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フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素(下) : フンボルトにおけるカント的要素

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(1)Title. フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素(下) : フンボルト におけるカント的要素. Author(s). 篠木, 芳夫. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 44(1): 11-24. Issue Date. 1993-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4270. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第4 4巻 第1号 i ion(Sec 44 i I ty ofEducat lofHokkaido Univers t Jouma onI A) Vol ‐ ‐ , No. 平成 5年7月 Jul y ,1993. フ ンボルトにおけるカ ント的要素とヘーゲル的要素 (下) フン ボルトにおけるヘー ゲル的要素. 篠. 木. 芳. 夫. 1 ( ) ヘーゲルの言語論 ヘーゲルは 『エンテュ クロペ ディ』 第三編 「精神哲学」 第一部 「主観的精神」 C 「心理学, 精神」 で 「言葉」 を論じているが, 我々はまず, この 「言葉論」 との関係で重要と 思われるヘーゲルの基 1 ) 本的な思想を概観しておかねばならない( ‐ ヘーゲルにとっ て, 真なるものすなわち絶対者は精神 であり, 実体は主観 (主体) である‐ ヘー ゲルは, 「一切を左右する要 刻ま真なるものをただ単に実体として把握しかっ表現するだけでなく, 2 ( )と言う 実体を抽象的 一面的に考え 全く同様に主体としても把握し表現するということである」 , . る 「反省」 の立場は, 存在としての自体的な直接性だけを実体として主張する‐ その場合, この存 在は反省としての知の彼岸として, つまり, 物自体として立てられているだけであっ て, 静止した 実体性になっ てしまう. しかし, この実体も 「それと気づかれないうちに」 知と関係してしまっ て いる‐ 知から独立にそれ自体 であるとされる実体について語るとき, 既にそれは知との関係のうち にある‐ 知の側から見て実体が直接性であるされるということ, 実体が実体として語られるという ことは, 言い換えれば, 実体は直接 生として静止した自己同一性に留まっ ている存在なのではなく, つまり, 直接的自体的に存在するものではなく, 知に対する存在 であり, 自己を媒介するものであ るということなのである. ということは, 実体は主観 (主体) であるときはじめて当初考えられて いたとおりの実体なのである‐「生ける実体とは存在であっ ても,真実には主体であるところの存在, 或は言い換えると, 真実に現実的であるところの存在 であるが, 現実的であるのは, ただ実体が自 己自身を定立する運動であるか ぎりにおいてのことであり, 言い換えると, 己の他となりながら, 3 そうなることを己自身と媒介し調停する運動 であるかぎりにおいてのみのことである」{ 1 つ ま り,. 実体が直接 生としての実体 であるのは, 実体の自己定立という否定 (実体が実体でなくなること) を媒介とした運動の結果なのである. 実体は主体なのだ‐ 物自体が物自体とされるのは, 物自体が 知に対して自己を定立し, そういう形で自己を否定することによる‐ 物自体は物自体 でなくなるこ と に よ っ て は じめ て 物 自 体 と さ れ る の だ‐ し た が っ て, 物 自 体 は 「在 る」 と 「無 い」 と の 統 一 で あ る‐ ヘ ー ゲ ル が し ば し ば 語 る 「自 己 自 身 と の 否 定 的 統 一」 d ienegat ive Bez i l i bst ehung aufs chse. とはこのこと である.否定を媒介として回復された直接性がヘーゲルの言う実体の真理なのである‐ こう した生ける実体としての絶対者が 「精神」 である‐ ヘーゲルにおいては, 絶対者が精神とし て自己であり, 自ら運動するものと考えられているのだが, そのことは, 同時に意識が知として絶 対者を認識しようとすることと相即 している‐ そう でなければ, 絶対者=精神, 実体=主観(主体) もミステリアスなものとなっ てしまう だろう. 精神は静止した, 生命をもたない実体, 存在自体と しての実体ではなく, 自ら主体でもある実体でるからこそ, 自己自身の他在において自己自身を示 すことができるのであり, そしてそのことは同時に, 知の主体としての意識に対するものとして, 11.

(3) . 篠 木 芳 夫. はじめて精神は自らを精神として 示すのだということである‐ 以上のことが, 『現象学州こおいては, 自然的意識と実在知との弁証 法的運動という形をとる.「意 4 ) つまり 意識は自己の対象 識[知] は或るものを己から区別すると同時にこ れに関係しもする」{ , . として自己の外に自体存在を立てる. その限りでは意識と対象とは相対立する区別されたものであ る. ところで, この対象は同 時に意識に対して立つものとして, 意識との関係の中にある自体でも あることになる. 自体的実在は意識にとっ ての自体に外ならない. だから, もともと意識は単一の 自体存在として一つの 自然物のように単一態で存在しているわけ ではない. 一方, 自体そのものも 対象自体としてのものと, 意識という知の形態の一項としてのものと, 二重の在り方をしているの である‐ 絶対者が精神としての自己意識であるということは, この意識の構造に 根ざしてのことで あるとともに, 意識がこのような構造をもつことが絶対者は精神 であることを指し示 すのである‐. じ ・理 学」 ノ 以上のようなヘーゲルの基本的 思想 を 踏 ま え れ ば, 『エ ン テ ュ ク ロ ペ ディ』で 問 題 に な る「 「 「 を対象と 人間的存在様式 自然的存在 としての 観察と実験とによ て考察されるような は, っ 」 」 , するものではないことは明らか である.「精神」は一切が精神の自己であるという確信に立っ ている. 精神にとっ て絶対他者は存在しない‐ ヘーゲルはその 「精神の所産は理論的精神においては言葉で 5 }と言う このことは 精神としての言葉は, 自己 (我) と他者 (汝) の相互承認が成立する ある」( , . 場である, と一応理解できる. しかし, この私としての 「我」 という自体とこの私の他者としての 「汝」 という自体と 更にこの二つの自体の融合の場としての 「言葉」 という三つの自体があると考 , えてはならない. それはヘーゲルの言う精神の在り方に反するからである. 我と汝が言葉において 相互了解 できるということが 「具体的現実」 であると主張されるためには, いつでも既に我と汝の 出会いと言葉とが予想されている‐ 言葉がまずあることが我と汝とをそれぞれに可能にし, 同時に じ ・理学, 精神」 なのであ 両者の出会いを可能にしているのだ. そして, このことの成り立つ場が 「 ノ る. だから, 言葉より先に精神が具体的なものとして在るのではない. 言葉とともに, 言葉におい. て精神は自己を精神として知るのである. したがっ て, 言葉は対象を認識したり他者と交わる 主体 の 用 い る 思想伝達の手段ではない‐ なぜなら, そのように考える ためには, 我と汝と言葉とを自体 的なものとして前提しなければならないからである. むしろ, 言葉が我と汝および世界の 「現前」 そ の も の な の で あ る.. 絶対他者が存在しないようなヘー ゲルの 「精神」 の立場に立て ば, 知性を離れた自体としての単 なる色や音, 単なる直接性としての直観はもはや 自体としては存在しない‐ いかなる色, 音といえ ども, 知 生の措定したものとして記号性, 象徴性をもっ ている. この知性の自己措定という 根源,か ら切り離して言葉を自体的なものとして扱うことは, 一つの抽象に外ならない. そしてこの抽象が, じ性というあのアポリアを生むのである.言葉において自己を精神として認識する知性は, 言葉の道具 言葉を離れては どこにも存在しない. 我, 汝, 世界といっ た精神の各契機をそれぞれ独立に在るも のと考えると, それらを媒介するものとして言葉が形成されるのだと考えられ, 言葉が 思想伝達の 道具となっ てしまうのである. むしろ逆に, 言葉において我, 汝, 世界が生成するのである. この ことは勿論, まず精神があっ て, これが言葉を生み, この言葉が我, 汝を含む人間的世界を生成さ せるという意味ではない‐ そう考えると, キリスト教的創 造説のアナロギー, 悪しき観念論となっ てしまう. 言葉は出来上がっ た表象や観念を伝達するために考え出されたものではない. 言葉は表 象, 観念の一つの在り方なのである. B. リーブルッ クスは, 終始ヘーゲルの立場に立ちながらフンボルトを読んでゆく. それは当然フ ンボルトの中に あるカント的な側面 -- カ ッ シラーはこれを強調したのであるが 一一 に対して批判 6 } 的になら ざるを得ない. 以下リー ブルッ クスの見解を考察してみることにする( . 1 2.

(4) . フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素 (下). ( 2 ) 言語と知覚 リーブルックスは,知覚が言語に基づくものであることを,色名記憶喪失に関するゲーレンとゴー ルドシュ タインの研究を引用して説明している(L223 )‐ 色名健忘症患者は, 目の前に示された色が 何色であるか言うことができない. 勿論, 彼らに色の直接的所与性が欠けているわけ ではないし, 個々の色をそれぞれの対象に合わせて並べる能力がないわけ ではない‐ 患者がイチゴの色やポスト の色を見誤るということは起こらなかっ たという. それぞれの対象の色に対応した色の紙を捜し出 すのは容易にできた. しかしそのためには, 患者は具体的対象の記憶像を必要とした. 彼らは, 車 を見て空と同じ色だと言う だけである‐ 患者は 「青」 という一般者 ではなく, 具体的に連関する体 験によっ てしか色を配列 しない. 患者には「配列原理」というものがないのだ. 彼らはいつ でも「そ の都度存在する具体的な類似性や連関性に応じて」 色を選ぶだけ で, 色の名 前に関する言語的態度 が欠落している‐ これを, ゲーレンとゴール ドシュ タインは 「範噂的態度」 と呼ぶ. 要するに, 患 者は色の世界に対してカテ ゴリアールに振る舞わない. 彼らは個々 の色を, 一般的色彩カテ ゴリー の記号として受け取ることができないのである‐ それに対して, 普通の人は対象の記憶像 ではなく, 例えば 「青」 という一般的な名称に基づいて 対応する色を選ぶことができる. 個々の色は, 普通の人にとっ ては 「色の名前によっ て思い描かれ た色のカテ ゴリー」 の代理 である‐ だから, 空の色を 思い描くことなく 「青」 という一般的な名 前 に基づいて, 車の色を言うことができる. 具体的な色は, 普通の人にあっ ては, 単に個別的Sos i e n や直接的所与ではない. 直接性はいつでも既に媒介されているのだ‐ いわゆる直接的所与に固執す る実証主義が悪しき形而上学にほかならないことを, 普通の人はその言語活動を通して明らかにし ているのである‐ 言語は直接的所与のうちには場をもたないとされている一般者に固執する. した がっ て, 色名健忘症に関するゲーレンと ゴールドシュ タインの研究が教えていることは, 普通の人 の知覚は既に言語的であるということである‐ 更に, ゲーレンと ゴールドシュ タインの報告するところ では,「感覚的印象に対して名前が影響を 与え, これを変更する」 . 後頭部に障害のある或患者の場合, はじめ色調を欠いて見えていた客体に, 正しい色の名前を呼称することで,それはそのような色のあるものとなっ たという このことを我々 . に当て嫉めれば, 我々 が生活の中で用いる用語の語桑 はすべて見られた世界の現象的性格 に関与し て い る, と いう こ と を 我々 は 推 測 す る こ と が でき る. こ こ で ゲー レ ン と ゴー ル ドシ ュ タイ ン が 示 唆. しているのは, 言語は世界に対する我々の 「カテ ゴリー的態度」 全体の可能性の制約 であると見な され 写るということである. 言語は単に知覚を伝達す る手段 ではない‐ 人間にとっ て言語が存在し ないような事態は, はじめからあり得ないのである. 実証主義は存在者をは じめから意味から独立 に存在するものと見なす‐ だが, 人間は何も意味しないようなものに出会うことはない ゲーレン . と ゴールドシュ タイ ンのこの試みは, 普通の人の意識 の世界は言語的であるということを明らかに した. 人間にはいかなる瞬間においても, 人間の現実的経験の内部 では, 言語の外に歩み出ること は不可能なのである. 我々は言語によっ てはじめて, 人間的世界としての世界の視覚的, 聴覚的 , 触覚的経験をもつのだ‐ 言語がはじめて象徴的になっ たのではない 既に知覚から して象徴的だっ ‐ た の であ る.. フンボルトによれば, 言語は知覚された対象を言い表すものではない 彼はカントと同様 「物自 . 体」 については語らない. だからといっ て, 言語は知覚されたも のとして独自の定在をもっとされ ている対象 (現象) を指示するのでもない‐ 言語は知覚された対象を象徴的に表示するのでもない ‐ 13.

(5) . 篠 木 芳 夫. なぜなら, 現実を対象として所持するということそのことが, 言語の中ではじめて実現されるの だ か ら であ る.. 「人間のどんな言説でも 話す人といっ たものをいつでも含み, 話しかけられる人といっ たものを , いつでも含み, 〈それについて〉話される事柄といっ たものをいつ でも含んでいる, という独自性を もっ ている. 人間のあらゆる言明がこのような三方面性を標準にした根本性格をもっ ているという ことは, 有名な主観-客観関係 が, 人間的認識の 内部 ではほんの局 限的な意味しかもっていないと 「 ) いうことをすでに示して いる」 (L218 . これがリー ブ ルッ クスの言う発話における 意味論的関係 lat ion で あ る‐ こ れ は, 言 語 は 自 我 と 世 界 と の i i igke tdersemantischen Re の 三 放 射 性」 Dre st rahl. 間, 我と汝との間を媒介するものである, というフンボルトの考えを言い換えたものである. 三放 射性というのは, 或主観が他の 主観に, 物について何かを言語において伝達するということである. ここで, 主観-客観の関係は, 認識関係全体とそれの諸結果の 内部における契機にす ぎないことが 判明する, というのは, 認識も常に相手をもっ ているからであっ て, この相手がすべての人間の共 有している意識という 形で表されるものであっ ても, それはかまわない. 主観-客観ではなく, 主 観-主観-客観なのである. 「三放射性」はロ ゴス的なものを専ら主観-客観関係の枠組の中で, す なわち第一人称と第三人称の局面でだけ取り扱っ てきた伝統的な在り方に反対する方向にある‐ 三. 放射性が発話の具体的現実であるとすれば, 主-客関係という観念は言語の意味論的三放射性へ止 揚されねばならない‐リー ブルッ クスによれば,フンボルトは近代の主観-客観の問題に関してヘー ゲル以前に主張されたことをすべて乗り越えている‐ リー ブルッ クスがフンボルトの 「第一公理」 と名づける命題は次のように言う‐「人間は言語を自己自身から紡 ぎ出すその同じ作用によっ て, 自 7 } 己自身を言語のなかへ紡ぎ込む」( . 知覚や経験といっ た, 人間と世界との出会い が言語に基づくものであることは上に述べた通りで ある. 世界とのこの遭遇に関して 注意しなければならないことは, その都度そこ で出会う対象は, 人間が世界と出会う関係のその都 度の地平から生み出されるということである. 世界遭遇の一定の 基本的な関係が維持される (実はそれがそもそも人間であるということなのであるが) その限り で, はじめて人格の同一性という主観的な側面と対象の規定性という客観的な側面の関係項の同一性が 確保されるのである‐ 人格の同一性が存在するのは, その人格の世界遭遇連関の内部のことであっ て, 決してその連関から独立してのことではない‐ しかも, 人間はあらゆる行動様式において, 対 象と直接結びつくのでは なく, 他の人間を巡る迂路を経てはじめて事柄と関わるのである. 世界遭 遇連関という 点でも, 人間は社会的存在なの だ‐ また, 人間は自らが経験する 現実という迂路に基 づいて自らを理解するのである‐ かくて, 世界との人間の出会いの構造は, 言語のもつ意味論的関 係の三放射性に基づいていると言える. このことは, 知覚や経験といっ た人間の世界遭遇が言語 的 であり, 言語に基づくものであることと符合する‐ 言い換えれば, 我々は言語のもつ意味論的関係 の内部においてしか, 物事を経験すること, 世界に出会うことができないということである. ちな みに, H.G‐ガー ダマーはこれを 「入間の世界一 内-存在の根源的言語性」 であるとし, 「解釈学的 8 ) 経験の媒体としての言語」 を論じている( . 言語音声は自然音声とは異なり, 「自分自身に関わるもの」とは別のものを意味する 一つの形成物 である. 言語音声は自分自身との関連性を超え出てゆく. これがまさに自らによっ て他を意味 し, 代理するところの表出作用に外ならない. しかし, 事態が事物そのものにではなく, その事態を指 し示す言葉のうちに あるということは, いかにして可能であるのか‐ この点に関連して, カントが 人間の経験について教えるところは極めて重要である. カントによれば, 我々は現実を人間から独 立に存在する世界として 言表することはできない. リーブルッ クスはこれを更に 進めて, 人間の- 14.

(6) . フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素 (下). 切の現実は, そ れ が Sosein で あ れ Dasein で あ れ, 人 間 が そ の 現 実 と 自 己 を 見 つ め て い る も の であ る限り, いつ でも既に人間がその構成に参与している, と考える ( 21 8 ) ‐ しかもこの現実は, 抽象 的有意味性の連関の中にある‐ そしてその都度の連関は, すべてここと今の個々の人間, 民族や社 会したがっ て或時代の人間がすべて組み込まれるその都度の遭遇連関である. 遭遇連関が民族や時 代によっ て異なっ ているように, 言語構造も異なっ ている‐ だが一方, 世界遭遇の構造には差異性 を越えた同等性がある‐ それが, すべての言語の中に認められる発話の意味論的関係の三放射性で ある. 上述のように人間の世界遭遇連関は言語的なの であるから, 言語の差異性の根拠も, またそ の差異性の内部に一致を示す根拠も, その連関に存するのは当然である‐. 3 ( ) 言語と思考 リーブルッ クスのフンボルト論の特徴は, フンボルトが言語の行動性格を過度に強調していると ころに 主観的観念論と称せらるべき限界を指摘しながらも, 時としてその限界を打ち破り, リーブ ルッ クスの言う三放射性, ヘーゲルの弁証法的思索のほとん ど入り口にま で到達していることを認 めるところにある. 「言語そのものは出来上がっ た作品 (エル ゴン) ではなく, 活動性 (エネ ルゲイ ア) である」 というフンボルトの命題は, なるほど 「精神の働き」 を問題にしており, 「精神が現に 存在していると言い得るのは一般的に言っ て, 活動性も こおいてであり, しかも活動性そのものとし て以外にはない」( 4 )と考えられている. だが彼は, 直ちにこれを訂正するような注を付している. 7 「しかし その下に [精神の活動性の下に] 意識的にかつ個々の行動において次第に前進する働きを , 思い浮かべるという誤解は, とにかく避けられねばならない‐ このことは全く言語には適さない ‐ そして言語におけるその不明確な自立性のこの側面を際立たせようとすれば, この側面を働きとか 活動性ではなく, 一瞬の形成に注意を払えば, 言わば精神のわれ知 らずの流出と呼ばねばならない」 9 ) リー ブ ル ッ ク ス に よ れ ば こ の 「流 出 と い う 概 念 に よ て フ ン ボ ル ト は 主 観 的側 46Amn)( ( っ , 」 ‐ , 面から意味論的関係の三放射性へと接近してゆくのである (L229 ) ‐ 言語における精神の働きと言わ れているものは 「分節」 である‐ フンボルトは 「いろいろな言語 が相互に相違しているのは, それぞれの言語の形式に依る」 ( 8 3 )と言う が, そこで問題となっ てい る音声形式は, 質料としての音声と対立措定さ れる純粋形式ではない‐ それはいつ でも既に形成さ. れた音声なのである‐ つまり, それは同時に能動的であり受動的でもあ る. 音声形式は内的な言語 傾向を妨げることはない‐ むしろ同時にそれを必要とする. だから, 言語の能動的使用と手段 とし て使用されるということになっ ている受動的音声形式とは, 互いに対立しているわけ ではない む ‐ しろ音声形式の原理の内部に, 思想を必要とする傾向が既にある‐ したがっ て, 分節された音声が 純粋な行為の質料 として機能することはない. 問題は, 音声形式とその使用が互いにいかに浸透し 合うかという 「相互的浸透の親密さ」 ということなのである‐ 「言語は 思想を形成してゆく 器官である ( ) 」 85 . これをリーブルッ クスはフンボルトの第二の公理 と名づける‐ もし音声形式が感性によっ て活気づけられないとしたら, いかにして言語は その都度 思想を形成する ことができるだろうか. 知的活動は言語以前に 存在しているのではなく はじめか , ら言語音声と結びついているのでる. 同時に阻止的でありかつ促進的でもある音声形式の力が共に 働いているの でなければ, 漠然とした表象が鋭く分節さ れた概念になることはない であろう 第二 . の公理を注釈してフンボルトは次 のように言う. 「人間の知的活動は徹頭徹尾精神的なものであり , かつ内面的なものであっ て, いわば跡形もなく消えてしまう一過的な性質をもっ ているが それを , 15.

(7) . 篠 木 芳 夫. 口に出して語ることによっ て音声を媒介として外面化され, 感覚・感官にとっ て知覚し得るものと なる. それ故, 知的活動と言語とはもともと一体なのであり, 相互に切り離すことのできないもの である. ところ で知的活動の側 でも, それ自身音声と結合しなくてはならない必然性がある. さも な い と 思考は明断なものとなること ができず, 表象は概念になり得ないからである. 言語にとっ て はこのように, 思考, 発声器官, 聴覚の三者が分かち難く結びついているの であるが, この結びつ きは人間の本性の仕 組みそのものに常に根 ざしているものであっ て,こういう仕 組みないし構造は, ) 8 5 根本的であるという以外には説明のしようがないのである」 ( . フ ン ボ ル ト に よ れ ば, 思考は音声形式を土台として生まれるものでも なく, まして内在的に既に. 存在する 思考を伝達するために言 語という手段を必要とするのでも ない‐ 形成された音声の鋭さと 思考の統一とは不可分 である. 「大体 思考というものは, 稲妻や衝撃にも似て, 表象能力のすべて を一点へと凝集させ, それ以外の同時に存在 しているものすべてを排除してしまうものであるが, 同じように, 言語音声は, それだけが他と切り離され, 際立っ た鋭さと統一性を示しながら, 響き ) 85 渡るのである」 ( . この文章で述べられているのは, 分節の現象である‐ 分節は音声質料の形態 化であり, その限りで阻止された行為である‐ 「丁度, 思考が心の動き全体を捉えて しまうように, 85 ‐86 ) 言語音声は, 人間の内部に入り込んで, あらゆる神経を揺り動かすだけの力を持つ」( . 言語 音声という形で知的鋭さも神経の 振動も吐き出される. これは人間のあらゆる経験に固有のもので ある. その際, 言語音声は自然音をその契機とするし, 最大の可塑性をもっ た要素として用いるが, この要素は人間の分節衝動の意のままに処理される. 耳はその際 「動きの印象を受け取るもの, つ まり一般的な声の中から漏れ響く 言語音声において, 現実の行為というものの印象 を受け取る」 すなわち, 発話という活動においては, ( 86 ) ‐ そしてフンボルトは次のことに注意を喚起している‐ 人間の活動性だけが働いているのではなく, 人間の受動性も働いている, と. 知的営為でさえ, 「特 「 ) 87 に, 人間の声のもつ言語的な響きによっ て助長されるのである」( . というのは, 人間が呼吸す るのと同じように, 人間の声は生きた響きと して, 胸の内から涌き出てくるのであっ て, たとえ言 語とはならなくとも, 苦痛や喜び, 厭悪や渇望には常に随伴するか らである. それ故, 声は, 声の 流れ出る源である生を, 声を受けとめる感官の中へ 息吹として吹き込むものであっ て, 丁度それは, 言語が対象を表現することによっ て, 対象を把握するときの 感受を再現し, そういう行為を繰り返 し反復しては, 世界を人間に結びつ けているということ, 換言すれば, そのようにして, 言語が人 ) 87 間の受容性と自発性とをみずからの内に統一し結合しようとしているのに似ている」( . そして, 音声は 「思惟する生物からは分節音, また, 単に感覚的でしかない生物においては分節化しない音 86 ) となる, と言われている. だから, 分節化された音声の内にも, それが言語音声であり, 声」 ( 言語が感覚を再現するものである限り, 分節化されていない音声も保存されている‐ 分節は知性の 顕現であるが, だからといっ て, 感覚の喪失ではない. 分節の内に感覚は保存されており, その限 りで分節は純粋な 「行為」 ではない. 純粋な行為とするためには, 活動性と受容性とを分離しなけ ればならないが, 言語はただ主体から発源 するものでもなく, 単に客体を模写するものでもなく, 人間の運動や知覚を用いて 世界の対象性を構成するものであるから, この 二つのもの を分離するの ではなくむしろ結合するのである‐. カ ン ト に と っ て と 同 様, フ ン ボ ル ト に お い て も 思考は単に受容性ではない.「というのは, どんな. 種類の表象であっ ても, す でに存在している対象となるものを, 全く受動的に観照 したものでしか 「 ) 87-88 ないなどとは, 到底考えるわけにはいかないからである」 ( . また, フンボルトは さま ざま )とも言う. 88 な感覚のもつ活動性は, 精神の内面的な行為と綜合的に結びつかなければならない」( この段階では, フンボルトはまだカン ト的であると言える. しかし, 彼は次のように述べている. 16.

(8) . フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素 (下). 「表象はこういう結合から己を解き放ち 主観的な力に対抗して対象になり切り 今度は対象として , , 「己を解き放ち」 客体となり 表象 ) 表象は 新しく知覚されつつ, 主観の中へ還帰してゆく」 ( 88 . , , されたものとなる. 表象はかくて主観的でもあり客観的でもある. そして,「こういう動きのために は, 言語は不可欠なのである」 ( 88 )と言う. では, なぜフンボルトは言語が表象形成の決定的な場 「 面で不可欠であると言うのか. というのは, 言語において精神の活動が唇を突き破っ て発源してく るのであるが, 精神の営みによっ てそこに生まれたものは, 精神活動の行われた人物の耳へと戻っ てゆくものだからである. このように表象というものは [主観から離れて] 現実の生きた客観性と いう領域へ移されてしまうの であるが, しかし, そう だからといっ て表象は主観性から切り離され 「 ) てしまうわけではない」 ( 88 . そしてもう一度 こういうことをなし得るのは言語だけなのである」 と言い, 引き続き次のように述べている.「言語の助けを借りてこのように, 主観性へ還帰する必然 性をもっ た客観性への移行ということが不断に行われているわけ であるが, こういう主客間の移行 がなければ, 概念の形成は不可能になり, 従っ て正しい思考も不可能になっ てしまう」 ( 88 ) . リー プッ ルクスによれば, こう した命題の中に込められている 思想を真に実現できるのは, ひとりヘー ゲル哲学だけである‐ 思考は単に主観的であるだけけはない. 表象は言語によっ て外に投げ出され, 他者によっ てその他者が立っ ている所で聞かれる‐ だが, 表象はそれを送り出した人の傍らに留ま る. だから, 表象は主観的でもあり客観的でもある. そして, そう したものでないような表象は, 世の中に一つとして存在しないのである. したがっ て, 思想を人の前に置く言語なしには, 人は想 l 像による形成物一つでさえ, 自らの前に立てる Vorstel en こ と が で き な い で あ ろ う. だ か ら, 主 観 性から切り離されることなく, 現実の客観性へ置き換えられる表象とは, カント的な概念ではなく, 自らの傍らにあっ て傍らになく, 客観の内にあるような弁証法的概念である. そしてそのための可 能性の制約が, 対目存在(自立存在) でもあり同時に対他存在でもある言語なのである. ともかく, 表象が主観性から切り離されることなく現実の客観性へ置き換えられることが, 言語にしか可能 で ないことを明確に語っ たのはフンボルトがは じめてである‐ 発話においては, 私は自分 が語るのを 聞き, 発話の過程をコントロールし, 他人が自分 の内で表象を発生させるという形で, 表象を他人 の耳へ移動させる. そして, この運動が表象や概念の可能性の制約 であるということなのである‐. 4 ( ) 形式と素材 フ ン ボ ル ト は 「言 語 そ の も の は Werk〈出 来 上 が っ た 作 品〉 (エ ル ゴ ン) で は なく, Tat igke i t〈活. 動性〉 (エネルゲイア) である」 ( 73 ) と言う‐ カ ッ シラーによれば, これは言語を生命の失われた in totes Erzeugtes と 考 え て は な ら な い の であ っ て, む しろ 作 り 出 す 活 動 Erzeu 作品e ≦鶏ng と み な. 1 0 ) だから 言語の本当の定義は 生成に即 した定義しかあり得な すべき であるということである( . , , いのである( 7 3 ) . すなわち, , 言語とは, 分節音声を思考の表現たり得るものとするための, 永劫に 反復される精神の働きなのである( 7 ) 3 . 精神のこう した仕事の中に認められる恒常的なもの, 同じ ような形態を取り続けているもの, これを出来る限り完全にその関連性において把握し, 体系的に 「 表現したものが言語の形式 である( ) 7 5 ‐ 形式には言うま でもなく素材が対応するわけであるが, 言 語の実際の素材と言い得るものは, 一面から言えば音声一般 ということになるし, また他面から見 れば, 感性的な印象およ び自発的な精神運動の総体であるという ことにもなる」 とフンボルトは言 う( 7 8 ) ‐ つまり, フンボルトにおいては, 形式に対立する素材は二重の意味で理解されている. 第 一の意味 での素材は, 「音声一般」という表現からして, 分節以前の連続体として の音声, 言語現象 17.

(9) . 篠 木 芳 夫. 成立以前の, 形式と無関係に存在する連続的物質音であり, 第二の意味の素材は, これまた言語現 象成立以前の, 生命を帯びた無定形のマグマ状の心的内容ということができよう. 別のところ で「意 104 ) と言われており, 音の塊としての 「音声÷般」 と対応するのはこれであろう. フ 味性一般」 ( ンボルトは 「音声以外の他の印象」 を 「対象が人間の内面, 外面にわたる感官に働き かけ, 生み出 86 ) と説明している‐ ここ でいう 「感性的な印象」 は, カントの 「物自体に すことのできるもの」 ( よっ て触発されて生じる感覚の多様」 を 思い起こさせる表現であるが, ともかく未だ無限定な表象 内容の塊であり, 思惟ないし言語による刻みを受ける以前の直観 的な意識内容 である. フンボルト は素材について引き続き 「そして, こういう印象および精神の運動は, 言語の助けを借りて行われ ) と言う. 78 る概念の形成よりは先立つのである」 ( しかし, 「形式と素材」に関するこの文章は, 言語を具体的な相において考えてゆくヘー ゲルの立 場からすれば, 容認できない見解 であろう. なぜなら, この場合素 材は形式と対立した別の自体と 考えられているからである. すなわち, 混沌としたカオスのような名もないそれ自体無意味な世界 が一方にあっ て, これに形式が秩序を与え, 区別と関係を備えたコスモスとするのだと考えられて いるからである. だが, その言葉以前の 「混沌とした力オスのようなそれ自体無意味な世界」 が, そのようなものとして知られるのは どのようにしてなのか. この無意味な世界と言葉が生み出した 世界とが「異なる」 世界であると判る以上, 言葉が前提されていることになる. 「言葉にならないも このように の」 (素材)が言葉によっ て, そのようなものとして語られてしまっ ているのだ. だが,・ 「 「 考えると, 言葉にならない」 自体が前提され, そのような自体を第一の 、もの, 真実」 のものとし てそこからそこへと認識が進めら れることになり, 言葉はそのための便利 ではあるが不完全な道具 または手段となっ てしまう. この意味で, 認識が対象に一致するのではなく, 対象が認識に一致するのでなければならないと したカントの 「コペ ルニクス的転回」 の意味は大きい‐ 認識の対象への一致が真理であるとされた 場合の対象とは, 「物自体」としての対象ないしは物の隠れた性質に外ならないものであっ た‐ 合理 論は人間理性によっ てこの 一致が可能 であるとして教 条的形而上学に陥り, 経験論は人間には感覚 を通してしか知識を獲得する方法がない以上, この一致は不可能であるとして懐疑論に陥っ た. と ころが, 対象が認識に一致するという場合の対象は, 物自体ではなく 「現象」 であっ た. 物自体に 一致することが真理であるというのであれば, その物自体が何であるかが判っ ていなければならな い. そ う で な い と, 一 致 し た か どう か 判 ら な い‐ しか し, 判 っ て い る と いう こ と は, そ れ が も は や. 物自体ではなく我々の意識に取り込まれているもの, つまり媒介されているということである‐ 物 自体という直接性はいつでも既に媒介されている. ただ, 物自体は直接性ということになっ ている, 直接性として取り扱われる. だから, 「物自体」 は 「ある」 と 「ない」 との統一なのだ. 知性を離れ て自体としてあるような色や音といった素材があるわけではない‐ そのような単なる直接性として の直観は, 自体としては存在しない. 形式から離れて素材が自体的に存在する わけ ではない. それ は知性の自己措定という根源から切り離してしまっ たら, それはひとつの抽象にす ぎない‐ フンボ ルトにおいては, リー ブルッ クスも言うように, まさに 「弁証法的」 と言うべき 思想と分別悟性的 「非弁証法的」 と言うべき考えとが しばしば同居している 「こういう印象および精神の運動は, , . 言語の助けを借りて行われる概念の形成よりは先立っ ている」 という非弁証法的な文章がある同じ 段落の中で, フンボルトは 「言語の領域の内部 では, 未だ形を成していない素材というものは存在 することはできないのである」 という極めて弁証法的な見解を示している‐ 同じことがカ ッ シラー についても言える. 彼はしばしば言語における 「精神の活動性」 や 「主観の形式」 の重要性を強調 するが, 一方フンボルトについて 「彼は, 自立的形式がそれ自身で存在する素材に後から付け加え 18.

(10) . フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素 (下). られ押しつけられるというように, カントの認識論を理解することはなかっ た」 (更E1 24 )と述べて い る の であ る‐. 6) 各. 論. フンボルトの言うエネルゲイアとしての言語は, 「精神の働き」 であっ た. だが, この活動には, 民族に属するものとみられる別の側面がある‐ 「しかし, 言語は個々の人間の自由な産物ではなく, いつ でも民族全体に属する‐ ……言語は主観性から客観性への大きな移行点, つねに制約された個 1 1 ) 言語はそれ故単に主観的な活動 生 人から全てを同時に包括する定在 への大きな移行点となる」{ . としてのみ捉えられてはならない‐ フンボルトは言語が民族の 「産物」 であると言っ ているのでは なく, 「民族全体に属する」という慎重な表現をしている‐ つまり, 民族は個々の語以前にあるわけ ではないし, 個々 の語は民族以前にあるわけでもない‐ 個別的なもの以前に客観的全体が存在し, 共同体や社会以前に個別的なものが存在するわけではない. それは部分 以前にある全体でも全体以 前にある部分 でもない真理としての全体 である‐ このことを我々はヘーゲルにおいてはじめ知るに 至 る の であ る‐. 言語は主観 生から客観性への移行をいかに行うのか‐ それは単なる行為ではなく, 同時に客観性 の影響を受ける活動性としての 「分節」 による. フンボルトは言語はエル ゴンではなくエネルゲイ アであると言う が, リー ブ ルッ クスによれば, 言語は同時にエルゴンでありエネ ルゲイアであるよ うなものである‐ フンボルトも 「言語は人間の活動性の所産 ではなく……また民族・国民の作っ た ものでもない」 と言っ ている‐ ここでは, 言語に主観性も客観性も否認されている‐ 言語は両者の 間の移行 であることになっ ている‐ この移行のうちに弁証法の精神が息づいているが, フンボルト は い つ でも こ の 精 神 の 入 り 口 に 留 ま っ て い る, と り - ブ ル ッ ク ス は 言 う(L236) 彼 は カ ン ト に 従 っ ‐. て言語についての偉大な洞察力を示したが, 哲学的思索を十分前面に展開させなかっ た そのため . 彼は言語に自由を, 諸言語に被拘束性を与えることで両者を区別する 「言語そのものは神のことく . 自由であるが, しかし, 現実の諸言語は拘束を免れてはおらず, その帰属する諸言語に依倍してい る と 言 っ て よ い」 ( 24)‐. リーブルッ クスは,聾唖者が話し手の音声器官の運動や書かれたものを見てこれを理解するのは , 彼らにも分節能力が内在しているからであるととし, 彼らが聞く手段を欠いても 視覚的に表示さ , れた 没言 語 的思 想 をもつ の では なく, 分 節 を知 覚 して いる の だと いう こ と は意 義 深 い と 言う (L239 ) ‐ なぜなら, それは視覚的に生み出されかつ読み取られた運動の代理形成物のうちに自らの 道を見いだすところの人間的に言語的な分節だからである.動物は音声を分節することは できない ‐ オオムはそう しているようにみえるが, 人間によっ てそうするのある‐ では, なぜ人間は動物がオ シ であ る の と 違 っ て, 「言 語 的 に一分 節するのか それは 人間の世界遭遇が言語的であるからと言 ‐ , うほかはない. 人間が一つの音を聞いた場合, この音は人間には単に自体的にあるのではなく 同 , 時に彼にとっ てあるのである. その音を二度聞けば, たとえそれが物理的には同じ音でも 彼にとっ , てはそれは別の音である‐ ヘーゲルが我々にはじめて教えてく れた, 自体的なものと我々にとっ て の も の と の 統 一 は, こ の よ う に 既 に 言 語 の 内 に 存 在 す る 我々 人 間 に と っ て は 聞 く と い う こ と は . , ,. いつ でも既に分節された聞く ことなの である‐ この分節は, 聞くことにおける能動性と受 動性との 統一に由来する. にもかかわらず, フンボルトは分節について語るとき, それを単に精神の活動 として観念論的に 19.

(11) . 篠 木 芳 夫. 論じるだけである.「すべて語るということの基盤と なり, 本質となっ ているものは, 分節化した音 声であるが, 人間はこう した音声をやむにやまれぬ心の衝動に促されて, 身体のさま ざまな器官を 1 04 ) 道具として用いつつ, 強引に作り出すのである」( . 分節に関して言語を全く行為として しかみ なしていないと思われる程観念論的な文章がある.「分節して発音するということは, 音声器官に対 する精神の支配力に 基づいている, つまり, 精神は音声器官に迫って, 精神の活動形式にふさわし 「 「 106 ) い仕方で, 音声を取り扱うように強いている わけである」 ( . フンボルトは 支配力」 とか 強 いる」 とかいう表現を用いて, 精神を活動性とする規定にとらわれている. 分節は確かに精神の仕 事である. がしかし, フンボルトはもっ と豊かな精神の概念を展開するはずであっ た, とり‐ ブ ルッ ク ス は 嘆く‐. 人間の言語音声を動物の音声と区別する所以のものについても, フンボルトは 「何らかの意味を 指示しようとする意図や能力」 を挙げ, これさえあれば 「それだけです でに, 分節音声が形成され 「 ) 104 る」 と言うだけである ( . だが, 或存在がそう した 意図」 をもつようになる能力にいかにし て到達するのか, ということがそもそも問題であるはずなのである. フンボルトにおいては, 言語 音声と動物の音声との違いは, 意味を指示しようとする契機の有無とされている. しかし, 言語の 本質は, 人間の世界遭遇の本質でもある意味論的関係の三放射性にあることは既に見たところ であ る. 「何らかの意味を 指示しようとする能力」は, むしろ世界遭遇の 関係全体から指図されるものな の である‐ リー ブルッ クスは分節というものを, 既に知覚において 意味論的に先行する, とりわけ ) 人間的な世界遭遇の言語的表現であると考える(L239 . 言語の違い(多様性)と統一は世界遭遇の 「 多様性と統一に基づいている. そしてこの 基づいている」 ということも, 世界遭遇の基礎のよう なものを何か言語のために形 成するという具合に理解されては ならないだろう. 世界遭遇と言語の 統一と多様は, 互いに互いを含んでいる. 各々の分節すなわち経験の規定の可能性の制約は, 経験 そのものの弁証法に ある‐ その経験の中で形成される事物との関係は, 常に同時に自己自身に対す る関係 であるということである. リー ブルッ クスがフンボルトの 第一公理と名づけたもの,「人間は 言語を自分 から紡 ぎ出す同じ行為によっ て, 自らを言語の中に紡 ぎ込む」 は, このことである. 世 界遭遇とそこにおいて生じる人間的, 言語的応答において同時に発源するのは, 目標とされた事物 の分節としての語の分節および分節意味の完成である. 意味は人間が語を分 節することによっ て表 象を分節し, そして, それを主観性から客観性へと運ぶということ以外の何ものでもない. 規定と 意味付与とは同じ一つのプロセスであり, 原理的に区別されないの である‐ フンボルトにおいては言 語は精神の行為とされ, 精神は純粋な活動性となっ てしまう. 彼は音声 形式を知的, 精神的なもの, したがっ て非弁証法的なものと考えた‐ それが 「内的」 言語形式であ る. 「[言語には音声という 感性的な部分もあれば, それとは別の知 的, 精神的部分もあるが] 言語 にとっ てこういう全く内面的でかつ純粋に知的な部分 こそが, 本来的に言語を構成してい るもので あると言ってよい. そして, 言語生産にあたっ て音声形式が利用されるのは, 正にこの精神的部分 「 ) 138 1 ) 38 の用に供せんがためなのである」 ( . さらに彼は 言語は理念によっ て構成されている」 ( 「 プラトン的イ 言語に対する デアなのであり とも言っ ている. つまり, 内的言語形式」はここでは , 関連はもっ ていることになっているが, しかし, もともと言語の外にあっ て, カント的理性の要請 に応じて言語に臨在するとさ れる. これは, リー ブ ルッ クスによれば, 言語の知的部分の過大評価 と言 ) である(L242 . 言語の背後にある内的なものなるも のは, 我々にとっ ては神話的でしかない, 「 う. さすがにフンボルトは, 同じ 内的言語形式」 の節で, 自らの文章の修正に着手することに な る. すなわち, 彼はす ぐにも 「調和と共働」 について語る. 「このような言 語の性質が生じてくるの は, 言語の中で明らかになっ てくるさま ざまな法則が相互に調和 し, かつ共働 して働いているから 20.

(12) . フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素 (下). であり, 更に, そういう法則が, 実は直観, 思考, 感情の法則一般とも調和 し, 相互に関連しつつ 働いているからである」( 1 38 ) ‐ 言語は決して純粋な精神性のうちには存立しない. なぜなら, そう した精神性は全く存在しないから である‐ 言語が完成に至るためには,「音声形式と内面的な言語法 則との結合」は真正かつ純粋に浸透することが必要なのである」 ( ) 1 51 ‐ したがっ て, リーブルッ ク スは 「内的言語形式」 ということで, フンボルトが 「人間の中で内的に先行している形式」 を理解 して い る 限り に お い て こ れ を 認 め な い (L371 )‐. ところが, フンボルトは別のところでは再び非弁証法的思考様式に戻っ てゆく.「概念と音声とい う異質のも のを結合するためには, 音声と結びついている物体的音響を一応度外視し, 単に表象そ のものの前で結びつけるとしても, それでも, 概念と音声が出会うことのできるような第三者によ る媒介が必要となるのである」( ) 1 60 ‐ 弁証法の門の前に立つのみで, これを通り抜けることのでき ない思惟だけが, 第三者による媒介という この思想を必要とするのである, とり-ブルッ クスは言 う (L242)‐ こ の 第 三 者 は カ ン ト が 「図 式」 と 呼 ん だ も の であ り, フ ン ボ ル ト が こ れ を 言 語 の 理 論 に どの よ う に 応用 し た か は 本 稿 (上) で 述 べ た (Vemunf tと Vers tand の 例 が そ れ で あ る)‐ こ の 例 か. らも, 媒介者が感性的なものであることは明らか である‐ s i l i nn ch「感覚的」 という語の隠れた語義 を考えれば, そこ有意味なものと感覚的なものの両方が等しく思念されていることが判る. だから, 音声形式といわゆる内的言語形式 との結合にとっ ては, 第三のものは何も必要 ではないのである . フンボルトもこう した見解に近づいている‐「そこでは本来的には思考が音声に魂を息吹として吹き 込むのであるが, 音声の方でもまた, 音声の本性に基づいて, 思考に対して逆に, 人の心を奮い立 たせる原理を与え返すの である」 ( 152 ) . ここでは, 人の心を奮い立たせる原理は音声の側 にある‐ 言語の現象はその背後に我々 が何かを探し求めるものは何もないような一つの体系なのである 純 . 粋な活動性としての人間の精神なるものは, ここでは登場しない. 中国語の場合, ほとん ど一音節の詩の文に対する関係は, 語そのものに付着している符号によっ て表現されるのではなく, まず一定の継起の規則によっ て, それ故語の位置によっ て表現される . ドイツ語の場合でも, WagenundPferdestehenberei t fen i chanzugre cht ‐ と WagenSieni ,mi . と言うとき, Wagen という語そのものは, 文中のその位置によっ て, 文全体の意味連関からその意 味が規定される. ただ, 中国語は幹語を並列させ, 位置価値から意味を読 み取ることを 思惟に任せ るのに対して, 屈折言語は, 語そのものの意味を文中のそれの位置から独立に規則的に生 じさせる ‐ Ergehtnach Hause . と 言 っ た と き, gehen と い う 語 の 屈 折 に よ っ て, 文 全 体 を 聞 い て し ま う 以 前. に, 現在時称の意味が直ちに生 じる. 屈折においては,gehen という持続的な意味とともに, 音声や 文字に付された略符によっ て, 文全体からしてその語がもつより詳細な規定が一緒に与えられる ‐ 屈折によっ て, 語の同一性 ( gehen の持続的な意味) と差異性 (人称, 時制の多様性) を同時に兼ね 備えた表出が実現する‐ 屈折は変形的( i ) ) ng g gegangen , 類似的(同化的) ( , あるいはィ寸加的(接 尾辞) という形をとる‐ 屈折は分節の拡張であるという ことができる 屈折は 「語の単一性を傷つ . けることなしに二重の表現を語に担わせ る」 ( 177 ) ことだからである‐ フンボルトは屈折に関連し て 「現実の言語という 組織体は, 外面から得た印象と内面的な感情とが交錯しておりなす相互 作用 から生じてくるも のであり, 言語という組織体の目差すところは 言語の普遍的な目的に外ならな , い. そして言語の目的とは, 観念的な世 界 -- それは完全に内面的とも言い切れず さりとて 完 , , 全に外面的とも言い切れない世界である -- を創り出そうとしながら 主観性と客観性とを媒介的 , に結合することなの である」 ( 1 83 ) と言う. つまり, 屈折は純粋な活動性と して把握されてはなら ない分節の継続なのである. フンボルトにとっ て, 動詞は 「綜合的定立作用」 の言語的担い手である 動詞は述語を主語に結 ‐ 21.

(13) . 篠 木 芳 夫. びつける. しかも, 行為が言語的主体に帰せられるような仕方でである. それによっ て, これまで 結合可能なものと考え られたものが, 言語によっ て, 現実に結合されると いうことになっ ている‐ 前に引用したように, 「精神 [という概念] と不滅 [という概念] とは, 結合し得ると単に人が脳裏 生的表現を用 1 r に 思い浮かべているだけでなく, 事実, 精神は不滅なのである. 思考は -- 敢えて感 ) 334 住むようになる いれば 一一 動詞によっ てその内面的な住処を棄て, 現実の中へと移り 」( . 「 言語は表象を語る主観にではなく, 同時に表象された現実に帰するのである‐ 精神を 不滅なもの」 , 電撃を 「落下するもの」 として経験させるのは, リー ブルッ クスによれば, 人間の各々の行為の言 働いていると考えるべ ) 語性である(L246 . 動詞においては, 言語の自立的 定立という特殊な作用が きではなく, 動詞は人間の世界遭遇そのものの分節の仕方を表現しているのである‐ 「電撃が閃く」 と言うとき, フンボルトが言うように, 思考が電撃と閃きの想像 的活動とを互いに綜合的に 結びつ け, 次にこの 活動を電撃そのものに帰した, というのではない. それは既に我々の世界像からの解 釈なのだ. ストー ブは我々 を 「暖める」 と言うとき, ストーブはそのようなものとして出会われて い る の で なけ れ ば な ら な い. 我々 は セ ン ト ラ ル ヒ ー テ ィ ン グに つ い て は, そ う は 言 わ な い. フ ン ボ. ルトは動詞をもろもろの連関性を総括す中心 (行為) と考えている が, リー ブ ルッ クスはこの 「行 ) 為」 の代わりに 「世界遭遇」 という概念を置く (L247 . もし思考が言語の 形成器官であるというな ら, 言語は行為 であるかもしれない. しか し, 第二の公理が示すように, 関係は逆なのだ. 同様に, 何かを紡 ぎ出すことが同時にかつ 同じ観点で自己を紡 ぎ込むことであるような 「行為」 というもの は, 考 え る こ と は でき な い の であ る‐. む. す. び. フンボルトはカン ト的主観性の立場に立っ て自らの言語理論を 構築 しよう と した, という のが カ ッ シ ラー の フ ン ボ ル ト 解 釈 であ る. し か し, リ ー ブ ル ッ ク ス に よ れ ば, カ ン ト 的 「反 省」 に 固 執. する限り, 言語の 「具体的現実」 を捉えることはできない. 主観性の立場は一面的, 抽象的である‐ 主観性は実体との弁証法的統一の下に考察されねばならない. フンボルトもカッ シラーも, 言語の 弁証法的理解の門前にまで来ていたし, しばしばこの門をく ぐり抜けていた‐ しかし, それにもか かわらず, フンボルトやカッ シラーにはカント的, ないしは新カン ト的発想を脱却できないところ がある. 例えば, カッ シラーの引用 するフンボルトの次の文章は, この状況を端的に示している‐ 「真理の一切の認識の可能性の基礎である, 世界と人間との間の根源的一致は, それゆえまた認識の 1 2 ) 思考というものを, 対象の自体に限 途上でも, 少しずつかつ前進的に 再獲得されるのである」( . りなく接近する無限の プロセスというように 理解すると, それはまさにヘー ゲルの言う 「悪無限」 に外ならない. フンボルトも 「言語は完結しておらずに絶えず新しいものを導入しようと努める」 と言うが, す ぐその後,「その新しいものを言語の中に取り入れては, 結局その影響を言語自身が受 27 ) 8 けるといっ た活動をしていることを, 精神自身が看て取っ ている」と述べ ている( . カッ シラー も フ ン ボ ル トも カ ン ト と ヘ ー ゲ ル の 中 間 に い る よ う に 思われる‐. だE. ( 1 ) 「ヘーゲルの言語論」 の叙述は, 出口純夫著 『精神と言葉』 創文社刊を参考にした‐ 22.

(14) . フンボルトにおけるカント的要素とヘーゲル的要素 (下) ( 2 ) ヘーゲル 『精神現象学』 上 岩波書店 16頁 ( 3 ) 前掲書 17頁 ( ) 前掲書 8 4 5頁 ( 5 ) ヘーゲル 『エンテュ クロペディ』 444 節 S 358 ( 6 ) B.Li i ebrucks se nIBd ;Spracheund BewuBt e . 以下の引用はLと略記し頁数を示す. ( 7 ) W‐v.Humboldt i i r山e i ten des mens i e Ver sch ede 1827‐1829] S180 z i i ; Uber d chl chen Sprachbaues [ t e賞 i n t t Spracheund BewuBt i se n“IBde ‐S222. i 8 ( ) H‐-G.Gadamer tund Me hode t 13 2頁) による‐ ; Wahrhe .S419 出口氏前掲書の指摘 ( ( 9 U b i ) W.v.Humboldt d IJawa Ein l i ‐Spracheaufderlnse tung ; er e Kawi e ‐S46 Amn‐ (前掲 邦 訳 書に は な い)‐ ( 1 の E‐Cas i i s rer e Kant l he lm von HumboldtsSprachphi l scheE1 ementei i ;Di nWi osoph e ‐S120 以 下 同 書か らの 引 用 はKEと略記し真数を示す‐ 1 1 ( ) W. ldt v rkeW S24 ‐Humbo . We ( 1 の. W. l i i ▽ i tud e i chende SPrachs i ; UberdasVerg um in Bez ehung aufd ever ・Humboldt sch edenen EPochen der Sprachentwi W k S i h l t t 6 1 i i i )S KE S t I I 9 ckl e ung r e( e n t a . .z er n. (本 学 教 授. 釧 路 分 校). 23.

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