉えられていたわ けではない。彼女も子どもを,「共通世界を新しく する使命」(CE: 193=264)を担う将来の「市民」と して捉えており,それゆえ「学校」での教育を通じ て「市民」としての資質や能力を涵養する必要があ ることを認識していた。たしかに,教育の公共性や シティズンシップ教育を重視する論者の批判も理解 できるが,ここで重要なのは,「学校」の公共的意義 を認めつつも,それでもなお「学校」を「家族」の 領域と同様,「私的な前政治的領域」に位置づける ことを重視した彼女の意図を理解することだろう。 アレントが「学校」を「私的領域」に位置づけた のは,「学校」という教育空間が,「家族」の庇護的 空間とともに公的・社会的領域に対する「防護壁」 として子ども(学生)を保護する役割を担う点を重 視していたからだと考えられる。アレントの教育論 において,子どもとは,将来の「市民」として「世 界」を「更新」する能動的存在として捉えられてい た。しかしながら,J・B・エルシュテインの用語を 借りるならば,子どもや学生は未だ「見習い市民 (apprenticeship)」(Elshtain 1995: 281)というべき 立場にあることにもアレントは自覚的であった。 「世界」を「更新」する子どもや学生の能動性を涵養 するためには,「家族」や「学校」といった「私的な 前政治的領域」に位置づけられた保護的空間を保障 することが,とりわけ重要な教育的課題だと彼女は 認識していたのである。「家族」のみならず「学校」 をも「私的領域」に位置づけることで,子どもの 「新生」の可能性を守り育むための庇護的空間を十 全に確立することは,「世界」の再生と持続を主眼 とするアレントの教育論にとって不可欠の条件だっ たのである9)。 第三に指摘したいのは,アレントが,「自分たち の子どもを適切と思う方法で育てる両親の権利は, プ ラ イ ヴ ァ シ ー を 守 る た め の 権 利(right of privacy)であり,家庭と家族のものである」(RLR: 211=272)と述べ,子どもの教育では,「私的領域」 の「特異性と排他性の規則(rules of uniqueness and exclusiveness)」(RLR: 208=269)が優先され るべきだと強調している点である。
子どもはまず何よりも,家族と家庭(family and home)に属する存在である。ということは,それ ぞれの家庭に特有の排他的な雰囲気(atmosphere ofidiosyncraticexclusiveness)のもとで育てられる し,育てられるべきだということである。こうした 独特の雰囲気こそが,それぞれの家庭というものを つくり出すのである。この雰囲気は強く確固とした ものでないと,社会的領域の要請や政治的領域の責 任から子どもを守ること(to shield)ができないの である。(RLR: 211=272) 子どもの「新生」の可能性を守り育むうえで,学 校教育に先立つ「私的領域」での「家庭教育」はい かなる役割を果たすことができるのか。この点につ いて,残念ながらアレントはこれ以上充分な議論を 展開していない。そこで以下では,子どもの教育に おける「私的領域」の役割をめぐって提起された教 育学者の見解を参照しつつ,アレント教育論の思想 的含意を「私的領域」との関連から読み解いてみた い。 宮寺晃夫は,「家庭(私的領域)」において子ども の「自由を育てる」ことの意味について,以下のよ うな示唆に富む見解を提起している。宮寺が注目す る「家庭で育てられる『自由』」とは,「外部から危 害が加えられることから守られている状態」を保つ ことであり,それはまた「親と家族の庇護のもとで, 子どもの性向が内側から発露してくる状態を保つこ と」である。宮寺は,安定的な保護的環境を提供す ることで,子どもたちが潜在的に保有している独自 の「能力や性格」が「内側から発露する」のを保障 することに,家庭の「枢要な機能」を見出しており, 「そうした安定した庇護を受けることなしには,自 律性も多面的な思考力も批判的能力も芽生えてこな い」と指摘したうえで次のように論じている(宮
寺 2009: 94-5)。 親子間の相互的で自立的な関係が,外部からの介 入や,外部への同調から一貫して護られているから こそ,子どもの性向は自由に発現できるのである。 家庭内の保護的自由は,公共領域で自らの意思を実 現していく活動的自由に直接つながるものではない し,それを促すのが家庭の第一義的な使命でもない が,傷易的(vulnerable)な存在である子どもを公 共領域の諸要求から保護すること自体に,家庭の役 割がある。(宮寺 2009: 95) 上記の宮寺の論述から読み取れるように,教育に おいて「私的領域」が担うべき役割とは,子どもの 「自由」を「育てる」こと,すなわち,個々の子ども たちに独自な「能力や性格」が内発的に発現するの を守り育むことである。たしかに,「私的領域」が 守り育む子どもの「自由」とは,「公的領域」におけ る「活動」を通じた「自由」と直ちに同一視できる ものではない。しかしながら「私的領域」とは,子 どもが潜在的に保有する自律的な思考や行為が発現 するための不可欠の基盤である,内発的な「自由」 を保護し育成するという意味において,「公的領域」 における「活動」の「自由」を実現するための重要 な条件として位置づけられるのである。 これと関連してさらに着目したいのは,アレント が「私 的 領 域」を,「個 人 的 な 誇 り(personal pride)」と い う「人 格 的 な 統 一 性(personal integrity)」にとって不可欠の個人的感情を保護し育 成する空間として重視している点である。彼女によ れば「誇り」とは,「誰に教えられたわけでもなく自 然に感じるアイデンティティ(natural feeling of identity)であり,それは偶然にも私たちが誕生とい う出来事(accidentofbirth)を経験したために自分 に感じている感情」を意味しており,「誰かとの比 較によって生まれるものではなく,劣等感や優越感 とも関わりのないもの」だと述べている(RLR: 193 =255)。アレントが「誇り」という概念で提起して いるものの内実とは,田中智志が論じたように, 「私的領域」における肯定的な親子関係の構築を通 じて,子どもたちが抱きうる「自己肯定・自尊感 情」と関連づけて捉えることができるものではない だろうか。 田中は,「私的領域」を,子どもが「生きることそ れ自体の存在論的価値」が受容され肯定される空間, さらには,子どもの「自己肯定・自尊感情」を涵養 することができる空間として積極的に捉え直すこと を主張している(田中 2009: 374-5)。子どもは, 「保護者との肯定的な関係性に満ちた生育過程」を 経験することで,「世界を肯定する感情,自己を肯 定する感情の原型を形成し,この肯定性の原型が, 新たな他者との(肯定的な)関係性を繰りかえし経 験するなかで,自明性として確立」することができ る(田中 2009: 373-4)。つまり,「私的領域」にお ける肯定的な親子関係を通じて醸成されうる子ども の「自己肯定・自尊感情」とは,「他者」および「世 界」を信頼し肯定するという,政治的行為者に要請 される倫理感覚の涵養に寄与するものだと言えるの ではないだろうか。子どもは,「私的領域」におい て親に深く愛されたという存在論的経験を基として, 「自己」を肯定する「誇り」の感情を抱くことができ る。そしてこの「自己肯定」感とは,「他者」および 「世界」を肯定しようとする意志の源泉でもあると 言えるのである。 「誇り」をめぐるアレントの議論と,子どもの「自 己肯定」感の形成に関する田中の考察を接続させる ことで提起できるのは,「私的領域」とは,子どもの 「自己肯定」感や「自尊感情」を涵養することを通し て,「他者」および「世界」の存在を肯定するという, 政治的行為者が備えるべき基底的な倫理感覚を形成 しうる空間として積極的な意味において捉え直すこ とができるということである。 ところで,今日私たちが直面しているのは,他な らぬ「私的領域」そのものが,子どもの「誇り」や 「自己肯定・自尊感情」を毀損しているという教育 的事実である。この問題について,アレント自身は