敗戦直後の港湾状況と行政の対応
敗戦直後の港湾状況と行政の対応
敗戦直後の港湾状況と行政の対応
敗戦直後の港湾状況と行政の対応
香川正俊(熊本学園大学) 目 次 はじめに 1. 太平洋戦争による国富及び船舶、港湾の被害状況 (1)国富の被害状況 (2)船舶及び港湾の被害状況 2. 民間貿易の再開と港湾の復旧状況 (1)海運の復興と民間貿易の再開 (2)港湾の復旧状況と貨物取扱量の増加 (3) 港湾施設の接収 3. 港湾運送事業の重要性 (1) 戦時荷役力増強方策の継続 (2)「一港一社制」の廃止と港湾運送事業者の乱立 4. 運 輸 省 設 置 法 の 制 定と 新 運 輸 省 の 発 足 ―― ―海 事 関 係 機 構 を 中 心に (1) 運輸省の組織と人員整理 (2)港湾行政機構の分割 おわりに はじめに はじめに はじめに はじめに 連合軍総司令部による統制の下、食糧生産や都市部の戦災復旧事業を重視する施策に重 点が置かれたため、敗戦直後における港湾復旧・整備に要する投資は極力抑制された。し かし昭和 22 年、鉄鋼、石炭関連の基幹産業に資材と資金を重点的に投入し、産業全体の拡 大を図る「傾斜生産方式」が導入されると、生産基礎資材の輸送確保が重要課題として捉 えられ、昭和 25 年の朝鮮戦争勃発を契機とする「朝鮮特需」が日本経済の復興と発展に繋 がっていく。これに伴って港湾取扱貨物量は順調に増加し、次第に港湾整備と港湾行政に 関する諸制度の確立要請が強まるのである。 本稿では、敗戦直後の港湾復旧と港湾荷役力増強方策を検討すると共に、その過程にお いて生じた海事・港湾行政機構に係る問題を考察したいと思う。
1 1 1 1.... 太平洋太平洋太平洋太平洋戦争による国富及び船舶、港湾の被害状況戦争による国富及び船舶、港湾の被害状況戦争による国富及び船舶、港湾の被害状況戦争による国富及び船舶、港湾の被害状況 (1)(1)(1)(1)国富の被害状況国富の被害状況国富の被害状況国富の被害状況 昭和 24 年4月に発表された経済安定本部総裁官房企画部調査課の調査 1) によれば、太平 洋戦争によるわが国の人的被害は総計 253.3 万人(内訳は死亡 185.5 万人、負傷・行方不 明 67.8 万人)に上り、昭和 23 年8月1日現在の東京都民総数の約 50%に相当 2) する。ま た、満州・南方諸地域及び中国各地の占領地を除き、ポツダム宣言受諾に伴い喪失した総 面積は 30 万平方メ-トルと旧領土の 45%に縮小、産業面でも鉱工業生産の激減等をはじめ 国力は著しく低下した。 国富の被害額(昭和 20 年8月 15 日現在価格)は 653 億円で、うち直接被害(空襲、艦 砲射撃、機雷等による直接的な被害)は 497 億円、間接被害(戦争のため維持・修繕が平 時通りに行われず減価したもの及び屑化、疎開等)も 156 億円に上り、私有財産が官公有 財産の約6倍に達している。とりわけ直接・間接被害とも総額の 30%以上を占める建築物 が 222.2 億円、所蔵財貨 174.9 億円、工業機械器具は 79.9 億円に及び、国富全体の被害率 は平時における資産総額の 25%、工業生産設備能力の被害率は石油精製の 58%を最高に機 械工業 55.7%、化学工業 54.1%、繊維工業 42.4%となり、それ等の能力は軒並み激減する に至った。資産的国富被害を分類すれば生産財 31%、消費財 54%、交通財 15%である。そ の結果、残存した国内資産的国富の価格は昭和 10 年当時の 1,868 億円とほぼ同額の 1,889 億円にまで下がる等、同年以降に増加した資産的国富相当分が被害を被ったのである。 (2) (2)(2) (2)船舶及び港湾の被害状況船舶及び港湾の被害状況船舶及び港湾の被害状況船舶及び港湾の被害状況 交通財の中でも船舶の被害は甚大で、被害率 80.6%と壊滅的な損害を被った。うち直接 的被害の 80.2%は一般汽船であり、私有汽船の直接被害総計は 3,207 隻(7,902 万 GT)、 被害額は 53.51 億円に上る。次 いで近海にお ける索敵・巡視 活動に動員さ れた漁船の直 接被害が総額 の 0.9%を占め る。以下、機帆
船 0.5%、艀船 0.2%と続くが、一般汽船等に比べ機帆船や艀船の被害が僅少な要因は、港 湾被害がそれ程大きくなかったことと無関係ではない。戦地における一般船舶や軍用船舶 の壊滅的打撃により、港湾に対する爆撃等の必要性が微少であったからである。一方、全 船舶の間接被害総額は 7.95 億円で、準間接被害額を加えても 9.4 億円に止まる。間接被害 等の主な原因は補修不足に起因しており、総額の約 50%を占めている。 港湾被害の概要は表-2 に示す通りである。直接被害額は 1,709 万円で、間接被害に比べ 被害総額の 14.3%と少額に止まった。官公私有別にみれば、被害を受けた施設は官有(国 有)が大半で 70.1%、公有が 10.5%、私有 10.4%である。工種別では護岸被害が最も多く 436 万円(うち官有が 254 万円)で総額の約 25%を占め、物揚場 287 万円(すべて官有)、 護岸防舷材 202 万円(同)、護岸防舷材の岸壁 182 万円(同)等となっている。 間接被害は全被害額の 80.7%に当たる 1.15 億円であるが、すべて補修不足に原因があり、 直接・間接を合わせた港湾被害総額は 1.32 億円と国富被害の中でも僅少の部類に入る。 けれども、海 上輸送力の著し い減退と港湾荷 役力の不振は深 刻を極めた。運 輸省が昭和 20 年9月の帝国議 会第 88 回臨時 議会に提出した 資料によれば 「船腹の極度の 減少に依り輸送 力に大なる影響あること固よりなるが……(中略)……加之港灣に於ける荷役は船団入港、 勞務者不足、艀、曳舟、燃料の不足又最近に於ては空爆に因る勞務者の四散等に因り極度 に不振の狀況に在り従つて船舶の碇泊日数延伸の結果を來し輸送数量は減少を重ね來り昭 和十六年度に於ては約四千八百万噸、十七年度は約四千万噸、十八年度は約三千万噸、十 九年度に於ては約一千七百万噸、更に今年度(筆者注:昭和 20 年度)の第一、四半期は三
百万噸に過ぎざる狀況に立至れり而して此の三百万噸を月別に見るに四月百十五万噸、五 月百万噸、六月七十六万噸と著減し來り七月七十九万噸」 3) に過ぎない状況であった。 2. 2. 2. 2. 民間貿易の再開と港湾の復旧状況民間貿易の再開と港湾の復旧状況民間貿易の再開と港湾の復旧状況民間貿易の再開と港湾の復旧状況 (1) (1)(1) (1)海運の復興と民間貿易の再開海運の復興と民間貿易の再開海運の復興と民間貿易の再開海運の復興と民間貿易の再開 占領軍の進駐と相俟って、連合軍最高司令官の指示がなければ全船舶の移動を禁ずると の命令が発せられ、わが国海運は占領軍の直接管理下に置かれた。降伏文書調印当日の昭 和 20 年9月2日、マニラ会談で日本側に手交され、降伏調印式後にサザーランド参謀長名 による指令第1 号として発出された「一般命令」(昭和20 年9月2日、一般命令第1號) である。指令には「日本國ノ又ハ日本國ノ支配スル一切ノ型式ノ海軍艦艇及商船ハ聯合國 最高司令官ノ指示アル迄之ヲ毀損スルコトナク保全シ且移動ヲ企図セサルモノトス」 4) と記 されており、主に軍関係の船舶が対象となる。しかし命令には「商船」も含まれているこ とから、「他に内容上軍以外行政官廰の権限に關聯すると解されるものに、……(中略)… …商船の毀損防止及移動禁止並に積載爆發物處分の義務が生ずる」 5) と判断され、日本政府 は苦しい対応を迫られた。さらに翌3日の指令第 2 号では 100 トン以上の船舶運航を最高 司令官の監督下に置き、アメリカ太平洋艦隊司令官の直接的な指揮・監督を受けるとある。 両指令に加え「総司令部の事前承認がない限り、日本は一切の輸出入をなしえない」とす る 22 日の指令第 3 号によって民間貿易は完全に統制され、港湾荷役作業も在港中の船舶の 揚荷を完了した後は一時ほぼ中断するに至ったのである。 これ等の指令に基づき10月10日、GHQ内に商船管理を任務とする日本商船管理局 (Shipping Control Authority for Japanese Merchant Marine : SCAJAP)が置かれた。11 月9日にはGHQから日本政府宛て「日本船舶に對する日本水域航行の總括的認可に關 する覺書」(SCAJAP 1945年12月10日)が発せられ、日本商船管理局の指揮・監 督を承ける機関として船主・代理業者及び荷役業者にタ-ミナル・オペレ-タ-並びに 貿易庁等を加えて構成する民間商船委員会(Civil Merchant Marine Committee:CMMC) の設置指令がなされる。 ところが日本政府は、戦時中に設立された船舶運営会の活用(昭和 20 年 11 月 17 日、終 戦連絡中央事務局覚書 CLO 第 615 號)に固執し、日本商船管理局との間で民間商船委員会 の組織構成及び運営方法をめぐる混乱が生じた。しかし結局、援助輸入物資や占領軍関係 物資に係る迅速な輸送の緊急性から「船舶管理に関する日本側の実施機関を至急設ける必 要があった」 6) ため、GHQ は 11 月 23 日の覚書において日本側の案を暫定的に承認、その後、
昭和 21 年1月 11 日の覚書で船舶運営会による民間商船委員会の運営を正式に認めたので ある。また昭和 21 年9月1日、特定区域を除く東京湾内での 100 トン以下の船舶航行が可 能となり、12 月 10 日以降、日本水域内に限り、日本商船管理局の個別承認を受けずに航行 する総括的権限を付与されている。 船舶運営会は昭和 17 年制定の「戦時海運管理令」(昭和 17 年 5 月 15 日、勅令第 504 號) に基づき、国が強制徴発した船舶全部を一元的に運営してきた戦時統制団体である。「国 家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」(昭和 20 年法律第 44 号)の公布により、国家総 動員法は昭和 20 年 12 月 20 日をもって廃止され、同法を根拠とする「戦時海運管理令」も 消滅が予定されたため、船舶運営会は解散するのが当然である。にもかかわらず GHQ が同 会を存続させた理由は、民間商船委員会の担当業務と船舶運営会の業務が類似しており、 即応的価値が高かったことにある。運輸省の担当者は「日本政府は船舶運營會を以て CMMC と看做されんことを要請したが、この要請が容れられた。依つて『ポツダム宣言受諾に伴 い發する命令』を根據法規として、國家總動員法の廢止に不拘戰時海運管理令のみはその 効力を持續し、船舶運營會は存續することとなった」 7) と述べている。 一般国民の最低生活維持のため絶対に必要な輸入と、輸入代金支払いに不可欠な商品輸 出に限定する GHQ の対日本貿易並び船舶管理・統制政策は、深まる「東西冷戦」や民族解 放運動の高揚、とりわけ昭和 23 年前後からの中国・国共内戦における中国共産党の圧倒的 勝利と朝鮮情勢の緊迫等、急激な国際情勢の変化を受けたアメリカの初期対日政策が変更 される過程で見直されることになる。GHQ は日本経済の早急な自立化を図るため、昭和 23 年半ば頃から外洋航路に就航する日本船舶の漸次増加を許容する施策を採った。外務省政 務局は、昭和 23 年7月 29 日付けの極東海軍覚書と同年8月6日付けの GHQ「ペルシャ灣及 びサウディ・アラビアからの燃料油積取のための日本油槽船の使用に關する總司令部覚書」 8) に基づくペルシャ湾及びサウジアラビアへの油槽船就航許可に対し、「極東以外であり、 しかも相当多量の船腹が継続的に動員された点において、終戦後日本海運に対して執られ た画期的措置の一つ」 9) と評価し、早急な貿易・海運業の復活を予見するに至る。ちなみに 制限付き民間貿易の再開は昭和 22 年8月 15 日のことであり、昭和 23 年 12 月の「経済安 定九原則」発表後には民間貿易の拡大が認められ、翌年には「民間貿易の輸出高が総輸出 高の 90%を上回る」 10) まで発展した。
こうした経緯を経て GHQ は昭和 25 年3月3日、わが国海運を全面的に民間自営体制に復 帰させる覚書を発すると共に、船舶運営会の一元的運航統制下にあった全船舶を4月1日 以降船主に返還し、貿易に従事する船舶を船主の自主的運航に委ねるのである。 (2) (2)(2) (2)港湾の復旧状況と貨物取扱量の増加港湾の復旧状況と貨物取扱量の増加港湾の復旧状況と貨物取扱量の増加港湾の復旧状況と貨物取扱量の増加 昭和 24 年5月1日現在の港湾数は、国家的に枢要として選定され、国が管理して地方公 共団体に共助させる第一種重要港湾が6港、第一種重要港湾に次いで国家的に枢要かつ地 方公共団体が管理し、国が助成する第二種重要港湾及び重要港湾に準じる港湾が 41、重要 港湾以外の港湾であって地方的に枢要かつ地方公共団体が管理し、国が助成する指定港湾 515、各都道府県が条例に基づいて国庫補助を受けずに修築・管理する県費支弁港湾と市町 村支弁港湾に分類される「その他の港湾」2,545 の合計 3,107 港湾であった。うち関税行政 の面から外国船の出入及び貿易を許可された開港は昭和 24 年3月1日現在 59 港となって いる。 海事年鑑 11) によれば、戦前の港湾施設能力は年間2億 3,500 万トン程度と推定された。 しかし、戦災による施設の破壊及び戦時中の維持・補修放置に起因して航路や泊地が埋没 または施設の不朽 が進んだため、岸 壁防波堤等の基本 施設の多くが戦災 を免れたものの、 雑貨施設に係わる 損 耗 率 は 約6 0 % 、 荷捌施設の場合は 37%に上った。けれども港湾復旧工事の進捗により、昭和23年度までに雑貨施設の9%、 荷捌施設の 7%程度が修復され、戦前に比べ昭和 24 年度には雑貨施設が 51%、荷捌施設 30% の消耗率に回復し、港湾施設の能力は約1億 2,100 万トン程度にまで戻ると推測されてい る。 ところが横浜・神戸両港をはじめ主要港の主な施設が占領軍の専用として接収されてお り、実際に使用可能な施設能力は1億 1,000 万トン程度に低下すると考えられた。重要品 目の取扱貨物別損耗率と能力回復率を表―3 に示す。
戦災による港湾施設の破壊と主要港における連合国軍の接収は、わが国の港湾貨物取扱能 力を大幅に低下させた。しかも敗戦直後の港湾整備は他の公共事業と同じく戦災復旧事業 が中心で、占領政策の一環として GHQ から海上輸送の制限を命じられた経緯もあり、新た な港湾施設整備への投資額は僅少であった。加えて港湾労働者の散逸等のため港湾荷役力 は著しく減少し、占領政策に悪影響を及ぼすだけでなく海上輸送力にも支障をきたす状況 に置かれていた。そのため運輸省は国内人口、主要物資の生産計画及び海上輸送計画等を 勘案して全国港湾取扱量を推定、各港の取扱目標を定め、昭和 24 年初頭に連合軍総司令部
民間運輸局(Civil Transportation Section :CTS)の指導を受けて「港湾復旧五カ年計
画」(昭和 24 年度~昭和 28 年度)を策定するのである。 同計画は①昭和 28 年の港湾貨物取扱量の目標を 2 億 6,350 万トンとする、②経済基盤 充実のため、昭和 22 年に採用された傾斜生産方式に対応して、基礎生産財に関する原材料 (特に鉄鉱石、石炭等)や、これ等の製品輸送の円滑化を図ると共に、民生安定の根幹 となる食糧等の生活必需品の増加に対応した港湾整備を行う、③経済安定のため外国貿 易に依存せざるを得ない状況にあり、特に貿易収支の均衡には輸出の振興を図る必要が あるので、外国貿易貨物を取り扱う港湾施設の整備を行うこと 12) 等を目的とし、緊急 を要する工事から漸次事業を進める等を骨子とする。同計画に基づき運輸省は、戦災や 戦時中の放置による港湾能力の低下を回復する戦災復旧事業や航路・泊地の障害物除去 及び浚渫に重点を置いた従来の工事を続行し、経済安定と貿易収支の均衡を図る外国貿 易及び重要物資等の輸送に不可欠な防波堤・岸壁・物揚場・護岸・荷役機械・上屋等、 港湾施設の能力増強工事を優先して施工した。港湾修築工事予算額は昭和21年度1億 7,359万円、昭和22年度5億3,332万円、昭和23年度3億3,391万円、昭和24年度 3億7,964万円と推移するが、昭和23年度以降、予算配分の重点を戦災復興から徐々 に社会資本の整備に移した結果、港湾の整備は急速に進捗していくのである。 経済復興と港湾整備の進展に伴い、全国港湾の貨物取扱量も徐々に増加している。昭 和5年に1億3,000万トンであった港湾貨物取扱量は、敗戦時の昭和20年に4,300万 トンに激減したが、生産力の漸増と経済復興で昭和23年には1億2,600万トン、昭和 28年では昭和14年の約2億7,000万トン(外国貿易4,075万トン、内国貿易2億3,082 万トン)に匹敵する2億6,300万トンにまで回復すると予想 13) された。 港湾貨物取扱量は、経済の自立と安定を目的に輸出の振興、インフレ、国内消費抑制等 を中心とする財政金融引き締め政策を実施した昭和 24 年のドッチラインに起因する極度の
景気の落込みを承け一時的に停滞したものの、港湾施設能力(昭和 23 年度実績は外国貿易 1,000 万トン、内国貿易 4,491 万トン)を超えており、港湾施設の整備と相俟って港湾荷役 力増強が喫緊の課題であると考えられた。とりわけ昭和 25 年6月の朝鮮戦争勃発は特需ブ ームを惹起し、企業投資が活発化したため、昭和 26 年には外貿・内貿ともに港湾取扱貨物 量が著増し、特に外貿貨物が急速に拡大するのである。 ( ( ( (3333)港湾)港湾施設)港湾)港湾施設施設施設の接収の接収の接収の接収 但し、港湾施設の大部分を接収された横浜・神戸・東京港において一部施設の返還が行 われた半面、門司・博多・佐世保港では主要施設の大半が占領軍の接収対象になる等、港 湾荷役力増強を妨げた。昭和 26 年における全国の接収状況は、近代的施設を中心に接岸施 設2万 6,090 メ-トル(うち4,341 メ-トルが占領軍優先使用分)、倉庫・上屋面積 50 万 1,399 平方メ-トル(うち3万 305 平方メ-トルが占領軍優先使用分)、用地、繋船浮標等 となっており、接収施設の全施設に対する割合は接岸施設が 24%、倉庫・上屋 85%で、横 浜港ほか8大主要港湾の場合は接岸施設の 50%、倉庫・上屋 12.5%に及ぶ。そのため、接 収及び被災等による港湾荷役能力は戦前に比べ全国平均で 50%、主要港湾で 35% 14) にまで 低下している。昭和 26 年度における横浜港ほか八大港の主要港湾荷役量は「軍作業量を除 外しても 3,600 万屯余(汽船荷役に限る)が見込まれるにもかかわらず、これら港 灣の近 代的な優秀施設の大半は連合軍によって接収せられ、その解除は当分望みえない事情にあ り、戦災その他の原因により現在は、汽船荷役能力 2,624 万屯(接岸能力 920 万屯・艀荷 役能力 1,704 万屯)に低下し、これは戦前……(中略)……に比しその 35%に過ぎない現 状」 15) であったといわれる。 運輸省は「朝鮮動乱及びこれを契機とする国際情勢の変化に伴い、内外貨物輸送量は急 激に増加し、更に特需関係 要 貨物輸送量は増嵩の一途を辿る推移に鑑み、政府は…… (中略)……懸 命 の 努 力を 払 い つ ゝ あ る が 、主 要港 灣の 荷 役 力 の 極 端 な 不足 は こ の 重 要 施 策 に 重 大 な 障 害 を与 えつ ゝ あ る 」 と す る 荷役 力増 強 対 策 に 関 す る 閣議 決定 「 主 要 港 灣 荷 役 力 の 緊 急 増 強 につ いて 」( 昭 和26年3月2日 )を 受 け 、GHQ 宛て「 連 合 軍 占 使 用 中 の 港 灣施 設 の 日 本 側 使 用に つ い て 」(昭和 26 年 3 月 29 日、運輸省)を 提 出 し 、占 使 用 施 設 の 一 部 解 放 を 求 めた 。け れ ど も 4 月28日 の 回答 書「 占 領 軍 が 専 用 し てい る 港 灣施 設 の 解 除 に つ い て 」 に おい て解 放 は 不 可 能 と の 通告 があ り 、 上 述 の 閣 議 決定 に基 づ く 対 策 を 是 が 非 で も 緊 急 に 実施 すべ く 同 省 は 、 「 こ れ等 の実 施 に 伴 う 資 金 に つい ては 対 日 援 助 見
返 資 金 よ り の 融 資 等、 適宜 の 措 置 を 講 ぜ ら れた い」 と す る 「 主 要 港 灣荷 役力 の 緊 急 増 強 に 關す る 件 」 (昭和 26 年5月 23 日、運輸省) 16) を再提出している。 この間、昭和 25 年5月に公布された港湾法に基づき、港湾整備の主体や整備に係る費 用負担割合が明記され、地方自治を基調とする港湾修築・管理体制が整えられていった。 3. 3. 3. 3. 港湾運送事業の重要性港湾運送事業の重要性港湾運送事業の重要性港湾運送事業の重要性 (1 (1(1 (1)))) 戦時荷役力増強方策の継続戦時荷役力増強方策の継続戦時荷役力増強方策の継続戦時荷役力増強方策の継続 戦時中、海上輸送力の逼迫に伴い、荷役時間を極力短縮して船舶の稼働率を引き上げる ため、港湾荷役力増強が重視され国策にまで高められたが、昭和 16 年9月の「港灣運送業 等統制令」(昭和 16 年 9 月 17 日、勅令第 860 號)は、非能率な港湾荷役形態をとるわが 国の港湾運送事業にとって画期的な契機となった。同令の施行で、全国約 7,600 の零細事 業者と封建的な労働ボスの支配下で営まれていた港湾荷役企業体 17) を、総揚制の実施に対 応すべく「一港一社制」を掲げて約 80 の港運会社に統合し、海運会社や倉庫業者の従属的 地位から資力ある独立企業体に高め、荷役力を一躍強化した経緯がある。昭和 20 年9月の 港湾荷役実績が責任量の 29%程度に過ぎない事態の中、政府は戦時中の経験を戦後におけ る港湾荷役作業の合理的経営体の形成及び作業の能率化に活かそうと考えたのである。 海上輸送力復興の一環として荷役力増強対策が講じられた結果、港湾荷役力は徐々に回 復してはいたが、日本商船の移動を禁止する昭和 20 年9月 2 日の「一般命令」が解除とな り、海上輸送も徐々に復活する一方で港湾荷役力は軍隊の応援が途絶え、港湾労働者の散 逸も加わり、荷動きに対応できない状況に陥っていた。港湾荷役力不足による海上輸送力 の低下は敗戦処理の円滑な遂行にも影響を与えたため、連合軍当局も重大な関心を寄せ、 昭和 20 年9月末、連合軍最高司令部覚書「日本非戦闘用船舶の利用」(昭和 20 年9月 28 日)を発するに至る。日本進駐当初、GHQ は港運会社のあり方に係わる政策を有しておらず、 日本政府と同じく港湾運送業等統制令に基づき、統合された港運会社を活用して港湾荷役 力を確保しようとした。 政府は上述の覚書に沿って港湾荷役力の確保・向上を進めるべく、港湾運送業者に対す る1日 24 時間・1週7日間作業を命じる権限を運輸大臣に付与し、事業設備の新設・拡張・ 譲渡・譲受・賃借または使用方法の改善に関する必要な命令を発すると共に、厚生大臣あ るいは地方長官が港湾運送業者に対する賃金その他の労働条件に係る命令権限を持つ「港 灣荷役力及船舶等造修能力ノ確保昻上ニ關スル件」(昭和 20 年 10 月 12 日付、厚生省・運 輸省令第1號)を発布した。同省令に基づき昭和 20 年 10 月 12 日、運輸大臣は東京港運を
はじめ 41 の港運会社に対して荷役責任量を定めた作業命令を発令、11 月には宇部港運ほか 10 社が追加指定された。ちなみに作業命令の有効期限は昭和 20 年 12 月末までであり、昭 和 21 年1月以降は作業命令の形式を採らず、適宜必要な行政措置を講ずる方式に転換して いる。 こうして敗戦直後の荷役力の弱化を乗り切り、各港とも漸次荷役力を回復していくが、 昭和 21 年3月、連合軍の救済物資として横浜・神戸・名古屋・横須賀・清水・小樽等に連 合軍商船が入港し、食糧等の輸入が開始されると、荷役作業の一層円滑な遂行が求められ た。同年7月、政府は「食糧輸入外國船の荷役力増強について」(昭和 21 年7月 25 日付、 次官会議決定)を基礎に 24 時間荷役体制の実施と上屋・物揚場・荷役機械等の緊急修理及 び近接港からの労働者・艀船等の応援、配船の一港集中回避等を包含する措置要領を定め 具体的施策に着手した。とりわけ横浜港には最多の船舶が集中するため現場機関として「横 濱輸入食料輸送對策本部」を設置し、神奈川県知事を本部長として関東海運局長と関東貿 易事務局長を次長に置き、関係各庁と関係民間諸団体が総力を挙げて作業完遂に尽力した 結果、荷役作業はほぼ完了するに至るのである。 ( ( ( (2222))「一港一社制」の廃止と港湾運送事業))「一港一社制」の廃止と港湾運送事業者「一港一社制」の廃止と港湾運送事業「一港一社制」の廃止と港湾運送事業者者の乱立者の乱立の乱立の乱立 敗戦直後の港湾荷役力回復策は港湾運送業等統制令に依拠して行われた場合が多く、特 に「一港一社制」は荷役作業の能率化のみならず、港湾労働者に対する福利厚生の充実に も効果を発揮した。けれども、過度経済力の集中排除のための諸改革の一環として戦時統 制諸法令並びに統制団体の廃止・解散が進められる中で、GHQ は「一港一社制」の根拠とな る港湾運送業等統制令を昭和 21 年9月末で失効させると共に、昭和 22 年3月8日に発令・ 施行された「閉鎖機関令」(ポツダム緊急勅令第 74 號)に基づき同年9月 16 日、横浜港 の京浜運輸株式会社を閉鎖機関に指定、覚書を発して解体に着手したのである。引き続き、 艀船運送を除く船舶荷役及び沿岸荷役会社に対するボス組織を排除した新組織の編成を示 唆する GHQ の覚書「港運會社等の規制の件」(昭和 23 年4月 12 日、連合軍最高司令部経 済科学局、運輸省宛)に沿って昭和 23 年4月、6大港の 13 業者が業務規制を、12 月には うち7社が閉鎖機関の指定を受けた。さらに昭和 24 年1月、運輸省に対する GHQ 民間運輸 局の口答指示「制限ステベ會社ニ關スル件」(昭和 24 年1月 12 日、海運総局長宛)によ り、残る6社も解散若しくは再編が指示されている。6大港における一連の措置がほぼ終 了した4月には地方港の港運会社の審査に着手、同年6月には各社の再編計画を承認する に至る。その結果、京浜運輸株式会社を含む全国の港運会社数は昭和 23 年3月 31 日現在、
107 社 18) であったが、昭和 24 年3月末には 429 社 19) まで増えており、戦時において港湾 運送業等統制令に依拠した「一港一社制」が実効性を有する以前、全国の港湾で見られ た零細な港湾運送業者の乱立と酷似した状態が生じるのである。 この間、政府の対応は複雑であった。運輸省海運総局は「港灣運送業ノ運營形態ハ、關 係筋ノ了解ヲ得テ」、「現存ノ港運會社ハ、原則トシテ存續セシムモ、貴官ニ於テ港灣ノ 運營上ソノ存續ヲ不可トスル場合ハ之ヲ分割セシムル」旨の通牒「港灣運送業ノ運營形態 ニ就テ」(海運総局港灣局長通牒、昭和 21 年7月18 日付、海港政第 718 號)を発し、や むを得ない場合は港運会社の解体もあり得るとしながら、帝国議会向け想定問答「港運會 社一港一社制ノ将來方針如何」では「終戰後食糧其ノ他物資ノ需給狀況ノ竝ニ海運情勢ニ 鑑ミマスルトキハ戰時中ニモ増シテ港灣荷役力ノ確保昻上ガ一層強ク要請セラレルトコロ デアリマシテ単ニ戰前ノ無秩序ナル狀況ニ復元スルコトノ不可ナルハ申ス迄モ無イトコロ デアリマス、即チ今後港灣ノ貨物取扱数量ハ……(中略)……戰前ニ比シ相當ノ減少ヲ見 ルモノト予想セラレルトコロテアリマシテ今直チニ戰前ノ小業者濫立ノ狀態ニ立帰ルコト ハ徒ラニ業者ノ自滅自潰ヲ招クノミテ斯業ノ健全ナル發達ヲ図ル所以テハアリマセン、… …(中略)……港灣運送業ノ運營体制ニ就キマシテハ必スシモ一港一社制ト云フ如キ形式 概念ニ執ラワレス各港ノ実情ニ即應シ……(中略)……資本的人的結合ヲ一層緊密ナラシ メル必要」 20) を認めるとあり、「一港一社制」の継続が不可能であれば似通った形態を模 索すべきという姿勢が伺える。 「国家総動員法及戦時緊急措置法廃止法律」を根拠とする港湾運送業等統制令失効後の 状況について四方田運輸事務次官は、昭和 26 年 5 月の第 10 回国会衆議院運輸委員会で「従 来の一港一社の制度の法律的基礎が失われまして、さらに關係方面からの指令に基きまし て……(中略)……二三年七月には大阪、神戸、名古屋、關門のいわゆる六大港における 港運會社並びに船舶荷役會社に対して、いずれも閉鎖機關の命令が下つたわけであります。 そうしてこの結果、港運會社に集約せられておりましたところの荷役機械、勞働者その他 のものが、すべての元の出資者のところに強制的に配分せられて行つたわけであります。 これを契機といたしまして、各港、ことに六大港におきまして続々と零細なる港灣運送業 者が進出して参りまして、最近の数字によりますと、全国で約千五百社、従つて戰争中の 十倍近い港灣運送業者というものが濫立するというような狀態に立ち至つておる次第であ ります。こういう濫立狀態の結果、資本金からいいましても、資本金三百万円以下のもの が約七五%を占めるという狀況であります。はしけも二千五百トン程度のはしけしか持つ
ていないものが全はしけ業者の七十%、勞働者を百人以下しか持つていないものが全業者 の八八%というような、零細なる弱小企業が各港に続出したというのが、戰後における狀 態でございます」 21) と答弁している。 4. 4. 4. 4. 運 輸 省 設 置 法 の 制 定 と運 輸 省 設 置 法 の 制 定 と運 輸 省 設 置 法 の 制 定 と 新運 輸 省 設 置 法 の 制 定 と新新新 運 輸 省運 輸 省 の 発 足運 輸 省運 輸 省の 発 足の 発 足の 発 足 ― ― ― 海 事 関 係 機 構 を 中 心 に― ― ― 海 事 関 係 機 構 を 中 心 に― ― ― 海 事 関 係 機 構 を 中 心 に― ― ― 海 事 関 係 機 構 を 中 心 に (1) (1)(1) (1) 運輸省の組織と人員整理運輸省の組織と人員整理運輸省の組織と人員整理運輸省の組織と人員整理 敗戦に伴う混乱と限られた予算の中で不可欠な港湾修築・復旧事業を進め、荷役能率の 増強を図るには、海運行政と港湾行政の密接な連携が可能な海事行政機構改革の具現化が 必要である。昭和 23 年1月当時の海事関係行政機構についていえば、海軍の後身である第 二復員局の事務のうち、掃海及び船舶の保管事務を所掌する機関として運輸省海運総局に 掃海管船部が設置され、地方においては海運局又は海運支局にも必要に応じて管船部又は 掃海部が置かれた。5月 1 日には燈台局、水路部及び不法入国船監視本部を廃止、これ等 の局・部の事務を主体とする海上保安庁を外局として設置すると共に、地方に海上保安本 部を置いて掃海管船事務を移管している。海上保安庁は長官官房及び保安・水路・燈台の 3局で構成され、運輸省の機構は2総局(鉄道総局・海運総局)・1局(陸運監理局)・ 1外局態勢となった。一方、漁港行政は従来農林省水産局が所管していたが、昭和 23 年7 月の水産庁設置法(昭和 23 年 7 月 1 日、法律第 78 號)に基づき農林省の外局として水産 庁が設置され、同庁漁政部(のち漁港部)で漁港の築造・修理に関する事務を処理するこ とになる。また昭和 23 年4月、外国船舶に対する港湾諸作業の連絡調整に関する事務の迅 速かつ的確な処理を図るため関東(横浜)と神戸に港湾連絡調整部が設けられた。 政府は昭和 24 年6月1日、国家行政組織法(昭和 23 年 7 月 10 日、法律第 120 號)の施 行に伴い運輸省の諸官制を廃止し、基本法としての運輸省設置法(昭和 24 年5月 31 日、 法律第 157 號)を根拠とする運輸省(6局6部3外局)が発足する。同省は総局制の廃止 や局部数の縮減等の機構改革を断行したが、改革は人員削減をはじめとする行政整理と合 わせて行われた。人員整理に関して運輸省は、昭和 24 年6月1日付けをもって3万 2,840 人(一般会計分)中 21%に相当する 6,918 人の整理(国鉄関係は 62 万 3,485 人中 19.3% に当たる 12 万 413 人) 22) を行うとした。昭和 23 年7月の運輸省職員数は港湾局を含む本 省海運総局及び地方海運局・港湾建設部等の地方支分部局(一般会計分)を合わせ 9,001 人(昭和 23 年7月 31 日現在)、本省陸運監理局及び地方鉄道局等(一般会計分)が 2,431 人(昭和 23 年 12 月 25 日現在)、海上保安庁(一般会計分)が 8,147 人(昭和 23 年8月 31 日現在)、気象台(一般会計分)は 6,440 人(昭和 23 年 3 月 31 日現在)であり、現業
を抱える鉄道総局(特別会計分)職員の場合は 61 万 543 人(昭和 23 年3月 31 日現在) 23) で合計 63 万 6,562 人の職員を抱えていた。昭和 24 年3月 31 日時点でも本省 987 人、中央 気象台等の附属機関 7,983 人、海運局や港湾建設部等の地方支分部局を合わせ 1 万 5,665 人、海上保安庁等の外局を含めれば 2 万 3,932 人(いずれも一般会計分)及び地方鉄道局 の 57 万 4,292 人とその他の特別会計職員は 60 万 4,243 人で、合計 62 万 8,175 人 24) という 厖大な数に上る。同省は「国鉄改革」と共に、戦時行政における業務の激増に伴う増員及 び戦地に送られた要員の引き揚げ等で膨張した職員を削減しながら機構改革を進めたので ある。 (2) (2)(2) (2) 港湾行政機構の分割港湾行政機構の分割港湾行政機構の分割港湾行政機構の分割 海事関係機構改革の主柱となる事項には①外局として船員労働委員会と海難審判庁を新 たに設置すること、②海運総局の廃止と長官官房を海運調整部に改め海運局に置くことが 挙げられる。国有鉄道の現業と監督を分離すべく日本国有鉄道公社が設立されたことに伴 い、港湾局に港湾技術研究課を新設する等の事案も挙げられた が、特に②の扱いが焦点になった。 運輸省は当初、海運関係 5 局、鉄道関係と自動車関係を各々2 局ずつ及び観光局を設置し て 3 長官を置く案を作成した。けれども中央行政機構の簡素化並びに人員整理等の緊急性 から認められず、撤回を余儀なくされたようである。昭和 24 年 3 月、下山運輸事務次官は 第5回国会参議院運輸委員会において「行政管理廰の、いわゆる政府全体の機構に対する 案というものをつき合わせ、いろいろ話合いをした結果、長官の制度は認めるわけにはい かん、これは他との関係もあり、できないということで、これをやめることにしたわけで あります。……(中略)……政府全体としてはこの際国民の要望であり、各方面の要望で あるいわゆる官廰組織を簡素にする、そうして又役人の数を減らして国民の負担を減らす という大きな方針の下に、運輸省といたしましても内閣全体の御方針には大いに協力して やらなければならないという観点から相当無理をしてこの局の数を減らしたわけでありま す」 25) と答弁している。また同次官は海運調整部の設置に関し、長官制の導入が無理であ る限り「海運なら海運の関係で四つか五つある局を纏めて行くということができなくなつ たわけであります。そこで元々この五つの局を考えておりましたときには、今残っており ます海運局、船舶局、船員局、港湾局の外に海運調整局という海運全体についての綜合調 整といいますか、綜括的な仕事をするという局を考えておったのでありますが、……(中 略)……運輸省全体としても局の数が十になる。それに対して七局程度でやりなさいとい
うこともありまして……(中略)……一局を減らして四局にして、……(中略)……ばら ばらになつては困るので私の方の考え方といたしましては、海運局の中に調整部という部 を置いて、ここで海運関係の纏まつた仕事をする、こういう考え方でおるわけであります」 と答弁した。加藤運輸政務次官も「今後行政管理廰と折衝いたしまして、特に海運の特殊 性と申しますか、今までの海運行政の経緯、経験その他から勘案いたしまして、海運、船 舶、船員、港湾……(中略)……各局とも有機的な、綜合的な連絡調整がなければ海運全 体の行政ということは覚束ないのでありまして、今次官から海運局内部に調整部を置く、 これは窮余の一策でありまして、これは調整というものは、ただ調整するだけならば何ら 意味がないのであります。……(中略)……コントロールする局が必要でありまして、ま たは局がなければ何らかの職を設けるとか、海運の行政の完璧を期せられるのでありまし て、この点につきましては、特に特殊性を持っておるわけでありまして、運輸省といたし ましては、もう一度よくこの海運の局の設置につきましては、行政管理廰と折衝いたしま して、海運そのものの特殊性を生かすようにいたしたい」 26) との趣旨説明をしている。上 述の国会答弁は、戦前、戦時中を通した港湾局と海運局の確執及び隘路としての港湾の実 態並びに隘路形成原因を良く表現しており、海運調整部の必要性も理解できる。 しかし「運輸省組織規程」(昭和24年6月15日、運輸省令第21號)によれば、新 設された海運調整部の所掌事務内容は主に海運局・船舶局・船員局間の調整であり、港 湾関係に関しては港湾作業に関する渉外事務や貨物荷捌き計画の調整等に過ぎず、港湾 運送事業に対する監督や倉庫業の調整等は港湾局港政課と倉庫課が所管するとある。海 運調整部の主業務はほぼ海運関係に限定されたのである。けれどもその後、港政課と倉 庫課の業務と人事は長期にわたって海運局の実質的支配下に置かれており、海運調整部 の設置過程に起因したと考えられる。 こうして港湾局の所掌は事実上、港湾修築・管理行政事務に限られ、海運局が港湾運 送事業及び倉庫業の指導・監督行政を掌握する体制が確立する。港湾行政機構内におけ る他局分課の是認と海 事 関 係 機 構 間の調整欠如は長期にわたり、有機的で効率的な港湾 業務の遂行を妨げる要因になるのである。 おわりに おわりにおわりに おわりに 昭和59年に断行された運輸省大機構改革の際、港湾局に置かれていた港政課と倉庫課は 新設の貨物流通局に移管(「運輸省組織令」昭和59年6月6日、政令第175号)となった。そ の後、港政課は海事局港運課を経て平成17年7月、国土交通省港湾局港湾経済課(国土交通
省組織令、平成12年6月7日、政令第255号、第157条関係)として再移管され、新たに「港 湾運送及び港湾運送事業の発達、改善及び調整に関する」事務(同令、第158条の2第1号) が追加された。海事局港運課から移動した田村明比古港湾局港湾経済課長は「従来海事局 港運課で行ってきた港湾運送事業の監督業務と、港湾局の各課でそれぞれ行ってきた港湾 の運営、利用等に関わる業務を一つの課に集め、港湾行政のソフト的な施策を一体的、総 合的に推進することを目的としたものである」と説明し、「管理運営の効率化のための公 的部門の改革、民間の港湾サービスの高度化・活性化、官民共通のソフト・インフラであ る情報化の推進」を政策目標に掲げ「総合的な政策展開を図る」 27) 意欲を示している。一 方、倉庫課は「倉庫業その他の保管事業の発達、改善及び調整に関する」事務(同令、第 43条第2号)を司る総合政策局物流政策課の所掌となった。けれども、実質的に長期間、旧 海運局(海事局)が担当してきた港湾運送事業や倉庫業等に関する権限を同局が放棄する とは考えにくく、実質的支配が続く可能性は否定できないと思われる。 注 1)経済安定本部総裁官房企画部調査課「太平洋戦争による我国の被害総合報告書」、中村 隆英・宮崎正康編『史料・太平洋戦争被害調査報告』東京大学出版会、1995年8月、264 頁~276頁。 2)軍人軍属の負傷者数は傷痍恩給受給者のみ。昭和23年5月現在判明数。 3)運輸省作成資料「大東亞戰爭中ニ於ケル海運概況」、外務省編『第二次世界大戦終戦史 録・下巻 付録第1』山手書房新社、1990年12月、32頁~33頁。 4)全文は外務省編『日本外交年表並主要文書1840-1945下』原書房、1966年、640頁~643 頁を参照のこと。 5)高野雄一・田中二郎稿「指令第一號」、日本管理法令研究會編『日本管理法令研究の辭』 大雅堂、1946年3月、104頁。 6)芳賀四郎編『日本管理の機構と政策』有斐閣、昭和26年9月、289頁~290頁。 7)運輸省海運調整部編『海事年鑑1950』船舶會館、昭和25年5月、335頁。 8)外務省『日本占領及び管理重要文書集 復刻版』日本図書センタ-『日本占領重要文書 第4巻』日本図書センタ-、1989年7月、246頁~247頁。 9)前掲『日本管理の機構と政策』、292頁~293頁。 10) 菊池道男稿「日本の戦後処理と横浜正金銀行」、『中央学院大学商経論叢 VOL7』、
1993年3月、62頁。 11) 前掲『海事年鑑1950』、672頁。 12) 社団法人日本港湾協会編『新版 日本港湾史』成山堂書店、平成19年7月、29頁。 13) 前掲『海事年鑑1950』、685頁~686頁。 14) 運輸省「連合軍接収港湾施設の解除要請」、昭和26年5月23日。総合研究開発機構戦後 経済政策資料研究会編『経済安定本部 戦後経済政策資料 第40巻 運輸・通信(1)』 日本経済評論社、1996年3月、1080頁~1981頁。 15) 閣議請議案「主要港湾荷役力の緊急増強について」、昭和26年3月1日。前掲『経済安 定本部 戦後経済政策資料 第40巻 運輸・通信(1)』、1069頁~1970頁。 16) 同上、1078頁~1979頁。 17) 封建的な荷役労働と非効率な業態の実態に関しては、三城徳蔵著『我が國海運と港灣』 海運經濟社、昭和17年11月、日本通運株式會社『港灣に於ける海陸連絡關係業務』同社、 昭和15年12月に詳しい。 18) 運輸省編『運輸省要覧 昭和22年度』同省、昭和24年3月、124頁の表。 19) 同上『運輸要覧 昭和23年度』、昭和25年3月、141頁の表を集計。 20) 運輸省『第八九回帝國議會資料』中「港灣關係」23頁、同省、昭和20年11月。 21) 第10回国会衆議院運輸委員会事録、昭和26年5月14日。 22) 運輸省編『運輸省30年史』運輸経済研究センタ-、昭和55年3月、91頁。 23) 前掲『運輸要覧 昭和22年度』、18頁~22頁の表を集計。 24) 前掲『運輸要覧 昭和23年度分』、22頁~25頁の表を集計。 25) 第5回国会参議院運輸委員会会議録、昭和24年3月19日。 26) 同上、昭和24年3月19日。