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新仏教徒能海寛 ─チベット出立前、郷里宗門の整備について─ 利用統計を見る

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(1)

新仏教徒能海寛 ─チベット出立前、郷里宗門の整

備について─

著者

飯塚 勝重

著者別名

IIZUKA Katsushige

雑誌名

アジア文化研究所研究年報

53

ページ

238(1)-225(14)

発行年

2019-02

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00010997/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止

(2)

  序章   明 治 二 六( 一 八 九 三 ) 年 一 一 月、 『 世 界 に 於 け る 仏 教 徒 ( 1 ) 』 を 刊 行 し、 日 本の仏教界において、新仏教徒とはどのような立場に立つ者か、またこの 新仏教徒が今後どのような行為を為すべきか、各章・各節にその具体策を 忍ばせつつ、 年来のチベット探検行の必要を強調、 「第八章   散 サンスクリット 斯克 (梵学) 」 及 び「 第 九 章   仏 教 国 の 探 検 」 に お い て、 「 今 日 は 已 に 仏 教 は 唯 東 洋 一 地 方の宗教ならずして将に五州の一統宗教たらんとするもの世界の仏教たる 以上は仏教徒亦世界に於ける仏徒たるの覚悟其の準備なくんばあるべから ずしかれば只 支 マ マ 那 訳のみを以て満足すべからざるは時代の然らしむる所に して仏教の基礎は原本の上に置かざるべからず(中略)将に今日の僧侶は 交通自由なる上に且つ欧米に於いて止まざる仏教の弘通に尽力せず僅かに 宗派内の争いに汲々として或は何宗の紛議或は堂班位階の競争鎖細なるこ とに齷齪し虚偽的野蛮的無精神無気力事業に空しく日月を費す嗚呼末代な る哉彼ら旧仏教の腐敗せる脳髄を撃破し真正なる仏教の光明を発揮する新 仏教徒生ぜずんば此の教界の乱世を如何にせん(中略)今仏教国探検に於 いて如何なる国が急務なる   固より東洋諸国皆仏教の伝播せる所なれば各 地皆必要なり   最も急務と感ずるものは西蔵国なりとす」と従来の主張を 一日も早く実現させる必要を述べている。その上、 法王としての達賴喇嘛、 首府としての拉薩を憧憬的に書き記している。但し、同書第十二章「総会 議 所 」 に お い て、 「 予 は 五 億 仏 教 徒 全 体 の 中 心 と し て 連 合 策 の 一 と し て ま た将来仏徒の興学布教に於ける組織一致運動を謀らんが為に仏教徒総会議 所の必要を論ぜんと欲す」と、新仏教徒総体の運動の起こし方に触れ「而 して総会議所とは其の各国に於ける仏教徒の団結をして一統の下に組織す るにあり印度仏陀伽耶の霊蹟を回復して宜しくその地に於いて全世界仏教 徒の総会議所たり総拝場たるものを設くべし而して此総会議所に於いては 仏徒各国の各宗各派各団体より委員を選抜して会議所に住せしめ   (中略) 布 教 そ の 他 百 般 の 事 業 に 就 き 議 決 し て 仏 教 運 動 の 方 針 を 一 致 せ し む べ し 」

新仏教徒能海寛

チベット出立前、郷里宗門の整備について

  

  

  

キーワード:能海寛、新仏教徒、一統教、真俗二諦、天頂山法典、波佐倶楽部

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新仏教徒能海寛

チベット出立前、郷里宗門の整備について

とある。いきなり長文の引用をもって、読者には、能海チベット探検の目 的を総括した如き印象をもたれたであろうが、これには次のような経緯が ある事を説明に加えておきたい。   筆者はすでに論考 「新仏教徒能海寛と一統教」 (二〇一六年二 月 ( 2 ) )及び 「新 仏 教 徒 能 海 寛 の『 在 渝 日 記 』 に 見 る 連 作 五 言 詩 に つ い て 」( 二 〇 一 八 年 二 月 ( 3 ) )において、能海寛が同行者寺本婉雅とともに念願のチベット探検(第 一次)にでたが、巴塘において地元住民の反対に会い、無念の内に基地ダ ルツエンド(打箭炉、現四川省康定)に引き返し、ここで、日本へ帰る寺 本 と も 別 れ、 第 二 次 探 検 行 ま で 滞 在 し た 期 間( 一 九 三 二 年 一 〇 月 ~ 一九三三年五月)に、長年暖めてきた彼の「一統教」の全てをノート「丙 六 号 ( 4 ) 」に書き留めたことを紹介してきた。   能海は「古聖以来の無比大新教」と言い、 「大乗にして大乗に非(あら) ず   大乗にして小乗   小乗にして小乗にあらず   小乗にして大乗   大小合 して中乗」と、自ら結論づけた中乗の原理を統一仏教のメルクマールとし た。ただし、旅の途中のノートへの書き付けである。すでに『世界に於け る仏教徒』の中で、その片言隻句を拾い集めれば、わざわざダルツェンド まで持ち越さなくても良さそうなものをと思いがちであるが、チベット探 検行には多額の資金がいる。 能海の自坊あるいは郷里から集金することは、 すでに学資金調達で郷里に大きな負担を負わせてきた身であ る ( 5 ) 。一方、本 山(浄土真宗大谷派)においても、維新の際には八〇余万円という大借金 を背負い、明治四年一二月には京都府から一向宗と名を変えたらどうかと ま で 指 示 さ れ る よ う な 弱 体 振 り で あ っ た ( 6 ) 。 し か し さ す が は 大 教 団、 明 治 二〇年代前半、人事 ・ 財政面に漸く回復の兆しが見え始めてきた。ただし、 能 海 と し て は こ れ を 好 機 と 見 な し て 本 山 に 向 か い、 「 チ ベ ッ ト 探 検 は 新 た な新宗教を起こし、この新宗教を権威づけるために探検に出るので本山か ら探検費を支出されたい」とは絶対に言えることではなかった。しかもな お悪条件が能海に降りかかる。日清戦争の勃発である。 第一   郷里帰還の能海と日清戦争   哲学館・井上圓了館長の下、自らチベット探検行を発表してきた能海寛 は、 探 検 に 有 用 と 思 わ れ る「 人 類 学 」 や「 応 用 心 理 学 」、 井 上 先 生 の「 妖 怪学」など各種講義を積極的に受講してい る ( 7 ) 。注目の南条文雄先生の講義 に つ い て は 哲 学 館 転 入 学 以 来 の 早 々、 能 海「 春 秋 日 記 」 第 一 八 巻、 一 月 二二日に「予が経歴に付考うる処ありたり。南条氏の特言学講義を聞く。 」 とあ り ( 8 ) 、同年一〇月二〇日には「午前、麹町(南条宅)に行く。散克律始 まる。別状なし」とあ り ( 9 ) 、在学中にも南条先生の自邸での梵学(サンスク リット)講義を受けていたことになるが、白山謙致、子安善義らも南条先 生の下で教えを受け、仏教書翻訳の指導も受けていたが、これに加わる能 海 の 心 中 は 勿 論、 先 ず、 英 文 翻 訳 書 の 出 版 に 指 導 を 仰 ぐ 事 を 第 一 に し て、 さらに、チベット探検行の為の語学修得にあったが、多忙な南条にとって は、来訪者への受け付け、様々な来簡・書状の整理、また時には地方出張 時の留守居番を果たす書生役を置く必要もあった為でもあろう。   明治二六年七月、能海は、哲学館高等科上級の修学を終え、八月には一 旦郷里に戻ってきた。その年一一月には『世界に於ける仏教徒』を刊行し た。後は本山に対し、一刻も早くチベット探検の許可と当面必要な経費支 出の承諾を待つばかりとなってきた。しかし、本山は中々探検の許可を出

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チベット出立前、郷里宗門の整備について

さ ず、 費 用 の 下 賜 も 通 知 さ れ な か っ た。 そ の 間、 能 海 は 明 治 二 七 年 一 月、 自らの遺書にも相当する一四か条の『口代』を書き挙 げ )(1 ( 、その後二月二七 日には、自らの前髪を一掴み切って和紙に包み『口代』に添え、自らが帰 国できなかった場合の遺髪代わりとするよう書き添えた。 同じく七月には、 本山の決定を早めるため、京都に寄留して「西蔵派遣僧」として速やかに チ ベ ッ ト 派 遣 を 許 可 す る よ う 上 申 書 を 提 出 し た。 し か し、 こ の 月 の 月 末、 遂に日清戦争が勃発、能海のチベット探検計画も一旦は頓挫せざるを得な くなったのである。 第二   能海の書いた日記・諸記録と年譜   ( )「春秋日記」   能海は生涯の一大目標から外され、当面どのような行動を取れば良かっ たか。普段、能海は日常に起こった事柄を日記に付けている。著作集第三 巻には、明治二二年以降明治二七年までの各年度ごとの日記を収録してい る が、 こ の 日 記 か ら 能 海 の 行 動 を 追 う に は 少 な か ら ず 問 題 が あ っ た。 今、 簡易な表によって各年度の「春秋日記」を見てみよう。   明治二二年   (表紙なし) 「春秋日記」   九月一三日~三〇日       本文   「春秋日記」明治二二年一〇月一日~二四日   明治二三年(表紙第四号「春秋ノ日記」 )(表紙裏五九日間とあり)   一月一日~二月二八日(本文の続きに短歌六首及び挿絵二頁分あり)   末行に(春秋之日記第四号終)とある。      明 治 二 四 年 ( 表 紙 「 春 秋 日 録 」 第 九 号 )( 表 紙 裏 五 九 日 間 ) と あ る も 但 し 、 本文   第一頁「春秋日記第一八巻」一月一日~三一日     本文   第一頁「春秋日録第一九巻」二月一日~二八日   明治二四年(表紙破残僅少) 「春秋日記第二六巻」九月一日~三〇日   同右     (表紙なし)    「春秋日記第二七巻」一〇月一日~三一日   明治二五年(表紙明治二五年三月一日作   第一六号「春秋日記」        巻三二巻三三   巻三四)と三分巻有ることを示す。       「春秋日記巻三二」   三月一日~三一日       「春秋日記巻三三」   四月一日~三〇日       「春秋日記巻三四」   五月一日~二〇日   以後空白あり   (明治二六年   日記なし)   明治二七年(表紙第二四号) 「春秋日記   第五四号」一月一日~三一日      当 日 記 の 末 尾 に は 「 純 正 哲 学 」 を 図 式 で 表 し 、 さ ら に 五 頁 分 を と っ て 、 各講中規約(一、御座、二、小寄、三、教社各講中規約、四、青年教会 夜分法座)等、それぞれが実施可能となるよう俗諦門(後述)としての 各講中に対する円滑な対応のあるべき事を説明している。   第三巻の「春秋日記」最終行には『渡清日記』とあり、明治三一年一〇 月四日郷里出発に始まり一一月一二日神戸船出を挟み長江船中の明治三一 年一二月三一日で終わる。全てチベットへの出発として纏めたのであろう が、著作集編纂の過程で少し問題を残したようで、補注で見ておこ う )(( ( 。   すでに見てきたように『春秋日記』には折角各年度をたてながら、どれ も数ヶ月分であり、わずか一ヶ月内もある。しかも、その取り扱いは他人 の介入を拒絶するかのように、 その都度表紙を改め、 号数と巻数をたて、 「天 頂 山 石 峰 」 と 署 名 を い れ て い る。 例 外 は 明 治 二 四 年 の 第 九 号 に「 於 東 京 」 と居住地を記したものが見られる。惜しむらくは明治二六年度が収載され

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新仏教徒能海寛

チベット出立前、郷里宗門の整備について

な か っ た こ と で、 も と も と 存 在 し な か っ た の か、 『 世 界 に 於 け る 仏 教 徒 』 の執筆中に考慮した事などが率直な意見として書き残されていればこれに 越したことはなかったのであるが。   ( )  「手帳記録」①~⑥   能海の日常記録は「春秋日記」のみではない。日常の記録には以下のよ うなメモ帖類が挙げられる。 〔 手 帳 記 録 〕 第 二 の 日 記 に 相 当 す る 記 録 は「 手 帳 記 録 」 で、 著 作 集 第 六 巻 に収録されている。多くは率直な記録であるが、時に筆の使い方次第で読 み取り困難な所もある。目次に従ってチベット探検出発直前までの年度別 を紹介し、そのうち特に目立つ記事を挙げて見たい。 ①   「明治二〇年~二一年」   小型の手帳であり、一行八字ほど、平均一〇 行、時に英文が混じる。早くも本山に外国人のための学校を建てるべきと の意見を書いている。②   「明治二二年」三月~四月   ③   「明治二二年~ 二 三 年 」  六 〇 頁 分 程 あ り。 東 京、 三 田 在 住 者 住 所   授 業 科 目、 英 文 な ど 各 種 記 録 が あ る。 ④   「 明 治 二 四 年 ~ 二 九 年 」 大 型 の 手 帳 に な る。 約 二四〇頁分あり、初めの部分は、哲学館の講義録と関連するのか、古代の 哲学・宗教家の動きと自己の感想・短歌などが雑記帳風となっており、明 治二七年中と推測されるが、二六年の帰郷、二七年日清戦争勃発などには 触れず、 「入蔵嘆願、 波佐倶楽部、 寺壇団体、 郷壇分記、 宗教学論」とあり、 少し間をおいて、能海自身の当面学問上取り組むべき課題二〇数項目を挙 げ て い る。 本 論 と 関 わ る 項 目 を 選 ん で 見 る と、 「 寺 の 定 義( 人 生 の 学 校、 識徳養生) 」「真俗二諦」 「国体」 「「大経」 「観経技法」 「道徳(監獄、罪人、 警 察、 裁 判、 天 下 和 順 等 )」 「 学 問 と は 如 何( 注 略 )」 「 哲 学 上 の 宗 教 」「 歴 史 上 の 宗 教 」「 旧 跡 参 詣 」 等 で あ る。 さ ら に チ ベ ッ ト 探 検 費 と し て、 各 項 目費合算、総額七〇〇円としている。日清戦争の状況を感じての事か、チ ベットへの準備はいつにても必要として書類を整えていたものか。さらに 自らの宗教的実践として日本海・益田沖に浮かぶ孤島・高島での寺子屋開 きがあった。 〔 高 島 上 陸 記 〕 明 治 二 八 年 七 月 二 一 日、 島 根 県 益 田 沖 ほ ぼ 一 〇 ㎞ に あ る 高 島に朝一〇時頃到着、早速一軒の見晴らしの良い二階家に入り、島民には 持 参 し た 二 升 の 酒 を 提 供、 子 供 に は 一 人 五 個 ず つ の 菓 子 を 配 っ た と い う。 島は一昨年全島火災があり、山は枯れ木となっていた所へ、大風があり赤 松の立木が全てなくなったという。しかし、島民は海より畑の各種作物が よ く で き る と い う。 能 海 は そ の 晩 は 村 民( 七 ・ 八 名 ) に 説 教 を し、 翌 日 に は午後、子供を集め体操を教えた。その夜は再び島民に説教と戦争の話を し た と あ り、 早 速、 「 高 島 の 七 驚 」、 「 雑 驚 七 条 」 を 書 き あ げ る )(1 ( 。 著 作 集 第 一 巻 所 収「 石 見 潟 高 嶋 記 」( 明 治 二 十 八 年 ) に は 能 海 書 写 の 石 陽 城 主 松 平 周防守家来、 米山氏重矩の高嶋詩歌記(元禄八〔一六九五〕年作)を紹介、 さらに、小字で滞在中の日ごとの行動を記録し、同月三〇日、子らに体操 を教えた後、午前九時過ぎには船に乗り島を去ったとあ る )(1 ( 。 〔 報 恩 講 〕 こ の 手 帳 記 録 に は、 明 治 二 九 年 三 月、 南 条 先 生 に 呼 び 返 さ れ 上 京するまで、郷里に止まり、積極的に寺務を助けるとともに、報恩講に呼 ばれる事も多く、遠隔地もいとわず出向いている。同二八年一〇月六日に は「報恩講巡回日記」が書けるほどであり、例えば、一〇月六日には、広 島県山県郡山廻大字高野へ行き、さらに波佐からは五里半程の大谷郷では

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チベット出立前、郷里宗門の整備について

政 府 の 直 轄 す る 砂 鉄 生 産 の 集 落 で、 年 に 四 ・ 五 回 鈩 吹 を 行 う と い う。 能 海 にとっても貴重な体験をしたようである。 ( 浄 蓮 寺 住 職 代 理 ) こ う し た 仏 事 を 担 当 す る 間 に も、 チ ベ ッ ト 探 検 を 感 じ 取った門徒の中からも、例えば三隅の正東寺・岩本普満師から明治二七年 四 月 八 日 付 け 書 簡 を 以 て、 「( 急 が ば 回 れ だ が )、 斬 新 論 を 捨 て 西 藏 探 検 必 要地方□民族の輿論となるを得ば彼の愚情は自然消滅…又檀家等費用の依 頼を望むならば、費用の目的を知らしむベし、住職補任を望むならば速や かに住職に任じて後、代理を命じご自由に遊歴を企て … )(1 ( 」と能海には強い 味方がでたのである。早速、五月二日に本山へ整理献金をし、能海は浄蓮 寺餘間(院家)となり、義父謙信を補佐して副住職を務めた。同じく義兄 の法言も院家であった。因みに浄蓮寺が本山に上納した金額は隅田正三氏 に よ れ ば、 「 明 治 一 二 年、 本 山 再 建 費 五 〇 〇 円、 同 一 四 年、 義 父 謙 信 の 院 家資格〔昇階〕二五〇円、寺格内陣二五〇円   同二一年本山再建費五〇〇 円、同二六年法言院家資格二八〇円、寛院家資格一二〇円、合計一八〇〇 円に上り、明治三〇年九月二日にはさらに本山教学資金三五〇円と本山上 納金が合計二一五〇 円 )(1 ( 」であるが、奇しくも後能海のチベット探検に本山 が支給した一〇一七円七八銭の倍額程度である。能海は帰郷中は住職代理 として四方・八方に活躍するが、時に本山へのチベット探検許可への動き も欠かすことはなかった。   日清戦争による国外出立が実現できない時をもって、能海はある大きな 計画をもって檀家住民を一気にその体制に組み込もうとする重要な機会を もったのである。すでに能海の「手帳記録」にも書かれた「真俗二諦」と 「波佐倶楽部」の立上げである。   「波佐倶楽部」 とは何かと明かす前に少し横道にそれるがこの 「手帳記録」 にも結末を付けておきたい。   能海は、明治二九年三月、南条先生の勧めもあり再び上京した。上京に 伴い自分の学問をさらに深め、一週間を目処とする規則的生活振りを書き 込む。特に第一週には一日、図書館、次の週は一日かけた体力維持のため の外出歩行など。西蔵行きの中国語 ・ サンスクリット ・ チベット語の修得、 同関係論文の作成及び専門誌への投稿、探検費の確保、軍艦等船舶の能力 研究など、南条先生の書生を務めながら毎日が多忙であった。そしてこの 「 手 張 記 録 」 の 次 号 ⑤「 明 治 二 九 年 ~ 三 一 年 」 も 能 海 身 辺 の 豊 富 な 記 録 と いよいよチベットへの出発の可能性が高まる緊張感の中、出発前に片づけ ておくこと、例えば経緯会立ち上げの主役を務め将来の盛会に先導役を果 たしたことなど、世間は能海の努力を正しく認識すべきであろう。 〔私用日記〕と『年譜』   能海の日記でチベット出立以前では全く初めてで あるが、市販の日記帳を使って一年を通して書きあげた日記がある。著作 集 第 二 巻 の 冒 頭、 「 私 用 日 記 」( 明 治 三 〇 年 ) で あ る。 表 紙 に「 君 子 の 道 」 を説く箴言(ほぼ九〇字、いまは省略)を書く。哲学館発刊の日割り日記 帳で一月一日に始まり十二月三一日に終わるが、全日程が荒っぽい記事で あるが、空白日は一日だけ、単に「雨」とだけの日もあるが、経緯会は必 ず、また中国語学習など学習の記録も書き入れ、年度末には事実上の婚約 者 静 子 と 静 岡 の 大 東 館 に 止 宿、 「 一 二 時 ま で 語 り あ っ た 」 と 艶 め く 記 事 を 残しつつその年は過ぎていった。ただし、能海の日記より能海の行動が詳 しく解るのは、隅田正三氏作成の能海寛「年譜」である。氏の三冊の著 書 )(1 ( の外、定期的に機関誌「石峰」に掲載され、回ごとに精緻な能海の行動を

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示した年譜が作成されている。   余談の最後になるが、能海は、チベットへの旅に出た場合にも一日一行 を割り当て、全日程が記録されるよう周到な準備もしてお り )(1 ( 、また、この 旅で気がついたこと、重要と思われること、それらはその都度テーマをお こして別ノートとし、詳細な記録を残しうるように準備されていたのであ る。 そ し て 明 確 な「 日 記 」 を 再 開 す る の は、 漸 く チ ベ ッ ト 探 検 が 実 現 し、 その顛末を含め明治三一年末からおこされた旅中日記集である。後日残さ れたそれら日記の書き方は、専門の登山家からも日記記録の模範として称 えられ、今日に及んでいる。 第三   一統教開教に至る郷里宗門の整備   (一)   長江遡上の船旅の中で   漸く本論に戻ってきた。今後のテーマは真俗二諦と波佐倶楽部である。   筆者の目は著作集全一五巻を通して能海の旅を追うことができ、これか ら暫く目前の話題を拾っているときはほぼ能海が第三次探検途上行方不明 となった時点からフイードバックしてこなければならず、正しく読者と筆 者が同一視点に立たなければ設問則ち真俗二諦と波佐倶楽部問題に戻って きていないとの叱正を受けるのは筆者一人のことであろう。言い訳はとも かくひとまずは筆者が行う当面の作業を進行させたい。   能海は身辺に起こっていた全ての問題を振り切ってチベット探検に踏み 出した。勿論南条先生が言う、中国路からの旅であり、一衣帯水とはいえ 神戸港から乗船、玄界灘を越えまずは上海に行き着くことから始まる。能 海はここから中国留学生兼布教師であるが、同行した一四名の仲間から一 人 だ け 抜 き ん 出 て、 果 て し な く、 ま た ほ ぼ 直 線 的 に 西 上 す る 旅 で あ る が、 暫くは長大な長江遡行に従わなければならない。物見遊山の旅であれば上 海を離れてすぐ巨大なパノラマ写真を何枚もめくって行くような思いをす るであろう。しかし、能海の旅はひたすら急ぐこと、次の目標地点は武漢 である。乗船客の多くが中国人であるための食事の注文や船内の行動にも いちいち気を遣う煩わしさがあった。その点、西洋人を見つければ、宗教 上の話も出来、気を紛らわすことも出来た。   能海の郷里・島根県・金城の浄蓮寺から、大量の能海文書ほか貴重なチ ベット経典・仏具などを発見、世に出した能海寛研究会事務局長・隅田正 三氏の下で、再び貴重な絵入り日記などを発見、マスコミに披露されたと のこと、そのニュースが筆者に伝わってきた頃のことである。丁度手がけ ていた『長江物 語 )(1 ( 』の三峡遡行者に関する一章を終わらせようとしていた ときに飛び込んだビッグニュースに居てもたっても居られず、隅田さんに 連絡を取ると、間もなく複写された『官話記一号』と『渡清日記』とが送 られてきた。隅田さんに感謝しつつ、編集者と相談し、苦労して長江・三 峡を遡った記録を「渡清日記(抄) 」として附録風に一章をたて掲載でき、 『官話記一号』のスケッチ画も合わせ差し込むことが出来たのである。   能海寛は長江途中の宜昌で三峡上りの船に乗り換えたのであるが、すで に 西 洋 人 四 人 を 乗 せ て お り、 船 主 は 偽 っ て 能 海 を 乗 船 さ せ た の で あ る が、 足を延ばして寝ることも出来ない狭小な船に、三峡の危険な旅に怯え、待 遇の悪さに能海は終始いらだって居るばかりであった。そのような劣悪な 旅 で あ り な が ら も、 能 海 は 日 々 の 勤 行 を 欠 か さ ず、 旅 の 日 記 も 書 き 残 し、

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さらに帰国後の寺院経営に関わる方策をも書き残していたのである。その ことはすでに拙稿「能海寛と宗教的立 場 )(1 ( 」でも、 その一部を紹介してあり、 重複の恐れもあるが、以下に再掲しよう。   (明治三一年一二月二五日)   例により休業日曜なり。また聖蘇 (クリス) マスの日なり。余は誓う。国を救い世を助くるは大事にして之に及ぼすに は予は先ず我一家の真・俗をととのえ、夫より我檀家及村内の真・俗をと とのえん。組織上の金を費す。   第一に 真 ⎩⎜⎨⎜⎧(一)   法承を聞き御命日等法要参詣のこと。 (二)   我国くの間、法事等に必ず逢い法承を聞くこと。 (三)   組々の宗講にて信心を正すこと。   第二に 俗 ⎩⎜⎜⎜⎜⎜⎨⎜⎜⎜⎜⎜⎧(一)     檀家中に烟を立る不能ものあれば、常に付て見舞、相談相 手となり、又金を与え一家の立る様に尽力して、国家の良 民たらしむることをつとむ。 (二)   又罪人・犯人のなき様に常に巡回説諭すること。 (三)     慈 善、 公 共 事 業 は 浄 蓮 寺 に 於 て 追 て 之 を 定 む。 海 外 布 教、 村内の貧民学校、罹災者へ施与、等に分つ。 (四)     従来の檀徒は勿論、他宗他檀と云えども会員組織なれば入 会することを得。 実際的真・俗二諦の実をあげることにつとむ。 (以下二六日に続く) 〇門人一人に付一口五円以上の積金をなすこと 任用(一)遭難の用意   〇遺言により、遺族へ分与す。         〇利子は本山及師匠寺へご冥伽とす。         〇檀徒を離る丶時は本人の勝手とす。返斉す。         元より利子はつけず。    (二)没後、葬式別用意    (三)慈善、公共事業に没後(以上不用の人は)寄付す。 〇    戸主には家族、借財、地価、 品 行 、 交 際 等 に 付 き 懇 篤 に 之 を 聞 き 、 俗 諦 の相談相手と成り、立派の日暮の出来る様尽力すること。 〇    家 族 を あ つ め て は 戸 主 の 意 に そ む か ぬ 様 稼 業 勉 励 を す す め 、 倹 勤 を 教 え ること。 〇    戸主家族一同をあつめては真諦門の法義を聞かしむること。 〇    毎 年 年 中 の 法 会 の 日 取 り 及 師 檀 の 規 約 、 檀 徒 の 心 得 を 記 載 せ る も の を 門 人に配与す。 〇    年中一回報告書を作り、即ち此毎年配与の分に合して報告す。   (二)   真俗二諦について   以上の第一を真と言い第二を俗と言う、これまとめて真俗二諦といい、 能海のチベット出立前の日記・ノートの所々に書き付けられていた言葉で あ る が、 明 治 維 新 以 降 俄 に 焦 点 が 当 て ら れ た 仏 教 用 語 で あ る。 「 わ が 一 家 の真俗からわが檀家及村内の真俗を整えん」とあり、それには「組織上の 金がいる」ようである。以上の様な真俗二諦とは、 先ず能海のわが家とは、

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新仏教徒能海寛

チベット出立前、郷里宗門の整備について

浄蓮寺を言い、我が檀家及び村内のという事は、浄蓮寺の檀家一同と村内 の一般住民という事になろう。それでは真とは何か、俗とは具体的になに を言うのか、考えてみたい。   大乗教の真俗二諦とは、劉樹以来定義が困難な問題を抱えてきた。しか し、時代を飛ぶが、近代日本の場合、江戸時代末から明治維新にかけて浄 土真宗本願寺派において、門主の言葉から真俗二諦論が唱えられるように な っ た。 特 に 文 化・ 文 政 期( 以 下 化 政 期 と い う )、 急 速 に 発 達 し て き た 国 学者側から浄土真宗宗祖親鸞の「悪人正機説」を非難し、排仏を唱える声 が高くなってきた。これに対応する形で、浄土真宗側に於いて真俗二諦論 で対応した。但し化政期に入った西本願寺側でも、寺内の対立が激しく本 山門主・門跡にさえ逆らういわゆる学林派といわれる寺門内部僧とこれに 反対する在野の学僧が激しい対立を起こし、結局は幕府の介入を受け、在 野学僧の勝利となったが、本願寺自体の自らの改革を徹底するなかで、王 法と言われる幕府の介入も強化されていくが、後には幕末政治情勢の変化 に伴い、 朝廷側への偏りが強くなっていくのはやむを得ない時代の推移 (勿 論この中には法度を守らない所化僧の増加、火災による御影堂の修復、本 山の財政危機などが加わるが)であろうか。この時代、第二〇世宗主を継 承した広如上人は文政一〇(一八二七)年から明治四(一八七一)年三月 まで、 実に五一通の消息を法中や門徒宛発信しているが、 そのうちの一通、 明 治 元( 一 八 六 八 ) 年 九 月 の 四 七 通 目 の 広 如 消 息 案 で あ る が、 「 今 般 王 政 御一新被仰出候ニ付勤王之志愈以無等閑奉報皇恩度ニ就テハ、先於門内テ モ非常取締之無之而者基本難相立候ニ付、室内ヲ始諸向令改正、法義ノ上 ヨリ上ハ罔極之国恩ヲ報シ、下ハ無辺ノ群類ヲ救度心得ニ候(中略)護法 ノ忠節ヲ尽シ、名分ヲ知、御国体ヲ弁ヘ、真俗二諦不相妨様、門徒末々迄 モ 厚 申 論・・」 と あ り、 さ ら に 広 如 上 人 の 遺 言 と し て、 「 明 治 四 年 辛 未 年 初秋下旬   右此消息は前住ノ遺訓而、 祖師相承ノ宗義、 真俗二諦之妙旨也、 浴一流輩奉此遺訓、進而ハ遵政令、退而弁出要候事、可為肝要者也   壬申 春正月   龍谷寺務釈明如 印   」とあ り )11 ( 、当面する世俗の権力(王法)を受 け入れつつ、祖師相承の定めとして、宗門護持に現実的役割を果たす「妙 案」と受け取られたものであった。能海寛としても新仏教徒としてアジア 五 億 の 仏 教 徒 を 念 頭 に 置 き な が ら、 実 際 の 郷 里 に お け る 寺 壇 の 運 営 に あ たっては、寺壇と門徒との相生策も考慮に入れなくては成らず、能海がチ ベットから帰還した場合にも、寺は寺として厳かに維持され、又その寺の 維持を支える門徒集団の整然とした活動が、自動的に地域活性化に繋がっ ていく体制をとらなくてはと考えたに違いない。先ず能海は、郷里に帰っ たこの時期を逃してはならないと行動に移したのであるが、檀家三八〇 戸 )1( ( とそれ以外の一般住民に対し、全体の体制作りを完成させる法整備は、あ るいはチベット探検中のことに成るかと懸念していたが、それは見事に的 中した。長江遡上中、いつ三峡の危険な個所で船の転覆が起こりはしない かと恐れながら必至に書き置いた「真俗二諦」の基本的あり方を書き置い ていた。重慶上陸後、第一次探検行に出、ダルツェンドを抜け遙か巴塘ま で進みながら地元住民や官憲の反対にあい、止むなくダルツェンドに止ま り、二種の法典を作り、次の成功を祈っていたのである。   (三)   ダルツェンドで思うこと   筆者は今、なるべく明治二六年、郷里に帰った能海寛と語り合いたいと

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思っているのであるが、能海は第一次探検行で地元人間や在地の役人に体 よく追い払われてやむなく巴塘から引き返し、 一人ダルツェンド(打箭鈩) に止まり、同行した寺本婉雅と別れ、明治三二年一〇月から翌明治三三年 五月まで、チベット語経典の翻訳やチベット出発以前内地において色々と 考えていた事全て一気に吐き出してしまった。その中で筆者がすでに発表 した能海の「一統教宗」についての教義などは、大部分は省略する。ただ し能海が内地でも考えていたに違いないと思われることで省略出来ないも のもある。出発前、脳裏には十分着想していたに違いないが、急遽東京に 出 た た め、 は る ば る 持 ち 越 し て き た も の が 幾 つ か あ る。 「 一 統 教 」 に 付 随 する「天頂山法典」もその一つである。著作集第一四巻に記録されている が、法典は二種あり、第一典「浄蓮寺師檀規約十ケ条」と第二典「浄蓮寺 波佐教会規約八ケ条」とがある。どれも正規の原案となるまでには相当の 手入れを必要としたらしく、第一典の原案には一二条の案もあった。但し 何故二典があったのか。これこそ能海が言う真俗二諦のあり方を裏付ける も の で「 真 」 が お 寺、 「 俗 」 が 教 マ マ 会 と 見 れ ば、 能 海 と し て は 波 佐 倶 楽 部 立 ち上げにも間に合わせたかったものが第二典であったであろう。長江遡上 中に書き留めたこれはモデル案であり、もっと具体的な規約を提示できれ ばと日誌に用意されたものが著作集第一四巻所載の両法典であり、何度か 書き換えを図るほど判読しがたい個所もあった。能海は本山上申のため清 書用を弟齊入に送り届けるのが常であり、本稿もその整理されたものであ る、今、内地において興した『波佐倶楽部』との関わりからも第一典「師 檀規約」を省き、俗諦としての第二法典を復元して見ていこう。 「浄蓮寺波佐教会規約八ケ条(草案) 」   第一条     仏教は波佐村の公教にして天頂山浄蓮寺は波佐村教会の総公寺 なり   第二条     浄蓮寺は波佐長田両大字金城の教権を有し之を管す   第三条     波佐長田両字を以て浄蓮寺化教地と称し其一般住民を浄蓮寺化 教員と称す   第四条     総 公 寺 寺 役 は 其 化 教 地 内 に 於 て 教 会 結 社、 御 座 組 合、 小 寄 講、 青年教会等を以て仏教の普及を謀り又化教地内他壇応招の仏事 仏式に臨む     一     教会結社は一般宗教及び通仏法を演説し仏教各宗教徒の結社と す   之に社員中より社長一名宛を置く     二     御座組合は真宗説教をなし真宗各派門徒及び随喜者を以て成る   毎月逓次之を開く   組合中より組長一名宛を選び置く     三     子寄講は真宗法話をなし同行自督の安心を正すの会とす   之に 同行中より講頭一名宛を選び置く     四     青年教会は未だ一家を有せざる青年子弟を特別に教誡す   之に 会員中より会長一名選び置く   第五条     化教員は総公寺を招待し例月順次規定の会合を開き一同参集聞 法致すべし   第六条     化教員は総公寺を永久に維持すべし又総公寺春秋三大法会中日 は化教全区域休業参詣すべし其他古来の慣例及び法規を順守す べし   第七条     浄 蓮 寺 化 教 地 内 教 務 に し て 重 大 な る は 住 職 及 び 各 社 長、 組 長、 講頭、及各会長協議の上へ決す

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  第八条     浄蓮寺及其化教員は此の規約に調印し其日より永世不変当規約 を守るべきことを盟ふものなり        (以上)   なお、省略した第一法典の第五条に「二諦相依の宗風を守り…」とあり 能海は寺と檀家の関係は同一ではないが出来るだけ相互寄り合うことを規 定して、真宗門徒に行きわたった真と俗の厳格な分段は望まないことを明 確に規定化している。   (四)   一統教宗の本山は天和寺、天長寺、天頂山、どちらなのか   以上、 能海はチベット出発後、 一統教宗の教祖であることを明らかにし、 教義や組織のあり方などを著作集第五巻一二二頁 -一二六頁に書き残して きたが、明確に本山としていないが「天和寺釈国安」と書き、また「宝多 山   天和寺」と書くが、著作集第一四巻一四四頁には「万国公教   一統教 宗   天頂山法典」とあるが、同巻のすでに紹介した「浄蓮寺」を冠した法 典 の ほ か、 「 天 頂 山 」 を 冠 し た 法 典 が あ る。 ま た 同 一 四 九 頁 に は「 天 和 寺   実 義 宗 本 山 」 と あ り、 「 実 義 会 本 部   実 義 会 教 則 と し て 会 員 は 空 理 空 論 を 避けて実義を信じ…」とある。また、同頁左半分に「潤郷社   造資社   法 中 造 資 社   宝 多 山( 普 陀 落   天?)   明 治 仏 教 公 会 堂 」 と あ り、 潤 郷 社 は 能海も出席していた波佐倶楽部の会合のための定席場所である。最終頁に 明治三三年二月一六日との日付け入りで一七頁に及ぶ能海姓出現の過程を 踏みつつ長田 ・波佐等の郷里開発の歴史が語られ、その間、天長山長福寺 の出現、天頂山浄蓮寺開基段に及ぶ注目すべき史料のほか、別ページに掲   載するが、明治三〇年の「波佐一年の物産見積」などが含まれている。以 上長い引用で結局一統教宗の本山が能海の思いの中で、限りなく天頂山浄 蓮寺に近づいていたことと、 (恐らく予想以上に)困難な旅を続ける中で、 郷土の発展の鍵は、波佐倶楽部の活躍を祈ることで、自己を叱咤激励する エネルギー源となっていったのではないかと思うのである。   (五)   波佐倶楽部顛末   能海が帰郷して早速始めたのは父謙信のもとで法務を果たすことであっ た。東京で学問を積んだ気鋭の僧侶として檀家の法事ばかりでなく、報恩 講や地域を越えた行事に呼び出されることも多かった。そのような身であ りながら、同年一一月には自著『世界に於ける仏教徒』が哲学書院から発 刊された。 能海がチベットに行こうとしていることは、 村中では分かりきっ ていたことであるが、義父謙信からはなかなか許しが出なかった。気のせ いた能海は二七年一月三日の「口代」書き置きに続いて同一月三十一日夜 には父謙信と兄法言にはチベット行きのこれまでの経過と今後の予定を説 明し了解を求めた。なお、これも前に触れたことであったが、同年七月京 都に出て本山に出向き、嘆願書とともに履歴書、費用概算等を提出、一日 も早い決定を願い出たが、同二五日、日新戦争が始まり、能海の計画は頓 挫 す る こ と に な っ た。 そ う し た 状 況 か ら、 い つ ま で 時 期 を 待 て ば 良 い か、 不 明 の 内 に も 能 海 は 郷 里 と の 関 係 を 絶 た ず、 浄 蓮 寺 と 地 域 が コ ラ ボ レ ー ションできるものはないかと考えた。そこで思い浮かべたのは、自分の将 来計画のなかでメモにも書き入れた真俗二諦の実践であった、最近の歴代 門主が寺院経営のために門徒教育の一環に組み込まれた真俗二諦の追求は どうすれば良いのかと考えた。幸いと言おうか、 能海がチベットに行かず、 寺の整備と檀家の教育を寛(ゆたか)が引き受けてくれるなら願ってもな

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いことで有る。寛(ゆたか)は先ず寺の歴史を明らかにする事から手を付 けることにした。次に浄蓮寺ばかりでなく親戚寺の歴代法首調べや過去帳 を明らかにする。寛は八歳の時父法幢が亡くなり、母ユクノは三番目の夫 謙信を有福の佐々木氏から迎え入寺し、兄法言はユクノの最初の夫徳言の 長子であり、当然寛より年上で謙信を継ぐ一四世にあたっていたが、世間 はむしろ学識を積んだ寛(法名放流)の継承を望んでおり、法言自身も万 事 控 え め な 性 格 で 法 事 も 義 父 や 義 弟 で あ る 寛 に 任 せ る こ と を 望 ん で い た。 そうした意味合いで寛のチベット行きも否定的であった。そうした状況で 法務に積極的な寛の下に村起こしに関心のある青年が集まってくるのは自 然の勢いであった。こうした状況は能海が感得した真俗二諦実現の場とし ても格好の場所であった。郷里に帰っても何かと忙しい寛はまず、数名の 発起人と打ち合わせをした。選んだ場所が本稿前出の波佐村潤郷館上の階 (楼上という)であった。名称が先に決まった。 「波佐倶楽部」である。こ の名前も寛の提案であったろう。当時、 最初の発起人は周旋人と呼ばれた。 ここからの倶楽部の進行は著作集第九巻廻状・廻章四一一頁から五二九頁 までにまとまって掲載されている。おもな項目順に並べると次の通り。 一、 廻状(通知文) 、  二、 廻状の通知先(会員名一覧であるが有志宛となっ ている)   三、波佐倶楽部規約   四、波佐第一号会誌   各項の内容を少し説明を加えると、一の廻状とは村単位に該当者あての いわば回覧板である。会合通知などに使われ、都合悪く欠席する者は「周 旋人」=取りまとめ人に個別に返事をだす。 二の廻状通知先   書かれた氏名順に回覧し最後の者が周旋人に戻す。   なお以上の外、三及び四についても説明を加えるべきであるが、限られ た紙面の都合により以下を省略し、 他日に譲る失礼をお詫びするとともに、 今回の能海の取り組みは、西本願寺門主の布令を嘗て普通教校に学んだ縁 により、真俗二諦の実践を地方産業振興に役立てたいとの思いを掛けて取 り組んでいたのではないかと推量したものであることをお断りして本稿を 閉じたい。 ≪ 注 ≫(敬称略) ( 1 )  能 海 寛 著『 世 界 に 於 け る 仏 教 徒 』( 明 治 二 六( 一 八 九 三 ) 年 一 一 月 哲 学 書 院 刊 ) な お 原 書 は 旧 漢 字 カ タ カ ナ 交 じ り で あ る が、 本 論 引 用 の 場 合 は 原 則 と し て 標 準 漢 字・ ひ ら が な 交 じ り と す る。 ま た、 本 書 の 復 刻 版 が 平 成 一 四 年五月、波佐文化協会から刊行されている。 ( 2 )  拙 稿「 新 仏 教 徒 能 海 寛 と 一 統 教 」( 東 洋 大 学 ア ジ ア 文 化 研 究 所 研 究 年 報 二〇一五年   第五〇号)参照。 ( 3 )  拙 稿「 新 仏 教 徒 能 海 寛 の『 在 渝 日 記 』 に 見 る 連 作 五 言 詩 に つ い て 」( 東 洋 大学アジア文化研究所研究年報二〇一七年   第五二号)参照。 ( 4 )  『能海寛著作集』 (以下単に著作集という)第五巻一二二頁~一二六頁。 ( 5 )  隅 田 正 三 著『 改 訂 版   チ ベ ッ ト 探 検 家 求 道 の 師 能 海 寛 』( 二 〇 一 〇 年 六 月   USS 出版)一五〇頁所収「学資金募集に付訂約書」参照。 ( 6 )  著 作 集 第 一 五 巻 四 五 四 頁 に「 大 谷 派 本 願 寺 事 情 聞 書 」 に、 明 治 五 年 か ら 明 治 八 年 頃 の 本 山 寺 務 運 営 上 の 財 政 問 題 な ど に つ い て、 改 定 寺 務 所 役 員 に よ っ て ま と め ら れ た と 思 わ れ、 「 八 十 余 万 円 の 借 財 が あ る 」 と 厳 し く 内 部 批判がおこされている。 ( 7 )  井 上 圓 了 の 哲 学 館 は、 「 哲 学 館 講 義 録 」 を 発 行 す る と と も に、 巻 末 に『 館 内 員 勤 惰 表 』 を 実 名 で 発 表 し て い た。 要 は 月 別 の 講 義 出 席 回 数 表 で あ る。 親 ま た は 保 証 人 に も 配 布 さ れ た と も 言 わ れ て い る。 初 期 哲 学 館 の 講 義 は 毎 日午後に行われており、 能海の出席率は可成り高いものであった。拙稿 「能 海寛と長江三峡行」 (『白山史学』第三四号   一九九八年四月)参照。 ( 8 )  「 特 言 学 」 は 梵 語 学 ま た は 文 献 学 の こ と で 加 藤 弘 之 の 訳 語 と い う。 ( 前 注 7 参照。 )なお、能海が「経歴に付考うる処あり」と感想を漏らしたのは、

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後 の こ と で あ る が、 能 海 に 学 校 を 作 る 考 え が あ り、 そ の 後、 南 条 先 生 を 将 来の校長として迎えたいとの考えが各所であかされている。 ( 9 )  著 作 集 第 三 巻 一 一 三 頁 に あ る 表 紙 に は『 明 治 二 四 年 一 月 一 日 作 春 秋 日 録 第九号』 とあるも本文が無く、 同一一七頁には 「春秋日記第一八巻」 とあり、 一 月 一 日 か ら 始 ま り 同 一 五 日 に 哲 学 館 入 館 の 月 謝 を 納 め、 そ の 後 の 二 二 日 に本記事がある。 (⓾)   「口代り」   著作集第一巻二〇九~二二四頁   明治二七年。 (⓫)   こ の 日 記 は 著 作 集 第 三 巻 に「 春 秋 日 記 」 と あ り、 内 表 紙 に は 渡 清 日 記 と あ り、 内 容 は 能 海 が チ ベ ッ ト 探 検 に 出 発 す る ま で の 明 治 三 一 年 一 〇 月 四 日 か ら 始 ま り、 一 一 月 一 二 日、 西 京 丸 が 神 戸 を 出 港 す る ま で が 書 か れ、 以 後 は 文 字 通 り 渡 清 日 記 と な る。 一 二 月 末 は 鄷 都 県 泊 ま り ま で。 第 四 巻 先 頭 は 官 話 記 一 号 と し て 能 海 の ス ケ ッ チ に よ る 三 峡 上 り と 能 海 の 中 国 語 学 習 簿 で 構 成 さ れ て お り、 第 一 〇 巻 に 第 一 次 探 検 手 帳 ⑥ と あ る が、 殆 ど 明 治 三 一 年 か ら 三 三 年 ま で の 金 銭 出 納 簿 に 終 始 し て い る。 著 作 集 は「 四 巻 に 欠 落 」 と あ る が む し ろ 第 三 巻 の 春 秋 日 記 最 後 に 配 置 さ れ て い る の が 正 し い か と も 思 わ れ る。 ま た、 こ の 巻 を 国 内 に 於 い て 神 戸 出 港 ま で と 神 戸 出 港 以 降 豊 都 県 ま で を 分 割 し て 各 一 冊 計 二 冊 に す る の も 能 海 の 旅 に は 相 応 し い の で は な い か。 (⓬)   著 作 集 第 一 〇 巻 に 明 治 二 七 年 七 月 と し て 高 島 上 陸 の 記 事 が あ る が、 九 日 以降に美農郡土田村字高島として島影をスケッチした絵を残している。 (⓭)   志 波 健 二『 高 島 に 於 け る 能 海 寛 の 活 動 ― 短 歌 の 解 説 を 通 し て 』( 『 石 峰 』 第八号)の記事がある。 (⓮)   隅田正三著前掲注五の書一八頁から引用。 (⓯)   隅 田 正 三「 『 能 海 寛 』 西 藏 探 検 行 の 源 流 を 探 る 」( 『 石 峰 』 第 一 一 号   二〇〇六年二月) 。 (⓰)   隅 田 正 三 の 能 海 研 究 に 関 す る 論 考 お よ び 講 演 は 数 多 く あ る が、 本 項 で は 取り合えず主要な次の著書三点を挙げようと思う。    『 チ ベ ッ ト 探 検 の 先 駆 者・ 求 道 の 師。 能 海 寛 』( 一 九 八 九 年 一 二 月   波 佐 文 化協会) 。    『前掲注 5 の書』 。    『 能 海 寛 生 誕 一 五 〇 年 記 念   新 仏 教 徒 運 動 の 提 唱 者   求 道 の 師『 能 海 寛 』』 (二〇一八年四月   波座文化協会刊) 。 (⓱)   著 作 集 第 五 巻   「 明 治 三 二 年 ~ 明 治 三 四 年   中 国 全 行 程 記 録 」( 二 九 九 頁 ~三八〇頁) 。 (⓲)   拙著『長江物語』 (一九九九年六月   大修館書店) 。 (⓳)   拙 稿「 能 海 寛 と 宗 教 的 立 場 ― 渡 清 日 記 に 見 る 」( 『 石 峰 』 二 〇 号   二〇一五年三月) ( ⓴ )  福 間 光 超・ 佐 々 木 孝 正・ 早 島 有 毅 編『 真 宗 史 料 集 成 』「 第 六 巻 各 派 門 主 消 息   一本願寺派歴代消息 9   広如集」 (一九八三年一〇月   同朋舎出版)     なお、 別に福間光超「近世後期真宗の世俗倫理について―『掟』から『教 義 』 へ ―」 (『 龍 谷 大 学 論 集 』 第 四 二 九 号   一 九 八 六 年 )、 西 義 人「 真 俗 二 諦 説 の 構 造 」( 一 九 五 六 年 一 一 月、   宮 本 正 尊 編『 仏 教 の 根 本 真 理 ― 仏 教 に おける根本真理の歴史的諸形態』三省堂   一九五六年)他   参照。   付図   1「県境榜示峠から浄蓮寺を臨む」隅田正三氏提供      2   能海寛資料を基に隅田正三氏作成。   本稿は平成三〇年度東洋大学井上円了記念研究助成金 (個人研究) (校友の部) の交付を受けたもので関係者各位に深く感謝を捧げるものである。 (客員研究員)

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付図 1

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  Yutaka Nomi, who had published his work “The Buddhist in the world” in the year 1893 (M.26), finished his three-year program of “Tetsugaku-kan” (the institute of philosophy) founded by Enryo Inoue, came home Joren-ji Temple in Nagata, Kanagi-Village, Naka-County, Shimane-Prefecture. He had been talking about his exploring Tibet to many people around him.

  In the hometown, he assisted hard the temple priest, his father, with priest’s common work. He had been expecting the permission of going to Tibet from the headquarters of the sect. However, in July 1894 (M.27), the war between Japan and Ching, China broke out. Nomi’s going to Tibet was not permitted against his expecting.

  Expecting the war ends soon and his being able to go to Tibet, Nomi returned home to assist hard his father. He founded “Haza Club” with young people and gave them a large amount of knowledge. They contributed altogether to promote industries in the town. Shortly the war was over. Nomi was given the permission and funds from the headquarters. In November 1898 (M.31), he left for Tibet.

  Nomi’s purposes of going to Tibet were having got the real Buddha’s history and the correct Sutra. Moreover, as Asian 5 hundred million people are Buddhist, he was going to look for a new Buddhism, which the people could accept easier. Unfortunately, Nomi had been missing after April 1901 (M.34). In this year, it is 150 years from his birth.

Abstract

A New Buddhist, Yutaka Nomi and his remedy for his

religious sect in his hometown, before his leaving for

Tibet

参照

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