カッセルの宮廷楽長シュポアの音楽活動とその評価 : 19世紀の音楽史再考に向けて
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(2) 甲南女子大学研究紀要第 43号. 文学 ・文化編 (2007年 3月. ). であ った半音階的手法 ,エ ンハ ーモニ ック的 な和音解. う市 民 が 勃 興 す る歴 史 的 背 景 か らみ て い く こ と にす. 決 ,大 胆 な転 調 ,9度 音程 を多用 したため ,モ ダ ンで. る。. 進歩 的 (Peters 1987:9),と きには前衛 的 といわ れて もい る。 しか し後期 にお い ては,特 に リズム 的要素 に お い て規則 的 な 3拍 子 に偏愛 し,ロ マ ン派 に特有 な. ,. 形 式 構 的造 か らの 大 きな 離 脱 は な い (Peters 1987: 9)。. さらに旋律 は, しば しば甘美 でセ ンチ メ ンタル. メラ ンコ. lリ. ,. ック, そ して また弱 々 しく軟弓 弓な特徴力薄旨. 摘 され る。す なわ ち,形 式 的 には ウ イー ン古典派 の均 整 の とれた リズムや形式 の伝統 を受 け継 ぎ,オ ー ケス トラにお ける器楽法 は大規模 で はない なが ら,和 声. ,. 音色 ,デ ュ ナ ー ミクの面 で は早 くに ロマ ン派 的 であ る とい える (Pcters 1987:44)。. 1。. 2.「 ビーダーマイヤー作曲家」. 19世 紀前半 が ,ロ マ ン主 義 だ けの時代 ではない こ とは明 らかである。 フランス革命が実行 され世紀が変 わる頃か ら,社 会 ・文化 の主体 はそれまでの貴族 か ら 市民へ と移行 し,教 養 を求める市民 の欲する文学 ,美 術 ,音 楽が量産 されるようになった。 こうした市民的 な文化様式 は・文学や美術 の分野 で,「 小市民的」,す なわち「小 さい もの」,「 田園的なものへ の憧 れ」,「 心 地 よい雰囲気」 などのキーワー ドで象徴 される ビー ダ. そ の ため に シュポ ア に. ーマ イヤー とい う概念 で表す ことがで きる。 ビー ダー. ェ ーバ ー. マ イヤーは,1855∼ 57年 に中流階級家庭向けに刊行. マ ル シュナー. されていたユーモ ラスで政治的な週間雑誌 『フリーゲ. 対 す る評価 は さらに分 かれる。す なわ ち,ヴ. Carl Maria von Weber(1786-1826)や. HeinHch Marschner(1795-1861)と 並 んで ドイツにお. ンデ ・ブ レッター Fliegende. ける音楽 の「 ロマ ン派 の創始者」,「 古典派 に近 い ロマ. ロー トLudwig Eichrodt(1827-1892)の 詩作 「ビー ダ. ン主 義 者」 (Riemann 1967:709),「 ロマ ン派 的性 格. ーマ イヤーの歌」 に由来す る。主人公 のビー ダーマ イ. を もつ 室 内楽 を書 く ビー ダーマ イヤ ー Biedermeierの. ヤーは実直かつユーモ ラス な俗物小市民 であ り,こ の. 代 表者」,ま た ,マ ル シュナ ー ,ロ ル ツ ィ ン グ Albe■ レ ー ヴ ェ Carl Loewc(1796-. 言葉 は当時の中産階級 の もっていた風潮 を表す のに J。 この時代 に 多少 シニ カルな意味合 いで用 い られる. 1869),そ して シュナ イダー Friedrich Schneider(1786. は市民 のあ らゆる領域へ の教養熱が高 まり,音 楽 にも. -1853)と 並 んで シュポ アは ネーベ ンマ イス ター とさ. 公私問わず さまざまな場で市民がみずか ら参加す る形. しか しまたそ の 古. を取 るようにな り,そ の機能に応ずる ように音楽家 は. 典 的 な形 式 規 範 に つ い て は ,ブ ラ ー ム ス JOhannes. 曲を書 き演奏 した。それゆえに音楽において もこの ビ. Brahms(1833-97)な どに受 け継 が れ て い る とい う こ. ー ダーマ イヤーの概念が借用 され,広 い意味 で市民参. ともで きる‖。. 加 を受けたさまざまな面が ビー ダーマ イヤー現象 と呼. Lortzing(1801-51),. れたのであ った (Kilian 1986:6)。. Blatter』. にお け るアイ ヒ. ,. 確 か に音楽史 を様式 史的 な変遷 とい う観点 か らみ た. ばれた。いわゆる群小作曲家たちが 「芸術 のための芸. 場 合 には,こ の よ うな シュポア作 品 の様式特徴 がそ の. 術」 を実践す る「芸術家」 とは異な り,大 衆 の趣味に. よ うに,同 時期 に芽生 えつつ あ る ロマ ン派音楽 の独創. 迎合 したかたちで音楽 を書 いた現象 もそれにあてはめ. 性 や内面 の感情 の表 出 な どとい ったキ ー ワー ドか らは. られた。その時代 の典型 としてシュポアはその芸術的. ほ ど遠 く,保 守的 であ る こと も否 め な い。 しか しそ う. 価値が評価 されず,オ ペ ラ,オ ラ トリオ,教 養市民が. した彼 の作 品か らのみの評価 に よって ,彼 の音楽家 と. 気軽 に楽 しめる室内楽小品などのジャンルにおいて広. して の 活動 全 般 を否 定 す る こ と もで きな い 。 す な わ. く人気 を博 し,シ ューマ ン Robe■ Schumann(1810-. ち,彼 はその生 涯 の最 後 の約 30年 間 を送 る こ とにな. 56), ヴ アー グナ ー Richard Wagner(1813-1883)が. った カ ッセルにおいて ,バ ッハ の 「マ タイ再演」 を含. 活躍 した後 も新 しい世代 か らみれば反動 的 な立場 を示. め た合唱団 の組織 や劇場 での オペ ラ上演 な ど幅広 い活. したが ため に,シ ュ ポアに対 しての ビー ダーマ イヤ ー. 動 を して い るか らであ る。本論 で は,こ の様式 史 にお. 作 曲家 とい う評価が根 強 い。市民が参加す る音楽祭や. い ては否定 的 な評価 した され なか った シュポアが ,選. 合唱団 で歌 われ る合唱 曲,す なわち市民 の 求 め る音楽. 定侯 国 の首都 カ ッセルで音楽家 と して どの よ うな活動. を書 くことに よって社 会的現 実 と結 びつ き (Dahlhaus. を行 い ,ま たそれが 当時 の脈絡 にお い て どの よ うな意. 1988:177;Hcussner 1959:423),そ の結 果 内容 が不. 味 を もっていたのか につい てみて い き,そ れが 音楽史. 揃 い な上 に形 式 的 に 閉 じて い る な ど (Bucken 1929:. にお い て どの よ うな意味があ るのか を考察 す る こ とに. 80),柔 軟性 の な い作 曲技 術 とい う評価 も彼 には下 さ. す る。. れた。 そ して ジ ン グシュ ピール を多 くか い た ロル ツ ィ. 次 の 項 目で は ,ま ず彼 が過 ご した 19世 紀 前半 とい. ング,些 末音楽 の典型 とい われ るオラ トリオ 《最後 の.
(3) 三島. 審半J Der Weltgericht》. 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シユポアの音楽活動 とその評価. (1819)を 書 い た シュナ イ ダー. θJttι zsJttJJscん ιttJ′ んg』 (以 下 A“ Z “ “ “ お け る シ ュ ポ ア に対 す る作 品 や演 奏 評 な どか. 股音楽新 聞. AJJgι. ら と と も に ネ ー ベ ンマ イ ス タ ー (Hcussner 1959:. と略 )に. 429)と され , ビー ダーマ イヤ ー の典 型 とみ られ て き. ら,当 時彼 が どの よ う に評 価 され ,演 奏 や作 品が受 容. た 。 また傍 流 ロマ ン主義 者 とい う こ とばが 示 す よ う. され て い たの か をみ て い く こ とに した い 。. に,ロ マ ン主 義者 で は あ って も主流 で はない とい うみ かた をされ るの もビー ダーマ イヤ ー作 曲家 に共通 して. 2。. シ ユ ポ ア に対 す る 当 時 の 評 価. い る。 また当時 の多 くの作 曲家 はモ ー ツ ァル トを模範 と し. 2。. 1.ヴ ァイオ リンの ヴ ィル トゥオ ー ソ. て敬 い ,そ の神 的 な明 る さや天才 に与 え備 わって い る. シュポ アは 1784年 4月 5日 に北 ドイツの ブ ラ ウ ン. メラ ンコ リー を求 めて い た。難解 で複雑 なベ ー トー ヴ. シュヴ ァイクに,ヒ ルデスハ イ ム近郊 の 町出身 の 医者. ェ ンをで はな く,モ ー ツ ァル トを好 む この傾 向 も ビー. の 父 カ ー ル 0ハ イ ン リ ヒ ・ シ ユ ポ ア Karl Hcinrich. ダーマ イヤ ー の一側面 であ る とい われ る。 生涯 変 わる. Spohrと ブ ラ ウ ンシ ュ ヴ ァイ ク出 身 の 母 ユ リア ー ネ. こ とな くモー ツ ァル トが 音楽 の理想型 ・模範 で あ り. Juliane Emestine Luise Henkeの もとで七 人兄弟 の 長男. 多 くの作 品 でモ ー ツ ァル トを引用 し,モ ー ツ ァル ト的. として生 まれ ,小 さい 頃 か ら父の フル ー トと母 の ビア. な もの を書 き,モ ー ッ ァル トの熱烈 な崇拝者であ った. ノで 家庭音楽 に親 しんで い た。彼 の両祖父 は二人 とも. シ ュポアは,モ ー ツ ァル トエ ピゴー ネ ンの最 たる代表. 牧 師 であ った。 この生 い立 ちはそ の後 の彼 の 人生 を. 者 とい われた。. ブ ル ジ ョワ的 に,そ して ま じめで分別 の ある もの に し. ,. ,. た しか にダー ルハ ウスの い う「現実 の ,心 地 よ く小. た。 また安定性 を求 め る姿勢 は,ブ ラウ ンシュ ヴ ァイ. 市民 的 な もの ,ロ マ ン主 義精神 の 皮 相 化」 (Dahlhaus. ク,ゴ ー タ,カ ツセ ルの 宮廷 の 庇 護 の も とで の 就 職. 1988:177)と い う ビー ダーマ イヤ ー の特徴 は ,シ ュ. や ,ザ クセ ン,テ ユ ー リ ング ン,そ してヘ ッセ ン地方. ポアの小形式 の作 品や弱 々 しい旋律 ,ま た彼 がサ ロ ン. とい う比較 的限 られた地域 での居住 な どにみ る こ とが. コ ンサ ー ト用 に多 く作 曲 した ことな どと合致す る。 シ. で きる。. ュ ポアが道 徳 的 に正 しい生 活 を送 り,仕 事 の しかたは. 1790年 に フラ ンスか らの亡命 貴 族 陸軍少尉 で ア マ. 冷静 で実際的 であ り,常 に手 の届 くもの を目指 し,け. チ ュ ア音 楽家 の デ ュ フ ール Dufourの もとで ヴ ァイオ. れ どもや は り低地 ドイツの閉鎖 的 で安 っぽい もの には. リ ン を始 め ,1797年 に音 楽教 師 で 宮 廷 音 楽 家 の ク ー. 1984:8-9)こ う した シュポ アの. ニ ッシ ユ Gottfried Kunischと オル ガ ン奏者 のハ ル トゥ. 態 度 は ま さに ,ビ ー ダ ーマ イヤ ー市 民 的 だ とい え よ. ング Ko A.Hattungに つ き,1798年 にす で にハ ンブル. う。 とい うの も,ビ ー ダーマ イヤ ー作 曲家 たちは,市. クに演奏旅行 に出掛 け るほ どで あ つた 。 1799年 に 15. 民 にはわか りやす い が , どち らか とい う と個性 の 乏 し. 才 で ブラウ ンシュ ヴ ァイクの カー ル ・ ヴ イルヘ ルム ・. い 曲 を書 い た ため に ,1840年 以 降 の 個 性 ・独 創 性 を. フェルデ イナ ン ト公 爵 Karl Wilhelm Ferdinand(1735-. 重 ん じる ロマ ン主 義信奉者 か らネガテ イヴにみ られた. 1806)の 宮廷楽団 に楽 士 と して入 り,100タ ー ラー の. か らであ る。. 年俸 を もつ音楽家 と して の生 涯 を始 め る。当初 彼 の 父. 距離 を とる. (Gё thel. そ して音 楽史 にお い て作 曲家や作 品が社 会 の現実 や. は彼 の音楽家 の職業 に反対 であ ったが ,音 楽家 の社会. 機 能 と結 びつ き,そ の結果作 品 の芸術 的価値が 二 の次 になった とみ られたのであ る。 しか しビー ダーマ イヤ. 的地位 を向 上 させ る とい う彼 の強 い意志 に承知 した と い う。 この 頃宮廷 の演奏会 では トラ ンペ ッ トや トロ ン. ー は 19世 紀前半 の三 月革命前期 の一 面 で あ って ,ロ. ボ ー ンに ミュー トを付 け た り絨 毯 を敷 くな どの消音操. マ ン主義 に対置 され る概念 で はな く,ビ ー ダーマ イヤ. 作 を して , トラ ンプゲ ームのバ ック ・ ミュー ジ ック と. ー作 曲家 が ロマ ン派 で ない とはい えない 。 したが って. して演奏 しなければな らず ,シ ュ ポアは公爵家で の音. 他 の作 曲家 も含 めて シュポア を一少 な くともロマ ン派 作 曲家 に対置 させ て一 ビー ダーマ イヤ ー作 曲家 とい う. 楽 生 活 に不満 ももっていた (回 想録 I:1-8)。 また こ こ に滞 在 して い た フラ ンス オペ ラの一座 か らケ ル ビー. 範疇 に組 み込 む ことはで きないの であ る。次 にシ ュ ポ. ニ Luigi Chembini(1760-1842)の 存 在 を知 り,そ し. アの音楽家 と しての履歴 と活動 を,彼 が 置 かれた歴 史. て ハ イ ドン JOseph Haydn(1732-1809),モ ー ツ ァル. 的 ・文化 的状 況 の コ ンテ クス トの 中 で み る こ とに す. ト,ベ ー トー ヴ ェ ンの弦楽 四重奏 曲な どを知 りそ の後. る。そ の 際 ,シ ュポアの音楽家 と しての さまざまな経. ウ ィー ン古典派 に傾 倒 す る基礎 をつ くってい る。 1802. 歴 tそ して 18世 紀 に発 刊 された ライプツ イ ヒの 『一. 年 にフ ェル デ ィナ ン ト公 か らヴ ァイオ リ ンの 師 の選択.
(4) 甲南女子大学研究紀要第 43号. 72. をまか された際 ,イ タリアの ヴ アイオ リ ンの 名手 であ. 文学 ・文化編 (2007年 3月. は ,6月 の A“ Zは. ). ,パ リの新 聞 の 3月 上 旬 の 記事 が. っ た ヴ ィ オ ッ テ ィ Giovanni Battista Viotti(1755-. 「 シ ュ ポ アの 死」 を誤 って 報 道 した騒 ぎを伝 え て い. 1824),そ して パ リの ヨハ ン ・ フ リー ドリ ッヒ ・エ ッ. る7。 実際 は シュポアは ドレ ッテ とともに 同年 2月 28. 就 こ う と した. 日に無事 に ロ ン ドンにい たのだが ,こ の記事 は シュポ. が ,相 次 い で うま くい かず ,結 局 ヨハ ンの弟 フラ ンツ. アの 名声が ヨー ロ ッパ に広 まって い た こ とを示す もの. ・エ ック Franz Eck(1774-1804)・ の も とで 学 ぶ こ と. で あ ろ う。 この 6月 の記事 も,妻 の ハ ー プ奏者 の ドレ. になった。 そ して彼 は この後 師 につ くとい う こ とが な. ツテ Dorette Scheidler(1752-1832)騨 とともにシュポア. く,作 曲 もい わば独学 で学 ぶ こ とになるので ,エ ック. の ヴ ァイオ リ ン奏 者 と しての 才 能 を褒 め ち ぎ ってお り り ,こ の よ うな記事 は シュポ アが カ ッセ ル に赴 任 す る前後 まで続 い て い るЮ. ク JOhann Friedrich Eck(1766-1810)に. が唯 一 の 師 で あ った とい える。 1802年 に ,エ ック と ともにハ ンブ ル ク,ダ ンツ ィヒ,ケ ーニ ヒスベ ル ク. ,. I。. また A“ zは ,奏 者 と しての シュポ アだ け で な く. リガ ,サ ン ク トペ テ ル ブ ル ク ヘ 演 奏 旅 行 を して い 5。. る. 1803年 に彼 は演奏旅行 か ら戻 った あ とヴ イオ ッ. テ イの 弟子 の フラ ンス 人 ヴ ァイオ リ ン奏 者 の ロー ド. ,. 以下の よ うな彼 の作 品 につい て も賞賛 の記事 を書 い て い る。. Jacques PieFe Rode(1774-1830)の ヴ ァイオ リ ン演奏 を聴 き,以 後独学 で学 ぶ上で作 曲技 法 にお い て最大 の. 。有名な巨匠のす ばらしい作品。 《交響曲二長調》 い に るのはメヌエ ッ トで,真 に独創な して 特 卓越. 影響 を受 けた と言 われている。. 曲 で生 き生 きと した フ ィナ ー レで あ る。 (A“ Z. こ う して ヴ ァイオ リ ン奏者 と して シュポアの音楽家 の生 涯が始 ま り,ま た若 い うちにす で にヴ ァイオ リ ン. 1821.4.H.,Nr.15,Sp.239。. ). 奏者 と して 名声 を確実 な もの に して い た。音楽批評家 ロ ホ リ ッツ Johann Friedrich Rochlitz(1769-1842). また 1810年 代 末 か ら 20年 代 にかけて ,シ ュ ポアは. は,1804年 12月 10日 と 17日 の ラ イプ ツ イ ヒの グ ヴ. す で に ヨー ロ ッパ に鳴 り響 く名声 を得 て お り,1822. ァン トハ ウスにおいてシュポアが 《ヴァイオリン協奏. 年 には ,「 昨年活躍 した 第 一 線 の 芸術 家 の 中 で は宮 廷. 曲第 2番 》 (op.2,1804)の 演奏 で デ ビュー した際. 楽 長 の フ ン メ ル JOhann Nepomuk Hummel(1778-. Zに 次 のように評 を行 なっている。 に,A′ η. 1837)日 Nr。. 二つの演奏会においてシュポアは,我 々の記1意 に. とシュポァが 尊敬 に値す る」 (A“ z1822.6.3.,. 27,Sp.447)と い う評 が あ り,そ の ころす で に名. あるどのようなヴ ァイオリン奏者 か らも楽 しんだ. 実 ともに頂点 に達 した シュポアの状態が よ く表 れて い るに。 この よ うな時期 の 中 で シュポ アは カ ッセ ル に赴. ことの ない刺激的な喜 び を我 々 に提供 して くれ. 任 してお り,そ の よ うな奏者 や作 曲家 と しての評価 が. た。 ― 中略 ―シュポアは なに もか も操 る こ とがで. 単 に批 評雑誌 上 ので きご とで はない ことが わか る。 さ. を吹 き込 む魂 ,空 想 きる。 ― 中略 ―彼 が演 奏 に虐、. らに. 力 の 飛 翔 ,炎 ,繊 細 さ,感 情 の 親 密 さ,良 い 趣. 作 曲 された 《交響 曲第 1番 》 (op.20,18H)は ピア ノ. 味 ,さ まざまな作 品 の精神 へ の洞察 ,そ して 自分 自身 のス タイル と精神 でそれぞれ を表現す る能力. 連弾用 に編 曲 された ものが 楽譜 出版 されてお り「真 に す ば ら しい作 品」 と して A“ Zに 宣伝 され て い る国。. それ らすべ てが彼 を真 の芸術 家 た らしめ るのであ. 当時入気 の あ る交響 曲や協奏 曲が連弾用 に編 曲 されて. る。 (A“ z1804。. 楽譜 出版 され る こ とは慣 習的 で あ り,シ ュ ポアの交響. 12.16。. ,Nr.13.Sp.201.). 18H年 の フラ ンケ ンハ ウゼ ンの音 楽祭 の ため に. 曲 もそ うであ った と考 え られ る。 この 評 か ら,弱 冠 20歳 の シュポ アの 鮮 烈 なデ ビュー. この よ うにヴ ァイオ リ ン奏者 と しての彼 の演奏 は当. の 印象 が 伝 わって くる。 さらに当時批評家 と して第 一. 然 ,そ してその作 品 も ドイッ内 のみ な らず ,地 域 を超. 線 の ロホ リッツに この よ うに評価 されて い た こ とも注. えて評判 になって い た ことが わか る。 シュポアは しか. 目に値す る。. し,既 述 した よ うに,旅 す るヴ イル トゥオ ー ソを しな. そ の 後 1805年 に は ゴー タの 宮 廷 楽 長 に就 任 す る. が らもい くつ かの年 で宮廷 つ きの音楽家 な どの安定 し. が ,1820年 頃 まで は 各地 で 宮 廷 楽 長 を しなが ら「旅. た職 を得 て い た。次 に と りわけ劇場 と関 わる活動 をみ. 行 す る」 ヴ ァイオ リ ンの ヴ イル トゥオ ー ソと して イタ. て い くことにす る。. リア,ス イス , ドイツ,オ ラ ン ダな どを演 奏 で 回 り ,. 6。. この 頃 も各地 で 高 い 評 価 を受 け た. また 1820年 に.
(5) 三島. 2。. 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シュポアの音楽活動 とその評価. 2.劇 場監督. 2。 2。. 1ロ. カ ッセル以 前. (ウ. ィー ン,ゴ ー タ"フ ラ ンク. 73. わち亡 くな る 1859年 の二 年前 まで ,35年 間 にわた つ て一都市 に留 まる こ とになるゆ。 カ ッセルは将来 の有 望 な音楽家 を欲 しが っていた こと もあ り,当 初 は ウ イ. フル ト). 1805年 (∼ 1812年 )に ゴー タの宮廷 楽 長 か ら始 ま n,1812-15年 にウ イー ンの テア ター ・ ア ン・ デ ア り. ー ンや フ ラ ン ク フル トで の よ う に劇 場 との 摩擦 もな. ・ ウ ィー ンで 楽長 5),そ の 後 1817年 に フラ ン ク フル り ト・ ア ム ・マ イ ンの音 楽監督 (∼ 1820年 )を 経 て. が で き る こ と に シ ュ ポ ア は 喜 ん で い る (Hcussner. ロ ン ドン,パ リ, ドレスデ ンで演奏 ・指揮活動 を し. にカ ッセルの宮廷 オー ケ ス トラを, ヨーロ ッパ で もっ. カ ッセルで 1822年 か ら死 ぬ 2年 前 (1857年 )ま で宮. とも実力 の あ るオ ー ケ ス トラの一 つ になるまで に仕 上. 廷 楽長 ,そ して 1847年 か らは音 楽監督 を務 めて い る。. げ ,劇 場 にお けるオペ ラの上演 も質 量 ともに躍進 させ. ,. ,. く,芸 術活動 に干渉す る宮廷総 監 もお らず 自由 に活動 1956:28)。. そ して シユポ アはそ の期待 に応 え短期 間. シュポ アは ,1812年 に プ ラハ ,ウ イー ンヘ 演 奏 旅. た。 しか し,シ ュポア も自 ら望 んで この安定 した職 に. 行 にでかけた際 ,ウ イー ンで テア ター ・ ア ン・デ ア ・. つい たので はあるが ,選 帝侯 国 にお いては,選 帝侯 の. ウ ィー ンの劇場支配人 か ら高給 で オ ー ケ ス トラ監督 の. 意向 の影響 の 目すべ てが 自分 の思 い通 りにい くわ け で. 職 を提 示 され ,そ れ に応 じる ことになった。 しか し聴. はなか った。 折 しもシ ュ ポアが 着任 す る前年 に選帝侯 に就 い たの. 衆 の趣味 に合 わせ るマ ネー ジメ ン トと意見が合 わず 口 さ 契約 の途 中で シ ユポアは この 地位 を降 りて い る. が芸術 好 きの ヴ イル ヘ ル ム Ⅱ 世 (在 1321-32)で あ. らに 1817年 フラ ン クフ ル ト・ ア ム ・ マ イ ンの 劇 場 の. った 。 シュポアは宮廷劇場 にお け るオペ ラ上演 に力 を. オペ ラ監督及 び音楽監督 の地位 を手 に入れ る ことにな. い れ ,ヴ イルヘ ルム Ⅱ 世 の 治世 で あ る 1821∼ 31年 は. ったが ,こ この市 立劇場 の水準 は低 く,オ ー ケ ス トラ. カ ッセ ルの 劇場 史 の 中 で もっ と も輝 か しい 時期 で あ. のみが なん とか使 える状態 にあ り,シ ュ ポアは苦心 し. り,シ ユ ポア も 1822∼ 32年 の あ いだ に 40作 品 もの新 しい オペ ラを上演 し,カ ッセル を ロマ ン派 オペ ラの中. ,. )。. て よ うや くベ ー トー ヴ ェ ンの交響 曲 を演 奏す るこ とが. できた。 しか し 《ファウス ト》(1813)や 《ゼ ミール とアゾー ル》 (1818/19)の 上演 は成 功 を収 めて い る蟷 そうした後 ここで も契約任期 の切れる前に去る )。. ことにな り,そ の際 シュポアと知見 のあ った批評家ベ ルネ Karl Ludwig Bё me(1786-1837)は 次 の ように述. 心地 に した ので あ った (Uhlendorff 1959:H9)。. もっ. と もよ く上演 され た作 曲家 は ヴ ェーバ ー とシ ユ ポ ア. で,ヴ ェーバーの 《プレチオーザ》 (1821),1823年 魔弾の射手》 (上 演 51回 ), 1824年 《オイリュアン 《 テ》,1827年 《オベロン》 (1825/26),シ ユポアの. 我 々 が シ ュ ポ ア をそ の ま ま思 い 通 りに フ ラ ン ク フ. 《ゼ ミール とアゾール》,《 フアウス ト》,《 イェソン ダ》 (上 演 22回 ),《 山の精》 ,《 アバノのピエ トロ》 《錬金術師》が上演 されている (Uhlendorff 1959:. ル トを去 らせ て こ そ ,彼 は偉 大 な芸 術 家 で あ り続. 132)20。. べ てい る。. ,. け るだ ろ う。 ― 中略 一彼 を失 う こ とが 最 悪 の 事 態. 選帝侯 家 はカ ッセル にお いて勢力 を次 第 に強 め る中. で は な い の だ 。 そ うで は な く,彼 が 私 た ち を失 っ. で ,1830年 に フラ ンス の 7月 革命 の 影響 が カ ッセ ル. た とは思 わ な い こ とが 最 悪 の 事 態 な の だ 。(Hcuss―. に も押 し寄せ ,重 税 ,食 糧不足 な どで不満 が 高 まる市. ner 1956: 33; Peters 1987: 21). 民 と宮廷 ,文 民 と軍隊 の 間 の 緊張 は ます ます高 ま って い った 。 さ らに 1831年 に反動 的 な フ リー ドリ ヒ ・ ヴ. る ことがで きるだろ う。 そ の後務 め る こ とになった カ. ィルヘ ルム I世 (在 1831-66,選 帝侯 皇太子期 :1831 -47;選 帝侯 期 :1847-66)に 政権 が移 る と, リベ ラ. ッセルで は宮廷劇場 に務 め る ことになる。 そ のため選. ル な傾 向 が強 まるカ ッセ ルは政治的 に常 に緊張す る よ. 定侯 の意 向 に沿 う よ うな努力 が必 要 で あ リシュポアは. うになる。 と う と う 1831年 に,1848年 の三 月革命 の. また苦心す る こ とになる。 そ こでの シュポアの活動 を. 伏 線 に な る ,市 民 と軍 隊 の 最 初 の 衝 突 (Garde― du―. 次 にみ る こ とにす る。. Corps― Nacht事. これ もまた,濠 1場 監督 シュポアに対 す る賛辞 と受 け取. 件 )が 起 こる。 そ の よ う な政 治状 況 下. で市民 の 関心 が 高 ま り聴衆 の劇場 へ の参加 が始 まる こ 2.2。. 2。. とにな るが ,そ れ を食 い 止 め るか の よ う に選 帝 侯 は. カ ッセルの 宮廷劇場. 1822年 にシ ュ ポ ア はヘ ッセ ン選 帝侯 国 の 首都 で あ. 1832年 にい つた ん劇 場 を閉鎖 し,劇 場 監督 の フ アイ. ,す な. ゲ Feigeに 宮廷劇場 にお け る演 目の検 閲や禁止 を行 な. るカ ッセル に宮 廷 楽長 と して赴任 し,1857年.
(6) 甲南女子大学研 究紀 要 第 43号. 文学 。文化編 (2007年 3月. ). っている]。 シュポアは 1843年 にヴアー グナ ーの. となったサ ー クルの 中にお り,彼 の もとで室 内楽作 品. 《さまよえるオランダ人》 (1841/42,改 訂 1846/52)ル を上演 したが,《 タンホイザー》 (1843/44,改 訂 1845/. な どを作 曲す るな ど して い た。 トス トは 自分が居合 わ せ ない演奏会 を認 め ない とい う厳 しい 条件 ももってい. 46)は 1846年 にカッセル初演がはじめて許可 され. が ,シ ュ ポアの作 品 を現金で 買 うな ど し,芸 術 を庇 護. 結局 1853年 の上演 となった。そ して 《ローエ ングリ ン》 (1846-48)に いたっては選帝侯 の許可がお りず. す る姿勢 が強か った。. 上演されることはなかった。また助成金も年 6万 ター. も,重 要 人物 や音 楽 やそのほかの文化 生 活 の エ リー ト. ラー であ ったのが ,3万 5千 ター ラ ー に縮小 され て い. た ちが集 まる,シ ュ ポア邸 やその他 の 家 で 開 く室 内楽. る。. の タベ Kammennusiksoir6eが 重 要 な音 楽 生 活 で あ っ. ,. カ ッセ ルで は ,選 定侯 夫 人 の 開 くサ ー クル以 外 に. シュポアが正 義感 にあふれ ,民 主主義者で何事 に も. た。 ここには フ ンメル,メ ンデルス ゾ ー ン Felix Men―. 左右 され な い 人間的 な雰 囲気 を もち,公 的 には市民側. dclssohn(1809-47),マ イヤ ーベ ー ア Giacomo Mcycr―. に立 つ とい う独 立 した立 場 を とったので ,1846年 以. beer(1791-1864),モ シェ レス Ignaz Moschclcs(1794. 降 シュポアの演奏旅行 な どのための休暇願 い は選定侯. -1870),パ ガニーニ Nicolo Paganini(1782-1840),そ. 側 か らます ます拒絶 され るこ とになる。 また劇場総監. して クララ ・ ヴ イー ク clara Wieck(1819-1896)な ど. 督 の ヘ ー リ ング ン JOsias von Hce五 ngen(在 1848-66). 当時 の重要 な音 楽家 が 集 まってお り,そ の 中 で は とも. は,監 督 フ アイゲや シュポア とも緊張 した関係 になっ. に 弦 楽 四 重 奏 を演 奏 す る な ど さ れ て い た (Peters. て い つた。 1847年 1月 20日 シュポ アが カ ッセ ル在任. 1987:25)。. 25周 年記念 に「総 音 楽監督 そ して宮 廷 楽 長」 を任 命. のは,こ の よ うな機会 にお ける需要が 多 か った か らと. された際 ,宮 廷 オ ー ケス トラの フ ァ ンフ ァー レの祝賀. も言える。全 5曲 の 《ピアノ三重奏曲》 は最晩年 の作. に対 し,ヘ ー リ ング ンは 戒告 を出 し,ま た 1851年. シユポ アが 多 くの 室 内楽 曲 を書 い て い る. 3. 曲であるが,カ ッセルに腰 を落ち着けてか らは弦楽四. 月 にシ ュ ポアが オ ー ケス トラの メ ンバ ー と貧者 のため. 重奏曲をは じめ,「 ポプリ」 も多数書 いてお り,数 の. の私 的 な慈善演奏会 を開 い た折 に も,ヘ ー リ ング ンは. 上ではシュポア作品の中で大 きな割合 を占めてい る。. 選帝侯 に対 して ,宮 廷楽団 に対す る関心 が 薄 い な どと 報告 した。 この とき ドイツの音楽 へ の寄与 の 中心点 で あ った シュポ アは 30年 間 の 中 で 初 め て罰 金 とい う罰. 2。. 4.合 唱協会 「チェチ リア協会」 このような劇場や市民 の上層部 とのサ ー クルでの音. 楽活動以外 に,音 楽史的 に重要なシュポアの活動が合. を受 けた ので あ った (Uhlendorff 1959:132)。 この よ うにみて くる と,シ ュ ポアが 劇場監督 と協 力. 唱音楽である。彼 は 1810年 にはテ ュー リング ン地方. ル リ ンの劇場 か ら影響 を受 けた新 しい舞. のフランケンハ ウゼ ンにおける第一 回音楽祭 の指揮 ・. 台装置 を取 り入れた り,自 分 自身や ヴ ェーバ ー のみ な. 監督 も務めてい るなど,カ ッセル以前 か ら合唱に関わ. らず ,苦 心 して ヴ ァー グナ ーの作 品 を上演 しようと し. っていた。そ してカッセルに落ち着 くと同時 に,合 唱. た りと務 めて い るこ とが わか る。 しか しカ ッセ ルの劇. 協会 「チェチ リア協会」 を設立 し,さ らにその活動 を. 場 が 宮廷主導 の運営 で あ るため に,宮 廷外 の仕事 にお. 発展 させてい る。創立 の 1822年 頃 は, ドイツ各地 で. い ては政 治的 な理 由 でスム ーズ に事 が運 ばな い こ とも. 市民 の重要な音楽生活 を担 う合唱協会が次 々に創立 さ. しば しばあ った。 しか しシュ ポ アは度重 なる宮廷 か ら. れてい る頃であ り,シ ュポアの「チェチ リア協会」 で. の 圧 力 に も関 わ らず そ の 職 を 辞 す る こ とは な か っ. の活動 もまたその流れの 中にあ った。. しなが ら,ベ. カッセルでは,こ の「チェチ リア」以外 にも多 くの. た23。. 合唱協会が設立 され,1766年 にはすで に宮廷 か ら独 2。. 3.音 楽 サ ー クル. 立 した「音楽協 会 Musikalische Gesellscha貴 」 や 1810. 既述 した ように,シ ュ ポアが カ ッセルに赴 任 した と. 年 に「歌唱協 会. Sing― Institut」. が存在 してお り,1820. きの 治世者 ヴ イルヘ ルム I世 は,芸 術 を好 んでお り. 年 にはヴ イーガン トJOhann wiegand(1789-1851)が. 選帝侯夫 人 もヘ ッセ ンの貴族 や市民 の上 層部 が 属 して. 音楽上比較的 レベ ルの高 い「ヴイー ガン トの歌唱協会. い た社交サ ー クル を開 くな ど して い た。そ れ には シュ. Wiegand'sche Gesangverein」. ポ ア も,グ リム 兄 弟 ,市 長 (1822年 以 降 )と と もに. 選帝侯付 き大蔵書記官 の コ ッホ Elias Koch(1789-. 参加 して い た。 それ以前 に も,フ ラ ン クフル トにお い. 1869)が ドイツで 10番 目の リー ダー ター フェルの. ,. て シュポ アは,織 物 商 人 の トス トJOhann Tostが 中心. を設立 ,そ して 1830年 に. 「 カ ッセルの リー ダー ター フェル. Kasselsche Lieder―.
(7) 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シュポアの音楽活動 とその評価. 三島. 75. を設立 した24。 シュポアは 1822年 の カ ッセル. 指揮 の活動 をみて きた。彼 の活動 が 多岐 に渡 っている. 着任後す ぐに,カ ロ リーネ・フォン・ヘ ッセ ンシュ タ イ ン Caroline von Hessenstein伯 夫 人 の社交サ ー クル を発展 させて,「 チ ェチ リア協 会」 を設立 したわ こ. こ とも明 らかであ るが ,重 要 なの はそれぞれの場 にお い て 当時重要 な役割 を担 っていた こ とであ る。 この よ. のためここのメンバー には,貴 族,シ ュポアに関わる. 史 にお い て単 に「 19世 紀 初期 に保 守 的 な作 品 を書 い. カッセルの音楽上 の重要人物が勢揃 い してお り,入 会. た群小 作 曲家 の一人」 とい う様式 史 にお け る評価 のみ. するにも多 くの基準 を満たす ことが必要であ り幾分排. に帰す る人物 で はない こ とが 明 らかであ る。. tafel」. )。. うな音楽家 としての活動 の様子 か ら,シ ュポア を音楽. したが つて「チ ェチ リア協 会」. 本稿 で はシュポア をサ ンプル に様式 史的音 楽史観 を. は,芸 術的 に高 い レベ ル を求める点で 「 リー ダー ター フェル」 とは一線 を画 していたン. 解体 しようと試 みた。音楽史全体 をみ る とき,様 式 史. 「チェチ リア協会」 は,19世 紀前半 か ら半 ばに起 こ. であ る。例 えば 19世 紀 初頭 な らば ベ ー トー ヴ ェ ン と. った,カ トリック教会が「す さんだ」教会制度 を立て. い う大 巨頭 がお り,そ の少 し前 にはモー ツ ァル トが い. 直そうとい うチ ェチ リア運動 の名 にちなんでい る。そ れは音楽 においてはパ レス トリーナ Giovanni Pierluigi. た。天才 で あ る とか並 な らぬ才能 を もつ とされ る作 曲 家 の作 品 は綿密 に分析 され ,い か に音 楽的価値 が高 い. da Palestrina(1525-94)を 規範 とす る厳格対位法 を使. かが論 じられて きた。 そ してそ の よ うな作 曲家 の 点 を. 用 した様式 を理想 とした。 またそれ によって 15∼ 16. 結 んだ 「音 楽史」 にお い ては,必 然 的 に様式 が 中心 的. 世紀 の古 い音楽が 「再発見」 され,教 会の合唱団や. 問題 とな ったので あ る 。 18世 紀 中 ごろか ら末 にか け. 合唱協会 によってそれ らの作 品が歌 われ る ことにな り,古 楽 の復興 を起 こす契機 の一つ にもなったのであ. ては 「古典派」,そ して 19世 紀 中 ごろは「 ロマ ン派」. る。 むろん この「チ ェチ リア協会」 自体 は宗教作品 を. ため ,シ ュ ポ アをは じめ 19世 紀前 半 の 「古典 派」 や. 20。. 他 的 で もあ った. )。. ,. 演奏す る ことも多いが,教 会 とは直接 の関係 がな く ,. にお い て 問題 になるのは 中心 のみ に注 目 して い る こ と. とい う分 け方 が 「音楽史」 の教科書 で は定着 して い る 「 ロマ ン派」 にカテ ゴ ライズ され ない作 曲家 は,「 過渡. それはむ しろ音楽的理由か らであった。 シユポアは 1816年 にイタリアヘ旅行 した際 に ロー. 期」 の作 曲家 と して扱 われ ,「 周縁」 に位 置付 け られ. マではイタリアのポ リフォニー作 品 を知 り,1820年. の思潮 ,合 唱運動 の勃興 ,そ の 中 にあ る宮廷 ,と い っ. にハ イデ ル ベ ル クの テ イボ ー Anton Justus Thibout. た さまざまな コンテ クス トか ら形成 され るシュ ポアの. (1774-1840)の 合 唱協 会 にお け る古 楽経 験 に よっ. 音楽観 や作 曲理念 をみ る と,そ の 中に は,そ の 時代 に. て,下 層 の協会 とは異なった,芸 術的 にも知的にもレ ベ ルの高 い合唱音楽 を実現 しよう と考 えていた劉。 さ らにライプツイヒでメンデルスゾーンが実現 したバ ッ. あ っての特徴 的 な要素 を もってお り,そ れは また音楽 家 としてはむ しろ一 流 で「 中心」 的存在 であ った とい. ハ の 《マ タイ受難曲》 の再演 を,カ ッセルで も宮廷 と. う こ とであ る。. の軋礫 の中で試 みた。当時 の歴史主義 の思潮 の中で. ,. て きた。 しか し 19世 紀前半 の政 治 的状 況 ,歴 史 主義. 史 にお い ては重 要 であ る。当時 はアクチ ユ ァルな音楽. 音楽史 をみ る際不可欠 で あるの は,作 曲家や音楽家 とは何 か ,あ るいは彼 らは何 を期 待 され どの よ うな機. 古楽 の復興 はそれ を音楽 にお い て実現 した もので あ り,実 際 にバ ッハ作 品 の再演 だけでな く,16世 紀末. 能 を求 め られて い たのか を問 う視座 であ る。 それ はむ. のベ ネツイア様式である複合唱体や ローマのアレグ リ. ろん作 品 の成立 とも不可分 な関係 にあ るが ,作 品 のみ. Gregorio Allegri(c.1588-1652)風 のエ ッセ ンス をち. で はな く,音 楽家 自体 やそ の活動 をみ る ことに よ り. りばめた彼 自身の合唱作 品 《ミサ 曲》 (op.54,1821). 新 たな音楽史 のか たちがみ えて くるはずであ る。 シ ユ. の作 曲契機 は,こ のような合唱音楽 との関わ りの中で. ポ アは 19世 紀 にお い て は音楽 史 の 「 中心 的」 地域 で. 生 まれた もので もある。その ような意味で も「チ ェチ. あ る ドイツの出 身 であ るが ,ま た別 の地域 をみ る こ と. リア協会」 はカッセルの合唱協会 の中でシュポアの考. に よつて も新 しい音楽史 におけるみかたが で きる可能. える音楽観 を具現化 した場で もあ った。. 性 が あ るだろ う。. 3。. ,. 江. おわ りに :「 音楽史」再考. 1)シ ュポ ア は亡 くな った 後 にお い て も,ブ ラ ー ム ス や そ の他 の 作 曲家 に よつて そ の 作 品 の 出版 を望 まれ て い. これ まで シュポアの演奏 家 ,劇 場監督 ,宮 廷楽長. ,. 私 的な音楽 サ ー クルの主 要 メ ンバ ー ,そ して合唱協 会. た。. 2)文 学 の 領 域 で は ビー ダ ーマ イヤ ー 時代 は三 月前 期 を.
(8) 文学 。文化編 (2007年 3月. 76. 指 す が ,美 術 ,工 芸 で はや や i星 れ た 1830-60年 頃 を言. ). 曲演奏 で指揮 もした。. う。特 に 簡素 で ,合 目的 的 ,明 快 な形態 の 装 飾 や■1芸. 16)ウ イー ン とフ ラ ンクフル トで は 任期 満 了前 に退任 し. 様 式 を表 し, したが ってI芸 ,絵 画 ,文 学 の 分 野 で 著. てお り,こ れ は 劇 場 で 大 衆 の 求 め る もの に迎 合 す る こ. しい 。 一般 的 には 音 楽 にお い て は ロマ ン主義 の 私 的 な. とを拒 ん だか らで あ った 。 そ の 後 サ ン ク トペ テ ル ブ ル. 情 緒 や激 しい 信 念 とい った もの に欠 け る とい わ れ て い. クや ,コ ンサ ー トで しば しば出 向 い た ロ ン ドンで の 職 も薦 め られ ,特 に ロ ン ドン ・ フ ィル ハ ーモ ニ ー協 会 の. る。. 3)生 涯 は,シ. ュ ポ ア 自身 と,1847頃 か らは二 番 目 の 妻. マ リア ン ネ Ma面 anneが 著 述 した 『 自叙 伝. Sdbstbiogra―. phた 』 にゲ ー テルが批 評 と注釈 を加 えた 『回想 録 se五. Leben…. を主 に参考 に した。 ンハ イム 楽 派 最 後 の 世代 の ヴ ァ イオ リ ン奏 者 で. ,. ミュ ンヘ ン宮廷 の 楽 団 の コ ンサ ー トマ ス ター。. 5)シ. しか しそ こで はスポ ンテ ィーニ Gasparo Spontini(1774-. 1851)が グラ ン ド・ オペ ラ をす で に上 演 してお り,シ. nnerungen』. 4)マ. ソロ奏 者 とオ ー ケ ス トラ監 督 は魅 力 あ る もの で はあ っ たが ,彼 は 1819年 にベ ル リ ンの 宮 廷 楽長 に応 募 す る。. ュポアの 出 る幕 はなか った とい える。. 17)後 の フ ラ ン クフル トで も似 た よ うな事 態 が起 こって. ュポア は ロ シアで は,ク レメ ンテ ィ MuziO CIcmcnd. (1752-1832)や フ イー ル ド JOhn Field(1782-1837)と. い る。. 18)シ ュ ポ ア は オペ ラ 《黒 い 狩 人》 の 作 曲 を始 め て い た が ,ヴ ェーバ ー が 同 じ主題 を扱 った 《魔 弾 の 射 手 》 を. も知 り合 ってい る。. 6)「 シュポ アは 一 中略 ―天 才性 。天賦 の オ ・独 創性 が み られ ― 中略 一 深 く完 壁 な技 巧 と器 用 さで 演 奏 した」 (1819年 の フラ ンクフル ト・ アム ・ マ イ ンにお け る 5月. 4日 の コ ンサ ー トにお い て )(ス ′ 77Z1819.5。. 20。. ,Nr.20,. 作 曲 して い る こ とを知 り,断 念 した。. 19)1821年 に シュポ アは ドレスデ ン に移 住 した頃 ,ヴ ェ ーバ ー が ドレス デ ンに い た。 ヴ ェーバ ー は カ ッセ ルの 宮 廷 楽 長 に 推 され て い た が ,彼 自身 は これ を希 望 せ. Sp.341。 )「 宮廷楽長 シュポアは あ らゆ る ドイツの ヴ アイ. ず ,そ の 代 わ りに シュポ ア を推 薦 した。 シュポ ア は ゴ. オ リニ ス トの 中で も 『第 一 基準 兵 』 で ,一 中略 ―我 々. ー タの 宮 廷 です で にヘ ッセ ンの 選 帝 侯 ヴ イル ヘ ル ム. は他 に類 をみ る こ とはで きな い」 (A“ Z1820。. 世 との 関 わ りもあ り,契 約 は即座 に結 ばれた。. 3,Sp。. ,Nr.. 6。. 21。. 1. 20)こ の 時期 に も っ と も上 演 され た演 目は ヴ ェーバ ー の. 19.)な どの評 が あ る。. 7)A777Z1820。. 8)シ. 1.19。. 《魔弾 の射手》であ り,続 い て ロ ッシーニ Gloachino Ross―. Nr 25,Sp.435.. ini(1792-1868)の. ュ ポアは ドレッテ と 1806年 に結婚 して い る。. 9)「 ヴ ィル トゥオ ー ソの シュポ ア夫 妻 の 共演 。 シュポ ア. 演 ,39回. ),ボ. 《セ ヴ イ リ アの 理 髪 師 》 (1816初 イエ ル デ ュ ー Franqois― Adrien Boieldicu. の 偉 大 で 稀 な才 能 ,そ して 彼 の 確 実 か つ 完 全 な ,そ し. (1775-1834)の 《パ リの ジ ャ ン》 (1812初 演 ,30回. て まるで歌 う よ うな音 は筆 舌 に 尽 く しが た い 。 彼 はそ の よ うな類 で は 唯 一の 者 と認 め られ ,そ して ヴ イル ト. そ して シュポ アの 《イ ェ ソ ン ダ》 は 22回 で 7番 目であ. ウオー ソや作 曲家 と しての 彼 の 完 壁 な技 巧 は こ こで も. ),. つた. 21)フ ァイゲ は 監 督. (後 に総 支 配 人 )で あ り,ベ ル リ ン. 引 き続 い てす ば ら しい 注 目 を勝 ち とった 。 シ ュポ ア夫. の 濠1場 の 視 察 を し,そ こか らの 影 響 を受 け て い るが. 人 も こ こで 長 ら く尊 敬 され て い る」 (A“ Z1820。. 1822年 の カ ッセ ル就任 以来 シュポ ア も責任 者 と して フ. H。. 1.,. ,. ア イゲ と協 力 し,衣 装 や装 飾 を よ り華 美 にす る な どベ. Nr.44,Sp.744.). 10)以 下 の よ うな記事 もある。す なわち,「 《ヴアイオ リ ン協奏 曲第 8番 「歌唱形式で」》 (op.47,1816)[の 演. ル リンか らの 影響 が大 き く,カ ッセ ルの 劇 場 を ドイ ツ で最 も近代 的 な宮廷劇場 に改 築 して い った。. 奏 ]は 技術的 に も美的 にも完壁 さをもち,す で に若 い ときにヴ イル トオー ソに数 え られて い た。難 しい重音. 22)カ ッセ ル初演 は , ドレス デ ンの 初演 1843年 1月 2日. 奏法 にお い て も完全 に純粋 な抑揚 ,確 実 な弓使 い,そ. 23)1852年 以 降 は楽長助 手 と してボ ッ ト Jean. のわずか 5ケ 月後 の 6月 5日 であ つた。 JOseph Bott. して才能 ,こ れ らはウ ィル トゥオー ソに不可欠 な特徴 であ りそれを彼 は もってい るのである」 (A“ z1821.4.. (1826-1895),そ して ラ イス Carl Rei3が 宮 廷 に副 楽長. 18.,Nr.16,Sp.280。. 活動 はほ とん どな くな る 。 この ころか ら作 曲活 動 に も. ). 11)ヴ アイマ ルで宮廷楽長 であ り,当 地で はゲーテ Johann WOlttang von Gocthe(1749-1832)と 並 んで 名士 で あ つ. と して雇 わ れ る と,シ ュ ポ アの 楽 長 と して の 実 質 的 な あ ま り力 を注 ぐ こ とが な くな り,自 分 の 作 品 に満 足 し. 12)そ の他 に も次 の よ うな評 が あ る。「 ドイツの 音 楽 界 が. H:378)。 彼 は生 前 ベ ル リ ン の ア カデ ミー (1836年 ),パ リ (1849年 ), ミュ ンヘ ン (1852年 )な どの 38も の音 楽協 会 の 名誉 会員 に な り. 誇 りにす る 祖 国 の 誉 れ で あ る シ ュ ポ ア と い う芸 術 家. マ ー ル ブ ル ク大 学 の 名 誉 博 士 号 を受 け て い る (1827. た。. を,我 々は誇 りに しなけれ ば な らな い 」 (A“ Z1819.5. 26。 ,Nr。. 21,Sp。. 357)「 シュポ アはその 中 にす ば ら しい ヴ. ィル トゥオ ー ソ,作 曲家 ,そ して指揮 者 もちあ わせ て い る」 C41P2Z1822.5。. ,Nr.30,Sp.330) 13)ス J77Z1823.8.6。 ,Nr.32,Sp.524. 13。. 14)500タ ー ラーで契約。 シュポアは ここで オ ー ケ ス トラ の 水準 を_Lげ た。. 15)ウ イー ンで は ベ ー トー ヴ ェ ン と知 り合 い ,彼 の 交響. な くな ってい る. (回. 想録. ,. 年 )(倉 橋 1992:24)。 24)1835年 か らは 「 ヴ イー ガ ン トの ジ ン グ ア カ デ ミー Wttgand'sche Singakademie」. と改称 した。. 25)シ ュ ポ ア は カ ッセ ル に来 る直 前 に劇 場 監 督 を して い た フラ ンクフル ト・ アム 。マ イ ンで シ ェル ブ レ JOhann. Nepomuk Schdble(1789-1837)が 「チ ェ チ リア協 会」 を設 立 して い るの をみ て お り,そ れ に触 発 され た とこ ろ もあ るだ ろ う。 また 「 チ ェチ リア」 とは ,音 楽 の 守.
(9) 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シュポアの音 楽活動 とその評価. 三島. 護 聖 人の名 で ,5世 紀後半 の ローマ教 会 の処 女殉教 者 で あ り,500年 頃 の殉教 の行動 が教化 的 な伝 説 にな った 人 物 で あ る。. 26)(三 島 2005)参 照。 27)し か しこの 「チ ェチ リア協 会」 も 1857年 には「 ジ ン グア カデ ミー」 と合併 し,「 カ ッセ ル 合 唱協 会 Kasseler にな る 。 1848年 の 革 命 以 後 には ,「 チ ェ. Gesangverein」. チ リア協 会」 で さえ ,酒 興 が 主 目的 と化 しそ の 体 質 も 変化 し,ま た 男 声 合 唱協 会 の 興 隆 で 深 刻 な男 声 不 足 に. Kilian,Gerald.1986.S′. 77. グ κz"Lθ ttjs〔 シθttr.Ph.D.Diss。 “ jθ. Universitat Hcidelbcrg.Karlsruhe: Wahl―. ,. Verlag.. 小 林 義武 1984『 バ ツハ 復 活 -19世 紀 市 民 社 会 の 音 楽 運 動』東京 :日 本 エ デ イタース クール 出版部。 倉橋 令子 1992『 ル イ 0シ ュポ ア (1784-1859)研 究 一交 響 曲 を中心 に』東京芸術大学 修士論 文。 三島. 郁. 2006「 19世 紀 初期 にお け る「古 楽復 興」 の歴. 史 的意 義 ― カ ッセ ル の 《マ タイ受 難 曲》再 演 をめ ぐっ て 一」『 甲南 女 子 大 学研 究紀 要 :文 学 0文 化 編 』 第 42 号 83-91頁 。. 悩 ま され た。 照 。 ア レ グ リ, ドウラ ン テ Franccsco Durante(1684-. 2005「 19世 紀前 半 にお け る ラ イプ ツ イ ヒの 音 楽 生 活 」『 甲南 女 子 大 学研 究紀 要 :文 学 ・文 化 編 』 第 41. 1755),ロ ツテ イ Antonio. 号. 28)レ パ ー トリー の 詳 細 に つ い て は ,(三 島 2005)参 1667-1740),ス カル. Lotti(c。. ラ ッテ イ Alessanndro Scarlatti(1660-1725),. カ リ ッシ. レス トリー ナ な ど. ミ Giacomo Carissimi(1605-74),パ. の主 に イ タ リアの 16∼ 18世 紀前 半 の宗教作 品 を上演 し. 一― -. 53-63頁 。. 一一-. ル イ 。シ ュポ ア作 品論 ―西 洋音 楽 史再 構. 築 にむ けて 一 』修 士 (文 学 )学 位 取 得 論 文 (大 阪大 学 大学 院文学研 究科 )。 一一 -. た。. 1997『. 1993『 19世 紀 前半 の ライ プ ツ イ ヒ にお け る市 民. 社 会 にお け る音 楽受容 』修 士 (教 育学 )学 位 取得論 文 参考文献 r ν′ θ 力ι んグι sjた ― Blume,Friedrich。 1964.“ Romantik".in: Iシ θ gι sθ /2jθ /7′. ιjれ. ttF′ θ JJJrれ gι れ .Kassel: Ejれ て ι Jグα. Barenreiter.. Brown,Clive.1984.Lθ jsシ οttr, α εrj′ α′bjθ grα ρカッ。New jθ. “. r力 グι ″ お bjs z“ r И sjた グι sゴ Bucken,Ernst.1929.Djι 」 Jα 力 "れ “ Moグ ι r4ι .Handbuch der Musikwissenschaft M.B.H。 ,hrsg。 9。. vo Ernst]Bucken. wildpark― Potsdam: Akadenlische Verlag―. ssJsθ. ttι. jsθ っ αれ′ れグRθ ′ “. ttι. ハ イ ンsjた as―. rι 41dcθ た 71iι ご ι ′れg. r Ma′ ′ グι カクタψα. s―. んグιr′ .Regensburg: Gustav Bosse Ver― “. lag.. 1984.“ Der Romantiker Louis Spohr, Gedan…. v.Becker, Hartmut und Krempien, Rainer, Lθ んグ A“ ss′ ιJル 4gsJた α″Jθ g z"“ “. “. 2θ θ.Geburtstag。. z′. Htttel.Reprint.1972.Wiesbaden: Breitkopf&ζ Spohr,Louis。 1954。. S`Jbs′ bjθ graρ んj`。. `r Vor―. Hartel.. (Originalgetreuer Nach…. Sι Jbsめ. jθ. g“ ―. )(本 文中では『回想録』 とした) ρん 。 jι. Uhlendorff,Franz。 1959. “Chronik des Kasseler Musiktheaters Kassθ J.Kassι. J.・. Barenreiter。. `r Jη. 〈定 期 刊 行 物 〉 イ αJjsθ 力 AJι gι ′ z`jれ ιル ` Zcj′ "Sjた. 夕んgo hrsg. v. Friedrich Rochlitz。. Leipzig: Breitkopf&Hartel。 1798-1848。. Gё ttingen.. Re。. /1964.. j`れ L“ グ″jg l黙 )θ ん だ。Ph。. ρttθ ん. 〈事 典 〉. D.Diss。 ,Universitat Marburg. “. Homburg, Herfried. 1956. ``Louis Spohrs Geigen". In: Dα. Oκ んι ιr 4/5。 Heft 12: 1-7.. αJjsθ 力. druck in Verbindung nlit der Stadt Braunschweig und der. 1814-1944"。 in: rh`α ′. ι ιた ん sjた gι sθ ttjθ た た グ αグ′Kiα ssι J 況れたr グ `r S′ `ん `ι “ ιれκ況〃ワ浴たん (f822-f8σ 6)。 Ph.Do Diss.,Universitat. 1959.Dj`5ッ. sjた. “. j′. bι jグ. s′. Schletterer,Hans Michel. 1881. Sα ′ηJ′ 77g ν. ,Eberhard. 1958.Bι rag`. r iイ. Hcussner,Horst。. ご. "ん. (Facsimile rcprint of 1860 cd.Louisシ θttr's. js l黙 フ θttr. Kassel: Georg Wenderoth Verlag。 : 7-18。 Gudenberg,Wolff von,und FreihcⅡ z夕. ′ Gθ jgι r, Djrigι ん. Stadt Kassel hrsg. v. Eugen Schnlitz. Kassel: Barenreiter.. ken zu seiner lnusikgeschichtlichcn Einordnung", in: hrsg。. Fι srsθ ttr′. Pク あ gθ gι. 1987.Dι r κθ ρθれjS′ ,. jsシ θ力r(ノ 78イ “ーf859).Mit einer Auswahl― Lθ 夕. 雨を ′ `,hrsg.v.Paul Graf Waldersec,Lcipzig:Breitkopf&. ′ λθ λ′ 。Regensburg: Laaver― Verlag. jた. Gё thel,Folker。. Peters,Helmut。. bibliothek Braunschweig.. Dahlhaus, Carl. 1988. J(Jα. 4 jη Zノ 9.Jα 力r力. 大 崎滋 生 1993『 音 楽演 奏 の歴 史 一 よみ が え る過 去 の 音. bibliographie zu Leben und Schaffen. Braunschweig: Stadt―. geselschaft Athenaion.. Sjθ. ,. 楽』東京 :東 京書籍。. York: Calmbridge University Press.. Geck,Martin。 1967.Djι. (東 京学芸大学大学 院教育学研 究科 )。 西 原 稔 1990「 なぜ ベ ー トー ヴ ェ ンは偉 大 な の か 」 『現代思想』東京 :青 土社 第 18巻 13号 180-191頁 。. s. Rjι. И sjた Jι χJθ θ4。 αれれノ “ “. 2 Bd。. Mainz: Bo Schott's Schё ne.. 1967.Hrsgov.H o Eggebrecht..
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