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Title
「北進」論と「根據地」論
Author(s)
有賀, 定彦
Citation
東南アジア研究年報, (27), pp.49-62; 1985
Issue Date
1985
URL
http://hdl.handle.net/10069/26498
Right
NAOSITE: Nagasaki University's Academic Output SITE
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「北進」論と「根掠地」論
有 賀 定 彦 は じ め に 明治維新以後,日本が対外膨脹の主標的にしたのは,朝鮮であり中国であった。とき, あたかも欧米列強がアジアの植民地化の総仕上げをしょうとする時代でもあった。多くの 「北進」論が,このような世界の動きを背景に生み出されていった。本稿では,「北進」 論のなかでも,中国の一部を日本の「大陸経略」の「官奏地」とする発想をとりあげ,そ の変遷をみてみたい。1 明治維新と「北進」論
近代日本の朝鮮や大陸への膨脹論は,すでに幕末にその萌芽をみることができる。黒竜 会編の『東亜先覚志士記伝』はつぎのようにのべている。 本田利明は『西域物語』で「日本を天下第一の最良国となすべきの道」を論じ,佐藤信 心は,「今にあたり,世界万国の中に於て,皇国よりして攻取り易き土地は,支那国満州 より取り易きは無し」と主張する。また橋本左内は「日露同盟によって満韓を経略し,版 図を海外に拡張する必要」を説き,吉田松陰は「朝鮮を責めて,質を図れ,貢を奉ずるこ と古の盛時の如くならしめ,北は満州の地を割き,南は台湾,ルソン諸島を収め,進取の 勢を示すべき」ことを主張し,また「国力を養いて取り易き朝鮮,支那,満州を斬り従へ ん」ことを説いた。勝海舟は文久年間から海外経略の雄図を抱き,海軍を拡張して朝鮮を 経略し,そこに有力な根拠地を設けて次第に「支那」に及ぼし,覇を東洋に称して欧米諸 国と対峙する策を講じつつあった。そして,長州の桂小五郎(木戸孝允)と対馬の大島友 くロ 之允も勝と気脈を通じて三韓計画を抱いていた。このような幕末の対外経論論は,明治維 新後,佐田伯茅,森山茂,:丸山作楽等の征韓論をへて西郷隆盛らの征韓論へと結実してい った。資本主義の創生期=原始的蓄積期にあって,国外に植民地を追求していくことは世 界史の普遍的課題といえるが,日本にあっても例外でないことが,これら一連の主張に反 映している。 1873年(明治6年)西郷隆盛らの征韓:論は,木戸孝允・大久保利通らの内治優先論に敗 れる。だが,外征を拒否し内治の優先を主張した木戸・大久保らの政権のもとで,日本の対外政策は,急転回する。翌1874年(明治7年)の台湾出兵がそれであり,75年(明治8 年)朝鮮での江華島事件がそれであった。江華島事件の結果,日本は76年(明治9年)朝 鮮と日朝修好条規を結ぶにいたる。この条約は第1条に朝鮮を独立国として認めるものの, その内容は日朝間の不平等条約であった。釜山その他2港を開いて日本と通商を行い日本 人の居住を許すこと,朝鮮における日本の治外法権を認めさせ,日本船舶は朝鮮沿海を自 由に測量しうること,朝鮮開港場に日本の管理官を置くこと等12箪条におよんだ。そして, その後つづいて調印された貿易章程の付属文書により,関税は輸出入とも当分無税とし く た。開国にあたって,欧米諸国から不平等関係を強いられた日本は,隣国朝鮮へは逆に日 本との不平等関係をおしつけたのであった。このようにして,明治維新後における日本と 朝鮮との関係は,日本の朝鮮への軍事的圧迫に始まったのであり,それはまた朝鮮の支配 をめぐる日本と清国との争いへの途をきりひらいた。資本の弱さを軍事力で代位・補強す るというのが,明治維新後,第2次世界大戦にいたるまで,日本資本主義の朝鮮・中国へ の進出の一貫した基調をなしたのであったが,その第一歩がここに印された。 1876年の日朝修好条規以来,日本は朝鮮への進出を続けた。この過程は,清国との摩擦 ・対立の過程でもあった。だが,この途においては自由民権論者も国権論者であった。福 沢諭吉にしてもそうであった。1885年(明治18年)福沢は,『時事新報』に「脱亜」論を 書きつぎのようにいう。わが国は隣国の開明を待って,ともにアジアを興すの猶予はない。 したがって日本は西洋の文明国と進退を共にし,中国,朝鮮にたいしては,西洋人が之に くヨ 接するの風に従って処分するだけだ,と。また,大井憲太郎らの自由党大阪事件は当時の 日本の「自由主義」の対外政策を実践に示したものであった。1884年(明治17年〉,京城 に起った甲申事変にさいして,日本公使館が襲撃された事件のあと,大井らは爆弾で関一 派を倒して日本人自身の手で「朝鮮改革」を断行しようとした。85年(明治18年)事破れ て後87年(明治20年)にひらかれた裁判の陳述で,大井はつぎのようにいっている。「我 々は朝鮮に対して,普通の所謂戦争をなさんとしたのかといへば,決して私様でござらぬ。 普通の戦争なるものは,彼が無礼の罪を問ふとか,又は彼を侵略せんが為に起すべきもの であるが,我々が事を挙げんとするに際しては,固より,斯かる問罪,侵略の二分子を含 まぬのである。……朝鮮の如き,我と太古以来,隣邦修交の誼あり。彼にして,昏々惰眠 を貧って醒めざるの時,我れ一大警鐘を撞いそ醒まさんとす。理至り,情蓋くせるもので は無い欺,悲しい哉,朝鮮の風俗は,……其罪三族に及ぶてふ残忍苛酷の国で,亜細亜中, 最も我国に近くその位置を占めてみる。然も,この残忍なる制度を,目のあたりにして袖 手傍観するのは,我々自由主義を奉ずる者の,断じて黙視し能はざる所。座れ慨然身を挺 して此の一代暗礁を除かんとした次第である。即ち我々は日本人なるも,身を朝鮮人の位 地に置き,朝鮮の社稜を危からしめんとするの鼠賊を除かんとして奮起せるものであ くのる。」と。対外政策における明治期の自由主義の主流は,このような実体であり,それは 当時の欧米諸国が国内における自由主義・民主主義と対外政策における他民族の植民地
「北進」論と「根櫨地」論 51 化・帝国主義とを併存・展開していたことと系を一にする。 ここで西郷隆盛とともに強硬な征韓論者であり,その後,明治17・8年ごろ清・韓問題 がやかましく論じられた当時にあって,若者達に強い影響を与えた副島種臣の大陸経略論 をみてみよう。「日本が朝鮮の独立を助けて之を文明に導くとも所詮朝鮮は自力を以て独 立を保持し得る国にあらず,早晩何れかの国に侵略される運命にある。折角日本が誘導し て文明を扶植し産業を興すとも,必ずや機を見て強国が侵略するであろうから独立の救援 くら などといふこと程馬鹿らしきことはない」というのが彼の持論であった。彼にとっては, 韓国や清国のことはどうでもよく,どのようにして日本帝国自体が独立を保持してゆくか ということの方が重要な課題であった。この問いにたいして,副島はつぎのようにこたえ る。「四面海に囲まれた日本は海軍によって攻撃される場合には守るに不利で攻撃する側 からいへば攻め易い国である。故に島国たる境地に甘んじてみては,国防上の危険は永久 に除かれず,国家の防衛が確保し難いのであるから,何としても大陸に領土を得ることが 必要である。而も大陸で日本が領土を得んとすれば,先ず地理的関係からして支那と朝鮮 に指を屈しなければならぬ。併し朝鮮は支那が既に之を手中に収めんとして多年其の魔手 を伸ばして来てみるのであるから,今日本が朝鮮を領有せんとしても支那は必ず之を手離 すことを肯んぜざるべく,結局,朝鮮を得んとすれば支那と一戦を交へ武力に依って目的 を遂げる他はないのである。……殊に支那が朝鮮を属邦となさば我が国の独立を保全する に不利であるから,その不利を除く為に戦争に訴へることは万国公法に所謂均勢の義に合 致し,当然正当の権利と認めらるべきものである。」副島の意見は,このような徹底した 朝鮮の日本領土化論であった。 明治維新後日清戦争にいたるあいだ,日本が朝鮮・中国への進出をはかった時代は,中 国はすでに英,仏,独,露列強の美事として狙上にのぼっていた時代であった。これら列 強は,軍事力を発動しながら,中国に開港をせまり,各種の利権を要求し,領土をもとめ た。イギリスは,1840∼42年のアヘン戦争によって香港を手にいれ,1856年のアロー号事 ち ふ 件でフランスとともに天津条約(58年),北京条約(60年)を結び,76年には芝 条約を 締結して,主として揚子江沿岸にその勢力を植えつけていった。18世紀より甲南の支配に のりだしたフランスは,1873年,トンキン地方のソンコイ河下流デルタを制圧,ついにハ ノイを占領した。だが,このことをめぐって84年清仏戦争がおこり,85年天津条約で,清 はフランスの安康植民地化を承認し,広西,雲南の二省に各種の利権を与えた。ドイツは, い り 1887年,清国政府の伊黎反乱鎮圧費用として500万マルクの借款に応じ,89年には艶治銀 行を設立し,旅順,威海衛の防備に参画し,北洋水師に海軍教官を派遣するなどして清の 朝廷内に勢力を扶植していった。17世紀の半ばごろすでに黒竜江下流に達していたロシア は,1689年越とネルチンスク条約を締結して黒竜江で露清の国境を定めた。さらに1858年 あいぐん の愛妻条約では,黒竜江とウスリー江をもって露清の国境となし,ロシアはその領土をさ らに拡大した。ロシアはまた中央アジアより東方に進出する計画をたて,1871年伊黎を占
領した。これをめぐる露清の紛争は1881年の伊黎条約によって,清は領土の一部を失くし, ロシアに貿易上の特権を大幅に認めた。このようにして,ロシアは,中国の東北方面と西 北方面より中国へ進出していった。 だが,これらヨーロッパ列強の侵略に対抗する力を清国はもっていなかった。内部矛盾 は激化し,腐朽化がすすみ,国力は劣えていた。中国をめぐるこのような国際情勢のなか にあって,当時の日本の良問「志士」の朝鮮・中国に対する「北進」論にはつぎのような 主張が特徴的にみられた。まず朝鮮にたいしては,朝鮮を中国にゆだねることは,朝鮮を して中国と同じ運命をたどらせるという認識であった。そして中国にたいしては,中国の 「自己改造」に手をかすか,それとも日本の国防線の延長として,中国に日本の勢力を扶 植するか,という二つの矛盾した論理が交錯していた。 (注) (1) 黒竜会編『東亜先覚志士記伝』上,復刻版,原書房,1981年,9∼13ページ。なお『東亜先 覚志士記伝』は,上・中・下の3部からなっており,復刻原本は,上が1933年刊,中が1935年 刊,そして下が1936年刊である。 (2) 黒竜会編『東亜先覚志士記伝』上,52ページ。井上清『明治維新』(日本の歴史・.20),中公 文庫,中央公論社,1984年,427ページ。 (3) 藤村道生『日清戦争』,岩波新書,岩波書店,1982年,13ページ。 (4) 黒竜会編『東亜先覚志士記章』上,110∼111ページ。 (5) 『前掲書』88ページ。 (6) 『前掲書』88∼89ページ。 (7) ドイツと清とゐ関係については,塙薫蔵『浦啓一』,淳風書院,1924年,142∼143ページを 参照した。
2 漢口の楽善堂と「西北」論
(1) 漢口の楽善堂 1886年(明治19年),陸軍中尉荒尾精は陸軍参謀本部の命により,現職のまま中国に渡 り,漢口に楽劇堂の支店を設けて中国経略の策源地となした。この楽善堂は,1877年(明 治10年)かってヘボン博士の和英辞書の編集助手であった岸田吟香が,銀座に開店した薬 せいきすい 屋で,ヘボン博士より辞書編集の謝礼として伝承された調剤法により,打直水と称する眼 薬を発売した。それは,・眼病に『良く効くということで非常な売行きをしめし,翌1878年 (明治11年)岸田は上海に渡って英租界河南路に楽善堂分店を設け,中国内地に向かって「北進」論と「根建地」論 53 精鋳水をその他の薬や雑貨とともに販売をはじめ,営業を発展させていった。上海におけ る楽善堂の営業が盛んになったのは,精綺水とともに,彼の創意工夫による銅版印刷によ る書籍の出版であった。当時の中国にはまだ科挙の制度が残っておりジ進士の試験には, 受験者は試験場に自分が持ち切れるだけの書物を参考書として持ち込むことが許されてい た。だが,当時の中国の書籍はすべて木版印刷で大冊であり,携帯に不便であった。岸田 はこれに着目し,銅版の細字で翻刻印刷した小型な書籍をつくりだした。これによって携 帯はすこぶる便利になり中国各地で非常な売れ行きをしめしたのであった。荒尾は,上海 の岸田より書籍,売薬,雑貨等を送ってもらい,商業に従事するとともに中国内地の実情 の調査にあたった。漢口の楽善堂を中心に,湖南支部を長沙におき,重慶に四川支部を設 け,北京にも支部をおいた。漢口の楽善堂は,内服と外員とで構成され,満員とは漢口の 楽聖堂の常駐者をいい,外員とは各支部の部員や中国各地にはいってゆく販売者をさした。 彼等は,辮髪を蓄え中国服を着,中国人に変装して中国各地に探検旅行をおこなった。こ ・のメンバーの一人に長崎県平戸の出身,浦啓一がいた。 それでは,彼等が中国各地に探検する意図はどこにあったのだろうか。漢口の楽善堂に おける外耳の調査すべき項目には,人物,土地,被服,陣営,運輸,糧食薪炭,兵制およ び諸製造所から人口の粗密,風俗等があげられ,それらをことごとく軍事的ならびに経済 ロ 的の見地から現地を踏査することであった。だが,こういつた中国各地の現地調査という ことだけが目的であったのだろうか。その調査・探検が中国の改造あるいは日本の中国進 出とどのようなかかわりがあったのだろうか。楽善堂の同志山崎煎三郎が1889年夏明治22 年)の12月末雲南,貴州を踏査していったん漢口に帰り,さらに翌年1月4日中国南部の 探検にでかけるにあたり,福岡の実兄にあてた手紙でこのことをみてみよう。 「拙弟豫て心中に決する所あり。我が同志の者の事を成就するには,第一着の目的,即 ち之が根檬地を得るに在ることを中国早馬。然るに此の根振地,即ち県警地を得ること實 に至難にして,支那の天地広しと錐も甚だ得難き事に候。認りと錐も辺境政化の治からざ る地を周遊して一心に捜索することあらば,又層畳風土の便に依るべき処なきにしもあら ざるべし。若し之を得,之を占むるを得るに至っては,其地に割嫁して普く世の志士壮夫 を集め,生養訓練以て世機に乗ぜば大事豊亦何の難きことかあらん,方土に腐敗の清廷を 圧することを得らるべきなりと常に思慮を定め居候。然るに未だ時機を得ず,又南北何れ く を澤ばんや,未決なり。」 これによってみると,彼等の中国にたいする方針はいずれにしても,広大な中国の一部 に「根擦地」をつくるという発想があったと思われる。 1881年(明治14年)の伊黎条約で露清の国境紛争に一応の決着はついたものの,余儘は なおくすぶりつづけていた。もともとこの伊黎地方は資源の豊かな土地だが,回教徒が多 く,しばしば清朝に対して反乱を企てた。1884年(明治17年目の露清条約ののち,清国は 伊黎地方のかなりの部分を回復し,新彊省をあらたに設け,ウルムチを省都と定め,伊黎
将軍を駐在せしめて警備にあたらせていた。新彊・伊黎地方がこういつた情勢のなかにあ るとき,ロシアがシベリア鉄道を新しく建設しようとしている動き,また中央アジア鉄道 を露清の国境たる伊黎方面に延長しようとしている動きが法鼓の楽善堂の「志士」の耳に 入ったのは,1888年(明治21年)の春ごろであった。このようなロシアの動きに対して, 漢口の楽善徳(荒尾一派)では,伊黎・新彊方面を重視して早速行動にとりかかった。他 方,川島浪速は満州の方を重視した。このような両派を目して,当時の「志士」の間では, の 荒尾一派の主張を西北論といい,川島の主張を東北論といった。川島浪速の東北論は次節 にゆずり,ここでは西北論をみてみよう。 漢口楽善堂本部の方針は,浦敬一に補助員をつけて新畑に派遣し,時の伊黎将軍劉坐業 を説き,その幕僚となってロシア進出の防禦策をこうずることにあった。 (2) 浦敬一と新彊探検: 浦敬一は肥前平戸の出身で,東京の専修学校を卒業し,一暁新聞の経営などにもした がっていたが,1887年(明治20年目の秋中国に渡り,漢口楽善導の同志となった。浦は, 北京支部にいた北御門松二郎と河原角次郎を補助員とし,三人で新彊におもむくことにな った。浦一行の新彊行に要する経費は,別の二名の者が上海の岸田の楽蝉茸から取寄せた 書籍や雑貨類を持って先発して,甘粛省蘭州府まで運び,そこで販売・換金して後からく る浦一行に旅費として渡すということだった。このような計画で,浦一行が辮髪を蓄え中 国服を着て漢口を出発したのは1888年(明治21年)6月であった。だが,蘭州府に着いて も,すでに先着して開店しているはずの先発組を見出すことができなかった。待つこと30 日,ついに浦が漢口に引き返し,帰着したのは10月の末であった。楽善堂内でのいろんな 討論のすえ,浦敬一はふたたび新旧に向かうことに決定した。このたびは藤島武彦が彼と 行を共にすることになった。このたびもやはり旅費の調達が不十分だったので,書籍や売 薬等の商品をもって,漢口を出発することとした。 浦は出発に際し,追善堂々長荒尾精の手許につぎのような8項目にわたる「新彊地方巡 く ラ視の要目」を提出している。 いり あくす たるばがだい かしゅがる 第1 露兵の侵入路(伊黎路・阿克曲路・塔歯並恰気位・喀什鳴曲路の四大路線)の状 況を視察すること。 第2 新彊の防禦線となるべき地を察し,地形及び気候などの利用を考定する事。 ら ま 第3 新彊の回族・嘱畳音・屯田兵・流人等の状況を視察し,我に於て之を用ゆれば幾 許の力を喜べきゃ,煮た之を収容統合するに如何にして着手すべきやを考定する事。 第4 清朝政府1ヒ於て露国の防禦方法,兵備の配置,蜜豆漢民に施す政治,屯田及流人 の処分,開墾牧畜等の奨励方法を視察する事。 第5 清朝政府が新彊を維持するに付て費やす経費のこと,及び其経費の出処,並に土
「北進」論と「根糠地」論 9 55 人屯田兵其他一地に課する税法を取調る事。 第6 新彊各地の牧畜,耕作,商業,庫蔵等の實況を視て,物資の多寡を算定し,且清 朝に於て戦時に当りては物資の運輸供給は如何なる方法を以てする準備なるやを察すべき 事。 第7 新彊各地の要路,及回民漢民の形勢を視て,幹部支部の配置及之に要する人員の 予算を立る事。 第8 牧畜,開墾,商業等の事を熟察し,新彊幹部支部の執るべき事業及本部より費や す資本を算定すべき事。 ところで,浦がさきの「新彊地方巡視の要目」のなかで書きしたためていたこのたびの くらう彼の行程は,つぎのようなものであった。 漢口を発し裏陽府より老河口を歴て,路を紫荊關に取り,藍田に出で陳西省西安府に至 り書薬の売却を為す。 西安府より鳳翔府に出で,路を甘粛省秦州・輩昌府・狭道州に取り壱州に出で,甘州・ は み粛州より嘉硲關を経て,玉門關より沙漠を越へて恰密に至る。 恰密より産善感を経て,鳥善呆齊を観クリカラウスより伊予に至る。 伊藤より秦幽邑塔笙を経て,鳥重雍蘇塞に至り,又た立回りて天山南路に出で,尚尭蘇 か しゅ が る より喀智歯爾に至る。 や るかんど ほ たん こんろん ちべっと 喀什鳴爾より葉爾蒐・和關を経て,箆喬山を越へ西蔵に至る。 た ちえんろ 西蔵に於ては自蔵・後蔵を巡察し,之を終れば四川の打箭聴に出で成都より重慶に至る。 この壮大な計画のもとに,浦と藤島は,1889年(明治22年)3月漢口を出発し,同年9 月,二人は蘭州府にたどりついた。だが,藤島はそこから引き返すことを主張したため, 蘭曲城外の一村落で浦は快く藤島と別れ,単身馬に鞭を加えっつ新彊へ進んでいった。そ の後,彼の消息は沓としてわかっていない。 (注) (1) 黒竜会編『東亜先覚志士記伝』上,349∼353ページ。 (2) 『前掲書』375ページ。 (3) 『前掲書』中,1981年,241ページ。 (4) 塙薫蔵『浦敬一』の[附録・書翰及遺稿集]219∼220ページ。 (5) 『前掲書』[附録]221ページ。 (付記) 、岸田吟香,荒尾精,浦敬一の人物と行動については,注記した箇所以外にも下記の文献を 参照した。黒竜会編『東亜先覚志士記伝』上。判沢弘「大陸への初心」(判沢弘編『明治の 群像・6・アジアへの夢』所収),三一書房,1970年。塙薫蔵『浦敬一』。
3川島浪速の「東北」論
(1)川島浪速の「東北」論と第1次満蒙独立運動 1888年(明治21年)ごろ,ロシアの中国への進出の動きにたいする,漢口楽善堂の荒尾 一派の「西北」論にたいして,川島浪速は「東北」論を主張した。当時の川島の主張はつ ぎのようなものだった。ロシアが伊黎方面を少々喰取ったとしても深く心配することはな い。だが,将来ロシアは機をみて必ず満州へ進出するに違いない。この満州への進出こそ もっとも懸念すべきもので,いったん満州がロシアの手に帰すことになれば,「支那」・ 朝鮮はもはや咽喉を回せられたのも同様であって,死期はただ時間の問題のみとなる。こ のようになった後の日本の存立如何ということを考えると,じつに寒心にたえぬ次第であ って,東洋死活の枢機は一に満州のうえに存する。東洋に不凍港をもとめてやまないロシ アが,全力を注いで進出してくるのは必ず満州であるから,われわれが注目警戒すべきは ほ 伊黎ではなく満州であると。 だが当時にあっては,伊黎問題は直面する課題だったので,「志士」の間では「西北」 論に共鳴するものが多く,「東北」論はなおざりにされた状況であった。だが彼は,あく まで「東北」論をゆずらず,つぎのような決心をする。 「先ず満州に入り込んで土人の仲間に入り,羊飼ひでも豚飼ひでもする。さうして歳月 を送る間には,すっかり土人と馴れてしまふから,徐々に馬賊の仲間を配下となして勢力 を造り,蒙古の東部をも加へて跳鼠に一個の国家を建設し,この新国家を提げて露西亜の 侵入を防ぐことにする。そうする間には日本の実力も漸次充実して来るであらうから,そ こで日満が提携して露西亜に当ることとなれば支那を云ふ道も立ち,東亜の大局を保全す く ることも出来る。」 川島浪速は,すでに1888・9年(明治21・2年)ごろ,満州に蒙古東部をも加えて一個の 国家を建設し,そこを「幌糠地」としてロシアの侵入を防ぎ,「支那を救う」という主張 をなしたのである。この「東北」論こそ,その後の日本資本主義の中国進出への原型とな ったのであり,「支那を救う」という「大義」は,中国への支配・侵略の途に転化してい ったのであった。 日本の資本主義は,明治30年ごろその基本的骨組みを確立する。だが,日本の資本主義 は,その存立構造そのものにつぎのような特徴をもっていた。エ業において,まず消費財 生産部門が発展することは資本主義の常道ではあるが,生産手段生産部門の確立をまたず して軍需生産部門の確立を優先させた。農業には封建的な生産関係が残り,高率現物小作 料のもとに,零細耕作農民とりわけ小作人はきわめて窮乏した状態におかれていた。それ はまた,工業労働者の低賃金の土壌ともなった。したがって,日本の資本主義は工業の急「北進」論と「根篠地」論 57 速な発展にもかかわらず,国内市場の険阻にたえず直面することになる。このことが, 日本の資本主義に,国民の無権利状態のもとで,きわめて強い軍事的性格をもつものとさ せた。1894・5年(明治27・8年)の日清戦争により,日本は遼東半島を領有することにな るが,ロシア,ドイツ,フランスの三国の干渉により,それを手離さざるを余儀なくされ がしんしょうたん た。その後「臥薪嘗胆」のスローガンは,日本国民をしてさらに富国強兵への途に統一 してゆくことになる。そして,1904・5年(明治37・8年)の日露戦争に勝利したのち,1910 年(明治43年)韓国を併合するにいたった。 『東亜先覚志士古伝』によれば,1911年(明治44年)の辛亥革命ごろにおける中国にた いする日本の民間「志士」の姿勢をつぎのようにわけている。これまでも「東亜」問題に 「志」をもつ者の中に,中国の「革命党」に同情をもつ者とそうでない者との二皮があっ た。そして「革命党」に同情をもつ者のなかにも,「革命党」をして中国を統一せしめ, 日中の共栄を期せんとする者と革命の成就とともに満蒙問題を「解決」しょうとする者と がいた。だが,「革命党」に同情をもつ者のなかにも,たとえ革命が成就したからといっ てそれによって中国が立ち直って立派な統一ある国家とはなりえないという見地から,革 命そのものに重心をおかずに「支那問題」を「解決」することを「志し」,そのため革命 くヨヨ援助の一派とは別の流れをなす派があり,川島浪速一派がそれであった。川島一派はつぎ のように主張する。 「支那人は五千年来旧文明の為めに欄熟腐朽せる民族であるから社会的結合が殆ど消耗 し,四億の民衆は恰も砂にも警ふべきものである。……則ち四億の民衆は砂の如き存在で, 到底堅固な団結体を自動的に造り出すことが不可能となり,亡国的性格を濃厚に帯びてみ るから,近き将来に於ては如何なる人物が出で》如何なる政治の形式を応用しても統一を なし得る望みなく,之を自然の趨勢に一任して置けば,亡国状態は遠からずして現はれ,そ の結果として事実上世界列強の分割に帰すべき運命を持って居る。支那分割の時機が到来 した場合,日本がその一部を占領し得べきは勿論であるけれども,その時は即ち遠き欧米 列強が肩々相摩する隣近に接触し来る時であって,蕪に国際関係は愈ζ困難の度を増し, 日本としては煩累に堪へ難き境遇に処せなければならぬこと㌧なる。……だから日本とし ては国家の実力が支那の領土の上に確立し,縦ひ如何なる変態を来すも常に優勝の地歩を 占め,東方の主人公たる実力を発揮し得るに至るまでは,如何なる形式たるを問はず成る べく支那を分割に陥らしめぬやうに弥縫して置く必要がある。然らば日本が忌め支那に出 て優勝の地歩を確立して置くべき道如何といへば,先づ満蒙に糠って輩固なる立脚地を造 って置くをその第一義とする。満蒙に日本の実力を扶植して置けば,支那の国土が如何な る変態を呈するに至るとも,日本は決して他に後れを取らず,……大帝国の基礎を無窮に ほ 確立することが出来るのである。」 この川島一派の主張は,さきにみた1888・9年(明治21・2年)ごろの川島浪速の「西北」 論の延長線上にあるものの,ここではさきにみられた「支那を救う」という主張は姿を
消している。辛亥革命ののち清朝の命脈がまさに旦夕に迫った翌12年(明治45年)の1月, 川島浪速は粛親王を擁して「満蒙建国」の計画をたて,実行にうつした。いわゆる第1次 の満蒙独立運動といわれるものがこれである。だがこの運動は,さしたる規模に展開する ことなく終った。 (2) 21力条の対華要求 1914年(大正3年)世界市場の再分割をめぐって第1次世界大戦が始まった。日本はそ の年の8月ドイツに宣戦布告し,11月にはドイツ軍要塞のある青島を占領した。そして, ヨーロッパ列強が戦争で中国をかえりみる余裕のない1915年(大正4年)1月,日本政府 は5号21ヵ条よりなる要求を中国につきつけた。それはつぎのような雁大なものであった。 くらうここにその要求原案の全文をそのまま掲げる。 第1号 日本国政府及支那政府は互に東亜及全局の平和を維持することを願ひ,並に現 在に於ける両国友好善隣の関係の益々輩固を加ふべきを期し,條款を議定すること左の如 し。 1 支那政府は日本政府が欲する,襲に猫逸政府と’協定の凡ゆる掲逸が山東に関する條 約或は其他の関係に依亡し,支那政府に対し享有せる一切の権利,利益,譲與等の処分に 関し,概ね承認を行ふことを允諾す。 2 支那政府は凡そ山東省内並に其沿海一帯の土地及直島嘆は何等の名目に論なく之を 第三国に譲與或は租與せざることを允諾す。 3 支那政府は日本国が煙毫(芝 )或は龍口より膠濟鉄道に連接すべき鉄道を建設す ることを允諾す。 4 支那政府は外国人か居住貿易を営む為に自ら速に山東省内の各主要城市を開きて商 埠と為すことを允諾す。開発地方に就ては別に協定を云ふ。 第2号 日本国政府及び支那政府は,暴に支那政府が承認せる日本の南満洲及東部蒙古 に企て有する優越地位に因り,苑に條款を議定すること左の如し。 1 両訂約国は互に相約定したる直面,大連湾の租借期限並に南満洲及心止両鉄道の期 限は均しく展べて九十九年に至るを期と為す。 2 日本国臣民は南満洲及東部蒙古に於て商工業用の房廠を弓造し,或は耕作の為に須 要土地の租借権或は所有権を得べし。 3.日本国臣民は南満洲及東部内蒙古に於て任意に居住往来し,並に商工業等の各種産 業を経営するを得ること。 4 支那政府は南満洲及内蒙古各鉱の開堀権を日本国臣民に許心することを面し,各鉱 の下堀に就ては別に画幅を行ふこと。 5 支那政府は下記の各項に関しては先づ日本政府の同意を得たる後癖理すること。
「北進」論と「根尾地」論 59 甲 南満洲及東部内蒙古に穿て他国人に鉄道の建設を允准し或は鉄道建設の為に他国 より借款せんとする時。 乙 南満洲及東部内蒙古の税課を他国の借款に対する担保と為さんとする時。 6支那政府は若し支那政府が南満洲及東部蒙古に於て政治,財政,軍事の各顧問,或 は教習を聴用せんとする時は,必ず先づ日本国政府に向って商議すべきことを允諾す。 7 支那政府は吉長鉄道管理経営事宜を日本国政府に委任し,其年限は本條約署名の日 より起算して九十九年を期と為す。 かんやひよう 第3号 日本政府及支那政府は現在日本資本家と漢冶薄公司と密接なる関係あるを以て 両国共同利益の増進を翼ひ,菰に條款を議定すること左の如し。 1 蜜蝋約国は互に相約定して将来の機会に当り漢冶薄公司を両国の合辮事業と為し, 並に日本国政府の同意を経ずして該公司に属する一切の権利産業を支那政府自ら処分する ことを得ず,又該公司をして任意に処分せしむることを得ざること。 2 支那政府は漢冶薄公司に属する凡ゆる各鉱附近の鉱山は該公司の同意を経ずして該 公司以外の者の開堀を許さず,且つ此他直接間接たるを論ぜず該公司に対し影響を及ぼす べき念書に関しては必ず先づ該公司の同意を経ることを要するものとす。 第4号 日本政府及支那政府は支那領土保全の目的を確実に達する為め藪に専條を立つ ること左の如し。 1 支那政府は凡ゆる支那沿岸の港湾及島嘆を他に譲與し又は第三国に租借せしめざる ことを允諾す。
第5号
1 支那政府は有力なる日本人を聰用して,政治,財政,軍事等の顧問に充つること。 2 支那内地に設置せる日本病院,寺院,学校等に対しその土地の所有権を與ふること。 3、日支両国は從来屡々警察上の事件に関し魚倉を惹起せること勘からざるに鑑み,必 要地方の警察を日支合辮とし,或は此等地方の警察官署に於て日本人を聰但し以て重那警 察の壽書改良の機関となすこと。 4 日本より一定数量の軍器を採用し;若くは日支合辮の軍器廠を設立し,日本技師を 聴用し且つ日本より材料を買入るること。 5 武昌,富江,南昌を連接する鉄道及び南昌,杭州間,南昌潮州間の各鉄道建設権を 日本に許勒すること。 ・6 福建省内に於て壽辮…すべき鉄道鉱山及整詠口(港湾の築設,船渠を含む)に就き外 国の資本を求むるときは先づ日本国に向って協議すること。 7 日本国民の支那における布教権を認むること。 すなわち,第1号は山東省における利権,第2号は南満州および東部内蒙古での利権, 第3号は漢越畑公司の利権,第4号は中国の全沿岸にたいする利権,そして第5号は中国 の各分野におよぶさまざまな利権の要求であった。それは中国にとってはきわめて屈辱的な要求であった。1915年(大正4年)1,月末,この条約の内容を知った在日中国人留学生 はただちに反対運動に立ちあがり,2月には留学生の一部は帰国して反対運動を指導した。 3月には,日本は満州・山東の駐屯軍を増強して中国に威圧を加えたが,そのことはかえ って中国各地における排日運動を激化させた。1915年5月7日,日本は,第5号の要求を はずしたうえで中国に最後通牒をっきつけ,5月9日衰政権はついに日本の要求をのむに いたった。この21ヵ条の要求は,中国国民の日本に対する怒りを爆発させた。中国では, 最後通牒の提出日5月7日と受諾日9日は「国恥記念日」とされた。1919年(大正8年) 5月4日,北京の学生約3000人が天安門広場に集まり,パリの平和会議での山東問題の未 解決に抗議して,大デモ行進をおこなった。そしてこの反対デモは中国全土に広がってい った。五・四運動とよばれるものである。以後,民族主義に根ざした中国の排日・抗日の 運動が本格化してゆくことになる。 (3) 第2次満蒙独立運動と満州事変 中国では辛亥革命ののち,1912年(明治45年)宣統帝が退位し清朝は滅亡した。その後 ぱ ぶちゃつぶも宣牛耳の復辟運動が企てられたが,その運動に兵を挙げた「将軍」に巴布遂事がいた。 彼は日露戦争のさい,日本軍に協力した馬賊の頭目で,のちに外蒙古東部都督となる。だ は る はが,外蒙古とロシアとの関係を憤り,職をすて,のちに外蒙古東部の恰拉致河畔に陣をか まえ,自ら3000人の兵を率いていた。川島一派は彼と関係を深め,武器・弾薬をさまざま な方法を講iじて送った。日本人の「有志」をも加えた巴布札布軍は,1916年(大正5年) く 7月吟拉吟河畔より南下東進の行動をおこした。これが第2次満蒙独立運動である。 この運動は最初つぎのような計画であった。川島浪速が総帥として本部で総指揮をとり, 入江種矩等は粛親王七子憲奎王を奉じ,馬賊隊を率いて遼陽東方。険要千山にたてこもり, 討衰の峰火をあげて中国の軍隊をここに引きつける。そのあいだ,青柳勝敏等の指導のも とに巴布周面軍が興安嶺を越えて満州地帯に侵入し,これにしたがって清朝に心を寄せる 満州馬賊を随所に蜂起させ,満州を一大混乱におとしいれる。中国の討伐隊が奔命に疲れ る虚に乗じて,木澤暢等は一挙に奉天城を占領する。奉天省が一味のものになれば,黒竜 江,吉林の二省は容易に処理できる。その後三軍は並び進んで万里の長城を越え,ただち に北京を占領して,内外蒙古と満州三省および「北支那」を打って一:丸とする一大国家を くの建設しようというものであった。これは第1次満蒙独立運動を,さらに具体化して大規模 な展開をはかろうとするものであった。 巴布札三軍は興安嶺を越え,南満州に軍を進め,1916年(大正5年)8月14日,かねて よりの本部の訓令どおり満鉄沿線の郭家店を占領するにいたった。だが,この満蒙独立運 動も日本政府の支持がえられず∫巴布札息女は郭家店より蒙古へ向って各地で戦闘を交え つつ引き揚げた。巴布札布は10月,林西での戦いで戦死し,12月全軍は恰拉恰河畔の根嫉
「北進」論と「根寸地」論 61 く 地に帰還した。 第1次世界大戦に乗じて,日本は未曽有の好況を迎え,中国にたいしても,21ヵ条の要 求にみられるように独占的に強硬な姿勢をとった。だが,大戦後,ヨーロッパ諸国が復興 してくるにつれ,戦争中に拡大した市場をまき返され,また中国の排日・抗日運動も激し さを増していった。しかも,この時代にあってもさきにこの節の(1)でのべた日本資本 主義の基本的存立構造は維持され,生産力の発展にもかかわらず,国内市場は依然として 狭まかった。国外市場の拡大は,日本資本主義にとって死活の問題であった。そして,中 国に対する日本政府の政策も次第に積極的になっていった。1927年(昭和2年)5月第1 次山東出兵,翌28年(昭和3年)4月第2次山東出兵,続いて同年5月第3次山東出兵と 中国本土への日本の軍隊の武力による威嚇へと進んでいった。 1929年(昭和4年)10月,ニューヨークのウォール街における株式の大暴落に端を発し た恐慌は,またたくまに世界各国へ波及し,資本主義の歴史上,空前の世界大恐慌となっ た。日本では1930年置昭和5年)3月には商品市場の,つついて株式市場の大暴落がおこ った。それはさらに大企業の生産制限,中小企業の倒産へと展開し,失業者は巷にあふれ, 国民は窮乏の渕にあえいだ。なかでも,とりわけ窮乏化の激しかったのは農村であった。 1930年(昭和5年)は大豊作で米価は大暴落し,31年(昭和6年)には大凶策で,とりわ け東北地方は惨状をていした。またそれまで製品の大部分をアメリカに輸出していた生糸 は,アメリカの恐慌をもろにうけ農家副業の養蚕もまったくたちゆかなくなった。そして 1930年(昭和5年)1,月の金解禁が,この恐慌に拍車をかけた。ストライキの波は全国に 広がり,小作争議も農村をゆるがした。 1931年(昭和6年)9月18日,関東軍は満鉄線の柳条溝を爆破し,それをきっかけに満 州支配の軍事行動を起した。これが満州事変である。すでに1917年(大正6年)の11月革 命で誕生したソビエト政権は,社会主義革命成立の直後,「平和についての布告」のなか で「無併合・無賠償・民族自決の原則」を提案し,秘密外交の廃止の主張のもとに,旧帝 制政府,臨時政府の秘密条約を公表し,ソビエト政府はその無効を声明した。このソビエ ト政府の外交方針にそって,1919年(大正8年)外務人民委員代理のカラハンは,かつて 帝政ロシアが中国から手にいれた利権の放棄等を宣言した。ソビエト政権の誕生は,この ようにして,それまで帝政ロシアがもっていた北満州における影響力をいちじるしく弱め, 北満(東清・東支・中長ともよぶ)鉄道のみソビエトと中国との合扇として残すにとどま った。このことは,関東軍をしてその軍事行動をかつての勢力範囲であった南満州だけで はなく,北満州にも拡大することを可能にした。1932年(昭和7年>2月関東軍はハルビ ンを占領し全満州を支配した。このころ1932年1月末から2月にかけて,上海で日中間の 交戦があった。いわゆる第1次上海事変である。1932年2月関東軍の策略で張景恵を委員 ぞうしきき とうぎょくりん りようしよう せいおう 長とし,蔵式毅・馬占山・照治・湯玉鱗・凌陞・斉王らを委員として構成された東北行 政委員会がつくられ,この委員会は,1932年3,月1日,奉天・吉林・黒竜江・熱河の4省
ほろんばいる ちよ り む ちゃおうた ちよそ と に呼倫貝爾・哲里木・昭烏達・卓索図を領域とする満州国の建国を宣言する。首都は新京, く タ 年号は大同とし,元清国皇帝の宣統帝淳儀が執政として国家元首となる。同年9月日本が 満州国を承認し,日満議定書に調印する。1933年(昭和8年)3月関東軍が熱河省の承徳 を占領,1934年(昭和9年)3月1日,満州国で執政白血が皇帝となり,満州帝国が成立 し,康徳と改元した。このようにして,二度とも日本政府の支持をえられなかった川島浪 速の「西北」論による満蒙独立運動は,1929年の世界大恐慌のあと,関東軍の軍事力によ って満州国として実現するにいたった。 「五族協和」と「王道楽土」をスローガンとする満州国は,そのじつ関東軍の偲偲国家 であり,日本帝国主義は満州国を根嫁地にして,本格的な中国侵略にのりだしていった。 らんとう たんくう 1933年(昭和8年)5月攣東地区に日本の勢力侵入を容認する塘沽停戦’協定を結び,1935 年(昭和10年)3月,北満鉄道を満州国がソビエトより買収し,ただ一つ満州に残ってい き とう たソビエトの権益を一掃する。さらに同年11月には河北省に日本の{鬼儲政権として翼東防 共自治政府を成立せしめた。このような満州を根檬地とする日本の華北侵略は,1937年(昭 和12年)7月7日の藍溝橋事件から日中戦争の全面化へと展開してゆくのである。だがそ れは,太平洋戦争への途であり,1945年(昭和20年)8月15日,日本の敗北で終りをつげ た。日本の中国侵略の根嫁地であった満州国は,成立以来わずかに13年の命しか保ちえな かった。そして中国の自立は,毛沢東の「根檬地」論にもとつく中国解放への途の展開に よって成し遂げられたのであった。自国の自立は,他国の手ではなく,自らの手によって しか達成できなかったのである。 (注) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) 黒竜会編『東亜先覚志士言伝』中,240∼241ページ。 『前掲書』241∼242ページ。 『前掲書』320ページ。 『前掲書』320∼321ページ。 『前掲書』581∼590ページ。 『前掲書』625∼637ページ。 『前掲書』633∼634ページ。 『前掲書』637∼673ページ。 黒竜会編『東亜先覚志士記伝』下,1981年,121∼126ページ。大内力『ファシズムへの道』 (日本の歴史・24),中公文庫,中央公論社,1983年,338ページ。