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「経済学」と「経済」教育の乖離 その6 : 「経国済民」と「貨殖」を対立とする「単純化」の研究 利用統計を見る

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山梨大学教育学部紀要 第 31 号 2020 年度抜刷

「経国済民」と「貨殖」を対立とする「単純化」の研究

A Gap between Economics and Social Studies Part6

宇 多 賢治郎 UDA Kenjiro

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山梨大学(教育学部 准教授)、kuda@yamanashi.ac.jp  筆者 Web ページ:http://www.ccn.yamanashi.ac.jp/~kuda/

 本稿の執筆の際、本学部皆川卓教授には、西洋史を専門とされる立場から貴重な意見をいただくなど、執筆の際は大変お 世話になった。ここに記して感謝申しあげる。 2 根井(2005)、p.15。

「経済学」と「経済」教育の乖離 その6

「経国済民」と「貨殖」を対立とする「単純化」の研究

A Gap between Economics and Social Studies Part6

宇 多 賢治郎1 UDA Kenjiro キーワード:立場、方便、修辞、条件、安近短 要旨:本稿は、社会を形成する各人の「立場」に注目し、「立場」がもたらす「執着」に よって、社会の実態把握が妨げられることがあることを説明する。例えば、経済辞典や 高等学校の政治経済の教科書などで、18 世紀のイギリス経済から作られた経済理論が説 明される場合、過去形で書かれている。そうでないとしても、歴史で習った内容を見返 すなどの方法により、当時と現在の社会構造が異なることは確認できるはずである。そ れにもかかわらず、その理論を絶対普遍の法則であり、21 世紀になっても理想としなけ ればならない、という主張がされることがある。本稿では、このような「執着」が、学 術的、科学的な根拠に基づくものではなく、社会の発展による巨大化、巨大化した社会 の内外で主に貨幣を介して行われる分業の細分化、分業による専門化がもたらす「立場」 によることがあることを確認する。 1.はじめに

A. D. Lindsay The expert has to be sensitive to public opinion; the ordinary man has somehow to discuss with some understanding of what the experts' proposals amount to.

 筆者は、教育学部で社会科の経済を教える立場にある。そのため、経済学部などで説明される経済 学の基礎理論と、社会科における公民教育で教える経済の内容に乖離があり、その乖離を説明するた め、その解明を研究テーマの一つにしている。  本稿では、過去の経済構造や思想の説明が、社会的条件の異なる現在の理想や手本とすべきもので あるという主張がされる理由を、社会科の公民教育の内容からほど遠い、市場の理論を例に検証す る。経済学の理論が背景に当時の状況や地域性などがあることを、経済学史の立場から説明している ものに根井(2005)がある。その冒頭で、「高度な数学や統計学を駆使し、容易に素人が近づけない ような学問になってしまった」経済学に対し、経済学の歴史を学ぶことで、盲信の危険性を防ぐこと を説いている2  本稿は、この説明を無批判に援用し、一部の経済理論を「過去のもの」、「焼き直し」と決めつけ、 無意味と断じるようなことはしない。あくまで社会科公民の経済教育を考える立場から、専門家では ないそれ以外の大勢の人たちが理解し、生活する上での方針とするべき内容として適切であるかを検 証する。そのため本稿では、根井(2005)の表現を借りるなら、「科学的装備を凝らして」18 世紀の

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経済理論の「焼き直し」が、一部の人たちによって 21 世紀になってもされる理由を説明することを試 みる。  そのため、まず基礎理論が、現実を単純化した「理想型」であることを確認する。次に、その「理 想型」を現実との適応性を無視して、そのまま用いることによって生じる経済教育上の問題を明示す る。最後に、そのような「方便」として用いなければならない「立場」や「状況」を説明する。  一方、社会科の公民教育で教えるための概念を、言葉本来の定義を確認することで整理し、宇多 (2021)に「ノート」としてまとめた。この「ノート」と本稿は補完関係にあるため、併せてお読み いただければと考えている。また、このような整理を行うため、本稿や宇多(2021)の説明には、こ れまでの論文と重複する箇所があることを、お断りしておく。 2.前提:科学的説明が成立する条件の確認 2-1.牛乳パックの容積計算例が示す教訓  まず、「当たり前」なことを「確認」することから始める。本稿で確認する「当たり前」は、科学 的な「法則」とされるものには、それが成立するための「条件」があり、その条件に適さない場合 は、その法則が通用するとすべきではないことがある、ということである。  以下は、この「条件」を示す例として、ニュースから抜粋したものである3  きっかけはある小学校の先生が算数の授業で子どもたちに出した問題:「牛乳パックに入って いる牛乳の量は?」というものだっだ。その中で取り上げられたのが、一般的な1リットルの牛 乳パックの大きさ。縦と横の長さは 7 センチで、高さは 19.5 センチだ。これをもとに3つの辺を 掛けて入る牛乳の量を計算すると…約 955 立方センチ。つまり 955ml しか入らないというのだ。 (略)実はこの謎について、日本乳牛協会が説明をしている。それは、「牛乳をパックに入れると 中に圧力がかかり、膨らむ。そのため、パックは 955mlでも、膨らみの分だけ量が増え、1リッ トル入る」というのだ。  この説明から得られる教訓はいろいろあろう。しかし、今回は「条件」を無視した普遍化は、誤解 につながるということに着目する。  この説明にある容積計算と実際の容量の一致が成立する「条件」は、「容器が変形しない」ことで ある。しかし、紙パックの場合、中に入れた液体の圧力によって本来の形状を維持できずに膨らみ、 容積の「計算を正しく行うことで求めた値」よりも容量が増えてしまい、体積計算の結果と一致しな くなってしまう。  なお、この乖離が「問題になる」とは限らないことにも触れておく。消費者の「立場」からすれば、 問題は「計算結果と計測した容量と一致しない」ことではなく、「1リットルと明記しているのに、 実際はそれに満たない」ことであろう。一方、牛乳の生産者からすれば1リットルを超えることは望 ましいことではないのだから、1リットルに近づける努力が続けられることになる。 2-2.『学問のすゝめ』の目的と成立条件  前項の例は、単純かつ日常的な事柄であるため、「条件」の検証も比較的容易である。しかし、例 えば本稿が対象とする「経済学」の場合、その分析対象の巨大さ、複雑さから検証や説明が困難なた め、「仮定」、「仮説」を設け、「そういうこと」にして論を立てなければならないことが多々ある。 3 1リットル牛乳は実は1リットルない? 小学校の算数授業がきっかけで物議 より、要点の一部を抜粋

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 そこで本節では、ある因果関係「条件」を確認する。  まず『学問のすゝめ』の初篇における「目的」と、その達成に必要な「条件」を確認する。以下 は、福沢・小幡(1872)の引用である4  「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。(略)されども今、広くこの人間 世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあ り、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。(略)されば賢人と愚人 との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。(略)人は生まれながらにして貴賤・貧富 の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人とな り下人となるなり。  この文では、賢と愚、富と貧、貴と賎といった人の違いは「学問」によって生じる、と説明されて いる。ただし、学問であれば無条件に推奨しているわけではなく、以下の「条件」を示している。  学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世 上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法な るものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあら ず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれ なり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩す ならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間 に合わぬ証拠なり。  されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学な り。  つまり、「実学」が「条件」であると説明している5  また、これ以降は例示が続き、その中に「経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるも のなり。」という説明がある。  本稿では、宇多(2021)の説明を踏まえ、また本稿の説明との関係を示すため、以下のように訳す。  経済学とは、個人や家庭規模の「貨殖」から国家の「経国済民」までを説明するものである。  訳の前半で「世帯」としか書かれていないのに、また「家政」ではなく「貨殖」を追加した理由 は、貨幣経済の度合いが高まることによる手段の目的化であり、それが分業、専門化に伴う視野狭窄 によるものであることによる。このことは、本稿を通して説明していく。これに対し、後半の「天下 の世帯」を「国家」と訳す理由は、福沢・小幡(1872)が私的に学問の習得を勧める「目的」を、次 のように説明しているからである。 4 略したのは、補足や例示などによる解説の部分である。「青空文庫」などで確認できるので、省略した箇所も一読いただきた い。 5 ただし和歌、古文、詩などは「世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきもの」ではないとしているが、 「人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども」と意義も認めつつ、まずは実学を学ぶことを説いている。この説明から わかるように、一方的に無意味と断定し、全否定するような修辞は用いられていない。

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 今の世に生まれ報国の心あらん者は、必ずしも身を苦しめ思いを焦がすほどの心配あるにあら ず。ただその大切なる目当ては、この人情に基づきてまず一身の行ないを正し、厚く学に志し、 博く事を知り、銘々の身分に相応すべきほどの智徳を備えて、政府はその政を施すに易く、諸民 はその支配を受けて苦しみなきよう、互いにその所を得てともに全国の太平を護らんとするの一 事のみ。今余輩の勧むる学問ももっぱらこの一事をもって趣旨とせり。  つまり、福沢・小幡(1872)は、今時の成果主義のように、自身が運営する学校の学生の「賢」を 偏差値や学力テストの校内平均点で示す、卒業生の「富」を就職先や年収で測るといった、「具体的」 な「ヱヴィデンス」で示せる「実績」の類を目的としていない。むしろ、因果関係を示すことが困難 な「全国の太平を護らんとする」ことを「一事」、つまり「それだけが目的である」と断じている。 また、その目的の達成のために「人情に基づきてまず一心の行いを正し」、社会的役割を達成するた めに「相応すべきほどの智徳」を備えることを説いている。  以上から、私の「賢」、「富」、「貴」という「私利」を獲得する「手段」である「学問」が、「全国 の太平」という「公益」のような「結果」に結びつくには、「実学」と「道徳」が「条件」であると、 説明していることが確認できる。  この説明を図示すると、図1のようになる。 図1 『学問のすゝめ』、第一篇の概略 図2 私の努力による、私利と公益の達成  この図1を基に、私利を追求する行動と、もたらされる結果の関係を一般化して示したものが、図 2である。図2は、一般化した図であるため、「条件」は「?」としている。これは社会の制度など 様々な状況によるため、一般化した図には記載できないことを示している。  現実の社会では、努力をしても成功するか、またそれによって私利を獲得できるとは限らない。ま た、仮に富が生じたとしてもくすねられる、盗まれる、たかられるなどの形で、努力した人の利には ならないことがある。むしろ、日常や歴史を見れば、力を持つ者が公益を損ねる形で私利を獲得して いる事実が散見される。例えば、中近世のヨーロッパの教会のように、貨殖を悪として教会への財産 の寄付を迫り、逆らえば異端審問や魔女裁判で火刑にする、また共産主義国家のように私的財産を否 定して私財を没収し、人身を迫害する、あるいは社員に給与をまともに支払わず、そのまま解雇して 踏み倒すブラック企業が存在するなど、その実例には事欠かない。

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2-3.「見えざる手」が機能する条件の比較  また、「私利」を追求する行動が「公益」につながるという因果関係の確認も必要であろう。そこ で、「私利」の獲得という行為が「公益」につながるとしている説明を検証する。経済学には「私利」 の追求により、無条件にかつ最も効果的に「公益」をもたらすとする、「神の見えざる手」という有 名な「思想」がある。そこで、この「思想」が示している「条件」を確認する。ただし、『経済辞典』 などで説明されている「神の見えざる手」と、アダム・スミスが『国富論』で言及している「見えざ る手」は異なるものであるため、それぞれの「条件」を比較する。  まず、『経済辞典』では、「神の見えざる手」を次のように説明している。  神の見えざる手 invisible hand of God (経済辞典)

 スミス(A. Smith)は各個人が市場経済において自己の利益を追求すれば、「見えざる手」の働 きにより、社会全体の利益が達成されることを主張した。「見えざる手」とは、利潤率や投資の 収益率の均等化を実現する価格メカニズムの働きを示すもので、これにより経済的資源の最適配 分が達成されると考えられた。  また、国語辞典の『大辞林』では、「神の見えざる手」を次のように説明している。  神の見えざる手 (大辞林)  市場経済の自動調節機構をいう語。経済活動を個々人の私利をめざす行為に任せておけば「神 の見えざる手」により社会全体の利益が達成される、というアダム=スミスの経済社会思想を示 す語。  これらの説明から、スミスの「主張」ないし「思想」であり、「法則」とは言及されていないこと が確認できる。また、この因果関係が成立する「条件」は「個々人の私利をめざす行為に任せておけ ば」、つまり「私利追求を放任すること」が条件であると明記されていることが確認できる。  次に、スミス(1789)の中で、一度だけ「見えざる手」が使われている箇所を、日本語訳の大河内 訳(1978)から引用したものが、次の文である6  ところが、すべてのどの社会も、年々の収入は、その社会の勤労活動の年々の全生産物の交換 価値と、つねに正確に等しい、いやむしろ、この交換価値とまさに同一物なのである。それゆ え各個人は、かれの資本を自国内の勤労維持に用い、かつその勤労活動をば、生産物が最大の価 値をもつような方向にもってゆこうとできるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々 の収入をできるだけ大きくしようと骨をおることになるわけなのである。もちろん、かれは、普 通、社会公共の利益を増進しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益 をどれだけ増進しているのかも知っているわけではない。外国の産業よりも国内の産業を維持す るのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。だが、こうすることによって、かれは、他 の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図してもいなかった 一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったということは、そ 6 以下のように続く。   社会のためにやるのだと称して、商売をしている徒輩が、社会の福祉を真に促進したというような話は、いまだかつ て聞いたことがない。もっとも、こうしたもったいぶった態度は、商人のあいだでは通例あまり見られないから、かれ らを説得して、それをやめさせるのは、べつに骨の折れることではない。   つまり、スミスの説明を踏まえれば、「社会のためだ」と、「もったいぶった態度」で強く主張することは、「社会の福祉を 真に促進」することにはならないことになる。

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の社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べて、かならずしも悪いことではない。社 会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求するほうが、はるか に有効に社会の利益を増進することがしばしばある。  この説明から、スミスの「私利の追求」が「社会全体の利益」につながる条件を、「無条件な放任」 とはしていないことが分かる。むしろ、「私利」を追求しようとするならば、意図せず「国内の産業 を維持」することになるという説明から、「放任」が「国内での生産につながる」のが「当たり前」 の状況であったこと、つまり執筆された時に想定された、ただ一国、第一次産業革命の段階に達して いた「18 世紀後半の英国」の読者には自明のため、わざわざ説明していない条件があったことが分か る。  これらの説明をまとめ、違いを図化したものが、図3と図4である。 図3 神の見えざる手 図4 スミスの「見えざる手」  この説明を踏まえれば、グローバル化した 21 世紀の日本経済で、「スミスの見えざる手」が働くか どうかは、「放任しても国内の生産活動につながる」かどうかを、確認すればよいことになる。つま り、我々が直面する現実、21 世紀のグローバル化の影響を受けている日本経済では「条件」は成立し ていないのだから、少なくともスミスが説明した「見えざる手」は、現在の日本経済では機能してい るという説明は成り立たないことになる。  これに対し、「神の見えざる手」では、ただ無条件に放任すればよいとしていた。このような違い があるのにもかかわらず、「神の見えざる手」は、スミスの「主張」、「思想」であると説明されてい るのである。 3.条件を無視することによって生じる誤解の事例 3-1.「見えざる手」を神の御手によるものとする修辞  次に、「条件」を無視するなどの修辞によって、本来の意味が損なわれる例を説明する。まず、ス ミスの『国富論』から、「見えざる手」を「抜粋」した例を紹介する7。ただし、訳が先述の大河内訳 (1978)とは大きく異なっている。そこで比較しやすいよう、大河内訳(1978)に同じ加工を行った ものを、以下に記す8 7 三浦他(2017)p.116。 8 比較すると、単に「訳し方」の違いもある。そこで、大河内訳(1978)を是とする立場は採らず、違いを示すことを目的と するものであることを明記しておく。

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9 Smith (1776)、第4篇第2章。  それゆえ各個人は、 … かつその勤労活動をば、生産物が最大の価値をもつような方向にもっ てゆこうとできるだけ努力するから、だれもが必然的に、社会の年々の収入をできるだけ大きく しようと骨をおることになるわけなのである。もちろん、かれは、普通、社会公共の利益を増進 しようなどと意図しているわけではないし、また、自分が社会の利益をどれだけ増進しているの かも知っているわけではない。 … かれはただ自分自身の安全を思ってのことである。 … そし て、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも、見えざる手に導かれて、自分では意図し てもいなかった一目的を促進することになる。かれがこの目的をまったく意図していなかったと いうことは、その社会にとって、かれがこれを意図していた場合に比べて、かならずしも悪いこ とではない。社会の利益を増進しようと思い込んでいる場合よりも、自分自身の利益を追求する ほうが、はるかに有効に社会の利益を増進することがしばしばある。  本稿が「抜粋」にならって行った加工は、次の通りである。 ・2文目の「かれの資本を自国内の勤労維持に用い、」を削除 ・4文目の「外国の産業よりも国内の産業を維持するのは、」を削除し、「かれは」を追加 ・5文目の「だが、こうすることによって、」と訳していたものを「そして、」に変更  また、削除した箇所には「…」を追加した。  これら二つの文を比較すると、削除されたのは、前節でスミスの「見えざる手」が成立するための 「条件」であると説明した「放任しても国内の生産活動につながる」の箇所であることが分かる。  また、5文目の訳し方の違いにより、説明は大きく異なるものとなる。そこで英語の原文を比較 し、確認する。そのため、まず「によって」と「そして」の意味の違いを確認しておく。  によって (大辞林) 1.動作・作用の拠点を表す。 2.動作・作用が行われる手段・方法を表す。 3.原因・理由を表す。  そうして (「そして」より) (大辞林) 1.前に述べた事柄を受けて、それに引き続いて起こる事柄を述べる。それから。 2.前件に述べた事柄に後件をつけ加える。その上。さらに。  これらの説明から、「によって」とすれば、「因果関係」があるとされるのに対し、「そして」とす れば、順序のように「因果関係」はなくてもよいことが分かる。  次に、先述の大河内訳(1978)と同じ箇所を、英語の原文で確認すると、次のようになる9

 He generally, indeed, neither intends to promote the public interest, nor knows how much he is promoting it. By preferring the support of domestic to that of foreign industry, he intends only his own security; and by directing that industry in such a manner as its produce may be of the greatest value, he intends only his own gain, and he is in this, as in many other cases, led by an invisible hand to promote an end which was no part of his intention. Nor is it always the worse for the society that it was no part of it. By pursuing his own interest, he frequently promotes that of the society more effectually than when he really intends to promote it.

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図5 「抜粋」による論理展開の変化

 この原文により、該当箇所の原文は「and by directing that」であることが確認できる10。このよう

に、強い「因果関係」が示されているのだから、「によって」と訳すのが適切であろうことが確認で きる11

 以上をまとめると、図5のようになる。

10

ただし、大河内訳(1978)では、「and」が「だが」と訳されている。

11 原文を確認することにより、両和訳では「he intends only his own gain」が省略されていることが分かる。ただし、「抜粋」で

は、前の文の「own security」を「儲けだけ」に書き換えることで補っている。

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なお、『経済辞典』の説明には「God」が使われているのに対し、原文にはなく、また「an invisible hand」と「an」がついて いる。しかし、英語でGが大文字の場合はキリスト教の「父なる神」、創造主にして唯一神を意味するはずである。また、キ リスト教の「神」の御手によるものであるのならば、「his」または「the」がつくはずである。なお、英英辞典(The American Heritage Dictionary)で確認した「invisible hand」には、スミスの原文にあった「an」も、『経済辞典』の項目名にあった「of God」もついていない。  図5から、抜粋により「かれの資本を自国内の勤労維持に用い」、「外国の産業よりも国内の産業を 維持する」状況という「条件」が「私利の追求」と「公益の達成」をつなげること、ということが無 視されることになる。また、「そして」という表現から、因果関係であるとは言及されていないこと になる。  なお、スミスの原文を見れば、本人が意図しないのにもかかわらず「公益」をもたらすことが「し ばしばある」と控えめに説明しているのに、辞書の「神の見えざる手」の説明では、「私利の追求」 と「公益の達成」に強い因果関係があるかの説明がされている12「だが、こうすることによって」「ス ミスの見えざる手」は、スミスが「意図してもいなかった」、「神の見えざる手」という説明に「なる のである」。 3-2.過去の思想を、現在の理想とする方便  次に、歴史的つまり過去の説明なのに、公民の授業や経済学といった場で語られると、なぜか時代 性や地域性を超越する絶対普遍の意味があると、錯覚することがあることを説明する。  第一学習社の『政治・経済』第2編「現代の経済」p.116には、次の説明がある。  アダム=スミスの経済思想  資本主義経済における自由競争の利点を説いたのは、アダム=スミス(英、1723 ~ 90)であ る。スミスは『国富論(諸国民の富)』(1776 年)において、重商主義政策を批判し、各人が自由 な経済活動をおこなえば、神の「見えざる手」(invisible hand)によって社会の調和が生まれる

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と説いた。また、彼は、国家は国民の経済活動に干渉せず、国防・司法・公共事業といった必要 最小限の活動に限るべきであると主張した。このようなスミスの国家観は「夜警国家観」ともよ ばれ、「安価な政府」(小さな政府)が理想とされた。自由主義の下では、企業が利潤を、家計が 効用(財やサービスを消費することで得られる満足感)を高めようと行動することで、最も望ま しい経済活動が実現する。このため、政府は民間の経済活動に保護も干渉もせず、自由放任政策 (レッセ・フェール)をとることが最良とされた。  文章が全て過去形で書かれていることから、歴史的事実をまとめたものであることが確認できる。 また、この文章を歴史として捉えれば、スミスの『国富論(諸国民の富)』の出版年は 1776 年、日本 では江戸時代後期の田沼意次が老中だった頃である。今日、田沼政治を含む江戸時代の社会形態を理 想とし、今日の手本とすべきという主張は存在しなくはない。しかし、多くの人は「昔のこと」とし て、片付けることのはずである。  しかし、根井(2005)が「焼き直し」と指摘したように、この説明にある 18 世紀の英国や欧州の状 況を踏まえて生まれた「思想」を、様々な条件の違いを説明しないまま、21 世紀の日本が見習わなけ ればならない指針であるかのように説く人がいる。そこで、この「思想」の内容を確認する。  まず、上記の「夜警国家観」の補足説明である、同教科書の「政治」p.7 の「夜警国家」の説明を 確認する。  ドイツの政治学者ラッサール(1825 ~ 64)が、自由主義国家を批判するために用いた言葉。  この説明から、スミスの死から 35 年後に生まれたラサール(ラッサール)は、「夜警国家」という 言葉を使い、「自由主義国家」、教科書の「経済」の部分では「『夜警国家観』ともよばれ」た、「スミ スの国家観」と説明されたものを批判していたことが分かる。しかし、前述の説明を読むと、逆に 「夜警国家」という表現で、当時の「自由主義」を冠した国家観を肯定しているかに読める。  そこで、教科書の説明を補足するため、重要な語句の意味を辞書で確認する。ただし、「神の見え ざる手」は2節で検証したため、本節では残る「安価な政府」と「夜警国家」を確認する。  まず「安価な政府」は、次のように説明されている。  安価な政府 cheap government (経済辞典)  自由競争による経済の調和と発展を信じ、国家は、外敵の侵入を防ぎ国内治安を維持するに とどまり、むしろその活動は必要最小限にとどめるべきであるということを理想とした、18 世 紀後半から 19 世紀前半にかけての財政思想。スミス(A. Smith)の『国富論』(An Inquiry into the Nature and Cases of the Wealth of Nations, 1776)(第5篇)の所説に代表される。ラサール(F. Lassalle)の夜警国家の思想も同義。  この説明から、「自由競争による経済の調和と発展を信じ」るとされる人たちの「理想」であった が、その「思想」は「18 世紀後半から 19 世紀前半にかけて」とあるように、19 世紀半ばには衰退し ていたことが確認できる。  次に、「安価な政府」の説明で、「夜警国家の思想も同義」であると説明していることに注目し、「夜 警国家」を調べると、次のように説明している。

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 夜警国家 state as night‐watcher (Nachtwächterstaat) (経済辞典)  第三階級(ブルジョワジー)の国家観。国家の目的はもっぱら個人の人格的自由と所有の保護 にあるとするもの。「夜警」という名称は、ラサール(F. Lassalle)の批判に由来する。  彼は上記の国家観を、「強奪、盗取を防ぐことを職分とする夜警としか国家を見ないものであ り、そこでの自由は、強者・富者の弱者・貧者を搾取する自由にほかならない」と批判した。  これにより、教科書p.7の説明と同様に、ラサールは「夜警国家」という表現を批判のために使っ ていたと説明していることが分かる。つまり、「夜警国家」という言葉を「自由主義」や「小さな政 府」と併せて理想を表す標語として使っている人は、「夜警国家」という表現をラサールが批判的に 使ったことを知らないか、その事実を無視して肯定表現であるとしていることが分かる。  また、この説明では、「第三階級」と「ブルジョワジー」が、丸括弧を使うことで同義と説明して いるため、それぞれの意味を確認する。以下は、「第三階級」と同義とある「第三身分」の説明であ る。  第三身分 (大辞泉)  フランス革命以前、聖職者・貴族とともに三部会を構成した平民身分。大商人・法学者など都 市のブルジョアをさすが、革命直前には平民全体をさして用いられた。第三階級。  つまり、この場合の「第三」とは、元々「第一」(聖職者)、「第二」(王侯貴族)ではないという 意味であり、フランス革命直前は「平民全体」を指していたのが、後に「ブルジョア」(ブルジョワ ジー)に限定され、使われるようになったことが確認できる。  次に、「ブルジョア」の意味を確認する。  ブルジョア (大辞泉) 1.中世ヨーロッパで、上層の貴族・僧と下層の労働者・農民との中間に位置した商工業者。 市民。町人。 2.近代資本主義社会で、資本家階級に属する人。↔プロレタリア。 3.金持ち。財産家。ブル。  この説明から、「第三」とは「貴族・聖職者」(第一、第二)と「農民・労働者」(分類番号の記載 なし、プロレタリア)の中間に位置することが分かる。このことから、「第三階級」と「ブルジョア」 同義とするのは、フランス革命、18 世紀末当時の、今とは異なる捉え方であることが分かる。  また、ラサールを、『経済辞典』は次のように説明している。  ラサール Lassalle,Ferdinand(1825‐64) (経済辞典)  ドイツの社会主義運動の指導者。ヘーゲル(G. W. F. Hegel)の国家観の強い影響を受けた国家 社会主義者で,1863 年に,後のドイツ社会民主党の一前身となった全ドイツ労働者協会を創設し た。「賃金鉄則」を打破するために国家援助による労働者生産組合の設立を提唱し,そのための 方策として普通選挙権を要求した。  この説明から、ラサールは「自由主義」を支持するどころか批判しており、また労働者生産組合と 普通選挙権を要求するなど、第一から第三までの階級に属さない弱者、貧者の側に立って、当時の

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図6 社会の発展に伴う「私」と「公」の分離 「第三階級」が意味する「ブルジョア」と対立していた社会主義者であったことが確認できる。  これらの説明をまとめると、「自由主義」とは言葉の響きはよいが、その実態は今日のブラック企 業のような強者、富者が、弱者、貧者から「搾取」をする際に用いるには、非常に都合の良い「方 便」であることが確認できる。つまり、「神の見えざる手」、「安価な政府」、「夜警国家」は、第三階 級(ブルジョア)が第一階級(聖職者)による宗教を使った圧力や、第二階級(貴族)という政治権 力者による束縛を受けずに、商売によって「農民・労働者」という「弱者・貧者」から搾取する「自 由」を認めろと主張するための修辞(レトリック)であることが確認できる。しかも、そのような目 的のために使えるよう、本来の意味から換骨奪胎されたものであることが分かる。 4.分業による近視と公益に対する理解の喪失 4-1.家の分離と経済の意味の二極化  ここまでは、「自由主義」と称された「思想」の実態を、関連する語句の意味を辞典の概説から確 認し、本来の意味からかけ離れた使われ方がされていることを示した。  次に、このような思想が生じる理由に、社会(国家)が発展することで、家計規模の私利の追求と 国家規模の公益の達成が分離したことがあることを説明する。  そのため、まず「家」の意味を確認する。  家 (世界大百科事典 第2版)  日本の家も西欧のファミリーも、その基本的機能は成員の生活保障にある。だからこそ血縁者 のみでなく、他人もいれる必要がでてくる。英語のファミリーfamilyの原義は家の使用人たちで あった。歴史とともに社会が安定し、生活が容易になれば、他人を必要とせず、血縁につながる 近親者の小集団に縮小してくる。しかし、家の血縁に対する考え方は国によって違う。家族  これを踏まえ、この説明で「社会」としている「国家」の発展と、それに属する「家計」の関係 を、説明したものが、図6である。  図6の左側にある「家」は、歴史の教科書で、「ムラ」、「クニ」といったカタカナ表記で書かれる ような、原始的で小規模な人間の「社会」である。しかし、社会の形態が発展すると、図6の右側の ように私利と公益のそれぞれで想定する社会、人の集団が分離することになる。例えば、福沢・小幡

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(1872)の言う「天下の世帯」である日本社会つまり国家は、人口が1億3千万人弱になるまで巨大 化したのに対し、「一身一家の世帯」の「一家」、つまり家計の規模は核家族化、少子化などにより数 人程度にまで縮小している。また、社会の構造も複雑になり、市町村が都道府県に内包するように多 層化するだけでなく、貨殖のために労働力を提供している会社、子供に教育を受けさせるための学校 など多様化し、同じ家族でも全く異なる集団に複数参加している状況になっている。  また、社会の発展には、内部での分業、役割分担が必然となる。これにより成員の役割と責任も分 割され、社会全体を捉えることが難しくなり、目先の身近で直接的な経験や体験だけでは「公」を意 識することが困難になる。そのため、教育を受けるなどの知識の習得により、残りの部分を補わなけ ればならなくなる。このような教育内容、つまり社会に参加し、その中で生活するための知識が本来 の「教養」(Liberal Arts)である。  これに対し、分業により限定的になった各自の責任を果たすために必要な知識と技能、ただしそれ らは高度化のために極めて範囲が狭くなっているものが「専門」(Expert)である。つまり、専門教育 と教養教育は、どちらも不可欠のはずである。しかし、直接的な部分には嫌でも目が向くのに対し、 それ以外のことは理解しにくくなる。これにより、専門家は「ある範囲のことだけは本当によく知っ ているけれども、常識や教養がない」と言われやすくなる。また、英語の「Society」にはない、境界 線や所属などの意味が曖昧にされた「世の中」が、「社会」の意味に加わることになる。 4-2.「経済学」の意味が示す専門性と教養の乖離  次に、専門分野である経済学と社会科公民における経済教育の違いを説明する。そのため、まず 「経済学」の意味を、経済学の専門用語の辞典である、『経済辞典』を使って確認する。  経済学 economics(経済辞典)  社会科学のうち、経済に関して研究する学問。広い意味では、人間社会における物質的生活 資料の生産と交換を支配する諸法則を研究する科学であるが、ほとんどは資本主義経済を直接 の研究対象としている。古典学派の時代にはpolitical economy(政治経済学)と呼ばれていたが、 economicsの語が、19世紀末にマーシャル(A. Marshall)たちが使いはじめて以来、近代経済学で は広く用いられるようになった。経済学の定義は経済学者ごとに異なるといってよいが、大まか にいえば、「富についての科学」(plutology)という見方と、「交換についての科学」(catallactics) という見方に分かれる。  本稿は、「経済学の定義は経済学者ごとに異なる」という部分に注目し、なぜこのような辞典とし ての存在意義が疑われるような、意味をなしていない説明をしなければならなかったのかを、これま での説明を踏まえて説明する。  そのため、次に経済学という分野が属する、全体である「科学」の意味を確認する。  科学(大辞泉)  《science》一定の目的・方法のもとに種々の事象を研究する認識活動。また、その成果として の体系的知識。研究対象または研究方法のうえで、自然科学・社会科学・人文科学などに分類さ れる。一般に、哲学・宗教・芸術などと区別して用いられ、広義には学・学問と同じ意味に、狭 義では自然科学だけをさすことがある。  この説明から、「科学」とは「認識活動」と、その結果である「体系的知識」、つまり「人の手によ

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るもの」でしかないことが確認できる。このようなことから、「科学」の成果は、神や超人によるも のではないし、またそれ故に人が盲従するものではないことが分かる。しかし、このような「認識」 に固執し、「条件」を無視して絶対普遍のものとすれば「信仰」に、またそれを正義として振りかざ すことで「カルト」に変化してしまうものであることも分かる。  しかし、人の能力に多少の優劣はあっても有限であり、それぞれの生きた時代や地域、そこでの常 識、流行りなど、「状況」に影響を受けるものである。このことから、条件を無視した普遍化を行う 際は慎重になる必要があることがわかる。また、特定の優れた業績を残した人を尊敬することと、盲 目的崇拝とは異なるものであることを理解し、注意する必要があることも確認できる。  次に、前節で説明したように「条件」を無視することが、「分業」によって生じやすくなることを 説明する。物事に対する理解が進み、高度化すれば「野」(field)を「分」ける、つまり「分野」を設 け、その範囲内のことに「集中」しなければならなくなる。そのためには、事象の一部分だけを分析 対象にしなければならないのだから「安近短」、つまり安直的、近視眼的、短絡的にならざるを得な いのである。つまり、「分業」とそれに伴う視野狭窄と、他の部分への無理解によって、専門と教養 の断絶が生じることが起こりうることが分かる。  しかし、それは検討から外した事象を無視または否定し、またそのようにして作られた「理想型」 だけで、現実を理解したことにしてもよいという意味ではない。社会科学の場合、このような強い 仮定に縛られた状況から生まれた極論を、そのまま一般人向けの教養としてしまえば、理解を損なう だけでは済まないことになる。多くの人がその理屈を真に受けてしまえば、それが社会の行動規範に なってしまうからである。  このような姿勢や行動に対し、渋沢(1927)では「論語」を学ぶことに対し、次のように指摘して いる。  論語の教えは広く世間に効能があるので、元来解りやすいものであるのを、学者がむずかしく してしまい、農工商などの与かり知るべきものでないというようにしてしまった。商人や農人は 論語を手にすべきものでないというようにしてしまった。これは大なる間違いである。  かくのごとき学者は、喩えばやかましき玄関番のような者で、孔夫子には邪魔者である。こん な玄関番を頼んでは、孔夫子に面会することはできぬ。孔夫子は決してむずかし屋でなく、案外 捌けた方で、商人でも農人でも誰にでも会って教えてくれる方で、孔夫子の教えは実用的の卑近 の教えである。  この説明の「論語」を「経済学」に置き換えてみる。すると、社会の中で自分たちの生活を左右す る、身近なことである「経済」を知ろうとする一般人を、専門知識を以って混乱させて「与かり知る べきでない」と締め出す、「やかましき玄関番」として振る舞う「邪魔者」も経済学者の中にはいる、 ということになる。  このような経済学者のそれぞれが、経済学を定義しても共通認識になるはずがなく、それを辞典に まとめることは困難であろう。それ故に、「経済学の定義は経済学者ごとに異なるといってよい」と いう説明でお茶を濁さなければならなかったことが推察できる。 4-3.ミクロ経済学と経国済民、国民益の乖離  次に、集団に属する人の直接的な私利の追求と、捉えることが困難な集団全体の「公益」の関係 を、ミクロ経済学を例に説明する。  まず、ミクロ経済学の意味を確認する。

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図7 市場のみ見ることで、捉えられなくなった要素  ミクロ経済学 microeconomics(経済辞典)  微視的経済学と訳される。個別的な家計や企業の経済行動の分析から始まって,全体としての 市場および経済の分析に至る経済学の領域。ワルラス(L. Walras)の一般均衡理論がその典型で ある。個別的経済主体の観点からは市場価格が重要な行動指針であり,価格分析が最重要の課題 となる。  「ミクロ」、日本語訳の「微視」という表現が示すように私的な関心、つまり自身の損得しか考え ない人を前提とする13。つまり、ミクロ経済学が想定する人の社会に対する理解度は義務教育以前、 よくても社会科教育以前の小学校2年生ということになる。  ミクロ経済学の基礎理論では、まず中学校の社会科の教科書にも載っている需給均衡、つまり需要 曲線と供給曲線が交差する点で価格と量が決まる、という説明がされる。  この市場における需給均衡理論では、扱われない事柄を示したのが、図7である。 13 ただし、「完全情報」を仮定する。つまり判断に必要な全ての情報を収集し、かつ理解した上で判断することができるという、 超人的能力を人が持っていることを前提とする。  図7の枠線内の白の部分が市場、つまり需給均衡で説明されている箇所、外側の灰色の部分が説明 していない部分である。  ミクロ経済学の基礎理論では、「会社」を単純化した「生産者」の目的は「利潤の最大化」、つまり 「貨殖」(金儲け)と説明される。これにより「貨殖」という「手段」を採った結果が、消費者の所得 につながっていることは無視される。  また、会社の元になった英単語「Company」に「仲間」という意味があることが示すように、これ まで説明して来た人の集団(社会)の一形態であるが、その「家」としての役割である「成員の生活 保障」も無視される。この場合の「成員」とは、創業者一族や株主など、「会社の持ち主」であり、「資 本家」に分類される人達である。この人たちには、活動の成果である「利潤」が分配される。  これに対し、労働者に支払われる賃金は費用と扱われている。これは、株主総会で説明される営業 収支、経常収支における賃金が、費用として計上されていることが示している。労働者は会社にとっ ては「家」の外の人である。  しかし、ミクロ経済学では消費者は「代表的個人」というものにまとめられる。「代表的個人」と は、要するに平均のことである。これにより、生産活動という「貨殖」の成果として生産者が得た

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14 今日は、生活に必要なもののほとんどを、金で購入する状態、つまり市場経済である。そのため、まず先立つもの、つまり 所得がなければならないというのが、ケインズの「有効需要」である。 15 筆者は「労働と資本の対立」という構図は、今日の状況を説明するには不十分であると考えている。しかし今回は、18 世紀 型の見方では、19 世紀以降の社会問題を捉えることができない、という説明にとどめる。 16 久武(1949)、p.143。ただし、旧漢字を新漢字に変更した。解説の該当部分はワルラス(1900)、p.252である。 17 根井(2005)は、ワルラスが純粋経済学と実践的な応用経済学を区別して、理論を現実に適用できるかを検討し、「適用すべ きでない」ものに土地の国有化をあげていたことなどを解説している。また、ワルラスが「マルクスやエンゲルスの科学的 社会主義とは峻別された彼独自の『科学的社会主義』」を説いていたことを説明している。 「利潤」と、生産者が「費用」と扱っている勤労者への「賃金」が合わさって、消費者の所得になっ ているという事実は見えなくなる。このことを示したのが、図7の灰色の部分、「分配の無視」、「経 済循環の無視」である。  これにより、生産者は「利潤最大化」とそのための「費用最小化」を達成しようとする、というこ とだけが説明され、今日の労働者と資本家の数の違いを考え、資本報酬を増やす、またそのために賃 金を減らすという行動が、所得に与える影響は無視されるのである14  ただし、ミクロ経済学の基礎理論の後の方では、図7の「経済循環」の方は扱われている。この説 明は、辞書の説明で「典型」として説明された「ワルラス(L. Walras)の一般均衡理論」でされてお り、教科書的な「一般均衡理論」の説明では、所得を次の式で表現している。 r K + w L  それぞれr Kは資本に対する報酬の金額、w Lは労働に対する賃金の支払額である。しかし、この式 は二つの値が合わさって所得になると説明しているだけである。つまり、「分配の無視」はされたま まなのである。  これにより、3節で示した「ブルジョア」と「農民、労働者」という名称で説明した、資本と労働 の違い、またその対立関係をないものとし、問題として扱わずに済むことになる。つまり、社会主義 運動という 19 ~20 世紀の歴史に生じた重要な出来事は、無視できることになる15。また、このような 簡略化により、18 世紀のイギリス経済をモデルにした理論を「焼き直し」程度に変更するだけで、21 世紀に持ち込み、現実もかくあるべしと主張することも可能になる。  このような条件で理論を展開することで、「自由主義」によって「神の見えざる手」が達成される という説明が構築されるのである。しかし、ワルラスのものとされるこの理論も、スミスの「見えざ る手」と同じく、本来の説明とは異なった使い方がされている。  このことを示すには、ワルラスの著作を確認する必要がある。しかし、今回は該当する原文の説明 が長かったため、それを解説した久武(1949)の方を引用する16  ワルラスは純粋経済学の見地から自由競争を一つの仮説として取り扱つて来た。(略)

 経済学者が今まで自由放任(laisser faire, laisser passer)を唱えて来たのはこの理由によるもの であろうが、不幸にして彼等はその主張の証明を欠いていた。第一に、彼等は自由競争の帰結を 明らかにすることなく、またこれに関連した事項の定義を明かにすることなくして自由競争を主 張した。第二に、彼等は自由競争を適用すべき場合と適用すべきではない場合とを明確に区別し なかつた。  この解説また原文の説明から、自由放任の効果は「仮説」であること、その証明がされずに使われ てきたのを、ワルラス本人は純粋理論としては証明したと説明していたこと、ただし現実には適用で きない部分があるということも説明していたことが確認できる17。純粋な理論とは冒頭の例では牛乳 パックの容積の計算にあたり、現実への適用とは牛乳パックのように圧力で膨張してしまい、計算結 果と異なる容積になることにあたる。  次に、ミクロ経済学などの基礎理論で数学が使用されていることの影響を説明する。数式は、単純

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明快に因果関係を示すことができる、優れた表現手段である。逆に、この表現手段を用いるために は、関係や影響を曖昧にしか示せないものは、仮定を設けて関係を「定めてしまう」か、排除つまり 検討対象から外さなければならなくなる。  例えば、需給均衡では本稿で「公益」と表現している「社会的厚生」は、本稿が「私利」と表現し ている「余剰」の合計であるとしている。これにより、基礎理論以上の内容や、公共経済学などの応 用分野で「外部効果」と表現される、他者に及ぼす影響、自然や社会の外側の影響、また協力による 相乗効果など計算が困難なものは無視されることになる18。これにより、ある「社会」、つまり「人 の集団」のことを考える際、その「成員」の行動以外の要因によって生じる様々な事柄、また集団内 の互助、互恵といった社会科の公民教育で重要としている事項は、分析対象から除外されることにな る。  また、このような数式を使った「理論」に対して、ピケティ(2014)は次のように批判している。  素直に言わせてもらうと、経済学という学問分野は、まだ数学だの、純粋理論的でしばしばき わめてイデオロギー偏向を伴った憶測だのに対するガキっぽい情熱を克服できておらず、その ために歴史研究や他の社会科学との共同作業が犠牲になっている。経済学者たちは余りにしばし ば、自分たちの内輪でしか興味を持たれないような、どうでもいい数学問題ばかりに没頭してい る。この数学への偏執狂ぶりは、科学っぽく見せるにはお手軽な方法だが、それをいいことに、 私達の住む世界が投げかけるはるかに複雑な問題には答えずに済ませているのだ。  確かに、これまで説明してきたように、経済学者の中には分かりにくい用語や理論を駆使し、専門 性を振りかざして敷居を高くし、しかし経済学の他の分野を理解しようともしないまま断定調で否定 する、学術的とは言い難い方法を用いる人がいることは否定できない事実である。ただし、このよう な行動自体は、細分化された専門分野への執着と他への無知と侮りにより行われるものであり、数学 を使わない経済学者の中にもこのような行動を採る人がいるという事実も、本稿の主旨に則り、指摘 しておく。 4-4.「公益」を考えられない「立場」に基づいた行動の例  最後に、説明を聴く側は、それ故に極論を説く者の「立場」、「そのようにせざるを得ない」状況に 立たされることがあることを説明する。  例えば、外資企業、多国籍企業のように、ある国家の公益に私利が内包されていない場合、また 「企業の社会的責任」に対する配慮に欠けた経営方針の会社があるとしよう。この場合、経営者は会 社が取引を行う市場がある国家規模の公益を損ねてでも、会社にとっての公益、つまり国家の立場か らすれば私利を得ることを優先させるであろう。  そのため、ある国の経済を豊かにするために殖産興業を行い、金の循環を増やし、結果的に私利を 増やす「損して得を取れ」式の経営的視点が必要だとしても、短期的な成果を求められれば、その ような長期的で俯瞰的な計画を採ることは難しくなる。つまり、年単位の会計で評価をされる経営の 座が安定しない経営者の「立場」では、その構想に基づいた計画を実行することは困難であろう。自 身の「立場」を守るためには、短期的な成果を上げる必要があるのだから、人員を削減し、給料を下 げ、労働環境を悪化させ、原材料の質を下げ、生じる問題や信用の失墜をものともしない、短期の利 だけを追求するブラック企業型の経営スタイルを取らざるを得ないことになろう。 18 この「外部効果」を無視することによって生じる問題は、宇多(2019)で説明している。

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19 そのような経営方法が維持できないとしても、株主は株価が下落する前に手持ちの株を売り払うだけであろうし、新聞は業 績悪化を記事にするだけのことである。 20 「国の借金」の説明で、「財政赤字」の目的、国、借金の定義等を無視し、その理由や原因の説明をせずに「借金は悪」とい う極論を以って断罪する主張の解説は、宇多(2020)を参照。  このような行動は、国家規模また長期的な会社の経済活動にとってマイナスであるとしても、短期 的には会社の株価の上昇と株主への配当を増やすことにつながる。これにより、短期的には株価が 上昇させる、株主への配当を増やすなど、企業という「集団」にとっての「公益」は増加するのだか ら、経済系の新聞や雑誌、また株価の動きにしか関心を持たなくてもよい、エコノミストや投機家の ような「立場」の人達は、その経営者を褒め称えるであろう19。また、そのような人たちを相手にす る、あるいはそれに近い思想を持つ人によって構成される学会などの集団に参加すれば、あるいはそ の会社をスポンサーにしている経済研究所に雇われれば、立場からこれを是とする「忖度」をしなけ ればならないこともありうる。  このようなことから、例えば「会社」にとっての「公益」や、自身の給料や評価といった私利のた めに動くことになれば、「経国済民」の達成は目的から外れ、「貨殖」行為は国家の公益、つまり国民 経済の目的である「国民益」とはかけ離れたものとなるのである。  また、このような「立場」にある人は、国家の公益という評価基準からされる批難をかわすため に、「自分たちは努力している」こと、またその努力は「国益」につながっている、あるいはその批 難自体が問題にするに値しない、と主張することになる。そのための「方便」としては、本稿で説明 したような、純粋理論としては極めて論理的で「理想型」であっても現実離れした極論でしかない、 微視的な視点しか持たないヒトを前提とするミクロ経済学の基礎理論や、本来の説明からかけ離れた 「神の見えざる手」、「安価な政府」、「夜警国家」といった 18 世紀の「強者・富者の弱者・貧者を搾取 する自由」に関係する経済用語が非常に適しているのである。これにより、そのような需要がある限 り、何度でも状況に合うように「焼き直し」がされて、復活することになる。  そして、このような主張を用いる「立場」からすれば、国民益は自身の主張で想定している「公 益」とは異なる、あるいは対立するのだから、実態に関係なく「国は悪」と決めつけることになる。 これにより、王侯貴族の贅沢のような「無駄遣い」と、地震や台風などの自然災害やウィルスの流 行、また国外の経済不況の余波など、政治では事前に防ぐことが困難な国難から国民を守るための 「財政支出」は、違いに関係なく同一視し、内容を見せずに「無駄遣い」と断定する論理展開がされ ることになる。  このようにして、19 世紀前半の聖職者や王侯貴族が自らの贅沢のために徴税を行い、特定の商人を 優遇するための制度に対抗するために作られた、自由放任を是とする理論は、そのまま 19 世紀後半か ら整えられていった共和制を採り、その国民の所属格差を減らし、福祉政策を行うための徴税、また 国民を危険に晒さぬよう守るための制度を、「規制」という名で貶め、不要と断じる根拠として使わ れることになる20。これまで説明したように、神と科学によって保証されているとする「神の見えざ る手」を根拠にし、あるいは「グローバル化の時代に、鎖国的な発想」といった「方便」により、国 民経済を検証し、国民益のありかたを検討すること自体、またそれを行う人を陥れるなどの手段で、 説明させない、考えさせないような同調圧力、「空気」が醸成させることになるのである。  しかし、本項の説明を踏まえれば、それは見渡すべき視野の範囲としてのグローバルと、公益の境 界線である国境の違いを混同した「修辞」でしかない。このような「方便」がされるからこそ、ある 社会の問題を検討する際は、その対象となる社会の状況を把握し、またその社会の成員の構成やウチ とヨソの境界線に対する配慮が必要になるのである。

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21 リンゼイ(1935)、p.156。 おわりに  本稿では、「条件」を無視する、また無視を強いることにより生じる歪みを説明した。確認してお くと、本稿が問題にしたのは、先人の多大な労力によって研鑽され、蓄積された「理論」や思想その ものではない。それらの先人が積み上げた成果を換骨奪胎して私利のために「方便」として用いるこ と、またそれにより現状を理解する、また改善を試みようとする活動を妨害する、学術からかけ離れ た「姿勢や行為」である。なお、本稿でミクロ経済学を題材にしたのは、社会科公民における経済教 育を確認するのに適した題材であったからに過ぎない。仮に、スミスの時代ならば宗教家や王侯貴族 によって私物化された政府を例に説明するであろう。また、20 世紀以降ならば、ノーメンクラツーラ によって私物化されたあるべき姿から外れた社会主義国家や、政治家や官僚による私物化により国民 益を無視するあるべき姿から外れた「大きな政府」を例にするであろう。つまり、これらは、用いる 「方便」の内容は異なるが、それで済ませようとする「姿勢や行為」は共通しており、本稿はそれら に共通する問題点を、今回は「神の見えざる手」を例に説明しただけである。  また、このような「姿勢や行為」に対するため、「方便」と本来の「理論」の違いを確認する必要 があることを説明した。具体的には、理論が適用できる状況であるか成立「条件」を確認すること、 説明が想定している「立場」と異なる損得勘定に基づいていないか、それを曖昧に、あるいは隠すた めに客観を装っていないかなどに注意することを、具体例を以って示した。  厄介なのは、人であるが故に、自身が頭に詰め込んだ情報量が誇れるほど多量になることで、その 自信により思考が阻害されてしまうこと、またそのことに注意を払っていたとしても、感情的に、衝 動的にそのような行動を採ってしまうことがある、という人の性である。なまじ知識があり、それに 対する誇りがあると、難しい用語をちりばめることで、自身の主張や行動の問題点に気づけなくなる のである。  そのためか、福沢・小幡(1872)は、学問をする際に道徳が必要であることを説いている。また、 渋沢(1927)も、次のように説いている。  商才も論語において充分養えるというのである。道徳上の書物と商才とは何の関係が無いよう であるけれども、その商才というものも、もともと道徳をもって根底としたものであって、道徳 と離れた不道徳、詐瞞、浮華、軽佻の商才は、いわゆる小才子、小悧口であって、決して真の商 才ではない。ゆえに商才は道徳と離るべからざるものとすれば、道徳の書たる論語によって養え る訳である。  この指摘により、今日ではほぼ「貨殖」(金儲け)、「節約」、「吝嗇」(ケチ)、「安物」といった意味 で使われる方が主流になってしまった「経済」を、公民教育で扱わなければならない理由が見えてく る。今日は社会構造が発展し、巨大化、複雑化された一方で、個人は分業と専門化という立場と役割 によって、視野狭窄になりやすい状況になっている。このような状況で、見えにくくなった全体像を 示し、考えさせる必要性が、以前にも増して高まっているからである。  しかし、このような理解を行うには、人に強制されることなく、与えられた情報を吟味し、判断を 行える状況を整え、冒頭のリンゼイの言葉を実行する必要がある。しかし、リンゼイも指摘したよう に、それは「必要不可欠のことでありながら、同時に最も難しい事柄」である21。社会科公民におけ る経済教育は、他の教養教育と同様に、この難問に挑まなければならないのである。

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参考文献一覧 宇多賢治郎(2019)「『経済学』と『経済』教育の乖離 その3 専門と教養の違いがもたらす乖離」、 『山梨大学教育学部紀要』、第 28 号。 宇多賢治郎(2020)「『経済学』と『経済』教育の乖離 その5 私と公の関係を対立と捉える考え方 の分析」、『山梨大学教育学部紀要』、第 30 号、山梨大学教育学部。 宇多賢治郎(2021)「社会科公民教育のための『私利』と『公益』の比較研究」、『山梨大学教育実践 総合センター研究紀要』、第 26 号、山梨大学教育学部附属実践総合センター。 奥野正寛(1990)『経済学入門シリーズ ミクロ経済学入門 第2版』、日本経済新聞社。 金森久雄、荒憲治郎、森口親司(編)(2013)『経済辞典 第5版』、有斐閣。 渋沢栄一(1927)『論語と算盤』、KADOKAWA。 小学館国語辞典編集部(編)(2012)『大辞泉 第2版』、小学館。 スミス,アダム(1789)『国富論 II』、大河内一男 監訳(1978)、中央公論新社。 根井雅弘(2005)「第七章 レオン・ワルラス」、『経済学の歴史』、講談社。 ピケティ,トマ(2014)『21 世紀の資本』、みすず書房。 久武雅夫(1949)『ワルラス「純粋経済学」』、春秋社。 福澤諭吉、小幡篤次郎(1872)「初篇」、『学問のすゝめ』、青空文庫。 https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html 平凡社(編)(2006)『世界大百科事典 第2版』平凡社。 松村明(編)(2006)『大辞林 第三版』、三省堂。 三浦軍三、他(2016)『高等学校 改訂版 政治・経済』、第一学習社。 文部科学省(2018)『小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 社会編』。 リンゼイ,A.D.(1935)『[増補]民主主義の本質 ―イギリス・デモクラシーとピュウリタニズム―』、 永岡薫 訳(1992)、未来社。 ワルラス(1900)『純粋経済学概論』、久武雅夫訳(1983)、岩波書店。

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参照

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