英語教育の要件
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(2) . i i f Bduca i d id。 Uni t l。 f 日0 l on I C) t on (Sect ver s く Journa a yo. vol .・ ,21 No. 語. 英. 育. 教. 要. 件. 郎. 梶. 名. 小. の. l Ju y ,1970. 北海道教育大学函館分枝英語科教育研究室. ish i tes to the Teaching of Bngl Shi ro ONA : The Requis. も をま. じ. め. じ. く. . に. 1 , 1つの対決点. 5 , 学習内容と知的 レヴェ ルーその. 3 . 学習 内容と知的 レヴェル. 6 . 学習上の抵抗の転化. i f Hypot i 4, Sapi s の示 es l r-Wrhor. 8 , 基本的な要件. 2. i i i t 2. Appl ed Lingu s c s. ー英語教育の前提として. は. じ. t 7, Troubl espo s の扱い. め. に. l approach は周知のように, その基盤にアメ リカ構造言語学の a 現在の日本の英 語教育で, or 言語理論を 持って いる, それはこの新 言語学の拠ってもっ て立つところの言語観に強力に支えら れている, 一般に言語の教授法 とそれがもとづく言語理論との関係をさ ぐりつつ, 英語教育にお l approach に関連す a ける科学的教授と学習 の方 法を追求しようという目的 で, 私は, 前回 『or 1 ) で oral approach の若干の問題点を取りあげたが, 上記 の私の志向及び目 る英語 学習 の問題』 的からすれ ば, 当然のこととして, 次には生成変 形文法とその理論の英語教育への応用 との 関係 を見て行かなけれ ばな らな いと思う. しかしこの文法理論の教授法への応用は, まだ一部で取り l approach に対する批 あげられ実験されている段階を出ないよ うであるし, また前回の私の ora 判的問題提起は部分的でもあり非系統的でも あっ たので, 引き続き今回も, この教授法との関連 で, 問題の所在を補 足整理し, 英語科教育の科 学的方法論を求めて行くよすがとしたい. 1. 1 つの対決点. ……それでは, なぜ今までのやり方では, その大 切な Reading さ え, も の に な らな い の で しょ うか. それは 「言語」 というものの本質と働きを知らな い からです. 言語は本来 「話され i ing) なのです. だか t Spe ech) を記録したのが 「文字」(Wr る」 も の で す. 「話 し こ とを 」( ら, 話しことばを知 らなければ, それを記録したもの (たとえを 印刷された英語) を正しく理 2 ) 解できません. 写真だけ見て いても, 実物はなかなかわかりません. 1 s メ 功 a L力 〆 e7 8餌 腸’ z ≠c cβ間βαタ こ れ は ス ミ ス の 『言 語 科 学 と 英 語 教 育』 ( 増 諺s g of β’増残物) ) 3 の 「訳者解説」 からの引用である. 4- -5.
(3) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. これは構造主義言語科学の根本的言語観を, 訳注者の勇氏が ごくくだ いた言い方でしかも 簡約 にして述 べたものである, 私はここを引用する ことで, この言語観を, それはそれと し て ひとま ing と Speaking の土台なしには Reading ず提示した上で, 勇氏が続 いて解説して いる Hear , i ing の 力 は つ か な い と い う 趣 旨 の と こ ろ に 移 り た い と い う の は そ こ に 私 が こ の 論 稿 で ま Wr t , ,. ず問題としたい点があるから, 私どもは, 入門期にまず oral で徹底的にきたえ, 英語の Ba i s c pattern を理くつなしに習 慣づけて 行き, その機械的にな るほどに, マスターした習慣をもとにして 次第に Vocabulary , をつみ重ね, 音と文字とを結びつけ, Spe e ch として身についた英語を, 今度は 文字を通して理 解する訓練に切りかえて行くのです. これが実は私達が小さい時, 日本語をおぼえ 日本語の , 本 を 読 み習 っ た プ ロ セ ス で も あ っ た の で す ora l か ら Read ing へと進んで行って 初めて自 , , 然に, そして正しく本が読 めるようになるのです oral approach は こ の よ う に 最 初 の 正 し い. . 基礎作りをするのが目的なのです, 決して, いつまでも oral で教えるとういう意味ではあ り ま せ ん, 本 当に Reading の実力をつけ るには まず初めに oralhabi t s を確立することが必 , 要 な こ と は こ れ で わ か っ た と 思 い ま す … … つ ま り oral の基礎からだんだん Reading Wr i t- . , , ing へ と 登 っ て 行 く べ き で す 4 ) .. この引用 の中の 「これが実は私達が小さ い時, 日本語をおぼえ, 日本語の本を読み習 たプロ っ セス で も あ っ た の で す」 と い う と こ ろ か ら,. 私 は 問 題 に 入 っ て 行 き た い. こ の よ う に, 幼 時 日 本. 語を自然に習 得して行っ た方法だからこの oral approach は 正 し い の だ と い う 主 張 に 対 し て も , ちろん反対意見がある, 小川芳男氏は, その著書 『英語教育法』 の中で, 日本における英語教育に著しい誤解点ありと 5 ) まずそ の1 つは, 英語を母国語とする国における英語教育と日本におけるそれとは違うべ し, きなのに, 英米特にアメリカへ英語教授法の研究にでかけて, それを日本の事情を無視してうの みにする傾向であると指摘して, これは思考 の錯誤であり主客の転倒であると言ったのち, 認 識 不足の二番目として, 次に目立つ誤解は, 母国語を一応習 得した生徒に対す る教え方を赤ん坊が母国語を習得する 方法と同じ, または類似と 考えて同じような方法を採用しようとする傾向である 白紙にもの . を書く (画く) のと巳に下地のあるところに 何物かをかくのと同 じに考えては成功しな い 英 . 語教師は己に生徒の知っ て いる日本語が英語の学習にプラスとなり, またマイナスとなる点を 十分考慮して対処しなければな らない, そして既習 の知識をプラスするように考慮することが , 6 ) 日本の英語教師の課された大きな問題であろう, と, 現実的な実際家として の見解を述 べて いる. も っ と も, 第1 の 誤 解 指 摘 の と こ ろ で,. l ied Lingui i 「App t s cs と云われる教授法 の実際は単. なる理論で簡単に割り切れるようなものではない. もっ ともっと苛酷な現実の姿を十分考慮に入 ? ) と言って いることからも分かるように この第2点の れなければ教授法は宙に浮 いてしまう」 , 指摘も, 実際的経験の常識からの主張であっ て, 別にこ の点を理論的に究明し ようと いうのでは ) な い よ う で あ る. 8. このことは, 小川氏が同じ著書で, 授業計画の理想と現実に関して 新教授法と時間数との兼ね 合 いに触れて いる個所を見れば, 一層はっきりしてく る そこでは, 新教授法が現 実の1週の割 . 当時間数の範囲で, どの程度実施できるかをまず問題にし, 理屈や説明なしに英語を習得させ る hearing や speaking を automat ic hab i ts に ま で も っ て ゆ く に は 何 と 言 っ て ,. ためには, また. -5 5-.
(4) . Vo l ,l .21 No. i i i t ido Uni Ver on I C) f Hokka t on (Sec lo s journa y of Bducat. Jul y ,1970. も時間数が不足であり, 集中訓練のまだまだ不十分であることに目を向 けて いるが, 結局のとこ ろ, こういった困難点の克服は現場の教師の努力にまつほ かない, 否それが彼らの任務であると いう意味のことを 小川氏 は言って いる. di べ ing そ し て そ こ で の, さ き に 勇 氏 が hear ,speaking と rea ng の関係に対Lて述 ていた見解 に関連する個所 はと言えば, 次の引用になろう. h i ……一応外国のもの を読んで理解することを主目的とし た場合でも, 新教授法 は ear ng, speaking から教え はじめることを主張する, 何故なら, あらゆる意味に於て, そ れが, 言語及 び外国語の正し い指導法であり, 学習法だからである. この意味に於て, 新教授法を会話教授 法の如く考えて非難するの は当らない. ……私の心配するの は reading を主目的と考えた場合 ing と speaking からは いっても, 果して 主目的に達せられる かどうかである. もし に hear か りに hearing と speaking を英語を正しく教えるための手段と考えるな らば, いつまでも手 段に終 ってしまう危険 はない か. 別言すれば, 初歩的な訓練に終始して……何時までも土台 ば かりで家が建たないことになって もよいのか. 果してそれ が実行できるような時間の配分であ 9 ) る の か ど う か.. このように小川 氏の所説には理 論的裏付けと いったものは別にない. むしろその実地指導に は 実利主 義的妥協さ え感じられるが, それ はそれとして理由の あることであろう, そ れはともかく, 英語教育における幼児の母国語習 得方式の導入に関して, 勇, 小川両氏の見 解 はまさに対極する位置 に立って いると言えるだろう. i i cs 2. Appl ed Linguist. 上記 の対決点を, 英語教育における問題究明の前提として, 私 はまず提示する. そして, そ う し た 以 上, こ れ を 絹 口 と し て,. こ の 点 に 関 す る 私 自 身 の 見 解 へ と 入 る べ き で あ る が, こ の こ と に. 関する理論的まとめを部分的にはすでに他のところでやっ た (注8)参照) こともあるの で, いま すぐその問題に入らず, そ の前に, 応用言語学という用語とこの用 語の内包について考えて見た し、.. すでに私が引用した小川 氏の言説の中に, こ のことばが出てきた (注7)参照) . この用語の厳密 i t ied Engl i cs とはよくきくことばであり, 具体的に s sh Lingui な定義はと もかくとして, Appl oral approach などその代表的なものの 法である は構造主義言語学の基礎に 立つ実地の言語学習 1つであろう, い やむしろ暗黙裡に oral approach を指してこの用 語を使う場合さえあるく らい である. だがそれには, そ れだけ の理由があるように 思われる. 今晩, 私が申し上げたいことは, この数年の間に言語 科学の遂げた進歩や, 言語構造の分析, 記述 上の進 歩を, 初級の言語技術計画や, 中等学校における語学教育や, 言語を媒介と する一 般教育にどこまで応用 できるかといっ たような問題に関して, 進歩的な考えをもっ た教育者で ー 0 ) さ え余りにも認識が足りないと いうことです. ……一例 として, 英語の構造に関する2, 3の事実の認識に焦点をし ぼって, そのような知識 が英語教育や言語技術の教育にとっ てどんな意味をもつかを考えて見ましょう, そうした意味 と叉その認識 から生れる応用は初級から 中等学校を通 じ更に上級に進む読み方の教授法を一変 させます。 教師養成計画の重点を変更することも必至となるでし ょう. つまるところ, アメリ 1 ー ) カの教育界における革命にもひとしい大きな意味をもつことになります. ’12 ‘ ‘The lngl ) エメ i ジ増 “s材c s Lecture’ こ の 2 つ の 引 用 は, H, L, ス ミ ス の Harvard に お け る ,. 6- -5.
(5) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. Sc海綿β α7 2α 物e reα物メ ば魂 (前 出) で 言 わ れ て い る こ と だ が, こ れ か ら も アメ リ タ 2 2 g oプ β7 gZ ,. カにおける英語教育に対する新しく展開された構造言語学 の関係が分かるようである それは , , 新言語学の成果と方法を単に利用ないし活用すると いう以上に, 進歩した言語の構造上の・ 分析・ 記述を 「一般教育にどこまで応用できるか」 と問い, またそ の分析・記述の英語教育,言語技術 教育に対しても つ意味とその意味 を悟ることから生れる応用を 革命的に教育界に拡げなければな らな いことの主張ととれるものである. 構造言語学 の言語理論にもとづいた言語の教授法が そ , れが外国人に対する英語の教授と学習という局面で, それ自体体系化した方法 論をもつフリーズ l approach に ま で 進 ん だ こ と の 必 然 性 は こ こ に あ る 碩 学 の 語 学 者 に し て 教 育 者 で あ フ の ora る ,. リーズにあっ て, 対外国人英語教授法がことの当然の成り行きで一つの応用言語学として体系化 され, そしてそれがまた 日本人の多くの学者と英語教 師に影響を与える結果とな たのである っ . l approach を例にとれば 言論理論と教授理論との 緊密 生は こ の よ う に 明 ら か で あ る と ora , , ころで私が前 回 (注1)参照) or lapproach を問題にした のは, この関係を押さえた上で のこと a であったが, 私は いまさらに一歩進めて, 英語教授はその 理論と方法において 果たして一言語 , 学理論の応用であってよ いかという問題を提起したい . すなわち, 教授法がそれがも と づく言語 観と如何に理論上の緊密性を保持しているとし ても, 単に応用言語学であっ てよいかという問題 である. 私は, 英語の教授法はやはり, 言語理論の応用の部面を強く持ちながらも それ 合体独 , 立したも のでなけ ればならないと 考える . 「応用」 であろうと何であろうとそれは 「言語学」 な どではない. そ れは, 英語という教科についての独 立した教 授方法でなければならないし 従 , っ てそれ自体の独自な理論を持たねばならない. 「言語学」 とは独立して, 理論と実践の統一を追 求する, 教科の教育科学でそれはあると私は考えるのである, さて, いくつかの英語教授と英 語学 の論文を集めて編さんした H .B , ア レン編 『応用英語学に お け る リ ー デ ィ ン グ』 (尺8ααメ Z Sみ LZ“g“〆s タ増 Z〃 A愛郷Z Zたs) と い う 書 物 が あ る く らい だ ed β7 z gZ App l ied Bngl i h L i i t i s cs ということばはわりあい普及しているようであ り 言語学 ngus. か ら,. , 者がこれを使う場合は, 前記 H. L. ス ミ ス の 講 演 で も 分 か る こ と だ が, や は り 前 世 紀 ま で は あま り考えられていなか った新しい記述的な研究方法に 対する自負があり, 彼らは伝統的な規範文法 に構造主義言語学理論に立つ新しい文法解釈を対置させた上で, この用語 「応用言語学」 を使っ ている. すなわち彼らは伝統文法に対する新文法解釈に立ち且つそれに支えられた英語学習 の実 地指導の方法論をこの語に共通して考えている。 それ故私は, 前述の私の問題提起を一層明らか にしなければならないと思う, 私は考える, 英語教育における教授法は 「応用言語学」 であって はいけない, それは, 種々の言語学上の理論を見きわめた上で の正しい言語観の確立を前提条件 とはしながらも, それ自体全く独立した教 授・学習の科学である, と 以下に私はその理由の論 , 証を試みたい. 3 , 学習内容と知的レヴェル. --英語教育の前提として. さきに1の 「1 つの対立点」 で引用した勇氏のことば 「これが実は私達が小さい 時 , 日本語を お ぼえ, 日 本 語 の 本 を 読 み 習 っ た プ ロ セ ス で も あ っ た の で す」 と い う oral で徹底的にきたえて , Bas ic pattern を Speech とし て 身 に つ け て か ら Reading へ と 進 む oral approach の教授・学 習方式が所与のこととしていまわれ われの眼前にある しかも生徒たちには 勇氏のい う通りの , , プロセスですで に日本語の習慣ができあがっ てしまっ ている 新しい言語である英 語を学習 する , のに, この既得の母国語の習慣が障害となるのを考えないわけに行かない , この障害を排し て新. 一 57 -.
(6) . l Vo .・ ,21 NO. i i i l 。f Ho l d id。 Uni t on 工 c) on (sect journa くa vers y of Educat. ー ju y ,1970. 規に第2の言 語習慣を身につけさせる ため, 如何にして定められた教授・学習方式を貫くか. そ t の た め の誰 に も 分 か り や す い 努 力 とし て, text の 問 題 が あ る. す な わ ち, こ の tex を科学的な ものとする努力 である. 最も効果的教材は学ばれる べき言語の科学的記述にもとづい たもの, また平行して行なわれ 二 1 3 る学習 者の母国語の記述と注意深く比較されたものである. と い う フ リ ー ズ の 考 え の 後 段 を 噛 み く だ い て,. を征服するよう配慮す べきです. d i つまり, 日英両国語の構造をそれ ぞれ分析して, し らべ, そのちがいをよく知っ た上でe tし 日本人のための英 語の. text は こ の よ う な trouble spots. 4 1 ) て あ る 本 が 必 要 で す. と勇 氏 が 言 っ た の は,. こ の 努 力 を 指 し た も の で あ ろ う.. し かし, 母国語の障 害を取りのぞく 努力はただこれだけのよ うで, ほかに見る べきものは何も l l あ る の み. し か も こ の text 編 l l ま た dr i ない. あとは, 横 たわる障害を乗りこえる べき dri さん上 の必要な努力も, 立て前としての 「必要な」 であり, 立て前 としての 「努力」 なのであっ て, 実際に仕 上っ た text に日本人の 所謂 trouble spots がどの程度押さえ られ, それ がどの程 度征服可能 となっ ている かは, まっ たく客観的 基準の外に放置されたままなのである, 次の引用 は現実の文部省検定教科書が フリー ズの提唱する立て前と遠く隔っているこ との証言 と な っ て い な い だ ろ う か.. 周知のよ うに, いま 指導要領に示されている教授項目は, 互いに孤 立して個々バ ラバ ラ, 何 ら相互関連をもたない。 また教科書はこれに加えて 現実の談話として無限に多くの教授項目を 含んでいる. 現在の中 学生たちは卒業までに, 一千いく らという単語のほかに, あのおびただ ) 1 5 しい個別的文法事項を暗記し つくさね ばならない. このように望ましい教材の科 学性は, 現実のバ ラバ ラな多項目列挙によって破 られている, し かもその科 学性が, 既得の言語習慣による障 害ないしその言語習慣との相旭に善処することを生 徒に助け得る唯一のことで あるというのに, ところで, 私がこの3項で言いたいのは, 英語学習における既得の日本語の障害とは, 実は, ある意味では, 生徒の知的達成のあらわれにほ かな らない ということである, 私は何も逆説を唱 え よ う とし て い る の で は な い. い ま 1 つ の 仮 定 を 立 て て み よ う, す な わ ち, も し ふ つ う の 知 力 の. 生徒であっ て母国語の能力に関して だけ白紙である場合があるなら, 彼は英語を習得するに際し ては自分の前に何の障害をも感じない ですむだろう, そして英語 というものが何の抵抗もなしに 彼の言語行為に浸み とおって行くだろう, し かしこれは, あくまで, まっ たくあり得ない 仮りの 想定であ って, 現実には彼は すでに獲得している日本語の言語能力 があり, し かもその能力を期日 当程度高いもので ある, 新しく接する英語は, ごくはじ めの物珍らしさ が消えれば, 当分はその まマ ッチしないものであることが分かっ てくる. その時点で の彼の知的 レ 学習内容が彼の知力 とを そ れをま, い ま 立 て た 仮 定 の よ う に, 彼 の 日 本 語 の 能 力 が ゼ ロ で で も な け れ ば, 進 ん で 練習 な い し 使 っ て み た い 意 欲 を お こ さ せ な い よ う な 幼 稚 な も の で あ ろ う. そ れ で い て, そ う こ ヴ ェ ル でをま,. ますでに, 英語 が次々とでてくる。 そして彼が気付いたときにを である は彼の学習意欲とほ ど遠いところに去 っているの 。 うするうちに所謂. trouble spots. もしそれ が可能であり 且つまたそれを客観的に実証できるものとし て 「日英両国 語の構造をそ れぞれ分析し て, し らべ, そのちがいをよく知っ た上で」 教科書を編む としても, それだけでは l が無視してしまっ ている初歩の 学習内容と 生徒の知能 レヴエル とのギャッ プは埋 oral approacl - 58 -.
(7) . 第 21 巻 第 1 号 万. 北海道教育大学紀要 (第一部C) 子・. 昭和45年 7月. まらないであろう. むしろ, 母国語の言語能力ないし言語習慣 による英語学習の障害を すなわ , ち生徒の知的発達の証左として, あるいは知的 レヴェルの表示として捉 えることで 逆にその障 , 害を克服する観点が生まれてくるのではないか そしてまた この観点から英語教授法を教科教 , . 育の科学とし て捉える方向に迫ることができるのではないか それはともかくとして 英語とい . , う教科における学習内容と生徒の知的 レヴ ルとの関係を考えることなしには 英語教 授の科 ・学 エ , 性はうち立て られないであろう. その点の考察はわれわれの英語教育の前提となる べきものであ る. 4. Sapir-Whorf Hypothes i s. の示唆. 前出した H ,L . スミス教授の講演 『言語科学と英語教 育』 で, 同教授はこう言っている, さて, 言語学者の仕事は, 言語の構造 の相対立する構成素を簡単なものから複雑なものへ , それぞれのレヴヱルにおいて分析し 記述する事であります . 「手段になるもの」 をそ のように 記述したとき初めて, 我々が言語によって我々 の周囲の世界のさまざまな事件について話すこ とが出来る過程が明らかになります, 言語はすべて の文化的な体系と同じように 要素と そ , , の組合せと型とから成り立ち, 簡単に言えば, 音と語と構文とから成り立っていると 考えるこ とも出来ます, 音が集まっ て形態, また は語となり, それらがさらに句や文になる方法を差別 的意味だけを使って明らかに説明しなければなりません, なぜなら もし指示的意 味を用いる , な らば, 他 の文化的な体系と混同して, 我々 の記述分析しようとする言語の構造自 身を明らか にすることは出来なくなります. 言語をそれ自身の要素, 組合せ 類型とによ っ て独特 の文化 , 的な体系として 記述して初めて, 言語が同様な方法で記述きれた他 の文化体系とどのような関 係を持つ かを理解する道が得られます, 1 6 ) これは, こ の講演の少し 前の方で, ……文化科学者として の言語 学者は 「思想」 を伝える為に 「手段」 をいかに用い るかを知るた めには, 言語 の組織自体にまず注意を集中しなければなりません……1 7 ) と言っ たのを受けて展開された 論旨である (なおこ の引用の中の 「指示的意味」r f i l e r a e ent . meaning と は 訳者 注 に よ れ ば 「ある言語形式がどのような内容 ( f r ee r ence) を意味しているか」 の こ と で あ り,. l meaning とは同 じく 「そ の言語形式が他の言語形式 ia 「差 別 的 意 味」 di賃erent. とちがうか否かを示す」 も ののこと,) ここには, 言語 の記述・分析に際して, 何故ふつうの意味基 準を排したかの理由が述べられて いるが, 同時 :に, そのわれわれがふだん指し てい る 「意味」 とはちがうところの 「差別的意 味」 のみによっ て, またそれのみが, 言語そ れ自 身の要素・組合せ・類型を記述すべきだし また記 , 述できるのだという, 構造言語学の特徴的立場が主張されている 意味基準を持ちこめば言語構 。 造の純粋な形での記述分析が果たされなくなるという考えの根底には, いうまでもなく 言語と , は話されることばであり, 音声の記 号の体系であるとする言語観がある . ところで, 構造主義に立つ言語学者の立場からする基本的言語理論とどうかかわり合うか分か らないが, スミス教授は同講演の中で 「言語と文化を土切っても切れない関係をもっ ている」 1 8 ) と また い っ ており, , 人は言語が ちがえば世の中の見方まで ちがっ てくると考える立場に立っ てい る. 訳 者 勇 氏 の 解 説 に よ れ ば, そ の 考 え 方 の 背 景 に は “Sapi i r-Whorf Hypothes s” が あ る と い う.. 言語は観念の単なる表現手段ではなく, むしろその観念そのも のを形作り 我々の考え方を , -5 9-.
(8) . vo l ,21 NQ I. i i i t do Uni on I C) i ty of Bducat on (Sec l of Hokka ver s Journa. l Ju y ,1970. f に依っ て提唱されたものであるから Sapir と Who r 1 ) 9 ’ ’ ”Sapi i s と 呼 ば れ 今 日 の 言 語 学 界 の 大 き な 問 題 と な っ て い る, r‐Whorf Hypothes. 決定するというこの考えは前述のように. こ の Whorf が自 ら 「言語相対性の原理」 と呼ぶ考え方は, 言語と思考との関係について何も の か を 示 唆し て い る よ う に 思 う. 言 語 が 単 に コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 一 手 段 で は な く, 人 は そ れ ぞ. れが属する社 会の表現手段となっ ているそれぞれの言語の 支配を 受けており, 暗黙のうちにその 言語の 型の中でできあがっている不文律に服従する, そういう定まっ た約束に従っ て自然界を, 現実世界を捉えるのでなけ れば人はことばを使えないのだとい う, 人間の思考・観念ひいては文 化と言語というも のとがお互いに 影響を持ちあう相対関係の指摘は, 言語の機能を社 会的コミ ュ -ショ ンのみに限定しがちな構造主義の言語 学者たちにあっ て, いささ か異端の感がするの ニケ← ではあるが, し かし私はこの考え方を正当なものと思う, この 「仮説」 の立場を支持して, 私は 自身の議論を進めたい. 構造言語学の言語観 からすれば, 言語の機能に どうしても 思考 の要素が抜けおちる. し かしこ の 「サピア=ウ ァーフの仮 説」 が言うように, 一言語の組織はそれ が対応する一社会 (に属する . 人びと) の思考型にある影響を及 ぼし, 他の言語はそ れが対応 す る他の社 会の 思考型に別種の影 響を及ぼすとい うのであれ ば, その社会 の個々 人もまた, それぞれ彼 が属する社会で使用される 言語の一定の影 響 の下 で, 自分の言語行為をそういう思考のために 機能させているという推論が 成り立つ. すなわち, こ の 「仮説」 には, 構造主義的方法にずり落ちていた思考の要素が言語の 機能の中に復活して 把握されているのである. このように言語が思考に関与するこ とを社会とか 民族とかを単位として捉えた以上, そもそも個人を 単位として考えた場合でも言語の思考にあず かる機能を見ないわけには行かなくなる. 事実ことばは 思考の構成要素であり, し かも最有力の 位として 思考し, かつまたその思考を進展させる それで ある, 人はことばをまさにその構成の単・ こ と に よ っ て次 々 と こ と ば を 生 み だ し て 行 く の で あ る.. 言語の教育であるところの英語教育において, 言語の機能の 把え方に, 誤りがあっ てはな らな い.. 言 語 の 機 能 を コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン と い う 面 か ら だ け 捉 え る の は 十 分 で な い. や は り 伝 達 と 思. 考の両面 から見ねばなるまい. 言語行為をコミ ュニケーショ ンの機 能を果たす社 会的習慣の現わ れの1 つとのみ見て, 英語の学習を考えれば, 学習の目標はおのずからコミ ュニケーショ ンの具 たり得る第2の言語習慣形成という方向にだけ定 まっ てし まうであろう. もちろん言語の機能の lな r a l な訓練は無条件に必要である, し かし, o r a うちに 「伝達」 という柱が立っている以上, o l がらも a そのo r と言いな , 訓練は入門法であり基礎 学習法なのだというこ とを十分承知している な面の絶対化が, 例えば, oral approach に忠実な学習指導者たち の間におこっ ていない だろう か. 学習者の側の総合的学習条件を無視した一方的指導の仕方 が入 りこんでいないだろうか. 口 頭訓練の過度の強制ない しそれのみの貫徹は, 言語の機能の二 に柱の1つたろ 「思考」 の見おと しと表裏をな しているのは明らかで ある. また, 「生徒 が音単位や音調, 語形, 語の位置などに関する対立の型を, 限られた表現範囲の なかで, 正確に覚え, この正確さが大 部分自動的な習 慣になっ てしまうまで, 生徒はその語桑. ) と oral ap‐ 2 0 を 拡 大 す る こ と に 主 と して 注 意 を 集 中 して よ い 段 階 に 達 して は い な い の で あ る,」. , すな の首唱者によって言われている 「語集を拡大することに注意を集中してよい段階」 わち, 基本的文構造と音組織を習得し終っ た段階-ここ からはさてとばかり, 急速に且ついくら でも単語の数をふやしたらよいのだとい う-この安直な考え方 にも私は, 言語による思考活動の. proach. 軽視の例示を見る思い がする. 語桑の獲得・豊富化は本来生徒児童の 思考活動の発達と結びつい. - 60 -.
(9) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. ている. 両者は相互 に促進しあうものである, そして母国語の場合両者の相互促進 作用はまさに 自然な形で典型的に果たされ てきた, 英語科の場合は, 両者のこの関係は差し当たり教材内容の 高度化となっ てあらわれるであろうが, それがすく 生徒の思惟の活溌化には結びつかないだろう , ic pattern 習得を終えたあと語桑の豊富化に向かえばよいというのは Bas ,. ただ語の数だけを切 り離し た考えで, その語が表わして行く内 容との関連を見落しているし, また急に表面の語数を ふやしてもそれに伴っ て活溌化し 高度化する教材の思想内容に従いて行けない生徒の実状 を捉え て も い な い.. 5 , 学習内容と知的 レ ヴ ェ ル. --そ の 2. i Sapi r-Whorf Hypothes s に示された異なる言語の使用が それぞれの社会・国民に色合いのち. がうものの見方・論理体系を生じさせるという観点は 正当であり, 従っ てこの観点からも, 他国 の言語を学習 するとき, 自分たちとその他国の人たちのものの見方・論理体系の相違の把握及び それの克服の仕方が問題となるだろう, すなわち目標の外 国語が native speaker によっ て使わ れる際の論理体系への学習者の側の抵抗感をどう排除するかの問題である, われわれの英語教育 に関する研究に当然この点の考察が入らねばならない, われわれの望ましい教授法は当然この点 の解決を含まねばならない. 文構造と音組織の基本を要素の組合せと型という外面からのみ追求 するのでは (もちろんそれは大変必要なことだが) , 上記のも のの見方・論理体系の相違を, その 内面の必然性に立ち入っ て真に把握することも, 従ってそれを克服することもできないのではな いか, 私は何もむずかしいことを言っ ているのではない. 例えば,ごく簡単なしかし重要な教 授項 目である時制の観念や名詞の単複をとって見ても, これらは数多くの具体例から帰納 して, いま 述 べた論理体系の相違の観点か ら, 法則的に掴ませるようにしなければ, 生徒のほんとうの学力 l igence を育てる所以で として定着しない. またそのように教えて行くのが日本人の生徒の intel もあろう, (われわれの英語教育の前提として 英語学習に際しての既得日本語の障害 をむしろ生 徒の知的発達として捉えるとい う観点に触れた3の項を参照 のこと,) 文構造や音組織を, 要素の 組合せ, またその組合せの組合せであるところの型の配列変化という側面からのみ習熟させよう という方法では, 日本語と英語の使われ方の論理体系のちがいの認識もその克服も, ことばの内 実的意味では, おぼつかないと言える, もちろん後者の学習指導方法を集中的カリキ ュラムの中 で生かすというケース が, またそのほうがより適切な状況があるであろう (ミシガン大学 「英語 l i sh とかまた英語ではないが我 国の旧制の語学専門学校に 研究所」 の lntensive Course in Eng おける1年目1学期の集中的なカリキュラムなど) , しかし, いまの中学校英語教育は生徒の主体 的条件から言っ ても日本の教育状況という外的条件から言っても, 要素の配列変化を経験的に お ぼえこますだけの方式とは別種の教授法を要求している, こ のもっ ぱら要素の配列を経験的に体 得させる方式はその後の英語学習に尾を引いて結果的に数多くの欠陥を生んでいるが, 私も気付 いて驚いた事例として, 大学で英語を専攻しようという学生で, 音節の観念をもっ ていない者に 出 会 っ たこ と で あ る,. 私 は し か し こ の 学 生 を 責 め る こ と は で き な か っ た, 過 去 に お い て あ な が ち. 彼が不注意な生徒であっ たとは断定できないのである, 彼がそれま で6 年間の英語学習で音節の 観念を掴む機会を与えられなかっ たということは, 十分に考えられるからである。 話が少し横道にそれたので, 本論にもどっ て, それでは如何にして日英両国語の論理体系の相 違を把握させて, より効果的な英語の学習 を指導するか, その方法上の技術はともかくとして, この指導が方法的に成功するための諸要件を考えて見たい. - 61 一.
(10) . i i i l。f Hokka ido Univer Journa t on (Sect on I C) s y of Educat. vo l ,21 NQ I. l Ju y ,1970. 伝達の具 であると同 時に思考の単位であるところのことばの教育のうち, われわれがいま考究 している英語に関 しては, この言語の日本人にとっ て, 従って日本人の生徒にとっ てとくに特徴 的な諸点をまず考えておかねばならない. そしてわれわれの英語教育にあっ ては, それら英語の もろもろの特徴点を, 如何に自然に抵抗なく生徒に受入れさせるかということに眼目があ るので はなく, むしろそういった自然な学習法が可能であるという幻想を打ち破 っ て, ある意味では自 然で無意識な言語行為への一種の挑戦として 英語学習をとらえるところの指導法が考えられなけ ればならない, 学習者である生 徒は自分たちの知的発達の段階とよくマッ チした形で, 母国語で ある日本語の方式とどの点がどのようにちがうかを十分に理解しつつ 英語を学習 すべきである. 生徒の側から言えばその過程は, 母国語が身について行く方法とはま っ たく異る, 強烈な意思行 為を必要とするところの, 同時に成功的に事が運 べば興味つきないところの, 技術 プラス知力の 修練過程なのである. 知的興味なしの単なる受身の言 語訓練 で英語学習 はあってはならないので ある, 但し, 知的興味はある程度苦しさに耐える意思力 が伴わなければ失われ がちであるのはも ちろんである,(そして苦しさに耐える意思力とはある基本的項目の無意識的習慣化のための意識 努力 である場合もあろう) が, しかしいずれにしろ知的 レ ヴェルにマッ チしつつ学習 して行くと 的いうことは同時に, 学習によっ て 知的 レヴェルを向上させて行くこ との謂いであり, 知的興味 はむしろそこにこそ生じて行くものであろう, 6 , 学習上の抵抗の転化 英語教育における既習得母国語の抵抗ないし障害とは, 例えばどんなことであろう. 2 )に, 椋鳩十作 ここに石森延男編 「中等新国語1」 がある. その単元の2 「味わっ て読む」 の( 『片耳の大しか 』(出典 「日本児童文学全集第11巻」) が収録されている. 物語は過去のあるとき (「去年の12月 の半ば」 という設定) における 「ぼく」 の体験として 語られている。 従っ てこの物 語の叙述は会話を除 いて全体としては過 去形であるが, しかし地の文が全部過去時制で書かれて いるわけ ではなく, 部分的に現在時制によっ ている個所もある, その現在時制による叙述のうち 冒頭の一節は, 物語の舞台で ある屋久島の説明なので問題はない が, 他の (会話以外の) 現在形 による叙述は主人公の過去の体験という物 語の中で, どんな位置を占めるのであろう, 鹿狩りに出ていた主人公たちが突然大暴風雨に襲われる場面 がある, そして 「雨は, ま横から つ ぶ て の よ う に, た た き つ け て き ま す」 と い う よ う に 始 ま っ て, 「冬 の 雨 の 中 で, こ の ま ま で は 1 )で, (た だ 「し か も, 夏 で こ お っ てし ま う に ち が い あ り ま せ ん」 の と こ ろ ま で の か な り 長 い 部 分2. も寒い高山で, 頭からずぶぬれに, 冬の雨にうたれているのでし た」 という一文を除け ば) あら I Present i t r ca s o し のすさまじさの叙述に現在形を用 いている. これは英文法の用語で言えば Hi と い う と こ ろ で あ ろ うし, こ の 部 分 の う ち の, 「い っ, あ の 大 木 の 下 に な っ て おし つ ぶ さ れ る か,. いや, われわれ三人は, 今かみなりにうたれて, 黒こげになってしまうか, わかっ たもの では あ りま せ ん」 や 「か ら だ じ ゅ う がし び れ て, 自 分 の か ら だ か ひ と の か ら だ か わ か ら な い. 冬 の 雨 の 中 で, こ のま ま で は, こ お っ てし ま う に ち が い あ り ま せ ん.」 な ど は, Represented speeCh らし. くもある. また物語のほかの個所にも. Represented speech. に相当するものと, ほぼ明確に解さ. れ る と こ ろ も あ る。 (「な ん と い う よ い 気 持 でし ょ う. ほ の か な ぬ く み が, 野 生 の し か た ち の 毛 皮 を 通し て,. ぼ く た ち の か ら だ に, 快 く し み て きま す.」と か 「い っ た い,ど う な る こ と でし ょ う か,. 鉄砲は, 着物といっし ょ にほらあなのすみに投げてあります … … が, どうすることもできませ ) 2 2 ん,一 と か) - 62 -.
(11) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. ica l present と か このように児童 文学の中に, すでに Histor. Represented speech と か に 当 る. と言い得る表現法が含まれている, 国語の学習ではすでにそういう, いっ て見れば技法的に高度 の文章を生徒たちは学ん でいるので ある, もちろん 「味わっ て読む」 とい う単元の題目でも分か るように, 学習課題は物語の鑑賞で あり, 内容把握で あるので, 英文法流の目の向け方はしない i l present とか で あ ろ うし, そ の よ う な 対 し 方 は 問 題 に も な ら な い で あ ろ う, つ ま り, Hi ca stor Represented speech とかいうことはまずまず意識にのぼらないだろう 国語の学習おいて 文章 , . の解釈ないし理解がそのようであるということのなかに, 実は英語学習に抵抗のおきる一契機が ある, すなわち, すでにかなり高度の技法を駆使する文章 の学習をしている中 学1年の生徒でも 文法でいう時制上の区別を意識できる者はまだ少な いで あろうし, 国語という教科ではまたその ことが特に要求 されもしないのである, そして, 中学1学年でそうであるとい うより, そもそも 時制の観念を強く前面に押しださず, この点に関してはあいまいな部分を残しておくのが, 日本 語の論理体系の特徴の1 つであるとも言い得る. だから, 英語の学習で文法の時制の観念に でく わすとき, 生徒たちは一時とまどうであろう. し かし, われわれ はこのとまどいを尊重しなけれ ばならない, そして, このとまどいを逆に生徒の知力のなかで新しい時制観念形成の契機に転化 しなければならない, 同様のことは, 日本語の論理構造と異なる英語の諸特徴が表われるたびに おきるであろう, そしてその諸特徴に対する日本語の障 害・生徒の抵抗感は必然のものであり, それが必然である故に, 言語上の抵抗--それの障害事項岨しゃ くの契機への転化--そして新 項目習得という形の言語上の新しい概念形成, というように英語の学習が進み, 学力が増加する のである, 障害と抵抗が 彼の知能の到達度の証明であり, その知能のためにまた抵抗が新しい理 解習 得の喜びへ変るという関係をわれわれは押さえねばならない. 抵抗を理解へ転化させるとこ ろに学習の興味と進歩が約束される, どだい 抵抗が意識にのぼらないところに真の進歩はない, 抵抗は知力の何よりの証しなのだから, 話がいささか抽象的に過ぎたので, 英語の日本語と異なる特徴 をなす項目とは何であるかを見 てみよう, といっ ても別に奇もないことなので あるが, すなわち, 女構成上では主部,述 部. 主 語・目的語, 自動詞・他動 詞, 語形ではいま触れた時制と関係する動 詞の変化や名詞の単複, ま た音声上の子音・母音・音節などといっ たこと, これらのことを具体的実例からある程度 概念的 把握に進ませることの必要を私は言いたい。 これらは母国語の一般的思考型の故もあっ て, 中学 に進むまで, 国語の習得づ邑程に意識的には取りあげられてこなかっ た項目であり, しかしそれで いて生徒の思考活動を活溌化するため, 以後の学年で必要とする概念項目である, とはいっても 何もこれらの項目に定義を与える必要はない, いや, 弾力的思考のためには, 定義付けはむしろ 有害でさえある. 具体例の豊富な教示のうちに, 母国語の論理構造との対比において, これらを 概念的把握にまで高めておくこと, そして究極の目的はあくま で概 念把握そのものにあるのでは なくて, そういう知識の応用・活用能力の獲得 のほうであるこ とに教授者は気付いていなけれ ば ならない。 そういう能力が養われることでまた学習 に対する興味と意欲は促進され, 他方母国語 の運用能力に関しても新しくその目を開かれるのであって, ともすれば見落しがちだが, 英語教 育の意 義の一端はここにもあると言える, 7. Trouble spots の扱い. 前項 で, 中学1年 の国語教科書に収録された児童文学作品に, 表現法上の Rep r e s edspeech ent に相当する文章のあることを見た. もちろんその際ことわっ たとおり, その点の指摘な いしその 3- 一6.
(12) . i ion I C) iver i l d(aid。 Un f Educat t lof 日0 Journa on (Sect s yo. vo l ,21 NQ I. l ju y ,1970. ような取りあげ方は, 国語科のこの教材の扱いとしてはなされないであろう, とい うよりそんな 観 点は 国 語 科 か ら す れ ば 無 関 係 の こ と で あ ろ う。 そ し て Represented speech の見分け方は, 英 語科の場合でも, 学習が相当程度進んでからでない と扱われないようである. フこ体において, 中 学3年間の学習 にはでてこないと思う, 中学のときは, まず直接話法と間接話法の学習 が先であ l ause が 使 わ れ る 間 接 話 法 の Sequence る. そ し て, そ の と き 主 節, 従 属 節 の 観念 が で て, that‐c of tenses が 問題とな る 中 間 話 法 と も 言 わ れ る Represented speech は, ど う し て も こ の Se-. , の学習を経ないと理解されない。 い うま でもなくこの技法は, 言って見れば, 間接話法の主節を省い た形だからである (もちろん, それです べて ではない が。) 時制の観念が日本語にあっ て不明確な点の1つであることはすでに触れたとおりだか, そうで. f tenses quence o. あ れ ば な お さ ら Sequence of tenses は生徒にとっ て難物であろう, 従属節の時制が主節の時制. を基準にして調整されね ばならないということは, われわれの言語習慣にないことで, 従っ てそ のように 主節に呼応している従属節の時制を, 逆にわれわれの言語習慣にも どして受け入れるこ とのむずかしさは, 日本人にとっ ては格別である, そして Represented speech の 場 合 は, ま さ にこのことが, 主節の助けなしに行なわれなければならな い のであるから, われわれは一層の困. 難に直面する, 思うに. Represented speech は 日 本 人 に と っ て trouble spots の最たるものであ. ろ う, し かし, な る ほ ど Represented speech はわれわれにとっ て trouble spots の 著 し い も の の 1. つにちがいないが, それは文 学作品に頻出する表現法である. いわ ば, それは文 学的技法の1つ であるとも言える, し かもそれは西欧の文学作品だけに表 われるものではなくて, すでに 『片耳 の 大し か』 に 例 示 さ れ た よ うに, 日 本 語 の 言 語習 慣 に 従 っ て Sequence of tenses の操作は省略 してであるが, わが国の文 学作品にいくらも使われている。 洋の東西を問わず, 文学作品では人 間の心情の主体的な描写が必要だからであろう。 すなわち Represented speech は人間の心 情・ 気持の動きそのものをとりだす所謂心理描写に使われる手法なのである. こ の よ うに,. Represented speech. は日英両 語で. tense. のあらわれ方が異るため, われわれに. l roub e spots の1つであると同時に, またごく当り前の文学的手法であるという両面を とっ て t. 持つが, それを 学習して理解のうちにとりこんでしまえば, 文学鑑賞に大いに役立つ項目でもあ る, 一般的に言っ て学習上の trouble spots は, それを克服すれ ば, 広くわれわれの言語行為を 富ます契機たるものである, ところが, Represented speech の場合, 文学鑑賞にかかわる項目 だという理由に もよるのであろう, 英語学習の中で, 中学3年間はもちろん, 高校に入っ てから も, す ぐに は で て こ な い,. s ed New Progressive Readers l“ の Lesson14 例えば, 高校英語教科書の開隆堂版 ”Revi lし に rゐ8 の勿〆βZ 雌ど破り”αか8 が 載 っ て い る, こ れ は オ ス カ ー ・ ワイ ル ドの 同 名 の 短 編 を retel “. ‘Poor o ’ he thought to himself He wants money mo l l re ld fe owl’ , たもので, そ の なかに, . ) という女 がある, これは主人公の気持を表わし た個所だから, 作者はここに Re- than l do賜9 presented speech を使 って使 えないことはなかっ たであろう. し かし 実際は直接話法だし, (も っ とも ワ イ ル ドの原文もそうだが) ,大体この. Readers l. に. Represented speech は あ ら わ れ て こ. な い. と こ ろ が, 私 が 気 付 い た 限 り で も, 例 え ば, 同 じ ワイ ル ドの 短 編 乙oγα Aγ坊“γ S卿 ”〆s. Cメタ ”β などには描出話法がさかんに使われている, だからこの手法は何も特に新 奇なものでもな く, また20世紀の独占物でもない. このよ うに何も特別 扱いを受けねばならぬ理由はないのに, わが国の英語教育では, 比較的に敬遠されてい るようである. 大学では, 必修英語で取りあげる - 64 -.
(13) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C). 昭和45年7月. が文学作品に偏しがちで ある割合には, 高校までの英語は, 文学を通して豊かな情操を養う ことを含めた広い思考活動を促す教材内容に意が払われない きらい がある, そういう中で文学作 品の鑑賞など二の次になっ て, 従っ て描出話法も細子扱いを受けているのであろう。 少なくとも. text. 大学に来て英米文学を専攻しようという学生の諸君に接し て, 私は高校英語教育のr 偏向をそのよ l うに感じ得る. 私が 言わんとするのは, 描出話法が, あるいは生徒にとっ て英語学習の t roub e spot で あ, る か もし れ な い とし て も,. 中 学 ・ 高 校 で 一 般 的 に は 意 識 す る と し な い に か か わ ら ず,. ごく普通の表現法として文章活動を含めた言語行為の中にとり入れられているのに, 英語学習の 場 合 だ け い つ ま でも こ れ が 除 け も の に な っ て い て よ い の だ ろ う か と い う こ と で あ る,. そ れ は 学習. l 者の思考活動のレヴェルにふさわしい 教育態度・教育姿勢でないし, 一般論として, t r oub e spots を正当に処理する方法でもないと思う l b t spots に対してももっ と積極的姿勢 の r 他 o u e , が ほし い も の で あ る,. 8 . 基 本的な要件 以上種々述 べてきたが, この稿のむすびとして, 英語教育における基本的な前提条件と私 が考 えるものをだしてみたい. 私の言語観上の立場は, 言語 (その本体は話しことばであるとして) を社会的習慣のあらわれとしての行動の一様式であり, ことばの習得とはそうい う習慣の獲得蓄 積であると解する見方ではなく, すでに前に触れたように, 言語はコミ ュニケーショ ンの基本的 手段であると同時に, それによっ て現実世界の分析 ・総合をおこなうところの思考の手段 である と考える. この立場を大前提として, ①学習者と外 部環境, とくに言語環境との関係, ②学習者 の知的発達, ③学習 者のおかれている社会条件などについて考えてみよう. これ らの3件はそ れ ぞれわが国英語教育の困難とかかわっ ており, これが考察に当ってはその困難解決への志向を強 く堅持することが必要であろう. まず① の問題からは何が英語教育の要件として引きだされるであろうか, いうまでもなく, っ れわれの英語教育は母国語を話している日本において, 日本語という言語環境の中でな・ されて い ることを十分考慮に入れなければならない, 学習者も教授者も日常慣れ親しんでいる母国語であ る日本語は, われわれの生活にとって, い わば空気のような存在であって, われわれの言語行為 のなかに, 何の抵抗もなく, 完全に溶けこんでいる, もちろんこれは国語一般として言っ たの であって, これを標準語と方言に, また方言でももっ と細かく各地方ごとに, 分けて考えれば, 「何の抵抗もなく, 完全に」 というのは訂正し ●なければなるまい, が, それはともかく, われ われが不断使 っていることばに関しては, まず何の抵抗も感じはすまいし, ま た感じたらおかし い. そういう言語環境で, 外国語である英語の教 育が行なわれるのである, われわれは生活手段 としての国語の血肉化のため, ともすれば, この点を忘れがちなのである, そんな当り前のこと は忘れていて結構, 一体何が問題なのだという反問ないし疑問を持たれる向 きが当然あろ う。 日 本語の言語環境で英語を学習することの問題点は, 実は簡単なことである。 われわれは, まっ た くその言語環境に支配されやすいということ, その一点である. そのことから生じる負の要素と いうことである. 言うまでもなく私は英語教育に消極的な態度ないしは特殊な英才教育を志向す る態度 (両者は表面ちがうようだが 実はその根は1 つである) を態撤しようとしてこう言っ てい るのではない. むしろその反対である. 言語環境のわれわれに対する支 配の強さを無視し ては, 英語科教育の如何なる方法論も成功的に確立することはできないだろう. われわれの英語教育で この負の要素を見定めておかないということは, その土台をく らつくままにして おくことに通じ. - 65 -.
(14) . vo l ,21 NQ 1. ion (sect 1on l c) i ido Uni l。 f Hokka t journa s ver y of Educat. l ju y ,1970. るのである。 従って, このわが国英 語教育の特殊性の第1点を暖 昧にしたどんな外来の教授法も 結局わが国に根付かないであろうことは, 小川 芳男教授の示唆しているとおりである, 例えば, l approach にしても, その部分々々をとれ ば, 取り入れて生かし得るまたは生かさねばなら ora ない方法もあろうが, 基本的に言っ て, この教授法は言語環境を含めた外的生活環境の支配の強 固さというも のを見忘れている, この支配力の 強さをまず見ることの必要性をわが国英語教育の 基本要件の1つとして把えるな ら, 週4, 5時間くらいの授業で 第2の言語習慣をつけさせられ るのだという, また知育の面を促しまたそれに助けられる方法を完全に捨象してし まうような, 独善的方法はとれないであろ う. この独善の原因は, すでに何度か述 べたが, 構造言語学の言語 理論の英語教育に おける絶対化ないし固執 である, 生徒をとり押さえて離さないよ うな ロボッ ト 化の強制は, 教授者の言語環境への無思慮な挑戦であろう. ②の学習者の知的発達の問題については, すでに関連して繕々述 べたから, ここではそれを 繰 り返さない. とにかく学習内容と学習者の知的発達との関係を教授 学上的確に把握することは緊 急に必要である, そうでないと教育方法論が科学的にうちたてられてこないだろう. ことに学習 の出発点で存在する学習内容と生徒の知的 レ ヴェルとの間のギャッ プは, いまのところ生徒の新 奇なものに対する知的好奇心以外それを埋めるのに頼るべき手段がない, とすれば, その知的好 奇心が失われないうちに, というよりはそれをさらに刺戟する形で, どのように学習 内容の レヴ が ェルを総合的に生徒の知力にマッ チさせていくかが問題であろう. この点についてはわ 国の英 語教育では, 現実にはまだ方法論的確立がないと言える. ただ従来の経験から, また大学・高校 入試の必要から, 学習内容の進め方 が, 所与のこととし ておるされているに過ぎない. あるいは lapp ora r oa ch 方式の観点から部分的な 手直しがあっ た程度であろう. 私は学習内容を言語の体. 系項目 (音声, 語形, 文構造, また個々の文法事項といっ た) の展開のみに限定 すべきではない と考えている. いや, その展開は必要なのだが, その際その体系項目という骨組みだけに目を奪 われるべきではなく, 学習内容の レヴェルをむしろ, より多く言語内容・言語活動にかかわるも のとして捉えるべきである. 私がいま言っ た 「学習内容の レヴェルを総合的に生徒の知力にマッ チさせ」 るとは, 実は, 具体的に はこの言語内容を考えてのことで ある, この内容を豊かに知的 なものに開拓して, 生徒に高い レ ヴェルの言語 活動を行なわせ たいと私は願って いる. それぞれ の言語項目の段階にも最大限高度の言語内容をもること, そういう内容をもっ てする言語活動を 促すことで生徒の総合的訓育に役立たせること, それは可能なことではないか, いま世間で学習 内容にかかわっ て教材 (ことにその逆コ ース的改変) に対する批判 がなされているが, それは, いま述べたのと反対の方向に言語内容を押さえて, それを項目羅列的に処理した言語の体系と結 びつけることに対する批判であり, 当然おきる べくしておきた声なのである. ③の問題は, 教授者が英語教育を実践して 行くに当っ て, それの制約を受けると同時にそれに 働きかけ得るものとして存在する一定の社 会条件, そ してそのことを 学習者である生徒にも投げ かけて, そのなかでどうやっ て学習 して行っ たらよいかをともに考える べきところの社会条件の ことである. そしてそれが社会条件である以上, また教育全体にかかわる条件であり, 状況であ る, そういう教育状況・社 会条件と無関係に英語教育が存在するものではない. 日本の教育状況 ,教育条件 が種々好ま しくない制約を持って いるとすれば, それはまた英語教育をも好ましくな く規制しているのである, 英語教育はその制約の下で, ゆがめられているであろうし, その正当 な目的を見失わせ られて いる であろう. 英語教育を生徒の全人格的人間形成教育の一環たらしめ らきられているであろう. 少しく抽象的な言い方だが, その環の回 復がわが国英語 るその環 が た・ 6- -6.
(15) . 第 21 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部C) 子;. 昭和45年 7月. 教育を正しく押しすすめるための基本要 件の1つである 現在の日本の英語教育 (差 し当 ては . っ 中学・高校のそれ) にあらわれている社会条件と教育状況の矛盾の反映 を それを克服すべ きも , のとして直視しなければなるまい, 1 ) 北海道教育大学紀要第1部,20巻2号所載 . 2) H,L ,スミス著, 男康雄訳注, 『言語科学と英 語教育』 4 , 大修館, p .1 , 3 ) 但し, この引用個所は, 大修館英語教育シリーズ1 3 ス 『 ミス 言語科学と英 語教育』 に収められたもう , 一縞の論文, C ,C, フリーズ 『近代言語学の示唆するもの』 のほう の解説文である, 4 4- ) 同書, pp 15 ,1 . この部分も2)同様, フリ←ズ の論文の解説である. 5 ) 小川芳男, 『英語教育法』 , 国土社, p .39 . 6) 同書, p .40 , id 7) lb .. 8 ) なお, 私自身は 「函館英文学IX」 , 『幼児期の言語習得と英語教育』 で, この点をテーマにして, 多少と も理論的な解明を試みた. 9 ) 前掲, 小川芳男 『英語教育法』 19- 1 2 0 , pp ,1 . 1 0) 前掲, スミス 『言語科学と英語教育』 8 ,p ,1 , 11 ) 同書, p 9 .1 . 1 2) 同書の訳者解説 の冒頭に次のように見えている 「Har i vard 大学に TheTngl s 反c t ur eという中等教育 , に関する特別講座がある. これは同大学の故 A1 i e xande s 教授 ( 1 8 rlngl 1 79- 9 24) の中等教育に関する研 究の功績を記念して設けられたもので F …・本書は1 4年度の The lngl i 9 5 t s Lec ur e で, …1 95 6年出版され た」 と. i 13) C, C, Fr e s ”γ ’山省 励恕薦ゐ qsα 〃oγe省” 乙伽 騨‘”ge , rmc顔”g 加〆Lg chi gan,1945) ,(Mi ,p ,9 , 1 4 ) 前掲書, H.L 3 . スミス, 『言語科学と英語教育』(大修館) ,p ,1 , 15 福士俊朗・大 ) 沢俊成, 『続英語の授業改造』 7 , 明治図書, p ,1 , 1 6) 前掲書, スミス 『言語科学と英語教育』 ,p .22 , 1 7 1 ) 同書, p .2 , 1 8) 同書, p 7 ,1 . 9 1 ) 同書, p ,5 , 20 ) C .C , フリーズ著, 安井稔訳注, 『アメ リカ構造言語学と英語教育』 , 大修館, p ,24 . 21 ) 石森延男編, 「中等新国語1」 -5 3 , 光村図書, pp ,51 , 2 2) この節及び前節は, 同書の2 「味わって読む」 の勘 「片耳の大しか」 の本文 同書の 0 を参照 pp , ,42-6 の こと. 23) 足助! s ed NB i W Pγ増γes s妙B R伽dgr sヱ ryudo , Ka ,107 ,p ,. - 67 一.
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