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カッセルの宮廷楽長シュポアの音楽活動とその評価 : 19世紀の音楽史再考に向けて

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Academic year: 2021

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(1)69. カ ッセルの宮廷楽 長 シュポアの音楽活動 とその評価 ―-19世 紀 の音楽史再考 に向けて一一. 島. 有 『. A discussion and evaluation of the musical activity of Spohr, Hofkapelllneister in Kassel,for restructuring musical history in the nineteenth century. MISHIMA Kaoru Abstract: The history of rnusic,in most cases,has actually been the history of musical styleo Such a history involves identifying and connecting the characteristics of those outstanding composers that modern historians ities of. would judge as great musicians.However,in reality,the history of music encompasses all the act市. human life. In this article, I would like to restructure musical history by discussing the activities of Louis. Spohr(1784-1859),a musician who lived in Germany in the irst half of the nineteenth century。 Spohr is known for his“ Violinschulc"(a manual for the宙 olin);however,he is cuFently regarded as a second― class or trivial epigonic composer between the Classical and the Romantic erao Nevertheless, Spohr. was admired by the critics of his time such as Johann Friedrich Rochlitz(1769-1842)in the“. Allgemeine. musikalische Zeitung," and his works ranked at a high position in the repertoire of the Gewanthauskonzert. Furthermore,he founded ``Cailienverin" and attempted to pcrform Bach's. “Matthauspassion。 " Thcrefore, I. would like to consider Louis Spohr as not only a composer but also a violin virtuoso,a Kapelllneister in the court,and a director in the theatrical and choral society.It is very likely that he was an integral part of musi― cal life at that tilne; considering hin■. in such a perspective can serve as a useful reference in the recxanlina―. tion of lnusical history.. の音楽様式 ・語法 には,そ の と りわ け古典派 的 な特徴 1。. は じめ に :現 在 の シ ュ ポ ア評価. につい て ,「 均 整 の とれた美」や「明晰 な形式 」(Schlet_. terer 1881:133f)や 「手 堅 い作 曲術 」 な ど とい う肯 1。. 1.「 様式史」におけるシュポア評価. 定 的 な見解 もな い で はな い 。 しか し一 般 的 には ,「 保. 19世 紀前半 に輩出された多 くの群小作曲家を指す. 守 的 で あ り,時 代 遅 れで ,モ ー ツ ァル トな どの古典派. ためにしばしば,ネ ーベンマイスター Nebenmeister,. 的 な語法 に縛 られ ,個 人様式 に欠 け る,ハ イ ドンに依. クライ ンマ イス ター Kleinmeister,モ ー ツ ァル トの亜. りかか ったエ ピゴー ネ ン性 (Dahlhaus 1988:178)な. 流 ,過 渡 期 の 作 曲 家 ,亜 流 作 曲 家 (Blume 1964:. どと言 われ るのが 普通 であ る。 そ して主 に 1840年 以. 344)な どとい った呼称 が用 い られ る。 ドイツの カ ッ. 降 の シ ューマ ンな どを中心 とした盛 期 の ロマ ン主義以. セ ル で 宮 廷 楽 長 を務 め て い た シ ュ ポ ア Louis Spohr. 降 に定 着 したみ か たで は ,ロ マ ン主義 の 特 徴 で あ る. (1784-1859)も ,「 正 統 な」 ロマ ン主義音 楽家 の カテ. 「 進 歩 性 」 や 「 独 創 性 」 に対 置 され て 「亜 流 」,「 古. ゴ リー には入 れ られ る こ とは な く,そ れ らの ,曖 味. 典」,そ して 「保 守 的」 で あ る とい う評価 が下 され る. で ,コ ンテ クス トに よって異 な って解釈 され る概念 に. ので あ る。. よって 分 類 され て きた. (Gё thcl. 1984:7)。. シユポ ア. シュポ アは ,1820∼ 30年 代 にお い て は まだ革新 的.

(2) 甲南女子大学研究紀要第 43号. 文学 ・文化編 (2007年 3月. ). であ った半音階的手法 ,エ ンハ ーモニ ック的 な和音解. う市 民 が 勃 興 す る歴 史 的 背 景 か らみ て い く こ と にす. 決 ,大 胆 な転 調 ,9度 音程 を多用 したため ,モ ダ ンで. る。. 進歩 的 (Peters 1987:9),と きには前衛 的 といわ れて もい る。 しか し後期 にお い ては,特 に リズム 的要素 に お い て規則 的 な 3拍 子 に偏愛 し,ロ マ ン派 に特有 な. ,. 形 式 構 的造 か らの 大 きな 離 脱 は な い (Peters 1987: 9)。. さらに旋律 は, しば しば甘美 でセ ンチ メ ンタル. メラ ンコ. lリ. ,. ック, そ して また弱 々 しく軟弓 弓な特徴力薄旨. 摘 され る。す なわ ち,形 式 的 には ウ イー ン古典派 の均 整 の とれた リズムや形式 の伝統 を受 け継 ぎ,オ ー ケス トラにお ける器楽法 は大規模 で はない なが ら,和 声. ,. 音色 ,デ ュ ナ ー ミクの面 で は早 くに ロマ ン派 的 であ る とい える (Pcters 1987:44)。. 1。. 2.「 ビーダーマイヤー作曲家」. 19世 紀前半 が ,ロ マ ン主 義 だ けの時代 ではない こ とは明 らかである。 フランス革命が実行 され世紀が変 わる頃か ら,社 会 ・文化 の主体 はそれまでの貴族 か ら 市民へ と移行 し,教 養 を求める市民 の欲する文学 ,美 術 ,音 楽が量産 されるようになった。 こうした市民的 な文化様式 は・文学や美術 の分野 で,「 小市民的」,す なわち「小 さい もの」,「 田園的なものへ の憧 れ」,「 心 地 よい雰囲気」 などのキーワー ドで象徴 される ビー ダ. そ の ため に シュポ ア に. ーマ イヤー とい う概念 で表す ことがで きる。 ビー ダー. ェ ーバ ー. マ イヤーは,1855∼ 57年 に中流階級家庭向けに刊行. マ ル シュナー. されていたユーモ ラスで政治的な週間雑誌 『フリーゲ. 対 す る評価 は さらに分 かれる。す なわ ち,ヴ. Carl Maria von Weber(1786-1826)や. HeinHch Marschner(1795-1861)と 並 んで ドイツにお. ンデ ・ブ レッター Fliegende. ける音楽 の「 ロマ ン派 の創始者」,「 古典派 に近 い ロマ. ロー トLudwig Eichrodt(1827-1892)の 詩作 「ビー ダ. ン主 義 者」 (Riemann 1967:709),「 ロマ ン派 的性 格. ーマ イヤーの歌」 に由来す る。主人公 のビー ダーマ イ. を もつ 室 内楽 を書 く ビー ダーマ イヤ ー Biedermeierの. ヤーは実直かつユーモ ラス な俗物小市民 であ り,こ の. 代 表者」,ま た ,マ ル シュナ ー ,ロ ル ツ ィ ン グ Albe■ レ ー ヴ ェ Carl Loewc(1796-. 言葉 は当時の中産階級 の もっていた風潮 を表す のに J。 この時代 に 多少 シニ カルな意味合 いで用 い られる. 1869),そ して シュナ イダー Friedrich Schneider(1786. は市民 のあ らゆる領域へ の教養熱が高 まり,音 楽 にも. -1853)と 並 んで シュポ アは ネーベ ンマ イス ター とさ. 公私問わず さまざまな場で市民がみずか ら参加す る形. しか しまたそ の 古. を取 るようにな り,そ の機能に応ずる ように音楽家 は. 典 的 な形 式 規 範 に つ い て は ,ブ ラ ー ム ス JOhannes. 曲を書 き演奏 した。それゆえに音楽において もこの ビ. Brahms(1833-97)な どに受 け継 が れ て い る とい う こ. ー ダーマ イヤーの概念が借用 され,広 い意味 で市民参. ともで きる‖。. 加 を受けたさまざまな面が ビー ダーマ イヤー現象 と呼. Lortzing(1801-51),. れたのであ った (Kilian 1986:6)。. Blatter』. にお け るアイ ヒ. ,. 確 か に音楽史 を様式 史的 な変遷 とい う観点 か らみ た. ばれた。いわゆる群小作曲家たちが 「芸術 のための芸. 場 合 には,こ の よ うな シュポア作 品 の様式特徴 がそ の. 術」 を実践す る「芸術家」 とは異な り,大 衆 の趣味に. よ うに,同 時期 に芽生 えつつ あ る ロマ ン派音楽 の独創. 迎合 したかたちで音楽 を書 いた現象 もそれにあてはめ. 性 や内面 の感情 の表 出 な どとい ったキ ー ワー ドか らは. られた。その時代 の典型 としてシュポアはその芸術的. ほ ど遠 く,保 守的 であ る こと も否 め な い。 しか しそ う. 価値が評価 されず,オ ペ ラ,オ ラ トリオ,教 養市民が. した彼 の作 品か らのみの評価 に よって ,彼 の音楽家 と. 気軽 に楽 しめる室内楽小品などのジャンルにおいて広. して の 活動 全 般 を否 定 す る こ と もで きな い 。 す な わ. く人気 を博 し,シ ューマ ン Robe■ Schumann(1810-. ち,彼 はその生 涯 の最 後 の約 30年 間 を送 る こ とにな. 56), ヴ アー グナ ー Richard Wagner(1813-1883)が. った カ ッセルにおいて ,バ ッハ の 「マ タイ再演」 を含. 活躍 した後 も新 しい世代 か らみれば反動 的 な立場 を示. め た合唱団 の組織 や劇場 での オペ ラ上演 な ど幅広 い活. したが ため に,シ ュ ポアに対 しての ビー ダーマ イヤ ー. 動 を して い るか らであ る。本論 で は,こ の様式 史 にお. 作 曲家 とい う評価が根 強 い。市民が参加す る音楽祭や. い ては否定 的 な評価 した され なか った シュポアが ,選. 合唱団 で歌 われ る合唱 曲,す なわち市民 の 求 め る音楽. 定侯 国 の首都 カ ッセルで音楽家 と して どの よ うな活動. を書 くことに よって社 会的現 実 と結 びつ き (Dahlhaus. を行 い ,ま たそれが 当時 の脈絡 にお い て どの よ うな意. 1988:177;Hcussner 1959:423),そ の結 果 内容 が不. 味 を もっていたのか につい てみて い き,そ れが 音楽史. 揃 い な上 に形 式 的 に 閉 じて い る な ど (Bucken 1929:. にお い て どの よ うな意味があ るのか を考察 す る こ とに. 80),柔 軟性 の な い作 曲技 術 とい う評価 も彼 には下 さ. す る。. れた。 そ して ジ ン グシュ ピール を多 くか い た ロル ツ ィ. 次 の 項 目で は ,ま ず彼 が過 ご した 19世 紀 前半 とい. ング,些 末音楽 の典型 とい われ るオラ トリオ 《最後 の.

(3) 三島. 審半J Der Weltgericht》. 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シユポアの音楽活動 とその評価. (1819)を 書 い た シュナ イ ダー. θJttι zsJttJJscん ιttJ′ んg』 (以 下 A“ Z “ “ “ お け る シ ュ ポ ア に対 す る作 品 や演 奏 評 な どか. 股音楽新 聞. AJJgι. ら と と も に ネ ー ベ ンマ イ ス タ ー (Hcussner 1959:. と略 )に. 429)と され , ビー ダーマ イヤ ー の典 型 とみ られ て き. ら,当 時彼 が どの よ う に評 価 され ,演 奏 や作 品が受 容. た 。 また傍 流 ロマ ン主義 者 とい う こ とばが 示 す よ う. され て い たの か をみ て い く こ とに した い 。. に,ロ マ ン主 義者 で は あ って も主流 で はない とい うみ かた をされ るの もビー ダーマ イヤ ー作 曲家 に共通 して. 2。. シ ユ ポ ア に対 す る 当 時 の 評 価. い る。 また当時 の多 くの作 曲家 はモ ー ツ ァル トを模範 と し. 2。. 1.ヴ ァイオ リンの ヴ ィル トゥオ ー ソ. て敬 い ,そ の神 的 な明 る さや天才 に与 え備 わって い る. シュポ アは 1784年 4月 5日 に北 ドイツの ブ ラ ウ ン. メラ ンコ リー を求 めて い た。難解 で複雑 なベ ー トー ヴ. シュヴ ァイクに,ヒ ルデスハ イ ム近郊 の 町出身 の 医者. ェ ンをで はな く,モ ー ツ ァル トを好 む この傾 向 も ビー. の 父 カ ー ル 0ハ イ ン リ ヒ ・ シ ユ ポ ア Karl Hcinrich. ダーマ イヤ ー の一側面 であ る とい われ る。 生涯 変 わる. Spohrと ブ ラ ウ ンシ ュ ヴ ァイ ク出 身 の 母 ユ リア ー ネ. こ とな くモー ツ ァル トが 音楽 の理想型 ・模範 で あ り. Juliane Emestine Luise Henkeの もとで七 人兄弟 の 長男. 多 くの作 品 でモ ー ツ ァル トを引用 し,モ ー ツ ァル ト的. として生 まれ ,小 さい 頃 か ら父の フル ー トと母 の ビア. な もの を書 き,モ ー ッ ァル トの熱烈 な崇拝者であ った. ノで 家庭音楽 に親 しんで い た。彼 の両祖父 は二人 とも. シ ュポアは,モ ー ツ ァル トエ ピゴー ネ ンの最 たる代表. 牧 師 であ った。 この生 い立 ちはそ の後 の彼 の 人生 を. 者 とい われた。. ブ ル ジ ョワ的 に,そ して ま じめで分別 の ある もの に し. ,. ,. た しか にダー ルハ ウスの い う「現実 の ,心 地 よ く小. た。 また安定性 を求 め る姿勢 は,ブ ラウ ンシュ ヴ ァイ. 市民 的 な もの ,ロ マ ン主 義精神 の 皮 相 化」 (Dahlhaus. ク,ゴ ー タ,カ ツセ ルの 宮廷 の 庇 護 の も とで の 就 職. 1988:177)と い う ビー ダーマ イヤ ー の特徴 は ,シ ュ. や ,ザ クセ ン,テ ユ ー リ ング ン,そ してヘ ッセ ン地方. ポアの小形式 の作 品や弱 々 しい旋律 ,ま た彼 がサ ロ ン. とい う比較 的限 られた地域 での居住 な どにみ る こ とが. コ ンサ ー ト用 に多 く作 曲 した ことな どと合致す る。 シ. で きる。. ュ ポアが道 徳 的 に正 しい生 活 を送 り,仕 事 の しかたは. 1790年 に フラ ンスか らの亡命 貴 族 陸軍少尉 で ア マ. 冷静 で実際的 であ り,常 に手 の届 くもの を目指 し,け. チ ュ ア音 楽家 の デ ュ フ ール Dufourの もとで ヴ ァイオ. れ どもや は り低地 ドイツの閉鎖 的 で安 っぽい もの には. リ ン を始 め ,1797年 に音 楽教 師 で 宮 廷 音 楽 家 の ク ー. 1984:8-9)こ う した シュポ アの. ニ ッシ ユ Gottfried Kunischと オル ガ ン奏者 のハ ル トゥ. 態 度 は ま さに ,ビ ー ダ ーマ イヤ ー市 民 的 だ とい え よ. ング Ko A.Hattungに つ き,1798年 にす で にハ ンブル. う。 とい うの も,ビ ー ダーマ イヤ ー作 曲家 たちは,市. クに演奏旅行 に出掛 け るほ どで あ つた 。 1799年 に 15. 民 にはわか りやす い が , どち らか とい う と個性 の 乏 し. 才 で ブラウ ンシュ ヴ ァイクの カー ル ・ ヴ イルヘ ルム ・. い 曲 を書 い た ため に ,1840年 以 降 の 個 性 ・独 創 性 を. フェルデ イナ ン ト公 爵 Karl Wilhelm Ferdinand(1735-. 重 ん じる ロマ ン主 義信奉者 か らネガテ イヴにみ られた. 1806)の 宮廷楽団 に楽 士 と して入 り,100タ ー ラー の. か らであ る。. 年俸 を もつ音楽家 と して の生 涯 を始 め る。当初 彼 の 父. 距離 を とる. (Gё thel. そ して音 楽史 にお い て作 曲家や作 品が社 会 の現実 や. は彼 の音楽家 の職業 に反対 であ ったが ,音 楽家 の社会. 機 能 と結 びつ き,そ の結果作 品 の芸術 的価値が 二 の次 になった とみ られたのであ る。 しか しビー ダーマ イヤ. 的地位 を向 上 させ る とい う彼 の強 い意志 に承知 した と い う。 この 頃宮廷 の演奏会 では トラ ンペ ッ トや トロ ン. ー は 19世 紀前半 の三 月革命前期 の一 面 で あ って ,ロ. ボ ー ンに ミュー トを付 け た り絨 毯 を敷 くな どの消音操. マ ン主義 に対置 され る概念 で はな く,ビ ー ダーマ イヤ. 作 を して , トラ ンプゲ ームのバ ック ・ ミュー ジ ック と. ー作 曲家 が ロマ ン派 で ない とはい えない 。 したが って. して演奏 しなければな らず ,シ ュ ポアは公爵家で の音. 他 の作 曲家 も含 めて シュポア を一少 な くともロマ ン派 作 曲家 に対置 させ て一 ビー ダーマ イヤ ー作 曲家 とい う. 楽 生 活 に不満 ももっていた (回 想録 I:1-8)。 また こ こ に滞 在 して い た フラ ンス オペ ラの一座 か らケ ル ビー. 範疇 に組 み込 む ことはで きないの であ る。次 にシ ュ ポ. ニ Luigi Chembini(1760-1842)の 存 在 を知 り,そ し. アの音楽家 と しての履歴 と活動 を,彼 が 置 かれた歴 史. て ハ イ ドン JOseph Haydn(1732-1809),モ ー ツ ァル. 的 ・文化 的状 況 の コ ンテ クス トの 中 で み る こ とに す. ト,ベ ー トー ヴ ェ ンの弦楽 四重奏 曲な どを知 りそ の後. る。そ の 際 ,シ ュポアの音楽家 と しての さまざまな経. ウ ィー ン古典派 に傾 倒 す る基礎 をつ くってい る。 1802. 歴 tそ して 18世 紀 に発 刊 された ライプツ イ ヒの 『一. 年 にフ ェル デ ィナ ン ト公 か らヴ ァイオ リ ンの 師 の選択.

(4) 甲南女子大学研究紀要第 43号. 72. をまか された際 ,イ タリアの ヴ アイオ リ ンの 名手 であ. 文学 ・文化編 (2007年 3月. は ,6月 の A“ Zは. ). ,パ リの新 聞 の 3月 上 旬 の 記事 が. っ た ヴ ィ オ ッ テ ィ Giovanni Battista Viotti(1755-. 「 シ ュ ポ アの 死」 を誤 って 報 道 した騒 ぎを伝 え て い. 1824),そ して パ リの ヨハ ン ・ フ リー ドリ ッヒ ・エ ッ. る7。 実際 は シュポアは ドレ ッテ とともに 同年 2月 28. 就 こ う と した. 日に無事 に ロ ン ドンにい たのだが ,こ の記事 は シュポ. が ,相 次 い で うま くい かず ,結 局 ヨハ ンの弟 フラ ンツ. アの 名声が ヨー ロ ッパ に広 まって い た こ とを示す もの. ・エ ック Franz Eck(1774-1804)・ の も とで 学 ぶ こ と. で あ ろ う。 この 6月 の記事 も,妻 の ハ ー プ奏者 の ドレ. になった。 そ して彼 は この後 師 につ くとい う こ とが な. ツテ Dorette Scheidler(1752-1832)騨 とともにシュポア. く,作 曲 もい わば独学 で学 ぶ こ とになるので ,エ ック. の ヴ ァイオ リ ン奏 者 と しての 才 能 を褒 め ち ぎ ってお り り ,こ の よ うな記事 は シュポ アが カ ッセ ル に赴 任 す る前後 まで続 い て い るЮ. ク JOhann Friedrich Eck(1766-1810)に. が唯 一 の 師 で あ った とい える。 1802年 に ,エ ック と ともにハ ンブ ル ク,ダ ンツ ィヒ,ケ ーニ ヒスベ ル ク. ,. I。. また A“ zは ,奏 者 と しての シュポ アだ け で な く. リガ ,サ ン ク トペ テ ル ブ ル ク ヘ 演 奏 旅 行 を して い 5。. る. 1803年 に彼 は演奏旅行 か ら戻 った あ とヴ イオ ッ. テ イの 弟子 の フラ ンス 人 ヴ ァイオ リ ン奏 者 の ロー ド. ,. 以下の よ うな彼 の作 品 につい て も賞賛 の記事 を書 い て い る。. Jacques PieFe Rode(1774-1830)の ヴ ァイオ リ ン演奏 を聴 き,以 後独学 で学 ぶ上で作 曲技 法 にお い て最大 の. 。有名な巨匠のす ばらしい作品。 《交響曲二長調》 い に るのはメヌエ ッ トで,真 に独創な して 特 卓越. 影響 を受 けた と言 われている。. 曲 で生 き生 きと した フ ィナ ー レで あ る。 (A“ Z. こ う して ヴ ァイオ リ ン奏者 と して シュポアの音楽家 の生 涯が始 ま り,ま た若 い うちにす で にヴ ァイオ リ ン. 1821.4.H.,Nr.15,Sp.239。. ). 奏者 と して 名声 を確実 な もの に して い た。音楽批評家 ロ ホ リ ッツ Johann Friedrich Rochlitz(1769-1842). また 1810年 代 末 か ら 20年 代 にかけて ,シ ュ ポアは. は,1804年 12月 10日 と 17日 の ラ イプ ツ イ ヒの グ ヴ. す で に ヨー ロ ッパ に鳴 り響 く名声 を得 て お り,1822. ァン トハ ウスにおいてシュポアが 《ヴァイオリン協奏. 年 には ,「 昨年活躍 した 第 一 線 の 芸術 家 の 中 で は宮 廷. 曲第 2番 》 (op.2,1804)の 演奏 で デ ビュー した際. 楽 長 の フ ン メ ル JOhann Nepomuk Hummel(1778-. Zに 次 のように評 を行 なっている。 に,A′ η. 1837)日 Nr。. 二つの演奏会においてシュポアは,我 々の記1意 に. とシュポァが 尊敬 に値す る」 (A“ z1822.6.3.,. 27,Sp.447)と い う評 が あ り,そ の ころす で に名. あるどのようなヴ ァイオリン奏者 か らも楽 しんだ. 実 ともに頂点 に達 した シュポアの状態が よ く表 れて い るに。 この よ うな時期 の 中 で シュポ アは カ ッセ ル に赴. ことの ない刺激的な喜 び を我 々 に提供 して くれ. 任 してお り,そ の よ うな奏者 や作 曲家 と しての評価 が. た。 ― 中略 ―シュポアは なに もか も操 る こ とがで. 単 に批 評雑誌 上 ので きご とで はない ことが わか る。 さ. を吹 き込 む魂 ,空 想 きる。 ― 中略 ―彼 が演 奏 に虐、. らに. 力 の 飛 翔 ,炎 ,繊 細 さ,感 情 の 親 密 さ,良 い 趣. 作 曲 された 《交響 曲第 1番 》 (op.20,18H)は ピア ノ. 味 ,さ まざまな作 品 の精神 へ の洞察 ,そ して 自分 自身 のス タイル と精神 でそれぞれ を表現す る能力. 連弾用 に編 曲 された ものが 楽譜 出版 されてお り「真 に す ば ら しい作 品」 と して A“ Zに 宣伝 され て い る国。. それ らすべ てが彼 を真 の芸術 家 た らしめ るのであ. 当時入気 の あ る交響 曲や協奏 曲が連弾用 に編 曲 されて. る。 (A“ z1804。. 楽譜 出版 され る こ とは慣 習的 で あ り,シ ュ ポアの交響. 12.16。. ,Nr.13.Sp.201.). 18H年 の フラ ンケ ンハ ウゼ ンの音 楽祭 の ため に. 曲 もそ うであ った と考 え られ る。 この 評 か ら,弱 冠 20歳 の シュポ アの 鮮 烈 なデ ビュー. この よ うにヴ ァイオ リ ン奏者 と しての彼 の演奏 は当. の 印象 が 伝 わって くる。 さらに当時批評家 と して第 一. 然 ,そ してその作 品 も ドイッ内 のみ な らず ,地 域 を超. 線 の ロホ リッツに この よ うに評価 されて い た こ とも注. えて評判 になって い た ことが わか る。 シュポアは しか. 目に値す る。. し,既 述 した よ うに,旅 す るヴ イル トゥオ ー ソを しな. そ の 後 1805年 に は ゴー タの 宮 廷 楽 長 に就 任 す る. が らもい くつ かの年 で宮廷 つ きの音楽家 な どの安定 し. が ,1820年 頃 まで は 各地 で 宮 廷 楽 長 を しなが ら「旅. た職 を得 て い た。次 に と りわけ劇場 と関 わる活動 をみ. 行 す る」 ヴ ァイオ リ ンの ヴ イル トゥオ ー ソと して イタ. て い くことにす る。. リア,ス イス , ドイツ,オ ラ ン ダな どを演 奏 で 回 り ,. 6。. この 頃 も各地 で 高 い 評 価 を受 け た. また 1820年 に.

(5) 三島. 2。. 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シュポアの音楽活動 とその評価. 2.劇 場監督. 2。 2。. 1ロ. カ ッセル以 前. (ウ. ィー ン,ゴ ー タ"フ ラ ンク. 73. わち亡 くな る 1859年 の二 年前 まで ,35年 間 にわた つ て一都市 に留 まる こ とになるゆ。 カ ッセルは将来 の有 望 な音楽家 を欲 しが っていた こと もあ り,当 初 は ウ イ. フル ト). 1805年 (∼ 1812年 )に ゴー タの宮廷 楽 長 か ら始 ま n,1812-15年 にウ イー ンの テア ター ・ ア ン・ デ ア り. ー ンや フ ラ ン ク フル トで の よ う に劇 場 との 摩擦 もな. ・ ウ ィー ンで 楽長 5),そ の 後 1817年 に フラ ン ク フル り ト・ ア ム ・マ イ ンの音 楽監督 (∼ 1820年 )を 経 て. が で き る こ と に シ ュ ポ ア は 喜 ん で い る (Hcussner. ロ ン ドン,パ リ, ドレスデ ンで演奏 ・指揮活動 を し. にカ ッセルの宮廷 オー ケ ス トラを, ヨーロ ッパ で もっ. カ ッセルで 1822年 か ら死 ぬ 2年 前 (1857年 )ま で宮. とも実力 の あ るオ ー ケ ス トラの一 つ になるまで に仕 上. 廷 楽長 ,そ して 1847年 か らは音 楽監督 を務 めて い る。. げ ,劇 場 にお けるオペ ラの上演 も質 量 ともに躍進 させ. ,. ,. く,芸 術活動 に干渉す る宮廷総 監 もお らず 自由 に活動 1956:28)。. そ して シユポ アはそ の期待 に応 え短期 間. シュポ アは ,1812年 に プ ラハ ,ウ イー ンヘ 演 奏 旅. た。 しか し,シ ュポア も自 ら望 んで この安定 した職 に. 行 にでかけた際 ,ウ イー ンで テア ター ・ ア ン・デ ア ・. つい たので はあるが ,選 帝侯 国 にお いては,選 帝侯 の. ウ ィー ンの劇場支配人 か ら高給 で オ ー ケ ス トラ監督 の. 意向 の影響 の 目すべ てが 自分 の思 い通 りにい くわ け で. 職 を提 示 され ,そ れ に応 じる ことになった。 しか し聴. はなか った。 折 しもシ ュ ポアが 着任 す る前年 に選帝侯 に就 い たの. 衆 の趣味 に合 わせ るマ ネー ジメ ン トと意見が合 わず 口 さ 契約 の途 中で シ ユポアは この 地位 を降 りて い る. が芸術 好 きの ヴ イル ヘ ル ム Ⅱ 世 (在 1321-32)で あ. らに 1817年 フラ ン クフ ル ト・ ア ム ・ マ イ ンの 劇 場 の. った 。 シュポアは宮廷劇場 にお け るオペ ラ上演 に力 を. オペ ラ監督及 び音楽監督 の地位 を手 に入れ る ことにな. い れ ,ヴ イルヘ ルム Ⅱ 世 の 治世 で あ る 1821∼ 31年 は. ったが ,こ この市 立劇場 の水準 は低 く,オ ー ケ ス トラ. カ ッセ ルの 劇場 史 の 中 で もっ と も輝 か しい 時期 で あ. のみが なん とか使 える状態 にあ り,シ ュ ポアは苦心 し. り,シ ユ ポア も 1822∼ 32年 の あ いだ に 40作 品 もの新 しい オペ ラを上演 し,カ ッセル を ロマ ン派 オペ ラの中. ,. )。. て よ うや くベ ー トー ヴ ェ ンの交響 曲 を演 奏す るこ とが. できた。 しか し 《ファウス ト》(1813)や 《ゼ ミール とアゾー ル》 (1818/19)の 上演 は成 功 を収 めて い る蟷 そうした後 ここで も契約任期 の切れる前に去る )。. ことにな り,そ の際 シュポアと知見 のあ った批評家ベ ルネ Karl Ludwig Bё me(1786-1837)は 次 の ように述. 心地 に した ので あ った (Uhlendorff 1959:H9)。. もっ. と もよ く上演 され た作 曲家 は ヴ ェーバ ー とシ ユ ポ ア. で,ヴ ェーバーの 《プレチオーザ》 (1821),1823年 魔弾の射手》 (上 演 51回 ), 1824年 《オイリュアン 《 テ》,1827年 《オベロン》 (1825/26),シ ユポアの. 我 々 が シ ュ ポ ア をそ の ま ま思 い 通 りに フ ラ ン ク フ. 《ゼ ミール とアゾール》,《 フアウス ト》,《 イェソン ダ》 (上 演 22回 ),《 山の精》 ,《 アバノのピエ トロ》 《錬金術師》が上演 されている (Uhlendorff 1959:. ル トを去 らせ て こ そ ,彼 は偉 大 な芸 術 家 で あ り続. 132)20。. べ てい る。. ,. け るだ ろ う。 ― 中略 一彼 を失 う こ とが 最 悪 の 事 態. 選帝侯 家 はカ ッセル にお いて勢力 を次 第 に強 め る中. で は な い の だ 。 そ うで は な く,彼 が 私 た ち を失 っ. で ,1830年 に フラ ンス の 7月 革命 の 影響 が カ ッセ ル. た とは思 わ な い こ とが 最 悪 の 事 態 な の だ 。(Hcuss―. に も押 し寄せ ,重 税 ,食 糧不足 な どで不満 が 高 まる市. ner 1956: 33; Peters 1987: 21). 民 と宮廷 ,文 民 と軍隊 の 間 の 緊張 は ます ます高 ま って い った 。 さ らに 1831年 に反動 的 な フ リー ドリ ヒ ・ ヴ. る ことがで きるだろ う。 そ の後務 め る こ とになった カ. ィルヘ ルム I世 (在 1831-66,選 帝侯 皇太子期 :1831 -47;選 帝侯 期 :1847-66)に 政権 が移 る と, リベ ラ. ッセルで は宮廷劇場 に務 め る ことになる。 そ のため選. ル な傾 向 が強 まるカ ッセ ルは政治的 に常 に緊張す る よ. 定侯 の意 向 に沿 う よ うな努力 が必 要 で あ リシュポアは. うになる。 と う と う 1831年 に,1848年 の三 月革命 の. また苦心す る こ とになる。 そ こでの シュポアの活動 を. 伏 線 に な る ,市 民 と軍 隊 の 最 初 の 衝 突 (Garde― du―. 次 にみ る こ とにす る。. Corps― Nacht事. これ もまた,濠 1場 監督 シュポアに対 す る賛辞 と受 け取. 件 )が 起 こる。 そ の よ う な政 治状 況 下. で市民 の 関心 が 高 ま り聴衆 の劇場 へ の参加 が始 まる こ 2.2。. 2。. とにな るが ,そ れ を食 い 止 め るか の よ う に選 帝 侯 は. カ ッセルの 宮廷劇場. 1822年 にシ ュ ポ ア はヘ ッセ ン選 帝侯 国 の 首都 で あ. 1832年 にい つた ん劇 場 を閉鎖 し,劇 場 監督 の フ アイ. ,す な. ゲ Feigeに 宮廷劇場 にお け る演 目の検 閲や禁止 を行 な. るカ ッセル に宮 廷 楽長 と して赴任 し,1857年.

(6) 甲南女子大学研 究紀 要 第 43号. 文学 。文化編 (2007年 3月. ). っている]。 シュポアは 1843年 にヴアー グナ ーの. となったサ ー クルの 中にお り,彼 の もとで室 内楽作 品. 《さまよえるオランダ人》 (1841/42,改 訂 1846/52)ル を上演 したが,《 タンホイザー》 (1843/44,改 訂 1845/. な どを作 曲す るな ど して い た。 トス トは 自分が居合 わ せ ない演奏会 を認 め ない とい う厳 しい 条件 ももってい. 46)は 1846年 にカッセル初演がはじめて許可 され. が ,シ ュ ポアの作 品 を現金で 買 うな ど し,芸 術 を庇 護. 結局 1853年 の上演 となった。そ して 《ローエ ングリ ン》 (1846-48)に いたっては選帝侯 の許可がお りず. す る姿勢 が強か った。. 上演されることはなかった。また助成金も年 6万 ター. も,重 要 人物 や音 楽 やそのほかの文化 生 活 の エ リー ト. ラー であ ったのが ,3万 5千 ター ラ ー に縮小 され て い. た ちが集 まる,シ ュ ポア邸 やその他 の 家 で 開 く室 内楽. る。. の タベ Kammennusiksoir6eが 重 要 な音 楽 生 活 で あ っ. ,. カ ッセ ルで は ,選 定侯 夫 人 の 開 くサ ー クル以 外 に. シュポアが正 義感 にあふれ ,民 主主義者で何事 に も. た。 ここには フ ンメル,メ ンデルス ゾ ー ン Felix Men―. 左右 され な い 人間的 な雰 囲気 を もち,公 的 には市民側. dclssohn(1809-47),マ イヤ ーベ ー ア Giacomo Mcycr―. に立 つ とい う独 立 した立 場 を とったので ,1846年 以. beer(1791-1864),モ シェ レス Ignaz Moschclcs(1794. 降 シュポアの演奏旅行 な どのための休暇願 い は選定侯. -1870),パ ガニーニ Nicolo Paganini(1782-1840),そ. 側 か らます ます拒絶 され るこ とになる。 また劇場総監. して クララ ・ ヴ イー ク clara Wieck(1819-1896)な ど. 督 の ヘ ー リ ング ン JOsias von Hce五 ngen(在 1848-66). 当時 の重要 な音 楽家 が 集 まってお り,そ の 中 で は とも. は,監 督 フ アイゲや シュポア とも緊張 した関係 になっ. に 弦 楽 四 重 奏 を演 奏 す る な ど さ れ て い た (Peters. て い つた。 1847年 1月 20日 シュポ アが カ ッセ ル在任. 1987:25)。. 25周 年記念 に「総 音 楽監督 そ して宮 廷 楽 長」 を任 命. のは,こ の よ うな機会 にお ける需要が 多 か った か らと. された際 ,宮 廷 オ ー ケス トラの フ ァ ンフ ァー レの祝賀. も言える。全 5曲 の 《ピアノ三重奏曲》 は最晩年 の作. に対 し,ヘ ー リ ング ンは 戒告 を出 し,ま た 1851年. シユポ アが 多 くの 室 内楽 曲 を書 い て い る. 3. 曲であるが,カ ッセルに腰 を落ち着けてか らは弦楽四. 月 にシ ュ ポアが オ ー ケス トラの メ ンバ ー と貧者 のため. 重奏曲をは じめ,「 ポプリ」 も多数書 いてお り,数 の. の私 的 な慈善演奏会 を開 い た折 に も,ヘ ー リ ング ンは. 上ではシュポア作品の中で大 きな割合 を占めてい る。. 選帝侯 に対 して ,宮 廷楽団 に対す る関心 が 薄 い な どと 報告 した。 この とき ドイツの音楽 へ の寄与 の 中心点 で あ った シュポ アは 30年 間 の 中 で 初 め て罰 金 とい う罰. 2。. 4.合 唱協会 「チェチ リア協会」 このような劇場や市民 の上層部 とのサ ー クルでの音. 楽活動以外 に,音 楽史的 に重要なシュポアの活動が合. を受 けた ので あ った (Uhlendorff 1959:132)。 この よ うにみて くる と,シ ュ ポアが 劇場監督 と協 力. 唱音楽である。彼 は 1810年 にはテ ュー リング ン地方. ル リ ンの劇場 か ら影響 を受 けた新 しい舞. のフランケンハ ウゼ ンにおける第一 回音楽祭 の指揮 ・. 台装置 を取 り入れた り,自 分 自身や ヴ ェーバ ー のみ な. 監督 も務めてい るなど,カ ッセル以前 か ら合唱に関わ. らず ,苦 心 して ヴ ァー グナ ーの作 品 を上演 しようと し. っていた。そ してカッセルに落ち着 くと同時 に,合 唱. た りと務 めて い るこ とが わか る。 しか しカ ッセ ルの劇. 協会 「チェチ リア協会」 を設立 し,さ らにその活動 を. 場 が 宮廷主導 の運営 で あ るため に,宮 廷外 の仕事 にお. 発展 させてい る。創立 の 1822年 頃 は, ドイツ各地 で. い ては政 治的 な理 由 でスム ーズ に事 が運 ばな い こ とも. 市民 の重要な音楽生活 を担 う合唱協会が次 々に創立 さ. しば しばあ った。 しか しシュ ポ アは度重 なる宮廷 か ら. れてい る頃であ り,シ ュポアの「チェチ リア協会」 で. の 圧 力 に も関 わ らず そ の 職 を 辞 す る こ とは な か っ. の活動 もまたその流れの 中にあ った。. しなが ら,ベ. カッセルでは,こ の「チェチ リア」以外 にも多 くの. た23。. 合唱協会が設立 され,1766年 にはすで に宮廷 か ら独 2。. 3.音 楽 サ ー クル. 立 した「音楽協 会 Musikalische Gesellscha貴 」 や 1810. 既述 した ように,シ ュ ポアが カ ッセルに赴 任 した と. 年 に「歌唱協 会. Sing― Institut」. が存在 してお り,1820. きの 治世者 ヴ イルヘ ルム I世 は,芸 術 を好 んでお り. 年 にはヴ イーガン トJOhann wiegand(1789-1851)が. 選帝侯夫 人 もヘ ッセ ンの貴族 や市民 の上 層部 が 属 して. 音楽上比較的 レベ ルの高 い「ヴイー ガン トの歌唱協会. い た社交サ ー クル を開 くな ど して い た。そ れ には シュ. Wiegand'sche Gesangverein」. ポ ア も,グ リム 兄 弟 ,市 長 (1822年 以 降 )と と もに. 選帝侯付 き大蔵書記官 の コ ッホ Elias Koch(1789-. 参加 して い た。 それ以前 に も,フ ラ ン クフル トにお い. 1869)が ドイツで 10番 目の リー ダー ター フェルの. ,. て シュポ アは,織 物 商 人 の トス トJOhann Tostが 中心. を設立 ,そ して 1830年 に. 「 カ ッセルの リー ダー ター フェル. Kasselsche Lieder―.

(7) 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シュポアの音楽活動 とその評価. 三島. 75. を設立 した24。 シュポアは 1822年 の カ ッセル. 指揮 の活動 をみて きた。彼 の活動 が 多岐 に渡 っている. 着任後す ぐに,カ ロ リーネ・フォン・ヘ ッセ ンシュ タ イ ン Caroline von Hessenstein伯 夫 人 の社交サ ー クル を発展 させて,「 チ ェチ リア協 会」 を設立 したわ こ. こ とも明 らかであ るが ,重 要 なの はそれぞれの場 にお い て 当時重要 な役割 を担 っていた こ とであ る。 この よ. のためここのメンバー には,貴 族,シ ュポアに関わる. 史 にお い て単 に「 19世 紀 初期 に保 守 的 な作 品 を書 い. カッセルの音楽上 の重要人物が勢揃 い してお り,入 会. た群小 作 曲家 の一人」 とい う様式 史 にお け る評価 のみ. するにも多 くの基準 を満たす ことが必要であ り幾分排. に帰す る人物 で はない こ とが 明 らかであ る。. tafel」. )。. うな音楽家 としての活動 の様子 か ら,シ ュポア を音楽. したが つて「チ ェチ リア協 会」. 本稿 で はシュポア をサ ンプル に様式 史的音 楽史観 を. は,芸 術的 に高 い レベ ル を求める点で 「 リー ダー ター フェル」 とは一線 を画 していたン. 解体 しようと試 みた。音楽史全体 をみ る とき,様 式 史. 「チェチ リア協会」 は,19世 紀前半 か ら半 ばに起 こ. であ る。例 えば 19世 紀 初頭 な らば ベ ー トー ヴ ェ ン と. った,カ トリック教会が「す さんだ」教会制度 を立て. い う大 巨頭 がお り,そ の少 し前 にはモー ツ ァル トが い. 直そうとい うチ ェチ リア運動 の名 にちなんでい る。そ れは音楽 においてはパ レス トリーナ Giovanni Pierluigi. た。天才 で あ る とか並 な らぬ才能 を もつ とされ る作 曲 家 の作 品 は綿密 に分析 され ,い か に音 楽的価値 が高 い. da Palestrina(1525-94)を 規範 とす る厳格対位法 を使. かが論 じられて きた。 そ してそ の よ うな作 曲家 の 点 を. 用 した様式 を理想 とした。 またそれ によって 15∼ 16. 結 んだ 「音 楽史」 にお い ては,必 然 的 に様式 が 中心 的. 世紀 の古 い音楽が 「再発見」 され,教 会の合唱団や. 問題 とな ったので あ る 。 18世 紀 中 ごろか ら末 にか け. 合唱協会 によってそれ らの作 品が歌 われ る ことにな り,古 楽 の復興 を起 こす契機 の一つ にもなったのであ. ては 「古典派」,そ して 19世 紀 中 ごろは「 ロマ ン派」. る。 むろん この「チ ェチ リア協会」 自体 は宗教作品 を. ため ,シ ュ ポ アをは じめ 19世 紀前 半 の 「古典 派」 や. 20。. 他 的 で もあ った. )。. ,. 演奏す る ことも多いが,教 会 とは直接 の関係 がな く ,. にお い て 問題 になるのは 中心 のみ に注 目 して い る こ と. とい う分 け方 が 「音楽史」 の教科書 で は定着 して い る 「 ロマ ン派」 にカテ ゴ ライズ され ない作 曲家 は,「 過渡. それはむ しろ音楽的理由か らであった。 シユポアは 1816年 にイタリアヘ旅行 した際 に ロー. 期」 の作 曲家 と して扱 われ ,「 周縁」 に位 置付 け られ. マではイタリアのポ リフォニー作 品 を知 り,1820年. の思潮 ,合 唱運動 の勃興 ,そ の 中 にあ る宮廷 ,と い っ. にハ イデ ル ベ ル クの テ イボ ー Anton Justus Thibout. た さまざまな コンテ クス トか ら形成 され るシュ ポアの. (1774-1840)の 合 唱協 会 にお け る古 楽経 験 に よっ. 音楽観 や作 曲理念 をみ る と,そ の 中に は,そ の 時代 に. て,下 層 の協会 とは異なった,芸 術的 にも知的にもレ ベ ルの高 い合唱音楽 を実現 しよう と考 えていた劉。 さ らにライプツイヒでメンデルスゾーンが実現 したバ ッ. あ っての特徴 的 な要素 を もってお り,そ れは また音楽 家 としてはむ しろ一 流 で「 中心」 的存在 であ った とい. ハ の 《マ タイ受難曲》 の再演 を,カ ッセルで も宮廷 と. う こ とであ る。. の軋礫 の中で試 みた。当時 の歴史主義 の思潮 の中で. ,. て きた。 しか し 19世 紀前半 の政 治 的状 況 ,歴 史 主義. 史 にお い ては重 要 であ る。当時 はアクチ ユ ァルな音楽. 音楽史 をみ る際不可欠 で あるの は,作 曲家や音楽家 とは何 か ,あ るいは彼 らは何 を期 待 され どの よ うな機. 古楽 の復興 はそれ を音楽 にお い て実現 した もので あ り,実 際 にバ ッハ作 品 の再演 だけでな く,16世 紀末. 能 を求 め られて い たのか を問 う視座 であ る。 それ はむ. のベ ネツイア様式である複合唱体や ローマのアレグ リ. ろん作 品 の成立 とも不可分 な関係 にあ るが ,作 品 のみ. Gregorio Allegri(c.1588-1652)風 のエ ッセ ンス をち. で はな く,音 楽家 自体 やそ の活動 をみ る ことに よ り. りばめた彼 自身の合唱作 品 《ミサ 曲》 (op.54,1821). 新 たな音楽史 のか たちがみ えて くるはずであ る。 シ ユ. の作 曲契機 は,こ のような合唱音楽 との関わ りの中で. ポ アは 19世 紀 にお い て は音楽 史 の 「 中心 的」 地域 で. 生 まれた もので もある。その ような意味で も「チ ェチ. あ る ドイツの出 身 であ るが ,ま た別 の地域 をみ る こ と. リア協会」 はカッセルの合唱協会 の中でシュポアの考. に よつて も新 しい音楽史 におけるみかたが で きる可能. える音楽観 を具現化 した場で もあ った。. 性 が あ るだろ う。. 3。. ,. 江. おわ りに :「 音楽史」再考. 1)シ ュポ ア は亡 くな った 後 にお い て も,ブ ラ ー ム ス や そ の他 の 作 曲家 に よつて そ の 作 品 の 出版 を望 まれ て い. これ まで シュポアの演奏 家 ,劇 場監督 ,宮 廷楽長. ,. 私 的な音楽 サ ー クルの主 要 メ ンバ ー ,そ して合唱協 会. た。. 2)文 学 の 領 域 で は ビー ダ ーマ イヤ ー 時代 は三 月前 期 を.

(8) 文学 。文化編 (2007年 3月. 76. 指 す が ,美 術 ,工 芸 で はや や i星 れ た 1830-60年 頃 を言. ). 曲演奏 で指揮 もした。. う。特 に 簡素 で ,合 目的 的 ,明 快 な形態 の 装 飾 や■1芸. 16)ウ イー ン とフ ラ ンクフル トで は 任期 満 了前 に退任 し. 様 式 を表 し, したが ってI芸 ,絵 画 ,文 学 の 分 野 で 著. てお り,こ れ は 劇 場 で 大 衆 の 求 め る もの に迎 合 す る こ. しい 。 一般 的 には 音 楽 にお い て は ロマ ン主義 の 私 的 な. とを拒 ん だか らで あ った 。 そ の 後 サ ン ク トペ テ ル ブ ル. 情 緒 や激 しい 信 念 とい った もの に欠 け る とい わ れ て い. クや ,コ ンサ ー トで しば しば出 向 い た ロ ン ドンで の 職 も薦 め られ ,特 に ロ ン ドン ・ フ ィル ハ ーモ ニ ー協 会 の. る。. 3)生 涯 は,シ. ュ ポ ア 自身 と,1847頃 か らは二 番 目 の 妻. マ リア ン ネ Ma面 anneが 著 述 した 『 自叙 伝. Sdbstbiogra―. phた 』 にゲ ー テルが批 評 と注釈 を加 えた 『回想 録 se五. Leben…. を主 に参考 に した。 ンハ イム 楽 派 最 後 の 世代 の ヴ ァ イオ リ ン奏 者 で. ,. ミュ ンヘ ン宮廷 の 楽 団 の コ ンサ ー トマ ス ター。. 5)シ. しか しそ こで はスポ ンテ ィーニ Gasparo Spontini(1774-. 1851)が グラ ン ド・ オペ ラ をす で に上 演 してお り,シ. nnerungen』. 4)マ. ソロ奏 者 とオ ー ケ ス トラ監 督 は魅 力 あ る もの で はあ っ たが ,彼 は 1819年 にベ ル リ ンの 宮 廷 楽長 に応 募 す る。. ュポアの 出 る幕 はなか った とい える。. 17)後 の フ ラ ン クフル トで も似 た よ うな事 態 が起 こって. ュポア は ロ シアで は,ク レメ ンテ ィ MuziO CIcmcnd. (1752-1832)や フ イー ル ド JOhn Field(1782-1837)と. い る。. 18)シ ュ ポ ア は オペ ラ 《黒 い 狩 人》 の 作 曲 を始 め て い た が ,ヴ ェーバ ー が 同 じ主題 を扱 った 《魔 弾 の 射 手 》 を. も知 り合 ってい る。. 6)「 シュポ アは 一 中略 ―天 才性 。天賦 の オ ・独 創性 が み られ ― 中略 一 深 く完 壁 な技 巧 と器 用 さで 演 奏 した」 (1819年 の フラ ンクフル ト・ アム ・ マ イ ンにお け る 5月. 4日 の コ ンサ ー トにお い て )(ス ′ 77Z1819.5。. 20。. ,Nr.20,. 作 曲 して い る こ とを知 り,断 念 した。. 19)1821年 に シュポ アは ドレスデ ン に移 住 した頃 ,ヴ ェ ーバ ー が ドレス デ ンに い た。 ヴ ェーバ ー は カ ッセ ルの 宮 廷 楽 長 に 推 され て い た が ,彼 自身 は これ を希 望 せ. Sp.341。 )「 宮廷楽長 シュポアは あ らゆ る ドイツの ヴ アイ. ず ,そ の 代 わ りに シュポ ア を推 薦 した。 シュポ ア は ゴ. オ リニ ス トの 中で も 『第 一 基準 兵 』 で ,一 中略 ―我 々. ー タの 宮 廷 です で にヘ ッセ ンの 選 帝 侯 ヴ イル ヘ ル ム. は他 に類 をみ る こ とはで きな い」 (A“ Z1820。. 世 との 関 わ りもあ り,契 約 は即座 に結 ばれた。. 3,Sp。. ,Nr.. 6。. 21。. 1. 20)こ の 時期 に も っ と も上 演 され た演 目は ヴ ェーバ ー の. 19.)な どの評 が あ る。. 7)A777Z1820。. 8)シ. 1.19。. 《魔弾 の射手》であ り,続 い て ロ ッシーニ Gloachino Ross―. Nr 25,Sp.435.. ini(1792-1868)の. ュ ポアは ドレッテ と 1806年 に結婚 して い る。. 9)「 ヴ ィル トゥオ ー ソの シュポ ア夫 妻 の 共演 。 シュポ ア. 演 ,39回. ),ボ. 《セ ヴ イ リ アの 理 髪 師 》 (1816初 イエ ル デ ュ ー Franqois― Adrien Boieldicu. の 偉 大 で 稀 な才 能 ,そ して 彼 の 確 実 か つ 完 全 な ,そ し. (1775-1834)の 《パ リの ジ ャ ン》 (1812初 演 ,30回. て まるで歌 う よ うな音 は筆 舌 に 尽 く しが た い 。 彼 はそ の よ うな類 で は 唯 一の 者 と認 め られ ,そ して ヴ イル ト. そ して シュポ アの 《イ ェ ソ ン ダ》 は 22回 で 7番 目であ. ウオー ソや作 曲家 と しての 彼 の 完 壁 な技 巧 は こ こで も. ),. つた. 21)フ ァイゲ は 監 督. (後 に総 支 配 人 )で あ り,ベ ル リ ン. 引 き続 い てす ば ら しい 注 目 を勝 ち とった 。 シ ュポ ア夫. の 濠1場 の 視 察 を し,そ こか らの 影 響 を受 け て い るが. 人 も こ こで 長 ら く尊 敬 され て い る」 (A“ Z1820。. 1822年 の カ ッセ ル就任 以来 シュポ ア も責任 者 と して フ. H。. 1.,. ,. ア イゲ と協 力 し,衣 装 や装 飾 を よ り華 美 にす る な どベ. Nr.44,Sp.744.). 10)以 下 の よ うな記事 もある。す なわち,「 《ヴアイオ リ ン協奏 曲第 8番 「歌唱形式で」》 (op.47,1816)[の 演. ル リンか らの 影響 が大 き く,カ ッセ ルの 劇 場 を ドイ ツ で最 も近代 的 な宮廷劇場 に改 築 して い った。. 奏 ]は 技術的 に も美的 にも完壁 さをもち,す で に若 い ときにヴ イル トオー ソに数 え られて い た。難 しい重音. 22)カ ッセ ル初演 は , ドレス デ ンの 初演 1843年 1月 2日. 奏法 にお い て も完全 に純粋 な抑揚 ,確 実 な弓使 い,そ. 23)1852年 以 降 は楽長助 手 と してボ ッ ト Jean. のわずか 5ケ 月後 の 6月 5日 であ つた。 JOseph Bott. して才能 ,こ れ らはウ ィル トゥオー ソに不可欠 な特徴 であ りそれを彼 は もってい るのである」 (A“ z1821.4.. (1826-1895),そ して ラ イス Carl Rei3が 宮 廷 に副 楽長. 18.,Nr.16,Sp.280。. 活動 はほ とん どな くな る 。 この ころか ら作 曲活 動 に も. ). 11)ヴ アイマ ルで宮廷楽長 であ り,当 地で はゲーテ Johann WOlttang von Gocthe(1749-1832)と 並 んで 名士 で あ つ. と して雇 わ れ る と,シ ュ ポ アの 楽 長 と して の 実 質 的 な あ ま り力 を注 ぐ こ とが な くな り,自 分 の 作 品 に満 足 し. 12)そ の他 に も次 の よ うな評 が あ る。「 ドイツの 音 楽 界 が. H:378)。 彼 は生 前 ベ ル リ ン の ア カデ ミー (1836年 ),パ リ (1849年 ), ミュ ンヘ ン (1852年 )な どの 38も の音 楽協 会 の 名誉 会員 に な り. 誇 りにす る 祖 国 の 誉 れ で あ る シ ュ ポ ア と い う芸 術 家. マ ー ル ブ ル ク大 学 の 名 誉 博 士 号 を受 け て い る (1827. た。. を,我 々は誇 りに しなけれ ば な らな い 」 (A“ Z1819.5. 26。 ,Nr。. 21,Sp。. 357)「 シュポ アはその 中 にす ば ら しい ヴ. ィル トゥオ ー ソ,作 曲家 ,そ して指揮 者 もちあ わせ て い る」 C41P2Z1822.5。. ,Nr.30,Sp.330) 13)ス J77Z1823.8.6。 ,Nr.32,Sp.524. 13。. 14)500タ ー ラーで契約。 シュポアは ここで オ ー ケ ス トラ の 水準 を_Lげ た。. 15)ウ イー ンで は ベ ー トー ヴ ェ ン と知 り合 い ,彼 の 交響. な くな ってい る. (回. 想録. ,. 年 )(倉 橋 1992:24)。 24)1835年 か らは 「 ヴ イー ガ ン トの ジ ン グ ア カ デ ミー Wttgand'sche Singakademie」. と改称 した。. 25)シ ュ ポ ア は カ ッセ ル に来 る直 前 に劇 場 監 督 を して い た フラ ンクフル ト・ アム 。マ イ ンで シ ェル ブ レ JOhann. Nepomuk Schdble(1789-1837)が 「チ ェ チ リア協 会」 を設 立 して い るの をみ て お り,そ れ に触 発 され た とこ ろ もあ るだ ろ う。 また 「 チ ェチ リア」 とは ,音 楽 の 守.

(9) 郁 :カ ッセルの宮廷楽長 シュポアの音 楽活動 とその評価. 三島. 護 聖 人の名 で ,5世 紀後半 の ローマ教 会 の処 女殉教 者 で あ り,500年 頃 の殉教 の行動 が教化 的 な伝 説 にな った 人 物 で あ る。. 26)(三 島 2005)参 照。 27)し か しこの 「チ ェチ リア協 会」 も 1857年 には「 ジ ン グア カデ ミー」 と合併 し,「 カ ッセ ル 合 唱協 会 Kasseler にな る 。 1848年 の 革 命 以 後 には ,「 チ ェ. Gesangverein」. チ リア協 会」 で さえ ,酒 興 が 主 目的 と化 しそ の 体 質 も 変化 し,ま た 男 声 合 唱協 会 の 興 隆 で 深 刻 な男 声 不 足 に. Kilian,Gerald.1986.S′. 77. グ κz"Lθ ttjs〔 シθttr.Ph.D.Diss。 “ jθ. Universitat Hcidelbcrg.Karlsruhe: Wahl―. ,. Verlag.. 小 林 義武 1984『 バ ツハ 復 活 -19世 紀 市 民 社 会 の 音 楽 運 動』東京 :日 本 エ デ イタース クール 出版部。 倉橋 令子 1992『 ル イ 0シ ュポ ア (1784-1859)研 究 一交 響 曲 を中心 に』東京芸術大学 修士論 文。 三島. 郁. 2006「 19世 紀 初期 にお け る「古 楽復 興」 の歴. 史 的意 義 ― カ ッセ ル の 《マ タイ受 難 曲》再 演 をめ ぐっ て 一」『 甲南 女 子 大 学研 究紀 要 :文 学 0文 化 編 』 第 42 号 83-91頁 。. 悩 ま され た。 照 。 ア レ グ リ, ドウラ ン テ Franccsco Durante(1684-. 2005「 19世 紀前 半 にお け る ラ イプ ツ イ ヒの 音 楽 生 活 」『 甲南 女 子 大 学研 究紀 要 :文 学 ・文 化 編 』 第 41. 1755),ロ ツテ イ Antonio. 号. 28)レ パ ー トリー の 詳 細 に つ い て は ,(三 島 2005)参 1667-1740),ス カル. Lotti(c。. ラ ッテ イ Alessanndro Scarlatti(1660-1725),. カ リ ッシ. レス トリー ナ な ど. ミ Giacomo Carissimi(1605-74),パ. の主 に イ タ リアの 16∼ 18世 紀前 半 の宗教作 品 を上演 し. 一― -. 53-63頁 。. 一一-. ル イ 。シ ュポ ア作 品論 ―西 洋音 楽 史再 構. 築 にむ けて 一 』修 士 (文 学 )学 位 取 得 論 文 (大 阪大 学 大学 院文学研 究科 )。 一一 -. た。. 1997『. 1993『 19世 紀 前半 の ライ プ ツ イ ヒ にお け る市 民. 社 会 にお け る音 楽受容 』修 士 (教 育学 )学 位 取得論 文 参考文献 r ν′ θ 力ι んグι sjた ― Blume,Friedrich。 1964.“ Romantik".in: Iシ θ gι sθ /2jθ /7′. ιjれ. ttF′ θ JJJrれ gι れ .Kassel: Ejれ て ι Jグα. Barenreiter.. Brown,Clive.1984.Lθ jsシ οttr, α εrj′ α′bjθ grα ρカッ。New jθ. “. r力 グι ″ お bjs z“ r И sjた グι sゴ Bucken,Ernst.1929.Djι 」 Jα 力 "れ “ Moグ ι r4ι .Handbuch der Musikwissenschaft M.B.H。 ,hrsg。 9。. vo Ernst]Bucken. wildpark― Potsdam: Akadenlische Verlag―. ssJsθ. ttι. jsθ っ αれ′ れグRθ ′ “. ttι. ハ イ ンsjた as―. rι 41dcθ た 71iι ご ι ′れg. r Ma′ ′ グι カクタψα. s―. んグιr′ .Regensburg: Gustav Bosse Ver― “. lag.. 1984.“ Der Romantiker Louis Spohr, Gedan…. v.Becker, Hartmut und Krempien, Rainer, Lθ んグ A“ ss′ ιJル 4gsJた α″Jθ g z"“ “. “. 2θ θ.Geburtstag。. z′. Htttel.Reprint.1972.Wiesbaden: Breitkopf&ζ Spohr,Louis。 1954。. S`Jbs′ bjθ graρ んj`。. `r Vor―. Hartel.. (Originalgetreuer Nach…. Sι Jbsめ. jθ. g“ ―. )(本 文中では『回想録』 とした) ρん 。 jι. Uhlendorff,Franz。 1959. “Chronik des Kasseler Musiktheaters Kassθ J.Kassι. J.・. Barenreiter。. `r Jη. 〈定 期 刊 行 物 〉 イ αJjsθ 力 AJι gι ′ z`jれ ιル ` Zcj′ "Sjた. 夕んgo hrsg. v. Friedrich Rochlitz。. Leipzig: Breitkopf&Hartel。 1798-1848。. Gё ttingen.. Re。. /1964.. j`れ L“ グ″jg l黙 )θ ん だ。Ph。. ρttθ ん. 〈事 典 〉. D.Diss。 ,Universitat Marburg. “. Homburg, Herfried. 1956. ``Louis Spohrs Geigen". In: Dα. Oκ んι ιr 4/5。 Heft 12: 1-7.. αJjsθ 力. druck in Verbindung nlit der Stadt Braunschweig und der. 1814-1944"。 in: rh`α ′. ι ιた ん sjた gι sθ ttjθ た た グ αグ′Kiα ssι J 況れたr グ `r S′ `ん `ι “ ιれκ況〃ワ浴たん (f822-f8σ 6)。 Ph.Do Diss.,Universitat. 1959.Dj`5ッ. sjた. “. j′. bι jグ. s′. Schletterer,Hans Michel. 1881. Sα ′ηJ′ 77g ν. ,Eberhard. 1958.Bι rag`. r iイ. Hcussner,Horst。. ご. "ん. (Facsimile rcprint of 1860 cd.Louisシ θttr's. js l黙 フ θttr. Kassel: Georg Wenderoth Verlag。 : 7-18。 Gudenberg,Wolff von,und FreihcⅡ z夕. ′ Gθ jgι r, Djrigι ん. Stadt Kassel hrsg. v. Eugen Schnlitz. Kassel: Barenreiter.. ken zu seiner lnusikgeschichtlichcn Einordnung", in: hrsg。. Fι srsθ ttr′. Pク あ gθ gι. 1987.Dι r κθ ρθれjS′ ,. jsシ θ力r(ノ 78イ “ーf859).Mit einer Auswahl― Lθ 夕. 雨を ′ `,hrsg.v.Paul Graf Waldersec,Lcipzig:Breitkopf&. ′ λθ λ′ 。Regensburg: Laaver― Verlag. jた. Gё thel,Folker。. Peters,Helmut。. bibliothek Braunschweig.. Dahlhaus, Carl. 1988. J(Jα. 4 jη Zノ 9.Jα 力r力. 大 崎滋 生 1993『 音 楽演 奏 の歴 史 一 よみ が え る過 去 の 音. bibliographie zu Leben und Schaffen. Braunschweig: Stadt―. geselschaft Athenaion.. Sjθ. ,. 楽』東京 :東 京書籍。. York: Calmbridge University Press.. Geck,Martin。 1967.Djι. (東 京学芸大学大学 院教育学研 究科 )。 西 原 稔 1990「 なぜ ベ ー トー ヴ ェ ンは偉 大 な の か 」 『現代思想』東京 :青 土社 第 18巻 13号 180-191頁 。. s. Rjι. И sjた Jι χJθ θ4。 αれれノ “ “. 2 Bd。. Mainz: Bo Schott's Schё ne.. 1967.Hrsgov.H o Eggebrecht..

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参照

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