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古代の地名について(8)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 古代の地名について(8). Author(s). 栗原, 薫. Citation. 北海道学芸大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 16(2): 60-75. Issue Date. 1965-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3855. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 16 巻 第 2 号. 北海道学芸大学紀要(第一部B). 昭和39年12月. 古 代 の 地 名 に つ い て (8) 栗. 原. 薫. 北海道学芸大学旭川分校史学研究室. I Names(8) ient Ge Kaoru KUR・HARA : on Anc ographi ca. 須 磨 に つ い て. --古代の紛争解決法-- 工学院大学研究論叢第 三号の阿倍正臣氏 「古代オリ ソピャ競技の歴史」 によると, オリ ソビヤ 競技は ゼウス等の神に奉納する為に, ギリシャ諸国より競技者 が集り各種競技を行なったもので. あるが, 競技期間聖なる休戦が行なわれ, 其の間戦争が行なわれず, 祭礼の往復の途上は安心 し て旅する事が出来, 叉この競技を利用 して休戦, 条約の締結 が行なわれ, その布告, 記録, 裁可 が行なわれ, ギリシャ 人の同胞意識 が強められた, そ して競技者は夫々の国を代表 していた.. この様なものが, 我が上代の日本になかっ たであろうか. 相撲は古語ですまひであるが, 此れは住居と同じ音である. 住居のすまひはすむの延音である.. すむは澄む=すむと同じ音である. 同じ音だと言う事は,外来語によるもの以外は,語原 が一つなのだと考えてよくはあるまいか. 住むと澄むが同音なのは, 住むに住所の近辺を清掃するからであろう. 草木を刈り, ごみを掃いなど清掃につとめてこそ住居なのである。 山野の草木を刈り人手を入れた状況が澄んだ状況なのである.. 非常に人文的な意味を持っ た言葉だと思う. 住むは延音ですまふになった が, 澄むには行ない澄ますとは言ってもすまふとは言わない. 相撲のすまひは, この澄むの延音が元来の語義なのではあるまいか.. 澄 む の 義 の す ま ひ が 消 えて しま い, 相 撲 と 住 む のす ま ひ が の こ っ た の で は あ る ま い か.. 相撲が古事記, 日本書紀に出てくるのは, 国ゆずりに, 大国主命の御子の建御名方の神の申 し 出で, 其神と建御雷神とが力競べを したのが最初である. ついで垂仁天皇の御代, 野見宿禰 が当 麻臓 速と巌あっ てすまひをとって, 蹴速を殺した. 他は詳 しい説明がついていない. この一 つの中 一方は, 政権移譲の際の力競べで, 戦争をする代りに力競べを し, その勝負で二 政権の言い分の一方を通すと言う形があらわれているのではあるまいか. 出雲方であらそったのは武御名方神一人だし, 天孫側でも一人である. 競技は手をつかみあっ てする競技である. 敗けた出雲側も, 亡されてしまうの で無くて, 大国主命の為に神殿 がきづ か れ, そこで大国 主命は祭られている. 当麻隊速の場合は単なる力く らべの様ではあるが, 豚速の当麻邑の領土がとりあげ られ, 野見. 一 60 -.

(3) . 栗. 原. 薫. 宿禰に賜 って居り, その名を腰折田と言っていると記されて居り, すまひが領土 の移譲を結果 し て 出 して い る.. 当麻は雛志倭人伝の投馬国と現代支那語では同じ発音であり, 古代に於いても同音だったの で はないかと思われる. 野見宿禰は出雲国人なので, 当麻豚速と野見宿禰と のすまひは案外出雲地方の勢力争いを す , まひで解決 したと言う様な事実が元の説話かもしれぬ. どちらも出雲にゆかりのある話なのは面白い.. 或いは競技は出雲地方ではじまった習俗かも しれない. (勝負の意味は単純だが 播磨 国風土 , 記には, 便と重い荷をかつ ぐのと どちらに長く耐えられるかきそった話がのっ て居り その一方 , は出雲の神である。). 戦争にでもなりそうな二政権の間の争いを競技者の力くらべ で解決した話だとす ると その様 , な競技が神々の前, 叉は統治者たる天皇の前 で行なわれた事は十分なっ とく出来る事である . ギリ シャには天皇の様な統治者が 居なかったので, オリ ンピア競技のみが発達 したのではある ま い か.. 我ヶ国では, 神前の試合と朝廷での競技の両方が発達 した. 就中相撲は, 七月七日叉は其の他の日に神泉苑其の他で行なわれた. 天武天皇の十一年秋七月三日には, 大隅隼人と阿多隼人が朝廷で相撲 して, 大隅隼人が勝 て っ. い る.. やがて左右相撲司が六月に設けられ, 七月の相撲節に備える様になった . 相撲は国郡司 が進め, 出身国によって左方と右方に別れて争った 。. 仁明天皇の天 長十年五月十一日, 相撲之節 はただに娯楽たるのみに非ず 武力を簡 陳するなり , と勅 して居られる.. 律令時代朝廷の権威がおごそかで, 競技によっ て事を決する必要も無か たので その様な意 っ , 味は意識されなくなっていたのであろう. それでも勝負決せざる時は天皇の裁決を仰ぐなどの事があり (北山抄) 地域的対抗 の形がのこ ,. る 等,. よ り 古 い 時 代 の 影 が う つ っ て い る か に 見 え る.. 其の外競馬な どがあったが, 相撲程ではなかった。 神前のでは賀茂神社のが有名 であった.. すまひは元来その競技によって二勢力の争いが解決 し, にごっているのが澄む様にな るのであ. る か ら,. そ の 結 果 を見 て す ま ひ と 言 っ た の で は あ る ま い か .. さすれば自己集団の利害を背景に戦うのだから, 必ず勝たねばな らぬ 参加する事に意義があ .. る の で は な い。. すまひで時に 人が死んだのはその為であった.. 今昔物語にも相撲の話が四, 五のっているが, その中に常陸 国成村が左方の最手 (最も強い相 撲) と して, 右方の最手たる丹後国の恒世と勝負す る事とな たが 成村 は競技をさけようと し っ , た. しか しゆるされず勝負する様になった時には, はげしくたたかい共に倒れたが 彼が其の時 , 与えた傷がもとで恒世は死んでしまっ た その直後帝がおかくれにな たので爾後最手の勝負は . っ しなくなっ たとあるのがある. (巻第廿三) 中世武士が戦にのぞん で一騎討を したのもそ の様な伝統のあらわれであろう . 朝廷の権威がおとろえると共に再び実際的な意 味を持 てきたのである っ . - 61 一.

(4) . 古 代の地名 について. 一騎討をしている武士達に他の者 が手助けを してはいけなかった. 蒙古人は其れを しらないので野ばん人であっ た。. 蒙古来襲絵詞をょむ と, 一騎討の戦場ル ルのある日本の武士達に, われもわれもととりつい て倒 して行なった蒙古人の野ばんさがえがかれている. 日本のルール では, 代表の戦いで勝負が つけばその方がよかっ たのである. ヨ ー ロ ッ パ 人 は ョ 【 ロ ッ パ 世 界 に 通 ず る ル ー ル が,. ヨ ー ロ ッパ 以 外 に 通用 しな い 事 を よ く 知 っ. ていて, 喜望峯やスエズか ら先に特出せぬものがあると思っていたが, 日本人も同じ事情にある にもかかわらず, 外国と戦う事少くそ の様な自覚 がなかった. その日本が非ヨーロ ッパ の世界で最初に 赤十字に加入をみとめられ, 次第に広範にヨトロ ッパ こていたから可能にな 世界に入って行く事 が出来る様になったのは面白い事 である. 社 会構造がヤ っ た の で あ る.. 川中島の戦で, 一騎討で勝負をきめ, 相互に軍を引いた事があって, 戦前の初等教育の教材に 使われていた が, 一騎討の精神をよく生かしたものと言っ てよいだろう. 河中島五箇度合戦記 (続群書類従合戦部) に, 永録七年七月, 謙信, 信玄川中島に対陣したが, 八月になり信玄 が互の運のため しだから安 馬彦六を召出, 上杉方と組討をさせ ,互の勝負をみて, 其の勝利次第川中島を何方へも納める様 に しようと言うので, 彦六を使と して此の旨を上杉方に 申入れた。 謙信は, 信玄の仰せ尤だ, 此方よりも出そう. 明日午刻組討仕るうと返事した. 翌日 信玄方より物具爽に出立つと, 越後の陣所からも 小男の鎧武男一騎が出向い, 馬上で是に罷出候 者は長谷川与五左衛門基連だ. 小兵だが彦六との晴の組討御覧ぜよ. 何方勝利となっ ても, 加勢. 助太刀すれば, 永く弓矢の癖でありませ うと呼はっ て, 勝負をは じめた. 長谷川が勝つと, 上杉 方は一同に感じどよみ, 甲州方は無念に 思い, 千騎討出そ うとひ しめいたのを, 信玄は味方の不. 運だ. 約束 した上は川中島を濃そう. 違変は侍のいつまでもの名折れだといい, 翌日軍をひい た. それより川中島以北四郡は越後領となったとある。 これはすま ひにみられた習俗が戦国乱世の時代に生きているのである. この習俗は疏球列島で遺習としてその痕跡をのこしているかに見える. 八重山諸島の穂 利祭と言う収 獲祭に, その第二日に胞竜船の競漕がある. これは部落対 抗で大. 型で長いL り舟を競 争させて年占を行な っている. その第二日目 の余興は, 石垣市では綱引で, 俗に 義経と弁慶といわれる二人の戦士が出て棒や. 槍をとり勝負を行ない, それが勝負がつかぬので, 綱引 で決定する段取りとなる. 最初 のは部落対抗なのに興味があり, 後のは戦闘さける形で綱引が行なわれるのが面白い. 競技に紛争解決 の手段としての由来がみとめ られるが, すると競技が団体を代表する事, 神前 な どで行なわれる事, カ ーばい戦うべきである事な ど自然に出てくる性質 で, それらの事を上に 述べてきた.. 現 代 の オ リ ン ピ ッ ク は 其 れ 等 の 点 を か な り よく 現 わ して い る. (争 い を 解 く の に は使 わ れ な い. 様だが) 其れは勝つのでなく参加すればよいのだとか, 選手は別に国を代表 していないのだと言 う, 今 次 の オ リ ン ピ ッ ク で当 局 や ジ ャ ー ナ リ ズ ム を 支 配 して い た 見 解 が 実 は 邪 道 で あ る と い う 事 に も な る. も っ と 歴 史 に め ざ め ね ば な ら ぬ,. 叉現地ギリシャ でもはや拝せ られなくなっ て久しい神を祭りその神前で競技する事が妥当 か ど うかと言う間願がある. それはミロの ビーナス同様一度けがされまだ本当は復活 していない神な のである。 む しろ日本の武御雷神などは どうであろうか. 此神はずまひを した神だし, 日本各地 - 62 一.

(5) . 栗. 原. 薫. で祭られ崇められている神である。 さて須磨明石の須磨は, すまひの語幹ではあるまいかと思う。. 奈良はならすの語幹である。 (書紀に説話がある。) 叉平安京のたいらもたいらぐな どの動詞の 語幹と思う. すまふの語幹の地名があって差支えないと思う。. 律による裁判及び刑罰及びそれに先行するものについてはふれない。 争いを解決する最も正当 な手段だっ たが. 紛争解決法としてはその外, 応神紀, 允恭紀に見える探湯 がある. 允恭紀の注によれば重を釜 に入れて煮沸 し手をかかげて湯量を探り, 或いは斧を火色に焼き掌に置き, 允恭紀本文では諸人. 各木棉手機をかけて釜におもむきそうしたのであるが, それによって自己の主張の真偽を証明 し ようとしたものである。 真ならば手がただれぬと言うのである。. くがたちのくがは陸の意で, 大地を断つ様に事件が解決するからではあるまいか。 允恭紀では氏姓を正す 為であったが, ことさらにいつわる者はおどろ き, 予め退いて進む こと がなかったと, かつこれより以後氏姓が目づと定り, 更に詐る人が無かったと記されている。. 継体紀にも仕那人と日本人との間に生れた子の事で評訟決し難いので, 毛野臣がこのんで誓湯 をし, 実ならん者は欄れず, 虚あらん者は必ず欄れんと言って, 湯に投げて綱死する者が多く, 其の他評判が悪かったので天皇は人をつかわしめし給うたとある。 応神紀のは武内宿禰が九州に. 百姓監察に行 っている間に, 弟の甘美内宿禰に しいられ, 天皇は武内宿禰を殺す様命ぜられた。 身代りに死んでくれる人が居たので一時をのがれ, ひそかに大和にかえり甘美内宿禰と対決した 時探湯が行なわれたとある.. 此れ等を見るに皆特別にやっ かいで, 真偽を定め難いものばかりである。 (武内宿綱のは允恭 ) 天皇以後く がたちを正当化する為に出来上った話かもしれぬ。 思 う に 上代 人 で も 手を つ っ こ ん だ ら正 しく て も 手 が た だ れ る 位 の 事 は し っ て い た ろ う。 正 しけ. ればただれぬと言われていても中々つっ こむ気にはなれなかったろう。 此れは一定の結論を強要する結果をともなったであろう。. 案外氏姓を正すには向いていたかもしれぬ。 混血児に行なわれたのも訳 があっただろう。 母親にしか分らぬ事なのだから, 唯女だし投げこ まれるのが子なのでむざむざ死ぬ幼児が多かっ たのであろう。 混血児母子に困りぬいての便法 だ. ったかもしれぬ. しばらくで大和朝廷よりとめられてよかった訳だ。 探湯は何といっ ても非合理的なやり方だ.. 国史辞典の盟神探湯に西村真次氏が裁判する者が人力以上の力を借りたもので, 一種の呪術, 宗教的行事だとして居られる が, 私はむしろ一定の結論を強要する裁判のまね事だったのではな. いかと思う. 普通の裁判は別にあったのだと思う。 こた性質があったと思うが, すまひ, くがたちは律な ど通常の裁判の外にあって, はらひにもむ. 争を解決する方法として用いられていたのだと思う。. あづまについて 和名抄に伊賀国伊賀郡に阿我郷のあるのは, 伊賀国, 伊賀郡を夫々アガノ国, アガノ郡とも言 っ た 為 だ ろ う。. )に, 伊賀国吾蛾郡は, 猿田彦神の女の吾蛾津媛命が守り給うた所なの で, 吾蛾郡 風土記逸丈1. と 言 っ た と あ る の は, 同 国 伊 賀 郡 の 事 を 言 っ て い る の で あ る。. - 63 -.

(6) . 古代の地名について. 大体言語の音韻の変化は, 相応 じて変化するので, 一つの言葉丈変 っ た音韻をもっている事は 普通はあり得ぬ筈である.. しかし過渡期では必ずしもそうで無く混在している事がある. 例えば私が今春沖縄に旅行して聞いたのであるが, 那覇で, その近郊の小禄を或る老婆がウル クと言うのを聞き, とい正すとコロクと言い直した. 地名以外は標準語であっ た.. 八重山諸島の西表島はイリオモテと言うが, イリと言うのは沖縄本島の言葉で, 八重山郡島で. は 西 をイ ズ と 言 う の だ が, 西 表 はイ リ オ モ テ と 言 っ て い る.. しか しイ ズ オ モ テ と 言 う 事 も あ る.. 八重山諸島の穂利祭プーリ ーは, 実は腿竜ハーリーと言う競漕のやや古い発音に過ぎぬのだが, 今は別の祭をさす言葉となっ ている.(沖縄で猶ハ行音をどうかすると パ行音で言う地方がある.) 日本本土でも多少そう言う事があっ て, 上方で不可の意味のいかんをあかんと言う事がある. 伊賀と吾蛾もァ, イ相通じ混用されているのであろう.. もしアガ郡の方が原義だとすると, それはアガリ郡のりが落ちたのであろう. アガリ何々 がアガ何々になる事は, 崇む=アガむの例がある. アガむは, サゲすむの逆で, 上 げ下げと対になっ ているのだと思う. つまりアガリ, サガリの語幹つまり活用 し無い部分のみが 生 き て い る の で あ る.. 叉古事記伝に, 伊勢国能煩野の意味を登り野かとしているのは, のぼりのりが落ちているのだ と 解 して い る の で あ る. 現 在 京 都 の 烏 丸 を カ ラ ス マ と 言 う の は, ル を 落 して い る の で あ る。 ア ガ 郡 は ア ガリ 郡 で あ ろ う.. アガリは現在琉球で東方の意である. そ れ に 対 して 西 はイ リ, イ ズ で あ る.. 太陽の上り, 入る意で ごく自然の名と思う. ひむがし, ひがしの方は琉 球では使われていない。. アガリ, イ リの方は日本本土では使われて居無いし, 使われていた証拠も無い. 唯ひむがしは日に向う方向と言うの であるから, 東を意識する人の自我が, あがりに比べてよ. く 出 て い る.. あがりの方は人で無くて太陽が自然に上るのであるから, 人間は受動的である. あがりの方は, 封鎖された社会で日を受動的に見る人の言葉である. ひむがしの方は日の上る. 方向にどん どん進撃して行く, 解放的な, 世界的な 点, 積極的な点が考えられる. ひむがしの方は国土統一, 国家形成とむすびついた言葉であろうか.. あがりの方は, それ以前の社会, 統一される側の言葉ででもあろうか. その様に見るに, 大和朝廷によっ て日本が統一される以前には, 東をあがりと言っていたのか. も しれ ぬ.. その日で見ると, 束を意味するアガリを含む地名がいくらかある様に思われる. 現地人が元来使っ ていたのをそのまま生したか, 或いは現地人の言葉を生 して新たに地名をつ. け た の であ ろ う.. 或いは叉大和朝廷でひむがしの言葉が使われるに至る前に, 大和朝廷でつけられたものであろ. ムノ. 吾城の場合 は, 大和を含む畿内の東と言う意味であろう.. 吾蛾津媛は東の方の女神の意で, いずれも大和中心の命名 である. 一 64 一.

(7) . 栗. 原. 薫. 伊賀国 は, 東方開拓の最初 の対象であって, その一の宮の敢国神社の祭神は敢国津神 であ. その別名は安倍神である.. っ て,. 安倍神は孝元天皇の皇子大毘古の命, その皇子の建沼河別 の命の子孫の阿部氏 の神である 大 . 毘古の命, 建沼河別の命 は夫々四道将軍の一 であっ て, 夫々高志道, 東方十二道に遣 わされ 服 , はぬ人どもを言向け和 し給うた. その阿倍氏の名にちなんで 郡の名がある. 其れは畿内では無くて, 植民地の第一歩な のである . 植民地としての東国も, 元来 はかなり自主性の強いも のだったかもしれ無い , アガ (東) とよばれ, アガ (東) ツヒメノ命が守り給うた大和東方の地は 大毘古の命等によ , っ て分割され, 次第に山田郡, 阿拝郡, 名張郡郡等が置 かれたのであろう. (当初は郡とよばれ ず国とでも 言われたの であろうか ) .. 猶 よ く 考 え る と ア ガ国, ア ガツ ヒメ ノ 命 の 領 域 は も っ と 広 く 東 方 に お よ ん で い た の かも しれ ぬ .. 東方未開の地 を指し, 叉それを守る神を指していたのかも しれぬ .. 東 方 未 開 の 地 を ア ガ (リ) と よ ん で い た 頃 は ヒ (ム) ガシ の 語 は無 か た の か も しれ ぬ っ .. 大和. のす ぐ東の地だから, 随分早くよりそうよんでいたのかもしれぬ . 今大和盆地の東の山地, 笠置高原を東山中と言う 西山中と言うのは無い 東山中はヒ ガシサ . . ソチ ュ ー で あ る が, 同 じ着 想 で ア ガ の 地 名 が 出 来 た の かも しれ ぬ .. 四道将軍 の頃, 崇神天皇御真木入日子印恵 (ミマ キイリヒコイニエノ) 命 垂仁天皇伊玖米入 ,. 日 子 沙 知 (イ ク メ イ リ ヒ コイ サチ ノ) 命 を は じめ , 名 にイ リ の つ く, 天 皇, 皇 后, 皇 妃, 皇 子,. 皇女達が多い。 沖縄語でイリは西の事 であるので 或いは西方経営が進んでいた事を示すのかも , しれ ぬ.. もっ ともこ れは文化的, 宗教的な経営 であったと思われるのだが . 御真木入日子印恵命の御子十二柱の中 七柱までイ リがその名の中に含まれている , . そのあと の五柱の中に倭日子の命な どと並んで伊賀比売があるのは イリに対してイ ガ=アガ ,. = ア ガリ = 東 が あ っ た の で は あ る ま い か .. 御真木入日子印恵命の御 代, 大毘古の命と建沼河の命とが高志の国と東方十二道とを征し 遂 , に相津で往き遇 い給うた . 相津は今の福島県会津である . その会津より流れ出で新潟近 辺で海に出る川に 阿賀野川がある このア ガノのアガはアガリ , .. 即ち 東 ではあるまいか .. 木曽より流れ出づるを木 曽川, 大和より流れ出づるを大和川と言う如く 東より流れ出で 西 , ,. の 海 に 入 る の で, ア ガリ ノ 川 = ア ガノ 川 と 言 う の でも あ ろ う か .. 大毘古の命の御代つけられたとは言え ぬが 頻出するイリの名と対にな てつけられたのでも , っ. あろうか.. 凡そ我が国が開けはじめるや, 西より東に及び 大和朝廷の成立にあた ては 西方諸国は元 , っ , 来は大和と併存し, しばらくして大和朝廷の下に立つ事とな た国々であ たろう っ っ 。 其所には独自の文化が萌芽的に出来上りつつあった筈である . 大和以東はそうでは無 い. 大和の植民地と して次第にひらかれて行 たのだと思う っ . 大和朝 廷も, もともと武力による強力な支配を日本全土にしいていたとは思われない 。 最初 は神々の信仰を中心とする文化的・宗教的な統一体が出来上り 武力による統一体成立の , 母 胎 に な っ て 行 っ た の だ と 思 う.. - 65 -.

(8) . 古代の地名 につい て. アメリカ 大陸では, イ ンカでもマヤでも, 西歴紀元前後に農業段階に入っ た. それより多くの 段階をへてスペイ ン人が渡来する百年程前に最後の段階即ち武力による強力な統一体である 帝 国 の時代にな っていた. その前の時代は地方分権の時代で, その前には政治的には統 一されぬが, 宗教的・文化的に統一され一つの統一体を形成 した時代 があった. 宋書に 出ている海北諸国を含む征服事業は, 宋書にあるが如く突然一人の手によっ て行なわれ た も の で は あ る ま い.. 祖禰の征服 した国々は毛人国, 衆夷国, 海北国と分れて居るのは, あたかも夫々に開拓中の植 民地たる東国, 大和より早く開けた西国, 異民族の国たろ海北国 が夫々別に考えられていたので は あ る ま い か.. それに しても禰の征服 事業の前に, 文化的 o 宗教的に地ならした努力 があっ たのだと思う. 征服事業の前に, 醜志の狗邪韓国, 或いは崇神天皇の御代 来貢した任那の如きもの があって母. 胎 に な っ た の だ と 思 う.. 其れは賜わっ た赤絹を新 羅人に奪われても朝廷は何もしなかっ た様な関係であっ た. 恐 ら くイ リ の 国 が そ こ ま で及 ん でい た の で あ ろ う.. その様な状況が変 ったのは武力による統一事業 がはじまってからである. 景行天皇は, 子湯の県に幸し給 うて, 丹裳小野に遊び給うた. その時東の方を望み 給うて左右 に謂われる のに, 是国は直に日の出る方に向いている. 故に其国をなづ けて日向国と言いたいと 言われた. これは景行紀の一連の征服事業の記事の中にはさまれてでてくる説話で, 日向の命名の由来が 説 明 さ れ て い る.. ひむがしと言うのも, 日向の名にかかわって出てきた名で, 大和朝廷の武力統一事業が九州に 及んできた時, 使われはじめた名 であろう. 恐らく此れは真実なのであろう.. 日向が現にその名にふさ わしい地にあるのだし. 大和朝廷は九州 経営を通じて, かなりの変化をとげたらしい.. その日向国の妻地方は律令時代, 国府があり, 延喜式に都万神社 がしるされている. その地方には大小三百の古墳があり, 我が国の古墳の集中地の一つであるが, 皆中期古墳以後. の も の で あ る. ◆. つまり中期古墳時代に大和朝廷の勢力が進出 してきて, それより地方経営の中心となった所ら. しい.. 倭建命が東国を征 し給うた後, 足柄の坂で東の海をの ぞみ, 弟橘比売を思い, 三たび歎き給う て, 「吾嬬はや」 とのたもうた. そこでその国を名 づけて阿豆麻と言うのだと古事記に記されて い る.. しかし阿豆麻は, 都万神社の都万に阿 がついたものではあるまいか。 つまは端の意になる. 日本書紀では, 同じ話 がでているが, 足柄峠が碓日嶺になっている. そ して命が言われた言葉の傍訓 がアガツマハヤになっ ている. それに応ずるかの如く碓日嶺に. 近く吾妻郡があり, 延喜式の傍訓ではアカッマになっ ている. あ づ ま を あ が っ ま と 言 う 言 い 方 も あ っ た の で は あ る ま い か.. あがっまだとするとあがりつま=東つまと 言う事になる. つまり 元来のっまが九州にあり, 東の方のっま が関東だと言 う事になる.. - 66 一.

(9) . 栗. 原. 薫. 倭建命が, まず西国を征されて, 東国が後になったから東がつけ加わ たのではあるまいか っ 。 つまは一方 の はしの事だから, どちらも相当す るわけである . ややしてひむかの名がつけられたので, 九州のつまは記紀に名 を残さなか たのではあるまい っ 九州の国郡名と紀伊等の国郡名と の間に相関関 係がある事は顕著であるが 東国と九州との関 , 係もみとめられる. この事は北海道学芸大学紀要第十一巻一・二号の拙稿古代における神社の研究で述べた . つ ま と あ づ ま も そ の 一 つ か と 思 う.. この地名解釈が正しいとすると, あづま の名が倭建命の時代に出来たらしい事は 九州の妻の , 古墳の年代から推定されるが, 記紀のあづまの名にからむ説話はややおくれて出来たものだと言. う事になる. 倭建命 の物語は, 我が国の英雄叙事詩中の代表的なものであるが それが成立 したのは 所謂 , , 英雄時代であっても, 倭建命の時代よりやや下っていたらしい . 倭建命の物 語は, 倭建命が死後白鳥になっ て天かけり行 きどこへともなくさ て行き給うた所 っ に特色の一つ がある.. 書紀では, 仁徳天皇の御代, 倭建命は天がけり行 かれ, 墓 には何もな いのだからと言うので , 倭建命を祭る白鳥陵の祭りをやめ, 陵守をやめようとされた そ して陵守を役丁にあてられた所 . , その陵守が使われている役の所に天皇が御出になると, 陵戸の目杵 (めき) が白鹿 にな てにげ っ た。 そこで天皇はおそれて役に使うのをよし給うたとある . 倭建命は国々を廻って荒ぶる神々を退治し給うた . 地方の人々は荒ぶる神々を恐れ祭っ ていた. 今でも男鹿のなまはぎ等の行事に, 荒ぶる神の姿がのこされている 八重山群島の穂利祭もそ .. う で あ る.. 人々は恐れながらその威に服していた. 倭建命にとっ ては, 荒ぶる神は神でなかった.. 足柄の神は白鹿であっ たが打ち殺し給うた. 各地の山の神, 河の神 穴戸の神 坂の神を征伐 , , し, 伊服岐の山の神を殺そうとして 逆に取り殺され給うた. 神が白猪にぼけていた のに気がつき. 給わなかっ た為である.. 人々はひそかに倭建命の壮挙を恐 れていたであろうが, それが事実にな て表れ たのである っ . それでも彼にとっては神はもっと合理的な, 叉倫理的なものでなければな らなか た っ . 彼の奉ずる神は伊勢の五十鈴のほとりにます神であったが, かなり合理的・倫理的に解してい. た の で も あ ろ う か。. 常陸国風土記な どに, 大和朝廷から派遣された官吏等が, しきりに不 合理な信仰をおさえ てい. る 姿 が え が か れ て い る.. 書紀にもその様な姿が出ている. 彼等は大化以後律令制形成期の人達であるが, それ以前にもその様な人達が萌芽的に出ていた. で あ ろ う.. 倭建命には彼等に通ず る性格がある . その様な倭建 命が死後鳥 になって飛びさり どこにも御いでにならない , 。 しかもその鳥のおり た所に墓を作っ てまつられていると言うのは 彼の人格が抽象的にとらえられている事を示し , て - 67 -.

(10) . 古代の地名 について. いる. もはや彼は影のない抽象的な存在なのである. 人はその墓の下にねむっている命を拝むの でなく て, 抽象的な命の神格を拝するのである. 其れは合理性への一歩前進である. それが理解できずに, 祭りが廃せられる動きがあったと しても不思議でない. 萌芽的なものは い っ も そ う で あ る.. しかしそれに してもその合理性は白鳥となっ て飛びさっ たとか, 陵守が白鹿になったとか言う 民衆にもよく 分る, つまり荒ぶる神の信者に理解でき受け入れられる形で表現されている.. 英雄時代の特色が出ているのである. あづま の名にか らむ伝承は, この様な英雄叙事詩の形成過程で出来上って行く--或いは地名. と伝承がむすびついたのであろう. それは允 恭天皇か ら雄略天皇の御代にかけての事だっ たかと思う. 其の下限は天武朝の初期と思う.. 私がかつて北海道学芸大学紀要第十五巻一号古代の地名の研究 (6) で論じた如く, 古事記に は後の国名 がほとん どのっていて (のっていないのは, 常陸・下総・下総など特別の所のみであ. がのっていないのは, 古事記編集当時駁河が無か ) る. , 相模の国 が古事記にのって居り, 駿河国 った為かと 思われる. 倭建命の説話 中, 弟橘媛のさねさ し相模のと言う歌の相模が, 書紀では駿河国の焼津になっ て いる事は, 古事記伝の, もと駿河が相模にふくまれていたと言う説が正 しい様に思うが, 唯その ふくまれていた時期は古事記編集当時までそうだったのだと思う.(天武初年に駿河国より伊豆国 分置の事 が扶桑略記に出ているので, それ以前の天武朝のごく初期に古事記は大体の形を整えた の で あ ろ う.). 阿部源蔵氏は古代地名伝説考 (北海道学芸大学紀要第一部人文科学編第十五巻第一号) で, 往. 古サガミの大名 がスルガの地域を覆っていたと言う徴証が無 い, 叉足柄・箱根の山波は 天下の 険 と して, 強固な自然の国境 を形成していた. 交通 が至便となっ た後世に於いても国境線はか. この険峻を隔てた両国が, 同一の国名で って変 っ た事 が無い. 然るに車馬不通の上古にあって, よばれて居たのは不自然であると して居られるが, 第一の疑点は上述の私の説明で徴証な しとは 出来ない のではないかと思う. 第二の疑点は, 峻険は国をへだてる事が多いが決定的な原因では ない. 時には峻険をはさんで国 がたてられる事がある. 例えば文武天皇の二年三月まで, 越中国 はアル プスが海におち親不知となる峻険をはさんで, 後世の越中国の部分と, 後の越後国の頭城 ・三島・古志・魚沼の四郡の部分よりなっ ていた. 叉越後国は和銅五年九月 迄鼠ヶ関の険をこえ, 出羽郡をその領域にもっていた. 一方陸奥国は叉奥羽山脈をこえて日本海側に郡を設けて いた. かかる例を見る時, 天下の険 があったからとは必ずしも言えぬかと 思う. 箱根を中心に した国の 存在もあり 得るかと思う. 補説 1 あづまのっま が端の意で, 日向のつまと対になって居る様だと言う事を私は史流第二 号の拙稿で述 べた. (昭和三四年). 阿部氏もつまが端の意なる事については私と同様の説を述べて 居られる. 古代人の生活に地名伝承は重要な意味を持っ ていたので, 説明上の便宜でたやすく内容をかえ. たりする事は無かっ たのではあるまいか. あ づ ま が 吾 妻 に な っ た の は, 元 来 ア ガ リ ッ マ の 意 だ っ た とす る と, 東 を ア ガリ と 言 わ ず, 専 ら ヒ ガ ツ, ヒ ム ガ シ と 言 う 様 に な っ て, 原 義 が 分 ら な く な っ た 事 が そ の 根 底 に あ り はす ま い か.. その時期は, 恐らく人名にイリ=西の字の入らなくなっ た応神天皇以後であろう.. - 68 一.

(11) . 栗. 原. 薫. 第二に地名伝承が変るについては, かなり大きな社会的・文化的変動があり, 夫々の地域の集 団生活がかなり動ようし, 破壊され, 再端整されたと言う様な事があるであろう. そうでなければ, 団結のよすがともなった地名伝承がそう変りはすまい. そのようなものをあげると, 第一は大和朝廷に武力で統一された時, 第二に大化の改新後の再 編成があげられる. 最初をアガリッマの時期とすると, 後の大化の改新以後が残る. 常陸国風土記に見えるいたる所にある倭建命にかかわる伝承は, 或いは恐らく大化改新以後再 編成されたものがかな りあるかもれぬ. 叉日本書紀のあづまはやの舞台が碓日嶺になっ ていて, 一度甲斐酒析宮に赴き, ひきかえして 碓日坂を登られた様になっているのは, む しろ天武以降倭建命とむすびついた地名伝承が急に増. え (地方区分の再編にともない, 余分がでるについては随分無理な廃合が行なわれたであろう. ) それを一々生 していると全体として理解 し 沖縄では明治迄時々編成がえをされていた様である. に く い も の に な っ た の で は あ る ま い か.. もっ とも日本書紀は利用 した資料が多く, かつそれを尊重する編集だったのであるが, 天武初 年に古事記 が出来ていたとすると, その成立時期の異いも, 影響を及ぼしたかも しれない。 唯あづまの様な大きな地名は, む しろ中央の変動に原因があるのかもしれぬ.. 或いは夫々の伝承を 持った氏族の変動に原因があるのかも しれぬ. 応神天皇の御子孫は倭建命の御子孫と言う事にはなるが, 神功皇后の三韓征伐などの事柄が間. にあっ て, 倭建命を粗略にする傾向も出ていたのではあるまいか。 先に あげた仁徳天皇が白鳥陵の祭りを廃そうとされた事などにそれがでているかと思う.. しかるに仁徳天 皇の皇子の允恭天皇は, 父母両系に倭建命の血が流れている忍坂の大中津比売 を后とし給 うた. そして飛鳥に宮を作り給うた. 飛鳥は白鳥となっ てとんだ倭建命と何かゆかり がありそうである.. この天皇は倭建命をもりたてようとする勢力にとりかこまれていたのかも しれぬ. そ してく が. たちを行ない氏姓を正された. その為氏族の伝承がこの期に再編成され, かつ倭建命にかなり有 利 に な っ た の で は あ る ま い か.. この頃夫々の氏族の伝承以外の伝 承も再編成されたのではあるまいか. く が たちは神 の意志をとうと言っても, いくら当時の人でも熱い湯の中に手をつっ こんだらど うなるか分らぬ訳ではなかっ たろうから, くがたちと聞くと自説をひっ こめ朝廷の意に したがっ た事が多かっ たであろう.. したがって中央の方針に従って, だいぶ氏々の伝承が変えられたのではあるまいか.. それにともない地名伝承も大分変っ たのではあるまいか. 3 1頁 注 1 日本古典文学大系 風土記 4. 倭姫命世記に, 大和国宇多秋志野宮で倭姫命が夢に天照大神が高天原にましまして吾見国 に 吾 を坐しまつれと教えさとし給うた. そこで此れより東に向っ て宇気比を乞うて詔し給うに, 私が 思いさ して住所 がよければ未嫁夫童女が自然に集ってこいとのたまうて祈祷 してみゆきし給 う た と あ る.. こ の 吾 見 は ア ガリ の り が ミ に転 じた の で は あ る ま い か. ラ 行 音 が ナ 行 音 に 転 じ, 叉 そ の. 逆が間々おこるが, それが更に平安時代に入っ てマ行音にかわったのでもあろうか. アガリ一ア ガ ソ一 ア ガミ. 吾 見 国 が 東 の 国 だ とす る と, 東 に 向 っ て う け ひ を し給 い, そ の しる しに 従 っ て 東. 方に天照大神の鎮座し給うべき地をさがして巡幸 し給うた事とよく調和する. 吾見と書いたのは - 69 一.

(12) . 古代の地名 について. 原義を忘れての事だ. 伊賀郡は今もアガノ郡と土地の人は言う事がある. (吾見はアガリ見かも しれ ぬ.). 猶風土記逸女のこの部分は万葉緯に採録された日本惣風土記によっている. 伴信友の比 古婆衣. に惣国風土記は偽書だが山城伊賀尾張のはいささか其の国の事記せる古き書に拠 り, おろおろ古 伝説をも取 って記 している様だからよく選びとっ てものの考えに備うべきだと している. 武田祐. 吉氏の岩波文庫風土記では信頼度の低い部分になっている. 叉日本古典文学大系の注では, 古代 の官撰風土記とはみとめ難く, 参考と して見るべき程のものに入れ, 倭姫命世記伊勢風早国と三. 種之宝器之内金鈴が使われている事を指摘 し出所があるを示 している. やや後のものかも しれぬ が, 現にあがの郡の地名があるので, あがの地名は全く仮空ではあるまい. (本文にもふる. ) 陸奥国信夫郡について -我が国に於ける秘密の発生一 かくれるの義を和訓莱は日暮としているが誤ではあるまいか. 古事記上巻に沼河比売が大国主命に答えて歌っ た歌に, 比賀久良婆云々とある. (日暮れなば の意味に) 古事記伝では, 迦久理婆と云うべきを, 迦久良婆と言っているので古言の一 つ, 格で, 迦久良 牟, 加久理, 加久流と活用すると しているが, 此れは欠くるを延べて言っ たのではあるまいか. 日が天より欠け落ちて地平線に或いは山に没すると言うので, ひがくるの意が通り はすまいか. と思う. 山陽地方では, 日が沈む のを日 がかけると言っ ているが, 古事記のひがくると言う言葉 を今に残 しているのであろう. 思え ば其の言葉は出雲神話の中の言葉である. 欠くが欠くるになるのに似た例は, 過 ぐが過 ぐるになる等がある. この様な使い方でのこの言葉は, 山に欠け, 或いは地平線に沈んで姿が見え無くなると, 欠け. た つ ま り, そ の部 分 は 無 く な っ て しま っ た と 感 ず る 所 か ら 出 て い る の か と 思 う.. (日を天の一部と考える考え方が一方にあって, 欠けると言うのである.) 其れは非常に具体的・視覚的な言葉であると思う. さて古事記に天之御中主命が御身をかく し給うたとある事は, 姿が見えなくて猶神がまします. 事であっ て, 此所にかくるの語 義が欠くと離れ, 別の意味を持つに至っているのである.. かくるが独自の意味を持っ たのは, 神々への信仰, 目に見えぬもの, 抽象的なものへの自覚よ. り は じま る.. 爾呼は, 王となってから, 見た者が少い. 唯男子一人がいて, 飲食を給 し, 辞 総志倭人伝に卑ぢ. を 伝 え, 出 入 して い る と 誌 さ れ て い る.. 叉推古紀 に, その十六年, 小野妹子にともない我が国をおとづ れた晴使斐世清は, 朝庭に召さ れ使の旨を奏 したてまつっ た. その時彼は大門の外の庭中に国信物を置き, 自らも大門の外に書. を持っ て, 再度両拝, 使の旨を言上 した. そ して立っ ていると, 阿部臣が庭に出て其の書を受け て進んで行っ た. するとブぐ件嘘連が迎え出て書を受けた. そ して書を大門の前の机の上に置いた. そ して 奏 した. 事 が お わ っ て 退 い た と 記 さ れ て い る.. 新羅使, 任郡使もそうだっ たらしい. 大化改新で, 蘇我入鹿は三韓使節が調を進むるの日, 中大兄皇子等に殺されたが, 其の時三韓 進調の表を天皇の御前でよんだのは, 蘇我倉山田麻呂であっ た. 場所は大極殿であっ た.. 凡そ奈良朝に何々門で宴を賜うなど行事のあるのは, 天皇は門に居給 し, 群臣は庭上で行事に - 70 -.

(13) . 栗. 原. 薫. 参じたのだと思われる. しかし晴使の国書捧呈の場合は, 大門に天皇の御座があっ たのでは軽すぎる様に思われる。. 大化改新の時の様に, 天皇は大極殿, 恐らくは其れに相当するもっ と簡易な宮殿の中にましま し, 大化改新の時の様に殿中で大臣の口で奏上される晴の国書をおききになったのではあるまい. . 叉大化改新の時は, 三韓の使は大極殿の外, 門外に居たのではあるまいか。 そうだとすると, 天皇は外国使臣に姿を見せ給わ無かった事になる。. 此等は視界には無いが, 猶実在し給うと言う意味でかくれて居給うたのであろう。 つまり神な ので あ る.. それはもはや原始時代の感覚的生活より脱 し, より高い精神生活が出来る様になっ た事を示す. の で あ る.. 其れはすでに鏡志倭人伝の頃にはじまっていた事になる。. しのぶと言う言葉も, 似た言葉である。 かくれている事である。 古事記上巻に, 建御名方の神 (大国主命の子) が, 大国主命に国ゆずりをすすめに出雲国に来 た 建 御 雷 の 神 に, 忍 び 忍 び に かく 物 を 言 う と 言 っ て な じ っ て い る の が 出 て い る。 此 所 で は 忍 忍 と書 い て あ る の を, しの び しの び と 後 世 よ ん で い る の で あ る が, 此 の 場 合 ひ そ か に の意 で あ る。. 忍は諸橋轍次氏の大漢和辞典を見るに, 漢土に於ける字義は, コラヘル, タエル, ガマ ソス,. ュ ル ス, ツ トメ ル, タ メ ル, オ サ ヘ ル, ム ゴイ, オ モ ヒ ャ リ ナ ツ, 非 義 ラ ア ヘ テ ス ル 等 で あ っ て,. ひそかにするなどの意は本邦での字義である。 そ してその場合 しのぶとよむのである。 この場合ひそかにの意に使われているのであり, 本来の漢士の意味に使われているのでないの だから, 忍の和訓 しのぶを借りて, その意を表 したものである。 字義にひそかにの意 があるなら, 古事記にも, 万葉仮名で書かれ, 使われていた事がたしかなかくれかくれてとよんだのだと言う べ き か も しれ な い が。. 忍は記紀に個有名詞に使われている。 孝安天皇が姪の忍鹿比売の命と結婚 し給うたと古事記に あるのを, 書紀では押媛となっている. 押媛にはオシ ヒメと傍訓があり, 叉古事記歌謡に, お し. てるやなどと言う枕言葉が使われているので, 押し=おしと言う言葉が, 古事記歌 謡の頃あっ た と思われるので, 忍はオシと古事記編集の頃言われていたのであろう。 名と言うものはそう変る も の で は な い の だ か ら, か な り 古 く か ら かも しれ ぬ。. しかし忍が和訓でオシと言われるのは個有名詞にかぎられていると思われる。 他の動詞の場合オシテなどとよんだのでは, 意味がよく通らず, 用例も無い。. しのぶとょむと, その用例が万葉集にある. しのぶの万葉仮名が最初に書かれているのは, 万葉集巻十七に, 天平十八年大伴家持が越中守 に任ぜられて赴任 したについて, 平群氏の女郎が家特に贈っ た歌の中の一首に, 万世と 心は解 けて わが背子が 指 (つ) み し手見つつ 志乃備加禰都母 (忍びかねつも) と言うのがあるそ 0 国歌大観番号) れである. (394 此れは日本古典文学大系の注には, 万代までとお互の心は解けて, わが背子がつねった手を見 て, 思 い に た え か ね ま した と あ り, た え か ね る意 で あ る.. 志乃 備程はっ きり した書き方では無いが, 同じく万葉集巻十六の竹取の翁の歌にも, 忍ぶ がで. て い る。. - 71 一.

(14) . 古代の地名 について. その歌は長歌であっ て, 九人の女子に昔は若く幸で あっ た自分 が 今は老いてこんなになっ たと. よんだのであっ て, その中に, うち日さす 宮 女 さす竹の 舎人壮士も 忍経等氷 (しのぶら ひ) かへらひみつつ 誰が子そとや 思はえてある と言う部分がある.. 此れを日本古典大系の注は, 宮仕えの女達も舎人の男も, 私をひそかに顧みて, あれはどこの 人だろうなどと私は 思われていたものだとしている. (3791 国歌大観番号) 此れは忍のあとが. 経であるから, 忍はシノであろう. 此はひそかにの意であるから, 国ゆずりの章の忍々と同じ意 味 で あ る.. 72) 等に忍と書き, しのぶとよむべきものがある. 外にも万葉集に, 巻六 (965) , 巻三 (4 要するにかなり古くより, ひそかにの意の しのぶの言葉があっ たと言えよう. 此れに しのぶの語源を考えるに, 万葉集第三の 近江の海 夕浪千鳥 汝が鳴けば 心も しの. こしヘ念を まゆ (266) のしのには, 武田祐吉氏の万葉集全釈には心も萎え萎えと. 心いた いマ く. 慣用句であると してあるが, そうだとすると, しのぶを しのの状態になる事だとすれば,′b. に. が萎える事になる. 日本古典文学大系のこの歌の補註には, 最近迄 しなゆの約が しぬだと考えられていたが, しぬ に で な く しの に と よ む べ き 事 が 明 ら か に な っ た の で,. しな ゆ で は 都 合 が 悪 い, と どろ に な どと 同. じ擬態語だろうと している.. 大日本国語辞典では, 万葉集のこの歌は, しぬにと してあるが, 別に しのにの語も収められて. い て,. しぬに の 転 と し し, しぬ に と 同 じ意 味 に し, 心 が 萎 え な え と して い る 意 に して い る.. 萎えに連る意味で解釈出来, かつ しなび, しなえの語幹に或いは しなえの約 しぬに近い音なの であるから, やはり萎えに関連ある語とみてよいのではあるまいか. 殊に巻十九. 夜 ぐたちに. 寝覚めて. 居れば 川瀬尋め. 情も之奴 (しぬ) 爾 {之努 (しの). 爾とある本もあり} 鳴く千鳥かも. の如く しぬにであっ たのかも しれぬのもあるのだから. それは叉死ぬに連なるのではあるまいか. それは生命力を失い, しなびちぢんでいるのを耐えしのんでいると解 し, 更にひそんでいると. 解 した の で あ ろ う.. 叉 死 ん だ 様 に な っ て い る の を 耐 え しの ん でい る と 解 し, 更 に ひ そ ん でい る と. 解 した の であ ろ う.. 萎ぬ, 死ぬは, 特に死ぬは基本的な生活用語丈に原始時代からあっ た言葉と思われる. それを忍ぶ意に使っ たのも古くからであっ たろう.. その忍ぶは原義よりする時, 死んで動かぬから目立たぬ. 小さくな っているから目立たぬと言 う意味である.. 叉動かず小さくなりなえているのは, 耐えている事であるから, その様な意味を持っに至っ た. の であ ろ う.. 段々に身をかく し, 人に知られぬ様に事をはこぶ意になって行っ たのだと思われる. 更 に 考 え て 見 る と,. しの ぶ を 忍 ぶ, 身 を か く す 意 に つ か っ た の は 古 く か ら で あ っ た ろ う と 言 い. ながら, それはかくれるの様にずばりと視覚的に表現 したものでは無い。 一 つのたとえであり, 連想作用によって作られた言葉である. それはやはりかくれるよりやや精神の発達を見た段階で 使われはじめたのであろう. かくるが即目的であるに対し, しのぶはかくるに比べしのぶ人の姿, 心理が考えられている, それは耐えているのであり, 死んだ様なのだと反省されている点で, 対目的な言葉である. かくるがごく自然なのに対 し, しのぶは人や社会を意識 している.. - 72 -.

(15) . 栗. 原. 薫. それは社会構成がより複雑となり, つまり縄紋土器時代より踊生式土器時代にすすみ, 人はは るかに大きな集団生活をする様になった事が反映して居り, 更に社会に利益社会的な結合の仕方 が次第にされはじめた事を示している.. 奈良時代には偲ひと忍びは別の言葉であり, 偲の方が多く使われていて用例も多い. 偲ひの方. なら古事記歌謡にも出ている. もっとも別の言葉でなかったかも知れぬ. 天皇がおなくなりになった時たてまつる詳言は偲びであろうか, 忍びであろうか.. 日 本書 紀 の傍 訓 は しの び ごと に な っ て い る が, 此 れ は平 安 時 代 に 入 っ て よ り の よ み 方 で あ っ て,. その頃には忍びも偲ひもー しょになって同じく しのびと言われていたので, 傍訓で判断はできぬ.. 続日本紀天平神護二年春正月甲子, 藤原永手朝臣に右大臣の官を授け給う宣命に, 天皇が鎌足 や不比等に賜 った志乃比己止と言うのがあり, しのびごとは天皇から死んだ臣下に賜っ た事もあ る訳である. この志乃比 は比は甲類だが, 乃は乙類で調和 して居無い. 叉万葉集巻二十の, 天平勝宝七歳乙未二月, 相替りて之紫に遣はさるる諸国の防人等の歌の中. にふくまれる昔年の防人の歌の一つに. 家の妹ろ 吾を之乃布らしと言うのがあり, この之乃布 の乃も乙類であって, 此所の意味は明らかに偲ぶなのに, したがって甲類で無ければならないの にそうでない事がある. 他の例は皆偲ふは甲類である. 日本古典文学大系は説としているが, さ きの宣命と比べて見ると, 偲, 忍の別が無くなり, 甲乙類の別が行なわれなくなりはじめた事の あ ら わ れ で は あ る ま い か.. 先にあげた万葉集巻十六の竹取 翁の歌も, 忍経の経はふであり, その意味を偲ふの方にとって 賞美しての意にとっ ても意 味が分 る. いや分りよいのであるから, 或いは忍を偲の意にも使う様 に叉は使える様になっていたのでもあろぅか. その為には或いは発音の仕方も似たものになって い た の か も しれ ぬ.. 或いは万葉集巻十七の歌の志乃備が例外的なので, はじめから偲と忍は, 平安時代以後と同じ く, 同じ言葉だったのかも しれぬ. そうだったとしても忍ぶと言う言葉があった事についての意味は変 らない. (人 を しの ぶ の は ひ そ や かに す る,. つ ま り 心の中でするから両方の意がむすびついた事にでも. なろうか.). 後世 しのぶは耐える, ひそむの意に使われる事が多くなり, 遂には隠密をする事を指す様にな. り, しの び は 隠 密 の 事 に な っ た .. さて陸奥国信夫郡は続日本紀養老二年初出であるが, 旧事記には, 久麻直が信夫国造になった. と して 居 る。. 久麻は辺地 の意であり, 叉神の意に使われる事もある. 信夫は夫がぶであるから, 偲, 忍に分けて考えると, 忍の方である. 偲の方はひが清み, 忍は. 濁 っ て い る.. す る と 耐 え て い る. 叉 ひ そ ん で い る の意 に な る .. 先のしのびごとに ついて更に考えて見ると, 故人を偲んで言う事の意ともなるが 悲しみを耐 , えしのびながら言う言葉 の意にもとれる . 私は後者 の方がよいのでは無いかと思う.. (欽明陵の近く の鬼のまないたなどという大きな石の造作物 は或いはその様な言葉をのべ た 所. かも しれぬ. ). 信夫郡の信夫は, 恐らく辺地で, 目立たずひそんでいて, 或いは死者に しのび言など伝える国 一 73 -.

(16) . 古代の地名について. の意で, されば久麻直がいたのでもあろう. 奥羽山脈を越 えて, 置賜郡がある. 置賜は奥魂で あろう. 信夫の更に奥 なので魂つまり神の国と してそう言われたのであろ う.. 叉置賜郡と信夫郡との間に会津の耶馬郡 がある. 耶馬は山であろう. 山には墓の意があるが, 更に 人間の外の世界, 文明世界の外の世界の意味. が あ る.. (峯はみねたてまつる, つまり死者を とむらい声をあげる所の意と思われる. ねを根とする意 見 があるが, 峯には山頂の意があり, そこにこの言葉の 特色があるので, したがって語源 と思わ. れるので, 根では都合 が悪いであろう. う. そ して倭建命などが征伐 山頂な ど人をともらう時 しか, 人との交渉が無かったのでもあろ、. されたよからぬ荒ぶる神々がすんでいた.. ,では 山の方も, 止むの延言やまふ=病の語幹であって, 病んだ土地, 人の行くを止むる所の意 あるまいか. 病むも人生が止む, とどまるものとかんがえられていたのであろう. ) 九州五島にみねらくの地名がある. 隣り合せの三郡 が相応 じた名になっているのは面白い.. ,見る時, 信夫郡がまっさ きに置かれ, その時, 置賜や耶馬が奥魂や山であ ったのであろ 名より う. 後建郡されて夫々の名に なったのであろう. そ う考えても地理的な位置は合 う。. (猶地名 が動詞の終止形なのは, 数は少いが, 賀茂神社の礼の森, 東京の忍 (しのぶ) の岡, ) 不忍 (しのばず) の池等の例がある. ひそかも秘密を意味する言葉である.. ・ ひそかには日本書紀神代巻 に鷲視をヒソカニウカガフと傍訓をふっているものなどがあ る が, 万葉集には見えず, 日 本霊異記注など平安時代に入っての文献に見えはじめている. (日本書紀 傍訓は平安以後である.) み そ か も 同 様 で,あ る.. ひそか, みそかは三十日の意でつ ごもりの意である. つ ごも り は月 が 無 く,. る. 闇く て よ く 分 ら ぬ か ら, . ひ そ む に な る の で あ′. 此れは一月が三十日ある暦法 がは入っ て来て出来上っ た, 言葉であるに異いない が, 其れが平. 安時代以後になったのは, 当時秘密についての新たな意識が発達 した為であろう. 其所には律令社会の複雑な構造・組織 が反映している.. ′視覚的である. 歴史時代に入るや, かくれるには, 原始時代の単純な生活 が反映し, 具体的・ かくれるは ,絶対的・宗教的な意味をも持つ事となった. それと共に人間の結 び つきが複雑になり, 人目を しのんで事を行なわねばならぬ事も出てきて, しのぶの言葉 が出てきた. 人目をしのぶ事. は苦痛であって, それは死んでいる様に萎えている様に 思われた. 更に人間の組織 が大きくな り, 複雑かつ有 機的となり, 律令の制となった. それは明文たる律令を, 命令, 報告を一々文書です る事によってよっ て実際に運営 したのであって, 秘密はかえって氏姓時代より少くなっ たかもし れぬ. しかし氏族制度の崩解 が進み, 辺境の開発が海と寒冷な気候にはばまれて (海は南海の事 を言っ たので あるが, 西南諸島の隆起珊瑚礁に覆われたカルスト地形が阻止の原因になったのか. も しれぬ. 其所では水 が地下に しみ込み, 地表に残らぬので農業 ができない.) 領域の拡大が停る と, 理想主義や合理的精神を維持してきた母胎が失われ, 律令時代は崩解期には入った. しかし 1- 一 74.

(17) . 粟. ’原. 薫. 氏姓時代にかえっ たのではなくて, 理想の追求は, 個人的利益 の追求になり, 合理的精神は 個 , 人の利益に役立 つ丈のものとなった.. 其所にはなお律令制が厳存し, その裏をく ぐって私利が追求さ れた. 今昔物語巻二九に, 日向守に任ぜられ, 不正に富を得た後, 任期がはてて京に帰るのに, 書記 に偽文書を作らしめ, その後書記を殺 して, うまく不正をかく した男の話が出ている . かかる事は, 律令の組織制の下での不正である. あたかも暦に三十日あり, その中に月の出ぬ. 日がある様な組織性があるのである。 この男もみそかに, ひそかに不正行為をやっ た訳だが, 律令があるから文書を規定通り一 式作 りつぢつまを合わされ〆 ばならぬ. それは整備され矛盾があってはならぬ. それはみそ かの晩を 待ってやらね ばな らぬ. みそかの晩を待つ様なやり方でないとうまくゆ かぬ。 当時, 抽象・合理の精神がおとろえて しまって世が混乱 したのでは無 い. 律令体制の崩解にともない, 秘密が多くなって行ったであろう. 其れはみそか, それの転じたひそかの言葉でよばれたのである。 ひそかは不正にともなう言葉でもあったが, 叉その様な時代を切り 開いて行く諸努力 にともな. う言葉ともなっ た.. 嵯峨天皇が蔵人所に各省有能の人を現職のまま集め, 情報を集め, 意志を伝えられ たのは や , がて ,公卿のまねる所となり, 院には院司が出来, その制ににたものがひろが って行っ たのは, 封 建制へとつづくと見るべ きであろうが, それらはひそかな関係, ひそか な場所だっ たのである . 検非違使も三職を兼ね, 似た意味を持っ た.. 一 75 一.

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参照

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