偶像崇拝の記号論(3)
A Semiotical and Historical Study of Idolatry - 3 -
滝 口 晴 生
Haruo TAKIGUCHI
2 カタコンベとドゥラ・エウロパスにおけるキリスト教図像(続き) < 善き羊飼い > がカタコンベや石棺彫像において、中心的な図像であることは間違いないが、それが キリストを表しているという意見に対して、いくつか異論がある。この図像そのものは古代の文化的 コンテクストの中で広く見られるもので、たとえば<博愛>の擬人化であると主張することもできる (Jensen 38)。しかし、新約聖書の記述によれば、イエスは自分のことを「善き牧者」(ヨハネによる福 音書 10.14) といっており、1 またイエスのたとえ話には、見つけた迷い羊を背負ってもどる羊飼いの話 がある(ルカによる福音書 15.4-7)。そのたとえ話の故に、羊を背負った羊飼いの姿はキリストと密接 に結びつけられるのも当然であるといえるであろう。またテルトゥリアヌスによれば、キリスト教徒は、 羊飼いとしてのイエスが描かれた聖餐の杯を用いていたという。 主によって探され、その肩の上で運び戻された羊のたとえ話で始めてもよいでしょう。あなた方の 杯にある絵が表に出て、その絵の中であの羊の比喩的意味が明白になるように。回復について、そ れが目指しているのはキリスト教徒なのか異教徒なのかと。(De Pudicitia Cap. 7; PL 2. 991) といい、「羊はキリスト教徒であり、羊の群れは教会員であり、善き羊飼いはキリストである」とする。2 3世紀においてもキリストを羊飼いのイメージで表した可能性を指摘している (Jensen 38)。またカリ ストゥス・カタコンベでは、天井の中心にこれが描かれている (Wilpert 33)。3 このカタコンベの半円龕 (arcosolium) には、中心部が破損しているが、中心に善き羊飼いが描かれ、両脇に水を両手で受けて急 ぎ離れている二人の人物(おそらく使徒?)が描かれている (Wilpert 42)。これなどはキリストの福音 を伝えるものであることがあきらかである。つまり、一見異教の図像をうまく利用しながらキリスト教 の図像体系の中に取り込んでいったということであろう。 サンタ・マリア・アンティカ教会にある石棺彫像(図1)には、書物を持った老人の右に羊飼い像が 彫られている。書物を持った老人は死者を表すという。そもそも老人はキリスト教の図像ではなく、3 世紀中頃にプロティヌスの影響で、死者は書物を持った哲学者として描かれた石棺が作られたという (フィネガン 501)。この老人 の左には両手を広げた女性の 姿があり、これは<祈る人> (orant) と呼ばれている像であ り、キリスト教徒の石棺にの み見られるものである。死者 を中心に、羊飼いと祈る人が 対称的に配置されていること になる。つまり、祈りと、救 いが死者の両脇に描かれていることになる。この配置は多くの石棺彫像に見られる。4 また、洗礼を受 ける裸の子供のイエスが羊飼いの右に彫られている。<祈る人>の左には、定番の図像として、陸に上 がったヨナがつる棚の下で日を避けて横たわっている。<祈る人>も、単体像としては同様にこの時代 図1には頻繁に見られ、これがなにを意味するかは一目瞭然であると同時に、当時のキリスト教徒の切なる 気持ちの表れともなっている図像であろう。 地下墓地に描かれている絵は、そのほかに、各種の動物、羊、錨、花瓶、鳩、船、オリーブの枝、しゅ ろ、パン、魚、つるとブドウであるが (Snyder 26)、多くは明らかに装飾的なものとして描かれており、 <祈る人>と<善き羊飼い>のような、きわめて具体的な宗教的象徴性を持っていない。これらは次に 述べる聖書的題材の周り、あるいは隣に配されている。 聖書を題材とする図像は、旧約からは、ノア、モーゼの泉、ヨナ、ダニエル、炉に焼かれる3人の童 子、ダニエルとライオンなどである。新約からは、イエスの奇跡であるラザロの復活、それと中風患者 の癒やし(治癒後自分の床を自分で運ぶ)、水をくむ女性、などである。 とりわけ顕著な図像は、ヨナの物語である。ヨナの物語だけは、いくつかの画面に分かれており、他 の単体の図像とは著しい違いを示している5 。なぜヨナの物語だけがこれほど、この時代のキリスト教 徒にとって意味深かったのであろうか。ヨナは神の命令を遂行することをいやがり、船に乗って逃げた が、船から落とされて、大魚にのみこまれ、そうして岸にはき出され、つる棚の下で太陽の光を避ける。 そしてそのやすらぐ姿は、エンディミオンのそれとまがうようである。ここでも異教のイメージを表面 に用いながらキリスト教徒ならば理解できる意味を潜ませているのである。 カタコンベの図像がどのような目的で使われたのかは推測するしか無いが、礼拝に用いられたことは ありえないだろう。それらの図像の粗雑さからいっても、図像そのものを礼拝するというよりも、それ が意味する記号的な機能が中心であったように思われる。従って、必要であれば、図像はいとも簡単に 毀損され、新しい埋葬者を受け入れているのである。キリストをあらわした善き羊飼いの図像ですらそ うである(Wilpert 42, fig. 17)。礼拝の対象であればそのようなことは不可能であろう。したがってそれ らの図像は、たとえばテルトゥリアヌスの言葉にも見られるように、記号を通してそれが意味すること を、記号を透過するように、理解することであったと推測する。また祈る人と善き羊飼いの図像は、ミ ラノの勅令後、姿を消す。聖書の物語からの図像、ダニエルやヨナの図像も消えてゆく。それはそれが 表していた困難からの解放と安らぎの表象がもはや必要でなくなったからであろう。「ヨナの物語をい わゆる聖書的、教父的に理解する」という本来の解釈ではない意味合いで図像が読まれていたので、そ のように読む文脈がなくなったがために、ヨナ・サイクルは消えたのである (Snyder 95)。おそらくそ のことは、ミラノ勅令後のキリスト教徒の関心の変化、すなわち逆境にあるキリスト教徒の救いという 関心からの離脱を如実に語るものであろう。 このように、それぞれの図像は、いわば独立したものとして、それが意味する内容を伝えていたので ある。したがって、それらの図像が、いわば有機的な配置を取って、ひとつのクライマックスにたどり 着くということにはなっていない。ところが、ドゥラ・エウロパスの遺跡は、単に文盲の信者に教えを 伝えるという教育的な機能ではない配置が見られ、あきらかになんらかのキリスト教儀式との関連を想 定させるものであるというのである。パグラトス (Pagoulatos) によれば、図像が儀式の一部として、有 機的な役割、つまり、洗礼という儀式の過程の中で、精神的、肉体的、物質的という総体的な完成に導 くひとつの役割を果たしていた (25)。彼は『フィリプの福音書』、『トマス行伝』、『シンポジウム』と いうグノーシスの文書と関連させることで、ドゥラ・エウロパスの施設が、儀式の一部として図像が使 われていたことが証明されるという (52)。そして、そこで行われた儀式は「ある特定の宗教的共同体 による神との完全一体化の意識的な試み」であったというのである (53)。つまり、ドゥラ・エウロパ ス洗礼堂は、キリスト教公認前の、図像を用いたイニシエイション儀式の希なる例であり、いわば東方 における図像愛的 (“Iconophile”) 儀式のもっとも早い例であるということになる (73)。 この洗礼堂の構造を見ると、ドーム状の屋根があり、その下に洗礼槽、その真上に<善き羊飼い>が
中心として描かれている (75)。つまり、シンボリックには、宇宙の中心に<羊飼い>がいて、そこに 入信者は向かう構造になっている。それは当時の多くの異教の神殿にも見られる構造でもある。入信者 が南側の入り口(2つある)から入ると目の前には、捧げ物をもった女性が墓へと向かっている。さら にこれらの図像の上の壁には、水の上を歩くイエスと、癒やされた中風患者の図像が見える。墓の隣に は洗礼槽がある。そこからさらに眼を南に移すと、つまり入ってきた方向に向き直ると、洗礼槽の左隣 に、井戸の水をくむ女性、中央の両戸口の間にダビデとゴリアテの図像が描かれている。これらの図像 は、罪の浄め、洗礼、そして奇跡的な救いを意味しているだろう。ダビデとゴリアテは、やや異質だ が、神の超自然の力が働いた例なのであろう (Grabar 20)6 。そうしてもう一度洗礼槽の方に眼を戻すと、 その上のアーチの部分に羊の群れとともに<善き羊飼い>が描かれているのである。さらにその下に小 さくアダムとイヴが描かれている (Pagoulatos 39; Jensen 87)(図2)。つまり、「原罪と贖罪という根本 教理を表している図像がその置かれる場所によって中心とされている」のである (Grabar 20)。これら の図像と儀式との関係はグノーシスの考え方を色濃く表しているという。 洗礼、聖油、聖餐は、水、油と衣装、水とぶどう酒という物質的で可視のそれぞれの要素とともに、 香と光という要素も含めて、聖なる知識を伝える媒介物となるのである。これらの図像ははしごに たとえられ、それによって物質世界が神聖世界へと昇るのである。(Pagoulatos 78) ドゥラ・エウロパスは、ひとつの目的をもって建造されたものな ので、このような配置が可能であったのであろう。そしてその図 像の選択においても、はっきりとした意図がうかがえる。それは カタコンベの図像との類似と差異をはっきり示していると言え るだろう。というのも、カタコンベには必ず見られる、<祈る人 >も、あれほどポピュラーなヨナの図像もない。つまり復活に関 わる図像が、<善き羊飼い>を除いて、ないということである。 ドゥラの図像が洗礼を中心に据えたものであるとするならば、カ タコンベの図像は、聖餐と復活であるかもしれない。パンと魚、 葡萄酒の図像は、聖餐を意味すると同時に、当時の習慣としての 死者との会食をも表している (Snyder 29, 51)。カタコンベには座るための石台がしつらえてある。これ らの図像を眺めながら、来るべき善き世界を初期のキリスト教徒は思い描いたのであろう。キリスト教 徒が、図像を用いたとしても、そこには崇拝的な要素は感じられないのである。 4世紀には、キリスト教はコンスタンチヌス大帝によって公認された。コンスタンチヌスは、キリス ト教のシンボルを掲げて戦いに勝利し、権力を掌握したのであるが、キリスト教は、帝国と一体化する ことで、またその図像の有り様も変わっていく。その最初の変化を示しているのは、玉座に座す皇帝の 頭に、空から神の手がさしのべられている図像であろう。ここに表れているのは「天上の帝国の反映と してのキリスト教徒の帝国という観念」であるという (Grabar 40)。そしてそれはローマ帝国の図像が キリスト教化してゆくと同時に、図像が帝国という体制の中で立ち位置を見い出していく歩みを意味し ているだろう。 Ⅱ キリスト教公認後から 754 年の教会会議までにおける図像 キリスト教公認後の像崇拝は、一般教徒の間では普通のこととなった。多くの聖者や聖像による奇跡 物語はそれを示している。「4世紀以降キリスト教教会は聖像で満たされてきた。天使と聖人のきらび やかな列が、あらゆる教会の壁に見られた」(Brown 188)。それがあまりに目に余るようになって、8 世紀に聖像破壊運動が起こることになる。その間 400 年の年月がある。この間の事情をどのようにたどっ 図2
たら良いだろうか。教徒レベルでの信仰のあり方と、聖職者の文字に残った見解とを時代順にたどる必 要があるだろう。とはいえ文献そのものの年代確定が難しい。なぜならこの論争に関する限り文献その ものが議論の俎上に乗せられたのは、8世紀に入ってからである。中には聖像破壊論者によって改竄が 行われたり、著作そのものが偽書ということもあり得る。したがって文書的には 754 年の聖像破壊会議 ともいうべきヒエリア (Hieria) の教会会議が議論の出発点に位置するのである。 とはいえ4世紀以降そこに至るまでの教徒レベルにおける図像崇拝の事例を主にキッツィンガーの 記述にしたがって辿ることにする。
4世紀が終わる前には、「受難の印」("the Sign of the Passion") の前で伏拝 (proskynesis) を行うことが キリスト教徒にとっては、「まったく自然な」こととされるようになった (Kitzinger 96)。7 この「受難 の印」とは十字架のことであり、十字架が崇拝されるようになったのは、コンスタンチヌス大帝の軍旗 に由来する。エウセビオスのコンスタンチヌス帝の伝記は、この軍旗 (labarum) を次のように記述して いる。 長い、金で蔽われた槍が、さらに水平に置かれたものによって十字の形をなしている。その頂点に 王冠があって、それは金と宝石で飾られている。その上にはキリストを表す二つの文字、つまり ロー (P) の文字が、その中心でカイ (X) の文字と交差して、この二つの頭文字によって、救世主 を表していたのである。(Eusebius, The Life of the Blessed Emperor Constantine, Book1, Chap. 31) さらにキッツィンガーはローマ帝国では皇帝の像が崇拝されたが、その皇帝がキリスト教徒になっ たのであるから、その像を崇拝することに教会が特に遺憾の意をあらわすことはなかったという (97)。 5世紀前半には、コンスタンチヌス像の前に、犠牲や、香が焚かれ、祈りと魔除けの祈りが捧げられた (97-98)。6世紀後半の像崇拝の有り様は、皇帝崇拝と同じ形態を採っていくのである (131)。皇帝の 像は、やがて皇帝自身がキリストの像に取り替えるということで完成する (132)。そして像の前での祈 りや懇願は6世紀末、7世紀初頭には普通で、しかも念も熱もはいったものになっていた (105)。 像そのものに魔術的な(奇跡的な)力があると信じられた代表例は、エデッサのキリスト像である。 ペルシャ軍の包囲に勝ったのはこの像の介在によると信じられた (109)。エウアグリウス (Euagrius) が 伝える6世紀末の教会史の中では、キリストが「明らかにその像の中にいて、それを通して彼の約束を 達成して」いるのである (110)。また、この像はペルシャ軍の攻撃塔に火を付けるという魔術的道具と しての機能をも発揮している (110)。この他にもろもろの奇跡的な治癒力の話は枚挙にいとまなくあり、 キリスト像の足元にあるハーブの治癒力や、キリスト像の前で灯されたランプの油の治癒力というよう に (112)、フレイザーのいう接触や近接の魔術を機能的には体現しているといえるであろう。 これらの像は、単に個人的に祈られたばかりでなく、エデッサのキリスト像のように、戦時の守護神 として公的な状況で祈りを捧げられ、また役目を果たしているのである。また、これらの像のうち、い わゆる「人間の手で作られていない」(acheiropoietos) 像が、6世紀後半から7世紀において、もっと も像崇拝の流行の立役者になった (118-19)。これには2種類あって、一つは霊的な存在によって作り 出されたものであるが、より人気があったのは、聖骸布のように「機械的な」押し付けによるコピー像 であった。後者の方が神の「拡張」として魔術的な効力とその信仰に合致したのである (121)。つまり 接触や近接という本体との直接的関係により効力を感じたのである。これに対して、シンボルや近似的 な像は、より抽象的、思索的であり、直接性は劣るのである。これら「人間の手で作られたのではな い」像が、ほぼ同時期に現れたということは注目すべきであろう (120)。とはいえ、この像崇拝の流行 は、実際に聖人や聖遺物と直接関係のないものでも、やがては霊的な力を持つものとして、崇められる までに至った (118)。そうして7世紀には像そのものが聖遺物とおなじ地位を得るようになったのであ る (119)。 このようにまず民衆レベルで像崇拝が浸透していったことがうかがわれる。そうして多くの聖職者も
それを黙認していたか、それを利用したのである。4世紀後半からカッパドキアの教父たちによって、 像が教育的な効果を持つとして、像の導入が促進されるということもあった(Magoulias 42)。しかし、 もちろん、像崇拝に対して批判を行った事例もある。 ところで、聖像破壊論がおおやけになったのは、754 年の教会会議からである。問題はそれまでに聖 像破壊論というものがあったのか、そもそも聖像破壊論者と聖像崇敬論者との論争があったのかという 問題がある。像使用に対する批判の代表として3つの事例が挙げられる。 1 エウセビオスの皇妃コンスタンチアに宛てた書簡 2 4世紀末のサラミスのエピファニオス (Epiphanius) の著作とされる文書。 3 エルヴィラ教会会議 (313) の条項 3は前回で引用したが、教会の壁に像を描くことを禁止した条項であり、そのことは、すでに4世紀初 頭に、そのような像が描かれていたということを逆に示しており、教会側はそれを問題視したというこ とがわかる。論としては、まず1であるが、皇帝リキニウスの妃コンスタンチア(コンスタンチヌスの 異母妹)が、エウセビオスにキリスト像を送ってくれるように頼んだことに対する返事である。 あなたは、送ってほしいといわれるあるキリストの像 (icon) のことで手紙をよこされましたが、 キリストのどの像でしょうか。・・・あの真の、不変の性質を持ったものでしょうか、それとも私 たちのために取られた形、つまり僕の姿を取られたものでしょうか。・・・しかし神の形体に関す る限り、あなたが神に教えられているならば、あなたがそれを望まれるとは思われません。なぜな ら人は、息子を除けば、父を知りませんし、その息子ですら、誰も知りません。彼を生んだ父だけ を除けば。・・・しかしあなたは僕の姿の像をお望みなのでしょう。それは彼が私たちのために帯 びた肉体を多少そなえています。それでもそれは、神性の輝きが混在していて、死すべき部分は 命によってすっかりくるまれていると私たちは教えられています。・・・だからどうして死せる命 なき色で、あるいは陰影画 (skiagraphia) で、尊くも輝かしい光輝をえがくことができるでしょう か。・・・それ故、もし受肉した姿が神性に変容し、神性がそこにあって、かくも強大なもの になった時、その方についてこれ以上何を語る必要があるでしょうか・・・。8 この手紙は、754 年の教会会議において聖像破壊論者が引用し注目されるようになった。内容は、神 はもちろん描くことができないが、受肉したキリストも、その神性の故に描くことができないとしてい る。人間の技術では、神の栄光を描くことができないからである。これはキリストに人間的な部分を認 めない論なので、異端のアリウス主義との親近性を示しているとして、聖像崇敬論者によって、問題点 として論じられることになる (Gwynn 233)。 2のエピファニオスは聖像崇拝を問題視した最初の聖職者とされる (Kitzinger 92)。彼の図像使用に 対する態度を表明したものとして、いくつかの文書が有り、その一つが 754 年の聖像破壊教会会議で初 めて引用され、その後、反論のための引用も含めて、さらに別の文書も引用されるようになった。その うち、もっとも初期に (730 年代 ) 流布されていたものは、『後書き』(Post-Scriptum) と『像製作を行う ものへの反論』(Treatise9) であり (Bigham 23)、エピファニオスの態度を最もよく表すものとされる。『後 書き』では、パレスチナのアナウタ (Anautha) の教会を訪れたときのエピソードを記録しているので、 その部分を引用する。 私たちが祈るために教会に入ると、戸の前に色つきのカーテンがかかっているのがわかった。その カーテンには、人の形をした偶像崇拝的な何かがあった。彼らは、たぶんキリストか、聖人のひと りをあらわしたものだろうというが、よく覚えていない。教会ではそのようなものは唾棄すべきで あることがわかっているので、ドアカーテンを引きはがし、貧者の埋葬布にでも使うよう言った。 彼らは、しかし、不服で、引き剥がす前に、自分の金で別のカーテンを用意しておくべきだったと 言った。そこで私は別のドアカーテンを送ると彼らに約束した・・・。(Bigham 13)
このエピソードが何を意味しているかが問題である。描かれた像がどのようなものだったのか不確か である。偶像的なものであれば、彼の行為は納得できる。しかしこの行為は必ずしもキリスト教の像に 対しても忌避しているということを意味しないかもしれないのである。しかも教区民の抗議にあって、 新しいカーテンを送ることを約束しているところを見れば、強硬な態度を固持しているとはおもえな い。 もうひとつの『反駁』は、明らかに像忌避の態度がうかがえる。いわばこのエピソードで示した彼の 態度を正当とするための論述と考えられる。 聖なる教父の誰が人間の手で作られた表現物の前で伏拝したことがあっただろうか、また自分の弟 子がその前で伏拝するのを許したことがあっただろうか。聖人のうちで、誰が、・・・自分の姿を 描かせて、その前に人々を伏拝するよう命じただろうか。 しかしあなた方はいう、「教父の方々は民族の偶像を嫌悪しますが、私たちは聖人を思い出すため に像を造り、敬意を払って伏拝するのです」と。まさしくこう考えて、あなた方のあるものは、聖 なる家の内壁にしっくいを塗って、ペテロやヨハネやパウロ(それというのも像のひとつひとつに 名前が銘記されているのわかるのですが、しかも間違っているのですが)の像を大胆にも表すので す。・・・ あるものは、神の御言葉が、処女マリアから生まれた完全な人間になったので、彼を人間として表 すことができるという。 あなたが、すべてのものを創造された理解を超える (akataleptos) 一者を、自分の手で表すことがで きるように、御言葉が受肉されたというのですか。・・・ このような壊疽が広がることがないように。なぜなら神は、旧約でも新約でも、このようなことを 禁止し、「主の前に伏拝しなさい、彼のみを崇めなさい」と言われるのです。(Bigham 14-17) ここにはエウセビオスの書簡でも見られた、聖なるものを表すことができないという考えが示されてい る。そこから、像を崇敬することへの禁止が見られる。したがって、『後書き』におけるエピソードも そのような考えを持った人物ならば、当然であるだろう。もうひとつ重要なのは、「あなた方」として 像を容認する側の論理をも記録していることである。つまり、キリストが人間となったので、それを描 くことができるという論である。 しかし、問題なのは、エピファニオス文書がほんとうに4世紀のものであるかどうか疑わしい点があ ることである。そのもっとも大きな根拠は、『反駁』で示されたような、像批判の論理も、容認の論理 も、ほかの文書として、4世紀には見当たらないということである。つまり、エピファニオスが「あな た方」というその者たちの証拠が見当たらず、そのような議論そのものが行われたという根拠がないの である (Bigham 83)。しかも、このような論理は、むしろ8世紀になれば普通に見られる論理である。 またビッガムは、『反駁』で用いられた「理解不可能な」ということばを、エピファニオスの真正の著 作中の用例と比較し、前者が偽書であると証明するのである。10 そうであるならば、754 年の公会議以 前に、表立って聖像破壊論と像崇敬論の議論があったということはないということになる。 エウセビオスとエピファニオスの論法は、754 年の教会会議における聖像破壊論の論法と一致する。 神性というものを自らに含んだ像は作り得ない。存在するとすれば聖餐の秘蹟である。したがって、こ こではカタコンベ図像と異なり、像を記号として見る意識ではないといえるだろう。「聖画像破壊主義 の別な側面は、画像についての彼らの観念であった。彼らは常に、画像はその原形と同一である、ある いは「同一本質」である、と考えた」のである ( メイエンドルフ 76)。したがって、この段階では、聖 像破壊論は、原形 (prototype) とその像との関係を記号的に見るのではなく、それらを同一視している。 聖なるものを表す記号が可能かということではなく、その記号自体が聖なるものであるかという問題で あり、その点において、聖遺物崇拝と基本的には同じ思考をしているといえるであろう。
実は 754 年の教会会議の記録は残っておらず、次の 787 年のニケーア公会議において、反論のために 前会議の論点が引用されたことで、聖像破壊論を知ることができたのである。つまり、論争の形が整う のはニケーア会議からということになるだろう。そしてそこでキリスト論をめぐっての聖像肯定へと向 かうことになるのである。 以上、まとめると、公認前のカタコンベ図像に代表されるものは、崇拝の対象ではなく、読み解かれ る図像であったであろう。そして、公認後には、聖遺物の崇拝がはじまり、並行して人間の手によらな い聖像が現れるようになった。しかし聖像は、それ自体神性を帯びることはできない、あるいは神性を も表して作成することはできないという否定論があった。そして 754 年の教会会議で聖像破壊論が形を なして登場するのである。 *本研究は、JSPS 科研費 23520293 の助成を受けたものです。 注 1 ヘブル書 13.20
2 Sed ovis proprie Christianus, et grex Domini Ecclesiae populus, et pastor bonus Christus (PL 2. 992). See also Caput 10 (PL
2.1000) ただし、テルトゥリアヌスはその図像を全面的に認めていたわけではなく、幾分からかいをもって見ている という (Bevan 105)。 3 サンタ・ペテロ・マルチェリヌスの天井画では、<善き羊飼い>を中心に、4人の<祈る人>が周囲に配されて いる (Grabar Fig. 2)。もっとも、最古のカタコンベと言われるルキナのカタコンベでは、中心はダニエルであり、< 善き羊飼い>は周りの<祈る人>と同じ位置に置かれている ( フィネガン 463)。フィネガンは言う、「これら二つ の象徴を互いに結びつけて置く意味は説明するまでもない。窮迫と死の時に救いを求めるクリスト教徒の祈りは善 き羊飼によって答えられ、天国に安全に連れ帰られる」(491)。 4
Grabar, Figs. 39 and 91. この二つの石棺ではまったく対称的な位置に置かれている。またキリスト教徒の石棺では ないとおもわれる彫像においては、<善き羊飼い>のみが刻まれ、<祈る人>は、当然であるが、刻まれていない (Figs. 89-90)。Fig. 17 では、<善き羊飼い>が中心で、その右側に<祈る人>がある。左側には書を読む人(哲学者?) がおり、<善き羊飼い>を囲むように人間の取るべき姿をあらわした彫像が配置されたとおもわれる。 5 ジェンセンによれば、公認以前のカタコンベの壁画と石棺レリーフには、70 を超える例が見られ、そのうちすく なくとも 30 例は、3ないし4エピソードの連続ものになっている (172)。 6 ダビデの図像はまれであり、カタコンベに残っているものは、ドミチッラ・カタコンベにあるものだけである。 しかも、ゴリアテは描かれていない (Stevenson 74)。
7 St. Asterius Amasenus, Homilia XI in laudem S. Stephani, 11: Porro oranti illi apparet, super ejus caput, signum illud quod
Christiani adorare (proskuneisthai) ac appingere solemne habent, putoque appetentis passionis symbolum (Patrologia Graeca 40, 337-8).
8 Sahas の英訳による (134)。この手紙の現物は失われており、754 年の教会会議で聖像破壊論側によって引用され
たものが記録されているだけである。そのため手紙の真正さ、つまり著者と年代について疑問がもたれている。
9 The Treatise of St. Epiphanius Against Those Who, Following an Idolatrous Practice, Make Images with the Intention of
Reproduring the Likeness of Christ, the Mother of God, the Angels and the Prophets. 394年に書かれたものとされる(Bigham
14)。
10
『投錨者』(Ancoratus 374)と『薬籠』(Panarion 377)は執筆経緯もはっきりしており、真正とものとされている(Bigham 3-4)。ビガムは、『反駁』では、受肉前も、受肉後のロゴスも「理解不能」としているが、『投錨者』の用例では、 受肉前を「理解不能」とし、受肉後のロゴスは「理解可能」としていることを指摘する (88-89)。
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