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伝統的なピアノ演奏法の再考 : ヨーゼフ・ディヒラー著『ピアノの解釈と限界』から

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(1)Title. 伝統的なピアノ演奏法の再考 : ヨーゼフ・ディヒラー著『ピアノの解釈 と限界』から. Author(s). 深井, 尚子. Citation. 北海道教育大学紀要. 人文科学・社会科学編, 68(2): 97-108. Issue Date. 2018-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/9704. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(人文・社会科学編)第68巻 第2号 Journal of Hokkaido University of Education(Humanities and Social Sciences)Vol. 68. No.2. 平 成 30 年 2 月 February, 2018. 伝統的なピアノ演奏法の再考 ~ ヨーゼフ・ディヒラー著『ピアノの解釈と限界』から ~. 深 井 尚 子 北海道教育大学岩見沢校鍵盤楽器第2研究室. Überprüfung von der traditionellen Interpretationen, Klavier zu spielen 〜 Verstand und Gefühl von Josef Dichler 〜. FUKAI Shoko Department of Music, Iwamizawa Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 現代においてクラシック音楽を視聴する場合,インターネットの普及,録音技術の発達から, 音源が溢れており,子どもの発表会の演奏から往年の巨匠の演奏まで簡単に聴くことができる ようになった。そのため,何がよい演奏なのかが不明確になり,クラシック音楽における芸術 としての伝統的な規則や解釈も忘れがちになっている。そのような状況の中,現在,18世紀後 半から19世紀前半に書かれた,テュルク著『クラヴィーア奏法』 ,C.P.E.バッハ著『正しいク ラヴィーア奏法』,ツェルニー著『ピアノ演奏の基礎 作品500』などピアノ演奏法の著書が見 直されている。それらの著書の内容を継承し,かつ,現代に合わせたピアノ奏法の著書が20世 紀後半に多く出版されているが,その中の一冊に,ヨーゼフ・ディヒラー著『ピアノの解釈と 限界』がある。本論文は,ディヒラーの著書を基に,伝統的な音楽的規則を見直し,クラシッ ク音楽における「伝統的なよい演奏」を再考するものである。. 序 論 1980年代のウィーンでは,18世紀,19世紀から続く伝統的な音楽技法や規則を継承する音楽教育に重点が 置かれていた。そのため,当時は,伝統的で正統的な演奏がある程度認知されており,名演といわれるお手 本のような演奏が存在した。しかし,現在は,クラシック音楽における演奏は,伝統的な規則を守らない演 奏であっても個性という観念で受容され,その様式,演奏法,解釈は多様を極めている。そのような状況の 中,ピアノ学習者にとって,正しく,よい演奏を見極めることが難しくなっている。. 97.

(3) 深 井 尚 子. 本論では,正しい演奏法について詳細な記述がある,18世紀,19世紀のピアノ演奏のための理論書を見直 し,その基本を基に20世紀後半にウィーンで書かれた,『ピアノの解釈と限界』という理論書と18世紀,19 世紀に著された理論書とを比較検討し,現代においても,伝統的な規則や解釈が重要であることを再考する。 「良い演奏」には,伝統的な規則を根拠にした知識と認識を持つことで実現できる指針を探る。. 第1章 『ピアノの解釈と限界』における新しい視点の考察 ヨゼフ・ディヒラー(Dichler, Josef 1912〜1993)は,20世紀に活躍したピアニストで,ウィーン国立音 楽大学教授で後進の指導も行った。ディヒラーは,1948年に『ピアノ演奏法の芸術的完成』(Der Weg zum KünstlerischenKlavierspiel),1965年に『ピアノの解釈と限界』(Verstand und Gefühl)の2つの理論書を 出版した。ディヒラーは,1冊目の著書で,17世紀から20世紀初頭までのピアノ演奏法の理論書を詳しく紹 介した上,自らの見解を述べている。その17年後に書かれた,『ピアノの解釈と限界』では,伝統的な音楽 的な規則や演奏法を理解し演奏に結実させた後に現れる, 「感情」に焦点を当てている。「感情」は音楽にとっ て必要不可欠な要素であるが,このことは,不確実で,規則性がないため,演奏法の理論書の中では,今ま で,ほとんど触れられていない。この章では,ディヒラーが,この著書で何を伝えたかったのかを再考する。 第1節 聴取者の種類について 「よい演奏」については,多くの音楽理論家や演奏家が,詳細な規則やピアノの演奏法を提示することで, ある程度共通の概念が定着している。しかし,演奏は,聴衆が存在しなければその価値や魅力を提示するこ とができないにもかかわらず,聴衆に着目した研究は少ない。 ディヒラーは, 『ピアノの解釈と限界』の導入部分において,演奏を聴取する側,つまり,観客の質につ いて追究している。ディヒラーは,そのことについて以下のように述べている。一般論として,演奏に対し て聴衆は,さまざまな感じ方をする。例えば,演奏を聴く場合,「理解」して聴くべきである,「味わう」べ きである,ということもあれば,またある演奏を聴いて,「興奮」を起こしたり,「精神の平和」を感じる, または, 「おもしろい」と感じる,等,さまざまな「感情」を持って聴くのである。(注1) また,演奏する側の 義務と権利についても疑問を呈している。演奏者が演奏をする場合,ただ,弾けばいいのか,解釈をして弾 くのか,また,感情の表現をする場合,演奏者の自身の感情なのか,または,作曲者の感情なのか(注2),等, 今までは,よいピアノ演奏法の観点からの理論書が多い中,ディヒラーは,ピアノ演奏法ではなく,その演 奏そのものへのアプローチの仕方とその演奏を聴く,聴衆の分類をして,音楽を社会的な観点から見ている。 (注3) ディヒラーによると聴衆は以下のように分類される。. ①専門的な音楽家 A.演奏される楽曲を本人も深く勉強し,熟知している B.演奏される楽曲をそれほど熟知していない ②専門的ではないが,本人も多少楽器を弾くなどの趣味として音楽に親しんでいる聴衆 ③自分では演奏しないが,音楽を聴くことが好きな聴衆 ④ほとんど音楽には興味はないが,誘われるなど初めて演奏会に訪れる聴衆 このようにディヒラーは,演奏をする側が,この分類によって,どの聴衆に向けて演奏をするのか,また は,それらの分類を意識せずに自分の解釈,表現を行うのかという演奏者の演奏そのものへのアプローチの 仕方が,問われるという問題を指摘している。. 98.

(4) 伝統的なピアノ演奏法の再考. 聴衆の分類については,音楽社会学者,哲学者のアドルノ(Adorno-Wiesengrund, Theodor Ludwig (注4) が,『音楽社会学序説』(Einleitung in der Musiksoziologie 1962)において,次のように分 1903~1969) (注5) 類している。. 1.エキスパート 音楽という対象に完全に適応した聴取を行う。聴き取ったものを説明できる。 2.よき聴取者 音楽全体のまとまりを自発的に理解し,承認し,その判断には確固とした根拠があり,評判や趣味だけ に頼らない。 3.教養消費者 多くの知識,伝記など文献的な知識を広汎に持っている。 4.情緒的消費者 音楽を精神的な素質によって定義し,音楽の本質よりも情緒的な部分に強く興味を抱く。 5.ルサンチマン型聴取者 バロック時代またはそれ以前の音楽に傾倒し,反動的世界観を結合し作品の忠実性を求める。 6.娯楽型聴取者 アドルノは,音楽社会学的に聴衆を観察してそのタイプを分類し,それらを批判的に評論している。アド ルノの観点は,演奏者側からではなく,音楽を受容する聴衆側から,その問題点を指摘している。それに対 してディヒラーは,その分類から,演奏者の立場とその対処法を示している点が大きな相違点と考えられる。 ディヒラーは,常に演奏家の方向から聴衆の分類を行っている。しかし,アドルノとディヒラーの聴衆の分 類には,表現方法は異なるが,共通点も多く見受けられる。つまり,これらの聴衆の分類によって,演奏家 は,どのタイプの聴衆に対して演奏をするのか,または,それらの分類には関わりなく自らの解釈で演奏す るのかを考察するための指針を提示している。この2つの理論書は,演奏者と聴衆を密接に結びつけて, 「よ い演奏」の提供,受容の問題点を指摘していることが共通点として挙げられる。 第2節 解釈について クラシック音楽における「よい演奏」には,伝統的な規則が存在するが,その解釈の幅は規定されていな い。そのため,たくさんの解釈が存在しており,聴衆はそのさまざまな解釈による演奏を聴くことになる。 その場合,聴衆の音楽に対する知識,経験,嗜好によって,受け止め方に大きな幅が生じることもまれでは ない。 C.P.E.バッハやチェルニーは,優れた演奏家でもあり優れた理論書を書いているが,聴衆がどのようにそ の演奏を受容するかについては触れていない。また,19世紀の著作には,解釈(Interpretation)という項 目は見られず,現代においても,演奏家や音楽教育者によってさまざまな観点がみられる。また,演奏側は, 自分が幼少から習得したある種のメソッド(注6)がその基礎となる場合が多く,教育者のメソッドの系譜が存 (注7) 在するため,解釈にもいくつかの系譜があると考えられる。この点についてディヒラーは,本書で, 「解釈」. という項目を設定して,その問題点を指摘している。20世紀になって,「解釈」という概念が重要な「よい 演奏」の要素となり,盛んに「解釈」についての項目を設けた音楽理論書も書かれるようになった。その中 でディヒラーは,一般的に“当然正しい”とされる意見として広く認知されている事柄について取り上げ, その事柄を“表面的な言葉の意味”ではなく,具体的な音楽的表現法の視点から見直している。その具体的 な例を, 「よい演奏」の一般的な定義(A〜C)とその定義に対するディヒラーが提示する問題点(→以下). 99.

(5) 深 井 尚 子. として次に挙げる。 (注8) A.正しい演奏とは,作曲家が意図したものを響きとして表すことによって成立する。. →一見正しいようだが,以下の点を見逃してはならない。 ①17世紀から19世紀の作曲家の生きた時代と現在の状況を比較しなければならない。 例えば,モーツァルト(Mozart, Wolfgang Amadeus 1754〜1791)の時代は,ピアノという楽器が未発 達で,現在の調性と異なった音程で演奏されていたため,作曲者の意図したものとの物理的な相違点が あることを考慮するべきである。 ②音の強さ,速度に対する感じ方の変化を考慮するべきである。物理的には正しく,心理的には誤った解 釈になる場合がある。 (注9) B.アゴーギクは,バッハ,ハイドン,モーツァルトには許されない。. →2つの点から誤りである。 ①アゴーギクは単にロマン派的音楽にのみ用いられる表現方法ではない。 ②バッハや古典派作曲家が部分的にもロマン的に作曲しなかったとは,証明できない。 (注10) C.スタンダードな演奏というものは存在しない。. →この考え方は,良い意見である。 ①演奏する土地(ラテン系,ゲルマン系など)によって音楽の受容の仕方が異なる。 ②会場の音響,会場やピアノの状況によって,演奏は変化する。 このように,これらの解釈に関する諸問題を聴衆の視点を意識して再考することは,演奏者や音楽教育者 にも必要な観点である。現代において「楽譜通りに演奏する。」ということは,演奏家も音楽教育者も頻繁 に指摘されているが,この文章がいかに表面的であるかを,ディヒラーは,多くの例を挙げて解説している。 「楽譜に忠実なよい解釈」とは,具体的には,18世紀,19世紀に掲げられた「よい演奏」の定義をふまえた 上で,次の要素を考慮するべきであると述べている。 ①作曲者の生きた時代の社会状況,ピアノの発展,科学技術の発展等を知り,現代との相違点を比較検討し, スピード感,高揚の度合い等の差を再考する必要がある。 ②バロック時代,古典派,ロマン派と単純に分類するのではなく,どの時代においても,厳格な部分,ロマ ンティックな部分がある。時代区分によって画一的にとらえることは危険である。 ③知的観点と感情的観点を見極める。 ディヒラーは, 「解釈」の章において,現代社会の科学的進歩による人間の感覚の違いについても追及し ており,300年の歴史があるクラシック音楽の演奏を行う場合,現代の社会状況にも目を向け,伝統を知っ た上で,柔軟に見直す必要性を述べている。 第3節 音楽の価値についての限界について 第1節,第2節において,クラシック音楽を,演奏者,聴衆という2つの観点から見直すことで,「よい 演奏」が多角的に分析できることを述べた。これらの視点から伝統的な「よい演奏」を見た場合,そこには, ある限界が見いだされる。そこには,解釈の幅,演奏者,聴衆の嗜好が入り込むためである。音楽は,基本 的に絶対的な正解は存在しない。そこに,限界が生まれることをディヒラーは述べている。この視点は,多. 100.

(6) 伝統的なピアノ演奏法の再考. くの音楽家が経験的に認知しているが,音楽の限界について書かれた理論書は,ほとんど存在しない。ディ ヒラーは, 『ピアノの解釈と限界』において,「限界」という章を設けて,演奏者と聴衆双方が「よい演奏」 と認める音楽には,限界があることを述べている。その際,よき聴衆は,第1節で触れているよい音楽の定 義を理解し,よい音楽を愛し,心からのよろこびをもって音楽界に出かけ,音楽的構成を把握する訓練がで き,その上で感動ができる人の集まりと定義している。それらの「よき聴衆」に対して,演奏家は,次の4 (注11) つの要素を要求されていると述べている。. ⒜ 十分なテクニックの所有。(記憶力,よい神経) ⒝ 音楽的構成,知性を表現するための音楽性 ⒞ 真剣な研究による作曲家の意志を伝えられる能力 ⒟ 聴衆にできる限り理解させるための表現力 この4つの要素について,ディヒラーは,これらを完全に遂行することは,現実的には困難であり,人間 であれば,技術的な間違いを完全に排除できないし,聴衆は常に流動的で,同じ表現手段が,すべての聴衆 に受け入れられるとは限らないことを強調している。このことからディヒラーにおける評価の限界という意 味が見えてくる。 次に「よい演奏」に不可欠なのは,原典にのっとった楽譜と校訂された楽譜の違いを見極めることである。 ディヒラーは, 「ピアノ演奏法」における「よい演奏」の要素を提示しているが,その前に楽譜の信頼性(原 典版,校訂版等)についても述べている。その中の信頼された楽譜から演奏者は,何を極めなければならな いかを示している。しかし,そこにも限界が生じ,言葉による「完全性」は,多種多様な「解釈」,「嗜好」 (注12) によって限界が存在すると述べている。. つまり,音楽を言葉によって明確に定義することができないことに,音楽表現の限界があり,たとえ定義 する項目があっても,そこに嗜好が加わるため,明確な「よい演奏」を言い表すことは不可能である。しか し, 「よい演奏」には,以下の要素が含まれることが条件となる。 ①テンポ テンポの幅は大きく,言葉によって,例えば,Allegro, Andanteなどと指示があっても,そのテンポには 明確な規定はない。そのため,たくさんの「解釈」が存在する。 ②デュナーミク(強弱) 基本原則は,作曲家の楽譜にあるが,その幅は,規定されていない。fの指示がある楽譜をpで演奏する のは論外であるが,fの幅は,演奏者によって異なる。 ③アーティキュレーション,フレージング,リズム これらの間違いには,さまざまな楽譜が問題点を含んでいることにある。校訂版を妄信した場合,演奏者 の不注意,記号に対する誤った解釈などによって,間違いが発生する。その間違いは,聴衆に対して,音 楽の構成を明確に示すことができない。 ④アゴーギク どの程度テンポの揺れが許されるかは,音楽において明確な規定がない。アゴーギクを行う場合,演奏者 は, 「気分」で行うのではなく,「なぜ」行うのか,「どこ」で行うのか,「どれくらい」行うのかを判断し なければならない。ここにも,その幅の規定は存在しない。. 101.

(7) 深 井 尚 子. このように,音楽表現には,無数の可能性が存在し,さまざまな演奏が行われている。このような規定が できない音楽表現は,一見,自由に見えて,大枠的な規定は存在する。その規定を超えすぎる,また,知性 なく趣味,嗜好のみでの演奏は,クラシック音楽では「よい演奏」とは言われないことが,明確に示されて いる。次章では,音楽的な規則の提示が18世紀から明確に示されていることを検証する。. 第2章 よい演奏の定義 第1章において,ディヒラーは,聴衆の音楽の聴き方の分類を行い,演奏に社会学的観点の必要性を説い ていることを述べた。さまざまな聴衆の音楽の受け止め方があることが挙げられているが,聴衆の好みなど の曖昧なものではなく,芸術音楽において,よい演奏とは,どのように定義されているかを18世紀から20世 紀の音楽家の著書から検証する。 第1節 C.P.E.バッハの定義 1753年に,C.P.E.バッハ (Bach, Carl Philipp Emanuel 1714〜1788) は, 『正しいクラヴィーア奏法』 (Versuch über die wahre Art das Clavier zu spielen)を著した。この理論書は,二つの部で構成されており,ピア ノ演奏法について具体的に詳しく解説している。伝統的なよい演奏を提示し,その実現のための指針が示さ れている。特に,第一部第3章の“演奏表現”には,次のような「よい演奏」の定義が示されている。 1.音の強弱 ppからffまですべての段階が明確に聞き取れる演奏 2.打鍵法 打鍵の強さと長さによって,レガート,スタッカートなどをコントロールして表現された 演奏 3.テンポ リタルダンド,アッチェレランドなどを適切に使った演奏 これらの具体的な指針は, 「楽器を機械的に弾くのではなく,人の心を打つ演奏をするためには,優れた 知性,つまりある種の合理的な規則を遵守し,その規則にしたがって曲を演奏できる知性が要求され (注13) る。 」 という合理的な規則に由来するものである。C.P.E.バッハは,アフェクト(注14)の重要性を述べてお. り,18世紀中ごろまで盛んに研究されたアフェクテンレーレ(Afektenlehre)がよい演奏に深くかかわって いることも挙げている。 この理論書は,その後の古典派,ロマン派に至る作曲家たちにも盛んに読まれ,ある一定の規則書,また 「よい演奏」の指針になっている。現代においても,20世紀,つまり,ディヒラーを代表とするウィーン国 立音楽大学のピアノ科教授(注15)たちも「よい演奏」の基本をこのC.P.E.バッハの著書から引用することが多 かった。 第2節 チェルニーの定義 カール・チェルニー(Czerny, Carl 1791~1857)は,ベートーヴェン(Beethoven, Ludwig van 1770〜 1827)に師事したピアニストであり,作曲家,理論家である。数多くのピアノ練習曲を作曲したことで,知 られているが,練習曲だけではなく,優れた音楽理論書も残した。その中で最も長編である,『ピアノフォ ルテ教本』Op.500(Große Pianoforte-Schule 1839)の第3巻 演奏について(Von den Vortrage)の中で, 「よい演奏」について定義している。この理論書も,第1節で述べた,C.P.E.バッハと同様の内容が提示さ れている。C.P.E.バッハの著書から86年を経て書かれたチェルニーの著書は,ピアノが楽器として発展した. 102.

(8) 伝統的なピアノ演奏法の再考. ことや社会的状況が少なからず変化しているにもかかわらず,「よい演奏」の定義が基本的には変わってい (注16) ないことを示唆している。その内容は以下のとおりである。. 1.強弱 鍵盤を鳴らす際の音の強弱の度合いにかかわるもの 2.打鍵 レガート,スタッカート等,つまり,音符を保ち,つなぎ,切り離す度合いにかかわるもの 3.テンポ リタルダンド,アッチェレランド,カランド等,指定されたテンポの一次的な変更にかかわる もの 19世紀になるとピアノの楽器としての機能が著しく向上し,音楽表現の幅が広がっており,チェルニーの 要求は,C.P.E.バッハに比べるとさらに現代の楽器のためにも有益な内容になっている。チェルニーは,こ の第3巻の前に,具体的なピアノ演奏の技術的な訓練法を詳しく述べており,その技術を習得したのちに, この「演奏について」という項目を設けている。この第3巻の冒頭には,「ピアニストにとって不可欠の, (注17) と前置きし,以下の7つの目標を掲げている。 次のような資質を獲得するための方法について述べる。」. a)演奏の清潔さと正確さ b)しっかり拍子を保ち正確に分割すること c)正しく素早い譜読み d)しっかりしたタッチと美しくたっぷりした響き e)正しい指使い f)どんな難しい箇所でも,両手ともに最大限の流麗さと軽やかさをもって弾けること g)フォルテとピアノの相違,あるいはレガートとスタッカートの相違といった,まずは機械的に学べるな じみの演奏記号を正確に守ること(注18) この7つの目標を挙げた上,芸術音楽のあり方を次のように述べている。 「こうした資質は,芸術本来の目的の手段にすぎません。芸術の本当の目的とは,(中略)演奏に精神と魂 (注19) を吹き込み,それを通して聴き手の情緒と理性に働きかけることにあります。」. このように,C.P.E.バッハと比較すると,チェルニーの理念はかなり具体的になっており,大変わかりや すく「よい演奏」の要素とその基礎的な演奏法が示されていることがわかる。 両者とも, 「よい演奏」を演奏者側の視点から明らかにしている。C.P.E.バッハもアフェクト(情感)と いう表現によって聴衆を暗示しており,チェルニーは,はっきりと聴き手という言葉によって,演奏者と聴 衆の関係を示唆している。 第3節 ディヒラーの定義 デ ィ ヒ ラ ー は,1943年 に 書 か れ た,『 ピ ア ノ 演 奏 法 の 芸 術 的 完 成 』(Der Weg zum Künstlerischen Klavierspiel)の中で,第3章 音楽的表象において,よい演奏をするためのピアニストの条件を述べてい (注20) る。. 1.曲に対する,妥当で正確な音楽的表象を所有すること. 103.

(9) 深 井 尚 子. 2.この表象をあらゆる見地から見ても満足に表現しうる演奏能力 3.再現された音楽が,表象と一致しているかどうかをみずから検査統制する力 演奏者が上記も3つの条件を満たすための要素を,C.P.E.バッハやチェルニーと同様に,以下の項目を挙 げている。 1.拍子とリズム 音楽的リズムが数学的な配分とどの程度隔たっているのか どの程度まで自由さが許されるのか(注21) 2.アゴーギク テンポのニュアンスに関する理論。厳格なメトロノーム的進行に反するテンポの変 化(注22) 3.デュナーミク 強弱に関する音の変化(注23) 4.フレーズとアーティキュレーション これらの「よい演奏」を行うための要素とその扱い方は,18世紀,19世紀の理論家とほぼ同様であること がわかる。ディヒラーは, 「よい演奏」の定義を聴衆に伝えることが演奏者の使命であると述べ,演奏者だ けの独断的解釈に警告をしている。 この節では,伝統的な「よい演奏」が,18世紀から20世紀まで,受け継がれていることが明らかであるこ と,また,その受け継がれた伝統的演奏法を演奏者と聴衆双方が理解することによって,「よい演奏」は実 現することが見いだされた。. 第3章 演奏者と聴衆の関係についての考察 第1章,第2章において, 「伝統的なよい演奏」を18世紀から現代までの理論書における定義をふまえ, 演奏者と聴衆の視点から見直すことで,その「よい演奏」自体が,明確な定義を行うことの限界について考 察した。また,演奏家は, 「よい演奏」を行うために,伝統的な音楽的規則を熟知し,その規則にのっとって, 表現することを中心に演奏を行っている。しかし,聴衆の反応は,しばしば異なることが多く,演奏者の意 図が伝わらない場合もある。演奏者は,伝統的な「よい演奏」の規則を守り,自己の音楽表現をするだけで はなく,第1章で述べた聴衆の種類や聴衆の反応に対応すべく,表現を行うべきなのかなど,演奏家と聴衆 の関係性について考察する。 第1節 17世紀から19世紀の音楽批評 アドルノは,聴衆を分類し,「よき聴衆」と「悪しき聴衆」について,『音楽社会学序説』の第9章におい て, 「世論・批評」の項目を置いている。音楽批評は,すでに17世紀から盛んになり,マッテゾン(Mattheson, Johan 1681〜1764)が,雑誌「音楽批評」(Critica Musica 1722〜1725刊行),シャイベ(Schreibe, Johan Adolf 1708〜1776)が週刊誌「批判的音楽家」(Der Critische Musikus 1738~1745刊行)という音楽批評誌 を刊行し,自らが,音楽批評を行っている。また,シューマン(Schumann, Robert Alexander 1810〜1856) も「新音楽時報」(Die neue Musikschrift für Musik)を創刊し,匿名で批評を行っている。17世紀から19 世紀は,批評をする側も音楽家であったことが特徴であり,批評家自身が音楽の基礎から高度な知識まで熟 知しており,自らも作曲を行っていた。この時代の批評の意義は,「演奏されるにふさわしい作品」=「末 (注24) を選定することにあったと,岡田暁生は,述べている。つまり, 永く聞かれるに値する記念碑的作品」. 104.

(10) 伝統的なピアノ演奏法の再考. 18世紀~19世紀のヨーロッパの社会情勢が貴族から一般市民に移動し,音楽の受容の対象が広がったことか ら,音楽批評は音楽の専門家がよい作品を選定していたという背景がある。 マッテゾンは,『完全なる楽長』(Der vollkommene Capellmeister 1739)の著書で,「よい音楽」とは, 感情を表す表現が最も重要であると述べており,音楽修辞学における,アフェクテンレーレ(Affektenlehre) とフィグーレンレーレ(Figurenlehre)について解説している。これらの「よい音楽」の指針は,感情を表 す音型(フィグーレン)が存在し,その音型を作曲上で使用することによって感情(アフェクト)を表現で きるというもので,特にバロック時代に音楽的修辞学による作品が見いだされる。マッテゾンやシャイベが 盛んに書き記した,これらの「よい音楽」の指針は,C.P.E.バッハやチェルニーにも見られるが,理論的な 説明ができない部分も多く,現代において,アフェクテンレーレやフィグーレンレーレが「よい音楽」を定 義するには曖昧であるという評価になっている。しかし,「伝統的なよい音楽(演奏)」を規定するには,限 界があるという,ディヒラーの意見とは,逆説的な意味において合致していることがわかる。17世紀の感情 と音型を融合させて,よい音楽を定義しようという試みには,感情は曖昧であるいう問題点から衰退していっ たが,ディヒラーが述べる音楽的「限界」の原因が,嗜好や曖昧さにあることと,図らずも一致していると いうことに繋がる。 第2節 現代における批評 17世紀から行われてきた音楽批評は,20世紀になって科学技術の進歩により録音が可能になり,作曲家の 作品のみではなく,演奏そのものを批評する時代になって行く。また,作品だけではなく,音楽家のさまざ まな音楽的資料,書簡や覚書,人生についての新事実などが明白になればなるほど,自らが演奏や作曲を行 わなくとも,文献研究などを行う音楽学者,研究者が出現し,それらの研究者や学者が音楽批評を行うこと になる。20世紀以降,音楽批評は,演奏家や作曲家ではなく,音楽評論家というジャンルの職業が生まれ, 彼らによって行われるようになった。20世紀は,日本においても,音楽専門雑誌の刊行が増し,その雑誌の 中で「演奏の批評」が音楽評論家によって行われるようになった。20世紀以降は,夥しい数の演奏家による 録音(レコード,CD)が行われ,演奏会を実際に聴かなくとも,その録音された音源によって評価できるよ うになった。カイザー(Kaiser, Joahim 1928〜2017)は,ベートーヴェンのピアノソナタ全曲を,数名のピ (注25) アニストたちを録音によって聴き比べ,それらの演奏について,「よい演奏」の観点から批評している。. また,音楽学者,渡辺裕(1953〜)も,『西洋音楽演奏史論概説』(2001)において,ベートーヴェンのピア ノソナタ作品27-2について,多くのピアニストの演奏を聴き比べている。このように,音楽評論家や音楽 学者による,演奏批評は,20世紀には,盛んに行われてきた。音楽評論家や音楽家による批評は,一般の聴 衆にも大きな影響を与えるようになった。音楽批評のあり方や批評を再考する上で,参考になる出来事が, 1983年,ロシアのヴィルトゥオーゾピアニストのウラディミール・ホロヴィッツ(Horowitz, Vladimir Samoilovich 1903〜1989)の演奏会であった。ホロヴィッツは,技術的にも音楽的にも突出して優れている という評価を得ていたピアニストで,1983年,ホロヴィッツが80歳の最晩年に日本公演を行った。世界的に 知られた名ピアニストへの期待は高まり,最高額50000円の入場料も即日完売するほどであった。しかし, その演奏は,技術的な間違いが散見され,期待外れといわれる公演となった。その際,音楽評論家吉田秀和 (1913~2012) の批評は, 「ひびの入った骨董品」というものだった。この発言は,NHKのインタビュー(1983 年6月11日放送)で行われ,公共のメディアで公表されたものである。この批評は,多くの聴衆にも影響を 与えたことで知られているが,1986年のホロヴィッツの再来日公演では,大成功をおさめたことで,批評の 意味やその価値について再考するきっかけとなった。ホロヴィッツの2度の演奏会によって,「よい演奏」 の定義に見られる項目に合致するかどうかということのほかに,演奏家の体調や精神状態等などによって,. 105.

(11) 深 井 尚 子. 演奏が左右され,同じ演奏家が,高い評価を得たり,まったく評価されないこともあるという,曖昧な批評 が出現することがわかった。ディヒラーが指摘する,「よい音楽」の定義の限界が,明確に示された事象と いえる。 20世紀は,音楽評論家の音楽批評が,聴衆にも強い影響力があったことが見出せるが,21世紀は,20世紀 にも増して,多様な音楽解釈が表出している。CDだけではなく,インターネット上でいつでもどこでも音 楽が聴けるようになった。現代において,音楽評論家の意見や批評の価値は低下し,聴衆は,インターネッ トの検索によって情報を得ているのが現状である。名演奏と呼ばれる「よい演奏」の定義は,ますます曖昧 になっており,聴衆のタイプも細分化している。これらの社会現象は,音楽を提供する演奏家がどのような 聴衆を想定して演奏するのかがわかりにくくなっている原因になっている。 第3節 演奏者と聴衆の関係の考察 第1節,第2節において,音楽批評の変遷を述べた。クラシック音楽には,250年にわたって伝統的な音 楽的規則が存在し,その規則を守りながら,アフェクト(感情)を表現することが「よい音楽」, 「よい演奏」 といわれてきた。18世紀にマッテゾンやシャイベによって,19世紀にC.P.E.バッハやチェルニーによって, 「よい音楽」を継承してきた。そこには,同じ要素が提示されており, 20世紀には,ディヒラー (注26)によって, 「よい演奏」には,基本的な音楽的規則を熟知することが不可欠であることが明らかである。しかし,その 「よい演奏」を聴く聴衆は,その音楽受容の方法や聴き方が時代によってさまざまに変化を遂げている。音 楽に関する世論や批評について,アドルノは,音楽社会学序説において,1つの項を設けて以下のように述 べている。 「専門知識,親しんだものについての習慣的な知識がなければ,形成されつつある新しいものを理解するこ (注27) ともほとんどできない。しかしこの知識はおのずから,硬化し閉鎖的になりがちなのである。」. アドルノも,音楽的経験の継承なしには,音楽批評も新しい音楽の受容も困難になり,時代による変化も, それは長い歴史の継続であると考えるべきであると述べている。また,岡田暁生は, 「音楽の聴き方」(2009) において,アドルノと同様の意見を述べている。 「音楽とは特定の文化の中で時間をかけて形成されてきたもの,そこでしか生まれえないものであり,つま (注28) り常に「どこかから来た音楽」なのだ。」. このように,音楽学者も,音楽は,歴史と伝統の継続によって継承されてきたが,社会学的に見ると,社 会の変化,科学技術の変化などによる生活環境の違いによって,聴衆の音楽の受容の方法が異なっているこ とを指摘している。ディヒラーは,演奏家でもあるため,演奏家の立場から聴衆に対してどのような「よい 演奏」を行うのかという観点で論じている点が,斬新である。演奏家は,しばしば,聴衆の反応を意識せず に, 「解釈」によって,自己の表現をしようとする。現代における急激な社会状況の変化を見極め,演奏家 自身も同時代に生きていることと音楽作品が過去に作曲されていることを意識しなければならないことがわ かる。 「よい音楽」は,時代によって受容のされ方が異なることを意識し,聴衆の視点からも自らの「解釈」 を見直すことで,現代における「よい音楽」の提供が可能になると考えられる。. 106.

(12) 伝統的なピアノ演奏法の再考. 結 論 本論文は,1965年に書かれた,ヨゼフ・ディヒラーの『ピアノの解釈と限界』で論じられている,音楽の 「解釈」における限界に焦点を当て,その「限界」はどこから生まれるのかを再考したものである。17世紀 から現代に至るまでの「よい演奏」,「よい音楽」の定義は,多くの音楽家,音楽理論家によって,いくつか の要素に分けて挙げられている。その定義は,現代まで受け継がれているが,聴衆の受容という観点から見 ると,そのことがいつの時代も同様に聴かれているとはいえないことが見出された。18世紀に盛んに用いら れた,アフェクテンレーレによる感情の表現が音楽には不可欠な要素であるにもかかわらず,その「感情」 は,明確な定義が存在しない。聴衆は,感情に強く影響されて「よい音楽」と捉えることが多く,その「感 情」は,社会情勢によって,聴衆の音楽受容のされ方が変化することが再認識された。ディヒラーは,さま ざまな聴き方が存在することを指摘し,聴衆の分類を行った。その分類は,哲学者のアドルノ,音楽学者の 岡田暁生も同様に着目しており,彼らは,聴衆側の視点からその分類を行っている。しかし,ディヒラーは, 演奏家の立場から聴衆を分類し,17世紀から現代に至る社会的な変遷を考慮した上で,演奏解釈を行うこと を提案している。伝統的な「よい音楽」の定義は存在するが,現代において,その定義を熟知しながらも, 聴衆の音楽受容のされ方はさまざまである。演奏者と聴衆双方が,完全に満足する「よい演奏」には,おの ずと限界があることを自覚することで,演奏表現は,解放され,柔軟な解釈が生まれると考えられる。. 凡 例 文中にチェルニーとツェルニーが混在しているが,一般的には,チェルニーが使用されている。しかし, 日本で出版される場合,ツェルニーと表記することに統一されているため,著書名などに現れる場合,ツェ ルニー,筆者が使用する場合は,チェルニーとなっている。. 注 注1 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 pp. 9~10 注2 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 pp. 9~10 注3 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 pp. 18~22 注4 アドルノは,20世紀に頭角を現した哲学者,音楽学者で, 音楽を社会学的な立場からアプローチした。特にベートーヴェ ンの音楽を社会学的,哲学的に考察した。 注5 アドルノ 音楽社会学序説 高辻知義・渡辺健訳 平凡社ライブラリー 2009 p. 23,p. 24,p. 27,p. 30,p. 34, p. 41 注6 重量奏法,ハイフィンガー奏法,ミキモト奏法等,18世紀からピアノ演奏法はさまざまなアプローチが考案され,学習 者は師事した教師の影響を少なからず受けている。 注7 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 pp. 66〜77 注8 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 p. 67 注9 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 p. 67 注10 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 p. 68 注11 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 p. 127 注12 ディヒラー ピアノの解釈と限界 尾高節子訳 音楽之友社 1965 p. 130,p. 139,p. 141,p. 148 注13 C.F.E.バッハ 正しいクラヴィーア奏法 東川清三訳 全音楽譜出版 p. 173 注14 17世紀から18世紀にかけて,音楽的修辞学が「よい音楽」の指針となっており,その中で,アフェクテンレーレとフィ グーレンレーレがその中心的な概念だった。音楽は, 規則のある音型によって感情を表現できるというものである。アフェ. 107.

(13) 深 井 尚 子. クトとは感情表現のことである。 注15 1980年代,ウィーン国立音楽大学には,ブルーノ・ザイデルホーファー,ハンス・グラーフなどの教授陣が活躍してい た。ザイデルホーファーの師をさかのぼると,レシェテツキ,チェルニー,ベートーヴェンにたどりつく。 注16 ツェルニー 「ピアノ演奏の基礎」 岡田暁生訳 春秋社 2012 pp. 4〜5 注17 ツェルニー 「ピアノ演奏の基礎」 岡田暁生訳 春秋社 2012 p. 3 注18 ツェルニー 「ピアノ演奏の基礎」 岡田暁生訳 春秋社 2012 p. 3 注19 ツェルニー 「ピアノ演奏の基礎」 岡田暁生訳 春秋社 2012 p. 3 注20 ディヒラー 「ピアノ演奏法の芸術的完成」 尾高節子訳 音楽之友社 1948 p. 106 注21 ディヒラー 「ピアノ演奏法の芸術的完成」 尾高節子訳 音楽之友社 1948 p. 119 注22 ディヒラー 「ピアノ演奏法の芸術的完成」 尾高節子訳 音楽之友社 1948 p. 128 注23 ディヒラー 「ピアノ演奏法の芸術的完成」 尾高節子訳 音楽之友社 1948 p. 141 注24 岡田暁生 「西洋音楽史」中公新書 注25 ヨアヒム・カイザーは,ドイツの音楽学者で, 「ベートーヴェン32のピアノソナタと演奏家たち上中下」において,ベー トーヴェンのピアノソナタ全曲について,さまざまなピアニストの演奏をCDから抽出し,各演奏についてベートーヴェ ンの楽曲分析とともに論じている。 注26 ディヒラーの他にも,シャンドール,ギーゼキング等,多くの音楽理論書がある。 注27 アドルノ 「音楽社会学序説」 高辻知義・渡辺健訳 平凡社ライブラリー 2009 p. 304 注28 岡田暁生 「音楽の聴き方」 中公新書 2009 p. 170. 参考文献 アドルノ,ヴィーゼングルント「音楽社会学序説」 高辻知義・渡辺健訳 平凡社ライブラリー 2009 バッハ,C.P.E.  「正しいクラヴィーア奏法」 東川清一訳 全音楽譜出版 2013 新装版 ツェルニー,カール 「ピアノ演奏の基礎」 岡田暁生訳 春秋社 2012 ディヒラー,ヨーゼフ 「ピアノの解釈と限界」 尾高節子訳 音楽之友社 1965 ディヒラー,ヨーゼフ 「ピアノ演奏法の芸術的完成」 尾高節子訳 音楽之友社 1948 Dichler, Josef 「Verstand und Gefühl」 DOBLINGER 1965 カイザー,ヨアヒム 「ベートーヴェン32のピアノソナタと演奏家たち」 門馬直美,鈴木威訳 春秋社 1990 Mattheson, Johann Der vollkommene Capellmeister 1739 岡田暁生 「音楽の聴き方」 中公新書 2009 岡田暁生 「西洋音楽史」 中公新書 2005 シャンドール, ジョルジ  「シャンドールピアノ教本」 岡田暁生訳 春秋社 2005 Scheibe, Johann Adolf  Der Critische Musikus 1745 テュルク,ダニエル・ゴットロープ 「テュルククラヴィーア教本」 東川清一訳 春秋社 2000 渡辺裕 「西洋音楽演奏史論序説」 春秋社 2001. (岩見沢校准教授). 108.

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参照

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